2009年6月5日金曜日

*June 5th 2009

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      6月   5日号
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●何でも否定する子ども(拒否児)

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私の近くに、何でも否定する子ども(小5女児)がいる。

「これはいい本だよ」と声をかけると、「そんな本、おもしろくない」と。
「今日はいい天気だね」と声をかけると、「寒いから、いい天気ではない」と。
「こんにちは!」と言って、肩でもポンと叩こうものなら、「このヘンタイ!」と叫んで、
足蹴りを入れてくる。

私が何をしても、おもしろくないらしい。
そこで私が、「そんなに何でも拒否しなくてもいいじゃないか」と声をかけると、
「私は何も拒否していない」「本当のことを言っているだけ」と言い返してくる。

私「逆らうな!」
女「逆らっていない!」
私「逆らっていないって言いながら、逆らっている」
女「じゃあ、どう言えばいいのヨ」と。

このタイプの子どもに一度からまれると、こちらのほうが気がへんになる。
が、当人には、その自覚はない。

類型的には、他責型人間ということになる。
心の奥深いところに、欲求不満が、海の底にたまったヘドロのように、
たまっている。

特徴としては、

(1)感情の発露が見られない。何を考えているかわからない。
教える側からすると、心が読めない。
(2)がまん強く、表面的には、おだやかな性格に見える。
いやなことがあっても、内へ内へとためこんでいく。
(3)表情と心の状態が一致していないことが多い。
うれしいはずなのに、笑みが浮かばない、など。
(4)自分の失敗でも、すかさず他人の責任にする。
自分でお茶をこぼしても、「あなたがそこへ置いておくから悪い」とやり返す。
(5)あとから理由(=こじつけ)が、うまい。
「先生が、いつも急げというから、お茶をこぼした」などと行為を正当化する。
(6)心が冷たい。豊かな感情表現が苦手。
みなが涙をポロポロ流すような映画を見ても、平然としている、など。

俗にいう、「ヒネクレ症状」が見られる。
あるいは、他人からは、「ヘソ曲り」と呼ばれる。
では、どうするか?

●自分に気づかせる

何よりも大切なのは、子ども自身に自分に気づかせること。
静かなカウンセリングが効果的だが、やり方をまちがえると、かえってかたくなになり、
自分の殻(カラ)に閉じこもってしまう。
つまりますますがんこになる。

原因は乳幼児期の不適切な育児姿勢、愛情飢餓、経済的貧困などがある。
そのため、「根」は深い。
叱ったりすれば逆効果。
また説得しても、効果は一時的。
意識的な行動というよりは、無意識下で起こる反応とみる。
よく観察すると、融通がきかず、臨機応変に行動ができないなどの特徴も見られる。
が、最大の問題は、心を開かないこと。
発達心理学的には、『基本的不信関係』ということになる。
先にも書いたように、乳幼児期における母子関係の不全が原因と考えてよい。

●印象

私はそういう子どもを見ると、同情のほうが、先にきてしまう。
「かわいそうな子どもだな」と思うと同時に、「これから先、たいへんだろうな」と。
思春期前夜の反抗期の反抗とちがうのは、反抗の向こうに、ポリシーを感じないこと。

思春期前夜の反抗には、そこに子どもらしいポリシー、つまり理由を感ずる。
「私はこうしたい」「ぼくはこうありたい」という目的性を感ずる。
しかしこのタイプの子どもには、それがない。
何もかもが、おもしろくない。
おもしろくないから、反抗するというよりは、あらゆるものを拒否する。

現実問題としては、一度、こうした否定的態度が身についてしまうと、よほどのことが
ないかぎり、そうした態度は一生、つづく。
「よほどのこと」というのは、結婚、出産、育児……などのような、一大事をいう。
しかしそれでも、「直る」ということは、まず、ないと考えてよい。
が、方法はないわけではない。

もしあなたが今、ここに私が書いているような、「拒否児」、あるいはその延長線上に
いると感ずるなら、静かに自分を反省してみること。
まず、自分に気づく。
すべてはそこから始まる。
あとは時間が解決してくれる。
10年単位の時間がかかるかもしれないが、時間に任す。

まずいのは、そういう自分であることに気づかず、いつまでも同じ失敗を繰り返すこと。
他人と衝突しやすい、夫婦げんかが絶えない、親子関係がしっくりしない、あるいは
反対に、他人と接すると疲れやすい、家庭でも落ち着かない、他人を信じられないなど。
そういう失敗を繰り返すこと。

「拒否児」の問題は、そういう問題である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
拒否児 拒否的態度 拒否的姿勢 ひねくれ ひねくれた子ども へそ曲がり ヒネクレ
ヒネクレ症状 はやし浩司 基本的不信関係 他責型人間)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【人の心】

●お金(マネー)では、人の心は買えない

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まずお金の限界を知ること。
それが賢いお金の使い方ということになる。
その原則、第一。

お金をばらまいて、けっして、いいかっこうをしてはいけない。
お金で人の心を買うことはできない。
これには国も、政府も、個人もない。
ねたみを買うことはできても、感謝を買うことはできない。
だからいくらあなたが金持ちでも、けっしてお金を見せびらかせては
いけない。
いわんや、そのお金で、安易に、人を助けてはいけない。

+++++++++++++++++++++++++

●欲望

お金イコール、欲望。
現代社会では、欲望イコール、お金。
欲望を満たす快感は、アルコール中毒者が、アルコールを
口にしたときを想像すれば理解できる。
ニコチン中毒者が、タバコを吸ったときでもよい。
脳内の視床下部の命令によって、ドーパミンが放出される。
それが線条体にある受容体を刺激する。
とたん、猛烈な欲望となって、その人を襲う。
それが欲望の根源と考えてよい。

アルコール中毒者に酒を渡したところで、感謝されるのは一時的。
ニコチン中毒者にタバコを渡したところで、感謝されるのは一時的。
相手の欲望を満たしてあげたからといって、それで相手の心をとらえた
と考えるのは、あまりにも短絡的。
論理的に考えても、ありえない。
一方、「感謝」などという高度な知的な反応は、大脳の連合野が担当する。
その反応が辺縁系あたりに伝えられ、そこで感謝の念となる。
脳のどこかに、記憶として、深く刻まれる。

むしろ欲望を満たすことによって、(与えられるほう)には、依存性が
生まれる。
アルコール依存、ニコチン依存を例にあげるまでもない。
そして一度、この依存性ができてしまうと、お金に関していえば、(援助する側)と、
(援助される側)は、つねに一方的な関係になる。

●依存される者

R夫婦は、夫婦で、医院を開業していた。
夫が外科医で、妻が内科医をしていた。
そのため、かなりの収入があった。

で、そのR夫婦に、親類一同が群がった。
まさに「群がった」というにふさわしい。
出は東北地方の某都市だったが、兄弟姉妹はもとより、叔父、叔母まで、この
H市に移り住んできた。
R夫婦は、気の優しい人たちだった。
いつしか兄弟姉妹はもちろん、甥や姪の学費から、生活費までめんどうをみる
ようになった。

が、感謝されたのは、最初だけ。
半年もすると、それが当たり前になり、さらに1年もすると、相手のほうから生活費を
請求するようになってきたという。
そのつど、「お金がないと、一家心中しなければならない」「息子の学費を出して
やらないと、息子の将来がなくなる」「暴力団に借金の返済を迫られている」と。

R夫婦は、そうした言葉に脅されて、費用を負担つづけた。
そうして20年が過ぎ、30年が過ぎ、40年が過ぎた。
が、である。
数年前、R夫婦の、夫のほうが他界した。
突然の死だった。
享年87歳。

私もその葬儀に直接出ているので、そのときの様子は、よく知っている。
R氏の妻は、私にこう言った。
「甥や姪はもちろんのこと、東北の親類から来た人は、だれもいません」と。

恐らく甥や姪は、生活費や学費が、R夫婦から出ていると聞かされていなかったのでは?
こうした話は、親は、自分の息子や娘たちには話さない。
「貯金があった」「仕事で得たお金」と言っていたにちがいない。
R夫婦の妻にしてみれば、納得のいかない葬儀だった……らしい。
「あれだけお金を出してやったのだから、葬式くらい、顔を出すべき」と。
R氏の妻は、私にそう言った。

●あなたが金持ちなら……

もしあなたが幸運なことに、お金持ちなら、これだけは覚えておくとよい。

(1)ぜったいに、札束を見せびらかすようなことをしてはいけない。
(2)ぜったいに、札束で相手の頬を切るようなことをしてはいけない。
(3)ぜったいに、安易に金銭を与えたり、負担してはいけない。
(4)ぜったいに、いいかっこうをしてはいけない。
(5)ぜったいに、お金を安易に渡してはいけない。

依存性ができたとたん、「感謝」の念など、どこかへ吹き飛んでしまう。
アルコール中毒者に酒を、ニコチン中毒者にたばこを与えるようなもの。
それで終わるということは、ぜったいに、ない。
しばらくすると、今度は相手のほうから求めてくる。

●ねたみ

(ねたみ)ほど、その人の心を狂わすものはない。
それがわからなければ、逆の立場で、ものを考えてみたらよい。

あなたはその日の生活費にすら、困っている。
子どもの学費にも、困っている。
が、あなたの近くに、たいへんな金持ちがいて、好き勝手なことをしている。
その人の一日の遊興費だけで、あなたは一か月分の生活に相当する。

そういうとき、その金持ちが、かなりまとまったお金をくれたとする。
そういうとき、あなたはどう感ずるだろうか。
一応、その金持ちに感謝の念を示しながらも、あなたはその一方で、
相手をねたむはず。
「お前らのおかげで、私たちはこんなに貧乏なのだ」と思うかもしれない。
先にも書いたように、(ねたみの感情)と、(感謝の念)は、脳の中でも、まったく
別の部分が担当する。
とくに(ねたみ)、つまり嫉妬は、原始的な感情であるだけに、扱い方がむずかしい。
感謝の念でねたみを打ち消すことは、不可能と考えてよい。

だからお金で、人の心をもてあそぶようなことはしてはいけない。
かえって反感を買うだけ。
もしもあなたが金持ちなら、じゅうぶん、注意したらよい。

(付記)

現在、日本のAS首相は、狂ったように世界中に、お金(マネー)をばらまいている。
まず手持ちの印刷機で、円札をどんどんと印刷する。
仮にその額を10兆円としよう。
その10兆円で、外貨として蓄えたドル紙幣と交換する。
外貨は、日銀の金庫に山積みになっている。
10兆円は、1000億ドルに相当する。
そのドルを世界中にばらまく。
一方、日銀の金庫の中に入った円は、国内銀行を通して、日本中にばらまく。

こうして日本は外国ではドルをばらまき、国内では円をばらまく。
一見、一石二鳥のようにも見える政策だが、そのあとに待っているのは、
インフレ。
ハイパーインフレ。
今に、ラーメン一杯が、2000円になるぞ!
3000円になるかもしれない。

AS首相としては、そういう方法でも、人の心をつかみたいのかもしれない。
が、そんな方法では、人の心はつかめない。
繰りかえすが、相手の欲望を満たしてやったからといって、相手に感謝される
ということは、論理的に考えても、ありえない。
感謝されるとしても、一時的。
わかりやすく言えば、お金では人の心は買えない。
かえって反発を買うだけ。


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++++はやし浩司

●認知的不協和から合理化へ(「私は夫を愛しています」)
Rationalization of the Mind

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会って話をするたびに、「私の夫はすばらしい人です」
「私は夫を愛しています」「今の夫と結婚できて幸福です」
などと、ことさら自慢げに口にする人がいる。

そういう話を聞くと、だれしも、そういう夫婦について、
「さぞかしすばらしい夫婦なんだなあ」と思うかもしれない。
うらやましいと思うかもしれない。

事実、私など、そういうことを言葉として、他人に言った
ことはない。
私のワイフについては、さらにない。

が、待ったア!
この話は、おかしい!

実際には、このタイプの夫婦ほど、実はあぶない。
自分の中の心の矛盾(=認知的不協和)を合理化する
ために、そう言う。
そういうケースのほうが、多い。
もっとわかりやすく言えば、日頃から、「いやだ、いやだ」と
思っているから、そういう言葉を口にする。
することによって、自分の心をごまかす。

++++++++++++++++++++

●反動形成

先日、1年ぶりに、Mさん(65歳)に会った。
見た目には、明るく朗らかな人である。
ケラケラとよくしゃべり、話題も豊富。
が、どこか不自然。
演技ぽい。
身についていない。

「無理をしているな」と、私は感じた。
私はその女性が、うつ病の薬を常用しているのを、
ワイフから聞いて知っていたこともある。

このタイプの人は、外の世界では、本来の自分とは正反対の
自分を演ずることが多い。
こういうのを、「反動形成」という。
子どもの世界でも、よく観察される。
たとえば弟や妹が憎くてたまらないはずなのに、親の前では、
よくできた、ものわかりのよい兄や姉を演ずる、など。

それがおとな、さらには老人期に入ると、反動形成そのものが、
その人の(人格?)として定着する。
古いキズの上にできたカサブタが、無数に固まり、分厚い皮となる。
つまりちょっとやそっとでは、ボロを出さない。
Mさんは、だれからも、明るく、朗らかな人と見られていた。

●認知的不協和

こんなことがあった。

よいと思って買ったパソコンだったが、使ってみると、あれこれと
不便なことが生じてきた。
実は最近買った、ミニパソコンのMがそうだ。

タッチパッドの感度がよすぎて、指を近づけただけで、勝手に反応
してしまう。
そのため、ワープロとして使っていると、突然、カーソルの位置が、
とんでもないところにジャンプしてしまう。
使いにくい。
それが頻繁につづくと、イライラする。

そこでショップの人に相談すると、タッチパッドに紙を張って使いなさい
とのこと。
しかしそれも不便……。

こういうとき、心の中で、認知的不協和という特殊な反応が起きる。
もっとわかりやすい例では、こんな例もある。

「すてきな女性」と思って結婚してみたが、結婚生活が始まると、あれこれ
不満だらけ……。
「こんなはずではなかった」というのが、それ。
私もミニパソコンのMを買って、「こんなはずではなかった」と思った。

●合理化

しかし人間の心は、こうした矛盾には、それほど耐えられない。
矛盾を感ずると、心は葛藤状態になり、つづいて緊張状態を強いられる。
この緊張状態に弱い。

そこで心は、自分を防衛するために、さまざまな反応を示す。
その一つが、合理化。
何かの理由をこじつけて、今のその状態を合理化する。
たとえば釣りをしていて、魚を取り逃がしたとする。
そういうとき、「どうせあの魚は、病気だった」とか、自分に言い聞かせることで、
取り逃がしたという悔しさを、解消しようとする。

こうした一連の心理的操作、つまり(認知的不協和)から(合理化)という
操作は、日常的に、私たち自身が、よく経験する。
冒頭にあげたMさんも、その1人。

Mさんにしてみれば、望まない結婚だった。
夫に対する不満もつづいた。
しかし世間体もあり、離婚することもできなかった。
そういう生活が、40年間もつづいた。
その結果が(今)ということになる。
Mさんは、ことあるごとに、こう言う。

「私は今の夫と結婚できたことを、喜んでいます」と。
しかしこうした言葉は、そのまま受け取ってはいけない。
裏から読む。
「今の結婚は、不満です」と。

しかしそれを認めることは、そのまま自己否定につながる。
人生も晩年になって、何がこわいかといって、「自分の人生は
まちがっていたかも?」という疑問をもつことほど、こわいものはない。
その自己否定がこわいから、ほとんどの人は、合理化することによって、
自分の心を防衛する。
「防衛すること」から、こうした心理操作を、心理学の世界では、「防衛機制」という。

●退職者の悲哀

こうした現象は、何も妻だけの問題ではない。
定年退職した男たちが、みな共通にもつ問題と言ってもよい。
とくに私たちの世代は、現役時代には、「企業戦士」と言っておだてられ、
一社懸命、一所懸命と、身を粉にして会社という企業のために尽くしてきた。

本当は自分のためにそうしたのだが、結果として、自分の夢や希望を犠牲にした。
家族を犠牲にした。

が、結末はあわれ。
本当にあわれ。
民間企業でそれなりの地位についた人も、50歳を回るころにはリストラされ、
関連会社や子会社へ。
あるいはリストラ→求職活動→再就職、と。

こうした人たちの落胆感には、ものすごいものがある。
しかしそれを認めることは、先に書いた「自己否定」につながる。
そこでこのタイプの人たちは、過去の経歴にしがみつく。
あるいはそれ以前の学歴にしがみつく。

言うなれば、これも「合理化」の変形ということになる。

●再び、Mさん

Mさんは、先にも書いたように、見た目には、明るく朗らかな人である。
私たちと話すときも、何かとよく気がつき、あれこれと仕事をしてくれる。
だから私たちも、その範囲で、Mさんと交際している。
問題はない。
一応、よき人間関係ということになる。

しかしどこかで違和感を覚えるのも、これまた事実。

私「お前さア、他人に、『浩司さんと結婚できて幸福』って、言ったことあるか?」
ワ「ないわねエ~」
私「だろ……。本当に幸福なら、そんな言葉など使わないぞ」
ワ「そうねエ。夫婦なんて、空気のようなものだから……」

私「でも、Mさんは、ぼくにも、そう言った。お前にも、そう言った」
ワ「どうしてそんなことを言うのかしら?」
私「つまり、それだけ今の夫に不満があるからだよ。自分の心をごまかすために、
そう言う」
ワ「そうねエ……」と。

何も私たち夫婦が仲がよいというわけではない。
ないが、他人に夫婦の間のことを話すことは、めったにない。
話しても意味がない。
無駄。
言うとしても悪口のほうが、多い。
「ぼくのワイフは、頑固」「融通がきかない」「まじめすぎる」と。
いわんや、他人に、「ぼくはワイフを愛しています」などとは、言ったことがない。
最近の若い人たちのことは知らないが、私たちの世代には、「愛」という言葉には、
ある種の照れくささを覚える。

●晩年

しかし人生も晩年に近づくと、この合理化がふえてくる。
「ぼくの人生はこんなものだ」という、あきらめとも、居直りともわからない
複雑な気分が、身を包む。
それが合理化に拍車をかける。

私の人生を振り返っても、釣った魚よりも、釣り逃した魚の方が、はるかに多い。
「あのときの魚は、こうだった」「ああだった」と、自分をなぐさめる。
結婚生活にしても、また私のワイフにしても、そういう思いがどこかにないとは
言わない。
しかしそれこそ、(お互い様)。

私だって、欠陥だらけの人間。
とても人に誇れるような人間ではない。
そんな私に、40年も付き添ってくれた。
私がワイフなら、私のような男とは、とっくの昔に離婚していただろう。
それが自分でもよくわかっているから、偉そうなことは言えない。

ただ幸いなことに、自己否定に陥ることは、死ぬまでないだろうということ。
私は、ささやかだが、自分なりに、自分の人生を歩むことができた。
どこの世界で、どのようにがんばったところで、私は今程度の人間でしか
なかっただろう。
やり残したと思うようなことも、ほとんどない。
だからあとは、このまま死ぬまで、突っ走るだけ。

そんな私だが、ワイフに、「愛している」と言われることくらい、うれしいことはない。
めったに言わないが……。

さて、この文章を読んでいるあなたは、どうか?
余計なお節介かもしれないが……。(失礼!)


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
認知的不協和 防衛機制 合理化 自己正当化)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●嫉妬(ねたみ)(Jealousy)

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嫉妬深い人には、ひとつの特徴がある。
嫉妬深い人は、当然のことながら、他人の幸福や成功を喜ばない。
喜ばない分だけ、その反射的反応として、人の悪口や中傷を好む。

言いかえると、日常の会話の中に、人の悪口や中傷が多い人は、
それだけ嫉妬深い人とみてよい。

+++++++++++++++++

概して人は、つぎの2つのタイプに分けられる。

(1)他人のよいところだけを見ながら、それを前向きに評価していくタイプ。
(2)他人の欠点だけを問題にし、それを批判したり、悪口や中傷につなげていくタイプ。

後者のタイプの人は、それだけ嫉妬深い人ということになる。
つまりそれだけ心の部屋が、狭い。
見かけの様子にだまされてはいけない。
多くの人は、自分の欠点に気づくと、その反対側の自分を演ずることがある。
明るく、朗らかな人が、実はその裏で、うつ病で、通院治療を受けていたりするなど。
そういうケースは、たいへん多い。

嫉妬深い人もそうで、表面的には、寛大な様子を、ことさら演じてみたりすることが多い。
「私は世界中の人がみな、幸福になればいいと思っています、ハハハ」と。
表面的な様子だけでは、判断できない。
だからこれは他人の問題というよりは、私やあなたの問題ということになる。

あなたはだれかと会話をするとき、上の(1)のタイプだろうか。
もし、そうなら、それでよし。
もし(2)のようなら、あなたは、心のかなりゆがんだ人とみてよい(失礼!)。
原因や理由はいろいろ考えられるが、嫉妬深い人は、それだけ自らの人生を
重く、暗いものにする。
長い時間をかけて、そうなる。

とくに(2)のタイプの人は、教師には向かない。
そういう教師に当たったら、生徒がかわいそう!
……と考えて、一度、自分を深~~ク、反省してみる必要がある。

嫉妬は、原始的な感情の一つであるだけに、扱い方もむずかしい。
扱い方をまちがえると、それこそ、相手を殺す……というところまでしてしまう。
つまり嫉妬がからむと、人間が人間でなくなってしまう。
行動そのものが、動物的になる。

嫉妬を感じたら、じゅうぶん、注意したらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
嫉妬 ねたみ 嫉妬論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●運動(Exercise)

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昨夜は、オーストラリアの友人への誕生日プレゼントを
送るため、片道約5キロを歩いた。
西郵便局まで、歩いた。
今日も、近くのショッピングセンターまで、約6キロを
歩いた。
そのため、私もワイフも、疲れた~~~ア。

帰ってきて、そのまま昼寝。
目をさましたのが、午後4時ごろ。
2人も、2時間近くも眠ったことになる。

が、起きてみて、ビックリ。
居間から寝室まで、漢方薬の焦げた臭い。
ワイフが、ヨクイニン湯をつくりかけて、火を消すのを
忘れてしまったためらしい。

ヨクイニン湯……肌をなめらかにする。
イボの特効薬でもある。
私たちは、ヨクイニンに、甘草(カンゾウ)を、4対1の割合で
煎じて飲んでいる。
甘草を混ぜるのは、薬効をおだやかにするため。
それにのみやすくなる。
それにセンナの葉を、5~6枚入れると、便秘薬にもなる。

+++++++++++++++++++++

このところ「運動」といっても、どこかに悲壮感が漂うようになった。
「楽しむ」というよりは、何かに追い立てられているといった感じ。
とくに土日にしっかりと運動をしておかないと、つづく月曜日からの
仕事にさしさわりが出る。

が、そこは私。
それなりに楽しむ工夫はしている。
その一。
いつもデジタルカメラをもち歩く。
最近はビデオカメラを持ち歩くことも多い。
そのつど美しい花を見かけたりすると、それを写真に収める。
今日も、ショッピングセンターまで歩くとき、30枚ほど、写真に撮った。

あとはただひたすら、おしゃべり。
ワイフとペチャペチャとしゃべりながら、歩く。
これが結構楽しい。

●墓穴

アメリカにも、「墓穴」という言葉があるらしい。
クリントン国務長官が、「K国は、ますます墓穴を掘っている」というような表現で、
K国を非難した。

(「墓穴」……?
英語で、何と言うのだろう。
suicidal=自殺行為、disastrous=破滅的、という単語は、よく使うが、grave=墓穴
とういのはどうか?)

ともかくも、K国は墓穴を掘りつづけている。
だいたい言うこと、なすこと、すべてがメチャメチャ。
先の国連安保理の決定を撤回しろとか、謝罪しろとか、さもなければ、ICBMの
実験をするとか、核実験をするとか……。

それに対してアメリカは、『無視と圧迫』作戦を展開中。
K国が何を言っても、無視。
K国への援助予算も全額カット。
議会への報告書からも、K国という文言を消した。

要するに、「ご勝手にどうぞ」と。

が、日本として、もっとも警戒しなければならないのは、あのB氏。
電撃的な米朝会談。
前例がないわけではない。
先のC・ヒルには、日本は、さんざん煮え湯を飲まされた。
また今回K国の特命大使に任命された、B氏は、大の韓国びいきときている。
「日本はずし」も、ありえないわけではない。
もしそんなことにでもなったら、一大事。
日本は国運を賭けてでも、それに抵抗しなければならない。

警戒すべきは、B氏。
このB氏の動きと言動を、注意深く見守っていこう!


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●5月10日(人生は選択の問題)

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このところフルハイビジョンテレビの迫力に
押されて、映画館へは足を運んでいない。
(見たい映画がないということもあるが……。)
そのかわり、家でビデオを見ることが多くなった。
で、昨夜は、スティーブン・スピルバーグ監督の
『アメージング・ストーリー』。
たいへん古い映画である。
雰囲気からして、20~30年くらい前の映画ではないか。
私はその映画が好きで、ビデオで公開されるたびに、
それを借りてきた。
全部、見た……はず。

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●記憶

DVDは2本、借りてきた。

短編が3作ずつ収録されているから、計6作ということになる。
が、うち4作ほどは、おぼろげながらも、内容を覚えていた。
しかし残り2作は、はじめて見たと言ってよいほど、内容を覚えていなかった。
どういうことだろう?
見ていなかったのか?
それとも忘れてしまったのか?

DVDを見ながら、自信がゆらいできた。
単純に計算すると、こうなる。

仮に私がその映画を、40歳のときに見たとしよう。
この計算によれば、その時代の6分の2、つまり3分の1は、記憶から完全に
消えてしまったことになる。
あの時代の1年のうち、約4か月は、完全に記憶から消えてしまったことになる(?)。
(こんなふうに、単純に計算することは、正しくないことは、よく知っているが……。)

40歳のころ、私はたしかに生きた。
しかしそのうちの3分の1の時間は、「生きた」という実感もないまま、どこかへ
消えてしまった?
……というふうにも、理解できる。
さらに言えば、その時間の中の私は、私は死んだも同然ということにもなる。
(少し、大げさかな?)

●無益に100年生きるよりも……

が、人生というのは、おおむね、そんなもの。
「今」という時にしても、10年後に残る時間など、3分の1もない。
(3分の1も残れば、御の字かも。)
実際には、加齢とともに、人生の密度は薄くなるから、5分の1とか、10分の1
とかになる。

言い換えると、人生というのは、過ごし方の問題。
過ごし方によって、2倍にも、3倍にもすることができる。
反対に過ごし方をまちがえると、(死んだも同然)となる。
そこで結論。

大切なことは、長生きをすることではない。
今のこの時を、2倍、3倍にして生きる。
そうすれば同じ10年でも、それを20年、30年にして生きることができる。
『人生は長さではなく、密度の問題』。

さらに言えば、『無益に100年生きるよりも、有益に1年を生きたほうがよい』と
いうことになる。
『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり(子曰、朝聞道、夕死可矣)』というのも、
同じ意味である。
論語の中の一節である。
つまり「その日の朝に真実を知れば、それ以上長生きしたところで意味はない。
夕方に死ぬことになっても後悔はしない」と。

●日々を選ぶ

このことは私たちに重要な教訓を残している。
つまり与えられた時間は同じでも、使い方によって、それを2倍にすることもできるが、
反対に半分にしてしまうこともあるということ。
人生というのは、「使い方」というよりは、「選択の問題」ということになる。

たとえば同じDVDを見るにしても、印象に残らないような、くだらないのを見ても、
意味はないということ。
時間の無駄。
人生の無駄。
時間つぶしにもならない。
自分を殺しながら、殺しているという事実にすら、気がつかない。

よい例が、あのバラエティ番組。
見るからにその程度の人たちが、意味のないことを言いあいながら、ゲラゲラ、
ギャーギャーと騒いでいる。
そのときはそれなりに結構楽しいが、そういうのを見ている時間というのは、
結局は、(死んだも同然)ということになる。

そこでどうせ見るなら、10年後、20年後に、しっかりと記憶に残るものがよい。
それが時間を有効に使うということになるし、人生を長く生きるということになる。
つまり「選択の問題」ということになる。

DVDやテレビにかぎらない。
仕事にしても、人と会うにしても、また交際するにしても、そのつど「選ぶ」。
その選び方を誤ると、10年後には、何も残らない人生を送ってしまうことになる。

要するに日々の選択にこそ、人生をどう生きるかの知恵が隠されている。

●再び、選択

同じ映画でも、強烈な印象を受けた映画は、よく覚えている。
たった1度しか見ていない映画でも、よく覚えている。
そうでない映画は、そうでない。

が、ここでまた別の問題にぶつかる。
映画にせよ、人生にせよ、どう選ぶかという問題である。
中には、「娯楽なのだから、楽しめばいい」と考える人もいるかもしれない。
「見て、すぐ忘れたからといって、無駄になったということではない」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。

若いときのように、死がはるか遠くにあって、それを気にしないというのであればよい。
しかし50歳、60歳となると、死をすぐ近くに感ずるようになる。
親しかった人も、つぎつぎと死んでいく。
そうなると、「楽しめばいい」という考え方は、どこかへ吹き飛んでしまう。

そこで大切なことは、やはり、「選択」ということになる。
言い換えると、これから先は、「どう生きるか」ではなく、「どう選択するか」ということ。

人を選ぶ。
仕事を選ぶ。
行動を選ぶ。
常に選びながら、生きる。

年数は正確には計算できないが、スティーブン・スピルバーグの『アメージング・
ストーリー』を見ながら、そんなことを考えた。

(付記)

実のところ、この1週間、原稿をほとんど書いていない。
……書けなかった。
スランプ状態になってしまった。
第一の原因は、電子マガジンの読者が、この数か月以上、ほとんどふえなかった。
毎日が、苦しかった。
「しばらく休刊にしよう」と、何度も考えた。
ワイフもそう言った。
「そんなに苦しいのなら、休刊にしたら」と。

もちろん中には、毎回読んでくれている読者もいる。
ときどきだが、そういうメールをもらう。
しかし90%以上の読者は、(あるいは99%以上の読者は)、軽く目を通して、
そのまま削除。
私自身も、他人のマガジンをそのようにして読んでいるので、その気持ちがよくわかる。
読者の方を責める気持ちは、まったくない。
しょせん電子マガジンというのは、そういうもの。

「何かしら、壮大な無駄をしているのでは?」という、疑問がムラムラと胸をふさいだ。
とたん書く気が半減、喪失した。
「こんなことをしていて、何になるのだろう?」と。

さらに一言、付け加えるなら、私の読者は、そのほとんどが女性。
母親。
よけいに、むずかしい。

女性というのは、情報を得ても、それを自分だけの世界に閉じ込めてしまう。
けっして、外の世界に広めてくれない。
何かよい情報を手に入れたりしても、こっそりと自分のものにして、それでおしまい。
男性のように、他人に向かって、「これはおもしろいから、お前も読んでみろ」という
ようなことをしてくれない。
(もちろんそうでない女性もいるが、しかし私が知るかぎり、そういう女性は少数派。)

ほかにもたとえば子育て相談などにのってやっても、女性のばあいは、たいてい、
「はい、ありがとう」だけですんでしまう。
男性のばあいは、そのあと、何らかのアクションが、かならずといってよいほど、ある。

女性、つまり母親たちとは、もう何十年もつきあってきたから、そういう女性特有の
心理がよくわかっている。
女性を責めているわけではない。
ただ、こういうことは言える。

女性も、そのあたりから自分を基本的に見直さないと、真の意味での男女同権を
達成することはできないのではないか、と。
というのも、こうした女性独特の心理の奥底には、ぬぐいがたい(女性特有の依存性)の
問題が潜んでいる。
どこか男性社会に甘えて生きている。
その(甘え)がなくならないかぎり、真の意味での男女同権はない。

ともかくも、1週間の空白期間を通り抜けて、今、また原稿を書き始めている。
こういうとき私は、自分にこう言って聞かせる。

「こうしてものを書くのは、だれのためでもない。自分のため」と。
言うなれば、肉体を鍛えるジョギングのようなもの。
自分の健康のため。
脳みその健康のため。

もう女性にも、また母親と呼ばれる人たちにも、期待はしない。


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