2009年12月6日日曜日

*"Up", we are od young men!

●12-6

●前向きに生きる

 数日前も、義兄と語り明かす。
話が尽きない。
生き様が前向きなのが、よい。
話を聞いていても、あきない。
楽しい。

 義兄がほかの老人たちと異なる点は、過去の話、つまり回顧的な話をしないこと。
「昔はよかった」式の話は、しない。
そのかわり、「先週は長野までドライブした」とか、「バイクで、磐田市まで行ってきた」
とか、そういう話をする。
言い忘れたが、義兄は、今年、75歳。
後期高齢者ということになる。
また75歳くらいから、人は、自分が老人であることを自覚するようになるという。

 が、義姉のほうは、義兄の心配ばかり。
義兄は、脳梗塞の経験もある。
自分では、「前科者」と言っている。
その長野へドライブへ行った際にも、突然、左目が見えなくなってしまったという。
で、その日は予約していた旅館には泊まらず、そのまま浜松まで帰ってきてしまった。
時間にすれば、3~4時間の距離である。
「虚血性の何とかだったよ」と、義兄はその話をしながら、カラカラと笑った。
義姉は、「無茶ばかりする……」と。

●後ろ向きな女性

 一方、歳は同じくらいなのだが、こんな女性もいる。
部屋中にお札様を張り、サイフの中には、ヘビの皮を入れているという。
そうすれば、お金が入ってくるという。

 話すことと言えば、先祖の自慢話か、あの世の話。
「私も、もうすぐお迎えが来ますから……」と。
今にも死にそうな、か細い声で、そう言う。
そう言いながら、他人の同情を買う。
が、私は同じ言葉を、もう20年前から聞いている。

 そういう老人の話は、おもしろくない。
聞いていても、つまらない。
要するに、その女性の言っているのは、グチ(愚痴)。
グチは、その人を小さく、見苦しくする。

●良循環vs悪循環

 2人の老人を頭に浮かべながら、どこがどう違うかを、考える。
簡単に言えば、「前向き」と「後ろ向き」。
子どもでも、新しいことに、つぎつぎと挑戦する子どもがいる一方で、何かにつけ、
逃げ腰の子どももいる。
どちらの子どもが伸びるかということになれば、今さら言うまでもない。

 同じように、老人でも、外向きな人もいれば、内向きな人もいる。
義兄は、その外向きな人ということになる。
例にあげた女性は、内向きな人ということになる。

 どちらであるにせよ、他人の目など気にすることはない。
しかし前向きに生きている人のところには、みなが集まっていく。
後ろ向きに生きている人からは、みなが遠ざかっていく。
それがともに、良循環、悪循環となって、その人の周りの世界を作っていく。
どちらが好ましいかということになれば、これも、今さら言うまでもない。

●回顧性

 「今を生きる」という言葉には、いろいろな意味が含まれる。
「今を懸命に生きる」という意味のほか、「今を大切にする」「今がすべて」などなど。
もうひとつ、「過去に縛られない」という意味も含まれる。

 心理学でいう「回顧性」というのは、「過去にしばられること」をいう。
が、誤解しないでほしい。
過去を懐かしんだり、思い出したりするのは、何も悪いことではない。
それはそれ。
しかしその過去にしばられてはいけない。
が、それには2つの意味がある。

 ひとつは、過去のいやな思い出を引きずること。
もうひとつは、過去の栄華や名誉を引きずること。
先日も、こう言った女性がいた。

 「私の父は、(父の)実家を出るとき、実家から財産分けをしてもらっていない」と。
70歳近い女性が、いまだにそういう話をする。
しかも70年とか、80年も前の話である。

あるいはこのタイプの人は男性に多いが、退職前の肩書きを引きずっている人もいる。
先日も、小さなレストランで、若い店員に向かって、怒鳴り散らしていた男性がいた。
「ライスは、大盛りと言っただろがア!」と。

 その威張り方が、時代劇に出てくる侍のようで、あきれるというよりは、おもしろ
かった。
ワイフはその男性を見ながら、こう言った。
「きっとあの人は、退職前は、役人か何かで、威張っていたのよ」と。 

 どうであるにせよ、過去にしばられるのは、よくない。

●映画『カールじいさん、空を飛ぶ』

 ……ということで、昨夜は、映画『カールじいさん、空を飛ぶ』という映画を
見てきた。
カールじいさん、イコール、前向きな老人(?)。
星は5つの、★★★★★。
つまり前向きに生きるエネルギーを分けてもらうために、その映画を見てきた。
昨夜(12月5日)封切りの、ピカピカの新品映画。

 おまけに1か月有効のフリーパスが手に入ったから、映画は見放題。
ハハハ。
映画を見ながら、「人生、こうでなくちゃア」と、カールじいさんに、乾杯!
時間さえ許せば、毎日でも劇場に足を運んでやる!
カールじいさんに負けないぞ!

 とういうことで、迷っていたが、それに今夜、いよいよ最先端の「i7/64ビット」
パソコンを注文をする。
納期は、2週間先の、12月22日とか。

●パソコン

 で、そのパソコンの話。

 釣り師が、よい釣り竿を求めるように、
ゴルファーが、よいクラブを求めるように、
私は、よいパソコンを求める。

 が、ひとつ、ほかの趣味とは大きく異なる点が、ある。
釣り竿は、魚を釣るため。
クラブは、飛距離を伸ばすため。
正確さも、重要なポイントとなる。

 が、パソコンには、そういった目的がない。
たとえば私は、パソコンを、もっぱら文章を書くために使う。
しかしパソコンがあるから、文章が書けるわけではない。
いくらよいパソコンがあっても、よい文章が書けるとはかぎらない。
パソコンを打つ練習をしたからといって、よい文章が書けるようになるわけではない。

おかしなもので、パソコンに向かった瞬間というのは、頭の中は真っ白。
パソコンに向かったからといって、書きたいことが浮かんでくるわけではない。

 そういう意味では、パソコンは、昔の作家たちが使ったペン、もしくは
筆のようなもの(?)。
わかりやすく言えば、「道具」。
が、それでも、私はよいパソコンを求める。
いくつか、ポイントがある。

(1) 性能がよいこと
(2) キーの感触がよいこと、などなど。

 何よりも大切なのは、相性。
「これはいい」と思ったパソコンが、よい。
その相性が合わなければ、それまで。
手で触れるのも、おっくう。
文章そのものが、頭の中に浮かんでこない。

 が、ここでいつも問題が起こる。
以下は、ノートパソコンの話。

「いいパソコン」と思って使い始めても、使いにくくて、あきてしまうことがある。
たとえば私のばあい、ENTER・キーが小さいと打ちづらい。
ENTER・キーの右横にキーがあると、使いづらい。
最近では、タッチパッドの感度がよすぎて、指を近づけただけで、勝手に
反応してしまうものがあった(M社のミニノート)。
ほかのは、感度を調整したりできるのだが、それはできなかった。
だからそのまま、生徒の1人にあげた。

 最近では、キーの感触のみならず、表面加工の仕様にも気を使っている。
ツルツル・テカテカしているのは、指先がすべり、何かにつけて使いにくい。
これには、人それぞれに好みがあるようだが……。

 ……とまあ、こんなふうにして文章を叩いていると、やがて頭の中の、作文モードに、
スイッチが入る。
とたん、書きたいことが、ドドーッと出てくる。
あとは、それを文章に仕上げていく。

 私にとって、パソコンというのは、そういう道具をいう。

●親が原因

 話がぐんと、生臭くなるが、子育ての話。

 親自身が、子どもの成長を台無しにするという例は、多い。
その子どもには、能力もある。
力もある。
せっかくそういう能力に恵まれながら、親自身が、子どもの方向性をつぶしてしまう。
そういう例は、多い。

 印象に残っている子どもに、R君(小学生)という子どもがいた。

 頭もよかった。
性格もよかった。
好奇心も旺盛で、放っておいても、学校でもトップクラスを走るような子どもだった。
しかし母親が悪かった。
完ぺき主義で、神経質だった。
学校でするテストにしても、満点(すべて正解)でないと、許さなかった。
毎日子どもにノルマを課し、そのノルマを果たしていないと、夜中でも、子どもを
ベッドから引きずり出して、それをさせていた。

 小学3、4年生ごろまでは、それでも何とか(いい子?)で過ごした。
が、そのころを過ぎると、母親を避け始めた。
会話も途絶えがちになった。
しかし母親は、それを許さなかった。
学校へ行き、担任の前で、さめざめと泣いて見せた。
「息子が、学校であったことを話してくれなくなったア」と。

 こうしてR君は、混乱し始めた。
もし母親に、「自我の同一性」についての片鱗でも、知識の中にあったら、子どもの
接し方も大きく違っただろう。
が、母親は無知、それに無学だった。

 小学6年生のときには、地域のサッカークラブに属していたが、母親の命令で、
それをやめさせられてしまった。
毎週日曜日は、叔父と海釣りに行っていたが、それもやめさせられてしまった。
「受験勉強に専念するため」と。

 が、異変はすぐ起きた。
R君は、母親の前では、相変わらず従順な息子を装っていた。
しかし勉強といっても、フリ勉。
時間がかかるだけで、勉強は、ほとんどはかどらなかった。
それでも持ち前の知的能力とまじめさで、そこそこの成績をあげていた。
が、このあたりでもいちばんという、進学校には力が足りなかった。
そのため母親は、R君を毎日のように、叱りつづけた。

R君のケースは、しかし、けっして特異な例ではない。
親が、子どもの伸びる芽を自ら摘んでしまうというケースは、多い。
その上、タチの悪いことに、親にその自覚がない。
ないから、反省するということもない。
無理に無理を重ねながら、悪循環を繰り返す。

 やっと頭が動き始めた。
今日も、こうして始まった。
2009年12月6日、日曜日。
今日の予定はとくにない。

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