2009年6月30日火曜日

*North Korea *Cursed Family

●『北朝鮮の不思議な人民生活』(宝島編集部・宝島社)

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数日前、『北朝鮮の不思議な人民生活』(宝島社)という
本を買ってきた。
その本の感想を一言で表現すれば、題名どおり、「不思議」。
「今どき、こういう国もあるんだなあ」と、驚くばかり。

で、その話は別に、とくに私の関心をひいたのは、中国との関係。
現在、6か国協議は崩壊し、日本と韓国は、K国を除く、
5か国協議の開催に力を入れている。

が、中国は基本的には、制裁会議には、消極的。
アメリカは、K国と対話重視の姿勢を崩していない。
が、この本を読んで、中国がなぜ、K国に対する制裁に
消極的なのか、それがよくわかった。

K国と中国は、たがいに密接にからみあっている。
中国の企業家たちだけは、自由にピョンヤンに出入り
することができる。
工場を建てることもできる。
(年間、1万5000人もの中国人観光客がK国を
訪れているという。
これに対して、日本人観光客は、たったの400人弱。)

そしてこうもある。

「04年以後、中国の対北朝鮮投資熱は、(中国側の)
国策的な後押しを受けたものと思われる」と。
そして日本の制裁が強まれば強まるほど、(中国側に
とっては)、「その分だけ、ビジネスチャンスがふえる
だけ」と。

中国は、K国を、国策的に取り込もうとしている。
そのため中国はK国の制裁に加わりたくても、加われない。
そんな内部事情が、この本を読んで、よ~くわかった。

それにもう一言。

「ふつうの日本人は、K国には行かないほうがいい」。
「ふつうの……」というのは、向こうの人たちと
何もつながりのない、ごくふつうの日本人という意味である。

この本の筆者は、在日朝鮮人(?)と思われる。
そんな人でも、旅行記の最後を、こう結んでいる。

「……車が最終検問所を過ぎ、中朝友誼橋にさしかかった
時、『やっと自由世界に戻ってきた』と本気で喜んだ。
中国側の旅行社の担当者の姿を中国側の国境ゲートで目に
したとき、全身の力が抜けてしまった……」と。

 K国という国は、そういう国らしい。

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●のろわれた(?)家系

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少し前、「のろわれた家系」という題で、エッセーを
書いた。
それに対して、「私の家系は、もっとすごい」という
メールをもらった。
転載は不許可ということなので、大筋だけ、かいつまんで
書かせてもらう。

その人は、6人兄弟の、上から三番目。
今年、50歳になるという。
仮にX氏としておく。
 
兄、姉、(X氏)、妹、弟、弟。

6人兄弟なのだが、うち、離婚した人、4人。
残りの2人のうち、かろうじて家族円満なのは、X氏だけ。
もう1人も、別居状態。
うち、家族(夫婦、子ども)の中で自殺者を出した兄弟、3人。
だから「私の家系も、のろわれています」と。

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 単純に計算すれば、離婚率、80%以上。
自殺者を出した割合、50%となる。
しかしX氏は、こう言う。

「原因は、すべて私たちの両親にあります。
さらに言えば、父親の両親(=X氏の祖父母)にあります」と。

 もっともそれぞれの人には、それぞれの事情というものがある。
離婚するにせよ、自殺するにせよ、それぞれの思いをもって、そうする。
私のような部外者が、あれこれ詮索したところで、意味はない。
どう詮索したところで、その一部を知ることさえできない。
いわんや、「率」だけを見て、とやかく言うのは許されない。
たまたまそういう不幸な事件が重なった……とも考えられる。

 が、そのX氏は、こう言う。
「祖母が、精神的に欠陥のある人でした。
その影響を私の父が受け、家庭の中は、私が子どものころから、メチャメチャでした。
父は祖父の財産を乗っ取り、小さなスナックを開きましたが、斜陽になると、自ら
放火。
多額の保険金を手に入れました。

そんな家族ですから、はやし先生が説く、『親像』とか、『家庭像』などといった
ものは、私の生まれ育った家には、まったくありませんでした。
だから兄弟姉妹は、バラバラ。
その結果が今、です」と。

 X氏の兄弟たちはみな、幸せな家庭作りに失敗した。
3人の家族(妻、長男、二女)が自殺したことについても、もし幸せな家庭作りに成功
していれば、なかったかもしれない。
「のろわれた家系」ではなく、「なるべくしてなった家系」ということになる。
X氏からのメールを読んで、そんな印象をもった。

Xさん、メール、ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

*The Crisis of Japamese Democracy

●民主主義の危機(政治的アレルギー反応)

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今、私の脳みその中で、政治的アレルギー反応が
起きている。
不快感を通り越して、掻(か)いても掻いても掻き切れない、
そんな歯がゆさを覚えている。

宮崎県知事の、AZ氏が、衆議院議員?
比例東京ブロック1位、指名?
総裁候補?

これを民主主義の危機と言わずして、何という。

AZ氏は、「政党は政策で決める」と、一方で言いながら、
「総裁候補にしてくれるなら、自民党員になる」
と言っている。
M党のH代表ですら、「支離滅裂」と酷評している。

今、日本の民主主義が、危ない!

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●知名度?

 簡単な数学。

 ここに知名度40%の男性がいる。
男性X氏としよう。
日本の有権者を1億人として、4000万人がX氏を知っていることになる。
しかしX氏の評判は、悪い。
X氏を「いい人」と思う人は、20%しかいない。
残りの80%は、X氏に対して、嫌悪感すら覚えている。
が、それでもX氏は、800万人の支持者を得ることになる。

 一方、知名度10%の男性がいる。
男性Y氏としよう。
日本の有権者を1億人として、1000万人しかY氏を知らないことになる。
しかしY氏の評判は、よい。
Y氏を「いい人」と思う人は、80%もいる。
が、それでもY氏は、800万人の支持者しか得られないことになる。

 このX氏とY氏が、選挙戦でぶつかった。
こういうケースのばあい、最終的には、浮動票がX氏に向かい、X氏が当選する。
が、はたして、これを民主主義と言ってよいのか?
もしこんな方式で、私たちの(代表)が選ばれることになったら、選挙そのものが、
有名無実化する。
マスコミの人気投票だけで、政治家を決めればよい。

●知名度優先?

 もちろん政治家は中身を見て、判断する。
過去の実績を見て、判断する。
わかりやすい例で説明しよう。

 よくどこかのタレントが、ある日突然降ってわいたように、ボランティア活動を
始めたりすることがある。
アフリカの難民救済運動のようなものでよい。

 もちろん自分で始めるわけではない。
どこかの団体に依頼されて、それを始める。
その団体は、その人の知名度を利用しているだけ!

 が、それでもよい。
よいが、そのとき重要なのは、そのタレントには、どのような実績があるかということ。
たとえば若いときから、近所のホームレスの人に、食事の炊き出しをしてきたとか、
孤児の救援運動をしてきたとか、そういう実績の上に、難民救済運動があるのなら、
まだ話もわかる。

 が、そういう下積みもないまま、ある日突然、国際的な(?)救済運動に加担する。
リーダーとなり、運動を率先する。
あるいはそういう運動をしながら、他方で、私財を投げ打っているいるとか、孤児を
自宅で世話しているとかいうなら、まだ話もわかる。

 しかしそういうことをいっさいしないでおいて、知名度を生かし、ある日突然降って
わいたように、ボランティア活動を始めたりする。
まず、このおかしさに、私たち自身が疑問をもたねばならない。

 政治家もまた、同じ。

●J党内部からも疑問

 AZ氏への出馬要請に対して、J党内部からも疑問が呈されている。
産経新聞は、つぎのように伝える(6月26日)。

『J党の各派領袖らが25日、衆院選の出馬要請を受けたAZ宮崎県知事が、同党の総裁候補とするよう条件をつけたことを相次いで批判した。

 I元幹事長は「人気が出て少し思い違いをしている。党に新しい血を入れないとダメだが、輸血は血液型が合わないと頓死する」と語った。Y副総裁は「知事の任期いっぱいを務める姿勢がないと地方分権の主張者として正しくない。(くら替えは)宮崎県民への裏切り行為で、党の候補にするのは反対だ」と強調した。

 出馬要請をして批判されているK選対委員長は「迷惑、心配をかけたら許してほしい。何もしないより、何か起こした方がいい」と釈明した。M前官房長官は「支持をとりつけようと人に会うのは選対委員長の責務だ」とK氏を擁護した』と。

 こういうのをドタバタ劇という。

●知名度主義

 AZ氏に対する出馬要請の話を知ったとき、私はこう思った。
「日本人の心は、ここまでマスコミに汚染されているのか」と。
中央官僚たちが日本の政治を牛耳っている。
これを官僚主義という。

 これに対して、マスコミが日本の政治を牛耳っている。
これを何と表現したらよいのか。
マスコミ主義ではおかしい。
が、あえて言うなら、知名度主義ということになる。

 何でもかんでも、まず有名になればよい。
政治は、あとからついてくる?
(ついでにボランティア活動も、あとからついてくる?)
が、こんなことは、40年前には考えられなかった。
日本に民主主義がやってきた、60年前には、さらにそうであっただろう。

 が、これを民主主義の危機と言わずして、何という?
AZ氏にしても、自分の顔をイラスト化して、宮崎県興しをしたという話は
知っている。
しかし私の不勉強かもしれないが、私はAZ氏の書いた政治論文にせよ、評論など、
一文も読んだことがない。
政策論争すら耳にしたこともない。

 が、「総裁候補にしてくれるなら、出馬要請を受ける」とは?
J党というより、私たち国民を、どう考えているのか?
それがわかるから、私の脳みその中で、今、アレルギー反応が起きている。

●国民の意識

 つまるところこの問題は、国民の政治意識の問題ということになる。
悲しいかな、私たちは、いまだに民主主義というのが、どういうものであるかさえ
わかっていない。
それを勝ち取るための苦労もしていない。
そればかりか、江戸時代の封建制度にしても、敗戦までの軍国主義にしても、
日本人はただの一度も、清算していない。
反省すらしていない。
(反省している人もいるにはいるが、メジャーではない。)

 だからAZ氏のような人が……とは書けないが、しかし日本のAS総理大臣は、
あのK国にすら、バカにされている。
つい先日も、「オバマ大統領」と言うべきところを、「ブッシュ大統領」と言いまちがえた。
サッカーの対戦相手の名前も、言いまちがえた。
それをK国が指摘し、日本の総理大臣の資質を問うている。
(問われること自体、不愉快なことだが……。
しかし公にこそ言わないが、世界中の人たちも、そう考えている。)
AS首相の失言録をまとめたら、それこそ一冊の本になるかもしれない。

 が、結局は、それは、そういう政治家を選び(?)、総理大臣を生み出してしまった、
私たち有権者の責任ということになる。
なるが、マスコミを通して流れる知名度には、勝てない。
勝てないひとつの例として、冒頭に、「簡単な数字」を書いた。

 「J党も落ちるところまで、落ちた」(亀井氏談)というより、「日本の政治も、
落ちるところまで、落ちた」。

*Essays on House Education (2)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(251)

●上見てきりなし

 戦前の教科書に載っていた説話らしい。『上見てきりなし、下見てきりなし』といった。つまり人というのは、上ばかり見ていると、その欲望や不満は際限なくつづき、安穏たる日々はやってこない。一方、下には下に、自分より不幸な人はいくらでもいるから、最後の最後まで夢や希望は捨ててはいけない、と。

「なるほど……」と思いたいが、この格言はどこかおかしい。人にあきらめと慰めを同時に教えながら、その実、幸福感や価値観に「上下」の差別をつけている。「上とは何か」「下とは何か」ということをはっきりさせないまま、この格言をそのまま鵜呑みにするのは危険なことでもある。

あるいは「上を見て何が悪い」「下とは何だ。失敬ではないか」と言われたら、あなたはどう反論するのか。

 それはさておき、子どもに何か大きな問題が生じたときは、子どもは、「下から見る」。「下(欠点や弱点)を見ろ」というのではない。「下から見る」。子どもが生きているという原点から子どもを見る。するとほぼありとあらゆる問題が、その場で解決するから不思議である。いや、私とて、何度かこの言葉に救われたことか。

だいたいにおいて、親の悩みや苦しみなどというものは、「上」から見るから始まる。「何とかならないか」「もっと何とかしたい」「まだ何とかなる」「何とかしなければならない」と。しかしその視点を一転させ、「私は生きている」「子どもも生きている」「生きていること自体が奇跡だ」「生きることはすばらしいことだ」という視点で見ると、ものの考え方が180度変わる。そしてそれまでの自分が、小さな世界で右も左もわからず右往左往していたのに気づく。

とくに私の二男は、一度海でおぼれて死にかけたことがある。今、二男が生きていることだけでも奇跡のようなものだ。そういう視点でみると、「不登校が何だ」「進学が何だ」となる。それは決してあきらめろと言っているのではない。人というのは、自分たちがつくりあげたバーチャルな世界で、本来大切でないものを大切と思い込み、本来大切なものを、大切でないと粗末にすることが多い。「下」からその人間社会をみると、本来、何が大切で、何が大切でないかがよくわかる。それに気づく。そういう意味で、「子どもは下から見る」。

 あなたもあなたの子育てで、どこか行きづまったら、この格言を思い出してみてほしい。心が必ず楽になるはずである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(252)※

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というのは、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけでは、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によって、その価値が決まる。たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識するのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳ということになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正男氏)。伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別のものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはならない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(253)

●思考について

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル(「パンセ」)、さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を書きつづけたモンテーニュ(「随想録」)などがいる。

 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。それほど楽なことではない。それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。いろいろな条件を組み合わせながら解くのだが、それで解ければよし。しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。子どもたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。

もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救われる。大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間のレッテルを張られてしまう。だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じような苦痛がついて回る。それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそうでない。そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。一度そうなると、思考にもいくつかの特徴が表れる。

●ループ性……10年1律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。とくに人生論や価値観など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。
●退化性……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。それはスポーツ選手が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。思考も同じ。
●先鋭化……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。ものの考え方が極端になったり、かたよったりするようになる。

 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。もちろんこのほか、年齢的な問題もある。私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。集中力が衰えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。そういうことはある。

 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止する人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。個人差というより、それまでにどのような教育を受けたかで決まる。概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構造になっていない。それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると考えられる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(254)

●詰め込み教育

 どこかの本山の小僧たち。机を「コ」の字型に並べて、読経の練習をしている。その本山では、どこでもそうだが、徹底した上意下達方式のもと、小僧たちはこれまた徹底的に教義を叩き込まれる。疑問をもつことはもちろんのこと、質問することすら許されない。反感をもったら最後、即、本山から叩き出される。

 日本の教育のルーツは、寺子屋。その寺子屋のルーツは、その本山教育にある。明治※年、学校教育法が施行されたが、この教育方法は、軍国主義の台頭とともに、さらに強化された。それがどういう教育であったかは、いまさらここに書くまでもない。

 で、戦後日本の教育は変わったかというと、それは疑わしい。いや、教育を変えようとする動きはあるにはあったが、日本人、つまり親たちの意識は変わらなかった。その親たちが、学歴社会を復活させ、受験競争を復活させた。「何だかんだといっても、やはり学歴ですから」という、いわばなし崩し的な教育観が、戦後の教育改革をことごとく失敗させた。いろいろ言われているが、学校教育はまさにそのウズの中で翻弄(ほんろう)されたに過ぎない。

 教育法とてその流れから出ることができなかった。独創的なアイデアをもった教師がいたとしても、「受験勉強にさしさわりがある」という理由で、かえって排斥されてしまった。そういう例は、数多くある。

たとえばM小学校(浜松市)の教師は、毎日のように隣の公園へ生徒たちをつれていき、そこで野外教室を開いた。しかしそれにストップをかけたのは、ほかならぬ親たちであった。だから今、戦後60年近くにもなろうというのに、いまだに詰め込み教育が、教育の「柱」としてなされている。

私の知人の東大の元教授は、高校の理科の授業を参観したあと、つぎのような印象をもらしている。「先生のしていることは『どうだ、解ったか? 覚えておけ』と、まさに一方通行です。それで入試に成功するのです。生徒たちは授業を受けるし方はそうやって先生の言うことを理解し覚えることと思っています。そのやり方が困ったことに大学に持ち込まれます。ですから講義中に学生からの質問はないのです。考えながら講義を聴く習慣がないのです。アメリカの大学生たちとはおお違いです」と。この授業の形態そのものが、本山教育そのものと言ってもよい。

 ほとんどの親たちも、そして子どもたちも、そういうのが教育だと思い込んでいるし、さらに悲劇的なことに、教師自身も、そういうのが教育だと受け入れてしまっている。もちろんこうした教育を変えようとする動きもあるが、社会全体の力はそれ以上に大きい。体制の流れというのはそういうもので、一朝一夕には変えられない。私立高校でも大学受験に背を向ければ、あっという間に閉鎖に追い込まれる。悲しいかな、それが日本の現実なのだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(256)
 
●図書指導の充実を

 「考える子ども」を育てる人の方法として、図書指導がある。アメリカのほとんどの小学校では、週1回、1時間程度の図書指導をしている。彼らはそれを「ライブラリィ(の時間)」と呼んでいる。

それを指導ずるのが、専門のライブラリアン(司書)。そのライブラリアンが、生徒一人ひとりの方向性とレベルに合わせて、本を貸し与え、その読書指導をしている。私の息子の嫁の母親が、その仕事をしている。その母親に話を聞くと、こう教えてくれた。「毎週その子に合わせた本を貸し与え、つぎの週に、その本についてのレポートを書かせている」と。私が「ライブラリィの授業は、必須科目か」と聞くと、「そうだ」と。

 アメリカでは、移民国家というだけあって、多様性を認めない教育というのは、それ自体が反アメリカ的であると判断される。日本でいう画一教育など、考えられない。今では、人種、性別、皮膚の色などで相手を差別しようものなら、それだけで処罰される。あらゆる公文書にも、そのように明記してある。(明記しなければならないというのは、それだけまだ差別意識が残っているということにもなるが……。)

学校教育とて例外ではない。今、アメリカでは、学校の設立そのものが自由化されている。また学校にしても、親と教師が話しあって、自分たちでカリキュラムを組むこともできる。日本の教育も自由化されつつあるとはいえ、「今」というこの段階においても、比較にならない。

つまりアメリカでは、制度的にも、子どもたちのもつ「自由意識」が最大限、尊重されている。東大の元教授が「日本の大学生とアメリカの大学生はおお違いです」というときの「違い」は、こうした背景から生まれるものとみてよい。

 ただもう一点補足するなら、アメリカも含めてほとんどの欧米の国々では、大学生は、受講する講座について、1講座ずつ「買う」という意識がある。(まとめて買うということがふつうだが……。)しかもその「買う」ための費用には奨学金であてる。そのため彼らにしてみれば、「どこの大学へ入ったか」ということよりも、「どこでどの程度の奨学金を得るか」ということのほうが、重要な関心ごとになる。

こうしたシステムの上に大学教育が成り立っているから、学ぶ学生も必死なら、教える教官も必死である。講座を買ってくれる学生がいなければ、その講座は閉鎖される。つまり教官自身が職を失うということになる。日本の大学生のように、親のスネをかじって……、というのとはまさに「おお違い」というわけである。

 子どもの多様性を認めるとか認めないとかいう議論は、もう古い。子どもというのは生まれながらにして、多様であるという前提で、教育を組み立てる。一律の算数教育、一律の国語教育、そして一律の学年制。そのどれをとっても、もう時代錯誤としか言いようがない。そのひとつの例として、「ライブラリー」の授業をあげてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(257)

●ウソ(虚言)と虚言(空想的虚言)

ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。こんなことがあった。

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではありませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」と。ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソがうまくなる。






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(258)

●子どもの緩慢行動

 子どもには子どもらしい、自然な動きというものがある。どこかどうというわけではないが、その自然さが消えたら、何か心の変調を疑ってみる。その一つが、緩慢行動。

 抑圧された精神状態が、日常的につづくと、子どもは独特の症状を示すようになる。たとえば緩慢行動。緩慢動作ともいう。動作そのものが鈍くなり、機敏な行動ができなくなる。全体にノソノソ、あるいはノロノロとした動きになる。たとえばB君が忘れものをしたとする。そのとき先生が、A君に向かって、「これ、B君にもっていってあげて!」と言ったとする。ふつうなら(「ふつう」という言い方は適切ではないが……)、子どもはパッと腰をあげ、B君のあとを追いかけたりする。

しかしこのタイプの子どもは、それができない。明らかにワンテンポ遅れた様子で、ノソノソと立ちあがったりする。そこで先生のほうが、またA君に向かって、「急いで!」と号令をかけるのだが、その号令にも反応しない。よく観察すると、体の動きそのものが、子どもの意思とは無関係に動いているのがわかる。

 こうした症状が見られたら、家庭教育のあり方をかなり反省する。威圧的な過関心や過干渉など。ほかに(1)顔から生彩が消え、(2)子どもらしいハツラツさが消え、(3)ため息、無気力症状など、気うつ症的な症状をともなうことが多い。緩慢行動を、神経症の一つにあげる学者も多い。

 こうしたケースで、指導がむずかしいのは、子どもというより、親にその自覚がないこと。たいていの親は、「生まれつき」という言葉を使う。そして動作が緩慢なのは、子ども自身の問題であるとして、子どもを叱ったりする。しかし叱れば叱るほど逆効果。子どもの動作はますます緩慢になる。また原因は、家庭環境全体にあるので、その家庭環境全体を改めなければならない。しかし実際問題として、それは不可能に近い。子どもをなおすより、親をなおすほうが、ずっとむずかしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(259)

●子どものウソ

 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害による虚言、それに(3)虚言。

空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのように錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と並べて考える。これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。空想的虚言については、ほかで書いたのでここでは省略する。

 で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう神経症による症状は、つぎの三つに分けて考える。

(1) 精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的にウソをつく)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2) 身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。

(3) 行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ1枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として対処する。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。愛情豊かな家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試されていると思い、1年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「これ以上症状を悪化させないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、ウソも消える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(260)

●子育てじょうずな親

 子どもには子どものリズムがある。そのリズムをいかにつかむかで、「子育てじょうずな親」「子育てべたな親」が決まる。子育てじょうずな親というのは、いわゆる子育てがうまい親をいう。子どもの能力をじょうずに引き出し、子どもを前向きに伸ばしていく親をいう。

 結果は、子どもをみればわかる。子育てじょうずな親に育てられた子どもは、明るく屈託がない。心のゆがみ(ひねくれ症状、ひがみ症状、つっぱり症状など)がない。また心と表情が一致していて、すなおな感情表現ができる。うれしいときは、うれしそうな顔を満面に浮かべるなど。

 子育てじょうずな親は、いつも子どものリズムで子育てをする。無理をしない。強制もしない。子どものもつリズムに合わせながら、そのリズムで生活する。そのひとつの診断法として、子どもと一緒に歌を歌ってみるという方法がある。子どものリズムで生活している人は、子どもと歌を歌いながらも、それを楽しむことができる。子どもと歌いながら、つぎつぎといろいろな歌を歌う。しかしそうでない親は、子どもと歌いながら、それをまだるっこく感じたり、めんどうに感じたりする。あるいは親の好きな歌を押しつけたりして、一緒に歌うことができない。

 そもそもこのリズムというのは、親が子どもを妊娠したときから始まる。そのリズムが姿や形を変えて、そのつど現れる。ここでは歌を例にあげたが、歌だけではない。生活全般がそういうリズムで動く。そこでもしあなたが子どもとの間でリズムの乱れを感じたら、今日からでも遅くないから、子どもと歩くときは、子どもの横か、できればうしろを歩く。リズムのあっていない親ほど、心のどこかでイライラするかもしれないが、しかし子どもを伸ばすためと思い、がまんする。数か月、あるいは一年のうちには、あなたと子どものリズムが合うようになってくる。

子どもがあなたのリズムに合わせることはできない。だからあなたが子どものリズムに合わせるしかない。そういうことができる親を、子育てじょうずな親という。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(261)

●内弁慶、外幽霊

 家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。といっても、それは二つに分けて考える。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張したり、恐怖感を感じて外幽霊になるのが、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊になるのが、後者ということになる。たとえばかん黙症などがあるが、それについてはまた別のところで考える。

 子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になるが、それはごく自然な症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくなることがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。

 もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけんかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。

 このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうことによって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子どもの心に大きな影響を与える。家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずったり、引きこもったりするのはマイナス型ということになる。

こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめさせるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。とくに保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので注意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむずかしくなる。

 本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせる。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(262)

●灯をともして、引き出す

 恩師が教えてくれた言葉である。子どもは、「灯をともして、引き出す」。そしてこれが欧米流れの教育の基本でもある。エデュケーションの語源は、「EDUCE(引き出す)」である。

 一方、日本語(中国語)では、「教え育てる」が基本になっている。どちらがよいとか悪いとか言っているのではない。「教育」に対する考え方が、基本的な部分で正反対だということ。日本では、子どもをある特定の形につくりあげるのが教育ということになっている。一方、欧米では、子ども自身の方向を認め、その選択を子ども自身に任せているということ。この違いは、いろいろな場面で表れる。

 たとえば日本では、先生は、「わかったか?」「よし、ではつぎ!」と言って授業を進める。しかしアメリカでは、「どう思う?」「それはいい考えだ」と言って授業を進める。そのため日本では、子どもに子ども自身の考えをあまりもたせない。

一方、アメリカでは、子どものときから、子どもの言葉で子どもに話させる。わかりやすく言えば、日本の教育は、まず学校があって教師がいる。そこへ生徒がやってくるという図式で成り立っている。一方、欧米では、まず子どもがいて、その周囲に教師がいて、学校があるという図式で成り立っている。わかりにくい話かもしれないが、要するに「学校中心」か、「子ども中心」かという話になる。だから……。

 たとえばアメリカでは、学校の先生が落第を親にすすめると、親は喜んでそれに従う。「喜んで」だ。これはウソでも誇張でもない。事実だ。むしろ子どもの成績が落ちたりすると、親のほうから落第を頼みにいくケースも多い。「うちの子はまだ、進級する準備ができていない(レディできていない)」と。アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。

 同じ「教育」といっても、外から見た「形」はよく似ていても、その中身、つまり意識は日本と欧米とでは、まるで違う。そういうことも考えながら、「灯をともして、引き出す」の意味を、もう一度考えてみてほしい。あなたもきっと、「なるほど」と納得するはずだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(263)

●大学の独立法人化

 やっとというか、日本でも大学の独立法人化が動き出した。教官の身分が保証されないという理由で、反対意見も多いが、しかしこんなことは日本以外の国では常識。

アメリカではもう30年も前から、大学入学後の学部変更は自由。転籍も自由。それも即日に転籍できる。で、学生たちはより高度な授業を求めて、大学の間をさまよい歩いている。そのため学科のスクラップアンドビルドは、日常茶飯事。やる気のない教官はどんどんクビになっている。学生に人気がなければ、学部すら閉鎖される。その結果だが……。

 たまたまある日、2人の学生が遊びにきた。2001年にアメリカの州立大学を卒業したA君。もう1人は1999年に横浜の国立大学に入学したB君。そのB君を見て、A君が驚いた。「よくアルバイトをする時間があるな」と。

アメリカの大学生にしてみれば、アルバイトなどは考えられない。実によく勉強する。毎週金曜日に試験があるということもあるが、毎晩夜遅くまで勉強しても、それでも時間が足りないそうだ。アメリカでは、オーストラリアでもそうだが、一単位ずつお金を出して講座を買うシステムになっている。(実際にはまとめて買うが……。)そのお金は、たいてい奨学金でまかなう。だから私たちがモノを選んで買うように、彼らもまたよい講座を選んで買う。そういう意識があるから、いいかげんな講義を許さない。

私も一度、オーストラリアの大学で日本語を教えていたことがある。そのとき一人の学生が私にこう聞いた。「『は』と『が』の違いを説明してほしい」と。「私は行く」と、「私が行く」はどう違うかというのだ。そこで私が「わからない」と答えると、その学生はこう言った。「君は、この講義でお金を受け取っているのか」と。それで私が「受け取っていない。私はボランティアだ」と言うと、「じゃあ、いい」と。だから教えるほうも必死だ。

 きびしさがあってはじめて、質は高くなる。ぬるま湯につかりながら、「いい教育」はできない。できるはずもない。しかし今まで、日本の大学教育は、そのぬるま湯につかりすぎた。教授人事も、「そこに人がいるから人事が慣例化している」(東大元教授)で、改革ということになったが、それにしても遅過ぎた。今の改革が成果を生み出すのは、さらに20年後、30年後ということになる。そのころ世界はどこまで進んでいることやら。日本はどこまで遅れていることやら。考えれば考えるほど、暗澹(たん)たる気持ちになるのは私だけではあるまい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(264)

●不思議な世界

 不思議な世界だった。何とも現実離れした世界だった。ふと油断すると、そのまま夢の世界に引きずり込まれていくような世界だった。

 私はある会議のメンバーに選ばれた。私が選ばれたのは、明かに主催者の人選ミスによるものだった。で、私以外は、この日本でもそれぞれの分野で1、2を争うような著名人ばかりだった。東大の宇宙工学の松井教授、哲学者の山折氏、解剖学の養老氏などなど。アーティストの藤井フミヤ氏もいたし、キャスターの草野さんもいた。会議の途中でだれかが、「ここにいる方は、講演をしても、1時間数百万円。ワンステージ、数千万円の方たちです」と言ったが、私以外は、まさにそういう人物ばかりだった。

 そういう人たちの間にすわっていると、おかしな気分に襲われる。第一に、「同じ人間のはずだが」という思い。つぎに「どこが違うのだろう」という思い。さらに「限りなく自分が小さくなっていく」という思い。そういう思いが、それぞれの方向からやってきて、頭の中で複雑に交錯する。が、もうこうなると会議どころではない。「私は今まで何をしてきたのだろう」という悔恨の念すら襲ってくる。

 が、やがて私は気づいた。たとえば本の数にしても、あるいは私が歩んできた道にしても、私は何も劣るものではない、と。……と、書くと、「何をうぬぼれたことを!」と思う人がいるかもしれない。しかしこれだけははっきりと言える。

日本人にはコースがある。そのコースに、それも最初の段階で乗れば、あとは想像以上に楽な人生を送ることができる。公立大学のばあい、ほうっておいても、助手、講師、助教授、教授。さらには学部長……と、トコロテン方式で肩書きが待っている。そしてそのあとも、例外なく天下り先が待っている。あの旧文部省だけでも1800団体近い外郭団体がある。で、その上で、有名になるかどうかは、まさに紙一重の「運」である。その運に、二つ、三つと恵まれれば、あとはもう……。これ以上のことを書くと、会議に出た人たちに失礼なので書けないが、この日本という国は、そういうしくみの中で動いている。

 会議が、3回目、4回目とつづくうちに、私はそれに気づいた。私と彼らの間にあるのは、「運」だけだ、と。力ではない。「運」だ、と。とたん、私の心の中をスーッと風が通るのを感じた。私はあやうく、夢の世界に引きずりこまれるところだった。現実を忘れるところだった。「私は私」という、あの私の哲学を忘れることころだった。これは決して負け惜しみではない。敗北を認めたということでもない。

 ……が、考えてみれば、こういう世界があるから、結局は学歴社会はなくならない。そのための受験競争はなくならないし、教育のひずみもなおらない。だいたいにおいて、講演料が数百万円なんて、(少しオーバーだろうが)、……? そちらの世界のほうが狂っている! 本当に、本当に、不思議な世界だった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(265)

●バーチャルリアリティの世界

 先日、日曜日の昼のあるテレビ番組によく出てくる、K氏と会った。たまたま新幹線の駅まで同行し、プラットホームで別れた。そのときのこと。入ってくる列車、出て行く列車の中で、そのK氏を見ると、みながK氏に手をふるのだ。もちろん見知らぬ人ばかり。「有名になる」ということには恐ろしい力がある。

 で、その瞬間だが、私の中に二つの心が混在するのがわかった。ひとつは「私も有名になってみたいものだな」という思い。もうひとつは、「有名になるというのも、うるさいことだな」という思い。もっともこうしたタレントのばあいは、有名というより、「顔」そのものが看板のようなものだから、有名の意味が多少違うかもしれない。

それはともかくも、「有名人の世界」というのが、まさにバーチャルな世界をいう。しかしそれには恐ろしいほどの魅力がある。先日も子どもたち(小学四年生)に、「君たちもテレビに出てみたいか」と声をかけると、みないっせいに、こう言った。「出タ~イ」と。

 バーチャルな世界……それはちょうどゲームの世界のようなもの。ゲームの世界で、得点を多く取り、勝ったり負けたりしながら、喜んだり悲しんだりする気分に似ている。実体はない。つかみどころもない。もちろんテレビに出るというのは、それまでにそれなりの苦労と努力があったのだろうが、しかしそれ以上に苦労と努力している人は、いくらでもいる。どこがどう違うかといえば、それは「運」でしかない。その運に、二つ、三つと恵まれた人がこうした「有名人」になれる。決して、実力や努力ではない。「運」だ。

 そこで考えてみると、この世界は、まさにバーチャルなものが氾濫しているのがわかる。氾濫しすぎていて、何がバーチャルで、何がそうでないかがわからなくなってきている。その区別すらつかない人も多い。いや、この私だって、その「私」を忘れてしまうこともある。「私は私」であり、「私はここにいる」のが私なのだが、それを忘れてしまう。あまり偉そうなことは言えない。その証拠が、「私も有名になってみたいものだ」という思い。

少しは生活が楽になるかもしれない。本だって売れるし、その分、より多くの人に私の意見を聞いてもらうことができる。しかし、それが何だというのか。どこまでいっても、私は私であり、バーチャルな世界があっても、またなくても、私に変わりはないのだ!

 そのK氏と別れて、私は別の新幹線に乗ったが、ものの一〇分もすると、もうひとつの自分に戻ることができた。そしてそのもうひとつの自分が、「何てバカなことを考えたのだ」と、私を叱った。K氏はK氏、私は私なのだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(266)

●馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』というのがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるという(伊藤正男氏)。

つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維持するための機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確ではない」(新井康允氏)ということになる。

脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、しかしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できない」。それだけのことかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(267)

●水槽の中の魚

 水槽で熱帯魚を飼うようになって、もう14年目になる。平成元年に飼い始めたから、14年という数字にはまちがいはない。その熱帯魚たち。ときどきその熱帯魚を見ながら、私はこう考える。「この魚たちにとっては、この水槽が全世界なのだろうな」「生まれから死ぬまで、一生、水槽の中に住んでいるから、外の世界を知る由(よし)もない」と。

 考えてみれば、人間の意思も似たようなものだ。たとえば「自由」にしても、自由な世界を知ってはじめて、不自由な世界がどういうものかがわかる。たとえば江戸時代という時代。あの時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であった。

それは客観的にみれば事実なのだが、ではその時代に住んだ人がそう感じていたかどうかは疑わしい。あの時代の人は、徹底した鎖国制度のもと、外国へ出るということすら許されなかった。だから外の世界など、知る由もなかった。それはちょうど、今の北朝鮮の人たちのようなものではないか。日本という外の世界からみると、ずいぶんと窮屈な感じがするが、では当の北朝鮮の人たちがそう感じているかどうかは、疑わしい。彼らは彼らで、結構自分たちの国は自由な国だと思っているかも知れない。聞くところによると、首都のピョンヤンに住めるのは、ごく一部のエリートだけという話だ。それに旅行すら自由にできなという話も聞いている。

 が、だからといって、日本が自由の国だとか、また日本人がもっている意識は、グローバルな意味で、世界の標準だと思うのは危険なことである。ひょっとしたら私たち日本人とて、水槽の中の熱帯魚と同じかもしれない。そういう例は、実は教育の世界には多い。

たとえば私が、三井物産という会社をやめ、結果的に幼稚園の講師になったとき、みなは、「はやしは頭が狂った」と笑った。母まで、電話口でオイオイと泣き崩れてしまった。しかしそんな中でも、私を支えてくれたのが、オーストラリアの友人たちだった。「ヒロシ、すばらしい選択だ!」と。こうした意識の違いというのは、それがない人には理解できないものであり、それがある人には、外で呼吸をするくらい当たり前のことなのだ。

そういう意味でも、意識の違いというのは恐ろしい。たとえば今の「私」ですら、ひょっとしたら私という範囲の中だけで「私」なのかもしれない。ほんの少し意識が変われば、私は私でなくなってしまう可能性だってある。絶対的に正しいものなどというのは、ないということか?

 今日も水槽の中の熱帯魚を見ながら、私はそんなことを考えた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(268)

●人間は動物

 このところおかしな現象が身のまわりで起きている。たとえばレストランで食事をしたとする。そこで人々が食事をしている人を見ていると、そういう人たちが人間というより、動物に見えてくるのだ。みながみなではないが、しかし10人もいると、そのうち7~8人が、そう見えてくる。(だからといってそういう人たちをバカにしているというのではない。誤解がないように!)

「食べる」という、動物全体に共通する行為を見ていることもある。それはあるが、しかしそのときだ。私は人間は動物と同じと感ずると同時に、動物も人間と同じと感ずる。どちらでもよいが、人間と動物を区別するものが何なのか、それがその瞬間わからなくなる。(だからといって人間が愚かだと言っているのでもない。誤解がないように。)

 たとえばきのうも、ななめ向こうの席で、ひとりスポーツウェアの中学生が食事をしていた。弟らしき子どももその横にいたが、その弟はよく見えなかった。反対側に父親もいた。私がその中学生が気になったのは、ハンバーグののった皿に、直接口をつけ、フォークでその料理をガツガツと口の中にかき込んでいたからだ。(欧米の習慣では、皿に口をつけて食べるのは、最悪のマナーということになっている。実際にはそういう食べ方をする人はいない。)

で、その様子を観察すると、食事を楽しむというよりは、まさに胃袋にモノを詰め込んでいるといったふう。しかも目つきが死んだ魚のようで、その上表情がなく、正直言って、不気味だった。

 私が女房に、「人間が万物の霊長だというのは、ウソだね」と話すと、女房もそれに同意した。いや、人間が動物的であることが悪いのではない。人間も一度、自分たちは動物であるという視点で、見なおす必要があるということ。人間だけが特別の存在であると考えるほうがおかしい。

つまりその上で、教育がどうあるべきかを考えるということ。よく「日本の教育は子どもに考えることを教えない」という。しかし日本に住んでいると、それがよくわからない。「考える」という言葉の意味すら、よくわかっていないのでは? 人間が人間なのは、考えるからであって、言いかえると、考えなければ、人間は人間としての価値をなくす。日本の教育には、そういう基本的な視点が欠けている。

 ……話が脱線したが、こんな格言もある。「思考はヒゲのようなものである。成長するまでは生えない」(ヴォルテール「断片」)と。教育にも限界があるということか。あるいはひょっとしたら、何もしないことが教育になるのかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(269)

●学力の低下が心配?

 2002年3月末の読売新聞社の調査によれば、小中学校の教科内容が削減されることに対して、67%もの人がそれに反対していることがわかった。「新学習指導要領、削減反対67%、完全学校週5日制、反対60%(賛成36%)」など。

とくに教科内容の削減については、小学校高学年児をもつ親の71%が、また中学生をもつ親の73%が反対していることがわかった。

で、問題はその理由だが、トップは、「学力が低下する」。これが69%。小学校の高学年児をもつ親の76%、中学生をもつ親の74%が、そう答えている。読売新聞は「学力低下に対する危機感をもっているため」と分析しているが、本当にそうか。これらの親たちは、本当に「学力が低下する」ことを心配しているのか。

 実は、これらの親たちが、学力の低下を心配しているというのは、ウソ。まったくのウソ。これらの親たちが心配していることは、「学力の低下」ではなく、「自分の子どもが受験競争で不利になる」ことを心配しているのだ。簡単に「3割削減」というが、3割といえば、6年掛ける0.3で、約1.8年分ということになる。

わかりやすく言えば、小学校の6年間のうち、約2年分が削減されるということ。これからは今まで小学4年で勉強していたことを、6年ですることになる。私立小学校や中学校は「削減しない」と言っているから、この差は大きい。受験ということになったら、公立学校へ通っている子どもは、絶対に不利である。親たちが心配している点は、すべてこの一点に集中する。

 今、日本の教育はにっちもさっちも、たちゆかなくなってきている。中学1年生で、私の推計でも、掛け算の九九がまだじゅうぶんでない子どもが、20%弱もいる(推計……というのも、掛け算の九九は言えても、瞬間に「サンパ?」と聞かれても答えられない子どもも多い。ほとんど九九を言えない子どももいれば、ところどころあやしい子どももいる。調査をするにも、基準の設定がむずかしい。)

週刊ポスト誌(02年4月12日号によれば、小学校の6年生で、「九九のできない子ども」は、「2~3割はいる」)ということだそうだ。全体として、約20%の中学生は、掛け算の九九すら満足にできないとみてよい。そういう子どもが、一方で、1次方程式だの2次方程式だのを学んでいるおかしさを、あなたは想像できるだろうか。ともかくも、「3割削減」は、こうした現状の中から生まれた。

 しかし本当の問題は、このことではない。本当の問題は、「なぜ親たちが心配するか」ということ。もっと言えば、受験勉強の深層部分にメスを入れないかぎり、この問題は解決しない。

なぜ親たちは、自分の子どもが受験競争で不利になることを心配するか、である。それは当然のことながら、「受験」という制度が、この日本では人間選別の手段として使われているからにほかならない。さらに言えば、この日本には、受験で得をする人、損をする人、それがはっきりとしている。そういう不公平社会があることこそが問題なのだ。そこにメスを入れないかぎり、この問題は解決しない。絶対に解決しない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(270)

●ぬり絵

 以前、一時期、ぬり絵が子どもたちの世界から消えたことがある。中に「子どもたちをぬり絵というワクの中に閉じ込めてはいけない」などと、とんでもないことを言う教育家も現れたりした。しかしぬり絵には、すばらしい効果が、いくつかある。

(1) 運筆能力を養う……手でペンや鉛筆をもって絵や文字をかくという能力は、いわば特殊な能力である。ある程度の指導と訓練があってはじめて、それができるようになる。しかもその時期は、かなりはやい時期で、年中児(五歳児)になるころには、すでにその能力は定着する。だから子どもにペンをもたせるようになったら、ぬり絵をすることをすすめる。子どもはこまかいところを、縦線、横線、あるいは円い線を使いながら塗りつぶすことを覚える。文字の学習に入る前に、ぬり絵をするとよい。

(2) 色彩感覚……たとえば白黒の線だけでかいた、森や家や川のある絵をわたし、子どもに色をぬらせてみてほしい。色彩感覚が豊かな子どもは、色づかいが自然で、おとなが見てもほっとするような色づかいで色をぬる。そうでない子どもは、たとえば紫色の空、茶色の川、黒い家など、どこかぞっとするような色をぬる。(緑の木を茶色にぬったりすれば、色覚障害が疑われるが……。)その色彩感覚も、ぬり絵で養うことができる。

いくつかの注意点もある。そのひとつは、常識の押しつけをしないということ。「髪の毛は黒でしょ!」「川は青でしょ!」式の押しつけは禁物。またこの時期、子どもは周期的に自分の好きな色をつかうことが多い。ある時期は青ばかりで。それが終わると今度は紫ばかりで、というように。よくある現象なので、あまり神経質になる必要はない。

幼児心理学の世界では、色づかいによって幼児の心理を判断するという方法もある。私は30年間、この問題を考えてきたが、結論は、「?」。中にもっともらしい解説をつける人もいるが、私はいつも「?」マークをつけている。それはちょうど、「赤い服の人は情熱的で、青い服の人は心が冷たい」と判断するようなものだ。

服の色などというのは、そのときの気分で決まる。幼児の心理は、もっと別の方法でさぐるべきではないのか。またそのほうが、正確に判断することができる。ただこういうことは言える。子どもというのは、心理的に大きく変化するとき、ついで色好みが変化することもある。しかしこのばあいも、子どもが思春期になってからのことで、幼児にあてはめることはできない。
(注)色覚障害者……男児に多く見られる劣性遺伝で、黄色人種は男性の5%、女性は0.2%。(白人は8%、黒人は1%)と言われている。つまり、日本人男性の5%、男性の人口が5123万人(95年調べ)なので、その5%=約256万人が、色覚障害者ということになる(厚生労働省「手引き」より)。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(271)

●早期教育と先取り教育

 よく誤解されるが、早期教育が悪いのではない。悪いのは「やり方」である。たとえば極端な例として、胎教がある。まだおなかの中にいる赤ちゃんに、何らかの教育をほどこすというのが胎教だが、胎教そのものよりも、悪いのは、そうした母親の姿勢そのもの。まだ子どもが望みもしないうちから(望むわけがないが……)、親が勝手に教育を始める。子どもの意思など、まったく無視。

こういうリズムは一度できると、それがずっと子育てのリズムになってしまう。それが悪い。まだ子どもが興味をもたないうちから、ほら数だ、ほら文字だとやりだす。最近はやっている英語教育もそうだ。こうしたやり方は、子どもに害になることはあっても、プラスになることは何もない。

 またたいていの親は、小学校でするような勉強を、先取りして教えるのを早期教育と誤解している。年中児に漢字を教えたり、掛け算の九九を覚えさせたりするなど。もっとも漢字をテーマにすることは悪いことではない。漢字を複雑な図形ととらえると、漢字はおもしろいテーマとなる。それをつかった応用はいくらでもできる。私もよく子どもたちの前で、漢字を見せるが、漢字を教えるのではなく、漢字のおもしろさを教える。

ここに先取り教育と、早期教育の違いがある。ただこの日本では、「知識や知恵をつけさせるのが教育」ということになっている。そして早期教育とは、知識や知恵をつけさせることだと多くの親は思っている。これは誤解というよりも、世界の常識からは大きくかけ離れている。

 幼児教育が大学教育より重要であり、奥が深いことは、私にはわかる。それを認めるかどうかは、幼児教育への理解の深さにもよる。たいていの人は、幼児イコール幼稚、さらに幼稚な教育をするのが、幼児教育と思い込んでいる。しかしこれは誤解である。……というようなことを書いてもしかたないが、その幼児教育をすることは、これは早期教育でも、先取り教育でもない。

この時期、人間の方向性が決まる。その方向性を決めるのが、幼児教育ということになる。その幼児教育が必要か必要でないかということになれば、そういった議論をすること自体、バカげている。

 こみいった話になったが、幼児の教育を考えるときは、早期教育、先取り教育、それに幼児教育の3つは、分けて考えるとよい。混同すればするほど、子どもの教育が見えなくなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(272)

●知恵の発達のバロメーター

 幼児というのは、そのときどきにおいて、ちょうど昆虫が脱皮するように成長する。精神の発達だけではない。知恵の発達もそうだ。たとえば4歳以前の子どもは、文字にほとんど興味を示さない。ところが満4・5歳(=4歳6か月)を過ぎることから、急速に文字に興味を示し始める。(だからといって四歳以前の子どもに、文字学習が無駄であると言っているのではない。四歳以前は、たとえば親が本を読んであげるなどの、読み聞かせが大切。そういう下地があってはじめて、子どもはやがて文字に興味をもつようになる。)

この時期、子どもは文字をまねて書くようになるが、もちろん文字の「形」にはなっていない。クルクルと丸を描いたり、それを重ねたような図形を描いたりする。この時期をうまくとらえると、子どもは文字に興味をもつようになり、ついで自分でも文字を書きはじめる。コツは、あれこれルール(形や書き順など)はうるさく言わないこと。文字を書く楽しみを何よりも大切にする。

 ……というように、幼児は段階的な発達をするが、そこでひとつの基準として、つぎのように考えるとよい。

 形……三角と四角を組み合わせたような図形を子どもに見せ、それを別の紙に書き写させてみる。形の弁別ができない子どもが、三角とも四角ともわからないグニャグニャの形を描く。しかし四歳前後から、形の弁別ができるようになり、何となく三角、何となく四角というような図形を描けるようになる。

 数字……ほとんどの子どもは、数字から文字の世界に入る。最初は、「1」「2」など。自分の名前を書こうとする子どももいる。そのとき同時に、子どもは1から10までを数えるようになり、少しの指導で30までなら数えることができるようになる。年中児の終わりで30まで、年長児の終わりで100までを目標にするとよい。「多い、少ない」「ふえた、減った」の感覚から、「得をした、損をした」も理解できるようになる。

 ただ文字といっても「8」「9」は、幼児にはたいへんむずかしい。年長児でも正しく書ける子どもは、全体の60~70%とみる。

 ひらがな、カタカナ……年長児(満六歳児)の約80%弱(夏休みの段階)が、ほぼ自由にひらがなを読み書きできる。しかし一方で、文字に対して恐怖心をもつ子どもも、この時期急増する。家庭での無理な学習が原因と考えてよい。それはともかくも、この時期までに子どもは、とくに教えなくても、いつの間にかひらがなを読めるようになった、というふうにして文字を読み書きできるようになる。

 これはあくまでもひとつの目安であり、個人差もある。大切なことは子どものリズムをうまくつかみ、無理をしないこと。そのリズムにうまくのれば、子どもは伸びやかに成長するし、そうでなければそうでない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(273)

●遠慮

 以前『遠慮は黄信号』という格言を考えた。子どもの中にその遠慮を感じたら、親子関係はかなり危険な状態にあると判断してよい。

 ふつう、満ち足りた家庭環境の中で、親の濃厚な愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、見るからにどっしりとしている。態度も大きく、ときにふてぶてしくさえ見える。反対にそうでない子どもはどこか、コセコセしている。よく誤解されるが、だれにでも愛嬌がよいとか、愛想がよいとかいうのは、子どもの世界ではあまり好ましいことではない。

このタイプの子どもは、そういう形で相手の心に取り入ろうとする。しかし本当のところは心を許していない。気を抜かない。だから子ども自身も疲れるが、つきあうほうも疲れる。

 遠慮するというのは、その心を許さない状態と考えてよい。もっとも他人との関係なら、ある程度の遠慮はつきものだし、むしろ遠慮なくわがもの顔でふるまうほうが問題となることもある。たとえば多動児(AD・HD児)の特徴のひとつとして、無遠慮、無警戒がある。しかし本来心を許すべき相手に心を許さないとか、許せないとかいうのは、それ自体がたいへんなストレスとなってかえってくる。

親子とて例外ではない。「実家の親に会うだけで、神経がすり減る」「正月に実家に向かうだけで言いようのない緊張感に襲われる」などと言った母親がいた。

 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうか冷静に判断してみてほしい。あなたの子どもはあなたの前で態度も大きく、図々しいだろうか。あなたのいる前で、平気で好き勝手なことをしているだろうか。ときに体を休め、ときにあなたに甘えてくるだろうか。もしそうならそれでよし。しかしどこかあなたの目を気にしたり、あなたの機嫌をうかがうようなところがあれば、あなたは今の子育てをかなり反省したほうがよい。今は、一見、何ごともなくうまくいっているように見えるかもしれないが、やがてあなたとあなたの子どもの間に、大きなキレツが入る。そしてそれが断絶につながるかもしれない。

 ただしこの問題は、あなたはそれに気づいたとしても、解決するのに、半年とか一年とか、長い時間がかかる。子どもの年齢が大きければ、もっとかかる。そういう前提で、あなたの子育てのあり方を反省する。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(274)

●追えば追うほど、心を削る

 私に月謝袋を渡すとき、爪先でポンとはじいて、「おい、あんた、あんたのほしいのはこれだろ」と言った高校生がいた。市内でも1番という進学高校に通う子どもだった。私が黙っていると、「とっておきな」と。私は生涯において、3度、生徒を殴ったことがある。そのときがそのうちの一度になった。

 父親はそのときある教育団体の職員をしていた。母親は結婚するまで、中学校の教師をしていた。教育熱心な家庭だったが、どこかでその歯車がズレたらしい。その原因がすべて受験競争にあるとは言えないが、受験競争に関係ないとはもっと言えない。その子どもも、小さいときから「勉強づけの生活」をしてきた。

 受験教育の弊害をあげたらきりがないが、そのうちのひとつが、子どもから温かい人間的な心を奪うこと。『追えば追うほど、心を削る』という格言を私は考えたが、子どもを受験で追えば追うほど、子どもから温かいぬくもりが消える。ものの考え方が功利的、打算的になる。勝った、負けたという計算だけが頭の中を支配する。

そういう状態になると、「教育」という言葉は、もう通用しない。指導だ。教育ではなく、指導ということになる。「どうすればよい点を取れるか」「どうすればよい(?)大学へ入れるか」と。

 この日本では、受験競争は避けて通れない道かもしれないが、子どもに受験勉強をさせるときのは、一方で子どもの心をケアすることを忘れてはならない。でないと、結局はそのツケは私たち自身が払うことになる。少し前だが、私にこう言った市の職員がいた。

彼はその市の市役所でも部長職にあったが、いわく、「はやしさん、このH市は工員の町だよ。工員というのはね、お金をもつと働かなくなるよ。工員には金をもたせてはいけないよ。だからたくさん遊ぶところをつくって、もっているお金を吐き出させるのだよ」と。もし日本中がそんなエリートばかりになったら、この国はいったいどうなるのだろうか。

 で、先の高校生だが、その直後、父親と母親につれられて謝罪にきた。結果的にみれば、それがよかった。その子どもはその事件を契機に、みちがえるほど人が変わった。礼儀正しくなり、ものごしもやわらかくなった。私の教室(教室といっても、3~4人の小さな教室だが……)へは、高校3年の終わりまできてくれたが、その分、私との人間関係も太くなった。今でもときどき消息を聞くが、現在は埼玉県で高校の教師をしているという。きっとすばらしい教師をしていることと思う。

*Proverbs on House Education

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(276)

●子どもの理性

 「理性」とは、善と悪を両方に置き、その善悪の判断に従って冷静に考えたり行動したりする感覚のことを、理性という。簡単に言えば、「バランス感覚」ということになる。このバランス感覚に欠けると、子どもは極端なものの考え方をするようになる。

 「地球の人口は多すぎるから、核兵器か何かで、人口の半分を殺せばいい」と言った男子高校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人になって、黒い喪服を着てみたい」と言った女子高校生がいた。そういうようなものの考え方をして、みじんも恥じなくなる。

 子どもの理性は、かなり早い時期にできる。年長児の段階では、かなり決まっている。たとえば「ブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」という問題を出したとき、バランス感覚のすぐれている子どもは、「順番を待ってもらう」とか、「先生に言いつける」とか言う。しかし中には、「そういうヤツはぶん殴ってやる」とか言う子どもがいる。そこで私が「どうして?」と聞くと、「どうせ、そういうヤツは口で言っても、わからネエ」と。

 このバランス感覚は、静かで穏やかな家庭環境ではぐくまれる。もちろん愛情も大切だが、それ以上に大切なのは、子ども自身が静かに考えて行動する環境があるかどうか、だ。神経質な過関心、威圧的な過干渉、さらには家庭騒動や家庭崩壊などがあると、子どもは心の落ち着きをなくし、ついでそのバランス感覚をなくす。さらにたとえば極端に甘い父親、極端にきびしい父親が同居するようなばあいにも、子どもはこのバランス感覚をなくすこともある。J君(中一)がそうだった。

ある日私にこう言った。「先生、おれの親父ね、毎晩ひとりでこっそりと、エロビデオ、見てるんだよ。先生も見てるのか?」と。言ってよいことと悪いことの区別すらつかない。昔からの裕福な家庭で、外見からは問題があるようには見えなかった。しかしいろいろ話を聞くと、家庭をかえりみない父親、教育熱心な母親、それにデレデレに甘い祖父母と同居していることがわかった。つまりJ君の家庭では、J君に対してそれぞれがてんでバラバラな接し方をしていた。それが原因だった。

 理性のこわいところは、それは一度破壊されると、以後、修復がたいへんむずかしくなるということ。その後の経験で、理性的な判断力が育つことはあるかもしれないが、それは古いキズの上にかさぶたができるようなものではないか。さらに幼児期に一度心がすさむと、それをなおすのは、不可能とさえ言える。要はそういう状態にまで子どもを追いつめないということ。幼児期に一度キズついた心は、顔についたキズのようで、消えることはない。

 ついでに一言。理性はつくるのに、数年かかるが、こわすのは、半日でよい。それくらいデリケートなものであることを忘れてはならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(277)

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさす。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子どもは年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解されるが、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。どれくらいの割合かと言われれば、1対100、あるいは1対1000、さらにはもっと多いかしれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでもない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士になるという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(10人)がこう言った。「どうせ、なれないもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしまう。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そして子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それを少しだけここで考えてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(278)

●親のうしろ姿

 生活のために苦労している親の姿。子育てのために苦労している親の姿。そういうのを日本では、「親のうしろ姿」という。そしてそのうしろ姿を、子どもに見せることを、この日本では美徳のように考えている人がいる。しかしこれはまちがい。

親が見せたくなくても見せてしまうのが、親のうしろ姿。子どもが見たくなくても見てしまうのが、親のうしろ姿。親のうしろ姿というのはそういうものだが、しかし中には、うしろ姿を見せながら、親の恩(?)を押し売りする人がいる。「産んでやった」「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまう。

 子育ての目標は、子どもを自立させること。そして親は、一度は子どもに対して、「あなたの人生はあなたのものだから、思う存分、あなたの人生を生きなさい」と肩を叩いてあげてこそ、親の義務を果たしたことになる。安易な孝行論や、「家」制度で、子どもをしばってはいけない。いわんやそれを子どもに求めたり、強制してはいけない。

子どもの人生は、あくまでも子どもの人生。もちろん子どもがおとなになって、そのあと親のめんどうをみるとか、家の心配をするというのであれば、それはあくまでも子どもの勝手。子どもの問題。

 日本の親たちは子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無頓着。たとえば日本では親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコールよい子とする。そして独立心が旺盛で、親になつかない(?)子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

そのため日本の親は子どもを育てるとき、ちょうど、飼い犬を手なずけるかのようにして、子どもを育てる。エサを見せてはひっこめ、また見せてはひっこめる。それでもそのエサをねだったら、ころあいを見はかりながら、おもむろに、つまり恩着せがましくエサを与えるというように、である。結果、子どもは親なしでは生きていかれないということを、徹底的に教え込まれる。そしてそれがやがて、ここでいう依存心へなっていく。

 よく日本は依存型社会だと言われる。「生きるのは私」と考えるよりも先に、「人に何とかしてもらおう」とか、「人が何とかしてくれるだろう」と考える。どこかでいつも他人に甘えるような生き方をする。あるいは集団にならないと、力が発揮できない。日本はこのままでよいという人には、私は何も言わないが、子育ての目標は、子どもを自立させること。そういう視点に立つなら、親のうしろ姿は見せない。親は親で、どこまでも気高く生きる。それが結局は、長い目で見て、親と子どものきずなを深めることになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(279)

●おどしは理性の敵

 子どもをわざと不安にさせる。わざと孤立させる。あるいはおどす。日本人には日本人独特の子育て法というのがある。

15年ほど前だが、私はT教授が書いた本を読んで、体中が怒りで震えたことがある。当時(今も?)、日本を代表する教育評論家だった。いわく、「親子のきずなを深めるためには、遊園地などで子どもをわざと迷子にしてみればよい」と。

とんでもない教育法である。当時の日本人は、この程度の教育論(失礼!)を読んで納得したかもしれないが、それにしてもお粗末。もしあとで「わざと」であったことを子どもが知ったら、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。いや、そういう卑怯なやり方ができるということ自体、その人の人間性そのものを疑ってよい。親は子どもには、どこまでも誠実でなければならない。たとえ子どもが親を裏切ったとしても、親は子どもに誠実でなければならない。それがまた親の親としての愛の深さを決める。

話を戻すが、こうした方法は、子育てでは邪道。手っ取りばやく子どもをしつけるには、それなりの効果があるが、長い目で見れば、逆効果。よくある例が、デパートなどで泣き叫ぶ子どもに向かって、「あなたを置いてきますからね」とか、「あんたを捨てますからね」と言う親がいる。親としては軽いおどしのつもりで言うかもしれないが、子どもはそれを本気にしてますます大声で泣き叫ぶ……。

そういうとき子どもは、わかっていて泣き叫ぶのではない。恐怖心にかられて泣き叫ぶ。だからしつけとしての効果はまったくないばかりか、ばあいによっては、子どもの理性そのものを破壊する。

 そこで「おどしは、理性の敵」を覚えておく。おどしが日常化すればするほど、子どもから、静かに善悪を判断するというバランス感覚が消える。ものの考え方が極端になったり、先鋭化したりする。いや、その前に、おどさなければ子どもがあなたの言うことを聞かないというのであれば、もうすでにあなたと子どもの関係は、かなり危険な常態にあるとみてよい。やがてあなたの子どもは、あなたの手に負えなくなる。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(280)

●未来を楽しみにさせる

 子どもを伸ばす秘訣の一つは、いつも「未来を楽しみにさせる」こと。明日は今日よりよくなるという希望が、子どもを伸ばす。そのために子どもには、いつも前向き(プラス)の暗示をかける。「あなたは去年よりすばらしい子になった」「来年はもっとすばらしい子になる」と。

 前向きに伸びている子どもは表情も生き生きとしていて、明るい。何か新しいことができるようになるたびに、親に向かって、「見て!」「見て!」と言い寄ってくる。そうでない子どもは暗い。そこでテスト。あなたの子どもはつぎのうちのどちらだろうか。

何か新しいことをやってみないと提案したとき、(1)「やる」とか「やりたい」と言って、すぐくいついてくる。(2)「いやだ」とか「やりたくない」とか言って、すぐ逃げ腰になる。その中間もあるだろうが、もしあなたの子どもが(1)のようなら、よし。(2)のようなら、あなたの子育てをかなり反省したほうがよい。その一つの方法に、あなたの心を作り変えるというのがある。

 「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。ウソではいけない。親子というのはそういうもので、長い時間をかけて、あなたの心はそっくりそのままあなたの子どもに伝わる。そこでもしあなたが「うちの子は何をしても心配だ」と思っているなら、こうする。「あなたはいい子だ」を口グセにする。子どもの顔を見たら、そう言う。最初はどこかぎこちなく、とまどいを覚えるかもしれないが、あなたがその言葉を自然に言えるようになったとき、あなたの子どももまたその「いい子」になっている。

 話が少しそれるが、以前、「小学校へ行きたくない」という園児が続出したことがある。理由を聞くと、「花子さんがいるから」と。『学校の怪談』に出てくる花子さんのことだった。おとなは興味本位にこういうテレビ番組をつくるかもしれないが、子どもに与える影響を、少しは考えてほしい。幼児期には、こういうことはあってはならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(281)

●本当の問題

 この日本では、一度コースにのってしまえば、役職は向こうからやってくる。そうでない人から見れば、夢のまた夢のような役職ですら、町内の役職が回ってくるように回ってくる。そしてその役職をそれなりにうまくやりこなしていると、いわゆる「出世」できる。こういうのを日本では、学歴社会という。「学歴」という言い方に問題があるなら、コース社会と言ってもよい。不公平社会と言ってもよい。

 こうして出世(?)した人の中には、もちろん力のある人もいるが、しかし大半は、コースという「波」に乗っただけとみてよい。つまり「運」。が、問題は、こうしたコースがあることもさることながら、こうしたコースは、代々、それぞれの人に受け継がれ、それをまたつぎの代に残しているということ。

コースにのるということは、生活が安定するばかりではなく、それ自体、たいへん居心地のよい世界でもある。地位や名声が高ければ高いほど、あがめたてまつられる。その人が発する一言一句、一挙一動が注目される。

 信じられないような話かもしれないが、こうして出世した人は、講演にしても、1時間で100万円をくだらない。テレビや雑誌に出るような人だと、もっと高額になる。事実を一つ、書く。もう20年ほど前だが、私はいろいろな人のゴーストライターをしていた。書いた本は、10~20冊はある。(冊数が不明なのは、半分だけ書いたというのもあるから)。

ほとんどは初版だけで絶版になったが、何冊かは結構売れた。その中でもあるドクターの名前で書いた1冊だけは、専門書だったが、年間、数10万部も売れた。そのドクターにとっては、最初で、今にいたるまで最後の本だったが、しかしそのドクターは、私が書いた本をぶらさげて講演するようになった。そのときの講演料が1日、20万円。大卒の初任給が10万円前後の時代だった。日本にはこういう社会が、歴然として存在する。

 ……というような話なら、あなたもどこかで聞いたことがあると思う。しかし本当の問題は、こうした不公平社会があるということではない。本当の問題は、そういう社会を容認している「私たち」自身にある。ひょっとしたら、あなたも、「あわよくばそうなりたいものだ」と思っているかもしれない。

そういう「思い」が、結局はこうした社会を容認し、支えてしまう。が、ここで大きな問題にぶつかる。では、そういう社会がまったくなくなってしてまったら、それはそれでよいのかという問題である。不公平であることそのものが、目標になることがある。社会を動かす原動力になることもある。

そこで言えることは、不公平なら不公平でもよいが、それが合理的なものであればよいということ。その人の努力や能力が、正当に評価されるなら問題はない。が、いびつな不公平がはびこればはびこるほど、他方で、もともと正当に評価されるべき人が正当に評価されなくなってしまう。それこそが本当の問題ということになる。そしてそういう社会がはびこれば、人はまじめに働くことをやめ、社会そのものが崩壊する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(282)

●見方を変える

 中高年の自殺がふえているという。私もその予備軍のようなものだ。ときどき生きていることそのものが無意味に思えることがある。「死んだら、どんなに楽になるだろう」と。しかしそのたびに、つまりそのあとになって、私がまちがっていたことを知る。

 名前は忘れたが、少し前ビデオで見た映画(※)の中に、こんなジョークがあった。
 ある男が病院へ来てこう言った。「ドクター、私は頭を押さえても頭が痛い。腹を押させても腹が痛い。足を押さえても足が痛い。体中、どこを押させても痛い。私は何の病気でしょうか」と。するとそのドクターは、こう言った。「あなたはどこも悪くない。ただあなたの指が折れているだけだよ」と。

 ほんの少しだけ見方を変えると、ものの考え方も180度変わるということだが、「何もかもダメだ」と思うときも、見方を変えると一変する。ダメなのは、私自身ではなく、ものの考え方なのだ。子どもにしてもしかり。勉強はしない。夜な夜なコンビニの前に座り、酒を飲む。タバコを吸う。叱るどころか、こわくて話をすることもできない。「生きていてくれるだけでもいい」と思うのは、まだよいほうだ。親も追いつめられるところまで追いつめられると、「よそ様に迷惑さえかけなければ……」と願うようになる。親子でも、どこかで歯車が狂うと、そうなる。

そしてそういうとき親は、深い絶望感にさいなまれる。その子どもを産んだことを後悔する親さえいる。が、そういうときでも、ダメなのは子ども自身ではなく、子どもを見る、あなたの見方なのだ。

 今、あなたは生きている。子どもは子どもで生きている。この数10億年という歴史の、その瞬間に、同じく数10億人という人間の、その中で、親として、そして子どもとして、互いに同じ時代で、同じ場所で、しかももっとも近い人間として生きている! そのすばらしさの前では、どんな問題もささいな問題でしかない。繰り返すが、ダメなのは、あなたの子どもではなく、あなた自身の見方なのだ。子どもがダメだと思ったら、あなたの見方を変えればよい。それですべての問題は解決する。

 ……もっともこういう極端な例は別としても、最後の砦(とりで)の一つとして、こうしたものの考え方を心の中に用意しておくことは、大切なことだ。私もふと死にたくなるときがある。女房は「初老成のうつ病よ」と笑うが、そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。しかし私は一方で、こう思う。どうせ一度しかない人生だから、とことん最後まで見てやろうと。そして最後の最後になったら、この宇宙もろとも、消えればよい、と。

何とも深刻な話になってしまったが、あなたの見方を変える一つのヒントになればうれしい。

※……イラン映画「桜桃の味」





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(283)
 
●子どものおねしょとストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。

 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。ただ子どものばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。

「尿」についても、夜尿(おねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)など。私がそれを指摘すると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明るく伸びやかな子どもでも、夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、自律神経。その自律神経が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)同じストレッサー(ストレスの原因)を受けても、子どもによっては受け止め方が違うということもある。

 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほとんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)大切なことは、仮にそういうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場所があれば、それで問題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、またストレスと無縁であるからといって、それでよいというのでもない。ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの中でもまれながら成長する。で、その結果、言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所が、「家庭」ということになる。

 子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を反省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。一番よいのは、子どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭環境を用意する。

たいていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自身がだれの目を感ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。子どものおねしょについても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのものを考えなおす。そしてあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、対処法ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(284)

●男らしさ、女らしさ

 男らしさ、女らしさを決めるのが、「アンドロゲン」というホルモンであることは、よく知られている。男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、ある程度の性差があることも知られている。

そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はより女性的な遊びを求めるということらしい。(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男性的でないとは書けない。それ自体が、偏見を生む。)

男と女というのは、外観ばかりでなく、脳の構造においても、ある程度の違いはあるようだ。たとえば以前、オーストラリアの友人がこう教えてくれた。その友人には二人の娘がいたのだが、その娘たち(幼児)が、「いつもピンク色のものばかりほしがる」と。そこでその友人は、「男と女というのは、生まれながらにして違う部分もあるのではないか」と。

 が、それはそれとして、「男らしく」「女らしく」という考え方はまちがっている。またそういう差別をしてはならない。とくに子どもに対して、「男らしさ」「女らしさ」を強要してはいけない。しかしこんなことはある。ごく最近、あった事件だ。

 私はこの世界へ入ってから、一つだけかたく守っている大鉄則がある。それは男児はからかっても、女児はからかわない。男児とはふざけて抱いたり、つかまえたりしても、女児には頭や肩以外は触れないなど。(頭というのはほめるときに、頭をなでるこという。肩というのは、背中のことだが、姿勢が悪いときなど、肩をぐいともちあげて姿勢をなおすことをいう。)

が、女児の中には、相手から私にスキンシップを求めてくるときがある。体を私にすりよせてくるのだ。しかしそういうときでも、私はていねいにそれをつき放すようにしている。こういう行為は誤解を生む。その女の子(小3)もそうだった。何かにつけて私にスキンシップを求めてきた。私がイスに座って休んでいると、平気でそのひざの中に入ってこようとした。しかし私はそれをいつもかわした。

が、ところが、である。その女の子が学校で、彼女の友だちに、「あのはやしは、私にヘンなことをする」と言いふらしているというのだ。私が彼女を相手にしないのを、どうも彼女は、ゆがんでとらえたようである。しかしこういう噂(うわさ)は決定的にまずい。親に言うべきかどうか、かなり迷った。で、女房に相談すると、「無視しなさい」と。

 この問題も、アンドロゲンのなせるわざなのか? 男と女は平等とは言いながら、その間には微妙なニュアンスの違いがある。それを越えてまで平等とは、私にも言いがたいが、しかしその微妙な違いを、決して「すべての違い」にしてはいけない。昔の日本人はそう考えたが、あくまでもマイナーな違いでしかない。やがてこの日本でも、「男らしく」「女らしく」と言うだけで、差別あるいは偏見ととらえるようになるだろう。そういう時代はすぐそこまできている。そういう前提で、この問題は考えたらよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(285)

●親子とは

 東洋では、「縁」という言葉を使う。「親子の縁」というときの縁である。今でもこの日本では、その縁という言葉を使って、子どもをしばることがある。

ある男性(45歳)は、母親(76歳)に貯金通帳を預けておいたのだが、その母親は勝手にその通帳からお金を引き出し、全額、自分の借金の返済にあててしまった。その男性(45歳)が、たまたま半年あまり、アメリカへ行っている間のできごとだった。

帰国後それを知ったその男性は、母親に、「親子の縁を切る」と迫ったが、母親はこう言ったという。「親が先祖を守るために、息子の金を使って何が悪い! 親子の縁など切れるものではない!」と。しかしその事件があって、その息子は親との縁を切った。10か月近くも苦しんだあとの結果だった。今年50歳になるその男性はこう言う。「母はその10か月の間、ほとぼりを冷まそうとしたのですが、私のほうはその10か月で心の整理をしました」と。

 その男性は、親子であるがゆえに悩んだ。苦しんだ。この事件だけで親子とは何かを定義づけることはできないが、しかしこれだけは言える。いろいろな家族がいる。そしてその中身も人それぞれによって違う。しかし最後の最後に残るのは、純粋な人間関係のみである、と。

あなたが親なら、いつかあなたは自分の子どもを1人の人間としてみるときがくる。一方、あなたの子どももあなたをいつか、1人の人間としてみるときがくる。そのとき互いにそういう「目」に耐えられるなら、それでよし。そうでなければ、親子といえども、その関係はこわれる。決して永遠のものでも、不滅のものでもない。またそういう幻想に甘えてはいけない。そういう意味で、親が親であるのは、たいへんきびしいことでもある。

 とくにこの日本では、親子の関係がどうしてもドロドロしがちである。「ドロドロ」というのは、互いの「私」が、そのつど入り混じり、どこからどこまでが「私」で、どこからどこまでが「私でない」のかわからないことをいう。

ここに例としてあげた母親のケースでも、いまだにその母親は息子のその男性に、お金を無心にきたり、関係を修復しようと、あれこれ食べ物などを送ってくるという。その男性はこうつづける。「母は死ぬまで、とぼけるつもりでいるようです。母としてはその方法しかないのでしょうが、私はもう母から解放されたいのです」と。

 親子とは何か。親は子どもをもったときからこの問題を考え始め、そして自分が死ぬまでこの問題を考えつづける。たいていの人は、その結論が出る前に、この世を去る。そうそうあの芥川龍之介は、こう書いている。

 「人生の悲劇の第一幕は、親子となったときにはじまってゐる」(「侏儒の言葉」)と。ひとつの参考にはなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(286)

●ユニバーサルスタジオ

 大阪にユニバーサルスタジオという、巨大な遊園地がある。映画ごとにパビリオンに分かれていて、それぞれが趣向をこらして観客をひきつけている。「ジョーズ」あり、「E.T.」あり、「ターミネーター」あり。正直に告白するが、おもしろかった。が、心のどこかで何かしらの疑問を感じなかったわけではない。

 その1つ。私はたまたま愛知万博の名古屋市パビリオンの懇談会のメンバーをしている。パビリオンの理念を話しあう会である。そういう立場上、何としても愛知万博を成功させたい……という思いはもっている。

しかしあのユニバーサルスタジオを見たとき、その考えは吹っ飛んでしまった。つまり「いまどき、万博なんて……?」という思いにかられてしまった。仮に成功させるとしたら、少なくともユニバーサルスタジオ級でないと、観客は満足しないだろう。となると、そのためにどういう方向性を出したらいいのか。園内を回りながら、何度もそれを考えたが、回れば回るほど、絶望的にならざるをえなかった。

 つぎに、日本の大都市のど真ん中に、こうまでアメリカナイズされた娯楽施設があってよいものかという疑問。私は国粋主義者ではない。ないが、しかしここまで「外国」が堂々と日本の中に入っているのを見ると、「これでいいのかなあ」と思ってしまう。

当然のことながら、ユニバーサルスタジオで見るかぎり、日本人は身も心も、そして魂までもが、完全に抜かれてしまっている。アメリカ映画を見て、アメリカ風の食べ物を食べ、これまたアメリカ風のみやげを買う。けばけばしい色の看板、そしてビル。園内を流れる音楽も、これまたロックンロールであったり、ジャズであったりする。こういうのを見て、当のアメリカ人はどう感ずるだろうか。いや、ほかの国のアジア人でもよい。見ると、韓国や中国、台湾からの観光客が、何割かがそうであるというぐらい目についた。彼らは日本という国を訪れながら、その日本でアメリカを見ているのだ!

 ……こういうとき、あの戦争の話をするのもヤボなことだが、こういう現状を目の当たりにすると、「いったいあの戦争は何だったのか」と、そこまで考えてしまう。300万人の日本人がそのために死に、同じく300万人の外国人が死んでいる。「これらの人たちは、いったい何のために死んだのか」と。

 女房は「こういうところは楽しめばいいのよ」と言う。私もそう思う。しかし人生も50歳を過ぎると、そうは小回りがきかなくなる。脳みそをカラッポにして楽しむというわけにはいかない。ときどきため息をつきながら、私は夕方、ユニバーサルスタジオをあとにした。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(287)

●大声で笑わせる

 「笑う」ことにより、心は解放される。しかも大声で笑えば笑うほどよい。「笑う」という行為には、不思議な力がある。言いかえると、大声で笑える子どもに心のゆがんだ子どもはまずいない。

反対に、どこか心がつかめない子どもや、どこか心がゆがんだ子どものばあい、大声で笑わせることによって、それがなおることがある。そのため私は教室では、子どもを笑わせることだけを考えて授業を進める。50分1単位の授業だが、50分間、笑わせつづけることも珍しくない。もしそれがウソだと思うなら、一度、私の教室へ見学に来てみたらよい。(それにもしここに書いていることがウソなら、今、私の教室にきている父母の信用を失うことになる。)

 笑わせるには、もちろんコツがある。たとえばバカなフリをするときでも、決して演技っぽくしてはいけない。本気で演ずる。本気でドジをする。子どもはこのドジには敏感に反応する。たとえば粘土のボール4個と、4本のひごで4角形を作ってみせる。そのとき、空中でそれを作ってみせると、そのたびに粘土のボールがポトリと下へ落ちてしまい、うまくできない。そこであれこれ口をつかったりして、苦労してみせる。そのとき私は真剣に四角形を作ろうとするが、うまくできない。(できないことはわかっている。)子どもたちは私が失敗するために、腹をかかえてゲラゲラと笑う。

 「笑われる」ということは、「バカにされた」ということではない。中に、教師というのは、子どもの前では毅(き)然としていなければならないと説く人もいる。実は私の恩師のM先生(幼稚園元園長)がそうだった。女性の先生だったが、いつも私にこう教えてくれた。

「子どもの前に立つときは、それなりの覚悟をして立ちなさい」と。そのためM先生のばあいは、服装の乱れを絶対に許さなかった。先生が子どもたちの前で失敗するなどということも、M先生についてはありえなかった。M先生は、教師の威厳を何よりも大切にした。

 それから30年。私の教え方は、その恩師の教え方からすれば、まったく異端なものになってしまった。が、それがよいとか悪いとかいう前に、私は今の私の教え方が自分には合っている。

実のところ、私自身はそのほうが楽しいのだ。つまり教えることで、私も楽しむ。言いかえると、先生が楽しまないで、どうして子どもが楽しむことができるのか。それに私はもともとそれほど威厳のある人間ではない。不完全でボロボロで、そのうえ情緒も不安定。そんな私が偉ぶっても、しかたない。

 私は、子どもたちの笑顔と笑い声が、何よりも好きなのだ!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(288)

●子どもへの禁止命令 
 
 「~~をしてはダメ」「~~はやめなさい」というのを、禁止命令という。この禁止命令が多ければ多いほど、「育て方」がヘタということになる。イギリスの格言にも、「無能な教師ほど、規則を好む」というのがある。家庭でいうなら、「無能な親ほど、命令が多い」(失礼!)ということになる。

 私も子どもたちを教えながら、この禁止命令は、できるだけ使わないようにしている。たとえば「立っていてはダメ」というときは、「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」。「騒ぐな」というときは、「ママのオッパイを飲んでいるなら、しゃべっていい」と言うなど。また指しゃぶりをしている子どもには、「おいしそうだね。先生にも、その指をしゃぶらせてくれないか?」と声をかける。禁止命令が多いと、どうしても会話がトゲトゲしくなる。そしてそのトゲトゲしくなった分だけ、子どもは心を閉ざす。

 一方、ユーモアは、子どもの心を開く。「笑えば伸びる」というのが私の持論だが、それだけではない。心を開いた子どもは、前向きに伸びる。

イギリスにも、「楽しく学ぶ子どもは、もっとも学ぶ」(Happy Learners Learn Best)というのがある。心が緊張すると、それだけ大脳の活動が制限されるということか。私は勝手にそう解釈しているが、そういう意味でも、「緊張」は避けたほうがよい。禁止命令は、どうしてもその緊張感を生み出す。

 一方、これは予断だが、ユーモアの通ずる子どもは、概して伸びる。それだけ思考の融通性があるということになる。俗にいう、「頭のやわらかい子ども」は、そのユーモアが通ずる。以前、年長児のクラスで、こんなジョークを言ったことがある。

 「アルゼンチンの(サッカーの)サポーターには、女の人はいないんだって」と私が言うと、子どもたちが「どうして?」と聞いた。そこで私は、「だってアル・ゼン・チン!、でしょう」と言ったのだが、言ったあと、「このジュークはまだ無理だったかな」と思った。で、子どもたちを見ると、しかし1人だけ、ニヤニヤと笑っている子どもがいた。それからもう4年になるが、(というのも、この話は前回のワールドカップのとき、日本対アルゼンチンの試合のときに考えたジョーク)、その子どもは、今、飛び級で2年上の子どもと一緒に勉強している。反対に、頭のかたい子どもは、どうしても伸び悩む。

 もしあなたに禁止命令が多いなら、一度、あなたの会話術をみがいたほうがよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(289)

●依存心と自立心

 アメリカのテキサス州の田舎町で、迷子になったときのこと。アメリカ人の友人は車をあちこち走らせながら、さかんに道路標識と地図を見比べていた。そういうとき日本人ならすぐ、通りの人に声をかけて、今いる場所を聞く。

そこで私が「どうして通りにいる人に道を聞かないか?」と声をかけたのだが、その友人はけげんそうな顔をするだけで、何も言わなかった。で、それが気になっていたので、別のある日、アメリカの中南部に住む日系人の別の友人にそれを聞くと、こう教えてくれた。「アメリカ人は、人に頭をさげない。通りを歩いている人に道を聞くのは、危険なことだし、相手もこわがるだろう」と。つまり「そういう習慣はない」と。

 よく英語の教科書に、英語で道を聞くというのがある。「駅へ行く道を教えてください」「駅へは、この道をまっすぐ行って、2本目の角を右へ回りなさい」とか。しかしこういう会話というのは、ごく親しい人との間の会話であって、ふつうでは考えられない。

それとも皆さんの中で、いまだかって、アメリカ人に(オーストラリア人でも、イギリス人でもよいが)、道路で道を聞かれたことがあるだろうか。少なくともアメリカ人は、通りの見知らぬ人に道など聞かない。彼らはまず地図を手に入れる。そしてその地図を頼りに自分の居場所を知る。つまりそれだけ自立心が旺盛ということ。そして一方、こういう話を驚いて聞くという私は(日本人なら皆、そうだが)、それだけ依存心が強いということ。

 もっとも私はどちらがいいとか悪いとか言っているのではない。日本は日本だし、アメリカはアメリカだ。しかし日本から一歩外へ出ると、日本の常識はもう通用しないということ。日本がこのまま鎖国的に、今のままでよいと言うのならそれはそれで構わないが、そうであってはいけないというのなら、日本人も外国の常識に合わせるしかない。あるいは少なくとも、日本の常識とは違うということを理解しなければならない。こんな話もある。

 私の二男フロリダへドライブしたときのこと。きれいな砂浜があったので、つい油断して車をその中へ入れてしまった。とたん、車は立ち往生。するとどこにいたのか、アメリカ人の学生たちが数人寄ってきて、「車を出してほしかったら、20ドルよこせ」と。つまりそれが彼らのアルバイトになっていた。二男は「同じ学生だから」ということで、10ドルにしてもらったというが、こういうドライさというのは、日本人は理解できないものかもしれない。しかしそれが世界の常識でもある。

 日本人がもつ「依存心」を考えるヒントになればと思い、ここに二つのエピソードをあげた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(290)

●あるがままを受け入れる

 親子にかぎらず、人間関係というのは、相互的なもの。よく「子どもは、あるがままを受け入れろ」という。それはそうだが、それは口で言うほど、簡単なことではない。簡単なことでないことは、親ならだれしも知っている。

 で、こう考えたらどうだろうか。「あるがままを受け入れる」ということは、まず自分も、「あるがままをさらけ出す」ということ。子どもについていうなら、子どもにはまず、あるがままの自分をさらけ出す。心を許すということは、そういうことをいう。しかしそうでない親もいる。

 Tさん(55歳)は、息子(40歳)に、「子ども(Tさんの孫)の運動会を見にきてほしい」と頼まれたとき、「足が痛いから行けない」と言った。しかしそれはウソだった。Tさんは、何か別の理由があったので、運動会へは行きたくなかった……らしい。それで「足が痛い」と。

 この話の中で大切なポイントは、本当のこと(本音)を言えないTさんの心の状態にある。親でありながら、子どもに心を許していない。行きたくなかったら、「行きたくない」と言えばよい。しかしTさんは、自分という親をよく見せるために、ウソをついた。つまりその時点で、親子でありながら心を開いていないことになる。

しかしこういう関係では、子どものほうも心を開くことができない。子どもの側からして、親のあるがままを受け入れることができなくなってしまう。そういう状態を一方でつくっておきながら、「うちの子どもは心を開かない」はないし、そうなればなったで、今度は「どうしても子どものあるがままを受け入れることができない」は、ない。

 少しこみいった話になってしまったが、親子も、互いに自分をさらけだすことが、互いのきずなを深めるコツということ。そのために親は親で、子どもは子どもで、自分をさらけだす。美しいものも、きたないものも、みんな見せあう。また少なくとも、親子はそういう関係でなければならない。が、もしそれができないというのであれば、もうすでにその段階で、親子の断絶は始まっているということになる。

 ただここで注意しなければならないのは、あなたが子どもに自分をさらけ出したからといって、子どももそれに応ずるとはかぎらないということ。ばあいによっては、子どもはあなたに幻滅し、さらには軽蔑するようになるかもしれない。

しかしそうなったとしても、それはしかたないこと。親子関係もつきつめれば、人間関係。つまりさらに言いかえると、親になるということは、それだけきびしいことだということ。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」という人がいる。それはそうだが、しかしそれをしなければ、結局は子どもにあきられる。よい親子関係をつくりたかったら、さらけ出しても恥ずかしくないほどに、親自身も一方で自分をみがかねばならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(291)

●依存性の二つの側面

 依存性には、二つの側面がある。(1)相互依存性と、(2)依存性の伝播(連鎖)である。相互依存性というのは、子どもに依存心をもたせることに無頓着な親というのは、自分自身もまただれかに依存したいという、潜在的な願望をもっているということ。その潜在的な願望があるために、子どもが依存心をもつことにどうしても甘くなる。

 つぎに依存性の伝播(連鎖)というのは、こうした依存性は、親から子どもへと伝播しやすいということ。たとえば親に服従的であった子どもは、自分が親になったとき、こんどはそのまた子どもに服従を求めるようになりやすいということ。こうして依存性は、親から子へと代々と受け継がれていく。これを依存性の伝播(連鎖)という。

 何ともわかりにくい話になったので、わかりやすい例をあげて考えてみる。

 たとえば依存心の強い子どもは、おなかがすいて何かを食べたいときでも、「○○を食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア~(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。こうした言い方というのは、子どもだけの問題ではない。その子どもの親自身も、同じような言い方をする。ある女性(60歳)は、いつも自分の息子(35歳)にこう言っている。「私も歳をとったからねエ~」と。つまり「歳をとったから、何とかせよ」と。

 ……こう書くと、「それは日本語の特徴だ」と説明する人もいる。日本人はそもそもはっきりと言うのを避ける民族だと。しかしこのことを別の角度からみると、日本人には、それほどまでに依存性が、骨のズイまでしみこんでいるということにもなる。つまり自分たちの依存性が、それが依存性であることがわからないまで、なれてしまっている、と。

 で、ここにも書いたように、こうした依存性は、代々と、親から子どもへと伝えられやすい。1人の人が、親には服従しながら、自分の子どもには服従を求めていくという二面性は、日常生活の中でもよく観察される。このタイプの親は、自分の価値観で子どもを判断するため、自分に対して服従的な子どもを、「できのいい子」と判断する。たとえば親にベタベタと甘え、親の言いなりになる子どもイコール、かわいい子イコール、「いい子」と、である。

 こうして考えてみると、日本では親のことを「保護者」と呼ぶが、この保護者という言葉は、子育てにおいてはあまりふさわしくない言葉ということにもなる。言うまでもなく、保護と依存はちょうどペアの関係にある。親の保護意識が強ければ強いほど、それは同時に子どもに依存性に無頓着になる。

 要は子育ての目標をどこに置くかという問題に行き着くが、子どもの自立ということを目標にするなら、依存心は、親にとっても、子どもにとっても好ましくないものであることは、言うまでもない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(292)

●赤ちゃん言葉

 日本語には幼稚語という言葉がある。たとえば「自動車」を「ブーブー」、「電車」を「ゴーゴー」と言うなど。「食べ物」を「ウマウマ」、「歩く」を「アンヨ」というのもそれだ。英語にもあるが、その数は日本語より、はるかに少ない。

 こうした幼稚語は、子どもの言葉の発達を遅らせるだけではなく、そこにはもうひとつ深刻な問題が隠されている。

 先日、遊園地へ行ったら、60歳くらいの女性が孫(5歳くらい)をつれて、ロープウェイに乗り込んできた。私と背中あわせに座ったのだが、その会話を耳にして私は驚いた。その女性の話し方が、言葉のみならず、発音、言い方まで、幼児のそれだったのだ。「おばーチャンと、ホレ、ワー、楽チィーネー」と。

 この女性は孫を楽しませようとしていたのだろうが、一方で、孫を完全に、「子ども扱い」をしているのがわかった。一見ほほえましい光景に見えるかもしれないが、それは同時に、子どもの人格の否定そのものと言ってもよい。もっと言えば、その女性は孫を、不完全な人間と扱うことによって、子どもに対するおとなの優位性を、徹底的に植えつけている!

それだけその女性の保護意識が強いということになるが、それは同時に、無意識のうちにも孫に対して、依存心をもたせていることになる。ある女性(63歳)は、最近遊びにこなくなった孫(小4男児)に対して、電話でこう言った。「おばあちゃんのところへ遊びにおいで。お小づかいをあげるよ。それにほしいものを買ってあげるからね」と。これもその一例ということになる。結局はその子どもを、一人の人間として認めていない。

 欧米では、とくにアングロサクソン系の家庭では、親は子どもが生まれたときから、子どもを一人の人間として扱う。確かに幼稚語(たとえば「さようなら」を「ターター」と言うなど)はあるが、きわめてかぎられた範囲の言葉でしかない。こうした姿勢は、子どもの発育にも大きな影響を与える。たとえば同じ高校生をみたとき、イギリスの高校生と、日本の高校生は、これが同じ高校生かと思うほど、人格の完成度が違う。

日本の高校生は、イギリスの高校生とくらべると、どこか幼い。幼稚っぽい。大学生にいたっては、その差はもっと開く。これは民族性の違いというよりは、育て方の違いそのもの。カナダで生まれ育った日系人の高校生にしても、日本の高校生より、はるかにおとなっぽい。こうした違いは、少し外国に住んだ経験のある人なら、だれでも知っていること。その違いを生み出す背景にあるのが、子どもを子どものときから、子ども扱いして育てる日本型の子育て法にあることは、言うまでもない。

 何気なく使う幼稚語だが、その背後には、深刻な問題が隠されている。それがこの文をとおして、わかってもらえれば幸いである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(293)

●依存心と人格

 依存心が強ければ強いほど、当然のことながら、子どもの自立は遅れる。そしてその分、人格の「核」形成が遅れる。よく過保護児は子どもっぽいと言われるが、それはそういう理由による。

 人格というのは、ガケっぷちに立たされるような緊張感があって、はじめて完成する。いわゆる温室のようなぬるま湯につかっていては、育たない。そういう意味では、依存心を助長するような甘い環境は、人格形成の大敵と考えてよい。

 で、その人格。わかりやすく言えば、「つかみどころ」をいう。「この子どもはこういう子どもだ」という、「輪郭」と言ってもよい。よきにつけ、悪しきにつけ、人格の完成している子どもは、それがはっきりしている。そうでない子どもは、どこかネチネチとし、つかみどころがない。「この子どもは何を考えているのかわからない」といった感じの子どもになる。

そのため教える側からすると、一見おとなしく従順で教えやすくみえるが、実際には教えにくい。たとえば学習用のプリントを渡したとする。そのとき輪郭のはっきりしている子どもは、「もうやりたくない。今日は疲れた」などと言う。そう言いながら、自分の意思を相手に明確に伝えようとする。しかし輪郭のはっきりしない子どもは、黙ってそれに従ったりする。従いながら、どこかで心をゆがめる。それが教育をむずかしくする。

 が、問題は、子どもというより、親にある。設計図の違いといえばそれまでだが、依存心が強く、従順で服従的な子どもを「いい子」と考える親は多い。つい先日も、私の教室をのぞき、「こんなヒドイ教室とは思いませんでした」と言った母親がいた。見るとその母親がつれてきた子ども(小2男児)は、まるでハキがなく、見るからに精神そのものが萎縮しているといったふうだった。表情も乏しく、皆がどっと笑うようなときでも、笑うことすらできなかった。

そういう子どもがよい子と信じている母親からみると、ワーワーと自己主張し、言いたいことを言っている子どもは、「ヒドイ」ということになる。私は思わず、「あなたの子育て観はまちがっている」と言いかけたが、やめた。親は、結局は自分で失敗してみるまで、それを失敗とは気づかない。それまでは私のような立場の人間がいくら指導しても、ムダ。しかも私の生徒ならまだしも、見学に来ただけだ。私にはそれ以上の責任はない。

 総じて言えば、日本人は自分の子どもに手をかけすぎ。そうした日本人独特の子育て法が、日本人の国民性にまで影響を与えている。が、それだけではない。日本人の考え方そのものにも影響を与えている。その一つが、日本人の「依存心」ということになる。


 


ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(294)

●心の風邪……いかにして「無」になるか

 夢や期待がある間は、親も苦しむが、子どもも苦しむ。とくに子どもが「心の風邪」をひいたときはそうで、もしそういう状態になったら、親は自分の心を「カラ」にする。またその「カラ」になったときから、子どもは立ちなおり始める。親が「こんなはずはない」「まだ何とかなる」と思っている間は、子どもは心を開かない。開かない分だけ、立ちなおりが遅れる。

 ある高校生(高2女子)はこう言った。「何がつらいかといって、親のつらそうな顔を見るくらい、つらいものはない」と。彼女は摂食障害と対人恐怖症がこじれて、高校に入学したときから、高校には通っていなかった。

こういうケースでも大切なことは、子どもの側からみて、親の存在を感じさせないほどまで、親が子どもの前で消えることである。「あなたはあなたの人生だから、勝手にしなさい。そのかわり私は私の人生を勝手に生きるから、じゃましないでね」という親の姿勢が伝わったとき、子どもの心はゆるむ。こうした心の風邪は、「以前のほうが症状が軽かった」という状態を繰りかえしながら、症状は悪化する。そして一度こういう状態になると、あとは何をしても裏目、裏目に出てくる。それを断ち切るためにも、親のほうが心を「カラ」にする。ポイントはいくつかある。

(1) 子どもがあなたの前で、心と体を休めるか……今、あなたの子どもは学校から帰ってきたようなとき、あなたの目の前で、心と体を休めているだろうか。あるいは休めることができるだろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。子どもが心の風邪をひいたときもそうで、もしあなたの子どもがあなたの目の前で平気で、心と体を休めることができるようなら、もうすでに回復期に入ったとみてよい。

(2) 症状は一年単位でみる……心の風邪は外からみえないため、親はどうしても軽く考える傾向がある。「わがまま」とか、「気のせい」とか考える人もいる。しかし症状は一年単位でみる。月単位ではない。もちろん週単位でもない。親にしてみれば、一週間でも長く感ずるかもしれないが、いつも「去年とくらべてどうだ」というような見方をする。月単位で改善するなどということは、ありえない。いわんや週単位で改善するなどということは、絶対にありえない。つまり月単位で症状が改善しても、また悪化しても、そんなことで一喜一憂しないこと

(3) 必ずトンネルから出る……子ども自身の回復力を信じること。心の風邪は、脳の機能の問題だから、時間をかければ必ずなおる。そしてここが重要だが、必ずいつか、「笑い話」になる。要はその途中でこじらせないこと。軽い風邪でもこじらせれば、肺炎になる。そんなわけで、「なおそう」と思うのではなく、「こじらせない」ことこそが、心の風邪に対するもっとも効果的な対処法ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(295)

●自分を知る

 教育のすばらしい点は、教育をしながら、つまり子どもを通して、自分を知るところにある。たとえば私はときどき、自分の幼児期をそのまま思い出させるような子どもに出会うときがある。「ああ、私が子どものころは、ああだったのだろうな」と。そういう子どもを手がかりに、自分の過去を知ることがある。

 私は子どものころ、毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた(=帰宅拒否?)。私はよく大泣きして、そのあとよくしゃっくりをしていた(=かんしゃく発作?)。私は今でも靴が汚れていたりすると、ふと女房に命令して、それを拭かせようとする(=過保護?)。ひとりで山荘に泊まったりすると、ときどきこわくて眠れないときがある(=分離不安?)、と。

私のいやな面としては、だれかに裏切られそうになると、先にこちらからその人から遠ざけてしまうことがある。小学五年生のときだが、自分の好意の寄せていた女の子のノートに落書きをして、その女の子を泣かせてしまったことがある。その女の子にフラれる前に、私のほうが先手を打ったことになる。あるいは学生時代、旅行というと、家から離れて、とにかく遠くへ行きたかったのを覚えている。……などなど。理由はともかくも、私は結構心のゆがんだ子どもだったようだ。そんなことが子どもを教えながらわかる。

が、ここで話したいことは、このことではない。自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児放棄であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。

「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それに気づくことが、自分を知る第一歩である。

まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。そのためにも、一度、自分の中を、冷静に旅してみるとよい。あなたも本当の「自分自身」に出会うことができるかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(296)

●親は子で目立つ

 よきにつけ、悪しきにつけ、親は子で目立つ。つまり目立つ子どもの親は、目立つ。たとえば園や学校で、よい意味で目立つ子どもの親は、あれこれ世話役や委員の仕事を任せられる。そんなわけでもしあなたが、よく何かの世話役や委員の仕事を園や学校から頼まれるとしたら、それはあなたの子どもがよい意味で目立つからと考えてよい。

子どもというのは、家へ帰ってから、園や学校での友だちの話をする。ほかの親たちはそういう話をもとにして、あなたのことを知る。もちろん悪い意味で目立つ子どももいる。しかしそういうばあいは、世話役や委員などの仕事は回ってこない。

一つの基準として、あなたの子どもが、友だち(とくに異性)の誕生会などのパーティによく招かれるようであれば、あなたの子どもは園や学校で人気者と考えてよい。実際に子どもを招くのは親。その親は日ごろの評判をもとにして、どの子どもを招待するかを決める。同性のときは、ギリやつきあいで呼ぶことも多いが、異性となると、かなり人気者でないと呼ばない。

一方、嫌われる子どもというのはいる。もう一五年ほど前(一九八五年ころ)の古い調査で恐縮だが、私が調べたところ、嫌われる子どもというのは、つぎのようなタイプの子どもということがわかった(小学生三~五年生、二〇人に聞き取り調査)。

(1)いじめっ子、(2)乱暴な子、(3)不潔な子、(4)無口な子。私が「静かな子(無口な子)は、だれにも迷惑をかけるわけでないから、いいではないのか?」と聞くと、「不気味だからいやだ」という答がはねかえってきた。親たちの間で嫌われる子どもは、何か問題のある子どもということになる。また人気のある子どもは、明るく活発で、運動や学習面で目立つ子どもをいう。やさしい子どもや、おもしろい子どもも、それに含まれる。

 先日もある母親がこう相談してきた。「いつも世話役を命じられて困っています」と。で、私はこう言った。「それはあなたの子どもがいい子だからですよ」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(297)

●臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

 「臥薪嘗胆」というよく知られた言葉がある。この言葉は「父のカタキを忘れないために、呉王の子の夫差(ふさ)が薪(まき)の上に寝、一方、それで敗れた越王の勾践(こうせん)が、やはりその悔しさを忘れないために熊のキモをなめた」という故事から生まれた。「目的を遂げるために長期にわたって苦労を重ねること」という意味に、広く使われている。しかし私はこの言葉を別の意味に使っている。

 私は若いころからずっと、下積みの生活をしてきた。自分では下積みとは思っていなくても、世間は私をそういう目で見ていた。私の教育論は、そういう下積みの中から生まれた。言い換えると、そのときの生活を忘れて、私の教育論はありえない。で、いつも私はそのころの自分を基準にして、自分の教育論を組み立てている。つまりいつもそのころを思い出しながら、自分の教育論を書くようにしている。それを思いださせてくれるのが、自転車通勤。

 この自転車という乗り物は、道路では、最下層の乗り物である。たとえ私はそう思っていなくても、自動車に乗っている人から見ればジャマモノであり、一方、車と接触すれば、それで万事休す。「命がけ」というのは大げさだが、しかしそれだけに道路では小さくなっていなければならない。その上、私が通勤しているY街道は、歩道と言っても、道路のスミにかかれた白線の外側。側溝のフタの上。電柱や標識と民家の塀の間を、スルリスルリと抜けながら走らなければならない。

 しかしこれが私の原点である。たとえばどこか大きな会場で講演に行ったりすると、たいていはグリーン車を用意してくれ、駅には車が待っていてくれたりする。VIPに扱ってもらうのは、それなりに楽しいものだが、しかしそんな生活をときどきでもしていると、いつか自分が自分でなくなってしまう。が、モノを書く人間にとっては、これほど恐ろしいものはない。

私が知っている人の中でも、有名になり、金持ちになり、それに合わせて傲慢になり、自分を見失ってしまった人はいくらでもいる。そういう人たちの見苦しさを私は知っているから、そういう人間だけにはなりたくないといつも思っている。仮に私がそういう人間になれば、それは私の否定ということになる。

もっと言えば、人生の敗北を認めるようなもの。だからそれだけは何としても避けなければならない。そういう自分に戻してくれるのが、自転車通勤ということになる。私は道路のスミを小さくなりながら走ることで、あの下積みの時代の自分を思い出すことができる。つまりそれが私にとっての、「臥薪嘗胆」ということになる。私はときどきタクシーの運転手たちに、「バカヤロー」と怒鳴られることがある。しかしそのたびに、「ああ、これが私の原点だ」と思いなおすようにしている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(298)

●親は外に大きく

 生きザマにも2種類ある。プラス思考とマイナス思考である。「思考」を「志向」という漢字に変えてもよい。前向きに生きていくのが、プラス思考。内向きに生きていくのが、マイナス思考ということになる。

たとえば人は、一度マイナス思考になると、ものの考え方が保守的になり、過去の栄光にしがみつくようになる。たとえば退職した人が、現役時代の役職や肩書きにこだわるのがそれ。退職してからも、「自分は偉かったのだ」という亡霊をひきずって歩く。だれもそんなことを気にしていないのだが、本人は注目されていると思いこんでいる。思いこみながら、「自分は大切にされるべきだ」「自分は皆に尊敬されているのだ」という意識をもつ。学歴や自分の家柄にこだわる人も同じように考えてよい。

 実のところ、子育ても同じように考えてよい。その時点でいつも前向きに子育てをしている人もいれば、そうでない人もいる。前向きに子育てするのは問題ではないが、問題は内向きになったときだ。子どもの成績が気になる。態度も気になる。親どうしのトラブルも絶えない、など。一度こういう状態に入ると、かなりタフな親でもかなり神経をすり減らす。そしてそれが長く続くと、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。そこから抜け出ようともがけばもがくほど、ますますにっちもさっちもいかなくなってしまう。

 こういうときの解決法が、これ。『親は外に大きく』である。子育てを忘れて、外に向かって大きく羽ばたく。そしてその結果として、子育てから遠ざかる。大きくなる方法はいくらでもある。仕事でもボランティア活動でも、好きなことをすればよい。要するに身の回りに大きな敵をつくって、身近なささいな敵は相手にしないようにする。

私も過去、たとえばあるカルト教団を相手に本を何冊か書いて戦ったことがある。最初はこわかったが、しかしそれも終わってみると、いつの間にか、私はこわいもの知らずなっていた。あるいは私は30歳くらいのときから、あちこちで講演活動をしている。最初のころは、より大きな講演会場になればなるほど、神経をすり減らしたものだ。数日前から不眠症になってしまったこともある。しかしそれを繰り返すうちに、やはりこわいものがなくなってしまった。人は自らを、そういう方法で大きくすることができる。

 自分がマイナス思考になるのを感じたら、外に向かって大きく羽ばたくとき。それは子どものためでもあるが、結局は自分のためでもある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(299)

●互いに別世界

 世間体や見栄、体裁がいかにくだらないものかは、その世界から離れてみるとよくわかる。しかしその世界の中にいる人には、それがわからない。それはいわば信仰の世界のようなもの。

その信仰の世界にいる人には、その信仰の世界がすべて。その信仰の世界の外の世界そのものが信じられない。あるいはその信仰の外の世界が、まったく無意味に見える。が、その信仰も一度離れてみると、「どうしてあんなものを信じていたのだろう」と思うもの。どんな信仰にも、そういう面がある。「私の信じている信仰だけは違う」と思いたい気持ちはわかるが、現に今、この日本だけでも約20万団体もの宗教団体があり、それぞれが、「自分たちのこそが絶対正しい」と言って、しのぎを削っている。20万という数は全国の美容院の数とほぼ同じ。

 子育ての世界でも、同じような現象を見ることができる。たとえば自分の子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親はその世間体の悪さ(何も悪くはないのだが……)、その事実を必死になって隠そうとする。自分の子育てそのものを否定されたかのように感ずる親も多い。

しかしそういう世界から抜け出て、いつか不登校の子どもと一緒に街の中を歩くことができるようになると、それまでの自分が、限りなく小さく見えてくる。「どうしてあんなことを気にしていたのだろう」と。つまりまったく別の世界に入るわけだが、それがここでいうひとつの信仰から、その外の世界に出た人の心境に似ている。離れてみると、何でもなかったことに気づく。

 ここで大切なことは、二つある。一つは、自分の中の信仰に気づくこと。つぎに大切なことは、勇気を出してその信仰の世界から遠ざかること。「勇気を出して」というのは、実際、一つの信仰から離れるということは、勇気がいる。まず心に大きな穴があく。この穴がこわい。それはものすごい空虚感といってもよい。人によっては、混乱を通り越して、狂乱状態になる。たとえばたいていの宗教では、とくにカルトと呼ばれている宗教ほどそうだが、バチ論をその背後で展開している。「この信仰をやめたらバチがあたる」と教えている宗教団体は少なくない。だからよけいに、勇気がいる。

 同じように、世間体や見栄、体裁の中で生きてきた人も、それらから決別するとき、大きく混乱する。そういうもので、自分の価値観をつくりあげているからだ。人生の柱にしている人も少なくない。だから勇気がいる。しかし……。

 仮に信仰するとしても、自分の理性まで眠らせてしまってはいけない。何が正しくて、何が正しくないかを、いつも冷静に判断しなければならない。おかしいものはおかしいと思う、理性まで眠らせてはいけない。子育てもまさにそうで、私たちは親として子どもを育てるが、そういう冷静な目は、いつももっていなければならない。でないと、よく信仰者が自分を見失うように、親も子どもを見失うことになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(300)

●バカなフリをして、子どもを自立させる

 私はときどき生徒の前で、バカな教師のフリをして、子どもに自信をもたせ、バカな教師のフリをして、子どもの自立をうながすことがある。「こんな先生に習うくらいなら、自分で勉強したほうがマシ」と子どもが思うようになれば、しめたもの。親もある時期がきたら、そのバカな親になればよい。

 バカなフリをしたからといって、バカにされたということにはならない。日本ではバカの意味が、どうもまちがって使われている。もっともそれを論じたら、つまり「バカ論」だけで、それこそ一冊の本になってしまうが、少なくとも、バカというのは、頭ではない。映画『フォレストガンプ』の中でも、フォレストの母親はこう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。いわんやフリをするというのは、あくまでもフリであって、そのバカなことをしたことにはならない。

 子どもというのは、本気で相手にしなければならないときと、本気で相手にしてはいけないときがある。本気で相手にしなければならないときは、こちら(親)が、子どもの人格の「核」にふれるようなときだ。しかし子どもがこちら(親)の人格の「核」にふれるようなときは、本気に相手にしてはいけない。そういう意味では、親子は対等ではない。

が、バカな親というのは、それがちょうど反対になる。「あなたはダメな子ね」式に、子どもの人格を平気でキズつけながら(つまり「核」をキズつけながら)、それを茶化してしまう。そして子どもに「バカ!」と言われたりすると、「親に向かって何よ!」と本気で相手にしてしまう。

 言いかえると、賢い親(教師もそうだが)は、子どもの人格にはキズをつけない。そして子どもが言ったり、したりすることぐらいではキズつかない。「バカ」という言葉を考えるときは、そういうこともふまえた上で考える。

私もよく生徒たちに、「クソジジイ」とか、「バカ」とか呼ばれる。しかしそういうときは、こう言って反論する。「私はクソジジイでもバカでもない。私は大クソジジイだ。私は大バカだ。まちがえるな!」と。子どもと接するときは、そういうおおらかさがいつも大切である。
  

2009年6月29日月曜日

*Delete the Brain

●使わない脳は退化する?

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XPパソコンのばあい、ときどきこんな表示が
画面に出たことがあった。

「デスクトップに、6か月以上、使われていないソフトが
あります。削除しますか?」と。

こういうのを、いらぬお節介という。
つまり「長い間、使っていないから、削除したほうが
いい」と。

もっともパソコンのばあいは、それでよいとしても、
脳のばあいは、どうか?

人間の脳の中でも、同じような現象が起きているという。
毎日新聞は、つぎのように伝える。

+++++++++++++++++++++

 『……脳神経細胞同士の接続を正常に保つ働きをたんぱく質「Wnt」が持つことを、林悠(はやしゆう)・理化学研究所基礎科学特別研究員(元東京大大学院)ら、東大と九州大のチームが線虫を使い解明した。

哺乳(ほにゅう)類も同じメカニズムを持つと見られ、アルツハイマー病など脳神経変性疾患の理解につながると期待される。28日付の米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス」電子版に掲載された。

 人間は成長期に脳神経細胞同士が突起を伸ばして盛んにつながる一方、「刈り込み」という不要な接続の削除が行われる。アルツハイマー病やパーキンソン病は、刈り込みが過剰に起きて脳神経機能が阻害されることが一因と考えられている』(毎日新聞09年6月29日)と。

●接続の削除

 一個の脳神経細胞からは、数十万本という突起(ニューロン)が延びている。
その突起が複雑に接続しあいながら、脳は機能する。
それはよく知られた事実だが、その接続を、脳自身が、勝手に削除してしまうことも
あるという。
それを「刈り込み」という。

ヘ~~~エ!
知らなかった。

 要するに、使わない脳みそは、どんどんと刈り込みがなされ、コンピュータにたとえる
なら、そのままゴミ箱へと捨てられるということらしい。
コンピュータのばあいは、そのほうがハードディスクも身軽になり、動きも軽快になる。
しかし人間の脳について言えば、それは困る。
使わないといっても、5年後、あるいは10年後に、また使うことがあるかもしれない。
勝手に刈り込み、つまり削除されてしまっては、困る!

 で、今回、理化学研究所の研究員の人たちが、脳神経細胞同士の接続を正常に保つ働き
をたんぱく質「Wnt」が持つことを発見したという。
つまり「Wnt」が、刈り込みに対して、ブレーキの役目をするということらしい。
(「ブレーキ」というのは、私の勝手な判断によるもの。)
もし刈り込みが、どんどんと勝手になされたら、それこそ脳の中は、からっぽになって
しまう。

『アルツハイマー病やパーキンソン病は、刈り込みが過剰に起きて脳神経機能が阻害され
ることが一因と考えられている』ということだから、「脳が軽くなった」と喜ぶわけには
いかない。

●刈り込み

 しかしその「刈り込み」を実感として、感ずることが、このところ多くなった。
つい先日は、FLASH(動画編集)の編集の仕方を忘れてしまった。
一時は、それをよく使って、私のHPを飾った。

が、それから2、3年。
ソフトを立ち上げたあと、「どうだったか?」「こうだったかな?」の連続。
結局、マニュアル本を再度読みなおすハメに……。

 脳が勝手に、FLASHの使い方を、削除してしまったらしい。
で、その「刈り込み」に対して、「Wnt」というたんぱく質が、ブレーキのような
働きをするという。

 ……それに、このところパソコン相手の将棋で、けることが多くなった……。

 が、ここで新たな疑問。

 パソコンのばあい、たとえば私は今度、ハードディスクを1テラバイト(=1000
GB)のものに取り換えた。
が、1テラバイトといっても限界がある。
(おおざっぱに言えば、1時間分のビデオを1本収録すると、20~30GBもの容量が
減る。)
だから新しい情報を蓄積するときは、同時に、ハードディスク内から、不用な情報を
消していかねばならない。

 脳のばあいも、刈り込みがあるからこそ、そこに余裕ができるのではないのか?

●情報の洪水の中で……

 先日も長野県のある町にある、ある文豪の記念館を訪れてみた。
大正時代から昭和の初期に活躍した文豪である。

 私はそこに残っている文章を読んで、ア然とした。
へたくそというか、まるで意味のないエッセー。
しかも全集として本が並んでいたが、私の半年分の原稿量にもならない。
(現在、私は1か月で、500枚前後の原稿を書いている。
400字詰めの原稿用紙になおすと、2000枚近くになる。
単行本1冊が、約400枚前後だから、毎月5冊分の原稿を書いていることになる。)

 といっても、大正時代と現代とでは、情報の量そのものがちがう。
20年前とくらべても、ちがう。
20年前には、図書館通いが日課だった。
が、今は、インターネットを使って、必要な情報が瞬時、瞬時に調べられる。
が、その分、情報の量が、ケタちがいに多くなった。
それこそ毎日が、情報の洪水。
ドドーッと押し寄せてきては、ドドーッと去っていく。

 じょうずに情報をコントロールしないと、それこそ、情報の洪水の中で、
溺れてしまう。

●では、どうすればよいか

 が、ここで重要なことが一つある。
それは先の毎日新聞の記事をていねいに読むと、わかる。

 刈り込みには、必要な情報すらも削除してしまうということも含まれる。
それに新しい情報が入ってくるとか、入ってこないとか、そういうことには関係なく、
削除してしまうということらしい。

 パソコンにたとえるなら、私が現在使っている、ワード2007のソフトまで削除
してしまうということになる。
が、これは困る。
それがアルツハイマー病とか、パーキンソン病ということになる。

 そこでハタと、また考える。
では、どうすればよいのか、と。

 研究者たちの意見を拝借すれば、「Wnt」というたんぱく質を補えばよいという
ことになる。
が、脳には、フィードバックという作用もある。
余計な物質を脳の中に送り込むと、脳は、それを打ち消すための別の作業を開始する。
脳のメカニズムを単純に考えることは、危険なことでもある。

 となると、突起、つまりシナプスを、どんどんとふやすしかない。
このシナプスは、訓練によって、いくらでもふやすことができる。
つまり頭は、使えば使うほど、よくなる。
年齢にも左右されない。
言い換えると、毎日、数億本の突起が刈り込みされたら、それ以上の突起を、作れば
よい。

 ものごとは、前向きに考えよう!

 それにしても、「刈り込み」とは?
脳というのは、一生を通しても、そのうちの何分の1も使わないという。
だったらこんなお節介なことをしなくても、よいのではないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BWクラブ 刈り込み 突起 シナプス はやし浩司
記憶の削除)

*Essays on House Education(Part 3)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(221)

●個性は生きザマ

 個性は生きザマの問題。服装ではない。外観でもない。中に子どもを茶パツにし、(茶パツが悪いといっているのではない)、「個性です」という親がいるが、そういうのは個性とは言わない。個性というのは生きザマだ。その人がどんな人生観をもち、どんな生き方をしているかが個性だ。その生きザマが光る人を、個性のある人という。服装や外観は、あくまでもその結果でしかない。

 私ははからずもある国家プロジェクトの会議のメンバーに選ばれたことがある。行政担当者の人選ミスによるものだが、その会議のメンバーは、私をのぞいて、そうそうたるメンバーであった。日本を代表するような哲学者や科学者、それに毎晩テレビに顔を出すキャスターもいた。その中でもとくに私の印象に残ったのが、養老猛司氏であった。解剖学が専門だと聞いている。

で、会議で見ると、頭はボサボサ、ブレザーのスーツも、どこかごくふつうのブレザーであった。もし電車の中で横に並んでも、だれもあの養老氏とは思わないだろう。私なんかふだんはそんなことを気にしたこともないのに、会議のたびに、何を着ていこうかとか、そんなことばかり気にしていた。(会議のたびに10~20人の取材人が押し寄せたこともある。)

が、養老氏は、まったくのふだん着。それだけを見てそう判断するのは、軽率かもしれないが、「ああ、大物は違うな」と、そのときはそう思った。そういうのを個性という。

 子どもでも個性の光る子どもと、そうでない子どもがいる。どこがどう違うかといえば、要するに自分をもっているかどうかということ。もう少しわかりやすく言えば、「つかみどころ」ということになる。個性をもっている子どもは、子どもながらにそのつかみどころがはっきりとしている。

方向性や志向性がはっきりしていて、その方向性や志向性に向かって、前向きに取り組んでいる。もっと言えば、内に秘めたバイタリティというか、そういうエネルギーを感ずる。もちろん子どもの段階では、その子どもがどんな個性をもつようになるかまではわからない。わからないが、個性をもつだろうということはわかる。

 このことはつまり、子どもの個性を伸ばすということは、子ども自身がもつ方向性や志向性を認め、そのバイタリティを前向きに引き出すということにもなる。結果、その子どもがどういう個性を光らせるようになるかは、あくまでもその子ども自身の問題であって、教師はもちろんのこと、ひょっとしたら親ですら関知しえない問題かもしれない。あくまでも子ども自身が決める問題なのだ。

 ……しかし実際のところ、「私は私」という生きザマを貫くことは、この日本ではたいへん難しい。日本の社会そのものが、個性を認めるほど社会的に成熟していないこともある。このことについては、また別のところで考える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(222)

●アルバムをそばに置く

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成長していく喜びを知る。それだけではない。子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を学ぶ。ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なのだ。

一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長男児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まずいない。哺乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たいてい「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。記憶が記憶として想起できるようになるのは、満4・5歳前後からとみてよい(※)。

このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長児にならないとわからない。が、一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理解するのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、このアルバムには、不思議な力がある。

 ある子ども(小5男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見ていた。また別の子ども(小3男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つまりアルバムには、心をいやす作用がある。

それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、それだけではない。

冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに父親や母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。それは子どもにとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私はあのとき感じたショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときのことだ。「これがぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学3年生ぐらいのときのことだったと思う。

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあった。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには100冊近いアルバムが並んでいた。それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあった。

そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情をしているのに、私は気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置いてみるとよい。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(223)

●前向きの暗示を

 子どもを伸ばす秘訣の一つ、それはいつも子どもには前向き(プラス)の暗示をかける。「あなたはどんどんいい子になる」「あなたはどんどん伸びている」「あなたは以前のあなたよりすばらしい」と。まちがってもうしろ向き(マイナス)の暗示をかけてはいけない。いわんや、「あなたはやっぱりダメな子」式の、人格攻撃はタブー中のタブー。これはもう、言葉による虐待と考えてよい。そこで子どもを伸ばす話術。いろいろある。

(1) 頭ごなしの禁止命令はしない……「○○をしてはダメ」式の禁止命令は、できるだけ少なくする。「指しゃぶりはダメ」「騒いではダメ」など。そういうときは私のばあい、「おいしそうな指ね、先生にもなめさせてね」「お尻がかゆい人は騒いでいていい」などと言うようにしている。頭ごなしの禁止命令が日常化すると、子どもの心は内閉する。(あるいは粗放化する子どももいる。)

(2) いつも具体性をもたせる……「静かにしないさい」ではなく、「口を閉じていなさい」と言う。「しっかりとあいさつをしないさ」ではなく、「体をまげて、自分の足を見なさい」と言うなど。具体性のない指示は、子どもには意味がないと思うこと。

(3) そして子どもには、いつも「あなたはすばらしい子」という前提で話しかける。何か失敗しても、「あなたらしくはないわね」「いろいろなときがあるわね」とか言うなど。そのためには、まずあなた自身の心をつくりかえなければならない。もし心のどこかで不安だ、心配だと思っているなら、そういう不安や心配を取り除く。それがあると結果として、そういうあなたの心は子どもに伝わってしまう。そしてそれがマイナスの暗示になってしまう。

 つまるところ子どもを伸ばすということは、子どもを信ずるということ。しかし子どもを信ずることは、たいへんむずかしい。子育てでも、最大のテーマではないか。そんなことも考えながら、前向きの暗示とは何か、それを考えてみるとよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(224)

●新居の関所

 浜名湖の南西にある新居町には、新居関所がある。関所の中でも唯一現存する関所ということだが、それほど大きさを感じさせない関所である。江戸時代という時代のスケールがそのまま反映されていると考えてよいが、驚くのは、その「きびしさ」。関所破りがいかに重罪であったかは、かかげられた史料を読めばわかる。

つかまれば死罪だが、その関所破りを助けたものも同程度の罪が科せられた。新居の関所破りをして、伊豆でつかまった男は、死体を塩漬けにして新居までもどされ、そこでさらにはりつけに処せられたという記録も残っている。移動の自由がいかにきびしく制限されていたかが、この事実ひとつをとっても、よくわかる。が、さらに驚いたことがある。

 あちこちに史料と並んで、その史料館のだれかによるコメントが書き添えてある。その中の随所で、「江戸時代は自由であった」「意外と自由であった」「庶民は自由を楽しんでいた」というような記述があったことである。当然といえば当然だが、こうした関所に対する批判的な記事はいっさいなかった。私と女房は、読んでいて、あまりのチグハグさに思わず笑いだしてしまった。「江戸時代が自由な時代だったア?」と。

 もともと自由など知らない人たちだから、こうしたきゅうくつな時代にいても、それをきゅうくつとは思わなかっただろうということは、私にもわかる。あの北朝鮮の人たちだって、「私たちは自由だ」(報道)と言っている。

あの人たちはあの人たちで、「自分たちの国は民主主義国家だ」と主張している。(北朝鮮の正式国名は、朝鮮人民民主主義国家。)現在の私たちが、「江戸時代は庶民文化が花を開いた自由な時代であった」(パネルのコメント)と言うことは、「北朝鮮が自由な国だ」というのと同じくらい、おかしなことである。私たちが知りたいのは、江戸時代がいかに暗黒かつ恐怖政治の時代であったかということ。新居の関所はその象徴ということになる。

たまたま館員の人に説明を受けたが、「番頭は、岡崎藩の家老級の人だった」とか、「新居町だけが舟渡しを許された」とか、どこか誇らしげであったのが気になる。関所がそれくらい身分の高い人によって守られ、新居町が特権にあずかっていたということだが、批判の対象にこそなれ、何ら自慢すべきことではない。

 たいへん否定的なことを書いたが、皆さんも一度はあの関所を訪れてみるとよい。(そういう意味では、たいへん存在価値のある遺跡である。それはまちがいない。)そしてその関所をとおして、江戸時代がどういう時代であったかを、ほんの少しでもよいから肌で感じてみるとよい。

何度もいうが、歴史は歴史だからそれなりの評価はしなければならない。しかし決して美化してはいけない。美化すればするほど、時代は過去へと逆行する。そういえば関所の中には、これまた美しい人形が八体ほど並べられていたが、まるで歌舞伎役者のように美しかった。私がここでいう、それこそまさに美化の象徴と考えてよい。
(※こまかい点は、聞き覚えなので、事実と違うかもしれない。)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(125)

●便利な世界

 便利さはそれになれると、感覚がマヒする。私のきわめて身の回りのことを書く。
 
10年近く前から私はワープロを使うようになった。いや、もう15年になるかもしれない。当初私は、その便利さに圧倒された。そのワープロが今度は、パソコンにかわった。私はこれまたその便利さに圧倒された。文を書くだけではなく、原稿の送受信まで、それこそ瞬時にやってのける。そこで私はさらに便利にするため、周辺機器を買いそろえた。プリンターやスキャナーはもちろんのこと、ほとんどの周辺機器はとりそろえた。で、今では私の部屋は、足の踏み場もないほどコード類が走り回っている。パソコンだけで6台だから、どの程度のコードかは、わかる人ならわかると思う。

 が、便利というのは恐ろしいものだ。そのつど格段に私の仕事は便利になったが、気がついてみると、最近ではマウスをクリックするだけでも、不便に感ずるのだ。ワープロの時代は文書をそのつどフロッピーに保存し、プリントのたびに紙をワープロに設置した。印刷時間も今の5~6倍はかかったのではないか。もちろん原稿は封筒に入れ、真夜中でも速達で出すため、郵便局まで車を走らせた。(それでも当時は当時で便利になったものだと喜んでいた!)それがマウスをクリックするだけでも、不便に感ずる? 

たとえばOCRというソフトがある。スキャナーに原稿をはさんで、それをスキャンすると、その原稿の文字をパソコンの中に取り込んでくれる。昔のように原稿を見ながら、それをカチャカチャとキーボードをたたいて入力する必要など、もうない。ないにもかかわらず、それがめんどうなのだ。女房からひとつの仕事を頼まれているが、「まだア?」とこのところ毎日のように催促されている。やる気になれば、5分程度で、数枚の原稿を読み取ることができるというのに!

 だいたいにおいて書斎に座ったら最後、動くのは指先だけ。体を動かさねばならないようなことは、めったにない。それこそ紙の補給ぐらいなものか。だからこういう世界にどっぷりとつかってしまうと、体を動かすこと、たとえば立ちあがってすわることが重労働に思われるから不思議である。

 ……と考えて、これはもう現代文明に共通する「矛盾」ではないかと思っている。考えてみれば、ありとあらゆるものがそうなのである。しかし人間はあくことなく、さらなる便利さを求めて動き回っている。これを進歩というか、はたまた後退というのかは、私にはわからないが、大きな矛盾であることには違いない。あるいはそれは本当に人間が求めているものかどうかは、大きな疑問の残るところでもある。

 私は今、この文をその書斎で書きながら、やがて私はその便利さにどこまで体がなれてしまうか、それをそら恐ろしくすら思い始めている。やがて指を動かすことすらめんどうに感ずるようになってしまったら……? それももう時間の問題のような気がするが……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(226) 
 
●案ずるより産むがやすし

 心配性の親というのは、たしかにいる。しかし「心配性」というのは、不安神経症のことか。さらにはうつ病の「不安発作」ということも考えられる。感情のコントロールができなければ、感情障害ということにもなる。このタイプの親は頭の中でつぎつぎと不安のタネをつくり、そしてそれを限りなく増大させる。「被害妄想」という言葉があるが、まさにその妄想のウズに巻き込まれてしまう。

 あるとき一人の母親が私のところへ来て、こう相談した。何でも幼稚園の下の階が、炊事室になっているという。その母親の子どもの教室がその真上にあって、「火事にでもなったら、たいへん」と。その幼稚園には避難用として一応、大きなスベリ台が二階から地上へとつながっているが、「それでは不安だ」とも。

私が「幼稚園は一応どこも、消防署の検査を受けているはずです」と言ったが、それでも納得しなかった。「地震のときはどうなのか」とか「子どもがスベリ台をこわがったらどうするのか」と。こんな母親もいた。

 息子がアメリカへ1年間留学することになったという。それについて、「心配で夜も眠られない」と。その母親はアメリカで何か事件が起きると、すべてアメリカ中で同じような事件が起きていると思ってしまうらしい。

そこで私が「テキサス州といっても、日本の二倍の広さがあります」「インドネシアで地震があると、日本も壊滅状態になったと考えるアメリカ人も少なくありません。それと同じことです」と説明したが、やはり納得しなかった。アジア全域を含めても、アメリカ大陸より小さい。

愉快だった(失礼!)だったのは、たまたまその母親はブルースウィルスの「ダイハード」という映画を見たらしい。その映画を例にとって、「アメリカは恐ろしい国ですから」と。(もしそんな心配をするなら、ビートたけしの「バトルロワイヤル」を見て、「これが日本の中学校だ」と思うようなものだが……。)ともかくも、心配する人は、そこまで心配する。

 そこで格言。「案ずるより産むがやすし」。ここでいう意味とは少しはずれるかもしれないので、この格言を少し言いかえるとこうなる。「案ずるより任すがやすし」と。子どもというのは、親の心配の外で成長するもの。心配したからといってどうにもならない。心配しないからといって、どうにかなるものでもない。子育てにはこうした心配はつきもの。そういう意味で、子育てというのはいつも自分との戦い。自分が心配だからといって、その心配を子どもにぶつけてはいけない。ぶつけるというのは、それはもう親のエゴでしかない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(227)

●威圧で閉じる子どもの耳

叱られじょうずな子どもがいる。親や先生が叱るときだけ、いかにも反省していますというような態度を示す。元気なさそうに頭をうなだれたりする。しかしそういう様子にだまされてはいけない。「だます」という言い方には少し語弊があるかもしれないが、子どもの心というのは、もっと別の角度からみる。あるいは子どもを叱るというのは、もっと別のことと考える。

 子どもの叱り方は、子育ての要(かなめ)。叱り方ひとつで、伸びる子どもも伸びなくなってしまう。あるいは反対に子どもの伸びる芽をつんでしまうこともある。そこでその叱り方。たとえば「威圧で閉じる子どもの耳」と覚えておく。親が威圧的になればなるほど、子どもの耳は閉じるということ。そして一度閉じると、あとはいくら叱っても意味がないということ。

 実際こんな子ども(小5男児)がいた。親に叱られるときは、いつも心の中で「ポケモン言えるかな」を歌っていると。この歌は、ポケモンの名前を連ねただけの意味のない歌だが、意味がないだけにそういうときに役にたつらしい? 子どもを叱るときには、つぎのようなことに注意するとよい。

(1)視線を子どもの目線の高さまで落とす。
(2)子どもの体を両手で固定し、視線をしっかりと子どもの視線にあわせる。
(3)何度も大切なことだけを繰り返し、怒鳴ったり暴力を加えてはいけない。
(4)すぐには効果をもとめず、言うだけ言ったらあとは時間がすぎるのを待つ。そしてここが重要だが、
(5)子どもは決して叱りっぱなしにしてはいけない。子どもが言ったことを守れるようになったら、「ほらできるわね」とほめて仕上げる。

 親の威圧が日常的につづくと、子どもは俗にいう「常識ハズレ」になりやすい。自分で静かに考えて行動するということができなくなるためと考える。友だちの誕生日に、酒粕を包んで送った子ども(小三男児)や、虫の死骸を箱につめて送った子ども(小三男児)などがいた。そういうことを平気でするようになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(228)

●よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよい子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。またどのレベルで判断するかによっても、変わってくる。

たとえば息子が同性愛者になったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女の子はうらやましく思えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がないように。)それだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面もある。こんなことがあった。

K君(小5)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出されていた。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談があったので、私は月に1、2回程度、彼の勉強をみることにした。で、そうして1年ぐらいがたったある夜のこと、私はK君と母親の3人でたまたま話しあうことになった。が、私はK君が悪い子だとはどうしても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばかりの生命力をもっていた。おとなの冗談がじゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。

それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろうから、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間後のこと。私が一人で教室にいると、いつもより30分も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君はこう言った。「先生、肩をもんでやるよ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題ではない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そしてその像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。

要は子ども自身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性をもっていればよい子であり、そうでなければそうでないということになる。たいへんわかりにくい言い方になってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらいわかりにくいということ。もっと言えば、この世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい子も悪い子も存在しないということになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えても、意味はない。まったくない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(229)

●子どもの家出

 子どもの家出といっても、一様ではない。まず目的のない家出と、目的のある家出に分ける。目的がないかあるかは、もちものを見ればわかる。目的のない家出は、身の回りのありとあらゆるものをもって、家から一方向に遠ざかるという特徴がある。

S君(年長児)は、買い物バッグの中に、サイフから大根、おもちゃから人形、ビデオテープなど、手当たり次第につめて家出した。親が気がついて追いかけたときには、数キロ先を黙々と下を向きながら歩いていたという。一方、目的のある家出は、その先で何をするかがはっきりわかるものをもって、家を出る。サッカーの試合を見るための家出は、試合の応援のグッズをもっていくなど。

 目的のある家出は、それほど心配しなくてもよい。だれしも一度や二度は経験する。しかし目的のない家出は、家庭にかなり深刻な問題があるとみる。子ども自身が家庭の中に居場所がないばかりか、家庭が家庭として機能していないなど。たいていこのタイプの子どもは、同時に帰宅拒否(なかなか家に帰りたがらない)や、いろいろな神経症などの症状をあわせもつ。で、こうした症状はできるだけ初期症状の段階で、それを知り、家庭のあり方そのものを反省する。そこでテスト。

 あなたの子どもが園や学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めているか、それを静かに観察してみてほしい。そのときあなたの子どもがあなたのいる前で、あなたの存在を気にせず体を休めているならよい。しかしあなたの姿を見ると、どこかへ逃げていくとか、あるいは好んであなたのいないところで体を休めるようであれば、あなたと子どもの関係はかなり危険な状態にあるとみてよい。今は小さなキレツかもしれないが、やがて大きな断絶となる可能性が高い。

 子どもが小学校へ通うようになったら、家庭は「しつけの場」から、「いこいの場」、「心をいやす場」へと、変化しなければならない。またそれが家庭のあるべき姿ということになる。家出を決して軽くみてはいけない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(230)

●現場主義

 絵でもアトリエで描く絵と、現場で写生しながら描く絵がある。(それ以外にもあるが……。)教育論も、部屋に閉じこもって書く教育論と、現場で子どもたちを見ながら書く教育論がある。

私のばあい、子どもたちを直接見ながらでないと、その教育論が書けない。たとえば一週間も休みがつづいたりすると、原稿そのものが書けなくなることがある。(教育論というよりは、子育て論に近いが……。)そういう私の教育論の書き方を、私は勝手に、現場主義と呼んでいる。

 この現場主義にはいろいろな意味がある。生々しい話は現場でないと書けないという意味のほか、現場でないと、「発見」「修正」「発展」を繰り返すことができないという意味。たとえばどうも様子がほかの子どもと違う子どもを見つけたとする。それは「発見」ということになる。

で、原因をあれこれ考えながら、一つの仮説を頭の中で考える。もっとも30年以上も子どもたちを見つづけていると、どの子どもも、ある一定のパターンに分類することができる。そのパターンに分類しながら、自分の意見をまとめる。しかし簡単にはまとめられない。子どもとて、人間。いろいろな環境や要因が複雑にからみあっている。同じ過保護児といっても、症状はまさに千差万別。そこで自分の意見に、修正や訂正を加える。そのときも目の前に子どもを見ていないとできない。その修正や訂正を加えながら、さらにその奥へと切り込んでいく。これが「発展」ということになる。

 これは私が教育論を書くときの「方法」であるが、それは同時に私の「強み」でもある。ほとんどの教育評論家は、実際には子どもと接していないか、あるいは接していても、その量そのものがきわめて少ない。大学の教授と言われる人になると、ほとんど接していない。

先日もある幼稚園で講演をしたら、「○○大学附属幼稚園」となっていた。園長はその大学の教授ということだった。そこで私が「園長はよく来るのですか」と聞くと、女性の副園長(実際にはその副園長がその幼稚園を取りしきっている)は、こう言った。「たまにね。それに来ても、お客様ですから……」と。で、その道の専門家と議論しても、「私ほど現場を踏んだものはいない」という事実が、私をうしろから支えてくれる。

 私は毎日、子どもたちと接している。もしそういう経験がなかったら、私はこうまで自分の意見をまとめることはできなかっただろうと思う。それにまだある。子どものことで何かわからないことがあると、私はすぐ、子どもたちに問いかけることにしている。本でもなければ、参考書でもない。子どもたち自身にである。つまり子どもたち自身が私の先生ということになる。考えてみれば、これも現場主義ということか。

 少しコマーシャル的になったが、ここに書いているようなアドバイスは、私の現場主義から生まれたものである。






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(231)

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。

しかし幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。

 今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではないが……。)教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくなることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(232)

●子どもの自我

フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、ものの考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来に向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、まじないや占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみどころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわからない子どもといった感じになる。

その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から考える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。

反対に、威圧的な過干渉(親の価値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子どもを当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。そしてここが重要だが自我は一度つぶれると、以後、修復するのがたいへん難しい。たとえば幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その影響は一生続く。とくに乳幼児から満四~五歳にかけての時期が重要である。

 人間は、ほかの動物と同様、数10万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。その過程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。こうした本質は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思うほうがおかしい。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかということ。子育ての原点はここにある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(233)

●いじめられっ子は徳をつむ?

 世の中にはいじめる人、いじめられる人がいる。またいじめられる人が、どこかでだれかをいじめ、いじめる人が、どこかでだれかにいじめられるということもある。意識していじめたりすることもあるが、意識しないでいじめることもある。人間関係はそれだけ複雑だが、子どもの世界もまたしかり。いじめる側が絶対的な悪であり、加害者ということにはならない。いじめられる側が絶対的な善であり、被害者ということにもならない。

いじめのない世界は理想だが、しかしいじめのない世界はない。それは人間も含めて、すべての動物が共通してもつ宿命のようなものではないか。このことは飼っている犬をみてもわかる。つまり「いじめ」という表面に表れた症状だけをみて、いわば対症療法するだけではこの問題は解決しないということ。いじめの「根」はもっと深く、大きい。

最近の傾向としては、ささいないじめまで、「そら、いじめだ!」と大騒ぎする親が多いということ。もちろん問題とすべきような大きないじめもあるが、大半は、子どもどうしのトラブルと考えてよい。子どもは(そしておとなも)、それぞれの摩擦や衝突、解決や和解をとおして成長する。

 ただこういうことは言える。いじめる側はいつも何か大切なものをなくし、いじめられる側はいつも何か大切なものを手に入れるということ。以前、O君という中学生がいた。彼はやさしくて、だれにも親切な子どもだった。ある日学生服をみると、背中にいっぱい落書きがしてあった。「どうしたの?」と聞くと、O君は、「いいんです。ふざけていただけです」と笑ってごまかしていた。

明らかに皆のいじめにあっていたが、そのためか、O君にはおとなの私をもほっとさせるような人間味があった。で、その結果ということになるが、大学は、学校の推薦を受け、日本でも一、二を争う私立大学へ入学した。高校の先生たちも、私が感じたのと同じ印象をO君にもったためではないか。私もいつか、「こういうO君のような子どもが成功しない世界があったとしたら、その世界のほうがまちがっている」と思ったことがある。

 もちろんいじめられて心がゆがむ子どもも少なくない。いじけたり、ひがんだり、あるいはそれが原因で不登校を起こしたりすることもある。皆が皆、O君のようになるというわけではない。そういう意味でも、いじめは大きな問題だし、無視してよいというわけではない。

が、もし、少なくともアメリカのように、日本人も、「学校とは行かねばならないところ」という呪縛から少しは解放されたら、少しはこの問題の見方も変わってくるのではないか。アメリカではホームスクーラーが、2001年の終わりには200万人を超えたと言われている。つまり教育の硬直化が、いじめの問題をより深刻化させているとも考えられなくはない。そういう視点でも、この問題は考えてみるべきではないのか。あくまでもひとつの参考的意見にすぎないが……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(234)

●ホームスクール

アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、つぎのように反論している。いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(235)

●いたずらとジョーク

 「笑い」は高度に進化した動物たちに与えられた、まさに知的特権である。人間はもちろんのこと、サルや犬も笑うことが知られている。ほかの動物については知らないが、中には笑っているのもいるかもしれない。

 その「笑い」を誘うのが知的遊戯であり、その代表的なものが、いたずらとジョークである。子どもはこのいたずらとジョークが大好きで、一般論として融通のハバが広い子どもほど、いたずらやジョークのハバが広い。この時期、いたずらもしなければ、ジョークも通じないというのは、あまり好ましいことではない。俗に頭のかたい子どもは、その融通がきかない。ジョークも通じない。こんなことがあった。

 ある夜遅く、一人の母親から抗議の電話がかかってきた。いわく、「先生は、授業中、虫を食べているそうですね。娘が気味悪がって泣いていますから、どうかそういうことはしないでください」と。私はときどき子どもたちの前で、泣き虫とか怒り虫を食べたフリをしてみせる。泣き虫を食べたときは、オイオイと泣いて見せるなど。それをその子ども(長女児)は本気にしたらしい。

あるいは同じことについて、別の日。怒り虫を食べて、子どもたちの前で起こったフリをしてみせたことがある。そのとき(もちろん演技でだが)、プリンとを丸めて、最前列にいた子ども(年中男児)の頭をポンポンとたたいてみせた。(痛いはずがない!)が、それについてやはり電話で、「先生は、うちの子どもの頭を理由もなくたたいたというではありませんか! 先生は体罰反対ではなかったのではないですか!」と。ものすごい剣幕だった。

 いたずらといっても、常識をはずれたいたずらがよいわけではない。私のお茶に、殺虫剤を入れた中学生がいた。あるいは私が黙ってうなずいた瞬間、顔の下にシャープペンシルを立てた中学生もいた。そのときはマユの下を切り、顔中が血だけになった。あと数センチ位置がずれていたら、私は右目を失明していただろう。そういういたずらは、常識のブレーキが働かないという点で、好ましいいたずらとはいえない。

 頭のやわらかい子どもや、知的レベルの高い子どもほど、ジョークが通ずる。幼稚園児でもおとなのジョークを理解することができる。ある日、幼稚園児の前で、「アルゼンチンのサポーターには、女の人はいないんだってエ」と言ったときのこと。子どもたちが「どうしてエ?」と聞いたので、私が「だって、アル・ゼン・チンだもんねえ」と言った。言ったあと、「無理かな」と思ったが、一人だけニヤッと笑った子どもがいた。日ごろから頭のよい子だった。




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(236)

●一芸論

 子どもには一芸をもたせる。しかしその一芸は、つくるものではなく、見つけるもの。いろいろなことがあった。S君(年中児)は父親が新車を買ってきたときのこと、車の中のスイッチに異常なまでの興味をもった。そこで母親から相談があったので、私はパソコンを買ってあげることをすすめた。

パソコンはスイッチのかたまりのようなもの。案の定S君はそのパソコンにのめりこみ、小学三年生のときにはベーシックを。中学生になるころには、C言語をマスターするまでになった。Tさん(二歳児)もそうだ。お風呂に入っても、お湯の中に平気でもぐって遊んでいたという。そこで母親が水泳教室へ入れてみたのだが、まさに水を得た魚のようにTさんは泳ぎ始めた。そのTさんは中学生のときには、全国大会に出場するまでに成長した、などなど。

 中に「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるかのように、勉強から遠ざかってしまう。そのためだけというわけではないが、子どもには一芸をもたせる。その一芸が子どもを側面から支える。さらに「芸は身を助ける」の格言どおり、その一芸がその子どもの天職となることもある。

M君(高校生)は、不登校を繰り返し、ほとんど高校へは行かなかった。そのかわり近くの公園で、ゴルフばかりしていた。で、それから一〇年後、ひょっこり私の家にやってきて、いきなりこう言った。「先生、ぼくのほうが先生より、(お金を)稼いでいるよね」と。M君はゴルフのプロコーチになっていた。

 一芸を子どもの中に見つけたら、お金と時間をたっぷりとかける。子どもの側からすれば、「これだけは絶対、人に負けない」という状態にする。また周囲の子どもの側からすれば、「これについては、あいつしかできない」という状態にする。

 ただしここでいう一芸というのは、将来に向かって前向きに伸びていく「芸」のことをいう。モデルガンやゲームのカードを集めるというのは、ここでいう芸ではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(237)

●一芸は聖域

 子どもの一芸は、聖域と思うこと。この聖域を踏み荒らすようなことがあると、子どもの心は大きな影響を受ける。よくある例が、「成績がさがったから、(好きな)サッカーはやめさせる」というもの。こういうケースで、サッカーをやめさせればさせたで、成績はかえってさがる。こんなケースがある。

 H君(中1)は毎日、学校から帰ってくると、パソコンに向かって作曲をしていた。が、成績がさがったこともあり、父親がそれを強引に禁止した。とたん。H君の情緒は不安定になってしまった。まず朝起きられなくなり、つづいて昼と夜が逆転し始めてしまった。食事も不規則になり、食べたり食べなくなったりするなど。何とか学校へは行くものの、感情的な反応そのものが鈍くなってしまった……。

 子どもが一芸にのめりこむ背景には、そうせざるをえない子ども自身の心の問題が隠されていることが多い。いわば自分の心のすきまを生めるための代償的行為ともいえるもので、それを奪うと、子どもによってはここにあげるH君のようになる。H君は学校で疲れた心を、音楽を作曲することでなぐさめていた。それを父親が奪ってしまったのだから、H君の症状は当然といえば当然の結果でもあった。

 また一芸が、子どもによってはいわば生きがいそのものになっていることが多い。ある女の子(中学生)は手芸で、また別の男の子(小学生)はスケボーで自分を光らせていた。もしそうであるなら、それを奪う権利は親にもない。さらに……。

 これからはプロが生き残る時代といってもよい。少なくとも世界は、そういう方向に向かって進んでいる。たとえばアメリカでは、大学でも入学後の学部変更や、さらには大学から大学への転籍すら自由化されている。より高度な勉強を求めて、大学から大学へと渡り歩いている学生すらいる。「学歴」にこだわる理由そのものがない。そしてそれが今、国際間でもなされている。日本もやがてそうなるのだろうが、そういう意味でも子どもの一芸を大切にする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(238)

●フリ勉、ダラ勉、時間ツブシ

 勉強が空回りするようになると、子どもはフリ勉、ダラ勉、時間ツブシをするようになる。フリ勉というのは、いかにも勉強していますというような様子だけを見せる勉強をいう。しかしその実、何もしない。ダラ勉というのは、簡単な計算問題を10~30分もかけてするなど。あるいは描かなくてもよいようなグラフを、いつまでも描きつづけたりする。さらに時間ツブシというのは、勉強のあいまに、シャーペンの芯を出したり入れたり、ときにあちこちに落書きをしたりしながら時間をつぶすことをいう。

小学校の低学年で一度、こういう症状を見せると、その修復はたいへんむずかしい。それがその子どもの勉強方法として定着してしまうからである。無理、強制が日常的につづくと、子どもはそうなるが、この段階でそれに気づく親はまずいない。「やればできるはず」「そんなはずはない」と子どもを追い立てる。その悪循環がますます子どもをして、勉強から遠ざける。

 では、どうするか。一度、こういう症状を示し始めたら、あきらめる。つまりそれがその子どもの能力と思い、あきらめる。しかもその時期は早ければ早いほどよい。小学1年生でも早過ぎるということはない。……と書くと、たいてい「まだ一年生ですよ!」と言う親がいる。しかし1年生だから、あきらめる。もう少し年齢が大きくなって、自意識でコントロールできるようになると、自分で勉強に向かうようになる。しかしその前に勉強グセをつぶしてしまうと、ここに書いたように修復そのものがむずかしくなる。(あるいは不可能になる。)

 が、それで終わるわけではない。さらに症状が進むと、ごまかすのがうまくなる。学校ではいつもカンニングをして、その場をごまかすようになる。しかもそれが天才的に(?)うまくなる。先生の目を盗み、隣の子どもの答などを、そのまま丸写しにしたりする。小学2年生で、このタイプの子どもは、20人もいれば必ず1人はいる。もうこうなると、学力が身につくことなど、望むべくもない。

 要はそういう子どもにしないこと。そのためには無理、強制を避ける。動機づけ(子どもに興味をいだかせるような努力)をしっかりとしながら、達成感(やり遂げたという喜び)を感じさせながら、少しずつ学習に向かわせる。それはある意味でたいへんなことだが、子どもに勉強させるのは、それくらいたいへんなことだということを、まず親が自覚すること。またその前提で、子どもの勉強を考えること。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(239)

●勉強が苦手な子ども

 勉強が苦手な子どもといっても、一様ではない。まず第一に、学習能力そのものが劣っている子どもがいる。専門的には、多動型(動きがはげしい)、愚鈍型(ぼんやりしている)、発育不良型(知的な発育そのものが遅れている)などに分けて考える。

最近よく話題になる子どもに、学習障害児(LD児)というのもいる。教えても覚えない。覚えてもすぐ忘れる。覚えても応用がきかない。集中力がつづかず、教えたことがたいへん浅い段階で止まってしまう、など。

 しかし実際に問題なのは、能力そのものに問題があるというよりは、たとえば私のようなもののところに相談があったときには、すでに手がつけられないほど、症状がこじれてしまっているということ。たいていは無理な学習や強制的な学習が日常化していて、学習するということそのものに、嫌悪感を覚えたり、拒否的になったりしている。中には完全に自身喪失の状態になっている子どももいる。

原因は親にあるが、親自身にその自覚がないことが、ますます指導を困難にする。どの親も、「自分は子どものために正しいことをしただけ」と思っている。中には私がそれを指摘すると、「うちの子は生まれつきそうです!」と反論する親さえいる。(生まれた直後から、それがわかる人などいない!)

 ……と書きながら、日本の教育はどこかゆがんでいる。日本の教育にはコースというのがあって、親たちは自分の子どもがそのコースからはずれることを、異常なまでに恐れる。(「異常」というのは、国際的な基準からしてという意味。)

こういうばあいでも、本来なら子どもの能力にあわせて、子どものレベルで教育を進めるのが一番よいのだが、日本ではそれができない。スポーツが得意な子どももいれば、そうでない子どももいる。勉強についても、得意な子どもがいる一方、不得意な子どもがいてもおかしくないのだが、日本ではそういうものの考え方ができない。勉強ができないことは悪いことだと決めてかかる。

このことが、本来何でもないはずの問題を、深刻な問題にしてしまう。それだけならまだしも、子どもに「ダメ人間」のレッテルをはってしまう。考えてみれば、おかしなことだが、そのおかしさがわからないほどまで、日本の教育はゆがんでいる。

……という問題が、勉強が苦手な子どもの問題にはいつもついて回る。だからといって、勉強などできなくてもよいと書くのは暴論だが、子どもを見るための一つの視点として、ここに書いたことを考えてみるとよい。少しは見方が変わると思う。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(240)
 
●「今」の価値を忘れない

 未来はあるという。過去はあるという。……しかし、どこにあるのか? 「未来はある」と思っている人も、「過去はある」と思っている人も、もう一度、冷静に考えてみてほしい。どこにあるのか、と。未来にせよ、過去にせよ、それは人間がバーチャルな世界で勝手につくりあげた概念で、実のところ、どこにもない。あるのは「今」という現実のみ。どこまでも、どこまでも「今」という現実のみ。「現在」はあくまでも、いままでの「結果」でしかない。そして未来があるとするなら、それは「現在」の結果でしかない。

 ……とまあ、こんなことを書くと、「はやし浩司は頭がおかしい」と思う人がいるかもしれない。私とて、こう書きながら、そこまで厳格に考えているわけではない。ただ人間は、過去にしばられるのもよくないし、また未来のために今を犠牲にするのもよくないということ。あくまでも「今」を大切にして生きる。どこまでも、どこまでも、「今」を大切にして生きる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 一人の子どもがいる。その子どもは、今、懸命に遊んでいる。大切なことは、その子どもが今、懸命に生きているという事実なのだ。一方、こういう子どもがいる。幼稚園児のときは、小学校入学のため、小学校生のときは中学や高校へ入学するため。そして高校生のときは大学へ入学するため。さらに大学生のときは就職するためと、いつも未来(?)のために「今」を犠牲にしている。

人生が永遠に保証されるならまだしも、しかしこういう生き方をしていると、いつまでたっても「今」をつかむことができない。気がついたときには、人生が終わっていた……、と。中には自分の子ども(中1男子)に向かって、こんなことを言う親だっている。

「あんたを高い月謝を払って、幼稚園児のときから英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と。

その子どもがはじめての英語のテストで、悪い成績をとってきたときのことだった。こうしたものの考え方は、どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人は、独特の過去観、未来観をもっている。来世、前世思想に代表される、日本独特の仏教観の影響とも考えられる。「空から伊勢神宮の御札が降ってきた。こりゃなんか、ええことがあるぞ。まあ、ええじゃないか」と。

 今には今の価値がある。大切なことは、今というこの時点において、いかに自分を燃焼させて生きるかということ。結果は結果。結果かはあとからついてくる。ついてこなくてもかまわない。今やるべきことを、懸命にすればよい。「今を生きる」というのは、そういうことをいう。
 
 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(241)

●ええじゃないか

 慶応8年(1867)というから、まさに幕末のころ。名古屋市周辺で、奇妙な踊りが流行した。きっかけは伊勢神宮の御札が天から降ってきたためと言われているが、もちろんそれは言い伝えに過ぎない。人々は狂ったように踊りだした。「ええじゃないか、ええじゃないか」と。

言い伝えによると、女は男装、男は女装し、太鼓や三味線をならし、踊り狂ったという。「群集が地主である庄屋や金持ちの商人の家へ土足で入り込む。で、なぜか押し込まれたほうは、酒や肴(さかな)を際限なく振る舞った。押し入った人々は金品をまき散らし、これくれてもええじゃないかともち去る。

で、取られたほうは、それやってもええじゃないかとやってしまう。役人が止めようとしても、まったく聞き入れない。踊りくたびれると、だれの家でもかまわず寝てしまい、目が覚めると、またええじゃないかと踊りだす。このええじゃないかはウワサはウワサを呼び、東海道筋から東に江戸、横浜、静岡。西は京都、大阪、西宮にまで及んだ」(マスダ組「歴史概論」)という。

 この「ええじゃないか」について、「この大騒動をカモフラージュして、倒幕派は着々と江戸幕府打倒の動きを進めていた」(同「歴史概論」という説もあるが、私はそういう政治的背景は、当時の日本にはなかったと思う。結果として、倒幕運動に利用したという動きはあったかもしれないが、そうした高度な政治意識というのは、近年になって生まれたもの。江戸幕府があった東京で起きたとか、薩摩、長州の息がかかった京都で起きたというのなら話もわかる。しかしこのええじゃないかは、名古屋市周辺で起きているということを忘れてはならない。

それはともかくも、その根底に、鬱積した民衆の不平や不満があったことは事実だ。しかし当時の日本は、いくら幕末とはいえ、それを訴える自由もなければ方法もなかった。300年も続いた封建体制の中で、民衆は骨のズイまで「魂」を抜かれていた。「自由」が何であるかさえわからない状態で、この運動は起きた。が、私はこの運動こそが、まさに現世逃避の象徴ではなかったかと思う。「この世はどうなってもええじゃないか。あの世があるではないか」と。それはまさに前世、来世論で組み立てられた日本の仏教の教えを、そのまま象徴していたともとれる。 

 このええじゃないかが、幕末の話でないことは、映画化もされ、また日本各地で、イベントとして再現されていることでもわかる。「これこそ日本人のやさしさ」と美化する動きさえある。しかし本当にそうか? そうあってよいのか? 「今」という現実を直視するのが苦手な日本人が、現実逃避の新たなる手段として利用しているとも考えられるのだが、皆さんはどう考えるだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(242)

●子どもの創造力

2002年の3月、「サイエンス」におもしろい研究結果が載った。何でもギャンブルで負けたりすると、「頭が熱くなる」ということが、科学的に実証されたというのだ。

アメリカ・ミシガン大学のW・ゲーリング博士らの研究によると、「勝敗の表示から、平均0・265秒後から、脳の前頭葉皮質部から、強い神経系処理信号が出る」という。しかもそれは「勝ったときよりも、負けたときのほうが信号が強く出る傾向があった」というのだ。私はこの論文を読んで、別のことを考えた。

よく子どもの創造力が話題になる。「子どもの創造力を育てるにはどうしたらいいか」と。もちろん環境や教育によるところも大きいが、それだけでは足りない。人というのは、追いつめられ、崖っぷちに立たされてはじめて、自分の能力をふるい立たせることができる。創造力もそこから生まれる。

反対に、水温が調整され、酸素もエサも自動的に与えられるような環境では、伸びる芽そのものが出てこない。伸びる力も育たない。たとえば私のことだが、今までに何度か幼児教育から足を洗おうと思ったことがある。収入ということを考えるなら、もっとお金になる仕事はほかにいくらでもある。

しかしそのたびに、「今までの経験を文にまとめたい」という強い願いが私を襲った。それは文を書くという甘いものではなく、もっと切羽つまったものだったような気がする。だからこそ文を書き、それを本にすることができた。(ひょっとしたら、今もそうかもしれない。体力的な衰えを感ずる今、年齢的にその崖っぷちに立たされているような気がする。)

つまり勝負で負けると、前頭葉皮質部からの信号が強くなることからもわかるように、追いこまれると、それまで活動していなかった脳の機能が全開状態になる(?)。そしてそれが何とかしなければならないという生活上の必要性とあいまって、新しい創造力へとつながっていく……。

もちろんこれは私の推論でしかない。しかし経験上、それを裏づけるような話はいくらでもある。たとえばベートーベンにせよ、もし彼が満ち足りた裕福な生活をしていたら、あの第九交響楽ができたかどうかは疑わしい。言いかえると、子どもの能力を引き出すためには、子どももある程度は、崖っぷちに立たせねばならない。

具体的には子どもはいつもややハングリーな状態におく。与えすぎややりすぎは、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうこと。どこか不満足な状態をつくりながら、それをうまく利用しながら子どもを伸ばす。

まとまりのない話になってしまったが、サイエンスの論文を見ながら、そんなことを考えた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(243)

●習うより慣れる

私の三男は、人前で話をするのが苦手だった。しかしその三男が児童会の会長に選ばれ、宿泊訓練の場であいさつをすることになったときのこと。三男はその数日前から食事もしなくなり、当日も睡眠不足でフラフラの状態でその訓練にでかけていった。結果、それなりにうまくできたのだろう。

以後、人前で話すのが平気になってしまったようだ。つまりそういう積み重ねをしながら、子どもは成長していく。私も実のところ子どものころ、人前で話すのが得意ではなかった。大学生のときもそうだった。好きか嫌いかと問われれば、好きではなかった。英語でいえば、ナーバス、つまりあがり症だった。が、その私がこわいもの知らずになったのには、理由がある。

今の私はどんな場に出ても、おじけづくということはない。相手が総理大臣でも、多分、平気で話ができるとだろうと思う。その理由としては、学生時代、オーストラリアのメルボルン大学で幸運にも、そういう人たちに囲まれて生活したという体験がある。各国の元首や外務大臣たちが毎週のように晩餐会に来たし、ノーベル賞級の研究者たちも、数週間単位でよくとまっていった。日本の政治家もよくきた。そういう中で私は学生という身分ではあったが、「頂点」をその時点で見てしまった。

ただそのあと、日本へ帰ってきてから、私は社会的にも経済的にもどん底状態にほうりこまれ、そのギャップに苦しむことになったが、それはそれとして、人生全体で総決算するなら、幸運だったということになる。自分では絵を描かないが、絵の鑑定士としては、最高の作品がどういうものであるかくらいは、わかるようになった。

要するに習うより慣れろということだが、人というのは、一つずつ階段をのぼるようにして、成長していく。そのときどきでは苦しい思いはするが、その思いをしながら、つぎのステップへと進んでいく。たいていの人はその苦しさに耐えかねて、その段階でつぎのステップに進むのを放棄してしまう。(私も偉そうなことは言えないが……。)

もっともそれが自分のことであれば、それを判断するのは自分の勝手だが、今まさに伸びていこうとする子どもについては、親として別の考え方をしなければならない。子どもが伸びていくのをみるのは楽しみなことであるのと同時に、結構、つらいことでもあるということ。とくに子どもが苦しんでいるときはそうだ。つい、「そんなにがんばらなくてもいい」と言いそうになるときもある。

三男が宿泊訓練に行くときもそうだった。学校の先生に、「会長をもう辞退させてやってほしい」と、ほとんど手紙を出す寸前のところまで私と女房は追い込まれた。もっとも三男が成長したというよりは、私たち夫婦が、三男によって成長させられたというのが正しいかもしれない。そのあと同じようなことがあるたびに、私たち夫婦もまた、平気でそれを乗り越えることができるようになった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(244)

●子どもの嫉妬

 嫉妬はたいへん原始的な、つまり本能に根ざす感情であるだけに、扱い方をまちがえると、その子どもの人間性そのものにまで影響を与える。「原始的」というのは、犬やネコをみればわかる。犬やネコは、一方だけをかわいがると、他方ははげしく嫉妬する。また「人間性」というのは、情緒面のみならず、精神面にも大きな影響を与えるということ。そしてそれは多くのばあい、行動となって表れる。

 嫉妬が「内」にこもると、子どもはぐずったり、いじけたりする。ひがみが強くなったり、がんこになったりする。幼児のばあい、原因不明の身体の不調(発熱、下痢、嘔吐)を訴えることもある。「外」に出ると、いじめや動物への虐待となることが多い。嫉妬がからんでいるばあいには、それが相手に向けられたときには、「殺す」というところまでする。残虐かつ陰湿になるのが特徴で、容赦しないのが特徴。

弟に向かって自転車で突進したケースや、弟を逆さづりにして頭から落としたケース、さらに妹の人形をバラバラにしてしまったケースや、妹をトイレに閉じ込めてしまったケースなどがある。一人、妹にお菓子と偽り、チョークを口の中に入れた女の子(小2)もいた。また動物への虐待では、飼っていたハトの背中に花火をくくりつけ、ハトを殺してしまったケース、つかまえてきたカエルを地面にたたきつけて殺してしまったケースなどがある。

 ふつう子どもが理由もなく(また原因がはっきりしないまま)、ぐずったり、ふさいだりするときは、愛情問題を疑ってみる。そういうときは抱いてみるとわかる。最初は抵抗する様子を見せるかもしれないが、強引に抱き込んだりすると、そのまま静かに落ち着く。

 乳幼児期は、静かで穏やかな生活を大切にし、嫉妬と闘争心の二つはいじらないようにする。中に、わざと子どもを嫉妬させながら、親への依存心をもたせる人がいる。一昔前の親がよく使った方法だが、依存心をもたせるという意味で、好ましくないことは言うまでもない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(245)

●子どもの闘争心

 年長児でも、「このヤロー」「てめえエ~」と言いながら、興奮状態になって飛びかかってくる子どもは少なくない。興奮といっても、ふつうの興奮ではない。狂暴的になる。目つきそのものが鋭くなり、別人のようになってしまうこともある。N君(年長児)がそうだ。

 別の子ども(年長男児)が騒いでいたので、その子どもを制するために席を離れたとたん、何を誤解したのか、N君が私に飛びかかってきた。私も最初はふざけて飛びかかってきたのかと思ったが、そうではなかった。私を足で蹴りあげたが、それはまさに全身の力をふりしぼって、というような蹴り方だった。あまりのはげしさに驚いて、N君を私は抱きこもうとしたが、今度は爪をたてて私の顔にそれを突き刺してきた。人間の子どもというより、ケダモノそのものだった……。

 ある程度の闘争心は、この時期、よい方向に作用する。闘争心がまったくないというのも、決して好ましいことではない。ドッジボールなどをさせても、ただウロウロと逃げ回るだけでは、試合にもならない。しかしその闘争心が度を超すと、ここでいうN君のようになる。特徴としては、闘争心そのものがむきだしになり、いわゆるキレた状態になる。

心理学的には、そう状態における錯乱と説明されているが、キレた子どもとは違う。キレる子どもは異常な興奮状態になるが、このタイプの子どもにはそれがない。冷静なまま凶暴化する。闘争心だけがやたらと刺激されたような状態になる。そうした説明はともかくも、こうした動物的な闘争心は、幼児期には決して好ましいものではない。闘争心が強くなると、ものの考え方が短絡的になり、冷静な判断そのものができなくなる。

 人間も昔は動物であった(今もそうだが……)という前提で考えるなら、人間にも原始的な本能が残っていても、おかしくない。生殖本能や食欲本能など。闘争本能もその一つということになる。しかしこうした本能は、あまり早い時期にはいじらないほうがよい。とくに闘争本能はそうで、いじればいじるほど子どもはより野獣的になる。そして一度こうした野獣性が出てくると、それを抑えるのはむずかしくなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(246)

●権威主義者

 その人が権威主義的なものの考え方をする人かどうかは、電話のかけ方をみればわかる。権威主義的なものの考え方をする人は、無意識のうちにも、人間の上下関係を心の中でつくる。それが電話の応対のし方に表れる。目上の人や、地位、肩書きのある人には必要以上にペコペコし、そうでない人にはいばってみせる。私の伯父がそうで、相手によって電話のかけ方が、まるで別人のように変わるからおもしろい。

(政治家の中にも、そういう人がいる。選挙のときは、米つきバッタのようにペコペコし、当選し、大臣になったとたん、ふんぞり返って歩くなど。その歩き方が、まさに絵に描いたような偉ぶった歩き方なので、おもしろい。)

 そのほかにたとえば、あなた自身の「印象」をさぐってみればわかる。あなたが自分の印象の中で、どこか堂々としていて、立派と感ずる人は、権威主義的なものの考え方をする人とみてよい。このタイプの人は、日ごろから世間的な見栄を大切にする。あるいは外から見た自分に注意を払う。そのため他人には、立派に見える。(「立派」という言い方そのものが、封建時代からの名残である。)

 親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前では仮面をかぶるようになる。そしてその分だけ、子どもの心は親から離れる。仮にうまくいっている家庭があるとしても、それは子ども自身がきわめて従順か、あるいは子ども自身も権威主義的なものの考え方を受け入れてしまっているかのどちらかにすぎない。たいてい親子関係はぎくしゃくしてくる。キレツから断絶へと進むことも多い。

 ……と決めてかかるいのは、危険な面もあるが、もうこれからは親が親の権威で子育てをする時代ではない。江戸時代や明治の昔ならともかくも、葵の紋章だけで、相手にひれふしたり、相手をひれ伏させるような時代ではない。またそういう時代であってはいけない。

私もいろいろな、その世界では第一線級の人たちに会ったが、そういう人ほど、腰が低くどこか頼りない。相手がだれでも、様子が変わるということはない。つまりそれだけ自分自身を知っている人ということになるのか。生きザマのひとつの参考にはなる。

 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(247)

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くようなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをなす」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「その年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。20歳でループに入る人もいれば、50歳や60歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そこで進歩を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさらに低下する。私はこのことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよい。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたちに接するときもそうだ。毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーにしている。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。たしか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさかのぼること20年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を感じた。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、10年前より進歩しただろうか。20年前より進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほしい。さらにあなたはこの10年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろうか。こわいのは、思考のループに入ってしまい、10年一律のごとく、同じ話を繰り返すことだ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失礼!)。

犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だから犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなたはすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅くないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返していく。どんどん繰り返して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(248)

●宗教のもつ愚鈍性

 ある宗教を信仰している人は、それなりに穏やかな顔をしている。表情やしぐさまで違ってくる人がいる。さらに見るからにどっしりと、落ち着いている人もいる。思想というのはそういうもので、他人のそれであっても、「絶対正しい」と思われるものを脳に注入されると、脳というのはそれで満足してしまう。が、同時に、自ら思考することをやめてしまう。一度そうなると、まさに上意下達方式のもと、「上」から「下」へ一方的に思想が注入される。これがこわい。

 ……と言っても、私は宗教を否定しているのではない。信仰を否定しているのでもない。しかし宗教や信仰には、高邁な哲学と引き換えに、その人をして自ら考えさせるのをやめさせてしまうという麻薬性がある。それは否定できない。

中には、その宗教の批判を一切許さない宗教がある。(たいていの宗教はそうだが……。)疑っただけで、「地獄へ落ちる」とか、その宗教から離れただけで、「バチが当たる」と脅す宗教団体もある。が、それでも私は宗教を否定しているのではない。信仰を否定しているのでもない。それぞれの人は、それぞれの思いの中で、宗教や信仰に身を寄せる。この私とて、今は何とかがんばっているが、やがてそれができなくなったら、宗教や信仰に身を寄せるかもしれない。私が知っている哲学者や文学者の中には、死の直前になって入信した人が何人かいる。私がそういう人たちより強いという自信は、今のところ私にはまったくない。

 しかしこれだけは言える。仮に宗教や信仰をしても、自ら考えることはやめてはいけない。ある男性はこう言った。私が「少しは指導者の言うことを疑ってみてはどうですか」と聞いたときのこと。「あの先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいない」と。こうした愚鈍性が見られたら、それはまさにその人の敗北でしかない。他人の意見は他人の意見。参考にはしても、自分のものにしてはいけない。

それはちょうど、借金ばかりで建てた家に住むようなものだ。借金ばかりで買った車に乗るようなものだ。家や車ならまだよいが、人生はそうであってはいけない。いわんや自分の「魂」まで売り渡してはいけない。たとえ不完全でも、人間は自らの足で立ちあがるからこそ、そこに生きる価値がある。医学も政治も社会も科学も、どれも不完全なものばかりだが、その不完全さを一つずつ克服していくから、人間なのである。生きるドラマもそこから生まれる。

 もっとも、愚鈍でもよい。その日その日を、平和で無事に過ごせれば、それでよいという人も少なくない。もしあなたがそうなら、私はこれ以上何も言うことはない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(249)

●親孝行論

 ある地方の、ある老人ホームの責任者から聞いた話。そのホームでは、(どこでもそうだそうだが)、老人たちはいつも、息子や娘の孝行話ばかりを自慢しあっているという。

孝行息子や孝行娘をもった老人は、それを自慢げに誇示し、そうでない老人は毎晩のように悔しがっているというのだ。そこで私が「どういう子どもを、孝行息子や孝行娘というのですか」と聞くと、こう話してくれた。「要するに親にいかに尽くすかで決まるんですなア」と。

つまり親への犠牲度、忠誠度、貢献度、献身度、服従度で決まるという。老人たちのさみしい気持ちはわからないわけではないが、それにしても、それ以上にさみしい話ではないか。私はその話を聞いたとき、まず最初に、「私はそうはなりたくない」と思った。

 この日本では親孝行が、美徳のひとつになっている。子育てや教育の中心に考えている人も少なくない。しかし親孝行するかしないかは、子どもの問題。子どもの勝手。少なくともそれは、親が求めるものではない。いわんや子どもにそれを強制したり、押しつけてはいけない。親子といえども、そこは人間関係。親孝行があるとするなら、それはそういう人間関係から、自然に発生するものでなければならない。親孝行をしないからといって、その子どもが否定されたり、またしたからといって、その子どもの価値をあげるようなことはしてはいけない。

人にはそれぞれの思いがある。複雑な家庭環境や、さらに複雑な過去を背負っている人はいくらでもいる。(親をだます子どもはいるが、世の中には子どもをだます親だっている。例外とはいえ、子どもを殺す親だっているのだ!)むしろ日本人で問題なのは、安易な孝行論をふりかざし、子どもに向かっては「産んでやった」「育ててやった」と、親の恩を子どもに押し売りしてしまうこと。

子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまうこと。結局は、親も子どもも、自立できない親、自立できない子どもになってしまう。それが日本人独特の親子関係といえばそれまでだが、しかしそれは決して世界の標準ではない。極東の、アジアの小さな島国でしか通用しない、親子関係といってもよい。

 ……と書くと、決まって「はやしの意見は、欧米かぶれしている」と言う人がいる。しかし事実は逆で、日本の若者で、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えているのは、20%もいない。アメリカも含めて、欧米の若者たちはどこも60%以上である(総理府調査)。

 日本は今、大きな過渡期にきている。形だけの親子、形だけの家族から、人間関係を基本に置いた親子、人間関係を基本に置いた家族への移行期ととらえてよい。それはもう欧米化というより、グローバル化といってもよい。日本人が好む孝行論も、そのグローバル化の中で、もう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(250)

●代償的過保護

 本来、過保護というのは親の愛がその背景にある。その愛があり、何かの心配ごとが重なって、親は子どもを過保護にするようになる。しかしその愛がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。いわば過保護もどきの過保護。親のエゴにもとづいた、自分勝手な過保護と思えばよい。

 代償的過保護の特徴は、(1)親の支配意識が強く、(2)子どもを自分の思いどおりにしたいという意欲が強い。そのため(3)心配過剰、過干渉、過関心になりやすい。(4)子どもを人間というよりは、モノとして見る目が強く、子どもが自立して自分から離れていくのを望まないなどがある。

このタイプの親は、一見子どもを愛しているように見えるが、(また親自身もそう思い込んでいるケースが多いが)、その実、子どもを愛するということがどういうことか、わかっていない。わからないまま、さまざまな手を使って、子どもを自分の支配下に置こうとする。

ある父親は、息子が家を飛び出し、会社へ就職したとき、その会社の社長に電話を入れ、強引にその会社をやめさせてしまった。またある母親は、息子の結婚にことごとく反対し、そのつど結婚話をすべて破談にしてしまった。息子を生涯、ほとんど家の外へ出さなかった母親もいるし、お金で息子をしばった父親もいる。「お前には学費が3000万円かかったから、それを返すまで家を出るな」と。

結果的にそうなったとも言えるが、宗教を利用して子どもをしばった親もいた。そうでない親には信じられないような話だが、実際にはそういう親も少なくない。ひょっとしたら、あなたの周囲にもこのタイプの親がいるかもしれない。いや、あなたという親にも、いろいろな面があり、その中の一部に、この代償的過保護的な部分があるかもしれない。

もしそうなら、あなたの中のどの部分が代償的過保護であり、あるいはどこから先が代償的過保護でないかを、冷静に判断してみる。この問題は、どこが代償的過保護的であるかに気がつくだけで、問題のほとんどは解決したとみる。ほとんどの親は、それに気づかないまま、代償的過保護を繰り返す。そしてその結果として、親子の間を大きく断絶させたり、反対に子ども自立できないひ弱な子どもにしたりする。