2009年12月31日木曜日

*At the End of 2009

●2009年12月31日夜(大晦日)

●ちょうど1年前、こんなことを書いていた。

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Death is the great leveller.
(死ねば、みな、同じ。)

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「leveller」というのは、(皆を平等にするもの)という意味。
「ジーニアス英和辞典」には、「だれにでも平等に影響するもの」とある。
つまりどんな人でも、死ねば同じ、イコール、平等、ということ。
わかりきったことだが、それを受け入れるのは難しい。
「私だけは……」と思いたい気持ちもわかるが、例外はない。

で、金持ちも貧乏人も、地位のある人もない人も、名誉のある人もない人も、死ねば同じ。
つまり「Death makes us all equal(死は皆を平等にする)」。

ところで最近、私はこんなことを強く思う。
「死んだ人の時計は止まる」と。

たとえば私の隣人にR氏という人がいた。
亡くなって、もう5年以上になるが、その間、R氏についての時計は止まったまま。
ときどき「もう5年になるのか」と驚くときがある。

そう、私の記憶の中にあるR氏は、5年前のまま。
R氏との思い出にしても、ガラスの箱の中に閉じ込められたようになっている。
外から見えるには見えるが、断片的にしか見えない。
そこでじっとしているだけ。
外には出てこない。
言い換えると、私が死んだら、そのとき、私についての時計は止まる。
あなたが死んだら、そのとき、あなたについての時計は止まる。

こうして人はどこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。
この不思議さ。
この切なさ。

しかし元気なときには、それがわからない。
あえて(死)に背を向けて生きる。
(死)を蹴飛ばしながら生きる。
「金持ちになりたい」「地位や名誉がほしい」と。

しかしその果てに(死)が待っているとしたら、人は何のために生きているのか。
・・・そんなことを考えるのも、年末だからかもしれない。

で、少し前、郵便局でこんな会話を耳にした。
どこかの女性(90歳くらい)が、年金をおろした。
手には100万円ほどの札束を握っていた。
それについて、局員の男性が、大きな声でこう言っていた。

「あのね、おばあちゃん、ここでは1000万円までしか貯金はできないの。
国債も、1000万円までしか、買えないの」と。

それを理解できたのかどうかは知らないが、その女性はお金を手さげに入れて、
郵便局を、ヨタヨタと歩きながら出て行った。
足は大きく外側へわん曲し、腰も曲がっていた。
歩くのもままならないといったふうだった。

それを見てワイフは、「だいじょうぶかしら?」と言った。
私は、「何のために?」と言った。

お金がないのも困るが、しかしお金というのは、元気なときに使ってこそ、生きる。
「どうせ皆、平等になる」というのなら、なおさらである。
地位や名誉にしてもそうだ。

私も最近、こんな経験をした。
私が発行しているメルマガ(電子マガジン)が、2008年度の「マガジン・オブ・
ザ・イヤー」に選ばれた。
6万3000誌もあるということだから、名誉なことにはちがいない。
しかしその喜びというのが、ほとんどといってよいほど、わいてこなかった。
10年前、あるいは20年前の私なら、飛び上がって喜んだことだろう。
あるいは出版の世界だったら、どさっと大金が舞い込んできたことだろう。
しかしそこはインターネットの世界。
何も変わらない。
何も起こらない。
もちろんお金は入ってこない。
「HPのどこかで、宣伝してみよう」とは考えたが、「家族で祝賀会」というところ
までは考えなかった。

(死)という限界をそこに感ずるようになると、そういうことはどうでもよくなる。
私は私。
書きたいから書いているだけ。
それを他人がどう評価しようが、私の知ったことではない。
言い換えると、人は死に近づくにつれて、一次曲線的に、平等になっていく。
死がやってきたからといって、そのときストンと、平等になるわけではない。
すでに今、この瞬間、少しずつ平等に向かって、進んでいく。

だからこの格言をもう少し正確に書き換えると、こうなる。

「加齢は、人をより平等にする」と。
英語になおすと、「Aging makes man more equal」。

そしてこうも言える。

「死は、時計を止める」と。
英語になおすと、「Death stops each man’s clock」。

ホント!
死んだ人は、本当に静かだ。
何も語らない。
何も動かない。
私も、あなたも、やがてすぐそうなる。
これには、先に書いたように、例外はない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●反省

 昨年の終わりは、かなり沈んでいた。
それでこういう文章を書いた。
(私はここ数年、年末になると決まって、インフルエンザにかかる。
インフルエンザにかかると、ものの考え方が、どうしても悲観的になる。)

で、何のために生きているかって?
いろいろ考える。
しかしいつも答は堂々巡り。
で、結論は、同じ。
「たまたま生きているから、生きていくしかない」と。
簡単に言えば、そういうことになる。
生きている以上、前に向かって生きていくしかない。
その先のこと・・・?

どう考えたところで、なるようにしかならない。
だったら今、精一杯、前向きに生きていくしかない。

 悪いことばかりではない。
いや、ここに生きているということ自体が、奇跡。
あのアインシュタインも、そう言っている。
まず、それを喜ぶ。

ものが見える。
音が聞こえる。
歩くことができる。
話ができる。
だれに対してというわけではないが、生きていることを感謝する。

 そこでもう一度、『死ねば、みな、同じ』という言葉について、考えなおしてみる。
この言葉を反対側から読むと、『生きている人は、みな、ちがう』という意味になる。
つまり、こう考えてみたらどうだろうか。

 『死ねば、みな、同じ』。
それはそのとおり。
が、だからといって、「生きていることには意味はない」と、とらえてはいけない。
『生きている人は、みな、ちがう』というところが、大切。
そこに、生きる意味があると考える。
つまりその(ちがい)を作るところに、生きる意味がある。

 そう言えば、以前、私にこう言った友人がいた。
「林君、総理大臣だってね、10年もすれば、みなの記憶から消えていくよ。
20年もすれば、覚えている人もいない。
だからね、苦労して総理大臣になっても、意味はない。
人生はね、楽しむことだよ」と。

 もちろん私たちは、名誉や地位のために生きているのではない。
名誉や地位というものがあるにしても、それはあとからついてくるもの。
ついてこなくても、構わない。
しかしそこに至るプロセスが大切。
プロセスの中から、無数のドラマが生まれる。
そのドラマに、生きる価値がある。

 友人は、結論として、「楽しむこと」と言った。
それはそのとおりだが、では、どうやって、何を楽しむか。
さらに言えば、真の楽しみとは何か。
家の中でゴロゴロしながら、バラエティ番組を見ることが、その(楽しみ)とは、だれも思わない。

 で、1年たった今、私はこう思う。

 『死ねば、みな、同じ』と言った人は、何もできなかった自分を正当化するために、そう言ったのではないか、と。
みなと同じように生きてきただけ。
だからそれを居直るために、『死ねば、みな、同じ』と。
つまりつまらない人生を送った自分を、そういう言葉で慰めているだけ。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

2009年12月30日水曜日

*Warm-Hearted Men

●心の温かさvs冷たさ

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今日になって、どっと忙しくなった。
朝から、動きっぱなし。
で、やっと今、……時刻は午後4時37分、
一息ついた。
疲れた。

残るは部屋の掃除だけ。
それは明日にしよう(12月30日)。

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●「心」をもたない生物

 かなりSF的な話になる。
あくまでも、SFとして読んでもらったほうがよい。
こんな話である。

 つまり、あの爬虫類には、「心」が、あるかないということ。
トカゲとか、ヘビを頭に思い浮かべてみればよい。

 たとえば鳥類のばあい、雛をほかの動物が襲ったりすると、親鳥はその敵に向かって、猛然と立ち向かっていく。
哺乳類では、さらにはげしく立ち向かっていく。
つまり鳥類や哺乳類には、「心」がある。

 では、爬虫類はどうか。
たとえばトカゲの親の目の前から、トカゲの子どもをさらってみる。
そのときトカゲの親は、自分の子どもを守ろうと、何らかの行動に出るだろうか。
が、私が知るかぎり、トカゲが、そうした行動に出たるという話を聞いたことがない。
ヘビにしても、そうだ。

 では、魚はどうか?

 ウ~ン!

 ……魚も、そうした行動に出るという話を聞いたことがない。
さらに昆虫類にいたっては、そうした行動に出るという話を聞いたことがない。
言い換えると、爬虫類や魚類、昆虫類には、悲しみを理解する「心」がないということになる。

 だからといって、感情がないと言っているのではない。
喜びや怒りについては、わからない。
餌を見つけたときの攻撃心、餌を取りあうときの闘争心、餌にありついたときの喜びや満足感などは、あるかもしれない。

が、私たち人間がもっているような(感情)は、爬虫類や魚、虫にはないと考えてよいのでは?
あるとしても、きわめて原始的なもの。
人間がもっているような感情とは、異質のものと考えるのが正しい。

●心の冷たい人

 人格の完成度は、他者との共鳴性で決まる(EQ論)。
ほかにもあるが、共鳴性が、もっとも重要。
他人の苦しみや悲しみを、いかに共有できるか。
共有できる幅の広い人を、人格の完成度の高い人という。
そうでない人をそうでないという。

 そこでこれは極端なケースだが、自分の子どもが危機的な状況になったばあいを考えてみよう。
どこかの国の独裁者に誘拐されたようなケースでもよい。
そのとき平然と構えていることができるとしたら、共鳴性は、かなり低いということになる。
(そんな人は、いないが・・・。)

 誘拐でなくても、他人の子どもが、目の前で危機的な状況になったばあいを考えてみよう。
そのとき平然と構えていることができるとしたら、共鳴性は、かなり低いということになる。

 トカゲやヘビを基準にするのも、おかしな話だが、そういう人の「心」は、トカゲやヘビと同じ、ということになる。

●グレイ

 で、ここからが、SF的。
もし遺伝子操作か何かで、人間の知的能力をもったトカゲのような生物を作ったとしたら、その生物は、どんな生物になるだろうか。
つまり知的能力は、人間並み。
「心」は、爬虫類並み。

 実は私はこのことを、映画『フォース・カインド』(The Fourth Kind)を観ているとき、考えた。
あの映画の中では、「ふくろう」に似た宇宙人が、つぎつぎと人間をさらっていく。
そのやり方というか、やり口が、実に荒っぽい。
乱暴。
子どもだって、平気でさらっていく。
人間だって、ほかの動物を捕獲するときは、麻酔銃などを使ったりする。
しかしあの映画の中に出てくる宇宙人は、そういうことはしない。
泣き叫んで抵抗する人間を、平気で(?)、さらっていく。

 で、「ふくろう」に似た宇宙人といえば、グレイがいる。
目だけがやたらと大きく、体や、それにつづく腕や足は、異常に細い。
身長もそれほど大きくないとされる。
夜中にそこに、その生物(?)を見たら、ふつうの人だったら、ふくろうと思うかもしれない。
一説によれば、あくまでも一説だが、そのグレイは、爬虫類を改造した生物ロボットと言われている。
「信ずるか信じないかは、あなた次第」(「フォース・カインド」)ということになるが、もしグレイが、爬虫類の「心」をもっているとするなら、ありえない話ではない。

 子どもをさらわれる親の気持ちなど、理解できない。

●扁桃核
 
 そこで私たち自身について、考えてみたい。
人間だから、平等に、人間らしい「心」をもっているというのは、ウソ。
・・・というより幻想と考えてよい。
心の温かい人もいれば、そうでない人もいる。
自分が温かいからといって、ほかの人もそうであると考えてはいけない。
自分が冷たいからといって、ほかの人もそうであると考えてはいけない。
そしてここが重要だが、一度壊れた心、つまり冷たくなった心は、簡単には元に戻らない。
「話せばわかる」式の発想で、説教したくらいで、冷たくなった心を溶かすことはできない。

 で、最近の研究によれば、その鍵を握るのが、辺縁系の中にある扁桃核(扁桃体)とい言われている。
何かよいことをすると、大脳のほうから信号が送られ、扁桃核が、モルヒネに似たホルモンを分泌する。
そのホルモンが、脳内を甘い陶酔感で満たす。
こうして人間は、(よいことをする)ことが、(気持ちのよいこと)と知る。

 が、この段階で、扁桃核が大脳からの刺激に反応しなくなったとしたら……。
仮によいことをしても、甘い陶酔感で満たされることはない。
感情的に、無反応の状態になる。
それだけではないだろうが、「心」というのは、脳の中で、複雑なメカニズムを通して作られる。
「一度壊れた心は、簡単には元に戻らない」というのは、そういう意味である。

●心のすれちがい

 平たく言えば、人間には心の温かい人もいれば、そうでない人もいるということ。
心の温かい人からは、心の冷たい人がよくわかる。
しかし心の冷たい人からは、温かい人が理解できない。
親切にしてもらっても、相手の人が、「お人好し」か、「バカ」にしか見えない。

が、その一方で、心の温かい人にも、それがわからない。
「相手は喜んでいるはず」「うれしがっているはず」と考える。
が、実際には、そうでない。
そこで「?」となる。
心がすれちがう。

 ……といっても、心が温かい、冷たいといっても、相対的なもの。
より温かい人からみれば、あなただって、冷たい人になる。
心の温かい人は、どこまでも心が温かい。
冷たい人は、どこまでも冷たい。
それこそ道端で人が倒れていても、平気でそばを通り過ぎることだってできる。
さらに冷たくなれば……。
それこそトカゲやヘビのような心の持ち主に、なってしまうかもしれない。

●では、どうすればよいか

 ここから先は、教育の問題ということになる。
たとえば幼児でも、ぬいぐるみを見せたとき、うっとりするような目つきで見る子どももいる。
反対に、そうでない子どももいる。
大きなぬいぐるみを与えたりすると、「かわいい」と言って抱く子どももいれば、反対に足で蹴る子どももいる。

 それだけで心の温かさを判断することはできないが、幼児ですら、心の温かさを感ずる子どももいれば、そうでない子どももいる。

 結論から先に言えば、乳幼児期に、親の温かい愛情に恵まれた子どもは、心の温かい子どもになる。
この時期に、育児拒否や親の冷淡、無視、さらには虐待を経験すれば、子どもは、心の冷たい子どもになる。

 このことは育児の常識といってもよい。
で、問題は、そのつぎ……というか、私たち自身のこと。
まず私たちは、(1)どうすれば、自分の心の温かさを知ることができるかということ。
つぎに、(2)「冷たい人間」とわかったとき、どうすれば、それを克服することができるかということ。

 順に考えてみたい。

(1)どうすれば、自分の心を知ることができるか。
(2)自分が心の冷たい人間と知ったとき、どうすればよいか。

●自分の心を知る

 自分の心を知るというのは、実は、たいへんむずかしい。
どんな人も、自分の心を基準にして、「心」を考える。
だからどんな人も、「私はふつう」と考える。
心の温かい人は、温かい人なりに、「私はふつう」と考える。
心の冷たい人は、冷たい人なりに、「私はふつう」と考える。
だから他人の心がわからない。
自分の心も、わからない。

 が、ときどき、ゾッとするほど心の冷たい人に出会うときがある。
そういう人を知って、自分の心の温かさを知る。
反対に心の温かい人に出会うときがある。
そういう人を知って、自分の心の冷たさを知る。

 ただおかしなことに、心の冷たい人ほど、それを隠すためか、それとも自己嫌悪のためか、人前では、ことさら自分のやさしさを強調することが多い。
「私、近所の独居老人のために、ボランティア活動をしてますの」と。
どこかおかしい。
どこか不自然。

一方、本当に心の温かい人は、静か。
そうした演技そのものを、必要としない。
だから心の動きも、自然。
これもその人が、本当に心の温かい人かどうかを知るための、ひとつの基準になるかもしれない。

●克服

 方法としては、(1)文化性を高める。
(2)人間性を高める。
こうした努力を、日々の中で実践していくしかない。

 文化性を高めるというのは、日々に人の心のすばらしさに感動するということ。
そのために芸術がある。
絵画でも音楽でもよい。
文学や映画でもよい。
そういうものに接して、自分の文化性を高める。

 また人間性を高めるということは、ずばり言えば、苦労をすること。
私も母の介護・・・というよりは、(母の介護そのものは何でもなかったので)、兄弟や親類との確執を経験して、介護の苦しみを味わった。
その分だけ、それを理解するだけの心のポケットができた。
こうしたポケットを、できるだけ幅広く、かつ多く経験する。
経験するというより、乗り越える。

 そのときは苦しいかもしれない。
しかし乗り越えるたびに、自分がもつ人間性が、広く、かつ深くなっていくのを、実感として知ることができる。

 私自身は、もともと、心の冷たい人間だった。
今も、冷たい。
どうしてこうなったかということについては、いろいろ思い当るところがある。
が、それはそれとして、つまり過去を悔んでも、しかたない。
心の温かい人間をめざして、前向きにがんばるしかない。

 ただ、だからといって、私に聖人のような人間を求めてもらっても困る。
常に私は、(この程度の人間)でしかない。
だから私は、ひとつ心に決めていることがある。
簡単なことである。

(1)心の壊れた人とは、つきあわない。
(2)心の温かい人は、大切にする。

 私のように心の壊れた人間は、同じように壊れた人間と接すると、自分で自分がガタガタと崩れていくのがよくわかる。
それがこわい。
だから、つきあわない。

●心の壊れた独裁者

 ところで話は、ぐんと現実的になる。
つい先日、韓国系のアメリカ人が、あのK国へ単独で不法入国していったという。
どこかのキリスト教団体に属する信者だという。
気持ちはわかるが、どこか狂信的(?)。
あまりにも現実離れしすぎている。
活動の仕方はいろいろあるだろう。
しかし・・・?
朝鮮N報は、つぎのように伝える。

 『・・・パクさんがK国の弱点である人権問題を取り上げ、金xx総書記を批判する手紙を所持していたという点から、容易に解放できないとの分析もある。韓国政府当局者は「現在米朝関係が悪いわけではないため、円満に解決されることを期待する」と語った。
一方、ロバート・パクさんが代表として活動するK国人権団体「北の同胞のための自由と生命2009」は30日、ソウル汝矣島にある文化放送前で集会を開き、パクさんがK国に入境する前に作成したメッセージを発表する。これには金xx政権の糾弾、K国にある政治犯収容所の閉鎖、K国人権問題に対する全世界人の関心呼びかけなどの内容が含まれている』(朝鮮N報(12・29)より)。

 こんな方法で、あのK国のあの金xxが、心を開くはずはない。
ないことは、K国情勢が少しでも理解している人なら、わかるはず。
なぜなら、理由は、簡単。
あの独裁者の心は、すでに壊れている。
壊れた人間に(善)を説いても、通じない。

 たまたまこの原稿を書いているとき、そんなニュースが飛び込んできたので、ついでに書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 心の温かさ 冷たさ 壊れた心)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

*E-Magazine (Dec 30th)

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   30日号
 ================================  
メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

●2009年は、これでおしまいです。
どうかみなさん、よい新年をお迎えください。
また来年もよろしくお願いします。

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http://bwhayashi2.fc2web.com/page028.html

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・心の問題、あれこれ】

●心の一貫性

良好な人間関係は、生きる基本。
それができる人を、人格の完成度が高い人という。
それができない人を、そうでないという。
良好な人間関係を決める第一の鉄則が、一貫性。
一貫性があれば、相手は安心する。
あなたを信頼する。
その安心感や信頼感が、良好な人間関係をはぐくむ。

が、この一貫性には、2つの意味がある。

表の意味と裏の意味。
称して、「表の一貫性」と、「裏の一貫性」。
「対人の一貫性」と、「反応の一貫性」と言い換えてもよい。
「行動の一貫性」と、「心の一貫性」と言い換えてもよい。

ルールは守る。
ウソはつかない。
そのときどきにおいて、動じない。
コールバーグという学者は、そういう人を「道徳の完成度の高い人」と説いた。
これが表の一貫性。
この表の一貫性がないと、言動がコロコロと変わることになる。
一義的には、信用をなくす。
相手を不安にする。

もうひとつは、裏の意味。

言うなれば、「反応の一貫性」ということになる。
同じことをしてやっても、そのときどきの気分に応じて、反応が変化する。

たとえば何かの荷物をもってやったとする。
それに対して、あるときは、たいへんな喜び方をし、あなたに感謝する。
が、つぎのときには、ブスッとしている、など。

裏の一貫性がなくなると、つきあうこちら側が、不安になる。
こちらの心が相手に伝わらなくなる。
親切にしてやっても、次の機会には、それを忘れてしまったかのような
言動を示す。
もちろん誠意も通じなくなる。

●Iさん(40歳くらい、女性)

 Iさんという女性がいる。
もちろん架空の女性である。
何人かの女性を、1人の女性に仕立ててみた。

 そのIさんは、そのときどきの気分に応じて、様子ががらりと変わる。
機嫌のよいときは、愛想もよく、会う人ごとにニコニコと笑いながら、あいさつを交わす。
が、ひとたび機嫌をそこねると、ささいなことで激怒。
ふつうの激怒ではない。
近所中に聞こえるような大声で、怒鳴り散らす。

 あるとき、自分の家の前にだれかが、車を無断駐車した。
ほんのわずかな時間だった。
道路の反対側の家の人に、何かの届け物を届けるために、そこに駐車した。
が、Iさんは激怒。

 駐車場から自分の車を出すと、その人の車の前に、横向きに置いた。
で、数分後、その車の持ち主が届け物を置いて出てくると、自分の車が動かせなくなって
いた。
が、その人に向かって、Iさんは、こう怒鳴った。
「2万円、もってこい。このバカヤロー!」と。

 大声を聞いて、道路の反対側の人たちも出てきた。
しかしみな、Iさんのあまりの剣幕に、足が震えたという。

 この話をしてくれた、道路の反対側に住んでいる知人は、こう言った。

「よく私の家の前に、自分でも車を停めることがあるのですよ。
機嫌のいいときには、『すみませんね』と言って、声をかけてくれます。
でも、一度でもああいうことがあると、不安になります。どうつきあって
いいのか、わからなくなります」と。

●努力の問題

 表の一貫性を保つことは、先にも書いたように、良好な人間関係を築く基本である。
教師という職業においては、それがとくに強く、要求される。
そのときどきの気分で、教え方が変化するというのは、たいへんまずい。
相手が幼児のばあいは、なおさらである。

 子どもの側から見て、安心感をもてない。
安心感をもてないから、最低限のところで、教師に合わせようとする。
つまり委縮する。

 同じように裏の一貫性を保つことも、良好な人間関係を築く基本である。
わかりやすく言えば、そのときどきの気分に左右されて、反応を変えては
いけない。
これは人間性の問題というよりは、努力の問題と考えてよい。
というのも、この問題には、心の問題がからむ。
ここに書いたIさんにしても、この10年以上、うつ病の薬をずっとのんでいる。
何かのことで(こだわり)をもつと、自らその深みに、どんどんと入りこんでいって
しまう。

 が、Iさんほどではないにしても、私たちはみな、それぞれいろいろな心の問題を
かかえている。
最近の精神医学の分野では、「正常」の定義すら、していない。
つまりこの世の中には、「正常」と呼べる人はいない。
だから「努力の問題」ということになる。

 たとえば簡単なことだが、子ども(生徒)が、何かの絵を描いてきて、私に見せたと
する。
そういうとき私は、努めて、同じような反応を示すようにしている。
花丸を描き、ほうびのシールを張り、その絵をしばらく掲示板に飾る。
その間に、子どもをほめ、頭をさすってやる。
もちろん本気で喜んでみせる。

 つまりこうした「裏の一貫性」を貫くことで、子どもは安心する。
その安心感が、子どもを伸びやかにする。
(私の生徒は、1、2年もすると、みんな伸びやかになるぞ!
ウソだと思うなら、YOUTUBEを見てほしい!)

 こうした裏の一貫性は、行動としてパターン化しておくとよい。
というのも、私はもともと、情緒がそれほど安定していない。
こだわりも強い。
だから自分の行動をパターン化することで、裏の一貫性を保つようにしている。
そうでない、つまり情緒の安定している人からすれば、「何だ、そんなことか!」と
思うかもしれない。
しかし私には、「努力」が、必要ということになる。

 「表の一貫性」「裏の一貫性」。
これはよき家族を築くためにも、必要条件ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 表の一貫性 育児の一貫性 教育の一貫性 子育ての一貫性 はやし
浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 一貫性 人格の完成度 道徳の完成度 表の一貫性 裏の一貫性 反応の一
貫性 心の一貫性 はやし浩司 行動の一貫性 コールバーグ 道徳の完成論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【高学歴の条件(逆流的教育論)】

+++++++++++++++++

「高学歴」のもつ意味が、大きく変化
しつつある。
「高学歴者」イコール、「成功者」あるいは
「人格者」と考えるのは、今では幻想以外の
何物でもない。

が、高学歴への志向性がなくなったわけではない。
ここでは、どうすれば高学歴をめざせるのか
について考えると同時に、高学歴者のもつ
責務について、考えてみたい。

+++++++++++++++++

(1) 環境
親の学歴(親の思考パターンが、世代連鎖する)
親の収入(高品質の教育を受けられる)(※1)
教育環境(地方よりも、都会のほうが有利)
育児環境(親の育児姿勢、育児観、教育観が影響する)

(2) 能力
遺伝的要素(否定する人も多いが、実際には遺伝的要素は否定できない)

●高学歴者の問題点

(1) 合理主義的なものの考え方(情感的なものの考え方ができない)
(2) 自己中心的なニヒリズム(自分勝手で、他者の犠牲を過小評価する)
(3) 点数主義(順位、成果、数字、成績に大きくこだわる)
(4) 優越・劣等感覚(低学歴者に対して、優越感をもつ)
(5) 社会性の欠落(家庭人としての常識の欠落) 

●権威主義の崩壊

(1) 高学歴の意義の変化(EUに見る、大学の権威の崩壊)
(2) 学歴から実力主義への転換。(「何ができるか」が評価される)
(3) 教育制度の自由化(大学間の単位の共通化、入学後の学部学科の変更の自由など)
(4) その一方で、受験競争の低年齢化(小学受験、中学受験が、関門になっている)
(5) 子どもたちの二極化(学力試験の形骸化とともに、学力の低下が指摘されている)
(6) 新家族主義の台頭(2000年を境に、親たちの意識が大きく変化した)
(7) 大卒から大学院卒への高学歴化(「大卒」程度では役にたたない)

●高学歴者を見る社会の変化

(1) 学歴から専門評価へ(「何ができるか」が問題)
(2) 人格評価の変化(AO入試の採用など)(※2)
(3) 大卒後の各組織体による再教育制度の充実(とくに文系出身者)
(4) 高学歴をありがたがる官僚制度(学歴制度温床の場としての官僚制度)

+++++++++++++++++++++++++

以下、順に、考察を加えてみたい。

+++++++++++++++++++++++++

(※1)【年収と学力】(Parent’ s Income and their Children’s Ability of Studying)

+++++++++++++++++++++

予想されてはいたことだが、平たく言えば、
金持ちの親の子どもほど、成績は総じてよいということ。
文科省は、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)
をもとに、このほど、そのような調査結果を公表した。

+++++++++++++++++++++

●年収200万円層

 時事通信(8月5日)は、以下のように伝える。
 
『年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生を
対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委託
研究で4日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは初
めて。

 委託研究では、5政令市にある公立小、100校を通じて、6年生約5800人の保護
者から家庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力
テストの結果と照合した。

 学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、
世帯年収ごとに子供を分類すると、いずれも200万未満の平均正答率(%)が、最低だ
った。

 正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満
だと、200万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答
率が微減に転じた』(以上、原文のまま)と。

●数字の整理

 数字を整理してみる。

(1) 年収200万円未満の平均正答率が、最低だった。
(2) 年収が1200万円~1500万円の層は、200万円未満の層より、20ポイン
ト、高かった。
(3) ただ1500万円以上では、正答率は、微減に転じた。
 
つまり金持ちの子どもほど、成績はよいということ。
しかし年収が1500万円を超えた層では、正答率が微減に転じた、と。
 
が、この調査ほど、納得がいくというか、矛盾を感じない調査はない。
年収1500万円以上の子どもたちの正答率が微減したということについても、
妙に納得がいく。
その分だけ、子どもがドラ息子しているとも解釈できる。
 
しかし親の年収で、子どもの学力に(差)が出るということは、本来は、あってならない
こと。

しかし現実には、ある。
「金持ちの親の子どもほど、学力が高い」と。
が、ここで新たな疑問が生まれる。
親の年収と、子どもの学力を、そのまま関連づけてよいかという疑問である。

●学歴と親の年収

 それ以前の問題として、親の学歴と、親の年収との間には、明らかな相関関係がある。
学歴が高ければ高いほど、年収も高い。
言い換えると、このことから、親の学歴が高ければ高いほど、子どもの正答率も高くなる
と言えなくもない。

(親の学歴が高い)→(年収が多い)→(子どもの正答率が高くなる)、と。
子どもは、いつも親の影響を受けながら、成長する。
つまり年収だけをみて、「親の年収が子どもの学力に影響を与える」と考えるのは、少し、
短絡的すぎるのではないのか?
(もちろん今回の調査では、そんなことは一言も述べていないが……。)

 つまりもっと正確には、(親の学歴が低い)→(その分だけ、家庭における知的環境レベ
ルが低い)→(子どもの知的学習能力も低くなる)→(正答率が低くなる)、ということで
はないのか。

 もし親の年収が子どもの学力に直接的に影響を与えるものがあるとするなら、塾などの
学外教育費用、あるいは学外教材費用の面である。
年収に余裕があればあるほど、子どもの学外教育に、親はお金をかけることができる。

●親の知的レベル

 「知的レベル」という言葉を使ったので、それについて補足。
 親の知的レベルが、子どもの知的レベルに大きな影響を与えるということは、常識と
考えてよい。

(ただし親の学歴が高いから、親の知的レベルが高いということにはならない。
反対に、親の学歴が低いから、親の知的レベルが低いというこにもならない。)

 「知的レベル」というのは、日々の生活の場で鍛錬されて、決まるもの。
学歴のあるなしは、それに影響を与えるという程度のものでしかない。
要するに、親のものの考え方次第ということ。
それが子どもに知的好奇心、問題の解決能力に大きな影響を与える。

●知的レベルの怖ろしく低い親

3、4年前のことだが、私はこんな場面に遭遇したことがある。
その家の長男(当時、35歳)に愛人ができ、離婚騒動がもちあがった。
そのときのこと。
その長男の父親は、一方的にどなり散らすだけ。
「テメエ、コノヤロー、オメーモ、男だろがア!」と。
 
 が、これでは会話にならない。
話し合いにもならない。
もちろん騒動は解決しない。
私はその父親の言葉を横で聞きながら、その父親のもつ知的レベルのあまりの
低さに驚いた。

 別のところで話を聞くと、その父親の趣味は、テレビで野球中継を見ること。
雨の日はパチンコ。
晴れの日は海釣り。
本や雑誌など、買ったこともなければ、読んだこともないという。
 
子どもに直接的に影響を与えるのは、親の知的レベルである。
学歴ではない。
年収ではない。

●ともあれ……

 ともあれ、(親の年収)と、(子どもの学力)との間に、相関関係があることは、
これで確認できた。

しかしこんなことは、何もあえて調査しなくても、わかりきったこと。
ゆいいつ意味があるとするなら、「20%」という数字が出されたこと。
要するに、平均点が20点ほど、低いということか。

 年収が1200~1500万円の親の子どもの平均点が、80点とするなら、
200万円以下の親の子どもの平均点は、60点ということになる。
そうまで単純であるとは思わないが、かみくだいて言えば、そういうことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 親の年収と子供の学力 親の知的レベルと子供の学力 子どもの
学力調査 はやし浩司 全国学力調査)

(付記)

 都会地域へ大学生を1人送ると、平均して、月額17万円前後の費用がかかる。
それを12倍すると、年額204万円。
つまり年収200万円以下の親の子どもが大学へ通うのは、事実上、不可能。
文科省の今回の調査では、「年収200万円以下」を問題にしているが、この数字そのもの
が、少し極端すぎるのでは?

仮に年収100万円以下ということになれば、「家庭」そのものが、成り立たない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※2)●AO入試

+++++++++++++++++++++++++

アドミッション・オフィス入試、略して、「AO入試」。


 簡単に言えば、志願者のそれまでの経験や成績、
志望動機など、さまざまな側面を評価し、
合否を決める入試方法をいう。

 従来のペーパーテスト、面接試験から、
さらに1歩踏み込んだ入試方法ということになる。

 当初は、慶応義塾大学で試験的になされていたが、
それが昨年度(05)は、国交私立、合わせて、
400を超す大学で実施され、最近では、
一部の小中学校でも採用されるようになった。

+++++++++++++++++++++++++
●AO入試とは

 AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。

「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試
と並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)
です。

AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990
年のことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、200
1年度には、207大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途を
たどっています。

自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目
的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務
局とやりとりを行ってから正式に出願するといったもの。

選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かな
ものもあります。

出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事
前面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びた
い」受験生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が
許可されたり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。

ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授
業についていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考
えられますから、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。

AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミ
ッションズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれ
ています。 AOとは(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。

一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行
っているというのが実情です。

しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の
能力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよら
ない新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」
(同サイトより)。

●推薦制度とのちがい 

 従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。

「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求める
ことを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募で
きる「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や
日数をかけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。

(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方
法に従来の推薦入試にはない創意工夫がなされている。

(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている

(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行って
いる大学がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

●AO入試、3つのタイプ

大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のよう
である。

「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を
課したり、出願時に2000~3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面
接はそれをもとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学
力の成績がモノをいう選抜型の入試となっています。

(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1~2回の予備面接やインタビューを
行うもので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や
面談は大学主催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自
己アピールを大学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。
このタイプの場合は、大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意
志の確認が重視されます。

(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという
名称の入試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」
(同サイトより)。

 詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
   http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm

 また文部科学省の統計によると、

 2003年度……337大学685学部
 2004年度……375大学802学部
 2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。

++++++++++++++++

 年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これからの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。

 知識よりも、思考力のある学生。
 ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
 目的意識をもった個性ある学生。

 AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。
ただ現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用
することについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
AO入試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※3)【カナダの幼稚園】

++++++++++++++++

少し前まで、カナダで暮らして
おられた、GSさん(静岡市在住)から、
こんなメールが届きました。

そのまま紹介させていただきます。
カナダの幼稚園の様子がよくわかる、
たいへん興味深いメールです。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【GSさんより、はやし浩司へ】

カナダの幼稚園についての原稿ですが、もちろん引用してくださって構いません。

カナダでの育児状況について、もし参考になるようでしたらと思い、もう少し、お話させ
ていただきます。

私も含め皆さんが、とても利用していたのが、フリー(無料)で行われる、『プレイグルー
プ』(確か州で運営)というものでした。

会場は、各地域にある大きなスーパーの2階です。そこが日本でいう公民館的な空間にな
っていて、大き目の会場とキッチン付きの部屋などもあり、そこで様々な集会、会議、講
習、お稽古などが催されています。

プレイグループは週2回、予約、会費なども一切なく、本当にフリーに出入りできるので、
人気がありました。ベテラン保母さん(たぶん退職されたであろう年齢の方々)が来てい
て、午前中の間開放されます。

その時間内、入りたいときに入り、出たいときに出るというやり方です。子どもだけ置い
ていっても構いませんが、親が一緒に入っているケースがほとんどです。(親がいない子ど
もは、数人いるかいないかという程度です。)それでも、定員を超えるとドアは閉められ、
誰かが抜けるまで、入れず、外で待ちます。 

お絵かき、粘土、パズル、玩具、絵の具、はさみ遊び等等、たくさんの物が用意されてい
て、どれでも好きな物で遊べます。最後に、みんなが円になり、絵本の時間と歌遊びがあ
って、最後までいた子ども達は先生からご褒美シールをもらって終了。

そのシールって好きなところに張ってくれるのだけれど、だいたい、手とか腕とかホッペ
とかでカワイイ(笑)です。

本当に産まれたばかりのような赤ちゃんから、(日本ではきっと外に連れ出さない程の月
齢)、PreSchoolの年齢の子までいます。 

そこで、玩具の貸し借り、順番、ケンカした時の対応などが、自然に意識することなく経
験できたように思います。 

1歳、2歳でもその環境で習得する力はすざましく、林先生の何かの原稿にあったように、
親、先生よりも周りにいる年上の子の真似事が一番の影響を持ちますね。

もちろん、様々な子ども達がいるし、人種も宗教も肌の色も本当に様々なはずですが、子
どもの世界はさほど変わりありません。先生達は特別な指導はなく、何かもめている子ど
ものところへ行っては解決させ、後は良くできているね!と褒めて歩いたり、相談を聞い
たりといった感じです。

息子は、そのプレイグループが大好きで、先生にもすっかり名前を覚えてもらい帰国前に
は涙してサヨナラして来た程でした。

公園の違いについて。

小さな幼児用の遊具と、大きい子用の遊具がしっかり分かれていました。
下は転んでもさほど問題のないように2~3センチの木片や大鋸屑がひきつめられているか、
滑らないゴムのようなものになっていて、滑り台への階段も、1歳児がハイハイして登って
行けるほど、広く段差が低いものです。一か所の公園だけでのことではありません。

また、夏には幼児向けプールが開かれます。 だいたい遊具の近くの芝生の真ん中にあり
ます。

大きな円のプールで中心へむかい深くなっていて、一番深い所で大人の膝程度です。 な
ので端の浅い所では、1歳未満の子が水着で遊んでいたりする中、4~5歳の子が大はしゃ
ぎで走り回るという感じです。週末は短パンで水に入りながら一緒に遊び、周囲の芝生で
ランチしている家族が多く見られます。

高校生のボランティアが監視役として必ず一人ついていて、時間になると水遊び用の玩具
をぶら下げながらやってきて、プール内を掃除して水をはります。決まった時間になると
笛をふき、全員プールから出し水の消毒にかかります。 

毎度、プールから全員上がらせるまでに時間がかかりますが、出てしまった後は、みんな、
まだかまだかと持参したフルーツやおやつを食べたりしながら、しっかり待っています。

以上、特に印象が強かった良い環境だなあと思った2点です。 

私は、妊娠6か月の時にカナダへ行き、親や友達は海外での出産と育児でとても大変だと
心配してもらいましたが、かえって日本よりとっても精神的にもリラックスできていた気
がしますし、子育てはむしろ日本よりもしやすい環境だったと感じています。

もちろん、出産は日本のようにいたれりつくせりではないし、身体的に問題が起きて大変
な思いもしたし、いわゆる子どもを預けてつかのまの休息というものは一切なかったので、
大変は大変でしたけど(笑)。 
だからといって、子どもと少し離れたい!、と思ったこともありませんが。

小学、中学、高校になると、スポーツ系のクラブが数多くあり所属している事が多いよう
です。夏は日が長いせいもあるのか、9時過ぎまでグランドで練習、試合をしている姿が
よく見られます。また、クラブ活動を通しての縦割りのボランティア活動も多いようです。 

女の子のチームも多くあります。ある中学生の子どもを持つ銀行員のお母さんは、やっと
の週末のお休みも、子どものクラブの活動で朝から大忙しだと話していました。でも、そ
の家族の時間も嬉しいと楽しんでいました。 

どちらにせよ、カナダでは、ハッキリと言えることは、家族で過ごす時間をとても大切に
しているというのが強いですよね。日本ではそうではないとは決して言えませんが、平均
的にそれに対する比重はとても違うように感じます。

なんだかまた長々と書いてしまいましたが、少しでも参考になれば幸いです。

【はやし浩司より、GSさんへ】

カナダの教育についての情報、ありがとうございました。
「幼稚園」と構えないで、「(無料の)プレイグループ」というのは、すばらしいですね。
保育時間も、親自身が決められるところも、すばらしいですね。

私の孫も、アメリカで、おおむねそのようなやり方で、少しずつ、集団教育に慣れていっ
たようです。
最初は、週に1、2回程度。
様子をみながら、回数をふやしていきました。

どうして日本では、そういうことをしないのか、不思議でなりません。
いきなり集団教育の場に子どもを放り込んで、それでよしとしています。
考えてみれば、これほど、乱暴な教育もないわけです。

またいろいろ教えてください。
イギリス→カナダは、さすが教育の先進国だけあって、日本とは、ちがいますね!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist カナダ カナダの幼児教育
 カナダの教育事情 カナダの幼児教育 プレーグループ プレイグルー play group は
やし浩司 カナダ 幼児教育 幼稚園)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※4)●教育の自由化

アメリカに限らず、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの小学校を訪れて驚く
のは、その「楽しさ」。まるでおもちゃ箱に入ったかのような錯覚にさえとらわれる。百
聞は一見にしかず。この写真は、アメリカ中南部の、ある公立小学校で撮影したもの。
アメリカでは、ごく一般的な、ふつうの学校とみてよい。

●アーカンソー州、アーカデルフィア、ルイサ・E・ぺリット・プライマリー・スクール。
ブルー・リボン賞受賞校。四歳児(年中)から七歳児(小一)までを教える。全校生徒
三七五名。公立学校だが、朝食代と昼食代など、必要実費が、週六〇ドル必要。
 
(写真ABC)は、小一クラス。一クラス二〇名。この日は、教師、大学からきたインタ
ーンの学生、それに当番制で学校に手伝いに来ている母親の三名が、指導に当たってい
た。写真右端にあるのが、教師のデスク。教師のデスクは、それぞれの教室の内部にあ
り、日本でいう職員室のような部屋はない。写真左端で床に座っているのが、当番制で
やってきた、母親。奥のほうでマンツーマンの指導をしているのが教師。インターンの
学生は、私と並んでいたので、この写真には収まっていない。

(写真D)は、図書室の様子。アメリカでは、そして他の国々でも、図書室の充実が、学
校教育の柱になっている。たいていどこの学校にも、専門の司書がいて、子どもの読書
指導にあたっている。写真の女性は、ボランティアでやってきた母親。

(写真E)は、コンピュータ学習ルーム。この日は、四歳児が授業を受けていた。この学
校では、四歳児からコンピュータの学習を実施している。ちなみにオーストラリアでも、
すでに一五年前から、コンピュータ学習は、小学三年生から必須科目になり、現在では、
幼稚園レベルから教育を行っている(南オーストラリア州)。

●アメリカの学校制度

 こうした公立、私立の学校のほか、アメリカには、チャータースクール(親たちが自ら
教師を雇い、学校そのものをチャーターする)、バウチャ(学校券)スクール(親に配布
した学校券で、学校を運営する)、さらにはホームスクール(学校へ通わないで、家庭で
学習する)などの学校がある。ホームスクールというと、日本では不登校児のための制
度と誤解している人が多いが、それはまちがい。九七年度にはアメリカだけで、ホーム
スクーラーは、一〇〇万人になり、毎年約一五%程度の割合でふえている。「真に自由な
教育は家庭でできる」(「LEARN IN FREEDOM」)という理念のもと、この
運動は、全世界的に拡大している。アメリカでは、親の希望に応じて、公的な機関が、
専門の教師やアドバイザーを、定期的に派遣するという制度も確立している。また地域
のホームスクールの親や子どもたちは、ひんぱんに会合を開き、合同で教育活動も行っ
ている。そして現在、世界で一〇〇〇以上もの大学が、ホームスクーラーの子どもの受
け入れ態勢を整えている(前述、L.I.F)。

●教育の自由化

 アメリカの学校では、公立、私立に限らず、カリキュラムの作成は、州政府のガイドラ
インに従い、親と教師が、「カリキュラム作成委員会」の席で、決定している。日本でい
う全国一律の学習指導要領なようなものはない。(たとえば中学校レベルでも、三年間で
所定の単位学習をすませばよいことになっていて、一年生だから、一年の学習を、とい
う拘束性はない。)また当然のことながら、アメリカには、日本でいう「文部省検定済教
科書」のようなものはない。検定制度そのものがない。子どもたちが使っているのは、
あくまでも「テキスト」である。よくテキストを「教科書」と訳す人がいるが、欧米で
いう「テキスト」と、日本の「教科書」とは、本質的にまったく異質なものと考えてよ
い。

 ついでながら検定制度について、たとえばオーストラリアには、民間団体による検定委
員会はある。しかし検定する範囲は、過激な性的描写、暴力的表現に限られていて、特
に「歴史的分野」については、検定してはならないことになっている(南オーストラリ
ア州)。
 欧米では、「教育の目標は、将来、多様な社会に、柔軟に適応できる子どもを育てること」
(オーストラリア)が柱になっている。アメリカでは行き過ぎた自由化が、一部で問題
になっている部分もあるが、しかしこうした自由な発想が、学校教育そのものをダイナ
ミック

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 アメリカ 教育制度 実情 教育の自由化)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※5)教育の自由化

【教育再生会議・中間報告原案】

++++++++++++++++++

06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。

「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?

いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。

案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。

かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。

++++++++++++++++++

 06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下の
ようなもの。

(1) ゆとり教育の見直し
(2) 教員免許更新制
(3) 学校の第三者評価制度
(4) 教育委員会改革
(5) 大学9月入学

 このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。
(2) の教員免許更新制については、検討中ということ。

 どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この
(3) 原案なるも
のを、検討してみたい。

●ダメ教員の問題

 どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認
定された教師の10倍以上はいるとみてよい。

 しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師と
なると、それぞれ個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自
信をもっている教師も多い。あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。

 だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講
習を受けるなどいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、
無理。


 もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること「あの先
生に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。

 アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年
も、エリー先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教
室で勉強できるようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげ
ているが、これは教育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。

 だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。

 ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園であ
るかどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性
が、あちこちで光っている。

 しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だというこ
と。しかも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねて
いる。

●美しい国づくり 

 提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づく
り」が、教育と関係があるのか。

 あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも
大賛成だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。

 外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、
がく然とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。

 雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモ
の巣のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手
あたりしだいにつけられたガードレールなどなど。

 その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、
今度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という
国は、基本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。

 が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ
文化性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その
自然を生かすことさえできないでいる。

 教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。

●いじめを許さない

 提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。

 方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科
目数をふやせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好
きなことを好きなだけできるような環境を用意すればよい。

 好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れる
ことができる。

 たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フラン
ス語、インドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。
芸術にしても、ドラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になって
いる。

 以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。

+++++++++++++++++

【学校神話を打ち破る法】

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、た
いていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。
しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が18歳のとき
にもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑っ
てみる。たとえば……。

●日本の常識は世界の非常識

★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材
一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけ
でも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の
割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教
育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運
動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明し
ている(LIFレポートより)。

★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラ
ブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。

ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決め
ることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラ
ブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1
200円前後(2001年調べ)。

こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日
本円で約1万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子ども
が就職するまで、最長27歳まで支払われる(01年)。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣
向と特性に合わせてクラブに通う。

日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ
低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責
任をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親
が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー
市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。

「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生の
ほうから電話がかかってきます」と。

★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚
いた。

どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、
はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友
人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オ
ーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャール
ズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校が
カリキュラムを組んでくれる。

たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日
木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ
行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなこ
とでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、
あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何
か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、
「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を
信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画
『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だ
と気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さ
んと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそう
した。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私
が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人
ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことがで
きる。

※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午
後3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決
めることができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On
Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると
考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいもので
しかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の
上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由
と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)
学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が
始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まると
いうことを忘れてはならない」と。
 
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意
見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯
罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるの
は正しくない。

学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シ
ステムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討
すべきではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえ
ている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中
学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、400
0人多い。
 
++++++++++++++++++

 世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学
9月入学だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞し
た偉い(?)先生かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。

 「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という
提言にいたっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化
(=民営化)をこぞって選択している。

 カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化し
ている。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作り
たいと思えば、それもできる。

 (これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になって
いる。またそういう学校しか認可されていない。)

 ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を
側面から支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。
少なくとも、もう少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。

 教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけてい
るが、それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
教育再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●逆流的教育論

昔は町内で東大生が生まれたとすると、その
町内の人が、ちょうちん行列までして、その
学生と家族を祝った。

しかしそれから100年。
尾崎豊が「卒業」を歌ったころから、こうした
日本独特の権威主義、それを支える学歴制度は、
大きな転機を迎えるところとなった。

「学歴」よりも、「中身」「実力」をみる時代へと
変化した。
そのため大学の選抜方法も、AO入試に見られる
ように、時代の流れの中で変化しつつある。

たとえばEUでは、大学の単位そのものが、
共通化されている。
学生たちは、自由に各大学間を渡りあるいている。
最終的にどこの大学で、学位、博士号を認定される
かということは、重要なことだが、少なくとも
「出身大学」という概念は、もうない。

日本でも同レベル(?)の大学間で実験的に
単位の交換がなされているが、あまりパッとしない。
ブランド志向は、過去の亡霊として、まだ残っている。

もちろん小中高校生の教育制度も、大きく変化
しつつある。
ドイツにおけるクラブ制度を例にあげるまでもない。
EUでは、子どもたち(中学生)は、学校での
カリキュラム(ほとんどが単位制)を終えると、
午後は、それぞれが自分の好きなクラブに通って
いる。
それを支えるための、「チャイルド・マネー」も
支給されている。

(高学歴者)イコール、(成功者)という発想そのもの
が、陳腐化している。
もちろん(高学歴者)イコール、(人格者)という
わけでもない。

もし(高学歴)に求められるものがあるとするなら、
真・善・美の追求者としての、社会的責務である。
その責務を果たしてこそ、高学歴者は高学歴者としての
意味をもつ。
そうでなければ、高学歴といえども、卒業証書は、
ただの紙切れ。
自己利益の追求のための道具でしかない。

ちょうど2000年を境にして、日本人の学歴意識は
大きく変化した。
(出世主義)から(新・家族主義)への変化である。
このころ、「仕事より家族のほうが大切」と考える
人が、50~80%へと変化した。
こうした変化を、「サイレント革命」と名づけた人もいる。

今後この(流れ)は加速することはあっても、逆行する
ことはありえない。
理由は簡単。

世界はすでにその先を走っている。
日本は今、それを追いかけなければならない立場にある。
単位の共通化にしても、今では、世界の常識。
インドネシアのジャカルタ大学で1年、中国の北京大学で
1年、3年目と4年目は、EUのソルボンヌ大学と、
ハイデベルグ大学で。
合計して必要単位を履修していれば、あとはどこかの大学で
単位を認定してもらう……。

日本だけが、そのカヤの外。
日本の医師免許は、日本以外の国では通用しない。
アメリカの医師は、日本で開業することができない。
これはほんの一例だが、こうした閉鎖性を打破しない
かぎり、日本の未来に明日はない。

大切なのは、学歴の追求ではなく、実力の追求。
それができる社会システムを、早急に立ち上げる。
(学歴)というキャリアは、あくまでもあとから
ついてくるもの。
(学歴)を目的とする時代は、すでに終わっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 逆流的教育論 教育の自由化 日本の教育)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●あとから理由(無意識下の思考)

+++++++++++++++

何かを言う。
言ったときは、何も考えていない。
直感的というか、反射運動的に、言う。
言ったあと、理由を言う。
こういうのを「あとから理由」という。
わかりやすく言えば、「こじつけ」。

たとえば運転をしていて、道をまちがえたとする。
そのとき横に乗っていた人が、「この道じゃ、ない」と
言ったとする。
軽い気持ちで、そう言った。

が、すかさず、そのまちがえた人が、こう言い返す。
「うしろから車が来ていたから、そちらに
気を取られていた」と。

子どもの世界でも、似たような現象は、よく起きる。
たとえば子どもが、何かを不注意で落としたとする。
教師が、アッと声をあげる。
とたん、その子どもはこう反論する。
「先生が、こんなところにものを置いておくから悪い!」と。

+++++++++++++++

●こじつけ論

 人はなぜ、あとから理由を言うか。
あるいは自分の行為を正当化するために、あとからこじつけをすることは多い。
が、そういう言い方を、「ずるい」と決めてかかってはいけない。
脳には、どうやらそういう機能が、もとからあると考えてよい。

 たとえば(意識)。
この意識として働いている部分は、脳の中でも、数10万分の1程度と言われている。
たとえば今、あなたはパソコンの画面上で、私の書いた文章を読んでいる。
が、同時に、目の中には、無数の情報が、いっしょに入っているはず。

 画面の色、モニターの色、机の上に雑然と置かれたモノ、周囲の温度、光の強さ、
時計などなど。
そういったものを、あなたの目は同時にとらえている。
その中から、文字だけを選び、それを選んでいる。
意識している部分は、その部分だけ。
ごくかぎられた部分だけ。

●「うしろから車が……」

 その人は、実は道をまちがえる前から、無意識の世界で、車を見ていたのかも
しれない。
そして意識している脳とは別の脳、つまり無意識の世界で、「うしろから車が来たぞ」
「運転が乱暴だ」「気をつけろ」と考えていたかもしれない。
が、こうした無意識下での反応は、意識の世界までは、あがってこない。

 が、そこで道をまちがえた。
隣の席にいた人に、「道が違う」と指摘された。
とたん、無意識下で考えていたことが、意識の世界にあがってくる。
だからすかさず、こう言う。

「うしろから車が来ていたから、そちらに気を取られていた」と。

 先の子どもの例で考えるなら、その子どもはそのものを落とす前から、無意識の世界で
こう考えていたかもしれない。
「あんなところに先生は、ものを置いたが、先生は、あんなところにものを置いては
いけない」と。

●反対の現象

 たまたま昨日、こんなことがあった。

 自分の部屋を出るとき、何か、心がすっきりしなかった。
忘れ物をしたような気分が残った。
が、それが何だか、そのときはわからなかった。
しかし何かを、忘れた。
その意識は、軽く残っていた。

 居間で椅子に座っているときも、気になった。
が、わからなかった。
思い出せなかった。

 が、しばらくしてワイフが、テレビの番組の話をした。
とたん、それを思い出した。
テレビのリモコンを、うっかり自分の部屋にもっていってしまった、と。

 私は自分の部屋にあわてて戻り、リモコンをもってきた。

 このばあいは、「テレビのリモコンを自分の部屋にもっていってしまったから、
もってこなくてはいけない」という意識が、無意識の世界にとどまっていたことになる。

 このことと、先に書いた、(こじつけ)と対比させて考えてみると、無意識下の
心の反応が理解しやすくなる。

●頭の中のモヤモヤ

 私たちはいつも、同時に、意識の世界と無意識の世界で生きている。
意識している世界だけが、すべてではない。
むしろ無意識の世界のほうが、はるかに広い。
意識の世界で考えていることよりも、はるかに多くのことを考えている。

 もうひとつの例だが、たとえば私のばあい、何か書きたいテーマがあると、まず
それは頭の中で、モヤモヤとした感じとなって現れてくる。
そのときは何か、よくわからない。
今、書いているこの文章にしても、そうだ。
最初から、今、ここに書いていることがわかっていたわけではない。

 そこで何かを書き始める。
するとやがて、そのモヤモヤの正体がわかってくる。
輪郭が見えてくる。

 そこでこうも考えられる。

 実は私はこうしてものを書き始める前に、無意識の世界で、つまり別の脳が、すでに
ものを考え始めていた、と。
それがモヤモヤといった感じとなって、頭の中に充満する。

●無意識の世界

 今まで、私はあとから理由を述べたり、自分を正当化するために(こじつけ)を
する人を、ずるい人と考えていた。
しかしこの考え方は、ここで修正しなければならない。

 わかりやすく言えば、意識の世界だけが、すべての世界ではないということ。
私たちは同時進行の形で、無意識の世界でも、いろいろとものを考えている。
それが表に出てくるかどうかは、(きっかけ)の問題ということになる。
きっかけに応じて、無意識の世界の(思い)が、表、つまり意識の世界に飛び出して
くる。

 それがあとから理由になったり、こじつけになったりする。
ワイフがテレビの番組の話をしたとたん、リモコンのことを思い出したのも、そうだ。
あるいは、私がものを書くときもそうだ。

 反応としては、すべて、同じワクの中で考えてよい。

●付記

 私はよく「モヤモヤ」という言葉を使う。
ワイフと話していても、「頭の中がモヤモヤとしてきた」と言うなど。

 それが何だかそのときは、よくわからない。
無意識の世界の中にとどまったままの状態で、外に出てこない。
ちょうどリモコンを忘れて、自分の部屋を出たときのような気分である。
が、何かのきっかけで、その片鱗をつかむ。
たとえばこの文章を書き始めたときも、そうだ。

「あとから理由を並べて、自分を正当化するということは、よくある」と考える。
とたん、そのモヤモヤの中から、書きたいことが姿を現す。
あとはそれについて、一気に書きあげる。
時間的にすれば、20~30分程度。
この文章が、それである。

 つまり私のばあい、頭の中にモヤモヤがあると、それが気になってしかたない。
しかしそのモヤモヤを吐き出したときのそう快感は、何物にも代えがたい。
たとえて言うなら、(汚いたとえで恐縮だが)、長い間便秘で苦しんでいた腸が、
一気に便を排出したときのようなそう快感である。

 またそれがあるから、こうして文章を書く。
楽しい。
反対に、モヤモヤをそのままにしておくと、気分が悪くなる。
ときにイライラしてくることもある。

 で、今は、どうか?

 実は、もうひとつ、頭の中でモヤモヤしているものがある。
先日、「ケチ論」について書いた。
が、「ケチ」といっても、お金だけの問題ではない。
心の問題もあるし、時間の問題もある。
さらに言えば、命の問題もある。

 モヤモヤの中に、私はその片鱗を見つけた。

 ……ということで、つぎに、「ケチ論」について、補足してみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●本物のケチ

++++++++++++++++

金銭的な面でのケチというのは、わかりやすい。
またふつう「ケチ」というときは、金銭的な面での
ケチをいう。
しかしどうも、それだけではないようだ。
「ケチな人」について、思いつくまま、まず、書いてみる。

++++++++++++++++

●ケチな人

自分の時間を、自分のためだけに使う人。

自分の時間を、自分の欲望を満足させるためだけに使う人。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

自分の人生を、自分だけのために生きる人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

自分勝手でわがまま、他人の失敗を許さない人。

視野が狭く、欲望の虜(とりこ)になっている人。

自分の欲望を満足させるためにしか、頭を働かせない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

愛されることだけを考え、人を愛することを考えない人。

自分の得だけを考え、相手に得をさせることを考えない人。

失うことを恐れ、ものを失うと、ギャーギャーと大騒ぎする人。

相手の欠点を指摘しても、自分の欠点を指摘されることを許さない人。

小さな欲望を内へ内へと引き寄せ、外に向かって、冒険しない人。

来年の100万円より、明日の1000円を、大切にする人。

他人の失敗を酒の肴にして笑っても、自分では何もしない人。

臆病で、自分の勇気を外の世界で試さない人。

わずかな財産にしがみつき、自分は成功者といばる人。

無難な道だけを歩き、その道を他人に歩かせない人。

無私、無欲の世界を、知らない人。

自分の才能や健康を、自分だけのために使う人。

心よりも、金、モノを大切にする人。

自分より劣っている人には尊大ぶっても、自分よりすぐれている人が理解できない人。

自分の欲望を満足させるためだけに、時間と才能を使う人。

他人の幸福をねたみ、それを邪魔する人。

心にやさしさがなく、損得計算でいつも心が緊張状態にある人。

●心のケチ

 いくつか箇条書きにしているうちに、同じような内容のことを書いた部分もある。
しかし冒頭にも書いたように、「ケチ」と言っても、けっしてお金だけの問題ではない。
最悪のケチは、「心のケチ」ということになる。

 この中でも、たとえば、つぎのものが、それ。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

 わかりやすく言えば、心に余裕がない。
いつも緊張しているというか、ピリピリしている。
一方、若いころ、こんな人に出会ったことがある。

 その男性(75歳くらい)は、若いころから、無精子症だったという。
それについて、「オレにはね、種(=精子)がないんだよね」と。
で、「いつからですか?」と聞くと、「もう20歳になるころには、なかったよ」と。

 が、そんなはずはない。
その男性には、息子さんがいた。
そこですかさず私が、その男性に、「だってあなたには、40歳になる息子さんが
いるではありませんか」と言うと、その男性は、カラカラと笑った。
笑いながら、何度も、「いいじゃ、ねエ~カ、いいじゃ、ねエ~カ」と言った。

●寛大さ

 ケチの反対側にあるのが、「寛大さ」ということになる。
お金でもない。
モノでもない。
心である。

 で、あのマザーテレサは、「愛」を人に、惜しみなく与えた人という。

“It is not how much we do, but how much love we put in the doing.
It is not how much we give, but how much love we put in the giving.”
どれだけのことをしたかは、問題ではありません。
することについて、どれだけ愛を込めたかが大切なのです。
どれだけのものを与えたのかは、問題ではありません。
与えることに、どれだけの愛をこめたかが、大切なのです。

“I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only
more love”.
私はパラドックスを発見しました。
もしあなたが苦しいほどまでに人を愛するのなら、もう苦しみはありません。
そこにあるのは、さらに深い愛です。

 これ以上のことは、書く必要はない。
書けない。
マザーテレサがすべてを、語ってくれた。

つまりどこまで、人を許し、忘れるか。
その度量の深さこそが、その人の寛大さを決める。

 卑俗な言い方で申し訳ないが、これでモヤモヤが消えた。
書きたいことを吐き出した。
今日は、すばらしい一日になりそう。

2009年11月29日早朝

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 マザーテレサ パラドックス 心のケチ論)


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2009年12月29日火曜日

*Dass Mann

●『ただの人』(ハイデッガー)

++++++++++++++++++

つい先日、12月になったと思っていたら、
もう今月もおしまい。
つい先日、2009年になったと思っていたら、
もう今年もおしまい。
つい先日、21世紀(2001年)になったと思っていたら、
もう2010年。

こうして日々は、容赦なく過ぎていく・・・。
過去へ過去へと、失われていく・・・。
・・・と、だれしも考える。
・・・と、だれしも考えやすい。

が、そういう考え方は、あまりにも通俗的。
長い歴史の中で、人は、そのように考えるように、
なってしまった。
つまり「数字」と「人生」を重ね合わせるようになってしまった。
が、そう考えてはいけない。
つまり「過ぎていく」と考えてはいけない。
「失っていく」と考えてはいけない。
何も過ぎていかない。
何も失っていかない。

そこにあるのは、今という「現実」。
現実があるだけ。
数字に惑わされてはいけない。
2009年だろうが、2010年だろうが、
そんなことは、私たちには関係ない。
私たちは、今という「現実」を懸命に生きる。
それだけを考えて生きる。

つまりこういうばあい、「数字」というのは、あくまでも
便宜上のものでしかない。

それがわからなければ、野に遊ぶ鳥や動物を見ればよい。
人間以外に、年や年齢を気にして生きている鳥や動物が
いるだろうか。
年齢にしても、そうだ。
気にならないと言えば、ウソになる。
しかし年や年齢という「数字」など気にしてはいけない。
気にする必要もない。
私たちは、今の今も、そこにある「現実」に向かって、
まっしぐらに進んでいく。
その上で、こう考えればよい。

「ああ、もうすぐ2010年なのか」と。

(2009年12月28日記)

++++++++++++++++++++

●年齢

 一度できあがってしまった(常識)を打ち破るのは、容易なことではない。
その地域全体の人が、同じように考えている。
そういうところでは、なおさら容易なことではない。

たとえばG県の田舎へ行くと、今でも年長風を吹かしている人は多い。
家父長風を吹かしている人も多い
たった数歳年上というだけで、威張っている。
父親というだけで、威張っている。

 こうした意識の根底にあるのが、「数字」。
年齢という数字。
言うなれば、「金持ちほど偉い」という、金権教の信者と同じ。
本来意味のないものにしがみつきながら、意味があるものと思い込んでいる。
それが意味がないものと、気がつくこともない。
またそれを認めることは、自己否定につながる。
そういう生き方そのものが、その人の哲学になっている。
だからよけいに、しがみつく。

●年齢という数字

 何歳であっても、私は私。
あなたはあなた。
今年が何年であっても、今年は今年。
今は今。
大切なのは、今、何歳かということではなく、今まで生きてきた蓄積が、私やあなたの中に、どれだけあるかどうかということ。
それがあればよし。
が、それがないなら、あなたが何歳であっても、あなたは、「ただの人」(ハイデッガー)。
数字という年齢をとることだけなら、だれにだってできる。
つまり、繰り返しになるが、「数字」には、意味がない。
まったく意味がない。
まず、私たちは、それを知る。
しっかりと肝に刻み込む。

●幻想

 ・・・こう書くと、「老人の強がり」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分がこの年齢になってみて気がついたことがある。
老人ほど、人生の経験者」というのは、ウソ。
「人格者」というのは、さらにウソ。
まさに幻想。
地位や肩書きなどというのは、その人を飾るカラスの羽のようなもの。
イソップ物語に出てくる、あの話である。
一羽のカラスが、自分を美しく見せようと、自分の体を、いろいろな鳥の羽で飾ろうとする。
それと同じ。
自分では美しくなったつもりでいるかもしれないが、まわりの人たちは、それを見て、「バカ」と思う。
笑う。

 老人になればなるほど、愚劣になっていく人は、いくらでもいる。
またそういう人のほうが、多い。
だから私は、あえて言う。
「年齢」という「数字」には、意味はない、と。

●中身

 大切なのは、今という「現実」を、どう生きるているかということ。
今という「現実」の中で、自分がすべきことを、しっかりとしているかどうかということ。
そのために、今という「現実」を、しっかりと見据えているかどうかということ。
それには、若いも老いもない。
いくら若くても、死んだも同然。
そんな人は、いくらでもいる。
いくら年を取っていても、前向きに生きている人は、いくらでもいる。
大切なのは、中身。
中身で決まる。
その中身の追求こそが、「生きる」ということになる。

 ・・・とは言いつつ、「数字」はたしかに節目にはなる。
そのつど今の自分を、反省することはできる。
もし年数という「数字」、年齢という「数字」がなければ、生活に対する緊張感も半減する。
「数字」があるから、そこから緊張感が生まれてくる。
(もちろん何ら緊張感をもたないで生きている人も、多いが・・・。)
言うなれば、ウォーキング・マシンでいうタイマーのようなもの。
タイマーがあるから、「がんばろう」という気持ちがわいてくる。
「2010年も、がんばるぞ!」と。

●今という「現実」

 ともあれ、節目としての2009年は、もうすぐ終わる。
で、振り返ってみれば、あっという間に終わった。
・・・というより、「数字」がどうであれ、私は今までどおり、前に向かって懸命に生きていく。
今という「現実」は、(今まで生きてきたこと)の結果であり、同時に、(これから生きる人生)の出発点でもある。
生物学的に言うなら、私たちは常に死に、常に生き返る。
だったら今そこにある「現実」に向かって、まっすぐに生きていく。
「過去」とか「未来」とかいう言葉に、惑わされてはいけない。
過去など、どこにも、ない。
未来など、さらにどこにも、ない。

 だから・・・。
今、できることは、今、する。
今、すべきことは、今、する。
懸命にする。

【補記】

 「数字」にこだわる人は多い。
先に書いたように、たった数歳年上というだけで、年長風を吹かしたりする。
このタイプの人は、当然のことながら、年号や年数にこだわる。
たとえばある宗教団体では、入信年月日によって、信者の上下関係が決まるという。
年齢ではない。
信仰していた年数で決まる。
だから、50歳、60歳の人が、30歳、40歳の人に、頭をさげたりする。
「信心歴が長ければ長いほど、その人は、上」というわけである。

 バカげた考え方だが、信仰の世界に入ってしまうと、それがわからない。
同じように、年長風を吹かす人もそうだ。
言うなれば、『年齢教』というカルトの信者。
「年上」というだけで、威張っている。
「年下」というだけで、「下」にみる。
偉そうに説教をしたりする。
それがおもしろいほど、極端なので、思わず笑ってしまう。
 
 このタイプの人は、当然のことながら、「長生きすればするほど、人生の勝利者」というふうに考える。
「数字」が、価値判断の基準となる。
だから幸福感も、「数字」による。
しかも相対的。
隣の人よりも、金持ちであれば、幸福。
隣の人よりも、貧乏であれば、不幸、と。
ふつうはケチで、小銭にうるさい。
そういう点では、一貫性(?)がある。

が、誤解してはいけない。 
長生きすることが無駄というのではない。
お金を稼ぐことが無駄というのではない。
しかしどちらであるにせよ、「数字」に毒されると、「人生」そのものを無駄にする。
それに気がつけば、まだよい。
ふつうはそれにすら気づかないまま、無駄にする。
そういう人は、どこまでもあわれで、かわいそうな人ということになる。
ハイデッガーの説いた、「ただの人」というのは、そういう人をいう。

+++++++++++++

「ただの人」については、
たびたび書いてきた。
つぎのは2008年4月に
書いたもの。

+++++++++++++

【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a “man”, so-called “das Mann”. But nobody agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do toward the of the lives. Then how can we find it?

●生きているだけもありがたい

若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。

20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの人は退職、ということになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。

もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。

さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。

が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。

●老後の人間性

よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳をとれば、人間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。

その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。

が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。

●老化する脳

そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて行く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなったことすらわからない。

先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったときのこと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。

が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。

生きがいの喪失である。

●統合性と生きがい

この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。

では、どうあるべきか?

老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。

この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつなぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。

つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。

●統合性の内容

統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。

程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の次元がわかるようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。

「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれば、みなに忘れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。

「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。

しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?

真理の探求を例にあげてみる。

●感動のある人生

こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほど、感動する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。

しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。

「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。

さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。

肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命をたどることになる。

繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」と呼んだ。

「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ハイデッガー ただの人 das Mann 統合性)


林 浩司++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●教師と女生徒

+++++++++++++++++

数日前、どこかの高校教師が教え子と
性的関係をもったとかで、逮捕された。
高校教師の年齢は、36歳。
たびたびホテルで密会を重ねていたという。
で、それについて当の高校教師は、「まじめな恋愛
だった」と主張(=弁解?)しているという。
つまり(遊び)ではなく、(真剣)だった、と。

その男性教師に妻子がいたかどうかは、報道の
記事だけではわからない。
勤め先の高校を懲戒免職になったということは、
書いてあった。
懲戒免職は当然としても、しかしひょっとしたら、
その高校教師が主張しているように、その関係は
真剣なものであったかもしれない。
「女生徒のほうから、抱きついてきたりした」と
いうようなことも、書いてあった。

+++++++++++++++++++

●(女の子)が、「女」になるとき

 私は若いころから、幼稚園の年中児から、高校3年生まで、一日というサイクルの中で教えている。
最近は、生徒の数も減り、以前ほど密度は濃くはいが、それでも基本的には、今も同じ。
そういう教え方をしていると、子どもの変化が、やはり1日というサイクルの中で、わかるようになる。

 そうしたサイクルの中で、それまで(女の子)だった子どもが、「女」になっていく様子を、たびたび経験している。
何でもない女の子でも、性的な経験をしたとたん、「女」になる。
男の子については、わかりにくい。
しかし女の子は、それがよくわかる。
おもしろいほど(失礼!)、よくわかる。
艶(なまめ)かしくなるというか、強烈な(性)を外に向かって発するようになる。
「ウフ~ン」とか言って、体をよじらせたりする。

●積極的な女の子

 早い子どもで、中学2、3年生ごろからではないか。
最近は、携帯電話を介しての男女交際も活発になってきた。
もう少し低年齢化している。

 で、私も、若いころは、それなりに「男」に見られた時期もある。
何かを教えている最中に、足先で私の足を、ものほしそうに、こすりつけてきた女の子(中2)もいた。
電話で私を外へ呼び出した女の子(高2)も、いた。
いろいろあった。

 しかしいつもそれ以上に発展しなかったのは、相手の女の子のためというよりは、私自身に原因があった。
私は学生のころから、女性に対して、まったくと言ってよいほど、自信がなかった。
失恋したのも、大きな痛手となった。
加えて、私の世界では、ほんの小さな(うわさ)ですら、命取りになる。
いつも気がつかないフリをして、その場をやり過ごしてきた。

●油断

 で、私は何とか無事(?)、40数年を過ごしてきた。
「何とか」と書いたのは、そういった誘惑(?)と闘うというのは、簡単なことではない。
人間がもつ欲望というのは、それほどまでに強力。
あとは油断の問題。

 ただひとつ、事件になった教師と私のちがいと言えば、学校の教師にとっては、生徒と問うのは、向こうから来るもの。
私にとって生徒というのは、こちらから頭をさげて、来てもらうもの。
この(ちがい)が、そのまま(きびしさのちがい)となる。
それだけ。
だから今でも、「もしあのとき・・・」と考えるときがある。
言い換えると、私と先に書いた教師は、どこもちがわない。
この文章を読んでいるあなたとも、ちがわない。
あなたの夫とも、ちがわない。

 だからこういう記事を読んだりすると、その教師を責める前に、「自分でなくてよかった」と、ほっと胸をなでおろす。

●理性の力

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、そういう教師を擁護しているのではない。
逮捕され、懲戒免職になったところで、だれも同情しない。

が、その一方で、「だれがそういう教師を、石をもって打てるか」という問題もある。
マスコミは、鬼の首でも取ったかのように騒ぐが、ではそのマスコミに、それをする資格があるかといえば、それは疑わしい。
彼らがそういう事件とは無関係でいられるのは、そういう立場にいないから。
政治家とワイロの関係を考えてみれば、それがわかる。

先にも書いたように、人間の欲望というのは、それほどまでに強力。
理性の力でコントロールできるような、代物ではない。
ましてや、「女性との方から抱きついてきたりした」という状態であれば、防ぎようがない。

 ……では、どうするか?

 何度も繰り返すが、(1)厳罰主義を貫く。
(2)教師と生徒の個人的な接触の場を、なくす。

 この2点を徹底するしかない。
こうした対処法は、すでに欧米では、常識化している。
日本も早急に、欧米を見習うべきではないのか。

2009年12月28日月曜日

*Education in Frontline (dec. 28th)

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   28日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●BW教室から

●チン毛

 小学4年生の子どもたちが、ヒソヒソと何やら話している。
A君が言った。
「お前、本当に、生えているのか?」
B君「生えているよオ~」
A君「本当か?」
B君「まだ、産毛だけどね……」と。

 横には女児がいる。
前には、私というおとながいる。
先週、何かの拍子に、A君が、「生えている」と漏らしたのを、B君が覚えていた。

私「そういう話は、してはだめ。セクハラになる!」と。

が、それを横で聞いていたC子さん(女児)が、すかさず、こう言った。
「そんな話、学校で、たくさん聞いている!」と。

私「学校で?」
C「保健体育の時間に、先生が話してくれた」
私「先生が?」
C「そうよ……。教科書の最後に、絵が載っていた。私、あれを見て、気持ち悪かった…
…」
私「どうして、気持ち悪かったの?」
C「だってさア、アレが、ダラ~ンとぶらさがっていたもん」と。

 つまり男性のアレが、ダラ~ンとぶらさがっていたというのだ。

私「どうして、ぶらさがっていたら、気持ち悪いの?」
C「だってさあ、あんなふうに、ぶらさがっていないもん」と。

 それを聞いて、みなが、笑った。

男児たち「お前さア、見たことあるのかア? エッチだなア……」と。

私「あのなあ、ふつうは、ダラ~ンとぶらさがっている」
C「ギャー、気持ち悪い!」
私「ヘビじゃないんだからさア……。気持ち悪いというのは、おかしい」
C「ギャーア、ハハハハ」と。

 「性」というのは、不思議な二面性をもっている。
ただの器官としての(性)。
性欲を燃え上がらせるための(性)。
男も女も、この2つの間を、行ったり来たりしている。
その中から、無数のドラマが生まれる。
小学4年生というと、この二面性に気づき始める年齢ということになる。


●世界一すばらしい人

 年長児のクラスで、「世界でいちばん、すばらしい人はだれか?」という質問をしてみた。
当然、「ママ」とか、「お母さん」という言葉が返ってくるものとばかり思っていた。
が、いくら促しても、そういう言葉が出てこない。
中に、「アラン・ドロン」と答えた子どももいた。
しびれをきらして、私が、「お母さんだろ!」と言うと、みなが、「ゲーッ」と。

 これには驚いた。
うしろの席には、母親たちが、みな参観している。

私「あのなあ、そういうこと言うと、お母さんが悲しむよ」
子「だって、うちのママ、全然、かっこよくないもん」
私「あのなあ、そういうことを、人の前で言ってはだめ」
子「だって、本当だもん」と。

 つづいて、「世界で、いちばん大切な人はだれか」とも聞いてみた。
このときも、「パパ」とか、「お父さん」という言葉が返ってくるものとばかり思っていた。
が、やはり、そういう言葉が、いつまで待っても、出てこない。

私「あのなあ、パパだろ。パパが、いちばん大切だろ」
子「パパだってエ~。ゲラゲラ」
私「あのなあ、そういうことを言うと、君たちのパパは悲しむよ」
子「ママがいるから、いい……」
私「もう、お前たちは、いったい、何を考えているんだ。許さん!」
子「許さん……てえ?」
私「全員、おしおきだ」と。

 ……こうした様子は、YOUTUBEに収録しておいた。
興味のある人は、どうか、見てほしい。
子どもたちの明るい笑い声を、楽しんでもらえるはず。

(注)本当は、子どもたちの表情をカメラに収めたいのだが、このところ肖像権という
のが、うるさくなった。
私自身は、子どもたちにとっても、よい思い出になるから、カメラに収録しておきたい
のだが……。
この時期の子どもたちは、数か月単位で、表情も様子も、どんどんと変わっていく。

BW公開教室・11月号は、以下のアドレスから……。

http://bwhayashi.ninja-web.net/page009.html

どうか、お楽しみください。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●人がもつ悪魔性について

++++++++++++++++++

イギリスでは、『抑圧は悪魔を作る』という。
慢性的な抑圧状態がつづくと、ものの考え方が
悪魔的になることをいう。

ここでいう「抑圧状態」というのは、いわゆる
心が押し殺された状態をいう。
言いたいことも言えない。
したいこともできない。
不平や不満が押しつぶされ、心が石のようになる。
そういう状態をいう。

また「悪魔的」というのは、ズバリ、人間らしい心の崩壊をいう。
道徳の崩壊、倫理の崩壊につづいて、善悪感覚の
麻痺、心の温もりの消失、やさしさの欠落……とつづく。

で、ここが重要だが、一度、心の崩壊、つまり
心が壊れると、修復は、たいへんむずかしいということ。
私が知るかぎり、心が一度壊れた人が、そのあと、
再び人間らしい心を取り戻したという例はない。
何とかごまかして、それらしく取り繕う人はいるが、
基本的には、変わらない。

1920年代にあいついで見つかった、野生児を
例にあげるまでもない。

+++++++++++++++++++

●悪魔性

 「悪魔」とまではいかないにしても、「悪人」と呼ばれる人は多い。
しかし悪人といっても、心の問題だから、外からはわかりにくい。
「私は悪人です」というラベルを、張っているわけでもない。
さらにタチの悪いことに、このタイプの人ほど、仮面をかぶる。
(よい人)ぶる。

 だから私は、「悪魔」というよりは、「悪魔性」という言葉を使う。
「悪魔的」でもよい。
内に潜んで、外に顔を出さないから、「悪魔性」という。
その悪魔性は、ときとばあいに応じて、その人の心を裏から操る。

●反動形成

 この悪魔性は、0歳から4、5歳の幼児期前期までに作られると考えてよい。
それ以後も、『抑圧は悪魔を作る』という格言は正しいが、修復が不可能という
状態にはならない。
しかし0歳から4、5歳までに、一度この悪魔性が作られると、先にも書いたように、
以後、修復するのが、たいへんむずかしくなる。

 ひとつの例として、「嫉妬」をあげる。
たとえば下の子どもが生まれたとき、上の子どもが、赤ちゃん返りという症状を
示すことがある。

 ネチネチと赤ちゃんぽくなるのを、マイナス型とするなら、下の子どもに対して
暴力的になるのは、プラス型ということになる。
マイナス型とプラス型の両方を、あわせもつケースも少なくない。

 そのとき、上の子どもが、(よくできた、いい兄(姉))を演ずることがある。
これを心理学の世界では、「反動形成」という。
本当は下の子が憎くてしかたないのだが、その心を見抜かれると、自分の立場が
なくなる。
そこで上の子どもは、(いい兄(姉))という仮面をかぶることで、人の目をごまかす。

 こうした一連の反応は、本能的な部分で起こるため、本人にも仮面をかぶっている
という意識はない。
が、その裏で、上の子どもは、大きく心をゆがめる。
それがおとなになってからも、いろいろな形に姿を変えて、残る。

●欲求不満

 一般的に、長男、長女は、生活態度が防衛的になる。
「防衛的」というのは、ケチで、ため込み屋になりやすいということ。
嫉妬深く、用心深く、かつ疑り深い。

 親にすれば、「兄(姉)も弟(妹)も同じようにかわいがっています」ということ
になるが、兄(姉)にすれば、「同じように」という部分が、そもそも不満という
ことになる。
下の子どもが生まれるまでは、100%の愛情を受けていた。
それが下の子どもが生まれて、半分、あるいはそれ以下に減ってしまった。
それが不満ということになる。

 このばあいは、慢性的な愛情飢餓状態になる。

 言い忘れたが、「抑圧」といっても、2種類、ある。
外発的な抑圧(たとえば過干渉、過負担など)と、内発的な抑圧(愛情飢餓、
欲求不満)である。
どちらも子どもの心に対して、同じように作用する。

●ケチ

 この文章を読んでいる人で、長男、長女の人は多いと思う。
その中でも、ケチの人は、多いと思う。
ためこみ屋の人も、いる。
あのフロイトも、肛門期に、たとえば愛情飢餓の状態になると、ケチになりやすいと
説いている(※)。
しかしそういう人でも、その原因が、自分の乳幼児期にあると気がついている
人は少ない。
だいたい、自分がケチであるということにすら、気がついていない。

 たいてい長い時間をかけて、自分のケチを正当化してしまっている。
「私は倹約家だ」「質素こそ、生活の旨(むね)とすべき」「私は無駄づかいは
しない」と。
だからむしろ、「私はすばらしい人間」と思い込んでいる。
そしてそうでない人を、「浪費家」とか、「愚かな人」と、さげすんでいる。

 ため込み屋にしても、そうだ。
モノを捨てることができない。
そのため部屋中、家中、モノであふれかえることになる。
ひどくなると、ゴミまで、ため込むようになる。
もっともこの段階になると、心の病気がからんでくるため、単純に考えることは
できない。

 ともかくも、ケチな人は、自分がケチだとは思っていない。
その人がケチであるかないかは、そうでない人から見て、わかること。
自分では、わからない。
つまりそれくらい、自分を知ることは、むずかしい。
いわんや、悪魔性をや、ということになる。

●心の壊れた人

 以前、私にこんなことを話した人がいた。

 その人(男性、60歳くらい)は、車を運転しているとき、車をどこかの塀に
ぶつけたらしい。
そのため塀の一部というか、1メートル前後にわたって、大きく傷をつけてしまった。
それについて、その人は、得意げに、(「得意げに」だ)、こう言った。

 「林さん、あんなのいちいち謝りに行っていたら、かえって補修費を請求されるよ。
だからぼくはね、帰り道、わざと自分の車を、山の崖に当ててね、車に傷をつけた。
そうすれば、自分の車は、保険で直してもらえるからね」と。

 私が「それって、当て逃げになるのでは?」と言うと、その人は、こう言って
笑った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、あの家は、バーさんのひとり暮らしだから」と。

 一見すると、あっけらかんとして、朗らかな人に見えるが、心が壊れた人というのは、
そういう人をいう。

●私のばあい

 その人を非難しているのではない。 
私も、あの戦後のどさくさの最中に生まれ育っている。
道徳観も倫理観も、希薄な時代だった。
みなが、心のより所を見失い、「マネー」「マネー」と言い始めた時代だった。
家庭教育の「カ」の字もない時代だったと言っても、過言ではない。
少なくとも、今という時代と比較すると、そうだった。

 だから道路でお金やモノを拾っても、それはすべて拾った子どものものになった。
「交番へ届ける」という発想そのものが、なかった。
ある時期などは、大きな磁石にヒモをつけ、それで川の中をさらって歩いたこともある。
それで鉄くずを集めて、鉄くず商へもっていくと、結構なお金になった。
父が一日かかって稼ぐ金額より多く、稼いだこともある。
もっとも、それは悪いことではなかったが……。

 実は、先に書いた、塀に当て逃げした男というのは、私の子ども時代からの
知人である。
同じ価値観を共有している。
つまり相手の男は、私もまた同じような人間だろうということで、その話をした。
事実そのとおりだから、反論のしようがない。
反論のしようがないから、今、私はそういう自分の中に潜む悪魔性と、懸命に
闘っている。
私も油断すれば、ふとあのころの自分に戻ってしまう。

小ずるくて、インチキ臭い。
ウソは平気でつく。
人をごまかしても、罪の意識が薄い。

それを「たくましさ」と誤解する人もいるかもしれないが、ほんとうのたくましさは、
生き様の中で試される。
逆境の中で、どう生きていくか。
その生き様の中で試される。
ずる賢い人のことを、「たくましい人」とは、言わない。

●『抑圧は悪魔を作る』

 ここに書いたことだけでも、乳幼児期の子どもの育て方が、いかに重要なもので
あるかが、わかってもらえたと思う。
内的抑圧にせよ、外的抑圧にせよ、『抑圧は、悪魔を作る』。
そしてその悪魔性は、生涯にわたってその人の心の奥深くに住み、その人の心を
裏から操る。

 こうした悪魔性の恐ろしいところは、その悪魔性そのものよりも、悪魔性に毒される
あまり、大切でないものを大切なものと思い込んだり、大切なものを大切なものでない
と思い込んだりするところにある。
つまり時間を無駄にする。
積もり積もって、わずかな利益と交換に、人生を棒に振る。

●終わりに・・・

 先ほどケチについて書いた。
ひょっとしたら、あなた自身のことかもしれない。
あるいはあなたの周囲にも、そういう人がいるかもしれない。
が、私が知っている人の中には、家族よりも金儲けのほうが大切と考えている人もいる。
妻や子どもですら、自分の金儲けの道具くらいにしか考えていない。
私たちから見ると、実に心のさみしい人ということになるが、しかしそういう人を
だれが笑うことができるだろうか。

 この世界で、抑圧を受けていない人はいない。
いつも心のどこかで、じっと、それに耐えている。
毎日が、抑圧との闘いであると言っても過言ではない。
そのため、多かれ少なかれ、悪魔性は、だれももっている。
悪魔性のない人は、いない。

 大切なことは、その悪魔性に気がつくこと。
つぎに大切なことは、その悪魔性に毒されないこと。
これは人生を有意義に生きるための、大鉄則と考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
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ケチ論 はやし浩司 けち けち論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ケチ論

 ケチと倹約については、たびたび書いてきた。

+++++++++++++++++++++

子どもの自慰とからめて、人間の心は
乳幼児期に作られることを、再確認してほしい。

+++++++++++++++++++++

【子どもの自慰】

●自慰

 子どものばあい、慢性的な欲求不満状態がつづいたり、慢性的な緊張感がつづいたりす
ると、何らかの快感を得ることによって、それを代償的にまぎらわそうとする。代表的な
ものとして、指しゃぶり、髪いじり、鼻くそほりなどがある。

 毛布やボタンなどが手放せない子どももいる。指先で感ずる快感を得るためである。が、
自慰にまさる、快感はない。男児というより、女児に多い。このタイプの女児は、人目を
気にすることなく、陰部を、ソファの角に押し当てたり、直接手でいじったりする。

 そこでこういう代償的行為が見られたら、その行為そのものを禁止するのではなく、そ
の奥底に潜む原因、つまり何が、慢性的な欲求不満状態なのか、あるいはなぜ子どもの心
が緊張状態にあるかをさぐる。そのほとんどは、愛情不足もしくは、愛情に対する飢餓感
とみてよい。

 で、フロイトによれば、人間の行動の原点にある、性欲動という精神的エネルギー(リ
ビドー)は、年齢に応じて、体のある特定の部分に、局在するという。そしてその局在す
る部分に応じて、(1)口唇期(生後~18か月)、(2)肛門期(1~3歳)、(3)男根期
(3~6歳)、(4)潜伏期(6~12歳)、(5)性器期(12歳~思春期)というように、
段階的に発達するという。

 が、それぞれの段階に応じて、その精神的エネルギーがじょうずに解消されていかない
と、その子ども(おとな)は、それぞれ特有の問題を引きおこすとされる。こうした状態
を「固着」という。

 たとえば口唇期で固着を起こし、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、口唇
愛的性格、たとえば依存的、服従的、受動的な性格になるとされる。肛門期で固着を起こ
し、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、肛門愛的性格、たとえば、まじめ、
頑固、けち、倹約的といった性格になるとされる(参考、「心理学用語」渋谷昌三ほか)。
 
●代償行為

 男根期の固着と、代償行為としての自慰行為は、どこか似ている。つまり男根期におけ
る性的欲望の不完全燃焼が、自慰行為の引き金を引く。そういうふうに、考えられなくも
ない。少なくとも、その間を分けるのは、むずかしい。

 たとえばたいへん強圧的な過程環境で育った子どもというのは、見た目には、おとなし
くなる。まわりの人たちからは、従順で、いい子(?)という評価を受けやすい。(反対に、
きわめて反抗的になり、見た感じでも粗雑化する子どもも、いる。よくある例は、上の兄
(姉)が、ここでいう、いい子(?)になり、下の弟(妹)が、粗雑化するケース。同じ
環境であるにもかかわらず、一見、正反対の子どもになるのは、子ども自身がもつ生命力
のちがいによる。強圧的な威圧感にやりこめられてしまった子どもと、それをたくましく
はね返した子どものちがいと考えると、わかりやすい。)

 しかしその分だけ、どちらにせよ、コア・アイデンテティの発達が遅れ、個人化が遅れ
る。わかりやすく言えば、人格の(核)形成が遅れる。教える側からみると、何を考えて
いるかわかりにくい子どもということになる。が、それではすまない。

 子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長する。
このタイプの子どもは、反抗期にしても、反抗らしい反抗をしないまま、つぎのステップ
に進んでしまう。

 親によっては、そういう子どもほど、いい子(?)というレッテルを張ってしまう。そ
してその返す刀で、反抗的な子どもを、できの悪い子として、排斥してしまう。近所にそ
ういう子どもがいたりすると、「あの子とは遊んではダメ」と、遠ざけてしまう。

 こうした親のもつ子ども観が、その子どもを、ますますひ弱で、軟弱にしてしまう。中
には、自分の子どもをそういう子どもにしながら、「うちの息子ほど、できのいい息子はい
ない」と公言している親さえいた。

 しかし問題は、そのあとにやってくる。何割のかの子どもは、そのまま、生涯にわたっ
て、ひ弱で、軟弱なまま、陰に隠れた人生を送ることになる。しかし大半の子どもは、た
まったツケをどっと払うかのように、さまざまな問題を起こすようになる。はげしい反抗
となって現れるケースも多い。ふつうの反抗ではない。それこそ、親に対して、包丁を投
げつけるような反抗を、繰りかえす。

 親は、「どうしてエ~?」「小さいころは、あんないい子だったのにイ~!」と悲鳴をあ
げる。しかし子どもの成長としては、むしろそのほうが望ましい。脱ぎ方に問題があると
しても、そういう形で、子どもはカラを脱ごうとする。その時期は、早ければ早いほどよ
い。

 反抗をしないならしないで、子どもの心は、大きく歪(ひず)む。世間を騒がすような
凶悪事件を起こした子どもについて、よく、近所に住む人たちが、「どちらかというと目立
たない、静かな、いい子でしたが……」と言うことがある。見た目にはそうかもしれない
が、心の奥は、そうではなかったということになる。

●神経症

 話が大きく脱線したが、子ども自慰を考えるときは、こうした大きな視点からものを考
える必要がある。多くの親たちは、そうした理解もないまま、娘が自慰らしきことをする
と父親が、息子が自慰らしきことをすると母親が、あわてる。心配する。「今から、こんな
ことに興味があるようでは、この先、どうなる!」「この先が、思いやられる」と。

 しかしその原因は、ここに書いてきたように、もっと別のところにある。幼児のばあい、
性的好奇心がその背景にあると考えるのは、まちがい。快感によって、脳内ホルモン(エ
ンケファリン系、エンドルフィン系)の分泌をうながし、脳内に蓄積された緊張感を緩和
しようとすると考えるのが正しい。

 おとなでも、緊張感をほぐすため、自慰(オナニーやマスターベーション)をすること
がある。

 だからもし子どもにそういう行為が見られたら、その行為そのものを問題にするのでは
なく、なぜ、その子どもがそういう行為をするのか、その背景をさぐるのがよい。もっと
はっきり言えば、子どもの自慰は、神経症、もしくは心身症のひとつとして対処する。

 自慰を禁止したり、抑えこんだりすれば、その歪みは、また別のところに現れる。たと
えば指しゃぶりを、きびしく禁止したりすると、チックが始まったり、夜尿症になったり
する。そういうケースは、たいへん多い。

 そういう意味でも、『子どもの心は風船玉』と覚えておくとよい、どこかで圧力を加える
と、その圧力は、別のところで、べつの歪みとなって現れる。

 子どもの自慰、もしくは自慰的行為については、暖かく無視する。それを強く叱ったり
すると、今度は、「性」に対して、歪んだ意識をもつようになることもある。罪悪感や陰湿
感をもつこともある。この時期に、一度、そういう歪んだ意識をもつようになると、それ
を是正すのも、これまたたいへんな作業となる。
(はやし浩司 自慰 子供の自慰 オナニー 神経症 心身症 子どもの自慰 
はやし浩司 固着 口唇期 肛門期 男根期 子供の心理 心の歪み)

【補足】

 歪んだ性意識がどういうものであるか。恐らく、……というより、日本人のほとんどは、
気づいていないのではないか。私自身も、歪んだ性意識をもっている。あなたも、みんな、
だ。

 こうした性意識というのは、日本の外から日本人を見てはじめて、それだとわかる。た
とえば最近でも、こんなことがあった。

 私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦が、日本のどこかへ旅行をしてきた。
その旅先でのこと。どこかの旅館に泊まったらしい。その旅館について、友人の妻たち(2
人)は、こう言った。「混浴の風呂に入ってきた」と。
 
 さりげなく、堂々と、そう言う。で、私のほうが驚いて、「へえ、そんなこと、よくでき
ましたね。恥ずかしくありませんでしたか」と聞くと、反対に質問をされてしまった。「ヒ
ロシ、どうして恥ずかしがらねばならないの」と。

 フィンランドでは、男も女も、老いも若きも、サウナ風呂に入るのは、みな、混浴だと
いう。たまたまそのオーストラリア夫婦の娘の1人が、建築学の勉強で、そのフィンラン
ドに留学していた。「娘も、毎日、サウナ風呂を楽しんでいる」と。

 こうした意識というのは、日本に生まれ育った日本人には、想像もつかないものといっ
てもよい。が、反対に、イスラムの国から来た人にとっては、日本の女性たちの服装は、
想像もつかないものらしい。とくに、タバコを吸う女性は、想像もつかないらしい。(タバ
コと性意識とは関係ないが……。)

 タバコを吸っている若い女性を見ると、パキスタン人にせよ、トルコ人にせよ、みな、
目を白黒させて驚く。いわんや、肌を露出して歩く女性をや!

 性意識というのは、そういうもの。私たちがもっている性意識というのは、この国の中
で、この国の常識として作られたものである。で、その常識が、本当に常識であるかとい
うことになると、そのほとんどは、疑ってかかってみてよい。

 だいたいにおいて、男と女が、こうまで区別され、差別される国は、そうはない。今度
の女性天皇の問題にしても、そうだ。そうした区別や差別が、世界の常識ではないという
こと。「伝統」という言葉で、ごまかすことは許されない。まず、日本人の私たちが、それ
を知るべきではないだろうか。

 こう考えていくと、自慰の問題など、何でもない。指しゃぶりや髪いじりと、どこもち
がわない。たまたまいじる場所が、性器という部分であるために、問題となるだけ。……
なりやすいだけ。そういうふうに考えて、対処する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 はやし浩司 自慰 子供の自慰 自慰行為 オナ
ニー)

Hiroshi Hayashi++++++++Nov.09+++++++++はやし浩司

【私を知る】

●ためこみ屋(ケチ)

+++++++++++++++++++++

数日前、「ためこみ屋」と呼ばれる人について書いた。
どんどんと、自分の身のまわりに、ものをためこむ人をいう。
「ためこみ屋」というのは、私が考えた言葉ではない。
心理学の本にも出ている。
ちゃんとした言葉(?)である。
時に家中を、ものだらけにしてしまう。
ひどくなると、家の中や外を、ごみの山にしてしまう。

一般的に、ためこみ屋は、ケチである。
ためこみ屋、イコール、ケチ、ケチ、イコール、ためこみ屋と考えてよい。
が、一方的にケチかというと、そうでもない。
ときに突発的に寛大になることがある。
雰囲気にのまれて、大金を無駄にはたいたりする。
こうした現象は、排便論で説明される。

フロイト学説によれば、2~4歳の肛門期に、何かの問題があって、
そうなるという。
つまり乳幼児にとっては、便は(財産)。
その便をためるという行為が、ものをためるという行為につながる。
しかし同時に、排便の快感も味わう。
それが(突発的に寛大になる)という行為につながる。

もう少し詳しく説明すると、こうなる。
肛門期に、(1)親にきびしい排便のしつけがされた、(2)排便にたいして適切な
指導を受けなかった、(3)排便について、何らかのトラウマができた。
排便だけではない。

とくに注意したいのが、愛情問題。
たとえば下の子どもが生まれたりして、上の子どもが、愛情飢餓状態に
なることがある。
親は「平等にかわいがっています」と言うが、上の子どもにしてみれば、
それまであった(愛情)が、半分に減ったことが不満なのだ。
赤ちゃん返りは、こうして起きる。

そういう経験をした子ども(人)は、生活態度が、防衛的になる。
長男、長女がケチになりやすいという現象は、こうして説明される。

が、こうした現象を知ることによって、私たちは私の中の(私)を
知る手がかりを得ることができる。
あるいはそのヒントを得ることができるようになる。
ここでは、それについて考えてみたい。

++++++++++++++++++++

●私の知人

私は基本的には、ケチではない。
自分で自分をケチと思ったことはない。
しかしそんな私でも、ときどき落ち込んでいるようなとき、パッと
ものを衝動買いすることがある。
とたん、気分がスカッとする。
反対に、ものを衝動買いすることによって、ストレスを発散させることもある。
これも言うなれば、肛門期の名残(なごり)ということになる。

が、それが病的な状態にまで進んでしまうことがある。
だれがみても、(ふつうでないという状態)になることがある。
それがここでいう「ためこみ屋」ということになる。

私の知人に、こんな人(50歳くらい)がいる。
ケチの上に、「超」がつくような人である。
娘が結婚したが、その引き出物として、100円ショップで買ってきた
家庭用品を5~6個ずつ、箱に入れて渡していた。
(100円ジョップの商品だぞ!)

もちろん小銭に、うるさかった。
小さな菓子屋を経営していたが、妻などは、家政婦くらいにしか
考えていなかった。
すべての行為が、(金儲け)につながっていた。
またそういう目的のために、結婚したようなもの。
妻を使ったというより、こき使った。
そのため妻はやがて、うつ病になり、自殺未遂まで起こしている。

が、悲しいかな、それでその知人が、自分の愚かさに気づいたというわけではない。
妻は1か月ほど入院したのだが、入院費がもったいないという理由で、その知人は、
無理に退院させてしまった。

そのあとのことは知らないが、人づてに聞いたところでは、その知人はケチはケチだが、
ためこみ屋ではないとのこと。
家の中も、それなりに整頓されているとのこと。
しかしそれには、妻の努力があったようだ。
妻が、きれい好きだったということか。
加えてケチが転じて、その知人は、守銭奴になった。
何しろ子どもの学費すら、「もったいない」と言って、ケチったという。

これはあくまでも一般論だが、ためこみ屋の人は、ものを失うことに、強迫観念を
もっていると考えられる。
あるいは時間に対して、異常なまでに執着し、そのため生活そのものが時刻表的
になることが多い。
これは乳幼児期における、神経質な排便指導が原因と言われている。

●人は人

もっともそれでその知人がそれでよいというのなら、それでよい。
私のような他人が、とやかく言ってはならない。
またそんなことをすれば、それこそ、内政干渉。
しかしその知人は、私たちに大切な教訓を与えている。
つまり(私の中の私)である。

ためしにその知人に、こう言ってみたらどうだろうか。
「あなたはあなたですか? 
あなたはあなたの中の、あなたでない部分に
操られているとは思いませんか?」と。

その知人は、まちがいなく、その質問に猛反発するにちがいない。
「私は私だ。私のことは、私がいちばんよく知っている」と。

しかしそうでないことは、ここまで読んでくれた人にはわかるはず。
その知人もまた、(私であって私でない部分)に操られているだけ。
原因はわからないが、いろいろ考えられる。

その知人は、4人いる兄弟姉妹の長男。
昔からの菓子屋。
父親は、道楽三昧(ざんまい)の遊び人だった。
母親は、近所でも有名なほど、勝気な人だった。
そのため長男のしつけには、ことさらきびしかったようだ。
そういう家庭環境の中で、その知人は、その知人のようになった。

言い換えると、自分を知ることは、それほどまでに難しいということ。
しかし知ろうと思えば、知ることは、けっして不可能ではないということ。

●そこで(私)

もしこの文章を読んでいる(あなた)が、ここでいう「ためこみ屋」で、
ケチであるなら、(つまりそういう症状が出ているなら)、一度、自分の心の中を
のぞいてみるとよい。

あなたも、(私であって私でない部分)に気がつくはず。

そして……。

こうして(私)の中から、(私であって私でない部分)を、どんどんと取り除いて
いく。
ちょうどたまねぎの皮をむくように、だ。
そして最後に残った部分が、(私)ということになる。

ただそのとき、恐らくあなたは、(私)がほとんどないことを知るかもしれない。
(私)というのは、たまねぎにたとえるなら、たまねぎの中心部にある、細くて
糸のようなもの。
あるいはもっと小さいかもしれない。
つまりそれくらい、(私)というのは、頼りない。

●スズメはスズメ

だから、さらに……。
ためしに、庭に遊ぶスズメを見てみたらよい。
スズメたちは、恐らく、「私は私」と思って行動しているつもりかもしれない。
しかし北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
どこかで連携しているというわけでもないのに、まったく同じような行動パターンで、
同じように行動している。
もちろんどこかで共通の教育を受けたということでもない。
が、同じ。
私たち人間から見れば、同じ。
つまり(私)というものが、どこにもない。

同じように、アメリカ人も日本人も、人間は人間。
それぞれ「私は私」と思って行動しているが、視点を変えれば、まったく同じような
行動パターンで、同じように行動している。

スズメの中に(私)がないように、実は、私の中にも、(私)というのは、ほとんどない。
「まったくない」とは思わないが、ほとんど、ない。

●ある生徒

たとえばケチな人は、ケチであるということに気がつくか、どうか?
少し話はそれるが、私の生徒のことで、こんな経験をしたことがある。

ある生徒(高2男子)が、私にこう言った。
「生徒会の仕事をするようなヤツは、バカだ」と。
そこで私が理由をたずねると、こう言った。
「そんなことをしていたら、受験勉強ができなくなる」と。

私はその言葉を聞いて、しばらく考え込んでしまった。
たしかにその生徒の言っていることは正しい。
有名大学への進学を考えるなら、1時間でも、時間は惜しい。
生徒会の仕事をしていたら、勉強の時間が犠牲になる。
それはわかる。
しかしその生徒は、受験勉強という、もっと言えば、受験制度の中で、
踊らされているだけ。
もちろんその生徒は、それには気づいていない。
「私は私」と思って、自分で考え、自分で行動している。

さらに言えば、ではその生徒は、何のために勉強しているのか。
何のために高校へ通っているのか。
そういうことまで考えてしまう。

つまりこうした疑問は、そっくりそのままケチな人についても言える。
その知人は、何のためにお金をためているのか。
何のために生きているのか。
そういうことまで考えてしまう。

●私を知る

ではどうすれば、その知人は、どうして自分がそうであることを知ることができるか。
その方法はあるのか。
その知人のことを心配して、こう書いているのではない。
その知人は、その知人でよい。
しかしそれを考えることによって、私たちは自分を知る手がかりを得ることができる。
そのために、その方法を考える。

まず、その知人は、自分がケチであることを知らねばならない。
これが第一の関門。
しかし実際には、そういう人にかぎって、自分がケチとは思っていない。
「自分は堅実な人物」とか、「他人は浪費家」と思っている。
人生観、さらには哲学まで、その上に、作りあげてしまう。
さらに『類は友を呼ぶ』の諺(ことわざ)どおり、そういう人たちはそういう人たちで、
ひとつのグループを作ってしまう。

だからますます「私」がわからなくなってしまう。

言い換えると、私たち自身も、実は同じことをしているのに気がつく。
(私であって私でない部分)が中心にあって、そのまわりを、たまねぎの皮のような
ものが、つぎつぎと重なっている。
そしてつきあう相手も、自分にとって居心地のよい人を選ぶ。
たとえば冒頭に書いたように、私自身はケチではないから、ケチな人間が好きではない。
ケチケチした人のそばにいるだけで、息苦しさを覚えることもある。

しかしそれは本当の(私)なのか?

ケチに気づくことも難しいが、自分がケチでないことに気づくのも難しい。
どちらであるにせよ、どちらがよいということにもならない。
先の高校生について言うなら、現代という社会は、そのほうが、生きやすい。
たしかに「生徒会などをしているヤツは、バカだ」ということになる。

●作られる(私)

で、そういう自分であることに気がついたとする。
つぎに私たちは、いつ、どこで、どのようにしてそういう(私)ができたか、
それを知る。
これが第二の関門。

私はそのためには、精進(しょうじん)あるのみ、と考える。
昨日の私より、今日の私を賢くすることしか、方法はない。
人は、より賢くなって、それまでの自分が愚かだったことを知る。

専門家に相談するという方法もあるかもしれないが、そのレベルまで到達した
専門家をさがすのは、たいへん難しい。
へたをすれば、どこかのカルト教団の餌食(えじき)になるだけ。
占いや、占星術、さらにはスピリチュアルなどというわけのわからないものを、
押しつけられるだけ。

そこで精進。
つねに勉強し、つねに視野を広める。
手っ取り早い方法としては、心理学や哲学を学ぶという方法もある。
が、何よりも大切なことは、自分で考えるということ。
考える習慣を身につけること。
その習慣が、やがて(私)の発見へとつながっていく。

●(私)を知るメリット

もっとも(私)を知ったところで、それがどうした?、と考える人もいるかも
しれない。
(私)を知ったところで、直接、何らかの利益につながるというわけではない。
しかし(私)を知ることによって、私たちは、そこに生きる意味を見出すことができる。
それがわからなければ、反対に、もう一度、庭に遊ぶスズメたちを思い浮かべて
みればよい。

スズメはスズメ。
同じように、人間は人間。
もしそうなら、私たちはスズメと、どこもちがわないということになってしまう。
言い換えると、私たちは(私)を知ることによってのみ、生きる意味そのものを
知ることができる。
そこに生きる意味を見出すことができる。
(私)があって、私たちははじめて、生きることになる。
その実感を手に入れることになる。
そしてそれがわかれば、まさに『朝に知れば、夕べに死すも可なり』ということになる。
「朝に真理を発見できれば、夕方に死んでも悔いはない」という意味である。
もっと言えば、無益に100年生きるより、有益に1日を生きたほうが、よいという
意味である。

(私)を知るということは、そういうことをいう。

●再び、「ためこみ屋」

「ためこみ屋」の人にしても、「ケチ」と周囲の人にうわさされるほどの人にしても、
何らかの心のキズをもった人と考えてよい。
またそう考えることによってのみ、そういう人たちを理解することができる。
(あえて理解してやる必要はないのかもしれないが……。)

しかし先にも書いたように、あなたや私にしても、みな、何らかのキズをもっている。
キズをもっていない人は、いない。
ぜったいに、いない。

大切なことは、まずそのキズに気がつくこと。
そうでないと、あなたにしても、私にしても、いつまでもそのキズに振り回される
ことになる。
同じことを繰り返しながら、繰り返しているという意識すらない。
ないまま、また同じことを繰り返す。

しかしそれこそ、貴重な人生、なかんずく(命)を無駄にしていることになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 ためこみ屋 ケチ
ケチ論 肛門期 フロイト はやし浩司 私論 私を知る)
(09年1月19日記)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●富めるときは貧しく……

++++++++++++++++++++

今の若い夫婦を見ていて、かなり前から
ハラハラしていたことがある。
どの夫婦も、目いっぱいの生活をしている。
仮に給料が30万円あったとする。
すると30万円、ギリギリの生活をしている。

今の若い夫婦は、貧しい時代を知らない。
知らないから、日本は昔から豊かで、
またこの豊かさは、いつまでもつづくと思っている。

しかし今回の大不況で、それが土台から、崩れ去った。
つまり若い夫婦がもっている常識が、土台から
崩れ去った。

+++++++++++++++++++++

私たち団塊の世代は、極貧の時代から、世界でも類を見ないほど豊かな時代へと、
言うなれば、地獄と天国を、両方経験している。
その(坂)を知っている。

が、今の若い夫婦は、それを知らない。
「すべてのものが、あるのが当たり前」という生活をしている。
結婚当初から、自動車や電気製品にいたるまで、すべて、だ。
そのため、いつも目いっぱいの生活をしている。
30万円の給料があったとすると、30万円ギリギリの生活をしている。
大型の自動車を買い、子どもを幼稚園に預けながら、それを当然の
ことのように考えている。

そういう意味で、貧しい時代を知らない人は、かわいそうだ。
そこにある(豊かさ)に気がつかない。

私たちの時代など参考にならないかもしれないが、あえて書く。

私たち夫婦も、自動車を買った。
HONDAの軽。
水色の中古車だった。
それでもうれしかった。

つぎにアパートに移り住んだ。
そこでのトイレは、水洗だった。
それまでは、部屋の間借り。
ボットン便所だった。
トイレの水を流しながら、においのしないトイレに感動した。

幼稚園にしても、当時は約5%の子どもは、通っていなかった。
2年保育がやっと主流になりつつあった。
たいていは1年保育。

さらにクーラーがある。
数年前、あまりの暑さに耐えかねて、私の家にもクーラーをつけた。
しかし使ったのは、ほんの一か月足らず。
かえって体調を崩してしまった。

が、今ではそういう(貧しさ)そのものが、どこかへ行ってしまった。
今の若い夫婦は、この日本は昔から豊かで、そしてこの豊かさは、いつまでも
つづくものと思い込んでいる。
しかしそれはどうか?

私たちは(坂)を知っている。
貧しい時代からの豊かな時代への(坂)である。
その(坂)には、上り坂もあれば、下り坂もある。
だから下り坂があっても、私は驚かない。
またその覚悟は、いつもできている。
「できている」というよりは、豊かな生活を見ながら、その向こうにいつも、あの
貧しい時代を見ている。

が、今度の大不況で、その土台が、ひっくり返った。
崩れた。
これから先のことはわからないが、へたをすれば、10年単位の、長い下り坂が
つづくかもしれない。
が、私が心配するのは、そのことではない。
こういう長い下り坂に、今の若い夫婦が、耐えられるかどうかということ。
何しろ、(あるのが当たり前)という生活をしている。
もしだれかが、「明日から、ボットン便所の部屋に移ってください」と言ったら、
今の若い夫婦は、それに耐えられえるだろうか。
「大型の車はあきらめて、中古の軽にしてください」でもよい。
「幼稚園は、1年保育にしてください」でもよい。

悶々とした閉塞感。
悶々とした不満感。
悶々とした貧困感。

これからの若い夫婦は、それにじっと耐えなければならない。

……と書くと、こう反論する人がいるかもしれない。
「それがわかっていたなら、どうしてもっと早く、言ってくれなかったのか」と。

実は、私たちの世代は、常に、若い夫婦に対して、そう警告してきた。
聞く耳をもたなかったのは、若い夫婦、あなたがた自身である。
スキーへ行くときも、そこから帰ってくるときも、道具は宅配便で運んでいた。
それに対して、「ぜいたくなことをするな」と言っても、あなたがたは、こう言った。
「今では、みな、そうしている」と。

スキーを楽しむということ自体、私たちの世代には、夢のような話だった。
しかしそれが、原点。
もっとわかりやすく言えば、生活の基盤。
今の若い夫婦は、スキーができるという喜びすら、知らない。
さらに言えば、私たちの世代は、稼いだお金にしても、そのうちの何割かは、
実家に仕送りをしていた。
私のばあいは、50%も、仕送りをしていた。

が、今、そんなことをしている若い夫婦が、どこにいる?
むしろ生活費を、実家に援助してもらっている(?)。

この愚かさにまず気がつくこと。
それがこれからの時代を生きる知恵ということになる。

『豊かな時代には、貧しく生きる』。
これが人生の大鉄則である。
同時に、こうも言える。
『貧しい時代には、豊かに生きる』。

「豊か」といっても、お金を使えということではない。
「心の豊かさ」をいう。
その方法が、ないわけではない。
この大不況を逆に利用して、つまり自分自身を見直す好機と考える。
その心の豊かさを、もう一度、考え直してみる。

偉そうなことを書いたので、不愉快に思っている人もいるかもしれない。
しかし私は、心底、そう思う。
そう思うから、このエッセーを書いた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
豊かな時代 貧しい時代 豊かさの中の貧しさ 貧しさの中の豊かさ)

Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●貧しさの中の豊かさ

++++++++++++++++++

貧しいのに、損をしたことがないという人がいる。
損をすることに、たいへん警戒心が強い。
それこそビタ一文、他人のためには、出さない。
いや、出すこともあるが、いつも計算づく。
他人の目を意識したもの。
しかし小銭は出しても、いつもそこまで。
ケチはケチだが、自分ではケチとは思っていない。
「私は金がない」「私は賢い節約家」を口癖にする。

このタイプの人は、住む世界も小さいが、
それ以上に、心も狭い。
会って話をしていても、息苦しさを感ずるほど。

++++++++++++++++++

フロイト学説によれば、2~4歳の肛門期に何か問題があると、ためこみ屋、
守銭奴、さらにはここでいうケチになりやすいという。
生活態度が防衛的で、その分だけ、自分の小さな世界に閉じこもりやすい。

一方、人は、損をし、その損を乗り越えることで、自分の住む世界を大きく
することができる。
損をする……というよりは、損得を考えないで行動する。
できれば無私無欲で行動する。

そのもっともよい例が、ボランティア活動ということになる。
ためしにあなたの近くで、ボランティア活動を進んでしている人がいたら、
その人と話してみるとよい。
そうでない人には感じない、心の広さを感ずるはず。

たとえば私の近所に、MRさんという女性がいる。
年齢は50歳くらい。
折につけ、ボランティア活動ばかりしている。
そのMRさんの家へ行くと、いつもスイスから来た夫婦がきている。
親類ではない。
親類ではないが、MRさんは、その夫婦の子ども(幼児2人)のめんどうをみている。
無料というより、その夫婦の親になりきって、めんどうをみている。
ことの発端は、スイスから来た夫婦の妻が、病気になったことだそうだ。
それが縁でたがいに行ったり、来たりするようになった。
今ではスイスから来た夫婦が、MRさんの家に住みついたような形になっている。

ほかに自宅を外国人に開放し、個展を開いてやったりしたこともある。

ほかに休みになると、外国まで行って、着物の着付けのしかたを指導している。
ときにそれが数か月から半年単位になることもあるそうだ。
しばらく見かけないと思っていたら、「カナダに4か月、行ってきました」と。
平気な顔をして、そう言う。

そういう女性は、輝いている。
体の奥から、輝いている。

が、そうでない人も、多い。
こうして書くのもつらいほど、住んでいる世界が小さく、超の上に「超」がつくケチ。
息がつまるほど、ケチ。

ケチといっても、何もお金の問題だけではない。
自分の時間や、体力を使うことにも、ケチ。
損になることは、何もしない。
まったく、しない。

が、そういう人ほど、外の世界では、妙に寛大ぶったりする。
反動形成というのである。
自分の心を見透かされないように、その反動として、反対の自分を演じてみせる。
が、もともと底が浅い。
浅いから、どこか軽薄な印象を与える。
一本の筋のとおった、哲学を感じない。

では、どうするか?

いつか私は、『損の哲学』について書いた。
損をするのは、たとえば金銭的な損であればなおさらそうだが、だれだって、避けたい。
そう願っている。
しかし損に損を重ねていると、やがてやけっぱちになってくる。
で、ここが重要だが、やけっぱちになったとき、それに押しつぶされるか、
それを乗り越えるかで、その人の人生観は、そのあと大きく変わってくる。

押しつぶされてしまえば、それだけの人。
しかし乗り越えれば、さらに大きな人になる。
そういう意味で、私は若いころ、Tという人物と知り合いになれたのを、
たいへん光栄に思っている。

いつかTについて詳しく書くこともあると思うが、ともかくも、あの人は、
損に損を重ねて、あそこまでの大人物になった。
何かあるたびに、「まあ、いいじゃねエか」と、ガラガラと笑っていた。

言い忘れたが、Tというのは、「xxx」と読む。
若い人たちは知らないかもしれない。
当時、日本を代表する大作家であった。
何度か原稿を書くのを横で見ていたが、一字一句、まるで活字のようなきれいな
文字を書いていた。

……というわけで、損をすることを恐れてはいけない。
大切なことは、その損を乗り越えること。
金銭的な損であれば、それをバネにして、さらに儲ければよい。
時間的な損であれば、その分だけ、睡眠時間を削ればよい。
体力については、それを使って損をするということは、ありえない。
ゴルフ場でコースを回る体力があったら、近所の雑草を刈ればよい。

こうして損を乗り越えていく。
が、それができない人は、自分の住む世界を、小さくしていくしかない。
つまらない、どこまでもつまらない人間になっていくしかない。

50代、60代になってくると、そのちがいが、よくわかるようになる。
その人の(差)となって、表に出てくるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
損の美学 損論 損得論 ケチ けち ケチ論 フロイト 肛門期)
(09年2月記)


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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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2009年12月27日日曜日

*How to Inspire Children

● 外発的動機づけ

 無理、強制、条件、比較は、確実に、子どもから、やる気を奪う。一時的には効果があっても、あくまでも一時的。

 このように、外部から、子どもを脅したり、条件をつけたりして、子どもにやる気を引き出す方法を、外発的動機づけという。

 子どもに、本当にやる気を出せせるためには、子ども自身の中から、そのやる気を引き出さねばならない。

 このように、子ども自身が、自分でやる気を起こすことを、内発的動機づけという。

 子どもからやる気を引き出すためには、子ども自身を、その気にさせねばならない。イギリスの格言にも、『馬を水場につれて行くことはできても、水を飲ませることはできない』というのがある。最終的に、やる・やらないと決めるのは、子ども自身ということになる。

 ……と、いろいろな説があるが、やる気の問題は、私たち自身の問題でもある。

 子育てをしていても、がんばれるときと、がんばれないときがある。たとえば子どもが、何かのことで懸命になっている姿を見ると、親の私たちも、がんばろうという気持ちになる。

 しかし何もせず、ぐうたらしている子どもを見ると、やる気も、消える。「どうして、親の私が、子どものためにがんばらなくては、いけないのか」と。

 こうした心理は、子どもも、同じ。そこで、どうすれば、子どものやる気を引き出すことができるかということになる。

  大脳生理学の分野でも、子どものやる気は、大脳辺縁系の中の、帯状回がコントロールしているという説もある(伊東正男氏、新井康允氏ほか)。この部分が、大脳からほどよい信号を受け取ると、やる気を引き起こすという。もう少し具体的には、帯状回が、モルヒネ様の物質を放出し、それが脳内に、心地よさを引き起こすということか。つまり、大脳からのほどよい信号こそが、子どものやる気を決めるというわけである。

 この説に従えば、子どもからやる気を引き出すためには、子どもが何かをしたら、何らかの心地よさを、子ども自身が感じるようにすればよいということになる。

 その一つが、達成感ということになる。達成満足感と言いかえても、よい。「やったア!」「できたア!」という喜びが、子どものやる気を引き出す。つまりは、そういう喜びを、いつも子どもが感じるように指導する。

 方法として、つぎのことに注意したらよい。


● 成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子どもも楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わりには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネは、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロになるということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子どもの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子どもの問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れていき、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それがその子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸ばす。(役割形成)


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例としては、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえって症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らすのがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子どもの立ちなおりが、用意になる。


●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしているだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10~15%の子どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていやいや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだが……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年とくらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあった。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られるようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えることもある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもっているなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心得る。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 外発的動機付け 外発的動機づけ 内発的動機付け 内発的動機づけ 荷おろし症候群 荷下し症候群)

2009年12月26日土曜日

*Thinking Process in our Brains

【常識の壁】

●思考のパターン化(思考回路の形成)

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同じことを繰り返す。
繰り返していると、やがて脳みそは、やがてそれを
パターン化する。
パターン化して、そのまま脳の中に叩きこむ。
これを「自動化」という。

たとえばコップを手に取り、お茶を飲む。
そのとき、手でどのようにコップを握るか、
それをいちいち考えてする人はいない。
手は自動的に動き、コップを手にし、それを
口に運ぶ。
これが自動化である。

もう少し複雑な自動化としては、タイピングがある。
パソコンに向かって、キーボードを打つときを、思い浮かべて
みればよい。

私もこうして文字をパソコンに向かって、キーボードを
打つとき、どこにどのキーがあるか、いちいち考えて打たない。
短い言葉なら、指がまとめて動く。
「まとめて」というのは、たとえば「言葉」と打つとき、
何も考えなくても、「KOTOBA」と、一気に指が動く。
「K」「O」「T」……というように、ひとつずつの
キーを意識して打つわけではない。

だからふつう、口で話すよりも速く、文字を打つことができる。
この自動化のおかげで、私は、能率よく、かつ無駄なく、自分の
仕事をこなすことができる。

++++++++++++++++++++

●思考回路

 ある作業を繰り返していると、脳はそのパターンを認識し、それを記憶する。
脳の中に、一定の回路をつくる。 
そうした回路のうち、作業に関する回路は、手続きが記憶されるという意味で、「手続き記憶」とも呼ばれている。
わかりやすく言えば、頭が覚えるのではなく、体が覚える。
(本当は、頭が覚えるのだが……。)

 たとえばここに書いたタイピングにしても、最初は、一本の指だけでパチン、パチンと打つ。
が、慣れてくると、カチカチと打てるようになる。
さらに練習を重ねていくと、キーボードを見なくても、文字が打てるようになる。

同じような現象が、「思考」についても、起きる。

 たとえば何かの問題にぶつかったとしよう。
そのとき私たちは自分のもつ思考回路に沿って、ものを考え、問題を解決しようとする。
たとえば暴力団の人は、(暴力)という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。(多分?)
お金や権力のある人は、お金や権力という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。(多分?)
私のばあいは、ものを書くのが好きだし、「ペン」の力を信じている。
だからものを書くという手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。

 人それぞれだが、さらに中身をみていくと、興味深い事実に気がつく。

●常識(?)

 それぞれの人には、それぞれの(糸)が無数にからんでいる。
過去の糸、生い立ちの糸、環境の糸、教育の糸、人間関係という糸、などなど。
そういう無数の糸にからまれながら、その人のものの考え方、つまり常識ができあがっていく。

 アインシュタインは、「その人の常識は、18歳くらいまでに完成される」というようなことを書き残している。
「18歳」という年齢にこだわる必要はないが、かなり早い時期に完成されることは事実である。
そしてその常識は、一度形成されると、よほどのことがないかぎり、生涯に渡ってそのまま、その人のものの考え方の基本となる。

 たとえばY氏(67歳)は、ことあるごとに、「お前は、男だろが!」「お前は、長男だろが!」「何と言っても、親は親だからな!」とか言う。
そういう言葉をよく使う。
何か問題が起こるたびに、そう言う。
それがY氏の常識ということになる。
そうした常識は、ルーツをたどっていくと、かなり若いころまで、さかのぼることができる。
Y氏は、若いころ、「親絶対教」として知られる、M倫理団体の青年部員として活躍していた。

●思考回路への挑戦

 私が自分のもつ思考回路を疑い始めたのは、オーストラリアに留学していたときだった。
もちろんそのときは、「思考回路」という言葉すら、知らなかった。
そのことを書いたのが、つぎの記事である(「世にも不思議な留学記」(中日新聞発表済み))。

 この中で、私は、私たちがもっている職業観ですら、環境の中で作られていくものだということを書きたかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「外交官はブタの仕事」

 そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。許可をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。そこで私が「おめでとう」と言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕事だ。アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。

彼は「ブタ」という言葉を使った。あの国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識そのものが、日本人のそれとはまったくちがっていた。同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内で、と考えていたようだ。

また別の日、フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入るのか」と。「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、伝統ある軍隊になぜ入らない」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコ-ル、出世を意味していた。マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区があった。軍人の場合、下から二階級昇進するだけで、家つき、運転手つきの車があてがわれた。

またイソロクは、「白人と対等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英雄だった。これには驚いたが、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民地になったという暗い歴史がある。

 そして私の番。ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。「ヒロシ、もうそんなこと言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。私はことあるごとに、日本へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言っていた。ほかに自慢するものがなかった。

が、国変われば、当然、価値観もちがう。私たち戦後生まれの団塊の世代は、就職といえば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を選んだ。それが学生として、最良の道だと信じていた。しかしそういう価値観とて、国策の中でつくられたものだった。私は、それを思い知らされた。時まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 で、帰国後、私は大阪に本社を置く、M物産(当時は、東京と大阪の2本社制を敷いていた)に勤めるようになった。
そこで私は、ある日、こんな実験をした。
今にして思えば、それが、私が意識的にした最初の、思考回路への挑戦だったと思う。
私は自分の思考回路を、変えてみたかった。

 それについて書いた原稿が、つぎのもの。
少し余計なことも書いているが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の過去(心の実験)

 私はときどき心の実験をする。わざと、ふつうでないことをして、自分の心がどう変化するのを、観察する。若いときは、そんなことばかりしていた。私の趣味のようなものだった。

たとえば東京の山手線に乗ったとき、東京から新橋へ行くのに、わざと反対回りに乗るなど。あるいは渋谷へいくとき、山手線を三周くらい回ってから行ったこともある。

一周回るごとに、自分の心がどう変化するかを知りたかった。しかし私の考え方を大きく変えたのは、つぎのような実験をしたときのことだ。

 私はそのとき大阪の商社に勤めていた。帰るときは、いつも阪急電車を利用していた。そのときのこと。あの阪急電車の梅田駅は、長い通路になっていた。その通路を歩いていると、たいていいつも、電車の発車ベルが鳴った。するとみな、一斉に走り出した。私も最初のころはみなと一緒に走り、長い階段をかけのぼって、電車に飛び乗った。

しかしある夜のこと、ふと「急いで帰って、それがどうなのか」と思った。寮は伊丹(いたみ)にあったが、私を待つ人はだれもいなかった。そこで私は心の実験をした。

 ベルが鳴っても、わざとゆっくりと歩いた。それだけではない。プラットホームについてからも、横のほうに並べてあるイスに座って、一電車、二電車と、乗り過ごしてみた。

それはおもしろい実験だった。しばらくその実験をしていると、走って電車に飛び乗る人が、どの人もバカ(失礼!)に見えてきた。当時はまだコンピュータはなかったが、乗車率が、130~150%くらいになると電車を発車させるようにダイヤが組んであった。そのため急いで飛び乗ったようなときには、イスにすわれないしくみになっていた。

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。「早く楽になろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だが、愚かな生き方の代名詞にもなっている格言である。

その電車に飛び乗る人がそうだった。みなは、早く楽になりたいと思って電車に飛び乗る。が、しかし、そのためにかえって、よけいに疲れてしまう。

 ……それから35年あまり。私たちの世代は企業戦士とか何とかおだてられて、あの高度成長期をがむしゃらに生きてきた。人生そのものが、毎日、発車ベルに追いたてられるような人生だった。どの人も、いつか楽になろうと思ってがんばってきた。

しかし今、多くの仲間や知人は、リストラの嵐の中で、つぎつぎと会社を追われている。やっとヒマになったと思ったら、人生そのものが終わっていた……。そんな状態になっている。

私とて、そういう部分がないわけではない。こう書きながらも、休息を求めて疲れるようなことは、しばしばしてきた。しかしあのとき、あの心の実験をしなかったら、今ごろはもっと後悔しているかもしれない。

そのあと間もなく、私は商社をやめた。今から思うと、あのときの心の実験が、商社をやめるきっかけのひとつになったことは、まちがいない。

【補記2】

 やはり、「♪のんびり行こうよ……」は、いい歌です。私は何度も、この歌と歌詞に救われました。小林亜星さん、そしてそのコマーシャルを流してくれたM石油さん、ありがとう。

 そうそうそのM石油。一度、入社試験を受けたことがあるんですよ。学生時代の話ですが……。そのあとM物産に入社が内定したので、そのままになってしまいましたが……。ごめん!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 話は前後するが、私はこんな経験もした。
私の思考回路に、強烈な刺激を与えた事件だった。
同じく『世にも不思議な留学記』の中で、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●たった一匹のネズミを求めて(そのネズミになる)

●牧場を襲った無数のネズミ

 私は休暇になると、決まって、アデレ-ド市の近くにある友人の牧場へ行って、そこでいつも一、二週間を過ごした。「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場で、彼の牧場だけでも浜松市の市街地より広い。その牧場でのこと。

ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波がさざめくように、波うっていた! 見ると、おびただしい数のネズミ、またネズミ。……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹いるかいないかという程度。しかも、それぞれのネズミに個性があった。農機具の間で遊んでいるのもいたし、干し草の間を出入りしているのもいた。

あのパイドパイパ-の物語に出てくるネズミは、一列に並んで、皆、一方向を向いているが、そういうことはなかった。

 が、友人も彼の両親も、平然としたもの。私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そんなことをすれば、自然のライフサイクルをこわすことになるから……」と。農薬は羊の健康にも悪い影響を与える。こういうときのために、オーストラリアでは州による手厚い保障制度が発達している。

そこで私たちはネズミ退治をすることにした。方法は、こうだ。まずドラム缶の中に水を入れ、その上に板切れを渡す。次に中央に腐ったチーズを置いておく。こうすると両側から無数のネズミがやってきて、中央でぶつかり、そのままポトンポトンと、水の中に落ちた。が、何と言っても数が多い。私と友人は、そのネズミの死骸をスコップで、それこそ絶え間なく、すくい出さねばならなかった。

 が、三日目の朝。起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。友人に理由を聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向かったかのどちらかだ」と。伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、即座には信じられなかった。移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。ネズミには、どれも個性があった。

そこで私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々と掘り返してみた。が、ネズミはおろか、その死骸もなかった。一匹ぐらい、いてもよさそうなものだと、あちこちをさがしたが、一匹もいなかった。ネズミたちは、ある「力」によって、集団で移動していった。

●人間にも脳の同調作用?

 私の研究テ-マの一つは、『戦前の日本人の法意識』。なぜに日本人は一億一丸となって、戦争に向かったか。また向かってしまったのかというテ-マだった。が、たまたまその研究がデッドロックに乗りあげていた時期でもあった。あの全体主義は、心理学や社会学では説明できなかった。

そんな中、このネズミの事件は、私に大きな衝撃を与えた。そこで私は、人間にも、ネズミに作用したような「力」が作用するのではないかと考えるようになった。わかりやすく言えば、脳の同調作用のようなものだ。最近でもクロ-ン技術で生まれた二頭の牛が、壁で隔てられた別々の部屋で、同じような行動をすることが知られている。そういう「力」があると考えると、戦前の日本人の、あの集団性が理解できる。……できた。

 この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。それは私自身のことだが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。「一匹ぐらい、まったくちがった生き方をする人間がいてもよいではないか。皆が集団移動をしても、私だけ別の方角に歩いてみる。私は、あえて、それになってやろう」と。

日本ではちょうどそのころ、三島由紀夫が割腹自殺をしていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考回路 

 何度も書くが、思考回路そのものは、「悪」ではない。
思考回路があるからこそ、私たちは日常の生活の中で、ものごとをスムーズに作業し、ものごとをスムーズに考えることができる。
手続き記憶を考えてみれば、それがわかる。

 しかしこの思考回路は、ときとして、新しいものの考え方に対して、壁となって立ちはだかることがある。
新しいものの考え方を取り入れるのを、じゃまする。
それだけではない。
その返す刀で、新しいものの考え方を、「まちがっている」と排斥してしまうことがある。ときにはそれがその人の全人格的な思考回路になっていることがある。
たとえば「義理・人情」とかいう言葉をよく使う人がいる。
そういう人は、何かにつけて、この言葉に固執する。

 そういう人がそれまでの思考回路を変更するということは、その人自身が自分の過去、つまりそれまで生きてきた人生そのものを否定することに等しい。
その分だけ、衝撃が大きい。
だからよけいにはげしく、抵抗する。
「オレは、義理・人情に命をかける」と。

 ……というような経験は、日常生活の中でもよくする。

 そこで2つのことを提案したい。

(1) 常に新しい思考回路が組み込めるように、心の中に余裕(ROOM)を作っておくこと。
(2) 常に新しい思考回路をもった人と接する機会を、大切にすること。

 つまり自分がもつ常識は、絶対的なものでないと、いつもどこかでそれを疑う。
一度思考回路ができてしまうと、『類は友を呼ぶ』のことわざ通り、人は居心地のよい世界を求めて、集まる傾向がある。
暴力団の人は、暴力団の人どうし。
ドクターの人は、ドクターの人どうし。
さらには老人の人は、老人の人どうし、と。
が、これは思考回路を固定化するという面で、危険なことでもある。

 私は個人的には、子どもと接するのがよいと思うが、みながみな、そういう機会があるというわけではない。
子どもたちの思考回路は、いわば白紙の状態。
その(白紙)を見ながら、私たちは自分の思考回路に(色)がついていたり、あるいは(汚れていることを知ったりする。

 ……ということで、思考回路について、考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 思考回路 手続き記憶 手続き的知識 常識の破壊 常識への挑戦)

2009年12月25日金曜日

*Smart Kids

●頭のキレる子ども(Smart Kids)

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頭のキレる子どもと、そうでない子どもがいる。
どこがどうちがうか。
ひとつには、頭のキレる子どもは、スパスパと、
まるでかみそりで、ものを切るかのように、
ものを考える。
考えるというよりは、何かテーマを与えると、それに
食いついてくる。
切り込んでくる。

反応も早いが、反応の仕方も、的確。
無駄がない。

一方、そうでない子どもは、反応が鈍い。
頭の中で、思考が回り道をしているような感じになる。
モタモタしている。
テーマを与えても、「どうでもいい」といったふうに、
逃げてしまう。
先天的なちがい、つまり遺伝子のちがいによる部分もないとは
言わない。
それはある。
しかし結果としてみると、頭のキレる子どもは、
良循環の中で、ますます頭がキレるようになる。
そうでない子どもは、悪循環の中で、ますますそうでなくなる。

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●特徴

 頭のキレる子どもの特徴を並べてみる。
たまたま私の目の前に、何人かの恵まれた子どもたち(小学生)がいる。
今日は、ワークブックの日。
月に1回は、ワークブックの日と定めて、学校の教科書に沿った勉強をしている。
しかしどの子どもも、1~2年分、飛び級をして、勉強している。

 まず気がつくことは、(1)目つきが鋭いということ。
眼球は、その子どもの脳の中をのぞく、窓と考えてよい。
眼球の中をのぞけば、その子どもが頭のキレる子どもかどうかが、わかる。
動きに無駄がない。
時折、視線がキラッキラッと動くことがあるが、そのつどちゃんとした目的がある。

 一方、そうでない子どもは、目つきそのものが、どんよりとした感じになる。
無目的に視線を動かす。
フワフワしている。

 つぎに気がつくことは、(2)的確性。
頭のキレる子どもは、目的に向かって、まっすぐと切り込んでくる。
言い換えると、「集中力」ということになる。
その集中力がある。
同じ(10)の力をもっていても、(10)の力すべてを、一点に集中させる。
そうでない子どもは、力を拡散させてしまう。
つまり頭がキレるかどうかは、集中力で決まる。
さらに鋭い子どもになると、スキがない。
ツンとした緊張感に包まれる。

 が、何よりも重要なのは、(3)切り込みということになる。
だから「キレる」という言葉を使うようになったのかどうかは知らないが、あたまのよい子どもは、どんどんと切り込んでくる。
「AだからB……BだからC……CだからD……」と。
ちょうどドミノ倒しのドミノのように、ちょっとしたきっかけを与えるだけで、「ハイハイ、わかりました!」と言って、自分で理解してしまう。

 たとえばたまたま今、目の前の子ども(小3)が、こんな問題を解いている。

「体□、□草の□に入る漢字を書け」(小5国語ワークブック)と。

 答は、「質」。
だから「体(質)、(質)草」。

 しかし小学生が、「質草」という言葉を知っているわけがない。
で、私が「質だよ」と教えると、「質草って何?」と聞き返してくる。
そこで「お金を借りるとき、時計とかカメラを相手に渡すときがある。
それを質草というんだよ」と教えると、すかさず、「お金が返せなかったら、
取られてしまうの?」と。 

私「お金が返せなかったら、時計とかカメラは、取られてしまうよ」
子「だったら、損だ。だれかにカメラを売ったほうがいい」
私「でも、お金を返せば、カメラは戻ってくる」
子「古いカメラでもいいの?」
私「もちろん価値のあるカメラでないといけないよ。
相手の人は、お金を返してもらえないときは、そのカメラをだれかに売って、お金を取り戻すよ」
子「高く売れたら、残りは、返してもらえるの?」
私「それはない」
子「だったら、やっぱり、損だ」と。

 こういう会話が、ポンポンとつづく。

●習慣の問題

 先にも書いたように、(遺伝子のちがい)は、否定できない。
「頭のよい親の子どもは、頭がよい」。
しかしそれとて、こうも考えられなくもない。
つまり子どもは、日常的に頭のよい親に接している。
親の影響を受ける。
そのため思考するという習慣を、自然と身につける。

 たとえばこんなことがある。

 私は小学生の高学年になると、中学生のクラスなどにその子どもを置いて指導する。
上級生の(勉強ぐせ)を、もらうためである。
この方法は、きわめて効果的である。
イギリスでも、カレッジ制度の中で、それが応用されている。
……というより、イギリスのカレッジ制度を、私は、まねさせてもらっている。

 とくに頭のキレる中学生の間に置いたりすると、効果的である。
半年もすると、その上級生の勉強ぐせのみならず、思考力というか、思考回路そのものを身につけてしまう。
つまり頭がキレるようになる。

 このばあい、脳の神経細胞(シナプス)が発達したというよりは、頭の中に新しい回路(ニューロン)ができたと考えるほうが、自然である。
つまり神経細胞は、生まれながらにして数が決まっているが、回路(ニューロン)は、環境によって、できる。
環境の中で、子どもは自ら、それを脳の中に作っていく。

 私の書きたいことが、もうわかってもらえたと思う。
頭のよい子どもは、環境の中で、そうなっていく。
それが(考えるという習慣)につながり、さらにそれが良循環となって、頭のキレる子どもになっていく。

 たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、親がボケーッとした生活を、日常的にしていて、どうして子どもが頭のキレる子どもになるというのか。
子どもは日ごろの、何でもないような会話を通してでも、自らの思考回路を作っていく。
その逆の、極端な例が、野生児ということになる。
オオカミに育てられれば、オオカミ程度の思考力しかない子どもになる。
(野生児については、何度も書いてきたので、ここでは省略する。)

 簡単に言えば、子どもは、頭のキレる人に接すれば、頭のキレる子どもになる。
そうでなければ、そうでない。
その責任の第一は、親ということになる。
が、親だけではない。
もちろん教師も、その中に含まれる。
頭のキレる教師に接すれば、子どもは、頭のキレる子どもになる。
そうでなければ、そうでない。
(教師だからといって、みながみな、頭のキレる人ばかりではないぞ!)

 そういう意味では、「教育」というのは、ものを教えるだけが教育ではないということ。
むしろ(教えずして教える部分)のほうが、重要。
またそれから受ける影響力のほうが、子どもにとっては、大きい。
アインシュタインもこう書いている。

 『教育とは、学校で習ったことをすべて忘れてしまったあとに、残っているもの』と。

 ……ということで、頭のキレる子どもについて、書いてみた。
が、誤解しないでほしい。
教える立場のものが、いつも教えるのではない。
その点、年齢は、あまり関係ない。
私のばあい、頭のキレる子どもに接すると、反対に、私のほうが大きな刺激を受けることがある。
相手は子どもだから、知識や経験こそ少ないが、こと頭のキレについては、上下はない。
実のところ、私自身は、頭のキレる子どもと接しているのが、楽しい。
教えていても、おもしろい。
ときに教える立場であることを忘れて、子どもとのやりとりに夢中になることがある。

 ついでに……。
だからといって、私がどうと言うのではない。
しかしこういうことも言える。
「頭のキレる人には、頭のキレる人がわかる。
しかしそうでない人には、そうでない」と。
もっとわかりやすく言えば、「頭のよい人には、頭のよい人がわかる。
しかしそうでない人には、それがわからない」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 頭のよい子ども 頭のよい子供 頭のキレる子供 鋭い子供 子供の集中力)

【補記】

『バカな人には、利口な人がわからない。利口な人からは、バカな人がよくわかる』
『愚かな人には、賢い人がわからない。賢い人からは、愚かな人がよくわかる』
さらに、
『自分がより利口になってはじめて、それまでの自分がバカだったことを知る』
『自分がより賢くなってはじめて、それまでの自分が愚かだったことを知る』
また、逆にこうも言える。
『バカな人は、自分がバカということがわからない。利口な人は、自分がバカということがわかる』
『愚かな人は、自分が愚かということがわからない。賢い人は、自分が愚かということがわかる』

 こうして考えていくと、いかに自分のことを知るのがむずかしいかがわかる。
私はこのことを、どこか認知症ぽい女性(60歳くらい)と話していて気がついた。
バカでもわかるようなくだらない話を(失礼!)、その女性は、私にくどくどと説明した。
そこで私が、「私は、そんなバカではないと思いますが……」と言うと、突然、大声で私にこう言った。
「私だって、バカじゃ、ありません!」と。

 私は、「あなたが思っているようなバカではない」と言ったつもりだった。
またその女性を、バカと言ったわけではない。
が、その女性は「バカ」という言葉に、過剰に反応した。
自分がバカと言われたと、勘違いした。

 私も、母を見舞うついでに、老人ホームにいる老人たちを観察させてもらったことがある。
そのとき気がついたが、ああいった施設にいる老人で、自分をバカと思っている老人はいないということ。
一日中、「飯はまだかア!」と、叫んでいる女性(90歳くらい)もいた。
食事がすんだ直後でも、そう言って叫んでいた。

 そういう女性を、バカというのも、失礼なこと。
それは、よくわかっている。
しかしその女性は、私自身の近未来像。
私もやがて、その女性と同じようなバカになる。
まちがいなく、そうなる。

だから最後に、こうも言える。

『自分がバカになりつつあるときは、だれもそれに気がつかない』
『自分が愚かになりつつあるときは、だれもそれに気がつかない』と。

老後の恐ろしさは、まさに、ここにある。