2010年5月31日月曜日

*Life is but an empty dream.

【新・胡蝶の夢】(人生、夢のごとし)
Life is but an empty dream.

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時として、現実が夢なのか、
それとも、夢が現実なのか、
それがわからなくなる。

そこに(現実)があるはずなのに、
日々はまるで夢のように過ぎていく。
そこに(過去)があるはずなのに、
どれも色あせて、つかみどころがない。

「人生、夢のごとし」とだれかに言われても、
今の私は、「そうだな」と、
すなおにそれに従うことができる。

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●マイ・S

 医院で、(マイ・S)という睡眠薬を、処方してもらっている。
睡眠薬にもいろいろあって、(マイ・S)というのは、言うなれば朝方に効く、睡眠持続剤のようなもの。……らしい。
「朝早く目が覚めてしまう」と訴えたら、医師は、それを処方してくれた。
 
 以来、もう10年以上になる。
といっても、毎晩のむわけではない。
週に1、2度、それも4分の1から8分の1に割ってのむ。
1錠ものんだら、気がへんになってしまう。
朝方、現実と区別のつかない、幻覚作用が起こる。
一度、そういうことがあって、こわくなった。
だからそのときの状態に応じて、割ってのむ。
そのことを医師に告げると、「それでは効かない」というようなことを言った。
しかし私には、それでじゅうぶん。
多くて4分の1。
たいていは8分の1。
舌の下で溶かしながら、のむ。

●幻覚

 (マイ・S)をのむと、それでも、朝方、幻覚作用が起きることがある。
超リアルな夢であったり、夢の中で、それが夢とわかったりする。
数日前の朝も、そうだった。
私はどこかの駅のプラットフォームに立っていた。
そこで一度ローカル線に乗り、近くの大きな駅で長距離列車に乗り換えるつもりだった。

 その前に少し、海岸沿いの細い道を歩いていたように思う。
舗装のない、茶色の道だった。
眼下に豊かな森が見え、その向こうに海が見えた。
たぶんそんなわけで、その駅までは、バスか何かでやってきたのだと思う。
私は長距離列車に乗って、自宅のある浜松市まで帰るつもりでいた。

●床屋

 駅の前には坂道があった。
以前、見覚えのある坂道だった。
……というより、別の道から、坂の上にある、みやげ屋まで来たことがある。
そのときは、つまり反対コースを、下から見たことになる。
急な坂道で、歩いては登れるが、車では無理。
そう思いながら、私は坂道を登った。
駅のことは、忘れていた。
たぶんローカル線に乗り遅れて、つぎの電車を待っていたのだと思う。
坂道の途中には、いくつかの店があった。
民宿、菓子屋、それに床屋。

 私は床屋へ入った。
大正時代にできたような木造の古い家だった。

●2人の男

 そのころだったと思う。
私は「ああ、これは夢だな」と気がついた。
ふつうなら、そう思ったとたん、目が覚める。
が、目は覚めなかった。
私は夢を見つづけた。

 床屋には、2人の人がいた。
1人は男で、年齢は50歳くらい。
もう1人は女で、年齢は40歳くらい。
ひまそうに客を待ちながら、テレビを見あげていた。
私は声をかけた。
男が返事をした。
女も返事をした。
しかしそこはもう床屋ではなかった。
旅館だった。
古い、木造の旅館だった。
長い板間の廊下が、奥へとつづいていた。

●幻覚

 男が言った。
「奥の部屋があいています」「温泉は、12時までです」と。
女が部屋へ案内してくれた。
私はワイフの姿が見えなくなって、かなり不安になっていた。
電車で先に行ってしまったのかもしれない。
もしそうなら、つぎの駅で私を待っているはず。 
……と思った瞬間、私はみやげ屋の中にいて、そこから駅をながめていた。

 「これは夢だ」と、私はまた思った。
「私は今、夢を見ている」と。

 こんなにクルクルと場面が変わることは、おかしい。
おかしいから、「夢だ」と。

●男

 先ほどの男が、話しかけてきた。
「あなたは、どこから来たのか」と。
私は、「旅行中だ」と答えた。

男「どこへ行くのか」
私「電車に乗って、家に帰る」
男「家は、どこだ?」
私「なぜ、そんなことを聞くのか?」
男「なぜって、それはあなたが、この世の人間とは思えないからだ」
私「この世? ハハハ、ここはぼくの夢の中の世界だよ」と。

 男は一瞬驚いた顔をしてみせたが、今度は怒ったような声で言った。
「バカなことを言うな。ここがあなたの夢の中の世界なら、私は何だ?」と。

私「……あなたは、ぼくが勝手に創りあげた人間だ」
男「あなたが、ぼくを創ったって? とんでもないこと言うね、あなたは」
私「だって、これはぼくが見ている夢なんだから、しかたないだろ」と。

●やり取り

 男の顔はよく覚えていない。
が、夢の中では、その場にいる人のように、輪郭がはっきりしていた。
印象としては、陰険な顔つきをしていた。
暗い表情で、私をにらみつけていた。

男「あなたの頭は、おかしい。見ろ、あそこに海が見えるだろ。あなたはあの海まで、自分で創ったというのか?」
私「創ったわけではないが、この世界では、ぼくが想像した通りの世界になる」
男「だったら、あなたはこの世界の神か?」
私「少なくとも、あなたに関しては、そうだ。ぼくが目を覚ましたら、あなたは消える」
男「……消える! とんでもないことを言うな。君は。ぼくは消えない。夢だかなんだか知らないが、あなたが目をさましても、ぼくは、ここにいる。この世界に、だ」と。

 かなりはげしいやり取りだった。
私もその男も、同じように興奮状態になっていた。

●荘子の『胡蝶の夢』

 荘子と言えば、『胡蝶の夢』。
荘子の思想を表す逸話に、こんな話がある。

 ある日荘子は夢を見る。
荘子が蝶になり、あちこちを舞ったあと、そこで目が覚める。
そこで荘子はこう考える。
「荘子が夢を見て蝶になったのか。それとも蝶が夢を見て荘子になったのか」と。

 もちろん夢の中で、私が荘子のことを思い出したわけではない。
ただその男というのが、はたして夢の中に出てきた男なのか、それとも私自身だったのか、今、こうして夢の中の私を思い出しながら書いていると、それがよくわからない。
会話をしているのは、私と1人の男。
しかし私がその1人の男になったり、その男が、私になったりする。
あるいは夢の中で、私は、もう1人の「私」と対話をしていたのかもしれない。
「私が夢を見て、その男と話したのか。それとも、私がその男となって、私と話したのか」と。

●目を覚ます

 ……このあたりで、夢が覚め始めた。
というより、思い切って目を開いた。
とたん、目の前にいた、その男は消えた。
どこか生意気そうな男だった。
目を覚ます前、かなり強い反感を私は覚えていた。
だからふと、「ザマーミロ!」と思った。
その男が消えたことが、楽しかった。

 「あの男は今ごろ、自分が消されて、悔しい思いをしているかもしれないな」と。
しかしすぐ私は現実に戻った。
横を見ると、ワイフが朝の薄日の中で、軽いいびきをかいて眠っていた。
私はそれまで見ていた夢のことを、しばらく考えた。
時刻は午前5時を過ぎていた。
遠くで、スズメが鳴いたような気がした。

●夢判断

 私は夢を見た。
私が見た夢だから、自分の姿は見えなかった。
が、男の顔や姿は、よく見えた。
しかしその男が、私でなかったとは、とても思えない。
私が見た夢なら、私自身ということになる。
私の一部が、その男となって、夢の中に出てきた。
不愉快そうな顔をしていた。

 その男は、私が、「あなたは、ぼくが勝手に創りあげた人間だ」と言ったとき、本気になって怒った。
それがおかしかった。
私は、自分の夢の中では、神以上の神だった。
すべての創造主。
その気になれば、(もちろん夢と気づいているときの間だけだが)、自分の思い通りの世界を創ることができる。
別の夢で、「これは夢」とわかったようなとき、私はわざと高い山から飛び降りて、空を飛ぶこともある。
そういう神業(わざ)的なことも、可能。
つまり何でもできる。

●逆転

 が、ここでおもしろいことに気づく。
もし、仮に今、この世界が、だれかの夢の中の世界だったとしたら……ということ。
そこに1人の男が立っていて、「ここは私の夢の中の世界だ。あなたは私によって創られた人間だ」と言ったとしたら……。

 つまり夢の中の「私」が、ちょうど反対の立場になったとする。
するとこの世界の見方が、一変する。
私はその男に向かって、こう言い返すだろう。

私「あなたの頭は、おかしい。見ろ、あそこに海が見えるだろ。あなたはあの海まで、自分で創ったというのか?」
男「創ったわけではないが、ぼくが想像した通りの世界になる」
私「だったら、あなたはこの世の神か?」
男「少なくとも、あなたに関しては、そうだ。ぼくが目を覚ましたら、あなたは消える」
私「……消えるだと! とんでもないことを言うね、君は。ぼくは消えないよ。夢だかなんだか知らないが、あなたが目をさましても、ぼくは、ここにいる。この世界に、ね」と。

●現実

 実のところ、私は今、私が生きているこの世界そのものが、よくわからない。
そこに見えるのは、光と分子の織りなす世界。
それを見て、(もちろん音も聞いて)、そこにモノがあることを知る。
しかし目を閉じれば、一瞬にして、それらのモノは、視界から消える。
そこにモノが見えるのは、たまたまそれが見えるように目ができているからにほかならない。

 たとえば暗い闇の世界を泳ぐイルカは、音波探知機のような機能を鼻先にもっていて、それでモノがあることを知るという。
一方、土の中に生きるミミズは、目が退化してしまっていて、モノを見ることができない。
(現実)といっても、それは人間にとっての現実であり、その(現実)は、動物によってみなちがう。

 で、死ねば、どうなるか?
モノを見る「私」自身が消えるわけだから、モノを見ることはもうない。
その時点で、私たちが「現実」と呼んでいるものすべてが、消える。
この大宇宙もろとも、消える。

●すべてが夢の中

 もちろん(現実)は(現実)。
(夢)は(夢)。
しかし私の年齢になると、どちらがどちらでも、もう構わないという心境になる。
「夢の中の方が現実」とだれかが言っても、「そうだな」と思う。
「現実は夢のようなもの」とまただれかが言っても、「そうだな」と思う。
自分の過去を振り返っても、それが(現実)というよりは、すべてが(夢)の中のできごとだったような気がする。
少なくとも「今」という時点から振り返ると、数日前に見た夢も、50年前に経験したことも、同じように見える。
夢の中で見た床屋も、どこか知らない土地で見かけた床屋も、同じように見える。
頭の中で区別するのが、むずかしい。

 だから荘子のように……というふうに考えるのは危険なことかもしれないが、この世の中のモノすべてが、ナッシング(Nothing)のように思えてくる。
もっとわかりやすく言えば、私たちは、だれかが見ている夢の中で、それがそのだれかの夢とも気づかず、踊らされているだけ(?)。
そのだれかが目を覚ませば、私もろとも、この世の中のモノすべてが、消える。

●現実主義者

 ……といっても、私は現実主義者。
今までもずっとそうだった。
これからも、死ぬまでそうだろう。
霊的な世界の存在を信じていない。
が、冷酷な現実主義者ではない。
ちょうど子どもがサンタクロースの存在を信ずるように、「この世は、ひょっとしたら夢のようなものかもしれない」と思うことはある。
やがて私もあの世へ行くわけだが、その程度、つまりサンタクロース程度には死後の世界を信じている。

 ……とまあ、自分でも何を書いているか、よくわからなくなってきた。
ただ私がここに書きたいことは、現実だけがけっしてすべてではないということ。
現実にとらわれすぎると、かえって自分を見失ってしまうこともある。
ときには、そこに見える(現実)を疑ってみる必要もある。
そこにある世界がけっしてすべてではない。
同時に、そこにないからといって、別の世界を否定してはいけない。

 窓の外から注ぎ込む白い光を見ながら、私はそんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 夢と現実 現実と夢 荘子 胡蝶の夢 荘周 新胡蝶の夢 夢論)

(補記)

 私自身の過去を振り返っても、すべて夢の中のできごとだったように思うことは、よくある。
ただ(過去)といっても、それぞれの人や場所と、つながりがある。
そういった人に出会うと、それが現実だったことを知る。
しかしもしそういう人もいなくなってしまったら……。
そういう場所もなくなってしまったとしたら……。
そのとき私は、現実と夢を区別できるだろうか。
加齢とともに、だんだんとその自信が薄らいできた。

人生は夢のように短くはかないものである(李白「春夜宴従弟桃李園序」)。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

2010年5月30日日曜日

*Emergent Warning

【緊急・警告】Emergent Warning

(韓国に迎合しすぎるな!)
(Keep 20% Nihilism)

Concerning the patrol ship bombing
the Korean peninsula is now under
hairtrigger condition.

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哨戒艦爆破事件に関し、朝鮮半島が一触即発
の状態になった。
魚雷で爆破したのは、紛れもなく北朝鮮。
その北朝鮮は、最期の悪あがきを繰り返している。

が、それはそれ。
一方、日本は日本。

日本の鳩山首相は、韓国まで出かけて行って、
つぎのように述べている。
「許し難い行為」と。

ヤフーNEWSの記事をそのまま紹介させて
もらう。

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*************以下、ヤフーNEW**************

……鳩山由紀夫首相は29日、韓国・済州島内のホテルで、李明博大統領と会談した。首相は、北朝鮮による韓国哨戒艦沈没事件を「許し難い行為」と非難し、韓国支持の立場を強調。大統領は、北朝鮮に対する日本の独自の追加制裁措置に謝意を伝えた。また、大統領は、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の移設問題に関する日米合意についても高く評価した。

 哨戒艦事件について、大統領は「北朝鮮に対して日本が単独の(制裁)措置を迅速に講じたことは今後、国際社会で協力を図っていく中で、非常に大きな意義があった」と評価。首相は「日本は国際社会とともに北朝鮮を強く非難しており、韓国を強く支持している」と応じた。

*************以上、ヤフーNEW**************

 このままの状況で進めば、現時点では、戦争は必死!

(韓国:心理戦のための拡声器設置)→(北朝鮮:拡声器撃破とケソン工業団地への交通路遮断)→(北朝鮮:韓国人労働者の帰国阻止)→(韓国:人質救出作戦のための武力行使)→……、と。

●日本の工作員

 かねてから北朝鮮は、繰り返し、日本攻撃を公言している。
相手が日本なら、北朝鮮にしても、大義名分が立つ。
その日本が、韓国と北朝鮮が交戦状態になったとき、無事ですむはずがない。
これは憶測でも何でもない。
韓国のある軍事評論家は、「つぎの攻撃は、(反撃能力をもたない)日本」と言明している。
が、北朝鮮だって、そこまでバカではない。
「攻撃」イコール、テロ活動ということになる。

 忘れていけないのは、この日本にはすでに、100人以上の工作員が侵入していること(公安当局)。
実際の数は、その10倍以上とも言われている。
こうした工作員が、朝鮮半島の動乱に乗じて、日本国内で後方かく乱戦術に出ることは、目に見えている。
「確実」と断言してもよい。
新幹線の爆破、航空機の爆破程度では、すまないだろう。

●姑息な小細工

 ゆいいつの救いは、北朝鮮の指導者に、そこまでの度胸がないこと。
韓国へ亡命した、ファン氏もそう述べている。
今の今も、姑息な小細工を繰り返している。
が、油断は禁物。
追い詰めすぎると、何をするかわからない。
『窮鼠、猫をもかむ』とかいう。

 そのとき、日本があぶない!
わかるか?
日本があぶない!

 この場に及んで日本は韓国に急接近しているが、いい子ぶるのはやめよう。
お人好しはやめよう。
韓国は今も昔も、そして将来も韓国。
たまたま今は、北朝鮮という共通の大問題をかかえているから、こうして会談を繰り返す。
しかしそれが終われば、韓国は、またもとの韓国に戻る。

●20%のニヒリズム

 10%では少ないかもしれない。
50%では、無責任と呼ばれる。
だから20%!

 日本は、日本のために、20%のニヒリズムをしっかりともつ。
韓国はたいへんな状態に置かれている。
それはよくわかる。
しかしその「種」を蒔いたのは、韓国。
韓国の前政権。
さんざん日本をカヤの外に置きながら、好き勝手なことをした。
わかりやすく言えば、今の北朝鮮を、大増上慢にしたのは、ほかならぬ韓国である。
はっきり言えば、朝鮮半島の動乱について、日本がそこまで肩入れしなければならない理由はない。

●最悪の反日国家

 敗戦まではともあれ、戦後、日本は一貫して、韓国を援助してきた。
「屋台骨を1本も、2本も抜くような」(某外交官)援助をしてきた。
が、それで韓国は変わったわけではない。

 一方、北朝鮮にしても、そうだ。
当時のK外務大臣は、「これで北朝鮮が動かなければ、私が責任を取る」などと、大見得を切って、何と120万トンもの米を無償で与えた。
が、北朝鮮は、何も動かなかった。
K外務大臣は、何も責任を取らなかった。

 で、韓国の政権は、その後も、竹島問題を見てもわかるように、きわめて反日的な政策を繰り返した。
日本にとっては、「許し難い行為」(鳩山首相)である。
韓国最大の揚陸艦の名前は、ズバリ『独島(たけしま)』。
ほんの1年前まで、韓国は、日本にとって「最悪の反日国家」と位置づけられていた(某誌)。
こうした流れが、この先、大きく変わるとは思わない。
つまり結局は裏切られ、またまた傷つくのは、この日本!

●丸裸

 日本は日本の国益と安全、それに平和を最優先に考える。
理由がある。
つまり日本は、丸裸!
まったくの丸裸!

 都市部においてですら、シェルターひとつ用意されていない。
核シェルターなど、さらに、ない。
国民の大半は、銃の扱い方すら、知らない。
こんな状態で、仮にノドン一発でも、東京都に撃ち込まれたら、この日本は、どうなる?
(もちろんそれで北朝鮮も最期を迎えるが……。)
化学兵器にせよ、生物兵器にせよ、1発で20万人の死傷者が出ると言われている。
その準備さえ、していない。

●アメリカは甘くない

 またまた日本は、戦後最大の危機を迎えつつある。
が、このノー天気ぶりは、いったい、どうしたものか?
どこから来るのか?
みな、何ごともないかのように、平然としている?
朝鮮半島の動乱だからと決めつけすぎている?
それともアメリカが何とかしてくれると、過信しすぎている?

 残念ながら、答は「ノー」。

 北朝鮮の思考回路は、私たち日本人の常識を、はるかに逸脱している。
またアメリカにしても、そんな甘い国ではない。
先の第一次イラク湾岸戦争のときだけでも、日本は、1兆円もの戦費を負担している。
現金で、だ。
今度戦争が起きたら、1兆円ではすまない。
10~20兆円は、ふっかけてくる。

●私なら……

 日本よ、テロ活動に対する準備は始めているのか?
私が首相なら、緊急対策本部を設置し、今すぐその準備に取りかかる。
日本中に、韓国並みの厳戒態勢を敷く。
また今は、それをして当然の時期である。

 私は日本の鳩山首相が何を考えているか、さっぱり理解できない。
向こうが頭をさげて日本に来るのなら、まだ話もわかる。
が、何もこちらから頭をさげて行って話すような内容ではない。
まず、日本を守る。
それが日本の首相の使命ではないのか。

 ……ではどうするか?

 私たちの命は、私たち自身で守るしかない。
朝鮮半島で動乱が勃発したら、私たちは、私たちの命は、私たち自身で守るしかない。
テロリストたちは、今の今も、この瞬間において、すでにその準備活動に入っている。
そのための工作員である。
どこがどう狙われるかは、金xxの思考回路に自分を置いてみれば、わかるはず。

 私なら、その日は、新幹線には乗らない。
飛行機にも乗らない。
人の集まるところには、いかない。
もちろん米軍基地には、近寄らない。
(2010年5月30日記)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

*Spritless Parents  *My Speech

●空の巣症候群

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60歳という年齢は、男性にとっても、
女性にとっても、たいへんな節目である。
この年齢前後に、多くの男性は仕事を離れ、
家庭に入る。
仕事をつづける人もいるが、現役時代の
ようなわけにはいかない。
量的にも、時間的にも、ぐんと減少する。
当然、収入も減少する。

一方、この年齢前後に、子どもたちは、
親の手を離れ、巣立っていく。
それまで「お父さん、お母さん……」と
近くにいた子どもが、そのままどこかへ
行ってしまう。
結婚すれば、なおさら。
家の中……というより、心の中に、ポッカリと
穴があく。

無気力感と脱力感。
それに空虚感。
中には、それが高じて絶望感すら覚える人もいる。
仕事一筋で生きてきた人ほど、その症状は重い。
子育て一筋で生きてきた人ほど、その症状は重い。

そうした症状を総称して、「空の巣症候群」という。

ある男性は、こう言った。
「退職と同時に、何もやる気が起きなくなってしまった」と。
またある女性は、こう言った。
「私の人生は、何だったの!」と。

男性が家庭に戻ったとき、歓迎されるとはかぎらない。
そのまま粗大ゴミとなるケースも少なくない。
それまで家庭を守ってきた(?)女が、外へ出る
ケースも少なくない。
「うちのダンナな家の中で、ゴロゴロしているだけ。
いっしょにいると、息が詰まる」と。

また子どもが巣立ちが原因となって、それが夫婦の関係が
ギクシャクすることもある。
間に、キレツが走ることもある。
ある男性はこう言った。
「息子が出て行ったとき、それまで夫婦をつないでいた
絆(きずな)が切れたような感じがしました」と。

『子はかすがい』とは、よく言う。
子どもが、夫婦の接着剤となっているケースは多い。
ほとんどが、そうではないか。
その子ども、つまり接着剤がなくなれば、当然、
夫婦の間に、すきま風が吹くようになる。

砂をかむような味気ない日々。
目標を見失って、フラフラと漂うような日々。
そこにいつものような時間があるはずなのに、
どれも色あせて見える。
輝きもない。

『空の巣症候群』がこじれて、離婚問題に発展する
ケースも少なくない。
男性にとっても、女性にとっても、この節目で人生の
一大転機を迎える。

が、転機といっても、先のある転機ではない。
その先に見えるのは、先細りの、暗いトンネル。
さんさんと輝く未来など、どこをさがしてもない。
が、それでも自分の体にムチを打って、仕事に行く。
「仕事」と言えるような仕事ではない。
「サラリーマン生活など、もうこりごり」と。
しかし、それしかすることがない。
……それしか、できない。
大きなビルの裏手に立って、車の交通整理をする。
ビルやマンションの管理人になったりする。

遊ぶといっても、余分なお金など、どこにもない。
仲間を連れ立って、安いバス旅行に行く。
それが精一杯。
ワイワイ騒いで、うっぷんを張らす。
しかし家に帰ってみても、そこにはだれもいない。
電気をつけて、冷めたご飯に、お茶をかけて口に運ぶ。

中には……ほどんどの男性と女性が、そうかもしれないが、
「それでも……」と思って、歯を食いしばる。
歯を食いしばって、立ち上がる。
かきむしるようにして、草の中から、小さな夢と
希望をさがす。
しがみつく。
『空の巣症候群』という症候群は、そうした一連の
症状を総称したもの。
言葉では理解できるかもしれない。
しかしその中身は、空の巣の中に身を落としたもの
でないと、わからない。

++++++++++++++++++++

●ではどうするか

 60歳なら60歳でよい。
多少の前後はあるかもしれない。
しかしその年齢を、第二の転機とするなら、その準備は、50歳のときから始めたらよい。
40歳でも早すぎるということは、ない。
そのころ収入にしてもピークを迎え、以後、下り坂へと向かう。
準備もなしに60歳を迎えると、ほとんどの人はまちがいなく、空の巣症候群に陥る。
この問題は、「どうすればいいか」ではなく、「どう予防したらいいか」、
そういう問題である。

 で、もしあなたが50歳なら、(40歳でもよいが)、自分が(すべきこと)の基礎を作る。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)である。
それを発見するだけでもよい。
あとは、それを少しずつ、育てていく。

●子育ての「限界」

 この時期、子育てに埋没する人もいる。
子育てに生きがいを見出し、「子育てこそ、私のすべて」と言う人もいる。
が、子育ては、けっして(生きがい)にはならない。
またしてはいけない。
そこに100%、自分を注入してはいけない。
100%、注入すればするほど、やがていつか子どもは、それを負担に思うようになる。
あるいはあなた自身が、子どもの望まない行動に出ることもある。
それが親子の間を、かえって遠ざけてしまう。

 今、若い人たちは、ささいなことを理由にし、またそれにこじつけて、親を見捨てていく。
ある男(=父親)は、自分の父母が、自分の子どもの運動会に来なかったという理由だけで、「親子の縁」(?)を切っている。
それまでに、いろいろあったのかもしれない。
そのときそれが爆発したのかもしれない。
どうであるにせよ、その結果、一方的に傷つくのは、いつも親の方ということになる。

●子離れの完成

 親は親で、できるだけ早い時期に子離れを完成させる。
わかりやすく言えば、子どもへの依存心を捨て去る。
子どもへの甘い期待と決別する。
そしてここが重要だが、「限度」(バートランド・ラッセル)をしっかりとわきまえる。
その時期には、個人差があり、家庭の状況によってもちがうだろう。
しかし早ければ、子どもが中学生になること。
遅くとも大学生になるころ。
そのころまでの完成させる。

 バートランド・ラッセルは、こう書き残している。

『私たちは子どもに対して、必要なことはする。
しかし限度を超えてはいけない。
その限度をわきまえている親子のみが、真の家族の喜びを与えられる』と。

●老後

 あとは自分の人生を考える。
自分の(命)を考える。
さらに具体的には、自分の老後を考える。
が、若い父親や母親には、それがわからない。
目が(下=子ども)のほうばかり向いている。
下ばかり向いているから、自分の顔にシワがふえ、体がたるんでいくことに気がつかない。

 しかし……。
子どもが巣立ったその瞬間、そこにドカッと待っているのは、老後。
そんなことは簡単な足し算をしてみれば、だれにでもわかること。
現在のあなたの年齢に、子どもが巣立つまでの年齢を足してみればよい。
それが現実ということになる。

●統合性

 話を戻す。

 何度も書いてきたが、老後の生きがいは、「統合性」によって決まる。
(すべきこと)と(現実にしていること)を一致させる。
それが「統合性」。

 いろいろな条件が、ある。
(すべきこと)は、無私、無欲でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は霧散する。

 ある男性は、無料の植物観察会を開いていた。
毎月1回の観察会である。
参加者の数は、その日によってちがう。
雨の日になると、ときにゼロになることもある。
しかしその男性は、その場に行って、参加者が集まるのを待つ。
で、しばらく待って、だれもこないとわかると、そのまま帰っていく。

 その男性というのは、元理科教師。
年齢は80歳くらいと聞いた。
それを「統合性」という。

++++++++++++++++++

空の巣症候群と統合性について書いた
原稿を、さがしてみる。
日付は、2009年の11月となっている。

++++++++++++++++++

●ヒマ(暇)論

++++++++++++++++++

「どうやって1日を 過ごそうか?」
……それを考えるのも、苦痛。
ヒマなときというのは、そういうもの。
もちろんヒマであることも、苦痛。

こういうのを ぜいたくな 悩みという。
しかし 世の中には、そういう
恵まれた人(?)も いる。

「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。

++++++++++++++++++

●「ヒマでヒマで……」

 M氏は、今年65歳になる。
息子と娘がいたが、今は 2人とも、遠くに住んでいる。
私はどこか知らないが、M氏は、そう言った。

 公務員を退職し、つい数か月前まで、郊外の公共施設で 働いていた。
週3日だけの 勤務だった。
が、そこも退職。
今は、悠々自適の隠居生活。
親の代からの 財産も ある。
そのM氏が、こう言った。

 「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。
「朝起きて考えること言えば、今日、1日を どうやって 過ごそうかということです」と。

●気がヘンになる

 M氏は、こう言った。
「日中は まだ何とかなります。
草を買ったり、バイクを直したりします。
問題は、夕食後です。
昨夜も、2時間も 音楽を聴いて、ぼんやりとしていました」と。

 で、私にこう聞いた。
「林さんは、どうしていますか?」と。

 たまたまその前日、私は友人への クリスマス・カードを 作っていた。
今年は、手作りカードに 挑戦している。
色紙に 写真や絵を張りつけ、それを 本のように仕立てる。

「ぼくもねエ、ヒマだと気がヘンになってしまいます。
だからいつも 何かをしています」と。

●生きがい

 M氏には話さなかったが、私のヒマつぶしといえば、インターネット。
ヒマなときは、まずパソコンに 電源を入れる。
とたん、したいこと、すべきことが、ドカッと、目の前に広がる。
趣味でもある。
道楽でもある。
が、それ以上に、今は、それが生きがいになっている。

 文章を書くために、本や雑誌を読んだりする。
マガジンを発行するために、写真を撮ったりする。
HPの更新も、そのつど しなければならない。

 やりたいこと、やるべきことが、あまりにも多い。
ヒマだとか、そんなことを言っている ヒマもない。
が、時として、ヒマになることがある。

●貧乏症

 私のばあいは、軽いパニック障害がある。
少し前までは、「不安神経症」と言った。
簡単に言えば、「貧乏症」。
いつも何かに 追い立てられているような感じがする。
乳幼児期の 不全な家庭環境が、原因と考えている。

 だからヒマであること自体が、苦痛。
何かをしていないと、気がすまない。
いつも、何かを している。

 そういう私の反対側にいるのが、無気力な人。
燃え尽き症候群とか、荷降ろし症候群とかいう。
私の年代には、「空の巣症候群」というのも ある。
子育ても終わり、子どもたちが巣立ってしまうと、とたんに 無気力状態になる。

 が、M氏のばあいは、少しちがうようだ。
「やりたいことは あるはずなのに、それが わからない」と。

●自己の統合性

 青年期には、「自己の同一性」という問題がある。
同じように、退職後には、「自己の統合性」という問題がある。
(やるべきこと)をもち、現実に、(それをする)。
これを「統合性」という。

 この構築に失敗すると、老後は、あわれで みじめなものになる。
M氏が そうだというのではない。
M氏はMしなりに、今のような老後を 夢見ながら、がんばって生きてきた。
しかし実際、それを手にすると、「何をしてよいか、わからない」、となる。

 孤独であるのも いやなこと。
老後になっても、息子や娘のことで、心配の種が尽きない人もいる。
それも いやなこと。
そういう人たちから見ると、M氏の置かれた立場は、うらやましいとなる。
先に「ぜいたくな悩み」と書いたのは、そういう意味。

●「だから、それが どうしたの?」

 そこでM氏が 見せてくれたのは、「太平洋一周、船の旅」という、パンフレット。
1人、150万円前後で、太平洋一周の旅ができるという。
行程は、日本→ハワイ→サンフランシスコ→ニュージーランド→オーストラリア
→東南アジア→中国→日本。

40日間の旅だという。

 「で、それに参加しようかどうかで、迷っている」と。

 私もときどき そうした旅行を考える。
が、そのまま シャボン玉のアワのように消えてしまう。

私のばあい、そういう旅行が、こわくて できない。
帰ってきたときの 虚しさを 想像するだけで、ゾッとする。
かえって虚脱感に襲われる……と思う。

 つまりそうした旅行には、「だから、それが どうしたの」と、そのあとに
つづくものがない。
たとえばそれぞれの国の 教育事情を調べるとか、そういうことなら楽しい。
あるいは私自身が 子どもたちを連れて、何かの指導をするというのでもよい。

 しかし帰ってきたとき、「ただいま!」だけでは、あまりにも さみしい。
一時的に ヒマをつぶすことは できても、そのあと、もっと大きなヒマが 
襲ってくる。
それに耐える自信が、私には、ない。

●老人観察

 老後には いろいろな問題がある。
しかし「ヒマ(暇)」について 考えたことはない。
M氏の話を聞きながら、「そういう問題もあったのか」と、驚いた。

 で、さっそく、あちこちの 老人観察を始めた。
「みんな、どうして いるのだろう?」と。

 もちろん 旅行を繰り返している人も いる。
趣味ざんまいの人も いる。
スポーツをしたり、孫の世話をしている人もいる。
人によって、みなちがう。

 が、こういうことは 言える。
人間というのは 勝手なもの。
忙しいときには、休みが来るのを、何よりも楽しみにする。
が、休みになったとたん、何をしてよいかわからず、ヒマをもてあます。
人生を「曜日」にたとえるなら、月曜日から土曜日までが、仕事。
日曜日が、つまり退職後ということになる。

 毎日が日曜日!

 しかし、これも考えもの。

●私のばあい

 で、私のばあいは、1、2年前に、ひとつの結論を すでに出した。
「私は 死ぬまで、現役で働く」と。
「過去は振り返らない。
前だけを見て、働く」と。

 わかりやすく言えば、身のまわりに、「ヒマ」を作らない。
そういう私の人生を 横から見ながら、「かわいそうなヤツ」と思う人もいる
かもしれない。
自分でも、それがよくわかっている。

 しかし いまだに(やるべきこと)が、何であるか、それがよくわからない。
統合性の確立があやふやなまま、今の仕事をやめてしまったら、それこそ 
たいへんなことになる。

 そのままボケ老人に向かって、まっしぐら!

 ただ幸いなことに、先にも書いたように、私にはまだ、やりたいことが
山のようにある。
どこから手をつけてよいのか、わからなくなることもある。

 で、今は、とりあえずは、新しいパソコンがほしい。
超高性能の、WINDOW7搭載の64ビット・マシン。
今夜も、ワイフに、それをねだったばかり。

 誤解がないように言っておくが、パソコンというのは、電気製品ではない。
買ったあとも、実際、使えるようになるまでに、いろいろな作業がつづく。
その作業が、楽しい。
だから買うとしても、長い休暇の前。

 ……ということで、改めて、究極の選択。

(1) 一生、ヒマで遊んで暮らす。
(2) 一生、仕事で、死ぬ寸前まで働く。

 どちらかを選べと言われたら、私は、迷わず、後者の(2)を選ぶ。
(すでに選んでいるが……。)

 M氏の話を聞いて、ますます強く、そう思うようになった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 空の巣症候群 荷下ろし症候群 老後の統合性 統合性の確立 老後の生きがい)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

【K市家庭教育学級研修会での講話】
2010年5月29日 (はやし浩司)

●K市で、研修会で話しました。
「子どもの見方、考え方」という題で話しました。
そのときの様子を、自分のビデオカメラで撮影してみました。

(1)前半(総論)
(2)後半(各論)……過干渉、過保護、溺愛、です。






























(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 子育て自由論 過干渉 過保護 溺愛 湖西市 講演会 研修会)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

2010年5月29日土曜日

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2010年 5月 31日
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【特集】学習指導困難児


【自己管理能力】


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湖西市の、恩師、NG先生から、講演の依頼が
届いた。


『……小生達子ども教室スタッフが直面しているのは
集団活動が苦手であったり、与えられた活動に取り組めず他の児童に迷惑をかけたりする
場合、どう対応したらいいかということです。ことに障害の存在を感じるような子どもの
場合、自分の子育て以外の教育にはかかわって来なかったスタッフには大きな課題となっ
ています。


実際、高所に登ってしまうような危険な行動をとる子や多動で追いかけるのに苦労するよ
うな子、思うようにならない(その活動が自分ではできない)といじけてしまい、どう声
掛けをしても気分が戻らない子、乱暴になって他児に迷惑をかける子などが見られます。
このような子どもにはスタッフが付き添って他児の活動への影響を最小限に食い止めるよ
う努力していますが、そうした場合の声の掛け方や高揚した気持ちの鎮め方にも苦慮して
います。


少し状況に変化がありまして、我々スタッフのほかに、よい機会だから先生のお話を是非
伺いたいという市内小学校の家庭教育学級の学級生(各学校数人ずつ)も参加させていた
だくことになりました。この学級生にとっての関心事はわが子の子育てでしょうから、子
ども教室スタッフの思いとは少し異なります。


このようにわがままな事を申し上げて恐縮なのですが、御講演の演題を先生のお考えで決
めてお知らせいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。


御講演をご承諾いただいたことを市教委に伝えました。講演料なしでお越しいただけると
いうことも伝えたところ、それではあまりにも申し訳ないと検討を始め、わずかですが旅
費程度をお支払いできるようになったということです。いずれ、御講演の依頼や口座振替
にかかる書類などが届くと思います。よろしく御取り計らいください。


会場は湖西市民会館です。お分かりになるでしょうか。お迎えが必要なようならおっしゃ
ってください。


御講演後、時間が許すのであれば昼食をごいっしょしたいと思います。どうしてももう少
し先生とお話したいという人もいますので、ご迷惑でなければ同席させていただければ幸
いです。


では演題の件、お手間をとらせてしまいますがよろしくお願いします』。


++++++++++++++++++++++++++++++


●学習指導困難児


++++++++++++++++++


学習指導が困難な子どもというのは、いる。
AD・HD児、自閉症児、粗放児(この言葉は、
筆者がつけたもの。家庭崩壊などにより、精神的に
凶暴性をもった子どもをいう)など。


さらにLD児、かん黙児などなど。


恩師のNG先生は、こうした子どもの指導員を
指導している。
「で、どう考え、どう対処したらいいか?」と。


それが今回の講演のテーマということになる。


ポイントは、3つある。


(1)子どもの自己管理能力(メタ認知能力)の育成
(2)「現在の症状を、こじらせない」
(3)薬物療法は、慎重に。


++++++++++++++++++++++++

【自己管理能力】


●人格の完成


+++++++++++++++++


人格の完成度は、どこをどう見て、
判断すべきなのか。


そのヒントとなるのが、「人格論」
である。


+++++++++++++++++


 人格の完成度は、(1)共鳴性、(2)自己管理能力、(3)社会性の三つをみる(EQ論)。
これは常識だが、これら3つには、同時進行性がある。


 共鳴性、つまりいかに利己から脱して、利他になるか。自己管理能力、つまりいかに欲
望と戦い、それをコントロールするか。さらに社会性、つまり、いかに他者と、良好な人
間関係を築くか。


 これら3つが、できる人は、自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。


 自己中心的な人は、それだけ自己管理能力が弱く、他者と、良好な人間関係を、築くこ
とができない。あるいは自己管理能力の弱い人は、長い時間をかけて、ものの考え方が自
己中心的になり、そのため、他人から、孤立しやすい。さらに社会性が欠落してくると、
自分勝手でわがままになる、など。


 これら3つは、相互に、からんでいる。そして全体として、その人の人格の完成度を、
決定する。


 が、やはり、キーワードは、「自己中心性」である。


 その人の人格の完成度を知りたかったら、その人の自己中心性をみればわかる。もしそ
の人が、自分のことしかしない。自分だけよければ、それでよいと考えているなら、その
人の人格の完成度は、きわめて低いとみてよい。


 これには、老若男女は関係ない。地位や名誉、職業には、関係ない。まったく、関係な
い。


 つぎに自己管理能力。わかりやすく言えば、ここにも書いたように、それには、欲望の
管理が含まれる。性欲、食欲、所有欲など。


 こうした欲望に溺れても、よいことは何もない。もちろん心の病気が原因で、溺れる人
もいる。セックス依存症の人にしても、節食障害の人にしても、それぞれ、やむにやまれ
ぬ精神的事情が、その背景にあって、そうなる。


 だから肥満の人が、即、自己管理能力のない人ということにはならない。(一般社会では、
そう見る向きもあるが……。)


 3つ目に、社会性。
 

 人間は、他者とのかかわりをもってはじめて、その人らしさを、つくる。その(その人
らしさ)が、良好であること。それが人格の完成度の、3つ目の要件ということになる。


 いくら高邁でも、他者とのかかわりを否定して生きているようでは、そもそも、人格の
完成度は、問題にならない。

 たとえば小さな部屋にひきこもり、毎日絵ばかり描いている画家がいたとする。すばら
しい才能をもち、すばらしい絵を描いている。が、個展を開いて、それを発表することも
ない。同業の人との、交流もない。


で、そういう人を、人格の完成度の高い人かというと、そうではない。EQ論では、そ
ういう人を、評価しない。(もちろんその人の芸術性の評価は、別問題である。)


 言いかえると、私たちは日々の生活の中で、これら3つを、いかにして鍛錬していくか
ということが、重要だということ。


 いかにすれば、自分の中の自己中心性と戦い、欲望をコントロールし、そして他者と、
良好な人間関係を築いていくか。つまりは、そこに、私たちが、日々に務めるべき、努力
目標がある。


 がんばりましょう! がんばるしかない!


【メタ認知能力】


●メタ認知能力(Metacognitive Ability)とは、何か


++++++++++++++++++++++


メタ認知能力とは何か。
川島真一郎氏(高知工科大学大学院)の修士学位論文より、
一部を抜粋引用させてもらう。
(出典:メタ認知能力の向上を指向した
高校数学における問題解決方略の体系化
Systematization of Problem Solving Strategy in High
School Mathematics for Improving Metacognitive
Ability(平成19年))


++++++++++++++++++++++


●メタ認知


メタ認知(metacognition)とは、認知活動についての認知のことである。メタ認知概念
は、ブラウン(A。 Brown)やフラベル(J。 H。 Flavell)によって1970 年代に提唱され
た。


メタ認知は、まずメタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)とメタ認知的活動
(metacognitiveactivity)に分かれ、それぞれがさらに細かく分かれる。メタ認知的知識
とは、メタ認知の中の知識成分を指す。メタ認知的知識は、人間の認知特性についての知
識、課題についての知識、課題解決の方略についての知識の3 つに分けて考えることがで
きる。メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、
メタ認知的モニタリング、メタ認知的コントロールの2 つに分かれる。メタ認知的
モニタリングとは、認知状態をモニタすることである、認知についての気づき(awareness)、
認知についての感覚(feeling)、認知についての予想(prediction)、認知の点検(checking)
などが含まれる。メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)など
が含まれる。


困難な場面に遭遇したとき、タ認知はその事態を打開すべく、関係のありそうな経験や
知識を想起する。似たような困難を克服した経験があれば、それは大きな手掛かりとなる。
過去の経験がそのままでは使えないときでも、見方を変えたりすることで使えることもあ
る、直面している問題が極めて困難なときは、条件の一部を解き易い形にした問題をまず
解いてみることが手掛かりになることがある。また、問題の解決に使えそうな法則なども
思い出し、解決に向けた道筋を描く。解決に向けた一番確かそうな方針が決まれば、実行
してみる。間違いを犯しそうな場面では注意深く実行し、時々方針が間違っていないか検
討を加える。このようにして、メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決する
ときに、力を発揮すると考えられる。


そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられ
る。訓練するための問題は、メタ認知が働かなくても解決できるような平易過ぎる問題は
役に立たない。適度な難易度の問題を解決することが必要である。従って、パターン暗記
に終始するような学習では、メタ認知能力は向上しないと考えられる。その意味で、生徒
が試行錯誤しながら自力で問題の解決を図る問題解決学習は、その狙いが実現できれば、
メタ認知能力の育成に大いに効果を発揮すると考えられる。
(以上、川島真一郎氏の論文より)


+++++++++++++++++++++


●メタ認知能力(Metacognitive Ability)


 私は「メタ認知能力」なるものについては、すでに10年ほど前から、原稿を書いて
きた。
が、ここ数年、この言葉をあちこちで聞くようになった。
しかし本当のところ、メタ認知能力とは何か、私もよくわかっていない。


 そこでまず私がとった手段は、メタ認知能力、つまりMetacognitive Abilityについて、
できるだけ原文に近い文献をさがすことだった。
最初は、直接アメリカの文献(英文)から調べようとしたが、先に、ひとつの文献を
さがしだすことに成功した。


ここに紹介した川島真一郎氏の修士学位論文が、それである。
わかりやすく書いてあるので、そのまま引用させてもらった。
 つまり私は、(メタ認知能力)とは何か知るために、つまりその壁を打開するため、
今までの経験を総動員して、(おおげさかな?)、あちこちを調べた。
その結果が、先にあげた論文の一部ということになる。


●メタ認知能力


 が、これだけをさっと読んだだけでは、意味がよくわからない。
内容を、もう少し整理してみる。


メタ認知


(1) メタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)
メタ認知の中の知識成分を指す。
(1) 人間の認知特性についての知識、
(2) 課題についての知識、
(3) 課題解決の方略についての知識の、33つに分けて考えることができる。

(2) メタ認知的活動(metacognitive activity)
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、
(1) メタ認知的モニタリング、
(2) メタ認知的コントロールの2つに分かれる。
 これでだいぶ頭の中がすっきりしてきた。
 さらに、
(1) メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである。
認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予
想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。
(2) メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)など
が含まれる、と。


●実益


 先にメタ認知能力の実益について、引用させてもらう。
川島真一郎氏は、こう書いている。


『メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考え
られる。そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと
考えられる』と。


 日常的な行動を同じように繰り返すようなときには、メタ認知能力は、力を発揮しない。
つまり難解で、より高度な知識と経験を必要とするような問題に直面したとき、
メタ認知能力は力を発揮する、と。


 そしてそのメタ認知能力は、訓練しなければ、向上しない、ともある。


●因数分解


 川島真一郎氏は、因数分解を例にあげて、メタ認知能力がどういうものであるかを
説明している。
そのまま印象させてもらう。


++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++


7。 <題>求めるもの(答え)と、与えられた条件の関係を発見せよ。[関係は直接的に見
えるときもあれば、仲介物を通して初めて見えて来るときもある。例えば、中間的な目標
を設定せよ。(例)(a + b + c)(bc + ca + ab) − abc を因数分解せよ。]
8。 <眼><針>関係の有りそうな公式は何か。
9。 <経><予>似た問題を思い出せ。
10。 <経><眼><針>似た問題の方法や結論を利用できないか。[(例)x、 y の対称式
はx + y とxy で表せる。]
11。 <眼><針>求めるもの(答え)の形を考え、それを具体的に(例えば式に)できな
いか。[また、その形のどの部分を求めればよいか。それを求めるのに、条件をどのように
使えるか。]
12。 <眼><針>与えられた条件や式を、解答で使い易いように変形できないか。[場合
によっては、結論の式から解答を進めて、後で比較するのが有効なときも有る。]
13。 <助><検>(方針の選択や解答の進め方について)解法の大筋を捉える。[大まか
な見通しを持つことが、解答への着手を促し、右往左往したり、袋小路に入ったりするの
を防ぐ。(例)増減表を書けば解けそう。判別式を利用できそう。等々]
14。 <経><眼><針>前に使った方法が直接使えないとき、補助的な工夫を加えること
で使えるようにならないか。[(例)角度の問題で、補助線を引く事で三角形の問題と捉
える。]
15。 <眼><針>求める結果が得られたと仮定して、逆向きに解けないか。[求める結果
を明確にイメージすることで、必要となる道筋が見えてくることが有る。]
16。 <眼><針>定義に帰ることで、手掛かりが得られることが有る。[2 次関数関連の
問題と判別式の関係。微分係数の定義。等々]
17。 <困><眼><針>問題を言い換えることで、容易になったり、既習の解法が使えた
りしないか。(そのとき、与えられた条件はどう変わるか。)[問題を違った視点から見る。
(例)sin θ+ cos θ の最大値を求めるのに、単位円周上の点P(x、 y) を利用する。]
18。 <困><眼><針>問題を一般化することで、容易になることがある。[(例)具体的
な数値の問題を、一般的な文字に置き換えることで見通しが良くなることが有る。]
19。 <困><眼><針>問題を特殊化することで、解決の糸口がつかめるときがある。
[(例)直方体の対角線の長さを求める問題で、高さが0 の場合を解いてみる。]
20。 <困><分><眼><針>条件の一部からどんなことが分かるか。[条件を幾つかの
部分に分けられないか。全体の解答とどう関係するか。]
21。 <困><眼><針>解き易い類題を考えることが、元の問題の手掛かりになることが
ある。[問題の一部は解けるか。どういう条件が付加されていれば解き易いか。等々]
22。 <補><検><助>条件の使い忘れはないか。
(CP)
23。 <題><検>方針に従い解答を進め、適当な段階で検討を加え、必要に応じて方針を
見直す。
24。 <補>自信の持てるる解き方から試みよ。[大抵の問題は、何通りか解き方がある。
(例)基本的な公式だけを使う。図形を利用する。微分を利用する。等々]
(LB)
25。 <題>結果の検討。[少しの検討が、長い目で見ると大きな効果をもたらす。]
26。 <検><眼>別の解法はないか。得られた答えが別の簡単な解法や、答えの意味を示
しているときが有る。
4。4 体系化された問題解決方略の適用
27。 <検><眼>使った方法や結果を総括する。他の問題に応用できないか。


++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++


●因数分解(例)


 高校生たちに因数分解を教えるとき、私自身は、半ばルーティンワーク的に解いて
みせている。
(因数分解そのものは、解法公式はほぼ確立していて、簡単な問題に属する。)
しかしこのように内容を秩序だてて分析されると、「なるほど、そうだったのか」と、
改めて、驚かされる。


私はそれほど意識せず、メタ認知能力を、応用かつ利用していたことになる。
率直に言えば、「メタ認知能力というのは、こういうものだったのか」と納得する
と同時に、「奥が深いぞ」と驚く部分が、頭の中で交錯する。
 ちなみに、先の(a + b + c)(bc + ca + ab) – abcを、別の紙で、因数分解してみた。
因数分解の問題としては、見慣れない問題である。


(1)見ただけでは、瞬間、頭の中で公式が浮かんでこない。
(2)直感的に、「いつものやり方ではできない」ということがわかる。
 が、こういうときの鉄則は、(3)「ひとつの文字に着目しろ」である。
この問題では、(a)なら(a)に着目し、(a)について式をまとめる。


 しかしこの場合、一度、式をバラバラにしなければならない。
結構、めんどうな作業である。


が、ここで「こんなめんどうな問題を出題者が出すはずがないぞ」というブレーキが働く。
「時間さえかければ、だれでもできる」というような問題は、数学本来の問題ではない。
ただの作業問題ということになる。


 そこで私は、(4)もっと簡単な方法はないかをさがす。
(bc + ca + ab)という部分に着目する。
(a)でくくれば、(b+c)という因数を導くことができる。
(b+c)を、(B)と一度置き換えてから、因数分解できないかを考える。
しかしもう一つの項、(abc)が残る。


つぎの瞬間、「この方法ではだめだ」と直感する……。
 ……というように、認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の
修正(revision)を繰り返す。


●高度な知的活動


 小学1年生が訓練するような、足し算の練習のような問題は、ただの訓練。
メタ認知能力など、必要としない。
 そこで昨日(8月21日)、メタ認知能力を確かめるため、私は小学2、3年生クラス
で、ツルカメ算の問題を出してみた。
あらかじめ、「ツルが2羽、カメが4匹で、足は合計で何本?」というような練習
問題を5~6問、練習させる。


そのとき「できるだけ掛け算を使って、答を出すように」と指示する。
 それが一通りすんだところで、「ツルとカメが、合わせて、10匹います。
足の数は、全部で、28本です。
ツルとカメは、それぞれ何匹ずついますか?」という問題を出す。
 で、このとき子どもたちを観察してみると、いろいろな反応を示すのがわかる。
(私の教室の子供たちは、幼児期から訓練を受けている子どもたちだから、こうした
問題を出すと、みな「やってやる!」「やりたい!」と言って、食いついてくる。)


 絵を描き始める子ども。
足を描き始める子ども。
意味のわからない記号を書き始める子ども。
2+2+2……と、式を書き始める子どもなどなど。
 こうした指導で大切なことは、(解き方)を教えることではない。
(子ども自身に考えさせること)である。
だから私は、待つ。
ただひたすら、静かに待つ。


 が、やがて1人、表を書き始める子どもが出てきた。
私はすかさず、「ほう、表で解くのか。それはすばらしい」と声をかける。
するとみな、いっせいに、表を描き始める。
表の形などは、みな、ちがう。
しかしそれは構わない……。


 (こうした様子は、YOUTUBEのほうに動画として、収録済み。)


●メタ認知能力の応用


 こうして書いたことからもわかるように、メタ認知能力というのは、もともとは、
数学の問題を解法技法のひとつとして、発見された能力ということになる。
しかしその奥は、先にも書いたように、「深い」。
日常的な思考の、あらゆる分野にそのまま応用できる。
ひとつの例で考えてみよう。


●パソコンショップの店員


 こういう書き方ができるようになったのは、私もその年齢に達したから、ということ
になる。
パソコンショップの店員には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう
店員を見ていると、ときどき、こう考える。
「だから、どうなの?」
「この人たちは、自分の老後をどう考えているんだろ?」
「もったいないな」と。


 つまりパソコンショップの店員の目的は、パソコンを客に売ること。
しかしそんな仕事を、仮に10年つづけていても、身につくものは何もない。
店が大きくなり、支店がふえれば、支店長ぐらいにはなれるが、そこまで。
だから「だから、どうなの?」となる。


 つぎにパソコンショップの店員たちは、よく勉強している。
その道のプロである。
しかしプロといっても、一般ユーザーの目から見てのプロに過ぎない。
パソコンを自由に操ることはできるが、その先、たとえばプログラミングの仕事とか、
さらには、スーパーコンピュータの操作となると、それはできない。


 そこで私はこう考える。
「こうした知識と経験を使って、別の仕事をしたら、すばらしいのに」と。
たとえばデザインのような、クリエイティブな仕事でもよい。
それが「もったにないな」という気持ちに変わる。


 そこでメタ認知能力の登場!
(1) 自分の置かれた職場環境の把握
(2) その職業を長くつづけたときの、メリット、デメリットの計算
(3) 老後が近づいたときの、将来設計
(4) 収入の具体的な使い道などなど。

 
 そうしたことを順に考え、自分の生活の場で、位置づけていく。
中には、「お金を稼いで、高級車を買う」という人もいるかもしれない。
しかしそれについても、メタ認知能力が関係してくる。
「だから、それがどうしたの?」と。
 高級車を乗り回したからといって、一時的な享楽的幸福感を味わうことは
できる。
が、できても、そこまで。
4~5年もすれば、車は中古化して、当初の喜びも、半減する。


 ……つまりこうしてパソコンショップの店員は、メタ認知能力が少しでもあれば、
「もったいないな」を自覚するようになる。
また自覚すれば、生きざまも変わってくる。
同じ店員をしながらも、ただの店員で終わるか、あるいはつぎのステップに進むか、
そのちがいとなって、現れてくる。


 が、このことは、家庭に主婦(母親)として入った女性についても、言える。


●生きざまの問題に直結


 日常的な作業(=ルーティンワーク)だけをし、またそれだけで終わっていたら、
その女性の知的能力は、(高度)とは、ほど遠いものになってしまう。
電車やバスの中で、たわいもない愚痴話に花を咲かせているオバチャンや、オジチャン
たちを見れば、それがわかる。


 そこで重要なことは、あくまでもメタ認知能力の訓練のためということになるが、
つねに問題意識をもち、(問題)そのものを、身の回りから見つけていくということ。
問題あっての、メタ認知能力である。


 社会問題、政治問題、経済問題、さらには教育問題などなど。
あえてその中に、首をつっこんでいく。
ワーワーと声をあげて、自分で騒いでみる。
私はそのとき、そのつど文章を書くことを提唱するが、これはあまりにも手前みそ過ぎる。
が、(書く)ということは、そのまま(考える)ことに直結する。
ほかによい方法を私は知らないので、やはり書くことを提唱する。


 で、こうして書くことによって、たとえば今、「メタ認知能力」についての理解を
深め、問題点を知ることができる。
同時に、応用分野についても、知ることができる。
こうして自分がもつ知的能力を高めることができる。
そしてそれがその人の生きざまへと直結していく……。


 簡単に言えば、「自分の意識を意識化すること」。
それがメタ認知能力ということになる。

オックスフォード英英辞典によれば、「Meta」は、「higher(より高度の)」「beyond
(超えた)」という意味である。
「より高度の認知能力」とも解釈できるし、「認知能力を超えた認知能力」とも解釈
できる。


 私はこのメタ認知能力の先に、(ヒト)と(動物)を分ける、重大なヒントが隠されて
いるように感ずるが、それは私の思いすごしだろうか?
つまりメタ認知能力をもつことによって、ヒトは、自らをより高いステージへと、自分を
もちあげることができる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 メタ メタ認知能力 metacognitive ability 高度な知的活動)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司


【メタ認知能力】(追記)(Metacognitive Ability)


+++++++++++++++


この数日間、「メタ認知能力」という
言葉に、たいへん興味をもっている。
以前にも何度か、それについて書いた
ことがある。
が、そのときは、それほど
重要視していなかった。
しかしその後、知れば知るほど、
なるほどと思う場面に遭遇した。
「メタ認知能力」……まさに人間だけが
もちうる、最高度の認知能力という
ことになる。


+++++++++++++++++


●食欲とメタ認知能力


 食欲中枢は、脳の中でも視床下部というところにあることがわかっている。
そこにあるセンサーが、血糖値の変動を感知して、食欲を増進させたり、反対に
食欲を減退させたりする。


 しかしこれら2つの働き、つまり(食欲増進)を促す中枢部と、(食欲抑制)を
促す中枢部が、最近の研究によれば、別々のものというところまでわかってきている。
これら2つの中枢部がたがいに連携をとりながら、もう少し具体的には、絶妙なバランス
をとりながら、私たちの(食欲)を、コントロールしている。


●意識を意識する


 もちろん私たちは、こうした知識を、本という(文字)を通して知るしかない。
頭を開いて、その中を見て知るわけではない。
が、想像することはできる。


たとえば空腹感を覚えたようなとき、「血糖値がさがってきたぞ」とか、など。
 血糖値がさがると、胃や腸が収縮し始める。


空腹になると、おなかがグーグーと鳴るのはそのためだが、そうした変化に合わせて、
空腹感がどういうものであるかを知る。


 このとき、「ああ、腹が減ったなあ」だけでは、メタ認知能力はないということに
なる。
が、このとき、自分の脳みその中の変化を、想像してみる。
「ああ、今、食欲増進中枢部が働いているぞ」
「今度は、食欲抑制中枢部が働いているぞ」と。


 こうして自分の意識を、別の意識で客観的に評価する。
それをする能力が「メタ認知能力」ということになる。


●2つの働き


 これもひとつのメタ認知能力ということになるのか。
たとえば講演などをしているとき、自分の脳の中で、2つの働きが同時に起きている
のがわかる。
ひとつは、講演の話の内容そのものを考えること。
「この話には、異説があるので、注意しよう」とか、「この話は、もう少し噛み砕いて
話そう」とか、考える。


 もうひとつは、話しながらも、「残り時間があと20分しかないから、少し結論を
急ごう」とか、「つぎにつづく話は、途中で端折ろう」とか、時間を意識すること。
この両者が、交互というよりは、同時進行の形で働く。


 つまり講演している私を、別の意識が客観的にそれをみて、私にあれこれと命令を
くだす。


●知的能力


 教育の世界の話になると、ぐんと具体性を帯びてくる。
たとえば今、掛け算の九九練習している子ども(小2)を、頭の中で想像してみてほしい。
その子どもは懸命に、「二二が4、二三が6……」と暗記している。
そのとき子どもは、「なぜそれを学習しているのか」「なぜそれを学習しなければならな
いのか」「学習したら、それがどう、どのように役立っていくのか」ということについては、
知る由もない。


 「掛け算は覚えなければならない」という意識もない。
ないから、先生や親に言われるまま、暗記する……。


 これは子どもの世界での話だが、似たような話は、おとなの世界にも、いくらでもある。
またその程度の(差)となると、個人によってみなちがう。
言い換えると、メタ認知能力の(差)こそが、その人の知的能力の(差)ということにな
る。


●自己管理能力とメタ認知能力


 たとえば若い男性の前に、裸の女性が立ったとする。
かなり魅力的な、美しい女性である。
そのとき若い男性が、それを見てどのように反応し、つぎにどのような行動に出るかは、
容易に察しがつく。


 が、そのときその若い男性が、自分の中で起きつつある意識を、客観的にながめる
能力をもっていたとしたら、どうだろうか。


「今、視床下部にある性欲本能が、攻撃的な反応を示し始めた」
「ムラムラと湧き起きてくる反応は、食欲増進反応と同じだ」
「今、ここでその女性と関係をもてば、妻への背信行為となる」など。
いろいろに考えるだろう。


 こうしてメタ認知能力をもつことによって、結果的に、大脳の前頭連合野が分担する、
自己管理能力を、より強固なものにすることができる。


●スーパーバイザー


 「意識を意識する」。
それがメタ認知能力ということになるが、もう少し正確には、「意識を意識化する」という
ことになる。


 もちろんその日、その日を、ただぼんやりと過ごしている人には、(意識)そのものが
ない。
「おなかがすいたら、飯を食べる」
「眠くなったら、横になって寝る」
「性欲を覚えたら、女房を引き寄せる」と。


 が、そうした意識を、一歩退いた視点から、客観的に意識化する。
言うなれば、「私」の上に、スーパーバイザー(監督)としての「私」を、もう1人、置く。
置くことによって、自分をより客観的に判断する。
たとえば……。


 「今日は寒いから、ジョギングに行くのをやめよう」と思う。
そのときそれを上から見ている「私」が、「ジョギングをさぼってはだめだ」
「このところ運動不足で、体重がふえてきている」「ジョギングは必要」と判断する。
そこでジョギングをいやがっている「私」に対して、「行け」という命令をくだす。
言うなれば、会社の部長が、なまけている社員に向かって、はっぱをかけるようなもの。
部長は、社員の心理状態を知り尽くしている。


●うつを知る


 メタ認知能力は、訓練によって、伸ばすことができる。
私なりに、いくつかの訓練法を考えてみた。


(1) そのつど、心(意識)の動きをさぐる。
(2) それが脳の中のどういう反応によるものなのかを知る。
(3) つぎにその反応が、どのように他の部分の影響しているかを想像する。
(4) 心(意識)の動きを、客観的に評価する。
 この方法は、たとえば(うつ病の人)、もしくは(うつ病的な人)には、とくに
効果的と思われる。
(私自身も、その、「うつ病的な人」である。)


 というのも、私のようなタイプの人間は、ひとつのことにこだわり始めると、そのこと
ばかりをずっと考えるようになる。
それが引き金となって、悶々とした気分を引き起こす。


 そのときメタ認知能力が役に立つ。
「ああ、これは本来の私の意識ではないぞ」
「こういうときは結論を出してはいけない」
「気分転換をしよう」と。


 すると不思議なことに、それまで悶々としていた気分が、その瞬間、とてもつまらない
ものに思えてくる。
と、同時に、心をふさいでいた重い気分が、霧散する。


●メタ認知能力


 メタ認知能力を養うことは、要するに「自分で自分を知る」ことにつながる。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。


「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている。
が、実のところ、そう思い込んでいるだけで、自分のことを知っている人は、ほとんど
いない。


(私が断言しているのではない。
あのソクラテスがそう言っている。)


 が、メタ認知能力を養うことによって、より自分のことを客観的に知ることができる。
「私は私」と思っていた大部分が、実は「私」ではなく、別の「私」に操られていた
ことを知る。
それこそが、まさに『無知の知』ということにもつながる。


 もちろん有益性も高い。
その(有益性が高い)という点で、たいへん関心がある。
応用の仕方によっては、今までの私の考え方に、大変革をもたらすかもしれない。
またその可能性は高い。


 しばらくはこの問題に取り組んでみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 メタ認知能力 Metacognitive Ability)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司


【自己管理能力】


●前頭連合野


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前頭連合野は、言うなれば、知性と理性のコントロール・センター。
その働きを知るためには、ひとつには、「夢」の内容を知るという方法
がある。
夢を見ているときには、前頭連合野は、働いていない。
そのため、人は、支離滅裂な、前後に脈絡のない夢を見る。
言い換えると、もし前頭連合野の働きが弱くなれば、私たちの思考は、
ちょうど夢を見ているような状態になる。
もしそうなれば、自分でも、何をどう考えているか、さっぱりわからなく
なるだろう。
もちろん自分の考えをまとめることさえできない。
電車に乗り遅れる夢を見るように、ただあわてふためくだけで、それで
終わってしまう。
いつもの私の夢が、そうだ。


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●前頭連合野


 人間の脳みその、約3分の1は、前頭連合野と呼ばれる部分だそうだ。
人間は、とくにこの部分が発達している。
そのため、猿やチンパンジー、古代人の骨格と比べても、人間の額は大きく、広い。
言うなれば、知性と理性のコントロール・センター。
それがこの前頭連合野ということになる。
が、もしこの前頭連合野の働きが鈍くなったら・・・。


 私たちの思考は、ちょうど夢を見ているときのような状態になると考えられる。
というのも、人間が眠っている間というのは、前頭連合野も、眠った状態になっている。
反対に、そのことから、前頭連合野の働きを、私たちは知ることができる。


●今朝の夢


 実のところ、今朝の夢というのは、よく覚えていない。
夢というのは不思議なもので、半日もたつと、それが今朝の夢だったのか、それとも何日
も前に見た夢だったのか、わからなくなる。
 が、今朝見た夢は、こんなものだった。


 山の中の、どこかの駅に向かっている。
新幹線の中のようだが、窓がなく、貨物室のようになっている。
それが川沿いを走ったり、山の中を走ったりしている。
ところどころ線路が切れているが、新幹線は、そのまま走り続けている。
が、やがて、森のようなところをぐるりと回ったところで、新幹線は止まる。


 中央にプラットフォームがあって、その向こうには、別の電車が待っている。
ローカル線である。
切符を買うために、駅舎へ向かうが、料金がわからない。
長野を通って、仙台へ行く・・・というようなことを、私は話している。
途中、高い山を電車は越えるらしい。
山の途中には、ひなびた温泉街がいくつも並んでいる・・・。


●小鳥の思考


 理屈で考えれば、矛盾だらけの夢である。
夢の内容に連続性がない。
それに非合理。


 そこで私は、ふとこう考えた。
前頭連合野がまだ未発達だったころの人間は、こうした思考方法を、日常的にしていたの
ではないか、と。
 もちろん目の前に見える(現実)に対しては、現実的な行動をする。
餌となる食べ物があれば、それを口にするまでの行動を開始する。
危険が迫れば、それを回避するための行動を開始する。
しかしこと(思考)ということになると、それをまとめあげ、合理的に判断し、前後を論
理的につなげる能力はない。
恐らく、目を閉じたとたん、私たち人間が夢を見ているときのような状態になるのではな
いか。


 ミミズが地面をはっている。
その横に、大きな木の枝がある。
木の枝の中には、おいしそうな種がいっぱいつまっている。
それを高い空を飛びながら、上から見ている、と。
 小鳥なら、きっとそんな光景を思い浮かべるかもしれない。
もちろん言葉もないから、それを的確に、別の鳥に知らせることもできない。


●理性の源泉


 が、人間のばあいは、目を閉じても、それで前頭連合野の活動がそこで停止するわけで
はない。
目を閉じていても、言葉を使って、ものごとを論理的に考え、理性的な判断をくだすこと
ができる。
それがしっかりとできる人のことを、理性的な人といい、そうでない人を、そうでない人
という。
程度の差は、当然、ある。
言うなれば、神に近いほど、理性的な人もいれば、反対に、動物に近いほど、そうでない
人もいる。
その(ちがい)は何によって生まれるかといえば、結局は行きつくところ、(日々の鍛錬)
ということになる。


 このことは幼児期前期の子どもたちを見れば、よくわかる。
エリクソンが、「自律期」と名づけた時期である。


●自律期


 年齢的には、満2歳から4歳前後ということになっている。
実際には、乳幼児期を脱し、少年少女期へ移行する、その前の時期までということになる。
この時期の子どもは、親や先生に言われたことを忠実に守ろうとする。
この時期をとらえて、うまく指導すると、いわゆる(しつけ)がたいへんしやすい。
が、この時期に、(いいかげんなこと)をしてしまうと、子どもはやがて、ドラ息子、ドラ
娘化する。


 ものの考え方が享楽的になり、自己が発する欲望に対して、歯止めがきかなくなる。
わがままで、自分勝手。


感情のコントロールさえ、ままならなくなる。


 つまりこの時期に、前頭連合野の働きが活発になり、ある程度の形がその前後に形成さ
れると考えてよい。
もちろんそれ以後も、前頭連合野の形成は進むだろうが、原型は、その前後に形成される
と考えてよい。


●夢と前頭連合野


 そこでこう考える。
夢の中でも、前頭連合野を機能させることはできないものか、と。
しかしそれでは、睡眠が妨げられることになる。
ただ、ときどき、ほとんど起きがけのころだが、夢と現実が混濁するときがある。
そういうときというのは、かなり理性的な判断(?)ができる。
「これは夢だぞ」と、自分で、それがわかるときさえある。
あるいはこんなこともあった。


 この話は少し前にも書いたが、こんな夢を見たことがある。


 歩いていて、その男女の乗った車に、体をぶつけてしまった。
中から男が出てきて、ワーワーと大声を出して、私に怒鳴った。
で、私は目を覚ましたが、そのときのこと。
私はそれが夢だったと知り、もう一度、夢の中に戻りたい衝動にかられた。
夢の中に戻って、その男女の乗った車を、足で蹴飛ばしてやりたかった。
 が、このとき、脳のほとんどは覚醒状態にあったが、前頭連合野だけは、まだ半眠の状
態であったと考えられる。
前頭連合野が正常に機能していたら、「蹴飛ばしてやる」ということは考えなかったかもし
れない。
それ以前に、「夢は夢」と、自分から切り離すことができたはず。


 ・・・などなど。


前頭連合野の働きをわかりやすく説明してみた。
今度の高校生のクラスで、こんな話を、子どもたちにしてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 前頭連合野 前頭前野 理性の府 夢と理性)


【薬物療法】(フィードバック現象)(自己管理能力に関して)


【ある中学校での講演での要旨】


++++++++++++++++


先日、中学校での講演のレジュメを
考えた。


で、その一部を、中学生たちにして
みたら、みな、「つまらない」と。


そこでそのレジュメは、ボツ!


そこで改めて、考えなおしてみる。


(荒削りの未完成レジュメなので、
その点を含みおきの上、お読みくだ
さい。)


++++++++++++++++


●初恋


 私は、中学生になるまで、女の子と遊んだ経験がない。当時は、そういう時代だった。
女の子といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」と、みなにからわかわれた。
私も、からかった。


 その私が、中学2年生のときに、初恋をした。相手は、恵子(けいこ)さんという、す
てきな人だった。


 毎日、毎晩、考えるのは、その恵子さんのことばかり。家にいても、恵子さんの家のほ
うばかり見て、ときには、ボーッと何時間もそうしていた。恵子さんの家のあたりの空だ
けが、いつも、虹色に輝いていた。


 で、ある日、私は思い立った。そして恵子さんに電話をすることにした。


 私は10円玉をもって、電車の駅まで行った。公衆電話はそこにしか、なかった。家に
も電話はあったが、家ですると、親に見つかる。


 私は高まる胸の鼓動を懸命におさえながら、駅まで行った。そして電話をした。それは
もう、死ぬようない思いだった。

 で、電話をすると、恵子さんの母親が出た。私が、「林です。恵子さんはいますか?」と
電話をすると、母親が電話口の向こうで、恵子さんを呼ぶ声がした。「恵子、電話よ!」と。


 心臓の鼓動はさらに、高まるばかり。ドキドキドキ……と。


 そしてその恵子さんが、電話に出た。そしてこう言った。


 「何か、用?」と。


 そのときはじめて、私は気がついた。私には、何も用がなかった。ただ電話をしたかっ
ただけ。だから、その電話はそれでおしまい。私は何も言えず、電話を切ってしまった。


●フェニルエチルアミン


 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。


 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。


その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、
麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、
それほど長くない。短い。


 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その
物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなって
しまう。


しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌され
ない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづ
くことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに
慣れてしまう。


 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。


 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。


●リピドー(性的エネルギー)


 このフェニルエチルアミン効果と同時進行の形で考えなければならないのが、リピドー、
つまり、「性的エネルギー」である。


 それを最初に言い出したのが、あのジークムント・フロイト(オーストリアの心理学者、
1856~1939)である。


 「リピドー」という言葉は、精神分析の世界では、常識的な言葉である。「心のエネルギ
ー」(日本語大辞典)のことをいう。フロイトは、性的エネルギーのことを言い、ユングは、
より広く、生命エネルギーのことを言った。


 人間のあらゆる行動は、このリピドーに基本を置くという。


たとえばフロイトの理論に重ねあわせると、喫煙しながらタバコを口の中でなめまわすの
は、口愛期の固着。自分の中にたまったモヤモヤした気分を吐き出したいという衝動にか
られるのは、肛門期の固着。また自分の力を誇示したり、優位性を示したいと考えるのは、
男根期の固着ということになる。(固着というのは、こだわりと考えると、わかりやすい。)


 つまり、フロイトは、私たちのあらゆる生きる力は、そこに異性を意識していることか
ら生まれるというのだ。


 男が何かに燃えて仕事をするのも、女がファッションを追いかけたり、化粧をするのも、
その根底に、性的エネルギーがあるからだ、と。


●性的エネルギー


 このことと、直接関係あるかどうかは知らないが、昔、こんな話を何かの本で読んだこ
とがある。


 あのコカコーラは、最初、売れ行きがあまりよくなかった。そこでビンの形を、それま
でのズン胴から、女体の形に似せたという。胸と尻の丸みを、ビンに表現した。とたん、
売れ行きが爆発的に伸び、今のコカコーラになったという。


 同じように、ビデオも、インターネットも、そして携帯電話も、当初、その爆発の原動
力となったのは、「スケベ心」だったという。そう言えば、携帯電話も、電子マガジンも、
出会い系とか何とか、やはりスケベ心が原動力になって、普及した?


 東洋では、そしてこの日本では、スケベであることを、恥じる傾向が強い。仮にそうで
あっても、それを隠そうとする。しかし人間というのは、ほかの動物たちと同じように、
基本的には、異性との関係で生きている。つまりスケベだということ。


 人間は、この数一〇万年もの間、哲学や道徳のために生きてきたのではない。種族を後
世へ伝えるために生きてきた。「生き残りたい」という思いが、つまりは、スケベの原点に
なっている。だから、基本的には、人間は、すべてスケベである。スケベでない人間はい
ないし、もしスケベでないなら、その人は、どこかおかしいと考えてよい。


 問題は、そのスケベの中身。


●善なるスケベ心


 ただ単なる肉欲的なスケベも、スケベなら、高邁な精神性をともなった、スケベもある。
昔、産婦人科医をしている友人に、こんなことを聞いたことがある。


 「君は、いつも女性の体をみているわけだから、ふつうの男とは、女性に対して違った
感情をもっているのではないか。たとえばぼくたちは、女性の白い太ももを見たりすると、
ゾクゾクと感じたりするが、君には、そういうことはないだろうな」と。


 すると彼は、こう言った。「そうだろうな。そういう意味での、興味はない。ぼくたちが
女性に求めるのは、体ではなく、心だ」と。


 たぶん、その友人がもつスケベ心は、ここでいう高邁な精神性をともなったスケベかも
しれない。


 では、私にとっての性的エネルギー(リピドー)は、何かということになる。


 私は、それはひょっとしたら、若いころの、不完全燃焼ではないかと思うようになった。
私は若いころは、勉強ばかりしていた。大学時代は、同級生は、全員、男。まったく女気
のない世界だった。その前の高校時代は、さらに悲惨だった。私は、まさに欲求不満のか
たまりのような人間だった。


 だから心のどこかで、いつも、チクショーと思っている。その思いは、いまだに消えな
い。そしてそれが、回りまわって、今の私の原動力になっている? そう言えばあの今東
光氏も、昔、私にそう話してくれたことがある。彼もまた、若いころは、修行、修行の連
続で、青春時代がなかったと、こぼしていた。


 何はともあれ、私たちは、いつも、異性を意識しながら生きている。男がかっこうを気
にしたり、女が化粧をしたりするのも、原点は、そこにある。そしてそういう原点から、
それぞれが、つぎのステップへと進む。あらゆる文化は、そうして生まれた。哲学にせよ、
道徳にせよ、あくまでも、その結果として生まれたに過ぎない。


 さあ、世の男性諸君よ。女性諸君よ。それに中学生諸君よ、スケベであることを、恥じ
ることはない。むしろ、誇るべきことである。もし、心も体も、健康なら、あなたは、当
然、スケベである。もしあなたがスケベでないなら、心や体が病んでいるか、さもなけれ
ば、死んでいるかのどちらかである。


 あとはそのスケベ心を、善なるスケベ心として、うまく昇華すればよい!


●自我構造理論


 が、それがむずかしい。この性的エネルギーというのは、基本的には、快楽原理の支配
下にある。油断をすれば、その快楽原理に溺れてしまう。


一方、その私はどうかというと、私も、ふつうの人間。いつもそうしたモヤモヤとした快
楽原理と戦わなくてはならない。しかしそれを感じたとたん、「邪悪な思い」と片づけて、
それをまた心のどこかにしまいこんでしまう。


 こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うま
く説明できる。


 私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネ
ルギーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、
理性もない。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。


 そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」とい
う理性である。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑
制する。


●イドと自我の戦い
 

しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の働
きが強ければ、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと思わ
れる。


 同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)
でも、説明できる。


 今回は、みなさんに、そのEQテストなるものをしてみたい。(後述)


 EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程
度、(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴール
マンは、(1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)
他人への思いやり、(5)人間関係の5つをあげた。)


 つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということにな
る。


●教師という仮面


 ところで、教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といっ
てもよい。おおかたの人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であると
いう前提で、ものを考える。接する。


 そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接す
る。しかしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性
がある。こんなことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、
まったく分離してしまうということは、危険なことでもある。


 ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。


 そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演
じていると、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、
弱い。長く、つづけることはできない。


●自己管理能力


 人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)
はどこにあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと
言えば、自我のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうで
ない人を、(見かけ上、すばらしい人)という。


 さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうた
めに、こんな話を書きたい。


●思春期に肥大化するイド


 昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。


 私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていっ
た。黒い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。


 その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車
がいないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。


 最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼
児ほど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、
子どもは、とたんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。


 なぜか?


 それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。


 思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはド
ロドロとした欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我の
もつ管理能力が低下する。


 言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当に
すばらしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い
(?)。


●では……


 ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。


 最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らな
ければならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみど
ころがない。ドロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イド
は、私の生きる原動力となっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこか
ら生まれる。


 そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を
抱きたい」「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。


 イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンの
ようなもの。


 そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドル
をとりつける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコント
ロールする部分が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、
しかしそう考えると、(私)というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、
そうしてできあがった、(車)のようなもの、ということになる。


 つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)と
いうことになるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボ
ロで、故障ばかり繰りかえす……。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自我
構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)


●エスの人


 さらに話を進めたい。


フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、
(3)エスの人に分けた。


 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。


 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あな
たとのセックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっ
ては、セックスは、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう
割り切って、その場を楽しむ。その女性と、セックスをする。


 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。


 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の
人生をけがすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちも
ないわけではない。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。


 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。


 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、
何度か浮気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするの
が男」と考えて、その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。


 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に同居する。完全に超自我の人はいない。
いつもいつもエスの人もいない。


 これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。


 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。


 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけ
て食べてしまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲
んでしまいました」と。


 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していい
ことと悪いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝
動的。その場だけを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイ
ト人生を送っているという。


 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強
い人」ということになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、そ
の自我の確立が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考え
てよい。もう少し専門的には、精神の内面化が遅れた。


 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、
かかっている。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールす
るしかない。外の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人
にとっては、そうだ。


 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの
人を、「カタブツ人間」という。


 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大
切なのは、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談
も言いあう。しかし守るべき道徳や倫理は守る。


 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、
Fさんの相談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれ
ないが、私には、どうしてよいか、わからない。(ごめんなさい!)


●話を戻して……


 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。


(1)横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2)駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3)電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4)ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5)サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。


 (1)~(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトが
いうところの「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れ
ている人とみる。つまりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あ
なたの夫か、妻なら、そもそも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もし
それがあなたなら、あなたがこれから進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。


 反対に、そうでなければ、そうでない。


●オーストラリアでの経験


 私のオーストラリアの友人に、B君がいる。そのB君と、昔、こんな会話をしたことが
ある。南オーストラリア州からビクトリア州へと、車で横断しようとしていたときのこと
である。私たちは、州境にある境界までやってきた。


 境界といっても、簡単な標識があるだけである。私は、そのとき、車の中で、サンドイ
ッチか何かを食べていた。


B君「ヒロシ、そのパンを、あのボックスの中に捨ててこい」
私 「どうしてだ。まだ、食べている」
B君「州から州へと、食べ物を移してはいけないことになっている」
私 「もうすぐ食べ終わる」
B君「いいから捨ててこい」
私 「だれも見ていない」
B君「それは法律違反(イリーガル)だ」と。


 結局、私はB君の押しに負けて、パンを、ボックスの中に捨てることになったが、この
例で言えば、B君は、超自我の人だったということになる。一方、私は自我の人だったと
いうことになる。


 で、その結果だが、今では、つまりそれから36年を経た今、B君は、私のもっとも信
頼のおける友人になっている。一方、私は私で、いつもB君を手本として、自分の生き方
を決めてきた。私は、もともと、小ズルイ人間だった。


●信頼関係は、ささいなことから


 私とB君とのエピソードを例にあげるまでもなく、信頼関係というのは、ごく日常的な
ところから始まる。しかも、ほんのささいなところから、である。


先にあげた(テスト)の内容を反復するなら、(1)横断歩道でも、左右に車がいなくても、
信号が青になるまで、そこで立って待つ、(2)駐車場に駐車する場所がないときは、空く
まで、じっと待つ、(3)シルバーシートには、絶対、すわらない、(4)ゴミや空き缶な
どは、決められた場所以外には、絶対に捨てない、(5)サイフは拾っても、中身を見ない
で、交番や、関係者(駅員、店員)に届ける。そういうところから、始まる。


 そうしたことの積み重ねが、やがてその人の(人格)となって形成されていく。そして
それが熟成されたとき、その人は、信頼に足る人となり、また人から信頼されるようにな
る。


 先のB君のことだが、最近、こんなことがあった。ここ数年、たてつづけに日本へ来て
いるが、車を運転するときは、いつもノロノロ運転。「もっと速く走っていい」と私が促す
と、B君は、いつも、こう言う。


 「ヒロシ、ここは40キロ制限だ」「ここは50キロ制限だ」と。


 さらに横断歩道の停止線の前では、10~20センチの誤差で、ピッタリと車を止める。
「日本では、そこまで厳格に守る人はいない」と私が言うと、B君は、「日本人は、どうし
て、そうまでロジカルではないのだ」と、逆に反論してきた。


 「ロジカル」というのは、日本では「論理的」と訳すが、正確には「倫理規範的」とい
うことか(?)。


 しかしこうした経験を通して、私は、あらゆる面で、ますますB君を信頼するようにな
った。


●友人との信頼関係


 友人の信頼関係も、同じようにして築かれる。そして長い時間をかけて、熟成される。
しかしその(はじまり)は、ごく日常的な、ささいなことで始まる。


 ウソをつかない。約束を守る。相手に心配をかけない。相手を不安にさせない。こうし
た日々の積み重ねが、週となり月となる。そしてそれが年を重ねて、やがて、夫婦の信頼
関係となって、熟成される。


 もちろんその道は、決して、一本道ではない。


 ときには、わき道にそれることもあるだろう。迷うこともあるだろう。浮気がいけない
とか、不倫がいけないとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。大切なことは、
仮にそういう関係をだれかともったとしても、その後味の悪さに、苦しむことだ。


 その苦しみが強ければ強いほど、「一度で、こりごり」ということになる。実際、私の友
人の中には、そうした経験した人が、何人かいる。が、それこそ、(学習)。人は、その学
習を通して、より賢くなっていく。


●超自我の世界


 フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう
一つの自我、つまり(超自我)があるという。


 この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。


 たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。しかし
あいにくと、お金がない。それを手に入れるためには、盗むしかない。


 そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人
の自分が、「待った」をかける。「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れ
られるぞ」と。そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。


 このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。ボケ方にもいろいろあるよ
うだが、ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。つまりその老人は、気が向く
まま、思いつくまま、行動するようになる。


 ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。


●シャドウ


 もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであ
れば、それが超自我となって、その母親に作用するようになる。母親は無意識のまま、そ
れがよいことだと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。


 そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわ
けではないが、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いてし
まう。そしてそれが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、離
れていく。「何だ、お母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。


 だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子ども
が、かえって、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放
化したりすることなどがある。非行に走るケースも珍しくない。


 それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。が、それだけでは、
しかしではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。


 そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。


 子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我を自分のも
のにしてしまう。もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に根ざしたものであ
れば問題はない。


 子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。しかしたいていの
ばあい、この超自我には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。その醜い部分だ
けを、子どもが引きついでしまう。


 それがシャドウということか。


 話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。


つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操ってい
る、もう1人の(私)がいるということ。簡単に考えれば、そういうことになる。


 そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用
しない。つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。


 そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子ども
ではなく、親自身の(超自我)ということになる。昔から日本では、『子は親の背中を見て
育つ』というが、それをもじると、こうなる。


 『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。親が自分をしつけな
いで、どうして子どもをしつけることができるのかということにもなる。


 話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えて
みたい。


●【EQ】


 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emo
tional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指
数」では、主に、つぎの3点を重視する。


(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性


 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。


 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。


●行動面の管理能力


 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管
理能力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果
たせない。


 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを
行動に移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階にな
っても、その時点で、これまた迷うかもしれない。


 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊し
た例としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その
人の生死にかかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、
自殺行為も、それに含まれるかもしれない。


 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよ
う。


そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほう
がよい」という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くに
しても、「いやだ」という思いと戦わねばならない。


 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをす
すめられて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に
染まりやすい子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。


 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)
という、行動面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとでき
るかどうかで、その人の人格の完成度を知ることができる。


 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自
我の人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。


●精神面の管理能力


 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐
怖症、飛行機恐怖症など。


 精神的な欠陥もある。


 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判で
きなくなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に
似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかも
しれない。)


 具体的には、パニック状態になってしまう。


 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与
える。


 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身を
コントロールしていくということ。


 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そ
ういうとき、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、
そんなわけで、そういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをお
りたとたん、ヘナヘナと地面にすわりこんでしまうこともある。


 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされ
る。「わかっているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私
の人格の完成度は、低いということになる。


●感情面の管理能力


 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い
人ということになる。


 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がない
ことにより、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、
ふだんは、快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。


 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。
その人はいつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、ど
うしても足が遠のいてしまう。


 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のド
ラマをつくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するか
である。


 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワ
イフは、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになる
が、感情的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出し
て、相手を罵倒したのを、見たことがない。)


 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまっ
て……」ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。


 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、
結局は、だめだった。


 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そ
のつど、自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くという
のは。とてもよいことだと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。


 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、
その場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。


(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の
機会に考えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 
人格の完成)


+++++++++++++++++++++


ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて、
それを診断テストにしたのが、
つぎである。


****************

【子どもの心の発達・診断テスト】


****************


【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)


●社会適応性


 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。


(1)共感性


Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。


○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力


Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは
……


○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力


Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子
どもは
……。


○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ


Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。


○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)


(5)楽観性


Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子ど
もは…
…。


○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……


○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)


***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の
高い子どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてある。集計結果などは、
HPのほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。当日、会場で、診断テスト実
施。)


***************************


●順に考えてみよう。


(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーター
が、「共感性」ということになる。


 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲
しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。


 その反対側に位置するのが、自己中心性である。


 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、
その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。


 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さ
らにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、
権威主義、世間体意識へと、変質することもある。


(2)自己認知力


 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私
は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。


 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているか
わからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっ
きりしない。優柔不断。


反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っ
ていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示
すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。


(3)自己統制力


 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子
どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。


 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらに
ためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。


 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけ
のために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわ
らず、お菓子をみな、食べてしまうなど。


 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口
にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統
制力の弱い子どもとみる。


 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制
力に分けて考える。


(4)粘り強さ


 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界
を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。


 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題
のある子どもでも、短気な子どもは多い。


 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気に
なる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ
子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。


 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。


(1)楽観性


 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向き
に、ものを考えていく。


 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしな
ところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、
悩んだりすることもある。


 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。


 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲
気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。


 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観
的と言えば、楽観的。超・楽観的。


 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア~い」
と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。
さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、
しかたないでしょう」と。


 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、
考える人もいる。


(2)柔軟性


 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。


 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。


 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくな
になる、かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何ら
かの問題がある子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。


 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをし
なかっ
た子どもがいた。


 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚
園でも、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。


 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまって
しまう子どもがいた。


 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」
と、最後までがんばった子どもがいた。


 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができ
る。柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)


●終わりに……


 私は私と考えている人は多い。しかし本当のところ、その「私」は、ほとんどの部分で、
「私であって、私でない部分」によって、動かされている。


 その「私であって私でない部分」を、どうやって知り、どうやってコントロールしてい
くか。それができる人を、自己管理能力の高い人といい、人格の完成度の高い人という。
そうでない人をそうでないという。


 思春期は、それ自体、すばらしい季節である。しかしその思春期に溺れてしまってはい
けない。その思春期の中で、いかに「私」をつくりあげていくか。それも、思春期の大切
な柱である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
思春期 自我構造理論 中学生)


●おまけ


 当日の人格完成度テストで、満点もしくは、それに近い点数を取った子どもには、私の
本をプ
レゼントする予定。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自己管理能力 学習指導困難児 フィードバック)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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よろしくお願いします。              はやし浩司
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.       ○ ~~~\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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2010年5月28日金曜日

*BW Children's Club (Numbers)

【5歳児・大小感覚+数の大小】

●BW教室より、おうちの方へ


今週は、大小感覚+数の大小についての学習を進めました。
途中、ひとり声をあまり出さない子どもがいましたので、
何とか声を出させようと、ややふざけたシーンもありますが、
許してください。
(これも指導のうち?、です。)

大小弁別→相対的な見方、考え方→数の大小と学習を進めました。
子どもたちが「数は楽しい」と思ってくれたら、それで成功!
あとは子どもたちは自分の力で伸びてくれます。

(1)


(2)



(3)



(4)



(5)



(6)




●直接「BW公開教室」へ来てくださる方は、
  
  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

より、どうぞ!


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●愛情の勝利(2人のてんかん症の子どもをもって)

+++++++++++++++++

現在、小学3年生のM男君と、小学
6年生のS男君が、同じ教室で
肩を並べて、学習している。
私の教室へ来るようになって、もう
5、6年になる。

そのM男君と、S男君のすばらしい点は、
何よりも、心が暖かいこと。
だれよりも、心が暖かいこと。
ほかの子どもたちと比較してみると、それが
よくわかる。
比較してみないと、わからない。
子どもが生来的にもつ(温もり)というのは、
そういうもの。

理由は、もちろん、愛情豊かな家庭環境で
育てられたこと。
とくに母親の、子どもたちにかける愛情が
すばらしい。
何もかも溶かし込んでしまうような、
おおらかな愛情で、お母さんはいつも
子どもたちを包んだ。

もちろん溺愛ではない。
テストの点数がどんなに悪くても、お母さんは、
いつも笑っていた。
そういうおおらかさである。

が、M男君も、S男君も、ともに、
小児てんかん症に苦しんだ。
長い闘病生活だった。
が、お母さんはめげなかった。
いつも明るい笑顔を絶やさなかった。
その病気についても、勉強した。
結果、「この子たちは叱ってはだめ」という
ことを学んだ。
だから父親には、いつもこう言ったという。

「お願いだから、どんなことがあっても、
この子たちを、叱らないで」と。
それがお母さんの口癖だったという。

その結果、……というより、こんなメールが
届いた。
読んだ。
うれしかった。
そのまま紹介する。
(一部省略したものの、原文のまま。)

バンザーイ!
おめでとう!
お母さんの勝利ですよ!!

++++++++++++++++++++++++++

●林先生へ

おはようございます!

昨夜は、楽しいお話を聞かせていただき、有難うございました。
こちらこそお礼の連絡が遅くなり、
お詫びのメールまで頂いて、申し訳ありません。

弟のM男(小3)ですが、てんかんの症状が脳波にでなくなり、
薬(テグレトール)の服用を終了しました。
5/10で終了し、そろそろ薬の効果が消えている頃だとおもいます。

兄のS男(小6)が発病してから弟のM男もなり、その間8年間本当につらかったですが、
一番辛かったのは、毎日薬を飲んでいた本人達でしょう。
(二人とも最後の薬を飲んだ後、万歳しました。)

昨年夏S男は完治し、M男も今年の夏の検査で脳波に以上が無ければ、
完治に至ります。(病院に行かなくて良くなります)

「現実を受け入れる」中々出来なかったけど、
振り返れば、生きていく事の辛さや大切さを学んできたと思います。

仕事に追われる中、留守がちな母ですが、
今もまだ「本当にこれでいいのかな?」と思いながら
毎日を大切に生活してます。

まだまだ親子共々未熟ですが、はやし先生にお世話になりながら、
先生にお願いしたいと思います。

これからも、宜しくお願いします。

☆弟のM男の成長!!!

 昨年まで、授業態度を参観会で見ていたところ、
席に座っているのがやっとの事!(一人殻に閉じこもった状態)
授業なんて全然聞いていませんでした。

 今年4月の参観会では、回りの友達と楽しそうに話していて、
授業を聞いていないけど、ようやく授業に溶け込んでいる姿を見ました。
 嬉しかったです!

学校の先生方と色々ありましたが、明らかに変わった姿
M男は、担任の先生が好きなようで、話をしてくれます。
「今度の先生!美人だよ」って始業式に話してくれました。

 これからも二人の成長がたのしみです。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

*Magazine dated May 28th

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 28日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●Joy & Happiness

++++++++++++++++++++++++

英語の文章を読んでいたら、英語国では、「Joy(喜び)」と、
「Happiness(幸福)」を、使い分けて考えて
いることがわかった。
Joy、イコール、Happinessではない。
ある賢人は、こう書いている。

「Joyは、液体的なもの。Happinessは、
固形的なもの」と。

ワイワイと喜ぶのを、Joyというのなら、Happiness
は、静かなもの。
Joyは一時的なものだが、Happinessは、その人の
根底をささえるもの。
Joyは目に見えて、わかりやすいが、Happinessは、
それを失ったときに、それがわかるもの。
それまでは空気のようなもの。
目立たず、あなたの周囲で、ひっそりとたたずんでいる。

……とまあ、いろいろに解釈できる。

+++++++++++++++++++++++++

●大切なのは「今」

 幸福を考えるとき、皮肉なことに、犬の生き方を見ていると、おおいに参考になる。
犬は、その日、その日を懸命に生きている。
そこにあるのは、「今」という現実だけ。

 たとえばうちのハナ(犬、ポインター種)は、今年で、満14歳になる。
7倍すると人間の年齢に相当するそうだ。
だから人間の年齢にすると、98歳ということになる。
が、「死ぬ」ということに、何ら恐れを抱いているようには見えない。
「死ぬ」という概念すら、もっていない(?)。

 長い間、相棒だったもう一匹の犬は、6、7年前に死んだ。
「相棒」というよりは、母親的な存在だった。
さぞかしさみしいだろうなと思って、あれこれと気をつかった。
しかしそれほどショックを受けたようには、見えなかった。

●懸命に生きる

 「死」を考えるから、人生に、閉塞感が生まれる。
だからといって「死」を軽んじろということではない。
しかし生きている間は、「死」のことなど、気にしない。
気にしても、どうしようもない。
仮にあなたが今、健康で、仕事をし、家族がいるなら、「死」のことなど、気にしない。
「今、生きている」。
それだけを考え、あとは前向きに生きていく。

 そのときは、そのとき。
死がやってきたときは、そのとき。
そうでなければ、犬のように生きればよい。
その日、その日を、懸命に生きればよい。

●回顧性

 満55歳前後から、人は、それまでの展望性から回顧性へと、人生観が変化していく。
わかりやすく言えば、生き様が、うしろ向きになる。
過去ばかりを、振り返るようになる。
これには、理由がある。

 脳みそについて言えば、後半期(recent)に蓄えた記憶ほど、先に消失していく。
そのため古い記憶ほど、脳みその中に残る。
だから歳を取れば取るほど、若いころ、さらには子どものころの記憶が、より強く
思い出されるようになる。
あるいは子どものころの記憶だけになる。
それが回顧性へと、つながっていく。

 私の知人の中には、50歳になったばかりというのに、墓参りばかりしている人がいる。
またそうすることが、人として、正しい道と思い込んでいる。
「先祖」「親孝行」という言葉も、よく使う。
回顧性というのは、それをいう。

●日々の生活の中に

 話が脱線したが、幸福に限界を感ずるのは、そこに「死」があるから。
病気になったとき、健康の意味がわかる。
そのとき健康の限界を知る。
同じように、いくら私は幸福と思っても、それは長つづきしない。
長つづきしないものという前提で、それを大切にする。

 ここで誤解してはいけないことがある。
多くの賢者が書き残しているように、幸福というのは、私たちのすぐ身近にある。
身近の、すぐそこにあって、私たちに見つけてもらうのを、じっと待っている。

 朝起きる。
目を覚ます。
朝日が、障子窓の向こうから白い光を投げかけている。
また目を閉じて、とりあえず、やるべきことを考える。
サクランボの木を切る。
空き地に、除草剤をまく。
ビワとレモンの木に、(催促肥料)をまく。
「礼肥料」ではない。
私たちは、「催促肥料」と呼んでいる。
「もっと実をつけろ」と催促しながらまくから、「催促肥料」という。

 それが「幸福」ということになる。

●幸福論

 懸命な人は、その価値を、失う前に気づく。
そうでない人は、それを失ってから気づく。
その第一が、健康。
その第二が、青春時代。
子どもがいれば、その第三は、子どものよさということになる。
が、それにもうひとつつけ加えれば、「幸福」ということになる。

 つまるところ、幸福というのは、その人の賢明さが作り出すもの。
賢明な人は、そこに幸福があることを知る。
そうでない人は、そこに幸福があることも知らず、あたふたと、
幸福をふみにじって生きる。

そう考えてよい。
それがこのエッセーの結論ということになる。
(10-04-25)

(補記)

The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid.
J.D. Salinger


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【孤高論】

●悪口

+++++++++++++++++++

私は、一度でも、その人の悪口を
言ったり、書いたりしたときには、
その人とは、つきあわない。
その人とわからない形で、書いたときも、
つきあわない。
例外はない。

一方、私の悪口を言っていると知った人とは、
つきあわない。
例外はない。
私は、この原則を、しっかりと守っている。
もう少し融通性があってもいいのでは・・・と
思う人もいるかもしれない。
私も、時々、そう思う。
しかしそういう意味では、私は、器用な人間ではない。
この原則を破ると、頭の中が、バラバラになってしまう。
それがこわい。

+++++++++++++++++++

●慎重と確認

 この原則には、付随的な原則が、もうひとつある。
私にとって、「悪口」というのは、そういう意味では重大な意味をもつ。
この原則に従えば、人間関係をそのまま断ち切ることになる。
たとえ兄弟でも、親類でも、例外はない。
そのため、当然のことながら、悪口を言ったり書いたりすることについて、
慎重になる。
また悪口を言われているという情報が耳に入ったときもそうだ。
直接、自分でそれを確認することにしている。
しっかりと確認したあと、人間関係を断ち切る。

 が、ここで誤解していけないのは、悪口と批判は、ちがう。
「悪口」には、その根底に「悪意」がある。
悪意を感ずる。
悪意でもって、私を、貶(おとし)めようする。
中には言葉巧みに、私を悪者にしようとする人もいる。

一方、批判には、その根底に「善意」がある。
私のことを心配し、あれこれ言う。
言われた私のほうも、気にしない。
その判断の基準となるのが、日ごろの、信頼関係ということになる。

●仮面

 が、世の中には、奇妙な人たちがいる。
たがいに悪口を言い合いながら、それでいて、表面的には、うまくつきあっている。
他人ではない。
兄弟、姉妹どうしで、そうしている。
そういうケースもある。

 たとえば3人の兄弟、姉妹がいたとする。
上から長男、長女、二女。
話をわかりやすくするため、上からA男、B女、C女とする。

●奇妙な三角関係

 A男は、どこかノー天気。
口が軽い。
あっちの話を、こっちへもってきて、ペラペラ。
こっちの話を、あっちへもっていき、ペラペラ。

 B女は、そういうA男を、ボロボロに叩く。
その一言でも耳に入ったら、A男は激怒すると同時に、大きく傷つくだろう。
同じように、C女は、B女を、ボロボロに叩く。
その一言でも耳に入ったら、B女は激怒すると同時に、大きく傷つくだろう。
それぞれに多少の温度差はあるが、たがいがたがいをボロボロに叩く。
こうしてその3人の間に、複雑かつ奇妙な三角関係ができる。

 が、ここからが不思議な世界。
そういう関係でありながら、A男はB女とつきあい、C女ともつきあう。
B女とC女がつきあうこともある。
3人がともに行動し、会食することもある。
私がその中の1人なら、頭の中がバラバラになってしまうだろう。
が、本人たちは、生まれながらにそうであるため(?)、それが見た目には平気でできる。
あるいは兄弟姉妹というのは、そういうものか?

●タヌキ

 が、もちろん仲がよいわけではない。
つきあいといっても、表面的なつきあい。
たがいに体裁だけを、とりつくろっているだけ。
が、問題がないわけではない。

こうした仮面を平気でかぶれる人というのは、ほかの世界でも、平気でかぶる。
一方で悪口を言い、その人の前では、善人ぶる。
あるいは相手が自分の悪口を言っているのを知りつつ、ニコニコと笑ってつきあう。
こういう人たちを、私の生まれ育った郷里では、「タヌキ」と呼ぶ。

 そのタヌキと関係あるかどうかは知らないが、日本人には日本人独特の、
奇妙な笑いがある。
たとえば電車に乗り遅れた人が、ニヤニヤ笑う。
デッドボールを食らわせたピッチャーが、ニヤニヤ笑う。
先日も路地から飛び出してきた車が、あやうく私の乗った自転車にぶつかりそうに
なった。
そのときも、その車を運転していた女性は、視線をはずしたまま、ニヤニヤ笑っていた。

 日本人は、心を(表)と(裏)に分け、それをうまく使い分ける。
「本音」と「建前」という言葉も、そこから生まれた。
ここに書いた「照れ笑い」というのは、そういう日本人独特の民族性に起因するものと
考えてよいのでは?
日本以外では、あまり類を見ない。

●こわれた心

 話を戻す。

 こうした人間関係をつづけていると、人間性そのものまで、おかしくなる。
表では同情するフリをしながら、その実、相手の不幸を別の場所で楽しむ、など。
その人が不幸な状態にあると、わざわざその人を、のぞきに行く人すらいる。
理由は、何でもよい。
「ちょっと、こちらのほうへ来ました」とか、「昔、あなたのお母さんには世話になり
ましたから」とか、言う。
そして当人の前では、さも同情したフリをする。
フリをしながら、その人の不幸話を聞き出す。
聞き出して、それをあとで楽しむ。
酒の肴(さかん)にして楽しむ。

 が、演技は演技。
醜い演技。
つまりいつも自分の心を偽っていると、そういうことが、平気でできるようになる。
またそういうことが平気でできる人というのは、相当、心のゆがんだ人とみてよい。
本人は、そうは思っていないだろうが……。

●異質な世界

 かく言う私も、日常的に、それが当たり前の世界で、生まれ育った。
あっちを見ても、タヌキ。
こっちを見ても、タヌキ。
そういう世界だった。

 もっともそれを知ったのは、オーストラリアへ渡ってからのこと。
私はそこで、私が生まれ育った世界が、あまりにも異質、異様な世界だったことを、
知った。
当然のことながら、白人の世界では、ウソは通用しない。
ウソを言ったとたん、その世界から、はじき飛ばされてしまう。
自分の心を偽ったときもそうだ。

 だから日本へ帰ってきてからの私は、努めて、自分に正直に生きるようにした。
心をさらけ出して生きるようにした。
そのひとつが、冒頭に書いた言葉である。

『私は、一度でも、その人の悪口を言ったり、書いたりしたときには、
その人とは、つきあわない。
その人とわからない形で、書いたときも、つきあわない。
例外はない。

一方、私の悪口を言っていると知った人とは、つきあわない。
例外はない』と。

●孤高

 50歳も過ぎると、その人がどういう人なのか、よくわかるようになる。
同時に、今後つきあうべき人なのかどうなのかも、よくわかるようになる。
これは私の言葉ではなく、ワイフの言葉である。

人生にも限りがある。
限りがあるなら、与えられた時間は、無駄にできない。
言うまでもなく、心を偽って生きることは、それ自体が、時間の無駄。
回り道をするだけならまだしも、へたをすれば、おかしな袋小路に入ってしまう。
とくにタヌキと呼ばれている人たちとつきあっていると、何がなんだか、
わけがわからなくなってしまう。
「信頼」という言葉さえ、通用しない。
秘密裏に話したことさえ、しばらくすると、みなに伝わったりする。

 だからタヌキと呼ばれている人たちとは、つきあわない。
同時に、自分自身も、タヌキになってはいけない。
心を偽らない。
ありのままをさらけ出して、生きる。
それで自分の住む世界が小さくなったとしても、それはそれ。
「孤高」というのは、それをいう。
50歳を過ぎたら、孤高、おおいに結構。
あとは前だけを見て、まっすぐ進めばよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 悪口論 孤高論 人間関係論)


++++++++++++++++++++++++++++++++++


●「幸福合戦」

+++++++++++++++++++++

昔、「幸福合戦」という言葉を使う人がいた。
どこかの宗教団体に属する人だった。
その言葉を聞いたとき、その団体のことはともかくも、
私は「ナルホド」と思った。
「いい言葉」と思った。

戦闘的な言葉だが、相手が「幸福」なら、悪くない。
どうせ生きるなら、幸福に生きるのがよい。
そのために戦うというのなら、それは悪くない。

ただ、それにはひとつの重要な条件がある。
この言葉の向こうには、どうしても「他人の目」
を感じてしまう。
幸福合戦といっても、他人の目を意識してはいけない。
自分との戦い。
あくまでも自分との戦い。
他人は関係ない。
もちろん他人と比較してもいけない。
他人と比較したとたん、幸福観が、
相対的なものになりやすい。

「他人が不幸なら、自分は幸福」
「他人より幸福なら、自分は幸福」と。

もちろん自分が不幸でも、敗北感を
覚える必要はない。
人生は、常に終わり、その終わったところから、
またつぎが始まる。
幸福にしても、不幸にしても、そのときの状態が、
結論ではない。
結論と考えてはいけない。
仮に今、幸福であっても、
また今、不幸であっても、
今のつぎには、また別の「今」がある。

+++++++++++++++++++++

●幸福とは何か

 「幸福とは何か?」。
それがわかりにくい。 
あえて言えば、幸福というのは、「不幸」の反対側にあるもの。
病気でなければ、健康。
不安なければ、平和。
心配がなければ、安心。
それらが集合されて、幸福につながっていく。

 が、それでもわかりにくい。
さらにあえて言えば、「幸福」というのは、それを失ったとき、はじめてわかる。
健康にしても、青春時代にしても、それがそこにあるときは、その価値に気づかない。
空気か、さもなければ、そよ風のようなもの。
さわさわと流れて、実感がない。
そういう意味では、幸福というのは、薄いガラス板のようなもの。
ふとしたきっかけで、簡単に割れる。
こわれる。

●幸福になるために

 が、幸福になるには、それだけでは足りない。
言い方を変えると、仮に病気であっても、また不安や心配があっても、幸福に
なることはできる。
反対に、健康で、不安や心配がまったくない人でも、不幸な人はいくらでもいる。

 つまり幸福であるかないかを知るためには、もうひとつの尺度が必要ということに
なる。
尺度といっても、幸福度を知るための尺度ではない。
あくまでも、私やあなた自身が、幸福感を自分のためのものにする尺度ということに
なる。

 その第一の条件が、夢と希望、そしてその先にある、「生きがい」ということになる。

●生きがい

 人生は、生きがいとの闘いといっても過言ではない。
生きがいを創造する。
その生きがいに向かって努力する。
そこから生まれる充実感が、幸福感ということになる。

 よく誤解されるが、欲望を満たすことは、幸福感にはつながらない。
満足感イコール、幸福感ではない。
(満足感に酔いしれ、それでもって、私は幸福と錯覚する人は多いが・・・。)
見分け方は簡単。
そのつど、自分に、「だから、それがどうしたの?」と、自問してみればよい。
欲望には、その答がない。
生きがいには、その答がある。

 もちろん健康であればよい。
心配や不安がなければよい。
しかし健康は、加齢とともに、ますますあやしくなる。
心配や不安については、程度の差もあるが、それがない人はいない。
だから結局は、「生きがい」ということになる。

●賢者の言葉

 幸福とは何か?
世界の賢者の言葉を拾ってみる。

The happiest people don't worry too much about whether life is fair or not, they just get
on with it.
Andrew Matthews, "Happiness in a Nutshell"
幸福な人というのは、人生が公平かどうかということには、あまり悩まない。
幸福な人は、自分の人生を、そのまま受け入れて生きる。

For most of life, nothing wonderful happens. If you don't enjoy getting up and working
and finishing your work and sitting down to a meal with family or friends, then the
chances are that you're not going to be very happy. If someone bases his happiness or
unhappiness on major events like a great new job, huge amounts of money, a flawlessly
happy marriage or a trip to Paris, that person isn't going to be happy much of the time.
If, on the other hand, happiness depends on a good breakfast, flowers in the yard, a
drink or a nap, then we are more likely to live with quite a bit of happiness.
Andy Rooney

人生のほとんどの部分では、すばらしいことなど起きない。
もしあなたが、起きて、仕事をして、仕事を終えて、家族や友だちと食事をするために座
るなら、そのとき、あなたはとても幸福だということ。
もし幸福や不幸といったものを、たとえば大きな仕事とか、大金とか、あるいは完璧な結
婚生活とか、パリへの旅行などのような大きなできごとに基礎を置くなら、その人は人生
の大半で、幸福ではないということになる。
一方、幸福というのは、おいしい朝食、庭の花、一杯を飲む、うたた寝によるものとする
なら、あなたはたいへんな幸福とともに、生きることになるだろう。

We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the same.
-Anne Frank

私たちはみな、幸福になりたいという目的のために生きている。
人生はみなちがうが、しかしみな、同じ。

Think of all the beauty that still left in and around you and be happy!
Anne Frank

あなたのまわりに残っている美しいものを考えなさい。
そして幸福に感じなさい。

Happiness is a warm puppy.
Charles Schulz

幸福は、暖かい子犬。

When I meet people from other cultures I know that they too want happiness and do not
want suffering, this allows me to see them as brothers and sisters.
Dalai Lama, Tenzin Gyatso

幸福を望み、苦しむのがいやだという、私が知っている他の文化から来ている人に会うと、
私はその人たちが、兄弟や姉妹のように思う。

There is a very fine line between "hobby" and "mental illness."
Dave Barry

「趣味」と、「心の病気」の間には、明確な一線がある。

Always do what you want, and say what you feel, because those who mind don't matter,
and those who matter don't mind
Dr. Suess

いつもしたいことをせよ。
感じたことを言え。
なぜならそれを気にする人は、何も言わない。
何か言う人は、気にしない。

You get more joy out of the giving to others, and should put a good deal of thought into
the happiness you are able to give.
Eleanor Roosevelt

他人に与えることで、あなたはもっと多くの喜びを得る。
そしてあなたが与えることができる幸福の中に、あなたの思いを、多くその人に伝えるこ
とができる。

It is not by accident that the happiest people are those who make a conscious effort to
live useful lives. Their happiness, of course, is not a shallow exhilaration where life is
one continuos intoxicating party. Rather, their happiness is a deep sense of inner peace
that comes when they believe their lives have meaning and that they are making a
difference for good in the world.
Ernest A. Fitzgerald

幸福な人というのは、有用な人生を送るため、絶え間ない努力をしている人というのは、
けっして偶然によるものではない。
彼らの幸福は、もちろん華やいだパーティで、浅薄な浮き浮きしたものではない。
むしろ、彼らの幸福というのは、彼らの人生に意味があり、世界のためによいことをして
いると信ずるときに生まれる、内面の平和をともなった、深い感覚である。

We tend to forget that happiness doesn't come as a result of getting something we don't
have, but rather of recognizing and appreciating what we do have.
Frederick Koenig

私たちは、幸福というのは、もっていなかったものを、手に入れることの結果としてくる
ものでないことを、忘れがちである。
幸福というのは、今、私たちがもっているものを、認識し、それを味わうことである。

Man is fond of counting his troubles but he does not count his joys. If he counted them
up as he ought to, he would see that every lot has enough happiness provided for it.
Fyodor Mikhailovich Dostoyevsky

人というのは、トラブルの数は数えやすいものだが、喜びの数は数えない。
もしその人が、喜びの数を数えるなら、彼は、それぞれの運命には、じゅうぶんな幸福が
あることを知るだろう。

There is work that is work and there is play that is play; there is play that is work and
work that is play. And in only one of these lies happiness.
Gelett Burgess

仕事のための仕事もあり、遊びのための遊びもある。
仕事のための遊びもあり、遊びのための仕事もある。
これらひとつの中にだけ、幸福がある。

If you have nothing else to do, look about you and see if there isn't something close at
hand that you can improve! It may make you wealthy, though it is more likely that it
will make you happy.
George Matthew Adams

何もすることがないなら、あなたのそばにあって、改善できることがないかどうかを知れ
ばよい。
それがあなたを、幸福にするようになるかもしれないが、それがあなたを豊かにするかも
しれない。

People take different roads seeking fulfillment and happiness. Just because they're not
on your road doesn't mean they've gotten lost.
H. Jackson Brown Jr.

人は満足と幸福を求めて、ちがった道をとる。
彼らがあなたと同じ道にいないからといって、彼らは道に迷っているということではない
のだから。

Happiness is good health and a bad memory.
Ingrid Bergman

幸福というのは、健康と、すばらしい思い出。

The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid.
J.D. Salinger

幸福と喜びのちがいは、幸福は固定的なものだが、喜びは、流動的なもの。

Three grand essentials to happiness in this life are something to do, something to love
and something to hope for.
Joseph Addison

人生における、幸福の3つ重要な要素。
それは、すべき何かがあること、
愛すべき何かがあること、
希望とすべき何かがあること。

One of the first conditions of happiness is that the link between Man and Nature shall
not be broken.
Leo Tolstoy

幸福であるひとつの条件は、人間と自然のつながりを、壊させてはならないということ。

I've learned from experience that the greater part of our happiness or misery depends
on our dispositions and not on our circumstances.
Martha Washington

私は学んだ。
幸福の大部分、あるいは不幸の大部分は、その人の性質によるものであって、環境による
ものではないということ。

Everything exists in limited quantity ー especially happiness.
Picasso

すべてのものには、限界量がある。
とくに幸福は、そうだ。


It's a funny thing about life; if you refuse to accept anything but the best , you very often
get it.
Somerset Maugham

人生について、もしあなたが最高のものだけのみを受け入れるようにしていれば、あなた
はしばしばそれを手に入れるというのは、おかしなことだ。

Wisdom is the supreme part of happiness.
Sophocles

智慧は、最高の幸福である。

The supreme happiness in life is the conviction that we are loved ー loved for ourselves,
or rather, loved in spite of ourselves.
Victor Hugo

人生における最高の幸福は、あなたが愛され、という確信である。
私たち自身のために愛されるというよりは、私たち自身に関係なく愛されるということ。

●幸福になるために・・・

 世界の賢者の言葉を並べて読んでいると、その向こうに、「幸福とは何か」、それが
見えてくる。
要するに、幸福というのは、私たち自身のすぐそばにあって、私たちに見つけてもらう
のを、静かに待っている。
それを知った人が幸福ということになる。
またそれがこのエッセーの結論ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幸福 幸福論)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●慣習からの脱却(Beyond the Morals)

++++++++++++++++++++++

地方の田舎へ行くと、(浜松市内にもあるが)、
慣習の多さに驚かされる。
日々の生活が、慣習によって成り立っているとさえ
言える。

こうした慣習は便利なものだが、(というのも、
そのおかげで、「手続き」として、何も考えなくて
行動できるので)、他方で、人間の自由なる創造性を
阻害する要因ともなる。

そこでコールバーグは、「慣習からの脱却」を、
道徳的完成度の、ひとつの尺度として取り入れた。

(1)前慣習的段階
(2)慣習的段階
(3)脱慣習的段階、と。

(1)前慣習的段階というのは、何も考えず、慣習に
従って行動することをいう。
(2)慣習的段階というのは、臨機応変に、慣習を
自分なりに取捨選択しながら利用することをいう。
(3)脱慣習的段階というのは、慣習にとらわれず、
自分で考えて行動することをいう。

田丸謙二先生が口癖のように言っている、「Independent
Thinker」(独立した思索人)」というのは、そういう人を
いう。

++++++++++++++++++++++

●冠婚葬祭

 慣習が、直接的、かつ顕著に私たちの生活を支配するのが、冠婚葬祭である。
冠婚葬祭、とくに「葬祭」ほど、慣習のかたまりのようなものはない。
「死んだあとのことは、人に任せばいい」という安易な死生観が、こうした慣習を
そのままのさばらせている(?)。
が、どうして自分なりの葬祭を自分で考えてはいけないのか。
自分で行ってはいけないのか。

 言うなれば慣習というのは、ベルトコンベヤーのようなもの。
その上に乗っていけば、何ごとも、無事、かつ簡単にすむ。
それほど注意を払う必要のないものについては、そのほうが楽。
近所づきあいにせよ、はたまた村や町の祭りについても、そうだ。
が、問題は、そのあと。

 「どうでもいいことは、慣習に従えばいい」と考え、あいた時間を、大切なことに
使うなら、まだよい。
が、中には、慣習漬けになり、自ら思考することを放棄してしまう人もいる。
あるいは思考力そのものを失ってしまう。
それこそ慣習がなければ、何一つ、行動できなくなってしまう。

●喪服

 A氏(60歳)夫婦は、先日、父親の納骨のため、新潟県のN町まで行ってきた。
新幹線とローカル線を乗り継いで行ってきた。
そのこともあって、A氏は、喪服ではなく、黒いブレザーと、黒いズボンを、着用
して行った。
A氏の妻も、似たような服装で行った。

 また駅から寺までは、タクシーで行った。
そのタクシーは、寺での法要がすむまで、寺の外に待たせた。

 寺に同席した参列者は、実の姉夫婦だけ。
読経は20~30分程度ですみ、A氏はタクシーでそのまま墓へ。
が、これが姉夫婦の逆鱗に触れた?

 以後、ことあるごとに、A氏の姉は、近所や親戚の人たちに、こう言いふらした。
「A男夫婦は、喪服を着てこなかった」
「A男は読経中、トイレに立った」
「A男は、タクシーで墓へ行った」と。

 ほかにもささいなミス(?)をとらえて、A男を責めた。
こういうケースのばあい、A氏の姉は強い。
「慣習」という、強力な「後ろ盾」がある。

 が、どうして法事は、喪服でなければならないのか?
いつ、だれが、そういう慣習を決めたのか?
さらに言えば、タクシーで墓へ行っては、どうしていけないのか?
A氏の姉は、「(遺骨をかかえて)、歩いて行くべきだった」と。

●慣習

 先にも書いたように、慣習は、あれば便利なもの。
どうでもよいことについては、慣習に従えばよい。
さらに言えば、法の世界には、法としての慣習もある。
たとえば「入会権(いりあいけん)」というのがある。
たとえ他人の山林であっても、その山へ入って、薪(たきぎ)類を取ってくるのは、
慣習として認められている。

 さらに進んで、「自動車は左側通行」というのもある。
これは他人の安全を考えての慣習が、法制度化されたものである。
「信号を無視して走ってもいい」ということになったら、それこそ交通がマヒしてしまう。

 が、それでも私たちは、常に慣習を疑い、慣習と闘う。
それが人間生活に不都合なものであれば、臨機応変に考えて対処する。
あるいはそれと闘う。

 よい例が、封建時代の遺物である。
この日本には、江戸時代という封建時代の遺物が、いたるところに残っている。
「家」制度、家督制度、家父長意識、身分制度、職業意識、男女観などなど。
コールバーグの説いた、前慣習的段階の人には、それがわからないかもしれない。
しかし一歩進んで、慣習的段階の人、さらには脱慣習的段階の人には、それがわかる。
それを「道徳の完成度」と結びつけてよいかどうかについては、異論もあろう。
しかしコールバーグは、それを道徳の完成度と結びつけている。

(「道徳」と「Morals」は、かならず一致するものではない。
英語で「Morals」というと、「行動の基準」をいう。
日本語で「道徳」というと、そこにどうしても儒教的なニュアンスを感じてしまう。)

 ともあれ、私たちは常に考え、常に行動する。
自ら考え、自ら行動する。
最後にあのマーク・ツウェィンも、こう書き残している。

『人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき』と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 道徳 コールバーグ 道徳論 前慣習的段階 慣習的段階論 脱慣習的
段階 はやし浩司 マークツエイン マーク・ツウェイン マークツウエイン)

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2002年10月に書いた原稿を添付します。

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●朝に道を聞かば……

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論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。

それについて以前書いた原稿を添付します。

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『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い
方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をい
う。薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きて
いるだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実
感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生き
る目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と
生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまっ
た。同じように三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞
くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚
釣りかランニング。「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考え
ることはあるの?」と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あ
なたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑い
ながら、こう言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目
です」と。そういう女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを
同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。
あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、1835~1910)も、こう書いて
いる。「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一
歩、話を進める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。
私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お
金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も
残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。し
かし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口
300万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私1人だけという時代だった。そん
なある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一
日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書
いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、
振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はま
だ結論出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、
広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度
が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世
界の問題。他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからと
いって、落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
あくまでも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くするこ
とになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これか
ら先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02-10-5)

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、2倍にすれば、あなたはほかの人より、2倍の人生を
生きることができる。10倍にすれば、10倍の人生を生きることができる。仮にあと一
年の人生と宣告されても、その密度を100倍にすれば、ほかのひとの100年分を生き
ることができる。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を
聞かば、夕べに死すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方
に死んでも、悔いはないということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、
そういう意味も含まれる。

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ついでに、儒教のことも書きましたので、
2008年10月に書いた原稿を
添付します。

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●孔子の60代(Confucius on 60’s)

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60代といえば、孔子の生き様が参考に
なる。

孔子(前551~前479)は、魯に仕え、
大司寇となったが、権力者と衝突し、56歳
から10年間、魯を去って諸国を歴遊したという
(ブリタニカ国際大百科事典)。

その10年間で、孔子は諸侯に道徳的政治の
実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の
教育と著述に専念したという(同)。

『春秋』や他の儒家の経典はそのとき生まれたが、
『論語』は、孔子と弟子の言行録と言われている(同)。

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計算すると、孔子は、満73歳前後でこの世を
去ったことになる。
それまでの基礎があったのは当然としても、
今、私たちがいうところの「孔子」は、
ブリタニカ国際大百科事典を参考にすれば、
満66歳前後から73歳前後までに「孔子」に
なったことになる。

ただ釈迦にせよ、キリストにせよ、孔子にせよ、
弟子に恵まれたということ。
弟子たちが、「師」の教えを、後世に残し、伝えた。
もし弟子に恵まれなかったら、釈迦も、キリストも、
孔子も、今に名を残すことはなかった。

それはそれとして、孔子が60歳を過ぎてから
(がんばった)というのは、たいへん興味深い。
言いかえると、「50歳だから……」とか、
「60歳だから……」とか言って、あきらめてはいけない。
……ということを、孔子は私たちに教えている。

が、同じ60歳でも、私と孔子は、どうしてこうまでちがうのか。
ひとつの理由として、中国の春秋時代は、今よりはるかに純粋な時代では
なかったということ。
つまりその分だけ、雑音も少なく、回り道もしなくてすんだ。
それにもうひとつ率直に言えば、当時は、情報量そのものが少なかった。
春秋時代に、人が一生かけて得る情報量は、現代の新聞1日分もなかったのでは
ないか。
言いかえると、私たちは、情報の洪水の中で、何が大切で、何がそうでないか、
それすらも区別できなくなってしまっている。
あるいは大切でないものを大切と思いこみ、大切なものを、大切でないと
思いこむ。

もちろんだからといって、孔子の時代が今よりよかったとは思わない。
釈迦やキリストの時代にしても、そうだ。
しかしここにも書いたように、今よりは、純粋であったことだけは、事実。
たとえて言うなら、子どものような純朴さが、そのまま生きるような時代だった。
このことは、私たちの子ども時代と比べてみても、わかる。

私たちが子どものころには、テレビゲームなど、なかった。
携帯電話もなかった。
しかしだからといって、私たちの子ども時代が、今の子どもたちの時代より
貧弱だったかといえば、だれもそうは思わない。
だから、こと(思想)ということになれば、孔子にはかなわないということになる。

このことは、私たちにもうひとつの教訓を与える。

老後になればなるほど、純朴に生きる。
というのも、私たちは、あまりにも情報、とくに金権教的な情報に毒されすぎている。
人間の命さえも、マネーという尺度で判断してしまう。
そういうものからだけでも解放すれば、ものの見方も、かなり変わってくるはず。

ともあれ、あの時代に、60歳を過ぎてから、「諸侯に道徳的政治の
実行を説いた」というところは、すごい!

さらに「晩年は魯で弟子の教育と著述に専念したという」ところは、
もっとすごい!
だからこそ「孔子は孔子」ということになるのだが、それにしても、すごい!
私たちが頭に描くジジ臭さが、どこにもない。
そういう点で孔子の生き様は、本当に参考になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
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