2011年7月31日日曜日

*Ancient Language of the Japanese

●言葉(日本語)の起源(原始言語)

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中学生や高校生を教えていると、
ときどき、こんな話しになる。
「大昔の日本語は、どうだったか」と。

大昔といっても、石器時代の話し。
あるいはそれ以前。
そのつど、私はこんな話しを生徒たちにする。

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●「イ」と「ウ」の世界

 人類の歴史は、約20万年と言われている。
その中でも、新石器時代に別れを告げ、現在に見る文明社会に突入したのは、約5500年前。
そのころ黄河流域に黄河文明、チグリス・ユーフラテス川流域に、メソポタミア文明が生まれた。

 もちろん地域差も大きかった。
黄河文明が栄えたときですら、その周辺の民族は、火を使うことすら知らなかったという。
いつだったか、台湾から来ていた東洋医学の先生が、そう話してくれた。

 で、そういう世界では、つまり文明が始まる以前の人間は、どのようにして意思を伝達していたか。
その点、私たちが使っている日本語には、ひとつのヒントが隠されている。
「イ」と「ウ」である。

●状態は「イ」、動作は「ウ」

 これはあくまでも私の推察だが、ものの状態を表すときは、「イ」を使った。
「イ~」だったかもしれない。
あるいは発音は、「イ」に近いというだけで、もっとあいまいなものだったかもしれない。
その「イ」の前に、いろいろな名詞がくっついた。

 たとえば「草」と「イ」で、「クサイ(草イ)」と。
それが「臭い」となった、など。

 当初は単純な表現のみだった。
食生活や危険に関するものが多かったのでは?
「うま・イ」「まず・イ」「あぶな・イ」「こわ・イ」など。
それがやがて感情の表現へと発展していった。
「かなし・イ」「うれし・イ」と。

 同じように動作を表すときは、「ウ」を使った。
たとえば「走る・ウ」「食べる・ウ」「切る・ウ」と。
だから原始の日本人は、(モンゴル人でもよいが)、「イ~」「ウ~」というような言い方で、ものの性質や動作を表していた。
もちろん何らかのジェスチャも併用された。

 「食べる」というジェスチャを示しながら、「ウ~、ウ~」と言っていたことは、じゅうぶん、推察される。

●幼稚言語

 私は似たような現象を、ときどき、幼児の世界に見る。

 もう30年前になるだろうか。
私の近所のアパートに、若い家族が移り住んできた。
が、両親は共働き。
今で言う崩壊家庭。
2人の子ども(上が4歳前後の男児、下が2歳前後の男児)がいたが、保育園へも行かず、一日中、近所の広場で遊んでいた。
ときどき母親が仕事先から戻ってきて、何かの世話をやいていたが、それだけ。
その子どもたちの騒々しさといったら、普通ではなかった。
道路が遊び場だった。

 そのときのこと。
私は2人の子どもが、独特の言葉を使っているのを知った。
三輪車は「シャーシャー」、
押すは「ドウドウ」、
コロ付きの台車のようなものをもっていたが、それは「ゴーゴー」。
だから、「三輪車を押す」は、「シャーシャー、ドウドウ」となる。

 ほかにもいろいろな言葉を使っていた。
記憶は定かではないが、「あぶない」は、「ウヒャ」「ドヒャ」など。
終日、わけのわからない奇声が道路から聞こえていた。

●原始言語

 今から思うと、原始言語と言われるものも、それに近かったのではないか。
まず身近で関心のあるモノを、何らかの言葉で表現する。
先の子どもたちにすれば、三輪車。
「三輪シャ」の「シャ」だけが残って、「シャーシャー」になったとも考えられる。

 では、「ドウドウ」は、どうか。
いつか親が、「押す」という言葉を教えたのかもしれない。
「押す」が、「ドウ」になった?

 ともかくも原始言語の世界では、「モノ」に「ウ」がくっついた。
それによって、動作を表した。
ものの変化もその中に含まれる。

 たとえば「草・ル」が、「クサル(腐る)」になったなど。
草が変化して、臭くなる。
(私は、草・イ(臭い)、草・ル(腐る)は、「草」から生まれた派生語と推察している。)

「生きる」にしてもそうだ。
息をしている人は、生きている。
だから「息(いき)る」が「生きる」となった(?)。

が、その中でもとくに注目したいのが、短い単語。
原始言語の世界では、音の数も少なかったはず。
たとえば「うつくし・イ」は、6つの母音を含む。
こういう言葉は、ずっとあとになって生まれた。

 原始言語の世界では、母音の数は1つ、あるいは2つ。
「見る・ウ」「聞く・ウ」など。
わかりやすいのは、「イイ」。
自分にとって都合のよいものは、「イイ」と表現した。
それが「良い」へと変化していった。

 食べものであれば、「うま・イ」から、「おいし・イ」と。
もちろんその反対のこともある。
「わる・イ」「こわ・イ」と。
興味深いのは、「まず・イ」と「まずし・イ」。
本当に関連があったかどうかは、わからないが、ともに、「貧しい」の「貧」でつながっている。
味が貧弱だから、「まずい」、食料が乏しいから、「貧しい」と。

●早口

 ついでに言うと、1000年前の日本人と比べただけでも、現代人はきわめて早口になっていると推察される。
私はそのことを、学生時代、謡(うたい)を習っているときに知った。
ご存知の方も多いと思うが、謡の中に出てくる会話は、実にかったるい。
『これはこのオ~、~~の~~がしにて、そうろうウ~」と。
現在の話し方と比べても、数倍は時間がかかる。

 謡の中の会話がかったるいのではない。
1000年前の日本人は、そういう話し方をしていた。
そう考えるべきである。
というのも、私たちが子どものときでさえ、(ちょうど半世紀前ということになるが)、当時の日本人は、今よりずっとゆっくりと話していた。

 さらにこんなこともあった。
私たちが高校の修学旅行で、山口県の秋芳洞へ行ったときのこと。
私たちが早口なのを知り、現地のバスガイドがたいへん驚いていた。
「岐阜では、みな、そんな話し方をするのですか!」と。
地域性もある。

 これを原始言語に当てはめて考えると、言葉が誕生したころの世界では、人々は、今より、はるかにゆっくりと話しをしていた。
語彙数にしても、当時の日本人は、(モンゴル人でもよいが)、数10とか、数100とか、その程度しかなかったのでは?

 ……こうして想像力を働かせていくと、この世界はかぎりなく膨らんでいく。
それがまた楽しい。
子どもたち(中学生や高校生たち)も、こういった話しになると、目を輝かせて耳を傾けてくれる。

 もちろん私がここに書いたことは、あくまでも私の推察。
記録などあるはずもない。
しかしさらに最近、私はこんな発見をした。

 犬のハナ(今年20歳)が、ときどき言葉らしきものを話す。
たとえば私が家に帰ったようなとき、垣根の向こうから、「クク~ン、ウ~ン」というような声を出す。
それが毎回、同じ。
まったく、同じ。
私には、「パパ、お帰り」と言っているように聞こえる。
つまり「同じ」という点で、それがハナの言葉ということになる。
声帯が発達していないから、「言葉」としては認識できないが、もし声帯が人間並みに発達していたら、簡単な言葉を話すようになるかもしれない。

 恐らくこうした研究は、言語学の世界で真剣になされているだろうから、私がここに書いたことは、雑談ほどの意味しかない。
が、おもしろいことは、おもしろい。
たいへん興味深い。
原始時代の人間は、どんな言葉を使っていたか。
あなたも一度、子どもとそんなテーマで話しを進めてみるとよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 原始言語 原始時代の日本語 新石器時代の言葉)2011/07/31記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●浜松(遠州地方)の言葉

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私が住むこの遠州地方では、「本当?」と
聞き返すようなとき、「ウッソー(嘘)」と言う。

40年前、私が浜松へ来た直後には、
この言葉が、たいへん不愉快だった。
最初のころは、「嘘とは何だ!」と、本気で
言い返したことがある。

このことについては、もう何度も書いた。
が、ほかにもある。

このあたりでは、久しぶりに人に会ったりすると、
こう言う。
「まだ、~~の仕事、してたのオ~?」と。
60歳以上の年配の人が、よく使う。

たぶん、「元気で仕事をつづけられていいですね」
という意味でそう言う。
しかし先にも書いたように、私はここに住んで
40年になるが、いまだにこの言葉を使われると、
頭にカチンと来る。

たとえば私に向かって、「まだ塾やってるのオ~?」と。
聞き方によっては、(私はそう聞いているが)、
バカにされたように聞こえる。
だからそのつど、私はこう思う。
「バカにするな!」と。

「ウッソー」にしても、「まだ~~してるのオ?」に
しても、あまり品のよい言葉ではない。
遠州地方の人たちにはそれがわからないかもしれない。
が、外の地方では使わない方がよい。
相手を確実に不愉快にする。

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●独特の考え方

 戦争を経験した世代の人たちは、独特のものの考え方をする。
「死」を、「生きること」にからませて考える。
たとえば30年ほど前、私にこう言った人(男性)がいた。
当時40歳くらいだった。

「なあ、林(=私)、どうせ、あいつはオレより早く死ぬんだよ」と。
その男性は、相手の年齢を見て、そう言った。
つまり「長生きをしたほうが、勝ち」と。
あるいは「人生の結論は、臨終のときにわかる」と言う人も多い。

が、さらに一歩進んで、生き残り競争をしている人もいるという。
朝食のとき、ワイフがこんな話しをしてくれた。

●生き残り競争

 A氏(85歳)とB氏(75歳)は、隣どうしだが、仲が悪い。
顔を合わせることもない。
視線が合っても、たがいに顔をそむける。
あいさつすらしない。

 ともに元公務員。
年金だけは、じゅうぶんある。
それもあるのだろうが、A氏はいつもこう言っている。
「あいつ(=B氏)の最後だけは、見届けてやる」と。

 10歳も年下だから、平均余命から計算すれば、A氏のほうが先に死ぬ。
が、A氏は、「見届けてやる」と。
B氏に対する憎しみを、生き残り競争に転化させた。
それはすさまじいほどの執念と言ってよい。
80歳を過ぎてから、ウォーキングマシンを購入したという。
毎朝散歩し、ときどき自転車にも乗る。
ほかに生きがいらしい生きがいはない。

 妻はいるが、すでに毎日ケアセンターに通っている。
息子と娘がいたが、この30年以上、音信はない。
だからその執念(=恨み)を、B氏に向けた。

●以心伝心

 が、ここからの話しが興味深い。
そういうA氏の執念は、B氏に伝わっている。
A氏は、様々ないやがらせを、B氏に繰り返した。
それもあって、B氏はこう言っているという。

「Aさんが何を考えているか、よくわかっています」と。
が、幸か不幸か(?)、B氏はいたって健康。
奥さんも健康。
75歳を過ぎても、どこかの事務所で、事務の仕事を手伝っている。
それがA氏には、どうもおもしろくないらしい。
A氏は、ますます長生き競争に拍車をかけた。

●憎しみは人格を崩壊させる

 『人を憎むことは、ネズミを追い出すために、家に火をつけるようなもの』という。
つまり人格そのものを崩壊させる。
それもそのはず。

 憎しみを覚えると、免疫細胞がサイトカインという悪玉ホルモンを分泌する。
そのサイトカインが、脳ストレスを引き起こす。
それが免疫機能を弱体化させる。
が、それだけではない。

脳ストレスが慢性化すると、異常にこだわりが強くなり、ひいてはうつ病を引き起こす。
これが精神のさまざまな分野に影響を及ぼし、その人の人格を少しずつむしばんでいく。
つまり人格の崩壊をもたらす。
『家に火をつけるようなもの』というのは、そういう意味。

 事実、A氏の形相はふつうではない。
いつ見ても苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
それがぞっとするほど、醜い。

 つまりこうしたものの考え方そのものが、戦争を経験した世代の独特の考え方ということになる。
彼らがよく使う、「死んでも死にきれない」という言葉の裏には、そういう憎しみが隠されていることが多い。

 が、もちろんそうでない人も多い。
ワイフの父親(=義父)などは、いつもこう言っていた。
「申し訳ない」「申し訳ない」と。

 義父はラバウルで生き残った数少ない帰還兵。
「自分だけ生き残って帰ってきて、申し訳ない」という意味で、そう言っていた。
そういう人もいる。
だからみながみな、A氏のようなものの考え方をしているというわけではない。
しかし少なくないのも、事実。

●長生き

 日本人の平均余命(年齢)は、世界一という。
男性で80歳前後。
女性で86歳前後。

 もちろん長生きをすることは、すばらしい。
それはそれでよいこと。
しかしそこに「だからそれがどうしたの?」という疑問をかぶせてみると、平均余命も、そのまま色あせてしまう。

 長生きをする……だからそれがどうしたの?、と。

 つまり長生き競争も結構だが、長生きをするならするで、そこに生きる意味を加味しなければならない。
そうでないと、それこそ「息(いき)ている」だけで終わってしまう。
言い換えると、「息ている」だけの人生に、どれほどの意味があるというのか。
……とまあ、私たちの世代は、そう考える。
が、戦争を経験した世代は、そうではない。

 「自分だけ助かった」という思いを、「ああ、よかった」という思いに変えてしまう。
そういう思いが思考回路の基礎になっているから、「長生きしたほうが勝ち」と。
あの独特のものの考え方に、変わっていく。

 ともあれ、生と死を駆け引きに使ってはいけない。
神聖にして不可侵のテーマ。
いわんや「競争」に使ってはいけない。
A氏は、その愚かさに、死ぬまで気がつかないだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 戦中派 独特の考え方 生存競争 生き残り競争)2011/07/3記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司


2011年7月30日土曜日

*A Class -reunion Party in Nagoya

【同窓会で名古屋市へ】はやし浩司 2011-07-29

●名古屋

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今夕は名古屋市へ。
大学の同窓会(名古屋支部)が、名古屋市である。
ワイフも行きたいと言ったので、いっしょに行くことにした。
が、同窓会のほうではない。
「名古屋へ行きたい」と言った。

そこで刈谷の名鉄イン・ホテルに予約。
同窓会が終わるまで、ワイフにはそこで待っていてもらうことにした。
その名鉄インのこと。

ツィンルームは、1人6000円、2人で1万2000円(朝食付き)。
しかしシングルルームは、1名、2700円(朝食付き)。
この料金体系は、どう考えてもおかしい。
部屋を2つ借りたほうが、安い?
(シングルルーム2部屋で、5400円。
半額以下!)
おかしいので、電話をかけ、確かめてみる。

電話の向こうの男性は、あれこれ、ていねいに説明してくれた。
「部屋が広いです」とか、何とか。
まあ、こういうことで争うのは、いや。
予約どおり、1名6000円の部屋に泊まることにした。

同窓会は早めに切り上げ、ホテルに戻るつもり。
ワイフは、名古屋きしめんを、どこかで食べるのを楽しみにしている。
Me,too!

(補記:やはり部屋が広かった。
シングルルームの2倍以上。
泊まってみて、納得。
壁紙もトイレも新しく、清潔感にあふれていた。
1泊6000円(1名)でも、文句なし。)

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●同窓会

 名古屋で同窓会に出るのは、今回で2度目。
名古屋周辺に住む友人たちは、たがいに頻繁に会っているよう。
そのつど誘いがかかったが、時間が合わない。
たいてい金曜日の夕方。
仕事の帰りに、みなが、駅前のどこかに集まるといったふう。
加えて私は、アルコールが飲めない。

 が、今回は、夏休みということで、何とか、やりくりをした。
時間を作った。
で、4時30分の新幹線に。

 今、その新幹線の中にいる。
こだま号だが、座席の前後の間隔が広くなったように感ずる。
濃紺のシートが真新しい。
詳しくはないが、新型の新幹線らしい。
ただし電源用のコンセントはなし。
周りを見回してみたが、やはり、なし。
パソコンを持ち歩く私としては、やや不満。

 変わったところといえば、3号車と7号車に、自販機がついたこと。
1号車から8号車まで、すべて禁煙とか。

 ワイフは、列車最前部の電光ニュースを読んでいる。
私は、こうしてパソコンのキーボードを叩いている。

●教示

 同窓会にもいろいろある。
が、金沢大学法科の仲間たちは、結束力が強い。
出るたびに、楽しいというよりは、何か貴重な教示を受ける。
私には、それが楽しみ。

 それには理由がある。
その第一、みな、自分を飾らない。
あっけらかんとしていて、みな、自分のことを、平気で話す。
「今度、会社を3度目のクビになりまして……」とか、「(がんによる)闘病生活も、4年目になります」とか、など。
そのたびに、みなが、ヤンヤと拍手喝采。

 ただ、どういうわけか皆、奥さんの話しはしない。
私もしない。
息子や娘の話しもしない。
これはどういう理由によるのか。
同窓会というのは、そういうもの。
会ったとたん、学生時代に戻る。
独身時代に戻る。

●三河安城

 新幹線は、三河安城に着いた。
あと15分。
あと15分で、名古屋市。
今日のお供は、ダイナブックN200。
ドコモの携帯端末を買ったら、おまけにくれた。
が、このパソコンだけはネットに、スイスイとつながる。
WINDOW MAILの送受信も、楽。
さすが「おまけ」と、今、へんに感心する。

 で、浜松と名古屋は、遠いようで、近い。
新幹線で、たったの45分。
もし浜岡原発が福島第一原発のような事故を起こしたら、浜松はもちろん、名古屋市だって、あぶない。
人が住めなくなる。
悪い癖だ。
最近の私は、何か書いていると、すぐそういう話になってしまう。

●放射能汚染

 ものの考え方が、暗い。
陰鬱。
それは自分でもよくわかっている。
しかし私に言わせれば、世の中、反対にノー天気すぎる。
昨日も栃木県下の放射能汚染図が新聞に載った(中日新聞)。
それによれば、栃木県ですら北西部は、真っ赤。
福島県のいわき市と同程度に、汚染されているという。

 が、ここからが放射能汚染の怖いところ。
空気以上の「線」となって、じわじわとそこに住む人の人体を汚染する。
空気は人体を通過しない。
放射線は通過する。
いくら食べ物に気をつけていても、そういったものをすべて素通りして汚染する。
防ぎようがない。

●ハナ(犬)のダニ

 毎年この季節になると、ハナ(犬)の体にダニが付く。
ハナの血を吸い、大きさが5ミリほどになる。
それが少し油断していると、体中に何10匹と付く。

 そこでハナの体を洗い、薬をつける。
が、ハナはそれをいやがる。
洗ってやろうとすると、雰囲気で察して、そのままどこかへ隠れてしまう。
今朝もそうだった。

 そこでワイフにまずハナをつかまえてもらう。
そのあと、私はパンツ一枚で、外に出る。
ダニ取り用のシャンプーで、ハナの体を洗う。
そのときのこと。
私はこう思った。

 私の家で、昔からハナの世話をしているのは、この私。
が、ハナのほうといえば、その私をもっとも警戒している。
本来なら、私にいちばん感謝してよいはず。
「ご主人様、どうもありがとうございます」と。

 が、犬は犬。
そこまでの学習能力はない。
シャンプーで体を洗われることを、「ありがた迷惑」ととらえている(?)。
だから私から逃げる。

 が、今朝のハナはいつもと、少しだけちがった。
体を洗ってやっている間、私はずっとハナに話しかけた。
「かゆいだろ? だから洗うんだよ」よ。

 それがわかったのか(?)、いつもなら瞬時を置かず逃げ腰になるハナが、今朝はおとなしくしていた。
少しは私の善意が通じたよう(?)。
ハナは言葉を話さないから、本当のところはわからないが……。

●ホテルで

 午後9時ごろ、ホテルに着いた。
ワイフがドアのところで、迎えてくれた。
「食事は?」と聞くと、「すませた」と。
「ホテルの前にサイゼリア(店名)があって、そこですませたわ」と。

 あれこれ身支度を整えなおすと、外に出た。
出たところに、コメダ(店名・コーヒーショップ)があった。
私はそこでサンドイッチを食べた。
ワイフは、かき氷を食べた。

ワ「楽しかった?」
私「40年来の謎も解けたしね」
ワ「40年来の謎?」
私「そうだ」と。

 私は学生時代、けっして品行方正な学生だったというわけではない。
むしろ異端児だった。
そんな私だから、何をしてもドジばかり。
こんなことがあった。

●謎

 大学3年生のとき、内灘の海で4人の女子学生と知り合った。
4人の女子学生は、東京から来ていた。
金沢までいっしょに帰り、ビアガーデンへ行った。
で、そこからがロマンス。
要するに、よくある男と女の話し。

 私たちも4人。
女子学生たちが泊まるホテルに、忍び込んだ。
が、ここからが謎。
4人対4人。
かなりいい線までいったところで、突然、4人の女子学生たちが怒って部屋を出て行ってしまった。
「風呂へ行く!」と言って、浴場へ行ってしまった。

 私にはその謎がわからなかった。
どうして突然、4人の女子学生は怒ってしまったか。
が、今夜はじめてその理由がわかった。
あの夜、私は知らなかったが、DM君(4人のうちの1人)が、その女子学生の体の中に、手を入れたという。
タイミングが悪かった。
それでその女性学生が怒り、ほかの3人も、つづいて怒った。

 それでロマンスは終わり。

私「あのDM君が?」
友「そうなんだよ」
私「DM君は、ずっとぼくのせいだと言っていた」
友「いや、DM君のせいだよ。ぼくは横でそれを見ていたから」
私「ぼくは、見ていなかった……」と。

 DM君は、法学科の中でも1、2を争うほどの、まじめな学生だった。
(……というふうに、私は思っていた。)
そのDM君が、そんなことをしたとは!
信じられないというよりは、私はその話しに仰天した。
あの夜の雰囲気からして、もう少しじょうずに女子学生を誘導していたら、一生の思い出になっていたはず。

 で、あの夜覚えた、あのみじめな敗北感は、今でも忘れない。
私たちはトボトボと、深夜の金沢の道を歩いて、それぞれの下宿に帰った。

●日本経済新聞

 このところ毎日、日本経済新聞(本紙)に目を通している。
アメリカの債務協議問題や米国債格下げ問題が、気になる。
オバマ大統領は、上限を撤廃するのか、しないのか。
国債の格下げはしかたないとしても、それがどう国際経済に影響するのか。
上限をあげなければ、アメリカはデフォルト。
債務超過。
国家破綻。
一方、これ以上の借金は、無理。
どちらにせよ、アメリカ経済は破綻する。

……というほど大げさなものではないとしても、世界経済に与える衝撃と影響は、深刻なものになる。
すでにその予兆が、あちこちで現れ始めている。
世界中の株価が下落し始めているのも、そのひとつ。
もちろん日本の株価も、今週、大きく下落した。
が、この程度ですむとは、だれも思っていない。

 超巨大な台風を目前に控え、私たち一般民衆は、オタオタするだけ。
その向こうは、すべて、大恐慌という暗雲に包まれている。
経済の専門家ですら、「何が起こるか、予想が立たない」と言いだした。

 8月2日に、オバマ大統領は、どのような決断をくだすか。
8月3日に、世界はどのように動くか。
私たちは今、それを固唾をのんで、なすすべもなく、見守っている。

●7月30日

 刈谷の朝は、茜(あかね)色に輝いていた。
窓を開けると、眼下に、大型ショッピングセンター。
その左に、スポーツジムが見えた。
昨夜は遅くまで、ランニングマシーンの上で走っている人たちが見えた。

 静かな朝だ。
道路には、走る車もない。
時刻は午前5時半。
モゾモゾしながら、横からワイフが聞いた。
「何時?」と。

●ニュース

 ネットのニュースに目を通す。
あちこちで、いろいろな異常気象がつづいている。
韓国、北朝鮮の大洪水。
アメリカ北部の洪水と南部の大干ばつ。
この先、世界はどうなるのだろう……と考えたまま、思考停止。
この日本にしても、明日のことはわからない。
超大型の台風6号は、運よく太平洋にUターンしてくれた。
が、すでにそれにつづく台風がまた発生している。

 「もう、いいかげんにしてくれ!」と叫びたいが、自然は、もちろんそんな声に耳など傾けてくれない。
福島第一原発にしても、近くの浜岡原発にしても、余震や地震が、いつ起きてもおかしくない。
「安定している」とは言うが、問題は何も片づいていない。
さらに昨日の報道によれば、政府機関である保安院まで、(ヤラセ会議)を開いていたという。
マスコミは大騒ぎしているが、どうして?
こうした(ヤラセ)は、官僚のお家芸。
そのつど開かれる、「審議会」という名前の会議にしても、ヤラセでないのをさがすほうがむずかしい。
方法は簡単。

(1) YES・マンのみを集める。(どういう基準で人選されるのか?)
(2) 会議の進行は、官僚側が進める。(あらかじめ議題などは、すべて官僚側で用意。)
(3) 座長が、きわめて抽象的な答申をまとめる。(答申の内容を文書化するのも官僚。)
(4) その答申を自分勝手に料理する。(あとは官僚のやりたい放題。)

 座長には、それなりの地位と立場のある人物が選ばれる。
経済界の重鎮や御用学者たち。
御用文化人がなることも多い。
それなりの「三つ葉葵の紋章」をもっている人ほど、よい。
よくテレビなどにも名前と顔が出てくるから、どういう人が座長になっているか、それを見てみるとおもしろい。
つまり日本の政治は、政治家ではなく、官僚たちによって、こうしてゆがめられていく。

●スカイツリー 

 東京にスカイツリーができた。
600メートル以上もあるという。
一度は上ってみたいと思う。
しかし「上る」は「登る」。
私の山荘の横には、標高が550メートルの、M山がある。
3、4度、登ったことがある。
浜松市が一望でき、その向こうには丸みを帯びた太平洋が見える。
スカイツリーから見える景色も、あんなものだろうと想像する。

 が、このとき私の頭の中で、相反した2つの考えが交錯する。

 ひとつは、M山に匹敵するような高い「人工の山」を、よく作ったものだと感心する驚き。
もうひとつは、そんなものわざわざ作らなくても、「自然の山」があるではないかという思い。
ゼネコンは、こういう形で日本の技術力を世界に誇示したいのだろう。
言うなればゼネコンの看板のようなもの。
ドバイのように、自然の山のない国の人たちには、それなりに魅力的に映るかもしれない。
しかし私なら、近くのM山に登る。
登って、スカイツリーに上れない悔しさを解消する。
が、これは私の負け惜しみ。
すごいことには、ちがいないが……。

●大洪水

 朝のニュースは新潟県地方の洪水の様子を伝えている。
音は聞こえないが、映像からして、たいへんな洪水のようだ。
川を茶色の濁流が、波を打って流れていく。
画面で見ていると、その迫力はわからない。
が、私はその迫力をよく知っている。

 私が子どものころ、長良川も、よく洪水に見舞われた。
ふだんは静かでおとなしい川だが、大雨が降ると一転する。
そういうときは、川の近くまで行って流れを見る。
川が巨大なうねりを作り、ゴーゴーと流れていく。
それを見て、足がガクガクと震えたのを、今でも、よく覚えている。

 が、どうして今ごろ、大雨?
梅雨が終わって、もう2週間にもなる。

●アサヒスーパードライ
 
 同窓会は、楽しかった。
久しぶりに、腹の底から笑った。
ゆいいつの難点といえば、どうしてみな、同窓会というと、ああいう騒々しい場所でするのか。
静かなところで、静かに語らいあうというほうが、同窓会らしい。
今回も、「笹島交差点近くにある、アサヒスーパードライ」(案内)という店で、同窓会をした。
どこかドイツ風のビアホール。
金曜日の夜ということもあって、ほとんど満席。
みな、大声で怒鳴りあうようにして、話しをした。

 「次回は、どこかの温泉にしよう」という話しも出た。
それには大賛成。
名古屋市周辺にも、よい温泉地が、たくさんある。

 「みな元気だった?」とワイフが聞いた。
「……元気な人だけが、来た」と私。
そう答えたとき、ツンとしたさみしさが、心を横切った。

●刈谷

 刈谷は名古屋市の近くとばかり、思っていた。
が、来てみると、むしろ三河安城(新幹線の駅)のほうに近いことがわかった。
その先は岡崎、そして豊橋。
帰りはローカル線で帰ることにした。

 私たち夫婦は、「観光」には、ほとんど興味がない。
手元には、ホテルがくれた観光マップというのがある。
まだ目を通していないが、帰りにはごみ箱へ捨てるつもり。
それよりも、きしめんが食べたかった。
味噌カツでもよい。
昨夜口にしたのは、同窓会では、水とサラダだけ。
コメダでは、サンドイッチだけ。
観光より、食べ歩き。
そのほうが、ずっと楽しい。

 が、私の胃袋は、どこかいじけている。
食べだせば、いくらでも食べられる。
しかし今が、その状態だが、食べるまで、空腹感がほとんどない。
軽い逆流性食道炎が起きているよう。
腸内ガスがたまっているのか、腹全体が何となく腫れぼったい。

 もっともダイエットを始めて、すでに2週間。
昨日も自転車で1時間ほど、走った。
それもあって、胃袋自体が小さくなったように感じる。
少量の食事を口にしただけで、すぐ満腹感を覚える。

 ワイフがこう言った。
「ラッシュアワーをはずしましょう」と。
帰りの電車のことを言った。
「来週は、XX温泉に行こう」と声をかけると、「そうね」と。

 今ごろこんなことを書くのもおかしな話しだが、温泉といっても、気をつけなければならないことがある。
その第一が、皮膚病。
が、注意していても、何かの皮膚病をみやげにもらってしまう。
少し前、私はインキン、ワイフは水虫をもらって帰った。
私の印象では、露天風呂風の温泉ほど、あぶない。
岩肌がごつごつしているような温泉である。
見た目には風流だが、そこは病原菌だらけ。

 だから温泉は、湯につかるだけ。
体は部屋の中の内湯で洗う。
最近の私たちは、そう決めている。

●刈谷の駅で

 JR刈谷駅で、8時39分発の浜松行を待つ。
プラットフォームの長椅子を見つけた。
が、どこか疲れた様子の女性が手荷物を2つ並べて座っていた。
私たちが近づいても、荷物をどける様子もない。
で、私が「すみませんが……」と声をかけると、視線を合わせようともせず、不機嫌な顔をして見せた。
そのままの顔で、片手で、荷物を下におろした。

 同じ化粧にも、「旬の化粧」と、「疲れ化粧」がある。
若い女性が生き生きと、前向きにしている化粧を、「旬の化粧」という。
が、年を取ると、化粧もどこか投げやりになる。
それなりの化粧はするが、肌になじまない。
それを「疲れ化粧」という。
が、こうなると、化粧をしても逆効果。
不潔感だけが漂うようになる。

 相変わらず隣の女性は、ふてくされた顔つきをしている。
「うるさいジジイ」と、私のことをそう思ったのかもしれない。
そう、たしかに私は、うるさいジジイ!

●ラッシュアワー

 やはりラッシュアワーに重なってしまった。
電車が着くたびに、ドドーッ、ドドーッと人が降りる。
降りるというより、電車が人間を外へ吐き出す。
それらの人たちが、プラットフォームからあふれんばかりに、ゆっくりと歩いていく。
それぞれの人が、それぞれの思いをもって、今日という1日を始める。
しかしこの無機質な風景は、いったい、何なのか。
駅も、電車も、そしてそれを取り囲むビルも、さらにそこに見える人たちも、みな機械仕掛けで動くロボットのよう。

 都会生活というのは、それをいう。

●電車の中のオバチャン

 刈谷からはすぐ座れた。
が、またまた運の悪いことに、またまたあのオバチャン連中。
少しうしろの席に陣取って、ゲラゲラ、ギャハハハ……と。
しゃべりづめ、しゃべっている。
カラカラ、キャッキャッ、と。
男でもおしゃべりの人は多い。
しかし女性のそれは、甲高い。
よけいに耳に障る。

 羞恥心というものが、ない。
周りの人たちへの心遣いもない。
「うちのバーサンが……」と、そんな話しを繰り返している。
うるさいと思うが、これが日本の現実。
どこへ行っても、このタイプのオバチャンたちがいる。
まさに日本の低俗文化の象徴。
低俗そのもの。
山ザルが、服を着て、電車に乗っている。
私には、そう見える。

●眠い

 電車は蒲郡(がまごおり)を過ぎ、もうすぐ豊橋に着く。
窓の外の景色が白っぽくかすんで見えるのは、窓ガラスが汚れているせい?
それとも湿度が高いせい?

 たった今、豊川の鉄橋を渡った。
ゴーッという金属的な音が、足元から伝わってきた。
眠い……。
昨夜は、あまりよく眠れなかった。
ああいうホテルでは、温度調整がむずかしい。
「L(低)」にすると、暑すぎる。
「M(中)」にすると、寒すぎる。
そこで昨夜は、「M」にし、薄い掛布団を2枚重ねて寝た。

 ……あのオバチャンたちは、豊橋で降りなかった。
残念!
終点の浜松まで、行くらしい。
それにしても、よくしゃべる。
いつもの私なら、それを注意するが、今日は、その元気もない。
畑の中のやぶ蚊のようなもの。
このタイプのオバチャンは、叩いても叩いても、つぎからつぎへと出てくる。
だったら、畑の中には入らないこと。
こうした電車には、乗らないこと。

●今日の予定

 今日の予定は、とくになし。
庭の草刈りをするつもりだが、炎天下ではできない。
このところ暑さに、ぐんと弱くなった。
あとは来週の教材作り。
人に会う予定はなし。

 あああああ……。
今度は私たちの前に座ったオバチャンたちまで、大声でしゃべり始めた。
豊橋から乗り込んできたオバチャンたち。
うしろからと前から。
意味のない話し。
安っぽい情報の羅列。
それが間断なく、つづく。
こういうのを文化的拷問という。

 ……電車の車掌は、いつもこう言う。
「周りのお客様の迷惑になりますから、携帯電話はオフかマナーモードにしてください」と。
オバチャンたちの話し声のほうが、ずっと迷惑。
どうしてそのオバチャンたちの会話を、野放しにしているのか。

★オバチャンたちへ、

 そんなことをつづけていると、本当に社会のゴミになってしまうぞ!
なぜ私たちが老人になるかといえば、自分たちの得てきた知識や経験を後世の人たちに伝えるため。
それが老人。
その老人が、自らそ老人の立場を破壊している。
だから最近の若い人たちは、こう言っている。
「老人というのは無駄で、役立たず」と。
さらに若い人たちが、私たち老人組を「社会の邪魔者」と思うようになったら、おしまい。
私たちの居場所は、もうない。

●あと少しで、浜松

 あと少しで、浜松。
何でもない旅行だったが、ワイフは満足そう。
よかった!

2011/07/30記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司








2011年7月29日金曜日

●退化する日本語(ネオテニー進化論と日本人の幼児成熟)

【私とは何か】byはやし浩司
 
●自己中心性(Egocentricity)

++++++++++++++++++

自分がそう思っているから、相手も
そう思っているはずと考えるのは、
自己中心性以外の何ものでもない。

あるいは自分がこう思っているから、
あなたもそう思えというのもそれ。
さらに一歩進んで、「私は正しい」と
思うのは、その人の勝手。
が、その返す刀で、「あなたは
まちがっている」というのもそれ。

こうした自己中心性は、発達過程に
ある乳幼児の心理に共通する。
つまり自己中心的な人は、それだけ
乳幼児に近いということになる。
もう一度、乳幼児の心理について、
おさらいをしておきたい。

+++++++++++++++++

●乳幼児期(エリクソン・心理発達段階論)

 この時期の幼児の特徴を一言で表現すれば、「自己中心性」ということになる。
ものごとを、(自分)を中心にして考える。
「自分の好きなものは、他人も好き」「自分が嫌いなものは、他人も嫌い」と。

 それがさらに進むと、すべての人やものは、自分と同じ考え方をしているはずと、思いこむ。自然の中の、花や鳥まで、自分の分身と思うこともある。
これをピアジェは、「アニミズム」と名づけた。
心理学の世界では、物活論、実念論、人工論という言葉を使って、この時期の子どもの心理を説明する。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。
風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考える。
……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心理をいう。
ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。
乳幼児は、心の中でそれを念ずることで、実現すると考える。
……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられたと考える心理である。
人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。
ある子どもは、母親に、月を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。
そういう心理は、乳幼児の人工論によって、説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎えることがある。

●自己中心性

 私も子どものころ、……小学1年生くらいのことではなかったか、学校へ行く途中、こんなことを考えた。
「目に見えない、うしろの世界はどうなっているんだろう」と。

 前の世界は、目で見ることができる。
しかしうしろの世界は、見えない。
だからひょっとしたら、うしろの世界は、私が目を離した瞬間、消えてしまうのではないだろうか、と。

 まさに自己中心的な発想である。
が、こうした現象は、私だけのものではなかった。
そのあと、同じように考えている幼児や、小学生に、何人か出会った。
その子どもたちも、同じようなことを言っていた。

●否定期

 こうした自己中心性は、やがて修正期に入る。
言い換えると、人格の完成度は、いかに自己中心的でないかによって、決まる。
ピーター・サロベイの「EQ論」を例にあげるまでもない。
が、それで終わるわけではない。
そのあと今度は、自己中心性の否定期へと入る。

 簡単に言えば、私から「私」をどんどんと脱ぎ去っていく。
つまり私というのは、ちょうどタマネギのような構造をしている。
私の周りを、無数の「私」が取り囲んでいる。
その「私」をどんどんと脱ぎ去っていく。

 すると私はかぎりなく、かつ細く、小さくなっていく。
所詮、私というのは、その程度のもの。
中には、タマネギの皮を脱ぎ去っていったら、何も残らなかった……という人もいるかもしれない。
この私も含めて、大半の人たちがそうかもしれない。
死ぬまでに、ほんの少しでも私を残せる人は、そんなにいない。

 私たちは、それほどまでに、私であって私でないものに、毒されている。
私でないものを、「私」と思い込んでいる。
つまりその(思い込み)自体が、まさに自己中心性の表れとみる。

●ある宗教団体

 ときどき私の家にも、どこかの宗教団体の人たちが、よく勧誘に来る。
断っても断っても、来る。
が、そういった人たちは、おしなべて、穏やかで穏和な表情をしている。
自分で努力し、自分でそういう境涯に達してそうであれば、それはそれで結構。
しかし中身は、「注入された思想」。
注入された思想をもって、自分の思想と思い込む。
言うなれば、あとから張りつけられたタマネギの皮。
そういう皮でもって、身を飾る。
心を飾る。

 もっともその人自身が、それで幸福なら、それでよい。
事実、幸福そうな顔をしている。
が、そういう人たちは、ひとつの重要な事実に気づいていない。
つまり、たった一度しかない人生を、それと引き替えに、無にしている。

 いらぬ節介かもしれないが、自分の足で立つ。
自分の足で歩く。
不完全で未熟であることを恥じる必要はない。
それに気づいたら、また前に進む。
失敗や挫折を恐れる必要はない。
さらに前に進む。

つまりそれこそが、私たちが「今、ここにいる」という意味である。
無数のドラマもそこから生まれる。
生きる気高さもそこから生まれる。
あのトルストイも『戦争と平和』の中で、こう書き残している。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールの言葉である。

●私たちは何を残せるか

 タマネギの皮をめくることは、勇気のいること。
最悪のばあい、そこには何も残らなくなってしまう。
そんなこともありえる。
その不安があるから、勇気がいる。
「私もただのオジチャン」「私もただのオバチャン」と認めることは、そのまま自己否定につながる。

 何が恐ろしいかといって、人生の晩年になって、「私の人生は何だったのか」と思い知らされることほど、恐ろしいことはない。
それが自己否定ということになる。

 だから釈迦は、『精進』という言葉を残した。
私たちは死ぬまで、ただひたすら精進あるのみ、と。
が、それでも残せるものは、少ない。
が、ヒントがないわけではない。
それが冒頭にあげた、「自己中心性」の否定である。
道はちがい、方法もちがうかもしれないが、それを実行した人は多い。
インドのマザーテレサもその1人。

 私たち凡人には、とてもまねできないが、しかし不可能ではない。
あのマザーテレサは、それを私たちに教えてくれた。

 難しい話しはさておき、あなたもこう思ったらよい。
「自分の中に自己中心的なものを感じたら、それこそ闘うべき、己の敵」と。
けっして楽な闘いではない。
ないが、日々の精進のみによって、達成できる。
方法は簡単。
いつも、何をしても、自分の心に静かに問いかけてみればよい。

「だから、それがどうしたの?」と。

 そのとき、意味のないものは、スーッと風のように消えていく。
意味のあるものは、何か、心にひかかる。
こうして自分のタマネギの皮をむいていく。
で、最後に残ったもの。
それが「私」ということになる。

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Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●7月27日(掛川グランドホテルにて)

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今夜は掛川グランドホテルに一泊。
今、そのホテルの一室にいる。
時刻は、午後11時。
先ほど、市内での講演を終え、このホテルに
やってきた。
掛川市で泊まるときには、いつもこのホテル
と決めている。
駅前にあり、交通の便もよい。
(掛川駅から歩いて、1、2分)
雰囲気も、よい。

ところで今日のお供(パソコン)は、
TOSHIBAのUX。
これが、どうも調子が悪い。
メールにしても、受信はできるが、送信ができない。
ワードを使っているが、一語ごと、変換に時間がかかる。
モタモタというよりは、そのつど動きが止まってしまう。

(たった今、パソコンを再起動してみた。
動きがもどった。
よかった。
こういうときは、再起動をかけてみるのが、イチバン。)

・・・前回このホテルに泊まったのは、ちょうど1か月前。
偶然なのか。
前回泊まった部屋の2つ、隣の部屋。
今夜は5階の、5XX号室。

朝食つきで、1名1泊6000円。
ワイフと2人で、1万2000円。
ポイント割引がついたので、1万1500円。
ワイフはもうベッドの上で、寝息を立てている。

++++++++++++++++++

●ダイエット

 ダイエットの効果が表れ始めた。
つまりダイエットというのは、最初の7~10日前後は、効果が表れない。
いくら運動をしても、またいくら節食をしても、体重はそのまま。
「脂肪が筋肉に変わるため」という説もあるが、私は知らない。
(これはワイフの説。)

 毎日、300~500グラムずつ、体重が減っていく。
それがうれしい。
現在、65・0キロ。
2・5キロの減量に成功。

 そう言えば数日前から、体を軽く感ずる。
それに加えて、運動量をふやしたせいか、頭の回転もよくなった。
中学生を教えていると、それがよくわかる。
頭の回転が悪いときは、脳みそが眠ったような状態になる。
計算ミスが多くなる。

 が、ここで油断をしてはいけない。
明日の朝食は、バイキング。
私の意思の強さが試される。
どこまでがまんできるか。
私たち団塊の世代は、バイキング料理を前にすると、こう考える。
「食べなければ損」と。
心貧しい世代。
それが試される。

 目標の63キロまで、あと2キロ。
苦しい闘いがつづく。

●秘策

 今度、生徒を山荘に招待することにした。
Sさん(中3女子)と、もう1人・・・。
そのSさんが、こう言った。
「奥さんも来るんでしょ?」と。
「そうだ」と答えると、「ああ、よかった・・・」と。

 ひとつ秘策がある。
最初、Sさんを、ボロボロの農家へ連れて行く。
(一軒、廃屋になった農家がある。)
「ここが山荘」と、説明する。
「あの木が、その木」と、説明する。

少し前、Sさんにこう言った。
「先日、山荘の前の木で、首をつって死んだ人がいてね」と。
「その木」というのは、その木をいう。
で、Sさんが、泣きべそをかき始めたら、私の山荘へ連れて行く。

 風呂はドラム缶、ベッドはベニア板、トイレはボットン便所、・・・ときどき朝起きると、ヘビが横で寝ている。
Sさんにはそう話してある。
Sさんは、それを本気にしている。
いつも私のことを、「オヤジ」と呼んでいる。
そのカタキを、今度、取ってやる。
生意気な子だが、あっけらかんとした明るい性格。
自分でも「私は男」と言っている。
そんな性格が、私は好き。

(ただし、ワイフは、この秘策には反対。
「かわいそうだから、そんなことをしてはだめ」と言っている。
どうするかは、その日の雰囲気で決める。)

●至極の時

 こういう夜は、いつまでも文章を書いていたい。
私にとっては、至極の時。
部屋の温度は、最適。
静か。
デスクの横のランプの明かりも、よい。

 ワイフは、背中側のベッドで熟睡中。
すっかりバーさん顔になった。
そんなワイフが小娘のような姿勢で眠っている。
片方の手を頬にあて、横向きに眠っている。

 今週は、名古屋市でもう一泊するつもり。
すでに予約をすませてある。
が、これも老後の過ごし方のひとつかもしれない。
生活の中に変化をどんどんと、取り込んでいく。
それが脳に、ほどよい緊張感を与える。
ボケ防止には、よいのでは・・・?
多分?

●自由

 先ほどから、スカイプの呼び出しがつづく。
たぶんアメリカに住む二男からのものだろう。
しかし今夜は、やめた。
今の私には、「この時」が大切。
穏やかで満ち足りた夜。
自由な夜。
私は今、脳みその中を自由気ままに飛び回っている。
何かを書かねばという気負いもない。
ひらめいたことだけを、書いている。
私には、それが楽しい。

 そう、中国語で「自由」というのは、「自らに由る」という意味。
これについては、何度も書いた。
が、英語では、「freedom(自由)」という。
「freedom」というときは、何も束縛のない状態をいう。
今、その「freedom」を、満喫している。
私を束縛するものは、何もない。
私はしばし、その心地よさに、酔いしれる。
 
●メール

 先ほど、Kさんという方から、メールが入った。
BW教室(私の教室)への見学を申し込んできた。
しかしこの7月に、満員になってしまった。
例年だと、今の時期、クラスを2つに分ける。
が、今年は不景気。
2クラスに分けるほど生徒が集まらない。
だから1クラスのまま。
しばらくこのまま。
だから満員。

 その旨のメールを送ろうとするが、何度トライしても、サーバーのほうで
切断されてしまう。
?????

 試しに自分宛にメールを送信してみるが、これもだめ。
?????
こんなことは今までになかったこと。

●見学

 ある幼稚園の園長も、そう言っていた。
最近の母親たちは、幼稚園でも、「当然入れる」という前提でやってくる、と。
が、引き受けられる子どもと、そうでない子どもがいる。
そこで幼稚園のほうで、「お引き受けできません」とでも言おうものなら、猛烈にそれに抗議してくるという。
「どうしてうちの子は、入れてもらえないのですかア!」と。

 私の教室ではさらにそうで、一度だけだが、こう言われたことがある。
「何を、お高く留まっているの!」と。
その言葉が今でも、トラウマになっている。
見学を断わるにも、神経を遣う。

●老人組

 今夜の講演でも、こんな話しをした。
「昔は子どものほうが、ごめん、ごめんと、謝りながら生活していた。
今は、親のほうが、子にごめんごめんと言って生活をしている。
さらに、最近に至っては、祖父母のほうが、孫に、ごめんごめんと言って生活をしている」と。
親子の立場が逆転している。

 同じような意識が、親たちの世界にも入り込んでいる。
社会のほうが、親たちに、ごめんごめんと言いながら、頭を下げている。
もっとも、そういう社会を恨んでもしかたない。
若い人たちを責めてもしかたない。
そういう社会にしたのは、私たち。
私たちの責任。

 言い換えると、私たち老人組は、ますます小さくなるしかない。
社会の隅で、ひっそりと生きていくしかない。
しかし・・・。
そういう世界で、結局は、損をするのは、若い人たち。
今はわからない。
保護者が何重にも、そのうしろで構えている。
その保護者がいなくなったら、どうなるのか?
どうするのか?
そのとき、それがわかる。

●掛川グランドホテル

 話しがかなりグチぽくなってきた。
読む人だって、おもしろくないだろう。
だからこの話しはここまで。

 で、ワイフが言うには、このホテル(掛川グランドホテル)は、インドネシアのホテルみたい、と。
ライティングもそうなっている。
ロビーを飾る調度品もそうなっている。
「エキゾチック」という言葉が、ふさわしい。
ひとつだけ残念なのは、大浴場がないこと。
露天風呂でもあれば、最高。
が、もしそうなら、とても先の料金では泊まれない。

 先ほど窓の外の景色をしばらくながめた。
大きな駐車場をはさんで、立派な民家が、左右に並んでいた。
「駅に近くていいな」と思った。

●逆恨み

 話題を変えよう。

 思春期を通り過ぎると、男性も女性も大きく変わる。
が、男性のばあいは、どんな形であれ、社会の前面に出ることができる。
しかし女性のばあいは、そうでない。

 それなりに恋愛をし、結婚できればよい。
が、そうでないときに、女性は、心をゆがめる。
失恋がつづけば、なおさら。
その一例というわけでもないが、軽自動車に乗っている若い女性ほどこわいものはない。
スピード違反など、朝飯前。
ふつうのスピード違反ではない。
社会を逆恨みしているかのような走り方をする。
もちろん信号無視、駐車場無視。
さらに今日、こんなことも発見した。

 プラットフォームで列車の到着を待つ。
そのときのこと。
若い女性たちは、「列」を作らない。
ブラブラとバラバラに立っている。
私たちは、そのうしろに並んだ。
が、あとから来た女性たちが、どんどんと横に張りついてくる。
割り込みなのだが、割り込んでいるという意識すらない?

 どうしてか?

 これも子どもたちの発達段階を見ていると、よくわかる。
小学2、3年生までは、男児をいじめ、泣かすのは女児。
いじめられて泣くのは男児。
いじめて泣かすのは女児。
それが小学3~4年生を境に逆転し始める。

 そのときから、女性には、(欲求不満)が、うっ積するようになる。
それが慢性化する。
社会に出ると、さらにそうで、それが先に書いた「逆恨み」に転化する。
自動車を運転していても、余裕がない。
心に余裕がないから、運転にも余裕がない。

・・・とまあ、私は、勝手にそう解釈している。
またそう解釈しないと、女性の、こうしたゆがんだ心理(失礼!)を理解することができない。

 もちろんみなが、みな、そうというわけではない。
男性でも、世の中を逆恨みしながら生きている人はいくらでもいる。
今の私もそうかもしれない。
ハハハ。

●おやすみ

 ……しばし、ぼんやりとする。
やがてこの時間も過ぎ、明日になる。

 今夜の講演は、まあまあのでき。
ワイフがそう言った。
それに時間通り、終わることができた。
ほどよい満足感が身を包む。

 ……眠くなってきた。
もう、寝よう。

おやすみ。

2011年7月26日夜記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●7月29日

+++++++++++++++++++

「7月29日」と聞いて、驚く。
今月も残すところ、今日も含めて、残り3日!
……というふうに考えるのは、まちがっているのかもしれない。
月数、日数などというものは、ただの「数字」。
便宜上の「数字」。
今、ここにあるのは、「今日という一日」。
私がすべきことは、今日という一日を、無駄なく、懸命に生きること。

そう言えば、先週、ある温泉に行ったら、そこに血管年齢測定器というのが、
置いてあった。
手の指を装置の中に入れ、1分ほど静かにしている。
するとその人の血管年齢(=健康度)が、グラフで示され、それがプリントアウト
して打ち出される。

どういうしくみによるものなのかは知らない。
信頼性も、どの程度あるのかも知らない。
たぶん、血流の流れを測定し、その流れのよしあしから、「血管年齢」を
計算しようというものらしい。

その測定器によれば、私の「血管年齢」は、51歳と出た。
注意書きには、「実際の年齢より、血管年齢が高い場合には、脳卒中、心筋梗塞
などに注意してください」(記憶)とあった。
逆に読めば、私はこと血管に関しては、健康ということになる。

もっとも温泉から出たあとのことなので、血流の流れはよかったのかもしれない。
料金は、300円。
「51歳」という年齢を見て、悪い気はしなかった。

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【ネオテニー進化論・幼児成熟の問題】

●若い人たちの日本語

 このところBLOGやYOUTUBEへのコメントが、多くなった。
ほとんどは好意的なものだが、中には辛らつなものもある。
そういうコメントを読んでいると、ふと、こんな疑問が湧いてくる。
最近の若い人たちは、きちんとした日本語が話せるのだろうか、と。
「書けるのだろうか」でもよい。
さらにもうひとつ、気になることがある。
文そのものが、破滅的。

 たとえば昨日も、こんなコメントが寄せられた。
私が、『伸びる子vs伸び悩む子』というタイトルで話した、YOUTUBEについてだが、こうあった。
「こんなことで、決められるのかよお」と。

 たったそれだけ。
禅問答のようでもある。
謎かけ問答のようでもある。

 私はそのYOUTUBEの中で、スタンフォード大学でなされた、『マシュマロテスト』について話した。
あのテストは、1960年代になされ、その後も詳細な追跡調査がなされている。
信頼性はきわめて高い。
もしこうしたテストを否定するというのであれば、では研究とは何かということになってしまう。

 それはそれとして、こうしたコメントを整理すると、こうなる。

(1)きわめて短文(文章になっていない)
(2)相手の心をズバリと一撃する(イヤミ)
(3)論理性がない(非ロジカル)
(4)全体に、謎かけ的(勝手に判断しろと、内容が攻撃的)

 この中で「イヤミ」という言葉を使った。
そのイヤミを平気で口にしたり、文にしたりできる人とというのは、かなり心のゆがんだ人とみてよい。
つまり今、そういう若い人たちが、ふえている。
こうした特徴を反対側から整理すると、こうなる。

(1)長い文章が書けない(文章がつながらない)
(2)説得力のある文章が書けない(短絡的、直情的、直感的)
(3)思考が支離滅裂(ロジカルなものの考え方ができない)
(4)建設的な意見をまとめることができない(破壊的、否定的)

 もっともこういう人たちは、全体の中の一部?
が、気になるのは、ネットユーザーの中に、そういう人たちが多いということ。
つまりこの先、ネット社会が普及すればするほど、そういう人たちがふえてくる(?)。

●直情的、短絡的

 幼児に、こんな質問をしてみる。

「あなたがブランコに乗っていたら、分からず屋のA君が、ブランコを横取りしようとしてきました。
そのときあなたなら、どうしますか?」と。

 これに対して、「横取りはだめと話す」とか、「順番に乗る」とか、そういうふうに考えるのが、常識的。
しかし中には、「そういう分からず屋は、ぶん殴ってやればいい」とか答える子どももいる。
ものの考え方が、直情的かつ短絡的。
ものごとを冷静に、かつロジカルに考えることができない。

 実は、昨日も、こんなことがあった。

 この1週間、発砲スチロール製のパイプ様の棒を教室に置いておいた。
チャンバラごっこをするためである。
が、この遊びはチャンバラごっこというよりは、幼児に自信をつけさせるためにする。
わざと私のほうが負けてみせる。
それによって幼児たちは、「先生をやっつけた」という自信をもつ。
どこか自信喪失気味の子どもには、効果的。
そのあと、見違えるように、積極的になる。

 で、その棒を使って、小6の子どもたちに剣道の基本を教えた。
私は学生時代、柔道をずっと習っていた。
その余力で、剣道にもかなり詳しい。

 で、一通り、それを説明し、「さあ、勉強しよう」と棒をテーブルに置いたとたん、後頭部から一撃。
強烈な一撃だった。
しかも水平打ち。
剣道では、禁じ手である。

 ほんの少し耳をはずれたからよかったもの、まともに当たっていたら、私は鼓膜を破られていたはず。
振り返ったら、S君がニヤニヤと悪びれた様子もなく、そこに立っていた。
私は思わず、「何てこと、するんだ!」と怒鳴りつけた。
が、しばらくは怒りが収まらなかった。

 もともと過剰行動性のある子どもだったが、まさか背後から、力一杯襲いかかってくるとは思っていなかった。
実のところ、こういう子どもが、いちばん、恐ろしい。
ものの道理がわからない。
自己管理能力が弱い。
行動が衝動的で、突発的。

 行動と思考とは、そういう点で連動している。
相互に密接にからみあっている。
相手がまだ私だったからよかった。
もしこれが生徒だったら……。
それで私の教室は閉鎖……ということにもなりかねない。

●作文力

 今さら手遅れかもしれない。
アメリカなどでは、読書力、作文力が教育の柱になっている。
小中学校にも、「Library(読書)」という時間がある。
その教科だけは、学士号ではなく、修士号をもった教師が指導に当たっている。
つまりそれだけ重要視されている。

 が、この日本では、作文力は、ほとんど問題にされていない。
指導するとしても、受験塾が受験対策として、それをしている。
だからというわけではない。
日本語の特性というか、日本語というには、ウーパールーパー的※なところがある。
日々にどんどんと変化していく。
文法などあって、ないようなもの。
文法だけではない。
言葉そのものも、変化していく。

 あと20~30年もすれば、今、私がここに書いている文章にしても、辞書なくして読めなくなるかもしれない。
それは日本の文化にとっても、「熟成」という観点からしても、たいへん悲しむべきことと言ってよい。
若い人たちは、先人の知恵や経験を、そのまま生かすことができなくなる。

●コメント

 辛らつなコメントだったが、私は、もう慣れた。
どうせその程度の文しか書けない人たちである。
本気で相手にする必要はない。
それに先にも書いたように、心はすでに壊れている。
気づいていないのは、本人だけ。
書きたければ書けばよい。
私のほうは、何も考えず、削除するだけ。

 「こんなことでいいのかなあ」という思いは残るが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 作文力 作文力を失った若者たち)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)ウーパールーパー(ネオトニー進化論・幼児成熟)

 以前、別の角度から、ウーパールーパーについて書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原始反射(2006年7月の原稿より)

++++++++++++++++

赤ちゃんには、赤ちゃん特有の反射
的運動がみられる。

これを、「原始反射」と呼ぶ。

++++++++++++++++

 二男の娘(私の孫)が生まれて、もう2か月になる。名前を芽衣(Mae)という。最近、やっと漢字の名前が決まった。

 その芽衣を想像しながら、改めて心理学の本(心理学用語辞典・かんき出版)を、ひもとく。乳児と幼児は、必ずしも、連続的につながっているわけではない。たとえば、赤ちゃんには、赤ちゃん特有の、反射的運動がある。

 これを「原始反射」と呼ぶ。この原始反射の多くは、生後3~4か月で、消失してしまうことが知られている。

 その原始反射には、つぎのようなものがある(心理学用語辞典より)。

(1)把握反射
(2)バビンスキー反射
(3)モロー反射
(4)口唇探索反射
(5)自動歩行反射
(6)マグネット反射

 把握反射というのは、手のひらを指などで押すと、その指を握ろうとする現象をいう。

 バビンスキー反射というのは、新生児の足の裏を、かかとからつま先にかけてこすると、親指がそりかえり、足の指が開く現象をいう。

 赤ちゃんの胸の前に何かをさし出すと、それに抱きつくようなしぐさを見せることをいう。ドイツのモローによって発見されたところから、モロー反射と呼ばれている。

 口唇探索反射というのは、赤ちゃんの口のまわりを指などで触れると、その指を口にくわえようとする現象をいう。

 自動歩行反射というのは、脇の下を支えながら、右足に重心をかけると、左足を前に出そうとする。これを繰りかえしていると、あたかも歩いているかのように見えることをいう。

 マグネット反射というのは、両脇を支えて立たせると、足が柱のようにまっすぐになる現象をいう(以上、同書より要約)。

 これらの現象は、短いので、生後2~4週間で、長くても、8~10か月で消失すると言われている。で、こうした現象から、つぎの2つのことが言える。

 ひとつは、乳児が成長して、そのまま幼児になるのではないということ。赤ちゃんには、赤ちゃん特有の成長過程があり、その期間があるということ。

 もうひとつは、前にも書いたが、いわゆるネオトニー進化論の問題である。その原稿は、このあとに添付しておくが、要するに、人間は、未熟なまま誕生し、その未熟さが、こうした現象となって、現れるのではないかということ。

 本来なら、こうした原始反射といったものは、母親の胎内で経験し、誕生するまでに消失しているべきということになる。つまりわかりやすく言えば、人間は、その前の段階で、誕生してしまうということになる。

 ご存知の方も多いと思うが、人間は、(ほかの動物もそうだが)、母親の胎内で、原始の時代からの進化の過程を、一度すべて経験するという。初期のころには、魚のような形にもなるという。その一部が、誕生後も、こうした原始反射となって現れる(?)。

 もしあなたに、今、赤ちゃんがいるなら、一度、この原始反射を試してみるとよい。何かの新しい発見ができるかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

日本人は、未熟な民族?

そんなことを考えさせられるのが、
ネオテニー(幼児成熟)進化論である。

+++++++++++++++++++

●幼児性の持続(ネオトニー進化論)

 人間は、ほかの動物たちとくらべても、幼児期から少年少女期までの期間が、著しく長い。鳥の中には、孵化すると同時に歩き始め、エサを自分で食べ始めるのもいる。

 つまり人間は、未熟なまま、生まれる。そしてその分、親(とくに母親)の手厚い保護を受けなければならない。

 ……という話は、常識だが、同じ人間でも、種族によって、その「期間」が違うのではないか。

 私自身も、幼稚ぽいところがあったが、35年前に、オーストラリアの大学へ留学したとき、向こうの学生たちが、みな、私よりはるかにおとなに見えたのには、驚いた。
本当に、驚いた。
「これが同じ大学生か!」と。

 で、以来、ときどき、私は、この問題を考える。
こうした「違い」は、なぜ生まれるのか、と。

 それについては、いろいろな説がある。
欧米と日本とでは、子育てのし方そのものが違うという説。日本では、元来、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子と位置づける。
が、欧米には、そういう考え方は、ない。
ないものはないのであって、どうしようもない。

 つまり、欧米では、子どもは、生まれながらにして、1人の人格者として、扱われる。育てられる。

 ……というふうに、私は考えてきた。しかしそれだけでも、ないのではないか。

 昨夜も、バラエティ番組なるものを、かいま見た。20~25歳前後の若い女性が、10~15人ほど、そこに並んでいた。私は、その若い女性たちの顔を見て、あ然とした。

 幼稚顔というよりは、まさに幼児そのもの。
Sというよく知られた、司会者(お笑いタレント)に誘われてあれこれ意見を述べていたが、「これが20歳を過ぎた女性の意見なのだろうか」とさえ、思った。

 一説によると、私たち日本人は、欧米人と比べても、幼児性を残したまま、おとなになる遺伝子をもっているという。
生まれてからおとなになるまでの期間が長いとも解釈できるし、反対に、精神的におとなになりきれないまま、体だけはおとなになるとも解釈できる。

 前者の説をとるなら、日本人は、それだけ教育期間を長くしなければならないということになる。
後者の説をとるなら、日本人は、民俗学的(生態学的)に、未熟な人間ということになる。
さらに恐ろしい意見もある。

 日本人の子どもの前頭連合野の発育が、以前よりも、未熟になりつつあるというのだ(沢口俊之著「したたかな脳」日本文芸社)。そのため、

「以前は、小学3年生でできていた課題が、今は、4年生の子どもでも、満足にできないというのが、現状です。

 これは状況を判断する力や、自己をコントロールする力が衰退しているということ、すなわち、自分の行動を積極的に制御する脳の機能が未熟になっていることを示しています」(同、P131)と。

 「小学3年生でできていた課題が、今は、4年生の子どもでも、満足にできないというのが、現状です」という澤口氏の意見には、「?」を一つ、つけたいが、しかし、年々、子どもたちが幼稚化しているのは、私も感ずるところである。

 とくに男児の幼稚化が著しい。たいはんが、どこかナヨナヨしていて、ハキがない。

 で、こうして、子どもたちは、幼児性(幼稚性)を残したまま、おとなになる。
あるいはおとなになりきれないまま、おとなになる。

 一般論として、子どもというのは、その年齢になると、その子どもの年齢にふさわしい、「人格」が育ってくる。「核」というか、(つかみどころ)ができてくる。
その年齢に比して、「子どもっぽく見える」というのは、日本では、あまり問題視されないが、国際的に見れば、決して、好ましいことではない。

 そこで全体として、たとえば高校生や大学生をみると、日本の高校生や大学生は欧米の子どもたちと比較すると、かなり子どもっぽいのがわかる。
澤口氏の説によれば、つまりその分、大脳前頭連合野の発達が、未熟(?)ということになる。

 こうした違いが生まれるのは、教育によるものなのか。それとも遺伝子によるものなのか。

 「したたたかな脳」の著者の澤口氏は、「ネオテニー」という言葉を使って、日本人の幼児性を説明する。

 「ネオテニーとは、(幼児成熟)、つまり幼い時期の特徴をもったままで成熟し、繁殖することをいいます。

 その有名な例は、アホロートル(ウーパールーパー)です。
アホロートルは、サンショウウオの一種で、サンショウウオは、両生類です。

 ですから幼生期に水中でエラで呼吸し、成長すると、変態して、肺で呼吸するようになり、陸上で生活します。

 ところがアホロ-トルは、変態しません。つまりエラをもったまま、つまりは幼生期のまま、水中で生活します。繁殖も幼生期のままの姿でします。いってみれば、カエルがオタマジャクシのままで、卵を産んでしまうようなものです。

 これをヒトにあてはめて考えた進化論が、「ネオテニー進化論」です。(中略)

 ネオテニー化が進むということは、進化の過程で、ヒトがネオテニー的な特徴をより多く、身につけてきたという意味です。

 ネオテニー的な特徴とは、単純な言い方をすれば、外見的に、子どもぽいとか、未熟だとかいうことです。
このような身体的な特徴から見ると、ヒトの大人は、幼児の姿をとどめたまま成熟したチンパンジーのようにも見えます。

 そしてアジア人(モンゴロイド)が、年齢よりも若く見えるのは、より多く、ネオテニー的な特徴を備えているということです。
とくに日本人は、幼くみえるようです」(同書、P133~)と。

(わかりやすく言えば、欧米人は、たとえていうなら、サンショウウオ。アジア人は、幼児成熟なままで発育が止まっている、ウーパールーパーということになる。)

 ナルホドと思ったり、そうだったのかと思ったり……。
日本人は、極東の島国で生活し、他民族のように、「血」の交流をほとんどしてこなかった。
その結果、モンゴロイドとしての特徴が、そのままより色濃く残ってしまったのかもしれない。
骨相学的に見ても、日本人の骨相(顔)が、悲しいかな、世界で一番、貧弱だと言われる理由も、そこにある。

 それはさておき、澤口氏の意見に従うなら、私たち日本人は、日本人のあり方そのものを、基本的な部分から、考えなおさなければならない。
短い足や、貧弱な骨相はともかくも、人格的な完成度という意味では、考えなおさなければならない。

 そしてそれが教育でカバーできるものであれば、「教育」そのものも考えなおさなければならない。澤口氏の言葉を借りるなら、「状況を判断する力や、自己をコントロールする力」を、どうやって養うかということにもなる。

 昨日、静岡市での講演に出かけるとき、駅構内で購入した本だったが、おもしろかった。
久々に、頭の中で、火花がバチバチと飛ぶのを感じた。興味のある方は、どうぞ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司はやし浩司 幼児性 幼稚性 ネオテニー ネオテニー進化論 ネオトニー ネオトニー進化論 はやし浩司 原始反応 把握反射 ウーパールーパー 幼児成熟 はやし浩司 アホロートル)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

2011年7月27日水曜日

@Kakegawa Grand Hotel

【私とは何か】byはやし浩司
 
●自己中心性(Egocentricity)

++++++++++++++++++

自分がそう思っているから、相手も
そう思っているはずと考えるのは、
自己中心性以外の何ものでもない。

あるいは自分がこう思っているから、
あなたもそう思えというのもそれ。
さらに一歩進んで、「私は正しい」と
思うのは、その人の勝手。
が、その返す刀で、「あなたは
まちがっている」というのもそれ。

こうした自己中心性は、発達過程に
ある乳幼児の心理に共通する。
つまり自己中心的な人は、それだけ
乳幼児に近いということになる。
もう一度、乳幼児の心理について、
おさらいをしておきたい。

+++++++++++++++++

●乳幼児期(エリクソン・心理発達段階論)

 この時期の幼児の特徴を一言で表現すれば、「自己中心性」ということになる。
ものごとを、(自分)を中心にして考える。
「自分の好きなものは、他人も好き」「自分が嫌いなものは、他人も嫌い」と。

 それがさらに進むと、すべての人やものは、自分と同じ考え方をしているはずと、思いこむ。自然の中の、花や鳥まで、自分の分身と思うこともある。
これをピアジェは、「アニミズム」と名づけた。
心理学の世界では、物活論、実念論、人工論という言葉を使って、この時期の子どもの心理を説明する。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。
風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考える。
……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心理をいう。
ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。
乳幼児は、心の中でそれを念ずることで、実現すると考える。
……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられたと考える心理である。
人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。
そういう心理は、乳幼児の人工論によって、説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎えることがある。

●自己中心性

 私も子どものころ、……小学1年生くらいのことではなかったか、学校へ行く途中、こんなことを考えた。
「目に見えない、うしろの世界はどうなっているんだろう」と。

 前の世界は、目で見ることができる。
しかしうしろの世界は、見えない。
だからひょっとしたら、うしろの世界は、私が目を離した瞬間、消えてしまうのではないだろうか、と。

 まさに自己中心的な発想である。
が、こうした現象は、私だけのものではなかった。
そのあと、同じように考えている幼児や、小学生に、何人か出会った。
その子どもたちも、同じようなことを言っていた。

●否定期

 こうした自己中心性は、やがて修正期に入る。
言い換えると、人格の完成度は、いかに自己中心的でないかによって、決まる。
ピーター・サロベイの「EQ論」を例にあげるまでもない。
が、それで終わるわけではない。
そのあと今度は、自己中心性の否定期へと入る。

 簡単に言えば、私から「私」をどんどんと脱ぎ去っていく。
つまり私というのは、ちょうどタマネギのような構造をしている。
私の周りを、無数の「私」が取り囲んでいる。
その「私」をどんどんと脱ぎ去っていく。

 すると私はかぎりなく、かつ細く、小さくなっていく。
所詮、私というのは、その程度のもの。
中には、タマネギの皮を脱ぎ去っていったら、何も残らなかった……という人もいるかもしれない。
この私も含めて、大半の人たちがそうかもしれない。
死ぬまでに、ほんの少しでも私を残せる人は、そんなにいない。

 私たちは、それほどまでに、私であって私でないものに、毒されている。
私でないものを、「私」と思い込んでいる。
つまりその(思い込み)自体が、まさに自己中心性の表れとみる。

●ある宗教団体

 ときどき私の家にも、どこかの宗教団体の人たちが、よく勧誘に来る。
断っても断っても、来る。
が、そういった人たちは、おしなべて、穏やかで穏和な表情をしている。
自分で努力し、自分でそういう境涯に達してそうであれば、それはそれで結構。
しかし中身は、「注入された思想」。
注入された思想をもって、自分の思想と思い込む。
言うなれば、あとから張りつけられたタマネギの皮。
そういう皮でもって、身を飾る。
心を飾る。

 もっともその人自身が、それで幸福なら、それでよい。
事実、幸福そうな顔をしている。
が、そういう人たちは、ひとつの重要な事実に気づいていない。
つまり、たった一度しかない人生を、それと引き替えに、無にしている。

 いらぬ節介かもしれないが、自分の足で立つ。
自分の足で歩く。
不完全で未熟であることを恥じる必要はない。
それに気づいたら、また前に進む。
失敗や挫折を恐れる必要はない。
さらに前に進む。

つまりそれこそが、私たちが「今、ここにいる」という意味である。
無数のドラマもそこから生まれる。
生きる気高さもそこから生まれる。
あのトルストイも『戦争と平和』の中で、こう書き残している。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールの言葉である。

●私たちは何を残せるか

 タマネギの皮をめくることは、勇気のいること。
最悪のばあい、そこには何も残らなくなってしまう。
そんなこともありえる。
その不安があるから、勇気がいる。
「私もただのオジチャン」「私もただのオバチャン」と認めることは、そのまま自己否定につながる。

 何が恐ろしいかといって、人生の晩年になって、「私の人生は何だったのか」と思い知らされることほど、恐ろしいことはない。
それが自己否定ということになる。

 だから釈迦は、『精進』という言葉を残した。
私たちは死ぬまで、ただひたすら精進あるのみ、と。
が、それでも残せるものは、少ない。
が、ヒントがないわけではない。
それが冒頭にあげた、「自己中心性」の否定である。
道はちがい、方法もちがうかもしれないが、それを実行した人は多い。
インドのマザーテレサもその1人。

 私たち凡人には、とてもまねできないが、しかし不可能ではない。
あのマザーテレサは、それを私たちに教えてくれた。

 難しい話しはさておき、あなたもこう思ったらよい。
「自分の中に自己中心的なものを感じたら、それこそ闘うべき、己の敵」と。
けっして楽な闘いではない。
ないが、日々の精進のみによって、達成できる。
方法は簡単。
いつも、何をしても、自分の心に静かに問いかけてみればよい。

「だから、それがどうしたの?」と。

 そのとき、意味のないものは、スーッと風のように消えていく。
意味のあるものは、何か、心にひかかる。
こうして自分のタマネギの皮をむいていく。
で、最後に残ったもの。
それが「私」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 タマネギの皮 私論 私とは何か はやし浩司 私発見)

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●7月27日

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今夜は掛川グランドホテルに一泊。
今、そのホテルの一室にいる。
時刻は、午後11時。
先ほど、市内での講演を終え、このホテルに
やってきた。
掛川市で泊まるときには、いつもこのホテル
と決めている。
駅前にあり、交通の便もよい。
(掛川駅から歩いて、1、2分)
雰囲気も、よい。

ところで今日のお供(パソコン)は、
TOSHIBAのUX。
これが、どうも調子が悪い。
メールにしても、受信はできるが、送信ができない。
ワードを使っているが、一語ごと、変換に時間がかかる。
モタモタというよりは、そのつど動きが止まってしまう。

(たった今、パソコンを再起動してみた。
動きがもどった。
よかった。
こういうときは、再起動をかけてみるのが、イチバン。)

・・・前回このホテルに泊まったのは、ちょうど1か月前。
偶然なのか。
前回泊まった部屋の2つ、隣の部屋。
今夜は5階の、5XX号室。

朝食つきで、1名1泊6000円。
ワイフと2人で、1万2000円。
ポイント割引がついたので、1万1500円。
ワイフはもうベッドの上で、寝息を立てている。

++++++++++++++++++

●ダイエット

 ダイエットの効果が表れ始めた。
つまりダイエットというのは、最初の7~10日前後は、効果が表れない。
いくら運動をしても、またいくら節食をしても、体重はそのまま。
「脂肪が筋肉に変わるため」という説もあるが、私は知らない。
(これはワイフの説。)

 毎日、300~500グラムずつ、体重が減っていく。
それがうれしい。
現在、65・0キロ。
2・5キロの減量に成功。

 そう言えば数日前から、体を軽く感ずる。
それに加えて、運動量をふやしたせいか、頭の回転もよくなった。
中学生を教えていると、それがよくわかる。
頭の回転が悪いときは、脳みそが眠ったような状態になる。
計算ミスが多くなる。

 が、ここで油断をしてはいけない。
明日の朝食は、バイキング。
私の意思の強さが試される。
どこまでがまんできるか。
私たち団塊の世代は、バイキング料理を前にすると、こう考える。
「食べなければ損」と。
心貧しい世代。
それが試される。

 目標の63キロまで、あと2キロ。
苦しい闘いがつづく。

●秘策

 今度、生徒を山荘に招待することにした。
Sさん(中3女子)と、もう1人・・・。
そのSさんが、こう言った。
「奥さんも来るんでしょ?」と。
「そうだ」と答えると、「ああ、よかった・・・」と。

 ひとつ秘策がある。
最初、Sさんを、ボロボロの農家へ連れて行く。
(一軒、廃屋になった農家がある。)
「ここが山荘」と、説明する。
「あの木が、その木」と、説明する。

少し前、Sさんにこう言った。
「先日、山荘の前の木で、首をつって死んだ人がいてね」と。
「その木」というのは、その木をいう。
で、Sさんが、泣きべそをかき始めたら、私の山荘へ連れて行く。

 風呂はドラム缶、ベッドはベニア板、トイレはボットン便所、・・・ときどき朝起きると、ヘビが横で寝ている。
Sさんにはそう話してある。
Sさんは、それを本気にしている。
いつも私のことを、「オヤジ」と呼んでいる。
そのカタキを、今度、取ってやる。
生意気な子だが、あっけらかんとした明るい性格。
自分でも「私は男」と言っている。
そんな性格が、私は好き。

(ただし、ワイフは、この秘策には反対。
「かわいそうだから、そんなことをしてはだめ」と言っている。
どうするかは、その日の雰囲気で決める。)

●至極の時

 こういう夜は、いつまでも文章を書いていたい。
私にとっては、至極の時。
部屋の温度は、最適。
静か。
デスクの横のランプの明かりも、よい。

 ワイフは、背中側のベッドで熟睡中。
すっかりバーさん顔になった。
そんなワイフが小娘のような姿勢で眠っている。
片方の手を頬にあて、横向きに眠っている。

 今週は、名古屋市でもう一泊するつもり。
すでに予約をすませてある。
が、これも老後の過ごし方のひとつかもしれない。
生活の中に変化をどんどんと、取り込んでいく。
それが脳に、ほどよい緊張感を与える。
ボケ防止には、よいのでは・・・?
多分?

●自由

 先ほどから、スカイプの呼び出しがつづく。
たぶんアメリカに住む二男からのものだろう。
しかし今夜は、やめた。
今の私には、「この時」が大切。
穏やかで満ち足りた夜。
自由な夜。
私は今、脳みその中を自由気ままに飛び回っている。
何かを書かねばという気負いもない。
ひらめいたことだけを、書いている。
私には、それが楽しい。

 そう、中国語で「自由」というのは、「自らに由る」という意味。
これについては、何度も書いた。
が、英語では、「freedom(自由)」という。
「freedom」というときは、何も束縛のない状態をいう。
今、その「freedom」を、満喫している。
私を束縛するものは、何もない。
私はしばし、その心地よさに、酔いしれる。
 
●メール

 先ほど、Kさんという方から、メールが入った。
BW教室(私の教室)への見学を申し込んできた。
しかしこの7月に、満員になってしまった。
例年だと、今の時期、クラスを2つに分ける。
が、今年は不景気。
2クラスに分けるほど生徒が集まらない。
だから1クラスのまま。
しばらくこのまま。
だから満員。

 その旨のメールを送ろうとするが、何度トライしても、サーバーのほうで
切断されてしまう。
?????

 試しに自分宛にメールを送信してみるが、これもだめ。
?????
こんなことは今までになかったこと。

●見学

 ある幼稚園の園長も、そう言っていた。
最近の母親たちは、幼稚園でも、「当然入れる」という前提でやってくる、と。
が、引き受けられる子どもと、そうでない子どもがいる。
そこで幼稚園のほうで、「お引き受けできません」とでも言おうものなら、猛烈にそれに抗議してくるという。
「どうしてうちの子は、入れてもらえないのですかア!」と。

 私の教室ではさらにそうで、一度だけだが、こう言われたことがある。
「何を、お高く留まっているの!」と。
その言葉が今でも、トラウマになっている。
見学を断わるにも、神経を遣う。

●老人組

 今夜の講演でも、こんな話しをした。
「昔は子どものほうが、ごめん、ごめんと、謝りながら生活していた。
今は、親のほうが、ごめんごめんと言って生活をしている。
さらに、最近に至っては、祖父母のほうが、孫に、ごめんごめんと言って生活をしている」と。
親子の立場が逆転している。

 同じような意識が、親たちの世界にも入り込んでいる。
社会のほうが、親たちに、ごめんごめんと言いながら、頭を下げている。
もっとも、そういう社会を恨んでもしかたない。
若い人たちを責めてもしかたない。
そういう社会にしたのは、私たち。
私たちの責任。

 言い換えると、私たち老人組は、ますます小さくなるしかない。
社会の隅で、ひっそりと生きていくしかない。
しかし・・・。
そういう世界で、結局は、損をするのは、若い人たち。
今はわからない。
保護者が何重にも、そのうしろで構えている。
その保護者がいなくなったら、どうなるのか?
どうするのか?
そのとき、それがわかる。

●掛川グランドホテル

 話しがかなりグチぽくなってきた。
読む人だって、おもしろくないだろう。
だからこの話しはここまで。

 で、ワイフが言うには、このホテル(掛川グランドホテル)は、インドネシアのホテルみたい、と。
ライティングもそうなっている。
ロビーを飾る調度品もそうなっている。
「エキゾチック」という言葉が、ふさわしい。
ひとつだけ残念なのは、大浴場がないこと。
露天風呂でもあれば、最高。
が、もしそうなら、とても先の料金では泊まれない。

 先ほど窓の外の景色をしばらくながめた。
大きな駐車場をはさんで、立派な民家が、左右に並んでいた。
「駅に近くていいな」と思った。

●逆恨み

 話題を変えよう。

 思春期を通り過ぎると、男性も女性も大きく変わる。
が、男性のばあいは、どんな形であれ、社会の前面に出ることができる。
しかし女性のばあいは、そうでない。

 それなりに恋愛をし、結婚できればよい。
が、そうでないときに、女性は、心をゆがめる。
失恋がつづけば、なおさら。
その一例というわけでもないが、軽自動車に乗っている若い女性ほどこわいものはない。
スピード違反など、朝飯前。
ふつうのスピード違反ではない。
社会を逆恨みしているかのような走り方をする。
もちろん信号無視、駐車場無視。
さらに今日、こんなことも発見した。

 プラットフォームで列車の到着を待つ。
そのときのこと。
若い女性たちは、「列」を作らない。
ブラブラとバラバラに立っている。
私たちは、そのうしろに並んだ。
が、あとから来た女性たちが、どんどんと横に張りついてくる。
割り込みなのだが、割り込んでいるという意識すらない?

 どうしてか?

 これも子どもたちの発達段階を見ていると、よくわかる。
小学2、3年生までは、男児をいじめ、泣かすのは女児。
いじめられて泣くのは男児。
いじめて泣かすのは女児。
それが小学3~4年生を境に逆転し始める。

 そのときから、女性には、(欲求不満)が、うっ積するようになる。
それが慢性化する。
社会に出ると、さらにそうで、それが先に書いた「逆恨み」に転化する。
自動車を運転していても、余裕がない。
心に余裕がないから、運転にも余裕がない。

・・・とまあ、私は、勝手にそう解釈している。
またそう解釈しないと、女性の、こうしたゆがんだ心理(失礼!)を理解することができない。

 もちろんみなが、みな、そうというわけではない。
男性でも、世の中を逆恨みしながら生きている人はいくらでもいる。
今の私もそうかもしれない。
ハハハ。



 ……しばし、ぼんやりとする。
やがてこの時間も過ぎ、明日になる。

 今夜の講演は、まあまあのでき。
ワイフがそう言った。
それに時間通り、終わることができた。
ほどよい満足感が身を包む。

 ……眠くなってきた。
もう、寝よう。

おやすみ。

2011年7月26日夜記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

2011年7月26日火曜日

A Good Family Man?

【行きすぎた欲望主義】

●家族崩壊

+++++++++++++++++

昨夜(6月1日)、6月用の講演会の
レジュメを書いた。
未完成だが、これをたたき台にし、
今週からの講演で話したい。

++++++++++++++++++

【価値観の転換と、意識・常識の改革】

●「どうすればうちの子は……」

もう20年以上も前のこと。
1人の父親が私の家にやってきた。
そしてこう言った。

「私はあなたの本を何冊も読む暇はない。
どうすればうちの子どもをいい子にすることができるのだ。
一言で言ってくれ」と。

 そのとき私はとっさの思いつきだったが、こう答えた。
「子どもは使うことです。
使えば使うほど、いい子になりますよ」と。

 それから20年以上。
この言葉は何度も私の頭の中で反芻された。
そしてその結論は、今でも同じ。
「子どもは使えば使うほど、いい子になる」と。

(今回は4つのテーマの中から、時間の関係上、X番目のテーマについてのみ、
話す。
この問題を、常識論、意識論をからめて話す。)

2011年6月2日記

●常識

アインシュタインは、こう言った。
「その人がもっている常識などというものは、18歳のときまでにもった偏見のかたまりである」
と。

 こう言うと、「いや、ちがう。私のもっている常識は正しい」と反論する人も多い。
しかしそう断言するのは、少し待ってほしい。
私は40年前、こんな経験をした。

●オリエンタル・スタディズ

メルボルン大学の南の端に、オリエンタル・スタディズという学部があった。
「東洋学部」と訳すのが正しい。
その学部には、日本語学科というのもあった。
私はときどきその学部で、日本語を教えていた。
そんなある日、1人の学生が、私にこう聞いた。
「どうして浅野内匠頭の家来は、吉良上野介を殺害したのか」と。

 いろいろ説明してみたが、だれも納得しなかった。
「悪いのは、浅野内匠頭ではないか」
「死罪(切腹)というのは、重すぎるが、しかし当時の法律でそうなっていたのなら、しかたのな
いこと」
「もし重罪に意見があるというのなら、どうして裁判で闘わなかったのか」と。
さらに「大石内蔵助らが職を失ったのは、浅野内匠頭の責任。どうして浅野内匠頭に責任を追
及しないのか」と。

 西洋では古来、主従関係といっても、契約が基盤になっている。
家来たちは職を失えば、つぎの主君を求めて、いわゆる職探しに歩く。

 さらに困ったのは、水戸黄門。
ある学生がこう聞いた。
「もし水戸黄門が悪いことをしたらどうなるか」と。
そこで私が「水戸黄門は悪いことをしない」と答えると、教室中が騒然となってしまった。
「それはおかしい!」と。

●「釣りバカ日誌」

常識というのは、それぞれの時代を経て、熟成される。
が、こんなこともある。

 釣りバカ日誌という映画がある。
ハマちゃんとスーさんが、あちこちへ釣りに行くという映画である。
あの映画にしても、おかしな点はいくつかある。

その第一。
ハマちゃんにせよ、スーさんにせよ、妻や子どもたちを連れていくことは、まず、ない。
そこで釣りバカ日誌の大ファンという中学生がいたので、聞いてみた。
「ハマちゃんやスーさんは、奥さんを釣りに連れていったことがあるか」と。
するとその中学生は、ウ~ンと一呼吸考えたあと、こう言った。
「ないなア~」と。
「へんな女の人がついてくることはあるけどね」とも。

 日本では何でもない映画だが、欧米では、そういうことはありえない。
もし休日を夫たちだけで過ごしたら、それだけで離婚事由になる。
あるいは男どうしで旅館に泊まれば、同性愛者とまちがえられる。

 欧米では、夫の会社のパーティであるにせよ、夫婦同伴が原則である(注※1)。

●出世主義から家族主義

日本が劇的に変化し始めたのは、1999年のことである。
その年のはじめ、「仕事より家族のほうが大切」と答えた人が、40%を超えた(文部省調査)。
その年の終わりには、45%になった(中日新聞調査)。
それが2007年には、75%(読売新聞・11月)。
これは中日新聞社が調査した。
こうした変化を、当時、「サイレント革命」という言葉を使って説明する人がいた。
そう、まさに「革命」。
今では、どんな調査結果をみても、80~90%の人が、そう考えている。

 が、私たちの時代には、そうでなかった。
仕事か家族かと聞かれれば、みな、迷わず、「仕事」と答えた。
だからこんなことがあった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考2)

99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、40%の日本人が、
「家族」をあげた。

同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たった1年足らずの間
に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化
である。

(参考2)2007年11月11日、読売新聞

 一方、いま大切なものは何か(複数回答)では、「家族」90%がトップだった。いざというとき、
家族は頼りになるかでは、94%が「頼りになる」と回答したという。

仕事と家庭のどちらを優先的に考えるかでは、「家庭」75%が、「仕事」19%を大きく上回っ
た。

同じ質問をした81年の調査と比べ、「家庭」は、13ポイント増加した。

 理想とする家族構成では、「祖父母や孫が同居する大家族」が60%で、最も多く、「親と子供
だけの家族」は、27%だったという。
(以上、読売新聞から抜粋。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 私が三井物産という会社にいたときのこと。
当時はまだ、「単身赴任」という言葉はなかった。
2年以内の海外出張を「短期出張」と呼んだ。
短期主張は、単身赴任が原則だった。
だから同僚を大阪の伊丹空港へ見送りにいくと、こんな光景がよく見られた。
「あなたア、がんばってきてねエ!」
「お前もがんばれよ!」と。

 今とちがい、日本は、まだ貧しかった。
休暇ごとに日本へ帰ってくるなどということは、できなかった。
が、2年で帰ってこられるという保証はなかった。
当時は、「短期出張のハシゴ」というのもあった。
赴任先の外地から、また別の外地へ短期出張で飛ばされる。
だからどこの商社でもそうだったが、一度外国へ出ると、4年は戻れなかった。

 その一例として、つまり日本のもつ後進性を表す一例として、1999年に入って、単身赴任に
よる被害について、損害賠償事件に対して、こんな判決があった。
ある男性が、「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校にな
るなど、さまざまな苦痛を受けた」として、会社を訴えた。
それに対して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決を言いわたした。
いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。
もう何をか言わんや、である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

 一方、日本にはこんな話がある。
以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われた」と訴えた男性がいた。
東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。
いわく「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、
さまざまな苦痛を受けた」と。単身赴任は、6年間も続いた。

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。
子どもでも、「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。
仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめられた部分も多い。
今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。
その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。
「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。
私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」
と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決
を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ
る。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。
「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてルービ
ン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。
たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすす
めると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。

が、日本ではそうではない。
軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。
こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。
言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ある中国人夫婦

 話を先に進める前に、ここで意識について、簡単な実験をしてみたい。
常識の実験と言い換えてもよい。
まず、こんな話。
それを聞いて、みなさんは、どう考えるか、それを静かに心の中をさぐってみてほしい。
みなさんは、みなさんの常識で、まず判断してみてほしい。

 こんな話。
 
 ある商店街に、1組の中国人夫婦が移り住んできた。
中華料理店を始めた。
当初はそれなりに繁盛していたが、そのうち商店街全体が不況の嵐の中に飲み込まれた。
一軒二軒と、シャッターをおろし始めた。
そのときのこと。

 となりの美容院が、ときどき店を閉めるようになった。
それに対して、中国人夫婦が激怒した。
となりの美容院へすごい剣幕で、怒鳴り込んでいった。
「店、開けるあるね!」と。
それだけではない。
道をはさんで、菓子屋があった。
昔からの菓子屋で、その菓子屋だけは客足が落ちなかった。
そこで中国人夫婦は、今度は菓子屋へ行き、こう言ったという。
「客を回してほしい」と。

 美容院を経営している女性は、この中国人夫婦に憤慨した。
菓子屋を経営している夫婦も、憤慨した。
「何という、常識知らず!」と。

●常識

 この話を聞いた私も、最初は、そう思った。
「どう考えても、この中国人夫婦のとった行動は、常識にはずれている」と。
が、もしこんな話を知ったら、たぶん、あなたは別の考え方をするようになるだろう。
こんな話だ。

●周囲との調和

 この4月にオーストラリアへ行ったときのこと。
ボーダータウンという、南オーストラリア州とビクトリア州の、ちょうど州境にある町へ立ち寄っ
た。
友人がそこに住んでいる。

 で、少し郊外へ行くと、みな、日本では想像もつかない広い土地に、広い家を建てて住んでい
る。
土地だけでも、5、6エーカー。
日本風に言えば、数千坪から1万坪。
家も広い。
T氏の家は、居間だけでも40畳以上。
それにどれも20畳以上もある部屋が、5~8つとつづいている。
そこで私が心配になって、こう聞いた。

「税金はどうなっているのか?」と。

 さぞかし税金が高いだろうと思ってそう聞いた。
が、答えは意外なものだった。
「家の広さで、税金は決まらない」と。

 オーストラリアでは、ランド・バリュアー(Land Valuer)という人が税金を査定する。
「この家なら、いくらで売れるか」ということを基準にして、決める。
しかも家を買う側は、売買価格の1.4%の税金を払うだけ(ビクトリア州)。
売るほうには、税金はかからない。

 あとは毎年、決められた税金を払うが、その中心は、ゴミ収集のための税金。
またその程度。

 そこでその地域の住人たちは、家を含めた環境の価値を高めようとする。
価値が高くなれば、売るときに有利。
たとえばとなりの家の芝生が、だらしない状態になっていると、隣人たちがすぐ文句を言いに行
く。
実は私の二男も現在、アメリカに住んでいる。
その二男もこう言っていた。
「芝生を伸ばし放題にしておくと、すぐ文句を言われる」と。
だから二男は、毎週のように芝を刈っている。

 が、この日本では、そうではない。
となりがどんな家を建てようが、それはとなりの人の勝手。
イタリヤ風であろうが、和風であろうが、あるいはビルであろうが、その人の勝手。
土地の価値にしても、駅に近ければ近いほど、原則として高い。

 中国では、土地は、原則として、国のもの。
家にしても、建ててから70年は住めるという条件がつく。
が、思考回路は、欧米人のそれに近い。
町の商店街にしても、商店街全体がたがいにもり立てあいながら発展していくもの。
そういう考え方をする。

 そこで先の中国人夫婦のような考え方をするようになる。
「シャッターをおろせば、その影響は自分の家にも及ぶ。だから許せない」と。
また客にしても、たがいに回しあう。
それが中国では常識になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●中国の土地税制について

++++++++++++++++++++

D君は、オーストラリアでも中国研究の第一人者でもある。
中国の土地税制についても教えてくれた。

++++++++++++++++++++

Dear mate,
友へ、

In China, people do not pay tax for their house but the system is different.
中国では、自分の所有する家には税金を払わない。システムが異なる。
Firstly, they can only buy a house not the land underneath.
第一に、彼らは家を買うのであり、その下の土地は買わない。
The land belongs to the government.
土地は政府に属する。
Secondly, they can only buy a house for 70 years.
第二に、彼らは70年間、家を買う。(最長限度は70年。)
So in China, a big company or corrupt official can easily push people of the land which they
are living on.
それで、中国では、大きな会社や役人は、そこに住んでいる人々を容易に追い出すことができ
る。
When a company wants to build a factory in a village, there is a negotiation over price but
the local government is in charge of everything and they can favour the powerful side.
会社が村に工場を建てるとき、価格の交渉をするが、地方政府はすべてに責任をもち、力の
あるほうに味方することができる。
So many farmers sell as soon as they receive a good offer and move into a town.
それで多くの納付は、よい条件がつけば、すぐ家を売り、町へ移動する。
Eventually there will be a shortage of good farming land.
結果的に、農地が不足することになるだろう。
One day the system in China will crash down like a shaky old house.
いつか中国のこのシステムは、がたがたの古い家のように崩壊するだろう。
D
Dより

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識の変化

 どちらが正しいとか、正しくないとか、そういうことではない。
しかしここまで話を聞くと、多くの方は、こう思うにちがいない。
「最初は、中国人夫婦の言い分は、常識はずれと思った。
が、そうでもないのではないか」と。

 私も知れば知るほど、むしろ中国人夫婦の言い分のほうが、正しいように思えてきた。
日本人は、「自分がどんな家を建てようが、自分の勝手」と考える。
となり近所の家との調和を考えて、家を立てる人はまずいない。
店を閉めるときもそうだ。

 また「地域」という考え方も、希薄。
商店街の店々が、客を回しあうという話は、最近ではめったに聞かなくなった。
……というか、全国的に、町の通りに並ぶ商店街は、つぎつぎと姿を消しつつある。

●意識

 長い前置きになったが、意識というのは、絶対的なものではないということ。
当然、常識にも絶対的なものは、ない。
私の経験をもとに、話を進めてみたい。

●親のめんどうをみる

 4年おきに、内閣府(旧総理府)は、青年の意識調査をしている。
それによれば「将来、親のめんどうをみる」と考えている若者は、どんどんと減っている。
その多くは、「経済的な余裕があれば、みる」と答えている。

 将来、どんなことがあっても、親のめんどうをみる……28%(日本人・内閣府、平成21年調
査)。

 この数字がいかに衝撃的なものであるかは、他の国々の若者たちのそれと比較してみると
わかる。
私たちが内心では、「さぞかし低いだろうな」と思っているアメリカ人にしても、64%。
アジア各国の若者についてみると、軒並み、80%前後。

 が、この数字はどう考えてもおかしい。
日本は1970年代から高度成長の大波に乗り、世界の歴史の中でもまれにみるほどの大発
展を遂げた。
当然、その時代に生まれた子どもたち、つまりこの会場にいるお父さん、お母さんたちは、たい
へん恵まれた環境の中で、生まれ育った。

 つまり親にもっとも感謝してよい世代の人たちということになる。
そういう人たちが、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
が、現実問題として、経済的に余裕のある人は少ない。
とくに若い世代の人たちは、そうだ。
みな、目一杯の生活をしている。
車にせよ、家財にせよ、あって当たり前の時代に生きている。
私たちの時代と比較するのもヤボなことはよく知っている。
しかし私たちの新婚時代は、たとえばボットン便所から始まっている。
が、やがて小さなアパートに移った。
6畳と4畳だけの、小さなアパートだった。
そこで私ははじめて、水洗トイレの家に住んだ。
うれしかった。
何度も水を流し、においのしないトイレに感動した。

 そういう積み重ねがあった。
が、何よりも大きな違いは、親に対する考え方である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●第8回世界青年意識調査より


(将来、親のめんどうをみるか?)


年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。


★年老いた親を養うことについてどう思うか


『どんなことをしてでも親を養う』(1)
イギリス  66.0%、
アメリカ  63.5%、
フランス  50.8%、
韓国  35.2%、
日本  28.3%


★将来、子どもにめんどうをみてもらいたいか?


自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい日本の青年は5割弱で、韓国に次いで低い。


★「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか


『そう思う』(2)
イギリス  70.1%、
アメリカ  67.5%、
フランス  62.3%、
日本  47.2%、
韓国  41.2%
(以上、内閣府、平成21年調査より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●収入の半分は、実家へ

 私たちの時代に、だれかがこう聞いたとする。
「君は将来、親のめんどうをみるか」と。
もしそんなことを聞かれたら、私は迷わず、こう答えたであろう。
「バカなことを聞くな!」と。

 「当然のこと」という意味で、そう答えたであろう。

 事実、私は浜松市に住むようになってから、収入の約半分を、実家に送った。
結婚前からそうしていた。
現在のワイフと結婚するときも、それが条件だった。
だからワイフも、何も文句を言わないで、収入の半分を実家へ送った。
それだけではない。
私の母は、ときどき私のアパートへ来ては、現金をもって帰っていった。
私の土地を勝手に売ってしまったこともある。
それについて私が泣いて抗議すると、母は、平然とこう言ってのけた。
「親が先祖を守るために、息子の金を使って、何が悪い!」と。

 母を責めているのではない。
母は母で、その当時の常識に従って生きていた。
今の私が自分の常識に従って生きているように。
今のあなたがたが、自分の常識に従って生きているように。

●出世主義から家族主義へ

戦時中から戦後へ。
日本は敗戦により、大きく変わった。
が、そう見えるのは、表面的な部分だけ。
つまり包装紙が変わっただけ。

「お国のため」が、「会社のため」になった。
「兵士」は、「企業戦士」になった。
それまでの「神国日本」は、「金権日本」になった。

 こうして戦後生まれの世代、つまり団塊の世代と言われる私たちの世代は、会社人間とし
て、社会へと巣立っていった。
だから当時の学校では、卒業式などには、決まってこう言われた。
「社会で役立つ人間になってください」と。
耳にタコができるほど、私たちはそれを聞かされた。

 が、これではいけない。
個人が組織の犠牲になってはいけない。
個人が家族の犠牲になってはいけない。

 たとえば私などは、「親孝行」という言葉も、それこそ耳にタコができるほど、聞かされて育っ
た。
それを如実に表す言葉が、「産んでやった」「育ててやった」という、あの言葉である。
あの言葉ほど、恩着せがましく、同時に、真綿で首をしめるような言葉はない。
だからこそ、それが私の常識となり、給料を手にするようになってからも、収入の半分を実家
へ送るということにつながっていった。

●反動

だから私は3人の息子たちを育てながらも、そういう言葉は、絶対に口にしないと誓った。
事実、言ったことはない。
反対に、こう言った。
「お前たちの人生は、お前たちのもの。お前たちはお前たちの人生を、自分の好きなように生
きろ」と。

が、変革は、若者たちのほうから始まった。
その象徴的な人物が、尾崎豊である。

●尾崎豊の『卒業』

「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った……」という、あの歌である。
私ははじめてあの歌を聴いたとき、ふつうでない衝撃を受けた。
「ああいう歌を歌うから、学校の窓ガラスが割られるのだ」と。

 が、それはまさに若者たちの、世代闘争の始まりだった。
少し時代が逆行するが、私たちの時代は、60年安保、70年安保を経験した。
それは権力との闘いだった。
何かわからない。
わからないが、自分たちの体をがんじがらめにしているものと闘った。
よくイデオロギー(政治的信条)が問題になったが、イデオロギーをもっているのは、学生の中
でもほんの一部。
大部分の学生たちは、言うなれば、祭り騒ぎのひとつとして、闘争に参加した。
「祭り騒ぎ」というのは、少し言い過ぎかもしれない。
しかし今、振り返ってみると、そういう印象をもつ。

 で、私たちの時代を、反権力闘争の時代とするなら、尾崎豊らが提起した闘争は、反世代闘
争ということになる。
旧態の価値観を打ち破り、自分たちの時代を確立しようとした。
わかりやすく言えば、自分たちの世代を、それまでの世代と、切り離そうとした。

 が、これはその世代の人たちにとっては、不幸なことでもあった。

●世代闘争

 知恵や知識は、世代から世代へと、受け継がれていく、
が、それを自ら断ち切ってしまう。
切るだけならまだしも、古い世代の知恵や知識を、意味のないもの、価値のないものとして、排
斥してしまう。
事実、排斥した。
古い世代の言葉に耳を傾けなくなった。
つまり断ち切った世代は、すべてを、ゼロから始めなければならない。

●行き過ぎた価値観

 こうして尾崎豊の世代は、より過激になっていった。
というより、尾崎豊は、その時代の若者たちの心を代弁した。
共感を得たというのは、そういう意味。
CBSソニーに問い合わせたところ、あの『卒業』は、シングル盤も含めて、200万枚以上も売
れたという。

 誤解がないように申し添えておくが、私自身は、尾崎豊が大好きである。
『卒業』も大好きである。

 で、若者たちは、世代闘争を繰り返し、自分たちの時代を確立した。
その結果が、今のみなさんの世代ということになる。
新しい価値観を構築した。

●2つの問題

 が、今、ここで大きな問題が起きてきた。
私はその問題を、つぎの2つに集約する。

ひとつは、(1)行き過ぎた家族主義。
もうひとつは、(2)欲望至上主義。

 行き過ぎた家族主義については、先に少し触れた。
日本が行動性長期にさしかかるころ、「核家族」という言葉が生まれた。
それがしばらくすると、「カプセル家族」という言葉に置き換わった。

 核家族というのは、夫婦と子どもたちだけで構成される家族をいう。
カプセル家族というのは、硬いカラの中に閉じこもってしまい、独自の価値観を極端化してしま
う家族をいう。
高学歴の父母に、多く見られた。
「私たちの育て方が正しい」と言いながら、その返す刀で、相手の価値観を否定する。
教師すらも、「下」に置くことによって、自分流の育児観をごり押しする。
具体的には、その派生として、「教育ママ」という言葉が生まれた。
「モンスターママ」という言葉も生まれた。

 が、問題はこれだけでは収まらなかった。
行き過ぎた家族主義の結果として、その「家族」から、「祖父母」の姿が消えた。
今、若い世代の人たちが使う「家族」という言葉の中には、「祖父母」、つまり自分たちの両親
の姿はない。
祖父母は、つまり自分の親たちは、家族ではない。

 このことを短絡的に、独居老人、孤独死、無縁死と結びつけるのは危険なことである。
ある社会学者の推計によれば、今後約60%の老人が、孤独死するという。
しかも発見までの平均日数は、6日。

 こういう話をすると、ここにいるみなさんは、「私はだいじょうぶ」と思うかもしれない。
「私と子どもの関係は絶対。親子の絆も太い」と。
しかしそれはどうか。
ここにあげた60%という数字は、私たちの世代の数字ではなく、現在の40代、50代の人たち
の数字である。

ともあれ家族、とくに祖父母とその息子、娘の間の絆が、もろく壊れやすくなっているのは、事
実。
それが先にも書いた、「経済的に余裕があれば……」という言葉につながっていく。
この言葉を裏から読むと、「経済的に余裕がなければ、親のめんどうはみない」。
さらには「親の恩も遺産しだい」という考え方につながっていく。

 ついでながら、世代闘争をした結果、老人は社会の隅に追いやられてしまった。
本来なら政治がそうした社会的欠陥を補完しなければならない。
が、その政治が追いついていない。
その結果が、現在の老人福祉政策ということになる。

 昔は、息子や娘が親の老後のめんどうをみた。
今は、みない。
そのかわり……という部分が未完成のまま、労時福祉政策だけがアタフタとしている。
たとえば私の近所にある特別養護老人ホームにしても、症状にもよるが、2年待ち、3年待ちと
いうのは、ザラ。
順番にしても、100番待ちという状況がつづいている(浜松市中区長寿保険課調べ)。

●欲望
 
 もうひとつは、欲望至上主義。
その代表的なものが、恋愛至上主義。

 韓流ブームに代表されるように、今の日本は、恋愛市場主義一色。
たがいに愛しあっていれば、何でも許される、と。
昔で言う駆け落ちなど、いまどき珍しくも何ともない。
結婚するについても、ほとんどが事後承諾。
親の許可を求めたり、親の意見を聞く子どもは、皆無。
まずいない。
皆無ということは、実は、この会場に来ているあなたがた自身が、いちばんよく知っているは
ず。

 ある男性は、実家へ規制するたびに、別の女性を連れてきた。
そしてそのたびに親にこう言ったという。
「パパ、(彼女の)名前をまちがえないでよ」と。

 そして別のある日のこと。
また突然、別の女性を連れてきて、「結婚することにしたから、よろしく」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、理解できないだろう。
「どこが悪いのだ」と。
それが冒頭で話した、「常識」ということになる。
「意識」そのものが、ちがう。

 私たちの時代には、それがよかったとは思っていないが、しかし親の承諾なしには結婚はで
きなかった。
仮に恋人ができたとしても、そこには「実家」という大きな関門があった。
私自身にしても、実家の父や母のことを考えるあまり、一度、ある女性との結婚を断念してい
る。
親が反対したわけではないが、自ら、そうした。
それが私たちの時代には、常識だった。

●フェニルエチルアミン

最近の脳科学では、感情は、脳ホルモンによるものというのが、定説になりつつある。
恋愛とて例外ではない。
恋愛も、脳ホルモンによるもの。
それがフェニルエチルアミンである。

 その時期になると、男や女は、熱烈な恋愛をする。
身を焦がすような、甘い陶酔感。
当の本人たちは、自分の意思で恋愛しているように思っているかもしれない。
しかし実は、脳ホルモンの奴隷になっているだけ。
それが悪いというのではない。
人間には、動物として、種族を後世に残すという重大な任務がある。
またそれがあるから、無数のドラマが生まれる。
そのドラマに価値がある。

 たとえば10年ほど前、『タイタニック』という映画が、大ヒットした。
あの映画の中に、もしジャックとローズがいなかったら、あの映画はただの船の沈没映画にな
っていただろう。

 しかし何ごとも行き過ぎはよくない。
恋愛はすばらしい。
人生の花。
しかしそれに溺れてしまってはいけない。
恋愛至上主義に走るということは、欲望の奴隷になることを意味する。
酒に溺れたり、タバコに溺れるのと同じ。
最近の脳科学によれば、視床下部から発せられたシグナルに応じて、ドーパミンが分泌され
る。
それが生きる原動力にもなっている。
フロイトが説いた「性的エネルギー」にもつながる。
しかしそれが行き過ぎると、先にも書いたように中毒性をもつ。
麻薬性をもつ。

 わかりやすく言えば、自分を見失う。
自分が自分であって、自分でなくなる。
恋は盲目とはいうが、盲目程度ではすまなくなる。
だから、こわい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●欲望の根源

かつて、私もそうだった。あなたもそうだった。が、今、子どもの心の中では、猛烈な「性的エネ
ルギー」(フロイト)が、わき起こっている。「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

 最近の研究によれば、脳の中の視床下部というところが、どうやらそういった信号の発信源
ということがわかってきた(サイエンス誌・08年)。その視床下部からの命令を受けて、ドーパミ
ンという脳間伝達物質が放出される。

 このドーパミンが、脳の中の線条体(報酬と行動要求に関する中枢部)というところを刺激す
ると、猛烈な(欲望)となって、その子ども(もちろんおとなも)を支配する。ふつうの反応ではな
い。最終的には、そうした欲望をコントロールするのが、大脳の前頭前野(理性の中枢部)とい
うことになる。が、「意志の力だけで、こうした衝動を克服するのはむずかしい」(N・D・ボルコ
フ)という。

 線条体が刺激を受けると、「あなたは、目的達成に向けた行動を起こせというメッセージを受
けとる」(同誌)。
 もちろん欲望といっても、その内容はさまざま。
食欲、性欲、生存欲、物欲、支配欲に始まって、もろもろの快楽追求もその中に含まれる。
わかりやすく言えば、脳の中で、どのような受容体が形成されるかによって決まる。

たとえばアルコール中毒患者やニコチン中毒患者は、それぞれ別の受容体が形成されること
がわかっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●これから……

まず念頭に置くべきことは、私たちがもっている常識というのは、絶対的なものではないという
こと。
その常識を疑う。
私やあなたがもっている常識を疑う。
いろいろな弊害が生まれてくれば、なおさら、である。

 その常識の基本となっている意識。
その意識を変えることは可能である。
その一例として、冒頭で、中国人夫婦の話をした。
つまりこの話の中に、問題を解くヒントが隠されている。

 方法は、(1)常識のおかしさに気づくこと。
つぎにそれに気づいたら、(2)意識を変える。
そのために自分の心を風通しのよいものにする。
視野を広くして、他人に考えに進んで耳を傾ける。
そういうことをわかってもらいため、冒頭で、忠臣蔵の話をした。
水戸黄門や釣りバカ日誌の話をした。

 同じように、私たちが今もっている家族観、育児観をながめなおしてみてほしい。
意識が変われば、ものの見方が180度変わるということもよくある。
同時に常識も、変わる。

 今日の講演では、つぎの2つの焦点をしぼって、みなさんに伝えたい。

(1)家族主義から新家族主義へ

 これから子どもたちに「家族」の話をするときは、そこに「祖父母」、つまりあなたがたの両親
の姿を加える。
これはあなた自身のためでもある。
それがわからなければ、今の自分の年齢に、子どもが社会人になるまでの年数を足してみれ
ばよい。
「子育てがやっと終わった」と思った瞬間、そこに待っているのは、あなた自身の「老後」であ
る。
今度は、あなた自身が、その「祖父母」ということになる。

が、今、みなさんは、自分の姿と「下」、つまり子どもの姿しか見ていない。
しかしそれではいけない。
「家族」というときは、そこには当然、「祖父母」も含まれなければならない。
これが第一。

(2)欲望至上主義の是正

 欲望の追求には、ブレーキをかけなけばならない。
そのひとつとして、「恋愛」を例にあげた。
恋愛はけっして、すべてに優先されるべきものではない。
たとえそれが身を焦がすほどつらいものであっても、だ。
あなたであってあなたでない部分が、あなたを操っているだけ。

 ニコチン中毒や、アルコール中毒と、メカニズム的には同じ。
脳の中の線条体というところに受容体ができ、そこで条件反射運動を起こしているだけ。
欲望の奴隷になってよいことは、何もない。

 で、恋愛をひとつの例としてあげた。
もちろん恋愛を、欲望と考えてよいかどうかという点については、異論、反論もあるだろう。
しかしフロイト学説に従うなら、「性的エネルギー」は、すべての欲望の原点になっている。
そういう意味で、ここで恋愛をひとつの例として、考えてみた。
つまり「恋愛」という仮面にだまされてはいけない。
それが正当化されるのを許してはいけない。

●では、どうすればよいのか

子育てには、多くの誤解がある。
たとえば「すなおな子ども」という言葉がある。
「すなおな子ども」というと、ほとんどの人は、親や先生に従順で、親や先生の言うことを、ハイ
ハイと聞く子どもと考えている。
が、これは誤解。

 心理学の世界で「すなおな子ども」というときは、情意、つまり「心」の状態と、顔の表情が一
致している子どもをいう。
うれしいときには、うれしそうな顔をする。
悲しいときには、悲しそうな顔をする。
そういう表現が、自然な形でできる子どもを、すなおな子どもとい。

 つぎにやさしさ。

●やさしさ

「やさしい子ども」というと、たとえば柔和でおだやかな子どもを想像する人は多い。
が、そういう子どもを、「やさしい子ども」とは言わない。
たとえばブランコに乗ってたとする。
そのとき別の誰かがやってきて、ブランコを横取りしたとする。
そういうとき、「いいよ……」と言って、ブランコを明け渡してしまう。
そういう子どもを、やさしい子どもとは言わない。
またそういう子どもほど、また別のところでさまざまな問題を引き起こすことがわかっている。

 では、どういう子どもをやさしい子どもというか。

 子どもにとって「やさしさ」というのは、より相手の立場になって考えられる子どもをいう。
たとえばショッピングセンターで、ものを買うときも、いつもだれかのことを考えて買う。
「これはお父さんの好物だね」とか、「これを買ってあげると、お兄ちゃんが喜ぶね」と。
もう少し専門的に言えば、より自己中心的でない子どもを、「やさしい子ども」という。
またそれができる子どもを、(子どもに限らないが)、人格の完成度の高い子どもという。
人格指数、つまり人格の完成度を知る、ひとつのバロメーターにもなっている。

 が、今日の話に関係しているのが、忍耐力ということになる。
その忍耐力も、よく誤解される。

●忍耐力

よく「うちの子はサッカーだと一日中しています。
忍耐力はあるはずです。
そういう力を、勉強に向けさせたいが、どうしたらいいか」と相談してくる親がいる。
しかしそういう力は、忍耐力とは言わない。
好きなことをしているだけ。

 子どもにとって、またおとなにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。
ためしに今日、家に帰ったら、子どもにこう言ってみるとよい。
「台所の生ゴミ、きれいにして」と。
「風呂場にたまった毛玉を掃除して」でもよい。

 そのときあなたの子どもが、何もためらわずそれができたとしたら、あなたの子どもは忍耐力
のある子どもということになる。

●では、どうするか

 それが冒頭にあげた話、ということになる。

 子どもは使う。
使って使って、使いまくる。
長い前置きと、回り道をしたが、これが結局は、この講演の結論ということになる。

『子どもは使う』。

 ついでに言うなら、古来、この日本では、子どもをかわいがるということは、子どもに楽をさせ
ることというふうに考える。
「楽」イコール、「楽しませること」と考える人も多い。
それに拍車がかかったのが、高度成長期に入ってから。
それこそ子どもが生まれると、蝶よ花よと手をかけた。
時間をかけた。
お金もかけた。

 その結果、私たちの時代で、「ドラ息子」「ドラ娘」と呼ばれる子どもたちがふえた。
ふえたというより、そういう子どもが主流になった。
すでに20年前には、そうでない子どもは、さがさなければならないほど、少なくなった。
今では、高校生にしても、親に感謝しながら通っている子どもはいない。
大学生でもいない。
お金をもらうときだけは、「ありがとう」と言う。
しかしそこまで。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する子どももいる。
それもそのはず。

 現在の子どもたちは、そしてここにいるお父さん、お母さんは、子どものときから「勉強しろ」
「勉強しろ」と言われて育っている。
ある女子高校生は、親が「大学進学をあきらめてくれ」と言われたとき、それに猛烈に反発し
た。
「子どもを大学へやるのは、親の役目。借金でも何でもして、私を大学へやって!」と。

 今は、そういう時代である。
子どもが社会人になりとき、その支度金まで、親が出す。
結婚式の費用も、親が出す。
さらに子どもが生まれると、その生活費まで、援助する。

 私たち団塊の世代は、こういう現状を見ながら、こうこぼす。

「私たちは両取られの世代」と。
親に取られ、子どもたちに取られ……と。
なぜ、こうなってしまったか。
それが言うまでもなく、常識であり、意識であるということになる。
それがどのようなものであれ、一度はその常識を疑ってみる。
そして「おかしい」と感じたら、今度は意識を変えてみる。
そのヒントとして、今日は常識論、意識論にからめて、子どもをどう育てたらよいかを話してみ
た。

 これからの子育てのひとつの指針になればうれしい。
なぜならこの問題だけは、あなたがたみなさんの近未来の老後に直結する問題である。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(注※1)

●男は仕事、女は家庭?(2008年、調査)

++++++++++++++++++++

このほど読売新聞社(2008年8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%、
だったという。

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++++++++++++

こうした変化は、私も、ここ10年ほど、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%

そうは思わない……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに
対して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を
大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。「結婚した方がよい」は、5年前
の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

(参考)

●ああ、父親たるものは……!

++++++++++++++++++

平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)
●ああ、父親たるものは……!
++++++++++++++++++
平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

(3)人格の完成

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1) 自己管理能力
(2) 良好な対人関係
(3) 他者との良好な共感性

とくに需要なのが(3)の共感性(より愛他的、非自己中心性)

(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。
(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。
(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。
(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。
(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。
(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●ああ、父親たるものは……!

++++++++++++++++++

平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。



(2011年6月2日、作成)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 常識論 意識論 常識改革 意識改革 はやし浩司 父親のようになりたくない 
はやし浩司 父親を尊敬していない 総理府調査 青少年白書)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司


失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという
(韓国・東亞日報)。

申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。

『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろうか」と
いう質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。見慣れない
ものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感することが、より重
要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。

ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)。

浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。

が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。

『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめ
んね』という言葉を聞かされて育った。私たちが当たり前のように耳にしながら育ったこの言葉
は、いざ両親に対してはかけたことがない。言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)
と。

つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。
親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。

申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。

今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではない。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は
依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2、30年後に、許してやる!」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎
月のように、お金を借りに来ました。
『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。
『特殊車両の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう3年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話し)を書くときは、その本人とわからないように書く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。

 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。

 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」
というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてしまっ
た」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年以上、
会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母。
つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。

いわく、

『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、けっし
て程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。

●3つのポイント

 順に考えてみよう。

(1)子どもたちに尊敬される

(2)子どもたちを尊敬する

(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない

 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない

 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬してい
ない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。


★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という質問に
対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、

  イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。

 もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としてしていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。
「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。

 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。

『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。
「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。

 へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。
中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。

「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存 はやし浩
司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる)2011/07/26再収録推敲


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

2011年7月25日月曜日

@BW Children's Learning Club

●7月25日

++++++++++++++++++++

今朝の経済各紙を読むと、「米債務問題が
重荷」「米債務問題を警戒」という文字が並ぶ。
野党共和党との会談も決裂。
オバマ大統領は、振りあげたコブシ(拳)を、
どうすることもできなくなってしまった。

このままアメリカは、デフォルト(債務超過)
に突っ走ってしまう?
それとも土壇場で、オバマ大統領は折れるのか。

++++++++++++++++++++

●貧困国・アメリカ

 藤井巌喜(「超大恐慌の時代」)によれば、アメリカ人の7人に1人が、年収2万2000ドル以下の貧困層に属するという。
現在の為替レート(78円/7月25)で計算すると、172万円。
これを12か月で割ると、月収14万3000円!
かなりきびしい額である。

 そこでアメリカでは、「フードスタンプ」というのが発行されている。
「食料配給権」のことである。
その受給者が、「2010年11月に、4360万人となり、史上最高を記録した」(同書)という。
失業率は改善したとはいえ、フードスタンプの受給者がふえたということは、それだけ「ワーキングプア」の人たちが多いことを示す。
「働けど、働けど……」という状態ということになる。

●巨額の財政赤字

 アメリカの財政赤字については、今さらここで論じても意味はない。
公表されている数字だけを見ても、まさに天文学的数字。
それに加えて地方財政もガタガタ。
アメリカでは、州単位、地方政府単位の独立採算制をとっている。

 さらに個人の借金もふえつづけている。
つまり政府、企業、地方政府、個人、すべてが借金漬け。

 藤井氏はこんな事実も指摘している。
「30日以内に、通常の収入以外に2000ドルの現金を工面できないと答えたアメリカ人が、50・1%もいる」(全米経済調査局・5月23日付ウォールストリィート・ジャーナル)と。

 2000ドル!
15万6000円!
アメリカ人の半数が、まさにギリギリの生活を強いられている!

●どうなるか?

 来る8月3日に、オバマ大統領はどのような決断をくだすか?
それを知るひとつのヒントが、金(ゴールド)価格の上昇。
今朝の田中貴金属店のでの金価格は、グラム4301円(小売価格)。

 「4301円」と聞くと、「そんなものかなあ」と思う。
が、ドルベースでみると、1オンス6000ドルを超えている。
仮に、数年前の1ドル=120円で計算しなおしてみると、グラム6616円になる。
1キロバーが、何と、660万円!
(TOYOTAのプリウスを2台買っても、まだおつりが来る。)
世界のお金(マネー)は、「ドルがあぶない」と読んでいる。
その資金が、貴金属市場へと流れている。
そう言えば、ガソリン(レギュラー)も、ここ数日、リッター155円を示している。
 
 ほかにもあるが、すべての指標が、「アメリカの破綻」=「ドル帝国の崩壊」を示している。
オバマ大統領に、何か奇策はあるのか?
唯一あるとすれば、第二次ITバブルの継続と、問題の先送り。
今の今も、インターネットのサービス会社が、何百万ドル単位で売買されている。

●ババを引く庶民

 結局は、私たち庶民が、結局は最終的には被害者になる。
たいした情報も与えられず、最後のババを引く。
よい例が、銀行の窓口で売られていた外国債券(外債)。
リーマンジョック&ドバイショックで、大損をした人も多いはず。
そのせいか、最近は、すっかりなりをひそめている。
銀行へ行っても、外債の「ガ」の字もない。

 では、今度は、どうか?
つまり8月3日は、どうか?
が、今度は、ババを引くのは、庶民ではない。
日本という「国」が引く。
何といっても、外貨(外貨準備高)が、1兆ドル強(2010年3月)もある。
が、これとて、公式の数字。
さらに各企業がもつ外貨まで含めると……?
ヘタをすると、そういったドルが、紙くずと化す。

 第一に影響を受けるのが、銀行。
つぎに庶民の私たち。
もちろんそうならないことを願うが、経済界の論理は、私たちの常識の外にある。
この先、何が起きてもおかしくない。
その警戒心だけは、ゆるめないでおきたい。
2011年7月25日記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●スカイツリーの謎の回転(地球の自転によるものではないか?)

+++++++++++++++++++

昨夜(7月24日)、NHKテレビを観た。
スカイツリーの建設現場の様子を報道していた。
その中に、こんなシーンがあった。

話しを進める前に、スカイツリーについての基本構造。

スカイツリーは、二層の構造になっている。
外側の「殻」の部分。
内側の「芯」の部分。
外側の殻の部分ができあがったところで、内側の芯の部分を、
少しずつ上に伸ばしながら、建設していく。

そのときのこと。
内側の芯の部分が、原因不明の回転をし始めた。
回転といっても、10センチ前後のわずかなズレだが、
スカイツリーにとっては、致命的な事故につながる。
へたをすれば芯そのものがはずれ、下に落ちてしまうという(番組)。

そこで建設はストップ。
工事の責任者たちが部屋に集まり、原因を検討し始めた。
が、結論は、「原因不明」。
「わからない」「わからない」で終わってしまった。

しかし……。
ここから先は、あくまでも私というド素人の推察。

芯が回転するのは、当然のことではないのか。
地球の自転の影響を受けていると考えれば、わかりやすい。
たとえば北極にスカイツリーを建設したばあいを考えてみよう。
外側の殻の部分は、地球に固定してある。
地球の自転のまま、回転する。
上から見たばあい、時計と反対回りに回転する。
しかし内側の芯の部分は、摩擦による抵抗が少なければ少ないほど、
その反対方向に回転し始める。
つまり相対的に、時計回りに回転し始める。
北極に船を浮かべてみたばあいを、想定してみればよい。
船は、自転と反対方向に回る。
日本は、北半球にあるから、北極ほどではないが、当然、
自転の影響を受ける。

私は原因は、それと思った。
が、最後まで、地球の自転を口にする技術者はいなかった。
私には、それが歯がゆかった。

……こう書くと、自転の影響?、と疑う人も多いかもしれない。
しかし台所の排水口ですら、水は、渦を巻いて流れる。
地球の自転の影響を受けるからである。

が、赤道直下では、渦はできない。
南半球では、今度は、渦の向きは逆になる。
3か月前、オーストラリアへ行ったとき、私はそれを確かめた。
……というか、ワイフが私の話しを信じなかったので、それを証明してみせた。

ここに書いたことは、あくまでも、「そうではないか?」という話し。
あれほどの技術者たちが、……つまりスカイツリーを設計、
建造した技術者たちが、そんなことを知らないはずがない。
日本でも超一級の頭脳をもった人たちである。
が、可能性としては、ありえない話しではない。

……というふうに、この原稿を理解してほしい。
スカイツリーの「芯」が回転したのは、地球の自転によるものではないか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 スカイツリー 謎の回転)

+++++++++++++++++++++

●ストレス解消ビデオ




Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●4~5歳児(年中児)に、「長さ」を教える

(1)




(2)




(3)




(4)





Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

E-Magazine July 25th

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 7月 25日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【伸びる子・伸びない子】(かぎを握るのが、忍耐力)


●がまんをさせる(忍耐力と子どもの伸びる力)

++++++++++++++++++++

孫の誠司(当時6歳、母親はアメリカ人)のこと。
その誠司をおもちゃ屋へ連れていったときのこと。
孫の誠司はおもちゃを手に取って遊ぶだけで、
けっして「ほしい」とは言わなかった。

ショッピングセンターへ連れていったときも
そうだった。
日本の子どものように、「あれ、買って」「これ、
買って」とは、言わなかった。
で、息子(二男)にその理由を聞くと、こう言った。
「無駄なものは、いっさい買わない」と。

アメリカといっても広い。
二男の嫁が生まれ育ったのは、アメリカ南部。
両親は厳格なバプティスト教徒。
日本人の子育て法とは、基本的な部分がちがう。
その(ちがい)が、冒頭に書いたちがいとなって、
現れた。

が、それだけではない。
誕生日プレゼントでも、クリスマスプレゼントでも、
その日になるまで、親は包みを開かせない。
孫たちは、その日になってはじめて、包みを開く。
習慣のちがいといえばそれまでだが、しかし
こうした習慣が、子どもに(我慢)ということを
教える。

私がそれまでもっていた常識とはあまりにもちがったので、
孫たちを見ながら、私は強烈な印象を叩きつけられた。

+++++++++++++++++++++

●D・ゴールマンの実験

 植島啓司著「天才とバカの境目」(宝島社)に、こんな興味深い実験が紹介されている。
D・ゴールマンがした『マシュマロ・テスト』というのが、それ(P13)。
内容をかいつまんで紹介する。

+++++以下、「天才とバカの境目」より、要約+++++

 4歳の子どもに、実験者がこう言う。

「ちょっとお使いに行ってくるからね。おじさんが戻ってくるまで待って
いられたら、ほうびに、このマシュマロを2つあげる。
でも、それまで待てなかったら、ここにあるマシュマロを、1つだけあげる。
そのかわり、いますぐ食べてもいいけどね」と。

 4歳の子どもには、大きな試練だ。
さてあなたなら(あなたの子どもなら)、どうするだろうか。

 ゴールマンはこう言う。
『子どもがどちらを選ぶかは、多くのことを語ってくれる。
性格が端的に読み取れるだけではなく、その子どもがたどる人生の軌跡
まで想像できる』と。

 で、4歳児のうち、何人かは実験者が戻ってくるまで、15分ないし20分
間を待つことができた。
待っている間、子どもたちはマシュマロを見なくてすむように、両手で目を
覆ったり、顔を伏せたりしていた。
自分を相手におしゃべりをしていた子どももいたし、歌を歌っていた子どもも
いた。
最後までがんばりぬいた子どもは、ほうびにマシュマロを2個もらった。

 同じ4歳児でも衝動性の強い子どもは、目の前のマシュマロに手をのばした。
しかもほとんどのばあい、実験者が、『お使いに行く』と部屋を出た直後に
そうした」と。

●決定的な差

 この実験は、1960年代にスタンフォード大学の心理学者ウォルター・
ミシェルが大学構内の付属幼稚園で始めたもので、その後も詳細な追跡
調査がなされたという。

 その結果、すぐマシュマロに手を出したグループと、がまんして2個
受け取ったグループとでは、決定的な差が生じた。

 情動を自己規制できたグループは、たとえば、学業の面でも、SAT
(大学進学適正試験)で、もう一方のグループに200点以上もの大差を
つけたという。

+++++以上、「天才とバカの境目」より、要約+++++

●注目すべき結果

 もう一度、最後の部分をよく読んでほしい。
こうある。

「情動を自己規制できたグループは、たとえば、学業の面でも、SAT
(大学進学適正試験)で、もう一方のグループに200点以上もの大差を
つけたという」(P14)。

 つまりがまん強い子どもは、そうでない子どもよりも、学業面においても
大きな(差)をつけたという。

しかしこれは何もこんなおおげさな実験などしなくても、常識と考えてよい。

●がまん

 子どもにとって忍耐力というのは、(いやなことをする力)をいう。
これについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

(なおこの意見は、私のオリジナルの持論。
最近書店に並んでいる育児本に、同じことを書いてあるのを知った。
私の持論のパクリである。)

 たとえばあなたの子どもに、台所の生ごみを始末させてみてほしい。
シンクに手が届かないようであれば、風呂場の排水口にたまった毛玉でも
よい。
あるいは年齢が大きければ、風呂洗い、もしくはトイレ掃除でもよい。
そういう仕事を頼んだとき、何のためらいもなくそれができる子どもは、
忍耐強い子どもということになる。

 このタイプの子どもは、学業面でも伸びる。
理由は簡単。
もともと学習(勉強)には、ある種の苦痛がともなう。
その苦痛を乗り越える力が、忍耐力ということになる。
しかも「この先、どんな人生を歩むようになるかまで、わかる」と。
ゴールマンは、それを研究として、つまりデータ上で、証明した。

●幼児期前期(2~4歳期)

 エリクソンは、幼児期前期を「自律期」と位置づけている。
この時期に、「自らを律する」ということをしつけると、子どもはのちのちも、
自己管理能力のすぐれた子どもになる。

 人間の子どもだけではない。
犬もそうで、時期をうまくとらえ、しつけると、人間の言いつけをしっかりと
守ることができるようになる。
たとえば私の犬のハナは、中型の猟犬だが、いまだかって塀を乗り越えて
外に出たことはない。
塀は自分の肩ほどの高さしかないから、その気になれば、いつでも飛び出せる。

 子どももそうで、この自律期に、しっかりとしつければ孫の誠司のように
なる。
おもちゃ屋でおもちゃを見るときも、ただ見るだけ。
それで満足する。
「買って」とか、「ほしい」という言葉すら、口に出さない。
で、私のほうが見るに見かねて、「買ってあげようか?」と声をかけると、
かえってキョトンとしている。
子どもをしつけるということは、そういうことをいう。
「がまんさせる」ということは、そういうことをいう。

●物欲(食欲)

 これは私の仮説。

以前にも書いたことがあるが、脳の視床下部からは絶え間なく、ある種の
シグナルが放出されている。
フロイトが説いた「性的エネルギー」、ユングが説いた「生的エネルギー」と
いうのは、それをいう。

そのシグナルに応じて、ドーパミンが分泌され、人間の脳は欲望に満たされる。
この欲望をコントロールするのが、前頭連合野ということになる。
つまり「理性」。

 しかし前頭連合野の力は、それほど強くない。
とくに線条体に受容体が一度形成されると、そこで条件反射運動が起こる。
こうなると理性の力は、さらに遠ざかる。
アルコール中毒、ニコチン中毒、さらには買い物依存症の人たちを見れば
それがわかる。
買い物依存症の人たちは、それがほしいからそれを買うのではない。
必要だから買うのでもない。
(買いたい)という衝動を満たすために、それを買う。

(この点、ニコチン中毒者も同じように考えてよい。
タバコを吸いたいから、タバコを吸うのではない。
タバコに、タバコを吸わせられている!)

 物欲もまさに、その1つ。
「情動の自己規制力」(ゴールマン)が強い子どもは、それだけ前頭連合野
の力が強いということになる。
反対に、そうでない子どもは、そうでない。
情動の自己規制力が弱いから、衝動的な行動をコントロールすることができない。
あるいは情動に溺れてしまう。
が、これでは落ち着いて勉強することもできない。
そのちがいが、「200点以上という差(SAT)」となって現れる。

●臨界期

 子どもをがまん強くするかどうか。
忍耐力のある子どもにするかどうか。
その時期は、幼児期前期(2~4歳期)にかかっているとみてよい。
その時期を逃すと、以後、子どもをがまん強くしたり、忍耐力のある子ども、
つまり情動に対して自己規制力のある子どもにするのは、たいへんむずかしい。
子どもの忍耐力にも、臨界期があると考えてよい。

 たとえば年長児(幼児期後期)にもなると、その(ちがい)が、個性となって
その子どもの中に定着してしまう。
衝動性の強い子どもは、それ以後、ずっと衝動性の強い子どもになる。
いくら指導しても、また叱ったり、注意したりしても、それが直るということは、
まず、ない。

 またこのことも犬を見ればわかる。
私は以前、もう一匹、犬を飼っていた。
保健所で処分される寸前の犬だった。
が、この犬は、「自律心」ということになると、まったく自律心のない
犬だった。
ほんの少しでも裏の勝手口が開いていようものなら、私たちの目を盗んで、
そのままどこかへ行ってしまった。
何度教えても、また叱っても、死ぬまでこの悪癖は直らなかった。

●子どもを伸ばす

 子どもを伸ばすかどうか。
そのひとつの鍵をにぎるのが、(がまん)ということになる。
(あくまでもひとつの鍵。誤解のないように!)
がまん強い子どもは、伸びる。
そうでない子どもは、そうでない。

 だから幼児期、とくに幼児期前期においては、がまんをテーマに、
子育てをするとよい。
(がまん)にも臨界期があり、この時期を逃すと、そのあとのしつけが
たいへんむずかしくなる。

 で、この問題は、あなたという(親)に、そのまま直結する。
あなたは、そのがまん強い親だろうか。
それとも衝動的な行動を繰り返しているだろうか。
つまり前頭連合野の力は強いだろうか。
それとも弱いだろうか。
一度、自分の幼児期はどうであったか、自分を振り返ってみるとよい。
別の(あなた)を、あなたは発見するかもしれない。
2010/08/17

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はや
し浩司 マシュマロ マシュマロ・テスト 忍耐 子どもの忍耐力 我慢 我慢強い子ども がまん強
い子ども 伸びる子ども 伸びない子ども ゴールマン はやし浩司 自己規制力 幼児期前期 臨
界期 自律期)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●エリクソンの心理発達段階論

エリクソンは、心理社会発達段階について、幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。

(1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築)
(3) 幼児期後期(自主性の構築)
(4) 児童期(勤勉性の構築)
(5) 青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

+++++++++++++++++

以下、09年4月に書いた原稿より……

+++++++++++++++++

●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2~4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

 児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。

 勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。

 自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。

 たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

 こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正された
りということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●結論

 平たく言えば、こうした同情を買うという一連の行為は、精神的未熟性による
ものと考えてよい。
情緒的欠陥が原因になることもある。
どうであれ、けっして好ましいパーソナリティではないことだけは、確か。
自分の中にそういう「卑屈なゆがみ」を感じたら、それと闘う。
これもまた老後を心豊かに生きるためのコツということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 エリクソンの心理発達段階論 (1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築) (3) 幼児期後期(自主性の構築) (4) 児童
期(勤勉性の構築)(5) 青年期(同一性の確立) (はやし浩司 家庭教育 育児 教
育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 反抗期の子ど
も 反抗期の子供) 同情を買う)

(2011/07/09再収録)

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●7月9日(土曜日)山荘にて

++++++++++++++++++++++++++++

今夜は、山荘へ逃げてきた。
自宅での気温は、夕方、30度を超えていた。
それで山荘へ。

途中、ブックストアで、2冊、本を仕入れる。
私は、日本文芸社の『超大恐慌の時代』(藤井巌喜著)。
ワイフは、雑誌の『ムー』(学研)。
今夜は、読書。
読書の夏(?)。

・・・今、午後10時半。
今、やっと一息ついたところ。
『超大恐慌の時代』の第1章「震災大不況の到来」、
第5章の「中国バブルついに崩壊」を読み終えた。

この2つを読んだだけでもわかるが、日本の未来は、お先真っ暗。
藤井氏は、こう書いている。
「外国人は最悪の事態を想定して行動している。
日本人は希望的観測に従って行動している」(P47・要約)と。

まったく、同意見。
福島第一原発事故にしても、ほとんどの日本人は、「安定状態に入った。
つまり問題は解決した」と思い込んでいる。
そう思いたい心情は、よくわかる。
またそうでも思わないと、気が晴れない。
しかし何ひとつ、問題は解決していない。
解決していないばかりか、この先、まだ、何が起こるか
わからない。

今日も菅首相は、こう言った。
「解決までには、この先、何十年もかかります」(記者会見)と。
つまりこの原発事故は、そういう問題。

この先、どれほど多くの悲劇を、私たちは目撃することになるのか。
それを思うと、ただただ気が重くなる。

++++++++++++++++++++++++++++

●耳鳴り

 山荘の夜は、静かだ。
ワイフはコオロギが鳴いているという。
が、私には、聞こえない。
いや、聞こえていたが、私は耳鳴りかと思っていた。

 私は子どものころ、慢性中耳炎で苦しんだ。
この病気のいやなところは、耳の奥がいつも熱っぽいこと。
そのためものごとに集中できない。
が、それでも勉強しなければならない。
そんな日々がつづいた。
そのつらさは、慢性中耳炎になったことのある人なら、みな知っている。

今は、それは収まったが、代わりに耳鳴りが始まるようになった。
ちょうどセミが鳴くような音に聞こえる。
実際、夏になり、セミが鳴くようになると、困る。
耳鳴りの音なのか、本物のセミの声なのか、区別できないときがある。

 が、そういう状態が何十年もつづくと、これも慣れ。
慣れの問題。
他人が心配するほど、私は耳鳴りの音については、気にしていない。
飛行機の中で、飛行機のエンジン音を気にしないのに似ている。
それに悪いことばかりではない。
耳が、健康のバロメーターになっている。
風邪のひき始めには、症状がまず、耳や喉(扁桃腺)に出る。
そのころ予防処置をすれば、大きな病気に進まないですむ。
実際、この20~30年間で、病気で仕事を休んだことは、ほんの数回しかない。

 とは言いつつ、今、窓をあけ、耳を外に向けた。
コオロギの鳴き声を聞きたかった。

●Google Crome OS

 で、今夜はこう決めた。
震災や原発事故の話は書かないでおこう、と。
経済の話も、やめておこう。
座右には、家からもってきた週刊誌や心理学の本が、10冊、近くある。
私のばあい、こうして何か読むものが近くにないと、落ち着かない。
言うなれば、「文字中毒」?

 と書いても、趣味の本も読まないわけではない。
先週は、コンビニで『DIME』(小学館)を買った。
最新パソコンを特集していた。
それが今、テーブルの上にある。

目下、話題になっているのは、グーグル社が開発した、新OS。
「Google Crome」(OS)を搭載した、グーグル・パソコン(端末パソコン)。
雑誌には、「革新的新端末?」(P19)とある。
一言で表現すれば、「スピード感がちがう」ということらしい。
どこがどうちがうのだろう?
一度、どこかで触ってみたい。

●Twitter

 今やTwitterの全盛期。
そのための専用パソコンまで売りに出されている(NEC)。
たかが「つぶやき」とあなどってはいけない。
Twitterが、世界を動かしている。
中東で始まった、一連のジャスミン革命にしても、Twitterが起爆剤になった。
しかし私には、どうも使い勝手が悪い。
悪いというより、使う目的がちがう。

 私にとって、ものを書くというのは、墓石に文字を刻むようなもの。
生きているという証(あかし)そのもの。
死んだあとは、生きたという証(あかし)そのもの。
Twitterでは、それが期待できない。
文字通り、「おしゃべり」。
スズメのさえずりと同じ(失礼!)。
いくら書いても、何も残らない。

 では、FACEBOOKは、どうか?
仲間をさがし、友だちを作るには、役に立つかもしれない。
しかしこれにも限界がある。

 遠い昔の話だが、「パソコン通信」なるものが始まった。
最初はカタカナのみの交信だった。
それがやがて漢字も使えるようになった。
私は真っ先に飛びついた。
で、すぐ何人かの人たちと、友だちになった。

 1人は兵庫県姫路市に住んでいる人だった。
毎晩のように、今でいうメールを交換した。
(たしか浜松市内でも、パソコン通信をしている人は、数えるほどしかいなかった。)
が、インターネットが現れ、パソコン通信は、姿を消した。
同時に、その友人も、消えた。

 そういう経験があるから、FACEBOOKには、どうしても飛びつけない。
「やがては時間の無駄になる」と。
友だちといっても、ある限度を超えては、親しくなれない。
「限界」というのは、そういう意味。

●ネット用語

 「この世界は、どこまで進むのだろう」と、よく考える。
パソコンの性能も、1~2年単位でよくなっていく。
新しいサービスも、つぎからつぎへと始まる。
ついていくだけで、たいへん。

毎日のように、新しい言葉も生まれる。
数日前も、「ストレステスト」という言葉が目についた。
直訳すれば。「耐性テスト」ということになる。
別の本には、「安全性確認テスト」と書いてあった。
だいたいの意味はわかったが、そこまで。

 が、いまだに意味のよくわからない言葉もある。
「スレ」という言葉。
若い人たちが、ネット上でよく使っている。
が、この言葉にしても、どんどんと変化していく。
10年ほど前だが、「モナー」という言葉もあった。
そこでネットで知り合った若い人に、意味を聞いた。
当時25歳くらいの男性だったが、親切に教えてくれた。
「お前も、そうだろ」という意味で、「モナー」と言う、と。
「お前もなあ」を短くして、「モナー」と。
相手に向かって、「偉そうなことを言うな」というときに、モナーと言う、と。

 が、最近、「モナー」という言葉は、あまり見かけない。
つまりそういうこともあるから、流行語をそのまま使うのも、危険なこと。
少なくとも、私は避けている。

●スケベ小説

 ところで震災以来、「週刊G」(講談社)を欠かさず、購入し、読んでいる。
その中に、毎週、たいへんスケベな連載小説が載っている。
作家の人には悪いが、これがどうしようもないほど、ヘタクソ。
一応それなりの名前のある作家なのだろうが、ヘタクソ。

 私もときどきスケベな話を文にする。
外に向かって発表したことはないが、言うなれば、私の秘密の趣味。
一度だけだが、ある女性に、それを読んでもらったことがある。
その女性は、こう言った。
「びっくりして、気絶しそうでした」と。

 ・・・と書くからといって、私のほうが上手というのではない。
スケベ小説というのは、現実感がモノを言う。
スケベな作家が、頭の中だけで想像して書いたような小説には、その現実感がない。
その場の人間しか知らないような、臨場感がない。
つまり読んでも、おもしろくない。
週刊Gに載っている小説は、明らかに(作り話)。
言うなれば「排泄の描写」ばかり。
哲学がない。
だから「ヘタクソ」という言葉を使った。

●TOSHIBA・UX

 ワイフは、先に床に入った。
日付は変わって、7月10日になった。
私も、少し眠くなってきた。
が、こんな時間は、そうはない。
私だけの、貴重な時間。
今しばらく、パソコンのキーボードを叩いていたい。

 使っているのは、TOSHIBAのダイナブックUX/23(10インチ・ミニパソ)。
ダイナブックのTX/66(15インチ・ノート)ももってきた。
が、私はUXのキーボードが好き。
キーを叩いているだけで、気持ちよい。
つまり今の私には、キーボードを叩くのが「主」。
文字を書くのは、「従」。
書くために叩いているのではなく、叩くために文字を書いている。
本末が逆転している。

●心の開いた人vs心の閉じた人

 が、それでは読者の方に申し訳ない。
現在、BLOGだけでも、毎日、1万人近い人たちが、私の文を読んでくれている。
そういう人たちのために、何か、役に立つことを書きたい。

 何だろう・・・?

 ・・・今、興味をもっているのは、「心の開いた人vs心の閉じた人」。
数日前から、このテーマで原稿を書きたいと思っている。
が、イマイチ、頭の中で構想がまとまらない。
まとまらないから、ずっと、そのまま。

 が、簡単に言えば、こういうこと。
(心の状態)と(外に向かって表現される様子)が、一致している人を、「心の開いた人」という。
一方、(外に向かって表現される様子)からは、(心の状態)のわからない人を、「心の閉じた人」とい
う。

 子どもの世界を見ていると、それがよくわかる。
表情や様子から、その子どもが何を考えているか、よくわかる子どもがいる。
そういう子どもを「心の開いた子ども」という。

 その一方で、何を考えているか、よくわからない子どももいる。
心がつかみにくい。
自閉症という障害をもった子どもは別として、自閉傾向をもった子どもとなると、何割かがそうである
と言える。
一見、従順で、おとなしく、親や教師の指導に、すなお(?)に従う。
しかしその分だけ、ストレスをため、心をゆがめやすい。
ときに突発的に錯乱状態になって、暴れることもある。

 だから・・・。
相手に対して心を開くということは、良好な人間関係を結ぶ、必要条件ということになる。
心が閉じていたのでは、良好な人間関係は、結べない。
友人でも、親子でも、そして夫婦でも。

●夫婦論

 夫婦の話を書いたので、一言。

 円満な夫婦関係を結ぶためには、1にさらけ出し、2にさらけ出し、3にさらけ出し。
性生活はそのために、たいへん有効。
たがいに裸になって、やりたいことをやればよい。

 もちろん性生活だけではない。
言いたいことを言い合う。
徹底的に言い合う。
もしそれができないというのであれば、その夫婦は、かなり危険な状態にあるということになる。

 だから昔からこう言う。
「喧嘩をする夫婦ほど、仲がいい」と。
あるいは「夫婦喧嘩、犬も食わない」と。
夫婦喧嘩が悪いというのではない。
その範囲で収まっているなら、夫婦喧嘩、おおいに結構。
たがいに言いたいことを言い合えばよい。
「その範囲」というのは、言い換えれば「破滅的でなければ」の意。

●小便

 少し不謹慎な話になる。

私は山荘では、小便は、窓を開け、外に向かってする。
それには理由が、ある。

 トイレを使うと、水を流すたびに、モーターがタンクに圧力を加える。
そうしないと、水が、ろ過装置を通らない。
山荘の水は、山からの引き水。
そのため一度、ろ過装置を使って、ろ過する。

 そのときモーターが回る。
その音で、ワイフが目を覚ます。
だから窓を開け、(実際には網戸を開け)、外に向かって小便をする。

 が、これが実に気持ちよい。
限界ギリギリまで膀胱に尿をため、一気に、しかしスワーッと、それを排泄する。
その快感は、多分、男性にしかわからないものではないか。

 欧米人の家には、どこにもピス・ポットというのが、用意してある。
「小便瓶」と訳す。
たいていベッドの下に隠してある。
小便をしたくなったら、その中にする。
(女性はどうしているか、私は知らない。)

 今、その小便をしてきたところ。
スッキリ。
気持ちよかった。
湿った森の冷気が、それと入れ替わりに、私の体の中にしみ込んできた。

・・・ということで、眠くなってきた。
そろそろ私も床に入ることにする。
明日も忙しくなりそう。
草払い機の修理と草刈り。
それが第一。
午後からは教材づくり。

 そうそう、犬のハナがこのところ、どんどんとやせ細っていく。
心配。
今日も好物の肉だけを与えた。
食欲だけは旺盛で、ぺロッとたいらげたが、年齢も年齢。
もう20歳になる。
それなりの覚悟はしている。

が、私には、大切な友だち。
ワイフ、B君、D君、K君についで、第五の友だち。
・・・というか、家族の一員
そう、今の私には、家族といっても、ワイフ、長男、それにハナしかいない。
だからハナがやせ細っていくのを見るのは、つらい。

 では、みなさん、おやすみなさい。
(はやし浩司 2011-07-10記)


Hiroshi Hayashi++++++July 2011++++++はやし浩司(林浩司)


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