2011年3月23日水曜日

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 3月 23日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの人格の完成度(2009年11月発表の原稿より)

++++++++++++++++++

子どものばあい、その年齢に比して、
幼児ぽい(幼稚ぽい)というのは、
好ましいことではない。

やってよいことと、やっていけないことの
区別ができない。
突然、突飛もない行動をしたりする。

子どもの人格の完成度は、子どもの
様子を、ほかの子どもと比較して判断する。

+++++++++++++++++++

●前頭連合野

 「理性の府」と呼ばれるのが、前頭連合野。
この前頭連合野が何らかの形で損傷を受けると、善悪の判断が適切に
できなくなる。
欲望の命ずるまま、勝手な行動を繰り返すこともある。

 晩年の兄が、そうだった。
玄関先で小便をしたり、自動車のナンバーに、マジックインクで、いたずら書きを
したりした。
ゴミを捨てに行くときも、そのゴミを、近所の家の間にはさんで帰ってきたことも
ある。
 兄は、若いころから母の過干渉により、自分で考えるということができなかった。
それが晩年、ひどくなった。
軽い認知症が加わり、さらにひどくなった。

 子どものばあいでも、異常な過関心が日常化すると、似たような症状を示す。
「自分で考える」という習慣そのものが、育たない。
「自分で行動する」ということはできるが、その「行動」に対して責任を取らない。
「責任を取る」という意味すら、理解できない。
 
 強く叱ると、そのときだけは、(さも、叱られています)という姿勢(ジェスチャ)
をして見せる。
しかしジェスチャだけ。
その実、何も反省していない。

●ある母親

 その母親(当時35歳くらい)は、たいへん口うるさい人だった。
いつも子どもたち(息子と娘)を相手に、ガミガミと怒鳴ってばかりいた。
そのため子どもたちは、一見、従順な子どもになった。
が、自分で考えて、責任を取るということが、できなかった。

 その母親自身も、子どものころ、今で言うAD・HD児ではなかったかと思う。
異常な多弁性が、特徴的だった。
電話で話しても、いつも一方的にまくしたてるだけ。
相手の話を聞かない。
聞かないというより、相手に話させるようなスキ(?)をつくらない。
話の内容も、ポンポンと飛ぶ。

 ある日のことだった。
何かの会合に、その母親が娘を連れてきた。
娘は当時、10歳くらいではなかったか。
その娘にこう言っていた。

 「お茶を出すときは、絵柄を相手に向けて出すのよ、わかった?」と。
そしてお茶の出し方を、みなの前で、こまごまと指導していた。

 一方、私は、そのときまで、そういったことに注意を払ったことは、一度も
なかった。
そういう作法があることさえ、知らなかった。
しかしその母親の頭の中には、そういった情報が、ぎっしりと詰まっていたらしい。
ことあるごとに、こまごまとしたことを、娘に指示していた。

 私はそれを聞きながら、「こういう母親では、子どもたちも息が詰まるだろうな」と
思った。

●常識ハズレ

 結果としてそうなったのだろうが、息子も娘も、中学生のころには、いろいろな
事件を引き起こすようになった。
とくに息子のほうは、その町内でも有名なほど、「グレた」(同じ町内に住む友人の話)。
娘のほうも、同じような経過をたどった。

 が、息子も娘も、見た感じでは、ごくふつうの子どもといった感じだった。
おとなたちの前では、おとなしく、無口だった。
親の言うことには、従順に従っていた。

 が、常識ハズレはつづいた。

 これは人伝えに聞いた話だが、結婚式の当日、息子は、暴走族仲間を連れてきた
という。
予定外のハプニングに、母親は、(もちろん父親も)、あわてた。
しかしそれも後の祭り。
盛大な結婚式を用意しただけに、親たちは、かえって恥をかかされるところとなった。

●子育て自由論

 「自由」とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味。
自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る。
この3つを重ねて、「自由」という。

 そのためには、子どもには、まず自分で考えさせる。
行動させる。
そして自分で責任を取らせる。

 これは乳幼児期からの、子育ての基本ということになる。
そのためには、いくつかの前提がある。

(1) 子どもをひとりの人間と認める。
(2) 親意識(とくに悪玉親意識)を捨てる。
(3) 友として、子どもの横に立つ。

 ここでいう「悪玉親意識」というのは、親風を吹かすことをいう。
 頭ごなしに、ガミガミ言うのは、禁物。
それが日常化すると、子どもは自分で考えることができなくなってしまう。
親の言うことには従順に従っても、母親がいないところでは、何もできなく
なってしまう。

 あとは、(ますますガミガミ言う)→(ますます常識はずれになる)の悪循環。
それを繰り返す。

●早期診断

 こうした悪循環は、早期発見、早期解決が何よりも、大切。
私の経験では、子どもが3~4歳児になるころには、たいてい手遅れ。
というのも、子育ては(リズム)。
そのリズムは、ひょっとしたら、子どもを妊娠したときから始まっている。
そのリズムを直すのは、容易なことではない。

 基本的には、心配先行型の育児姿勢がその背景にあるとみる。
(異常な溺愛、あるいはその背景に、親自身の情緒的な欠陥が、子どもの精神的な
発育をはばむこともある。)
さらに言えば、親自身に、ちゃんとした(親像)がしみこんでいない。
親自身が、不幸にして不幸な家庭で、育っている。
根は深い。

 が、気がつけば、よい。
こうした問題は、気がつけばよい。
気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
5年とか、10年とかはかかるが、時間が解決してくれる。
まずいのは、そういう(過去)があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
過去に振り回されること。
 
 その診断の目安のひとつが、「人格の完成度」ということになる。
満5~6歳になると、子どもの核(コア・アイデンテティ)が、見えてくる。
「この子は、こういう子」という、つかみどころをいう。
そのとき、「うちの子は、どこかおとなっぽい」と言うのであれば、よし。
しかし反対に、「うちの子は、どこか幼稚ぽい」と感じたとしたら、人格の核形成
が遅れているとみてよい。
幼稚園や保育園の中での言動を、ほかの子どもと比較すれば、それがわかる。

●子どもらしさと幼稚性

 誤解がないように書いておく。

 子どもが子どもらしい心をもっているということと、幼児性(幼稚性)が残って
いるというのは、別問題である。
子どもらしい、素直さ、明るさ、無邪気さをもっているというのは、むしろ好ましい。
一方、ここでいう幼児性(幼稚性)は、退行的な症状をいう。

 騒いでいけないような場所で、騒いでみせたり、平気で人が困るようなことを
したりする。
言ってはいけないような冗談を口にしたり、悪いことでも平気でする、など。
その場の雰囲気を、適切に判断できない。
赤ちゃん返りのような、甘ったれた、ネチネチしたものの言い方をするときもある。

 が、何よりも目立つのは、常識はずれな行為。
色水をバケツの中で溶かし、それを幼稚園のベランダから、下の子どもにかけていた
子ども(年長・男児)がいた。
コンセントに粘土をつめて遊んでいた子ども(年長・男児)もいた。
小学3年生の子ども(男児)だが、虫の死骸をマッチ箱に詰めて、それを誕生日
プレゼントにした子どももいた。
そういうのを幼児性(幼稚性)という。

●では、どうするか?

 自分で考える子どもにするには、読書が効果的である。
反対に、読書が好きな子どもは、例外なく、様子がおとなっぽい。
人格の完成度が高い。

 親自身についても、そうだ。

 先にあげた母親のばあい、識字能力に問題があり、本や雑誌をまったくといってよい
ほど、読まなかった。
ある日何かの書類を手渡したことがあるが、その母親は、それを見せるやいなや、
片手で、それを払いのけてしまった。
「私には、こんなもの、読めません!」と。
文字に対する拒否反応すら示していた。

 つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、母親の問題。
家族の問題ということになる。
子どもは、その家族の「代表」に過ぎない。

 母親は今でもガミガミと子どもたちを叱りつづけている。
叱られるべきは、母親自身ということになる。
が、悲しいことに、自分を客観的に判断する能力すら、もっていない。

●ものを書く

 あとは、ものを書くという習慣を勧める。
ものを書くことによって、人は考える。
その(考える)という習慣が、長い時間をかけて、その人の人格を完成させる。

 日記でもエッセーでも、何でもよい。
ひとつのことがらが気になったら、それについて、自分の意見を書き添える。
それだけのことで、考えるという習慣を身につけることができる。

 それを5年とか、10年単位でつづける。
その結果として、人は、「自ら考える人」になることができる。
繰り返すが、子どもの人格の完成度は、あくまでも、その結果として決まる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 欲望 欲望の抑制 コントロール 前頭連合野 理性の府 理性とは)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【虚栄の構造】(虚栄vs自慢)

+++++++++++++++++

虚栄心の強い人というのは、いる。
自分の体を、クジャクの羽で飾り、
自分ではクジャクになったつもりでいる。
が、(飾り)は(飾り)。
どこまでいっても、(飾り)。

その一方で、虚栄心のない人はいない。
程度の差はある。
が、人間が社会的動物、つまり他者との
つながりの中で生きる動物である以上、
この虚栄心と決別することはできない。

私たちはいつも、他者の(目)を意識している。
それが虚栄心の原点と考えてよい。

+++++++++++++++++

●私の母

 私の母も、虚栄心の強い人だった。
「本家」ということもあり、その分、自負心も強かった。
姉御(あねご)意識も強かった。
そのため、年金しか収入のないオジ、オバの生活費まで負担していた。

 が、母自身はぜいたくをしていたわけではない。
母自身は、質素な人だった。
死んだときも、祖父母が残した置物類をのぞいて、財産らしいものは何もなかった。
にもかかわらず、母は人一倍、見栄を張った。
つまりそれが母にとっては、ステータスだった。
母はそのつど、「祖父が財産を残してくれた」と、人には言っていた。
しかしこれは私の名誉(?)にかけて言う。
が、祖父が残した財産……というより、私が中学生のときには、家計はすでに火の車
だった。
祖父は毎日、道楽で、バイクをいじって遊んでいた。

 母はそれでよいとしても、金銭的負担は、すべて私がした。
母は、そのつど浜松へやってきては、私からむしり取るようにして、現金をもって帰った。
容赦しなかった。
貯金通帳がカラになるたびに、ワイフは、泣いた。
それでも母は、容赦しなかった。
結婚し、長男が生まれたときも、私のところへやってきて、私の貯金を全額おろさせた。
「先祖を守るために、親が息子の金を使って、何が悪い!」と。
それが母の口癖だった。

 この文を読んだ人は、「とんでもない親」と思うかもしれない。
しかし当時は、まだそういう時代だった。
そういう常識(=意識)をもっていた人は、少なくなかった。
私の母も、その1人に過ぎなかった。

 言い換えると、虚栄心には、それほどまでに強い「魔力」がある。
一度その魔力に染まると、自分でも自分がわからなくなる。
「世間体」という、他人の目の中で生きるようになる。
 
●自慢と虚栄

 ……私はあえて母のことを書くことによって、自分の中に潜む虚栄心を
たたきつぶしてみた。
本来なら、すばらしい両親をもち、それなりの家系の生まれと書きたい。
しかしそんなもの、どこを探してもない。
名字は「林」。
名前からもわかるように、先祖は、百姓。

 一度祖父に連れられて、祖父の生まれ育った家に行ってみたことがある。
私が小学6年生か、中学1年生のときのことだった。
祖父の家は、すでに空き家になっていた。
道路脇の小さな家で、土壁がむき出しになっていた。
窓らしい窓もない、粗末な家だった。
祖父は8歳のとき家を出、そのまま鍛冶屋で丁稚(でっち)として働いた。

 が、ここまで書いて、迷いが生じた。
「ここまで書く必要があるのか?」と。
こんなことを書けば、いとこの中には、不愉快に思う人もいるかもしれない。
「林家、林家」と、「林」の名を自慢にしている人もいる。

 私もこの年齢になったから、つまり平均余命まで、あと10数年になったから、
こんなことが書ける。
あと数年で健康寿命は尽き、そのあとは、病魔との闘いということになる。
ボケの心配もある。
今さら、虚栄を張ったところで、何になる。

●自慢

 が、それでも虚栄心は残る。
モヤモヤと残る。
自慢たらしい自分。
いつもそういう自分がそこにいて、上からにニヤニヤと笑って私を見おろしている。

 そこで私はやめた。
息子たちの自慢。
家の自慢。
夫婦の自慢、などなど。
自慢すればするほど、自分がみじめになる。
だから私はやめた。

 同時に幸福そうなフリをするのも、やめた。
健康そうなフリをするのも、やめた。
もっとも今は、それなりに満足した生活を送っている。
成人病とも無縁だし、小さな故障を除けば、健康。
ともかくも、自慢は、そのまま虚栄心に直結する。
その虚栄心が、自分の心を狂わす。

●本題

 さて、本題。

 何故に、人は虚栄心をもつのか。
もちろんその原点には、「人に認められたい」という本能的な欲求がある。
あるいは虚栄を張ることによって、「優越性を保ちたい」という本能的な欲求もある。
それほど収入のない人が、無理をして高級車を乗り回すケースを想像してみればよい。
(もちろん中には、車が好きで、そうしている人もいるが……。)

 が、ここで壁にぶつかる。
人に認められたからといって、それがどうなのか?
優越性を保ったからといって、それがどうなのか?
冷静に考えれば、そうなるが、これが地域社会という「狭い社会」に入ると、変節する。
とくに「田舎」と呼ばれる社会ではそうだ。
むかし、私にこう言った友人がいた。

 私が「自転車通勤をしている」と言ったときのこと。
その友人は、こう言った。
「ぼくらは会計士をしているから、恥ずかしくて、とてもそんなことはできないよ」と。

 そういうケースもないわけではない。
しかしあのビル・ゲーツは、ひとりで東京駅から成田まで、電車に乗っていった。
粗末な服装に、カバンひとつで。
そのときビル・ゲーツは、私たちのうしろに並んで立っていた。
私が「あなたはビル・ゲーツですね」と声をかけると、はにかみながら、「YES」と※。

 わかるかな?
あのビル・ゲーツが、電車に乗っていた!

(注※)そのとき、私とワイフ、それに息子(三男)がそこにいた。
息子はそのとき、興奮状態になってしまった。
みなで記念撮影をしたが、息子の携帯電話に、その写真は残っていなかった。
残念!

●虚栄心と闘う

 結局は「視野の広さ」ということになる。
「道徳の完成度」は、つぎの5つで評価される(コールバーグの「道徳の完成論」
を参考)。

(1) 公正性
(2) 普遍性
(3) 一貫性
(4) 正義性
(5) 視野の広大性

 この中の(5)の視野の広大性こそが、虚栄心と闘う唯一の方法ということになる。
それができれば、(1) 公正性、(2) 普遍性、(3) 一貫性、(4) 正義性は、
自然な形で、おのずと生まれてくる。
言い換えると、虚栄心に毒されると、公平性、普遍性、一貫性、正義性が、粉のように
なって崩れていく。

 たとえば友人の中には、1億1000万円もするような車を、まとめて10台も
購入した人がいる。
全豪イチの長者番付にも載ったことがある。
そういう友人が近くにいると、高級車に乗って得意がっている人を見ると、正直に
告白するが、バカ(失礼!)に見える。
名誉や地位にしても、そうだ。

 だから、虚栄心を覚えたら、いかにしてそれと闘うというよりは、いかにして視野を
広くするかということになる。
その視野が広ければ広いほど、虚栄心が、姿を縮める。
宇宙観、人生論、生命観、死生観、宗教観などなど。

 要するに、ありのままの自分で生きるということ。
ありのままの自分をさらけ出して生きるということ。
チッポケな人間なら、チッポケな人間で、よいではないか。
つまりサルの惑星で、サルたちと競っても意味はない。
(私も、そのサルの1人。誤解のないように!)
これは自分の人生をより有意義に生きるための、大鉄則ということになる。

++++++++++++++++

以下、以前、書いた原稿をいくつか、
添付します。

++++++++++++++++

●道徳完成論(2007年11月記)
 
+++++++++++++

子どもにとって、道徳とは何か。
子どもの道徳の完成度は、つぎ
の5つで決まる。

称して、はやし浩司の「道徳
完成論」。

(1) 公正性
(2) 普遍性
(3) 一貫性
(4) 正義性
(5) 視野の広大性

+++++++++++++

(1) 公正性

 たとえばあなたの親類の1人が、万引きしていたとする。そのときあなたは、その親類
に対して、どう行動をとるだろうか。見て見ぬフリをするだろうか。あるいは、悪いこと
は悪いこととして、その親類を注意するだろうか。さらに店の人に通報するだろうか。相
手がだれであれ、ものごとを公正に判断できる人を、道徳の完成度の高い人という。

(2) 普遍性

 ものの価値観が、世界的標準で、常識的であること。だれが聞いても、納得できる人生
観、哲学をもっている。おかしな思想に染まり、かたよったものの考え方をする人は、そ
れだけで道徳の完成度の低い人とみる。

(3) 一貫性

 言っていることに、いつも一貫性があること。反対に、会うたびに言うことが変わった
り、様子が変わったりする人は、それだけで道徳の完成度の低い人ということになる。誘
惑にも弱く、悪事に染まりやすい。一方、一貫性のある人は、言動と行動が一致している。

(4) 正義性

 視点がいつも弱者の側にあり、他人に対しても、また自分に対しても誠実であること。
自分に対して誠実ということは、心を偽らないこと。いつもありのままの自分を、外に出
すことをいう。また他人に対して誠実であるというには、ウソをつかない。約束を守る。
この2つが、日常生活の中で、自然な形で実行できることをいう。

(5) 視野の広大性

 ものの考え方が、人間、生物、地球、宇宙・・・と、広いことを、「視野の広大性」とい
う。一方、卑近な問題に右往左往し、私利私欲にかられたり、利己的なものの考え方をす
る人は、視野が狭いということになる。

 教育の場で、(家庭教育においても、そうだが……)、「道徳」を考えたら、この5つの柱
を参考にしてみてほしい。何かの役に立つはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
道徳 道徳の完成 道徳の完成度 道徳完成度 子どもの道徳 子供のの道徳 道徳教
育)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「私」論、3つの条件(2005年6月10日記)

 「私」とは、何か? つまりそれぞれの人には、「私」がある。しかしそれぞれの人は、
いつも「私」とは何か、それを知りたくて、悩んでいる。とくに、若い人ほど、そうだ。

 そこで「私」論。その私をつかむためには、3つの条件が必要である。

(1)私は「私」であるという自覚。(自己自信性)
(2)私はいつも私であるという連続性(一貫性)。
(3)私は、他者と、良好な人間関係をもっているという、3つの条件、である。

 しかしこの「私」は、いつも、不変なものとはかぎらない。そのつど、状況に応じて、
変化する。とくに青年期においては、そうである。ゆれ動く。そのため多くの青年たちは、
「私とは何か」というテーマについて、思い悩む。

(1) 私であるという自覚

 「私であるという自覚」は、(私が考える私)と、(現実の私)が、一致したとき、自分
のものにすることができる。

 たとえて言うなら、結婚がある。好きで好きでたまらなくて、その人と結婚したという
のであれば、結婚生活を、そのまま自分のものとして、受けいれることができる。

 しかし反対に、いやな相手と不本意なまま結婚したとしたらどうであろうか。(自分のし
たかった結婚)と、(現実の結婚)が、大きくズレていることになる。こうなると、その結
婚生活は、ギクシャクとしたものになり、その結婚生活をそのまま自分のものとして、受
けいれることはできなくなる。

 同じように、(本来の私)と、(現実の私)が、一致していれば、その人は、「私は私であ
る」という自覚をもつことができる。そうでなければ、そうでない。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 あなたは、こう心の中で、願っている。容姿もよく、頭も聡明でありたいと。人気者で、
どこへ行っても注目される。資産家の子どもで、何一つ不自由のない生活をしたい、と。

 しかし現実には、そうでない。容姿は悪い。学校での成績も悪い。みなに嫌われ、とき
には、いじめも受けている。両親は離婚状態で、家計も苦しい。このままでは大学進学も、
おぼつかない。

 そこであなたは、(現実の私)を、(本来の私)に、近づけようとする。

 勉強面で努力する。あるいはスポーツマンになるべく、努力する。服装や、身だしなみ
にも、注意を払う。(こうあるべき)と思う「私」に、あなたは自分自身を近づけようとす
る。

しかしそこにも、限界がある。努力しても、どうにもならないことはある。それについて
は、あきらめ、受けいれる。

 が、それは決して、たやすい道ではない。あきらめることは、若いあなたにとっては、
敗北以外の何ものでもない。それにまだ、あなたには、無数の可能性が残されている。そ
ういう思いもある。だからあなたはいつも、こう悩む。「私は、いったい、どこにいるのか?」
と。

 が、この段階でも、うまくいかないことが多い。努力しても、それが報われない。せっ
かく新しい服を買ってきても、みなに、「あなたには似あわない」と笑われる。あなたは自
信をなくす。それが高じて、自暴自棄になり、自分を否定するようになるかもしれない。

 が、あなたの心の奥底に住む、「私」は、それを許さない。そこでその心の奥底に住む、
「私」は、自分を防衛しようとする。自分が崩壊していくのを、防ごうとする。

 もっとも手っ取りばやい方法は、攻撃的になること。みなに、暴力を振るって、みなに、
恐れられればよい。あるいはさらに自虐的になって、めちゃめちゃな勉強や練習をするよ
うになるかもしれない。

 これらをプラス型というなら、他人に服従的になったり、依存的になったりするのを、
マイナス型という。さらにその程度が進んで、逃避型になり、他人との接触をこばむよう
になるかもしれない。引きこもりも、その一つである。

 私が「私」であるためには、私がそうでありたいと思っている私、あるいは自分が自分
で描く自己像(自己概念)と、現実の私(現実自己)を一致させなければならない。

 なぜ、青年期に、私であるという自覚が混乱するかといえば、えてして、青年期には、
現実の自分とは、かけ離れた理想像をもちやすいからと考えてよい。夢や目標も、大きい。
そのギャップに悩む。「こんなはずではなかった」「もっと別の道があるはずだ」と。

 (私が考える私)と、(現実の私)が、一致すること。これが、私が「私」であるための、
第一の条件ということになる。

(2)私はいつも私であるという連続性

 あまりよいビデオではなかったが、こんなビデオがあった。

 ある女性捜査官が、ギャングにつかまってしまう。その捜査官は、イスにしばられたま
ま、拷問を受ける。そのとき、ギャングが、「仲間のいる場所を言え」と迫る。が、その捜
査官は、敵意をさらにむき出しにして、そのギャングに、ペッとつばをかける。

 その女性捜査官は、気の強い女性ということになる。で、そのシーンを見ながら、私は、
こんなことを考えた。

 「映画だから、そういうことができるのだ。現実に、そういう場面に置かれたら、ふつ
うの人なら、そこまで、私を押しとおすことはできないのではないか」と。

 とくに私は優柔不断な人間である。その場、その場で、だれにでもシッポを振ってしま
う。人間的なモロさをもっている。だからイスにしばられ、命の危険を感じたら、友人の
いる場所を、ペラペラとしゃべってしまうにちがいない。

 が、それでは、ここでいう「連続性」がないということになる。優柔不断であるという
ことは、それだけで、「私」がないことになる。つまりはいいかげんな人間ということ。

 そこで私が「私」であるためには、連続性がなければならない。「一貫性」ともいう。カ
メレオンが自分の色を変えるように、いつも私を変えていたのでは、「私」は、そもそも、
ないということになる。

 どんな場所でも、またどんな状況でも、一貫して、「私」がそこにいる。私が「私」であ
るための、これが第二の条件ということになる。

(3)他者との良好な人間関係

 私ひとりで、「私」を認識することはできない。他人の間にあって、はじめて、私たちは、
「私」を認識することができる。つまり「私」というのは、相手があってはじめて、「私」
でありえる。

 世俗的なつきあいをすべて断ち切り、山奥で、ひとりで生活を始めたとしよう。が、何
もしないわけではない。文章を書いたり、絵を描いたりすることもある。何かの工芸物を
作ることもある。

 しかしいくらひとりで生活をしていたとしても、その文章や絵を発表することによって、
他者とのかかわりをもつ。作品を売ることによって、他者とのかかわりをもつ。本気で、
他者とのかかわりを切るつもりなら、そうしたかかわりすらも、やめなければならない。

 たとえばひとり穴の中にこもって、原始人のような生活をする、とか。まったく他人の
目を感じない世界で、だ。

 こういう世界の中で、果たして私たちは、「私」を認識することができるだろうか。もう
少しわかりやすい例では、チャールストン・ヘストンが演じた『猿の惑星』がある。

 あとでわかったことだが、あの映画のモデルになったのは、日本人だそうだ。それはと
もかくも、ある宇宙飛行士が、ある惑星にロケットで不時着する。が、そこは猿の惑星。
が、猿といっても、知能は高く、言葉も話す。

 しかしそこがもし、本当に猿の惑星だったら、どうだろうか。猿といっても、映画の中
に出てくるような猿ではなく、日光の山奥に住む猿のような、本物の猿である。

 あなたははげしい絶望感を覚えるにちがいない。言葉も通じない。気持ちも通じない。
あなたがもっている文化性や道徳性は、猿たちの前では、何一つ、意味をもたない。つま
りいくら「私は私」と思ったところで、その私は、その絶望感の中に、叩き落されてしま
う。

 私が「私」であるためには、他者との良好な人間関係がなければならない。その上で、
はじめて、私は「私」でありえる。これが第三の条件ということになる。

 ほとんどの若い人たちは、それが一つの関門であるかのように、一度は、「自分さがし」
の旅に出る。「私は何か」「自分はどこにいるのか」「私は、何をすべきなのか」と。

 その一助になればと思い、この「私」論を書いた。

(はやし浩司 私論 私とは何か 自分さがし 自分探し 自我 自我の確立 青年期の
悩み 自我の一貫性 自我の連続性 自我の社会性 自我の一致 現実自己 自己概念
 はやし浩司)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【日本のデフォルト】

●個人破産(NPさんのケース)

+++++++++++++++++++

現実の話。
まさに現実の話。

近くに、NP氏(62歳)という人が住んでいる。
若いときには、かなり儲けたらしい。
豪邸と言うにふさわしい、家に住んでいる。
庭は狭いが、白亜の殿堂。
3階建て。

家族は妻と、妻の両親、それに3人の息子と娘。
(息子2人に娘1人。長男と娘は、現在別居中。)
息子は一級建築士として、そこそこの高収入を
得ている。
娘は独身。
もう1人の息子は、現在、休職中。
年齢は、上から36歳(息子)、32歳(娘)、
30歳(息子)。

NPさんは、今でも月額50万円近い収入がある。
ある土建会社の専務をしている。
が、生活が派手。
国産だが高級車を乗り回し、休みごとに
あちこちの温泉に出かけている。
妻がいるが、その妻も浪費家。
毎月の生活費だけでも、月額70万円もかかる。
つまり20万円の赤字。

それには理由がある。
もうすぐ90歳になる両親がいる。
父親は、特養に入居。
母親は、有料の老人ホームに入居。
双方で、月々、20万円ほどの費用がかかる。

そのためNP氏は、毎月20万円を銀行から借りている。
土地や建物が担保。
が、それだけではない。
すでに借金が、9000万円近くもたまっている。
毎月の利子を返却するだけで、たいへん。
が、その利子分は、毎月建築士をしている長男から借りている。
それが月額20万円。

つまり50万円の収入で、90万円の支出。
借金は現在、雪だるま式にふえつつある。
が、NPさんは、こう言っている。
「息子の収入が、毎月70万円もある。
それに土地と家を売れば、何とかなる」と。

で、先月(2010年12月)、年の暮れ、
いつものように銀行へ足を運んだ。
「来月も、20万円ほど、用立ててほしい」と。
借金の申し込みをした。
が、その日は支店長が応対に出た。
いわく、「NPさん、悪いが、これ以上、
お金は貸せない」と。

NP氏は、あわてた。
「それは困る。何とか、貸してくれ」と。
銀行からの融資が止まれば、その先で
待っているのは、自己破産。

ああああ……。

++++++++++++++++++++

●100万円の札束を、わしづかみ

 この話は前にも書いた。
月末になると、郵便局に老人たちがずらりと並ぶ。
足や腰の曲がった老人も多い。
そういう老人たちが、それぞれ100万円の札束を、わしづかみにして帰る。
貯金の限度額は、1000万円。
国債の限度額も、1000万円。
だから現金!

 それぞれの公務員の人たちに責任があるわけではない。
しかしその老人たちこそ、元公務員。
三公社五現業の、元準公務員。
ご存知のように、年金は3か月ごとに支払われる。
それで100万円!

 が、その一方で、たった1万4000円(月額)の子ども手当て。
それがいまだに、国会でもめている。
週刊現代は、「天下の愚策」と評した。
「親がもうけるだけ」と。

 何が愚策で、何がそうでないか、私たちは、もう一度現実をよく見なければならない。
冒頭に書いたNPさんというのは、NIPPON、つまりこの日本のことである。

●国家破綻

 日本の国債の格付けが、またさがった。
私たちにはピンとこない話だが、今、この日本は世界からも、確実に見放され始めている。
が、その先にあるのは、国家破綻。
これは可能性の問題ではない。
時間の問題。

私の個人的意見として、そう書いているのではない。
ウソだと思うなら、書店に並ぶ経済誌を片っ端から読んでみたらよい。
おおかたの経済学者たちは、「ここ1~2年がヤマ」と書いている。

 果たして来年度の国家予算は、組めるのか?
国債は、うまくさばけるのか?
そのどちらかが行き詰ったとき、この日本はデフォルト、つまり債務超過=国家破綻する。

 多くの銀行は倒産し、ついで日本経済は、奈落の底へと叩き落される。
倒産につづく倒産。
もちろん「札」は、紙くずと化す。

今朝の某経済新聞社の予測によれば、1ドル=1000円(現在82円)まで、暴落
する可能性があるという(2011年2月6日)。
当然のことながら、同時にドルも暴落するから、「タクシーの初乗りが、1万円になる」
という話も、けっしてありえない話ではない。
ここ数年のうちに、そうなると考えたほうがよい。

●では、どうするか

 では、どうするか。
これについても大方の経済学者の意見は、一致している。
資産は、「できるだけ現物資産でもて」と。

 何をもって現物資産というかは、よくわからない。
思いつくのは、土地、貴金属、それに外債。
外債にしても、銀行や証券会社がつぶれたら、やっかい。
あの山一証券の倒産のとき、辛酸をなめた人は多いはず。

 が、何よりも心配されるのは、食料。
食料品の大高騰。
どこまで高騰するか、それを予測している経済誌は見当たらない。
が、常識で考えても、それなりの価格になるのは必至。
1か月分の給料で、米が10キロも買えない……。
そうなるかもしれない。

●自己防衛あるのみ

 貨幣価値が10分の1になれば、国の借金も、実質的に10分の1になる。
国の借金を減らす方法としては、それしかない。
が、それを国というより、官僚たちが目ろんでいるとしたら、おおまちがい。
許せない。
とんでもない背信行為。

また現在、多額の借金をかかえている人には、一時的には朗報ということになる。
が、それを喜んではいけない。
そのあと、その何十倍もの生活苦が、津波のように襲ってくる。
もともと資産のない人たちだから、病気や事故で倒れたら、万事休す。

 また韓国紙は、連日、日本のデフォルトを心待ちにしているような記事を並べている。
が、その影響は、当然、韓国にも及ぶ。
何といっても、経済規模がちがう。
日本が風邪を引けば、韓国は肺炎になる。
日本が倒れれば、韓国は死ぬ。
そういう現実が、まるでわかっていない。
わかりやすく言えば、日本は韓国なしでも生きていかれる。
が、韓国は、日本なしでは生きていかれない。

 ともかくも、私たちの生命と財産は、私たち自身で守る。
その時期は、刻一刻と近づきつつある。

●あとがき

 結局は、政治の責任ということになる。
が、そういう政治を許してきた、私たちの責任ということになる。
私たち自身も、何も変えようとしなかった。
「明日がある」「何とかなる」と、その場しのぎを繰り返してきた。
その結果が、今。
行政改革、つまり官僚制度の是正が叫ばれるようになって、すでに30年以上が過ぎた。
が、何も変わらなかった。

官僚たちは、失われた20年を横目に、今の今も、我が世の春を謳歌している。
満額の給料に、満額の退職金。
満額の年金に、至れり尽くせりの社会保障。

 ただ悪いことばかりではない。
仮に1ドル=1000円になれば、日本人は、再び働き始める。
歯を食いしばって、がんばり始める。
戦後のあの時代のように。
あるいは団塊の世代が働いた、あの高度成長期のように。
輸出産業も、息を吹き返す。……はず。

 そのための布石だけは、今、しかりとしておかねばならない。
国家が破綻しても、知的産業の流出だけは、防がねばならない。
基幹産業だけは、守りぬかねばならない。

 ……それでも最初に息を吹き返すのは、公務員ということになるのか。
日本という国は、奈良時代の昔から、官僚主義国家。
つぎの時代にも、やはりそうなるのか。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●欲望の奴隷たち(日本相撲協会)

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日本相撲協会が、揺れに揺れている。
おとといの新聞では、こんな記事もあった。
アンケート調査に対して、「親方が部屋の力士たちに、
みんな『なかった』に○をつけろ」と指示した」(中日新聞)と。
そういう部屋もあったという。
つまり「八百長があったかどうか」という
アンケート調査に対して、「なかった」に○をつけろ、と。
親方が部屋の力士に、それを指示したという。

さらに昨日の報道によれば、疑惑の渦中に
ある力士の中には、「携帯電話を壊してしまった」
「紛失してしまった」と答えた人もいたという
(同、中日新聞)。

が、韓国の報道によれば、読売新聞発として、
「さらに5人が、八百長相撲をしていた」とか。

が、何よりも忘れてならないのは、
我々が怒っているという事実。
春場所の中止くらいではすまない。

今までもそのつど八百長相撲がうわさされたことは、
何度かある。
が、そのつど日本相撲協会は、「事実無根」と、
反発してきた。
それを指摘した週刊誌を逆告発したこともある。

その日本相撲協会。
うみを出したら、皮しか残らない。
公益法人の取り消しは当然。
春場所の中止は、これまた当然。

……というのも、今回の一連の八百長相撲事件を
通して真っ先に思い出すのが、あの拉致事件。
北朝鮮による拉致事件は、あった。
にもかかわらずそれまで、北朝鮮は、それを
指摘されると、「知らぬ、存ぜぬ」を繰り返していた。
ときには会議の担当者が激昂(げっこう)し、机まで
叩いてみせたという。
たいていそのまま会議は中断。

日本相撲協会……人間の醜さ、ここに極まれり。
その裏では、億単位の現金が乱舞している。

八百長相撲は、日常的になされていた。
メールのやり取りを読んだだけでも、それがわかる。
言い慣れた書き方。
やり慣れた、取り組みの仕方。
だれも一部の力士による、今回だけの事件とは、
思っていない。

日本相撲協会は、「3人以外、関与否定」(中日新聞・
2011・2・6)という大見出しをトップに
かかげた。
証拠をつきつけられた範囲内でしか、罪を認めない?
こんなやり方で、国民が納得するはずがない。
我々の怒りのボルテージは、ますます上昇している。

+++++++++++++++++++++++++

●興業

 興業なら興業と割り切ればよい。
金儲けが目的。
プロレスがそうである。

 そこで素朴な疑問。
プロレスと相撲は、どこがどうちがうというのか。
「伝統的国技」とはいうものの、中身は同じ。
もちろん、「相撲を廃止しろ」と書いているのではない。
伝統的国技であることには、ちがいない。
それなりの保護や助成は、必要。
しかしそれにも「限度」がある。

たとえばNHKと日本相撲協会とは、太いパイプでつながれている。
その「場所」になると、NHK(BS)は、午後1時前後から、6時過ぎまで
実況中継している。
そのあとの定時のニュースでも、勝敗を紹介している。
が、常識で考えても、そこまでする必要があるのか。
明らかに「限度」を超えている。

●欲望

 現在の日本相撲協会を、報道という窓を通してその外から見ていると、
「欲望とは何か」。
そこまで考えてしまう。

 まったく話が変わるが、たまたま昨日も、どこかの小学校教師が、盗撮し、
逮捕された。
教室のあちこちに隠しカメラを設置し、女児の脱ぎ着を盗撮していたという。

「どうして?」……、つまり「どうしてそんなことをするのか?」というより、
「どうしてこういう事件が繰り返されるのか」ということ。
10年ほど前、この浜松市の高校でも、あった。
女子の更衣室にやはり隠しカメラを置き、女子生徒の脱ぎ着を盗撮していた。

学校の教師なら、こういう事件を、近くで見聞きしているはず。
どんな罪になるかも、知っているはず。
が、それでもその欲望を、抑えることができない。
つまりそれが「欲望の力」ということになる。
言い換えると、欲望の力には、ものすごいものがある。

+++++++++++++++++

昨年(2009年9月)に、こんな
原稿を書いた。

+++++++++++++++++

●欲望vs理性

++++++++++++++++++++

昨夜遅く、近くにオープンした靴屋へ行ってきた。
開店初日には、何百台という車が並んだ。
西日本第一の規模を誇るという。
超大型店。
……それから1週間。
やっと楽に入店できるようになった。
で、オープンセールということもあった。
ふつうなら8000~1万円もするような靴が、
(本当のところ、私には靴の値段はわからないが)、
2500~3000円で売られていた。
私が1足、ワイフが1足、買った。
2足で、4800円!

++++++++++++++++++++

●生きる原動力

 生きているだけでも、すばらしいこと。
ものが見える、ものが聞こえる、話ができる……。
そういう視点に立てば、あらゆる問題が解決する。

 が、ただ生きているだけでは、人間は満足できない。
視床下部から脳全体に、常にシグナルが送られる。
そのシグナルに応じて、もろもろのホルモンが分泌される。
そのひとつにドーパミンがある。
人間の快楽と欲望を司る脳内ホルモンである。
それが人間が生きる原動力となる。
それをフロイトは「性的エネルギー」と呼んだ。
ユングは「生的エネルギー」と呼んだ。
(これは私の勝手な解釈によるもの。)

●理性vs欲望

 しかし脳内ホルモンの命令するままに行動していたら、たいへんなことになる。
人間のもつ欲望には、際限がない。
しかもドロドロと薄汚い。
そこでそれをコントロールするのが、理性、つまり前頭連合野ということになる。

 もし善と悪を大脳生理学的に考えるなら、前頭連合野が司る理性が、善、
ドーパミンに支配される欲望の世界が、悪ということになる。
が、前頭連合野の力には限界がある。
欲望の力のほうがはるかに強力。
パワーフル。
大学の教授だって、手鏡で女性のスカートの下をのぞく。
それもそのはず。
欲望は、「生きる力」そのものと直結している。
食欲にしても性欲にしても、また物欲、権力欲にしても、「生きる力」を土台にして
生まれる。
善と悪は、そういう点でも平等ではない。

●メカニズム

 では、理性に勝ち目はないかというと、そうとも言い切れない。
ここに書いたようなメカニズム、(あくまでも私が考えたメカニズムだが)、それが
わかるだけでも、そこに「敵」が見えてくる。
まずいのは、欲望に操られるまま、操られていると気がつかないで、行動すること。
欲望の奴隷になること。

 が、こうしたメカニズムがわかってくると、自分自身を一歩退いたところから、
客観的に見つめることができるようになる。
たとえば食欲にしても、「食べなければ損なのか。食べたら損(そこ)ねるのか」と。
自分で自分の食欲をコントロールすることができるようになる。
食べ放題の店とか、ホテルのバイキング料理とかへ行くと、そういう経験をよくする。
そういうところで、欲望の命令するまま食物を口に入れていたら、あっという間に、
体をこわす。

 ……といっても、そんなことでも簡単なことではない。
私などどこかの旅館やホテルで一泊するたびに、2~3キロも体重がふえてしまう。
で、そのあとあわててダイエット。
その繰り返し。

●靴屋で……

 同じような現象を、昨夜、靴屋でも経験した。
安い。
確かに安い。
値段を見ているうちに、「買わなければ損」という欲望が、猛烈にわいてきた。
実際、近くを見ると買い物かごに、3~6足も靴を入れて歩いている人がいた。
子連れだったが、10足近く、まとめて買っている夫婦もいた。

 が、それにブレーキをかけたのは、ほかならぬ理性だった。
(持ちあわせが少なかったこともあるが……。ハハハ。)
「靴などというものは、1足を大切にはく。それがはけなくなったら、また買う」と。
たとえば6足を3年ではくとすると、1年に2足となる。
しかし1足を1年はけば、結局は、半額ということになる。
それがわかったとき、「オール20%引き」という文字が、かなり色あせて見えた。

 つまりこうして自分の欲望にそのつどブレーキをかけていく。
そういう習慣を身につける。
それが積み重なって、理性の力で欲望をコントロールすることができるようになる。
平たくいえば、欲望をコントロールできるかできないかは、能力の問題ではなく、
習慣の問題ということ。
習慣の中で、理性の力を養っていく。

 ……今朝は、そんなことを発見した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 欲望 理性 生的エネルギー 欲望をコントロール)

●欲望

 欲望をコントロールするのは、むずかしい。
たいへんむずかしい。
個人の力では、(もちろん個人差もあるが)、不可能とさえ考えてよい。

 では、どうするか?

 私は「システム」の問題と考えている。
たとえば日本相撲協会。
たとえば学校制度。
政治にしても、そうだ。

 欲望の追求がすべて「悪」ということではない。
しかしそこにブレーキをかけるのが、システムということになる。
平たく言えば、できるだけ多くの人たちの目を通して、個人の欲望を監視する。
厳罰主義でもよい。

 たとえばオーストラリアでは、18歳未満の女子との性的な関係は、きびしく
禁止されている。
見聞きし、それを届けなかっただけでも、罪に問われる。
日本風に言えば、「不作為罪」ということになる。

 相撲について言えば、「八百長」という言葉そのものが、相撲の世界から生まれている。
明治の昔から、八百長相撲は、常識だったと考えてよい。
だったら、相撲というのは、もともとそういうものとして、見ればよい。
プロレスを例にあげるまでもない。
が、それでもだめだというのなら、万人が等しく参加できる「スポーツ」にすればよい。
サッカーや野球を例にあげるまでもない。

 日本相撲協会は、「国技」を隠れ蓑に、あまりにも好き勝手なことをしすぎた。
欲望を追求しすぎた。
「うみ」が、たまり過ぎた。
それが今、一気に外に噴き出した。

 日本相撲協会の「土下座」だけを見て、それで終わらせてはいけない。


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