2009年12月21日月曜日

*Boys of Rebellious Age

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   21日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【反抗期の子ども】

●思春期前夜

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目の前に、2人の小学生がいる。
2人とも、小学4年生。
伸びやかに育っている。
言いたい放題のことを言い、
したい放題のことをしている。
恵まれた子どもたちである。
頭はよい。
作業も早い。

子どもは、小学3年生ごろを境にして、
思春期前夜へと入る。

今日はワークブックの日。
2人も、黙々と、自分のワークブックに
取り組んでいる。
私はこうしてパソコンを相手に、パチパチと
文章を書いている。

このところ新型インフルエンザの流行で、
ほかの子どもたちは、外出禁止。
そのため、今日の生徒は2人だけ。

が、この時期の子どもは、どこかピリピリして
いる。
それだけ精神が緊張していることを示す。

(緊張)と(弛緩)。
それがこの時期の子どもの、精神状態の特徴
ということになる。

++++++++++++++++++

●揺り戻し

この時期の子どもは、あるときは(おとな)に
なり、また別のときは(幼児)になる。
精神的に不安定になる。
私はこの幼児ぽくなる現象を、勝手に、「揺り戻し現象」
とか、「揺り戻し」とか、呼んでいる。

(先日、書店で、ある「子育て本」を読んでいたら、
同じことが書いてあったのには、驚いた。
こうした揺り戻しについて書いたのは、私が最初で、
また私以外に、それについて書いた人を、私は知らない。
著者はどこかのドクターだったが、そのドクターは、
どこでそういう情報を手に入れたのだろう?
余計なことだが……。)

この時期にさしかかるころ、その揺り戻しの振幅が大きくなる。
たとえば、幼児的な扱いをすると不機嫌になる。
が、そうかと思っていると、反対に、自から幼稚ぽくなったりする、など。
が、幼児でもない。
ふとしたきっかけで、生意気な態度をとったりする。
ふてくされたり、キレたりする。
あるときは、幼児に、またあるときはおとなに……。
その振幅の幅が、大きくなる。

が、年齢とともに、やがて振幅は小さくなる。
幼児ぽくなることが少なくなり、やがて思春期へと入っていく。
(独特のあのピリピリとした緊張感は、そのまま残るが……。)

親の側からすると、幼児に扱ってよいのか、
あるいはおとなとして接したらよいのか、わかりにくくなる。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

●幼児とおとなのはざまで……

 2人の小学生には、その揺り戻しが顕著に現れている。
「典型的な症状だ」と、先ほども、ふと思った。
その特徴を箇条書きにしてみる。

(幼児の部分)(緊張感が弛緩しているとき)
○プロレスごっこや鬼ごっこをしてやると、ネコの子のようにじゃれたり、
笑って喜んだりする。
○機嫌がいいときには、幼稚っぽいしぐさとともに、おとなに甘えたり、
体をすり寄せてきたりする。

(おとなの部分)(心が緊張状態にあるとき)
○何かのことで注意したり、まちがいを指摘したりすると、露骨にそれを
嫌い、不機嫌な態度に変わる。
○おとなとして扱うことを求め、(子どもぽい)遊びなどをすることについて、
敏感に反応し、拒絶したりする。

 が、全体としてみると、1時間の間だけでも、つねに(緊張)と(弛緩)を
繰り返しているのがわかる。

●情緒不安

 よく誤解されるが、情緒が不安定になるから、「情緒不安」というのではない。
精神の緊張状態がとれないから、「情緒不安」という。
精神が緊張している状態へ、不安感や心配ごとが入ると、それを解消
しようとして、精神状態は、一気に、不安定になる。
不機嫌になったり、反対に、カッと怒り出したりする。

つまり「情緒不安」というのは、あくまでもその結果でしかない。
また緊張した状態が、「ピリピリした状態」ということになる。

 そのことは、それだけ触覚が、四方八方に伸びていることを示す。
何を見ても気になる。
こまかいところを見る。
ささいなことを気にする。
そのため、それまで気がつかなかったことについても、気がつくようになる。
そのターゲットになるのが、父親であり、母親ということになる。
学校では、教師ということになる。

●血統空想

 ところであのフロイトは、「血統空想」という言葉を使った。
自分の母親を疑う子どもはいないが、父親を疑う子どもは多い。
「ぼくの(私の)本当の父親は、別にいるはず」と。

 それまでは絶対と思っていた父親や母親が、絶対でないことに気づく。
完ぺきでないことに気づく。
幼児のある時期には、子どもは、「この世のすべてのものは、親によって
作られたもの」と思い込む。
それが思春期前夜に入ると、その幻想が、急速に崩れ始める。

 そこで子どもは、自分がもっている父親像は母親像の修正にとりかかる。

●無謬性

 「親だから、こうであるべき」「こうあってほしい」という(期待)。
つまり親に無謬性(むびゅうせい:一点のミスも欠点もないこと)を求める。
が、その一方で、親が本来的にもつ欠陥にも、気づき始める。
それはそのまま、(怒り)となって子どもを襲う。

子どもは、(期待)と(怒り)の間で、混乱する。

 ある女性(60歳)は、自分の母親(90歳)が、車の中で小便を漏らした
だけで、混乱状態になってしまったという。
それでその母を、強く叱ったという。
その女性にしてみれば、「母親というのは、そういうことをしないもの」と
思い込んでいたようだ。
つまり(小便を漏らす)という行為そのものが、自分が抱く母親像と矛盾して
しまった。
それが(混乱)という精神状態につながった。

 このタイプの女性はかなりマザコンタイプの人の話と考えてよい。
自分の中の混乱を、怒りとして、母親にぶつけていただけということになる。
つまり似たような現象が、思春期前夜の子どもに起こる。

●血統空想

 フロイトが説いた「血統空想」も、似たような現象と考えてよい。
子どもは、完ぺきな父親を期待する。
しかし現実の父親は、その完ぺきさとは、ほど遠い。
頼りがいがなく、だらしない。
不完全さばかりが、気になる。

 そこで子どもは葛藤する。
「父親というのは、完ぺきであるべき」という思いと、現実の父親の受容との
はざまで、もがく。
それがときとして、「ひょっとしたら、あの父親は、ぼくの(私の)本当の
父親ではないかもしれない」という思いにつながる。
それが「血統空想」ということになる。

 このことは生徒としての子どもを見ていても、わかる。
「教えてやろうか」と声をかけると、「いらない!」と言って、それに反発する。
が、その一方で、親には、「あの林(=私)は、教え方がへた」とか言って、
不満を述べたりする。
簡単な問題だから、私が「自分で考えてごらん」と言っても、怒り出す。
ふてくされる。
が、教えてやろうと身を乗り出すと、「ウッセー!」と言って、怒り出す。
目の前の2人の子どもたちも、そうだ。

 私の中に完ぺきさを求めつつ、完ぺきでない私を知ることで、混乱する。
それに反発する。
「反抗期」というのは、それをいう。

そうした子どもの心理が、手に取るように私にはよくわかる。

●親を拒否する子どもたち
 
 言うなればこの時期は、つづく思春期と合わせて、嵐のようなもの。
子どもの立場で考えてみよう。

それまでは親の言うことに従っていれば、それですんだ。
親が、自分の進むべき道を示してくれた。

 が、その親がアテにならなくなる。
親の職業を、客観的に評価するようになる。
そのため、ますます親がアテにならなくなる。

 幼児のころは、「おとなになったら、パパ(ママ)のような人になりたい」
と思っていた子どもでも、この時期になると、「いやだ」と言い出す。
中学生でも、「将来、父親(母親)のようになりたくない」と考えている子どもは、
60%~80%はいる※1。
いろいろな調査結果でも、同じような数字が並ぶ。

●自己の同一性

 この思春期前夜の「混乱」を通して、子どもは、自分のあるべき(顔)を模索する。
そしてそれがやがて、自己の同一性の確立へと、つながっていく。
「私はこうあるべきだ」というのが、(自己概念)。
が、現実の自分がそこにいる。
その現実の自分を、(現実自己)という。

 これら両者が一致した状態を、「自己の同一性」(アイデンティティ)という。
子どもというより、思春期における青少年にとって、最大の関門といえば、
自己の同一性の確立ということになる※2。

 それが確立できれば、それでよし。
そうでなければ、混乱した状態は長くつづく。
30歳を過ぎても、「私さがし」をしている青年は、いくらでもいる。

●動じない

 話を戻す。

 2人の子どもは、相変わらず、黙々と自分に与えられた作業をこなしている。
どこかピリピリしている。
が、そこは暖かい無視。
私の度量を試すような行動も、みられる。
わざと怒らせようとする。
しかし私は動じない。

 生意気な態度。
ぞんざいな言葉。
投げやりな姿勢。
ふてくされた顔。
しかしその間に見せる、あどけない表情。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

 重要なことは、けっして子どものパースに巻き込まれてはいけないということ。
この時期の子どもは、ギリギリのところまでする。
ギリギリのところまでしながら、その一線を越えることはない。
叱ったり、怒ったりしたら、こちらの負け。
言うべきことは言いながら、あとは暖かい無視で子どもを包む。
 
 嵐はいつまでもつづくわけではない。
やがて収まる。
そのころには、この子どもたちも、立派な青年になっているはず。
2人の子どもの横顔を見ながら、そんなことを考えた。

●補記

 反抗期に反抗期特有の症状を示さないまま、思春期を過ぎた子どもほど、
あとあといろいろな心の問題を起こすことがわかっている。
とくに親が権威主義的で、威圧的だと、子どもは反抗らしい反抗もしないまま、
思春期を過ぎる。
それから生まれる不平、不満、不完全燃焼感は、心の別室に抑圧され、時期をみて、
爆発する。
「こんなオレにしたのは、テメエだろオ!」と。

 「抑圧感」が大きければ大きいほど、爆発力も大きくなる。
(あるいはそのまま一生、爆発することもなく、なよなよした人生を送る子どもも
少なくない。)

 ちょうど昆虫がそのつど殻を脱皮して、成長するように、人間の子どももまた、
そのつど成長の殻を脱皮しながら、成長する。
殻を脱ぐときには脱ぐ。
脱がせるときは、脱がせる。

 そういうことも頭に入れて、子どもは、一歩退いたところから見守る。
それが「暖かい無視」ということになる。

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Hayashi 林浩司 BW 思春期前夜 はやし浩司 思春期 思春期の子供 思春期前夜の
子供 揺り戻し 揺り戻し現象 揺りもどし ゆり戻し ゆりもどし)

(注※1)子どもたちの父親像

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は、55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は、79%もいる
(「青少年白書」平成10年)。

(注※2)エリクソンの心理発達段階論

エリクソンは、心理社会発達段階について、幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。

(1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築)
(3) 幼児期後期(自主性の構築)
(4) 児童期(勤勉性の構築)
(5) 青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

+++++++++++++++++

以下、09年4月に書いた原稿より……

+++++++++++++++++

●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2~4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。

勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。

自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。

たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正されたり
ということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 エリクソンの心理発達段階論 (1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築) (3) 幼児期後期(自主性の構築) (4) 児童
期(勤勉性の構築)(5) 青年期(同一性の確立))


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●他罰と自罰

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罰(ばつ、バチ)には、2つある。
他罰と自罰。
私が考えた言葉である。

他人がその人に与える罰のことを、他罰。
自ら墓穴を掘っていく罰のことを、自罰。

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●不幸な人

 世の中には「不幸な人」と呼ばれる人たちがいる。
どう不幸かということは、ここに書けない。
それに「不幸」といっても、それをどうとらえるかは、人それぞれ。
みな、ちがう。
同じような「不幸」をかかえながらも、明るく、さわやかに生きている人はいくらでも
いる。
一方、何でもないような問題をおおげさに考え、ギャーギャーと騒いでいる人もいる。

 「ここに生きている」ということを前提に考えれば、どんな不幸でも、不幸でなくなる。
つまり不幸かそうでないかは、ひとえに、その人の生き方の問題ということになる。

 そうした問題はあるが、現実に、「私は不幸」と、騒ぎたてる人は少なくない。

●ずるい人

 たとえばここに小ずるい人がいたとする。
一事が万事というか、何をするにもずるい。
ウソ、小細工は朝飯前。
言い逃れ、言い訳も、これまた朝飯前。
それが日常的になっているため、本人には、その意識すらない。

 そういう人は、そういう人にふさわしい運命をたどる。
いつの間にか、自分にふさわしい環境を、自分の周りに作る。
気がついたときには、「私は不幸だ」といった状態になる。

 実はこの私も、身近にそういう人がいて、その人に翻弄された。
で、そういう人を見たとき、私はひとつの選択にかられる。
「無視すべきか、闘うべきか」と。

 しかし無視するのが、最善。
「無視」といっても、「暖かい無視」。
その人の不幸を共有しながら、無視する。

本人にはその意識はないし、またそういう人を相手に、時間を無駄にしたくない。
エネルギーも無駄になる。

 それに、もしそこで私が闘えば、それは「他罰」ということになってしまう。
ともすれば他罰というのは、恨み、怒りにつながりやすい。
そういう後ろ向きな感情は、心と肉体の健康のためにも、よくない。

●墓穴

 一方、そういう人はそういう人で、自ら墓穴を掘っていく。
かわいそうとは思うが、私としては、なす術(すべ)もない。
本人は「不幸だ」「不幸だ」と言っているが、私から見れば、要するに(ないものねだり)。
自分の思い通りにいかないからといっては、それを逐一、自分の不幸につなげていく。
が、これではいつまでたっても、充足感は、得られない。

 子育ての世界でも、似たような経験をよくする。

 やっとC中学へ入れそうになると、親は、「B中学に……」と言いだす。
で、何とかB中学に入れそうになると、親は、今度は、「せめてA中学に……」と言いだす。

 あるいは子どもが不登校児になったとする。
1年とか2年とか、親にしてみれば、長くて暗いトンネルに入る。
で、その子どもが、やっと午前中だけでも登校ができるようになると、親は、「給食も……」
と言いだす。
で、何とか給食を食べるようになると、親は、今度は、「せめて終わりの時間まで……」と
言いだす。

 だからといって、C中学へ入ったり、子どもが不登校児になることを、「不幸なこと」と
書いているのではない。
ものの考え方は、視点をほんの少し変えるだけで、一変するということ。
B中学で何が悪い?
午前中だけの登校で、何が悪い?

が、視点を変えなければ、ここに書いたように、いつまでたっても、充足感は得られない。
しかしそれこそまさに、「自罰」ということになる。 

●不幸のとらえ方

 不幸をどう考えるか……そこにその人の人生観が集約される。
そこでひとつの考え方として、「他罰」「自罰」という言葉を考えた。
平たく言えば、賢明な人は、自罰を自罰として意識することができる。
自罰を、無力化することができる。

 自罰というのは、そういうもので、それを意識したとたん、そのまま霧散する。
が、どうすれば、自罰を自罰として、意識できるかということ。

 たとえば先にあげた、小ずるい人を考えてみる。
その人は、家庭問題、親子問題、夫婦問題、近隣問題、実家問題などなど、そのとき
どきに応じて、不平、不満ばかり言っている。
取り越し苦労を重ねては、その一方で、ささいなことでヌカ喜びを繰り返している。
手当たり次第に電話を入れては、ネチネチと愚痴を並べている。

 そういう人を遠くからながめながら、私はこう思う。
「その人がその人の自罰に気がつくことはあるのだろうか」と。
しかしこれは何も、その人の問題ではない。
私自身だって、自罰に気がついていない。
そういうことはある。

●私の自罰

 不幸と言えば、不幸かもしれない。
長男は、まだ未婚。
二男、三男は、会うこともままならないような遠くへ行ってしまった。
友人も少ない。
クリスマスも正月も、この10年、家族だけでささやかに祝っている。

 見る人が見れば、「あの林は、何とさみしい人生を送っていることか」と思うに
ちがいない。

 しかしそういったことは、「不幸」とは、思っていない。
けっして、強がりを言っているのではない。
一抹のさみしさはあるが、その(さみしさ)は、私のエゴと結びついている。
私の思うようにならないから、それを「さみしい」と言っているにすぎない。

たとえば私の母は、私がワイフと結婚したとき、親戚中に電話をかけ、「悔しい」と
言って泣いたという。
「浜松の嫁に、息子を取られたア!」と。

 ずっとあとになってそれを知ったとき、私は母の気持ちを理解できなかった。
母は、私の幸福よりも、自分の充足感を満たすことだけを考えていた(?)。
そういう経験があるから、私は、母のしたことの二の舞だけはしないと心に誓った。
その結果が「今」なのだから、私としては、文句を言えないはず。
「さみしい」などと言っている方が、おかしい。

 で、私は自分の人生を振り返ってみたとき、こう思う。
「もし息子たちがいなければ、私はああまでがんばらなかっただろう」と。
「それに、息子たちは、私に生きがいを与えてくれ、私を楽しませてくれた」と。
私は息子たちのために生きたのではない。
息子たちに生かされた!

●「生きている」

 要するに、不幸というのは、自罰に気がつかないまま、その自罰に振り回されることを
いう。
が、自罰に気がつけば、不幸はそのまま霧散する。
簡単に言えば、受け入れてしまうということ。
「まあ、私の人生はこんなもの」と、割り切ってしまう。
その瞬間、不幸は不幸でなくなってしまう。

 「不幸だ」「不幸だ」と思って、それが逃げようとすればするほど、不幸はますます
大きくなって、あなたに襲いかかってくる。
が、受け入れてしまえば、不幸は、向うからシッポを巻いて逃げて行く。

 それでも不幸がそこにあるようだったら、(生きている)という原点に自分を置いて
考えてみる。
そこに視点を置けば、そのままありとあらゆる問題は解決する。
「今、ここに生きている」という喜びまで押しつぶすほどの不幸は、ありえない。

私は生きている!
それにまさる価値はない。

●他罰

 ついでに他罰について。

 基本的には、私たちには、だれをも責める資格はないということ。
たとえその相手が、どんな人であっても、だ。
その相手というのは、私であり、私は、その相手と考えればよい。
 
それに他人に罰を与えるのは、やめたほうがよい。
考えるのも、やめたほうがよい。
どんなことがあっても、その人の不幸を願ったり、笑ったりしてはいけない。
願ったり、笑ったりすれば、それはそのまま私たちに返ってくる。
「ああ、私でなくてよかった」と思うのもいけない。
その人が、それを不幸だと思っているなら、あなたはあなたで、その人の立場で、
それを共有してやればよい。

 説教したり、自分の考えを押しつけるのも、やめたほうがよい。
その人はその人。
そっと静かにしておいてやる。
もちろん相手から助けを求めてきたときは、別。
そのときは、相談に乗ってやればよい。
それを私は「暖かい無視」と呼んでいる。

(この言葉は、もともとは、ある野生動物保護団体が使っていたものである。
それを拝借させてもらっている。)

●ついでに……

 40歳になると、その人の将来が見えてくる。
50歳になると、その人の結論が見えてくる。
60歳になると、その人の結論が出てくる。
その「結論」を決めるのが、他罰、自罰ということになる。

 私たちは常に、他人に罰せられながら生きている。
同時に、自らを罰しながら生きている。
それが積もり積もって、その人の「結論」となっていく。

 で、ついでに私は私の人生を振り返ってみる。
……といっても、今あるのは、「今」だけ。
過去など、どこにもない。
未来も、ない。
あるのは「今」だけ。
この「今」が、今まで生きてきた私の結論ということになる。

 大切なことは、つぎの「今」に向かって、前向きに生きるということ。
常に、つぎの「今」に向かって、懸命に生きるということ。
そのつど結論は、あとからついてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自罰 他罰 自罰論 他罰論 バチ論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●正岡子規

++++++++++++++++

正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読む。
何となく子規ブームがやってきそうな気配。
それで、それを読む。

が、興味をもったのは、書の巻末にあった年譜。
それと『九月十四日の朝』。
正岡子規は、若年、満35歳(明治35年)で
この世を去っている。
明治35年に35歳!

生まれは、現在の松山市新玉町とある。
慶応3年生まれ。
まさに幕末+明治のはざまで生まれた人という
ことになる。

++++++++++++++++++

●「九月十四日の朝」

 正岡子規は、明治35年(1902年)の朝、病床で高浜虚子(たかはまきょし)
に、随筆を筆記してもらっている。
それが『九月十四の朝』。
『歌よみに与ふる書』の巻末に、おまけとして収録されていた。

「朝蚊帳(かや)の中で目が覚めた。尚半ば夢中であったがおいおいというて
人を起こした。……』と。

 正岡子規は、その5日後に亡くなっている。

●病弱

 正岡子規は、健康には恵まれなかった人のようだ。
有名な『かけはしの記』も、学年試験を放棄したあと、木曽路をたどった旅行記として
書かれている。
上野から出て、軽井沢、善光寺、松本を経て、馬籠(まごめ)から御嵩(みたけ)へ、と。
当時としては、たいへんな旅だったらしい。

 そのところどころに、俳句が散りばめてある。

『はらわたもひやつく木曽の清水かな』
『白雲や青葉若葉の三十里』
『撫し子や人には見えぬ笠のうち』など。

 あちこちに「五月雨(さみだれ)」という文字が読める。
5月に、木曽に入ったらしい。
「いい季節に、木曽路を旅したのだなア」と思う。
山は、ホトトギスが鳴く、5月ごろが、もっともすばらしい。
山は、本当に山らしくなる。
この浜松で言えば、5月の終わりごろ。
野イチゴが実をつけ、野生のジャスミンが咲き誇る。
当時の長野県は、もう少し寒かったかもしれない。
そんなことを考えながら、『かけはしの記』を読む。

●すごい人

 ついでに35歳という年齢で亡くなったことに、驚く。
現在という時代から見ると、35歳というのは、あまりにも若い。
また35歳前後までに、名を残すことができるような人は、そうはいない。
もの書きでは、もっと少ない。
改めて、正岡子規のものすごさに驚く。
……というか、当時は、そういう時代だったかもしれない。

 すべての娯楽が、文学に集中していた。
こういう言い方は失礼になるかもしれないが、一作、本を当てれば、
大金持ちになれた。
林芙美子を例にあげるまでもない。
林芙美子は、『放浪記』を書いて、貧乏のどん底から、大金持ちに変身した。

 それに今とは時代がちがった。
私は正岡子規の原稿集を手でもちながら、率直に、こう思った。
「量的には、私の1か月分の原稿にもならないのになあ」と。
私は毎月、原稿用紙にすれば、700~800枚は書いている。

 もちろん私が書くのは、価値のない駄文。
言うなれば、ゴミ。
量が多いからといって、正岡子規とは、比較にならない。
それに当時は今と違って、作家たちは、一語一語に心血を注いだ。

 今はパソコン相手に、ピアノの鍵盤でも叩くかのようにして文を書く。
私がそうだ。
書いた文は、そのまま活字となって(?)、世界中に配信される。

 それにしても、35歳とは!
各地に、記念館まで残っている。

●イメージ

 で、正岡子規についていつも思うこと。
「正岡子規」という名前が、すばらしい。
格調高く、品がある。
いかにもそれらしい人物というイメージをもつ。
そう感ずるのは私だけかもしれないが、「さすが!」と思う。

 北原白秋にしても、雪舟にしてもそうだ。
雪印乳業にしても、そうだ。
(あまり関係ないかな?)

が、現実の正岡子規は、イメージとはだいぶちがうようだ。
俳優で言えば、ロック・ハドソン風の美男子を想像する。
が、写真で見るかぎり、どうもそうではなかったらしい。

 同じようなことが、あの室生犀星についても、言える。
私はいつだったか、写真を見るまで、やはりロック・ハドソン風の
美男子を想像していた。
が、写真を見て、絶句!
「まさか」と思って、何度も確かめた。
私がまだ金沢で学生だったころの話である。

 俳人や詩人と言われる人たちというのは、そういう人たちだったのかもしれない。
言葉の美しさと、風貌、つまり肉体が、完全に遊離している(失礼!)。

●正岡子規論

 で、肝心の『歌よみに与ふる書』のほうだが、私はあいにくと俳句が
あまりよくわからない。
「そういうものかなあ」という思いで、サラサラと読み流す。
ひとつ覚えていることと言えば、「くだもの(果物)」という言葉は、
「果物を食べると、腹がくだる」という意味から、「くだもの」と言うように
なったそうだ。
正岡子規は、「栗は果物かどうか」ということについても書いていたが、結論の
ところはよく覚えていない。

 俳句がすばらしいから、明治の文豪になったのだろう。
しかし文章そのものは、それほどうまくない(失礼!)。
読みづらく、まわりくどい。
それにたとえば『九月十四日の朝』もそうだが、まるで、70歳か80歳の
老人が書いているような文章。
つまり威張っている。
「35歳で、ここまで高姿勢な視点で、ものが書けるのかなア」と、むしろ
そちらのほうに驚いた。
「私は」と書くところを、「余は」と書いている。
きっと明治の人は、寿命が短かった分だけ、早熟だったのかもしれない。
 
 ……これ以上書くと、正岡子規のファンの人たちに、袋叩きにあうかもしれない。
そんなわけで、正岡子規についての話は、ここでおしまい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 正岡子規 九月十四日の朝 歌よみに与ふる書)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●11月18日

++++++++++++++++++

揺れ動く。
揺れ動く心理。
その様(さま)は、思春期のそれに似ている。
強気になったり、弱気になったり……。
先日も叔母が他界した。
が、淡々とした気持ちで、それを受け入れることができた。
「悲しい」とか、「さみしい」とかいう気持ちは
なかった。
会ったのは、この30、40年間で、数度だけ。
それもあって、「順送りだな」と思った。

私の「上」で、傘のようになっている人が、1人、また
1人と亡くなっていく。
そういう人が、このところ、毎年のように多くなった。
で、その傘が消え、青い空が見えるようになったら、
つぎは私の番。

悲しんでいるひまはない。
さみしがっているひまはない。
さあ、今日も、急ごう!

++++++++++++++++++

●歩き方

 このところ老人たちの歩き方が気になる。
いろいろな人がいる。
脳梗塞か何かになって、体が不自由になった人は別として、老人には老人の
独特の歩き方がある。
どこかの大学の教授が、それについて詳しく研究したのを覚えている。
しかしそんな論文など、読む必要はない。

(1)ひざを曲げて歩く。(歩くとき、足が前に出ない。)
(2)前のめりにして歩く。(腰がうしろからついてくるような感じ。)
(3)足を開いて歩く。(がに股になる。)
(4)かかとをあげないで歩く。(地面に足をこすりつけるように歩く。)

 こういう歩き方を、「老人歩き」という。
中には、ひざが痛くて、独特の歩き方をする人もいる。
しかしたいていは、筋力が弱り、足腰が体重を支えきれず、そういう歩き方になる。

 そこで問題は、どうすれば、そういう歩き方をしないですむか、ということ。

●ウォーキング・マシン

 本当は、「ランニング・マシン」という。
しかし私の買ったのは、ウォーキング・マシン。
走行用にはできていない。
説明書にも、そう書いてある。
それに時速は、6キロが最高。

 そのウォーキング・マシンを使ってみて、気がついた点がいくつかある。
それについては前にも書いたので、ここでは、その先を書いてみたい。

 老人になればなるほど、つま先歩きから、足の裏全体を使って歩くようになる。
ペタペタという感じの歩き方になる。
そこであえて、つま先歩きをしてみる。
とたん、……というより、1~2分で疲れてしまう。
自分では気がつかなかったが、私もいつの間にか、ペタペタ歩きになっていた。
これでは軽快な動きはできない。
ヨタヨタというか、モサモサという歩き方になる。

 で、つま先歩きの練習をする。
10分間の歩行のときは、最後の1~2分、20分間の歩行のときは、最後の、2~3
分を、つま先歩きにする。
(時間は、タイマーでセットできる。)
が、疲れるだけではない。
最初のころは、その翌日くらいに、太ももから、ふくらはぎにかけて、足が痛んだ。
つまりそれだけ、ペタペタ歩きになっていたということ。

 私もそうだったが、たいていの人は、老人歩きを見ても、「私はああならない」と
思うだろう。
しかし知らないうちに、私たちはみな、少しずつ、老人歩きをするようになる。

●ひざ

 昨日の夜も、温泉につかっていると、目の前を、75歳前後の老人が歩いていた。
裸だったから、筋肉の動きが、よく観察できた。
腰は軽くまがり、ひざは曲げたままの角度で歩いていた。
歩くというよりは、上半身を前に倒しながら、その勢いで足を動かしているといった
風だった。
ヨタヨタと。

 太もも(大腿筋)が、鳥のガラのように細いのも、気になった。

 その老人を見ながら、こう思った。
「早めに、ウォーキング・マシンで訓練したほうがいい」と。
まことにもって手前味噌で申し訳ないが、自分でウォーキング・マシンを使うように
なってから、そう思うことがしばしばある。
私も、もっと早い時期から使えばよかった!

 ただし無理をしてはいけない。
おととい、30分間、最高速度の6キロで歩いてみた。
最後はつま先歩き……というよりは、駆け足走行になった。
で、今日は朝から、右足のひざが痛い。
(おとといの夜、重いものを持ちあげたためかもしれないが……。)

 私の観察によれば、ひざというのは、一度痛めると、そのまま持病になりやすい。
とくに60歳を過ぎてからの運動には、注意を要する。

●老人

 歩き方だけではない。
ほかにもいろいろと観察している。
しゃべり方、顔の色やシワ、髪の毛、女性の化粧のし方などなど。
その中でもとくに気になるのは、思考力の深さ。

 もっともそれについて書くと、長くなってしまう。
が、最近は、ほんの10~20分、話すだけで、その人の思考力の深さがわかる
ようになった。
「この人は深い」とか、「浅い」とか。

 60歳を過ぎると、思考力はどんどんと浅くなる。
知力が低下する。
「知力」というより、知力を維持するための緊張感が持続できなくなる。
が、それを自覚できる人は、私も含めて、いない。
この問題は、脳のCPU(中央演算装置)に関連している。

 ……とまあ、歩き方の話から、別の話になってしまった。
しかし「体(月)の要(かなめ)」と書いて、「腰」という。
歩き方を見れば、その人の肉体年齢がわかる。
逆に言うと、歩き方を訓練すれば、自分の肉体年齢を若くすることができる。

 何かあったときに、ヒョイヒョイと、身軽に椅子から立ちあがる。
スタスタと歩く。
パッパッと行動する。

若い人には何でもない行動かもしれないが、それができれば、それでよし。
そのとき、ヨイコラショと身を持ちあげ、ペタペタと前かがみになって
歩くようであれば、あなたの肉体はかなり老化しているということになる。

 何歳から……とは言えないが、あなたも50歳を過ぎたら、私のように
老人観察を始めたらよい。
老後の健康は、まずそこから始まる。
遅かれ早かれ、老後は確実にやってくる。
そうであるからこそ、健康はできるだけ引き伸ばして使う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 老人観察 歩き方 歩行 老人の歩行)


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