2009年12月18日金曜日

*Magazine dated Dec 18th

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   18日号
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MERRY CHRISTMAS!

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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【2010年のこと】

☆ 2009年から、3つの新しいことを始めました。
まず、ルーム・ウォーカーを購入したこと。
朝起きるとすぐ、それで10分間、ウォーキングをします。
平均して毎日、30~40分は、その上で歩いています。
いろいろなものを買いましたが、ルーム・ウォーカーは、
その中でも、ベスト・ワンということになります。

ただその分だけ、サイクリングの回数が減ったかな?
それまでは、40分のサイクリングを1単位として、
週に5~7単位を目標にしていました。
が、今は、週に3~4単位程度。
「安全」を考えるなら、やはりこれからは家の中で
運動したほうがいいかもしれません。

2つ目は、毎週、舘山寺の温泉に通い始めたということ。
どこでも「日帰り入浴」というのを、させてくれます。
それを使って、あちこちの温泉巡りというわけです。

また3つ目は、バス旅行をやめ、講演先でホテルや旅館に
泊まるようにしたことです。
こうして月に2~3回は、小旅行を楽しんでいます。

☆ 今年(2010年)もつづけたいことはいくつか、あります。
数年前から、週に1度は劇場で映画を観ることにしています。
これはボケ防止のためです。
シルバー料金というのがあって、いつも1000円(1人)で
観られます。
おまけに6回観ると、つぎの1回分はただ。
さらにポイントが6000点たまると、1か月のフリーパス
がもらえます。
それを使って、12月~1月は、映画を見放題。
ハハハ。

09年に、68キロ前後から、60キロ前後まで減量しました。
体重の話です。
少し油断すると、すぐリバウンドしそうになります。
そのたびに、ダイエット+運動。
その繰り返し。
2010年中は、この体重をキープします。
つまりがんばります。

☆ 2009年には、いくつかのできごとがありました。
三男が結婚したこと。
実家を処分し、実家から解放されたこと。
ともに、バンザ~イ!

☆ ともあれ、何よりも大切なのは、家族と健康。
いつも夫婦喧嘩ばかりしていますが、それも今では
スパイス(調味料)のようなもの。
割り切って(?)、喧嘩しています。

おかげさまで、2009年は、みな、健康に恵まれました。
体重を減らしたおかげで、脚痛も、なくなりました。
今のところ成人病とは無縁。
がん検診も、ことごとく(?)、シロでした。
そんなわけで、たぶん、2010年も、無事生きていかれる
のではないかと思います。

☆ あとは仕事ですね。
私のばあい、休みが1週間もつづいただけで、脳みそが休眠
状態になってしまいます。
2週間もつづいたら、サビてしまう?
もちろん体も……。
そんなわけで、退職、引退などというのは、まったく考えて
いません。
死ぬまで働く……。
それしかないというのが、今の結論です。

多くの人に支えられての1年間でした。
おかげで、2010年は、2009年より忙しくなりそうです。
「がんばります」というより、「がんばれ!」「がんばれ!」と、
自分にムチを打ちながら、今年も、前に向かって進みます。

                   (2010年・元旦)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【記憶の時効】

++++++++++++++++++++++++++++++

記憶にも時効がある。
と言っても、忘れるまでの時間をいうのではない。
私が言う「記憶の時効」というのは、何かの経験をして、
それを自己開示できるまでの時間をいう。

たとえばあなたにも、いろいろな過去がある。
その過去の中でも、(人に話せる話)と、(人には話したくない話)がある。
そのうちの(人に話したくない話)を、人に話せるようになるまでには、
ある程度の時間が必要である。
(もちろん相手にもよるが……。)
その(ある程度の時間)のことを、「記憶の時効」(はやし浩司)という。

……これだけではよくわからないという人も、いるかもしれない。
もう少し具体的に説明するから、どうか短気を起こさないでほしい。

+++++++++++++++++++++++++++++++

●私の過去

 私は若いころ、こう考えていた。
「実家の恥になるような話や、親の悪口などといったものは、人に言うべきものではない。
ましてや文にして書くべきものではない」と。
ワイフにすら、そう思っていた。
だから結婚してからも、私は実家の話や、親の話は、ほとんどしなかった。
話せば、どうしても悪口になってしまう。

 その私が実家の話や、親の悪口(?)を書くようになったのは、私が45歳を
過ぎてからのことではなかったか。
それまでは、それを口にすることさえなかった。
とくに他人に対しては、そうだった。
が、45歳も過ぎるころから、心境に変化が生じ始めた。

 たとえば私は父を恨んでいた。
私が子どものころは、数日おきに酒を飲み、家の中で暴れた。
私の父親というのは、そういう父だった。

 が、45歳を過ぎるころから、父が感じていたであろう、孤独感や苦しみが
理解できるようになった。
それが少しずつ私の心を、溶かし始めた。
そして同じように少しずつだが、私は父について書くようになった。
といっても、それにはかなりの勇気が必要だった。
崖から下へ飛び込むような勇気だった。
昔の人は、「清水の舞台から飛びおりる」と言った。

 けっして大げさなことを書いているのではない。
ほとんどの人は、自分のことですら、匿名で書いている。
ひょっとしたら、この文を読んでいるあなただって、そうかもしれない。
BLOGにせよ、HPにせよ、実名を名乗って書いている人は、少ない。
いわんや、(家の恥)、(家族の恥)となるような話となると、大きな抵抗感を
覚える。

 が、書き始めると、意外と楽に書けることを知った。
心の中にあるモヤモヤが、少しずつ晴れていくように感じた。
それからは、自由に、私は、実家や家族のことを書くようになった。

 つまり、これが私の言う、「記憶の時効」である。

●崖から飛び降りる

 (話したくない話)でも、ある程度時間がたつと、(話してもいい話)になる。
それまでは、(話したくない話)は、ずっと心の中にとどまったまま。
が、ある程度時間がたつと、(話したくない)という気持ちが薄れてくる。
つまり(話したくない話)が、(話してもいい話)に変化するまでに時間が、
「記憶の時効」ということになる。

 「この話は、もう時効になったから、他人に話してもいい」と。

 そこでこんな実験をしてみる。

 実は、この話は、まだ時効になっていない。
ごく最近というか、まだ1年ほどしか、たっていない。
それにこの話は、私にとっては、たいへん恥ずかしい。
が、思い切って、ここに書いてみる。
「崖」とは言わないが、二階屋根から飛び降りるような心境である。

●腸内ガス

 センナという薬草がある。
便秘薬として、使われている。
私は便秘症ではないが、腸がはれぼったいと、気になってしかたない。
そこでときどき、強制的に、腸内を空にする。
そのとき、センナという薬草を、煎じてのむ。

 そのセンナをのむと、半日もすると、独特のにおいの腸内ガスが出る。
どう独特かというと、つまり独特。
それに強烈。
センナをのんだことがある人なら、みな、知っている。
しかも腸内ガスが、排便が近づくと、ブーッ、ブーッと気持ちよく出る。

 で、ある日のこと。
生徒たちが来るのを待って、私はコタツの中に座っていた。
寒い冬の日だった。
私はコタツの中で、それをしてしまった。
「まだ時間がある」と思っていた。
が、そこへ親たちが、子どもを連れてやってきた。
ドヤドヤと、階下から階段をのぼってくる足音が聞こえてきた。

「しまった!」と思ったが、遅かった。

 そこであたりをみると、香水の入った瓶と殺虫剤が目に入った。
私はこたつのふとんの中めがけて、香水を吹きかけた。
同時に、殺虫剤をまいた。

 数分もたたないうちに、子どもたちが入ってきた。
親たちも入ってきた。
親といっても、若くて美しい母親たちである。
その母親たちがいつものように、まっすぐ、コタツのほうに向かっていった。

 あああ……。

 私はそ知らぬ顔をして、教室の反対側に立った。
そのときのこと。
母親たちが、(正確には3人いたが)、たがいに「何のにおい?」「何かしら?」と、
話している声が聞こえた。
ひとりはこたつのふとんの中に、クンクンと、顔までつっこんでいた。
私は生きた心地がしなかった。

●恥ずかしい話

 この話は、実は、ワイフにすらしていない。
まだ「記憶の時効」になっていない。
こうして書くこと自体、本当のところ、時期尚早。
あと数年は、隠しておきたかった。

 というのも、現在の今も、その母親と子どもは、私の教室に通っている。
もしこのエッセーを読んだら、……それを想像することすら、恐ろしい!
つまりこれが「記憶の時効」ということになる。

 人は、自己開示をすることによって、自分を見つめなおすことができる。
そういう点では、(さらけ出し)は、悪くない。
フロイトが説いた、「肛門期」というのが、それ。
何かの秘密(?)をもつと、それを外へ吐き出したくなる。
そういう衝動にかられることは多い。
しかしそれには、「記憶の時効」が働く。

 たとえば私は、自分たちの性生活については、ほとんど書いたことがない。
私がそれについて書けば、「老人の性」というタイトルがつくだろう。
若い人たちも、それについて興味をもっているかもしれない。
私と同じ世代の人たちも、興味をもっているかもしれない。
しかし私は、書けない。
書かない。

 恥ずかしいというより、(確かに恥ずかしいが……)、息子たちの前で、
それについて語るのは、昔からタブーにしてきた。
それにそれは私が専門とする分野ではない。
言い換えると、まだ「記憶の時効」になっていない。
今、それについて書くとなったら、私は、それこそ「清水の舞台から……」となる。

●私というより、1人の人間

 (書きたい)と思っていることと、(書いてもいい)と思っていることの間には、
距離がある。
時間的距離である。

 が、その時間的距離は、時間がたてばたつほど、短くなっていく。
それには、理由がある。

 「私」という人間は、私であって私でない。
「私といっても、広く、人間の1人である」と思うようになる。
そういう「私」が、加齢とともに、よくわかってくるようになる。
あるいは「私の経験していることは、だれでも経験していること」と思うようになる。

 たとえば私が、性的な夢想にふけったとしよう。
若い女性と、性的行為を楽しむような夢想でよい。
しかしそうした夢想というのは、だれしも経験するものである。
またそれは私であって私でない部分が、勝手に私にそうさせるもの。
平たく言えば、本能。
その本能に応じて、ホルモンが分泌され、それに応じて脳が勝手に反応する。
これには、教師も、聖職者も、僧侶もない。
校長だって、副校長だって、同じ。
そういうことが、自分でもわかってくる。

 となると、私が性的な夢想をするのは、ごく自然な行為ということになる。
恥ずかしく思わなければならないようなことではない。
隠さなければならないようなことでもない。

 だったら、それをすなおに書けばよい。
私のこととしてではなく、人間のこととして書けばよい。
……ということがわかってくるようになる。
それがわかってくれば、それについて書くことについては、時効が成立した
ということになる。

●自己開示

 話はそれるが、自己開示についても一言、触れておきたい。

 もともと自己開示というのは、相手との親密性を知るバロメータとして
利用される。
浅い身の上話から、深い身の上話まで、いろいろある。
深い身の上話までできるということは、あなたはその人と、親密度が高いという
ことになる。

 結婚当初、私はワイフにすら、実家の話や、親の悪口などは話さなかった。
つまり自己開示できなかった。
わかりやすく言えば、私はワイフにすら、心を閉じていた。

 が、やがて、私はワイフに実家のことや、親のことを話すようになった。
私の心には、無数の傷がついていた。
それについては前にも書いたので、ここでは省略するが、それを話すようになったのも、
結婚してから数年後のことである。

●傷(トラウマ)

 私は若いころから、そして今に至るまで、実家の問題がからんでくると、精神状態
がたいへん不安定になる。
心が緊張し、ささいなことで、カッとキレやすくなる。
おまけにいじけやすく、ひねくれたものの考え方をするようになる。
子どもじみた行動に出ることもある。
家を出て、そのあたりを徘徊したりする。

 が、ありのままをワイフの語ることによって、そうした症状は、かなり軽くなった。
つまり自己開示するということには、そういう意味も含まれる。

●暴露

 こうした記憶の時効は、そのつど、いつも感ずる。
(この話は書くべきでない)と思うことは、しばしばある。
あるいは迷う。
「まだ時効になっていないぞ」と。
しかしそのとき、別の心が働く。
「今しか、書くときがないぞ」と。
そして同時に、こうも思う。
「お前は、お前であって、お前ではない部分がある。
どうしてそれを書くのに、ためらうのか」と。

 さらに言えば、自己開示をすればするほど、その先に、自分の姿が、より
鮮明に見えてくることがある。
が、抵抗がないわけではない。

 先日も1人、こう言った人がいた。
「自分のことをそこまで暴露して、抵抗はありませんか?」と。
私の立場で言うなら、「そこまで暴露して、何になるのか?」ということになる。
中には興味本位で読んでいる人もいるだろう。
また私の内情を探るために読んでいる人もいるだろう。
それにみながみな、私に対して、好意的とはかぎらない。
私の文章を読みながら、「このヤロー!」と怒っている人もいるはず。

 私が書いたことで、実際、「どうして私のことを書いたか!」と抗議してきた人も
いる。
(それはその人のまったくの誤解だったが……。)
怒ってくる人はまだよいほう。
そのまま私から黙って去っていく人もいる。

 どんどんと自己開示してくと、どうしてもそこに私の近親者たちが登場する。
いろいろな技法を用いるが、読む人によっては、その人のこととわかってしまう。
それが壁となって、私の前に立ちはだかる。

 が、自己開示を重ねるたびに、私はその(上)に出るような気分も、これまた
否定しがたい。
それはちょうど山登りに似ている。
下から見ると低いと思われるような山でも、登ってみると、意外と視野が広い。
遠くまで見える。

 その歓びが、私をして、またつぎの自己開示へと結びつけていく。

●記憶の時効

 刑法の世界には、時効というのがある。
正式には、公訴時効という。
刑期の長さによって、時効の期間が異なる。
死刑にあたるような罪では、25年。
無期懲役または禁錮にあたるような罪では、15年。
軽い、拘留または科料にあたるような罪では、1年などなど。

 記憶にも、同じような時効がある。
(人に話したくない話)でも、そのときが来れば、自然と話せるようになる。
そしてその時効は、加齢とともに、ますます短くなっていく。
今の私がそうだ。
本来の時効など待っていたら、それこそその前に、私の人生が終わってしまう。
私は私。
私はありのままの「私」を書く。
理由は、簡単。
私は私であって、私ではない。
1人の人間。
「私」のことをありのままさらけ出すということは、「人間」をさらけ出すこと。

そういう私をまちがっているというのなら、それを言う人のほうが、まちがっている。
仮にまちがっているとしても、それは「私」ではない。
「人間」がまちがっているということになる。

 それともあなたは、思わぬところで腸内ガスを出し、あたふたしたという経験が
ないとでも言うのだろうか。

 ……ということで、「記憶の時効」について書いてみた。
とくに私のように、どこか心の開けないような人は、思い切って何でも人に
話してみるとよい。
書いてみるとよい。
それによって心をがんじがらめにしているクサリを解き放つことができる。
そういう効果もある。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 自己開示 記憶の時効)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●パレスホテル掛川

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今夜は講演のついでに、パレスホテル
掛川に泊まった。
来年、同じホテルで、O地区医師会の
講演会がある。
その会に、講師として招かれている。
その下見も兼ねて、泊まった。

楽天を通して予約したら、2人分で
1万円。
禁煙・ダブルベッドという部屋である。

料金が料金だから、ぜいたくは言えない。
が、その料金で評価するなら、星は4つ。
先日、千葉市で泊まったホテルは、最悪。
そのホテルでは最高料金のダブルベッド
ルームに宿泊した。
が、トイレ・バス・寝室を含めても、
全体で7~8畳程度の広さ。
窮屈というより、息が詰まった。

そのホテルと比べたら、パレスホテル
掛川は、ゆったりとしている。
1階にはレストランがあるし、9階には
大浴場もある。

土曜日の夜ということもあって、駐車場は
車でいっぱい。
それだけ人気があるということか。

講演が終わったのが、午後9時少し前。
帰りに近くのコンビニで夕食を買って、
ワイフと2人で食べた。
おいしかった。

帰りは、S小学校のYU先生がコンビニまで
送ってくれた。
わざわざ大回りして、ライトアップされた
掛川城を見せてくれた。
そういうやさしさが、うれしい。
掛川はいつ来ても、心温まる町だ。

+++++++++++++++++++

●掛川で……

 昨夜は部屋の温度調整をまちがえたようだ。夜中過ぎに、暑くて何度も目が
さめた。
見ると、ヒーターのスイッチが、「強」になっていた。
あわてて「弱」にしたあと、窓を少し開けた。
それからは朝まで、ぐっすりと休むことができた。

 私たちが泊まったのは、501号室。
東向きの部屋で、日の出とともに、オレンジ色の朝日が、部屋の中に飛び込んできた。
もう一枚、内側に、ふすま様のしきりがあったが、それを閉め忘れた。
それでそのまま目が覚めた。

 服を着替えたあと、いつもにない疲れを感じた。
頭も重い。
しかしこの重さは、動き出せば消える。
薬をのむまでもない。
そのとき今度の、秋田での講演が心配になった。
秋田では、どこかの旅館に一泊してから、講演をすることになっている。
「こんな状態では、講演などできないな」と思う。

●ホテルの窓から

 窓の向こうを、たった今、新幹線が走り去って行った。
やはり朝日を浴びて、キラキラと光っていた。
遠くに低いが、とんがった山々が見える。
その山を横切って、何十本もの送電用の鉄塔が見える。
電力の大動脈になっているらしい。
「どこまで行っているのだろう」と、目で追ってみたが、手前のマンションで
その先は見えなかった。

 静かな朝だ。
眼下の木がさわさわと風に揺れているのを見なければ、一枚の写真のよう。
あとはときどき、鳥が黒いシルエットのまま、水色の空を横切っている。
窓からは相変わらず冬の冷気が入り込んでいるが、「寒い」と感ずるほどではない。
ここ数日の雨で、空気が洗われた。
が、まだまだ南の暖気のほうが優勢のようだ。
11月も半ばというのに、この暖かさは何だろう。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●知的生命体

 先日、ある本を読んだ。
それには、こうあった。
現在、文明が存在する確率は、銀河系(銀河系だぞ!)、
20個の銀河につき、1個分程度だそうだ(「宇宙と地球を動かす科学の法則」(PHP))。
つまりこの地球に、われわれ地球人という知的生物(?)がいるということは、
この銀河系には、ほかに文明を築くほどの知的生物は、ほぼいないということになる。
が、それでも、この大宇宙には、数千億個の銀河系があるから、全体では、
約50万個以上の知生体文明があることになるという。

 50万個以上! (すごいね!)

 この計算の基礎になっているのが、ドレイクの法則。
つまり「銀河文明の法則」と呼ばれているものだそうだ(同書)。

N=RfL

R; 銀河系で1年間に生まれる星の数
f;1つの星のまわりに知生体が生まれる確率
L; 知生体の文明が存続する年数

 が、この計算には、重大な欠陥がある。
称して、「自滅公式」。
それを組み込んでいない。

 人間が知的生物かどうかという議論はさておき、知的生物は、その進化の過程で
エネルギーを大量に消費するようになる。
そのとき環境を破壊する。
結果、知的生物は、そのまま自滅する。

 そこで知的生物が、宇宙へ飛び出す確率となると、きわめて少ない……というより、
惑星の大きさに比例することになる。
それが「自滅公式」ということになる。

 惑星が小さければ小さいほど、環境破壊が起こりやすくなる。
そのため知的生物がいたとしても、宇宙へ飛び出すほどまで、じゅうぶん進歩する
前に、自滅してしまう。
一方、惑星が大きければ大きいほど、環境破壊は起こりにくくなる。

 では、この地球は、どうか?
それには、隣の火星と比較してみればよい。

 かつてはあの火星も、地球と同じような、水の惑星であったという。
それが何らかの理由で、現在のような火星になってしまった。
人類と同じような知的生物がいて、進歩の過程でやはり、環境を破壊してしまった。
……という説もある。

 火星の直径は、地球の半分程度。
体積は10分の1。
その分だけ、大気の層も薄かったにちがいない。

 そこで私が考えた、「自滅公式」。

J=Ax(惑星の直径)

 自滅までの年数(J)は、(惑星の直径)に比例する。
Aは係数だが、地球人と火星人の自滅までの年数を入れて計算すれば、求まるはず。
たとえばこの地球人が新石器時代をやっと抜け出たのが、今から約5500年前。
この先、約数百年で滅亡するとして、長くても6000年。

 この6000年という年月は、宇宙的時間の中で見れば、星がまばたきする
一瞬より短い。
つまりこの大宇宙に現在、50万種類の知的生物がいるといっても、それは一瞬
にすぎない。
一瞬に生まれ、つぎの一瞬には、滅亡する。
この公式をドレイクの公式に上乗せすると、知的生物どうしが、たがいに接触する
などということは、計算上、さらにありえないということになる。

●知的生命体

 が、現実には、UFOは存在する。
(私とワイフは、巨大なUFOを目撃している!)
ということは、それに乗っている宇宙人は、宇宙人というより、私たちの仲間、
もしくは同類とみてよい。

 が、これについても、あのホーキング博士は、こんな興味深い事実を、講演の中で
述べている。
「同時に、2つの知的生命体は共存しえない」と。

 仮に近辺に、2つの知的生命体が同居したとする。
その知的生命体は、どういう形であれ、他方を抹殺するまで、戦争を繰り返す、と。
となると、地球人と、あのUFOに乗っている宇宙人との関係を、どう考えたらよいのか。

 2つの知的生命体が、同時にこの太陽系という小さな世界で、誕生する確率は、ゼロ。
しかも2つの知的生命体が共存できるという可能性も、ゼロ。
しかし現実には、(あくまでも私の個人的な体験に基づくものだが)、宇宙人は近くに存在
する。
となると、そこから引き出される答は、ただひとつ。

 私たちがいうUFOに乗った宇宙人というのは、別の知的生命体ではなく、私たち自身、
もしくは、その仲間ということになる。

 もう少し詳しく「宇宙と地球を動かす科学の法則」(PHP)を、詳しく読んでみよう。
そこには、こうある。

「この100年間に人口は5倍以上に増加しているし、放出した炭酸ガスは大気中に、
1・5倍にもなっています。
このままいきますと、2050年には100億人に達し、大気中の炭酸ガスも、
400ppmに達すると言われています。
こうなると温暖化が進行し、海水の水位が上昇することになります。
その高さは100メートルに達するという説もあります」(同書、P35)。

「すべての星に生命の誕生する惑星が1つずつあるとすれば、図の式(後述)から
わかるように、0・05~0・005程度となります。
これでは銀河系の中でたがいに通信できる知生体はありそうでないということに
なってしまいます。
人類はこの銀河の中で、唯一無二なのかもしれません」(P36)。

 が、その人類も、このままでは、文明を築いてから、「200年」で、滅亡しようと
している(同書)。

【ドレイクの公式】

銀河系で考えると、ドレイクの公式(N=RfL)により、

R;0・5
f;10億分の1
L;1000万~1億
N=0・05~0・005

 しかしたった「200年」(同書)では、どうしようもない。
「6000年」でも、どうしようもない。

 ……こう考えていくと、私たち人類が、こうしてこの地球上の存在していること自体、
奇跡中の奇跡ということになる。
が、その価値を、人類は、いまだに理解できないでいる。
私も含めてどの人も、そこに私がいて、あなたがいるということを、当たり前のように
考えている。
しかしこれほど、もったいないというよりは、恐ろしいことはない。
人類は、その奇跡を自ら、末梢しようとしている。
地球火星化という問題の前では、第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、ただの
小競(こぜ)りあい程度のものでしかない。

 では、どうするか?

 ドレイクの公式の中の(L)値を大きくするしかない。
文明の進化の速度を落としてでもよいから、人類の存続する年数を長くする。
長くしながら、その間に、人類は、より賢くなる。
現在のように、サルが核兵器をもったような状態で、人類が長く存続できると
考えるのには、無理がある。
あと10年もすれば、そこら中の国々が核兵器をもち、あちこちで、
戦争を始めるようになるかもしれない。
そうなれば、「200年」も、むずかしいということになる。

 さあ、みなさん、もっと賢くなろう!
自分で考える力を、身につけよう!
人類を救うために!
(少し大げさかな? 自分でもそれがよくわかっています!)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 知的生命体 宇宙人 知的生命 銀河系 ドレイクの公式)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●ウォルト・ディズニーの『クリスマス・キャロル』byジム・キャリー

+++++++++++++++++++++++++

ものすごい映画!
3D映画。
それが『クリスマス・キャロル』。
主演は、あのジム・キャリー。
映画で、ここまでで表現できるとは!、というのが、私の感想。
驚いた。
圧倒された。
感動した。
星は文句なしの5つ星。★★★★★。
書き忘れたが、先週見た、『路上のソリスト』は、星4つの、★★★★。

『クリスマス・キャロル』の前作も、よかった。
10年ほど前に、劇場で見た。
が、今度は、CG映画。
女性の細い髪の毛一本一本が、ゆるやかに風になびいていた。
雪がひとつひとつ、遠近感を保ったまま、表現されていた。
本当に、驚いた!

+++++++++++++++++++++++++

●CG映画

 CG映画、つまりコンピュータ・グラフィックス映画といえば、思い出すのが、
最近見た、『沈まぬ太陽』。
空港の向こうから旅客機が飛び立つシーンが、何度か出てきたが、みな同じ。
しかも離陸の仕方が、不自然。
右に急旋回しながら離陸していたが、あんな離陸の仕方はない。
「離陸」というよりは、「墜落」?
取って付け足したようなシーンだった。
(興味のある人は、『沈まぬ太陽』を見てみたらよい。)
つまりこのあたりに、日本映画とアメリカ映画の技術力の(差)がある。
その(差)を、改めて、見せつけられた。

 映画を観終わったあと、ワイフは、こう言った。
「哲学がちがうわね」と。
ひとつの筋が通った哲学が、矛盾なく、映画の中に流れている。
まわりを固める脇役も、うまい。
加えて音楽も、すばらしかった。
「人生はどうあるべきか」ということを、62歳になった私ですら、教えられた。

 ただし童心に返って観ること。
余計なお節介かもしれないが、一度、子どもの心になって観る。
それを忘れると、「何だ、こんな映画!」となる。
『クリスマス・キャロル』は、そういう映画。

(補足)

 クリスマス・キャロルの中のスクルージーは、だれの心の中にも住んでいる。
私の心の中にもいる。
あなたの心の中にもいる。

一方、貧しいからといって、その人が善人とはかぎらない。
裕福になったとたん、スクルージーになる人は、いくらでもいる。
たとえば政治家にしても、当初は高邁な精神でもって、その世界に入る人は多い。
しかし長い間政治にたずさわっている間に、少しずつ心がゆがんでくる……(?)。
そういう政治家は、少なくない。

 金権には、そういう魔力がある。
言い換えると、結果として、スクルージーはスクルージーになったが、ではだれが
スクルージーを、石をもって打てるかというと、それはだれにもできない。
「自分はあんなにひどい男ではない」と、スクルージーを軽蔑しながら、自分は自分で
優越感に浸る。
安心する。
そのために、そこにスクルージーがいる。

 私は映画を観ながら、ときどき自分の過去を見せつけられているように感じた。
「私も、ああだったなあ」と。
同時にまた、「私のクリスマスも似たようなものだ」とか、「私が死んでも、葬式は
あんなものだろうな」とか、思った。
私の人生は、さみしいものだった。
今も、さみしい。
これから先も、同じようなものだろう。
クリスマスといっても、ここ10年ほどは、家族でささやかに言わう程度。
ときどきワイフと2人きりで祝うこともある。

 そんなことをワイフにポツリと話すと、ワイフは、こう言った。
「あなただって、しようと思えば、いつだってできるわよ」と。
「クリスマスに、生徒や親たちをみな、招待すればいいのよ。みんな来てくれるわよ」と。

 そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
たしかに来てはくれるだろう。
しかしそんなことで、私の心は満たされるのだろうか。
立場を利用しているだけ。
またそんなことのために、みなを利用したくない。
相手のほうから、自然な形で、「メリー・クリスマス!」と言ってほしい。
が、それこそ、わがままというもの。

 そこで私は決めた!

 今年からは、私のほうから、みなにプレゼントを渡したり、みなの家に
行ってやろう、と。
つまり「他人に愛されたれかったら、まず他人を愛する」ということ。
他人を愛することもできないような人が、他人に愛されるはずがない。
クリスマスにしても、そうだ。

 映画『クリスマス・キャロル』を観ながら、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●崩れた人格

++++++++++++++++++++++

私はS氏(当時70歳くらい)を、「詐欺師」と呼んでいた。
預かった香典をネコババする程度のことは当たり前。
自分の土地を、二重売り、三重売りするなどということも朝飯前。
二束三文の骨董品を、「江戸時代のもの」と言って、人に平気で売りつける。
しかもそれを、甥や姪に売りつける。
お金がなくなると、妻の老齢年金手帳を担保に、借金をする。
ウソにウソを重ねるというより、ウソを言いながら、
それをウソとも思っていない。
そのうち愛人との間にできた子どもまで、出てきた!

しかしそう書くからといって、何もS氏を個人攻撃する
つもりはない。
個人的には、S氏に興味はなかったし、関係も浅いものだった。
話題にするのも、不愉快。

が、心理学的には、たいへん興味がある。
S氏ほど、まともで、その一方で、人格的に崩れた人は、
そうはいない。

一例をあげる。

S氏には、愛人がいた。
その愛人をある日自宅へ連れてきた。
そして自分の妻に、こう言い放った。
「今日から、この女も、この家に住む。
めんどうみてやってくれ!」と。
S氏が、40歳を少し過ぎたころのことだった。

++++++++++++++++++++++

●非常識

 一事が万事というか、S氏には、S氏なりの一貫性がある。
けっして悪人ではない。
悪人ではないが、結果としてみると、詐欺まがいのことばかりしている。
が、その意識がない。
人をだましたという意識そのものが、ない。

 自宅へ愛人を連れてきたときも、そうだ。
S氏にすれば、友人(?)のめんどうをみるくらいの軽い気持ちだったかもしれない。
もともと家父長意識の強い人で、妻について言えば、自分の奴隷のようにしか
思っていなかった。

 だからS氏にすれば、親しい(?)友人が困っているのを助けるということになる。
そして妻は、そういう夫を手伝って、当然ということになる。
しかし全体としてみると、そういった行為そのものが、常識をはずれている。
つまり非常識。

 あとは推して量るべし。
ほかにもいろいろあるが、ここではそれについて書くのが目的ではない。
こうした非常識、もしくは非常識性は、どうして生まれるか。
ここでは、それについて、考えてみたい。

●人格の完成度 

 「人格の完成度」については、たびたび書いてきた。
EQ(Emotional Intelligence Quotient)論ともいう。
直訳すれば、「情動の知能指数」ということになる。

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説くEQ論では、
主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 一般的には、(1)自己管理能力が低く、(2)他者との良好な人間関係が築けず、(3)
他者との共感性が低い人のことを、「自己中心的な人」という。

 わかりやすく言えば、より自己中心的な人を、人格の完成度の低い人という。
反対に、より利他的な人を、人格の完成度の高い人という。
自己中心性が肥大化した人のことを、「自己愛者」という。

 しかしS氏のようなケースは、特殊。
あまり例がない。
かといって、見た目には、どこにでもいるような、ごくふつうの男性である。
痴呆性を感ずることもない。
反応もそれなりに、早い。
口も達者。
しかしどこかちがう。
おかしい。

●思慮深さ

 最大の特徴は、思慮深さがないということ。
ものの考え方が、短絡的で、演歌風。
(「演歌風」というのは、演歌の歌詞をそのまま口にすることが多いということ。)
そのためものの言い方も、唐突でぶっきらぼう。
もちろん繊細な会話はできない。
またそういうセンスは、もとから持ち合わせていない。

 それについては、血栓性の脳梗塞を起こしたためと説明する人もいる。
しかしS氏について言えば、30代、40代のころから、そうだった。
愛人を家に連れ込んできたときも、S氏は、40歳を少し過ぎたときのことだった。

 ではなぜ、S氏はS氏のようになったか。

 私はいくつかの点で、気になっていたことがある。
ひとつは、S氏の周辺には、文化性を思わせるものが何もないということ。
本や雑誌など、読んだことさえないのでは?
家人の話では、テレビのドラマさえ見たことがないということだった。
が、最大の特徴と言えば、思慮深さそのものの欠落ということになる。

 自己中心的で、わがまま。
常識といっても、一昔前の常識。
会話の中にも、「お前は男だろが……」とか、「女のくせに……」という言葉が
よく出てくる。
が、何と言っても常識そのものが、狂っている。

 預かった香典をネコババしたときも、そうだ。
同居している息子がそれをとがめると、こう言ったという。
「親が、先祖を守るために、甥の金を使って何が悪い!」と。

 まるで罪の意識がない。
ないというより、独特の論理の世界で生きている。

●非常識性

 こんな話を読んだことがある。

 今でもK国から脱出してくる人は、後を絶たない。
「脱北者」と呼んでいる。
そういう人たちが韓国へ逃れてくると、一時的に、そういった人たちを収容し、教育する
施設に入れられる。
そこでのこと。
脱北者たちは、散歩に出ると、近くの畑から、野菜や果物を平気で盗んできてしまう
という。
「盗む」といっても、その意識はないのかもしれない。
K国の中では、そうした食物は、国民みなのものという考え方をするらしい。

 つまり常識などといったものは、その時代、その民族、国民によってみなちがう。
決まった常識などというものは、ない。

 愛人を家に連れてきたというS氏だが、そういった話は、明治時代や大正時代には、
あちこちであった。
お金に余裕がある人は、愛人に別宅を与えて、そこに住まわせたりした。

●常識論

 が、今では、それは非常識。
ふつうの常識のある人なら、そういうことはしない。
……と、断言したいが、そうはいかない。
「私は常識的」と思っている人でも、別の場面では、結構非常識なことをしている。
先にも書いたように、「常識」などというものは、その時代、その民族、国民に
よってみなちがう。

では、こうした非常識性と闘うためには、どうするか。
それについて書く前に、もう一歩、話を掘りこんでみる。
というより、人間は、本来、そういう動物であるという前提で考える。

人間が今のような人間になったのは、ここ1000年とか2000年の間ではないか。
それ以前の人間には、道徳も倫理もなかった。
さらに今から5000~6000年前までの新石器時代となると、人間は人間という
より動物に近かった。

 人間は本来的に、S氏のような人間であると考える。
よい例が、戦国武将と呼ばれる人たちである。
NHKの大河ドラマに出てくる武将たちを観ていると、結構、思慮深い人物に描かれて
いる。
が、本当にそうだろうか。
そう考えてよいのだろうか。

 「武将」というためには、同時に平気で人を殺せる人でなければならない。
(人を殺す)という時点で、いくら名君と呼ばれようが、その人の人間性は、
動物と同じと考えてよい。
(動物だって、そんなことはしない!)
よい例が、織田信長ということになる。
徳川家康だって、そうはちがわない。
ただ徳川家康にしても、その後、300年という年月をかけて、徹底的に美化され、
偶像化された。
徳川家康に都合の悪い話は、繰り返し、末梢された。
その結果が今である。

 「盗(と)るか、盗(と)られるか」という時代にあっては、きれいごとなど、
腸から出るガスのようなもの。
きれいごとを並べていたら、その前に自分が殺されてしまう。
S氏の非常識など、戦国武将の前では、何でもない。
ただの冗談ですんだはず。

●では、どうするか

 あなたの周囲にも、S氏のような人はいるかもしれない。
似たような話を耳にしているかもしれない。
そこで大切なことは、そういう人がいたとしても、自分から切り離してしまっては
いけないということ。
「他山の石」もしくは、「反面教師」として、自分の中でそれを消化する。
その第一が、「思慮深くなる」ということ。

 S氏についても、総じてみれば、「思慮深さがない」。
すべては、そこへ行き着く。
もしS氏がもう少し思慮深ければ、S氏はもっと別のS氏になっていたかもしれない。
わかりやすく言えば、人格の完成度にしても、それはあくまでも(結果)。
日ごろから思慮深ければ、人格の完成度は、自ずと高くなる。
そうでなければ、そうでない。

 で、さらにその思慮深さは何で決まるかといえば、(思考を反すうするという習慣)
によって決まる。
それについては、数日前に書いたばかりだから、ここでは簡単にしておきたい。

 つまり自分の考えを、何ども頭の中で反すう(=反芻)するということ。
そしてそれは能力の問題ではなく、習慣の問題ということ。
その習慣を身につける。
それがその人の人格の完成度を、長い時間をかけて決める。

●補記

 同じ命を授かり、同じ時代を生きながら、そこに真理があることにさえ気づかず、
あえてそれに背を向けて生きている……。
私には、S氏という人がそういう人にしか、思えない。
「崩れた人格」というタイトルで、このエッセーを書き始めたが、「かわいそうな人」
というタイトルでもよい。

 さらに興味深いことは、そういうS氏でも、「いい人だ」と評価する人もいるということ。
まったくの悪人かというと、そうでもない。
もともと気が小さい人だから、大きな悪事を働くということはない。
陰に隠れて、コソコソと動き回っているだけ。

 それにどこか「寅さん」的なところがあって、憎めない。
香典をネコババされた人も、「あいつのやりそうなこと」と言って、笑ってすませている。
愛人を連れ込まれた妻にしても、今ではそれを笑い話にしている。
中に偽の骨董品を買わされて怒っている人もいるが、金額はたいしたことない。

 そうそう言い忘れたが、そのS氏は、ごく最近(09年)、他界したという。
久しぶりに知人に電話すると、そう教えてくれた。
享年、80歳。
私には強烈な印象を残して、この世を去っていった。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●世界は今……

++++++++++++++++++++

激動する世界!
いいのか、このままで!

++++++++++++++++++++

息子(二男)の話では、こうだ。

今、息子は、スイスにあるCERN(量子加速器)の
分析用のコンピュータのソフトウェアを開発している。
が、スーパーコンピュータでも、データを処理できないほど
情報量が多いそうだ。
そこでアメリカは、アメリカを中心として、OSG(Open Science Grid)
という組織体(コラボレーション)を組織しているという。
わかりやすく言うと、各大学などがもっている大型コンピュータ、
約1万台をつないで、スーパーコンピュータ以上の働きを
させるというもの。

この方法は、それぞれの研究者にとっても、つごうがよい。
自分の研究室にいながらにして、最先端の情報を手にすることができる。

そのEU版(バージョン)が、「EG」という組織体だそうだ。
息子たちが開発したソフトウェアを、EGに移植するという
話が出てきた。
それで今度、息子は、もうひとりの同僚といっしょに、スイスへ
向かうという。

世界は今、猛烈な勢いで、進歩している。
息子の話を聞きながら、そう感じた。

しかも驚いたことに、10人ほどのグループで、ソフトウェアを
開発しているそうだが、インディアナ大学にいるのは2人だけ
という。
あとはニューヨークとか、まったく別の地域に住んでいて、
そこで仕事をしているという。
「毎日、SKYPEなどで連絡を取り合っているから、不便は
ない」とのこと。
そう言っている息子も、週のほとんどを自宅で仕事をしている。

「お前のような人間が、アメリカで働いているということ自体、
日本にとっては、大きな損失なんだよナ」と言うと、息子は、
ポツリとこう言った。
「だって、日本には、ぼくができるような仕事はないから」と。

日本はいつの間にか、ここまで後れてしまった。
どうしようもないほど、後れてしまった。
息子にさえ、バカにされる、そんな国になってしまった。
小さな世界に閉じこもったまま、チマチマとたがいに出世競争
ばかりしている。
その結果が、「今」ということになる。

しかしこうした現状を、いったい、どれだけ多くの日本人が知って
いるだろうか。
息子の話によれば、家庭で使うコンピュータにしても、日本製はもう
ないそうだ。
ほとんどが中国製か韓国製という。

で、おととい見た、ディズニーの『クリスマス・キャロル』の話になった。
それについても、こう言った。
「あの映画もね、インドの会社が、ヨーロッパの会社に発注して、それを
アメリカで編集してできたんだよ」(注:内容は聞き覚えなので不正確)と。
映画も、世界的規模で制作されている。
そんな時代になった。

今、世界中が、溶けた鉄の固まりのようになって、ルツボの中で、ぐるぐると
回っている。
そんな中、いまだに「子どもに英語教育は必要ない」とか、「武士道こそ、
日本が誇るべき精神的バックボーン」とか、そんなことを説いている学者が
多いのには、驚かされる。
このままでは、日本は、再び、極東アジアの島国に逆戻りしてしまう。

いいのか、日本!
このままで!
息子とのSKYPEを切ったとき、私は、そう感じた。


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