2010年5月15日土曜日

*Doubts about "Right-Brain Education Method"

【七田式教育メソドへの疑問】

●乗馬マシン

昨日、乗馬マシンが届いた。
ネットで購入した。
庭の見える窓際に置いた。

またがって座ると、まるで馬に乗っているかのような動きをする。
前後・左右の動きに合わせて、さらにひねりや回転運動まで加えてくれる。
手綱をつかみながら、その上でバランスを取る。
乗りながら、こんなことを考えた。

「パカパカ……」という音が出れば、もっとよい。
ついでに横に、銃を入れるホルダーでもあれば、もっとよい。
気分は最高。
まるでカウボーイ(クリント・イーストウッド)にでもなったような気分。

驚いたのは、15分もすると、ただ座っていただけなのに、
背中に汗がジワーッと出てきたこと。
腰、背中の運動になっているらしい。
ついでに腸の運動にも。

生徒の親の中にも、乗馬マシンをもっている人は多い。
そういう生徒に、「お父さんやお母さんは、使っている?」と聞いてみた。
ほとんどが「よく使っている」と答えた。

同じ健康器具でも、すぐあきてしまうものもあれば、習慣的に使うようになるものもある。
乗馬マシンは、習慣化しやすい健康器具ということになる。

これからは、ウォーキングマシンで、10~20分、運動したあと、つづいて
乗馬マシンで運動することにした。
今日でまだ2日目だが、仲よくなれそう。
またがって乗っているだけで、楽しい。
外をながめているだけで、楽しい。


●映画『グリーン・ゾーン』

 久々に迫力のある戦争映画を観た。
『グリーン・ゾーン』。
星は4つの、★★★★。
動きが激しいので、老人向けではない。
しかしボケ防止には、よい。

 今夜は、「1000円DAY」(毎月14日は、入場料が1000円)
ということで、結構、混んでいた。


●パキスタン

 映画の帰りに、友人が経営している、パキスタン料理の店に寄った。
「カラワン」という店。
星はもちろん、★★★★★。
 
 そのカラワン。
しばらく休業していた。
友人が、生まれ故郷のパキスタンに、しばらく帰省していたため。

 その友人が、こんな話をしてくれた。
「パキスタン人は、働かない」と。

私「働かないってエ?」
友「その日一日、食べていかれるだけのお金が手に入れば、それでいいと考える」
私「貯金は?」
友「パキスタン人は、しない。貯金するという考え方そのものがない」
私「家は、どうするの? 家を買うときは?」
友「家は、ある」
私「フ~~ン」と。

 パキスタン人は、会社勤めをしない。
組織に入って、働いて、給料をもらうという考え方そのものがない。
「みな、お金がなくなると、何とか働いて、それでおしまい」と。

私「驚いたか?」
友「驚くって? ぼくはパキスタンで生まれ育ったから、驚かないよ」
私「日本人は、どこかの組織に属していないと、落ち着かない」
友「日本人は、そうだね。パキスタン人には、理解できない」と。

 国がちがうと、基本的な意識そのものがちがう。
考え方そのものも、ちがう。
言うなれば、パキスタンでは、その日暮らしのフリーターが、主流。
それがふつう。

 日本人の意識は、けっして世界の標準でもないし、常識でもない。
むしろ異質。
江戸時代の昔からの、身分制度そのものが、亡霊のように、いまだにのさばっている。
店から出たとき、そんなことを考えた。


●低劣な人

 おととい、バスに乗った。
うしろに座った、2人の女性の会話が聞こえてきた。
年齢は、ともに65歳くらい。
例によって、例のごとく、低劣な話。
2人の女性を、AとBにしておく。

A「弟が母を介護しているんだけどね、介護士の人に聞いたら、月に1、2度しか
見舞いにこないんだってエ」
B「月に、1、2度? 少ないわねエ……」
A「でね、私、母のベッドのふとんをめくってみたら、ズボンがクルクルとまるめて、
ペッタンコになっていたの。
あの嫁さん、母のめんどうを、ぜんぜん、みていないみたい」と。

 話の内容からすると、Aという女性の母親は、現在、特別養護老人ホームに入居して
いるらしい。
その母親を、Aという女性の弟夫婦が引き取って、めんどうをみているらしい。
それについて、Aという女性が、Bという女性に、グチをこぼしていた。

 が、この話を聞いたとき、あまりの低劣さで、気分が悪くなった。
その第一。
「弟が、月に何回見舞いに来るか、それをスパイする姉など、いるのだろうか」と。
その「聞く」という行為そのものが、低劣。

その第二。
「老人ホームで、ふとんをめくって、その下を確かめるような人はいるのだろうか」と。
その「ふとんをめくって調べる」という行為そのものが、低劣。

 話の内容もさることながら、それから感ずる人間性そのものが、低劣。

 それに答えて、Bという女性が、「そうよねエ」「そうよねエ」と。
類は友を呼ぶということか。
Aという女性も低劣だが、Bという女性も低劣。
こうして人は、老後に向かって、低劣になっていく。
否応なしに、低劣になっていく。
みながみな、そうなるわけではないが、脳みそが萎縮し始めると、そうなる。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

【七田式教育メソドへの疑問】

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「右脳教育」という、「エセ科学」とまでは
言えなくても、まだ安全性が確認されて
いない教育法(?)が、一時期、一世を風靡
した。
ネコもシャクシも、「右脳」「右脳」と騒いだ。
今も、その信奉者は多い。

が、右脳教育に疑問をもつ学者は、少なくなかった。
で、それから10数年。
そろそろその「結果」が出てくるころだが、
果たしてそれだけの「成果」はあったのだろうか。

以前、私が書いたエッセー(中日新聞)を、
もう一度、読んでほしい。
(2010-5-15)

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●ギャグ化する子どもの世界

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「IQサプリ」という言葉がある。
いわば、「トンチ」のことだが、
そのトンチが、明らかに子どもたちの
世界を侵襲し始めている。

わかりやすく言えば、子どもたち
の世界も、ギャグ化し始めている。

たとえば作文を書かせても、
「ぼくの夢は、ゴジラと戦って、
ゴジラの肉を食べること」などと、
平気で書いたりする。

昨日も、こんなことがあった。

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【問】
14人の友だちに、4分以内で連絡が届くように、連絡網をつくりたいと思っています。連絡は、電話でします。また電話は、1人、1分かかるものとします。どのような連絡網を作ればよいですか。(たとえば、A→Bで、1分。B→Cで、1分、計2分……かかります。)(浜松市内N高校中等部・07年出題問題より)

 この問題を、小5の子どもたちにやらせてみた。学校ではみな、トップクラスの子どもたちである。が、この問題を出すやいなや、みなが、こう言い始めた。

A「電話を14台、もってくればいい」
B「でも、やっぱり、14分、かかってしまう」
A「だったら、3分以内に、みなに電話をかけ、受話器を並べておいて、残りの1分で、大声で、しゃべればいい」
C「電話を14台も、もってこれないよ」
A「どこかの病院の電話を借りればいい。病院になら、電話がたくさんある」と。

 つまり数学の問題ですら、彼らはすぐギャグ化してしまう。

私「もう少し、まじめに考えろ!」
D「だったら、1分もかけないで、早口で、30秒ですませばいい」
私「これはそういう問題ではないの!」
A「私だったら、早口だから、30秒で、できる」
私「だったら、答にそう書けばいい。ぼくがバツをつけてあげる」
D「どうしてバツなの?」と。

 多くの人は、思考と情報を混同している。情報量の多い子どもを、「賢い子ども」と錯覚している。さらにこうしたトンチ的発想のできる子どもを、「賢い子ども」と錯覚している。

 何度も書くが、思考力は、分析力と論理力で決まる。子どもたちが言っていることは、論理ではなく、トンチである。トンチは、「頓知」と書く。国語大辞典には、「即座の知恵、機転、機知、ウィット=quick wit」とある。

 子どもの賢さは、(おとなの賢さもそうだが)、思考力で決まる。トンチではない。思考力である。トンチなら、まだよいが、それが最近では、ここにも書いたように、ギャグ化している。つまりものごとを、まじめに考えようとする前に、それを茶化してしまう。

 で、私は、本気で怒った。

私「お前たち、もっとまじめに考えろ。電話は1台しかない。連絡するのに、1人、1分、かかる。それが条件だ」
A「もし、友だちが、外出していたら、どうするの?」
私「そういう偶然性は、考えないの。もし外出していたら、留守番電話に伝言を残しておけばいい」
A「留守番電話がなかったら?」
私「そんなこと、知らない。だまって考えろ!」と。

 こうした傾向は、冒頭に書いた、「IQサプリ」という言葉が耳に入るようになってから、大きくなった。ある時期は、毎晩のように、こうした番組がテレビで流されるようになった。たしかに頭の体操にはなるだろう。しかしだからといって、つまりそれを繰りかえしたからといって、「賢い子ども」には、ならない。

 それに(機転)程度のことだったら、私の飼っている犬のハナにだって、できる。追いかけていたトカゲが柵の中にもぐったようなとき、ハナは、先回りして、柵の向こうへ行く。が、そういうことができるからといって、私は、ハナに思考力があるとは思わない。頭はよいが、それと思考力とは、まったく異質のものである。

 それがわからなければ、最初の問題を、あなた自身で解いてみたらよい。かなり難解な問題である。

 たとえば……

 (A)→(B)→(C)→(D)→(E)で、4分、かかる。

 そこで、

(A)→(B)→(C)→(D)→(E)
↓  ↓   ↓   ↓
(F)→……
 ↓
(G)
 ↓
(H)
 
 ……というように連絡網をつくっていく。たいていの人は、この段階で、「ああでもない」「こうでもない」と頭をかかえ始めるだろう。つまりその(苦しみ)こそが、思考の特徴ということになる。条件といってもよい。最近の子どもたちは、その苦しむということをしない。あるいは、それを意図的に避けようとする。

 その結果が……。話が飛躍するが、大阪府の元知事の、横山N氏であり、宮崎県の知事
の、S氏ということになる。昨日も、こんなニュースが伝わってきた。

 自民党の総裁選挙で敗れたA氏は、こう言ったという。「これから家に帰って、たまったコミック本(ゴルゴ13)を、みんな読む」と。政治そのものが、ギャグ化している。が、悲しいかな、日本全体がギャグ化しているから、それをギャグとは、だれも気づかない。

 日本人、1億、総ギャク化!、……と、子どもたちを見ながら、私は、そんなことを考えていた。

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これに関連して、以前書いた
原稿を、ここに添付します。

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●右脳教育

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右脳教育は、果たして安全なのでしょうか?
まだその安全性も、確認されていない段階で、
幼児の頭脳に応用する危険性。みなさんは、
それを、お考えになったことがありますか。

たった一晩で、あの百人一首を暗記してしま
った子ども(小学生)がいました。

しかしそんな能力を、本当にすばらしい能力
と安易に評価してよいのでしょうか。

ゲームづけになった子どもたち。幼いころか
らテレビづけになった子どもたち。今さら、
イメージ教育は必要ないと説く学者もいます。

それに右脳と左脳は、別々に機能しているわけ
ではありません。その間は、「交連繊維」と呼ば
れる神経線維で結ばれ、一番大きな回路である、
「脳梁(のうりょう)」は、2億本以上の繊維
でできています。

右脳と左脳は、これらの繊維をとおして、交互
に連絡を保ちながら、機能しています。

脳のしくみは、そんな単純なものではないよう
です。

そうそう、言い忘れましたが、一晩で百人一首
を暗記したのは、あの「少年A」です。

イメージの世界ばかりが極端にふくらんでしま
うと、どうなるか。そのこわさを、少年Aは、
私たちに教えてくれました。

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 アカデミックな学者の多くは、「右脳教育」なるものに、疑問を抱いています。渋谷昌三氏もその1人で、著書「心理学」(西東社)の中で、こう書いています。

 「なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐれているといわんばかりです。

 一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理論から生まれたのではないでしょうか。

 これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあるものとは言えません」(同書、P33)。

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●右脳教育への警鐘

 論理的な思考力をなくす子どもたち。ものの考え方が直感的で飛躍的。今、静かにものを考えられる子どもが、少なくなってきています。

 そうした危惧感を覚えながら書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞発表済み)。

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親が右脳教育を信奉するとき

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。

(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

 たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばんを使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよりは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。

 しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。

 たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだわりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強ければ強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人というイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考えられなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべき人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。しかしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。

その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子どもに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●才能とこだわり

 自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せることは、よく知られている。たとえば列車の時刻表を暗記したり、全国の駅名をソラで言うなど。車のほんの一部を見ただけで、車種からメーカーまで言い当てた子どももいた。クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当てた子どももいた。

 こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、教育の世界では、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、才能とは認めない。たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、20ケタの数字を暗記できるなど。あるいは一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、ピアノで演奏できた子どももいた。
まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだわり」とみる。

 たとえばよく知られた例としては、少し前、話題になった子どもに、「少年A」がいる。あの「淳君殺害事件」を起こした少年である。彼は精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定されている。直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼きつけてしまうことができる子どもをいう。

少年Aも、一晩で百人一首を暗記できたと、少年Aの母親は、本の中で書いている(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)。そういう特異な「力」が、あの悲惨な事件を引き起こす遠因になったとされる。

 と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身が、その「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ねて、サッカーの技術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗記できてしまうというのは、才能ではない。

 つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。まさにそれだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知性、感性、理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だが、まだそうした背景のない子どもが、一回聞いただけで、その曲が演奏できるというのは、才能ではない。
 
 脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並はずれた、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、しばしば経験している。印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。

ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当てた子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。ある程度の計算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、まったく理解できなかった。

 1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。1000円程度のものを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのものがなかった。母親は、S君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるはず」とがんばったが、しかしそれはS君の「力」ではなかった。

 教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければならない。

「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。「教育することによって、伸ばすことができること」を、才能という。が、それだけでは足りない。その方法が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければならない。またそれができるから、教育という。つまりその子どもしかできないような、特異な「力」は、才能ではない。

 こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているようにとらえられるかもしれないが、それは誤解である。多かれ少なかれ、私たちは、ものごとにこだわることで、さらに自分の才能を伸ばすことができる。

現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数時間。土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、ここでいう「こだわり」かもしれない。

時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にたたない「こだわり」ということになる。が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、みごとな才能となって、世界的に評価されるようになった人もいる。あるいはひょっとしたら、私たちが今、名前を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そういう「こだわり」をもった子どもだったかもしれない。そういう意味では、「こだわり」を、頭から否定することもできない。
(02ー11ー27)※

(はやし浩司 右脳教育 右脳教育への疑問 こだわり 少年A イメージが乱舞する子ども 子供 才能とこだわり 思考のバランス (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 七田教育 右脳教育への疑問)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2005年に、静岡県教育委員会発行の
「ファミリス」に発表した原稿を、
再掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●右脳教育ブームの中で

左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(スペリー)。その右脳をきたえると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田氏)。
ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像化)、見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。

 しかしこういう説に対して、疑問を投げかける学者も少なくない。目白大学の渋谷氏もその1人で、著書「心理学」の中で、こう書いている。

 『なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐれているといわんばかりです。一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理論から生まれたのではないでしょうか。これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあるものとは言えません』と。

●だから、どうなの?

 ときどき、右脳教育の成果(?)として、神業的な能力を示す子どもが紹介される。まさに神業。しかし「だからどうなの?」という部分がないまま、子どもにそういう訓練をほどこしてよいものか。はたしてそれが能力と言えるのか?
 昔、「一晩で百人一首を覚えたら、5000円あげる」と母親に言われ、本当に、一晩で暗記してしまった子どもがいた。その子どもというのは、あの忌まわしい殺人事件を起こした、「少年A」である。彼は専門家の鑑定により、「直観像素質者」という診断名がくだされた。

 イメージの世界ばかりが、極端にふくらんでしまい、空想と現実の世界の区別がつかなくなってしまった子どもと考えるとわかりやすい。

●大切なのは、静かに考える子ども

右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべき人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(=論理)、他人の心を静かに思いやること(=分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

 で、今、その静かに考えることができる子どもが、むしろ減っているのではないか。私は、個人的には、これだけ映像文化が発達しているのだから、あえて右脳を刺激しなくても、よいのではと考えている。

 要はバランスの問題。右脳教育にせよ、左脳教育にせよ、いつもバランスを考えながらする。

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●絶えない疑問

 ここにきて、七田式教育メソドに対する風当たりが、急速に強くなっている。
そうした傾向は、ネットを使えば、即時にわかる。
私には、これが一時的な現象なのか、それとも、右脳教育ブームに対する「揺り戻し」
なのか、判断できない。

 ただ言えることは、教育には「正道」はあっても、それ以外の「道」はないということ。
それは健康法に似ている。
日々の肉体の鍛錬のみが、その人の健康を保証する。
つまり、まず、それが基本。
その基本の上に、さまざまな健康法が存在する。
子どもの教育も、またしかり。
「右脳教育」といっても、それは「教育」の一部であり、さらに言えば、亜流に過ぎない。
利用するにしても、そうした視点を、しっかりともってする。

 この先も、七田式教育メソドは、さまざまな分野で検証が加えられていくだろう。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

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