2009年12月16日水曜日

*Lets talk with ourselves inside ourslves

●内面対話法(内的対話法)(自分を知るために)


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自分を知る……つまり「私」の中の深層部(=深層心理)を
知るためのひとつの方法として、「内面対話法」というのがある。
(この名称と方法は、私が考えた。)


簡単に言えば、頭の中に、別のだれか(=自分)を思い浮かべ、
その人と対話をすることによって、自分の心の
奥深くに潜む「私」を知るという方法である。


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【方法】


 静かな場所を選ぶ。
周囲は、暗いか、薄暗いところがよい。
目は閉じる。


 閉じると、あたりはぼんやりとした暗闇に包まれる。
その闇の向こうに、問いかける相手を想像する。
ぼんやりとした輪郭(りんかく)程度でよい。
その相手というのは、あなた自身でもよいし、別のだれかでもよい。
その相手に向かって、いろいろ、問いかけてみる。
問いかけながら、その答の中から、自分で気がつかなかったものを見つけていく。


●対話


 問いかける内容は、何でもよい。
何か、あなたが今、悩んだり、苦しんだりしていることがあれば、それについて問いかけるのがよい。


問:あなたはだれか?
問:あなたは何をしているか?
問:あなたは何をしたいか?
問:あなたの心をふさいでいるものは、何か?
問:どうして悩んでいるか?
問:どうすればよいと思っているか?
問:何かよい方法を、あなたは知っているか?
問:あなたはどこに原因があると思うか?


 頭の中で、その相手がどう答えるかについては、何も考えてはいけない。
相手がだまっていたら、そのままにしておく。


 こうして自分に問いかけながら、その中から自分を発見していく。


●私のばあい


 いきなりやっても、ザワザワとした感じになってしまう。
就寝前、あるいは寝起き後がよい。
で、私は、この方法を、いろいろな場所で試している。
「私の中の私」に、いろいろ質問している。
いつの間にか、そういう習慣が、身についてしまった。


「そこにいる君は、だれか?」……(ぼんやりとした黒い影、無言)
「君は、なぜ、そこにいるのか?」……(無言)
「気分は、どうだ?」(何度も問う)……「ぼくは何ともない。お前はどうだ?」
「君は、暗いな」……「見た感じで、決めつけるな」
「何か、しゃべれ」……(無言)
「会話は嫌いか?」……「わずらわしい」と。


●本当の私


 子どものころから、私は快活な子ということになっていた。
しかし本当の私は、混雑した場所が嫌い。
集団の中に入ると、すぐ神経疲れを起こす。
旅行でも、集団で行くよりは、少人数、
あるいはひとり旅のほうを、好む。


 そういう(私)が、こうした内面対話法の中でも、顔を出す。
私は、自分では騒々しい人間だと思うが、しかし騒々しいところが嫌い。
とくにあの女性たちがする、おしゃべりが、苦手。
これには私の母や姉が、たいへんなおしゃべりで、口うるさかったことが関係している。


●自己暗示


 内面対話法は、自己暗示法としても、応用できる。
暗闇の中の自分に語りかけることによって、深い、無意識の世界にいる自分を、作り変えることもできる(?)。
そういう論文は見たことはないが、理論的には、可能なはず。


「お前なア、取り越し苦労ばかりしているが、もう少し、他人を信用しろ」……(無言)
「このところ運動量が減っている。もっと運動しろ」……「そうだな」
「どういう運動が必要と考えているんだ?」……「上半身の運動かな」
「グチを言うなよ。見苦しいぞ」……「うん」
「何でも、先手、先手で、やるんだ」……(無言)
「Aさんには、親切にしてやれ。さみしがっているぞ」……(わかった)と。


 応用の仕方は、いろいろある。


 ほかにいくつか気がついた点をメモしておく。


●もう1人の私


意識している私を、「私A」とする。
内面対話法による私を、「私B」とする。
この私Aと、私Bは、明らかに価値観がちがう。
性質も性格も、ちがう。


 私Aは、ひょうきんで、冗談が好き。
おしゃべりで、社交的。
正義感が強く、議論好き。


一方、私Bは、あまり冗談を言わない。
カタブツで、まじめ。
冷静で、それでいて、面倒くさがり屋。


 恐らく人によって、私Aと私Bは、ちがう。
で、これはあくまでも私のばあいだが、私は基本的には、私Bのほうが、本当の私ではないかと思う。
しかし長い人生の間に、生きる技術として、私Aを身につけてきた。
またそういう環境で、生まれ育ってきた。


 ともあれ、だからといって、深刻に考える必要はない。
内面対話法といっても、心の遊びのようなもの。
適当にやって、適当に楽しめばよい。


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●(補記)信仰的連帯性


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この内面対話法というのは、信仰者と
言われる人たちは、日常的に経験している。
とくに仏教では、「心仏」という言葉を使う。
「仏は心の中にいる」と説く。


(本当は「いる」のではなく、「いると思っている」だけ
なのだが……。)


あるいはキリスト教徒も、同じようなことを言う。
ともに内面対話法を使い、自分の心の中の、仏や神と対話する。


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 仏教の世界には、「異体同心」という言葉がある。
「体は別々でも、心はひとつ」という意味である。
何かの対象物に向かって祈ったり、唱題していると、あたかもみなの心が、仏(神)の小心と融合し、一体化したかのように感ずることがある。
信仰の世界だけではない。
スポーツの世界でも、音楽の世界でもよい。
みなでひとつのチームを応援したり、コンサートで熱狂しているようなときを想像してみればよい。


こうして信仰者たちは、連帯性を感ずる。
が、この連帯性こそが、こうした信仰の最大の魅力ということになる。
こうした連帯性があるからこそ、信者どうしは、ときには親子以上、兄弟以上の関係を結ぶことができる。
連帯性を感じたとたん、孤独が癒される。
この魅力は、何ものにも代えがたい。


一方、教団側は、それを熟知しているから、それを利用して信者を教団に縛る。
「この教団から離れたら、地獄へ落ちますよ」と。
(実際、教団から離れた直後というのは、地獄へ落ちたかのような孤独を覚えることが多いが……。)


●宗教戦争


 ここにも書いたように、信仰的連帯性は、きわめて強固なものである。
その世界を知らない人には、想像もつかないような世界と言ってもよい。
古今東西、「宗教戦争」と言われるものが、どういうものであったかを知れば、それがわかるはず。
信者たちは、命をかける。
現在のイラク、アフガニスタンを例にあげるまでもない。
とても残念なことだが、アメリカ軍には、それがわかっていない。
つまりどれほど長く戦ったところで、アメリカ軍に勝ち目はない。
信仰的連帯性というのは、そういうもの。


●問題点


 思想は大脳の皮質部(連合野)を支配する。
しかし信仰は、その何10万倍もあるとされる、深層心理部を支配する。
信仰は理屈ではない。
信仰を理屈で考えても、意味はない。
そこで内面対話法ということになるが、信仰者のばあい、内在する(相手)というのは、彼らが信仰する神(仏)ということになる。


 ある男性(40歳くらい、当時)は、こう言った。
「古い寺で、徹夜で読経していたときのこと。
自分の周りで、何10人もの人たち(=死者たち)がいっしょに唱和してくれた」と。


 また別の女性(40歳くらい、当時)は、こう言った。
「私は目を閉じれば、そこにいつも神の存在を感じます」と。


 それぞれの人は、それぞれの思いをもって信仰の世界に入る。
両親の死や病気、家族や経済的な問題など。
だからそういう信仰を否定してはいけない。
そっとしておいてやることこそ、大切。


 問題という問題ではないかもしれないが、しかしときとして、人はそれを神や仏と錯覚することもある。
内面対話法には、そんな問題も隠されている。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 内面対話法 内面的対話法 私の中の私 私論)



Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司


●Sさんの死


 いろいろ世話になった、土建業者のSさん(男性)が、おととい亡くなった。
ここ数年、人工透析を受けていたというから、そのつど心配はしていたが、まさかこんなに早く亡くなるとは思っていなかった。
年齢は確かではないが、いつだったか、私より、5~6歳若いということを知った。
それによれば、享年、52~3歳ということになる。


 暴飲暴食、それにヘビースモーカー。
最後に世話になったとき、Sさんは、緑内障か何かで、左目が見えなかったのではないか。
小路から大通りに右折して出るとき、左側から来た車と、あやうく衝突にしそうになったことがある。
以来、あれこれ理由をこじつけ、Sさんの運転する車には、乗らないようにしていた。
が、亡くなってみると、それもよい思い出。


私の代わりに、息子に、今日は葬儀に行ってもらった。


●アルツハイマー病の、初期の初期症状


 アルツハイマー病の初期の、そのまた初期症状があるという話は、よく聞く。
医学書にも、そういう症状が載っている。
そのひとつが、心の余裕がなくなってくること。


 ふつうなら笑ってすますようなころでも、このタイプの人にはそれができない。
こんなことがあった。


 ワイフがXさん(当時64歳、女性)に、何かのことで、3桁の番号を話したときのこと。
ワイフは、「347」と言った。
そのときXさんは、「347……ね」と言いながら、自分の手帳にメモを取った。
が、ワイフが見ると、それに、「473……」と書こうとしていた。
そこでワイフが、Xさんに、「473ではないですよ。347……」と言いかけたところで、Xさんは、激怒。
血相を変えて、こう怒鳴ったという。


「わかっています。今、3と書こうとしていたところです!」と。


 アルツハイマー病の初期の人が、取り繕(つくろ)いや、つじつま合わせがうまくなるというのは、よく知られている。
しかしその前の段階として、怒りっぽくなるということは、あまり知られていない。
怒りっぽくなるというよりは、心の余裕がなくなり、ささいなミスを指摘されただけで、おおげさに激怒したりする。


 ふつうなら、(「ふつう」という言葉は適切ではないかもしれないが)、笑ってすます。
「ハハハ、3でしたね。ハハハ」と。


 この「ハハハ」と笑ってすます部分が少なくなってくる。
言い換えると、心の余裕をもつということによって、認知症になるのを防げるのではないか。
たとえばジョーク。
ジョークの通ずる人は、それだけ心が広い人ということになる。
同時に、少なくとも、アルツハイマー病の心配はない人ということになる。


 今日、車の中で、ワイフとそんな会話をした。


●気候


 冬になるたびに、こう思う。
「浜松に住むようになって、よかった」と。


 浜松、とくに浜名湖周辺は、日本でも鹿児島県につぐ、気候の温暖な地域として知られている。
真冬でも、緑の木々が美しい。
種類も豊富。


 が、その一方で、地球温暖化(Global Warming)が、問題になっている。
この浜松も、温暖な気候が、ますます温暖化している。
ときどき喜んでいていいのかなあと、迷う。


 しかしここは楽天的にとらえるしかない。
心配しても、しかたない。
暖かい冬、おおいに結構、と。
(無責任な発言で、ごめん!)。


 そんなこともあって、今日、ワイフと西区引佐町にある、城山公園に登ってみた。
12月16日。
今ごろ、この浜松では、紅葉が、もっとも美しくなる。
全国的にみれば、もっとも遅い秋。
マガジンに載せる写真を、30枚近く撮った。


●どこかのバカ


 どこかのバカ知事が、こう言ったそうだ。
「(現在の)福祉制度は、障害者を生き延びさせるだけだ」と。


 こういうバカがいるから、日本はよくならない。
またこういうバカを選ぶ選挙民がいるから、日本はよくならない。
この発言を裏から読むと、「障害者は、早く死ね」という意味になる。
小学生だって、わかる。
小学生だって、こんなバカなことは言わない。


 が、当の知事は、「辞任しない」と、がんばっているという。


●天皇の政治利用


 一方、中央では、天皇の政治利用が問題になっている。
民主党のOZ氏の要請で、天皇が急きょ、中国の副首相と会うことになった。
それについて、宮内庁の長官が、苦言を呈した。
これにOZ氏が反発。
右翼も、反対の立場で、反発。
自民党も反発。
何だか、三つ巴(どもえ)、四つ巴の混乱を呈してきた。


 しかし肝心の天皇の意思が見えてこない。
つまりこのあたりに、日本の天皇制度の最大の問題が隠されている。


 私たちは一度だって、天皇の意思を確かめたことがない。
本当の気持ちを聞いたことがない。
「天皇という、日本国にあって最高の要職を務めていただけますか?」と。
そういうことを一度もしないでおいて、「天皇は幸福なはずだ」と決めつけてかかるのも、どうか?


 「政治的利用」とは言うが、天皇だって1人の人間。
いろいろな思いもあるだろう。
意見もあるだろう。
政治的な意見も、当然、それに含まれる。


 言論の自由とはいうが、天皇には、言論の自由すらない。
それがいかに窮屈なものであるかは、私にはわかる。
わかるから、もし私なら、「天皇か、それとも自由か」と問われれば、迷わず、「自由」を選ぶ。
そのことは、以前、『世にも不思議な留学記』の中でも書いた。


 会いたければ会えばよい。
会いたくなければ、会わなくてもよい。
「1時間くらいなら、何とか……」ということになるかもしれない。
「このところ、体の調子がよくありませんから……」ということになるかもしれない。
天皇がどういう判断をしても、私たちは天皇を支持する。

 それが民主主義の精神ではないのか。


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『世にも不思議な留学記』より


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王子、皇太子の中で【27】


●VIPとして


 夏休みが近づくと、王子や皇太子たちは、つぎつぎと母国へ帰っていった。もともと彼らは、勉強に来たのではない。研究に来たのでもない。目的はよくわからないが、いわゆるハクづけ。


 ある国の王子の履歴書(公式の紹介パンフ)を見せてもらったことがある。当時は、海外へ旅行するだけでも、その国では重大事であったらしい。それには旅行の内容まで書いてあった。「○○年X月、イギリスを親善訪問」とか。


 一方、オーストラリア政府は、こうしたVIPを手厚く接待することにより、親豪派の人間にしようとしていた。そういうおもわくは、随所に見えた。いわば、先行投資のようなもの。一〇年先、二〇年先には、大きな利益となって帰ってくる。


 私のばあいも、ライオンズクラブのメンバーが二人つき、そのつど交互にあちこちを案内してくれたり、食事に誘ってくれたりした。おかげで生まれてはじめて、競馬なるものも見た。生まれてはじめて、ゴルフコースにも立った。生まれてはじめて、フランス料理も食べた。


●帝王学の違い?


 私たち日本人は、王子だ、皇太子だというと、特別の目で見る。そういうふうに洗脳されている。しかしオーストラリア人は、違う。イギリスにも王室はあるが、それでも違う。少なくとも「おそれ多い」という見方はしない。


 このことは反対に、イスラム教国からやってきた留学生を見ればわかる。王子や皇太子を前にすると、「おそれ多い」というよりは、まさに王と奴隷の関係になる。頭をさげたまま、視線すら合わせようとしない。その極端さが、ときには、こっけいに見えるときもある(失礼!)。


 で、こうした王子や皇太子には、二つのタイプがある。いつかオーストラリア人のR君がそう言っていた。ひとつは、そういう立場を嫌い、フレンドリーになるタイプ。もうひとつは、オーストラリア人にも頭をさげるように迫るタイプ。アジア系は概して前者。アラブ系は概して後者、と。


 しかしこれは民族の違いというよりは、それまでにどんな教育を受けたかの違いによるものではないか。いわゆる帝王学というのである。たとえば同じ王子でも、M国のD君は、ハウスの外ではまったく目立たない、ふつうのズボンをはいて歩いていた。かたやS国のM君は、必ずスリーピースのスーツを身につけ、いつも取り巻きを数人連れて歩いていた。(あとでその国の護衛官だったと知ったが、当時は、友人だと思っていた。)


●王族たちの苦しみ


 私は複雑な心境にあった。「皇室は絶対」という意識。「身分差別はくだらない」という意識。この二つがそのつど同時に現れては消え、私を迷わせた。


 私も子どものとき、「天皇」と言っただけで、父親に殴られたことがある。「陛下と言え!」と。だから今でも、つまり五六歳になった今でも、こうして皇室について書くときは、ツンとした緊張感が走る。が、それと同時に、なぜ王子や皇太子が存在するのかという疑問もないわけではない。ただこういうことは言える。


 どんな帝王学を身につけたかの違いにもよるが、「王子や皇太子がそれを望んでいるか」という問題である。私たち庶民は、ワーワーとたたえれば、王子や皇太子は喜ぶハズという「ハズ論」でものを考える。しかしそのハズ論が、かえって王子や皇太子を苦しめることもある。


 それは想像を絶する苦痛と言ってもよい。言いたいことも言えない。したいこともできない。一瞬一秒ですら、人の目から逃れることができない……。本人だけではない。まわりの人も、決して本心を見せない。そこはまさに仮面と虚偽の世界。私はいつしかこう思うようになった。


 「王子や皇太子にならなくて、よかった」と。これは負け惜しみでも何でもない。一人の人間がもつ「自由」には、あらゆる身分や立場を超え、それでもあまりあるほどの価値がある。「王子か、自由か」と問われれば、私は迷わず自由をとる。

 私はガランとしたハウスの食堂で、ひとりで食事をしながら、そんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

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