2011年11月30日水曜日

*How to get children protected from misconduct

●11月30日朝記

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今朝は、8時半起き。
昨夜は久しぶりに、睡眠導入剤というのをのんだ。
1錠ものむと、頭がおかしくなるので、いつも4分の1とか、
8分の1とかにして、のんでいる。
それでも朝まで、ぐっすりと眠れる。
「頭がおかしくなる」というのは、起きがけに、夢とも現実とも
区別のつかない夢を見ることをいう。

今日の講演は、午後7時から。
それで睡眠導入剤をのんだ。

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●講演レジュメ(概要)

 おととい、今夜の講演のレジュメ(概要)ができた。
「やっと……」という感じ。

……といっても、講演の「柱」のみ。
あとは、その場の雰囲気で決める。
私にとって講演というのは、そういうもの。

中にしっかりとした原稿を用意する人もいる。
私も何度か、それを試したことがある。
しかしそれでは聴衆の心をつかむことができない。

 ザワついてきたなと感じたら、さっと話題を切りかえる。
そんな芸当も、講演では必要になる。
それに今日は、夜の講演ということで、父親も多いはず。
そういうときは、父親用の話も用意する。
年配の人が多いときは、年配の方用の話も用意する。
それぞれの分量は、そのとき決める。

 が、この浜松市では、今年最後の講演会。
力んではいけない。
気合いを入れすぎてもいけない。
普段着で普段話をするつもりで、講演をする。
それが肝心だが、このサワサワとした緊張感は、どうしたものか。
「最後の講演会」という部分で、かなり緊張しているよう。
自分でもそれがよくわかる。

 午後からは、運動を2単位こなし、夜に備える。

●酷評

 YOUTUBEのほうに、ときどき、辛らつな酷評が書き込まれる。
昨日も、同じ女性から、3通も書き込まれた。
pxxxx04という女性からのものだった。
匿名だから、何とでも書ける。

 が、待ったア!

 匿名といっても、その気になれば、その女性を特定することは簡単。
まずその「pxxxx04」で検索をかける。
同じハンドルネームをあちこちで使っていることが多い。
検索をかけると、やはり同じハンドルネームで、4~5本のBLOGを発行しているのがわかった。
そのうちのひとつには、プロフィール欄のところに、「45歳」「女性」とあった。
BLOGのタイトルは、『~~ママの~~日記』。

 いくつか記事を読むと、その中に地名が書いてある。
それでおおよその住所がわかる。
「先日、近くの~~庭園へ行ってきました」とか。

さらに記事の内容から、ある特殊な花の栽培に興味をもっているのがわかった。
あとは、その地名と、その花の名前で検索をかければよい。
案の定、その花の専門BLOGに、その女性とのやり取りが書き込まれていた。

 こうして私はその女性が、「X県Y町に住んでいる、MR」と、実名(名字)まで知ることができた。
時間にすれば、5分もかからなかった。

 が、それでも相手がわからないときは、特殊なフリーソフトを使う。
それを使うと、IP番号から、その人の住んでいる住所を、町名程度まで特定できる。
この方法はきわめて簡単で、ドラク→コピー→張りつけ→Enterキーで、すんでしまう。
その方法でも、「X県Y町」という地名が出てきた。
(フリーソフトは雑誌などに紹介されている。)

 だから返事には、こう書いた。

「幼児教育歴42年になる者です。
きびしいご意見ありがとうございました。
はやし浩司」と。

 「教育歴42年」とわざわざ書いたのは、書き込みに「どこのド・シロートか知らないが、偉そうなこと、ヌカスナ」とあったから。

 ……ということで、不愉快な書き込みに悩んでいる人も多いかと思う。
そういうときは、ここに書いたことを参考に、相手を調べてみたらよい。
どこに住んでいる人間かがわかるだけでも、気が楽になる。
(=不気味さが、消える。)

また匿名で書き込みをすれば、正体はバレないはずと考えている人もいるかもしれない。
が、今では、かなりのところまで特定できる。
ものを書くなら堂々と、実名を公表して書いたらよい。
(私は、そうしているぞ!)

●復習

 講演の話に戻る。

 今夜の講演では、(1)善悪論、(2)共鳴性、それに(3)もうひとつの話をすることになっている。
が、(3)の部分で、つぎの2つのうちのどちらにするかで、迷っている。
(1)自我の同一性にするか、(2)心の抵抗力にするか。

 どちらも似たような話だが、切り口がまったく逆。
どちらにしようか。

 過去に書いた原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++はやし浩司

2007年に書いた原稿が見つかった。

++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもを非行から守る法】

●時事・雑感(Yahoo Newsより)


●性描写漫画の規制条例が成立(東京都)(注※1)


 石原都知事が言っているように、こんなことは、当たり前。
石原都知事は、こう言った。「当たり前。日本人の良識だ。
子どもにあんなものを見せられるのか」と。


ただし今となっては、焼け石に水。
手遅れ。
子どもたちの世界は、さらにその先に進んでいる。
漫画やアニメではなく、そのものズバリのDVDを見ている。


 また近くに高校があるが、日暮れ時になると、目のやり場に困る。
高校生たちが、木陰の隅のあちこちで抱き合っている。
少し前までは、まだ隠れながらしていた。
が、今は、堂々というか、車のライトに照らされても、平気。


 で、その話を、ある中学校教師(中高一貫校)に話すと、こう言った。
「ここ数年、さらに低年齢化してますよ」と。
驚いていると、「放課後なんか、使われていない部屋や道具置き場は、ラブホテル
みたいです」とも。
ほとんどの男子高校生は、コンドームを持ち歩いている。
携帯電話と同じ。
必携品。
「何も今さら……」というのが、私の実感。


 こうした規制は、20年近く前、「PT」という女子向き雑誌が、
国会で問題になったとき、しておくべきだった。
が、これに対して、いくつかの団体が、猛反発。
「表現の自由、言論の自由の侵害」「捜索活動を萎縮させる」と。


 しかしこういうのを、表現の自由とは言わない。
言論の自由を盾に取って守らなければならない、自由でもない。
むしろ逆。
表現の自由とか、言論の自由とか、そういう言葉を使って、自分たちの
醜い商業主義をカモフラージュしているだけ。


 日本には、モラル、哲学、宗教がない。
ないから、法律で規制するしかない。
たとえば援助交際にしても、話題にのぼらなくなったのは、それがなくなったからでは
ない。
あまりにも日常的になり過ぎたからにほかならない。
それがわからなければ、その時間帯(夕暮れ時)に、コンビニをのぞいてみること。
コンビニが待ち合わせ場所になっている。
携帯電話を片手に、女子中学生や高校生が、あやしげな車につぎつぎと乗り込んでいく。


 世界でも、ここまで退廃した国は、そうはない。


+++++++++++++以下、Yahoo Newsより++++++++++++


(注※1)【性描写漫画の規制条例が成立】=付帯決議で「慎重な運用を」


 過激な性描写のある漫画やアニメの販売規制を目的に、東京都が12月議会に提出してい
た青少年健全育成条例改正案が、15日の都議会本会議で民主、自民、公明各党の賛成多数
により可決、成立した。ただ、「創作活動を萎縮させる」との指摘もあるため、条例の慎重
な運用を求める付帯決議も行った。条例は来年7月1日までに施行される。共産党と生活
者ネットワーク・みらいは反対した。


+++++++++++++以上、Yahoo Newsより++++++++++++


●では、どうすれなよいか


 こうした風潮を改めるには、つまりあなたの子どもをこうした風潮から守るためには、
方法は、ただひとつ。
子どもに心の抵抗力をつける。
方法は簡単。
子どもに夢と希望をもたせ、その先に目標をもたせる。


 わかりやすく言えば、子どもが好きなことをできる環境を用意する。
それについては、何度も書いてきたので、その原稿を、このあとに添付する。
が、残念なことに、現在の教育環境は、子どものもつ多様性に答えるしくみになって
いない。
「学校以外に道はなく、学校を離れて、夢や希望を育てる方法もない」。
どうして欧米がみなしているように、教育を自由化しないのか。
多様な教育方法を認めないのか。
たとえばドイツやフランスでは、子どもたちはみな、クラブに通っている。
いろいろなクラブがある。
英数国社理のような基本科目は、学校で教えればよい。
しかしそれ以外の科目は、民間に任せればよい。


 私が言う「自由化」というのは、それをいう。
何も学校を解体せよと言っているのではない。


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心の抵抗力について書いた
原稿をさがしてみました。
2006年に、当時の講演用に
書いた原稿です。


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【心を支える、3つの物語】


●私が「私」であるためには、3つの柱が必要です。


(1)(したいこと)を、現実に(している)という実感、つまりは自我の同一性
(2)「いつも、私は、私でいられる」という連続性、一貫性
(3)他者との関係で、いつも良好な人間関係をもつことができるという社会性。


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  「したいことをする」という姿勢の中から、夢や希望、それに目標が生まれます。自
分の描いた自己概念と、現実の自分が一致している。それが「私」でいるための第一条件
ですね。
  つぎに、どんなばあいも、私は、自分でいられる。動じない。それが「私」というこ
とになります。
  また「私」は、いつも、社会というカガミの中で、映し出されます。そもそも社会性
をもたない「私」は、私ではないということです。
  今回は、これら3つの柱を中心に、時間が許すかぎり、私の個人的な過去もふまえて、
子どもの心を伸ばす、3つの物語を、みなさんに、お伝えしたいです。どうか、よろしく
お願いします。


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【意外とシンプルな、心をはぐくむメカニズム】


●(自分のしたいことをする)……それが子ども自身を伸ばす原動力となります。
●(したいこと)をしている子どもは、生き生きとしています。夢や希望もそこから生まれ、
その先には、目標が生まれます。
●子どもを守るのは、子ども自身の中の、(心の抵抗力)です。目的がしっかりしている子
どもは、その抵抗力も強くなります。

 
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●同一性の危機(1)


万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめ
を、非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしている
こと)の間に遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子
どもの耐性にもよるが、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの
自我の同一性は、危機に立たされる。


●夢・希望・目的(2)


夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のした
いこと)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感がある
とき、そこから生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。
そしてサッカーの練習をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」
とか、「パン屋さんになる」とかいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力(3)


同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)
を、別のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。ある
いは「したくないが、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、
忍耐力ということになる。子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。
この忍耐力は、幼児期までに、ほぼ完成される。


●同一性の崩壊(4)


同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をし
たいか、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私
は何だ」「私はだれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それ
は「混乱」というような、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべ
きもの。当然、子どもは、目的を見失う。


●顔のない自分(5)


同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大き
く分けて、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻
撃型)。(2)顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。
ほかに、同情型、依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースで
は、そのまま自己否定(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力(6)


暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さ
と)しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)
をつくろうとする。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐
れれば、怖れるほど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子ども
の心理的のメカニズムは、こうして説明される。


●子どもの自殺(7)


おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあ
いは、(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)
を主張する。近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットする
ことで、自分を主張し、他人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(し
ょくざい)のために、リストカットする」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。


●自虐的攻撃性(8)


攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に
向って攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝
から寝るまで勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでい
るのではない。「勉強」という場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかり
やすい。近年、有名になったスポーツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性(9)
 

(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子
どもの環境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分が
していること)を一致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が
一致している子どもは、夢や希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちつい
ていて、どっしりとしている。抵抗力もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力(10)


「私は~~をしたい」「ぼくは~~する」と、目的と方向性をしっかりともっている子ども
は、心の抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年
から中学校にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同
一性が崩壊している子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘い
があると、スーッとその世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる(11)


たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、
それに答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみまし
ょうか」「お花の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。
が、たいていの親は、この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言
う。「花屋さんも、いいけど、ちゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器(12)


子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。
中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と
思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学
会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸
ばすのは、親の義務と、心得る。


●役割混乱(13)


子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時
に、「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間
にか、自分の周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸
ばすコツは、その役割形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役
割混乱」を起こし、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)(14)


しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんば
っていた子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。
しかし幼いときに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロ
セスは、そのまま残る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入
る。中身はかわるかもしれないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんば
り始める。


●進学校と受験勉強(15)


たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的
になりえたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのも
のが崩壊してしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考え
やすいが、子どもにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好
きな)サッカーをやめて、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢
をつぶす。「つぶしている」という意識すらないまま……。


●これからはプロの時代(16)


これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでた
プロのほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君
は何ができるか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生
きと、自分の人生を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだ
けは、だれにも負けない」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸
ばす。


●大学生の問題(17)


現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んで
いる。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力
になってしまったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、
荷おろし症候群といって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、
誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成(18)


子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在しているこ
と)に一致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまら
ない仕事」「そんなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子ども
が、「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。
こういう育児姿勢が、子どもを、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司●
同一性の危機●夢・希望・目的●子どもの忍耐力●同一性の崩壊●顔のない自分●校内暴力●子
どもの自殺●自虐的攻撃性●自我の同一性●心の抵抗力●夢や希望を育てる●子どもを伸ばす
三種の神器●役割混乱●思考プロセス(回路)●進学校と受験勉強●これからはプロの時代●
大学生の問題●自我の同一性と役割形成 心の抵抗力 自我の同一性)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 心の抵抗力 子どもを非行から守る法 子どもの心を守る。)

++++++++++++++++++はやし浩司

●心の抵抗力

 心にも抵抗力がある。
その抵抗力が弱くなると、子どものばあい、一義的には、非行に走りやすくなる。
言い換えると、非行から子どもを守るためには、心の抵抗力を強くすればよい。

 つまり講演の切り口を、(1)「子どもを伸ばすこんな方法」にするか、(2)「子どもを非行から守る、こんな方法」にするか。
3番目の話が、どうしても決まらない。

 どちらにしようか……?
それは講演会場の雰囲気で決めるしかない。

 これから運動を2単位(40分x2)、こなしてくる。

2011/11/30記


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

2011年11月29日火曜日

*My Speech at Hamakita-ku Hamamatsu

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【浜松市内、今年度最後の講演会のお知らせ】

浜北区、浜北文化センターにて

11月30日(水曜日)
午後6:30開場
午後7:00~8:30(講演時間)

『こうすれば子どもは伸びる、3つの簡単な方法』

主催:浜北区・健全育成会
対象:小中学生をおもちのご家族の方

入場は無料、どなたでも参加できます。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ULTRABOOK TOSHIBA R631/28D

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ACER社とSUSAS社、それにTOSHIBA社。
これら3社から、ULTRABOOKが、出そろった。
3社3様。
が、私は、カタログで、私はTOSHIBAのR631に、決めていた。
そのR631が、11月11日(本日)、発売になった。

駅前のB店に行くと、それが並んでいた。
他の2社と比較すると、やや値段が高いかなと感じた。
「Office/Home & Business2010」が、付属しているということもある。
が、私は日本人。
迷ったら、日本製。
それにノートパソコンは、TOSHIBA製と決めている。

ただ発売当日に購入というのも、どうかと思った。
1~2か月もすると、値段が、数万円程度は安くなる。
が、それまで待ちきれない。
・・・ということで、購入。

今、そのR631で、この文章を打っている。

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●R631

 一度自分のモノになったら、批評はしない。
批評すれば、自分がさみしくなる。
よくても悪くても、この先、いっしょにつきあうしかない。
私のほうが、パソコンに慣れる。
自分に「これはよいパソコン」と、繰り返し言って聞かせる。
それしかない。

 そのR631。
よいパソコンだ。
ENTERキーが大きいのが、二重丸。
バッテリーのもちも、9時間(実測でも7時間程度)。
それだけあれば、ほぼ一日中、使える。
が、何よりもすばらしいのは、起動が速いこと。
電源を入れて、10秒ほどで、デスクトップ画面が現れる。
SSD(ハードディスクの代わりにSDを使ったパソコン)のすごさを、改めて実感する。

●欲望

 で、その欲望。
欲望をすべて「悪」と決めつけてはいけない。
欲望そのものは、生きるエネルギーと直結している。
そのことは、生きる力をなくした老人を見れば、よくわかる。
私の母がそうだった。

 元気なころは、ちぎり絵に没頭していた。
一日中、部屋にこもって、作品と取り組んでいた。

 が、晩年の母は、ちぎり絵にまったく関心を示さなくなっていた。
私が材料や道具を用意して置いてみたが、手も触れようとしなかった。
生きる意欲そのものを失っていた。

 もう1人、こんな人がいた。
車が好きで、元気なころは、つぎつぎと新型の車に乗り換えていた。
が、あるときから、パタンと、・・・本当にパタンと、車に興味を示さなくなってしまった。
何かの大病を患ったときのことだった。
その人はそのあと、しばらくして、亡くなってしまった。

 だから・・・。
たとえば、(ものが欲しい)という欲求が生まれたら、(あくまでも60歳以上の人についての話だが)、それを消さないようにする。
しばらく放っておくと、その欲望そのものが消えてしまう。
どうでもよくなってしまう。

●自己投資

 が、こうなると、時間との勝負。
私が早くくたばるか、欲望が早くくたばるか・・・?
平均余命まで、あと15年。
何とかそれまでは、元気で過ごしたい。
そのためにも、欲望を大切にしたい。

 ずいぶんと身勝手な、かつ手前味噌的な意見だが、今の私は、そう思う。
だから家に、ノートパソコンがいくらゴロゴロしていても、新しいパソコンを買う。
もう少し専門的な表現を借りるなら、自己投資。
脳みその健康のためには、自己投資を怠らない。
命はお金では買えない。
が、お金で命を延ばすことはできる。 
だから、自己投資!

●条件反射 

 物欲そのものは、線条体に、受容体を作りやすい。
つまり条件反射が起きやすくなる。
ニコチン中毒やアルコール中毒と同じ。
新製品のカタログを見ているだけで、ググーッとそのモノがほしくなる。
これはまさしく条件反射。
若い男性が、女性のヌードを見たときのようなもの。
性欲本能は、(本能)で、ここでいう(条件反射)とは異質のものかもしれない。
しかし性欲も、扱い方によっては、受容体を形成しやすい。

 たとえば女性の下着を見ただけで、(それも汚れた下着のほうがよいそうだ)、ググーッと性欲を覚えるなど。
だから欲望といっても、善玉と悪玉とに分ける必要がある。
どこでどうこの両者を区別するかについては、むずかしい。
しかし基本的には、欲望イコール、(生きる原動力)と考えてよい。
もちろん犯罪性をともなう、反社会的行為は別である。

●甘い陶酔感

 ・・・今のところ、R631が、たいへん気に入っている。
キーボードが打ちやすい。
画面も13・3インチ(ワイド)ある。
それに軽い!
驚くほど、軽い!

 部屋の中を持ち歩いても、苦にならない。
それにもうひとつ、大発見。
欲望をじょうずに満たすと、脳の中に、モルヒネ様のホルモンが分泌される。
それが脳内を、甘い陶酔感(=満足感)で満たす。

 その結果、買うまでは軽い頭痛があったが、それが消えた。
反対に欲望を抑え込むと、ストレスが増大する。
それが脳内ストレスを引き起こす。
サイトカインという悪玉ホルモンを分泌する。

 このサイトカインには注意したほうがよい。
最悪のばあいには、体の免疫機能に作用して、免疫力そのものを弱めてしまう。

●結果論

 これは結果論。
冒頭に書いたように、私は3つパソコンの中から、どれにするか、それに迷った。
が、もっとも値段が高く、性能もよいTOSHIBA製のパソコンを選んだ。
しばらく使ってみると、それが心地よい喜びとなって返ってきた。
「いちばん気に入ったパソコンを手にした」という喜びである。

 こういうときは、いちばんよい機種を手にするのがよい。
二番手、三番手をもつと、かならず飽きる。
後悔する。
飽きて、結局は一番手が、またほしくなる。
ミニパソコンが出始めたころ、私はそれで失敗した。
つぎつぎと新製品が出たこともある。
気がついたときには、5~6台のパソコンがテーブルの上に並んでいた。
もっとも当時は、それをもらい受けてくれる息子たちが近くにいたからよかった。
が、そういう失敗は、二度と繰り返したくない。
多少、値段は高くても、一番手、つまり本命をねらう。
だから昔の人は、こう言った。

『安物買いの、銭(ぜに)失い』と。

 ただし一言。
パソコンだけは、いくら使わなくなっても、自分で処分する。
リカバリーしてから渡すという方法もないわけではない。
しかしめんどう。
削除したファイルでも、プロの手にかかると、簡単に生き返ってしまうそうだ。

●ワイフとの仕事

 さて、そろそろ今年1年間を振り返るときが、やってきた。
早いもので、もう11月の中旬。
あっという間の1年だった。

 で、この1年間を振り返ってみて、ひとつよいことがあった。
ワイフのこと。
ワイフが私の仕事を手伝ってくれるようになって、もう4~5年になる。
当初は、ためらっていたが、今は、自分のほうから手伝ってくれるようになった。
親や子どもたち(=生徒たち)とのつながりができたこともある。
それがワイフなりの(生き甲斐)になってきた。

 が、それだけではない。
私の仕事は、孤独との闘いだった。
その孤独を、ワイフが共有してくれるようになった。

 たとえば若いころ、大切に思っていた生徒が退会したとする。
私はつらくて、それをワイフに話すことができなかった。
1~2か月もして、「実は・・・」と。

が、今は、ワイフはそれを目の前で見ている。
私が思うのと同じくらい、それをつらく思ってくれる。
それだけでも、私の心は軽くなる。

 ・・・若いころは、ワイフにはそれが理解できなかったらしい。
私がそのつらさを、八つ当たりという形でワイフにぶつけたりした。
すると、ワイフはいつもこう言った。
「あなたは仕事のことしか考えていない!」と。
それが私を、さらに孤独のドン底へと、叩き落とした。

●すごい国!

 もちろん、あの3・11大震災もあった。
あの震災が、日本という国を、根底からひっくり返した。
今も、その状態がつづいている。
電話でだれと話しても、みな不安そうにこう言う。
「この先、この日本はどうなるんでしょう?」と。

 どうにもならない。
なるようにしか、ならない。
ただこう思うときもある。
「日本って、すごい国なんだなあ」と。
こんな状況になっても、見た目には、びくともしない。
円高をどうこう言う人もいるが、こんな大災難の中にあっても、円高!?

 アメリカをはじめ、世界中が、通貨安競争を繰り広げた。
日本だけは、しなかった。
自制した。
(本当は、アメリカの圧力で、できなかったのだが・・・。)
その結果が今。
この先のことはわからないが、世界中が大恐慌に見舞われている中、日本だけは何とか持ちこたえている。
(・・・と言っても、経済の動きは、そんな単純なものではない。
日本が円高なのは、ヘッジファンドが、この先日本経済が崩壊するのを先読みしているからにすぎない。
そう説く経済学者もいる。)

●緊張感

 経済の話は、もうやめよう。
憂うつになるだけ。
こうした金融危機は、いつなんどき、自分たちの身に降りかかってくるか、わかったものではない。
とんでもないところから、突然、始まる。
ギリシャ、ギリシャと騒いでいたら、今度はキプロス、イタリア。
イタリア、イタリアと騒いでいたら、今度はオーストリア、ベルギー。
さらに今度は、フランス、それにベルギー・・・。
それらがそのまま、さらなる恐慌へとつながっていく。

 それにしても、このピンと張りつめたようなこの緊張感。
息が抜けない。
これはどうしたものか。
が、人間は、こうした緊張感に弱い。
それほど長く、もたない。
そのときが、こわい。

●バツをつけると怒る子ども

 数日前、こんなことがあった。
小学高学年の子ども(生徒)だった。
その子どものテストを採点しているとき、当然のことだが、まちがえたところに赤ペンで正しい答を書いてやった。
それを見て、その子どもはパニック状態になってしまった。

 体中を緊張させ、恐ろしいほどの形相で、私をにらみ返した。
大声で泣きたいのを、必死でがまんしているといったふうだった。
それをワイフがうしろで見ていて、あとでこう言った。
「きっと悔しかったのね」と。

 が、その子どもは悔しくて、そうなったのではない。
簡単に言えば、かんしゃく発作を起こした。
それ以前の問題として、軽いアスペルガー症候群、あるいは自己愛者的な症状も見られる。
心が閉じているから、そうなる。
つまりその分だけ、心に余裕がない。
その場で、ハハハと笑ってすますことができない。

 そういう性質を私もよく知っていたから、ていねいな言い方で、採点をした。
それでもそうなった。

●儀式

 新しいパソコンを買うと、最初の数晩は、枕元に置いて寝る。
またその前後には、指をキーボードに慣れさせる。
キーボードを指でこする。
これが私の儀式。
新しいパソコンを買ったときの、儀式。

 指先の神経は、脳細胞のどこかに直結している。
指先の神経を刺激していると、やがて甘ったるい陶酔感が脳に満ちてくる。
モルヒネ様のホルモン(エンケファリンやエンドロフィン)が分泌されるためと言われている。
また古来より中国では、モノをいじることによって、ボケを防止しているそうだ。
そういう効果もあるらしい。

 ともかくも、指がキーボードに慣れるまで、少し時間がかかる。
やがてキーの表面が、指でこすれてピカピカになるころには、ブラインド・タッチができるようになる。

 大のおとな(ジー様)が、パソコンを枕元に置いて寝るというのも、おかしな話に聞こえるかもしれない。
しかしこの習慣だけは、私が子どものころから変わっていない。
何か欲しいものを手に入れたときは、枕元に置いて寝た。
おそらく、死ぬまで変わらないだろう。

●光るキーボード

 今回買ったパソコンは、キーボードが光る。
闇の中でも、文章を書くことができる。
いつか映画『トロン』の中で見たようなパソコンである。
横でそれを見たワイフがこう言った。
「不思議なパソコンね」と。

 これがなかなか重宝。
車の中でもパソコンを使える。
枕元の電気を消したあとでも、パソコンを使える。
が、こんなに便利なものとは、知らなかった。
一度使ったら、後戻りできない。
光るキーボードは、そういう機能と考えてよい。
つぎにまたパソコンを買うときは、光るキーボード付のパソコン・・・ということになりそう。
 
●柿

 家に帰ると、従姉から柿が届いていた。
岐阜の柿である。
大きくて、色があざやかに輝いていた。

 すぐ礼の電話を入れた。
私より1歳、年上の従姉だが、元気そうだった。

●浜北文化センターでの講演

 今度、11月30日(水曜日)に、浜松市浜北区にある、文化センターで講演をすることになった。
浜松市内では、今年最後の講演会である。
主催者の先生に電話を入れて確かめると、「一般参加もOK」とのこと。

 もしこの文章を読み、時間がある人は、どうか聞きにきてほしい。
自信はないが・・・というのも、いつも失敗ばかりしているので・・・今度こそ、最高の講演をしてみたい。
真剣勝負。
開場は、午後6時30分。
講演時間は7:00~8:30ということになっている。

 演題は『思春期前夜から思春期の子どもの心と発達』『こうすれば伸びる3つの方法』。

*********************

11月30日(水曜日)
浜北文化センター、午後7:00~より
参加費、無料

主催:浜北区・健全育成会

*********************

●就寝

 先のところまで書いて、今まで、数時間。
とくに何かをしたわけではないが、時間だけ、過ぎてしまった。
時計を見ると、午後11時30分。
もうそんな時刻!

 ふとんの中で半分体を起こし、今、この文章を書いている。
光るキーボードが美しい。
・・・ふと見ると、ワイフがすでにイビキをかいている。
ほんの5分前まで、まだ起きていた。

 私も眠い。
しかしいつまでもこうして、文章を書いていたい。
本当のことを言えば、こうしてキーボードに触れていたい。
超薄型パソコンということで、ストローク(キーの深さ)は浅いが、じゅうぶんなクリック感はある。
パチパチというより、ひざの上で、トントン、パタパタと鳴る。
(「パタパタ」というのは、ENTER・KEYを叩いたときの音。)
それが心地よい。

 ・・・とはいえ、もう私も眠らなくてはいけない。

●午前5時(2011ー11ー12)

 今朝は午前5時に目が覚めた。
トイレに行き、そのまま居間へ。
軽い偏頭痛があったので、Z剤を半分に割ってのむ。
熟睡していても痛いのが、偏頭痛。
その偏頭痛のせいで、寝起きに、いやな夢を見た。

 どうしてだろう?
つまりどうして偏頭痛なのだろう。
このところ精神状態は、悪くない。
日々が楽しく、それなりに満足している。
ワイフとも仲がよい。
神経を使うということもない。

●原稿依頼

 自動車技術会(公益社団法人)から、原稿依頼をもらった。
その機関誌に、6P(ページ)の原稿を書かせてもらうことになった。
年に1度の機関誌という。

 前もって打診はあったが、依頼書を見て仰天。
20P近い企画案内と、原稿の体裁についての注意書きがあった。
ワイフにそれを見せると、「すごい企画書ね」と。

日本の自動車会社が共同して発行する機関誌という。
私もこうして原稿を書くようになって40年。
しかしここまで「すごい!」企画書は、見たことがない。
たいていは、「○○字x○○行」ですんでしまう。

 原稿は完成しているので、再度推敲し、来週中には相手方へ届けたい。

●レッツノート

 今日は土曜日。
とくに予定はない。
会う人もいない。

 ・・・こうしてR631を叩いていると、12年ほど前に使っていた、TOSHIBAのダイナブックSSと、PANASONICのレッツノートを思い出す。

 ダイナブックSSは当時としては、超薄型のパソコンだった。
23万円ほどもした。
ボロボロになるまで使い倒した。
(本当にボロボロになった。)

 レッツノートも薄型だったが、キーボードが平たく、ツルツルしていた。
その感触が、このR631と同じ。
どちらも愛用のパソコンだったが、両方とも、1~2か月で故障。
とくにレッツノートは、それ以後、4、5回も修理に出した。
CDドライブが着脱式になっていて、本体との相性がたいへん悪かった。
当時は、一度修理に出すと、戻ってくるまで、1か月以上もかかった。

 そんなこともあり、レッツノートは、それ以後、一度も買っていない。

●狂乱状態

 今朝はまだニュースに目を通していない。
見たいが、心のどこかでブレーキが働いている。
目まぐるしいというより、狂乱状態。

 先にも書いたように、ギリシャがあぶないと思っていたら、今度はイタリア。
その前にキプロスがおかしくなった。
同時に、ベルギー、オーストリア、フランスまで……。
今度は、ハンガリー?
なぜか?
少し、視野を広げてみると、それがよくわかる。

 ・・・つまり地中海の上(北)と下(南)。
距離はそれほど離れていないが、生活レベルがあまりにも、ちがいすぎる。

同じ人間が、同じように働いている。
しかし「上」の人たちは、それほど働いてもいないのに、優雅な生活を楽しんでいる。
一方、「下」の人たちは、働けど働けど、極貧状態。
「南北格差」という言葉がある。
しかしこれほどまでにひどい「格差」のある地域は、ほかにない。
ヨーロッパだけ。

 今、その格差が縮み始めている。
そう考えると、EUの狂乱状態が、よく理解できる。
必死でユーロの「力」を守ろうとする、EU。
それをよしとしない、新興勢力。
激震に激震を重ねながら、ユーロも、やがて、ごくふつうの通貨になっていく。

 ついでにアメリカのドルも、日本の円も・・・。

●破壊主義

 が、だからといって、そのまま享楽主義に走ることは、正しくない。
もしそれぞれの人が享楽主義、つまり自分だけがその場を楽しめばよいと考えるようになったら、それこそ、世界はおしまい。
欲望だけが、むき出しになってしまう。

 人間は頭がよい分だけ、教育の仕方をまちがえると、たいへん。
欲望がぶつかりあうと、破壊主義が生まれる。
破壊主義は、そのまま戦争につながってしまう。
何としても、それだけは避けなければならない。

●人間の価値

 とは言っても、そこには「現実」がある。
生きていかねばならない。
そのためには、ある程度の収入を確保しなければならない。

 ・・・これについては、がんばるしかない。
それぞれの個人が、それぞれの立場で、がんばるしかない。
どこまでがんばれるか、本当のところ自信はないが、がんばるしかない。

ただひとつ気になっているのは、「命」の価値が、年々、たいへん軽くなりつつあること。
私にしても、(そしてこの文章を読んでいるあなたにしても)、死ねば、骨から灰になり、そのまま消えてなくなってしまう。
数年もすれば、身内の人にすらも、忘れられてしまうだろう。
人と人のつながりが、家族の中においても、希薄になってきている。
つまり(つながり)イコール、(人間の価値)と考えてよい。
その価値が低下し始めている。

 今では隣人が亡くなっても、「ああ、そう」で終わってしまう。
その人が老齢であれば、なおさら。

●仕事

 私はまだラッキーなほう。
仕事がある。
が、老後を考えると、暗たんたる気持ちになる。
年金というと、国民年金だけ。
「何もないよりはマシ」という金額だが、この先、猛烈なインフレが待ち構えている。
「タクシーの初乗りが、1万円」と。
そんな時代に、6万5000円前後の年金をもらって、どうする?
どうなる?

 貯金ゼロの家庭が、全体の30%以上もあるという。
60歳の定年退職時においてですら、約50~60%。
気がついてみたら、子どもの学費で使い果たしてしまったという人も多い。

 だから死ぬまで働くしかない。
が、それを「不幸」と、とらえてはいけない。
少なくとも、私は不幸とは思っていない。

●講演活動

 たとえば講演にしても、それがあるからこそ、生活の中に緊張感が生まれる。
1週間ほど前から、体調を整える。
運動量をふやす。
食事に気をつける。

 ここ4~5年は、講演旅行をかねて、ワイフとその先で、できるだけ一泊するようにしている。
それがまた楽しい。
雑誌「President」の最新号の中にも、こう書いてあった。

 『心の豊かさは収入の額ではない。お金の使い方で決まる』(記憶)と。

 映画を観て、帰りに回転寿司を食べる。
それだけでハッピーになれる人は、いくらでもいる。

●アンチ・ウィルスソフト

 偏頭痛は収まったが、何かした頭がフア~ッと浮いたような状態。
薬の副作用と思われる。
要するに、偏頭痛薬というのは、基本的には血管収縮剤。
緩んだ血管を、収縮させる。
今が、その状態?

 ・・・しかし今、EUは、どういう状況なのだろう。
気にはなる。
が、このR631は、まだネットにはつながっていない。
アンチ・ウィルスソフトをどうしようか、まだ結論が出ていない。
市販(有料)のものもあるが、雑誌などによれば、マイクロソフト社から、無料のアンチ・ウィルスソフトが配布されているという。
「Microsoft Security Essentials」というのが、それ。
有料版に近い、ウィルス検出能力があるという。
ほかにも、「AVG Anti-Virus Free Edition 2012」というのもある。

 どうしようか?
この世界では、無料イコール、無責任。
アンチ・ウィルスソフトだけは、しっかりとしたものをインストールしたい。
ネットに接続するのは、そのあと。

●天高く……

 今、雨戸を開け、今日、はじめて空を見た。
「天高く・・・」というのは、こういう空のことを言うらしい。
昨夜までの雨模様は収まり、そこには水色のさわやかな空が広がっていた。

 こういう朝は、筋雲が美しい。
それが幾重にも連なり、まるで長い髪の女性が、髪を風になびかせているかのようにも見える。
先ほど雨戸を開けたとき、サーッと冷気を含んだ風が部屋の中に入ってきた。
さわやかな朝。

GOOD MORNING!

 しばし空の美しさに、見とれる。

●ニュース

 もう一台のノートパソコンで、いくつかのニュース・サイトを開いてみた。
今では新聞よりも先に、(もちろんテレビよりも先に)、ニュースはネットで読む。
新聞は、その確認用。

 一方、まったく意味のないのが、テレビのニュース。
ウソこそ言わないが、本当のことも言わない。
これだけ情報が氾濫してくると、私たちはその向こうにある、隠された意図というものまで読み取ることができるようになる。
テレビは、たしかに私たちの心を、巧みに操っている。
それがわかるようになる。

●ニュース

 NYダウは、259ドル高。
EU市場も、落ち着いているよう。
Bloombergによれば、「EUに楽観論、広がる」とある。
が、「よかった!」とは、私は思わない。
明日のことは、わからない。
こんなことで一喜一憂していたら、それこそ気がヘンになる。

 取り越し苦労に、ヌカ喜び。
むしろ気になったのは、アメリカ・サンフランシスコ連銀のウィリアムズ総裁が、つぎのように発言したこと(Bloomberg)。
「新たな資産バブルが形成される、著しいリスクがある」と。
それもそのはず。

 これだけ市中に、お金(マネー)をばらまけば、そのあと世界はどうなるか。
そんなことは、私のような者でも、よくわかる。
ウィリアムズ総裁は、「それが暴走したときが、こわい」と。

●朝風呂

 今朝は朝風呂になりそう。
朝風呂といっても、昨夜、風呂に入るのをサボった。
それで朝風呂になりそう。
ワイフがタブに湯を入れ始めた。

 ・・・こうしてR631の処女航海は、無事すんだ。
使い勝手は、たいへんよい。
当初、キーの縦幅がやや狭いのが気になった。
が、打ち始めてみると、それはすぐ解消した。
巨大なENTERキーにも、すぐ慣れた。
叩くたびに、パタパタという音がするのは、許容範囲。
愛嬌。
今までの周辺機器が、そのまま使えるのもよい。
(他社のUltra bookは、接続コネクターが必要。)

 ただ色が、あまりよくない。
「色はシルバー」とあるが、実際には、ダーク・シルバー。
イメージが暗い。
悪い。
これはTOSHIBA製のパソコンすべてに共通している点だが、どこか事務機器ぽい。
オシャレ感に乏しい。
が、パソコンは事務機器ではない。
愛用品。
心の通う愛用品。
もっていて楽しい・・・というパソコンにしてほしい。

 しかしこれで現役のTOSHIBA・ダイナブックは、計5台になった。

(はやし浩司 2011-11-12朝記)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【幼児に、言葉としての英語をどう教えるか】(実践教育)

●会話ではなく、言葉。言葉としての英語を、幼児にどう教えるか。それが今回のレッスンの目的です。もちろん相手は幼児ですから、「文法」を教えても意味はありませんね。……ということで、今回のレッスンを考えてみました。結果はまずまずでした。

(1)


(2)


(3)


(4)



(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 言葉としての英語をどう教えるか 英語教育 幼児の英語教育 はやし浩司 言葉教育 幼児教育 英語の文法 言葉)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

2011年11月28日月曜日

*IMF would assist Italy

●11月28日(月曜日)・アメリカのEU支配戦略

++++++++++++++++++++

今朝(11月28日)のニュースを読んで驚いた。
IMFが、イタリアの金融危機を救済するため、
6000億ユーロ、つまり約62兆円の支援を
準備しているという。

62兆円!

ブルームバーグは、つぎのように伝えている。

『国際通貨基金(IMF)はイタリアの債務危機が悪化した場合に備えて、6000億ユーロ(約62兆円)の支援を準備している、と同国紙スタンパが伝えた。情報源には言及していない。
(中略)
 同紙によると、金利は4-5%で、融資額は4000億~6000億ユーロとなる公算がある』と。

 もしこれが事実とするなら、Good Newsとまでは言わないが、世界の金融恐慌も、これで一息つくはず。

 ……しかし、IMFに、そんなお金があるのか?
そのお金は、だれのものなのか?

+++++++++++++++++++++

●IMF

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある(抜粋)。
今朝は、IMFの勉強から始める。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++++

●IMF

 英語: International Monetary Fund、IMF)は、通貨と為替相場の安定化を目的とした国際連合の専門機関。
本部はアメリカ合衆国のワシントンD.C.。
2007年1月現在の加盟国は185ヶ国。

●managing director

 「managing director(一般に専務理事と訳される)」は、理事会の議長と国際通貨基金の代表を務める。
国際通貨基金の専務理事には欧州出身者、世界銀行の総裁には米国出身者が選出されるのが暗黙の了解になっている。

●問題点

 日本の場合、大口出資国で有る等の立場から財務官僚が多く出向しており、融資が行われていないにもかかわらず、「消費税を上げるべきだ」等のIMFの討議内容の報道がなされる。

 これは、IMFの正式発表ではなく、財務官僚が出向者を使い、さも、まるで、IMFが全体がその様に述べているかのように見せ、自分たちの都合の良いようにマスコミを通じ国内世論を操作する道具にしている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++++++++++

●貸し倒れ?

 わかりやすく言えば、IMFは、Bank of Banks(銀行の中の銀行)ということになる。
『各国の中央銀行の取りまとめ役のような役割を負う』(ウィキペディア百科事典)とある。

 が、気になるのは、「総裁には米国出身者が選出」という部分と、「日本が大口出資者である」という点。
つまりIMFがイタリアを救済するということは、アメリカと日本が救済するというに等しい。
その額、62兆円!

 果たして貸し倒れはないのか?
ウィキペディア百科事典によれば、「かつては……成果があがらない国も多く、踏み倒しも横行した」とある。
そこであれこれ対策は練られてはいるのだろうが、それにしても額がちがう。
本当に貸し倒れの心配は、ないのだろうか。
その前に、今の日本に、そんな余裕はあるのだろうか。

『財務官僚が出向者を使い、さも、まるで、IMFが全体がその様に述べているかのように見せ、自分たちの都合の良いようにマスコミを通じ国内世論を操作する道具にしている』(同)という部分も気になる。

●ネガティブ思考

 ものごとはポジティブに考えたい。
今回のIMFの動きを、Good Newsと考えたい。
これでイタリアが立ちなおれば、EUの金融危機も、ひとまず遠ざかる。
またそうであってほしい。

 が、私はどうしてもネガティブにものを考えてしまう。
その第一。
そんなことをすれば、ドイツのメルケル首相が心配しているように、モラル・ハザードを起こしてしまう。
怠惰な国が、ますます怠惰になってしまう。
それだけではない。
一度、保護=依存の関係ができると、それを断ち切ることは、容易なことではない。
もしイタリアが、「またつぎもIMFが助けてくれるさ」と考えるようになったら、さらに事態は悪化する。

 さらに言えば、救済の仕方をまちがえると、かえって逆恨みされる。
韓国の例をあげるまでもない。

●韓国の例

 ……ここで「韓国」と書いて、しかし、ピンと来た。
現在、韓国は、経済的にはアメリカの属国と化している。
銀行のほとんどは、アメリカの資本下にある。
サムスンにしても、ヒュンダイにしても、アメリカの会社と考えたほうが、わかりやすい。

 が、肝心の韓国の国民は、それに気づいていない。
「働けど、働けど、我が身楽にならず」という、つまりは国民全体が、ワーキングプアの状態にある。
つまり韓国が現在の韓国になったのは、1997年の、あの金融危機に起因している。

 ……つまり、アメリカはジャパン・マネーを利用し、今度はEU支配をもくろんでいる!

●日本は……

 しかしEUの金融危機は、何としても収めねばならない。
火事は火事でも、大きすぎる。
このままでは、火の粉が飛んでくるどころか、日本も延焼してしまう。
アメリカにしてもそうだろう。

 が、その前に重要なことは、ドイツ自身の自腹を切らせることではないのか。
IMFのメンバーを見ると、さらにその感が強くなる。
メンバーの出身国は、つぎのようになっている。

ベルギー  1名
スウェーデン2名
フランス  5名
オランダ  1名
ドイツ   1名
アメリカ  2名(総裁を除く)
スペイン  1名

 大口出資者である日本は、Managing Directorには、入っていない?
ウィキペディア百科事典によれば、そうなっている。

 つまりIMFは、EUの準付属機関と考えてよい。
どうしてそんな機関で、日本が大口出資者なのか?
たいへんネガティブな見方をすれば、こうだ。

 EUとアメリカは、日本のマネー(Japan Money)を使って、EUを救済しようとしている。
が、かたやその日本はといえば、お人好しのボンボン。
欧米に相手にしてもらえただけで、大喜び。
日本の官僚たちにしても、まさに特権階級。
日本が破産しても、食いはぐれることはない。
(戦後直後にしても、またあの3・11大震災直後にしても、官僚+役人たちだけは、満額の給料が支給されていた。
文部省(終戦直後当時)の役人にしても、クビになった役人は、1人もいない。)

●大国意識は捨てよう

 果たしてGood News なのか?
それともBad Newsなのか?
私には、わからない。

 もともと狂った世界の話だから、このままさらに狂っても、私は驚かない。
しかし今回も、最後のババを引くのは、この日本。
IMFへの出資金にしても、もとはといえば、日本が戦後、懸命に働いてためたお金。
EU(=IMF)にしても、仮に貸し倒れになっても、(そうなる可能性はきわめて高いが)、痛くもかゆくもない。

 日本よ、日本人よ、こんなお人好しは、もうやめよう。
大国意識を捨て、もう一度、原点に立ち戻り、そこからはい上がろう。
このままでは、EUよりも先に、日本が沈没してしまう。

 ……今朝の私のものの考え方は、やはりネガティブか?
ただの杞憂か?

 今日の日本の株価は、IMFの発表を受け、急上昇に転ずるはず。
ノー天気な日本、ここに極まれり。

 みなさん、おはようございます!
2011/11/28朝記。


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 11月 28日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ある相談を考える】

【Q】

  今年小学生になった娘が、友達が出来なくて困っています。
  自分から話しかけたり、笑ったりするのが恥ずかしくて出来ない・・・
  そうなんです。
  最近では、学校へ行きたくないと言い出しました。
  今の所、登校拒否にはなっていません。
  「友達の作り方」って、あるんでしょうか?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【A】

●友だち

 年齢的には、幼児期後期もすみ、児童期に入っています。
人格の核(コア)も、すでに完成しつつあるとみます。
つまり「この子は、こういう子」という(つかみどころ)ができているということ。
この時期に入ったら、鉄則はただひとつ。
「あるがままを認め、その上で、子育て(教育)を組み立てる」です。

 「友だちを作りなさい」式の人格を否定するような指導は、子どもをかえって崖っぷち
に追い込んでしまうようなことになりかねませんので、注意が必要です。
子どもの立場で、それを考えてみればよくわかるはずです。

●自己認識力

 小学1年生には、まだ自分を客観的に観察し、判断する能力はありません。
それができるようになるのは、小学3年生以上です。
「自分には友だちが多い」「少ない」とかいう、判断はできないということ。

 そんなとき親から、「もっとみんなと親しくなりなさい」などと言われても、困るのは子
どもということになります。
言い方をまちがえると、子どもは自信喪失から、自己否定、さらには心配しているような
不登校児に……ということにもなりかねません。

●人間関係は、密度

 人間関係は、密度の問題です。
その密度は、横軸を「幅」とするなら、縦軸は「深さ」ということになります。
「広く浅く」が必ずしも、理想というわけではありません。
そうでなくても、日本の学校は、昔から「すし詰め教育」と揶揄(やゆ)されています。
少なくとも欧米の基準からみれば、そうです。
たとえばオーストラリアには、「エアー・スクール」というのがあります。
無線で勉強する学校です。

 週に1度ほど、近くの学校に集まり、スクーリングを受けますが、そのときでも全学年
で、20~25人程度です。
そういうところの子どもが、どこかヘンかというと、そういうことはまったくありません。
さらにアメリカでは、ホームスクーラー(学校へ行かないで、家庭で教育を受けている子
ども)が、推定で200万人を超えています。

 そこで大切なのは、「深さ」です。

 数は少なくても、その人と深く交際する、です。

●では、どうするか

 この時期、親ができることと言えば、各論でしかありません。
イギリスでは、『馬を水場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』と
教えます。
子どもを馬にたとえるのは、日本では失礼な感じがしますが、イギリスではその逆です。
それはともかくも、各論です。

 たとえば子どもの友だちを呼んで、パーティを開くとか、反対に友だちの誕生日には、
手作りのケーキを届けるとか、など。
コツは、親同士が仲よくなるつもりで、相手の子どもをその中に巻き込んでいきます。
つまりそれが「水場」ということになります。

●10人に1~2人

 実際には、集団にとけ込めない子どもというのは、10人に、1~2人(小学低学年児)
はいます。

 たいていは、心が開けない子どもというように考えて対処します。
自分の心を開放し、ワーッとその中に入っていけないわけです。
しかしこのばあいも、子どもの問題というよりは、乳幼児期の母子関係に問題があったと
みます。
発達心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って説明します。
つまり母子関係の不全ということになります。

 子どもというのは、絶対的なさらけ出し(=どんなことをしても許されるのだというさ
らけ出し)と、絶対的な受け入れ(=親は子どもがどんなことをしても、許すという受け
入れ)の上で、基本的な信頼関係を構築します。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味です。

 このタイプの子どもは、(孤独)と(集団での苦痛)の間で、はげしく葛藤します。
(おとなでも、そうです。)
(さみしいから皆の中に入る)→(しかし神経疲労を起こしやすい)を繰り返す。
こうした現象を、ショーペンハウエルという心理学者は、(哲学者ではない)、「二匹のヤマ
アラシ」という逸話を使って説明しました。

 ある寒い夜のこと。
二匹のヤマアラシは穴の中で、身を寄せ合って過ごすことにした。
しかし近づきすぎると、互いの針で痛い。
しかし離れすぎると、寒い。
一晩中、それを繰り返した……というのが、『二匹のヤマアラシ論』です。

●親の姿勢

 なおこの相談を読んで、それよりも気になったのは、親の育児姿勢です。
「子ども自身はどうなのかな?」という視点が、ないのが気になります。
子どもが「友だちがいない……」と悩んだのでいるのでしょうか。
(友だちがいる・いない)は、ひょっとしたら、親の主観的判断ではないでしょうか。
あるいはひょっとしたら、子どもは、集団生活が苦手で(=いやで)、悩んでいるのかもし
れません。

 中には、対人恐怖症であるとか、そういった心の問題(回避性障害、自閉症、緘黙症な
ど)をかかえている子どももいます。
どれにしても子ども自身では、コントロールができない問題です。

 そういった問題を取りあげることもなく、頭から「どうすればいいか」を考えるのは、
育児姿勢としては、危険です。
最近では、子どもに何か問題があったときは、「子どもは家族の代表」と考え、家族全体の
問題として考えるようになってきています。
「子どもだけ何とかしよう」と考えるのは、危険というより、無謀です。

 「なぜそうなのか?」という視点で、ものを考えます。
「なぜ、そうなったか?」でもよいでしょう。
この親は、そういう視点で、子どもの問題を考えているでしょうか。
でないとするなら、過関心、過干渉ということになります。

●不登校児

 子どもがどの程度、集団から孤立しているか。
また心の問題が、どの程度なのか。
それがわかりませんから、ここでいきなり不登校児の問題を取りあげるのは、適切ではな
いかもしれません。

 「学校へ行きたくない」と子どもが言うようであれば、親はまず聞き役に回ってあげま
す。
子どもの立場で、「そうね」「そうだよね」と言ってあげるだけでも、子どもの心は軽くな
るはずです。
まずいのは、「学校とは行かねばならないところ」と考え、親自身がもつ固定観念(古風な
常識)を子どもに押しつけることです。

 ときにはズル休みも、よいでしょう。
私は自分の子育てで、そうしました。
平日に学校をズル休みし、動物園などへ連れていくと、どこもガラガラでした。
あのとき感じた解放感は、今でも忘れることができません。

●不登校は前兆をとらえる

 ジョンソンというイギリスの学者は、不登校、つまり学校恐怖症を3期に分けて考えて
います。
前兆期、パニック期、不登校期です。

 その前兆期に、子どもはさまざまな症状を示します。
頭痛、腹痛、脚痛、下痢、嘔吐などの身体的症状、ぐずりや、ふさぎこみ、グチ、無口、
無言などの精神的症状などなど。
ほかにたとえば、食欲不振、不眠、早朝覚醒など。
こうした症状が慢性的につづくなら、要注意ということになります。

 が、もしそうでないなら、つまりただのグチとして、「学校へ行きたくない」と言うので
あれば、よく子どもの話に耳を傾けてやることで、解決するはずです。

 ついでに言うなら、本当に行きたくないときは、「行きたくない」と直接的な言い方では
なく、「友だちがいじめる」とか、「学校の先生がこわい」とかなど、別の言い方をします。
子ども自身が、(行きたくない)という気持ちと、(行かねばならない)という気持ちのは
ざまで、葛藤するからです。
つまり自分の心をごまかしたり、正当化(合理化)したりします。

この葛藤が頂点に達したとき、パニック期を迎えます。
ある朝、突然、狂人のように暴れて、学校へ行くのを拒否する、など。

●あきらめる

 で、これが結論ということになります。
「あきらめる」です。
親としてできることにも限界があります。
一方、子どもには、子どもの世界があります。
今の段階で親ができることといえば、「温かい無視」と、「求めてきたときが与えどき」程
度のことです。

 子どもが学校から、疲れて帰ってきます。
それがわかったら、家庭では、思う存分、羽を伸ばさせてあげます。
温かい無視というのは、それをいいます。

また子どもが何らかの形で、甘えてきたら、すかさず、ぐいと抱いてあげる。
たったそれだけのことですが、それで子どもは、落ち着くはずです。
「求めてきたときが与えどき」というのは、そういう意味です。

小学1年というのはそういう時期です。
言うなれば、野原を飛んでいた小鳥をカゴの中に、押し込めたような状態。
子どもにしてみれば、たいへんなストレスを感じて、当然です。

 そこで子どもはそのストレスを解消しようと、大きくわけて2つの反応を示します。

 ひとつは外放型(プラス型)。
もうひとつは、内閉型(マイナス型)。

 外放型というのは、暴れる、騒ぐ……という方法で、ストレスを発散する方法をいいま
す。
内閉型というのは、内に引きこもり、身の安全を図る方法をいいます。
相談の子どものケースは、内閉型ということになります。

 なおあまり情緒が不安定であるようなら、白砂糖を断ち、カルシウム、マグネシウム、
カリウムの多い食生活に心がけます。
わかりやすく言えば、甘い食品や、肉類の多い献立から、海産物の多い献立に切り替えま
す。
それだけで子どもは、ぐんと落ち着くはずです。
1週間ほどで効果が現れてきますので、一度、試してみてください。

 最後に、「うちの子は、まあ、こんなもの」と、割り切り、繰り返しになりますが、ある
がままを認め、その上で家庭教育を組み立てていきます。
けっしてオールマイティな子どもを求めないこと。
だれにも、得意、不得意があります。

 正直に告白しますが、私自身も集団行動が苦手です。
旅行でも、ワイフと2人だけで、のんびりとしています。
余計なことですが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 集団にとけ込めない子
ども 溶け込めない子ども 友だちのいない子ども はやし浩司 友だちが少ない子ども 
神経疲労を起こしやすい子ども はやし浩司 IDOBATA こまち)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【小学1年生に、掛け算を教える】

●今週は、小1クラスでは、掛け算をテーマにレッスンを進めました。
 にぎやかなクラスで、子どもたちとワイワイやりながら、教えました。
 学級崩壊寸前のようなクラスですが、たいへん楽しかったです。

(1)



(2)



(3)



(4)



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

サイコパス(反社会性性格)Psychopathy

+++++++++++++++++++++

【問】

 A男氏は、45歳。
2人の息子がいる。
ともに高校生。
この10年以上、仕事らしい仕事はしていない。
親の残した遺産と、妻のパートの仕事で、何とか生計を立てていた。

 が、2人の息子が高校生になったところで、家計がパンク。
医師をしている遠い親戚のNさん宅を訪ねた。
「このままでは一家心中しなければなりません。助けてください」と。
シクシクと泣きながら、土下座までしてみせた。

 見るに見かねて、その親類は、「100万円くらいなら……」といって、現金を渡した。
それが15年ほど、前。
A男氏は、「ありがとうございます」「恩は忘れません」と何度も頭をさげ、その場を去っ
ていった。

 そこでクエスチョン。
あなたは、A男氏をどのように判断するだろうか。

●サイコパス

 『私たちはどんな悪人も、少しくらいは良心を持っているだろうと信じていると思いま
す。しかし、世の中にはそんな考え方が全く通用しない「サイコパス」と呼ばれる人間が
存在しているのです』(「サイコパスとは何か」サイトより転載)と。

 この一文が、サイコパスのすべてを語っている。
診断基準として、同サイトは、つぎの7つをあげている。

(1)口達者で、一見、魅力的。
(2)同情を引こうとする。
(3)無責任で問題行動が目立つ。
(4)責められると逆ギレする。
(5)非常によくウソをつく。
(6)感情が浅く、思いやりがない。
(7)衝動的に行動する。

 「ウソがうまく、泣いても空涙」。
「言葉はよく知っていても、心に響かない」などが、大きな特徴としてあげられている(同
サイト)。

 詳しくは、
http://www.psy-nd.info/
で。

 またウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++++

三省堂の大辞林によると「性格が逸脱し、そのために社会を困らせたり自らが悩むもの。
性格異常」とある。
連続強姦殺人犯、シリアルキラー(連続殺人者)や、重度のストーカー、常習的詐欺師・
放火魔、カルトの指導者の多くがサイコパスに属すると考えられている。
さらに、窃盗/万引き、ドメスティックバイオレンス、幼児虐待、非行少年グループ、資
格を剥奪された弁護士・検察官や医師、テロリスト、組織犯罪の構成員、金のためならな
んでもやる人間、悪徳実業家なども当てはまることがある。

サイコパスは社会の捕食者(プレデター)であり、生涯を通じて他人を魅了し、操り、情
け容赦なく我が道だけをいき、心を引き裂かれた人や期待を打ち砕かれた人、財産を奪わ
れ尽くした人を後に残して行く。

良心や他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯
し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う。
その多くは刑務所内にいるが、社会に出ている者もまた多い。
その大部分は殺人を犯すことなく自分たちの業を押しつけてくる。北米には少なくとも200
万人、ニューヨークだけでも10万人のサイコパスがいると、犯罪心理学者ロバート・D・
ヘア(en:Robert D. Hareは統計的に見積っている。

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++++

 ついでに「はてなキーワード」の説明文も、掲載する。

『精神病質者の意。現在サイコパスという言葉は無く、反社会性人格障害(APD)と変更さ
れている。

サイコパスの特徴は極端に自己中心的で、慢性的な嘘つきで後悔や罪悪感が無く、冷淡で
共感が無い。加えて自分の行動に責任が取れない。

多くは脳の前頭葉に問題がある可能性が高く、ホルモン異常と考えられる。
それに加えて幼少時の虐待・生育環境の劣悪が重なりサイコパスとなる可能性が高い。
8~9割のサイコパスは言語能力を司る認知機能に障害があり、通常左脳で行われる言語
処理が右脳で行われている。

一般的にサイコパスとサイコは同じ意味で捉えられている』(以上「はてな・キーワード」
より)と。

●サイコパスの自己診断

 自分がサイコパスであるかどうかは、つぎのところで自己診断できるようになっている。

http://www.psy-nd.info/diagnosis.html

興味のある人(心配な人)は、このサイトで、自己診断をしてみるとよい。

●問に対して

 冒頭の【問】を読んで、もしあなたが、「A男氏は、親戚の医師に感謝し、喜んでいる。
A男氏は、自分の家に帰り、息子たちにこう言うにちがいない。『あのNさんのおかげで、
お前たちは、高校へ通うことができる。恩を忘れるな』と。A男氏は、それからは定職に
つき、妻に毎月給料を渡すようになったはず」と答えるようなら、あなたは、ここでいう
サイコパスではない。(断定はできないが、その可能性はほとんど、ない。)

 が、サイコパスは、そうは考えない。
「しめしめ、うまくだましてやった。あのバカ医師め。まんまとオレの空涙にひっかった。
あんなヤツ、オレが土下座をすれば、イチコロよ」と。

●Nさん(医師)

 冒頭にあげた話は、実話である。
このあともたびたびA男氏は、親類の医師、つまりNさん宅を訪れている。
が、そのつど、ああでもない、こうでもないと言葉巧みに、Nさんからお金を引き出すの
に成功している。

 Nさんは、私にこう言った。
「何でも毎朝、毎晩、私の家のほうに向かって、家族全員で手を合わせて感謝していると
いうのですね。
でもね、私は仏様でも神様でもないから、そんな気味の悪いことはしなくていいって、言
ってやりました」と。

 が、A男氏の話は、すべてウソだった。
その証拠に、……というか、私はそれが証拠と考えているが、Nさんが亡くなったとき、
A男氏はもちろん、家族はだれも葬儀に来ていなかった。
「2人の息子は来ているだろう」と思って、Nさんの家族に聞いてみたが、息子も、そし
て妻も来ていなかった。
A男氏というのは、そういう人間だった。

●サイコパス

 ……だからといって、A男氏が、サイコパスというわけではない。
しかし実際に、このタイプの人は少なくない。
もう一度、先に引用した文を読んでみてほしい。

 『私たちはどんな悪人も、少しくらいは良心を持っているだろうと信じていると思いま
す。しかし、世の中にはそんな考え方が全く通用しない「サイコパス」と呼ばれる人間が
存在しているのです』(「サイコパスとは何か」サイトより転載)と。

【サイコパスの診断基準】(DSM-IVによる診断基準)

●Psychopathy Checklist (PCL)

1 口達者/表面的な魅力
2 過去におけるサイコパスあるいは類似の診断
3 自己中心性/自己価値の誇大的な感覚
4 退屈しやすさ/欲求不満耐性の低さ
5 病的に嘘をついたり人を騙す
6 狡猾さ/正直さの欠如
7 良心の呵責あるいは罪悪感の欠如
8 情緒の深みや感情の欠如
9 無神経/共感の欠如
10 寄生虫的な生活様式
11 短気/行動のコントロールの欠如
12 乱交的な性関係
13 幼少期からの行動上の問題
14 現実的で長期的な計画の欠如
15 衝動性
16 親として無責任な行動
17 数多くの結婚・離婚歴
18 少年時代の非行
19 保護観察あるいは執行猶予期間の再犯の危険が高い
20 自分の行動に対する責任を受け入れることができない
21 多種類の犯罪行為
22 薬物やアルコールの乱用が反社会的行動の直接の原因ではない

●注意

 このサイコパスの診断基準について、つぎのような注意書きが添えられている。

『サイコパスチェックリスト」は専門家が使う場合でも相当に複雑な臨床診断の道具であ
り、自分自身やそばにいる人をこれを使って診断してはいけない。この診断にはしっかり
した訓練と、正式な採点方法が必要である』と。

 安易な素人判断は、危険であるという意味である。

●善意の通じない人

 私のまわりにも、サイコパス(?)と思われる人は、少なくない。
あなたのまわりにも、ひょっとしたらいるかもしれない。
あるいはあなた自身が、そうかもしれない。
つまり善意の通じない人である。

 その人がサイコパスというわけではない。
しかし私もNさんに似たような経験を、いくつかしている。
「これだけのことをしてあげたのだから、相手はそれなりに感謝しているはず」と。親切
にしてあげたほうは、そう思いがちだが、このタイプの人には、そうした(お人好し)は
通用しない。
心そのものが欠けている……振り返ってみると、そんな印象をもつ。

 私の知人にMさん(女性、60歳くらい)がいる。……いた。

●Mさん(女性、60歳くらい)

 Mさんの第一の特徴をあげるなら、とにかくウソがうまいということ。
10のうち1つも、本当のことがない。
その場その場で、ペラペラと適当なウソをつく。
あまりウソが多いので、自分でも忘れてしまうよう。

 口もうまい。
近所の独居老人たちの世話をしている……みなに感謝されている……市から表彰されそう
になったが、辞退した……先週も、ある独居老人のために、一日中、車であちこちへ行っ
てやった……という話が、つぎつぎと口から出てくる。

 さらに近所の別の独居老人が死んだときには、自分が喪主になって葬儀をしてやったな
どという話もした。
しかもその内容が、詳細。
こっちらが聞きもしないのに、葬儀社との電話のやり取りまで話した。

 先にも引用したように、『言葉はよく知っていても、心に響かない』の通り。
ペラペラと話すが、真実味に欠ける。
「私は親切だ」「やさしい」とは言うが、そうした行為にあるべきはずの「温もり」が伝わ
ってこない。

 そしてあとは、お決まりの同情論。
Mさんが、実の父親の介護をするようになったときのこと。
Mさんは毎晩のように親戚中に電話をかけた。
私のところにもかかってきた。
「あれがたいへん」「これがたいへん」と。

 実際に、親の介護はたいへん。
そういう意味でMさんの気持ちを理解できなかったわけではない。
が、同時にMさんは妹氏の悪口を、あれこれと言った。
「近くに妹が住んでいるが、見舞いにも来ない」「来ても10分足らずで帰ってしまった」
などなど。
が、一度、こんなことがあった。

 私のワイフが、Mさんの妹氏のことをよく知っていた。
妹氏は、共働きで、父親の介護ができなかった。
そこでその代わりにということで、毎月10万円の現金を、Mさんに直接、届けていた。
そのことを私は知っていたので、ふとこう言ってしまった。

 「でも、妹さんもあなたと同じようにお父さんのことを心配していると思いますよ」と。

 この一言が、Mさんを激怒させた。
ふつうの激怒ではない。
錯乱状態に近い、激怒だった。
突然ギャーギャーと声を張り上げ、「あなたは他人の家族のことだと思って、勝手なことを
言う!」と。

 以来、私はMさんからの電話には、出ないことにした。

●離婚歴
 
 DSM-IVによる診断基準によれば、17番目に、「数多くの結婚・離婚歴がある」と
いう項目がある。
が、Mさん自身には、離婚歴はない。
(こうした診断基準は、あくまでも多数決的なものだから、みながみな、そうなるという
わけではない。)
しかしMさんの、2人の娘と1人の息子は、みな、離婚しているか、離婚状態にある。
離婚状態というのは、現在別居中ということ。

 Mさんの反社会的人格と、子どもたちの離婚と、どういう因果関係にあるかは、私には
わからない。
何かの影響を与えたということは、じゅうぶん、考えられる。
つまりMさんは、明らかに「温かい家庭作り」に、失敗していた。
3人の子どもたちは、そういう状態にありながらも、Mさんの家(子どもたちにとっては
実家)には、寄りつかないという。

●劣悪な家庭環境

 医学的な見地で「サイコパス」と呼ばれている人は、(子どもでもよいが)、そういう点
で、かわいそうな人とみる。
同情的な意味で、そう言うのではなく、「自分自身でもコントロールできない」という意味
で、そう言う。

原因としては、『幼少時の虐待・生育環境の劣悪が重なりサイコパスとなる可能性が高い』
(はてな・キーワード)とあることからもわかるように、乳幼児期の育児環境が第一に考
えられる。

 というのも、私が知るかぎり、サイコパスは後天的なもの。
しかも幼児期に入るころには、その傾向がはっきりしていることがあげられる。

心の冷たさだけが、強く印象に残る。
やさしくしてあげても、それがスーッとどこかへ抜けていってしまう、など。
また空想的虚言(妄言)といって、頭の中に別の世界をつくり、それに基づいて、それを
あたかも事実のように話したりする。
一見、明るく快活だが、調子がよいだけ。

 このタイプの子どもがすべてサイコパスというわけではないが、(というのも、サイコパ
スと診断されたケースはないので)、サイコパスの診断基準に照らし合わせてみると、この
タイプの子どもがなぜそうなのか、それがよく理解できる。

 ともあれこのサイコパスには、さらにいろいろな問題が隠されている。
たとえば私がよく使う『貧者の論理』『弱者の論理』『被虐待者の心理』など、総じてみる
と、(心のゆがみ)の問題と、その底辺でつながっている。

 貧者にせよ、弱者にせよ、はたまた被虐待者にせよ、サイコパスもしくは、サイコパス
的な症状を示す。
が、それについては、また別の機会に考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 サイコパス 
Psychopathy サイコパス診断 診断基準 反社会性性格 人格障害 異常心理学)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●浜名湖・弁天リゾート・The Oceanにて(2011年10月30日)

+++++++++++++++++++++++++

料金は、1泊2食付で、1人6500円。
やる気度、本気度満点。
浜名湖周辺で、イチオシのホテル。
食事も、部屋も、申し分なし。
この部屋(5階の501号室)にしても、17畳もある。

……ということで、またまたやってきた、The Ocean。
「入野町の林です」と電話で言うと、フロントの女性が、「あら、林さん?」と。

……実を言うと、このホテルの経営者は、YSさん。
YSさんの2人の子ども(兄&妹)は、私の教え子。
私は、それぞれ4~5年、教えた。
応援しないわけにはいかない。
が、そうしたひいき目を差し引いても、このホテルで文句を言う人はいない。
窓を開ければ、すぐ下に浜名湖が広がっている。

もしあなたが出張か何かで、もちろん旅行でもよいが、浜松市へと考えているなら、
The Oceanを選択肢に入れてみたらよい。
このホテルから浜松市内までは、車で20~30分。
ビジネスホテル並みの料金で、旅行気分を味わえる。
はやし浩司の保証付き。

料理もよし、風呂もよし。
一流ホテル並みの食事(バイキング)を楽しむことができる。
風呂はやや小さいかなと思うが、清潔できれい。

ただし目下人気、急上昇中。
今夜は日曜日というのに、駐車場の空きを見つけるのもむずかしいほど、混んでいた。
フロントで、「今日は混んでいますね」と声をかけると、いつもの女性が笑いながら、
こう言った。
「今日は大入りです」と。
うれしそうだった。

+++++++++++++++++++++++++++

●K楼ホテル

 このホテルは、YSさんの経営。
このホテル東側に、数軒おいて、K楼ホテルというのがある。
以前は、そこによく泊まった。
そのK楼の前経営者が、MBさんだった。
MBさんの息子氏も、私の教え子だった。
その子どもは、幼稚園のときから、小学校を卒業するまで私の教室に通ってくれた。

 が、おかしなもので、その子どものことでよく覚えているのは、教室でのことではない。
その子どもが交通事故にあったときのこと。
市内の鴨江町に自宅があり、そこから自転車で教室へ通ってきてくれていた。
途中、なだらかだが、長い坂がある。
そこで交通事故にあった。
たしか右足の骨を折ったと記憶している。
その子どもが小学3年生くらいのときのことではなかったか。

 MBさんの息子氏といえば、その事件が強烈すぎて、ほかの思い出はあまり浮かんでこ
ない。

 が、残念なことに、今は経営者が変わってしまった。

 そうそう、そのK楼ホテルでは、東京からの客を連れていくと、芸者踊りをサービスで
見せてくれた。
私はホテルや旅館で、芸者踊りを見たのは、後にも先にも、そのK楼ホテルで、だけ。
そういう世界とは、無縁の世界を生きてきた。
バーもキャバレーも、ついでにトルコ風呂も、生涯において数回しか行ったことがない。
どれも1~2回行って、それで懲りてしまった。

●教え子たち

 幼児を教えるようになって、40年以上。
浜松は大きな町だが、たいていの人のことは知っている。
直接知らなくても、人と人の間には、つながりがある。
そのつながりを、ひとつ、ふたつとつなげると、たいていふたつ目くらいで、99%の人
とつながりができてしまう。

 日本を代表する楽器メーカーや自動車メーカーの社長の子どもたち。
毎年、長者番付に名前を連ねる人の子どもたち。
ワールドカップの選手の子どもたち、などなど。
暴力団の親分の孫たちも、教えたことがある。
名前を出して恐縮だが、浜松医科大学の初代学長の息子さん、医療センターの院長の息子
さん、みな、私の教え子である。
浜松市内では、ほとんどの医院の子どもを教えた。

 が、私はそういう人脈を仕事に利用したことは、生涯において、一度もない。
またほかの生徒と区別したことも、一度もない。

●影武者

 私は自分では、「影武者」と思っている。
けっして表に出てはいけない影武者。
親たちにしても、そう考えている。
仮に目的の高校や大学へ入学したとしても、私や私の教室の名前が外に出ることはない。
だから「影武者」。

 しかしそういうニュースを耳にするたびに、「そういう子どもの方向性を作ったのは私」
と思う。
自己満足かもしれない。
しかしそれは幼児教育を知らない人の意見。
私自身は、確信をもって、そう思う。
「私が方向性を作った」と。

つまり幼児教育というのは、そういうもの。
「たった週1回で?」と思う人もいるかもしれない。
しかし教育というのは、密度の問題。
ダラダラと5日間教えるよりも、週に1時間だけ、高密度のレッスンをすればよい。
子どもは、その1時間のレッスンを「柱」にし、ほかの5日間を組み立てる。

 たとえば私の教室に入会した子どもは、例外なく、翌週のレッスンを楽しみにする。
1週間の間中、「まだか、まだか」と親に催促する。
それを「柱」という。

●宣伝

 私の教室の宣伝ばかりになったが、しかし今さら「宣伝」などということは考えていな
い。
私も64歳。
生徒が多すぎても、困る。
あと何年、今の仕事ができるのか、それさえもおぼつかない。
願わくは、ピンコロ。
ピンコロだったら、明日でも構わない。
本気で、そう思っている。

 「林も、宣伝ぽいことを書くな」とは、そんなわけで、どうか思わないでほしい。
……とはいえ、この業界も、目下大不況。
そろそろ来年度の計画を立てなければならない。
競争相手はいないが、しかしジーちゃん先生は、この世界ではあまり人気がない。
そのうち加齢臭でもするようになったら、おしまい。
自分でも、それがよくわかっている。

●縁

 ところが最近、不思議に思うことがある。
心というのは、そういう点で通いあうものなのか。
最近、多くなったのが、OBの息子や娘さんたち。
そのOBについてだが、全員、私のほうもよく覚えている人たちばかり。
というのも、生徒によっては、1年もたたずして、名前も顔も忘れてしまう人も多い。
そういう人たちは、相手のほうも、私のことを忘れてしまうらしい。

 たとえば今、来ている生徒に、T君の娘さんがいる。
そのT君は、生涯において、殴ったことがある3人の生徒のうちの1人である。
T君が中学3年生のときのことである。
勉強に対して、すっかり自信をなくしてしまい、「ぼくはもうダメだ」と。
それで私はM君を裏庭へ連れていき、頬を思いっきり殴った。
「そんな弱音を吐いてどうする!」と。

 T君の娘さんの顔を見るたび、そのときのT君の泣き顔がその上にダブる。
こうしたつながりを、仏教では、「縁」というらしい。

●35歳

 そう、縁のある人は、縁がある。
いつまでも、その人のことを覚えている。
ない人は、ない。
そのまま静かに去っていく。

 が、私も男。
子どもの母親を、「女」としてみることがある。
(最近は、それがぐんと減ってきたが……。)
その母親の中には、声をかけるのも怖いほど、美しい人がいる。
そういう人は、当然のことだが、強く印象に残る。

 これは私のきわめて個人的な感覚だが、女性がもっとも美しくなるのは、35歳前後。
が、皮肉なことに、35歳を過ぎると、女性は満開時を過ぎた花のように、急速に枯れて
いく。
具体的には、バーさん顔になる。
言い換えると、35歳の女性というのは、花火大会で言えば、花火のクライマックスを飾
るスターマインのようなもの。
ドカドカド~ンと空に咲いて、そのまま散っていく。

 これについてワイフは、「30歳よ」と反論した。
しかし男性にとって、重要なのは、色気。
30歳というと、その色気がまだ未熟。
だからやはり35歳。

●以心伝心?

 しかし当然のことながら、母親というのは、全員、人妻。
そこにどんなに美しい人がいても、たとえて言うなら、その人は、ショーウィンドウに入
っている。
見るだけで、触ることはもちろん、心を通わせることもできない。
が、私が先に「不思議」と書いたのは、その先。

不思議なことに、本当に不思議なことに、私が「美しい人だな」と思った人は、私の教室
を去ってからも、毎年、年賀状をくれたりする。

 やはりどこかで心が通いあうのかも、しれない。
以心伝心?
好意の返報性?

●肥満

 ところで最近、温泉は入るたびに、ひとつ気になることがある。
若い男でも、肥満体の人が目立つようになってきたこと。
肥満体といっても、ブヨブヨに太っているといったふう。

 先ほども2度目の入浴をすませてきたが、そこにいた男たちもそうだった。
ポテポテ……。
タプタプ……。
明らかに20代と思われる男たちである。
それでもそんなに太っている。

 先日、別の温泉で見た男などは、背は低かったが、相撲取りと思われるような太り方を
していた。
やせて、細い人となると、5~6人に1人くらい?
今は、そういう時代なのか。
やがて日本人も、メキシコ人やアメリカ人のようになるのかもしれない。

●異常(者)心理

 ところで心理学にも、表と裏がある。
光と闇と言ってもよい。
闇の心理学を「サイコパス」という。
異常(者)心理学ともいう。
つまり精神的に反社会的な人格をもった人は、ふつうの人には理解できないものの考え方
をする。
(何をもって「正常」といい、何をもって「異常」というかは、定義がむずかしい。
むずかしいというより、不可能。)

 最近買った本の中に、こんな例が紹介されていた。
(「最後のタブー」晋友社版)。

 たとえば……。

(1)ある女性がマンションの別の棟を見ていた。
そのとき、別の棟の一室で、1人の男が、1人の男性にナイフを突き刺していた。
   その女性は、殺人現場を目撃してしまった。
   「アッ!」と声を出すと、その男と目が合ってしまった。
   男は、その女性の顔をじっと見つめた。
見つめながらその男は、ゆっくりと指をさしながら、手を振った。

   (問1)なぜ、その男は、ゆっくりと手を振ったか?

(2)ある男が、1人の男性を、路上で殺した。
たまたまそこへ、別の男性が車で通りかかった。
その男は、車でやってきた男性を、外へ引きずり出すと、その男性も殺してしまっ
た。

(問2)なぜ、その男は車に乗っていた男まで殺してしまったか。

 ふつうの人は、(「ふつう」という言い方には抵抗を感ずるが)、常識的な考え方をする。
たとえば(問1)であれば、「男は、今度はお前の番だ。そこで待っていろ」と合図したと
考える(同書)。
(問2)であれば、「殺人現場を目撃されたから」と考える(同書)。

 しかし異常心理学の世界では、別の答を用意する。
つまり心のゆがんだ人(=犯罪者)は、別の考え方をする。
たとえば、つぎのように考え、つぎの行動を開始する。

(問1)「向こう側の棟から、男は、つぎにその女性を殺すため、その女性の階を、指を使
って調べている」
(問2)「逃走に使うための車を手に入れるために、車の中の男性を引き出し、殺した」

(以上、「最後のタブー」(晋友社)より)

●子どもの世界でも

 子どもでも、心がゆがみ始めると、「死」「殺」「闇」に対して、強い関心をもち始める。
とくに「死」について、独特の考え方をするようになる。
印象に残っている子ども(小4男児)に、H君がいる。

 H君は、ふだんは静かで、おとなしい子どもだった。
従順で、言われたことには素直に従った。
勉強もよくできた。

 が、ある日のこと。
私はH君のノートを見て、驚いた。
そこには血を出してもがく人間、手足がちぎれ、頭蓋骨がむき出しになっている人間など。
ぞっとするような絵が、ぎっしりと描かれていた。
頭蓋骨の絵は、細部に至るまで、精密だった。

 原因や理由はいろいろ考えられるが、それを書くのが、ここでの目的ではない。
ここではそういう子どももいる……という程度に、理解しておいてほしい。
H君の描いている絵が、あまりにも現実の(?)H君とかけ離れていたため、私は驚いた。

●ゆがんだ心

 一度ゆがんだ心というのは、元には戻らない。
そう断言するのは、危険なことかもしれない。
そうであってはいけないということで、多くの人たちが「セラピー」という形で努力して
いる。
しかし基本的には、元に戻すのは、たいへん難しい。
先にも紹介したように、それがその子ども(人)の心理の基本形を作ってしまう。

 たとえば「子どもの盗み」がある。

 多少の「盗み」は、どんな子どもでも経験する。
しかし心がゆがんだ子どもの「盗み」には、際限がない。
「このお金を盗んだら、家族が困る」というブレーキが働かない。
それこそ学校の給食費ですら、盗んで使ってしまう。
盗んだお金で、好き勝手なものを買い、自分の欲望を満足させる。

 大切なことは、そういう子ども(人)にしないこと。
親の異常な過干渉、過関心は、子どもの心をゆがめる。
イギリスの教育格言にも、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
慢性的な抑圧状態がつづくと、子どものものの考え方は悪魔的になる。
その延長線上に、ここに書いた「サイコパス」がある。
そう考えてよい。

 サイコパス……「性格が逸脱した、反社会的な人格のこと。
連続殺人犯、重度のストーカー、常習的詐欺師、放火魔、カルトの指導者の多くがサイコ
パスに属すると考えられる」(同書)と。

「恐怖に関する感情が抜け落ちているのが特徴」(同書)ともある。

●もう1冊

 話題を変えよう。
不気味な話は、ここまで。

 もう1冊、本を買ってきた。
「大人のクイズ」(逢沢明著・PHP文庫)というのが、それ。
昔、TK教授の「頭の体操」という本があった。
それに似た本である。

たいへんおもしろい本で、1ページごとに、「チクショー」と思いつつ、読んだ。
「チクショー」と思ったのは、まちがえたり、解けなかったりしたとき。

 2つほど、紹介させてもらう。

(問35)

 ある人が、「私の父は、私の息子です。また、私の娘は、私の母です」と言いました。
 こんなことはありうるでしょうか。

(問21)

 ある町で、6000人の人、全員について、数学の試験を実施しました。
 その結果、足の長い人ほど、よい成績を取ることがわかりました。
 足の長さと成績の間には、相関関係があると考えてよいでしょうか。

●老化 

 このところときどき、脳みその老化を覚える。
サビついてきた。
自分でも、それがよくわかる。

 そういうときは、こういう問題に挑戦するのがよい。
そうでなくても、知識や経験、技術や知恵は、どんどんと消えていく。
集中力や思考力さえ、消えていく。

 が、中には、それにすら気づかない人も多い。
「私は利口」と、いつまでもその幻想にしがみつく。
努力しない。
そういう人は、やがてボケる。
皮肉なことに、「私はだいじょうぶ」と居直っている人ほど、あぶない。

 あの特別養護老人ホームにいる人たちにしても、なぜ自分が「特別」なのか、それに気
づいている人は少ない(?)。

 で、先の問題の答。

(問35)

 「私は、成人した娘がいる未亡人と結婚しました。
ところが、私の父が、私の義理の娘に恋をして、結婚しました。
ですから私の父は私の義理の息子になり、私の娘が私の母になりました」。
「つづいて私の娘は、男の子を産みました。
それは私の孫です。
けれども、私の娘は、私の母でもあるのです。
その男の子は私の弟でもあることになります。
だったら、その兄である私も、私自身の孫なのです」(以上、同書要約)。

 人間関係を、紙に描きながらじっくりと読んでみるとよい。

(問21)

 「町の全員というと、赤ん坊や子どもも含まれています」(同書)。

 つまり6000人の中には、赤ん坊や子どもも含まれている。
数学の問題ができないのは当たり前。
だから全体として平均化すると、足の長さと成績との間には、相関関係があるということ
になる。

 秋の夜長を過ごすには、この種の本がたいへん役に立つ。

 ただし一言。
「大人のクイズ」(逢沢明著・PHP文庫)の表紙には、「京都大学助教授」という肩書き
が載っている。
しかしこういうところに肩書きを並べるのは、「地位利用」ということで、欧米では40~
50年前からきびしく禁じられている。
(「禁じられている」ということは、「自粛」ではなく、「禁止」ということ。)
日本でも、ここ20~30年、ほとんど見かけなくなった。
が、この本には堂々と、それが載っている。

 PHPという大手の出版社が、「地位利用」という言葉を知らないはずがない。
「まだまだ日本は肩書き社会だな」と思った。
つまり「日本人は、まだまだ肩書きに弱いからな」と。
おもしろい本だが、「京都大学助教授」ともあろう人が、肩書きを並べてまで発表するよう
な内容のある本ではない。

●The Ocean

 The Oceanに泊まりながら、The Oceanの話を書かないのは、まずい?
しかしすでにこのホテルには、何度も泊まっている。
そのつど、書いていることは、同じ。

 こうしたホテルや旅館は、料金と照らし合わせて、良し悪しを判断する。
料金が高いホテルや旅館は、良いに決まっている(?)。
料金が安いホテルや旅館は、それなりに決まっている(?)。
しかしこと、このThe Oceanについて言えば、文句を言う人はいない。
料金は、このあたりのホテルや旅館の約半額。
2人で、1人分。

●気分転換
 
 気分転換というより、転地療法。
転地療法というより、転地刺激(?)。

 これはあくまでも私の老人観察によるものだが、老人が小さな世界にこもるのは、よく
ない。
こもったとたん、脳の老化は一気に進む。
「進む」というより、それまであった「種」が、急速に拡大する。
うつ病の気(け)があった人が、ひどいうつ病になるとか。
ボケ気味だった人が、本当にボケてしまうとか。

 だからあえて、外の世界に出る。
その「あえて」という部分が大切。
わかりやすく言えば、「気力」ということになる。
生きる気力を失ったら、そのまま死の待合室に、まっしぐら。

 だから老後というのは、気力との闘いということになる。
気力を、どう奮い立たせるか。

 で、私はつぎのような方法を考えている。

(1)仕事を手放さない。
大切なのは収入ではなく、仕事を中心にして回る生活感。
現実感。
緊張感。
だから最近の私は、こう考える。

 やがて収入よりも、家賃のほうが高くなる。
このまま行けば、時間の問題。
が、そのときでも、つまり赤字になっても、仕事はつづける、と。

 これには、もうひとつ、理由がある。

 私はよく「運動は、習慣の問題」と書く。
とくに私のばあいはそうで、どこかのスポーツジムへ通っても、長つづきしない。
最長で、10か月前後だった。

 しかし仕事があるからこそ、その仕事先まで、歩いたり、自転車に乗っていったりする。
途中で、「やめた」とは言えない。
どんなに寒くてても、また雨が降っていても、歩くしかない。
自転車に乗るしかない。
それが運動になる。
だから「習慣」。
運動は、習慣の問題。

 スポーツジムに通い、月謝を払うくらいなら、赤字でも仕事はつづけたほうがよい。

 その習慣があるかないかで、老後の健康は決まる。

(2)やりたいことは、即、実行

 「やりたい」というエネルギーは、「生きたい」というエネルギーと同じ。
脳の視床下部から発せられる信号に応じて、ドーパミンが分泌される。
そのドーパミンが、人間の欲望を司る。

 欲望をすべて「悪」と決めつけてはいけない。
老後は、とくに、そうである。
「旅行をしたい」
「ものがほしい」
「おいしいものを食べたい」
「人に会いたい」と。

 これらすべてが、そのまま生きる力、原動力につながる。
が、これがまた不思議なことに、あくまでも観念的な感覚だが、それをローソクの灯のよ
うに感ずることがある。

 脳の中心部にローソクがあり、そのローソクが燃えている。
強い灯ではない。
かよわく、おぼつかない。
細々とした光。

 それがときどき力を失い、消えそうになることがある。
それが自分でもよくわかる。
だから、奮い立たせる……ということになる。

 ……実は、今夜もそうで、こうしてものを書いていても、気力がつづかない。
「こんなこと書いて、何になるのだろう」とか、そんなふうに考えてしまう。
「もう一度、風呂に入って寝ようか」とも。
言うなれば、脳の中のローソクが消えかかっている。

●精力

 先日、こんなことがあった。
いつもは冗談ばかり言っている知人である。
年齢は、私と同じくらいということしておく。
その人が、私の家に来て、真顔でこう言った。
その前に、「林さん、これは真剣な話だから……」と言った。

 聞くと、今度、何でも愛人ができたという。
20歳、年下の愛人という。
で、その愛人とときどき会っているのだが、どうもあれが、うまくいかないとのこと。
そこで「どうしたらいいか?」と。

知「林さんは漢方薬に詳しいと聞いている。何か、よい薬はないか」
私「東洋医学では、自然体を大切にしている。年齢相応の変化については、問題にしてい
ない。あるとすれば、補養剤ということになる」
知「補養剤?」
私「そういうのは、いろいろある。東洋医学では、『精』というのは、栄養分をいう。食物
から得られる精微なる物質という意味。精力、精子に通ずる」と。

 ついでに言えば、私のばあいは、ニンニクが効く。
生ニンニクをすり、白いご飯に載せ、醤油を少しかけて食べる。
半日ほどで、ビンビンとしてくる。
ただしそのときは、ワイフにも、ニンニクを食べてもらう必要がある。
ともに臭いときには、ともに気にならない。

 それともうひとつ重要なことがある。
これは泌尿器科のドクターに教えてもらったことだが、あれというのは、一度刺激を与え
ると、敏感になるのだそうだ。
たとえば一度、小便を強くがまんするようなことがあると、そのあと頻尿になるとか、な
ど。

 同じように、たとえば一度ポルノグラフィック・DVDを観ると、そのあとつづけて強
い性欲を覚えるようになる。
あれが敏感になったため、そういう反応が起きると考えると、わかりやすい。
実際、若い人でも、倦怠感を乗り越えるために、その種のDVDを利用している人は多い。
「DVDをうまく利用してみたらどうか」と、私はその知人に提案してみた。

私「あとは、バイアグラかな?」
知「林さんは、使っているのか?」
私「まだ、ない。うちのワイフなんか、放っておいたら、1年でも2年でも平気というタ
イプだから……」と。

●就寝

 こうして時間だけは、過ぎていく。
ワイフは横で、今、大きなあくびをした。
ぼんやりとした時間だけは、過ぎていく。

 ……またあくびをした。
今度は小刻みに、アッアッア~、と。

 ……ということで、今日は、これでおしまい。

 今、ほしいもの。
TOSHIBAのウルトラ・ブック。
R631。
11月中旬、発売とのこと。
楽しみ。
「楽しみ」というのは、すぐには買わないということ。
ネットで追いかけると、1~2か月後には、値段が20~30%はさがる。
そのときを待って買う。

 が、それまでがまんできるか、どうか?
今の私には、自信がない。

 では、The Ocean、今夜は、ここまで!

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教
育評論 はやし浩司 はやしひろし 子育て 育児論 子育て論 評論 はやし浩司 浜
松市 BW教室 BW子どもクラブ Hmamatsu-city Japan はやし浩司 サイコパス 異常心
理 異常心理学 はやし浩司 浜名湖弁天リゾート the Ocean ジ・オーシャン)


Hiroshi Hayashi+++++++OCT. 2010++++++はやし浩司・林浩司


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2011年11月27日日曜日

●秋に思う




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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【幼児に、言葉としての英語をどう教えるか】(実践教育)

●会話ではなく、言葉。言葉としての英語を、幼児にどう教えるか。それが今回のレッス
ンの目的です。もちろん相手は幼児ですから、「文法」を教えても意味はありませんね。…
…ということで、今回のレッスンを考えてみました。結果はまずまずでした。

(1)


(2)


(3)


(4)



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BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 言葉としての英語をど
う教えるか 英語教育 幼児の英語教育 はやし浩司 言葉教育 幼児教育 英語の文法 
言葉)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●秋の夕暮れ時

 夕方になって、やっと少し時間ができた。
……というか、現在、TOSHIBAのR631の初期設定を進めている。
アンチ・ウィルス・ソフトは、「Microsoft Security Essentials」(無料版)を使うことに
した。
それと現在は、WINDOWのUPDATE中。
この2つだけで、すでに1時間ほど時間を無駄にした。

 外はすっかり夕暮れモード。
庭のクルミの木の葉が、冷たい冬の風の中で、ヒラヒラと揺れている。
今にも落ちそうな、枯れた葉。
私は子どものころから、こういう景色が苦手。
気分まで落ち込んでしまう。

●パソコン作法

 パソコンをネットにつなげるためには、この先、無線LANの設定をしたあと、メールの
初期設定をしなければならない。

作業そのものは、たいしたことない。
しかし今は、それがもどかしい。
言い換えると、こういう作業がつづくから、パソコンはただの電気製品ではない。
この段階で、パソコンを投げ出してしまう人も多い。

 では、だれかに接続してもらえば、それでよいかというと、そうでもない。
パソコンを使いこなすには、それなりの知識と経験、それに失敗が必要。
冷や汗をかきながら、人は、パソコンの使い方を学習する。
「ウィルスが入った」と平気な顔をしておられる人は、まったくの素人か、それなりの経
験者。
そのどちらか。

 重要なファイルは、いつも二重、三重に保存しておく。
それはパソコンを使うときの、大鉄則。

●遠鉄デパート

 JR浜松の駅前に、今度、遠鉄デパートが、新しいオープンした。
南側に旧館。
北側に新館。
「冥土のみやげに」ということで、今夜、ワイフと行ってみた。

 私の印象としては、電車の乗客を、どこまで取り込めるかで、成否が決まるのでは?
車でやってくる人もいるが、それだけでは各フロアを客で満たすことはできない。
やはり電車の乗客。
が、それ以上に驚いたのは、人通りの多いこと。
土曜日の夜ということもあって、通りにはゾロゾロと人が歩いていた。

 浜松市は、町(=駅前)の活性化ということで、毎年、億単位の予算を組んでいる。
その効果はあるのか、ないのか。
たとえば遠鉄電車のガード下を利用した、「べんがら横丁(ラーメン横丁)」は、5、6年
を経た今、閑古鳥が鳴いている。
半数は、店をたたんでいる。
正確には、13店舗中、5店舗が厚いボードで店を包んでいる。
遠鉄デパートから、歩いて1分もない。
理由は、本気度の欠落。
店の作りからして、お粗末。

 で、成否を決めるのは、本気度。
遠鉄デパートでは、その本気度を感じた。
……というか、今、全国、どこへ行っても駅前は元気がない。
みじめなのは、郷里の岐阜市。
岐阜駅の前。
シャッター街がずらりと並んでいる。
最近、駅前の2つのデパートですら、閉店したと聞いている。
だから浜松くらいは……というふうに、最近は考えるようになった。

 で、その遠鉄デパート。
私が見たところ、高級品店をねらっているよう。
どの階でもワイフがこう言った。
「高いわねえ」と。
松菱デパートの失敗もある。
現在のバブル経済がはじけ、この先、大不況の荒波が押し寄せたとき、果たして遠鉄デパ
ートは、生き残ることができるのか?

 がんばれ、浜松!
がんばれ、遠鉄!
……と書いてみたが、私自身は、リピーターになることは、まずないだろう。
モノを買うこともない。
あれほどの高級店は、私には縁がない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●映画『1911』

 帰りに、劇場で、映画『1911』を観てきた。
断言はできないが、台湾製の映画と思う。
それとも香港製?
孫文をこの上なく、称えている。

 イマイチ、主題がどこにあるのか、よくわからなかった。
編集が甘いというか、的をしぼりきれていない?
孫文の映画なのか、ジャッキーチェンの映画なのか、それとも戦争映画なのか?
恋愛映画のようでもあり、政治的プロパガンダ映画のようでもあった。
映像そのものは、『赤壁』に優るとも劣らない映画であっただけに、残念。
……というか、「台湾映画、恐るべし!」という印象をもった。
星は、3つの、★★★。

 楽しんで観る映画というよりは、歴史の重みをズシリと感ずる映画だった。

(注)ネットで調べてみたら、「製作国、中国」となっていた。
漢字が簡略体になっていたので、「?」と思っていたが……。
中国映画、恐るべし!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【R631】【映画「1911】【優越感vs劣等感】

●秋の夕暮れ時

 夕方になって、やっと少し時間ができた。
……できたというか、今現在、TOSHIBAのR631の初期設定を進めている。
その第一。
アンチ・ウィルス・ソフトのインストール。
そのアンチ・ウィルス・ソフトには、「Microsoft Security Essentials」(無料版)を使う
ことにした。

無料ながら、ほかの有料ソフトにひけをとらない(Mr. PC誌)。
Microsoft社製ということからもわかるように、安心して使える。
が、さらにすごいことができる。
エクスプローラーで調べたいファイルを選び、そこで右クリックをすると、そのファイル
だけをチェックしてくれる。

それと目下、WINDOWのUPDATE中。
この2つだけで、すでに1時間ほど時間を無駄にした。

 外はすっかり夕暮れ時。
庭のクルミの木の葉が、冷たい冬の風の中で、ヒラヒラと揺れている。
今にも落ちそうな、ボロボロの枯葉。
私は子どものころから、こういう景色が苦手。
気分まで落ち込む。

●パソコン作法

 パソコンをネットにつなげるためには、この先、無線LANの設定をしたあと、メールの
初期設定をしなければならない。

作業そのものは、たいしたことない。
10~20分前後ですむはず。
しかし今は、それがもどかしい。
言い換えると、こういう作業がつづくから、パソコンはただの電気製品ではない。
この段階で、パソコンを投げ出してしまう人も多い。

 では、だれかに設定を手伝ってもらえば、それでよいかというと、そうでもない。
パソコンを使いこなすには、それなりの知識と経験、それに失敗が必要。
冷や汗をかきながら、人は、パソコンの使い方を学習する。
「ウィルスが入った」と平気な顔をしていられる人は、まったくの素人か、それなりのプ
ロ。
そのどちらか。

 そういうこともあるから、重要なファイルは、いつも二重、三重に保存しておく。
それはパソコンを相手にするときの、大鉄則。

●遠鉄デパート

 JR浜松の駅前に、今度、遠鉄デパートが、新しいオープンした。
南側に旧館。
北側に新館。
「冥土のみやげに」ということでもないが、今夕、ワイフと行ってみた。

 私の印象としては、電車の乗客を、どこまで取り込めるかで、成否が決まるのでは?
車でやってくる人もいるが、それだけでは各フロアを客で満たすことはできない。
やはり電車の乗客。
が、それ以上に驚いたのは、人通りの多いこと。
土曜日の夜ということもあって、人がゾロゾロと歩いていた。

 浜松市は、町(=駅前)の活性化ということで、毎年、億単位の予算を組んでいる。
その効果はあるのか、ないのか。
たとえば遠鉄電車のガード下に、「べんがら横丁(ラーメン横丁)」というのがある。
が、5、6年を経た今は、閑古鳥が鳴いている。
半数は、店をたたんでいる。
正確には13店舗中、5店舗が厚いボードで覆われている。
遠鉄デパートから、歩いて1分もない。
そんなところでも、このあり様。
理由は、本気度の欠落。
店の作りからして、お粗末。

 で、成否を決めるのは、本気度。
遠鉄デパートでは、その本気度を感じた。
……というか、今、全国、どこへ行っても駅前は元気がない。
みじめなのは、郷里の岐阜市。
JR岐阜駅の前。
シャッター街がずらりと並んでいる。
最近、駅前の2つのデパートですら、閉店したと聞いている。
だから浜松くらいは……というふうに、最近は考えるようになった。
「浜松くらいは、がんばってほしい」と。

 で、その遠鉄デパート。
私が見たところ、高級店をねらっているよう。
どの階でもワイフがこう言った。
「高いわねえ」と。
つまり値段が高い、と。
松菱デパートの失敗もある。
浜松の松坂屋をねらったが、数年で倒産した。

現在のバブル経済がはじけ、この先、大不況の荒波が押し寄せたとき、果たして遠鉄デ
パートは、生き残ることができるのか?

 がんばれ、浜松!
がんばれ、遠鉄!
……と書いてみたが、私自身は、リピーターになることは、まずない。
モノを買うこともない。
あれほどの高級店は、私には縁がない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●映画『1911』

 街へ行った帰りに、劇場で、映画『1911』を観てきた。
断言はできないが、台湾製の映画かと思う。
それとも香港製?
孫文をこの上なく、称えている。

 が、イマイチ、主題がどこにあるのか、よくわからない映画だった。
編集が甘いというか、的をしぼりきれていなかった。
孫文の歴史映画なのか、ジャッキー・チェンの映画なのか、それとも革命映画なのか?
恋愛映画のようでもあり、政治的プロパガンダ映画のようでもあった。
映像そのものは、『赤壁』に優るとも劣らない映画であっただけに、残念。
……というか、「台湾映画、恐るべし!」という印象をもった。
星は、3つの、★★★。
ジャッキー・チェンの演技がすばらしかったので、おまけに(+)の★★★+。

 楽しんで観る映画というよりは、歴史の重みをズシリと感ずる映画だった。

(注)ネットで調べてみたら、「製作国、中国」となっていた。
漢字が簡略体になっていたので、「?」と思っていたが、中国映画だった。
中国もすごい映画を作るようになった。
中国映画、恐るべし!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●SSDパソコン

 R631には、ハードディスクは搭載されていない。
SDメモリーのみ。
そのため、起動がめちゃめちゃ速い。
スイッチONから、デスクトップ画面まで、10秒もかからない。
「速い」「速い」と喜んでいたら、こんな弊害も現れた。

 私はほかにも、TOSHIBAのダイナブックを4台使っている。
が、そのどれもが、使い物にならなくなってしまった。
遅いのなんのといったら、これでは勝負にならない。
モタモタというより、モッタリ、モッタリ……という感じ。

 この先、パソコンは、SSDが主流になる。
一度、SSDパソコンを使ったら、ほかのパソコンが使えなくなる。
まちがいなく、そうなる。

●人生は一度でたくさん

 人は先へ行ってはじめて、うしろが見える。
自分が利口になってはじめて、それまでの自分がバカだったと知る。
R631を使ってみて、改めて、それを確認した。
つまりより性能のよいパソコンを使ってはじめて、それまでのパソコンがいかに性能の悪
いものだったかがわかる。

 映画『1911』の中に、こんな気になるシーンがあった。
若い男性が、ジャッキー・チェンに向かって、こんなようなことを言う。
「あなたはもう老人だから、未来はない」(記憶)と。

 しかし本当に、そうか?
自分が老人組だからというわけではないが、私たちには過去があり、その分だけ、若い人
たちの未来がよく見える。
が、若い人たちには、それが見えない。
私たち老人組は、みな、バカと思っている。
しかし私たち老人組からみると、若い人たちは、みな、バカに見える(失礼!)。
私たちがしてきたのと同じ過去を繰り返しながら、自分では自分の人生を歩んでいるつも
りでいる。

 つまり老人には未来がないのではない。
若い人たちが言う「未来」は、すでに経験済み。
その上で、私たち老人組は、自分の人生を生きている。
少し回りくどい言い方をしたが、平たく言えば、こう。

 「私たちには未来がある。老人には未来がない」と、優越感に浸(ひた)ってはいけな
い。
明日のことはわからない。
あなたは老人になる前に、命を終えるかもしれない。
事故や病気は、運と確率の問題。
さらに言えば、「命」は、「生き様」の問題。
無益にダラダラと時間を無駄にするかもしれない。
年齢という数字の問題ではない。

 優越感に浸れば浸るほど、いつか、逆の立場になったとき、あなたが今度は追われる立
場になる。
これは何も、(年齢)にかぎった話ではない。

 だから私自身は、こう思う。
神様か何かが現れて私にこう言ったとする。
「君を、40年、若くしてあげようか」と。

 もし今のままの知識と経験をもったまま、40年、若くしてくれるならよい。
しかし脳みそも一度、リセットされるというのであれば、私は断る。
人生は一度で、たくさん。
こりごり。
またすべてをイチから始めろと言われても、私には、できない。
だから断る。

 相手の命の短さを理由に、優越感に浸ってはいけない。
浸れば浸るほど、今度はその人生観で、いつか自分が苦しむことになる。

●人間の価値

 もし優越感があるとするなら、(その反対に劣等感でもよいが)、こんなとき。
たとえばだれにもまねできないような、偉業をなしたとき。
あるいは反対に、だれにもまねできないような偉業をなした人に出会ったとき。

 一度、ワールドカップ・日本代表だった選手と、2時間ほど、話したことがある。
私の教室の生徒の親だった。
そのときのこと。
対峙して座ったとたん、身がひきしまるような緊張感を覚えた。
同時に、別の心でこんなことを考えた。
「私は20代の男性を前に、大きな劣等感を覚えている」と。
「私は彼の年齢のとき、何をしていたのだ」とも。

 そういう過ごし方をした人なら、反対に私に対して優越感をもったとしても、おかしく
ない。
しかしそういう人にかぎって、おおらかで、穏やか。
人を包み込むようなやさしさを、併せもっている。

 つまりその人の価値は、(何をした人か)(何をしている人か)で決まる。
肩書や経歴など、腸から出るガス程度の意味もない。
もちろん(年齢)ではない。

 ……こう書くからといって、私はけっして自己弁護しているわけではない。
私は先日、64歳になった。
若い人たちからみれば老人組だが、私自身は、自分が老人と思っていない。
まだまだ若い……という意味で、「ヤング・オールド・マン(Young Old Man)」と位置づけ
ている。
仕事も健康も、快調。
「仕事がない」と言って、そこらでショボくれている若い人たちよりは、ずっと意気軒昂
(けんこう)。

 そういう私だから、年配の人にも、年齢に関係なく、敬意を払っている。
どんな老人を見ても、「この人には未来がない」などと思ったことはない。

●優越感

 要するに優越感にせよ、劣等感にせよ、そういったものには、意味はない。
ナンセンス!
そう言い切ってもよい。

 ……というようなことを、映画『1911』の1シーンを観ながら、考えた。
本物をベースにした映画だけに、迫力もあった。
次回は、ブラッド・ピット主演の『マネー・ボール』。
あるいは『インモータルズ』。
楽しみ。

●11月12日夜

 こうして2011年11月12日も終わる。
家に帰り、寝支度がすんだのが、午後11時40分。
明日の午前中は、とくに予定がない。
早起きして、思う存分、R631を叩いてみたい。


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●就寝

 先のところまで書いて、今まで、数時間。
とくに何かをしたわけではないが、時間だけ、過ぎてしまった。
時計を見ると、午後11時30分。
もうそんな時刻!

 ふとんの中で半分体を起こし、今、この文章を書いている。
光るキーボードが美しい。
・・・ふと見ると、ワイフがすでにイビキをかいている。
ほんの5分前まで、まだ起きていた。

 私も眠い。
しかしいつまでもこうして、文章を書いていたい。
本当のことを言えば、こうしてキーボードに触れていたい。
超薄型パソコンということで、ストローク(キーの深さ)は浅いが、じゅうぶんなクリッ
ク感はある。
パチパチというより、ひざの上で、トントン、パタパタと鳴る。
(「パタパタ」というのは、ENTER・KEYを叩いたときの音。)
それが心地よい。

 ・・・とはいえ、もう私も眠らなくてはいけない。

●午前5時(2011ー11ー12)

 今朝は午前5時に目が覚めた。
トイレに行き、そのまま居間へ。
軽い偏頭痛があったので、Z剤を半分に割ってのむ。
熟睡していても痛いのが、偏頭痛。
その偏頭痛のせいで、寝起きに、いやな夢を見た。

 どうしてだろう?
つまりどうして偏頭痛なのだろう。
このところ精神状態は、悪くない。
日々が楽しく、それなりに満足している。
ワイフとも仲がよい。
神経を使うということもない。

●原稿依頼

 自動車技術会(公益社団法人)から、原稿依頼をもらった。
その機関誌に、6P(ページ)の原稿を書かせてもらうことになった。
年に1度の機関誌という。

 前もって打診はあったが、依頼書を見て仰天。
20P近い企画案内と、原稿の体裁についての注意書きがあった。
ワイフにそれを見せると、「すごい企画書ね」と。

日本の自動車会社が共同して発行する機関誌という。
私もこうして原稿を書くようになって40年。
しかしここまで「すごい!」企画書は、見たことがない。
たいていは、「○○字x○○行」ですんでしまう。

 原稿は完成しているので、再度推敲し、来週中には相手方へ届けたい。

●レッツノート

 今日は土曜日。
とくに予定はない。
会う人もいない。

 ・・・こうしてR631を叩いていると、12年ほど前に使っていた、TOSHIBA
のダイナブックSSと、PANASONICのレッツノートを思い出す。

 ダイナブックSSは当時としては、超薄型のパソコンだった。
23万円ほどもした。
ボロボロになるまで使い倒した。
(本当にボロボロになった。)

 レッツノートも薄型だったが、キーボードが平たく、ツルツルしていた。
その感触が、このR631と同じ。
どちらも愛用のパソコンだったが、両方とも、1~2か月で故障。
とくにレッツノートは、それ以後、4、5回も修理に出した。
CDドライブが着脱式になっていて、本体との相性がたいへん悪かった。
当時は、一度修理に出すと、戻ってくるまで、1か月以上もかかった。

 そんなこともあり、レッツノートは、それ以後、一度も買っていない。

●狂乱状態

 今朝はまだニュースに目を通していない。
見たいが、心のどこかでブレーキが働いている。
目まぐるしいというより、狂乱状態。

 先にも書いたように、ギリシャがあぶないと思っていたら、今度はイタリア。
その前にキプロスがおかしくなった。
同時に、ベルギー、オーストリア、フランスまで……。
今度は、ハンガリー?
なぜか?
少し、視野を広げてみると、それがよくわかる。

 ・・・つまり地中海の上(北)と下(南)。
距離はそれほど離れていないが、生活レベルがあまりにも、ちがいすぎる。

同じ人間が、同じように働いている。
しかし「上」の人たちは、それほど働いてもいないのに、優雅な生活を楽しんでいる。
一方、「下」の人たちは、働けど働けど、極貧状態。
「南北格差」という言葉がある。
しかしこれほどまでにひどい「格差」のある地域は、ほかにない。
ヨーロッパだけ。

 今、その格差が縮み始めている。
そう考えると、EUの狂乱状態が、よく理解できる。
必死でユーロの「力」を守ろうとする、EU。
それをよしとしない、新興勢力。
激震に激震を重ねながら、ユーロも、やがて、ごくふつうの通貨になっていく。

 ついでにアメリカのドルも、日本の円も・・・。

●破壊主義

 が、だからといって、そのまま享楽主義に走ることは、正しくない。
もしそれぞれの人が享楽主義、つまり自分だけがその場を楽しめばよいと考えるようにな
ったら、それこそ、世界はおしまい。
欲望だけが、むき出しになってしまう。

 人間は頭がよい分だけ、教育の仕方をまちがえると、たいへん。
欲望がぶつかりあうと、破壊主義が生まれる。
破壊主義は、そのまま戦争につながってしまう。
何としても、それだけは避けなければならない。

●人間の価値

 とは言っても、そこには「現実」がある。
生きていかねばならない。
そのためには、ある程度の収入を確保しなければならない。

 ・・・これについては、がんばるしかない。
それぞれの個人が、それぞれの立場で、がんばるしかない。
どこまでがんばれるか、本当のところ自信はないが、がんばるしかない。

ただひとつ気になっているのは、「命」の価値が、年々、たいへん軽くなりつつあること。
私にしても、(そしてこの文章を読んでいるあなたにしても)、死ねば、骨から灰になり、
そのまま消えてなくなってしまう。
数年もすれば、身内の人にすらも、忘れられてしまうだろう。
人と人のつながりが、家族の中においても、希薄になってきている。
つまり(つながり)イコール、(人間の価値)と考えてよい。
その価値が低下し始めている。

 今では隣人が亡くなっても、「ああ、そう」で終わってしまう。
その人が老齢であれば、なおさら。

●仕事

 私はまだラッキーなほう。
仕事がある。
が、老後を考えると、暗たんたる気持ちになる。
年金というと、国民年金だけ。
「何もないよりはマシ」という金額だが、この先、猛烈なインフレが待ち構えている。
「タクシーの初乗りが、1万円」と。
そんな時代に、6万5000円前後の年金をもらって、どうする?
どうなる?

 貯金ゼロの家庭が、全体の30%以上もあるという。
60歳の定年退職時においてですら、約50~60%。
気がついてみたら、子どもの学費で使い果たしてしまったという人も多い。

 だから死ぬまで働くしかない。
が、それを「不幸」と、とらえてはいけない。
少なくとも、私は不幸とは思っていない。

●講演活動

 たとえば講演にしても、それがあるからこそ、生活の中に緊張感が生まれる。
1週間ほど前から、体調を整える。
運動量をふやす。
食事に気をつける。

 ここ4~5年は、講演旅行をかねて、ワイフとその先で、できるだけ一泊するようにし
ている。
それがまた楽しい。
雑誌「President」の最新号の中にも、こう書いてあった。

 『心の豊かさは収入の額ではない。お金の使い方で決まる』(記憶)と。

 映画を観て、帰りに回転寿司を食べる。
それだけでハッピーになれる人は、いくらでもいる。

●アンチ・ウィルスソフト

 偏頭痛は収まったが、何かした頭がフア~ッと浮いたような状態。
薬の副作用と思われる。
要するに、偏頭痛薬というのは、基本的には血管収縮剤。
緩んだ血管を、収縮させる。
今が、その状態?

 ・・・しかし今、EUは、どういう状況なのだろう。
気にはなる。
が、このR631は、まだネットにはつながっていない。
アンチ・ウィルスソフトをどうしようか、まだ結論が出ていない。
市販(有料)のものもあるが、雑誌などによれば、マイクロソフト社から、無料のアンチ・
ウィルスソフトが配布されているという。
「Microsoft Security Essentials」というのが、それ。
有料版に近い、ウィルス検出能力があるという。
ほかにも、「AVG Anti-Virus Free Edition 2012」というのもある。

 どうしようか?
この世界では、無料イコール、無責任。
アンチ・ウィルスソフトだけは、しっかりとしたものをインストールしたい。
ネットに接続するのは、そのあと。

●天高く……

 今、雨戸を開け、今日、はじめて空を見た。
「天高く・・・」というのは、こういう空のことを言うらしい。
昨夜までの雨模様は収まり、そこには水色のさわやかな空が広がっていた。

 こういう朝は、筋雲が美しい。
それが幾重にも連なり、まるで長い髪の女性が、髪を風になびかせているかのようにも見
える。
先ほど雨戸を開けたとき、サーッと冷気を含んだ風が部屋の中に入ってきた。
さわやかな朝。

GOOD MORNING!

 しばし空の美しさに、見とれる。

●ニュース

 もう一台のノートパソコンで、いくつかのニュース・サイトを開いてみた。
今では新聞よりも先に、(もちろんテレビよりも先に)、ニュースはネットで読む。
新聞は、その確認用。

 一方、まったく意味のないのが、テレビのニュース。
ウソこそ言わないが、本当のことも言わない。
これだけ情報が氾濫してくると、私たちはその向こうにある、隠された意図というものま
で読み取ることができるようになる。
テレビは、たしかに私たちの心を、巧みに操っている。
それがわかるようになる。

●ニュース

 NYダウは、259ドル高。
EU市場も、落ち着いているよう。
Bloombergによれば、「EUに楽観論、広がる」とある。
が、「よかった!」とは、私は思わない。
明日のことは、わからない。
こんなことで一喜一憂していたら、それこそ気がヘンになる。

 取り越し苦労に、ヌカ喜び。
むしろ気になったのは、アメリカ・サンフランシスコ連銀のウィリアムズ総裁が、つぎの
ように発言したこと(Bloomberg)。
「新たな資産バブルが形成される、著しいリスクがある」と。
それもそのはず。

 これだけ市中に、お金(マネー)をばらまけば、そのあと世界はどうなるか。
そんなことは、私のような者でも、よくわかる。
ウィリアムズ総裁は、「それが暴走したときが、こわい」と。

●朝風呂

 今朝は朝風呂になりそう。
朝風呂といっても、昨夜、風呂に入るのをサボった。
それで朝風呂になりそう。
ワイフがタブに湯を入れ始めた。

 ・・・こうしてR631の処女航海は、無事すんだ。
使い勝手は、たいへんよい。
当初、キーの縦幅がやや狭いのが気になった。
が、打ち始めてみると、それはすぐ解消した。
巨大なENTERキーにも、すぐ慣れた。
叩くたびに、パタパタという音がするのは、許容範囲。
愛嬌。
今までの周辺機器が、そのまま使えるのもよい。
(他社のUltra bookは、接続コネクターが必要。)

 ただ色が、あまりよくない。
「色はシルバー」とあるが、実際には、ダーク・シルバー。
イメージが暗い。
悪い。
これはTOSHIBA製のパソコンすべてに共通している点だが、どこか事務機器ぽい。
オシャレ感に乏しい。
が、パソコンは事務機器ではない。
愛用品。
心の通う愛用品。
もっていて楽しい・・・というパソコンにしてほしい。

 しかしこれで現役のTOSHIBA・ダイナブックは、計5台になった。

(はやし浩司 2011-11-12朝記)


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*A stupid man loses his way in the darkness

●11月27日・日曜日・(恩師の1周忌)『六趣輪廻の因縁』

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起きたときは、それほど寒くは感じなかった。
が、朝ごはんを食べるころ、急に寒さを感じた。
これはどういう現象によるものなのか。
その間、書斎の机に、2時間ほど向かって座っていた。
途中、ワイフがやってきて、茶を出してくれた。
が、私は書斎では、暖房器具を使わない。
ストーブも使わない。
脳みそには、暖気は強敵。
足を暖めただけで、眠くなってしまう。

が、台所では、ストーブがついていた。
気温も22度もあった。
が、それを寒く感じた。

脳みそはともかくも、肉体は、怠けるとすぐ新陳代謝を止めてしまう。
あるいは頭が熱くなると、体は冷えるのか。
どうであるにせよ、寒い!

++++++++++++++++++++++

●老眼用(装着)メガネ

 今、恩師の一周忌に向かう車の中にいる。
自宅から車で、1時間。
昨日買った、老眼用のメガネが役に立っている。
老眼用のメガネというのは、ふつうのメガネの上にさらに装着して使うメガネのこと。
「1・5度」という度数が書いてあるが、どういう意味なのか、よくわからない。

 それをつけると、車の中でもパソコンの文字が、楽に読める。

●1周忌

 昨年の葬儀のときも、寒かった。
今日も、寒い。
が、あれからもう1年。
早いというより、恩師の死が、遠い昔のできごとのように思われる。

 いろいろあった。
3・11大震災。
原発事故。
タイの大洪水。
EUの金融危機などなど。
この1年で、日本を取り巻く環境は、一変した。

 その恩師。
いつも私の原稿を、私のワイフよりもていねいに読んでくれた。
心の奥底をいかに包み隠して書いても、恩師だけはそれを読み取ってくれた。

●1号線

 国道1号線は、この20年あまり、ほとんど変わっていない。
側に並ぶ店も、店の名前も、20年前のまま。
「なあ、一周忌のあと、どうする?」と私。
「うん、帰るよ」とワイフ。

 たった今、3、4台の大型バイクが、目前を左から右へ、大きくカーブして横切っていった。
「寒くないのだろうか?」と、それを見やりながらそんなことを考えた。

 空は灰色。
雲の境目が見えない。
一面、ボヤーッとしている。
私は冬の寒さも、冬景色も、嫌い。
気分まで、重くなる。

●「歩こう会」

 気賀の駅を通り過ぎたところで、「歩こう会」※の人たちを追い抜いた。
かなりの人数である。
そういう人たちが、駅から、気賀の関所を通り抜け、突き当りの本陣宿のあたりまで、ずっと並んで歩いていた。
全部で、4、500人はいただろうか。
まばらだが列は、数キロ先までつづいていた。

 私たちもよく「歩こう会」に出るが、これほどまでの人数は見たことがない。
JRかどこか、大きな団体が企画した「歩こう会」なのだろう。
それにしても、すごい。
まるで祭りの日の人出のよう。

(注※:あとで参加者の1人に聞くと、JR主催の「さわやかウォーキング」の会の人たちということがわかった。)

●船酔い

 メガネのせいか?
少し船酔いに似ためまいを感じた。
……ここでいったん、パソコンを閉じる。
それにしても、TOSHIBAのR631は、よいパソコンだ。
開いているだけで、指先がもぞもぞしてくる。

 ただ残念なのは、私はこのパソコンを発売日の11月11日に買った。
が、それから2週間もたっていないのに、価格が3万円近くも下落した。
ワイフは「少し待っていれば、安く買えたのに……」と言った。

 ……そういうものでもないのだが……。
パソコンの価格は、それをどう使うかで決まる。
いくら安くても、使わないものは、使わない。
たとえばこの5月に、DOCOMOで携帯端末を買ったとき、ミニパソコンをおまけにくれた。
が、そのパソコンは、ほとんど使っていない。
机の上のゴミになっている。

 これについてもワイフは、こう言う。
「だれかにあげたら……?」と。

 しかしパソコンというのは、人にあげるものではない。
リカバリーすれば安心だが、そうでなければ、人にあげるものではない。
どこからどのような情報が他人に漏れるか、わかったものではない。
それがこわい。

●法要

 1周忌には、家族全員と親類。
それに恩師の仲間たち、30~40人が集まっていた。
ワイフと控室で待っていると、横に私と同年齢らしき男性が座った。
その男性が、この1年のことをあれこれ話した。
そして「今は、どこも不景気です」と顔をしかめた。

 S社(自動車会社)のエンジン部品を製造しているという。
日本でしか作れない部品だから……と安心していたが、3・11大震災、タイの大洪水のあと、S社は、同じ部品をアメリカの工場に発注してしまったという。
 
 「1年前に戻りたいですよ」と、2、3度、同じことを言った。

 どこもかしこも、不景気。
そんな話ばかり。

●臨済宗

 1周忌は、臨済宗で執り行われた。
いつものチン・ポン・ジャランはなかった。
その代わり、木魚(もくぎょ)が叩かれた。
ポクポクポク……。
その響きが心地よかった。

 久しく正座などしたことがなかったのに、どういうわけか、足が痛くならなかった。
どうしてだろう?
ときどきワイフが心配して、私の足の心配をした。

●法事

 1周忌の法事は、1時間足らずですんだ。
私とワイフは、喪主である恩師の奥さんに別れを告げ、寺を出た。
水色の空に、飛行機雲が何本か走っていた。

ワ「どこかへ寄っていかない?」
私「いいよ」
ワ「コンビニはどう?」
私「ミニストップなら、中で食事もできる」と。

 結局、私たちは「ガスト」という店に寄った。
日曜日ということもあり、店中は、子ども連れの夫婦で混雑していた。
にぎやかというより、幼稚園の参観日のような雰囲気だった。
私たちは10分ほど、玄関先の長椅子で待ったあと、席に着いた。

 で、こんなことがあった。
ガストに入る前、「歩こう会」の夫婦とすれちがった。
そのとき私はこう聞いた。
「どこの会ですか?」と。

 妻のほうが、こう答えた。
「さわやかウォーキングです」と。
で、私は「JRの……?」と聞き返したら、数歩先を歩いている夫のほうが、妻を叱った。
「おい、いいから、行くぞ! 放っておけ!」と。

 妻はそそくさとその場を離れながら、「JRです」と。
困ったような笑顔が印象的だった。

 どこの世界にも、このタイプの夫はいる。
60代、70代の夫婦となると、ほとんどがそうであると言ってよい。
が、どうしてそんなに威張れるのだろう?
威圧的。
昔の武士がどんなだったかは知らない。
しかし武士そのもの。

●ガスト

 飲食店は、どこも大不況という。
しかしガストの混み具合を見ていると、「?」と思ってしまう。
なぜこうした店は流行(はや)るのか?

 それは私自身の心の中をのぞいてみるとわかる。

(1) 安い。
(2) 早い。
(3) 安心。
(4) おいしい。
(5) 清潔。
(6) サービスよし。

 「安心」というのは、ガストなら、どこへ行っても同じ味を楽しむことができる。
料金も同じ。
個人経営の店は、(今ではほとんど残っていないが)、その「安心」がない。

 実はおけいこ塾も同じ。
学習塾でもよい。
どこかクセのある塾よりは、大手塾のほうが「安心」。
そのため今では、中小塾は、どこも経営がきびしい。
というより、ほとんどが今、開店休業状態。

 で、親たちは、チラシを見て、塾を選ぶ。
1色刷のチラシでは、生徒は集まらない。
3色刷のチラシでも、むずかしい。
「4色刷でないと、集まらない」という。

 が、個人の塾では、4色刷のチラシを作るのは、経済的にも不可能。
勝敗は、そのとき決まる。

 ……ガストのメニューは、ほとんどが4色刷。
カラフルであか抜けている。
それをワイフに話しながら、「これは3色刷……。これが4色刷……」と教えてやった。
ワイフはそれを見比べながら、「3色刷になると、ちゃっちぽくなるわね」と言った。

●帰り道

 ガストを出たのが、12時45分ごろ。
今は帰りの車の中にいる。

 「どこか、温泉でも行きたいね」と私。
「そうね」とワイフ。

 ……帰り道、床屋へ寄っていく。
髪の毛がかなり伸びた。
「あの店?」とワイフ。
「うん」と私。

 私のようなシルバーは、1400円で調髪してもらえる。
そういう店が、私の家の近くにある。

●意識

 今朝、夢について書いた。
意識の奥深くから沸き起こってくる夢。
その深遠さについて書いた。
たとえて言うなら、意識というのは、卵でいうなら殻のようなもの。
脳の大部分は、無意識の世界にある。

 それについてワイフの話すと、こう聞いた。
「意識って、そんなに薄っぺらいの?」と。
で、私は、こんな例を話した。

 たとえば私は、過去、何千人もの子どもたちを教えてきた。
同時に、同じ数だけの親たちに会ってきた。
それもあり、街中を、30分も歩くと、かならずといってよいほど、1人や2人、顔見知りの人に出会う。

 その瞬間のこと。
名前も、いつどこで出会ったかも思い出せない。
しかし顔を見た瞬間、ふと懐かしさがこみあげてくる人もいれば、反対に不快な思いが心をふさぐこともある。
心のほうが、先に反応してしまう。

 よい思い出のある親や子どもに会うと、懐かしさがこみあげてくる。
悪い思い出のある親や子どもに出会うと、不快な思いがこみあげてくる。
名前や、いつどこで出会ったかを思い出すのは、そのあと。
あいさつをしたり、知らぬ顔をして通り過ぎたりしたあと、「あのときの……」となる。

 つまり意識としては覚えていなくても、その何十万倍(あるいは何百万倍かもしれない)、
別の心が先に反応してしまう。
私であって、私でない別の心が、先に反応してしまう。
心(=脳)というのは、そういうもの。
夢というのは、その何十万倍(あるいは何百万倍)もの世界から、湧き起きてくる。

もし意識で夢をコントロールできたり、その前日あったできごとのつづきのような夢を見たら、(たまにそういうこともあるが)、精神状態がふつうでないことを疑ってみたほうがよい。

●床屋

 私はいつも1000円床屋へ行く。
安いからではない。
近くにあるし、それに早い。
長くて15分程度ですんでしまう。
(洗髪を頼まなければ、10分程度。)
それに無駄な会話がないのも、よい。
こちらも話しかけないし、向こうも話しかけてこない。

 洗髪を入れたりすると、1400円になる。
それでも安い。
ふつうの床屋と比べると、半分以下。

 床屋にとっても、そのほうがよいのでは?
1回、4200円というと、高い。
1400円というと、安い。
だから料金を気にすることなく、頻繁に行く。
ふつうの床屋へ1回行く分で、3回、行ける。
買い物の帰りに、「ちょっと……」となる。

 つまり40分近くかけ、4200円の料金を取るか。
10分ですませ、1400円にし、3回来てもらうか。

●映画『新少林寺』

 家に帰ると、ワイフは洗濯物を竿にかけるところだった。
私は服を替えると、そのまま書斎へ。
が、とたんに眠気。
少し油断すると、すぐウトウト状態になってしまう。

 今朝も5時半起きだった。
そのまま30分、ウォーキングマシンの上で歩いた。
ふだんなら今ごろは、昼寝タイム。

 昨夜見た映画『新少林寺』と、法事で見た僧侶が頭の中でダブる。
ぼんやりしていると、どちらがどちらなのか、わからなくなる。
1時間ほどがんばってみたが、そこでギブアップ。
居間へおりていき、そのままコタツの中に。

●執着

 執着を取り除くことは、重要なこと。
今日、法事で僧侶が読んだ一節に、こんなのがあった。

『六趣輪廻(ろくしゅりんね)の因縁は、己が愚痴の闇路なり』と。

 「六趣因縁」というのは、衆生が煩悩とその行為によって必然的に「趣く」六つの道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)をいう。
「因」はある一つの現象を起こす直接的な原因、「縁」とは間接的な原因をいう。
つまり人間は、六趣の世界を、ぐるぐる回っているだけで、そこから抜け出だすことができない。
その原因はと言えば、自分の愚痴によるもの、と。
が、「愚痴」といっても、私たちが日常的に使う「グチ」とは、意味がちがう。
「……仏教でいう『愚痴』は、愚癡とも表記し、仏の智恵に暗いこと、衆生の根本的無知をさす」(大谷大学HPより)のこと。

 ともあれ仏の知恵に暗い人ほど、グチを言いやすい。
愚痴は、グチでもよい。
グチを言う人は、闇路に迷っているようなもの。

 その闇路から抜け出るためには、執着を捨てること。
煩悩の虜(とりこ)になっていては、いつまでたっても、闇路から抜け出ることはできない。

 グチをこぼしたら、自分がバカになっていると思えばよい。

●DVD

 夕食後、『タービュランス』というDVDを観ることになっている。
ワイフが数日前に、借りてきた。

「お前はDVDを観ろ。ぼくは、白隠禅師の座禅和讃をもう一度勉強する」と。
それを言うと、「あなたはDVDを観ないの?」とワイフ。

 「あのなア、ぼくは天上界に入る人間だよ。お前のように、六趣輪廻の世界をさまよう餓鬼(がき)とは、中身がちがうの!」
「ハア~。ごちそう様」と。

 で、結局私も、DVDを観ることに。
「タービュランスというのは、乱気流のことだよ」と教えてやった。

 ……ということで、今日の日記はここまで。
明日もがんばります。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 六趣輪廻 因縁 愚痴 闇路 白隠 禅師 座禅和讃 はやし浩司 恩師の一周忌)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

*My Brother

●11月27日(朝記)「己との闘い」

++++++++++++++++++++

寒さが少し緩んだ。
起きるとすぐ、そのままウォーキングマシンの上に。
30分、歩く。
時速6キロ。
結構な速さである。
ときどき足がもつれる。

書斎に入ったのが、午前6時5分前。
あたりはまだ真っ暗。
メールを読み、ニュースに目を通す。
日曜日の朝ということもあり、とくに目新しい記事はなし。
ただアフリカのジンバブエで、象が200頭死んだという記事が気になった。
猛暑と渇水が原因という(新華社)。
「毎週100頭の割合で死んでいる」とも。

その象の数。
毎年、減少している。
ウィキペディア百科事典によれば、
1970年代……2,700,000頭、
1980年 ……1,000,000頭、
1988年 …… 620,000頭と推定されている。
1995年 ……約280,000頭が確認され、580,000頭と推定されている、とある。

この数字が正しいとするなら、この1970年から1995年までの間に、
270万頭から、58万頭に減ったことになる。
約4~5分の1。
2000年に入ってからはどうなのだろう。

+++++++++++++++++++

●夢

 今朝も、起きがけに何かの夢を見ていた。
見ていたが、思い出せない。
時間がたつと、乾いた砂が風に舞うように、記憶が消えていく。
何の夢だったのだろう。
どうしても思い出せない。

 ただここで言えることは、同じような夢は、めったに見ないということ。
毎朝、違う。
今朝見た夢も、また別の夢だった。
脳がもつ奥深さに、改めて驚く。

●兄

 数年前、兄が他界した。
子どものころから、体が弱かった。
それもあり、9歳年上の兄だったが、兄弟関係がいつの間にか逆転した。
私が兄、兄が弟。
そういう関係になった。

 晩年の兄は、うつ病になっていたと思う。
人は認知症になったと言ったが、頭はしっかりとしていた。
老人のうつ病と認知症は、専門医でも区別がむずかしいという。

 それはさておき、その兄からは電話がよくかかってきた。
いつもこう言った。
「お客さんが、ござらん(=来ない)」と。

 兄は兄なりに、不安だったのだろう。
さびれいく町に、さびれゆく商店街。
そういう中にあって、兄は当時、65歳を過ぎていた。
その兄が、昨日、夢の中に出てきた。
その夢のことは、よく覚えている。

 ……あの町の通りを2人で歩いていた。
私が兄の腕を片側から支えていた。
その兄がこう言った。
「お客さんが、ござらん」と。
いつもの口癖である。
私はそれを聞き、精一杯気丈夫なふりをしながら、こう言った。
「心配せんでもいい。何とかしてやるから」と。

●貧乏

 貧乏が、こわいというのではない。
貧乏に至る負け戦が、こわい。
とくに商店街では、貧乏は長い時間をかけ、ゆっくりとやってくる。
ジワジワ、ジワジワ……と。
5年とか、10年とか、それくらい長い月日をかけて、やってくる。
それがこわい。

 人はこう言う。
「先を読め」「先手を打て」「頭を切り換えろ」と。
あるいはさらに無責任な人になると、こう言う。
「それも時代の流れ」と。
しかしそれは言葉。

実際には、「明日は何とかなるだろう」という甘い期待を抱きつつ、毎晩床に入る。
が、その明日も、昨日と同じ。
これを繰り返しているうちに、5年とか10年とかが過ぎてしまう。

●シャッター街

 私の実家には、シャッターこそなかった。
ガラス戸と薄いカーテンだけ。
しかしいつの間にか、ガラス戸は閉まり、カーテンも閉ざされるようになった。
だからというわけでもないが、私は「シャッター街」という言葉を耳にするたびに、その言葉がドシリと胸に響く。
響くというより、胸をつぶす。

 外から見ればただのシャッター街だが、その向こうに商店主だった人たちの重苦しい思いを感じてしまう。
負け戦はつらい。
本当につらい。
真綿で首を絞めるような閉塞感。
いくら虚勢を張り、明るく振る舞っても、その笑い声は地には着かない。
先の見えない不安感。
孤独感。
「私は何をしてきたのだろう」という自己否定。
来る日も来る日も、それと闘う。

●強迫観念

 私は社会に出てから、懸命に働いた。
仕事をしたくて、働いたわけではない。
貧乏がこわかった。
貧乏になるのが、こわかった。

 だからといって、金持ちになったわけではない。
振り返っても、私が受け取った(他人のお金)は、ほとんどない。
子どもたちの出産時に手にした、それぞれ10万円前後の祝い金。
それに義父が亡くなったとき受け取った、10万円。
それだけ。

 だからいつも孤立無援。
失敗が許されないという孤立感。
ただひたすら、がむしゃらに働いた。
それが今でも、私が見る夢の原点になっている。

 そう、悪夢といえば、電車やバスに乗り遅れる夢。
ホテルで寝過ごして、飛行機に乗り遅れる夢。
そんな夢ばかり。

 心理学的では、強迫観念という言葉を使う。
医学的には、不安神経症という言葉を使う。
どちらでもよい。
私は子どものころから、そういう不安感から抜け出すことができないでいる。
きっと兄もそうだったのだろう。
「お客さんが、ござらん」と。

●戦争

 が、だれの責任でもない。
父や母にしても、あの時代を懸命に生きてきた。
もし悪いとすれば、あの戦争。
あの戦争が悪い。

 戦後生まれの私だが、みな、あの戦争の後遺症を傷深く背負っていた。
それが姿、形を変え、私の「心」となっていった。
だから今でも、こう思う。

 イラクにせよ、アフガニスタンにせよ、仮に戦争が終わっても、その後遺症は、何世代にも渡ってつづいていくのだろうな、と。
罪もない、子どもたちが、将来に渡って苦しむだろうな、と。
兄が子どものころから体が弱かったのも、元はと言えば、栄養失調。
兄が育った時代の日本には、満足な食糧すらなかった。

●「やっと死ねる」

 64歳になった。
その今でも、こう思う。
「いつになったら、平安が訪れるのだろう」と。
……というか、もうとっくの昔にあきらめた。
だから今は、こう言う。
「死ぬまでつづくだろうな」と。

 だから去年の正月に廊下で倒れたときも、こう思った。
「ああ、これで死ねる」と。

 死にまつわるはずの恐怖感は、まったく感じなかった。
「やっと死ねる」という感じに近かった。

ただ不要な心配をかけたくないので、その理由について書いておく。
そのとき、何か大病があって、倒れたというわけではない。
私はときどき、不用意に首をひねったようなとき、後頭部にはげしい神経痛を覚えることがある。
(重篤な病気の前兆ということも考えられるが……。)
そのときはそれが、いつもになくひどかった。
それが原因で、廊下に倒れた。

●平安

 仏教で言えば「執着(しゅうじゃく)」。
心理学で言えば「固着」。
俗な言葉を借りれば、「こだわり」。
これを取り除かないかぎり、私の心に、平安は訪れない。
それはよくわかっている。
「心の傷」というのは、そういうもの。

 ただ誤解してはいけないことがある。
心の傷などというものは、だれにでもある。
ない人はいない。
みな、ある。

 それに気づいている人もいるが、気づいていない人もいる。
気づかないまま、いつもそれに振り回される。
同じ失敗を、繰り返す。

 だから今は、そういう相談があるたびに、こう言う。
「心の傷なんてものは、死ぬまで消えませんよ。
仲よくつきあっていくしかないですよ」と。

●精進

 今朝の夢も、悪夢に近かった。
よく覚えていないが、いやな夢だった。
断片的に覚えているのは、どこかの部屋にいたこと。
ガラス窓が見えた。
……あとは、覚えていない。

 そう、その悪夢にしても、私はこの先、死ぬまで仲よくつきあっていくしかない。
脳というのは、そういもの。
いくら楽しい思い出で上書きしても、その上書きを突き破って、古い思い出が顔を出す。
しかも皮肉なことに、加齢とともに、上書きされた部分が、どんどんと崩落していく。
いやな自分に逆戻りしていく。

 だから……と書くと、安っぽい映画の主題のように思う人もいるかもしれない。
しかし結論は、ひとつ。
だから、日々に精進あるのみ。
日々に鍛錬し、前向きに生きていく。
己(自分)に負けたとき、負け戦は、本当に負け戦になってしまう。
何としても、それだけは避けなければならない。

 ……ということで、今朝も始まった。
先ほど(7時過ぎ)、ワイフが茶を届けてくれた。
それをゆっくりと飲みなおす。
時刻は午前7時半。
もう1時間も、過ぎた。

 みなさん、おはようございます。2011/11/27朝記


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

2011年11月26日土曜日

*What we see the Buddhism in the movie "Saoling"

【映画・新少林寺を観る】

++++++++++++++++++はやし浩司

昼寝をしたあと、ワイフと映画『新少林寺』を観てきた。
星は5つの、★★★★★。
文句なしの5つ星。
過去、いろいろな映画を観てきた。
が、最後の『The End』の文字まで観たのは、
この数年で、この映画が、はじめて。

熱い涙が止まらなかった。
同時に、こう思い知らされた。
「私は仏教徒だったんだなあ」と。

私の体の中には、仏教が染みこんでいた。
子どものころからの思い出が、つぎつぎと
現れては消えた。
歓びや悲しみ、楽しかった思い出や、つらかった思い出……。
それが内なる世界から、熱い涙を押し出した。

映画『新少林寺』は、最後の10分間で、
これから私が生きる道に、大きな示唆を与えてくれた。
すばらしい映画だった。

もし『新少林寺』を観る機会があったら、
最後の最後まで観てほしい。
「The End」の文字が、しっかりと止まるまで……。

++++++++++++++++++はやし浩司

【欲望論】(本能とは)

●白い太もも(大腿部)

 家を出たとき、若い男と女が道路を歩いていた。
どこか物欲しそうに、しかし怪しげな歩き方だった。
が、何よりも目についたのは、女の白い太もも。
大腿部。
短いパンツに、ロング・ブーツをはいていた。
太ももは、99%、露出していた。
99%。
最後の1%で、左右のパンツがつながっていた。

●ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)

 2000年に入ってから、ミューチュアル・アッタチメント(相互愛着)という言葉が使われるようになった。
母親(父親)と乳幼児の関係についていったもの。
つまりそれまでは、母親と乳幼児の関係は、一方的なものと考えられていた。
母親側から乳幼児へ。

 しかしそうではないことがわかってきた。
つまり乳幼児のほうからも、母親側に働きかけがあることがわかってきた。
あの乳幼児が、母親に、である。
わかりやすく言えば、乳幼児は、自ら、自分の(かわいさ)を演出することによって、親の愛情を自分側にひきつけようとする。
エンゼル・スマイルもそのひとつと言われている。

 このことは逆に考えてみれば、よくわかる。
もし生まれたての赤ん坊が、母親に向かって、こう言ったとする。
「おい、ババア、乳よこせ!」と。

 とたん母親は乳をくれるのをやめてしまうだろう。
つまりその時点で、人類は絶滅の危機に立たされる。

●赤ちゃん返り

 幼児期によく知られた、愛情飢餓による現象に、「赤ちゃん返り」というのがある。
ほとんどは「下の子」が生まれたことにより、「上の子」が、赤ちゃんぽくなる現象をいう。
あの赤ちゃん返りは、本能的な部分に根ざしているため、叱ったり、説教しても意味はない。
そういうことをすれば、症状は、ますますひどくなる。
ばあいによっては、慢性的な発熱など、身体的症状などを伴うこともある。

 つまり乳幼児でも幼児でも、無意識のうちに、求める相手を自分に引きつけようとする。
ここにも書いたように、本能に近い部分から命令が発せられるため、本人がそれを意識することはない。

●本題
 
 さて本題。

 太もも(大腿部)を99%見せて歩く、若い女。
明らかに男のS欲(禁止用語)を、刺激している。
しかしもちろん、本人には、その意識はない(……だろう)。
「どうしてそんな服装をしているの?」と聞けば、こう答えるにちがいない。
「ファッションよ」と。
つまり、オシャレ、と。

 しかし私はそうは考えない。
その理由のひとつが、ミューチュアル・アタッチメント。
乳幼児でも、その程度の本能がある。
いわんや思春期の娘、をや。

●無意識下の行動
 
 私の行動には、無意識に支配されるものが多い。
その例として赤ちゃん返りをあげた。
今までに何百という例を見てきた。
その子どもは、外から見たところ、本人の意思で行動しているように見える。

 その延長線上に、あの「太もも」がある。
そう考えたところで、論理的に無理はない。
つまり女性は無意識のうちにも、男性を誘惑するように行動する。
言い換えると、男性のほうが女性のそういった服装を見て、興奮するのではない。
女性のほうが、男性をして、そう思わせるように仕向ける。
先にも書いたように、本能に根ざしているだけに、本人がそれを意識することはない。
無意識のまま、そうする。

●「形あるものは、すべて無」(「新少林寺」)

 映画『新少林寺』で受けた感動が、まだ残っている。
その余韻もあって、過去に書いた原稿をいくつか探してみる。

++++++++++++++++++はやし浩司

●希望と期待

 希望にせよ、期待にせよ、それが「欲望」から発したものであれば、それは未来を約束した希望や期待にはならない。
よく「光」という言葉を使う人がいる。
「希望は光」と。

 しかしそれは光ではない。
身を焦がす炎(ほのお)である。

たとえば子を育てる親の希望や期待には、際限がない。
受験にしても、やっとB高校へ入る力がついてくると、「何とかしてA高校へ」となる。
そのA高校が視野に入ってくると、今度は、「S高校へ」となる。

 こうして希望や期待は、際限なくふくらんでいく。
その結果、いつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
ひとつの希望や期待がかなえられるたびに、その先でまた新たなる苦悩がやってくる。
処し方をまちがえると、家庭騒動、親子断絶、さらには家族崩壊へとつづく。
ただの「光」ではすまない。
つまり「炎」。
なぜか?
それが冒頭に書いたことである。
欲望から発しているからである。

●老後の希望

 若いうちは、まだよい。
それが意味のないものであっても、その希望や期待に、酔いしれることができる。
時間を無駄にしても、そこにはありあまるほどの余裕がある。
(本当は、余裕などないのだが……。)

 が、歳を取ると、そういうわけにはいかない。
刻一刻と、時間は短くなっていく。
無駄にできる時間など、一瞬一秒もない。
そこで何度も書くが、エリクソンという学者は、「統合性の確立」という言葉を使った。
老齢期の生き方を説いたものである。
3年前に書いた原稿だが、参考になると思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)08年記

(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。
人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。
出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。
こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。
その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。
その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。
それが世代性ということになる。
その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1) 普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2) 没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3) 無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4) 高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5) 還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリクソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。
何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。
大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。
が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。
「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわけにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。
さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。

私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎり、統合性の確立は不可能と言ってよい。
我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統合性の確立 無私 無我)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。
その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。
この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。

たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボランティア活動をしたところで、意味はない。
身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。
孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。
しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。
もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめることがある。

認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問してみるという方法がある。
「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。
ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくるものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。
それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。
なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。
大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。
60歳をすぎれば、さらにそうである。
我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無」

 統合性を確立するためには、欲望を捨て、「無」の状態でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は、霧散する。
ボランティア活動にしても、「無」でするから、意味がある。
何も期待しない。
見返りを求めない。
ただひたすら自分がすべきことをする。
それが「無」ということになる。

 で、2500年前に釈迦が説いた「無」と、近代に入ってサルトルが説いた「無の概念」が、一致するということは、たいへん興味深い。
宗教の世界を、「観念論の世界」という。

一方、サルトルらが説いた世界を、「実存主義の世界」という。
まったく相反する世界の哲学が、最終的には、ひとつの世界に融合する。
(私自身は、釈迦は、宗教ではなく、現在に通ずる実存主義を説いたものと解釈している。
その釈迦の教えを、無理に宗教化したのは、後世の学者たちと解釈している。)
 釈迦は、「無」を哲学の根幹に置いた。
(いろいろ異論もあろうが……。)

一方、サルトルは、自由へのあくなき追求を経て、最終的には「無の概念」にたどりつく。
これについても、私はたびたび原稿を書いてきた。
 サルトルについて書いた原稿をさがしてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【自由であること】2009年記

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。
自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。
その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。
それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。

 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、『自らに由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞかし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905~1980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間から、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させることができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくるだろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概念」をもって、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたため、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。
「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。
その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。
息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。
英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け入れるということ。
「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。
死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はある。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。しかしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●釈迦の説く「無」

 では、釈迦は、「無」をどのように考えていたのか。
直接的には「空(くう)」という言葉を使った。
つぎの原稿は2006年に発表したものである。
が、本当は、もっと前に書いたかもしれない。
私はよく過去に書いた原稿を呼び出し、その原稿を改めるということをよくする。
しかし少なくとも、仏教と実存主義の融合に気づいたのは、このころということになる。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】2006年記

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。
四苦八苦の「四苦」である。
では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。では、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。

(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。

簡単に言えば、人間の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

+++++++++++++++

●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世界かもしれない。
 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの光の信号が集合されているだけ。
 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。
 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。
 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。
釈迦滅後、数百年後を経て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。
釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのではないか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみたい。
(050925記)

(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識 無の概念 空)

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もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

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●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進についても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。

(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

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 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自由であることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私はここに、東洋哲学と西洋近代哲学の融合を見る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 東洋哲学と西洋哲学の融合 無の概念 無 はやし浩司 空)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●欲望の克服

 私たちが「欲望」と呼んでいるもの。
それらはすべて「無」に発する。
「性欲」を例にあげるまでもない。

ただの排泄欲にすぎない性欲が、人間社会そのものを支配している。
フロイトですら、「性的エネルギー」という言葉を使っている。
つまり「性的エネルギー」が、あらゆる動物(もちろん人間も含む)の生命力の根幹になっている、と。
(これに対して、フロイトの弟子のユングは、「生的エネルギー」という言葉を使っている。)

 人間は絶え間なく、この欲望の支配下に置かれ、奴隷となり、それに振り回される。
が、たいへん悲しいことに、そうでありながら、ほとんどの人は、それに気づくこともない。
「私は私」と思い込んでいる。
ただの奴隷でありながら、それが「私」と思い込んでいる。
よい例が、電車の中で化粧をする若い女性。

 自分の意思で化粧していると本人は思い込んでいる。
「あなたは自分の意思で化粧をしているのですか」と聞いても、その女性はこう答えるだろう。
「もちろん、そうです」と。

 が、その女性とて、その奥深くから発せられる「性的エネルギー」の奴隷でしかない。
その「奴隷である」という部分が、加齢とともに、やがてわかってくる。

●では、どうするか

 ここから先は、製品で言えば、まだ試作品(プロトタイプ)。
が、今の私は、こう考える。
希望や期待が、欲望に根ざすものであるなら、希望や期待をもたないこと。
へたに希望や期待をもつから、そのつど壁にぶつかり、葛藤を繰り返す。
怒りもそこから生まれる。
恨みも、ねたみも、そこから生まれる。

 ある賢人は、こう言った。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
あとでそれについて書いた原稿をさがしてみるが、怒りが強ければ強いほど、あるいは恨みやねたみが強ければ強いほど、その人自身の人間性が破壊される。

 が、希望や期待を捨てれば、怒ることはない。
人を恨んだり、ねたんだりすることもない。

……と書くと、では、「人は何のために、何を目標に生きればいいのか」と考える人もいる。
が、答は、シンプル。
『そのとき、その場で、やるべきことを、けんめいにすればいい』と。
トルストイをはじめ、多くの賢人たちも、異口同音に、「そこに生きる意味がある」と説く。
つまり懸命に生きるところに意味がある、と。
釈迦もその1人。

 結局は、そこへ行き着く。
「結果」というのは、かならず、あとからついてくる。

 ここにも書いたように、これは試作品としての結論ということになる。
このつづきは、一度、頭を冷やしたあとに、書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 欲望(煩悩)論 煩悩論 欲望論)

(補記)2010年7月記

●『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディック)

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人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

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●ある女性(67歳)

 ついでながら、東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上古天真論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。
「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。
そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に復讐して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた伯父に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8~10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その伯父はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
『怒りは、人格を崩壊させる』と説く賢者もいる。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」とはっきり言われて、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)

●結論

 いろいろ書いてきたが、人間は欲望の奴隷と考えてよい。
その欲望が、さまざまな感情を生む。
東洋医学でも、そう教える。
その感情の中でも、「怒り」「うらみ」「ねたみ」は、心を腐らす。
ときには人格を崩壊させる。

 そこで重要なことは、つまり日々の生活の中で重要なことは、この怒りをどう手なずけていくかということ。
それを自己管理能力といい、その能力のあるなしで、その人の人格の完成度が決まる。

 釈迦も「怒り」をきびしく戒めている。
フォスディックの言葉を借りると、こうなる。

●『Anger is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を怒るということは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 今朝のキーワードは、「怒り」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 新少林寺 空 無の概念 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 四苦八苦 仏教 はやし浩司 怒り 恨み)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司