2011年3月30日水曜日

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 3月 30日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●情愛論(心の暖かい子どもvs冷たい子ども)

++++++++++++++++++

基本的には、子どもの(=人の)の情愛は、
母親によって、乳幼児期に作られる。
この時期、母親の暖かい情愛に恵まれた
子ども(=人)は、暖かい情愛をもつ。
そうでなければ、そうでない。

++++++++++++++++++

●心の暖かい人vs冷たい人

 情愛の深さは、相対的なもの。
情愛の深い人には、心の冷たい人がよくわかる。
が、心の冷たい人からは、情愛の深い人が、わからない。
お人好しか、ばあいによっては、ただのバカに見える。

 その情愛の深さは、共鳴性によって決まる。
相手の悲しみや苦しみ、さみしさやつらさを、より深く共鳴できる人を、情愛の深い
人という。
が、これには個人差がある。
程度の差もある。
幅のちがいもある。

 その情愛は、母親によって、乳幼児期に作られる。

●8%!

 前もって誤解がないようにしておきたい。
「母性愛」という言葉がある。
本能に根ざした「愛」と考えている人は多い。
しかし実際の調査によると、約8%の母親(私の調査では10%の母親)は、
自分の子どもを愛することができず、人知れず、悩んでいる。
10人に1人!

母親だから……という、『ダカラ論』ほど、アテにならないものはない。
またそういうものを、頭から肯定し、すべての女性に押しつけてはいけない。
みながみな、母性愛があるわけではない。
押しつければ押しつけるほど、その女性を苦しめることになる。
「母親だから、子どもを愛しているハズ」という『ハズ論』も、同じように考える。

 それはともかくも、そういう母親をもった子ども(人)は、不幸である。
日常的に愛情飢餓の状態に置かれる。

●愛情飢餓

 が、愛情飢餓は、母親自身の愛情の欠損だけによって起こるものではない。
離婚、家庭不和、騒動、母親との死別などなど、「母性愛不在」の状態がつづくと起こる。
愛情飢餓が慢性的につづくと、子どもは飢餓感から、じゅうぶんな情操を築けなくなる。

 言うまでもなく、健全な母子関係は、(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)が
基本となって育つ。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。
子どもの側からみると、「どんなことをしてもいい」という安心感。
親の側からみると、「どんなことをしても許す」という寛大さ。
この両者が基盤にあって、基本的信頼関係が結ばれ、それが子どもの豊かな心作りに
つながっていく。

●ぬいぐるみ

 私がそれに最初に気づいたのは、教室の入り口に大きなクマのぬいぐるみを置いた
ときのこと。
もう20年近くも前のことだった。
子どもによって、その反応が2分されるのを知った。

 たいはんの子ども(幼児)は、ぬいぐるみを見ると、「かわいい」と言い、抱いたり、頬
ずりしたりする。
が、中には、ぬいぐるみを見ても、反応しなかったり、さらに中には、足でキックする
子どももいる。
その割合は、8対2。
つまり10人のうち、8人くらいが、好意的な反応を示し、2人くらいが拒絶的な反応
を示す。

 この現象だけをもって、情愛の深さをしることはできない。
しかしひとつの目安にはなる。

●私はどうか

 この問題は、即、私たち自身の心の問題と直結する。
つまり私(あなた)自身はどうか?
私(あなた)自身は、情愛の深い人だろうか。
それとも心の冷たい人だろうか。

 が、ここでまた別の問題にぶつかる。
これは脳の中でも、CPU(中央演算装置)の問題。
情愛の深い人にしても、またそうでない人にしても、それを客観的に知ることはできない。
自分がそうであるため、自分を基準にして考える。
自分がそうであるから、人もみな、そうであると考える。
またよほどのきっかけがないかぎり、自分がそうであることに気づかない。

●A氏の妻

 少し前、妻と離婚した知人のA氏(55歳)が、こんな話をしてくれた。
離婚のきっかけは、人間ドックを受けたときのことだったという。
肝臓に影が見つかり、がんの疑いがかけられた。
そのあとA氏は、放心状態になり、家に帰るまで涙が止まらなかったという。

 で、その夜は、なんとかやり過ごしたが、翌日の夜、絶望的な孤独感が襲った。
そこでその夜だけでもと思い、妻のベッドにもぐりこもうとした。
「助けてほしい」と。
声にもならないような声だった。
が、それに答えて、妻が、「もう寝てるんだから、静かにしてよ! 私に
何ができるのよ!」と。

 A氏はその夜は別の部屋で寝た。
はげしい孤独感を闘いながら、朝まで眠られなかった。
と、同時に、妻との離婚を決意した。

 心の冷たい人というのは、A氏の妻のような人をいう。

●受験戦争で壊れる心

 一般論として、はげしい受験戦争を経験した子ども(人)ほど、心が冷たい。
たった1か月程度、進学塾の模擬特訓を受けただけで、別人のようになってしまう。
そんな子どもも、珍しくない。
(これは本当だぞ! おおげさに書いているのではないぞ!)

当然のことながら、年少であればあるほど、影響は大きい。
親は、「勉強に対する心構えができました」と喜んでみせる。
しかし壊れた心には、気づかない。

 皮肉なことに、親自身もはげしい受験競争を経験している。
暖かい情愛を、こなごなに破壊されている。
だから自分の子どもの情愛がこなごなに破壊されても、それに気づかない。

 結果、「親の恩も遺産次第」と。
実際、そういう子どもは、多い。
そのひとつの例として、韓国や日本など、受験競争のはげしい国の子どもほど、
「将来、親のめんどうをみる」と答える子どもが少ない。
もう一度、内閣府のした調査結果をよくみてほしい。

++++++++++++++++++++


●第8回世界青年意識調査より


(将来、親のめんどうをみるか?)


年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。


★年老いた親を養うことについてどう思うか


『どんなことをしてでも親を養う』(1)
イギリス  66.0%、
アメリカ  63.5%、
フランス  50.8%、
韓国    35.2%、
日本    28.3%


++++++++++++++++

 すべてが受験競争が原因とは言っていない。
ほかにもいろいろ考えられる。
しかし受験競争が原因でないとは、もっと言えない。
受験競争といっても、韓国や日本では、すでに何世代にも渡って、つづいている。
それが親から子へと連鎖し、それがこうした結果となって表れている。

●子どものほうから縁を切る?

 最近多いのが、子どものほうから縁を切るケース。
その直前まで、親から金を借り放題だった子どもが、社会人となり、結婚したとたん
縁を切る。
理由など、何でもよい。
しかもたった一枚の手紙。
それにはこうある。

 「今後、いっさい、連絡をしてくるな。
私(ぼく)と連絡を取りたかったら、直接ではなく、XさんやYさんを通してしてほしい」
「これが私(ぼく)のこの30年間の結論だ」と。

 つまり子どもの側が、親に向かって、「連絡は、XさんやYさんを介してしろ」と。
自分では、どこかの社長にでもなったようなつもりでいる。
が、先にも書いたように、今、こういう子どもがふえている。

 氷のように冷たい心。
が、その冷たさもわからない。
あるいは自分では、それなりに心の暖かい、やさしい人間と思っているのかもしれない。
脳のCPUが狂っているため、自分ではそれがわからない。
わからないほどまで、心がこなごなに破壊されている。

●子どもの心を育て、守る

 ではどうするか?
もう改めてここに書くまでもない。
そのカギを握るのが、母親ということになる。
で、子どもの心は、それでできる。
あとは、それを壊さないようにする。
一度壊れた心は、二度と修復されることはない。
そう断言してよいほど、子どもには、決定的な影響を与える。
それがそのままその子どもの心として、定着する。

 最近、こんな話を聞いた。

 知人のAさんが、実の母親を介護するようになって、数日目のこと。
どこでどう情報を得たのかはしらない。
すかさず、イトコのX(女性)から、1000円にもならない菓子を送ってきたという。
それ以前から、AさんはXが、Aさんの家庭をあれこれと詮索し、うわさ話の具に
していたことは、よく知っていた。

 が、一応、「礼」はしなくてはならない。
が、Aさんにしてみれば、Xの意図は見え見え。
Aさんと家族との確執については、よく知っていたはず。
で、電話を入れると、いきなり「どう?」と。

 つまり「どんな具合か?」と。

A「いったい、これはどういうつもりですか?」
X「(あなたの)お母さんには世話になったから」と。

 心の壊れた人というのは、そういうことが平気でできる。
他人の家の不幸をのぞいては、それを楽しむ。
楽しみながら、それができる。
Xは、昔からそういう女性だったそうだが、60歳を過ぎてもそれができるところが
恐ろしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 心の冷たい人 壊れた人 情愛 情愛論 心の暖かい人)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ある老人】


●金指から伊目へ


 ときどき何のために生きているか、わからなくなる。
何のために生きてきたのかも、わからなくなる。
私の人生は、何だったのか、と。


 そのときもそうだった。
健康を考えての散歩だったが、ふとこう思った。
「どうしてこんなことをしているのだろう?」と。


 そのとき私は、浜名湖に沿って歩いていた。
細江(かなさし・浜名湖の北にある田舎町)から、
伊目(いめ・浜名湖沿いにある小さな村落)へ。
そこから内陸部に向かって、左に曲がる。
広い公道で、ゆったりと歩ける歩道が気持ちよかった。
ゆるい坂だった。


 山荘へ行ったとき、「帰りは歩いてみよう」と思い立った。
半端な距離ではない。
一度、正確に測ったことがある。
片道、27キロ。
その途中でのことだった。


少し前までは、秋になると、このあたり一帯、みかんの花が咲いた。
今は、みかん畑など、さがしても見つからない。
高齢化が進み、離農する人がふえた。


風は強く冷たかったが、体の熱気と打ち消しあい、寒くはなかった。
低い雲の間から、時折、白い太陽の光が、頬を照らした。


 私はその坂を、やや歩幅を狭くしながら歩いていた。
そのとき、そう考えた。
「どうしてこんなことをしているのだろう?」と。


●長い坂


 長い坂だった。
車だと、5分前後で登りきってしまう。
が、歩くと、結構、距離がある。
それまでの疲れが、足の裏に響いてきた。
歩くたびに、ツンツンと痛い。


 と、そのとき向こう側から、1人の老人が歩いてきた。
年齢は75歳前後か。
80歳を過ぎていたかもしれない。
体が左に傾いている。
2本の脚も、左右不ぞろいで、同じように左に傾いている。
歩くたびに、体が大きく揺れる。
ヒョコタン、ヒョコタン……。
そんな歩き方だった。


瞬間、何かの病気かと思った。
が、脳梗塞の人の歩き方とは、ちがっていた。
右手には、ポリ袋に入った食料らしきものを、ひとつもっていた。


 細い顔。
彫りの深いしわ。
色も浅黒く、目は、下を向いたままだった。
私はだまって、すれちがった。


●老人


 が、その瞬間、その老人が気になった。
気になって、立ち止まり、振り返った。
老人は、相変わらず、独特の歩き方で坂をくだっていった。
「あの歩き方では、さぞかし疲れるだろうな」と。
体のどこかに不自然な力が加わる。
それが体のどこかを傷(いた)める。
あるいはどこか痛いから、それをかばいながら歩いていたのか。


 が、意外と軽そうな足さばきだった。
不自然な歩き方だったが、リズミカルだった。
私は、じっとその後ろ姿を見ていた。


が、突然、その男性が止まった。
150メートルほど行ったところのことだった。
止まると同時に、体をくるりと回すと、私のほうを見た。
すばやい動きだった。
男の鋭い視線が、そのままズバリ、私の視線をとらえた。
視線をはずす余裕がなかった。
私はそのまま棒立ちになってしまった。


 不思議な光景だった。
その老人は、私の心を見透かしたかのようだった。
「ジロジロ見るな」と。
鋭い視線だった。
そんなふうに言っているようにも、見えた。


●元気


 時間にすれば、10秒とか20秒前後ではなかったか。
私たちは、たがいを見つめあった。
が、再びその老人が体をくるりと回し、また歩き始めた。
機械的な動きだった。
それを見届けて、私も体を回した。


「あんな老人でもがんばっている」と。
「あの老人と比べたら、私など、ただの小僧。まだがんばれる」とも。
そう思った瞬間、消えかけていた元気が、ポーッとまた燃え出した。
歩幅が大きくなった。


 「とにかく私たちは生きてきたし、今も生きている。これからも生きていくしかない」。
トルストイの書いた『戦争と平和』の一節を思い出した※。
理由など、ない。
目的もない。
夢や希望など、とっくの昔に消えた。
それでも生きていく。


●坂の上


 長い坂を上りきると、今度は道は大きく右へ曲がる。
あたりにはどこにもスーパーらしきものはない。
小さな店は1つ、2つあったが、食料品店とはちがう。
「あの老人は、どこで何を買ったのだろう?」と、そんなことを考えた。
酒だったのだろうか、それともタバコだったのだろうか。
袋の中のモノは、3~4個程度だった。
 

 道はまだつづいていた。
長い道だった。
このあたりの人たちがよく使う幹線道路になっている。
数秒ごとに、乗用車が行き交った。
ときどき大型のダンプも通り抜けた。
そのたびに乾いたほこりが舞いあがった。


 相変わらず冬の冷たい風が吹いていた。
やがて私は東名高速道路のガードを抜けると、大きな四つ角へ出た。
右へ行けば、舘山寺温泉。
左へ行けば、浜松市内。
道路標識には、「市内まで10キロ」とあった。
「あと一息」と、私は自分に気合を入れた。


(注※) 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的に
は幸福になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるため
には)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)



Hiroshi Hayashi++++++Feb 2011++++++はやし浩司(林浩司)

●生きることは書くことbyはやし浩司

++++++++++++++++++

メキシコの作家の、Carlos Fuentes
は、こう言った。

Writing is a struggle against silence.

「書くことは、静寂との闘いである」と。

今の私が、そうだ。

++++++++++++++++++

●大病の宣告

大病を宣告されたら、あなたはどうするか?
あるいは、だれかに大病を打ち明けられたときでもよい。
あなたは、どう応対するか?

参考になるのが、有名人。
有名人の中には、自らマスコミに向かって大病を告白する人がいる。
「私は乳ガンです」と。

反対に、死ぬまでまったく秘密にする人がいる。
有名人でなくても、自らの大病を告白する人もいる。
人、それぞれ。
それぞれの思いの中で、告白したり、秘密にしたりする。
大病を患った人には、患った人にしかわからない心理がある。
もしあなたが健康人なら、あるいは若いなら、そういう人たちのことを
とやかく言うのは許されない。
あなたの近親者についても、そうだ。
できることと言えば、相手の気持ちを思いやり、そっとしておいてやること。
仮にそういう噂を耳にしたとしても、こちらから聞き出すようなことをしてはいけない。
それが最善。

そこで「私なら・・・」と考えてみる。
実のところ、私は過去に数回、大病の疑いをかけられた経験がある。
そのつど、私のとった行動は、完全に秘密主義。
家族でも、ワイフだけにしか話さなかった。
話したところで、どうにもならない。
あの「死を前にした不安感」は、同時に隔離感をともなう。
裸で断崖絶壁に立たされたような、隔離感である。
あるいは巨大な鉄壁に囲まれたような隔離感。
あの隔離感だけは、どうしようもない。

●心のポケット

 先に、「大病を患った人には、患った人にしかわからない心理がある」と書いた。
それが「心のポケット」ということになる。
それがある人には、相手の心がよく理解できる。
それがない人には、理解できない。
そのポケットのない人に、いくら大病の話をしても意味はない。
心のポケットにない人は、まずこう考える。
「その人がいなくなったら、自分はどうなるか?」と。
まず自分の損得を優先させる。

 実のところ若いころの私がそうだった。
そのころの私は、死とは無縁の世界に住んでいた。
だからそう考えた。
つまり人の死ですら、自分にとっての「損得論」の中で処理した。
「この人がいなくなったら、自分はどうなるのだろう?」と。
このことは、子どもたちの世界をのぞいてみると、よくわかる。
ほとんどの子どもたち(幼児、小学生)は、「老人は死ぬもの」と考えている。
「死んで当然」と。

 だからほとんどの子どもたちは、(特別なケースをのぞいて)、こう答える。
「悲しくなかった」と。
「おじいちゃん、おばあちゃんが死んだとき、悲しかったか」と聞いたときのことである。
子どもたちは、「老人は死ぬもの」という前提で、老人をみる。

 言い換えると、私が秘密主義なのは、ここに理由がある。
大病を告白して、それがどうだというのか。
何がどうなるというのか。
それが何かの役に立てばよい。
しかしそうでなければ、たいはんの人は、他人のことなら世間話としてすませてしまう。
みながみな、心のポケットをもっているわけではない。

●受諾

 私のような人間を、心気症という。
いつも死の影におびえ、ビクビクしている。
だからときどき、こう思う。
「そんなに私の命がほしければ、とっとと持って行け!」と。

 そのかわり、いつその「時」が来てもよいように、心の準備だけはしておく。
「準備」というか、「完全燃焼」。
とことん自分を燃やしつくし、あと腐れのないようにしておく。
わかりやすく言えば、悔いのない人生にしておく。
が、これがむずかしい。
むずかしいというより、できない。

 日々に決意し、日々に後悔する。
毎日が、この繰り返し。
が、どんなにがんばっても、死を避けることはできない。
キリストも、釈迦も、ムハンマドも、孔子も、みな、死んだ。
いわんや、あなたをや。
いわんや、私をや。

 つまり死はいつも、時間の問題。
が、こういうこともある。
数週間前、私ははげしい神経痛を覚え、床に倒れこんでしまったことがある。
そのとき不思議なことに、本当に不思議なことに、私は何もこわくなかった。
「ああ、これで死ねるのか」と。
そんなふうに考えた。

 心気症の私が、「ああ、これで死ねるのか」と。
私はその瞬間、死をすなおに、受け入れていた。
どうしてそういう心境になったのかは、わからない。
しかしそう考えた。

●猶予期間

 もっとも大病といっても、そこには猶予期間がある。
脳梗塞や心筋梗塞のような病気は別として、すぐ死ぬわけではない。
うまくいけば、6か月とか1年は生きられる。
その間に、何かができる。
(実際には、そんな甘いものではないが・・・。)

 それに6か月にしても、10年にしても、同じ。
同じ瞬時。
総じて言えば、60歳を過ぎたらみな、死の待合室に入る。
平均余命は80歳前後。
健康余命は、それから10年を引いた、70歳前後。
70歳を過ぎたら、病魔との闘い。
病気のない人はいない。
ダラダラとした闘いが、平均して10年、つづく。
だからときどきこう思う。

 「老人は、総じてみな、『老』という大病を患っている」と。
だから当然のことながら、加齢とともに、先に書いた心のポケットができる。
大病を患った人の気持ちが、よくわかる。
が、誤解しないでほしい。
私にしても、死ぬのがこわいのではない。
老人になるのが、こわいのではない。
こわいのは、そのプロセス。
苦痛と孤独。
それがこわい。

●これからの老後

 私はいろいろなことを書いてきた。
ありのままを書いてきた。
しかしこと「大病」ということになったら、恐らく何も書かないだろう。
書いたところで、何も役に立たない。
読む人にしても、気が重くなるだけ。
たいはんの人は、「ジーさん、バーさんは、死んで当然」と考える。
老人の死に際のグチなど、だれも聞きたくない。

 一方、死ぬ側の私にしても、人知れず、死にたい。
いつかどこかで、だれかがふと私のことを思い出す。
そしてこう思う。
「ああ、あのはやし(=私)は、死んでいたのか」と。
それでよい。
だからやはり、私なら、だれにも言わない。
秘密主義。
自信はないが、たぶん、秘密主義。

(補記)

 この肉体という乗り物は、もちろん私であって、私でない。
そのことは、自分の手のひらを見ただけでも、わかる。
私の意思で、手のひらが手のひらになったわけではない。

 が、私はその乗り物に乗っている。
ただふつうの乗り物とちがうところは、乗り物が壊れれば、「私」も死ぬと
いうこと。

 そこで「私」とは何か。
私論。
私にとって私とは、今、この見える世界、感ずる世界、その中心にいるのが、
私ということになる。
が、一歩、その私から離れてみる。
たとえばあなたなら、あなたでよい。
あなたから見た(はやし浩司)は、どうだろうか。
あなたは何を見て、(はやし浩司)という「私」を判断するだろうか。

 それが私のばあい、「文」ということになる。
「文で書かれた人間」、それが「私」ということになる。
つまり私が乗っている、この乗り物が動かなくなっても、今度は別の
乗り物に乗った(あなた)が、私を見る。
つまり「文」が残るかぎり、「私」は死なない。

平たく言えば、「私が乗っている乗り物」は、ただの乗り物。
壊れて動かなくなってしまったとしても、気にすることはない。
(気にすることも、ないだろうし・・・。)
言い換えると、私たちは乗り物が動かなくなるまでは生きている。
動かなくなれば、何もわからなくなる。
が、「私」は、ちゃんと残る。
「あなた」の中で、ちゃんと残る。

 いつだったか、私は新聞(中日新聞)のコラム(第110回、最終回)で、
「生きることは書くこと」と書いた。
その意味が、これでわかってもらえたと思う。

+++++++++++++++++

そのときの原稿です。

+++++++++++++++++

●生きることは、考えること

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新
聞を届けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、とき
どき、こんな意地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中か
ら引っ張ったらどうなるか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代
の子育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。

しかし新聞にものを書くと言うのは、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。
読者の顔が見えない。反応もわからない。だから正直言って、いつも不安だった。中には
「こんなことを書いて!」と怒っている人だっているに違いない。

私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野を歩いているような気分になった。果て
のない荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、それは私にとってはスリリングな世界でも
あった。書くたびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくは
ないですが、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまっ
た!」と思うことが多い。

女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」ということ
は、「考える」こと。「考える」ということは、「書く」ことなのだ。私はその荒野をどこま
でも歩いてみたい。そしてその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴールには
行きつけないかもしれない。しかしそれでも私は歩いてみたい。そのために私に残された
時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事
があると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと
私は起きあがる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出てい
る朝は、そのまま読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころに
なると横の女房も目をさます。そしていつも決まってこう言う。

「載ってる?」と。その会話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読
みくださり、ありがとうございました。」 

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 中日新聞コラム 生きることは書くこと 大病の宣告)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●心気症(2008年3月記)

●心気症

++++++++++++++++++

ささいな病気を、ことさら大げさに
考えて、心配する。不安になる。

「もしや……?!」と思って、悩む。

そういうのを「心気症」という。

何を隠そう、私がその心気症なのだア!

++++++++++++++++++

 病気でもないのに、自分の心身のささいな変調にこだわり、苦痛を訴える症状を、心気
症という(「心理学用語辞典」・かんき出版)。

 つまりささいな病状を、ことさら大げさに考えて、あたふたと心配する。「もしや…
…!?」と思うこともある。つまり「がんではないか?」と。そういう症状を、心気症と
いう。

 「心気症」という用語があるほどだから、かなり一般的な症状と考えてよい。不安神経
症、あるいは強迫神経症の仲間と考えてよい。とくに病気と結びついた不安神経症、ある
いは強迫神経症を、「心気症」という。

 程度の差もあるのだろうが、何を隠そう、私が、その心気症なのだ。実は、数日前もあ
った!

 夜中に目が覚めると、のどが乾いたようになって、痛い。が、よく観察してみると、右
側の奥歯が痛い。ズーンとした痛み。その痛みが、のどから、上の歯のほうまで、響く。

 その奥歯は、治療して、金冠がかぶせてあるはず。指を口の中に入れて、その歯をさわ
ってみる。が、さわった感じでは、どうということはない。もっと奥のほうから痛みが骨
のほうに伝わっている。そんな感じがする。

 「風邪で、歯が痛むというようなことはあるだろうか?」と、最初は、そう考えた。し
かしそんなことはありえない。

 夜、ふとんの中で、暗い天井を見あげながら、いろいろ考える。考えては、それを打ち
消す。「しかし……。もしや……?」と。

 数年前に、脳腫瘍で死んだ、友人のことを思い浮かべる。その彼は、こう言っていた。
私が、「ぼくも、よく頭痛に悩むよ」と言うと、「林、何を、バカなことを言っているんだ!
あのな、脳腫瘍の痛さは、想像もつかん痛さだよ」と。

 どんな痛さだろうと考えながら、口の中から伝わってくる痛さに、静かに耐える。眠れ
ないほどの痛さということでもないが、しかし安眠できるような状態でもない。

 「しかし、初期症状というのもあるだろう。初期症状のときは、それほど、痛くないの
かもしれない。だんだんと痛くなって、やがて耐えきれなくなる……」「このまま、痛みが
どんどんひどくなったら、どうしよう?」と。

 横を見ると、ワイフが軽い寝息をたてていた。起こすのも悪いと思って、じっとそのま
まにしている。10分、20分……。と、そのとき、ワイフの寝息が止まった。モゾモゾ
と体を動かした。すかさず、話しかけた。

 「なあ、風邪みたいだよ……」
 「風邪……?」
 「なあ、歯が痛いよ……」
 「薬をのんだら……?」
 「うん……」と。 

 私は起きあがって、台所へ行くと、バナナとジュースをお湯に溶かしたものをもってき
た。枕元にはいつも、薬が一式、置いてある。湿布薬に頭痛薬、睡眠薬に精神安定剤、そ
のほかもろもろの漢方薬にハーブなどなど。もちろん風邪薬も置いてある。

 「どれにしようか?」
 「風邪薬にしたら?」
 「でも、歯が痛い……」
 「だったら、バッファリンがいいんじゃない?」
 「うん、……ノーシンではだめだろうか?」
 「じゃあ、それにしたら」
 「うん」と。

 私はバナナを食べながら、ジュースを飲んだ。時計を見ると、午前4時を少し回ったと
ころ。時計を見ながら、粉薬を口に入れた。

 「なあ、がんじゃないだろうか?」
 「どうしてがんなの?」
 「骨の奥が痛い……」
 「どんなふうに?」
 「ズーン、ズーンと痛い」
 「きっと虫歯よ」
 「だって、ちゃんと治療したところだよ」
 「金冠の中で、虫歯になることだってあるわよ」
 「そうかなあ……?」と。

 この世界には、骨まで腐るという、恐ろしいがんもあるそうだ。詳しい病名は知らない
が、昔、そんな病気になった女性の映画を見たことがある。私はそれかもしれないと思っ
た。思いながら、「ああ、これでぼくも死ぬ……」と思った。

 「このまま死んだら、どうしよう?」
 「死なないわよ」
 「どうして?」
 「バカねえ、虫歯で死んだ人の話なんか、聞いたことないわよ」
 「虫歯かねえ……?」
 「虫歯よ。ハーッて息を吐いてみたら」
 (ハーッ)
 「……おかしいわね、虫歯臭くないわよ」
 「だろ、虫歯じゃあ、ないよ」と。

 不安で、心臓がドキドキするのがわかった。いやな気分だ。ただほかに風邪の症状もあ
ったので、それに希望をつないだ。「風邪だ、風邪だ。これは風邪による症状だ」と。しか
し風邪で歯が痛くなったという話は、聞いたことがない。そう考えたとたん、また不安に
なった。

 で、その朝は結局、そのまま起きた。ふだんならそのまま書斎に入って原稿を書くのだ
が、そんな気は起きなかった。「まだ、やりたいことはあるのに……」「まだ、58歳じゃ、
ないか」「がんとわかっても、ぼくは治療しない。そのままオーストラリアへ行く」などと、
あれこれ考える。

 が、しばらく体を起こしていると、痛みがやわらいできた。薬がきいてきた。

 こういうとき、私のような心気症の人間は、頭の中で、2人の人間が戦うような状態に
なる。ボクシングで言えば、デス・マッチのようなもの。どちらか一方が死ぬまで、戦う。

 「風邪だ、虫歯だ! お前は、バカだ。いつもの取り越し苦労だ!」
 「何だと! 油断していると、命取りになるぞ。これはがんだ。がんの初期症状だ!」
 「前にも、似たような痛みがあったではないか。虫歯の治療のときを思い出してみろ!」
 「あったかもしれないが、その歯は、たしか神経を抜いているはず」と。

 「何でもない!」という私。「がんだ」という私。そういう2人の私が交互に現れては、
消える。おまけにのども、痛い。のどの奥に痰がからんでいる感じ。何度も、うがいを繰
りかえす。

 これは生への執着によるものか、それとも死がもたらす絶望感との戦いによるものなの
か。……わけがわからない状態で、朝を迎え、その日が始まった。

 「どう、具合は?」と、のんきな様子で、ワイフが起きてきた。「起きたら、痛みが収ま
ってきた」と私。「でしょ、心配ないわよ」とワイフ。

 そのときになって、恐る恐る、手鏡をもってきて、口の中をのぞく。「もし、大きな病変
でもあったら……」と、不安になる。心臓の鼓動が高まる。が、押しても引いても、歯は
ビクとも動かない。(動くはずもないが……。)とくに変わった様子もない。

 歯間ブラシを歯と歯の間に入れてみる。「がんなら、出血があるはずだ」と。以前、どこ
かの病院で、ドクターがそう言っていたのを思い出していた。「がんだとね、組織が破壊さ
れますから、出血があるはずです」と。

 しかし出血はなかった、が、よく見ると、金冠の下、つまり歯ぐきと、金冠の間のすき
間に、小さな薄茶色の穴が見えるではないか! 虫歯! そうだ、虫歯! 歯の側面から、
虫歯になっていた!

 とたん、安堵感で、胸のつまりが消えた。「ナーンダ、虫歯だア!!」と。

 「虫歯だよ、これは!」
 「でしょ、だったら、歯医者へ行ってきたら?」
 「うん、そうだな。風邪の様子をみてから行くよ」
 「そうね」と。

 で、その日は、歯医者へ行かなかった。昨日も、行かなかった。で、そのまま今日にな
った。時計は、午前8時、少し前。あれからも、ずっと、ズーン、ズーンとした痛みが、
ときおり、つづいている。これから行きつけの歯医者に電話をして、そこへ行くつもり。

 しかし心気症というのは、いやなもの。いつも早合点と、取り越し苦労。この繰りかえ
し。ときどきこう思う。「死神よ、そんなにぼくをいじめるなら、さっさと殺しに来い!」
と。

 が、ひとつだけ、変化がある。若いころとくらべると、「死」への恐怖感が、変わってき
たということ。若いころは、一度心気症になると、居ても立ってもおられなかったが、つ
まりそのままあわてて病院へ駆けこんだものだが、今は、ちがう。

 「勝手にしろ」という、どこか投げやりな気持ちも生まれてきた。「まあ、今まで健康に
生きてこられたのだから、文句はないだろう」と、自分をなぐさめる気持ちも生まれてき
た。多少、「死」への覚悟もできてきたということか。

 そして今。私は、改めて健康で生きている自分が、うれしい。「今日こそは、悔いのない
人生を、思う存分生きてみる」と、そんな思いさえわいてくる。心気症というのは、悪い
ばかりではないようだ。
(はやし浩司 心気症 不安神経症 強迫神経症)

【追記】

 やはり虫歯だった。金冠の中の詰め物が、欠けていたという。そこから虫歯が進んだら
しい。

 で、その治療中、正確には、麻酔をかけられ、歯科助手の若い女性が、歯の間の歯石を
取ってくれている間、不思議な経験をした。

 それはうっとりとするほど、気持ちのよいひとときだった。カリコリ、カリコリと、歯
石を削る音がする。そのたびに、その女性の胸が、頭に触れる。強いライトが、春の陽気
を思わせる。縁側で日なたぼっこをしているような気分にさせる。

 そのときだ。私の目の中に、女性のS器が、超リアルに浮かんできた。最初は、まぶた
の模様が、強いライトで、そう見えたのかと思った。しかしそのうち、それがより鮮明に
なってきた。たしかに女性のS器だった。何度も確かめたが、女性のS器だった。

 いつものような卑猥(ひわい)感は、まったく、なかった。もちろん美しいとか、美し
くないとか、そういう感じもなかった。ただどういうわけか、女性のS器が、至近距離で、
超リアルに見えてきた。どうリアルだったかということについては、ここには書けないが、
ともかくも、リアルだった。

 あるいはひょっとしたら、胎児のころの記憶が、麻酔の作用で、呼び起こされたのかも
しれない。……しかし、胎児はまだ目が見えないはず。

 麻酔のせいだろうか? それとも私に頭にときおり触れる女性の胸のせいだろうか? 
それとも強いライトのせいだろうか? 私は、半分、夢を見ていたのかもしれない。とも
かくも、それは不思議な経験だった。

 あとでそのことをワイフに話すと、ワイフも、「きっと麻酔のせいよ」と言った。そして
こう言った。「あなた、そんなことマガジンに書いてはだめよ」と。

 「しかしね、これは不思議な経験だ。だれかが書きとめておかないといけない。きっと、
同じような経験をしている人は、多いはずだよ」
 「でも、へんね。どうしてそんなものが見えたのかしら?」
 「女性だとね、きっと、ペニスか何か、そんなものが見えてくるのかもしれないね」
 「そんなこと、ないわよ。絶対に!」と。

 春は近い。そのあと家に帰ると、強い睡魔に襲われた。それはまちがいなく、かけられ
た麻酔のせいだと思う。コタツに入ると、そのままウトウトと眠ってしまった。

【補記】

●強迫神経症(こだわり)

 何かのことで不安になると、その不安が、ペッタリと頭にくついてしまう。そしてその
不安を消すために、(そんなことでは決して消せないのだが)、何か儀式的な行為を何度も
何度も繰りかえすようになる。

 子どものよく見られる、手洗いぐせ(潔癖症)も、そのひとつ。「手にばい菌がついた」
「手のばい菌が、取れない」などと言って、手を洗ってばかりいる。トイレから帰ってき
た父親に対して、「パパは、きたないからさわらないで!」と泣き叫んだ子ども(年長女児)
もいた。その子どもは、手の皮膚が破れるほどまでに、暇さえあれば、繰りかえし、石鹸
をつけて手を洗っていた。

 こうした症状を、強迫神経症という。心理学の本などによると、不安神経症のひとつに
位置づけられている。大きなちがいは、何かの儀式的行為をともなうこと。宗教の世界で
も、同じようなことを経験する。

 ある女性は、毎日3~5時間、仏壇の前に座って、念仏を唱えていた。また別の女性は、
同じように、目をさましているときは、手に数珠を握って、それを指先でクルクルと、何
やら呪文のようなものを唱えながら、回していた。そうすることによって、不安を紛らわ
しているというよりは、そういう行為そのものが、やめられないといったふうであった。
念仏を唱えていた女性は、「やめると、バチがあたって、地獄へ落ちる」と本気で信じてい
た。

 こうした症状を示す子どもの特徴としては、何かのものやことに対して、(こだわり)を
もつこと。その(こだわり)の内容は、そのときどきによって、変化することもある。母
親が、ベッドの位置をほんの少し動かしただけで、「精神状態がおかしくなってしまった」
(母親談)子ども(中学男子)もいた。

 この先のことはよくわからないが、今では、(こだわり)を和らげるための、新しい薬も
開発されているとのこと。症状があまりひどいようであれば、一度、心療内科か精神科の
ドクターに相談してみるとよい。
(はやし浩司 手洗い癖 潔癖症 強迫神経症 不安神経症 こだわり はやし浩司 子
供のこだわり)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●崖に立たされた日本経済(2011年2月12日記)


+++++++++++++++++


「サドン・デス」という言葉がある。
スポーツの世界での言葉である。
映画にも、そういう題名のがあった。
つまり「突然死」。

日本の国家経済が破綻するとき。
それは突然、やってくる。
つまりサドン・デス。
過去の歴史の中でも、じわじわと
国家破綻した例は、一度もない。
ワーッと始まり、ワーッと終局を迎える。
それが国家破綻(=債務超過)。
「デフォルト」。


+++++++++++++++++

●日経新聞より

 まず、日本経済新聞を並べて読んでみる。(2月12日)

+++++++++++以下、日経新聞より+++++++++++


●公的債務残高


 公的債務残高の国内総生産(GDP)比率は200%超と、主要国の中では突出して高い。
S&Pはこの比率が20年半ばまで悪化し続けると予想。国と地方の基礎的財政収支を20
年度に黒字化するとの政府目標は「大規模な財政再建策が実施されない限り、達成できな
い」と分析した。

 財務省の試算によると、長期金利(新発10年物国債利回り)が1%上昇した場合、利払
い費を含む国債費は12年度に1兆円、13年度に2.5兆円、14年度に4.2兆円それぞれ増
える。

 野田佳彦財務相は格下げ発表を受け「節目、節目で財政規律を守るメッセージを出して
いくことが重要だ」と語った。(日経・1・27・2011)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●ガラガラポン


 「ずるずると債務残高が積み上がり、マクロ経済もパッとしないとなると、もう一回(格
下げを)検討せざるを得ないリスクはある。上にいくシナリオは、何らかの形で税制や年
金制度改革で政治的な妥協が図られる場合だ。日本の社会保障制度は高度成長や人口増を
前提にしたモデル。このあたりでガラガラポン(大改革)すべきだ」(日経新聞・1・30・
2011)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●217%


 「日本の公的債務残高が先進国の歴史上、最悪の水準に迫りつつあることが分かった。
国際通貨基金(IMF)によると、地方も含む一般政府の債務残高は2009年に名目
国内総生産(GDP)の217%に達し、統計で確認できる1875年以降で最悪となった。
このまま債務が増え続けると、5年程度で第2次世界大戦直後の英国を抜き、先進国史上、
最も悪い状況に陥る可能性がある」(日経新聞・2・12・2011)


+++++++++++以上、日経新聞より+++++++++++

●国家破綻

 では、いつか。
いつ日本は、破綻を迎えるか。

(1)日本政府が、予算を組めなくなったとき。
(2)国債の買い手が、つかなくなったとき。

 その時期は、この4月期と10月期と言われている。
が、その不安が市場を襲ったとき、国家破綻は、一気に起こる。
何度も書くが、日本の国家破綻は、可能性の問題ではなく、時間の問題。
確実にやってくる。

 が、救済方法がないわけではない。

(1)大増税
(2)社会保障費の大幅削減

 しかしどちらも、今の政局を見るかぎり、実現困難。
大増税をすれば、……たとえば消費税を20~50%にするとか……、そうでなくても
目下、この日本は大不況下。
経済活動は、さらに萎縮する。

 社会保障費にしても、年金の一元化すら、ままならない。
足や腰の曲がった老人が、3か月ごとに100万円の札束を手にする一方、我々のように、
63歳になった今も、1円も手にできない人も多い。
65歳からもらっても、月額6万4000円足らず!

 こういう不公平を野放しにし、何が行政改革だ!……ということになる。

 今、この日本に必要なのは、強力な内閣。
超強力な内閣。
官僚たちの不満や抵抗を、吹っ飛ばすほど力のある内閣。
しかし現状は、?????。
訳のわからない内部紛争に明け暮れている。

●札が紙くずに

 皮肉なことに、破綻するなら破綻するで、1日も早いほうがよい。
自己破産に似ている。
1日延ばしを繰り返すたびに、借金は、雪だるま式にふえていく。
そのツケは、結局は、役人をのぞく、国民にのしかかってくる。

 国債が信用力を失えば、それを大量にかかえている銀行、証券会社は、倒産する。
銀行や証券会社が倒産すれば、会社が倒産する。
(役所は倒産しない!)
人々は失業者となって、街にあふれる。
(役人は失業者にはならない!)
 株価は暴落し、ハイパーインフレが始まる。
(役人の給料だけは、物価スライド制によって、増額される。)

円は暴落し、90%以上を輸入に頼っている食料品が値上がりする。
わかりやすく言えば、「札」が紙くずと化す。
一説によると、1ドルは1000円近くまで暴落するという(某経済評論家)。
当然、原油も、現在より、12倍高騰する。
現在リッター140円前後(レギュラー)だから、単純に計算しても、
6倍の約1000円になる。
(ガソリンのばあい、約50%が税金。)

 それが起こるのは来週かもしれない。
しかし2年後ということはない。
「この1~2年以内」ということは確実。
今のままでは、もう救いようがない。

が、私のようなド素人でも、この程度のことがわかるようになった。
そういうときが、あぶない。
日本の経済は、この3月を乗り切ることはできないのではないか。
私はそう心配している。

●現物資産

 この道に詳しい友人に電話をかけてみた。
その結果、「土地、金、資源」を「現物資産」というらしい。
しかし土地については、逆に暴落する可能性もあるとか。
加えてこの日本では、すでに投資として、土地を買う人はいない。
「20年分の税金と、土地の価格は同じ」(友人談)と。
つまり20年間、土地を保有していると、土地の価格と、それに支払う税金額は同じ
になる、と。

また売れば100%、税務署に把握される。
20%~40%の所得税が課せられる。
遺産相続も楽ではない。
週刊誌情報によれば、相続税を80%にするという案も出ているとか。

また資源といっても、庭に、鉄くずを積むわけにもいかない。
そうなるとやはり「金(ゴールド)」ということになる。

 しかしこのところ、金の売買も、うるさくなってきた。
どううるさいかは、実際、自分で金の売買をしてみればわかる。
身分証明書だの、印鑑だの、そういう手続きをしないと、売買できなくなってきた。
それに常識で考えても、あんな小さな金塊が、1キロ400万円弱というのは、
おかしい。
どう考えても、おかしい。
1キロバーで、ふつうの小型車だったら、2台も買える!

 いちばんよい方法は、現在タンス預金をしている人たちが、イチ・ニのサンで、
いっせいに約半分を浪費すること。
市中に放出すること。
それで市場が活性化する。
しかしこの方法には、現実性がない。

●国家破綻
 
 みなが「あぶない」と思ったときが、あぶない。
けっして私がそれを助長しているわけではない。
しかしあぶない。

 ……ということで、現在、金(プラチナ)価格は、不気味な上昇をしつづけている。
10年ほど前には、一時、グラム1000円になったこともある。
それが今は、4000円弱。
とても手が出る価格ではない。
ないが、それでも上昇をしつづけている。

 かといって、私たちの資産は、私たち自身で守るしかない。
そこで自分なりに、いろいろと考えてみる。

(1)銀行などに預けておく現金は、必要最小限にする。
   かならず1000万円以下にしておくこと。
(2)証券会社に預けておく現金(MMFなど)も、必要最小限にする。
(3)ネット証券はどうか? ……私にはよくわからない。
   わからないから、私なら手を引く。
   倒産したとき、そのあとがめんどう。
   会社の所在地すら、はっきりしていない。
(4)売り先が確実ならよいが、そうでないなら、今は、土地に手を出してはいけない。
(5)貴金属の売買については、信用のある店でする。
   町中にある「貴金属買います」という店だと、高く売りつけられるか、安く買い
   叩かれる。
   店によっては、「鑑定料?」という料金を5~20%も取られる。

 いろいろ考えるが、以上は私というド素人の意見。
あとはみなさんご自身の判断を加味して、利用してほしい。
「はやしって、バカなこと書いている」と思ってもらってもよい。
(しかし私は、あのリーマンショックを、ほぼ1年前に予測していたぞ!)

ともかくも、今や日本経済は、存続のがけっぷちに立たされている。
その危機感だけは、しっかりともったほうがよい。
2011/02/12記


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司


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2011年3月29日火曜日

*Tears in Heaven

●日本は負けない! (Japan is still young enough to fight back!)

【Tears in Heaven】




















【安らかな心】(Peaceful Music)













Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司

*The Light house of the Life

*The Light House(灯台)

Good evening Mr. xx and ladies and gentlemen.
xx氏および、紳士淑女のみなさん、
It is with a great honor that I can have a speech on such an occasion and in such a place where I spent my student life in 1970 just 42 years ago.
今私がここでこのような機会に、スピーチできることは、たいへん名誉なことです。
私は今から42年前の1970年に、ここで学生生活を送ることができました。
I used to be a law student here at Melbourne University.
私はメルボルン大学の法学生でした。
But very surprisingly I was only one Japanese student here in Melbourne which had 3 million population.
しかし驚くべきことに、人口300万人のメルボルン市においても、私はただ1人の日本人留学生でした。
Looking back at those days in 1970, I can firmly be convinced that I had a happiest time and without any exaggeration I can say now here, that the young days are not the beginning of the life or the starting line of the life but the goal itself of the life.
その当時の、つまり1970年を思い起こしてみると、私はまちがいなくここでもっとも幸福な時を過ごすことができたと確信しています。
そして今、つぎのように言うことができます。
つまり青春時代は、人生のはじまりではなく、ゴールそのものだということです。
I mean here that it is a kind of a light-house which stands on a hill, shining the way which way I should go.
つまりそれは丘の上に立つ灯台のようなものです。
その灯台からの光が、私たちが進むべき道を示してくれます。
I was born in 1947 just after the war, when almost all Japan was burnt out in the war and then I had no choice but to be a child gang.
私は1947年生まれです。
戦後の、日本中が焼け野原になった時代に生まれ、私はギャングになるしかありませんでした。
I say that I used to be a very wicked child like other boys and girls of those days.
私は他の子どもたちと同様、たいへん邪悪な子どもでした。
I am not a good man basically or I have never believed myself to be a good man.
基本的には、私は善人ではありませんし、自分を善人と思ったことはありません。
That was the same and that has been the same since I came back from this House.
このメルボルンから帰ったあとも、ずっとそうでした。
But whenever I am and wherever I go, the bright shining light always shines my way to go.
しかし私がどこへ行こうとも、またいつでも、灯台からの光は、私が進むべき道を照らし絵tくれました。
I had the highest education here at the house in Melbourne University and the pride for that always correct my way to go.
私はメルボルン大学のこのハウスで、最高の教育を受けました。
そのプライドが、いつも私の進むべき道を正してくれました。
Of course I have had many difficult times in my life but each time the light house shines a light for me.
もちろん人生を通して、さまざまな問題もありましたが、そのつど、灯台は私のために光を投げかけてくれました。
Still I am a tiny man and I haven't done nothing great but I have been proud of myself that I used to be here and was given the highest education.
私はいまだに小さな人間であり、何一つ偉大なことを成し遂げたわけではありません。
しかし私はここにかつて住み、最高の教育を受けました。
Then therefore I say again here, the life of our young days is not the start line of the life but the goal itself.
それゆえに私は再び、こう言うことができます。
青春時代は、人生のスタートラインではない。
人生のゴールそのものだということを、です。
The further you may go the nearer you may go back to the young days.
あなたが青春時代から遠ざかれば遠ざかるほど、あなたは青春時代に戻っていきます。
Now you I am sure you are making your own light house on a hill which will shine your way to go.
で、今、私はあなたがたは自分の将来を照らしてくれる灯台を、ここで作っているのです。
Please make your own beautiful light house here for your own sake.
どうかあなたがた自身のために、あなたの灯台をここで作ってください。

For all these good things we give thanks and ask for blessing on all of you.
Thank you very much.
これらよきものに感謝し、みなさんに祝福あらんことを願います。
ありがとうございました。
Hiroshi Hayashi
a 1970 student of the House

*We shall overcome!

●We shall Overcome!

++++++++++++++++++

日本は、負けない。
日本は、戦う。
日本は、がんばる。

++++++++++++++++++

●ダイアナ・ロス




●合唱




●ジョン・バエズ

2011年3月28日月曜日

*Let's enjoy laughing with children

【幼児と笑おう】はやし浩司 2011-03-28

++++++++++++++++++

今日は3月、最後のレッスン。
年長児に「筆算」を教えてみました。
少しハメをはずしました。
どうか、お笑いください。

なおもっと見てくださる人は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より、
「BW公開教室」へ、お進みください。

+++++++++++++++++++

【2/4より】





【3/4より】






Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●反動形成

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 3月 28日
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どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【反動形成】2月10日(木曜日)

+++++++++++++++

今日は、木曜日。
よくわかっている。
が、木曜日は、何かと忙しい。
それもあって、木曜日になるたびに、こう思う。
「今日は、だいじょうだろうか?」と。
つまり体力がつづくだろうか、と。

昨日は、朝、30分のウォーキングをした。
午後、約3時間、外を歩いた。
歩きたくて歩いたわけではないが、ともかくも
歩いた。
計3時間30分。
運動量としては、まずまず。

そんなわけで、今は、こう思う。
「今日は、だいじょうぶ」と。

++++++++++++++

●反動形成

 「反動形成」という言葉がある。
何度かそれについて、書いた。

 要するに、本当の自分を隠し、仮面をかぶること。
よくあるのは、こんな例。

ケチな人が、そのケチを隠すために、気前のよい自分をわざとおおげさに見せたりする。
あるいは教育ママが、人には、「私は子どもに勉強しなさいと言ったことはありません」と、
ウソをついたりする。
子どもの世界でも、よく見られる。
よい兄、よい姉を演じながら、その実、裏で陰湿な弟いじめや、妹いじめを繰り返したり
する。

 本当の自分を見抜かれるのがこわく、その反動として、正反対の自分を演ずる。
たとえば内面に潜む攻撃心や、憎悪を隠すため、妙にやさしい人間を演ずるのもそれ。
「仮面(ペルソナ)」とちがうのは、「正反対」という部分。
たとえばショッピングセンターの売り子が見せる、あの笑顔は、仮面である。
仮面をかぶりながら、客にものを売る。

反動形成は、それとはちがう。
心の中に別室をつくり、その中に自分を押し込む。
これを「抑圧」というが、日常的に、心がその抑圧状態になる。
本当の自分をさらけ出したら、自分の立場そのものが、あやうくなる。
正反対の自分を演ずることによって、自分の立場を取り繕う。
意識的な行為というよりは、無意識的な行為。

●ぎこちなさ

 反動形成には、いくつかの特徴がある。
どこか不自然。
どこか変。
どこかぎこちない。

 わざとらしい言葉。
不自然な笑顔。
一貫性のない生活態度、などなど。

 ときに心の別室にたまった、不平や不満が爆発することもある。
ふつうの爆発ではない。
その瞬間、まったくの別人になる。
(……というか、そのときのほうが、その人自身のほんとうの姿ということになるのだが
……。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

少し前に書いた原稿を拾ってみる。
一部、ダブるが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●反動形成(1)(2010年記)

 反動形成は、いろいろな場面で経験する。
よく知られた例として、長男、長女が見せる反動形成がある。
長男や長女は、下の子(弟や妹)に嫉妬しやすい。
親は、「兄も弟も、平等にかわいがっています」と言う。
しかし上の子ども(長男や長女)にしてみれば、その「平等」であることが不満。
それまで100%自分のものだった親の愛情が、半分に減った。

 そこで上の子どもは、赤ちゃんぽい自分を演出して、もう一度親の愛情を、100%、
自分のものとして取り返そうとする。
「赤ちゃん返り」というのは、そうして起こる。
本能的な部分で起こるので、叱ってなおるような問題ではない。
またそれが高じて、反対に、ときとして下の子どもに、攻撃的になることもある。
嫉妬がからんでいるだけに、陰湿かつ動物的。
下の子どもを、「殺す」ということもしかねない。

 が、それでは自分の立場がなくなる。
「あなたはお兄ちゃんでしょ(お姉ちゃんでしょ)!」と言われる。
そういう言葉で、抑圧される。
あるいは自らを抑圧する。
そこで上の子どもは、よい兄やよい姉を演ずるようになる。
「ぼくは弟(妹)が好き」などと、平然と言ったりする。
本当は弟(妹)が憎くてならないのだが、やさしくめんどうをみのよい兄(姉)を
演ずるようになる。

先にも書いたように、本能的な部分に根ざしているため、親はそれが仮面であることに気
づくことはない。
外面だけを見て、こう判断する。
「うちの子は、いい子」と。
これが「反動形成」である。

 ほかに聖職者(牧師や僧侶、教師)と呼ばれる人たちの反動形成も
よく知られている。
みなにあがめられている間に、そういう人間を、自ら作っていってしまう。
たとえばだれかが、性的な話や卑猥な話をしたりすると、ことさらそれを嫌って
見せたりする、など。
これが「反動形成」である。

 それはそれだが、そういった状態が長く続くと、仮面をかぶるようになる。
高徳者を演じているあまり、本当の自分を見失ってしまう。
が、本当の自分が消えるわけではない。
本当の自分は、心の奥に抑圧され、押し込まれる。・・・あるいは、自分を
押し込む。

本当に自分が、別のところで、別の人格となって現れることもある。
欧米では、聖職者による少年や少女に対する暴行や虐待が、問題になら
ない日がないほど、多い。
そういう形で、つまり別の形で、抑圧された自分が外に出てくる。
「反動形成」のこわいところは、ここにある。

●反動形成(2)(2009ー6記)

●もう1人の自分(反動形成)(Another Man in Me)

 自分にとって、受けいれがたい、もう1人の自分を感じたとき、その自分を抑圧するた
めに、人は、それとは正反対の自分を演ずることがある。
これを「反動形成」という。

 その中でも、とくによく知られているのが、牧師や教師による、反動形成。
たとえば、牧師や教師の中には、ことさら、Sックスの話や、露骨な話を嫌ってみせる人
がいる。(S=セ、禁止用語)

 特徴は、「ことさら」、つまり、不自然なほど、大げさな様子を見せること。
信者や生徒が、「Sックス」という言葉を口にしただけで、「オー、NO!」と大声で、叫
んでみせたりする。

 これは自分の職業観とは相容れない、許しがたい欲望を、自分の中で、抑圧しようとし
て起きる現象である。

 ほかに幼児の世界で、よく知られている反動形成の例に、弟(妹)思いの、よい兄(姉)
がいる。本当の自分は、弟や妹を、殺したいほど憎んでいるのかもしれない。
しかしそんな感情を表に出せば、自分の立場がなくなってしまう。

 そこでその兄や姉は、ことさら、人前で、よい兄や姉を演じてみせたりする。
しかしこれは意識的な行為というよりは、無意識下でする行為と考えてよい。本人に、そ
の自覚はない。

 さらに、その醜い本心を偽るために、仏様のように(できた人)を演ずる人もいる。
老人に多い。
自分自身の醜い素性を、隠すためである。このタイプの人は、何十年もかけて(ニセの自
分)をみがきあげているので、ちょっとやそっとでは、他人には、それを見抜くことがで
きない。
何十年も近くで住んでいる親類にすら、「仏様」と思いこませてしまう。

 反動形成であるかどうかは、先にも書いたように、「ことさらおおげさな」様子を見せる
かどうかで判断する。
反動形成による行為は、どこか様子が不自然で、ぎこちない。ときにサービス過剰になっ
たりする。

 本当はその客の来訪を嫌っているにもかかわらず、満面に笑顔を浮かべ、愛想よくして
みせる、など。

 こうして人は、本当の自分を抑圧するために、その反対側の自分を演ずることがよくあ
る。

 たとえば力のない政治家が、わざとふんぞりかえって歩いて見せるなど。
あるいは体の弱い子どもが、みなの前で、かえって乱暴に振る舞ったりするのも、それ。

 ほかにもいろいろな反動形成がある。

 本当は、たいへんケチな人が、豪快に、人に太っ腹なところを見せる。
 心の中では憎しみを感じている社員が、その上司に、必要以上にへつらう。
 自分に自信のない人が、わざと大型の馬力の大きな車に乗ってみせる、など。
 もう少し、その反動形成を、自分なりに、整理してみる。

(嫉妬、ねたみ)→(見えすいた親切、やさしさ)
(欲望、願望)→(見えすいた禁欲者、謙虚さ)
(悪魔性、邪悪な心)→(見えすいた善人、道徳者)
(闘争心、野心)→(見えすいた謙虚さ、温厚さ)
(ケチ、独占欲)→(見えすいた寛大さ、おおらかさ)
(劣等感、コンプレックス)→(見えすいた傲慢さ、大物)
(だらしない性格)→(見えすいた完ぺき主義者、潔癖主義)など。

 わかりやすく言えば、反動形成というのは、自分の心を偽ることをいう。中には、夫を
心の中で憎みながら、その反動として、つつしみ深く、できのよい妻を演ずることもある
そうだ。(私のワイフなどは、その1人かもしれない? ゾーッ!)

 あなたの中には、はたしてその反動形成による部分は、ないか? それを知るのも、ま
た別の自分を発見することにつながるのではないかと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW BW教室 はやし浩司 反動形成 仮面 ペルソナ)

(補足)

 たまたま今日、年長児のクラスで、おっぱいの話になった。
そのときのこと。
私が子どもたちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、みな、おおげさな言い方
で、「嫌いだヨ~」と叫んだ。

 これも反動形成の一つと考えてよい。このころになると、子どもは「恥ずかしい」とい
う言葉の意味がわかるようになる。たとえば、赤ちゃんに見られることは、恥ずかしいこ
とと考える。だから(おっぱいが好き)イコール、(赤ちゃん)と考えて、それをあえてお
おげさに否定してみせたりする。

 しかしおっぱいが嫌いな子どもは、いない。とくに男児においては、そうだ。
が、中に、正直な子どもがいたりして、私が、「ウソをついてはダメだ」と、強くたしなめ
ると、小声で、しかも少し顔を赤らめながら、「好きだよ……」と言う子どももいるにはい
る。
しかしそういう子どもは、例外と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●夫婦のばあい

 よき夫、よき妻。
しかしたがいに反動形成。
内心では、憎しみあい、軽蔑しあっている……。
そういう夫婦は、少なくない。
私たち夫婦がそうかもしれないし、あなたがた夫婦も、そうかもしれない。
そういう「形」にしなければ、自分が、みじめ。
50歳とか60歳とかを過ぎ、「私たちの結婚は失敗でした」とは、とても言えない。
この年齢になると、自己否定ほど、恐ろしいものはない。
敗北感から、絶望感に発展することもある。

 だから妥協し、ほどほどのところで接点を見出し、よい夫婦を演ずる。
いっしょに映画を観に行ったり、旅行に出かけたりする。
世間体というより、ここにも書いたように、たがいに本当の自分を認めたら、夫婦という
より、自分自身が崩壊してしまう。
それがこわい。

 ……と書くと、身も蓋(ふた)もない。
しかし多かれ少なかれ、どんな人も、自分をごまかしながら生きている。
程度の差はある。
つまり反動形成は、みながしている。
していない人はいない。

ただひとり、自分をさらけ出しながら生きている女性と言えば、あの「みさえさん」。
「クレヨンしんちゃん」(コミック本、vol. 1~11前後)のママである。
私はみさえさん以外に、自分をさらけ出しながら生きている女性を知らない。
これは余談。

●さらけ出し

 そこで私自身の反動形成は何か、それを考えなおしてみる。

 たとえば、ウソとインチキ。
私はもともとウソつきで、インチキな男だった。
子どものころは、そうだった。
拾ったお金でも、交番へ届けたことは、めったにない。
(1、2度はあったように記憶しているが……。)

 それにウソつきだった。
……というか、私が住んでいた世界は、ウソが当たり前だった。
今でも、何が本当で、何がウソなのか、よくわからない。
そういう自分がいやになり、私は私なりの経験を通して、そういう世界から抜け出た。
その結果が今。
私はウソとインチキには、妥協しない。
ウソをついたり、インチキをする人を、許さない。
相手が息子でも、許さない。
自分でもときどき「過剰」と思うことがある。
ワイフもときどき、こう言う。
「もう少し妥協したら……」と。

 考えてみれば、これも反動形成。
自分の中に潜む邪悪な人間性を隠すために、(……隠すという意識はあまりないが)、
表では正反対の自分を演じてみせる。
それが長くつづいたため、それが生活態度として、定着してしまった(?)。

 が、それで邪悪な人間性が消えたわけではない。
今でも道路でサイフのようなものを拾ったりすると、頭の中が混乱する。
こんな経験がある。
2007年に書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●勇気(2007年8月記)

+++++++++++++++

昨夜、コンビニの前を通ると、
小さなサイフが落ちていた。

イヤ~ナ気分だった。
私はそれを拾うと、自転車の前の
かごに入れた。

途中、信号待ちのところで、サイフを
開いてみると、何枚かのカードが
入っているのが、わかった。
住所と名前が書いてあった。

イヤ~ナ気分だった。本来なら、
そのままコンビニの店員に渡すべき
だった。

悶々とした気分。
「もらっちゃえ」と言う、自分。
「落としたヤツが悪いんだ」と言う、自分。
そんな自分が、そこにいた。

そんな自分を感じながら、家に着いた。
ワイフがそこにいて、「お帰り!」と
声をかけてくれた。

明るい声だった。

私「サイフを拾っちゃった」
ワ「どこで?」
私「あの○○のコンビニの前」
ワ「……」
私「名前と電話番号が書いているから、
そこへ電話して!」
ワ「うん」と。

あとの処理は、ワイフに任せた。
いくら入っているかは、見なかった。
知りたくもなかった。

かばんをかけて、書斎へ入るとき、
振り返ると、ワイフは、どこかへ
電話をかけていた。

よかった……。

夜、床についてから、私は、ワイフに
こう言った。

「サイフを拾うたびに、いまだに迷う。
子どものころの、あの邪悪な小ズルサ、
それが、いまだに、ぼくの心の中で生きている。

ぼくが子どものころには、拾ったお金は、
そのまま自分のものになった。

ぼくはそういう時代に生きていた」と。

+++++++++++++++

 ほかのことでは迷わない私でも、どういうわけか、拾ったお金については、そうではな
い。迷う。私が子どものころには、終戦直後ということもあって、拾ったお金は、拾った
子どものものだった。当時は、そういう時代だった。

 モラルもルールも、なかった。親たちにしても、食べていくだけで、精一杯。家庭教育
の「か」の字もないような時代だった。

 だから今でも、迷う。「返そう」という自分と、「もらっちゃえ」という自分。その2人
が、自分の中で、はげしく対立する。一度、心にしみついた(汚れ)は、そう簡単には消
えない。昨夜もそうだった。

 で、ここに書いたように、今回は、処理は、ワイフに任せた。数年前にも一度、同じよ
うにコンビニの前で拾ったことがある。そのときは、コンビニの店員に届けた。しかし今
回は、自転車のかごに入れて、もち帰ってしまった。

 つまり、このあたりに、私の善人としての限界がある。が、限界といっても、このとこ
ろ、輪郭(りんかく)が、ぼやけてきた。以前は、コンクリートの壁のようだったが、今
は、木の柵のようになった。簡単に乗り越えられる。

 おかげで、今朝は、どこかすがすがしい。さわやかな気分。心の中で、掃除機をかけた
ような気分といってもよい。それに少しだが、自分に自信がついた。

 世の中には、こわいものはいくらでもある。子どもたちは、「お化け」「幽霊」というが、
それもそうかもしれない。

 しかしほんとうにこわいのは、自分自身である。自分自身の中に潜む、邪悪な自分であ
る。この邪悪な自分に毒されると、人生そのものを無駄にしてしまう。前にも書いたが、「今、
生きている」という、その一時(いっとき)一時の時間ほど、貴重な財産はない。その財
産を、無駄にしてしまう。

 その邪悪な自分と戦うためには、勇気がいる。どういうわけだか、勇気がいる。しかし
その勇気を実感したとき、それが今度は、喜びに変わる。ここに書いた、「自信」も、そこ
から生まれる。

 「よかった!」と思ったところで、この話は、おしまい。今日(8月31日)も、始ま
った。

 みなさん、おはようございます!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●終わりに……

 反動形成と仮面。
今日1日は、この2つをテーマに、いろいろ考えてみたい。
どうして人は(私は)、反動形成をするのか。
仮面をかぶるのか。

 では、今日は忙しいので、ここまで。
推敲しないまま、BLOGに原稿をアップする。
ごめん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 反動形成 拾ったサイフ 邪悪な自分 邪悪な私 抑圧 心の別室)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●愛する人の死

++++++++++++++++++

NG先生が亡くなって、もう2か月が過ぎた。
早いというか、長かったというか。
NG先生の奥さんから、今朝、メールが
届いていた。
「この2か月は、あっという間でもあり、
20年にも長く感じます」と。

自分の死を受け入れるのは、むずかしい。
いわんや、愛する人の死を受け入れるのは、
さらにむずかしい。

ひしひしと迫るくる孤独感。
さみしさ。
悲しさ。
それには理由がある。

「死」を前にした孤独感は、同時に
隔離感をともなう。
いくら近くに愛する人がいて、やさしい
言葉をかけてくれても、それは心に
しみこんでこない。
「死ぬのは、私ひとり」と。

その隔離感が、そばにいる相手にもわかる。
どんなに同情しても、同情しきれない。
あるところまで入ったところで、拒絶
されてしまう。
壁がある。
その壁を乗り越えることはできない。

だから死んでいく人も孤独だが、
しかしそれを近くで見守る人は、もっと
孤独。
さみしい。
悲しい。
足下をすくわれるような空虚感。
つかんでもつかみきれない、自分の心。
怒りと絶望感。
どうしようもない、怒りと絶望感。

死んでいく人も、また残された人も、
その怒りと絶望感と闘わねばならない。

++++++++++++++++++

●老後と孤独

 老後は、孤独との闘い。
先のない袋小路で、暗闇に包まれる。
日々に肉体は衰え、経験しなかった病魔が、つぎつぎとやってくる。
心配と不安。
いや、死ぬのがこわいのではない。
死ぬまでのプロセスが、こわい。
できれば、ポックリと死にたい。

しかしほとんどの人は、そうはいかない。
大病を患えば、なおさら。
オーストラリアの友人は、こう言った。
「さみしいか?」と私が聞いたときのこと。
その友人は、ポツリと、「うれしかった」と。

 友人の妻は、がんで、2年間苦しんだ。
そのあと死んだ。
その苦しみを見ていたからこそ、友人は、そう言った。

●散歩

 NG先生の奥さんの気持ちを察するにつけ、胸が痛む。
どんなにどうがんばっても、奥さんの気持ちの中には、入れない。
そこには、先に書いた隔離感がある。
だから私にできることと言えば、そっと奥さんの心を暖かく包んでやることでしかない。
それで奥さんの気持ちがやすらぐとは、思わない。
さみしさや悲しさが、癒されるとは思わない。
しかしそれしかできない。
その歯がゆさ。

 NG先生が亡くなったと聞いた午後、私は、長い散歩に出た。
例年になく冷たい北風が、吹いていた。
乾いた北風で、道路脇の木々が、それに大きく揺れていた。

通り過ぎる人にも生彩がなかった。
ふだんならけばけばしく見える店の看板も、色彩を失っていた。
……というか、ほとんど顔をあげないで、歩いた。
ときどき前を見、あとは側溝のふたの上を歩いた。
灰色の、どこまでも灰色の、味気ない道。
その上をとぼとぼと、歩いた。

●通夜

 通夜のときも歩いた。
NG先生の自宅までは、40~50キロはある。
電車でも、4つ目の駅。
足が痛くなって、2つ目の駅で、電車に乗った。
それまで歩いた。
歩いているときだけ、私は、さみしさや悲しさを忘れることができる。
子どものころから、ずっとそうだった。
そのときも、そうだった。

 通夜の日は、さらに冷たい風が吹いていた。
身を切るような冷たさだった。
駅を下りてから、それからまた20分ほど、歩いた。
何度か、通った道。

 そう、NG先生だけだった。
NG先生だけは、私の原稿を、隅々まで読んでくれた。
一度の例外もなく、長い感想文をそのつど、送ってくれた。
NG先生という人は、そういう人だった。
そういう人を、私は失った。

 そのさみしさ。
その悲しさ。

●急死

 NG先生の死は、突然だった。
本当に、突然だった。
いつものように近くの病院へ、定期診断に行った。
注射を打ってもらった。
その直後、急変。
そのまま帰らぬ人になった。

 私はそんな死に方を、ほかに知らない。
それまで孫の世話をし、犬と散歩をしていた。
だからそれを認めろと言われても、すぐにはできなかった。
今もできない。

 ただおかしなことに、たいへんおかしなことに、私はNG先生を、うらやましく
思っている。
それを「ポックリ」と言わずして、何という。
そうでなくても、60歳を過ぎると、つぎつぎとやってくる。
経験したことのない、痛み、症状、病気……。
そのたびに「死」の影におびえ、ビクビクする。
70歳になれば、なおさらだろう。
80歳になれば、なおさらだろう。

 63歳の私ですら、ときどき、こう思う。
「もう、いいかげんにしてくれ。
命がほしいなら、さっさと持って行け!」と。

●NG先生の業績

 誤解しないでほしいのは、だからといって、死を望んでいるのではない。
死にたくない。
1回ポッキリの命。
しかし問題は、その生き方。
が、このところ、どう生きるかということよりも、どう死ぬか。
それをよく考えるようになった。

 できればこの世に生きたという証(あかし)を残したい。
かなわぬぜいたくということは、よく承知している。
しかしそれでも残したい。
その方法は、あるのか。
可能なのか。

 ……言い換えると、私がしなければならないこと。
NG先生は、教師であると同時に、学者だった。
その業績には、すばらしいものがある。
その業績をこの世に残すこと。
方法はいろいろある。
が、私ができることは、インターネット上に、先生の論文を残すこと。
このままNG先生が、この世から忘れ去られてしまうことには、耐えられない。
つまりそれが私の、NG先生との死と闘う、ゆいいつの方法ということになる。

 NG先生は、死んでいない。
まだ生きている。

 ……と力んではみたが、やはりさみしい。
このやるせなさを、どうしたらよいのか。
私は今、その怒りと絶望感と闘っている。
勝ち目のない闘いだが、がんばるしかない。


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2011年3月27日日曜日

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【R町通りを歩きながら】

●浜松市R町通り

 浜松市の中心街に、R町通りというのがある。
旧東海道沿いの通りである。
今は、国道1号線となっている。
このR町通り。
その先、つまり北の端で、直角に曲がり、そのまま東京方面へとつづいている。

 私が浜松へ来たころ、このあたりの人たちのことはよく知っていた。
Kショップという、赤ちゃん用具の専門店。
S堂という、画材道具の専門店。
T屋という、貸し呉服屋。
ほかにY屋という書店、N塾という塾などなど。

 今日、その中のひとつ、S堂に足を運んだ。
主人のKさんとは、40年来のつきあいということになる。
その奥さんと、近所の人たちの話になった。
「もうこのあたりで、残っているのは、うちと、Y屋書店だけです」と。

●ミキオ君

 T屋という貸し呉服店を営んでいた、Yさんは、よく知っている。
息子のM君は、私が浜松で知り合った、最初の友人。
そのM君、名前をミキオ君といったが、住むところがないと言うと、彼の両親の
別荘を貸してくれた。
「冬の間は、だれも使っていないから、使っていい」と。

 別荘は、浜松市内から電車で3つ目にある、弁天島というところにあった。
人工造成された島で、東海道新幹線と東海道線が、その南側を並んで走っている。
私は半年ほど、その別荘に住んだ。
海のそばの別荘だった。
管理人が、その西側の棟に住んでいた。

 が、そのミキオ君は、その直後、ブラジルへ単身渡り、そこで死んでしまった。
交通事故で死んだということだった。
だから今でも、「ミキオ」という名前は知っているが、漢字でどう書くのか知らない。

●K屋(赤ちゃんショップ)

 「T屋の息子さんは、ブラジルで亡くなったんですよ」と私が言うと、S堂の女主人は、
「そうですってねえ」と言った。
女主人にしても、遠い遠い昔の話。
40年前の話である。

 「K屋さんは、どうしましたか?」と聞くと、「ああ、K屋さんねえ。浜松の財産を
すべて売って、静岡に引っ越しました」と。
K屋の主人とは、直接のつきあいはない。
が、あるドクターのゴーストライターをしていたころ、K屋の主人は、毎週、その
ドクターを、妊産婦講座の講師として招いていた。
そのドクターに連れられて、よくその店に入った。
これも40年前の話である。

●佐藤栄作

 田舎の小さな町ならともかく、こんな大きな町でも、人の出入りがある。
私はそれに少なからず、驚いた。
40年前というが、2倍すれば、80年前。
3倍すれば、120年前。
江戸時代にさしかかる。

 その江戸時代。
S堂のちょうどまん前に、「平野屋」という名前の料理店があった。
東海道筋の元本陣宿。
大名行列でやってきた殿様だけが泊まる、格式の高い宿屋であったという。
その宿屋が、その後、料理店になった。
私はそこでよく昼食や夕食を食べた。
たしか昼食を、200円とか、250円で食べさせてくれた。
おかしなことに、私はその店で、佐藤栄作の何かのニュースを見たのを思えている。
当時の総理大臣だった。
が、何のニュースだったかは、よく覚えていない。

 退陣表明のニュースだったか?
新聞記者に「出て行け」というようなことを言っていた。
そのようなニュースだった。

●S堂にて

 そのR町通りを、今日、ワイフと2人で歩いた。
静岡銀行で円をオーストラリア・ドルに交換した。
その足で、教室に向かった。
S堂に寄ったのは、その途中のことだった。

 当時は毎日のように、そのあたりを歩き回った。
その近くの個人塾と進学塾で、講師をしていた。
家庭教師もしていた。
その家庭教師先の人の話になった。

私「Tさんは、お元気ですか?」
主「さあ、ここ数年、見ていませんね」
私「ご主人とは、ライオンズクラブで、仲間だったようです」
主「そうみたいですね」
私「Tさんの息子さん2人を、家庭教師していました」
主「そうですか?」と。

 Tさんは、当時、このあたり一帯を支配する文具店の卸問屋をしていた。
が、奇縁というのは、こういうことを言うのか。
その社員に、中学時代の同級生がいた。
同級生といっても、たがいの実家は、100メートルも離れていなかった。
M君といった。

 そのM君。
50歳になる前に、肺がんで命を落としている。
奥さんの話では、肺を切ったら、1リットルのタール状の腐った血が出てきたという。
壮絶な闘いだったらしい。
中学時代は、ずば抜けたスポーツ選手だった。
体育の授業のとき、みなの前で、大車輪(鉄棒)をしてみせたこともある。

●奥さん

 Tさん、つまり卸文具店の奥さんは、本当に、心のやさしい人だった。
私のような風来坊にでも、ていねいに接してくれた。
家庭教師が終ると、よく食事も出してくれた。
が、当時は、職業による身分意識も色濃く残っていた。
私のしている仕事が、奥さんには、そう見えたのだろう。
ある日、奥さんは、私にこう言った。

 「林さん(=私)、あなたにうちの息子たちのめんどうをみてもらうのは、
うれしいです。
しかしね、林さん、こういうことで、あなたの大切な将来を台無しにしていると
思うと、申し訳ない気がします」と。

 私はその言葉を聞いたあと、道を歩きながら、涙をこぼした。
ちょうどそのころ、私はすべてのものを失っていた。
それを奥さんは、私に気づかせてくれた。
……というか、はっきりさせてくれた。

 R町通りの一角には、そんな思い出もしみついている。

●栄枯盛衰

 「浮き沈み」という言葉は好きではない。
「栄枯盛衰」という言葉にしても、そうだ。
だれも浮かんではいない。
同じように沈んだわけでもない。
ただそこにいる人たちが、変わったということ。
「置き換わった」という言い方のほうが、正しいかもしれない。

人は、それぞれの時代に、それぞれの場所で、懸命に生きている。
私とのつながりが切れたというだけ。
それを「沈んだ」とは、言わない。
この私にしても、あと10年もすれば、人のうわさからも消え、20年もすれば、
この世から消える。
そういう私を「沈んだ」とは、言ってほしくない。

●袋小路の過去

 私とワイフは、その近くのコンビニで、昼食を買うつもりでいた。
が、改装中。
で、2、3軒隣の薬局へ入った。
まさか・・・と思って入ったが、弁当を売っていた。
私はいくつかの菓子パンと、ボトル入りのお茶を買った。

 外へ出ると、冬に逆戻りしたかのような冷気。
通りを歩く人もいなかった。

 「でもね、昔は、もう少し人の温もりがいたよ。今のようにだれの
ものともわからないビルばかりではなかった」と。
私がそう言うと、ワイフはあたりをゆっくりと見回した。

 42年前というが、その42年前の、ほんの1年前には、私はオーストラリア
にいた。
42年前の過去が、紙一枚で、オーストラリアの時代につながっている。
遠い遠い昔のはずだが、そのオーストラリアの時代は、すべてが、つい昨日の
ように現代とつながっている。
一方、R町通りの思い出は、その狭間にあって、たとえて言うなら、袋小路に
入ったような過去。
それが私にとっての、R町通りということになる。

●教室

 私とワイフは、その足で、教室に入った。
最初のクラスまで1時間ほど、あった。
私は菓子パンをかじりながら、教材のプリントを印刷した。
いつもの午後。
いつもの仕事。
こうして私の42年間が、過ぎた。

 そうそう書き忘れたが、同じR町通りのY屋書店には、毎日のように通った。
雨の日も風の日も。
空き時間が1時間でもあると、その書店に通った。
本を読んだ。
本を買った。

 そのY書店も、数年前、3階を閉鎖した。
少し前まで、午後9時まで営業していたが、それがこのところ8時になった。
人通りが少なくなった。
併せて、書籍の数も少なくなった。
私にとっては、そのほうがさみしい。

 教材のプリントを印刷しているとき、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 浜松市 連尺通り 連尺通りの思い出)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【日韓経済戦争】「日韓経済は一蓮托生」

●物価上昇

 世界の穀物価格は、平均して、この
1年間で、30%弱も上昇。
この3年間で、約2・5~3・0倍に上昇。

たとえば大豆価格……08年比で、2・6倍
小麦価格……08年比で、2・3倍
とうもろこし価格……08年比で、3・1倍。
(農林水産省調べ・MMF・2010)

 原因は、

(1)2010年7月以降の、ロシアの干ばつ、
(2)アメリカが、生産量見込みの大幅な下方修正をしたこと、
(3)大豆については、アルゼンチンの降雨不足、
(4)小麦は、豪州東部の洪水と、米国大平原の土壌水分不足。
  (以上、農林水産省HPより)。

 こうした穀物価格の上昇は、韓国をも直撃している。

 韓国、東亜日報は、「とくに、低所得層のエンゲル係数は、5年ぶりに最高値を記録し、
食品物価の上昇により、家計負担が相当大きかったことが分かった」(東亜日報・3月1日、
2011)と報道している。

 もう少し具体的に数字を並べてみる。
朝鮮日報(2011-03-03)は、つぎのように書いている。

『物価統計に含まれる489品目のうち、魚、野菜、果物など51品目だけを計算した新
鮮食品指数(生鮮食品指数)は、昨年6月から9か月連続で2桁台の上昇を続けており、
2月には25%の上昇を記録した』と。

 「昨年6月から9か月連続で2桁台の上昇」というのは、ふつうではない。
ならば、ウォン高に誘導し、輸入価格を引き下げればよいということになる。
もっとも手っ取り早い方法は、公定歩合をあげる。
つまり中央銀行の貸出金利をあげる。
が、それができないところに、韓国経済のジレンマがある。

●増える個人債務

 朝鮮日報(2011-03-01)は、つぎのように書いている。

 『……韓国の家計債務が急速に増加し、昨年末には795兆ウォン(約58兆円)に達
し、800兆ウォンの大台に迫った。家庭向け融資残高(クレジットカード債務を含む)
は、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権期(2003-07年)には192兆ウォン(約14兆
円)、李明博(イ・ミョンバク)政権に入ってからの3年間で165兆ウォン(約12兆円)
増えた。両政権で融資残高が357兆ウォン(約26兆円)も増加し、韓国の各世帯の財
務状況は破綻寸前だ』と。

 つまり、『韓国の家計債務が、急速に増加し、2010末には、58兆円になった』と。

 朝鮮日報は、一例として、あるガソリンスタンドの店主を例にあげている。

『…… ガソリンスタンド保守業を営む男性(50)は、過去3年で借金が雪だるま式に
膨らみ、これ以上耐えきれなくなった。
08年4月に事業資金に充てるため、自宅を担保に銀行から3億ウォン(約2190万円)
を借り入れた。
3年の返済猶予付きの25年間の分割ローンで、毎月200万ウォン(約14万6000
円)の利子を支払っていた。
08年初めには月に400万ウォン(約29万1000円)稼いでいたため、利払いに耐
えられたが、景気が悪化し、現在は月収が150万ウォン(約10万9000円)前後だ。
男性は「利払いや生活費など月に100万ウォン(約7万3000円)以上の不足分は、
クレジットカードで支払っていたため、カード債務だけで7000万ウォン(約510万
円)に膨らんだ」と話した』(以上、朝鮮日報)と。

詳細は、
http://www.chosunonline.com/news/20110301000021

 別の統計によれば、「平均所得は、09年度比で、5・8%しかふえていないのに、利子
支出は、16・2%もふえている」(朝鮮日報)という。

 もしここで貸出金利を1%でもあげたら、それこそ韓国経済は、奈落の底に叩き落とさ
れることになる。
平たく言えば、こうだ。

 「インフレ(=物価高)を抑制するために、金利をあげたい。
しかし金利をあげれば、個人債務者の破綻がつづく」と。
が、これは韓国だけの問題ではない。
そのままこの日本の問題でもある。

●日本

 世界の穀物価格は、08年度比で、約3倍に上昇している(前述)。
が、この日本では、それほどの実感はない。
その上昇分は、円高が吸収した。

 リーマンショック(08年)以前は、1ドルが120円前後だった。
現在は、82円前後。
これで計算すると、円は32%も上昇したことになる。
この上昇分のおかげで、食料価格は安定した(?)動きをみせている。

 ただここで誤解してはいけないことがある。
これだけ「円」をたれ流しても、円高がつづくのは、それだけ「円」が強いからではない。
それだけ相対的に、世界経済が不安定だから、である。
「まだ日本の円のほうが安全」ということで、世界の投機資金は、日本に向かっている。

が、その一方で、日本の「円高」は、今まさに風前の灯火。
ほとんどの経済学者は、「日本の国家破綻(デフォルト=債務超過)は、可能性の問題では
なく、時間の問題」と述べている。

 こうした漠然とした不安感に、どこかで火がつけば、一気に日本経済は破綻に向かう。
ギリシア危機を例にあげるまでもない。
「一気」である。

 その一気がいつやってくるか?
つまり引き金を引くのは、いつか?
そのひとつの火薬庫が、韓国ということになる。

●日韓経済は一蓮托生

 長い間、私は「日韓経済戦争」について書いてきた。
すでに10年になる。
が、その間、破竹の進撃を繰り返す韓国。
何もかも、裏目、裏目と出る日本。
昨今の経済ニュースによれば、2040~45年には、1人当たりのGDPにおいて、
韓国は日本を追い抜くと予想されている。
それがはっきりしたとき、つまり昨年の夏ごろを最後に、私は「日韓経済戦争」について
書くのをやめた。

 ……今さらあの当時の日本人のノー天気ぶりを嘆いても、始まらない。
知性も理性もかなぐり捨て、よい年齢のオバチャンたちが、韓国の若い俳優を追い
かけ回す。
これを「国辱」と言わずして、何という。

 が、ここにきて韓国経済が、音をたててきしみ始めた。
日韓経済戦争ということになれば、「敵」の衰退は、即、味方の興隆につながる。
ふつうならそう考える。
が、日本の経済とて、ガタガタ。
まるでユラユラと揺れる台座の上で、かろうじてバランスを保っているようなもの。
もしここで足の一本でも折れたら、台座はそのまま崩れてしまう。
韓国経済は、その足の一本ということになる。
つまり一蓮托生。

●どうするか?

 ならば、どうするか?
……と書きつつ、ここからは日本の問題。
私たち自身の問題。

 要するに極東アジアの小国どうしが、いがみあっていても仕方ないということ。
世界から見れば、区別するのも不可能なほど、よく似た兄弟民族。
兄弟国家。
が、かといって、日本の知的財産を、そのまま韓国に譲渡するというわけにもいかない。
韓国が日本を追い抜くのを、指をくわえて見ているわけにもいかない。
あれほどの反日国家が力をもったら、この日本はどうなるか。
それをほんの少しでも、頭の中で想像してみればよい。

 中には、「仲よくすればいい」という意見もあるかもしれない。
しかし私がUNESCOの交換学生として韓国へ渡ってから、44年。
韓国人のもつ反日感情は、ほとんど変わっていない。
むしろ力をますにつれて、反日感情は、先鋭化している。
竹島(独島)問題を例にあげるまでもない。
この先、10年や20年で、彼らのもつ対日感情が、劇的に変化することなど、
ありえない。

 つまりここに、日本には日本のジレンマがある。
考えれば考えるほど、袋小路に迷い込んでしまう。
ゆいいつの救済法があるとするなら、日本は日本で国力を回復すること。
結果として、日本経済の足腰を強くすること。

国家破綻が時間の問題なら、ここは大出血を覚悟で、先手、先手で、対策を実行すること。
破綻してから大騒ぎするか。
破綻する前に大騒ぎするか。
どちらを選ぶか。

 私は後者を選ぶべきと考えるが、与党内部でさえ、足の引っ張りあいがつづいている。
これでは嵐を前に、家の中で夫婦げんかをしているようなもの。
情けないというか、心もとないというか……。

 日本は、まさにその正念場を迎えつつある。
2011/03/04記

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●3月6日

+++++++++++++++++++++++++++++

明日は月曜日。
English Jiji comは、つぎのように
伝える。

英語の勉強のため、翻訳してみる。

+++++++++++++++++++++++++++++

●Middle East Unrest Seen Affecting Tokyo Stocks Next Week

 来週(3月7日~)中東不安は、東京マーケットに影響を与える

Tokyo, March 4 (Jiji Press)ーTokyo stocks are expected to continue to be affected by
the political unrest in the Middle East and North Africa and crude oil price moves,
although the downside is likely to be supported by expectations of a U.S. economic
recovery.
東京市場は、USの経済回復の期待に支えられ、影響は多少緩和されるかもしれないが、
中東および北アフリカの政治的混乱、原油価格の動きによって、引き続き、影響を受ける
ものと思われる。

If crude oil prices keep rising due to the political turmoil, investors will shift funds
from stocks, expecting the economies of advanced countries will be hurt, brokers said.
政治的な混乱により、原油価格が上昇すれば、先進国の経済が傷つくことが予想され、投
資家は、株式市場からファンドへ移動するだろうと、投資家たちは述べている。

+++++++++++++++++++++++++++++++

●負のスパイラル

 先進国が札を増刷しつづけるかぎり、穀物、原油価格は上昇する。
当然の帰結である。
が、先進国はそれでよい。
食糧価格や石油価格の上昇を、「生活」の範囲内で、消化できる。
が、中進国や後進国にとっては、そうではない。
失業と貧困。
インフレと食料品の高騰。
政情不安は、一気に進む。
その結果がエジプトであり、リビアということになる。
が、だれも、ここで終るとは思っていない。

 原油価格は1バレル、100ドルを突破した。
やがて200ドルを超えるだろうと予測されている。
穀物価格(大豆、小麦、トウモロコシ)についても、08年度比で、約3倍に
なっている(2011年3月現在)。

つまりそのしわ寄せは、中進国や後進国に、集まる。
言い換えると、先進国の、(この日本も含めての話だが)、身勝手な経済運営が、
世界の経済を、メチャメチャにし始めている。
中には、「日本がよければ、それでいい」と考えている人もいるかもしれない。
しかしそのツケは、やがて回り回って、この日本にもやってくる。

 その第一波が、ジジコムの記事。
東京市場の混乱。
株価の暴落。
景気の低迷。
言うなれば、世界は、今、負のスパイラルを描きながら、奈落の底へと落ちはじめている。

●アジア情勢

 そこでアジア情勢をもう一度、復習してみたい。

(1)インド・パキスタン戦争
1948年に、カシミール地方の領有権争いが原因で、戦争が始まった。
原因についてはいろいろ言われているが、水源地争いであると、パキスタンの友人が
話してくれた。
今の、インド・パキスタンは、戦争状態にある。

(2)中国・インド戦争
1959年、中国は国境線を改めるため、インドに軍を進め、1962年、それが
大規模な軍事衝突に発展。
結果、中国とインドの国境線は、中国の都合のよいように、書き換えられてしまった。

(3)スリランカの内戦
スリランカは独立国だが、内部では、タミル人とシンハラ人の対立がつづいている。
人口の7割をシンハラ人が占めているが、仏教徒。
残りの2割がタミル人で、ヒンドゥー教徒。
宗教戦争がからんでいるため、たがいに容赦しない。
現在は、タミル人の反政府活動は収束し、表面的には静かになっている。

(4)ミヤンマーの民主化運動
アウンサン・スー・チー女史の名前をあげれば、「ああ、あの国か」と思う起こす人は
多い。
今の今も、軍事政権による強圧政治がつづいている。
軍事政権側は、7段階の「民政移管計画」を発表している。
現在は、やっと1段階が終ったところ。
その先のスケジュールは示されていない。

(5)東チモール独立問題
チモールは現在、東チモールと西チモールに分断されている。
あれこれ語るより、オーストラリアの第一の仮想敵国は、インドネシアである。
そのことからもわかるように、チモールの独立問題は、オーストラリアvs
インドネシア問題と考えてよい。

(6)チベット問題、東トルキスタン問題
中国は領土拡大政策のもと、周辺の弱小国家を、つぎつぎと自国へ併合している。
チベット、それにウイグル自治区。
やがて台湾、さらには沖縄へと、領有権を主張してくるはず。
中国の領土野心には、じゅうぶん警戒する必要がある。

(以上、参考文献:「世界の大疑問」(Gakken)

●日本は……?

 この先、この日本は、どうなるか?
本来なら今、日本政府は、強力な挙国一致体制を敷かねばならない。
が、肝心の政府(=管内閣)は、ガタガタ。
今度は外務大臣の献金問題で、揺れている。
在日韓国人からの献金が問題になっているらしい。
が、それよりも驚くのは、つぎの2点。

(1)よくもまあ、こんなこまかいことを調べたものだということ。
どこかの団体が、血眼になって調べたのだろう。
どこの団体が、どのようにして調べたかは、知らない。
知らないが、おおよその見当はつく。
あの団体である。
こうした政治スキャンダルの背後には、いつもあの団体の影が見え隠れする。

(2)外国人からの献金は禁止されている。
……とまあ、法律にはあるかもしれない。
しかしたいした金額ではない。
報道によれば、たったの計20万円。
小沢一郎氏に投げかけられた、億単位のヤミ献金疑惑とは、桁がちがう。
中日新聞によれば、こうだ。

『政治資金収支報告書によると、前原氏の関係政治団体が2005~08年に選挙区であ
る京都市山科区の女性から、年5万円計20万円の個人献金を受け取り、前原氏は参院予
算委員会で、この女性が在日韓国人だと認めた』(以上、中日新聞より)と。

 「額は問題ではない」と野党は主張している。
その上で、鬼のクビでも取ったかのように騒いでいる。
が、たかが計20万円!
年間、5万円!
どうしてそんな額で、外務大臣の進退(クビ)が問題になるのか。
逆に言えば、そんな献金にまで目を光らすことなど、不可能。

 今は、こんなバカげた足の引っ張り合いをしている場合ではない。
内輪もめしている場合ではない。
ないことは、アジア情勢を見ただけでも、わかるはず。
今の今、世界は、大激動している。
まさに「一寸先は、闇」。
わかりやすく言えば、日本の一歩外では、ギャングたちが機関銃をバンバンと
撃ちはなっている。
隣が火事なのに、夕食の味付けのことで、夫婦喧嘩をしているようなもの。

●明日から……

 今夜はこれでおしまい。
2011年3月6日。
明日からも世界は、大きく動く。
ただひたすら注視。
油断は禁物。

 では、おやすみなさい!


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●あの世vsこの世

+++++++++++++++++++++++++

あの世がsub(従)で、この世がmain(主)と
考えるのには、無理がある。
私たちは今、(この世)で生きているから、どうしても、
(この世)を中心に、ものを考える。
しかし、これはおかしい。

常識で考えれば、私たちが考えているあの世こそが、
main(主)ではないのか。
もしあの世があるとしたら、そうなる。
また(この世)には、極楽もあれば、天国もある。
地獄もある。
むしろ(この世)のほうこそ、実は(あの世)ではないのか。

人の一生にしても、あまりにも短い。
長くて100年前後。
100年などというものは、瞬間。
まばたきの、そのまた、まばたきの長さでしかない。
一方、(あの世)には、時間さえない。
死すらない、未来永劫の世界。

+++++++++++++++++++++++++

●この世は、実はあの世のあの世

 今日もドライブをしながら、ワイフと、「あの世」の話になった。
きっかけは、昔、島倉千代子が歌った、『♪この世の花』。
私がその歌をふと口ずさんだら、ワイフが「大げさな歌ね」と。
「この世の花」の「この世」という部分が、大げさ、と。
それで「あの世論」になった。
(おかしなきっかけだが、事実は、事実。)

 で、結論は、こうだ。
「ぼくたちが思っている(この世)こそが、実は(あの世)の(あの世)。
ぼくたちが思っている(あの世)こそが、実は、(この世)。
ぼくたちは(あの世)の住人で、ときどき(この世)へやってきて、(この世)を経験する。
この世には、天国もあるし、地獄もある。
あの世で悪いことをした人は、この世へやってきて、地獄を経験する」と。

 ……というような話は、すでに何度も書いた。
この「この世はあの世」論は、(その反対でも、もちろんよいが)、はやし浩司の
オリジナルと考えてもらってよい。
古今東西、そんなことを説いた宗教家はいない。
またそういう宗教も、ない。

●自己中心的

 するとワイフが鋭いことを言った。
「あの世の人たちが、こんなこの世に来たがるかしら?」と。
たとえて言うなら、私たち人間が、生まれ変わって、虫の世界に入るようなもの。
アリでもよいし、コオロギでもよい。
もう少し高等な生物ということになれば、ワニでもよいし、鳥でもよい。

ワ「私なら、いやだわ。虫になるなんて。
だってそうでしょ。
あの世の人たちは、何万年のそのまた何万年も生きるわけだから、きっと私たち人間より、
はるかに頭もいいはずよ」
私「そうだな。
そう考えると、ぼくもいやだな……。
あえて虫の世界など、経験したくもない。
ただね、あの世の住人してみれば、この世に生まれてくるのは、映画でも観にいくような
ものかもしれないよ。
ちょっと2、3時間、あの世へ行ってくるわ、とね」

 どうであれ、つまりあの世がこの世であれ、またその反対であれ、現在の(この世)が、
「メイン(主)」と考えるほうが、おかしい。
それこそジコチュー。
あまりにも人間中心的。
それに視野も狭い。
もしあの世が本当にあるならという、前提での話だが……。

●「いやだね」

 が、ここで疑問が発生する。
つまりワイフが言ったように、仮に今、私たちが(あの世)の住人だったとする。
(あの世)で、幸福で満ち足りた毎日を送っている。
そんな住人が、わざわざ地球上の(この世)へやってくるだろうか。
そういう疑問である。

 人間でなくてもよい。
アリでも、コオロギでもよい。
ワニでも、鳥でもよい。
仮にやってくるとしても、何のために?
それがわからなければ、こんな例で考えてみればよい。

 どこかのだれかが、あなたにこう言ったとする。

「今度、あの世で虫の世界を経験してみようか。
もし君が望むなら、アリの世界でもよい。
働きアリというアリだ。
あの世へ行って、虫になって生まれ、虫の一生を経験する」と。

 そこであなたがそれを望むと、あなたは地中深くに眠る、アリの卵になる。
卵になって、孵化するのを待つ。

 ……たぶん、私なら、こう言うだろう。
「いやだね」と。
「そんな経験をして、どうなるの?」とも。

 同じように、人間の世界だって、そうだ。
私なら、やはりこう言うだろう。
「いやだね」と。

●結論

 ……こうして考えていくと、矛盾ばかりが生じてくる。
あちらで矛盾、こちらで矛盾……、と。
へたに「あの世がある」というから、そうなる。
が、「ない」とすると、すべての矛盾が霧散する。
シンプルでわかりやすくなる。
私たちは死ねば、電気を消すように、そのまま消えてなくなる。

私「やはり、あの世というのは、ないということになるね」
ワ「どう考えても、そうなるわね」
私「そうなんだよ。つまり死んだら、おしまい」
ワ「そうね、人間だけが特別だなんて、おかしいわ」

 以下はあくまでも、私の考え。

 私には、あの世があるのか、ないのか、わからない。
わからないが、今は、私は、「あの世はない」という前提で生きている。
言うなれば背水の陣。
毎日が、断崖絶壁に追いつめられたような状態と言ってよい。
が、もし死んでみて、あの世があれば、もうけもの。
そのときは、そのとき。
あの世で、のんびりと、新しい人生を歩む。

 最後にワイフがこう言った。

「(あの世)と(この世)をあべこべにしたような映画はできないかしら?
きっとおもしろい映画になるわよ」と。

 ……ここに書いたことは、つまりは、その程度の話。
あまり本気にしないでほしい。


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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●はやし浩司 2011-03-08

【幼児に、実験的に、対称図形を教えてみました】(2011-3月)

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type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always"
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value="http://www.youtube.com/v/ExykszY2Y4M?hl=ja&fs=1">name="allowFullScreen" value="true">value="always">src="http://www.youtube.com/v/ExykszY2Y4M?hl=ja&fs=1"
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always"
allowfullscreen="true" width="425" height="344">



value="http://www.youtube.com/v/BML8k_j7WmI?hl=ja&fs=1">name="allowFullScreen" value="true">value="always">src="http://www.youtube.com/v/BML8k_j7WmI?hl=ja&fs=1"
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always"
allowfullscreen="true" width="425" height="344">



value="http://www.youtube.com/v/_HR0VWUQJoI?hl=ja&fs=1">name="allowFullScreen" value="true">value="always">src="http://www.youtube.com/v/_HR0VWUQJoI?hl=ja&fs=1"
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always"
allowfullscreen="true" width="425" height="344">



Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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2011年3月26日土曜日

*Fukushima Nuclear Power Plant

【今日・あれこれ】(3月26日)

++++++++++++++++++

テレビに出演したことがある人なら、
みな、よく知っている。
とくに討論的な番組ではそうである。
最初にディレクターから、いろいろな
注意を受ける。
「政治的な話は避けてください」「文科省の批判は
避けてください」とか、何とか。
生放送では、とくにそうである。

今回の震災、それにつづく原発事故ニュースでも、
それを強く感ずる。
恐らく……というより100%、出演者たちは
あらかじめ、こう釘を刺されているにちがいない。
「視聴者を不安にさせるような話は避けてください」と。
あるいは「風説被害を拡大させるような発言には
注意してください」と。

その結果、「事実」が、ねじ曲げられる。

+++++++++++++++++++

●海外の報道

 今回の原発事故について、海外の報道は、かなりきびしい。
すでに「(今回の事故は)チェルノブイリ級」という報道している国もある(フランス)。
あるいは「スイスでも放射能が観測された」という報道もある。
このままでは、福島県程度では、すまない。
……すむはずがない。

成田空港の閉鎖は、時間の問題。
いくら「成田空港は安全です」とアピールしても、成田発の飛行機が、外国では
着陸できなくなる。
その結果として、成田空港は閉鎖される。

すでに香港へ入った貨物船が、洋上で停泊を余儀なくさせられているという(23日)。
これから先、北風が吹くようになれば、東京があぶなくなる。
この静岡県もあぶなくなる。
そういう現実が、まったくわかっていない。

 ……で、こういうのを「風説」というらしいが、ならば聞く。
どうして政府や東京電力は、「事実」をもっと正確に公表しないのか。
ある外国のメディアはこう書いている。

「同心円状に、避難地域、屋内退避地域を決めるのは、おかしい」と。
つまり放射性物質は、同心円状に拡散するのではない。
風向きによっては、ばあいによっては、数百キロ先に放射性物質が飛ぶこともある。

 つねに最悪のばあいを考え、その準備をする。

●Independent Thinker(自分で考え、自分で行動する人)

 恩師の田丸謙二先生は、いつも口癖のように学生たちにこう言っている。
「せっかくいい頭をおもちなのですから、自分で考えなさい」と。
英語では、「Independent Thinker(自分で考え、自分で行動する人)」という。

 今回ほど、この言葉が胸にしみたことはない。
つまり日本人は、自分で考え、自分で行動することが苦手。
田丸先生が、こんなエピソードを話してくれたことがある。

 学生(東大の大学院生)に、ある問題を出したときのこと。
その学生が、田丸先生にこう聞いたという。
「この問題には、解答があるのですか?」と。
そこで田丸先生が、「さあ、わかりません」と答えると、その学生が、こう言ったという。
「解答のない問題など、出さないでほしい」と。

 ここから先は、あくまでも私の推察。
今の今も、関係者による必死の作業がつづいている。
まさに命がけの作業ということになる。
それには頭がさがる。
が、その一方で、テレビに顔を出す保安院の職員や東京電力の社員には、「本気度」が
感じられない。
危機感というか、緊張感が感じられない。
いつも口にするのは、耳障りのよいニュースばかり。

「今朝はxxxxマイクロシーベルでしたが、今はxxxマイクロシーベルにさがっています」
とか、など。
さらに「被爆」したこと自体が、深刻な事故であるにもかかわらず、今朝の報道には、
こうある。

「……千葉市の放射線医学総合研究所へと転院し、入院治療を行うことになりました。全身の状態に大きな問題はなく、意識も鮮明で、自力で歩くこともできるといいます」(TBS)と。

 わかりやすく言えば、私たちの「意識」は、作為的に作りあげられていく。
そのためそこに危機が迫っているにもかかわらず、それがわからなくなる。
が、しかし、これがこわい。
つまりこわいのは、風説ではなく、「ゆがめられた意識」。
日ごろから、自分で考え、自分で判断するという習慣が身についていないと、そうなる。

●脳内ストレス

 ところでこんな話。
3・11の大震災以来、私はショック状態になってしまった。
今も、それがつづいている。
ものが考えられなくなってしまった。
文章を書こうとしても、頭の中でまとまらない。
言いようのない不安感。
それがザワザワと、いつも心の中で騒いでいる。
落ち着かない。
原因は、脳内ストレス(脳ストレス)。

 同じストレスでも、それに敏感に反応する人と、そうでない人がいる。
私などは、もともとうつ気質だから、ストレスに弱い。
何かあると、すぐ考えこんでしまう。
悶々としてしまう。
結果として、神経疲労を起こしやすい。

 そこで調べてみると、こんなことがわかった。

 何かのストレスを受けると、免疫細胞が、サイトカインという物質を放出し、
それが脳内ストレスを、増大させるという。

 それと同じような反応が、コルチゾール濃度の上昇など、うつ病患者にもみられる
という(新井康允氏)。

 わかりやすく言えば、健康な人がストレスを受けた脳内の状態と、うつ病患者の脳内の状態は、よく似ているということ。
つまりもともとうつ病の人は、それだけストレスの影響をモロに受けやすいということ。

今回のばあいは、深刻な災害が外因となり、私をうつ状態にした。
が、これは私たちの年代の者にとっては、たいへん危険なことでもある。
言うまでなく、免疫機能が低下すれば、たとえばがんなどの発生率が、きわめて高くなる。

●茶化す

 そこで私のばあい、テレビの報道はなるだけ見ないようにした。
震災から数日間は、一日中、報道番組を見ていた。
自分でも、どんどんと気がヘンになっていくのが、よくわかった。
何を考えても、ユーウツ。
人を恨んだり、怒ったりした。

で、それをやめた。
「非国民」と思われるかもしれないが、あえて遠ざかった。
あえて映画館にも足を運んだ。
あえて新しいデジカメも買った。
気分は重いが、その重さに敗れたら、自分自身がどうかなってしまう。
それでそうした。

 が、ことは深刻になる一方。
それは先に書いたとおり。
そこでつぎに私がとった方法は、茶化すこと。
自分をごまかすこと。
言うなればブラック・ジョークということになる。
それを口にした。
「福島原発温泉(核燃料プール)、無料で入浴できます」とか、など(ごめん!)。

(もちろん原発事故を喜んでいるというわけではない。
自分の心を防衛するため、やむをえず、そうした。
どうか誤解のないように!)

●正確な情報

 どうであるにせよ、私たち(=私)がほしいのは正確な情報。
たとえば海水の汚染度にしても、示されたのは、福島原発の南側の海のデータ。
海流は南から北へ流れる。
そのため南側のデータは、意味がない。
つまり汚染度が低いのは当たり前。
どうして北側の海のデータは公表されないのか。

 また放射能の測定値にしても、どこか行き当たりばったり。
観測時刻もバラバラ。
たとえば1キロ四方ごとに定点を決め、どうしてそこで連続的に観測しないのか。
またそういう装置や観測システムを、構築しないのか。 

 さらに気になるのは、今回被爆した作業員にしても、報道によれば、「下請け企業の
作業員」ということらしい。
どうして東京電力の職員や社員ではないのか。
研究員ではないのか。
あるいは東京電力の社員は、何をしているのか?
ことの重大さがわかっているのか?

 本当はそうではないと信じたいが、しかし報道などでかいま見る社員の姿を見ていると、
まるで(よそごと)、(他人ごと)。
当初は「想定外の……」という言葉を、連発した。
「やるべきことはします」「言われたことはします」「しかしそれ以上のことはしません」
と。
その上で、今度は「計画停電?」。
「東京電力を追いつめれば、あなたたちだって困りますよ」と。
何かしら私たち国民のほうが、逆に恫喝されているような気分。

 その正確な情報さえあれば、私たちは(私は)、自分で判断する。
まだ本気ではないと思うが、ワイフは、最近、こう言う。
「2、3年、オーストラリアで過ごしてきましょうよ」と。

 いざとなったら、私はそうする。
最後の最後には、そうする。
そういうふうに考えられるようになる。


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司

2011年3月25日金曜日

*3D Camera

●新しいカメラ(FUJIFILM 3Dカメラ)

+++++++++++++++++++++++++++++

このところ、どうも気分が重い……ということで、
新しいデジタルカメラを買った。
気分転換には、この方法が効果的。

買ったのは、FUJIFILMの「FINEPIX REAL 3DW3」。
「3D」という文字からもわかるように、「立体映像撮影カメラ」。
日本で(もちろん世界で)、ゆいいつの3Dカメラという。

評価は2つに分かれる。
「すばらしい」と評価する人。
「つまらない」と評価する人。
画像を見ていると、船酔いに似た症状が起きて、気持ち悪く
なるという人も多い。
たしかにそうだが、しかし見るときのコツさえ身につければ
何でもない。
カメラを固定する。
見る位置と角度を固定する。
その位置で、コマ送りに、画像を見る。
で、私の評価は、「すばらしい!」。
少し慣れれくると、2Dカメラの画像が、つまらなく思えてくる。

で、歩きながら見るとか、フワフワした状態で見てはいけない。
頭がクラクラする。

価格は、A社(ネットショップ)で、3万5000円前後。
なにしろ画像を映す、有効画素数がすごい。
1017万画素。
ふつうのデジカメの2倍以上。
その分、画像が美しい。
もちろんハイビジョン映像も、動画で撮影できる。
毎日、あちこちで立体画像を撮り、それを楽しんでいる。

……ということで、ここ数日、かなり気分がよくなった。

2011年3月25日

+++++++++++++++++++++++++++

【BW幼児教室】byはやし浩司

今日は、幼児クラスで、(1)筆算、(2)三角形の面積、(3)100を超える数を、
教えてみました。
結果は、ご覧の通り。
「幼児に筆算!」と、驚かれる人は、(疑問に感じられる人も)、まずこのYOUTUBE
をじっくりと見てほしい。
その上で批評してほしい。
子どもたちの笑い声+可能性に着目してほしい。















2011年3月23日水曜日

*Nuclear Power Plant

●原子力発電所事故(東京消防庁のみなさん、ありがとう!)

++++++++++++++++++

原子力発電所が、かくも恐ろしいものだった
ということは、正直に告白するが、知らなかった。
事故の可能性を考えたことはある。
しかしそれ以上に、「事故は日本では起こらない」
と考えていた。
「日本はロシアやアメリカとはちがう」と。
ほかのほとんどの日本人同様、私は日本の
技術力を信じていた。

たとえば御前崎にも、原子力発電所がある。
浜松市から43キロしか離れていない。
(グーグルアース上で測定。)
何度か見学に行ったことがある。
そこを見学してまず驚くのが、耐震構造。
腕の太さもあるような鉄筋で、構造物が守られている。
加えて、三重、四重の防御策が講じられている。
私もそれを見て、「ああ、これならだいじょうぶ」と思った。

が、やはり、恐ろしいものだった。
大震災、それにつづく津波。
まだこちらのほうは、「敵の顔」が見える。
「敵の顔」が見える分だけ、戦いやすい。
が、原子力発電所の事故のばあいは、
それが見えない。
見えないだけに不気味。
恐ろしい。

3月23日午前10時。
現状はどうなっているのか。
日本経済新聞社の記事をまとめてみる。

++++++++++++++++++++

+++++++++++++以下、日経新聞(電子版)より+++++++++++++

 東電によると、3号機は補給水系ポンプの起動準備も整ったが、作動試験は23日に行う。
4号機も中央制御室に外部電源が供給されると、同ポンプを動かせる状態となる。中央制御
室の計器も復活すれば、原子炉の詳しい状態が分かるようになる。一方、1、2号機の補給
水系ポンプは海水をかぶり、状態が厳しいと判明。1号機では23日以降に代替ポンプを据
え付ける。

 非常用発電機で冷却装置が動き、既に安全な冷温停止状態にある5、6号機では、外部電
源への切り替えが終わった。

 大震災発生時、運転を自動停止した1~3号機の原子炉圧力容器には、海水を消防ポンプ
で消火用配管を通じて注入し、最低水準の冷却機能を維持している。しかし、いつまで続
けられるか分からず、冷却装置の稼働を急ぐ必要がある。放水は東京消防庁も大阪市消防
局と連携し、3号機プールへ約50分間実施。放水量は150トン。東電は2号機プールにも
内部配管を経由する方法で海水を注入した。

+++++++++++++以上、日経新聞(電子版)より+++++++++++++
+++++++++++++以下、読売新聞(電子版)より+++++++++++++

東日本巨大地震で被災した東京電力福島第一原子力発電所では22日夜に3号機で中央制御室に電気が通り、照明が点灯、23日朝から3、4号機の使用済み核燃料一時貯蔵プールや原子炉に真水を送り込む補給水系ポンプを稼働する作業が進められている。

 1号機でも中央制御室の計測器の一部に電気が届き、原子炉内の温度が設計温度より約100度高くなっていることなどが判明した。2号機は電源接続作業を行うタービン建屋の放射線量が高く、この日の作業を一部中断した。

 3号機については、中央制御室の計測データを取得するための電源が入っている。24日をめどに、炉心に送り込む水を海水から真水に切り替え、注水する装置を復活させる予定。また、放水で冷やしている使用済み燃料プールについては、消防ポンプを使って海水を送り込む装置を動かすことを検討している。放水が続けられている4号機の使用済み燃料プールについても、同様に消防ポンプを利用した注水ができないか検討を行う。

 中央制御室は、核物質防護上、詳細な位置は明らかにされていないが、3、4号機のタービン建屋に挟まれるように建つ中央制御棟の2階にある。通常、2交代制で数人~十数人の作業員で監視している。高い放射線を防ぐため、鉛板を設置して、ここを拠点に、制御系を動かす地下のバッテリー充電器室の修理や機器の交換、タービン建屋の西側に隣接する原子炉建屋のポンプ類、電気系統などの点検を急ぐ。

 一方、経済産業省原子力安全・保安院は、1号機の圧力容器内の温度が上昇しているのを受け、消防ポンプで2系統の配管を稼働させ、毎時18トンの海水を注入し始めたことを明らかにした。1、3、4号機については22日夜から23日未明にかけて、炉心などの様々なデータを取得するための計器用の電源に通電に成功したという。

 1号機の原子炉内の温度は、午前6時には設計上の温度(302度)を大幅に上回る400度以上となったが、注水を始めてから少しずつ温度が下がり、午前10時には390度となった。

 2号機については、津波による浸水被害が大きく、放射線量も非常に高いことから電源回復作業が難航している

+++++++++++++以上、読売新聞(電子版)より+++++++++++++

●整理

 現状を順に整理してみる。

【日本経済新聞より】

(1)1号機は補給水系ポンプは使用不能→23日以後に代替ポンプに付け替える。

(2)2号機も補給水系ポンプは使用不能。

(3)3号機は、補給水系ポンプの準備は整った。作動試験を23日に行う。

(4)4号機は、外部電源が供給されると、ポンプを動かせるようになる。

(5)5、6号機は、外部電源への切り替えが終った(以上、日経新聞)。

 なお1~3号機については、「海水を消防ポンプで消火用配管を通じて注入し、最低水準
の冷却機能を維持している」とのこと。

 いちばんあぶないとされた3号機(報道)については、作動試験を23日(本日)行う
という。
これが成功すれば、山を越えたということになるのか。

【読売新聞より】

(1)1号機の中央制御室の計測器の一部に電気が届き、原子炉内の温度が設計温度より
約100度高くなっていることなどが判明した。
1号機の圧力容器内の温度が上昇しているのを受け、消防ポンプで2系統の配管を稼働させ、毎時18トンの海水を注入し始めたことを明らかにした。

(2)2号機については、電源接続作業を行うタービン建屋の放射線量が高く、この日の作業を一部中断した。

(3)3号機で中央制御室に電気が通り、照明が点灯、23日朝から3、4号機の使用済み核燃料一時貯蔵プールや原子炉に真水を送り込む補給水系ポンプを稼働する作業が進められている。
中央制御室の計測データを取得するための電源が入っている。24日をめどに、炉心に送り込む水を海水から真水に切り替え、注水する装置を復活させる予定。

(4)4号機については22日夜から23日未明にかけて、炉心などの様々なデータを取得するための計器用の電源に通電に成功したという。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 両者を読み比べれば比べるほど、頭の中が混乱してくる。
日本経済新聞のほうを読むと、すべてが順調に解決に向かって進んでいることを示す。
が、読売新聞のほうを読むと、ほとんど何も変化していないようにも見える。
が、全体としてみると、福島第一原子力発電所は、「管理下(under control)」に入った
状態で、解決に向かって一歩一歩、進んでいることになる。

 よかった!
まずますよかった!
「まだ余談を許さない状況」(官房長官)ということだが、解決に向かって、ことが
進んでいる。
命がけで作業をしてくれた東京消防庁、自衛隊、東京電力のみなさん、ありがとう。

●自分で確かめる

 大切なことは、情報は自分で集め、それに基づいて自分で判断すること。
たとえば原子炉についても、この日本では、チェルノブイリ型の爆発事故、それにつづく
放射能汚染は、起きないと言われている。
原子炉の「形式」そのものがちがうという。

●黒煙炉型原子炉(ウィキペディア百科事典より)

黒鉛炉(こくえんろ)とは、減速材に黒鉛(炭素)を用いる原子炉のこと。
黒鉛は安価で大量に入手でき、中性子の吸収が少なく減速能力も比較的大きな優秀な減速材である。中性子吸収量が少ないため、黒鉛炉は濃縮していない天然ウランを燃料として使用できる。
世界ではこの炉が約12%使われている(原子炉基数ベース、1999年現在)。
エンリコ・フェルミの世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」がこの形式。
現在の商用黒鉛炉の直接のルーツはプルトニウム生産炉(原子爆弾の材料を作る為の炉)である。

●軽水炉(ウィキペディア百科事典より)

軽水炉(けいすいろ)は、減速材に軽水(普通の水)を用いる原子炉である。
水は安価で大量に入手でき、高速中性子の減速能力が大きく、冷却材を兼ねることも出来る。
しかし、中性子吸収量が大きいため、運転に必要な余剰反応度を確保するには、濃縮ウランを燃料とする必要がある。
アメリカで開発され、現在、世界の80%以上のシェアを占めている(原子炉基数ベース、1999年現在)。
2007年現在、日本で商用稼動している原子力発電所は全て軽水炉。

●チェルノブイリ型原子炉

 チェルノブイリの原子炉は、黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉と言われている。
素人の私には、さっぱり理解できない。
が、ここであきらめるわけにはいかない。
私たちの生命と安全が、それに託されている。

●黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉(ウィキペディア百科事典より)

黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉(RBMK)は、核分裂反応によって生じた熱エネルギーを、軽水を沸騰させることで取り出す原子炉である。
旧ソ連が軍事用に開発した黒鉛減速プルトニウム生産炉をベースに、独自に軽水冷却型原子炉として発電用動力炉を開発したものである。
一群の開発プロジェクト「ソビエト計画」の最高峰であった。
それらのうちの最初のものはAM-1 ( Atom Mirniy, ロシア語で "peaceful atom"、「平和な原子力」)と呼ばれ、電気出力5MW(熱出力30MW)を発電し、発生した電力を1954 年から 1959年までオブニンスクへと送っていた。

●結論

 率直に言えば、原子炉というものについて、私はほとんど何も知らなかった。
これだけの説明文を読んでも、チンプンカンプン。
そんな状態。
どこかに構造図のようなものがあれば、わかりやすい。
しかし今のところ、それも見あたらない。
(福島第一原発の構造図については、連日テレビでも説明されているので、よくわかって
いるが……。)

 言い換えると、私たちは、(私だけかもしれないが)、ほとんど何も知らないまま、(知ら
されていないまま)、日ごろ電力を無造作に使用している。
無知、無学がこわいというより、それが理由で、今回のような事件が起きたとき、やみくもに右往左往する。
パニック状態になる。
それがこわい。

 やはり日ごろから、電力会社の言いなりになるのではなく、自分の頭で考えるという
習慣を身につけなければならない。
反省すべき点があるとしたら、この点ということになる。
というのも、仮にここでこの問題が解決してしまえば、(そうなるだろうが)、また何ごと
もなかったかのように、人々はめんどうな問題からそのまま遠ざかってしまう。
それがいけない。

 ある男性(酪農業経営)は、こう言っていた。
「私ら、何も悪いことはしていない。(していないのに、どうして被害者になるのか?)」と。
福島県の牛乳は、現在、出荷が停止されている。
それについて、その男性はそう言った。

 しかし本当にそうか?
そう考えてよいのか?
今まで、私たちはあまりにも無知だった。
それを棚にあげて、「私ら、何も悪いことはしていない」は、ない。
無知そのものは、「罪」である。
その男性を責めているのではない。
私やあなたを責めている。
そういう前提で、ものを考える。

 「軽水炉」というと、何となく安全な印象をもつ。
またそのように教育されている。
しかし本当に安全なのか。
爆発はしないのか。
そのあたりから、もう一度、考えなおしてみる必要がある。
今日が、その第一歩ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司

*Vanity

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 3月 23日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの人格の完成度(2009年11月発表の原稿より)

++++++++++++++++++

子どものばあい、その年齢に比して、
幼児ぽい(幼稚ぽい)というのは、
好ましいことではない。

やってよいことと、やっていけないことの
区別ができない。
突然、突飛もない行動をしたりする。

子どもの人格の完成度は、子どもの
様子を、ほかの子どもと比較して判断する。

+++++++++++++++++++

●前頭連合野

 「理性の府」と呼ばれるのが、前頭連合野。
この前頭連合野が何らかの形で損傷を受けると、善悪の判断が適切に
できなくなる。
欲望の命ずるまま、勝手な行動を繰り返すこともある。

 晩年の兄が、そうだった。
玄関先で小便をしたり、自動車のナンバーに、マジックインクで、いたずら書きを
したりした。
ゴミを捨てに行くときも、そのゴミを、近所の家の間にはさんで帰ってきたことも
ある。
 兄は、若いころから母の過干渉により、自分で考えるということができなかった。
それが晩年、ひどくなった。
軽い認知症が加わり、さらにひどくなった。

 子どものばあいでも、異常な過関心が日常化すると、似たような症状を示す。
「自分で考える」という習慣そのものが、育たない。
「自分で行動する」ということはできるが、その「行動」に対して責任を取らない。
「責任を取る」という意味すら、理解できない。
 
 強く叱ると、そのときだけは、(さも、叱られています)という姿勢(ジェスチャ)
をして見せる。
しかしジェスチャだけ。
その実、何も反省していない。

●ある母親

 その母親(当時35歳くらい)は、たいへん口うるさい人だった。
いつも子どもたち(息子と娘)を相手に、ガミガミと怒鳴ってばかりいた。
そのため子どもたちは、一見、従順な子どもになった。
が、自分で考えて、責任を取るということが、できなかった。

 その母親自身も、子どものころ、今で言うAD・HD児ではなかったかと思う。
異常な多弁性が、特徴的だった。
電話で話しても、いつも一方的にまくしたてるだけ。
相手の話を聞かない。
聞かないというより、相手に話させるようなスキ(?)をつくらない。
話の内容も、ポンポンと飛ぶ。

 ある日のことだった。
何かの会合に、その母親が娘を連れてきた。
娘は当時、10歳くらいではなかったか。
その娘にこう言っていた。

 「お茶を出すときは、絵柄を相手に向けて出すのよ、わかった?」と。
そしてお茶の出し方を、みなの前で、こまごまと指導していた。

 一方、私は、そのときまで、そういったことに注意を払ったことは、一度も
なかった。
そういう作法があることさえ、知らなかった。
しかしその母親の頭の中には、そういった情報が、ぎっしりと詰まっていたらしい。
ことあるごとに、こまごまとしたことを、娘に指示していた。

 私はそれを聞きながら、「こういう母親では、子どもたちも息が詰まるだろうな」と
思った。

●常識ハズレ

 結果としてそうなったのだろうが、息子も娘も、中学生のころには、いろいろな
事件を引き起こすようになった。
とくに息子のほうは、その町内でも有名なほど、「グレた」(同じ町内に住む友人の話)。
娘のほうも、同じような経過をたどった。

 が、息子も娘も、見た感じでは、ごくふつうの子どもといった感じだった。
おとなたちの前では、おとなしく、無口だった。
親の言うことには、従順に従っていた。

 が、常識ハズレはつづいた。

 これは人伝えに聞いた話だが、結婚式の当日、息子は、暴走族仲間を連れてきた
という。
予定外のハプニングに、母親は、(もちろん父親も)、あわてた。
しかしそれも後の祭り。
盛大な結婚式を用意しただけに、親たちは、かえって恥をかかされるところとなった。

●子育て自由論

 「自由」とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味。
自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る。
この3つを重ねて、「自由」という。

 そのためには、子どもには、まず自分で考えさせる。
行動させる。
そして自分で責任を取らせる。

 これは乳幼児期からの、子育ての基本ということになる。
そのためには、いくつかの前提がある。

(1) 子どもをひとりの人間と認める。
(2) 親意識(とくに悪玉親意識)を捨てる。
(3) 友として、子どもの横に立つ。

 ここでいう「悪玉親意識」というのは、親風を吹かすことをいう。
 頭ごなしに、ガミガミ言うのは、禁物。
それが日常化すると、子どもは自分で考えることができなくなってしまう。
親の言うことには従順に従っても、母親がいないところでは、何もできなく
なってしまう。

 あとは、(ますますガミガミ言う)→(ますます常識はずれになる)の悪循環。
それを繰り返す。

●早期診断

 こうした悪循環は、早期発見、早期解決が何よりも、大切。
私の経験では、子どもが3~4歳児になるころには、たいてい手遅れ。
というのも、子育ては(リズム)。
そのリズムは、ひょっとしたら、子どもを妊娠したときから始まっている。
そのリズムを直すのは、容易なことではない。

 基本的には、心配先行型の育児姿勢がその背景にあるとみる。
(異常な溺愛、あるいはその背景に、親自身の情緒的な欠陥が、子どもの精神的な
発育をはばむこともある。)
さらに言えば、親自身に、ちゃんとした(親像)がしみこんでいない。
親自身が、不幸にして不幸な家庭で、育っている。
根は深い。

 が、気がつけば、よい。
こうした問題は、気がつけばよい。
気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
5年とか、10年とかはかかるが、時間が解決してくれる。
まずいのは、そういう(過去)があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
過去に振り回されること。
 
 その診断の目安のひとつが、「人格の完成度」ということになる。
満5~6歳になると、子どもの核(コア・アイデンテティ)が、見えてくる。
「この子は、こういう子」という、つかみどころをいう。
そのとき、「うちの子は、どこかおとなっぽい」と言うのであれば、よし。
しかし反対に、「うちの子は、どこか幼稚ぽい」と感じたとしたら、人格の核形成
が遅れているとみてよい。
幼稚園や保育園の中での言動を、ほかの子どもと比較すれば、それがわかる。

●子どもらしさと幼稚性

 誤解がないように書いておく。

 子どもが子どもらしい心をもっているということと、幼児性(幼稚性)が残って
いるというのは、別問題である。
子どもらしい、素直さ、明るさ、無邪気さをもっているというのは、むしろ好ましい。
一方、ここでいう幼児性(幼稚性)は、退行的な症状をいう。

 騒いでいけないような場所で、騒いでみせたり、平気で人が困るようなことを
したりする。
言ってはいけないような冗談を口にしたり、悪いことでも平気でする、など。
その場の雰囲気を、適切に判断できない。
赤ちゃん返りのような、甘ったれた、ネチネチしたものの言い方をするときもある。

 が、何よりも目立つのは、常識はずれな行為。
色水をバケツの中で溶かし、それを幼稚園のベランダから、下の子どもにかけていた
子ども(年長・男児)がいた。
コンセントに粘土をつめて遊んでいた子ども(年長・男児)もいた。
小学3年生の子ども(男児)だが、虫の死骸をマッチ箱に詰めて、それを誕生日
プレゼントにした子どももいた。
そういうのを幼児性(幼稚性)という。

●では、どうするか?

 自分で考える子どもにするには、読書が効果的である。
反対に、読書が好きな子どもは、例外なく、様子がおとなっぽい。
人格の完成度が高い。

 親自身についても、そうだ。

 先にあげた母親のばあい、識字能力に問題があり、本や雑誌をまったくといってよい
ほど、読まなかった。
ある日何かの書類を手渡したことがあるが、その母親は、それを見せるやいなや、
片手で、それを払いのけてしまった。
「私には、こんなもの、読めません!」と。
文字に対する拒否反応すら示していた。

 つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、母親の問題。
家族の問題ということになる。
子どもは、その家族の「代表」に過ぎない。

 母親は今でもガミガミと子どもたちを叱りつづけている。
叱られるべきは、母親自身ということになる。
が、悲しいことに、自分を客観的に判断する能力すら、もっていない。

●ものを書く

 あとは、ものを書くという習慣を勧める。
ものを書くことによって、人は考える。
その(考える)という習慣が、長い時間をかけて、その人の人格を完成させる。

 日記でもエッセーでも、何でもよい。
ひとつのことがらが気になったら、それについて、自分の意見を書き添える。
それだけのことで、考えるという習慣を身につけることができる。

 それを5年とか、10年単位でつづける。
その結果として、人は、「自ら考える人」になることができる。
繰り返すが、子どもの人格の完成度は、あくまでも、その結果として決まる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 欲望 欲望の抑制 コントロール 前頭連合野 理性の府 理性とは)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【虚栄の構造】(虚栄vs自慢)

+++++++++++++++++

虚栄心の強い人というのは、いる。
自分の体を、クジャクの羽で飾り、
自分ではクジャクになったつもりでいる。
が、(飾り)は(飾り)。
どこまでいっても、(飾り)。

その一方で、虚栄心のない人はいない。
程度の差はある。
が、人間が社会的動物、つまり他者との
つながりの中で生きる動物である以上、
この虚栄心と決別することはできない。

私たちはいつも、他者の(目)を意識している。
それが虚栄心の原点と考えてよい。

+++++++++++++++++

●私の母

 私の母も、虚栄心の強い人だった。
「本家」ということもあり、その分、自負心も強かった。
姉御(あねご)意識も強かった。
そのため、年金しか収入のないオジ、オバの生活費まで負担していた。

 が、母自身はぜいたくをしていたわけではない。
母自身は、質素な人だった。
死んだときも、祖父母が残した置物類をのぞいて、財産らしいものは何もなかった。
にもかかわらず、母は人一倍、見栄を張った。
つまりそれが母にとっては、ステータスだった。
母はそのつど、「祖父が財産を残してくれた」と、人には言っていた。
しかしこれは私の名誉(?)にかけて言う。
が、祖父が残した財産……というより、私が中学生のときには、家計はすでに火の車
だった。
祖父は毎日、道楽で、バイクをいじって遊んでいた。

 母はそれでよいとしても、金銭的負担は、すべて私がした。
母は、そのつど浜松へやってきては、私からむしり取るようにして、現金をもって帰った。
容赦しなかった。
貯金通帳がカラになるたびに、ワイフは、泣いた。
それでも母は、容赦しなかった。
結婚し、長男が生まれたときも、私のところへやってきて、私の貯金を全額おろさせた。
「先祖を守るために、親が息子の金を使って、何が悪い!」と。
それが母の口癖だった。

 この文を読んだ人は、「とんでもない親」と思うかもしれない。
しかし当時は、まだそういう時代だった。
そういう常識(=意識)をもっていた人は、少なくなかった。
私の母も、その1人に過ぎなかった。

 言い換えると、虚栄心には、それほどまでに強い「魔力」がある。
一度その魔力に染まると、自分でも自分がわからなくなる。
「世間体」という、他人の目の中で生きるようになる。
 
●自慢と虚栄

 ……私はあえて母のことを書くことによって、自分の中に潜む虚栄心を
たたきつぶしてみた。
本来なら、すばらしい両親をもち、それなりの家系の生まれと書きたい。
しかしそんなもの、どこを探してもない。
名字は「林」。
名前からもわかるように、先祖は、百姓。

 一度祖父に連れられて、祖父の生まれ育った家に行ってみたことがある。
私が小学6年生か、中学1年生のときのことだった。
祖父の家は、すでに空き家になっていた。
道路脇の小さな家で、土壁がむき出しになっていた。
窓らしい窓もない、粗末な家だった。
祖父は8歳のとき家を出、そのまま鍛冶屋で丁稚(でっち)として働いた。

 が、ここまで書いて、迷いが生じた。
「ここまで書く必要があるのか?」と。
こんなことを書けば、いとこの中には、不愉快に思う人もいるかもしれない。
「林家、林家」と、「林」の名を自慢にしている人もいる。

 私もこの年齢になったから、つまり平均余命まで、あと10数年になったから、
こんなことが書ける。
あと数年で健康寿命は尽き、そのあとは、病魔との闘いということになる。
ボケの心配もある。
今さら、虚栄を張ったところで、何になる。

●自慢

 が、それでも虚栄心は残る。
モヤモヤと残る。
自慢たらしい自分。
いつもそういう自分がそこにいて、上からにニヤニヤと笑って私を見おろしている。

 そこで私はやめた。
息子たちの自慢。
家の自慢。
夫婦の自慢、などなど。
自慢すればするほど、自分がみじめになる。
だから私はやめた。

 同時に幸福そうなフリをするのも、やめた。
健康そうなフリをするのも、やめた。
もっとも今は、それなりに満足した生活を送っている。
成人病とも無縁だし、小さな故障を除けば、健康。
ともかくも、自慢は、そのまま虚栄心に直結する。
その虚栄心が、自分の心を狂わす。

●本題

 さて、本題。

 何故に、人は虚栄心をもつのか。
もちろんその原点には、「人に認められたい」という本能的な欲求がある。
あるいは虚栄を張ることによって、「優越性を保ちたい」という本能的な欲求もある。
それほど収入のない人が、無理をして高級車を乗り回すケースを想像してみればよい。
(もちろん中には、車が好きで、そうしている人もいるが……。)

 が、ここで壁にぶつかる。
人に認められたからといって、それがどうなのか?
優越性を保ったからといって、それがどうなのか?
冷静に考えれば、そうなるが、これが地域社会という「狭い社会」に入ると、変節する。
とくに「田舎」と呼ばれる社会ではそうだ。
むかし、私にこう言った友人がいた。

 私が「自転車通勤をしている」と言ったときのこと。
その友人は、こう言った。
「ぼくらは会計士をしているから、恥ずかしくて、とてもそんなことはできないよ」と。

 そういうケースもないわけではない。
しかしあのビル・ゲーツは、ひとりで東京駅から成田まで、電車に乗っていった。
粗末な服装に、カバンひとつで。
そのときビル・ゲーツは、私たちのうしろに並んで立っていた。
私が「あなたはビル・ゲーツですね」と声をかけると、はにかみながら、「YES」と※。

 わかるかな?
あのビル・ゲーツが、電車に乗っていた!

(注※)そのとき、私とワイフ、それに息子(三男)がそこにいた。
息子はそのとき、興奮状態になってしまった。
みなで記念撮影をしたが、息子の携帯電話に、その写真は残っていなかった。
残念!

●虚栄心と闘う

 結局は「視野の広さ」ということになる。
「道徳の完成度」は、つぎの5つで評価される(コールバーグの「道徳の完成論」
を参考)。

(1) 公正性
(2) 普遍性
(3) 一貫性
(4) 正義性
(5) 視野の広大性

 この中の(5)の視野の広大性こそが、虚栄心と闘う唯一の方法ということになる。
それができれば、(1) 公正性、(2) 普遍性、(3) 一貫性、(4) 正義性は、
自然な形で、おのずと生まれてくる。
言い換えると、虚栄心に毒されると、公平性、普遍性、一貫性、正義性が、粉のように
なって崩れていく。

 たとえば友人の中には、1億1000万円もするような車を、まとめて10台も
購入した人がいる。
全豪イチの長者番付にも載ったことがある。
そういう友人が近くにいると、高級車に乗って得意がっている人を見ると、正直に
告白するが、バカ(失礼!)に見える。
名誉や地位にしても、そうだ。

 だから、虚栄心を覚えたら、いかにしてそれと闘うというよりは、いかにして視野を
広くするかということになる。
その視野が広ければ広いほど、虚栄心が、姿を縮める。
宇宙観、人生論、生命観、死生観、宗教観などなど。

 要するに、ありのままの自分で生きるということ。
ありのままの自分をさらけ出して生きるということ。
チッポケな人間なら、チッポケな人間で、よいではないか。
つまりサルの惑星で、サルたちと競っても意味はない。
(私も、そのサルの1人。誤解のないように!)
これは自分の人生をより有意義に生きるための、大鉄則ということになる。

++++++++++++++++

以下、以前、書いた原稿をいくつか、
添付します。

++++++++++++++++

●道徳完成論(2007年11月記)
 
+++++++++++++

子どもにとって、道徳とは何か。
子どもの道徳の完成度は、つぎ
の5つで決まる。

称して、はやし浩司の「道徳
完成論」。

(1) 公正性
(2) 普遍性
(3) 一貫性
(4) 正義性
(5) 視野の広大性

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(1) 公正性

 たとえばあなたの親類の1人が、万引きしていたとする。そのときあなたは、その親類
に対して、どう行動をとるだろうか。見て見ぬフリをするだろうか。あるいは、悪いこと
は悪いこととして、その親類を注意するだろうか。さらに店の人に通報するだろうか。相
手がだれであれ、ものごとを公正に判断できる人を、道徳の完成度の高い人という。

(2) 普遍性

 ものの価値観が、世界的標準で、常識的であること。だれが聞いても、納得できる人生
観、哲学をもっている。おかしな思想に染まり、かたよったものの考え方をする人は、そ
れだけで道徳の完成度の低い人とみる。

(3) 一貫性

 言っていることに、いつも一貫性があること。反対に、会うたびに言うことが変わった
り、様子が変わったりする人は、それだけで道徳の完成度の低い人ということになる。誘
惑にも弱く、悪事に染まりやすい。一方、一貫性のある人は、言動と行動が一致している。

(4) 正義性

 視点がいつも弱者の側にあり、他人に対しても、また自分に対しても誠実であること。
自分に対して誠実ということは、心を偽らないこと。いつもありのままの自分を、外に出
すことをいう。また他人に対して誠実であるというには、ウソをつかない。約束を守る。
この2つが、日常生活の中で、自然な形で実行できることをいう。

(5) 視野の広大性

 ものの考え方が、人間、生物、地球、宇宙・・・と、広いことを、「視野の広大性」とい
う。一方、卑近な問題に右往左往し、私利私欲にかられたり、利己的なものの考え方をす
る人は、視野が狭いということになる。

 教育の場で、(家庭教育においても、そうだが……)、「道徳」を考えたら、この5つの柱
を参考にしてみてほしい。何かの役に立つはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
道徳 道徳の完成 道徳の完成度 道徳完成度 子どもの道徳 子供のの道徳 道徳教
育)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「私」論、3つの条件(2005年6月10日記)

 「私」とは、何か? つまりそれぞれの人には、「私」がある。しかしそれぞれの人は、
いつも「私」とは何か、それを知りたくて、悩んでいる。とくに、若い人ほど、そうだ。

 そこで「私」論。その私をつかむためには、3つの条件が必要である。

(1)私は「私」であるという自覚。(自己自信性)
(2)私はいつも私であるという連続性(一貫性)。
(3)私は、他者と、良好な人間関係をもっているという、3つの条件、である。

 しかしこの「私」は、いつも、不変なものとはかぎらない。そのつど、状況に応じて、
変化する。とくに青年期においては、そうである。ゆれ動く。そのため多くの青年たちは、
「私とは何か」というテーマについて、思い悩む。

(1) 私であるという自覚

 「私であるという自覚」は、(私が考える私)と、(現実の私)が、一致したとき、自分
のものにすることができる。

 たとえて言うなら、結婚がある。好きで好きでたまらなくて、その人と結婚したという
のであれば、結婚生活を、そのまま自分のものとして、受けいれることができる。

 しかし反対に、いやな相手と不本意なまま結婚したとしたらどうであろうか。(自分のし
たかった結婚)と、(現実の結婚)が、大きくズレていることになる。こうなると、その結
婚生活は、ギクシャクとしたものになり、その結婚生活をそのまま自分のものとして、受
けいれることはできなくなる。

 同じように、(本来の私)と、(現実の私)が、一致していれば、その人は、「私は私であ
る」という自覚をもつことができる。そうでなければ、そうでない。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 あなたは、こう心の中で、願っている。容姿もよく、頭も聡明でありたいと。人気者で、
どこへ行っても注目される。資産家の子どもで、何一つ不自由のない生活をしたい、と。

 しかし現実には、そうでない。容姿は悪い。学校での成績も悪い。みなに嫌われ、とき
には、いじめも受けている。両親は離婚状態で、家計も苦しい。このままでは大学進学も、
おぼつかない。

 そこであなたは、(現実の私)を、(本来の私)に、近づけようとする。

 勉強面で努力する。あるいはスポーツマンになるべく、努力する。服装や、身だしなみ
にも、注意を払う。(こうあるべき)と思う「私」に、あなたは自分自身を近づけようとす
る。

しかしそこにも、限界がある。努力しても、どうにもならないことはある。それについて
は、あきらめ、受けいれる。

 が、それは決して、たやすい道ではない。あきらめることは、若いあなたにとっては、
敗北以外の何ものでもない。それにまだ、あなたには、無数の可能性が残されている。そ
ういう思いもある。だからあなたはいつも、こう悩む。「私は、いったい、どこにいるのか?」
と。

 が、この段階でも、うまくいかないことが多い。努力しても、それが報われない。せっ
かく新しい服を買ってきても、みなに、「あなたには似あわない」と笑われる。あなたは自
信をなくす。それが高じて、自暴自棄になり、自分を否定するようになるかもしれない。

 が、あなたの心の奥底に住む、「私」は、それを許さない。そこでその心の奥底に住む、
「私」は、自分を防衛しようとする。自分が崩壊していくのを、防ごうとする。

 もっとも手っ取りばやい方法は、攻撃的になること。みなに、暴力を振るって、みなに、
恐れられればよい。あるいはさらに自虐的になって、めちゃめちゃな勉強や練習をするよ
うになるかもしれない。

 これらをプラス型というなら、他人に服従的になったり、依存的になったりするのを、
マイナス型という。さらにその程度が進んで、逃避型になり、他人との接触をこばむよう
になるかもしれない。引きこもりも、その一つである。

 私が「私」であるためには、私がそうでありたいと思っている私、あるいは自分が自分
で描く自己像(自己概念)と、現実の私(現実自己)を一致させなければならない。

 なぜ、青年期に、私であるという自覚が混乱するかといえば、えてして、青年期には、
現実の自分とは、かけ離れた理想像をもちやすいからと考えてよい。夢や目標も、大きい。
そのギャップに悩む。「こんなはずではなかった」「もっと別の道があるはずだ」と。

 (私が考える私)と、(現実の私)が、一致すること。これが、私が「私」であるための、
第一の条件ということになる。

(2)私はいつも私であるという連続性

 あまりよいビデオではなかったが、こんなビデオがあった。

 ある女性捜査官が、ギャングにつかまってしまう。その捜査官は、イスにしばられたま
ま、拷問を受ける。そのとき、ギャングが、「仲間のいる場所を言え」と迫る。が、その捜
査官は、敵意をさらにむき出しにして、そのギャングに、ペッとつばをかける。

 その女性捜査官は、気の強い女性ということになる。で、そのシーンを見ながら、私は、
こんなことを考えた。

 「映画だから、そういうことができるのだ。現実に、そういう場面に置かれたら、ふつ
うの人なら、そこまで、私を押しとおすことはできないのではないか」と。

 とくに私は優柔不断な人間である。その場、その場で、だれにでもシッポを振ってしま
う。人間的なモロさをもっている。だからイスにしばられ、命の危険を感じたら、友人の
いる場所を、ペラペラとしゃべってしまうにちがいない。

 が、それでは、ここでいう「連続性」がないということになる。優柔不断であるという
ことは、それだけで、「私」がないことになる。つまりはいいかげんな人間ということ。

 そこで私が「私」であるためには、連続性がなければならない。「一貫性」ともいう。カ
メレオンが自分の色を変えるように、いつも私を変えていたのでは、「私」は、そもそも、
ないということになる。

 どんな場所でも、またどんな状況でも、一貫して、「私」がそこにいる。私が「私」であ
るための、これが第二の条件ということになる。

(3)他者との良好な人間関係

 私ひとりで、「私」を認識することはできない。他人の間にあって、はじめて、私たちは、
「私」を認識することができる。つまり「私」というのは、相手があってはじめて、「私」
でありえる。

 世俗的なつきあいをすべて断ち切り、山奥で、ひとりで生活を始めたとしよう。が、何
もしないわけではない。文章を書いたり、絵を描いたりすることもある。何かの工芸物を
作ることもある。

 しかしいくらひとりで生活をしていたとしても、その文章や絵を発表することによって、
他者とのかかわりをもつ。作品を売ることによって、他者とのかかわりをもつ。本気で、
他者とのかかわりを切るつもりなら、そうしたかかわりすらも、やめなければならない。

 たとえばひとり穴の中にこもって、原始人のような生活をする、とか。まったく他人の
目を感じない世界で、だ。

 こういう世界の中で、果たして私たちは、「私」を認識することができるだろうか。もう
少しわかりやすい例では、チャールストン・ヘストンが演じた『猿の惑星』がある。

 あとでわかったことだが、あの映画のモデルになったのは、日本人だそうだ。それはと
もかくも、ある宇宙飛行士が、ある惑星にロケットで不時着する。が、そこは猿の惑星。
が、猿といっても、知能は高く、言葉も話す。

 しかしそこがもし、本当に猿の惑星だったら、どうだろうか。猿といっても、映画の中
に出てくるような猿ではなく、日光の山奥に住む猿のような、本物の猿である。

 あなたははげしい絶望感を覚えるにちがいない。言葉も通じない。気持ちも通じない。
あなたがもっている文化性や道徳性は、猿たちの前では、何一つ、意味をもたない。つま
りいくら「私は私」と思ったところで、その私は、その絶望感の中に、叩き落されてしま
う。

 私が「私」であるためには、他者との良好な人間関係がなければならない。その上で、
はじめて、私は「私」でありえる。これが第三の条件ということになる。

 ほとんどの若い人たちは、それが一つの関門であるかのように、一度は、「自分さがし」
の旅に出る。「私は何か」「自分はどこにいるのか」「私は、何をすべきなのか」と。

 その一助になればと思い、この「私」論を書いた。

(はやし浩司 私論 私とは何か 自分さがし 自分探し 自我 自我の確立 青年期の
悩み 自我の一貫性 自我の連続性 自我の社会性 自我の一致 現実自己 自己概念
 はやし浩司)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【日本のデフォルト】

●個人破産(NPさんのケース)

+++++++++++++++++++

現実の話。
まさに現実の話。

近くに、NP氏(62歳)という人が住んでいる。
若いときには、かなり儲けたらしい。
豪邸と言うにふさわしい、家に住んでいる。
庭は狭いが、白亜の殿堂。
3階建て。

家族は妻と、妻の両親、それに3人の息子と娘。
(息子2人に娘1人。長男と娘は、現在別居中。)
息子は一級建築士として、そこそこの高収入を
得ている。
娘は独身。
もう1人の息子は、現在、休職中。
年齢は、上から36歳(息子)、32歳(娘)、
30歳(息子)。

NPさんは、今でも月額50万円近い収入がある。
ある土建会社の専務をしている。
が、生活が派手。
国産だが高級車を乗り回し、休みごとに
あちこちの温泉に出かけている。
妻がいるが、その妻も浪費家。
毎月の生活費だけでも、月額70万円もかかる。
つまり20万円の赤字。

それには理由がある。
もうすぐ90歳になる両親がいる。
父親は、特養に入居。
母親は、有料の老人ホームに入居。
双方で、月々、20万円ほどの費用がかかる。

そのためNP氏は、毎月20万円を銀行から借りている。
土地や建物が担保。
が、それだけではない。
すでに借金が、9000万円近くもたまっている。
毎月の利子を返却するだけで、たいへん。
が、その利子分は、毎月建築士をしている長男から借りている。
それが月額20万円。

つまり50万円の収入で、90万円の支出。
借金は現在、雪だるま式にふえつつある。
が、NPさんは、こう言っている。
「息子の収入が、毎月70万円もある。
それに土地と家を売れば、何とかなる」と。

で、先月(2010年12月)、年の暮れ、
いつものように銀行へ足を運んだ。
「来月も、20万円ほど、用立ててほしい」と。
借金の申し込みをした。
が、その日は支店長が応対に出た。
いわく、「NPさん、悪いが、これ以上、
お金は貸せない」と。

NP氏は、あわてた。
「それは困る。何とか、貸してくれ」と。
銀行からの融資が止まれば、その先で
待っているのは、自己破産。

ああああ……。

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●100万円の札束を、わしづかみ

 この話は前にも書いた。
月末になると、郵便局に老人たちがずらりと並ぶ。
足や腰の曲がった老人も多い。
そういう老人たちが、それぞれ100万円の札束を、わしづかみにして帰る。
貯金の限度額は、1000万円。
国債の限度額も、1000万円。
だから現金!

 それぞれの公務員の人たちに責任があるわけではない。
しかしその老人たちこそ、元公務員。
三公社五現業の、元準公務員。
ご存知のように、年金は3か月ごとに支払われる。
それで100万円!

 が、その一方で、たった1万4000円(月額)の子ども手当て。
それがいまだに、国会でもめている。
週刊現代は、「天下の愚策」と評した。
「親がもうけるだけ」と。

 何が愚策で、何がそうでないか、私たちは、もう一度現実をよく見なければならない。
冒頭に書いたNPさんというのは、NIPPON、つまりこの日本のことである。

●国家破綻

 日本の国債の格付けが、またさがった。
私たちにはピンとこない話だが、今、この日本は世界からも、確実に見放され始めている。
が、その先にあるのは、国家破綻。
これは可能性の問題ではない。
時間の問題。

私の個人的意見として、そう書いているのではない。
ウソだと思うなら、書店に並ぶ経済誌を片っ端から読んでみたらよい。
おおかたの経済学者たちは、「ここ1~2年がヤマ」と書いている。

 果たして来年度の国家予算は、組めるのか?
国債は、うまくさばけるのか?
そのどちらかが行き詰ったとき、この日本はデフォルト、つまり債務超過=国家破綻する。

 多くの銀行は倒産し、ついで日本経済は、奈落の底へと叩き落される。
倒産につづく倒産。
もちろん「札」は、紙くずと化す。

今朝の某経済新聞社の予測によれば、1ドル=1000円(現在82円)まで、暴落
する可能性があるという(2011年2月6日)。
当然のことながら、同時にドルも暴落するから、「タクシーの初乗りが、1万円になる」
という話も、けっしてありえない話ではない。
ここ数年のうちに、そうなると考えたほうがよい。

●では、どうするか

 では、どうするか。
これについても大方の経済学者の意見は、一致している。
資産は、「できるだけ現物資産でもて」と。

 何をもって現物資産というかは、よくわからない。
思いつくのは、土地、貴金属、それに外債。
外債にしても、銀行や証券会社がつぶれたら、やっかい。
あの山一証券の倒産のとき、辛酸をなめた人は多いはず。

 が、何よりも心配されるのは、食料。
食料品の大高騰。
どこまで高騰するか、それを予測している経済誌は見当たらない。
が、常識で考えても、それなりの価格になるのは必至。
1か月分の給料で、米が10キロも買えない……。
そうなるかもしれない。

●自己防衛あるのみ

 貨幣価値が10分の1になれば、国の借金も、実質的に10分の1になる。
国の借金を減らす方法としては、それしかない。
が、それを国というより、官僚たちが目ろんでいるとしたら、おおまちがい。
許せない。
とんでもない背信行為。

また現在、多額の借金をかかえている人には、一時的には朗報ということになる。
が、それを喜んではいけない。
そのあと、その何十倍もの生活苦が、津波のように襲ってくる。
もともと資産のない人たちだから、病気や事故で倒れたら、万事休す。

 また韓国紙は、連日、日本のデフォルトを心待ちにしているような記事を並べている。
が、その影響は、当然、韓国にも及ぶ。
何といっても、経済規模がちがう。
日本が風邪を引けば、韓国は肺炎になる。
日本が倒れれば、韓国は死ぬ。
そういう現実が、まるでわかっていない。
わかりやすく言えば、日本は韓国なしでも生きていかれる。
が、韓国は、日本なしでは生きていかれない。

 ともかくも、私たちの生命と財産は、私たち自身で守る。
その時期は、刻一刻と近づきつつある。

●あとがき

 結局は、政治の責任ということになる。
が、そういう政治を許してきた、私たちの責任ということになる。
私たち自身も、何も変えようとしなかった。
「明日がある」「何とかなる」と、その場しのぎを繰り返してきた。
その結果が、今。
行政改革、つまり官僚制度の是正が叫ばれるようになって、すでに30年以上が過ぎた。
が、何も変わらなかった。

官僚たちは、失われた20年を横目に、今の今も、我が世の春を謳歌している。
満額の給料に、満額の退職金。
満額の年金に、至れり尽くせりの社会保障。

 ただ悪いことばかりではない。
仮に1ドル=1000円になれば、日本人は、再び働き始める。
歯を食いしばって、がんばり始める。
戦後のあの時代のように。
あるいは団塊の世代が働いた、あの高度成長期のように。
輸出産業も、息を吹き返す。……はず。

 そのための布石だけは、今、しかりとしておかねばならない。
国家が破綻しても、知的産業の流出だけは、防がねばならない。
基幹産業だけは、守りぬかねばならない。

 ……それでも最初に息を吹き返すのは、公務員ということになるのか。
日本という国は、奈良時代の昔から、官僚主義国家。
つぎの時代にも、やはりそうなるのか。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●欲望の奴隷たち(日本相撲協会)

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日本相撲協会が、揺れに揺れている。
おとといの新聞では、こんな記事もあった。
アンケート調査に対して、「親方が部屋の力士たちに、
みんな『なかった』に○をつけろ」と指示した」(中日新聞)と。
そういう部屋もあったという。
つまり「八百長があったかどうか」という
アンケート調査に対して、「なかった」に○をつけろ、と。
親方が部屋の力士に、それを指示したという。

さらに昨日の報道によれば、疑惑の渦中に
ある力士の中には、「携帯電話を壊してしまった」
「紛失してしまった」と答えた人もいたという
(同、中日新聞)。

が、韓国の報道によれば、読売新聞発として、
「さらに5人が、八百長相撲をしていた」とか。

が、何よりも忘れてならないのは、
我々が怒っているという事実。
春場所の中止くらいではすまない。

今までもそのつど八百長相撲がうわさされたことは、
何度かある。
が、そのつど日本相撲協会は、「事実無根」と、
反発してきた。
それを指摘した週刊誌を逆告発したこともある。

その日本相撲協会。
うみを出したら、皮しか残らない。
公益法人の取り消しは当然。
春場所の中止は、これまた当然。

……というのも、今回の一連の八百長相撲事件を
通して真っ先に思い出すのが、あの拉致事件。
北朝鮮による拉致事件は、あった。
にもかかわらずそれまで、北朝鮮は、それを
指摘されると、「知らぬ、存ぜぬ」を繰り返していた。
ときには会議の担当者が激昂(げっこう)し、机まで
叩いてみせたという。
たいていそのまま会議は中断。

日本相撲協会……人間の醜さ、ここに極まれり。
その裏では、億単位の現金が乱舞している。

八百長相撲は、日常的になされていた。
メールのやり取りを読んだだけでも、それがわかる。
言い慣れた書き方。
やり慣れた、取り組みの仕方。
だれも一部の力士による、今回だけの事件とは、
思っていない。

日本相撲協会は、「3人以外、関与否定」(中日新聞・
2011・2・6)という大見出しをトップに
かかげた。
証拠をつきつけられた範囲内でしか、罪を認めない?
こんなやり方で、国民が納得するはずがない。
我々の怒りのボルテージは、ますます上昇している。

+++++++++++++++++++++++++

●興業

 興業なら興業と割り切ればよい。
金儲けが目的。
プロレスがそうである。

 そこで素朴な疑問。
プロレスと相撲は、どこがどうちがうというのか。
「伝統的国技」とはいうものの、中身は同じ。
もちろん、「相撲を廃止しろ」と書いているのではない。
伝統的国技であることには、ちがいない。
それなりの保護や助成は、必要。
しかしそれにも「限度」がある。

たとえばNHKと日本相撲協会とは、太いパイプでつながれている。
その「場所」になると、NHK(BS)は、午後1時前後から、6時過ぎまで
実況中継している。
そのあとの定時のニュースでも、勝敗を紹介している。
が、常識で考えても、そこまでする必要があるのか。
明らかに「限度」を超えている。

●欲望

 現在の日本相撲協会を、報道という窓を通してその外から見ていると、
「欲望とは何か」。
そこまで考えてしまう。

 まったく話が変わるが、たまたま昨日も、どこかの小学校教師が、盗撮し、
逮捕された。
教室のあちこちに隠しカメラを設置し、女児の脱ぎ着を盗撮していたという。

「どうして?」……、つまり「どうしてそんなことをするのか?」というより、
「どうしてこういう事件が繰り返されるのか」ということ。
10年ほど前、この浜松市の高校でも、あった。
女子の更衣室にやはり隠しカメラを置き、女子生徒の脱ぎ着を盗撮していた。

学校の教師なら、こういう事件を、近くで見聞きしているはず。
どんな罪になるかも、知っているはず。
が、それでもその欲望を、抑えることができない。
つまりそれが「欲望の力」ということになる。
言い換えると、欲望の力には、ものすごいものがある。

+++++++++++++++++

昨年(2009年9月)に、こんな
原稿を書いた。

+++++++++++++++++

●欲望vs理性

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昨夜遅く、近くにオープンした靴屋へ行ってきた。
開店初日には、何百台という車が並んだ。
西日本第一の規模を誇るという。
超大型店。
……それから1週間。
やっと楽に入店できるようになった。
で、オープンセールということもあった。
ふつうなら8000~1万円もするような靴が、
(本当のところ、私には靴の値段はわからないが)、
2500~3000円で売られていた。
私が1足、ワイフが1足、買った。
2足で、4800円!

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●生きる原動力

 生きているだけでも、すばらしいこと。
ものが見える、ものが聞こえる、話ができる……。
そういう視点に立てば、あらゆる問題が解決する。

 が、ただ生きているだけでは、人間は満足できない。
視床下部から脳全体に、常にシグナルが送られる。
そのシグナルに応じて、もろもろのホルモンが分泌される。
そのひとつにドーパミンがある。
人間の快楽と欲望を司る脳内ホルモンである。
それが人間が生きる原動力となる。
それをフロイトは「性的エネルギー」と呼んだ。
ユングは「生的エネルギー」と呼んだ。
(これは私の勝手な解釈によるもの。)

●理性vs欲望

 しかし脳内ホルモンの命令するままに行動していたら、たいへんなことになる。
人間のもつ欲望には、際限がない。
しかもドロドロと薄汚い。
そこでそれをコントロールするのが、理性、つまり前頭連合野ということになる。

 もし善と悪を大脳生理学的に考えるなら、前頭連合野が司る理性が、善、
ドーパミンに支配される欲望の世界が、悪ということになる。
が、前頭連合野の力には限界がある。
欲望の力のほうがはるかに強力。
パワーフル。
大学の教授だって、手鏡で女性のスカートの下をのぞく。
それもそのはず。
欲望は、「生きる力」そのものと直結している。
食欲にしても性欲にしても、また物欲、権力欲にしても、「生きる力」を土台にして
生まれる。
善と悪は、そういう点でも平等ではない。

●メカニズム

 では、理性に勝ち目はないかというと、そうとも言い切れない。
ここに書いたようなメカニズム、(あくまでも私が考えたメカニズムだが)、それが
わかるだけでも、そこに「敵」が見えてくる。
まずいのは、欲望に操られるまま、操られていると気がつかないで、行動すること。
欲望の奴隷になること。

 が、こうしたメカニズムがわかってくると、自分自身を一歩退いたところから、
客観的に見つめることができるようになる。
たとえば食欲にしても、「食べなければ損なのか。食べたら損(そこ)ねるのか」と。
自分で自分の食欲をコントロールすることができるようになる。
食べ放題の店とか、ホテルのバイキング料理とかへ行くと、そういう経験をよくする。
そういうところで、欲望の命令するまま食物を口に入れていたら、あっという間に、
体をこわす。

 ……といっても、そんなことでも簡単なことではない。
私などどこかの旅館やホテルで一泊するたびに、2~3キロも体重がふえてしまう。
で、そのあとあわててダイエット。
その繰り返し。

●靴屋で……

 同じような現象を、昨夜、靴屋でも経験した。
安い。
確かに安い。
値段を見ているうちに、「買わなければ損」という欲望が、猛烈にわいてきた。
実際、近くを見ると買い物かごに、3~6足も靴を入れて歩いている人がいた。
子連れだったが、10足近く、まとめて買っている夫婦もいた。

 が、それにブレーキをかけたのは、ほかならぬ理性だった。
(持ちあわせが少なかったこともあるが……。ハハハ。)
「靴などというものは、1足を大切にはく。それがはけなくなったら、また買う」と。
たとえば6足を3年ではくとすると、1年に2足となる。
しかし1足を1年はけば、結局は、半額ということになる。
それがわかったとき、「オール20%引き」という文字が、かなり色あせて見えた。

 つまりこうして自分の欲望にそのつどブレーキをかけていく。
そういう習慣を身につける。
それが積み重なって、理性の力で欲望をコントロールすることができるようになる。
平たくいえば、欲望をコントロールできるかできないかは、能力の問題ではなく、
習慣の問題ということ。
習慣の中で、理性の力を養っていく。

 ……今朝は、そんなことを発見した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 欲望 理性 生的エネルギー 欲望をコントロール)

●欲望

 欲望をコントロールするのは、むずかしい。
たいへんむずかしい。
個人の力では、(もちろん個人差もあるが)、不可能とさえ考えてよい。

 では、どうするか?

 私は「システム」の問題と考えている。
たとえば日本相撲協会。
たとえば学校制度。
政治にしても、そうだ。

 欲望の追求がすべて「悪」ということではない。
しかしそこにブレーキをかけるのが、システムということになる。
平たく言えば、できるだけ多くの人たちの目を通して、個人の欲望を監視する。
厳罰主義でもよい。

 たとえばオーストラリアでは、18歳未満の女子との性的な関係は、きびしく
禁止されている。
見聞きし、それを届けなかっただけでも、罪に問われる。
日本風に言えば、「不作為罪」ということになる。

 相撲について言えば、「八百長」という言葉そのものが、相撲の世界から生まれている。
明治の昔から、八百長相撲は、常識だったと考えてよい。
だったら、相撲というのは、もともとそういうものとして、見ればよい。
プロレスを例にあげるまでもない。
が、それでもだめだというのなら、万人が等しく参加できる「スポーツ」にすればよい。
サッカーや野球を例にあげるまでもない。

 日本相撲協会は、「国技」を隠れ蓑に、あまりにも好き勝手なことをしすぎた。
欲望を追求しすぎた。
「うみ」が、たまり過ぎた。
それが今、一気に外に噴き出した。

 日本相撲協会の「土下座」だけを見て、それで終わらせてはいけない。


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