2012年5月31日木曜日

Japanese in Japan

【日本企業は、留学経験者を避ける】はやし浩司 2012ー05-31

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

韓国の朝鮮日報は、こんな記事を紹介している。
「日本企業は、留学経験者を嫌う」と。
アメリカのニューヨーク・タイムズ紙をベースにした記事である。
鋭いというか、アメリカ人でも、日本をここまで正確に分析している!
2012/05/31

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●休息を求めて疲れる

 たいへん興味深い内容である。
というのも、私自身が、それを経験している。
日本企業が求める社員と、留学経験者との間には、大きな壁がある。
朝鮮日報はそれを指摘し、「このままでは、日本は国際競争で立ち遅れてしまう」と結んでいる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

++++++++++以下、朝鮮日報紙の記事+++++++++++

●留学経験者の採用を避ける日本企業

 米国の大学に在学している韓国人留学生は昨年基準で7万3350人、日本人留学生は2万1290人だった。
日本は韓国の2.5倍の人口を抱えているが、米国の留学生数は3分の1に満たない。
日本では外国の大学出身者の就職が難しく、学生たちが留学したがらないためだ。

 米紙ニューヨーク・タイムズは29日付で、日本の企業は依然として留学経験者の採用を避けている、と報じた。
日本の企業には、組織に忠実で、組織から浮かない人材が適しており、外国の大学の出身者は合わないという考え方が根付いていることが、その理由だという。
グローバルな人材を採用しない傾向は、グローバルマインドが求められる金融・文化・サービスなどの業界で、日本が苦戦している状況と無関係ではない、と同紙は伝えている。

 同紙によると、日本企業は「外国の大学の卒業生は他人に勝とうという気持ちが強すぎ、同僚たちとうまく付き合えず、離職率が高い」と信じ込んでいるという。
東京三菱銀行の人事部関係者は「私たちが求める新入社員は、会社に長く尽くし、一貫性を持って働ける人。
短期的な利益ばかりを求める人は望まない」と語った。
同行が1年間に採用する社員1200人のうち、外国の大学の卒業生は20人にも満たない。
日本企業の人事担当者1000人を対象にしたアンケートでも、外国の大学の卒業生を採用する意向があると答えた担当者は25%以下だった。

 日本企業はまた、留学経験者が上下関係の厳しい日本の組織文化にそぐわないという偏見も持っている。
英国のオックスフォード大学を卒業したある留学生は、日本企業の面接にはきはきした態度で臨んだところ、面接官から「どうしてそんなにはきはきしているのか」ととがめられた。
また、米エール大学出身の留学生は、日本企業でインターンシップをしていたとき、上司の前で腕組みをしたとの理由で注意された。
留学生たちは「日本がグローバル人材を受け入れる準備ができているのか、疑わしい」と口をそろえる。

 こうした状況のため、就職活動中の大学生の中には、留学や語学研修経験をアピールすべきかどうか悩む人もいる。
米国で1年間語学研修を受けたある学生は「英語力を自慢すれば、面接官にうぬぼれていると思われるため、つらい外国生活をどう乗り切ったのかに焦点を当てて紹介した」と話した。
日本のある教育委員会の委員は、日本が留学生を「家を出た子ども」のように見なしているとし、「このままでは、日本は国際競争で立ち遅れてしまう」と危機感を募らせた。

++++++++++以上、朝鮮日報紙の記事+++++++++++

●企業型人間

 この記事を裏から読むと、こうなる。
日本企業が求める社員像というのは……

(1)他人に勝とうという気持ちが弱い人。
(2)同僚たちとうまく付きあえる人。
(3)会社に長く尽くし、一貫性を持って働ける人。
(4)短期的な利益ばかりを求めない人。
(5)はきはきせず、あいまいな返事をする人。
(6)腕組みをしたりして話さない人。
(7)英語が話せるなどと、うぬぼれた様子を見せない人。

●ポケット

 若いころ、某テレビ局の某番組に出たことがある。
そこで本番直前、ディレクターから、いきなりこう注意された。
「ポケットから手を出せ」と。
私は片手を、ズボンのポケットに手を入れていた。
無意識下の行為である。

 が、当時も今も、欧米人の多くは、ポケットに手を入れて話す。
大学の教授でも、ポケットに手を入れて話す。
何でもない行為である。
が、「それはまずい!」と。

 ここに書いた、(6)「腕組みをしたりして話さない人」というのは、それをいう。
マナーの問題というより、バカげている。
つまりそんなことを問題にすること自体、バカげている。
が、この日本では、問題?

●和をもって、貴しとなす

 要するに集団の中で、静かに、おとなしく、『和をもって、貴(とうとし)しとなす』式に仕事をする人のほうが、好ましい、と。
そういうこと。

 が、これは日本の基準であって、世界の基準ではない。
つまりこれだけグローバル化が叫ばれながら、しかも戦後65年にもなろうとしているのに、日本の社会は、ほとんど変わっていない。
私はこの記事を読んだとき、「1970代の話か」と思った。
1970年代には、たしかにそうだった。

 言い換えると、私たち日本人の体質には、骨のズイまで、封建主義思想が刷り込まれている。
「私はちがう」と思っている人にしても、そうだ。
そう思っているのは、あなただけ。
We are Japanese!

●変わった男

 こうして日本人は日本人に作られ、企業戦士となり、企業で一生を終える。
それがどういう人間かは、その人にはわからないだろう。
少し前、大学の同窓会に出たときのこと。
あとでYOUTUBEを再生してみて気がついたが、だれか※が私にこう言った。

「林(=私)は、昔から変わった男だと思っていたが、今でも変わらんな」と。

 興味のある人は、つぎのYOUTUBEを見てほしい。
前半部(2分57秒部)に、その声が入っている。

http://youtu.be/1iAyFSKXeqI



しかし本当に変わっているのは、どちらなのか?
……といっても、日本的な基準から見れば、私はたしかに変わっている。
自分でもそれはよくわかっている。
その友人は、それを指摘した。

●名刺
 
 今でもそうだ。
この日本では、どこかの組織に属していないと、とかく生きにくい。
相手も安心しない。
こちらも居心地が悪い。

 私が名刺を渡すと、みな、かならずと言ってよいほど、裏まで見る。
表には、「はやし浩司」と住所しか書いてない。
裏は、もちろん白紙。
つづいて、みな、一瞬、けげんそうな表情を浮かべる。

 これが日本。
私たちの国、日本。
しかし「このままでは、日本は国際競争で立ち遅れてしまう」。
(すでに、そうなりつつあるが……。)

●その結果

 皮肉なことに、その結果が、60代になると、はっきりとわかるようになる。
退職後も、退職前の会社を大切にしている人は多い。
退職前の肩書きや地位を引きずっている人も多い。
が、この(こだわり)こそが、問題。

……と私は思うが、そうでない人には、そうでない。
意識というのはそういうもの。
相対的なもの。
私のほうが、問題ということになる。

 が、私は率直にこう思う。
「みんな、会社という組織のために、犠牲になった人たちだな」と。
一度しかない人生を、会社という組織を守るために、棒に振ってしまった。
……というのは、書き過ぎかもしれないが、事実は事実。
「自分のために、自分で生きる」という原点そのものが、最初から、ない。
気がついてみたら、自分の人生は終わっていた(?)。

 ……昔書いた、『休息を求めて疲れる』という原稿を思い出した。
それを探してみる。
休息を求め、私たちは働きつづけてきたが、やっと休息を手に入れたと思ったとたん、人生は終わっていた……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

休息を求めて疲れる

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「休息を求めて疲れる」。

 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言でもある。
「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできなくなる」という意味である。
「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。

 ところでこんな人がいる。
もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八八か所を巡礼をしてみたい、と。
そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。
「ならば、なぜ今、しないのか?」と。

私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかった。
名誉や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味があるというのか。
私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。
これが原点だ。

だから○○部長の名前で稼いだ100万円も、幼稚園の講師で稼いだ100万円も、100万円は100万円。
問題は、そのお金でどう生きるか、だ。
サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組織に、義理立てをしなければならないのか。

未来のためにいつも「今」を犠牲にする。
そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分の時間をつかめない。
たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。

幼稚園は小学校の入学のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学は就職のため……と。社会へ出てからも、そうだ。
子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを途中で変えることはできない。
いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終わる。

 あえて言えば、私にもこんな経験がある。

学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試験が終わったら、ひとりで映画を見に行こう」と。
しかし実際そのテストが終わると、その気力も消えてしまった。
どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望が生まれるものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。

先の「四国八八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをしたら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。
私の経験では、多分、その人は四国八八か所めぐりはしないと思う。
退職したとたん、その気力は消えうせる……?

 大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。
「今」というときをいかに充実させるか、だ。
明日という結果は明日になればやってくる。
そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけはしてはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司



 だからといって、どちらが正しいとか、そうでないとか、そういうことを書いているのではない。
人、それぞれ。
企業戦士になりながらも、自分をしっかりともっている人もいる。
私のようにフリーになっても、失敗に失敗を重ね、貧乏のどん底を這っている人もいる。

 が、どうであれ、日本も変わらなければならない。
変わって、世界の標準に自らを合わせなければならない。
が、その前に一度、あの封建時代を、精算しなければならない。
それをしないかぎり、つまりいつまでもNHKの大河ドラマばかり見ていたのでは、日本には明日はない。

 このニュース記事を読んだとき、そう感じた。

(注※)「だれか」……大手I商社で、定年まで勤めた友人

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 NHK 大河ドラマ はやし浩司 休息を求めて疲れる 日本人像 日本企業が求める日本人像)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

Adolescence

【思春期vs発情期】(子どもの心を知るために)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

英語で「思春期」は、「adolescence」という。
「adolescnence」は、もともとは、「若々しさ」「発展期」という意味。

一方、日本語の「思春期」は、「ものを思う春」という意味。
が、私は最近、この「思春期」という言い方に、疑問を持ち始めている。
たしかにそういう部分がないわけではない。
多情多感。
感情の動きもはげしく、反応も速い。
好奇心も旺盛で、同時に自分の人生を見つめ始める。
そのつど悩み、苦しみ、そして「ものを思う」。

しかしその実態は、「発情」。
発情期。
発情し、本能と理性のはざまで、葛藤する。
人間は、他の動物のように、本能のまま考え、行動することができない。
いつも目の前に、大きな壁が立ちはだかる。
それが思春期ということになる。
つまり「ものを思う」というのは、あくまでも副次的なこと。
「本能」があり、それが「発情し」、理性とのはざまで、「思い悩む」。

そう解釈すると、あの思春期を、より正確に理解できる。
子どもたちの心理を、より性格に理解できる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●記憶喪失

 近く、こんな映画が、公開される。
予告編だけしか見ていないので、内容は正確ではない。
題名は忘れた。
(題名は重要ではない。)

 2人の若い男女が恋愛関係にある。
(婚約もしくは、すでに結婚していたかもしれない。)
女性は結婚指輪をしていた。
が、女性のほうが何かの事故にあい、記憶喪失状態になる。
同時に、男への愛を失う。

 男の方は女の愛を取り戻そうと、懸命に努力する。
女のほうも、努力する。
「たがいに奇跡を信じて……」と。

 実話をベースにしているらしい。
またこの種の話は、ときどき耳にする。
人は記憶喪失によって、記憶のみならず、ここに書いたように、相手への「愛」を失うこともある。

●絶対的な愛?

 ここで最初の疑問にぶつかる。

 よく若い人たちは、(もちろん私たちも若いころは、そうだったが)、たがいに好きになると、永遠の愛を誓ったりする。
「愛している」と。

が、この愛は、キリスト教で説く「愛」とは、まったく異質のもの。
あえて言えば、「性的欲望」をカモフラージュするためのものでしかない。
あるいは性的欲望の代名詞と考えてよい。
その一例が、先に書いた、記憶喪失とともに、相手への愛を失った女性である。
 
 もし、愛が絶対的なものであれば、つまり永遠の愛を誓うにふさわしいものであれば、消えるということは、ないはず。
仮に消えても、再び顔を合わせれば、同じ思考回路を経て、脳内で同じような愛が生まれてくるはず。

 ……少しわかりにくくなってきたので、もう少しわかりやすく説明する。

●ワイフの疑問

 結論から先に言えば、男と女が感ずる「愛」ほど、いいかげんなものはないということ。
たとえばワイフは、こんなことを言う。

 ワイフは市内の女子高校(当時)の出身である。
1クラス50名ほどいたという。
その友だちを見ながら、ワイフは高校時代にこう思ったという。

「本当にこの人たちは、みな、それぞれがそれぞれの相手を見つけ、結婚するのだろうか」と。

 で、それから十年……。
それぞれの人は、それぞれの人を見つけ、結婚していった。
ワイフは、「それが不思議でならない」と。

 性格も悪い。
容姿も悪い。
そんな友だちでも、ちゃんと相手を見つけ、結婚し、子どもをもうけた、と。

●愛の柔軟性

 となると、「愛」というのは、絶対的なものではないということになる。
もし絶対的なものなら、10人の男と10人の女がいれば、そのうち結婚できるのは、1組か2組、あるいはせいぜい、3、4組?

 が、現実には、(もちろん独身を求める人もいるが)、10組のカップルが生まれる。
つまり(相手を求めて選ぶのではなく)、(身近にいる人の中から、1人を選び、自分をその人に合わせていく)。
その過程で、「愛」という言葉が使われる。

 わかりやすく言えば、手の届かない高嶺の花よりも、身近にいる道ばたの花(失礼!)。
その花に自分を合わせていく。
もっとわかりやすく言えば、「だれでもいい。近くにいれば」と。
そういう意味では、ここでいう「愛」は、柔軟性に富んでいる。

●絶対?

 こう考えていくと、「絶対的な愛」など、もとから存在しない。
身近な人の中から、男も女も、最大限、自分にふさわしい相手を選んでいく。
結婚していく。
「その人が絶対!」というのは、その場かぎり。
そのときはそう思う。
しかし「絶対!」というのは、ありえない。
たまたまもっと(いい人?)が現われ、自分の手の届くところに入ってきたら、今度はその人と恋愛関係に陥るかもしれない。

(現実に、そういう人がいる。
私の身近にいる知人の男性である。
自分の結婚式にやってきた別の女性に、一目惚れ。
結婚式をその場で、ドタキャンし、その人は、その一目惚れした人と、結婚した。
これは本当の話だぞ。)

 「絶対」と思うのは、あくまでもその人は知る人の範囲で、という意味である。
このことは、たとえば同窓会などに出てみると、よくわかる。
あるいは若いころ、交際していた人と出会うと、よくわかる。

 ときどきこう思う。
「私は、この人(女性)を、一時は死ぬほど好きだったはずなのだが、どうしてこんな人を好きになったのだろう?」と。

●恋愛の賞味期限

 だからというわけでもないが、記憶喪失とともに、相手への愛を失ってしまう人がういても、何も不思議なことではない。
先にも書いたように、ここでいう「愛」には、それなりの柔軟性がある。
「Aさんがだめなら、Bさんで。Bさんもだめなら、Cさんで……」と。

 大切なのは、入り口ではなく、そのあと、2人で、どういう人生を組みたてていくかということ。
前にもどこかで書いたように、恋愛感情などというものは、脳内ホルモンの作用によって、生まれる。
どこかでフィーリングが一致すると、フェニルエチルアミンというホルモンが、脳内に充満する。
これを「フェニルエチルアミン効果」という。
その人は、空を飛ぶような甘い陶酔感に襲われる。

が、その脳内ホルモンにも、賞味期限がある。
長くて2年~数年と言われている。
恋愛を何度も経験した人なら、その期間は、もっと短くなるかもしれない。

 そのときほとんどの男女は、結婚へとゴールインするが、もちろん「ゴール」ではない。
「スタートライン」。
そのときから2人で、無数のドラマを経験し、夫婦としての愛を深めていく。
そういう意味では、「愛」というのは、静かなもの。
音もなく、静かに流れていく。

 が、それについても、すでに何度も書いてきたので、ここでは、もう一度、原点に立ち返って「愛」とは何か、考えてみたい。

●恋話(こいばな)

 今まで私たちは、「思春期」という言葉に、だまされてきた。
「思春期の最大のテーマは、自我の同一性(エリクソン)の問題です」などと、講演などで話してきた。
しかし今どき、静かに自分の人生を考えている中学生や高校生など、ほとんどいない。
享楽的で刹那的。
場当たり的な人間関係の中で、右往左往している。

で、中身といえば、「発情期」。
またそう考えたほうが、わかりやすい。
そのことは、ファーストフード店にたむろする、若い男女を観察してみれば、よくわかる。
(思い)を語りあっている若い男女は、まずいない。
人生論を語りあっている男女は、さらにいない。
100%と言ってよいほど、中身は、「恋話(こいばな)」。

 そういった話が、つぎからつぎへと出てくる。
が、若い人を笑ってはいけない。

●入り口を入ったら出口

 60歳を過ぎた同窓会(中学&高校)でも、結局はその類の話に、花が咲く。
60歳を過ぎても、同窓生に会った瞬間から、中学時代、高校時代へと、心がタイムスリップする。
その間に、40年以上もの時間的空間があるはずなのに、それがつながってしまう。
入り口と出口がつながってしまう。
入り口を入ったら、そのまま出口。
で、話すことといえば、「恋話」。
昔のままの「恋話」。

 ……同窓会には、大学も含めると、もう30~40回は出ているかもしれない。
しかし、ゆっくり話しあう時間がないこともあるが、いまだかって、人生論をしみじみと語りあったことがない。
本来ならそういう話をしたいのだが、またそういう話になっておかしくないのだが、そういう話にはならない。

 バカ話とバカ笑い。
(それが悪いと書いているのではない。誤解のないように!)
それで終わってしまう。

●結論

 要するに「思春期」と構えるから、話がむずかしくなる。
しかし「発情期」とすれば、わかりやすい。
子どもたちの心理も、ぐんと理解しやすくなる。

 ごちゃごちゃと書いてきたが、私は、これからはそうする。
思春期前夜は、発情期前夜。
思春期は、発情期。
それでよい。

●ぼたんインコの発情期

 たまたまぼたんインコを飼い始めて1か月になる。
まだ幼鳥に近いが、この先、発情期が来ると、何かと飼いにくくなるという。
「ぼたんインコの飼い方」という本には、そう書いてある。
問題点も書いてある。

 たとえば背中をさすってはいけない……発情を誘発する。
巣箱は用意しないほうがよい……発情を誘発する。
発情期になったら、放鳥に注意する……逃げていってしまう、などなど。

 だったら人間の子どもについても、同じように考えればよい。

「発情期になったら……」と。

 刺激のある写真やDVDは、近くに置いてはおけない……発情を誘発する。
お金で欲望を満足させることを教えてはいけない……発情を誘発する。
発情期になったら、外出、外泊、家出に注意する……妊娠の危険性が高くなる。

 が、どういうわけか、そういう発想で、子どもの思春期を説いた本に、出会ったことがない。
どうしてだろう?

 たとえば私のことだが、高校2年生のとき、岐阜市にある県立図書館で、女体の解剖図を見ただけで、興奮してしまったことがある。
外人相手の観光ガイドをしていたときのこと。
その娘を見ただけで、道を歩けなくなってしまったことがある。
その娘は、高校生だったが、今で言うタンクトップなる服を着ていた。
胸元が大きく開いていた。
当時の日本人で、そんな服を着ている女の子は、いなかった。

 こうした現象は、個人によってみなちがう。
が、その底流は、同じ。
「発情」。
「愛」などという言葉などは、それをカモフラージュするための、方便にすぎない。
つまり、「愛」とは、ただの言葉の飾り。
「ぼくは君を愛している」などと、回りくどいことは言わず、「ぼくは君と性KOUしたい」と言えばよい。(KOUは、「交」のこと。BLOG禁止用語に抵触するので、こう書く。)
そのほうが、ずっとわかりやすい。
それが結論。

 今度ヒマがあったら、「発情期の子どもの心理」というテーマで、ものを書いてみたい。
そのほうが、繰り返しになるが、ずっとわかりやすい。

 さて、みなさんの子どもは、どうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 発情期 思春期 発情期前夜 発情期の子どもの心理 はやし浩司 愛の絶対性 柔軟性)
2012/05/30


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

2012年5月30日水曜日

菅直人さん、吉田昌郎さん、あなたがたは日本の恩人です。

【菅直人前首相、吉田昌郎前所長、ありがとう!
あなたは日本を救った大恩人だ!】byはやし浩司
2012/05/30記

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

つぎの事実を知ったら、あなたも背筋が凍るだろう。
まず、それを知ってから、菅直人前首相を批判したらよい。
もしあのとき、あの場で、菅直人前首相が、あのような行動を取っていなければ……。
今ごろ、この日本は、完全に崩壊していた。
北は青森の端から、南は静岡県まで、人の住めない無人地帯になっていた。

ヘリコプター視察?
怒声?
それがどうした?
そんなことは、この事実の前では、腸から出るガス程度の意味しかない。

参考出典は、『原発事故』(宝島社)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原子力発電所事故

 原子力発電所が、いかに危険な存在であるかは、つぎの事実を知ればわかる。
『原発事故』(宝島社)から、それについて書いた部分を、抜粋する。

 100万キロワット(福島第一原発の原子炉1機分のみ)の加圧水型軽水炉(PWR)が事故を起こしたとする。
そのとき内蔵する核分裂精製物の量は、11577京ベクレル。
うち20%が放出されたとして、2290京ベクレル。
とほうもない量である。

 電気出力100万キロワットの原発を、数年運転すると、1万3600京ベクレルの放射性物質が生まれる。
「その量は、広島型原爆の数千発分に相当する」(瀬尾試算「原発事故」宝島社)

 数千発分だぞ!
わかるか、数千発分だぞ!
それが4機で、1万発分以上だぞ(福島第一原発)!
あの4号機だけで、それまでの核実験すべてで放出された量を超える放射性物質を抱えている※。

(注※)(週刊朝日誌より)
『 アーニー・ガンダーセンは、週刊朝日誌へのインタビューで、こう述べている。

『……(アーニー・ガンダーセンの)著書では、「4号機のプールで火災が起きたら、日本を脱出せよ」と警告していますね。
(ガンダーセン、アメリカ原子力技術者)「4号機の核燃料プールは、今も日本列島を物理的に分断するほどの力をもっています。
震災時、このプールには炉心数個分もの使用済み核燃料が入っていたのです。
大気圏内で行われた過去の核実験で放出された総量に匹敵するほどの、放射性セシウムが眠っています』(以上、週刊朝日誌より)と。

 4号機の事故は、日本だけの問題ではない。
また日本だけの問題ではすまない。
だから今、世界中の科学者たちが、4号機を問題にしている』(以上、週刊朝日)と。

 こうした事実を信ずるか信じないかは、あなたの自由。
仮に100歩譲って、その100分の1の量としても、たいへんな量である。
だから先のガンダーセンは、「4号機に注意しろ」「4号機が火災を起こしたら、日本から逃げろ」と教えている(同誌)。

●読売新聞の記事より

 これに対して、読売新聞は、つぎのように伝える。
産経新聞と並んで、日本の右寄り(=自民党寄り)新聞社として、今まで原発推進運動の先頭に立ってきた新聞社である。

++++++++以下、(2012年5月29日08時20分 読売新聞)++++++++

●菅氏の危機意識「薄っぺら」……地元首長深く失望

★原発周辺自治体の首長や避難住民らを深く失望させる発言ばかりだった。

 東京電力福島第一原発事故から1年2か月余、国会事故調による菅直人前首相の参考人聴取が28日にようやく実現したが、ある町長は、最高指揮官が示した危機意識を「薄っぺら」と痛烈に批判した。

 全域が警戒区域と計画的避難区域となっている福島県浪江町のBT町長は、菅前首相が福島第一原発をヘリコプターで視察した成果を強調したことに対し、「事故全体を大局的に見るべき立場の責任者としてふさわしくない」と批判。
原子力緊急事態宣言の発令が遅れたことを結果的に支障はなかった、とした点については、「薄っぺらな危機管理しかしていなかったことの表れ。
本当に支障はなかったのか」と憤った。

 大半が警戒区域に指定された楢葉町のMH町長は、「原発事故に対応するための管理態勢がなっていなかったのだと改めて感じた」と話した。
(2012年5月29日08時20分 読売新聞)

++++++++以上、(2012年5月29日08時20分 読売新聞)++++++++

●菅直人前首相への批判の要点

 周辺自治体の首長たちの言わんとしていることは、つぎ(読売新聞)。

(1)菅前首相が福島第一原発をヘリコプターで視察した成果を強調したことに対し、「事故全体を大局的に見るべき立場の責任者としてふさわしくない」と批判。

(2)原子力緊急事態宣言の発令が遅れたことを結果的に支障はなかった、とした点については、「薄っぺらな危機管理しかしていなかったことの表れ。

(3)大半が警戒区域に指定された楢葉町の松本幸英町長は、「原発事故に対応するための管理態勢がなっていなかったのだと改めて感じた」と話した(以上、読売新聞)。

 が、どう読んでも、ポイントがズレている。
その第一。
何か問題が起きるたびに、「国が……」「国が……」と。
私はこういう意見を聞くたびに、即座にこう思う。
「では、あなた自身はどうなのか」と。
「首長としてのあなたの責任は、どうなのか」と。
「(すべて)を国(?)に任せてきた、あなた自身には、責任はないのか」と。

 それまで原発誘致に熱心だった首長もいたという話も聞いた。
(ここに書いた首長がそうだったというのではない。誤解のないように!)
そういう首長が、事故が起こったとたん、「国が……」と。
この身勝手!

 私なら、(かなり多くの人たちもそうしたと聞いているが)、即座にその場から避難する。
国(?)の指示があっても、なくても、関係ない。
たとえ国(?)が「落ち着いて行動してください」と言っても、その場から避難する。
事実、私はテレビで状況を見ながら、この浜松からでさえ、避難する準備を始めていた。
(直線距離にして、420キロ離れた、浜松市からだぞ!)
その直後、オーストラリアへ渡った。
(オーストラリアへ行くことは、3・11震災以前から、決めていたが……。)
事実、名古屋からシンガポールへの便は、満席だった。

 「国の指示がなかったから、避難しなかった」というのは、首長としては、言い逃れにしか聞こえない。
原発が、いかに危険な存在であるかは、少し勉強すれば、だれにだってわかること。
それを知らなかった……とは?
原子力発電所を抱えるその町の首長が、知らなかったとは?

●ヘリコプター視察

 ヘリコプター視察?
どうしてそれが問題なのか?

 原発事故の恐ろしさを熟知していたからこそ、菅直人前首相は、現地へ飛んだ。
菅直人前首相は、東工大の出身である。
「私が首相だったら……」という言い方は、実におこがましいが、私が首相だったら、真っ先に現地へ飛んだだろう。
何はさておき、原発事故を防ぐことを考えただろう。

 当時の状況は、いろいろな報道を総合すると、こういうことらしい。
官邸も、現地福島第一原発も、地震後の大混乱の最中にあった。
たがいの連絡もままならなかった。

官邸にいた菅直人前首相は、現地の情報すら正確に把握できない状況にあった。
東京電力の会長とも、また社長とも連絡が取れなかった。
だったら、最高責任者である国家の長である首相が、自ら現地へ行くしかない。

●現場の混乱

 産経新聞によれば、あの3月11日、東京には東電の清水正孝社長(以下、清水社長)はいなかった。
そのとき清水社長は、奈良の平城京跡を視察していた。

産経新聞はこう書いている。

『勝俣恒久会長も震災当日に北京に出張中で、両トップが震災当日に「非常災害対策本部」が設けられた東京の交通網の乱れで11日中に帰京できず、本店に戻ったのは12日午前10時。

勝俣会長も、震災を受け帰国を急いだが、11日は成田空港が使えず、帰国は12日だった。
東電では震災直後に非常災害対策本部を設置したが、本部長である社長は不在で、代わりに副本部長の武藤栄副社長が指揮を執っていた』(以上、産経新聞)と。

 産経新聞ですら、こう書いている。
『財界首脳は「両トップが東京にいないということ自体が問題』と。

 まさに状況は、『刻一刻と変化していた』(産経新聞)。
で、そんなとき菅直人前首相の心中は、どうであったか?

「社長はどこだ!」「会長を出せ!」と。
そう怒鳴り散らしていたところで、何も不思議ではない。
またそう怒鳴り散らしていたからといって、どうしてそれが悪いことなのか。

 いいか、広島型原爆、数千発分の放射性物質だぞ!
数千発分!
4機合わせれば、1万発以上。
あるいはそれ以上!
わかるか?
たいへんな量の放射性物質だぞ!

●逃げる東電

 東電の言い分はこうだろう。

「私どもは、国の指示通り、かつ国の基準通り、すべてそれに従い、原発を運営してきました。だから、私どもには、責任はありません。(あとは政府の責任です)」と。

 が、菅直人前首相は、叫んだ。
「撤退は、ありえない!」と。
東電の本社に直接乗り込んで、そう怒鳴った。

 以下は、Yahoo・Newsが伝える、当日の模様である。
緊迫した状況が、この報道からもよくわかる。
歴史的にも、たいへん重要な部分だから、そのまま紹介させてもらう。

++++++以下、Yahoo・News 2012年5月29日++++++

●「唯一の功績」にじむ演出 残留、社長に念押し→1時間後乗り込み

 国会の東京電力福島原発事故調査委員会が28日(2012年5月28日)に行った菅直人前首相の参考人聴取では、東電に「全面撤退」の方針があったかどうかが焦点となった。
菅氏は「全面撤退と受け止めた」と繰り返したが、証言を元に当時の状況を追うとつじつまの合わない事実が次々に浮上する。
菅氏唯一の功績とされる「撤退阻止」までも根拠は希薄になりつつある。

【フォト】 国会事故調 菅直人前首相の聴取詳報

 全面撤退について東電は「全員がいなくなることはあの状況では考えられない」(武藤栄副社長=当時)と全否定。
政府の事故調も中間報告で「全員撤退を考えた者は確認できなかった」とした。
ただ、民間事故調は、「撤退阻止」に動いた菅氏について「結果的に東電に強い覚悟を迫り、危機対応のターニングポイントである対策統合本部設立の契機となった」と一定の評価を下した。

 国会事故調での証言を総合すると、清水正孝社長(当時)は昨年3月15日未明、海江田万里経済産業相、枝野幸男官房長官(いずれも当時)らに「撤退」方針を電話で伝えた。
海江田氏は官邸で仮眠中だった菅氏を起こし「東電から撤退したいという話が来ている」と伝えた。

 「撤退と聞き、とんでもないことだと感じた」

 菅氏はこう証言した。「清水社長が言うことは普通なら勝俣恒久会長らも相談にあずかっているはずだ」とも述べ、全面撤退が東電幹部の共通認識だと考えたことを明かした。

 清水氏の電話について海江田氏は「全員という言葉があったかは記憶にないが、社長の電話なので重い決心が背後にあると感じた」、枝野氏も「正確なやりとりは覚えていないが、全面撤退と認識した」と証言した。
3人とも「全面撤退」とは聞いていないが、そう「受け止めた」のだ。

 ところが、枝野氏は撤退情報の真偽を福島第1原発の吉田昌郎所長(当時)に電話で確認したことも証言している。
この際、吉田氏は「まだやれることがある。がんばります」と答えたという。
菅氏自身も14日夕に吉田氏と電話し、吉田氏は「まだやれる」と答えたことを証言している。

 つまり、菅氏らは東電に乗り込み「撤退阻止」する前、すでに現場幹部から「残留の意思」を確認していたことになる。
加えて菅氏は15日午前4時20分ごろ、清水氏を官邸に呼び出し、「撤退はありえませんよ」と迫った。
清水氏は「はい、わかりました」と応じたという。

 にもかかわらず、菅氏は約1時間後、東電本店に乗り込み「撤退はありえない。撤退したら東電はつぶれる」と恫喝(どうかつ)した。
全面撤退の意思はないと踏みながら、事故対応に忙殺される東電の本丸に乗り込んだ菅氏の意図は何だったのか。
「単なるパフォーマンスではなかったのか」との疑念は消えない。

 しかも菅氏の怒声はモニターを通じて福島第1原発の現場にも伝わった。
菅氏は「頑張ってもらいたいと強く言った」だけだというが、この「叱責」を「激励」と受け止めた作業員はいない。

++++++以上、Yahoo・News 2012年5月29日++++++

●パフォーマンス?

Yahoo・Newsは、「単なるパフォーマンスではなかったのか」との疑念は消えないと報道している。
しかしこれについては、こんな情報を、私はもらっている。

 菅直人前首相(東工大)と、吉田昌郎前所長(東工大)を、ともに知る人物(後述、『Breeze from Yokosuka』サイト主宰者)からである。
その人物は、東工大同窓会の会長も務めたことがあるという。
いわく、「ともに東工大出身だったから、意思の疎通ができた」と。

 たがいに面識があったかどうかは、知らない。
が、菅直人前首相が、吉田昌郎前所長と電話で話しあったとき、吉田昌郎所長は、「まだやれます」と答えた。
私はそのときの吉田昌郎前所長の心情が、痛いほど、よくわかる。
「ここであきらめたら、日本はおしまいになる」と。

 それを熟知していたからこそ、「まだやれます」と。
それが東電の官僚組の意見だったと考えるには、無理がある。

 つまり当時の状況からして、菅直人前首相に、パフォーマンスを考える余裕など、まったくなかったはず。
ものごとは、常識で考えたらよい。
あるいはあなたなら、どうするか。
そういう視点で考えたらよい。
首相といっても、1人の人間だぞ!
私やあなたと同じ人間だぞ!

 しかも日本という国がひっくり返るかもしれないという、まさに緊急事態。
日本中に広島型原爆が、何発も落とされたような状況。

一家にたとえるなら、母屋がもうもうとした煙に包まれている。
そんなとき、近所の人たちに向かってパフォーマンスを考えるバカがどこにいる?
大声で泣き叫んで、助けを求める人はいるかもしれない。
が、パフォーマンスを考えるバカはいない。
(菅直人前首相を批判する人は、菅直人前首相を、バカと思っているかもしれないが……。)

 ついでながら一言。

 ほとんど人は、福島第一原発だけの事故を考えている。
しかしあのとき福島第一原発を、なすがままに任せていたら、福島第二原発(楢葉町)、女川原発(女川町)、東海2号炉(茨城県東海村)を含め、周辺の原発にさえ、人1人近づけなくなっていたはず。
それだけではない。

 東海2号炉(茨城県)が事故を起こしただけで、「東京都の都民、50%ががん死する」(「原発事故」宝島社・P23)と。

こうした原子炉が、無人のまま、つぎつぎと爆発、メルトダウンを繰り返す。
福島第一原発事故には、そういう可能性も含まれていた。

●『Breeze from Yokosuka』より

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

『Breeze from Yokosuka』サイトより、そのまま引用させてもらう。
この中で、当サイトの主宰者の方は、私の原稿を転載してくれている。
転載許可依頼があったので、私は喜んで応じた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●菅総理は日本を救った(以下、「Breeze from Yokosuka」2012年1月4日記事より)

菅前首相はあらゆるところで酷評されております。
私の母校である東工大初めての首相ということで期待していたのですが、残念でありまた寂しい限りです。
そういう状況下にも拘わらず、はやし浩司さんはブログで菅さんを大絶賛していることを知りびっくりしました。

菅さんは応用物理卒です。
当時の東工大は入学試験時に類別はなく、大学2年の時に各自の志望で専攻が決まりますが、人気のある所は競争が激しく、応物に行けるのは成績が上から1割程度でないと行けませんでした。

先日、経団連の米倉会長は菅さんと野田さんを比して「首から上の質が違う」と、仮にも一国の首相を務めた人間を上から目線でバカにしきった話をしました。

野田さんは早稲田政経卒です。
経団連の米倉会長は東大法卒ですから文系野田さんと思考方法が近く、話は合うのでしょう。

私の高校同期の1/4ぐらいが東大に行きました。内訳は理系文系はほぼ半々でした。
私の若いころは「ものつくり、車」が人気で工学部志望が多かったのですが、数学が得意でない理系志望は先生から文系に転向するよう指導されました。
(一部の文学青年は何があっても文系でしたが)

それから40余年、文系に転向した一部の仲間は大企業の社長や高級官僚になりました(現在は皆天下っていますが)。
彼らより数学が良くできた理系の仲間は皆鳴かず飛ばずです。
文系があらゆる分野で(メーカーでさえ)トップに立つようになったことが、現在の日本の停滞を作った元凶と思っております。
中国では共産党のトップに理系が多い。
最新の経済学は高度な数学をマスターしていないと理解できません。
数学者がノーベル経済学賞を取っている時代です。

 ニュートンの力学さえも理解していると思われない各界のトップ(文系)たちが高度の数学・物理学によっている原発のメカニズムと、それが持つ破滅的な危険度を理解できるとは思いません。
経団連トップも経産省事務次官(文系)などの話を今もうのみにしているのでしょうし、それしかできないと思います。

話は変わりますが、ヘリコプターは兵器として、あるいは災害救助では優れたものですが、安全性についてはセスナより一桁以上悪いのです。

スーパーマンⅠでビルの屋上から離陸するヘリコプターが事故を起こすシーンがあります。
スピードが勝負のビジネスエリートは、ケネディー空港からマンハッタンの本社まで渋滞した道で戻るのは時間の無駄なので、空港からパンナムビルの屋上に飛ぶヘリコプター航路ができました。

しかし、あまりの事故の多発にその航路は取りやめになりました。
エリートの損失だけでなく莫大な補償でビジネスとして成り立たなくなったのでしょう。

ヘリコプターは負の安定で飛行しているので、絶えず操縦桿でバランスを取らないと墜落します。
セスナは正の安定なので操縦桿を機械的に固定しても安定して飛び続けます。
機体が傾いた時、セスナは上反角により下に傾いた翼の揚力が上の翼の揚力より大きくなり、機体を水平方向に復元する力が働きますが、ヘリコプターの回転翼は機体の上部についておるので、そのような機能をほとんど持たず、傾くと揚力が減り傾いたまま高度を保てなくなります。

ヘリコプターの操縦はジャンボジェットより難しいと言われています。
自由自在に走るF1も安定性は低いので素人にはとても運転ができません。
安定性は操縦性とトレードオフの関係にあります。
正の安定は谷底の平らなところに置いたサッカーボール、負の安定は尾根の平らなところに置いたサッカーボールと考えて下さい。

 原発は絶えず反応を制御しなければならない負の安定です。
もし制御に失敗して暴走したら瞬間的に膨大なエネルギーが放出され、水で冷却できるものではありません。(核爆発です)
それほどの暴走にならなくても冷却に使われた水は高濃度の放射線物質を含むことになります。

今回の福島原発の事故です。
もし菅総理が決断しなければ核爆発の段階まで行く可能性がありました。
爆発すれば首都圏を含む半径300kmぐらいは人間が住めないところになっていたのです。
吉田所長は決死の覚悟で会社の命に背き核爆発を防いだのです。
核爆発の可能性を危惧し私は3月14日に西に避難しました。
万が一に備え家族全員パスポートを持参し、3月15日はセントレア空港の下見に行きました。

 一度動き出した原発は停止する事は大きな危険を伴うので、電力需要の少ない深夜も運転を続けます。
結果として電力が余ってしまうので、深夜電力として安く販売しているのです。
(現在深夜電力も大半が火力によっていますので深夜割引は非オール電化住宅の方がオール電化住宅のユーザーに補償していることになります)

 熱源で水を加熱沸騰させ、その水蒸気でタービンを回し発電するということでは原発も火力発電も同じメカニズムです。
しかし、火力発電なら事故が起こっても燃料の供給を止めればいずれ終結します。
一部地域は燃料等による汚染が起こりますが、発電所周辺が住めなくなることはありません。

原発は言ってみればガソリン満載の巨大なタンク上にある穴に直接火をつけているようなもので、燃料の供給をカットすることができません。

 福島原発では融解した核燃料を取り出すのに数十年間はかかると言われています。
取り出すまでは原子炉に何が起こるか分かるか誰も明確には答えられません。
しかも取り出す方法もこれから検討されるのです。
近くによって原子炉内部を観察できないのですから、いつ取り出せるかは誰も分かりません。
少なくとも私の目が黒いうちはあり得ません。
今年初孫が生まれますが、ひ孫の時代になるでしょう。

 日本開闢以来の惨事を招いた原発をいまだ目先の利益にこだわり、再稼働させるなんて言う人は「首から上の質が違うのではなく、腐っている」と思います。
何しろ日本は4つのプレートの品評会場です。
「どじょう」でなくて「なまず」が首相になるべきところです。

菅前総理は自分の(物理学では当たり前の)考えを全く理解できない人たちに取り囲まれてやりようがなく、怒り散らして強引に周りを動かすしかなかったと思います。

(私もサラリーマン時代、文系の幹部たちから同じ経験を何回もしています。
もっともニュートンの力学の範囲についてですが)

 質素な生活を旨として有名だった東工大卒の故経団連土光元会長なら菅さんの考えをきちんと理解し、支援したと思います。

長くなりましたが、下のはやし浩司さんの文章もぜひ読んで下さい。
文系ですが理系的な理解力も持たれていると思います。

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●日本を救った、菅直人前首相と吉田昌郎所長

+++++++++++++++++

あの日、あのとき、菅直人前首相は、
日本を救った。
それはまぎれもない事実である。
読売新聞は、以下のように内幕を伝える。

+++++++++++以下、読売新聞、2011-9-12+++++++++++

 枝野幸男前官房長官は7日、読売新聞のインタビューで、東京電力福島第一原子力発電所事故後の3月15日未明、東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発から全面撤退させたい、との意向を伝えられたと語った。

 東電関係者は、これまで全面撤退の申し出を否定している。
菅前首相や海江田万里前経済産業相は「東電が作業員の撤退を申し出てきた」と説明してきたが、枝野氏は今回、撤退問題に関する具体的な経過を初めて公にした。

 枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そういう言い方だった」と指摘した。

 枝野氏によると、清水氏はまず、海江田氏に撤退を申し出たが拒否され、枝野氏に電話したという。
枝野氏らが同原発の吉田昌郎所長や経済産業省原子力安全・保安院など関係機関に見解を求めたところ、吉田氏は「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見方を示した。
 菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について明言しなかったという。
このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と幹部らに迫った。

 枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間はあの人が首相で良かった」と評価した。

+++++++++++以上、読売新聞、2011-9-12+++++++++++

●菅直人前首相の大英断

 東京工業大学出身の菅直人前首相であったからこそできた、大英断である。
もしあのとき東京電力が、福島第一原発を放棄していたら、菅直人前首相が言うように、「東京ですら、人っ子1人、いない状態になっていた」。

 もう一度、読売新聞の記事を整理してみる。

(1)東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発から全面撤退させたい、との意向を伝えられたと語った。

(2)が、東電側は、これまで全面撤退の申し出を否定している。

(3)しかし政府側は、東電側が全面撤退を申し出てきたと、全員が認識した。
いわく、『枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そういう言い方だった」と指摘した』と。

 つまり東電側は、そういう言い方をしてきた。
その後の東電側の動きを重ね合わせてみると、東電側は、事故直後早々と、「全面撤退」を考えていたことがわかる。

「政府側の安全基準を満たしていたから、(私たちには責任はない)」(報道)などという発言もそのひとつ。

(4)原発の直接責任者である吉田氏は、「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見方を示した。

 これはあとになってわかることだが、吉田氏は、東電側のあいまいな指示を無視、海水を注入しつづけ、原子炉の爆発を防いだ。

もしあの段階で、吉田氏の英断がなければ、福島第一原発は大惨事を招いていたはず。

(5)ここからがとくに重要。
読売新聞は、つぎのように伝えている。

『菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について明言しなかったという。
このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と幹部らに迫った』と。

●福島第一原発・吉田昌郎所長

 「The Wall Street Journal」(2011年5月27日)、日本語版は、以下のように伝える。

++++++++++++以下、The Wall Street Journal++++++++++++

本社の停止命令に背いて注水を続けていた福島第1原発の吉田昌郎所長、彼の判断をどう評価すべきか、社会人としていろいろ考えた人が多かったのではないだろうか。
同所長は、会社の命に背いて注水を続けたことに加え、その報告を怠って政府や国会を混乱させたことの責任を問われ処分されるという話だ。
昨日、テレビに大写しになった吉田所長は、うつろな顔をしていた。
会社の判断を無視したのは確かだ。
しかし、会社の注水停止判断は、技術者なら誰でも認めるような明らかな間違いだったのだ。
確かに、もう少し早く報告できただろうという気はする。

++++++++++++以上、The Wall Street Journal++++++++++++

 この吉田氏の行為に対して、菅直人前首相は、『視察後、首相が名指しで謝意を表明したのは東京から同行した武藤栄副社長ではなく、吉田所長だったそうだ』(日本経済新聞・4月8日)とある。

 なお東京電力側が海水の注入をためらったのは、一度「海水」を注入すると、原子炉そのものが使い物にならなくなるからである。
東京電力側は、あの場に及んでも、そんなことを心配していた(?)。

●もしあのとき……

 もしあのとき菅直人前首相ならびに、吉田昌郎所長の英断がなければ、日本は完全に沈没していた。

 事実を、よく見てほしい。

 100万キロワット(福島第一原発の原子炉1機分のみ)の加圧水型軽水炉(PWR)が事故を起こしたとする。
そのとき内蔵する核分裂精製物の量は、11577京ベクレル。
うち20%が放出されたとして、2290京ベクレル。
とほうもない量である。

 電気出力100万キロワットの原発を、数年運転すると、1万3600京ベクレルの放射性物質が生まれる。
「その量は、広島型原爆の数千発分に相当する」(瀬尾試算「原発事故」宝島社)。

 数千発分だぞ!
たった1機で、数千発分だぞ!

ちなみに、チェルノブイリでは、1880京ベクレルの放射性物質が放出されたという(京大グループ調査。)
 
が、もしあのとき福島第一原発が放棄されていたら、原子炉の爆発は避けられなかった。
それが4機+2機。
つぎつぎと爆発。

 それで計算すると、11万京ベクレルx4=44万京ベクレル(以上、瀬尾試算、「原発事故」宝島社)
チェルノブイリの比ではない。
東京都も含めて、東北地方には、人はだれも住めなくなっていた!

 その深刻さを鑑みるにつけ、菅直人前首相、吉田昌郎所長を、日本を救った大英雄と言わずして何という。
ともに東京工業大学出身であったからこそ、こうした判断ができた。
だから、枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間はあの人が首相で良かった」と評価した。

●後書き

 やがてあの事故が、詳細に検証される日がやってくるだろう。
そしてそれがわかったとき、みな、こう言うにちがいない。

 「菅直人さん、ありがとう! 吉田昌郎さん、ありがとう!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本の英雄 日本を救った2人の英断 はやし浩司 菅直人 吉田昌郎 日本の恩人 ありがとう)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司


 

  






2012年5月29日火曜日

【韓国の新聞社の反日記事】[한국 신문사의 반일 기사]

【韓国の新聞社の反日記事】[한국 신문사의 반일 기사]

●韓国の反日煽り記事(韓国のロケット技術は、日本の60年代レベル?)
● 한국의 반일 여파 기사 (한국의 로켓 기술은 일본의 60 년대 수준?)

韓国の新聞社の反日記事について
한국 신문사의 반일 기사에 관하여

日本は、そんなことは言っていない。
일본은 그런 말은하지 않는다.

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

どうして韓国の新聞社は、反日をあおるような記事ばかりを書くのか。

まず朝鮮日報社(5月24日)に記事を読んでみてほしい。
「日本が、韓国のロケット技術は、日本の1960年代レベルと報じた」とある。

왜 한국의 신문사는 반일을 부추기는 기사만을 쓰는가?

먼저 조선 일보 (5 월 24 일) 기사를 읽어 보면 좋겠다.
"일본이 한국의 로켓 기술은 일본의 1960 년대 수준으로 보도했다"고한다.

++++++++以下、朝鮮日報(5月24日)++++++++++

韓国のアリラン3号衛星が日本のH2Aロケットによって打ち上げられる前日の17日、日本のメディア各社は宇宙航空研究開発機構(JAXA)関係者の言葉として「韓国のロケット技術は日本の1960年代当時のレベル」と報じた。
独自開発か他国の技術導入かで方針が定まらなかったことが影響し、韓国のロケット技術は今なお日本の1960年代のレベルにとどまっていることを指摘したわけだ。
日本は18日、韓国のアリラン3号衛星を積んだロケットの打ち上げに成功することで「日本のロケットは国内限定」というこれまでの見方を脱却し、世界の衛星打ち上げ市場へと本格的に参入することになった。

++++++++以下、朝鮮日報(5月24日)++++++++++

●検証

 JAXAは、本当に、そんなことを述べたのか?

 そこで「日本のメディア各社」が、述べたかどうか、調べてみた。
最初に、インターネットで検索をかけてみた。

 が、同様の記事を並べているのは、韓国系の新聞社だけとわかった。
中央日報、東亞日報、朝鮮日報の各社である。

 そこで私はJAXA(宇宙航空研究開発機構)に直接、電話を入れ、問い合わせてみた。
電話は最終的に、東京都丸の内にある、JAXA広報部へと回された。
以下、広報部の言葉。

(1)17日に、朝日新聞が、そういう報道をした。
(2)それが韓国に伝えられた。
(3)しかしJAXAとしては、そういった発言はしていない。
つまり「韓国の技術レベル」の話をしたのではなく、(4)「日本も、60年代、70年代は失敗を重ねた」という意味で、そういう話をした。
(5)現在の韓国も、失敗に失敗を重ねている。

●あおり記事

 JAXAは、「韓国のロケット技術が、日本の60年代並」と評したのではなく、「日本も60年代から70年代にかけ、失敗を重ねた」という話をした。
それを朝日新聞(17日)が、「誤解して」報じたということらしい。

 常識で考えても、顧客である韓国を、「60年代レベル」と酷評する人はいない。
今回のロケット発射では、韓国製の衛星を積載した。
つまりこうした誤解……ささいな言葉尻をつかまえ、それを曲解し、反日記事につなげる。韓国の新聞社の特徴である。
お家芸とまでは言わないが、「特徴」である。

 が、この記事を韓国内で読んだ韓国人は、こう思うにちがいない。
「チクショー、日本!」と。
つまりそれこそが、こうした新聞社のねらいということになる。

 まだ朝日新聞の記事を確認していない。
(確認する必要もないが)、もし朝日新聞の記事が誤解の根源になっているなら、朝日新聞社自身が、抗議するなり、訂正記事を発表すべきではないのか。
私ではなく、朝日新聞社がすればよい。

 ……つまりこうして韓国の人たちの反日感情は、日々に増幅されている。
それをわかってもらいたかったから、この原稿を書いてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

作られる反日感情。
過去にも、いろいろな例がある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

作られる反日感情(韓国・中央日報紙のケース)2011-7月
중앙 일보사 재일 기자에

++++++++++++++++++

21日午前、仁川(インチョン)空港を出発した、
大韓航空A380旅客機が、日本の成田空港に
着陸する際に揺れ、エンジン下部が滑走路を
こすった。
A380といえば、世界最大の新型旅客機。
その旅客機のエンジンが、強風にあおられ、
滑走路をこすった。
ひとつまちがえば、大惨事になっていた。
韓国のことは知らないが、日本ではこの種の
事故は大々的に報道される。
相手が韓国であるかどうかということは、
関係ない。
「大惨事になっていたかもしれない」という
点で、事件になった。
が、韓国の中央日報は、つぎのように伝える。


+++++++++以下、韓国、中央日報より++++++++++++++

大韓航空A380航空機が日本で着陸する際、翼の下の部分が滑走路にかするという軽微な事故が発生した。
これを日本メディアが大々的に報道し、意図的な‘恥さらし’ではないかという指摘が出ている。

(中略)

大韓航空側は「着陸時に風が激しく吹いたため、操縦士も気づかない間に機体が揺れ、(滑走路に)ややかすったようだ」と話した。

成田空港側はA380が着陸した滑走路を約20分間閉鎖し、機体と滑走路を点検した。
しかし特に大きな異常はなかった。
大韓航空は運航に支障はないと判断し、乗客と乗務員を乗せてソウルに予定時間より1時間10分遅れで到着した。

成田空港側は記者らを呼んで滑走路の写真を撮らせるなど異例の措置を取った。
大韓航空の関係者は「乗客も衝撃をほとんど感じていない軽微なものだった」とし、「ただ、日本のメディアがこれを報道したのは、独島(ドクト、日本名・竹島)をめぐる神経戦と関係があるとみられる」と述べた。

日本外務省はA380が就航前に独島をデモフライトしたことに反発し、最近、大韓航空利用自粛命令を出し、この問題は韓日両国の外交問題に発展した。

+++++++++以上、韓国、中央日報より++++++++++++++

●被害妄想

 この記事の中で、とくに注意深く読んでほしいところは、つぎ。

『ただ、日本のメディアがこれを報道したのは、独島(ドクト、日本名・竹島)をめぐる神経戦と関係があるとみられる」と述べた』と。

 つまり事故そのものは、とるに足りない軽微なものであった。
にもかかわらず、日本のメディアが報道したのは、竹島(独島)をめぐる神経戦と関係があるとみられる、と。

 ほとんどの読者(日本人)は、この部分を読んで、唖然とするにちがいない。
私もそうだが、そんなこと微塵も考えていない。
あなたにしても、そうだろう。
事故というのは、どこの国でも、どんな場所でも起こる。
つまり韓国人記者の勝手な判断。
妄想。
被害妄想。
在日の韓国人記者が、自らの被害妄想をふくらませ、こんな記事を書いた。

●韓国人はどう読むか

 こんな記事が「日本発」として、韓国で報道される。
簡単な想像力を働かせてみればよい。
もしあなたが韓国人で、韓国でこの記事を読んだら、あなたはどう感ずるだろうか。
あなたならきっと、こう思うだろう。
「あの日本人め(=イルボネめ!)、また韓国いじめをしている!」と。
つまりこうして韓国内で、反日感情が熟成されていく。
その一例として、この記事を取りあげてみた。

●中央日報社の在日記者へ

 日ごろの航空機事故の報道を見てほしい。
日本では、航空機事故に関しては、たいへんきびしい見方をしている。
どこの国の飛行機ということは関係ない。
あの123便事故にしても、その飛行機は、その少し前、同じような接触事故を起こしている。
それがあの123便事故につながったという説もある。

 私たち日本人は、韓国の人たちと仲よくしたいと考えている。
が、その一方で、こうした記事を韓国内に流すのは、やめてほしい。
簡単に言えば、被害妄想だけで記事を書くのは、やめてほしい。
「神経戦と関係がある」という部分は、まったくの妄想。
記者であるあなたはそう感じたかもしれないが、私たちはまったくそんなことは考えていない。

 むしろこれ見よがしに、A380を飛ばし、得意になっているのは、君たちのほうではないのか。
その出鼻をくじかれた。
だからこういう記事を書く。
私たちは、むしろ、そう解釈する。

●중앙 일보사 재일 기자에
평소 항공기 사고 보도를보기 바란다.
일본에서는 항공기 사고에 대해서는 매우 엄격한 견해를하고있다.
어느 나라 비행기는 것은 상관 없다.
그 123 편 사고해도 그 비행기는 얼마 전 같은 접촉 사고를 일으키고있다.
그것이 그 123 편 사고로 이어졌다는 설도있다.
우리 일본인은 한국 사람들과 사이 좋게 지내고 싶다고 생각하고있다.
이, 반면에 이러한 기사를 국내에 흘리는 것은 그만두면 좋겠다.
간단히 말하면, 피해 망상만으로 기사를 쓰는 것은 그만두면 좋겠다.
"신경전과 관계가있다"라는 부분은 전혀 망상.
기자인 당신은 그렇게 느낀지도 모르지만, 우리는 전혀 그런 것은 생각하고 있지 않다.
오히려 보란듯이에 A380을 비행하고 자신되어있는 것은 너희들의 편이 아닌가.
그 出鼻을 くじか했다.
그래서 이런 기사를 쓴다.
우리는 오히려 이렇게 해석한다.

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●作られる反日感情(もう1例)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【日韓経済戦争】作られる反日感情(はやし浩司 2010-11-01)

++++++++++++++++++++

今度日本が、ベトナムの原子力発電所建設
プロジェクト(第2期事業)で、その
パートナーに内定した。
そのニュースもさることながら、韓国の中央
N報(11月1日)は、つぎのように国内で
報道している。

『…… 日本メディアは「新興国の原発建設に
政府と民間が合同で全力を傾けている韓国に
対応するため、日本が構成した‘官民合同体’
が成し遂げた初めての快挙」と一斉に報じ
た』(中央N報、11月1日、原文のまま)と。

この中で、「韓国に対応するため」という文言に
注目してほしい。
そこで日本では、どのように報道されているか、
調べてみた。
本当に「韓国」を名指しで、「快挙」と報道して
いる報道機関があったのか。
私もこのニュースは、新聞、ネットで知っていた。
韓国の連合体と競っているいる話は聞いていた。
しかし……?

ともあれ、あちこちのサイトで、このニュース
を調べてみたが、「韓国に対応するため」と書いた
報道機関は、見あたらなかった。
以下、事実だけを並べてみる。
誤解、偏見をなくすため、削除することなく、
全文を転載、並べて比較してみる。

++++++++++++++++++++++

●韓国中央N報はつぎのように伝えた(11月1日)

*************以下、韓国・中央Nより***************

韓国・フランス・日本が競合するベトナムの原子力発電所建設プロジェクト第2期事業で、日本がパートナーに内定した。

ベトナムのグエン・タン・ズン首相と日本の菅直人首相は31日、ベトナム・ハノイで首脳会談を開き、このように明らかにしたと、日本経済新聞が報じた。同紙は「これは日本が新興国の原発建設を受注した事実上初めてのケースであり、規模は1兆円にのぼる」と伝えた。

ベトナムは2020年代初期までに4基の原発建設を終える予定で、4基の原発のうち第1期事業の2基はすでに年初にロシアが受注している。今回の第2期事業の2基はベトナム南部地域での建設事業で、その間、韓国・フランスのコンソーシアムと日本が激しく競合していた。

日本は原発建設を受注する代わりにベトナム側の港などのインフラ建設に790億円の借款を供与し、原発関連技術の移転を提供することにした。また両国首脳は戦略物資であるレアアース(希土類)の研究および開発も共同で協力することにした。
菅首相は「原発とレアアースの二つの問題について両国がパートナーになったのは真のパートナーシップが始まったという象徴的な意味を持つ」と強調した。

今回のベトナム原発建設プロジェクト第2期事業は、先月22日に官民合同出資で発足した「日本国際原子力開発」を中心に進行された。東芝・三菱重工業・日立製作所が参加している。

日本メディアは「新興国の原発建設に政府と民間が合同で全力を傾けている韓国に対応するため、日本が構成した‘官民合同体’が成し遂げた初めての快挙」と一斉に報じた。

*************以上、韓国・中央Nより***************
***************以下、J-Castより*************

●J-Cast(11-2)

菅直人首相は2010年10月31日、ベトナム・ハノイ市内でグエン・ダン・ズン首相と会談、原子力発電所2基の建設を日本側が受注することが決まった。
ベトナム北西部にあるレアアース(希土類)の開発を共同で進めることにも合意した。菅首相は、港湾建設などに総額790億円の円借款を新たに供与する意向を表明した。

*************以上、J-Castより***************
*************以下、読売新聞より*****************

●読売新聞(10-31)

【ハノイ=宮井寿光、永田毅】菅首相は31日、ベトナムのグエン・タン・ズン首相とハノイ市内の首相府で会談し、両国関係に関する共同声明に署名した。
 ベトナム政府が予定している原子力発電所建設計画について、日本を「協力パートナー」とすることで合意し、日本勢の受注が事実上決まった。日本が新興国で原発建設を受注するのは初めて。

 日本はこれまで、新興国で激化する原発建設の受注競争で相次いで敗北してきたが、今回は官民一体で集中的に受注活動を展開したことが奏功した。
 対象となるのは、南部のニントゥアン省に予定されている第2期工事の原発2基分。ベトナム側は条件として、低金利での優遇貸し付け、最先端技術の利用、廃棄物処理協力などを示し、日本側も応じた。ズン首相は会談で、日本の受注について「政治的、戦略的決断だ」と語った。

 両首相は省エネ家電などの部品に不可欠なレアアース(希土類)についても共同開発で合意した。レアアースの生産量は中国が世界の9割以上を占めるが、輸出制限が世界的に問題となっており、「中国依存」からの脱却を図る狙いがある。

*************以上、読売新聞より*****************
*************以下、NHKサイトより***************

●NHKニュース(10月31日)
ハノイを訪れている菅総理大臣は、31日にベトナムのズン首相と会談し、現地で計画されている原子力発電所の建設を日本の企業に受注させるよう求めるのに対し、ズン首相は日本側の要請に応じることを表明する方向で調整を進めています。

ASEAN=東南アジア諸国連合などとの一連の首脳会議に出席するため、ハノイを訪れている菅総理大臣は、ベトナム訪問の最終日の31日、ズン首相と会談する予定です。この中で菅総理大臣は、ベトナムで計画されている原子力発電所2基の建設事業で、日本企業に受注させるよう要請する方針です。

ベトナムの電力公社は、高い技術力などを評価して日本に発注する方針を固めていましたが、関係者によりますと、ズン首相は菅総理大臣に対し、ベトナム政府として日本側の要請に応じることを表明する方向で調整を進めているということです。

日本政府は、アジアでのインフラビジネスを成長戦略に掲げており、外国企業との競争が激しい原発事業で、今回ベトナムから受注を得る方向となったことで、今後の海外展開の弾みとしたい考えです。

また、菅総理大臣は希少資源の「レアアース」について、中国への過度な依存から脱却するため、日本企業と現地企業が合弁で手がけることが決まっているベトナム北部の鉱山開発について、できるだけ早く生産が始められるよう、協力を求めることにしています。

*************以上、NHKサイトより***************
*************以下、朝日新聞サイトより***************

 【ハノイ=高野弦】ベトナムの最高意思決定機関である共産党の指導部は、同国南東部に建設を予定している原子力発電所について、日本企業に発注する方針を決めた。複数の関係者が明らかにした。正式決定すれば、原発を新たに設置する新興国で、日本が受注する初のケースとなる。

 31日の日越首脳会談で、ズン首相から菅直人首相に発注の意向が伝えられる見通し。
 日本企業への発注方針を決めたのは、南東部ニントアン省の原発2基(出力計200万キロワット)で、2021年の運転開始を目指している。

 ベトナムは2030年までに14基の原発の建設・稼働を計画。このうち具体化しているのはニントアン省の4基で、最初の2基は昨年12月にロシアが受注した。

 インフラ輸出を成長戦略の軸にすえる日本は、残る2基の受注を目指し、今年に入って受注活動を展開。経済産業相らが8月、経済界とともにベトナム入りし、人材育成や資金援助などを提案していた。また、10月には新興国での受注を目指した官民共同出資の「国際原子力開発」を立ち上げていた。

*************以上、朝日新聞サイトより***************

●一事が万事

 中央N報を読んだ韓国の人たちは、どう思うだろうか。
日本があたかも韓国を叩くために、ベトナムでの原子力発電所建設工事を受注したと
解釈するだろう。

「快挙」、つまり「日本人は、韓国に勝ったと喜んでいる」と。

 受注競争の過程では、たびたび韓国の名前が出てきたのは事実。
中央N報にもあるように、韓国は政府と民間が一丸となって受注合戦を繰り広げていた。
で、日本もそれに対抗して、(あくまでも対抗して)、政府が受注合戦に乗り出した。
その結果、日本が受注に成功した。

 が、成功したあとは、どの報道機関も、「韓国」の「カ」の字も書いていない。
が、韓国では、『新興国の原発建設に政府と民間が合同で全力を傾けている韓国に対応するため、日本が構成した‘官民合同体’が成し遂げた初めての快挙」と一斉に報じた』と。

 こうした報道操作は、日常茶飯事。
ことあるごとに国内の反日感情をかきたてている。
しかしこれは天下の報道機関として、あるべき報道姿勢ではない。
中央N報は、日本の報道機関のどれをさして、「一斉に報じた」としているのか。

 一事が万事というか、韓国の新聞を読んでいると、この種の情報操作があまりにも多い。
少し前は、自前で気象衛星をあげたことについて、「これで日本の世話にならなくてすむ」
と。

 今までさんざん日本の世話になっておきながら、この言いぐさはない。
せめて「今まで、ありがとう」の一言くらいは、あって当たり前。
それではいけないということで、あえて今回のニュースを取りあげてみた。

●追記

 対する日本は、どうか?

たまたま同日(11-2)TBS-iニュースは、こんなニュースを報道している。
こちらは、重要なニュースではないので、一部、省略させてもらう。

***********以下、TBSーiニュースより*************

●第二次韓流ブーム

 最近、日本で新たな「韓流ブーム」が社会現象になりつつあります。
次々とデビューしてチャート入りを果たす韓国のガールズ・グループ。
その背景には、ブームを作り出す、ある壮大な「戦略」がありました。

(中略)
 
 4か国語が飛び交う会見場。1日、韓国・ソウルの外国特派員協会に姿を現したのは、人気ガールズ・グループ「少女時代」です。
19歳から21歳までの9人からなる「少女時代」。3年前にデビューし、韓国でトップに登りつめた後、台湾やタイなどのヒットチャートでも1位を獲得。
中国でもツアーを行うなど、アジア全域で活躍中です。そして9月、満を持して日本デビュー。第2弾シングルが先週、日本を除くアジアの女性グループとして史上初のチャート1位を記録しました。

 日本の韓流ブームといえば、これまで比較的高い年齢層の女性たちに支えられてきました。
この新たな韓流ブームの特徴は、日本の若い女性の心を捉えていることです。
美脚が売りの少女時代だけでなく、大人の魅力を強調するグループ「BROWN EYED GIRLS」、ヒップダンスを得意とするグループ「KARA」などが、今年に入って次々と日本デビューを果たしています。

 1日の会見のテーマは彼女たちの世界戦略でした。

(中略)

 周到な準備の下、続々と上陸する韓国のガールズ・グループ。しかしその目は、すでに日本のはるか先を見据えているのかもしれません。(01日22:48)

***********以上、TBSーiニュースより*************

 日本人のノー天気ぶりには、あきれるばかり。
緊張感がまるでない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 韓国の報道機関による情報操作 反日感情 はやし浩司 作られる反日感情)

Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●後記

 韓国内で作られる(=あおられる)反日記事。
これからも注視していきたい。
同時にこうした反論が韓国の国内の人たちに届くよう、韓国語に翻訳して、BLOGにUPしていきたい。2012/05/29記


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 作られる反日記事 反日感情)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

5-year-old children learn 3D Boxes

●インコのピッピ(2012/05/29)

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

インコのピッピが、我が家へ来て、3週間。
日々に、利口になる。
驚く。

おととい、3D迷路を模造紙で作ってやった。
1回目は迷ったが、2回目からは、スイスイ。
そこで……ということで、今度はさらに
複雑な3D・立体迷路を作ってやった。
称して「ピッピの要塞」。

が、これも10~20分足らずで、完全制覇。
そのあとは、その要塞の中を、左右、上下、
自由に走り回っている。
外へ出そうとしても、いやがって出てこない。
インコの知的能力に、またまた驚く。

明日、午前中が空いているので、さらに
複雑な立体迷路を作ってみる。
ピッピに遊ばせてみる。
どんな反応を示すか、楽しみ。

人間とインコを同一視することはできない。
しかし今が重要。
生後2か月のインコだが、今をおいて、
知的能力を伸す時期はない。
好奇心が、きわめて旺盛。
その好奇心を利用し、知的能力を伸す。
この時期をのがすと、好奇心は急速に薄れる。
同時に、学習させても、効果は、ほとんどない。
脳の思考回路が、硬直化するためと考えてよい。
決まったことはできるが、それ以外のことはできない。

人間とインコのちがい。
つまり、その知的好奇心旺盛の時期が長いか、短いか。
そのあたりにあるのではないか。
人間は長い。
インコは短い。

言い換えると、いかにしてその知的好奇心を持続させるか。
さらに言えば、いかにして新鮮な刺激を与えつづけるか。
それによって、その子ども(インコ)の能力は決まる。

42年間してきた私の経験が、インコの飼育で役に立つとは!
考えもしなかった。
一説によれば、インコの知的能力は、人間の3歳児(某サイト)とか。
であるなら、それを私は自分で確かめてみたい。
同時に、それを4歳、5歳まで伸してみたい。
おもしろい実験ができそう。

と、同時に、我が家が急に明るくなった。
インコのピッピを中心に、家族の話題が多くなった。
息子も、あれこれいろいろなおもちゃを、手作りしている。
ピッピを楽しませている。

毎日、家に帰るのが楽しみになった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【年長・5歳児に3D(立体図)を教える】



途中、反復作業をさせましたが、子どもたちは驚くべき集中力を見せてくれました。
早めにきりあげ、つぎのレッスンに移りたかったのですが、そのまま作業をつづけさせました。

「幼児だから、学習態度も幼稚」というのは、まったくの偏見です。
ノーカットでお見せしますので、お楽しみください。
幼児のもつ能力は、本当にすばらしいです。

AERAの記者は、「早期教育は、どうせ追いつかれるから意味がない」(2011年10月)というようなことを書いていた。
ひらがな学習を例にあげて、そう書いていた。

(幼児期にあわてて文字、数を教えても、どうせ追いつかれるから意味がない。
かえって学校の先生が教えにくくなるから、やめたほうがよいという内容の記事だった。)

幼児教育の「ヨ」の字も知らない、また幼児を教えたこともない記者が、古い論文だけを根拠に、さらに言えば、想像だけで、そう書くから、恐ろしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 AERA AERA 幼児に立体図 インコの知的能力 好奇心)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●5月29日(火曜日)

 



Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

2012年5月28日月曜日

Lies for the Japanese

【和をもって、尊しとなす】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨夜は12時ごろまで、ワイフと私、息子と
3人で、いろいろと雑談。
床に就いたのは、そのあと。

昨日の昼ごろ知人が来て、浜名湖のアサリを届けてくれた。
このあたりでは、アサリをフライパンの上で炒め、
ネギと日本酒をかけて食べる。
超・簡単料理。
それがたまらなくおいしい。

今朝は、これからそれを食べるつもり。
先ほど、2~3個、つまんで食べてみたが、おいしかった!

……ということで、今朝は、午前8時起き。
ほどよい冷気。
乾いた初夏の風。
畑の野菜に水をまいたあと、ぼたんインコに餌をやった。
よき日、よき朝で始まる。
2012/05/28朝

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人の運転

 先週来たオーストラリアの友人が、こう言った。
「日本人の運転は、乱暴」と。
その友人にかぎらず、みなそう言う。
で、理由を聞くと、その友人は、こう話してくれた。

 たとえば追い越しをかけるとき、平気で車線を変更する、と。
(日本人の私たちには、何でもない行為だが……。)
「オーストラリアではどうなのか?」と聞くと、「必要なときには車線を変更する。が、追い越すときは車線を変更しない」と。

 オーストラリアでは、郊外の幹線道路を走るときも、みな表示スピードをきちんと守る。
それが日本人の私たちには、おかしいと思えるほど、きちんと守る。
(50)という表示が見られたら、50キロ。
(80)という表示が見られたら、80キロ。
私の見た感じでは、プラスマイナス2~5キロの範囲で、速度を守る。
守らないと、すかさずパトカーが追いかけてくる。

 幹線道路でも、2車線しかないところが多い。
そういうときは、どちらか一方の車線のみが、追い越しをかけられるように、道路に表示してある。
(中央分離線の左右に、破線で表示。)
それがなければ、いくら道路が空いていても、追い越しをかけることはできない。
つまり、きびしさが、徹底している。

 そう言えば、別の友人もこう言っていた。
「日本人は、停止線での車の止め方がメチャメチャ」と。

 たとえば横断歩道の前で車を止める。
そのとき、停止線を越えて車を止める人もいれば、数メートル手前で車を止める人もいる。
中には、横断歩道の中央で車を止める人もいる。
それを見て、メチャメチャ、と。

 一方オーストラリアでは、たいていどの角にも、カメラがしかけてある。
ルールを破ると、自動的に、違反キップが送られてくる。
そういうしくみが、できあがっている。
だから彼らは、これも日本人の私たちには、おかしいと思えるほど、ルールを守る。
停止線では、私が見た感じでは、プラスマイナス30センチ前後の幅で、車を止める。
(ほとんどは、停止線で、ピタリと止める。)

 ……日本人の私たちには何でもなく見える運転でも、別の国の人が見ると、そうではないということ。
(もちろん、その逆もあるが……。)

●民主主義とルール

 概して言えば、欧米の学校では、ルールにきびしい。
日本の学校は、甘い。
民主主義の完成度の高い国ほど、ルールにきびしい。
つまり民主主義というのは、その一方で、ルールに支えられている。

 ほかにたとえば、「ウソ」がある。
欧米人は、ウソには、きわめてきびしい。
日本人の私たちには、想像もつかないほど、きびしい。
ついでに言えば、「約束」にも、きびしい。
わかりやすく言えば、「YES・NO」が、きわめてはっきりしている。
「YES」と言ったら、YESしかない。
「NO」と言ったら、NOしかない。
あいまいな返事や約束を、嫌う。
もちろんウソを言ったら、その時点で、10年の友情も、どこかへ吹き飛んでしまう。
私にも、苦い経験が、いくつかある。
原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

日付は2011年の2月になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●おかしな外来語、「マニフェスト」

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「マニフェスト」とは、何か?
その意味を知っている人は少ない。
この日本では「選挙公約」のことを、
「マニフェスト」と言う。
だったら、「選挙公約」と言えばよい。
どうしてわざわざ「マニフェスト」と言うのか?

で、ウィキペディア百科事典で調べてみたら、
こうあった。

マニフェスト(manifesto) とは、「宣言書・
声明文の意味」と。

だったら、「選挙宣言書」と言えばよい。
「選挙声明文」でもよい。
「選挙宣誓書」なら、さらによい。
「選挙公約」と言うよりは、重みがぐんとます。

「マニフェスト」と「選挙公約」。
「選挙公約」と「マニフェスト」。

どう考えても、「マニフェスト」のほうが、軽い。
横文字であるだけに、意味がわからない。
わからない分だけ、ピンとこない。
やはり「選挙宣誓書」という言葉を使った
ほうがよい。
そのほうが、わかりやすい。

そうでなくても日本人は、ウソに甘い。
「ウソも方便」という言葉もある。
平気でウソをつく。
ウソをつかれても、怒らない。
公約など、腸から出るガスのようなもの。
私たちもそう考えているし、政治家たちも
そう考えている。

+++++++++++++++++

●飛騨の昼茶漬け

 またまた経験した。
が、だからといって、その知人の妻を批判しているのではない。
久しぶりに、あの言い方を聞いた。
こんな言い方……。

 先日、知人が亡くなった。
通夜には行けなかったので、その前日、知人宅を訪れた。
そのときのこと。
知人の妻は、知人の横に座っていた。
私が知人に別れを告げているとき、その妻が、こう言った。
「林さん、昼ご飯を食べていってください」と。

 が、その地方では、それがあいさつ言葉になっている。
朝、遅く起きても、「おはよう(=早いですね)」と言うのと同じ。
ウソではないが、ウソ。
そんなとき、「じゃあ、いただきます」などと言おうものなら、さあ、たいへん。
家中、大騒ぎになる。
昼ご飯など、どこにも、用意されていない。

 もう10年も前に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【表と裏】

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みながみなというわけではないが、
私が生まれ育った郷里のM町では、
ときどき、何が本当で、何がウソ
かわからなくなる。

ウソをウソと意識しないまま、平気
でウソをつく。それがその地方の
習慣にもなっている。その場、その場で、
適当なことを言って、とりつくろう。

が、何よりも不思議なのは、そういう
ウソをつかれながらも、つかれた
ほうも平気、ということ。
それなりに、みな、うまく、やっている。

その郷里を離れて、40年。
以前、「飛騨の昼茶漬け」について
書いたことがある。4年前の原稿
である。(2007年6月記)

++++++++++++++++++

●飛騨の昼茶漬け

 日本人は、本当にウソがうまい。日常的にウソをつく。
たとえば岐阜県の飛騨地方には、『飛騨の昼茶漬け』という言葉がある。
あのあたりでは、昼食を軽くすますという風習がある。
しかし道でだれかと行きかうと、こんなあいさつをする。

 「こんにちは! うちで昼飯(ひるめし)でも食べていきませんか?」
 「いえ、結構です。今、食べてきたところですから」
 「ああ、そうですか。では、失礼します」と。

 このとき昼飯に誘ったほうは、本気で誘ったのではない。
相手が断るのを承知の上で、誘う。
そして断るほうも、これまたウソを言う。
おなかがすいていても、「食べてきたところです」と答える。

この段階で、「そうですか、では、昼飯をごちそうになりましょうか」などと言おうものな
ら、さあ、大変!
何といっても、茶漬けしか食べない地方である。
まさか昼飯に茶漬けを出すわけにもいかない。

 こうした会話は、いろいろな場面に残っている。
ひょっとしたら、あなたも日常的に使っているかもしれない。
日本では、正直に自分を表現するよりも、その場、その場を、うまくごまかして先へ逃げるほうが、美徳とされる。
ことを荒だてたり、角をたてるのを嫌う。
何といっても、聖徳太子の時代から、『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』というお国がらである。

 こうした傾向は、子どもの世界にもしっかりと入りこんでいる。
そしてそれが日本人の国民性をつくりあげている。
私にも、こんな苦い経験がある。

 ある日、大学で、一人の友人が私を昼食に誘ってくれた。
オーストラリアのメルボルン大学にいたときのことである。
私はそのときとっさに、相手の気分を悪くしてはいけないと思い、断るつもりで、「先ほど、食べたばかりだ」と言ってしまった。
で、そのあと、別の友人たちといっしょに、昼食を食べた。
そこを、先の友人に見つかってしまった。

 日本でも、そういう場面はよくあるが、そのときその友人は、日本人の私には考えられないほど、激怒した。
「どうして、君は、ぼくにウソをついたのか!」と。
私はそう怒鳴られながら、ウソについて、日本人とオーストラリア人とでは、ウソに対する寛容度がまったく違うということを思い知らされた。

 本来なら、どんな場面でも、不正を見たら、「それはダメだ」と言わなければならない。
しかし日本人は、それをしない。
しないばかりか、先にも書いたように、「あわよくば自分も」と考える。
そしてこういうズルさが、積もりに積もって、日本人の国民性をつくる。
それがよいことなのか、悪いことなのかと言えば、悪いに決まっている。

●私はウソつきだった

 実のところ、私は子どものころ、ウソつきだった。
ほかの子どもたちよりもウソつきだったかもしれない。
とにかく、ウソがうまかった。
ペラペラとその場を、ごまかして、逃げてばかりいた。
私の頭の中には、「正直」という言葉はなかったと思う。

その理由のひとつは、大阪商人の流れをくんだ、自転車屋の息子ということもあった。
商売では、ウソが当たり前。
このウソを、いかにじょうずつくかで、商売のじょうずへたが決まる。
私は毎日、そういうウソを見て育った。

 だからあるときから、私はウソをつくのをやめた。
自分を偽るのをやめた。
だからといって、それですぐ、正直な人間になったわけではない。
今でもふと油断をすると、私は平気でウソを言う。
とくにものの売買では、ウソを言う。
自分の体にしみこんだ性質というのは、そうは簡単には変えられない。

 そこであなたはどうかということを考えてみてほしい。
あなたは自分の子どもに、どのように接しているかを考えてみてほしい。
あるいはあなたは日ごろ、あなたの子どもに何と言っているかを考えてみてほしい。

もしあなたが「正直に生きなさい」「誠実に生きなさい」「ウソはついてはいけません」と、日常的に言っているなら、あなたはすばらしい親だ。
人間は、そうでなくてはいけない。
……とまあ、大上段に構えたようなことを書いてしまったが、実のところ、それがまた、日本人の子育てで、一番欠けている部分でもある。そこでテスト。

 もしあなたが中央官僚で、地方のある大きな都市へ、出張か何かで出かけた。
そして帰りぎわ、10万円のタクシー券を渡されたとする。
そのとき、あなたはそれを断る勇気はあるだろうか。

さらに渡した相手に、「こういうことをしてはいけないです」と、諭(さと)す勇気はあるだろうか。
私のばあい、何度頭の中でシミュレーションしても、それをもらってしまうだろうと思う。
正直に言えば、そういうことになる。

つまり私は、子どもときから、そういう教育しか受けていない。
つまりそれは私自身の欠陥というより、私が受けた教育の欠陥といってもよい。
さてさて、あなたは、子どものころ、学校で、そして家庭で、どのような教育を受けただろうか。

【補記】

日本人のこうした国民性は、話せば長くなるが、長くつづいた封建制度の結果と考えてよい。
今のK国のような時代が、300年以上もつづいたのだから、当然といえば当然。
「自分に正直に生きる」ということそのものが、不可能だった。

それについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省略する。
ただここで言えることは、決して、あの封建時代を美化してはいけないということ。
もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価はしなくてはいけない。
しかし美化すればするほど、日本人の精神構造は、後退する。

(はやし浩司 日本人の精神構造 封建時代の遺物 はやし浩司 家庭教育 育児 教育
評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 飛騨の昼茶漬け 
ウソも方便 嘘も方便)

++++++++++++++++

●表と裏

 私の知人の中にも、こんな人がいる。
裏で、私の悪口を言いながら、表では、平気でつきあってくる人である。
私はそういう人を見ながら、「この人の精神構造は、いったいどうなっているのだろう?」と思う。

 が、私は私で、そういう人とはつきあわない。
一度でも、そういう事実を知ったら、つ
きあわない。交際をやめる。
年賀状の交換もやめる。
が、そういう人にかぎって、騒ぎたてる。

 「あの林は、年賀状の返事もよこさない」とか、何とか。

 あるいは私の動向をさぐってくる。
何だかんだと口実をつくっては、近づいてくる。よ
ほど私のことが気になるらしい。
もちろん、私に好意的だから、そうするのではない。
私が失敗したり、不幸になったりするのが、楽しみだから、そうする。
それが私にもよくわかる。

 どうせそのレベルの人たちだから、そういう人は、無視する。
相手にしない。

 ……ということで、私は若いころ、こんな鉄則を自分につくった。
『つきあうなら悪口を言わない。悪口を言ったら、つきあわない』と。

 ついでに同じころ、こんな原稿を書いたこともある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●電話の口

++++++++++++++++++

あなたは受話器の話し口を手で押さえて、
近くの人と、話をすることはありませんか?

しかし、それはたいへん、危険なこと。
一度でも、それをすると、それが理由で、
相手との人間関係を破壊することになるかも?

++++++++++++++++++

 あなたは今、電話で、だれかと話をしている。
だれでもいい。
だれかだ。
そのとき、あなたは、近くにいる、子どもか、夫か、あるいは妻と、何か相談しなければならないことができた。
受話器はもったまま、だ。

 そのとき、あなたなら、どうするだろうか。

 一番、安全な方法は、電話機の「保留ボタン」を押すことだ。
それを押せば、何らかの音楽が流れ、会話は、それで完全に、途切れる。

 しかしそこまでは、したくない。
その必要は、ない。
そういうとき、あなたならどうするだろうか。
……あなたは、多分、電話の話し口(聞き口ではなく、話し口)の方を、手で押さえる。
そして小さな声で、近くにいる人に、顔をしかめながら、こう言うにちがいない。

 「この電話、あの林からよ。いやねエ~。どうるす?」と。

 あなたは話し口を手でしっかりと押さえている。
だから小声で話したことは、相手には、聞こえないと思っている。

 だからそう言い終わると、また手を離して、「そうですねえ、わかりました、林さん」と、明るい声で話す。

 しかし……だ。
最近の電話機は、性能がよい。
話し口を手で押さえたくらいでは、会話をさえぎることはできない。
あなたの話した言葉は、実は、耳にあてた聞き口からも、相手に伝わる。
話し口も、聞き口も、原理的には、構造は、同じ!

 だから、電話機の口を手で押さえたくらいで、安心してはいけない。
最近だが、こんなことがあった。

 私は、B氏に電話をした。少しこみいった話なので、内容は、省略する。
しかしB氏は、留守だった。(実際には、居留守を使っていた。)
かわりにB氏の妻が電話に出た。

私「……では、いつお帰りですか?」
妻「もうすぐ帰ってくると思いますが……」と。

 そのとき、B氏の妻は、受話器の話し口を手で押さえた。
その感触というか、手で押さえた感じが音でわかった。
ポンと耳がつまったような感じがした。
B氏の妻は、近くにいるB氏に、小声で、こう言った。「あの林からよ。いやねエ……。
この電話、どうする?」と。

 それに答えて、そばにいたB氏は、多分、首を横に振ったのだろう。
B氏の妻は、夫の様子を見て、再び、明るい声で、「ごめんなさいねエ。また帰ってきましたら、林さんから電話があったことを、主人に伝えておきますから……」と。

 ……という、この話は、実は、フィクションである。
最近、別のところで聞いた話を、私の話にからめて、作ってみた。

 しかし、現実に、こんなことが私に起きたとしたら、私なら、そのB氏とは、絶交する。
つきあう必要は、ない。
つきあいたくもない。

 ……ということで、今日は、電話の話。
今でも、受話器の話し口を手で押さえて内密な話をする人は、少なくない。
しかし、それはたいへん危険なこと。
あまりにも無防備なこと。
それをみなさんにお伝えしたくて、このエッセーを書いた。

 ……なおこの話が、ウソだと思うなら、だれかに協力してもらって、自分で確かめてみたらよい。
私の言っていることがウソでないことが、わかってもらえるはず。
どうか、くれぐれも、ご用心!


++++++++++++++

 この中で、私は、「この話は、フィクションである」と書いた。
しかし詳しくは書けないが、似たような経験をしたから、私は、この話を書いた。

 ここでいうB氏も、表と裏のある人ということになる。
それまではかなり親しくつきあっていた人だったが、私は、この電話のあと、B氏とは、縁を切った。
ワイフは、「適当につきあっておけばいいのよ」と言ったが、私には、そういう芸当ができない。
若いころならできたかもしれないが、今は、もうできない。
めんどうというか、そういう人が近くにいるだけで、神経がすり減ってしまう。

 が、B氏にはそれがわからない。わからないというか、私がなぜ怒っているかさえ、わ
かっていない。
だからそのあとも、何ごともなかったかのように、何度も電話をかけてきたりした。

 適当にものを言って、その場をやりすごす。
そういう人は、少なくない。
好きか嫌いかということになれば、私は、そういう人が、大嫌い! 
そういう人と、愚劣な交際をつづけて、無駄にする時間は、私には、もうない!

【補記】

 私は、そういう意味でも、この浜松が、大好き! 
私のワイフの兄弟にしても、みな、正直。
本当に正直。表も、裏もない。
そのわかりやすさが、たがい人間関係を、さわやかなものにしている。

 たとえばこの浜松では、ものの売買をするときでも、(掛け値)ということをしない。
(値切る)ということもしない。
そういうやりとりをしているところを、見たことさえない。

 人間関係もそうで、少なくとも私のワイフの兄弟たちは、ありのままの姿で、ありのま
まに生きている。
飾ることもない。虚栄を張ることもない。
見栄や世間体とは、みな、無縁の世界で生きている。
すばらしいことだと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本人の嘘 はやし浩司 日本人のウソ ウソも方便論)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●再び、マニフェスト

 ウソをつくのが商売。
それが政治家。
そんな政治家に、誠実さを求めても、意味はない。
悲しいことだが、この日本では、だれもが、そう思っている。
私もそう思っているし、あなたもそう思っている。
私もごく最近まで、「公約」などというものは、選挙に勝つための「方便」と思っていた。
言うなれば、「選挙目標」。
だから公約が破られたからといって、それほど腹を立てなかった。

 が、しだいにウソに対して、国民の目がきびしくなってきた。
日本人の意識が、少しずつだが、変化してきた。
「公約違反」という言葉も、よく聞かれるようになった。
そこで登場したのが、「マニフェスト」?
「軍隊」を「自衛隊」と言い換えたようなもの。
つまり国民をだますための煙幕?

 私には、そう思われてならない。
だったら、やはり「選挙宣誓書」と言えばよい。
どうしてそういう言葉を使わないのか?
そのほうがわかりやすいし、国民も、注視する。
もちろん重みも、ぐんとます。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 マニフェスト 選挙宣誓書 選挙声明文 公約論)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

 






2012年5月27日日曜日

I support Ishihara's Comment on the Olympics

【今日、国際ニュースより】日本の国益を第一に!

●日本よ、ギリシャを助けるな!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

日本よ、ギリシャに、手を出すな。
助けるな。
まず自国の利益を第一に考えろ。
「冷たい」「卑怯」と言われても、構わない。
今の日本に、そんな余裕はないぞ。

いい子ぶるな。
お人好しになるな。

ギリシャは、すでに破綻している。
そんな国に5兆円(IMF)も注いでどうなる。
どうする。
最後にババを引くのは、この日本だぞ!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●100兆円!
 
 まずブルームバーグの記事。
こうある。

 『世界の銀行業界を代表する国際金融協会(IIF)のダラーラ専務理事は、ギリシャのユーロ圏離脱のコストが手に負えないほど膨らみ、協会がこれまで予想していた1兆ユーロ(約100兆円)を上回る公算が大きいと警告した』(2012ー05-25)と。

 ぞっとするような金額である。
そういう数字を示しながら、「ギリシャを離脱させてはいけない」と。

 その上で、『6月にメキシコのロス・カボスで開催される20カ国・地域(G20)首脳会合を前に欧州首脳は、(5月)26日、世界経済の回復に向け欧州と日米中3カ国は、責任を共有するとして、日米に財政再建を求めるとともに、中国には改革を断行するよう促した』(ロイター)と。

 すでにアメリカは、イチ逃げた!
IMFへの拠出金額、ゼロ。

 が、これですむとは、だれも思っていない。
『スペインのカタルーニャ州政府のアルトゥール・マス知事は25日、中央政府に対して支援を重ねて要請した』(ブルームバーグ)と。

 つづいて『スペイン政府が今月初めに国有化した同国銀行3位のバンキア・グループは、不動産融資とそれ以外の融資の引当金を準備するため、190億ユーロ(約1兆9000億円)の公的資金による追加支援を申請する』(ブルームバーグ)と発表した。
これについて、大和キャピタル・マーケッツのエコノミスト、トビアス・ブラットナー氏(ロンドン在勤)は、25日の電話取材に対し、「われわれが最初からずっと指摘してきたようにバンキアは氷山の一角にすぎない」(ブルームバーグ)と答えている。

 氷山の一角!

●資本主義社会のリシャッフル

 トランプ(ゲーム)では、ときどきカードをリシャッフルする。
こうしてゲームの公平性を保つ。
同じように今、世界で、富のリシャッフルが起きている。

 それほど働かなくても、優雅な生活ができる人たちがいる。
その一方で、働いても働いても、貧しい生活を強いられる人たちがいる。
今のところこの日本は、前者の「優雅な生活ができる国」に属している。
貿易収支(モノ)が赤字でも、資本収支(金貸し)で、何とかカバーしている。
が、こんな状態がいつまでもつづくとは、だれも思っていない。

 その先陣を切ったのが、(「先陣」というのも、おかしいが)、EUということになる。
もともとアメリカのドルに対抗し、EUが生まれ、ユーロが生まれた。
当初、ユーロはドルを凌駕(りょうが)するほどの勢いを見せた。
相対的に、アメリカドルの地位は衰退した。
日本が橋本政権だったころの話である。

 その結果、今のEUが生まれた。
ギリシャを含む南欧世界が生まれた。
みな、それほど働かなくても、優雅な生活ができるようになった。

 が、ここにきて、EUの国家経済が、つぎつぎとおかしくなってきた。
まさに「リシャッフル」が、始まった。

●映画『ファミリー・ツリー』

 ところで私とワイフは、おとといの夜、ジョージ・クルーニー主演の映画『ファミリー・ツリー』を見てきた。
内容はまさに、アメリカのハリウッド映画。

 仕事中心主義の夫。
その夫で、さみしい思いをしていた、(=ヒマをもてあましていた)妻。
それを理由に、妻は不倫。
(セックス第一主義の、実にアメリカらしい、発想!)
その最中、妻はボート事故で、植物人間に。
事故のあと、夫は、妻が不倫を重ねていたことを知る。

 私はあの映画が始まると同時に、即座にこう思った。
「何だ、このド・ぜいたくな生活は!」と。

 うそだと思うなら、そういう視点で、あの映画を見てみたらよい。
映画は一応、(家族の絆の大切さ)をテーマにしている。
しかしそんなことは、ド・ぜいたくは、アメリカだからこそ、言えること。
少なくとも、世界の標準ではない。
今の今も、世界の人口の3分の1の人たちは、じゅうぶんな食料もなく、飢餓状態であえいでいる。

 「何が、家族だ!」
 「何が、不倫だ!」
 「何が、子どもの教育だ!」と。

 まさに飽食映画。
ド・ぜいたく映画。
それが『ファミリー・ツリー』。
そしてそれがさもあるべき、人間の生活であるかのように、私たちに見せつける。
「これがあるべき本来の生活だ」と。

 あのね、どうしてアメリカ人だけが、ああした、ド・ぜいたくな生活ができるか、それを一度、考えてみたらどう?

 言うまでもなく、強大な軍事力に支えられた、強いドルが、それを可能にしている。
いくら印刷に印刷を重ねても、世界の人たちは、ドル紙幣をほしがる。
言うなれば有名画家の絵画と同じ。
サラサラと描いても、数万ドル、数10万ドルで売れる。

●自業自得

 私もあるとき、息子の1人にこう言われたことがある。
(だからといって、その息子を責めているのではない。誤解のないように!)
「パパは、仕事ばかりしていて、家庭を顧みなかった」と。

 事実、そうだったから、反論のしようがない。
私は仕事ばかりしていた。
が、私たちが生きた時代は、そういう時代だった。
多かれ、少なかれ、みな似たような生活を送っていた。
孤立無援。
その中で、家族にだけは、ひもじい思いをさせたくないとがんばった。
学費だけは、惜しみなく出してやろうと願った。

 が、最近の若い人たちは、私たちが経験したような時代を知らない。
ボットン便所すら知らない。
知らないばかりか、アメリカの生活を基準に、こう言う。
「戦争を起こしたのは、パパたちの世代だ。自業自得」と。
(戦争を起こしたのは、私たちではないのだが……。)

 不幸なことに、本当に不幸なことに、豊かな生活は、天から降ってくるものと思っている。
映画『ファミリー・ツリー』の中で見るような生活が、世界の標準と思っている。

●アメリカの尻馬

 が、豊かであることは、悪いことではない。
ショッピングセンターに行けば、モノや食料品が山のように積んである。
電気やガスも、今のところ無事、使うことができる。
「水資源」が豊かなのは、本当に、ありがたい。

 が、その豊かな生活に、このところ陰りが見え始めた。
簡単な計算だが、あなたの現在の生活から、1000万円x(家族数)の現金を引いてみればよい。
(3人家族なら、3000万円を引く。)
それが日本人の、現実の(力)ということになる。
(国の借金を、1人=1000万円で計算した。)

 そのとき、あなたの周囲に、何が残るか?
ふつうは、何も残らないばかりか、借金が残るはず。
が、それでも、何とか今は、豊かな生活ができる。
なぜか?

 理由は簡単。
アメリカの尻馬に乗り、かろうじて(円)の力を維持しているからにほかならない。
辛らつな言い方に聞こえるかもしれないが、事実は事実。

●日本の国益

 が、日本人の私たちは、それでも日本の国益を最優先する。
理由がある。

 日本を一歩外に出れば、そこは野獣うごめく、無法地帯。
弱肉強食の論理だけが通用する、野蛮世界。
食うか、食われるか。
見た目はともかくも、資本主義経済というのは、原罪的にそういった宿命を負っている。
そういう中、もしここで日本が気を緩めれば、日本はあっという間に、野獣の餌食になってしまう。
(すでになってしまっているが……。)

 スポーツと同じとまでは言わないが、はじめから「負けてもいいや」では、勝負にならない。
勝つことはできない。
懸命に戦っても、現状維持が精一杯。
そんな中、冒頭の結論に戻る。

いい子ぶるな。
お人好しになるな。

●ちまちました人間

 たまたま昨日(5月25日)、石原東京都知事は、20年夏季五輪招致に対する国内支持率を批判し、こう言った。

「一体、日本人は何を望んで、何を実現したら胸がときめくのか。
ちまちました自分の我欲の充実で、非常にやせた民族になった」(定例記者会見)と。

 国際オリンピック委員会(IOC)の調査で、国民の支持率が47%と低かったことについて、である。

 私はまったく同感である。
が、それに対して、若い人たちの反応には、驚くべきものがある。
2チャンネルへの書き込みを、上から選択しないで、10個だけ、転載させてもらう。

★お前がオリンピックやろうとしてることが我欲の充実なんじゃねえかw

★国民が望んで無い事を都知事が勝手に突っ走って何を考えているのか?

★オリンピックをなぜ欲しがるのかさっぱりわからん

★我欲の塊のジジイがなんか言ってら

★オリンピックよりも先にやらなきゃならんことが山積みだから反対してんだろ。
バカかこのジジイは

★そもそもなんで運動のできる人に金払って、遊ばせておくのか意味がわからん

★栄えるのは東京だけ

★五輪は欧米でやるからこそ有難味があんだろ

★オリンピックなんかやらなくていいよワールドカップだけ誘致すればいい

 敗戦後の混乱期。
その中からはい上がった日本人。
その日本人は、あの東京オリンピックに、「光」を見た。
未来につづく「希望」を見た。
精神だけではない。
もちろん東京オリンピックが日本にもたらした経済的利益には、計り知れないものがある。

 今の若い人たちに、それを理解せよと言っても、無理なのかもしれない。

●負け戦

 今日も、こんなニュース。
 
 リコーがデジタル複合機の国内主力工場である御殿場事業所(静岡県御殿場市)を、2013年3月末までに閉鎖するという(26日)。

昨日(25日)、半導体大手のルネサスエレクトロニクスが、従業員約4万2000人のうち、1万~1万2000人をリストラすると発表したばかり。
これによって、『この2月に経営破綻し、経営再建中のエルピーダメモリにつづき、国内電機大手の共同出資による「日の丸半導体」メーカーは、さらに苦境に立たされることになる』(以上、時事通信)と。

 つまりこの先、こんなニュースが毎日つづくようになる。
日本という国家は、少しずつ終焉を迎える。
これを私の世界では、「負け戦」という。
が、この負け戦ほど、神経を消耗し、腐らせるものはない。

 だからここは、なりふり構わず、ふんばる。
繰り返す。

いい子ぶるな。
お人好しになるな。

 今の日本に、そんな余裕は、ないぞ!
2012/05/27夕方記


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●老後、つづく老後

【老後vs老後】(人間と人間をつなぐ絆の粘着力)

●5月27日(日曜日)(朝記)

 昨夜遅く、この山荘にやってきた。
時刻は、午後9時ごろだった。
途中、いつものようにコンビニに寄り、いくつかの食料を調達。
山荘に着いてから、それを遅い夕食とした。

●雑談

 昨夜はDVDは、なし。
そのかわり、ワイフと雑談。
気がついたときには、午後11時を過ぎていた。

「風呂はどうする?」とワイフが聞いたので、「明日の朝にしよう」と私。
そのまま雑誌を読みながら、就寝。
で、今朝は、午前4時に目が覚めた。
ふだんなら、もう一度眠りなおすのだが、今朝はそのまま起床。
このところ原稿らしい原稿を書いていない。
それが理由で、起床。
そのまま居間へ。

 パソコン用バッグから、マウス、老眼鏡、目薬を取り出す。
それをコタツの天板の上に並べる。
携帯端末機を、ネットにつなぐ。
サッとニュースに目を通したあと、こうして文章を叩き始める。
時刻は今、ぴったり、午前4:00分。

●離婚

 書きたいことは、いくつかある。
……というか、昨日、「病気と離婚」について、少し書き始めた。
たとえばある精神科医はこう書いている。
「うつ病で医院へやってくる男性の50%は、その段階で、離婚している」と。

 うつ病になったから、離婚したのか、それとも離婚したから、うつ病になったのかはわからない。
ともかくも、事実は、そういうことらしい。

●心情的に理解できない

 が、夫か妻ががんに罹患したとき、離婚率が高くなるというのは、心情的に理解できない。
こういうばあい、「ふつうなら……」という言い方は避けたい。
しかしふつうなら、離婚しないでがんばる。
妻か夫の最期を見届ける。

 もっとも夫婦の仲ほど、摩訶不思議なものは、ない。
それぞれの夫婦には、それぞれに事情が複雑にからんでいる。
がんでなくても、ふつうの病気でも、それがきっかけで離婚ということもありえる。
また離婚するからといって、薄情(昔風の言い方)と決めつけては、いけない。

 が、全体としてみると、人間関係が希薄になっていることは、事実。
たとえば老親のめんどうをみない息子や娘が、急増している。
親が生活保護を受けながら、息子が優雅な生活を送っているというケースは、多い。
先ほど問題になった、お笑いタレントのKJ(37歳)も、その1人。

 Yahoo・Newsは、つぎのように伝える。

 『お笑いコンビ「次長課長」のKJさん(37)は25日、母親が最近まで生活保護を受給していたことを東京都内で開かれた記者会見で認め、一部を返還する考えを明らかにした。
厚生労働省は今後、扶養可能な親族がいる場合は、家庭裁判所での調停を通じ、民法の扶養義務を果たさせるよう自治体に呼びかけるなど、運用を厳格化することを決めた』と。

●親を棄てる子どもたち

 が、現実はきびしい。
結婚と同時に、「ハイ、さようなら!」と、親を捨てていく息子や娘は、多い。
それについて去年(2011年10月)、私が批判記事をBLOGに書いたら、つぎのようなコメントを書いてきた男性(千葉県・EH)がいた。
題名は、「阿呆」。

「親の面倒をみろというのは、それ自体が束縛だ。
私は、自分の子どもには、そういう思いをさせたくない」と。

 年齢は文面からすると30歳前後。
最近、子ども(性別不明)をもったらしい。

 現在の若者たちは、親のめんどうをみることを、「束縛」ととらえる。
しかもまだ親の面倒を経験したこともないような男性が、未来を先取りする形で、だ。
そしてこう言う。
「自分の子どもは、束縛しない」と。

 ずいぶんと勝手な意見というより、オメデタイ!
が、民法の扶養義務をあげるまでもなく、子どもが親のめんどうをみるのは、「義務」。
「束縛」とか、そうでないとか議論する以前の問題である。

 つまり現在は、子どもが親を棄てる。
配偶者が配偶者を棄てる。
そういう時代になった……と考えてよい。

●パサパサ

 たしかに人間関係が、パサパサし始めている。
友人、親類、親子、それに夫婦。
その夫婦の仲も、粘着度で決まる。
粘着度の低い夫婦もいれば、高い夫婦もいる。

 それについては、たびたび書いてきた。
その中のひとつを、そのまま紹介する。
日付は、2011年6月になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(2011年6月の原稿より)

●人間どうしをつなぐ粘着力

++++++++++++++++++++

心理学の世界には、「共依存」という言葉がある。
それについては、たびたび、書いてきた。
よくあるケース。
暴力的な夫と、その夫に、涙ぐましいほどまでに、
献身的に仕える妻。
「ふつうなら……」ということになるが、一度、
共依存関係ができてしまうと、その関係を
断ち切るのは容易なことではない。
まず、共依存について書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●共依存(改)2011-06-29

酒に酔って暴れる夫。殴られても蹴られても、そういう夫に尽くす妻。
典型的な共依存関係である。
妻に依存することで、自分の立場を確保する夫。
依存されることで、自分の立場を確保する妻。
妻を殴ったり蹴ったりすることで、妻の従順性を確かめる夫。
殴られたり蹴られたりすることに耐えながら、夫への従順性を証明しようとする妻。
たがいに依存しあいながら、自分を支える。
傍から見ると何とも痛ましい夫婦関係だが、親子の間でもときとして、同じことが起きることもある。

家庭内暴力を繰り返す息子と親の関係。
ニートとなり家の中に引きこもる子どもと親の関係。
子どもを突き放すことができない。
親自身も、無意識のうちに子どもに依存しているからである。

(補記)

●共依存

 依存症にも、いろいろある。
よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症など。
もちろん、人間が人間に依存することもある。
さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。
それを「共依存」という。典型的な例としては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。
仕事はしない。
何かいやなことがあると、妻に怒鳴り散らす。
しかし決定的なところまでは、しない。
妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前でやめる。
(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)
それに、いつも、暴力を振るっているのではない。
日ごろは、やさしい夫といった感じ。
サービス精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。
お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけている」と、謝ったりする。
一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。
私は、この人には必要なのだ。
だからこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と思い込み、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。
そして夜、遅く帰ってくる。
子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。
そして仕事から帰ってくるときは、必ず、夕食の材料を買って帰るという。
それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。
そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところがあった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。
本来なら、夫に、依存性をもたせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だった。
当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。
夫は、自分から離れていってしまうかもしれない。
そんな不安感があった。
だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をもたせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きなキズを負うことが知られている。

「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。
このような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないかという不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを身につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェルドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症とも考えられなくはない。
もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような症状は現れる。
で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……という疑問をもつ人がいるかもしれない。
理由は、簡単。

このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。
一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。
世間的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。
だからますます、夫に依存するようになる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。
これが「共依存」であるが、しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。
親子、兄弟の間でも、生まれやすい。
他人との関係においても、生まれやすい。
生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。

親子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。
わざと、弱々しい母親を演じてみせるなど。
娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買ってきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存していたことになる。
こういう例は多い。
息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたりするなど。

前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いている自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。
その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりながら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。
その同じ母親が、その翌日には、友人たちとスタスタと歩いていた!
その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。
いわゆる自立できない親は、そこまでする。

「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではない。
言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。
決して珍しくない。
で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。
そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像するが、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。
むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、男性のそれより、強烈であることが知られている。
女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。

母と成人した息子がいっしょに風呂に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題にはならない。
こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。
このつづきは、また別の機会に考えてみたい。

(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティックバイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●読み返してみて……

 前述の原稿は、ずいぶん前に書いた原稿である。
「ずいぶんと勝手な解釈をしているな」と思うところもないわけではない。
しかしこれは心理学一般に共通することだが、心理学の世界では、数学でいえば、いわゆる「公式」的なことしか書いてない。
具体例が書いてある本というのは、少ない。
さらに「では、どうすればいいか」というところまで書いてある本は、さらに少ない。
「心理学」というのは、そういうものかもしれない。
言うなれば、心の作用を、結晶化したもの。
それを並べて説明したのが、心理学。

 言い換えると、心の作用は複雑。
複雑というより、もろもろの心理作用が、複雑にからみあって、その人の心理作用を決める。

共依存についても、純粋な意味での「共依存」というのは、ない。
だからそのあとは、「それぞれの人の解釈で……」となる。

 こうした勝手な解釈は、アカデミックな世界では許されないことかもしれない。
自分の意見を付け足すことについても、そうだ。
が、しかし逆に言えば、心理学だけで、人間の心の採用をすべて説明できるわけではない。
たとえば、こんな例で考えてみよう。

●仮面夫婦

 「仮面夫婦」という言葉がある。
私たち夫婦もそれかもしれない。
あなたがた夫婦も、それかもしれない。
表面的には夫婦だが、中身は空っぽ。
形だけの夫婦をいう。

 が、そういう夫婦の方が多いことを思えば、「それが夫婦」ということになる。
結婚当初のように、ラブラブの関係にある夫婦というのは、まず、いない。
またそういう夫婦を基準にしてはいけない。
恋愛は、ロマンス(=夢の中のできごと)だが、結婚は、現実である。

●悪妻

 私は率直に言うが、Nさん(女性、45歳)ほどの悪妻を、ほかに知らない。
まさに悪妻中の悪妻。

 突発的に錯乱状態になり、夫を蹴る、殴るは当たり前。
一足数万円もするようなハイヒールの靴を、夫に投げつけたりする。
さらにはげしくなると、台所からフライパンをもってきて、それを夫に投げつけたりする。

 見るに見かねて、夫の両親と夫の兄が、Nさんを精神病院へ連れて行こうとしたことがある。
しかしNさんは、さらに暴れて、それを拒否。
近所中に聞こえるような声で、泣きわめいた。

 が、一晩……というより、数時間もすると、まったく別人になってしまう。
まったくの別人である。
穏やかで、やさしい。
言葉の使い方も、ていねい。
が、よく観察すると、どこか不自然。
どこか演技ぽい。
別の心を、どこかで押し殺しながら、そうする。

 こんなことがあった。

 夫は、宅配便の運転手をしている。
稼ぎは、それほど、多くない。
そのこともあり、生活費が足りなくなると、Nさんは、夫の実家へ行く。
やや痴呆症になりかけた父親と病弱な母親がいる。
それをよいことに、「100万円、出せ!」「200万円、出せ!」と。
 夫の両親は、ともに80歳を超えている。

会計士として蓄えた財産はあるが、それにも限度がある。
そこで母親が、「5万円くらいなら……」と言うと、Nさんは、その現金を、母親の顔に叩きつけて、その場を去っていったという。

 が、夫は、Nさんと離婚はしない。
2人の子どもがいた。
それにNさんの夫は、心のやさしい男性だった。
妻に蹴られたり、殴られたりしても、オロオロと逃げ回るだけ。

●心の病気

 こういう関係を、どう理解するか。
「共依存」という言葉だけでは、説明がつかない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、多分に心の病気がからんでいる。
夫にしても、そういう妻であるにしても、孤独であるよりはよい。
あるいは夫自身も、何かの心の病気をかかえているのかもしれない。
それに毎日がそうであるというわけでもない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、10日に1度くらい。
多くて、5日に1度くらい。
それ以外のときは、先にも書いたように、むしろおだやかで、やさしい。

 そこで私は、……つまりNさんの夫のことを思いめぐらすうち、「心の粘着力」という言葉を思いついた。
もちろん心理学上の言葉ではない。
私が勝手につけた名前である。

●心の粘着力

 人間関係には、ある程度の粘着力がある。
強弱の差はあるかもしれない。
粘着力の強い人間関係もあるだろうし、弱い人間関係もある。
強い人間関係は、「ネバネバ」ということになる。
弱い人間関係は、「パサパサ」ということになる。

 夫婦の関係。
友人の関係。
親類、縁者の関係。
近隣の人たちとの関係。
もちろん親子の関係、などなど。

 最近の若い人たちの傾向としては、前にも書いたが、デジタル型の人間関係が目立つ。
人間関係を、「ON」と「OFF」だけで、割り切ってしまう。
一度、「OFF」にすると、まったくのゼロにしてしまう。

 で、ここではもう一歩、話を進めて、ではどういうときにネバネバになり、またどういうときにパサパサになるか。
それについて考えてみたい。

●ネバネバ

 最近、私とワイフの関係は、加齢とともに、よりネバネバになってきたように感ずる。
「先が短くなった」という思いもある。
積み重ねてきた思い出も多い。
とくに私たち夫婦は、すべてを、2人だけでしなければならなかった。
だれの助けも期待できなかったし、だれも助けてくれなかった。

 3人の息子たちにしても、ワイフは自分で助産院に行き、ひとりで子どもたちを産んだ。
そのあとも、だれにも助けてもらわなかった。

 一方、私は仕事オンリー。
それでも家計は苦しかった。
当時はそういう時代だった。
だから余計に、私はがむしゃらに働いた。
20~30代のころは、休日は、月に1日だけ。
そんな年が何年もつづいた。

 だからというわけでもないが、私たち夫婦は、言うなれば「ネバネバ夫婦」。
どんなはげしい夫婦げんかをしても、1~2日のうちには、もとに戻る。
もとに戻って、また手をつないで歩く。
が、私がここで書きたい「ネバネバ」は、それとは意味が少しちがう。

 先のNさん夫婦のばあいである。
「ふつうなら、離婚」ということになるが、離婚しない。
「子はかすがい」とは言うが、それもあるのかもしれない。
が、何が2人をつないでいるのか。
そのつないでいるものが、ここでいう「ネバネバ」ということになる。

●理解のワク

 もう一度、共依存の話に戻る。
共依存の関係にある夫婦は、たしかにネバネバしている。
ほかにも、夫婦の間の会話が完全に途切れてしまった知り合いもいる。
まったく、しない。
そこでその夫婦のばあい、息子たちが、夫婦の、(つまり両親の)、連絡係をしている。
が、それでも夫婦。
離婚しないのか、できないのか、あるいはなぜそうなのか。

 そういうのを「仮面夫婦」というが、仮面の向こうに隠されたネバネバは、常識では理解できない。
外見だけからは、わからない。
それこそ私のような人間が、いくら想像力を働かせても、理解できるようなものではない。
理解のワクを超えている。
「私なら、即、離婚」と口で言うのは、たやすい。
しかし、問題は、そんな簡単なことでもない。

●離婚率35・4%

 もちろん反対に、「パサパサ夫婦」というのも、いる。
昔は、「成田離婚」というのも、あった。
新婚旅行から帰ってきたそのとき、成田空港で離婚する。
だから「成田離婚」。

 パサパサといえば、パサパサ。
成田離婚は別として、さしたる理由もないまま、簡単に離婚していく人も、これまた少なくない。

一般論からいうと、(統計的にもそういう数字が出ているが)、身近に離婚経験者がいると、その影響を受けて、その夫婦も離婚しやすいという。
姉夫婦が離婚したとたん、妹夫婦も、離婚する。
親が離婚経験者だと、子も離婚しやすくなる、など。

 何も離婚することが悪いと書いているのではない。
離婚など、今どき、珍しくも何ともない。
厚生労働省が発表している人口動態総のデータによれば、平成19年度に結婚した人の数が約72万人に対して、離婚した人の数は25万5000人ということになっている※。
72万人に対して、25万人。
離婚率でみるかぎり、254832÷719822=35・4%!

 この数字をどう読むかだが、意外と、都会に住む人ほど、離婚率が低いというのも、興味深い(同、統計)。

(注※)結婚届を出す数が、毎年72万人。
離婚届けを出す人が、毎年25万人ということ。
結婚年数や、結婚→離婚を繰り返す人の数などは、考慮に入っていない。

(注※)2010年について
『厚生労働省の「2010年・人口動態特殊報告」によると、つぎのようになっている。
婚姻数……98万2044人
離婚数……36万9140人』

 この数字から、「結婚した10組のうち、4組が離婚する」(厚生労働省)ということになる。(37万÷98万=0・38)

●二人三脚

 私の考えでは、夫婦でも、「形」にしばられることなく、人間関係が破綻したら、さっさと離婚したほうがよいのでは、と思う。
思うだけで、では、実際、自分たちがそうなったら……というときのことを考えると、自信はない。
それでもネバネバとがんばるかもしれない。

 世間体もある?
もちろん子どもたちのこともある?
が、それ以上に、今は、もう夫婦でありつづけるしかない。
二人三脚でも生きていくのがむずかしい。
ひとりになって、どうやって生きていくというのか。

 が、結論から先に言うと、つまり、これがこのエッセーの結論ということになるが、人間関係が、近年、ますますパサパサになってきた。
ネバネバ感が消え、パサパサになってきた。
つまり人間どうしをつなぐ、粘着力が、弱くなってきた。
それがよいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
その結果は、もう少し先になってみないとわからない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 粘着力 パサパサ人間 ネバネバ人間 離婚率 日本人の離婚率)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(以上、2011年6月に書いた原稿)

●離婚率

 離婚率の計算はむずかしい。
厚生労働省が発表する人口動態調査にしても、どの部分をどうみればよいのか、それがよくわからない。

たとえば直近の2010年についてみれば、(離婚届数)を(婚姻届数)で割ってみると、約38%という数字があがってくる。
つまり現代は、10組の夫婦のうち、4組までが離婚する時代ということになる。

 一方、厚生労働省は、こんな数字もあげている(人口動態調査)。

「……婚姻率、5・3%(2011年)、離婚率、1・86%」と。

 表のトップに、「人口千対(人口1000人に対して)」という注釈が入っている。
が、ここがよく理解できない。
「率」で示すのなら、「人口千対」は、必要ない。
1000人だろうが、1億人だろうが、率は、変わらない。
それとも、「人口1000人に対して、結婚した人が、5・3人、離婚した人が、1・86人」という意味なのだろうか。
しかし人口動態調査には、「婚姻率」「離婚率」とある。

 ともあれ、こと離婚率をみるかぎり、2002年の2・30をピークに少しずつだが、さがり始めている。
俗説だが、不景気になればなるほど、離婚率は下がるという。
理由は容易に推察できる。

●私たち夫婦

 私たち夫婦も、何度か危機を経験している。
けっして無事というわけではなかった。
言い換えると、仮面夫婦であれ何であれ、離婚の一歩手前でふんばっている夫婦も多いということ。
離婚届けを出す夫婦は、まさに氷山の一角。

 また同じ夫婦でも、いろいろな時がある。
夫婦喧嘩、離婚騒動を、年中行事にしている夫婦だっている。
「離婚していないから、いい夫婦」というふうには、考えていけない。

 で、私たちの結論。
「夫婦も、友人ね」と。

●終の棲家(ついのすみか)

 人生も最終段階に入ってきた。
昨夜もワイフが、「終の棲家はどうするの?」と、数度、聞いた。
家の建てなおしをいう。

 ……といっても、計画は、すでに立ててある。
あとはいつそれを実行するか。
現在の住居地の3分の1を売る。
それで得たお金で、家を建てなおす。
老人向けの家にし、どちらかが独りになっても、生活できるようにする。

 「老人向け」というのは、老人向け。
居間と寝室、風呂、洗面所、トイレを、効率的に結合する。
壁すべてに、手すりをつける。
車椅子のまま、道路へ出られるようにする、など。

 で、最終的に、残された1人が動けなくなったら、有料の老人ホームに身を寄せる。
それが私たち夫婦の、最期の計画。

●「外見(そとみ)だけはなア……」

 が、それよりも深刻な問題。
つまりいつ、どのような形で、「負け」を認めるか。
このところ、そういう問題が、浮上してきた。
というのも、ちょうど2年ほど前、こんな事件があった。

 で、その前に、養老孟司氏について書いておく。
解剖学の権威である。
個人的には、数回、面識がある。
愛知万博の諮問委員をしているときに、会った。
氏の「バカの壁」という本だけは読んだことがある。
それ以外には、知らない。
養老孟司氏を意識したこともないし、目標にしたこともない。

 で、その会に出たときのこと。
だれかが、私にこう言った。
「林君(=私)は、養老孟司の若いときに似ているな」と。
多分白髪まじりのボサボサの頭を見て、そう言ったと思う。
が、横にいたX君(同年齢)が、すかさず、こう言った。
「外見だけはなア……」と。

 X君は、少し、酔っていた。
それを差し引いても、辛辣(しんらつ)な言葉である。
そのときは、ハハハと笑ってすましたが、あとになってその言葉が、私の心に大きな穴をあけたのを知った。

●敗北宣言

 いろいろやってはみたけれど……ということになる。
いろいろやってはみたけれど、所詮(しょせん)、私は、この程度の人間。
それをいつ、どのような形で認めるか。
敗北宣言という深刻なものではないにしても、それに近い。

 といっても、私は何も名声や地位、財力を求めてきたわけではない。
「自由」を求めてきた。
が、その自由も、「死」を前にすると、粉々に吹き飛んでしまう。
いくら「私は自由だ」と叫んでも、そこには限界がある。

 まずやってくるのが、肉体的な限界。
足腰が弱くなる。
歩けなくなる。

 つぎにやってくるのが、精神的な限界。
気力の限界と言い換えても、よい。
脳みその限界と言い換えても、よい。
「死」は、そのあとに、やってくる。

 そうした限界を乗り越えるためには、サルトル※が説いたように、「無の概念」を取り入れるしかない。
徹底して、自分を「無」にする。
「失うものは何もない」という状態にする。
そのとき私たちは、「限界(限界状況)」を乗り越えることができる。
もっとわかりやすく言えば、「私」を消す。
それがここでいう敗北宣言ということになる。
「身を運命に差し出す」。

(注※)サルトル……ジャン・ポール・サルトル
フランスの哲学者。
1905年6月21日生まれ、1980年4月15日(74歳)没。

●孤独

 わかりやすく言えば、「離婚どころではない」ということになる。
たとえて言うなら、崖っぷちに向かって進んでいる車の中で、夫婦喧嘩をしているようなもの。
また仮に離婚したからといって、未来は何も変わらない。
(どちらかに愛人でもいれば、話は別だが……。)
そこで待ち構えているのは、孤独だけ。
そうでなくても、独りで生きていくのは、むずかしい。
さらに言えば、離婚するエネルギーが残っているなら、そのエネルギーは、別のことに使いたい。

 ……というような話を、昨夜、こたつに入って、ワイフとした。

私「あのX君ね、ズバリ、痛いところを突いてくれた」
ワ「……」
私「ぼくはX君が言うように、外見だけの人間だった……」
ワ「でも、あなたは名誉も地位も、蹴飛ばして生きてきたわよ」
私「本当は、そうではない」
ワ「?」
私「そのチャンスがなかった。あれば、シッポを振っていたかもしれない」と。

●今日は今日

 さて今日も始まった。
時刻は、午前5:34分を示している。
ワイフが起きたら、入浴。
そのあと、庭掃除。
それがすんだら、たき火。

 で、昼から、映画を見に行くことになっている。
『MIB(メン・イン・ブラック)』。
楽しみ。

 それから現在、我が家の最大の関心ごとは、ぼたんインコの「ピッピ」。
息子は、昨夜も、「ぼたんインコの飼い方」という本を熱心に読んでいた。
ぼたんインコは、たしかに、かわいい。
「ラブ・バード」ともいう。
頭もよい。
感情は、人間並み。
で、だれかがこう言った。

『インコを飼ったことがない人は、人生の半分を無駄にしたようなもの』と。

 その言葉を知ったときには、「何を、おおげさな!」と思った。
しかし今は、その言葉に同意する。
安心しきって、私の手の中で眠っているのを見るだけで、心が休まる。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 サルトル 自由の限界 無の概念 はやし浩司 終の棲家 離婚問題 離婚率)はやし浩司 2012-05-27記


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【流出する頭脳】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

全国津々浦々、市町村の「村」レベルにまで、
韓国の産業スパイは、入り込んでいた。
「日本人にできることが、ワレワレにできないはずがない」という、
逆差別意識が、「日本から盗めるものは、すべて盗め」が、合言葉になっていた。

昨日、今日の話ではない。
私が商社マンだった、1970年代の話である。
その結果が、まさに現在。
それを象徴するかのような事件が、新日本製鉄を舞台にして起きた。
MSN(産経ニュース)から転載させてもらう。

この事件が、日本人が、もう一度、「日本人とは何か」「愛国心とは何か」、
それを考えなおすきっかけになればよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●盗まれた技術

++++++++以下、MSN(産経ニュース)2012-05-27++++++++

 付加価値の高い鋼材の生産技術が盗まれたとして、新日本製鉄が韓国の鉄鋼大手、ポスコと同社日本法人、新日鉄元社員などを提訴した。
昭和40年代に開発し、門外不出としてきた技術だけに、新日鉄の怒りは強い。
ポスコに対し、1千億円の損害賠償などを求めている。
ポスコは争う構えだが、敗訴すれば高収益な同事業分野からの撤退は避けられない。
産業スパイの代償の大きさを知らしめる裁判となるか。

 「やはりそうだったのか」

 韓国内でポスコが起こした裁判での証言の一つから、ある新日鉄幹部は、それまでのポスコへの疑念が、明確な不正だと確信。
昨年末、証拠保全手続きを申し立て、裁判所が元社員の保有していた“動かぬ証拠”を押さえた。

 新日鉄は、「時効の懸念もあり、早期に提訴が必要」(幹部)と判断。
4月に不正競争防止法(営業秘密の不正取得行為)違反で、ポスコなどを東京地裁に提訴した。
日本企業が、不正な技術流出で外国企業を訴える事例としては最大規模だ。

 訴訟対象の「方向性電磁鋼板」は、新日鉄の八幡と広畑の両製鉄所だけで製造されている。
工場勤務の長かった幹部でも、「生産工程は見たことがない」という秘中の秘の技術だ。

 変圧器などに用いられる特殊な鋼板で、電圧変更時のロスなど従来製品の課題をことごとく解消。
鉄の結晶がきれいに整列する様子から、業界では「鉄の芸術品」とも呼ばれている。

(3分の1ほど省略)

 新日鉄はポスコ側に真偽を問い合わせたが、独自技術と言い張るばかり。
「何十年もかけ、数百億円を投じてきた技術が、なぜこんなに早く追いつかれたのか」(宗岡正二社長)。
疑念は募っていった。

 平成19年、ポスコが韓国で起こした裁判をきっかけに事態は急転した。
ポスコは、同社の元社員が方向性電磁鋼板の技術を中国の鉄鋼メーカーに売り渡したとして提訴。
しかし、裁判で元社員は「渡したのは(ポスコの技術でなく)新日鉄の技術」と証言した。
これを受け、新日鉄が調査を開始。
同社元社員の証拠差し押さえを経て今回の提訴に至った。

 事情を知る業界関係者は、「ポスコ側に情報を漏らしたのは1人ではなく、グループだ」と指摘する。
1990年代に新日鉄を退社した開発担当者を含む数人が関与したらしい。
新日鉄が提訴したのはグループのリーダー格とみられる。

(4分の1ほど、省略)

 元社員はどのように取り込まれたのか。
ポスコに限らず、日本企業の退職者を積極的に雇用する外資は多い。
多額の報酬が提示されることもある。
「エージェントを通じて慎重に接触し、籠(ろう)絡(らく)する」(事情通)ケースもある。

 技術を流した側と受け取った側の関係を立証するのは難しい。
裁判は長期化が予想されるが、新日鉄側は「明らかな形で情報が流出した証拠をつかんでいる」として勝訴に自信を見せる。

 元社員はなぜ技術を漏らしたのか。
「結局は金だろう」。
新日鉄幹部らはそう吐き捨てる。

(以下省略)

++++++++以上、MSN(産経ニュース)2012-05-27++++++++

●売国奴

 「金で、日本の技術を売った?」……まさに売国奴。
が、言い換えると、今、日本人がもつ民族意識、さらに言えば愛国心は、そこまで希薄になっている。
ここにこうして載っている、MSNの記事は、その結果……というより、まさに氷山の一角。
それを疑う人は、韓国の現在の産業構造を見てみればよい。
鉄鋼産業はもちろん、自動車、コンピューター、家電、造船など、まさにひとつの卵子から分かれた、双生児。
あのヒュンダイにしても、当初は、「前から見ればトヨタ、後ろから見れば日産」という自動車を、平気で作っていた。

 その韓国が、中国を訴えた。
が、それに対して、当の韓国の技術者は、裁判所でこう証言した。

「渡したのは(ポスコの技術でなく)新日鉄の技術」と。

 厚顔無恥というのは、まさにこれを言う。
中国の企業が、韓国車を模倣したときも、ヒュンダイは、中国を訴えている。
思考回路は、まったく同じ。
何も変わっていない。

●韓流ブーム

 一時、(そして今も)、韓流ブームが日本を沸かした。
よい年齢をしたオバちゃんたちが、それも夫や子どももいるような、オバちゃんたちが、韓国の映画俳優の尻を追いかけた。
整形を繰り返し、化粧を塗りたくったような、若い俳優である。

 私はあれを最初に見たとき、「日本人は、どうしてああまでバカなのか」と思った。
本当に、バカ!
当の韓国では、日本文化の流入は、きびしく制限されていた。
日本映画が全面解禁になったのは、2004年の1月1日のことである。

 韓流ブームと産業スパイとの関係は、ない。
しかしその底流では、太くつながっている。
民族意識の喪失と愛国心の希薄化。

 が、誤解しないでほしい。
私は行き過ぎた民族主義、愛国心には、反対である。
たとえば「日本民族はすばらしい」と思うのは、民族意識。
その返す刀で、「多民族は劣っている」と思うのは、行き過ぎた民族意識。

 また「日本を愛する」というのは、愛国心。
その返す刀で、「他の国を犠牲にしてもよい」と考えるのは、行き過ぎた愛国心。

 が、この日本では、それ以下。
国を売るような行為を平気でしながら、みじんも恥じない。
そういう意味で、売国奴と、韓流ブームに踊らされるオバちゃんたちは、底流で太くつながっている。
少しは恥を知れ!

●高額な報酬

 まず人材を、高額な報酬をちらつかせ、引き抜く。
引き抜かれた人材は、その期待に応えようと、もてる技術を最大限、提供する。
こうして日本の技術は、外国へ流出する。

 それを守るのが、「守秘義務」ということになるが、民族意識や愛国心の希薄な人にとって、守秘義務など、絵に描いた餅。
で、自分のこととして考える。

 もしだれかが私のところへやってきて、こう言ったとする。
「林さん(=私)、あなたの教育技術を、1億円で売ってくれませんか」と。
(私の教室は、YOUTUBEで公開しているので、そういうことはありえないが……。)
そのとき、私は、どのような反応を示すだろうか。

 もっとも私のもっている教育技術など、その価値もない。
それに他人の技術を流用したり、盗用したりしたものでないから、売るのは、私の自由。
だから即座に、「YES」と答えるだろう。

 が、それが外国であったら……?
とくに日本のライバルとなっている国であったら……?

 ……これはかなり迷う。
日本の未来を考えたら、おいそれと「YES」とは、言えない。
この世界には、「ブーメラン効果」という言葉がある。
へたに技術を手放せば、やがてその被害は、ブーメランのように自分のところに戻ってくる。
だから「ブーメラン効果」。
つまりその精神的支柱となるのが、民族意識であり、愛国心ということになる。
 
 それがあるか、ないか?

 そこで教育ということになるが、しかし教育にも限度がある。
となると、法律による厳罰主義しかないということになる。
だいたい産業スパイが野放しになっている国は、この日本をおいて、そうはない。
韓国にしても、産業スパイは、スパイ。
政治スパイと同じ。
区別しない。
きわめてきびしい罪が科せられる。
当然、取り締まりも、きびしい。

 10年ほど前、大学の同級生が、アメリカで逮捕された。
H社の工場の責任者(副工場長)だった。
その同級生は、即、逮捕、投獄。
2年間の懲役刑を宣告された。
(しばらくして、保釈されたが……。)

 ともあれ、日韓経済戦争は、終わったわけではない。
今の今も、水面下でつづいている。
頼みの綱は、日本政府だが、あの体たらく。
与党の元代表が、「無罪になった」と、はしゃいでいる。
が、最後の最後まで、4億円の出所は、わからずじまい。
そういうことを、日本を指導する指導者が、平気でしている。
どうして新日本製鉄の技術を韓国に売った技師を、売国奴と非難することができるか……ということになってしまう。

 残念な事件である。
と、同時に、今一度、韓国という国がもつ異常性に、みなが気がつくべきときでもある。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

2012年5月26日土曜日

Articles written 10 years ago, 2002 by Hiroshi Hayashi

●ぼたんインコ

 ぼたんインコの利口さには、驚く。
毎日、その連続。
4月初旬生まれとして、今日で1か月半。
ほぼ羽毛も生えそろい、成鳥らしくなってきた。

 たとえば言葉。
もちろん人間の話すような言葉はもっていない。
しかし鳴き方で、それを示す。

いやなとき……グアグア
餌を食べるとき……チチチ
何かしてほしいとき……ピーッ、ピーッ
探検するとき……ピヨピヨと小刻みに鳴く
怖いとき……グアーッ、グワーッ、ほか。

 好奇心は旺盛。
そのくせ気が小さい。
大きな物音を聞いたりすると、近くのタオルの中に首を突っ込んで小さくなっている。
犬のぬいぐるみが怖いらしく、5~6メートル離れたところからでも、それを見つけると、威嚇行動に出る。

 いっしょに遊んでやると、うるさそうに私を無視する。
そのくせ私が無視すると、ちょっかいを出してくる。
ワイフは、ときどき「人間の子どもみたい」と言う。
が、この段階では、人間の子どもより、はるかに利口。
ネットの記事などを読むと、成鳥で3歳前後の知能があるという。

 育て方をまちがえると、あの鋭いくちばしで、耳たぶをかみ切ることもあるそうだ。
が、今のところ、うちのインコは、やさしく穏やか。
頬や唇、それに耳たぶをかむときも、力を入れない。
やわかみ。
そのつど、ピーピーと鳴きながら、甘えてくる。

 何とかこのまま育ってくれればよいのだが……と願う点も、人間の子ども、そっくり。

●ニンニク

 この数日、何かにつけ、調子がよくない。
パソコンの前に座っても、ぼんやりしているだけ。
けだるい疲労感。
それなりに運動はしているが、その効果がない。

 ……ということで、昨日は、ビタミン剤を、いつもの2倍のんだ。
というか、こういうときは、ニンニクが効果的。
今日は土曜日だから、夜、そのニンニクを食べるつもり。
刺身にニンニクをつけ、それを白いご飯の上にのせる。
この浜松で覚えた、刺身の食べ方。
それを食べると、視界がパッと明るくなる。
視力がよくなるためではないか?

 一説によると、ニンニクには、興奮作用と鎮静作用が、同居しているそうだ。
それがあの独特の効果となって現われる。
学生時代に、どこかの科学者がそう話してくれたのを、覚えている。

 こういうときは、電子マガジンの編集するのがよい。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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【10年前(2002年)に書いた原稿より】

●このところ心配なこと

●日々の積み重ねが人格に●ボロを出すのが怖い

 子育てが終わると、どっとやってくるのが、老後。女房はこのところ、あちこち
のホームの案内書を取り寄せては、「この土地と家を売れば何とかなるわ」と、
そんなことばかり言っている。が、私が心配しているのは、そのことではない。

 五〇歳を過ぎると、それまでごまかしてきた持病が、表に出てくる。同時に気
力も弱くなり、自分をごまかすことができなくなる。実際、六〇歳を過ぎて、急に
ボロを出すようになった人はいくらでもいる。私の伯母もそうだ。世間では「仏
様」と呼ばれているが、このところそれを疑うような事件を、ひんぱんに起こして
いる。近所から植木バチを盗んできたり、無断駐車の車に、ドロ水をかけたりし
ている。いや、私は子どものころから伯母を知っているが、もともと伯母はそうい
う人だった。ただ年齢とともに、自分をごまかすことができなくなった。自分の
「地」を、そのままさらけ出している。

 日々の積み重ねが、月となり、その月が積み重なって、歳となり、そしてやが
てその人の人格を形成する。言いかえると、日々のささいな行為が、その人の
人格を作る。ウソをつかないとか、ゴミを捨てないとか、そういうことだ。人が見
ているとか、見ていないとかいうことは関係、ない。よく誤解されるが、人の言う
ことをきちんとやりこなす人のことを、まじめな人というのではない。まじめな人
というのは、自分の心の中で決めたことを、誠実に守ることができる人のことを
いう。そのまじめさが、結局は、その人の人格となる。

 さて私のこと。私は生まれが生まれだから、結構小ズルイ人間だった。戦後
の混乱期ということもあった。その場で適当に自分をごまかし、相手を動かすと
いうことを、割と日常的にしていた。ダマすというほど大げさなものではないが、
ウソも平気でついていた。友を裏切ったことも、何度かある。そういう自分を私
は知っているから、そういう自分が外へ出てきたらどうしようかと、そんなことを
よく考える。今はまだ気力もあって、そういう自分を内の世界に閉じ込めておくこ
とができる。が、これからはそうではない。あの伯母のように、ボロを出すように
なる。シッポを出すようになる。私はそういう「恐ろしさ」に気づくことが遅すぎた。
もっと若いころに、それに気づくべきだった。そんな思いが、このところ日増しに
強くなっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家族は自然体で…

●家庭はいこいの場●信頼することが大切

 家族は、気楽に行こうよ。鼻クソをほじりたかったら、ほじればいい。おならを
したかったら、すればいい。あいさつにしても、したければすればいい。したくな
かったら、しなくてもいい。家族はいこいの場。みんなが信頼しあい、守りあい、
助けあえば、それでいい。気をつかわないから、家族って、言うんだよね。

 そりゃあ、食事だって、みんなが一緒にできれば、それにこしたことはない。し
かしね、みんな生活時間が違うだろ。公務員の人はともかくも、民間で働いてい
る人は、みんな働く時間帯が違うよ。ぼくなんか、毎晩午前二時、三時まで仕事
しているよ。だから朝ご飯だって、一緒に食べたことがない。女房は女房で、毎
晩のようにいろんな会合があるし…。無理なんだよ。一緒に食事をするというこ
とが…。

 要するに家族は「形」ではない。「中身」なんだ。そして大切なことは、それぞ
れが相手の生活を認め、それを理解し、受け入れることなんだ。ただね、子ども
が幼いうちは、できるだけ家族はみんな、行動をともにしたほうがいいよ。子ど
もはそういう行動を通して、「家族」というものを学ぶからね。それにね、子どもと
いうのはね、絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむよ。「絶対的」というの
は、疑いをいだかないという意味さ。たとえば夫婦げんかにしても、それがある
一定のワクの中でなされているなら、問題はないよ。しかしね、いくらうわべをと
りつくろっていても、夫婦の間が冷えきっていたりすると、その影響は子どもに
出てくるよ。よく「離婚は子どもに影響を与えますか?」と聞く人がいるけど、離
婚そのものよりも、その離婚に至る騒動が、子どもの心に深刻な影響を与える
よ。だから離婚するにしても、騒動は最小限に、ね。

 そうそうあと片づけにしてもね、もううるさく言わないこと。ただね、あと片づけ
とあと始末は違うからね。あと始末はきちんと子どもにさせようね。たとえば食
後、食器は、シンクへ集めるとか。冷蔵庫から出したものは、元に戻させるとか
…。日本人はこのあと始末が、苦手な国民だよ。子どものときから、そういうこと
は教えられていないからね。

 子どもはね、親が必死になって家族を守ろうとしている姿を見ながら、家族の
大切さを理解するよ。そういう姿は見せておこうね。…で、あなたも今日からこう
言ってみてはどうかな。「家族を大切にしようね」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育ての「カラ」を破る

●子どもの中に、その子ども(孫)を見る

 子どもに子ども(あなたから見れば孫)の育て方を教えるのが子育て。それは
前にも書いたが、これにはもう一つの意味が含まれる。あなたは子どもの中に
孫、さらにその孫の中にそのまた孫を見ることによって、あなたを包む、「カラ」
を破ることができる。こういうことだ。

 今あなたは子育てをしながら、ひょっとしたら、「うちの子さえよければ」と考え
ているかもしれない。「世間はともかくも、とりあえずうちの子のことだけでも、う
まくいけばそれでいい」と。しかしもしあなたが子どもの中に孫、さらにその孫の
中にそのまた孫を見ることができるようになると、この考えはまちがっていること
を思い知らされる。単純な計算でも、夫婦(二人)が、それぞれ二人ずつの子ど
もを産んだとすると、二七代目には、その数は一億三〇〇〇万人を超える。ほ
ぼ今の日本の人口と同じになる。一世代を三〇年とすると、二七掛ける三〇
で、八一〇年。つまり八一〇年後には、日本人のすべてがあなたの子孫という
ことになる。

 あなたは今、自分の子どものことを心配する。しかし孫が生まれれば、あなた
はその孫のことを心配するだろう。もしあなたに永遠の命があるなら、あなたは
そのまた孫のことを心配するだろう。…そういうふうに考え始めると、今、あなた
が「自分の子さえよければ」という考えなど、どこかへ吹っ飛んでしまうはずだ。
そしてその時点で、あなたは、自分の子どものことは当然としても、同時にこの
社会全体、日本全体、世界全体の問題を考えることも重要だと気づく。つまりそ
れがここで言う「カラ」を破るということになる。
 
実のところ、私もこの問題では悩んできた。教育論を論じながら、いつも心のど
こかで(自分の子ども)と、(他人の子ども)を区別していた。自分の子どもに言う
言葉と、他人の子どもに言う言葉が、違っていた。それは実に心苦しいジレンマ
だった。人間、表ズラと内ズラを使い分けて生きるのは、たいへんなことだ。だ
からある日から、それをやめた。やめて、自分の子どもにも、他人の子どもにも
本音を語るようにした。しかしそれが本当にできるようになったのは、自分の子
どもの中に孫、さらにはそのまた孫を見ることができるようになったときである。
子どもに子ども(あなたから見れば孫)の育て方を教えるということには、そうい
う意味も含まれる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●価値観の崩壊

●原因は、子どもの受験戦争?

 こんな調査結果がある。日本青少年研究所が、九七年に調査した結果だが、
それによれば、日本の高校生の八五%が、「親に反抗するのは、本人の自由
でよい」と考えているという。(これに対して、アメリカ…一六%。中国…一
五%)。また日本の高校生の一五%のみが、「親に反抗してはならない」と答え
ているという。(アメリカ…八二%。中国八四%)。わかりやすく言うと、「親に反
抗してよい」と考えている高校生が日本ではダントツに多く、一方、「反抗しては
ならない」と考えている高校生が、これまた日本ではダントツに少ないということ
になる。

 こういう調査結果をふまえて、「日本人の個人主義化、価値観の相対化(が進
んでいるとみることができる」(金沢学生新聞社説)と解説する人がいる。おお
かたの評論家たちも、ほぼ同じような線で、この調査結果をながめている。しか
しこの視点だと、「なぜ日本の高校生だけがそうなのか」という説明がつかない
ばかりか、合理主義が発達していると思われるアメリカで、「なぜ逆の結果が出
るのか」ということについても、説明がつかなくなってしまう。つまりこの視点は
正しくない。

 私はある時期、幼稚園の年中児から高校三年生までを、たった一日で教えて
いたことがある。幼稚園で手にする給料だけでは生活ができなかったので、午
後は自由にしてもらい、学習塾や進学塾でルバイトをした。自宅で家庭教師もし
た。そういう経験から、子どもたちが受験期を迎えるころになると、質的に急速
に変化するのを知っている。それまでは良好な人間関係を続けていても、試験
だ、平均点だ、進学だとやりだすと、とたんに私と生徒の関係が破壊されるの
である。

 言い換えると、結果として日本の高校生たちが、「個人主義化し、価値観の相
対化が進む」としても、それは「進んだ」結果にそうなったのではなく、「家族の
きずな」が破壊された結果としてそうなったと見るべきではないのか。それぞれ
の家庭を見ても、子どもが小学生くらいの間には、どの家庭も、実になごやかな
家庭を築いている。が、子どもが受験期を迎えるようになると、とたんにある種
の緊張感が家庭を襲い、その緊張感が、家族そのものを破壊する。わかりやす
く言えば、「勉強しろ!」と怒鳴る、その声が子どもの心を粉々に破壊していく。
その結果が、冒頭にあげた、「八五%」であり、「一五%」ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

私の人生、そして老後

●あるべき私の老後●前向きに生きる人生

 新しい人に出会うのは、この歳になっても、楽しいものだ。それはそれだが、
ただ、若いときと違って、この歳になると、「これから」という部分がない。「これ
から友情を育てよう」とか、「これから一緒に何かをしよう」という気持ちは弱い。
そのかわり、「この人は何をしてきた人?」という視点で、その人を見る。

 昨年一年間だけでも、すばらしい人と、何人か出会った。八〇歳にもなろうと
いうのに、乳幼児の医療費問題に取り組んでいる人、教育評論に取り組んでい
る人、さらには私立小学校を建てようと、あちこちを飛び回っている人など。どの
人も、年齢に関係なく、目が輝いていた。その中の一人に、恐る恐る私はこう聞
いた。「あなたをそこまでかきたてているエネルギーは何ですか?」と。私など、
実にずるい人間だ。こういうふうに原稿を書かせてもらいながら、「どうしてこの
私が日本の教育の心配をしなければならないのか」というジレンマといつも、戦
っている。退職金も年金もない。天下り先もない。社会の恩恵などとは、まったく
無縁の世界に住んでいる。が、こうした人たちは、自分の人生を前向きに生き
ている。その人はこう答えてくれた。「やめる理由など、ないからです」と。

 実際、そういう人に出会うと、「ご苦労様です」と言いたくなる。もちろん畏敬
(いけい)の念をこめて、である。そして我が身を振り返りながら、自分のつまら
なさに驚く。何かをしてきたようで、結局は私は何もできなかった。心のどこか
で、いつも「お金さえ手に入れば、明日にでも引退できるのに」と、そんなことば
かり考えてきた。土日も、好きな山遊びをするだけ。ヒマなときは、ビデオを見た
り音楽を聞いたりするだけ。つまらない人間になって、当然だ。

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは老人たちのかっこうのたまり
場になっている。天気のよい日は、毎日七~八人の老人たちが、何かをするで
もなし、しないでもなし、夕方暗くなるまで、イスに座って話し込んでいる。その
季節になると、横の竹やぶの竹の子を、一日中監視している。一見、のどかな
風景だが、本当にそれは、あるべき老後の姿なのか。そうであってよいのか。
やがて私も彼らの仲間に入るのだろうが、いつか誰かが、私を「何をしてきた
人?」という目で見たとき、私はそれに耐えられるだろうか。それを思うと、いて
もたっても、おられなくなる。


 


子どもと歩くときは、子どものうしろを歩く。そういうリズムが、子どもの自立心を養う。子どもの「やる気」「た
くましさ」を引き出すコツは、子どものリズムで親が生活するということ。無理にぐいぐいと引っ張れば引っ張
るほど、子どもには依存心が生まれ、それが他方で、子どものやる気をうばい、ひ弱な子どもにする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育てリズム論

●子どもの心を大切に●子どものうしろを歩こう

 子育てはリズム。親子のリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍
子で、子どもが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同
時に演奏すれば、それはもう、騒音でしかない。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い出してみてほしい。そのとき①
あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、それでよし。
しかし②子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているよ
うであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…というこ
とにもなりかねない。このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものこと
は、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子どもが口答えでもしようもの
なら、「親に向かって、何だその態度は!」と、それを叱る。そしておけいこ塾で
も何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子ど
もで、親の前ではいい子ぶる。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できの
よい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに
何をしてほしいのか」とか、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」とか。この
段階で、互いにあいまいなことを言うのを許されない。それだけに、実際そのよ
うに聞かれると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張する。それはあるが、しかし
日本人よりは、ずっと相手の気持ちを確かめながら行動している。

 リズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときから、そして子どもがおとなに
なるまで続くということ。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性
(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家へ帰るのが苦痛でなりません」と。別の
男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこ
かでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の生い立ちや人
生観と深くからんでいるため、変えるのも容易ではない。しかし、変えるなら、早
いほうがよい。早ければ早いほど、よい。もしあなたが子どもの手を引きなが
ら、子どもの前を歩いているようなら、今日から、子どものうしろを歩いてみると
よい。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変えることができ
る。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の自由論

●自由はそれ自体、たいへんなこと

 アメリカの田舎町でタクシーに乗る。見るとふつうの乗用車。メーターはついて
いない。話を聞くと、運転手はこう言った。「(タクシー会社を経営している)女房
が、ほかのところへ行っているから、私が代理で来た」と。で、料金は、話し合っ
てその場で決めた。「一人で一〇ドル。二人で二〇ドル」と。…これが自由。
 
週日は市内に住み、週末は近くの山の中で暮らすという生活が、今年で七年目
になった。その山での生活、不便であることが当たり前。水道とて、山からの涌
き水をパイプで引いている。そのため、大雨が降れば、すぐパイプがつまる。そ
のたびに雨ガッパを着て、清掃にでかける。電気とて安心してはおられない。雷
が落ちるたびに停電。先日は電柱の分電器の中に、アリが巣を作り、それで停
電した。…これが自由。

 私の友人の弟は、四二歳のとき、それまでの会社勤めをやめ、単身マレーシ
アへ渡った。そしてそこで中古のヨットを買い、私がその話を聞いたときは、クア
ラルンプールで知り合ったフランス人女性と、インド洋を航海しているということ
だった。…これが自由。

 自由とは「自らに由る」こと。しかしこの日本。その自由がますます小さく、貧
弱になっている。社会は息苦しいほどまでに管理され、どんな小さな仕事をする
にも、許可だの認可だの、それに資格がいる。が、人は管理されればされるほ
ど、民衆は生きる力をなくす。たくましさをなくす。少し前だが、九州の北部で断
水騒ぎがあったときのこと。その年は、例年になく雨が少なかった。一人の住民
が、テレビに向かってこう叫んだ。「断水したのは、行政の怠慢が原因だ」と。別
に行政の肩をもつわけではないが、断水したのは行政の責任ではない。ちょう
どそのころ私は、自分の山荘に水を引くため、炎天下、数百メートルのパイプを
地下に埋める工事を、一人でしていた。私は思わず、「甘ったれるな!」と叫ん
でしまった。

 自由に生きることは、それ自体、たいへんなことだ。友人の弟にしても、想像
するようなロマチックな航海ではないことは、私にもわかる。いや、「私は自由
だ」と思っているあなたでも、本当は自由でないかもしれない。

 たいていの人は自由というのは、簡単に、しかもタダで手に入るものだと思っ
ている。しかしこれはとんでもない誤解。自由であることは、それ自体が、命が
けの戦いなのだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●よい先生・悪い先生

●子どもたちが無意識のうちに判断している

 私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるの
は、「教える」という立場にあるからだ。子ども、なかんずく幼児に接していると、
その純粋さに毎日のように心を洗われる。何かトラブルがあって、気分が滅入っ
ているときでも、子どもたちと接したとたん、それが吹っ飛んでしまう。よく「仕事
のストレス」を問題にする人がいる。しかし私の場合、仕事そのものが、ストレス
解消の場となっている。

 その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。
しかし誤解しないでほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。
子どもは確かに知識は乏しく未経験だが、決して、幼稚ではない。むしろ人間
は、おとなになるにつれて、知識や経験という雑音の中で、自分を見失ってい
く。醜くなる人だっている。「子ども的である」ということは、すばらしいことなの
だ。私の場合、若いときから、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や
出版界はもちろんのこと、翻訳や通訳の世界も経験した。いくつかの会社の輸
出入を手伝ったり、医療の世界もかいま見た。しかしこれだけは言える。園や
学校の先生には、心のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほか
の世界よりは、はるかに少ない。

 そこで「よい先生・悪い先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、視点
が子どもと同じ位置にいる先生もいる。が、中には高い位置から子どもを見おろ
している先生もいる。妙に権威主義的で、いばっている。そういう先生は、そう
いう先生なりに、「教育」を考えてそうしているのだろうが、しかしすばらしい世界
を、ムダにしている。このタイプの先生は、美しい花を見て、それを美しいと感動
する前に、花の品種改良を考えるようなものだ。昔、こんな先生がいた。ことあ
るごとに、「親のしつけがなっていない」「あの子はダメな子」とこぼす先生であ
る。決して悪い先生ではないが、しかしこういう先生に出会うと、子どもから明る
さが消える。

 そこでよい先生かどうかを見分ける簡単な方法。休み時間などの様子を、そっ
と観察してみればよい。そのとき、子どもたちが先生の体にまとわりついて、楽
しそうにはしゃいでいれば、よい先生。そうでなければ、そうでない先生。よい先
生かどうかは、実は子どもたち自身が、無意識のうちに判断しているのである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●封建制度の清算を

 「うちのダンナなんかサア、冷蔵庫から牛乳出しても、その牛乳を冷蔵庫に戻
すことしないんだからサア。だからあっという間に牛乳も腐ってしまう」と。ある
日女房の友人が、我が家へやってきて、そう言った。何でもそのダンナ様は、
結婚してからこのかた、もう三〇年近くになるが、トイレ掃除はおろか、トイレット
ペーパーの差し替えすらしたことがないという。そこで私が「ペーパーがないと
きはどうするのですか?」と聞くと、「何でも、『オーイ』で、すんでしまうわサア」
と。

 日本女性会議の調査によると、部屋の掃除をまったくしない夫(五六%)、洗
濯をまったくしない夫(六一%)、炊事をまったくしない夫(五四%)ということだ
そうだ。育児をまったくしない夫も、三〇~四〇%もいる(二〇〇〇年)。この日
本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもについて言うな
ら、「勉強している」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。しかしこれは
世界の常識ではない。

 ニュージランドの留学生たちがこう教えてくれた(一九九九年)。ニュージーラン
ドでは、午後三時に小学校は終る。そのあと子どもたちはすぐ家へ帰り、夕食
がすむまで、家事を手伝う。それが習慣になっている、と。料理、炊事だけでは
ない。掃除から始まって、家の修理までする。そこで私が(聞くのもヤボだと感じ
たので……)恐る恐る、「学校の宿題があるときはどうするのか」と聞くと、皆、こ
う言った。「食事がすんでからだ」と。

 こうした日本人の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」という、日本独特
の男尊女卑社会。「内助の功」という言葉すら残っている。内助の功というの
は、「夫が仕事以外のことを気にかけたりすることなく、存分の働けるよう、しっ
かりと家を守り、夫を陰で、また積極的に助ける妻の働き」(日本語大辞典)とい
うことだそうだ。そしてそのさらに背景にあるのが、これまた日本独特の出世主
義。封建時代には、いかにして武士社会の階段をのぼるかが、何にもまして優
先された。家制度や家督制度、さらには長子相続制度も、封建制度を背景にし
て生まれた。

 話がそれたが、こういう風潮の中で、「男が家事などするものではない」とい
う、ゆがんだ男性観が生まれた。私も子どものころ、台所へ入ると母によく叱ら
れた。「男がこういうところへ来るもんじゃない」と。が、この風潮は、今、急速に
崩壊しつつある。私が一九九八年に浜松市内で調査したところ、二〇~三〇代
の若い夫婦の場合、三五%の夫が日常的に家事を手伝っているのがわかっ
た。まったく手伝っていない夫も、同じく三五%。残りの三〇%は、ときどき手伝
うということだった。先の日本女性会議の数字(これは全体)と比べてみても、
若い夫婦が変化しているのがわかる。

 さて子どもたち。子どもには家事を手伝わせる。男も女もない。あるはずもな
い。しかも本来、家事は、勉強や仕事より大切なものだ。家事をするということ
は、自立をするということ。人間は過去何一〇万年もの間、そうしてきた。ここ五
〇〇年や一〇〇〇年くらいの制度で変わるはずもない。むしろ日本の制度は、
長い封建制度の時代を経て、ゆがんでいる。それを清算するのも、これからの
大きな仕事ではないのか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宗教と教育

 難解な仏教論も、教育にあてはめて考えると、突然わかりやすくなる。たとえ
ば親鸞の「回向(えこう)論」。「(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや」※
という、あの有名な言葉である。これを仏教的に解釈すれば、「念仏を唱えるに
しても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているに過ぎない。だ
から信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から
真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(石田瑞麿氏)と続く。

 こうした解釈を繰り返していると、何が何だかさっぱりわからなくなる。要する
に親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前ではな
いか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほ
ど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。そこでこう考えたらど
うだろうか。「頭のよい子どもが東大へ入るのは当たり前のことだ。頭のよくない
子どもが、東大へ入るところに意味がある。またそこに人間が人間として生きる
ドラマ(価値)がある」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子
どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。しかし問
題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育と
いう」と。私にはこんな経験がある。

 ずいぶんと昔だが、私はある宗教団体を批判する原稿を、ある雑誌に書い
た。が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口をいい
ふらし始めた。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方
(?)は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が
地獄へ落ちないように祈ってやるのが、愛ではないのか。慈悲ではないのか。
私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には
「バカヤロー」と悪態をついて、教室を出ていく子どももいる。

 しかしそういうときでも、私は、「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦
労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは思
う。いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄
へ落とすようななら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、
地獄とは何か? 悪いことをして、失敗し、問題のある子どもをもつことか。もし
そうなら、それは地獄ではない。

 私はときどき、こう思う。釈迦にせよ、キリストにせよ、彼らはもともと教育者で
はなかったか、と。そういう視点で考えると、それまでわからなかったことが、突
然、スーッとわかることがある。そしてそういう視点で見ると、おかしな宗教とそ
うでない宗教を区別することができる。たとえば日本でも一〇本の指に入るよう
な大きな宗教団体が使っているテキストには、こんな記述がある。

 「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、
身体障害者が多いのは、そのためだ」と。この一文だけをとっても、この宗教は
まちがっていると断言してもよい。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだ
ら、どう思うだろうか。あるいはその団体には、身体に障害がある人がいないと
でもいうのだろうか。宗教も教育も、常識で成りたっている。その常識をはずれ
たら、宗教は宗教ではなしい、教育は教育でなくなる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の主義、あなたの主義

 私は生涯において、ただの一度も、借金をしたことがない。「生涯」というのも
おおげさだが、そういうふうに意識したのは、学生時代だ。お金がなくなると、私
は下宿の朝夕の食事だけで生き延びた。いや、一度だけ、一〇円玉を借りたこ
とがある。幼稚園で親に緊急の電話をしなければならなくなったときのこと。同
僚の先生にそれを借りた。翌日、菓子箱をもって返しにいくと、その先生は目を
白黒させて驚いた。同じように支払いについても、必ず即日、もしくは遅くとも一
週間以内に支払うようにしている。私にとって、借金というのは、そういうもの
だ。
 
私には私の主義がある。「主義」というと、一見、完成された人格のように思う
人がいるかもしれない。が、実は、自分の弱さをごまかすための道具に過ぎな
い。私について言うなら、私という人間は、もともと小ずるい人間で、小心者。そ
んな私が借金に慣れたら、それこそズルズルと深みにはまってしまうに違いな
い。それを私は心のどこかで知っている。だから借金はしない。いや、借金をす
る重圧感に耐えられないのかもしれない。私はそういう重荷を背負うのがいや
だ。明日、借金を返さねばならないと負担に思うくらいなら、今日、腹をすかして
いたほうがよい。

 が、その主義をもつことは、よいことだ。「人にものを借りない」「拾ったものに
は、手をつけない」「ウソをつかない」など。こうした主義をいくつかもち、そのと
きどきの行動規範にする。仏教にも八正道(はっしょうどう)という言葉がある。
正見(しょうけん)、正思惟、正語、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精
進、正念、正定(しょうじょう)の八つをいう。悟りにいたるための、基本的な実践
徳目と考えるとわかりやすい。要するに人間は迷う。そのつど迷う。しかしそう
いうとき、「主義」として、自分の行動規範を決めておくと、その迷いを少なくする
ことができる。仏教で言えば、悟りへの近道ということになる。そういうことは生
活の場で、よく経験する。こんなことがあった。

 一本一〇〇円のペンを、七本買った。七本買って、一〇〇〇円札を出した。
店員がレジを叩いているとき、私はどこかぼんやりとしていた。が、受け取った
おつりを見ると、三百数十円……。「おっ」と思って、一、二歩、歩いた。「おつり
が多い」と、心のどこかで感じた。と、同時に私の中に組み込まれたプログラム
が作動した。あとは自動的に振り向き、レジに戻ってこう言った。「おつりが多い
ですよ」と。気がつくとそこに店長も立っていて、その店長がこう言った。「今、一
割引です。最初に言っておけばよかったですね」と。とたん、私の顔がなごん
だ。店員の顔もなごんだ。そして皆が微笑んだ。
 
そこで私は考える。もしあのとき、あのまま私が店を出たら、私は「得をした」と
思ったかもしれない。しかしたった一〇〇円で、私は心を売ったことになる。一
方、正直に言ったときのそう快感は、とても一〇〇円で買えるものではない。ど
ちらが得か……? 日々の生活が月となり、それがやがて年となり、その「人」
をつくる。その道しるべとなるのが、主義だ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識は偏見のかたまり

●ふえるホームスクール●おけいこ塾は悪?

 アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が十八
歳のときにもった偏見のかたまりである」と。

●学校は行かねばならぬという常識…アメリカにはホームスクールという制度
がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという
制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不
登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけで
も九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一
五%前後の割合でふえ、〇一度末には二〇〇万人になるだろうと言われてい
る。それを指導しているのが、「LIF」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教
育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合
同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がり
をみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している。

●おけいこ塾は悪であるという常識…ドイツでは、子どもたちは学校が終わる
と、クラブへ通う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学
校を出る。ドイツでは、週単位で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども
自身が決めることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算
数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無
料。学外のクラブも、月謝が千円前後。こうした親の負担を軽減するために、ド
イツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の「子
どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長二
七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分
の趣向と特性に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなど
があるが、学外教育に対する世間の評価は低い。ついでにカナダでは、「教師
は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をもたない」という
制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っている
ことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あのとき母だけでも…

●問題の根源は深い●封建時代の亡霊と戦う

 あのとき、もし、母だけでも私を支えていてくれてていたら…。が、母は「浩ちゃ
ん、あんたは道を誤ったア」と言って、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。私
が「幼稚園で働いている」と言ったときのことだ。

 日本人はまだあの封建時代を清算しいていない。その一つが、職業による差
別意識。この日本には、よい仕事(?)と悪い仕事(?)がある。どんな仕事がそ
うで、どんな仕事がそうでないかはここに書くことはできない。が、日本人なら
皆、そういう意識をもっている。先日も大手の食品会社に勤める友人が、こんな
ことを言った。何でもスーパーでの売り子を募集するのだが、若い女性で応募し
てくる人がいなくて、困っている、と。彼は「嘆かわしいことだ」と言ったので、私
は彼にこう言った。「それならあなたのお嬢さんをそういうところで働かせること
ができるか」と。いや、友人を責めているのではない。こうした身勝手な考え方
すら、封建時代の亡霊といってもよい。目が上ばかり向いていて、下を見ない。
「自尊心」と言えば聞こえはいいが、その中身は、「自分や、自分の子どもだけ
は違う」という差別意識でしかない。が、それだけではすまない。

 こうした差別意識が、回りまわって子どもの教育にも暗い影を落としている。こ
の日本にはよい学校とそうでない学校がある。よい学校というのは、つまりは進
学率の高い学校をいい、進学率が高い学校というのは、それだけ「上の世界」
に直結している学校をいう。

 「すばらしい仕事」と、一度は思って飛び込んだ幼児教育の世界だったが、入
ってみると、事情は違っていた。その底流では、親たちのドロドロとした欲望が
渦巻いていた。それに職場はまさに「女」の世界。しっと縄張り。ねたみといじ
めが、これまた渦巻いていた。私とて何度、年配の教師にひっぱたかれたこと
か!
 
 母に電話をしたのは、そんなときだった。私は母だけは私を支えてくれるもの
とばかり思っていた。が、母は、「あんたは道を誤ったア」と。その一言で私は、
どん底に叩き落とされてしまった。それからというもの、私は毎日、「死んではだ
めだ」と、自分に言って聞かせねばならなかった。いや、これとて母を責めてい
るのではない。母は母として、当時の常識の中でそう言っただけだ。

 子どもの世界の問題は、決して子どもの世界だけの問題ではない。問題の根
源は、もっと深く、そして別のところにある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●学校神話という亡霊の陰で

(先生は忙しすぎる)(教師は教育の場で勝負して、教師)

 「携帯電話のおかげで夜中でも、メールが入るようになった」と、ある小学校の
教師がこぼした。「少し前までは電話だったが、電話のほうは断ることができる
ようになったが……」とも。それもたいした内容ではない。「娘がセーターを学校
に忘れた」とか、「息子が学校の帰りに、寄り道をした」とか、など。「メールには
まとめて返事を出すことにしていますが、それでも毎晩一時間ほど、そのため
に時間をとられます」と。

 少し前、ある総合病院の外科部長の息子(高一)と、こんな話をしたことがあ
る。「君のお父さんは、患者さんの生死を毎日のようにみている。担当の患者さ
んが急変したら、夜中でも病院へかけつけるのだろうね」と私。するとその息子
氏はこう言った。「行かないよ。居留守を使ったり、学会に行っているとウソを言
うよ」と。私が驚いていると、さらにこう言った。「そんなことをすれば、翌日の手
術にさしさわりが出るから」と。

 私はこの話を聞いたとき、あの美空ひばりの話を思い出した。ひばりが皆と一
緒に、カラオケバーにでかけたときのこと。まわりにいた人たちが「一曲歌ってく
ださい」とせがんだ。が、そのときひばりはこう言ったという。「私はお金をもらっ
て歌うプロです。ここでタダで歌ったら、お金を出して私の歌を聞きにきてくれる
お客さんに、申し訳ありません」と。

また二〇〇〇年の終わり、カナダのバンクーバーから来た小学校の校長が、こ
んな話をしてくれた。「カナダでは、教師は授業には責任をもつが、授業を離れ
たら、父母や子どもとのかかわりを一切もたない。父母には自宅の住所も、電
話番号も教えない。親がその教師と連絡をとりたいときは、学校へ連絡してもら
う。そのあと教師のほうからその親に電話をするようにしている」と。

 いくつか回り道をしたが、さて冒頭の話。今、学校の先生たちは、本当に忙し
い。忙しすぎる。活発ざかりの子どもを相手に、一時間本気で授業すれば、若
い先生でもかなり疲れる。二時間続けたら、それこそヘトヘト。つまりそれだけ
体力と気力を使う。教育というのは、そういうものだ。それをまず世間が知るべ
きだ。そして教師が教師であるのは、「教育の場」で教えるから教師なのだ。そ
れを雑用また雑用、進学指導に家庭教育相談、さらには、しつけに心理相談ま
で押しつけて、何が教育だ! 体がもつはずがない。つまり忙しくなればなるほ
ど、教師は肝心の教育の場で手を抜くしかない。

 現に今、中学校の教師の大半は、教科書とチョークだけで授業に臨んでい
る。臨まざるをえない。ある教師はこう言った。「教材研究? そんな時間がどこ
にありますか? 先日も私の学校でスプレーによる落書き事件がありました。そ
の処理に、丸三日がつぶれました」と。

 教師は教育のプロである。あの外科部長のように、まず教育に責任をもつ。ま
たもてるような環境を用意してあげなければならない。現にカナダではそうして
いる。いや、学校で何か事件があるたびに、憔悴しきった校長が涙まじりに頭を
さげる。マスコミや世間は鬼の首でも取ったかのように学校を責めるが、しかし
学校側にそこまでさせて、よいものか。そのおかしさがわからないほど、日本に
は学校万能主義、学校神話がはびこっている。その亡霊に苦しんでいるのは、
結局は最前線に立たされる、現場の教師たちなのだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●性教育の原点

(男も胎内では女だった)(偏見や誤解、差別からの解放)

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でも特に印象に
残っているのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協
会の会長をしていた。そのベッテルグレン女史はこう言った。「フリーセックスと
は、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏見
や誤解、差別から、男女を解放することだ」「特に女性であるからという理由だ
けで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっとベッ
テルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。

 話は変わるが、先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「う
ちのダンナなんか、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫
にしまうことすらしないんだわサ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうわサ」と。
話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのかた、トイレ掃除はおろか、トイレット
ペーパーすら取り替えたことがないという。私が、「紙がないときはどうするので
すか?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

 日本女性会議の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ六〇%
前後いるという(二〇〇〇年)。年代別の調査ではないのでわからないが、五
〇歳以上の男性について言うなら、ほとんどの男性が家事をしていないのでは
……? この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強
くもっている。男ばかりの責任ではない。私も子どものころ台所に立っただけ
で、よく母から、「男はこんなところへ来るもんじゃない」と叱られた。女性自ら
が、こうした偏見に手を貸していた。が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ
始めている。私が九九年に浜松市内でした調査では、二〇代、三〇代の若い
夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という夫が、六五%
にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

 実は私は、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は
……、女は……」というものの考え方を日常的にしていた。洗濯や料理など、し
たことがない。たとえば私が小学生のころには、男が女と一緒に遊ぶことすら
考えられなかった。遊べば遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか
私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出がまったく、ない。

 が、その後、いろいろな経験で、私がまちがっていたことを思い知らされた。
が、決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。つまり人間は、
男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だという事実だ。つまりある時期までは
人間は皆、女で、発育の過程でその女から分離する形で、男は男になってい
く、と。このことは何人ものドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかっ
たのですか?」と笑った。正確には、「妊娠3か月までは男女の区別はなく、そ
れ以後、胎児は男女にそれぞれ分化する」ということらしい。女房は「あなたは
単純ね」と笑うが、そうかもしれない。以後、女性を見る目が、一八〇度変わっ
た。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえると、「男だから」「女だから」とい
う考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」という考え方も、まち
がっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●教育の自由化は世界の流れ

(日本の教育は遅れている!)(自由から生まれる活力)

 以前このコラムで、「日本の教育制度は三〇年は遅れた。意識は五〇年は遅
れた」と書いた。それについて「憶測でものを書いてもらっては、困る。根拠を示
してほしい」と言ってきた人がいた。それについて……。 

 ドイツでは、小中学校は午前中で終る。午後一時には、子どもたちは学校から
解放されて、それぞれのクラブに通う。スポーツクラブ、音楽クラブ、芸術クラ
ブ、語学クラブなど。カナダでは、午後三時半まで子どもたちは学校に拘束され
るが、それ以後は、やはり子どもたちはクラブに通う(バンクーバー)。オーストラ
リアやニュージーランドも、そうだ。さらにアメリカでは、ホームスクール、チャー
タースクール、さらにはバウチャ(学校券)スクールなど、学校の設立そのもの
が自由化されている。日本で誰かが塾を開くのと同じくらい気軽に、その意思
のある人が学校を設立している。つまり教育の自由化は世界の流れであり、そ
の「自由さ」が、教育をダイナミックなものにしている。

 が、この程度で驚いてはいけない。アメリカでは大学の場合、入学後の学部
変更は自由。自由というより、日本でいう学部の概念そのものがない。目的と
する学位(これをメジャーという)に応じて、必要な講座を一講座ずつ「買う」。こ
うして二年間で、四回メジャーを変えた学生がいる。四年間で六回メジャーを変
えた学生がいる。教える教官も必死なら、学ぶ学生も必死だ。さらにアメリカで
は、大学の転籍すら自由。公立、私立の区別はない。日本で言えば、早稲田大
学で二年間過ごした学生が、三年目から静岡大学で学ぶようなことができる。
しかも入学金だの何だの、そういうめんどうな手続きなしに、即日に転籍でき
る。まだある。こうした単位の交換が、国際間でもなされている。外国の大学へ
留学した場合、そこで得た単位も有効に認められる。日本でも少しずつだが、
実験的にこうした制度を取り入れる大学がふえてきた。が、あくまでも「実験
的」。
 
……というようなことは、文部科学省の技官あたりもみんな知っている。しかし
教育を自由化するということは、即、自分たちの立場をあやうくすることになる。
権限を弱め、管轄を縮小することは、そのまま自分たちの不利益につながる。
旧文部省だけでも、いわゆる天下り先として機能する外郭団体が、一八〇〇団
体もある。その数は全省庁の中でもダントツに多い。こうした団体が日本の教
育をがんじがらめにしている。一方、日本人は日本人で、国への依存心がきわ
めて強い。子どもに何か問題があると、何でもかんでも、「学校で……」と考え
る。さらに隷属意識もある。いまだかって、親のほうから学校に向かって、たと
えば、「うちの学校では中国語を教えてみてほしい」というような要望を出した話
など、聞いたことがない。

 上から言われるまま、何の疑問もなく受け入れてしまっている。そしてそういう
のが教育だと、思い込んでいる。思い込まされている。

 ここに書いたアメリカの大学制度は、すでに三〇年前から常識だった。さらに
日本人の教育意識となると、戦前のままと言ってもよい。五〇年前に私がもっ
ていた「学校観」と、今の若い親たちがもっている「学校観」は、それほど違わな
い。「五〇年」という数字はそこから書いた。これで納得してもらえただろうか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●善なる心、悪なる心

●ここちよさが、正直のあかし

 市内のY文具店で、一本一〇〇円のペンを七本、買った。買って、一〇〇〇
円札を出した。どこかぼんやりしていた。言われるまま、ペンとおつりを受け取
り、ふと見ると、おつりが、三百数十円! そのときだ。私は「おっ」と思い、一、
二歩歩いた。歩いてしまった。この迷いこそが、私の限界でもある。
 
 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが年となる。そしてその年が重
なって、その人の人格となる。五〇歳も過ぎると、それまでごまかしてきた持病
が、どっと前に出てくる。同じように六〇歳も過ぎると、それまでごまかしてきた
人格が、どっと前に出てくる。むずかしいことではない。健康にせよ、人格にせ
よ、日々のささいな心構えで決まる。

 手に握ったおつりを見ながら、「あのう……」と言いかけると、そこに店長が立
っていた。そして私の気持ちを察知して、笑いながらこう言った。「今、一割引き
なんです。はじめに言っておかなくて悪かったね」と。とたん、女子店員の顔が
なごんだ。私の顔もなごんだ。

 子どものころの私は、ずいぶんといいかげんな男だった。ジュースを飲んだと
きでも、その空きビンを、どこかの塀の上に置いていた。ガムをかんでも、その
カスを道路へ捨てていた。ツバやタンを道路へ吐き捨てるのも平気だった。どこ
かの店で、店員がおつりをまちがえたときも、少なければ文句を言ったが、多け
れば、黙っていた。戦後の混乱期というのは、そういう時代で、きれいごとを並
べていたら、生きていくことそのものが難しかった。が、ある日を境にして、私は
それをやめた。

 一九六七年のことだった。私はユネスコの交換学生として韓国に渡った。ま
だ日韓の間に国交のない時代で、プサン港へ着いたときには、ブラスバンドに
迎えられた。が、歓迎されたのは、その日一日だけ。あとはどこへ行っても日本
攻撃の矢面に立たされた。そんなある日。どこかの工場団地に案内され、経営
者たちと懇談することになった。時間より早く部屋に入った私は、ひとり窓の外
を見ていた。そしてそのときだ。私はいつものようにツバをペッと外へ吐いた。
が、そのツバが風に飛び、開いた窓ガラスにぺタリとくっついてしまった。あわ
てたが、遅かった。そのときドヤドヤと人が入ってきた。私は会議の間中、生き
た心地がしなかった。以来、ツバを吐くのはやめた。ゴミを捨てるのもやめた。
……やめたというより、できなくなった。

 もしあのY文房具店で、そのままおつりを握って外へ出たとしたら、私はどうな
っていたか。わずかばかりのつり銭で、得をした気分になっていたかもしれな
い。しかしそれは同時に、たった一〇〇円のことで私の善なる心をつぶしたこと
になる。が、私は振り向いた。たったそれだけの行為だが、皆の心がそこでな
ごんだ。その「なごみ」は、とても一〇〇円では買えないものだった。こういうケ
ースでは、損か得かという判断をくだすこと自体、バカげている。あやうく私は一
〇〇円のことで、自分の人格をつぶすところだった。

 さて私はもう七年足らずで、六〇歳になる。正直言って、どんな人格が出てく
るか、心配でならない。ボロが出るというか、多分、見苦しい老人になるだろう。
私の場合、気がつくのが遅すぎた。もう少し早く気がついていればと、悔やまれ
てならない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ゲームづけの子どもたち

●子どもをダシに金儲け●操られる子どもたち

 小学校の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジギャザ(マジッ
ク・ザ・ギャザリング)」。遊戯王について言えば、小学三年生で、約二五%、中
学一年生で、男子の約半数が、ハマっている。

 ある日一人の男の子(小三)がこう言った。「ブルーアイズを三枚集めて、融合
カードで融合させる。そうすればアルティミットドラゴンをフィールドに出せる。そ
れに巨大化をつけると、攻撃力が九千になる」と。子どもの言ったことをそのま
ま書いたが、意味がよくわからない。基本的にはカードどうしを戦わせるゲーム
と思えばよい。カードの取り合いをする「かけ勝負」と、遊ぶだけの「かけなし勝
負」がある。カードは一パック五枚入りで、百五十円から三百三十円程度。アル
ティミッド入りのパックは、値段が高い。マジギャザは、十五枚で五百円。中学
生で、ふつう千枚近いカードをもっている。中には一万枚以上もっている子ども
もいる。マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのため、アメリカ
バージョン、フランスバージョン、さらに中国バージョンなどがある。

 カード数が多いのはそのためだ。またフランスバージョンは質がよく、プレミア
のついたカードや、印刷ミスのあるカードは、四万円で売買されている。さらにこ
れらのカードを使って、カケをしたり、大会に出て賞品を集めたりする。「優勝す
るのは二十歳以上のおとなばかり」(小五男児)だそうだ。
子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも大盛況。あのポケモン時代に
は、カードだけで年間百億から二百億円の売り上げがあった。大手の出版社の
G社の年間売り上げを超える。莫大な金額である。いや、子どもたちは自分の
意思とは別の力によって、カード遊びに夢中になっている。

 たとえば今、融合カードは、発売中止になっている。そのカードを手に入れる
ためには、子どもは、交換するか、友だちから買うしかない。稀少価値がある分
だけ、値段も高い。たかがカード遊びと笑ってはいけない。公園のすみで一万
円とか二万円でカードを売買している、あなたの子どもの姿を想像してみてほし
い。中にはゲームにハマってしまい、現実と空想の区別がつかなくなってしまっ
た子どもすらいる。それはそれとして、しかしこんなことが許されてよいものか。
今日もあなたの子どもは、醜いおとなたちの商魂に操られるまま、その餌食(え
じき)になっている!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●不思議な糸巻き

●ドラマにこそ意味がある●ヨーロッパの民話

 ヨハンは仕事をするのがいやで、森へ逃げてきた。うしろのほうから父親が、
「ヨハン、まき割りの仕事を手伝ってくれ」と叫んでいるのが聞こえた。ヨハンが
木の陰に隠れていると、魔女が現れてこう言った。「あなたに不思議な糸巻きを
あげよう。いやなことがあったら、この糸巻きの糸を引くといい。引いた分だけ、
時間がすぎる」と。

 それからというもの、ヨハンはいやなことがあるたびに、糸を引いた。父親から
仕事を言いつけられたとき。学校でいやなことがあったとき。が、ある日ヨハン
はこう思った。「早くおとなになって、ハンナと結婚したい」と。そこでヨハンは、
糸をどんどんと引いた。…気がつくと、ヨハンはおとなになり、ハンナと結婚して
いた。しばらくは平穏な生活が続いたが、やがて二人の間に息子が生まれた。
が、ヨハンは子育てが苦手だった。そこでヨハンは、「息子を早くおとなにして、
自分の仕事を手伝わせよう」と考えた。ヨハンはまた糸をどんどんと引いた。

 …再び気がつくと、息子は立派なおとなになっていた。しかしヨハン自身も、
老人になってしまっていた。が、思い出が何もない。ヨハンは自分を振り返って
みたが、そこに何もないことを知った。そこでヨハンは、再びあの森にもどった。
するとそこにあの魔女がいた。ヨハンは魔女にこう言った。「私の人生はあっと
いう間に終ってしまった。私の人生は何だったのか」と。すると魔女は笑ってこう
言った。「では、もう一度だけ、あなたを子ども時代にもどしてあげよう」と。…ふ
と見ると、ヨハンは子どもにもどっていた。と、そのとき、うしろの方から父親が、
「ヨハン、まき割りの仕事を手伝ってくれ」と叫んでいるのが聞こえた。ヨハンは
明るい声でこう答えた。「お父さん、今行くからね」と。

 この物語は外国へ行ったとき、飛行機の中の雑誌で読んだものだ。ヨーロッ
パの民話だと思うが確かではない。が、それはそれとして、この物語には、妙
に考えさせられる。民話とはいえ、人生に対する考え方が織り込まれている。た
とえば…。

 日々が何ごともなく平穏にすぎていくことは、それ自体はすばらしいことだ。
が、すごし方をまちがえると、人生そのものを無駄にしてしまう。子育てもまた同
じ。子育ては苦労の連続。苦労のない子育てはない。しかしその苦労があるか
らこそ、そこからドラマが生まれる。生きる意味もそこから生まれる、と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●形式主義からの脱却

●「型」を重んずる日本の教育●子どもの左利き

 五、六年前、この浜松市で児童英語の研究会があり、その席でこんなことが
決まった。「U」は、左半分を先に書き、続いて右半分を書く。つまり二画、と。同
じように「M」「W」は四画、と。

 人類の約五%が、左利きといわれている(日本人は三~四%)。原因は、どち
らか一方の大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝とい
う遺伝説。生活習慣によって決まるという生活習慣説などがある。一般的には
乳幼児には左利きが多く、三~四歳までに決まる。また女子のほうが左利きが
少ないのは、男子のそれはよいが、女子のそれはよくないという偏見による。

 小学生でも作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子
どもは、五人のうち三人はいる。多くの子どもは、作文の楽しさを覚える前に、
その文字で苦しめられる。このワープロの時代に、なぜ書き順があり、画数が
あるのか。さらになぜトメ、ハネ、ハライがあるのか。ある教師はこう言った。「低
学年でしっかりと書き順を教えておかないと、なおすのがたいへん」と。
以上の三つの話は、底流でつながっている。つまり「日本人ほど型にはまった
教育が好きな民族はいない」ということ。茶道や華道、相撲に見られるように、
それはもう日本人の性癖のようなものだ。少し前オーストラリアの小学校を訪れ
たときのこと。私は壁に張られた子どもたちの作文を見て、びっくりした。スペル
がめちゃめちゃ。文法すらおかしい。そこで私が「なおさないのですか」と聞く
と、その先生(小三担当)は、こう話してくれた。「言葉はルール(文法)ではな
く、中味です。それにシェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはな
いのです」と。

 英語国にもない画数や書き順を決めるところが、実に日本人らしい。左利きに
しても、結局はどうでもよい部類の問題。ある教師は「冷蔵庫でもドアでも、右利
き用にできているから、なおしたほうがよい」と言った。しかしそんなことは、慣
れ。慣れれば何でもない。無理に右づかいを強要すれば、子どもがかえって混
乱するだけ。少なくとも四、五歳をすぎたら、子どもに任す。

 作文についても、日本のアニメは世界一と言われている。が、その背景に日
本人の文字離れがあるとしたら、喜んでばかりはおれない。言い換えると「形
式」からの脱却、それが日本の教育の大きなテーマの一つと言える。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の自転車通勤

●「下」の立場の教育論●傲慢になったら… 

 自転車通勤をして、もう二十五年になる。が、私が通うY街道。歩道と言えるよ
うなものはない。道路に描かれた白線の外、つまり側溝のフタの上が歩道
(?)。それも電柱や標識など、いたるところで、寸断されている。あぶないなん
てものではない。まさに命がけ。年に一、二度は、そのために死にかけている。

 一方、ときどきだが、各地へ講演で招かれることが多くなった。県外の場合
は、たいていグリーン車を用意してくれる。駅へ着けば、車が待っていてくれる。
そういうとき何だか自分が、別人になったような気分になる。私が私でなくなって
しまう。で、その自転車通勤。最初は健康のために始めたが、このところ別の
意味を感ずるようになった。こうした講演のあった翌日、また自転車に乗ったり
すると、ハッと我に返る。「ああ、これが私の本当の姿なのだ」と。

 ものを書く人間で一番こわいのは、ごう慢になることだ。どうしても思想が、行
動より先行してしまう。わかりやすく言えば、「頭でっかちの人間」になりやす
い。そういう人間が世間でちやほやされると、自分が偉い人間にでもなったか
のように錯覚する。自分を見失う。実際、そういう人は多い。ある作家は、「上京
するたびにホテルに泊まるが、そのホテル代だけで家が建つ」と豪語してい
た。ふつうの作家ではない。仏門に入って頭を丸めた作家である。が、自転車
通勤はそれをいましめてくれる。いや、何もグリーン車が上で、自転車通勤が下
と言っているのではない。しかし自転車通勤をしていると、その「下」がよく見え
る。

 先日もコンビニの前の駐車場を横切ろうとしたら、一台の乗用車が目の前で
急停止した。私はあやうくはね飛ばされるところだった。見ると若い男女だっ
た。声は聞こえなかったが、口の動きから「バ~カ」と言っているのがわかった。
女はニヤニヤ笑いながら、私から視線をはずした。かわいそうな若者たちだ。私
がなぜ、今こうして教育論を書いているかといえば、それは彼らのような人たち
がいるからではないのか。彼らのもっとも味方であるはずの私を、バカにして喜
んでいる!

 問題のない子どもや親に、教育論は必要ない。そういう子どもは受験参考書
でも読んでいればよい。私が私であるのは、「下」の世界に住んでいるからだ。
もし私が「上」の世界に住んでいたら、水面の下は絶対に見えない。自転車通
勤は、それを私に教えてくれる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●息子が恋をするとき

●人がもっとも人間らしくなるとき●私の失恋

 栗の木が黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「人生
の中で一番楽しい」と書いてきた。それを見せると女房が、「へえ、あの子がね
え」と笑った。私も笑った。

 私も同じころ恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際していると、相
手の女性の母親から、私の母に電話があった。「うちの娘はお宅のような家の
息子とつきあうような娘ではない。交際をやめさせてほしい」と。女性の家は、
製紙工場を経営していた。一方私の家は自転車屋。私はその電話を気にしな
かったが、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとし
たつまづきが、そのまま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女って何? 氷と欲望がその上でゆり動く
…」と。オリビア・ハッセーが演ずる『ロメオとジュリエット』の中で、若い男がそう
歌う。たわいもない恋の物語といえばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの
心をとらえるかといえば、そこに「純粋さ」を感ずるからではないのか。私たちの
世界には、あまりにも偽善が多すぎる。何が本物で、何がウソなのか、それす
らわからない。

 が、もし人がもっとも人間らしくなれるときがあるとするなら、それは電撃に打
たれるような衝撃を受け、身も心も焼きつくすような恋をするときだ。それは人が
唯一、つかむことができる「真実」と言ってもよい。ロメオとジュリエットを見る人
は、その真実に打ちのめされる。そして涙をこぼす。しかしその涙は、決して若
者の悲恋をいとおしむ涙ではない。すぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。無
限に見えたあの青春時代も、終ってみるとうたかたの瞬間。歌はこう続く。「♪
バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女もまた同じ…」と。
 
 相手の女性が結婚する日、私は一日中、自分の部屋で天井を見あげて寝て
いた。ほんの少しでも動こうものなら、そのまま体が爆発してしまいそうだった。
ジリジリと時間がすぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、私は何度も歯
を食いしばった。しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で美しかったこ
とはない。それが今、たまらなくなつかしい。

 私は女房にこう言った。「相手の女性がどんな子でも、温かく迎えてあげよう」
と。それに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私もまた、
笑った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●悪に対する抵抗力をつける

 非行は東洋医学的な発想で……

 知人の紹介もあって、家の中に入れた。が、あやしげな男だった。最初は印
鑑を売りたいと言っていたが、そのうちおかしなことを言い出した。「林さんは、
疲れませんか? いい薬がありますよ」と。私はピンときた。きたから、そのまま
その男には帰ってもらった。

 西洋医学では、「結核菌により、結核になった」と考える。だから「結核菌を攻
撃する」という治療原則をうちたてる。これに対して東洋医学では、「結核になっ
たのは、体が結核菌に敗れたからだ」と考える。だから「体質を強化する」という
治療原則をうちたてる。人体に足りないものを補いながら、抵抗力をつけたり、
体質改善を試みたりする。これは東洋医学の話だが、「悪」についても、同じよ
うに考えることができる。悪そのものと戦うというのも一つの方法だが、悪に対
する抵抗力を養う。そういう方法もある。私がたまたまその男の話に乗らならな
かったのは、その抵抗力があったからにほかならない。
 
子どもの非行についても、同じように考えることができる。私たちは子どもの非
行を考えるとき、ともすれば非行そのものを攻撃しようとする。たとえばナイフに
よる傷害事件が起きたとする。そのとき持ち物検査をするとか、ナイフを取りあ
げるというのが、それ。暴走族による集団非行について、暴走行為そのものを
取り締まるとか、検挙するとかいうのも、それだ。

 しかし子ども自身の抵抗力については、ほとんど考えない。たとえば子どもの
喫煙について。その年齢になると、子どもたちはどこからとなく、タバコを覚えて
くる。最初はささいな好奇心で始まるが、問題はこのあとだ。誘惑に負けてその
まま喫煙を続ける子どももいれば、その誘惑をはねのける子どももいる。東洋医
学的な発想からすれば、「喫煙という非行に走るか走らないかは、抵抗力の問
題」ということになる。そういう意味では、予防的ということになるが、実は東洋
医学の本質はここにある。東洋医学はもともとは、「病気になってから頼る医
学」というより、「病気になる前に頼る医学」という色彩が強い。あるいは「病気を
より悪くしない医学」と考えてもよい。では、どうするか。

 何度もこのコラムにも書いたように、子育ての基本は、「自由」。自由とは、も
ともと「自らに由(よ)る」という意味である。つまり子どもには、自分で考えさせ
る。自分で結論を出させる。自分で行動をとらせる。自分で責任をとらせる。こう
した日常的な習慣が、子どもを常識豊かな子どもにする。抵抗力のある子ども
にする。しかもその時期は、早ければ早いほどよい。乳幼児の段階から……と
言っても、よい。特に、静かに考える時間を大切にする。

①頭からガミガミと押しつける過干渉、
②子どもの側からみて、いつも親の視線を感ずるような過関心、
③「私は親だから」「あなたは私の子だから」式の権威主義は避ける。威圧や暴
力がよくないことは、言うまでもない。

 強く叱れば叱るほど、子どもは自分で考えることができなくなる。あとはドロ沼
の悪循環。(叱る)→(ますます非常識なことをする)→(叱る)……と。その結
果、子どもはますます抵抗力の弱い子どもになる。相手が幼児のときは、特に
そうだ。「あなたはどう思う?」「どうしたらいいの?」「何をしたいの?」と問いか
けながら、要は子どものリズムにあわせて、「待つ」。こういう姿勢が、子どもの
常識力を育てる。「悪」に対する、子どもの抵抗力を強くする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「子どもの世界」100回目

 土曜日は朝、四時ごろ目がさめる
(中日新聞のコラムが、2001年6月に、100回目を迎えます。「混迷の時代の子育て論」から通算すると、125回目になります。)

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうして、つまり暗い天井を見あげな
がら、新聞が届くのを待つ。「今日は載っているだろうか……」と、そんなことを
何度も考える。そう、私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならな
いとわからない。大きな事件やニュースがあると、私のコラムははずされる。そ
れにこう書いても信じてもらえないかもしれないが、最初の六回分を除いて、私
は一度だって執筆依頼をもらったわけではない。新聞というのは、そういうもの
らしい。あくまでも読者次第。そんなわけでいつも私が勝手に原稿を書き、それ
を新聞社に届けている。「よかったら載せてください」と。
 

私にとってものを書くというのは、墓石を刻むようなもの。息子たちにもときどき
こう言っている。「墓はいらない。ぼくが死んで、いつかぼくを思い出すようなこと
があれば、そのときはぼくの本を読んでほしい」と。若いころには、野心もあっ
た。この世界、本を売るためには、ある程度知名度がなければならない。が、書
いても書いても、私の本は売れなかった。「今度こそ」「今度こそ」と思ったが、
それでもだめだった。

 そんな中、新聞社から原稿依頼があった。が、飛びあがって喜んだというわけ
でもない。すでにそのころ私は、かなり自信をなくし始めていた。折りからの不
況もあった。もう書くのをやめようかとさえ考えていた。で、話を聞くと、「何でもよ
い」ということだった。そこで私は「世にも不思議な留学記」を書いた。しかしこ
れはすぐにボツになった。理由はわからなかったが、「あまりにも突飛もない話」
ということだったらしい。そこで私は「混迷の時代の子育て論」を書いた。これが
好評(?)で、一九九七年の七月から、計一七回も続いた。が、新聞にものを書
くというのは、丘の上から天に向かって、ものをしゃべるようなもの。読者の顔が
見えない。反応もない。本の場合は、売れた部数イコール、好意的に読んでく
れた人の数ということになる。が、新聞にはそれもない。ないばかりか、中に
は、「こんなこと書いて!」と怒っている人だっているに違いない。

 私は私だ。女房はよく、「どこかの懸賞募集に原稿を出してみたら」と言う。し
かしどこの誰が、私の生き様を判断できるというのか。私以外に、私を判断でき
る人間など、どこにいるというのか。私にとってはものを書くというのは、私の生
き様を残すことをいう。文がうまいとかヘタとか、そういうことはどうでもよい。私
がこうして文を書いて読者に訴えたいのは、文ではなく私自身なのだ。そういう
「私」を、誰が評価できるというのか。

 ……しばらく待っていると、新聞配達の人が新聞を届けてくれる。聞きなれた
バイクの音。そして足音。が、すぐには取りにいかない。いやときどき配達の人
がポストに新聞を入れたとたん、それを中から引っぱったらどうなるかと考える。
きっと配達の人は驚くに違いない。私はバイクの音が遠ざかったのを確かめて
から、おもむろに新聞を取りにいく。そして最初に県内版を開く。たいていそのと
きになると、横に寝ている女房も目をさまし、「載っている?」と聞く。コラムが載
っている朝は、そのまま起きて新聞を読む。載っていない朝は、そのまままた、
ふとんにもぐりこむ。こうして二年半が過ぎ、「子どもの世界」が、今日でちょうど
一〇〇回目を迎えた。読者のみなさん、ありがとうございました。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●美しいあなたへ、to a beautiful lady

●だれがあなたを責めることができますか

 あなは声を震わせて泣いた。それを見て私は、口をかたく結んだ。私にはあな
たの苦しみを、どうすることもできない。悲しみを、やわらげることもできない。

 あなたは最初、「息子を愛せない」と言っていて、私のところに相談にきた。そ
ばにいく人かの人がいた。皆も、そして私も、そういうあなたを責めた。「気軽に
考えたら」「無理をしてはいけない」と。しかしその言葉は、あなたを苦しめた。

 あなたは心のやさしい人だ。若いときから一人の男のストーカー行為に悩ん
でいた。が、あなたは「私だけががまんすれば…」と、その男に妥協した。そし
て結婚した。そして今の子どもが生まれた。そうしてできた子どもを愛せないか
らといって、だれがあなたを責めることができるだろうか。あなたはこう言った。
「結婚を断れば、事件になったかもしれない。夫が恐ろしかった」と。

 あなたは美しい人だ。相談を受けながら、「あなたはこんなところにいる人で
はない」と、私は何度も心の中でつぶやいた。さんさんと降りそそぐ明るい陽光
を浴びて、あなたは金色に輝くべき人だ。あなたが笑ったら、どんなにすてきな
ことか。

 「あなたにも夢があるでしょ?」と聞くと、あなたは、小さな声で、「看護婦さん
になりたい…」と。私はそのときふと、自分が病院で死ぬときは、あなたのよう
な看護婦さんにみてもらいたいと思った。が、私は精一杯、自分の顔をとりつく
ろって、こう言った。「子育ても一段落するときがきますよ。そのときがチャンスで
すよ」と。

 私は冷酷な人間だ。そういうあなたに向かって、「まとわりつく子どもをいやが
るのは、ストーカーだった夫を、あなたの子どもの中に見るからだ」と言ってしま
った。何という冷酷な言葉! あなたは自分の心の中をのぞいてしまった。あな
たがそれに気づいたとき、あなたは子どもだけではなく、あなたの夫も愛せなく
なってしまった!

 最後の日。涙で赤くなったあなたの目を見ながら、私はこう思った。「勇気を出
して、心を解き放ちなさい。体はあとからついてくる」と。「今のままでは、あなた
も、夫も、そして子どもも不幸になる」と。が、私には何も言えなかった。何という
無力感。何というはがゆさ。振り返ると、もうあなたはそこにいなかった。

 さようなら、Yさん。お元気で。いつか看護婦さんになったら、連絡してください
ね。夢を捨ててはだめですよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本の教科書検定

●まっちがってはいない。しかしすべてでもない。

 オーストラリアにも、教科書の検定らしきものはある。しかしそれは民間団体
によるもので、強制力はない。しかもその範囲は、暴力描写と性描写の二つの
方面だけ。特に「歴史的事実」については、検定してはならないことになってい
る(南豪州)。

 私は一九六七年、ユネスコの交換学生として、韓国に渡った。プサン港へ着
いたときには、ブラスバンドで迎えられたが、歓迎されたのは、その日一日だ
け。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。私たちを直接指導し
てくれたのが、金素雲氏であったこともある。韓国を代表する歴史学者である。
私はやがて、「日本の教科書はまちがってはいない。しかしすべてを教えていな
い」と実感した。たとえば金氏は、こんなことを話してくれた。「奈良は、韓国か
ら見て、奈落の果てにある都市という意味で、奈良となった。昔は奈落と書い
て、『ナラ』と発音した」と。今でも韓国語で「ナラ」と言えば、「国」を意味する。も
し氏の言うことが正しいとするなら、日本の古都は、韓国人によって創建された
都市ということになる。

 もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし一
歩、日本を出ると、この種の話はゴロゴロしている。事実、欧米では、「東洋学」
と言えば、中国を意味し、その一部に韓国学があり、そのまた一部に日本学が
ある。そして全体として、東洋史として教えられている。

 話は変わるが、小学生たちにこんな調査をしてみた。「日本人は、アジア人
か、それとも欧米人か」と聞いたときのこと。大半の子どもが、「中間」「アジア
人に近い、欧米人」と答えた。中には「欧米人」と答えたのもいた。しかし「アジ
ア人」と答えた子どもは一人もいなかった(約五〇名について調査)。先日もテ
レビの討論番組を見ていたら、こんなシーンがあった。アフリカの留学生が、「君
たちはアジア人だ」と言ったときのこと。一人の小学生が、「ぼくたちはアジア人
ではない。日本人だ!」と。そこでそのアフリカ人が、「君たちの肌は黄色では
ないか」とたたきかけると、その小学生はこう言った。「ぼくの肌は黄色ではな
い。肌色だ!」と。

 二〇〇一年の春も、日本の教科書について、アジア各国から非難の声があ
がった。韓国からは特使まで来た。いろいろいきさつはあるが、日本が日本史
にこだわっている限り、日本が島国意識から抜け出ることはない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●人間は考えるアシである

●知識と思考は別●思考するから人間

 パスカルは、「人間は考えるアシである」と言った。「思考が人間の偉大さをな
す」とも。

 よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出す
というのは、別のことである。たとえばこんな会話。
A「昼に何を食べる?」B「スパゲティはどう?」A「いいね。どこの店にする?」B
「今度できた、角の店はどう?」A「いいね」と

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、
この二人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わ
せて取り出しているに過ぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たと
えば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからとい
って、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにも
ならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、
無意識のうちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそう
とする。中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属
する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少し
は疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生
は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に、意味がある。正し
いとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。
こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が一生懸命穴を掘っ
ていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。
その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れ
ば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そ
うしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を
身につけさせることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」
と。それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切
なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。
私はそれを心配する。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●まき散らされたゴミ

●野放しになる暴力映画●周囲文化の充実を

 ある朝、清掃した海辺に一台のトラックがやってきた。そしてそのトラックが、
あたり一面にゴミをまき散らした…。

 『バトル・ロワイヤル』という映画が封切られたとき、私はそんな印象をもった。
どこかの島で、生徒どうしが殺しあうという映画である。これに対して映倫は、
「R15指定」、つまり、十五歳未満の子どもの入場を規制した。が、主演のB氏
は、「入り口でチン毛検査でもするのか」(テレビ)とかみついた。監督のF氏も、
「戦前の軍部以下だ」「表現の自由への干渉」(週刊誌)と抗議した。しかし本
当にそうか?
 
アメリカでは暴力性の強い映画や番組、性的描写の露骨な映画や番組につい
ては、民間団体による自主規制を行っている。

【G】一般映画
【PG】両親の指導で見る映画
【PG13】十三歳以下には不適切な映画で、両親の指導で見る映画
【R】十七歳以下は、おとなか保護者が同伴で見る映画
【NC17】十七歳以下は、見るのが禁止されている映画、と。

 アメリカでは、こうした規制が一九六八年から始まっている。が、この日本では
野放し。先日もビデオショップに行ったら、こんな会話をしている親子がいた。
子(小三くらいの男児)「お母さん、これ見てもいい?」母「お母さんは見ないか
らね」子「ううん、ぼく一人でみるからいい…」母「…」と。

 見ると、殺人をテーマにしたホラー映画だった。

 映画だけではない。あるパソコンゲームのカタログにはこうあった。「アメリカで
発売禁止のソフトが、いよいよ日本に上陸!」(SF社)と。銃器を使って、逃げま
どう住人を、見境なく撃ち殺すというゲームである。

 もちろんこうした審査を、国がすることは許されない。民間団体がしなければ
ならない。が、そのため強制力はない。つまりそれに従うかどうかは、そのまた
先にある、一般の人の理性と良識ということになる。が、この日本では、これが
どうもあやしい。映倫の自主規制はことごとく空洞化している。言いかえると、日
本にはそれを支えるだけの周囲文化が、まだ育っていない…。先のB氏のよう
な人が、日本や東京都を代表する文化人として、表彰されている。

 海辺に散乱するゴミ。しかしそれも遠くから見ると、砂浜に咲いた花のように
見える。そういうものを見て、今の子どもたちは、「美しい」と言う。しかし…果た
して…?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

人生の秋、そして老後

●この世界、経験はもう必要ない●私の夢

 今日もまた、一人の生徒がやめた。帰るときになって、私にメモを渡した。見
ると、「今度、進学塾に入ることになったから…」とあった。「元気でね」とは言っ
てみたものの、さみしかった。夜、ぼんやりとお茶を飲んでいると、女房がこう言
った。「がんばれるだけがんばって、それでだめなら、もうこの仕事はやめよう」
と。

 子育てが終わるとどっとやってくるのが、老後。貯金の大半は息子たちの学
費で使い果たしてしまった。「またがんばるぞ」と思ったとたん、老後がやってく
る。持病はないが、このところ聴力がまた落ちた。自分に「がんばれ」とハッパを
かけるが、もうがんばる余地など、ほとんどない。昔、だれかがこう言った。「人
生には春もあれば、夏もあり、秋もある」と。そのときは、「そんなものあるか」と
思った。が、こうなってみると、人生の秋をしみじみと感ずる。冬はもうすぐだ。
冬じたくをしなければならない。女房はこのところ、あちこちから老人ホームの
案内書を取り寄せている。「この家と土地を売れば、何とかなるわ」と。

 教育の世界には、もう経験も技量も必要、ない。それは料理のようなもの。手
のかかった料理よりも、ファーストフードの料理のほうが、おいしいと人は言う。
コストも安い。親は親で、「余計なことは教えてくれるな」と言う。私は無数の市
販教材を手がけてきたが、そういうものを生徒に売りつけたことは、一度もな
い。看板もチラシも出したことはない。教材はすべて手作り。が、そういう誠意な
ど、この世界では、どれほどの意味があるというのか。

 人は私を見ると、「活躍していますね」と言う。こうしてコラムを書いたり、本を
出したりしていることをいうらしい。しかし私にはその実感はない。原稿を書くと
いっても、こうして一人でパソコンに向かっているだけ。スポーツ選手のように、
観客の声援を肌で感ずるということはない。この不況下、出版界は、空前の
(?)大不況。あわせてインターネット時代。「本が売れる」という時代は、もう終
わった。いや、貧乏がこわいのではない。こわいのはそういう貧乏と戦う気力が
なくなることだ。頭が鈍って、ものが考えられなくなることだ。
 「いつかオーストラリアで、幼稚園の先生をしたい」と私。「南オーストラリアの
田舎の幼稚園がいい。お前も一緒に行くか?」と声をかけると、女房はうれしそ
うに笑った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●無条件の愛unconditional love

●「私」をなくせば、死もこわくない…?

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもな
い。「私は自由だ」といくら叫んだところで、そこには限界がある。死は、私から
あらゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自
由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか…? その方法はあるのか
…? 

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら、死の恐
怖から、私は自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、
私はこんな経験をした。

 息子が、アメリカ人の女性と結婚することになった。そのときのこと。息子とこ
んな会話をした。
息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習
わしなっている。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、
グイグイと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の
会話のときは、さすがに私も声が震えた。息子「アメリカ国籍を取る」私「日本人
でなくなる、ということか…」息子「そう」「…いいだろ」と。私は息子に妥協した
のではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえに、一人
の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉があ
る。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時
に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめる
ことでもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる
ものを、愛し、許し、受け入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、
「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの人が、どろぼうを恐れ
ないのと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では
一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服
したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することがで
きるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標
にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。


(以上2002年に書いた原稿)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

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