2009年6月24日水曜日

*Short Essays on House Education (3)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(156)

●先生は年上の子ども

 私はときどき、年少の子どもを年長の子どもの間に置いて、学習させることがある。たとえば小学五年生の子どもを、中学生の間に座らせて勉強させるなど。しばらくの間はそれにとまどうが、やがてそれになれてくると、子どもに変化が現れてくる。こんなことがあった。

 N君はどこかつっぱり始めたようなところがあった。目つきが鋭くなり、使う言葉が乱暴になるなど。そこで親と相談して、中学生の間に座らせてみることにした。で、それから数か月後、気がついてみると、N君のつっぱり症状はウソのように消えていた。あとで母親に話を聞くと、こう教えてくれた。

N君の趣味はサッカー。その一緒にすわった中学生の中に、サッカー選手がいたのだ。N君は毎回家へ帰ると、親たちにその中学生の話ばかりしていたという。それがよかった。N君はいつしかその中学生をまねるようになり、勉強グセまでもらってしまった。母親はこう言った。「サッカーの試合があったりすると、こっそりと隠れて応援に行っていたようです」と。

 何が子どもに影響を与えるかといって、同年齢あるいはそれよりもやや上の子どもほど影響をあたえるものはない。そこでもしあなたの周辺に、(1)1~2歳年上で、(2)めんどうみのよい子どもがいたら、無理をしてでもよいから、その子どもと遊ばせるとよい。「無理をして」というのは、親どうしが友だちになったり、仲よくしながらという意味である。あなたの子どもはその子どもの影響を受けて、すばらしい子どもになる。

 もちろん悪い友だちもいる。親はよく一方的に交際を制限したり、相手の子どもを責めたりするが、そうすればしたで、それは子どもに向っては、友を取るか、親を取るかの二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよいが、友を取ればその時点で親子の間に大きなキレツを入れることになる。そういうときは、どこがどう悪いかだけを話し、あとは子どもの判断に任せるようにする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(157)

●友を責めるな、行為を責めよ

あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうするだろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こういうことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよし。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。

友だちというのは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立たされる。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふかしすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。

コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむける。そしてあとは時を待つ。……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子どもの性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモアがあっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自分を演ずるようになる。

つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。

……というようなケースは、よくある。自分の子どもを疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよけいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、と思わせるような、名格言である。





●子どもの抵抗力

 怪しげな男だった。最初は印鑑を売りたいと言っていたが、話をきいていると、「疲れがとれる、いい薬がありますよ」と。私はピンときたので、その男には、そのまま帰ってもらった。

 西洋医学では、「結核菌により、結核になった」と考える。だから「結核菌を攻撃する」という治療原則を打ち立てる。これに対して東洋医学では、「結核になったのは、体が結核菌に敗れたからだ」と考える。だから「体質を強化する」という治療原則を打ち立てる。人体に足りないものを補ったり、体質改善を試みたりする。

これは病気の話だが、「悪」についても、同じように考えることができる。私がたまたまその男の話に乗らなかったのは、私にはそれをはねのけるだけの抵抗力があったからにほかならない。

 子どもの非行についても、また同じ。非行そのものと戦う方法もあるが、子どもの中に抵抗力を養うという方法もある。たとえばその年齢になると、子どもたちはどこからとなく、タバコを覚えてくる。最初はささいな好奇心から始まるが、問題はこのときだ。たいていの親はしかったりする。で、さらにそのあと、誘惑に負けて、そのまま喫煙を続ける子どももいれば、その誘惑をはねのける子どももいる。

東洋医学的な発想からすれば、「喫煙という非行に走るか走らないかは、抵抗力の問題」ということになる。そういう意味では予防的ということになるが、実は東洋医学の本質はここにある。東洋医学はもともとは「病気になってから頼る医学」というよりは、「病気になる前に頼る医学」という色彩が強い。あるいは「より病気を悪くしない医学」と考えてもよい。ではどうするか。

 子育ての基本は、自由。自由とは、もともと「自らに由(よ)る」という意味。つまり子どもには、自分で考えさせ、自分で行動させ、そして自分で責任を取らせる。しかもその時期は早ければ早いほどよい。乳幼児期からでも、早すぎるということはない。自分で考えさせる時間を大切にし、頭からガミガミと押しつける過干渉、子どもの側からみて、息が抜けない過関心、「私は親だ」式の権威主義は避ける。暴力や威圧がよくないことは言うまでもない。

「あなたはどう思う?」「どうしたらいいの?」と。いつも問いかけながら、要は子どものリズムに合わせて「待つ」。こういう姿勢が、子どもを常識豊かな子どもにする。抵抗力のある子どもにする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(159)

●船頭は一人

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。その中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だからお母さんは、苦労しているのよ」と。あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。

仮に意見の対立があっても、子どもの前ではしない。父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子どものいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数10万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こう書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。古いことを言うようだが、そういう「様」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子どもは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(160)

●子どもの一芸論

 Sさん(中1)もT君(小3)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、T君は、スケートで、それぞれ、自分を光らせていた。中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういうときのため、……というだけではないが、子どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支える。あるいはその一芸が、その子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなってしまった。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、一〇年後。ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほうが先生より、お金を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失敗する。Eさん(2歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。そこで母親が、「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさんは水泳ですぐれた才能を見せ、中学2年のときには、全国大会に出場するまでに成長した。S君(年長児)もそうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これは何だ」と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげることを勧めた。パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学3年生のころには、ベーシック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターするまでになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをやめさせる」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成績は、もっとさがる。一芸というのは、そういうもの。

ただし、テレビゲームがうまいとか、カードをたくさん集めているというのは、一芸ではない。ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なものをいう。「創造的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれるものという意味である。

そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかける。そういう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関しては、あいつしかいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは絶対に人に負けない」という状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、五歳ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするかを静かに観察する。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つである。  





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(161)

●残像症状

 「残像症状」という言葉は、私が考えた。たとえば子どもが何かの心の問題をもったとする。赤ちゃんがえりなら赤ちゃんがえりでもよい。赤ちゃんがえりは、五~六歳をピークに、この時期を過ぎると急速に症状が消えていく。しかしそのあと「残像」のようなものが残る。後遺症というような症状ではないが、しかし関係がないとは言えないような症状をいう。はっきりとした形で残るときもあるが、別の形となって残るときもある。私はそれを勝手に「残像症状」と呼んでいる。いろいろな残像症状がある。

 赤ちゃんがえり……幼児期に赤ちゃんがえりを経験した子どもは、気むずかしい、いじけやすい、くじけやすい、意地っ張りになりやすいなど。形としてはわかりにくが、ほかにケチになりやすい、意地悪、仮面をかぶる、よい子ぶる、さみしがり屋など。愛情への屈折した欲求不満が、どこかすなおでない子ども像をつくる。

 分離不安……孤独に弱い、恐怖心をもちやすい、人なつっこい、心をいつわりやすい、相手にあわせて行動する、人の心にとりいるなど。一度幼児期に分離不安になると、分離不安はいろいろな形であらわれてくる。ある妻は、夫の帰りが少し遅いだけで、極度の不安状態になってしまう。あるいは夫が出張で家をあけたりすると、不安で不眠症にねっつぃまうなど。

 指しゃぶり……髪いじり、爪かみなどを総称して、代償的行為という。心を償うために代わりにする行為と考えるとわかりやすい。つまり代償的行為をすることによって、子どもは不安定な自分の情緒を安定させようとする。だからこうした行為を叱ったり、禁止しても意味がない。無理にやめさせると、かえって子どもの情緒を不安定にする。

で、こうした代償的行為は、おとなにも見られる。これはベトナム戦争に行ったオーストラリアの友人から聞いた話だが、サイゴンに帰ったオーストラリア兵は、皆、「女を買った」そうだ。しかしセックスが目的ではない。皆、女性を買って、一番中、女性の乳首を吸っていたそうだ。戦争という極度の緊張状態に置かれた兵隊たちは、そういう形で、自分の心をなぐさめた。

 こうした指しゃぶりは、おとなにもよく見られる。指の腹を吸う、なめるなど。ヘビースモーカーの人は、よく「くちびるがさみしいからタバコを吸う」というが、それも代償的行為と考えてよい。もともと情緒が不安定の人とみてよい。

 以上、おとなでも残像症状をもっている人はいくらでもいる。で、あなた自身はどうか。一度自分を静かに観察してみるとおもしろい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(162)

●互いに別世界

 子育てには尺度がない。標準もなければ、平均もない。あるのは「自分」という尺度だけ。そういう意味では、親は独断と偏見の世界にハりやすい。

こんなことがあった。S君(年中児)という、これまたどうしようもないドラ息子がいた。自分勝手でわがまま。ゲームに負けただけで、机を蹴っておおあばれしたりした。そこである日、私は母親にこう言った。「もっと家事を分担させ、子どもをつかいなさい」と。が、母親はこう言った。「ちゃんとさせています!」と。そこで驚いて、どんなことをさせていますかと聞くと、こう言った。「ちゃんと箸並べと靴並べをしてくれます」と。

 一方、こんな子どももいた。ある日道で通りかかると、Y君(年長男児)は、メモを片手に、町の中を走り回っていた。父親は会社勤め、母親は洋品店を経営していた。だからこまかい仕事は、すべてY君の仕事だった。が、ある日、私がそのことでY君をほめると、母親はこう言った。「いいえ、先生。うちの子は何もしてくれないんですよ」と。

 箸並べや靴並べ程度でほめる親もいれば、家事のほとんどをさせながら、「何もしてくれない」とこぼす親もいる。たまたま同じ時期に私はS君とY君に接したので、その違いがよけいに強烈に記憶に残った。つまり、互いに別世界。

 こうした例は幼児教育の世界では、実に多い。たとえばかなり能力的に遅れがある子どもでも、「優秀な子ども」と親が誤解しているケースがある一方で、すばらしい能力をもっているにもかかわらず、「うちの子はだめだ」と親が誤解しているケースなど。先日も、学校の勉強についていくだけでもたいへんだろうな思われる子ども(小6女児)をもった親が、こう言った。

「今度学習内容が3割削減されるというが、うちの子はだいじょうぶか。学力がさがるのではないかと心配だ」と。その母親は、「私立中学では今までどおり教えるというが、それは不公平だ。あなたのところその3割を補充してほしい」と言ったが、こうしたおめでたさ(失礼!)は、多かれ少なかれ、どの親ももっている。

それはというもの、結局は、互いに別世界に住んでいるからにほかならない。互いにもう少し風通しがよければ、こうした誤解は防げるのだが……。

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