2012年5月3日木曜日

Comin' thro' the Rye

【人間不信論】(マドンナ論)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

少し前、高校の同窓会に出た。
楽しかった。
その席でのこと
昔の恋話(こいばなし……若い人たちは、「恋バナ」という)に花が咲いた。
こうした恋話に花を咲かせたのは、15年ぶり、それとも20年ぶり?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司



●デフォルメ

 絵画、彫刻の世界には、デフォルメという言葉がある。
写実主義に対して、「デフォルメ」という。
同じように、もの書きの世界でも、ときどき「デフォルメ」という言葉を使う。
当の本人とわからないように、「形」を変える。
「内容」を変える。
「ストーリー」を変える。

 そうでもしなければ、当の本人の名誉に傷がつく。
高校の同窓生ともなれば、なおさら。
が、いくらデフォルメしても、その向こうにある事実は、ひとつ。
まずその事実。

●A子さん(女性)

 私はある時期、高校の同級生の女の子とつきあっていた。
名前を「A子さん」としておく。
「つきあう」というのは、「つきあう」という意味。
プラトニックな関係から、濃密な肉体関係まで、いろいろある。
幅が広い。
年齢(学年)があがれば、当然、後者の関係に近づく。

 そのA子さんの話を、だれかがしていた。
名前が聞こえたので、その輪に、私も加わった。
「あの人、どうしている?」「わからないわ」と。

 で、私は、こう言った。
「ぼくね、A子さんと、~~時代、つきあっていましたよ」と。
今さら隠すような話でもない。
すると、すかさず、A子さんをよく知るという、つまりA子さんの実家の近くに住んでいるB子さんが、こう言った。

「あらっ、そんなはずないわよ。A子さんが好きだったのは、X男君よ。林君(=私)じゃあ、ないわよ」と。

 実は、X君の名前は、記憶のどこかで聞いた覚えがある。
が、その当時、Aさんにとっては、すでに過去の人と思っていた。

私「なんだ、好きな人がいたのか」
友「そうよ。ずっと好きだったみたいよ」
私「ぼくは、純愛かと思っていた」
友「そんなわけないでしょう」と。

 X君はスポーツマンで、背が高い。
私は背が低い。
見てくれも、悪い。
どう考えても、勝ち目はない。

●純愛?

 が、話はそこで終わらなかった。
そばにいた、Y男君まで、こう言い出した。

「実はね、ぼくね、大学1~2年のころ、A子さんとつきあっていた」と。

私「お前もか?」
Y「そうだよ。いいとろこまでいったよ。A子さんの家の2階でね……」と。
私「ぼくがつきあっていたころと、重なるよ」
Y「そう。林君の名前は、聞いていた。『林君ともつきあっている』とね」と。

 知らなかったのは、私だけ。
ああ、神様、仏様、……私だけ。
「ぼくはね、純愛かと思っていた」と。

Y「林君は、純情だなあ」
私「そうだなあ。ぼくは、A子さんと別れてから、A子さんを忘れるのに苦労したよ」
Y「そうだったのか。そうならそうと言ってくれれば、いろいろ話してやったのに」
私「当時は、言えなかったよ」
Y「つまりね、遊び。A子さんにしてみれば、林君は、ただの遊び友だち」
私「遊び友だちね? ぼくは結構、真剣だったよ」
Y「そんなわけないだろ。A子さんは、大学生のときも、X男と交際していたぞ。よく2人でドライブしていたぞ」と。

 あとは、お決まりの笑い声。
ハハハ、アハハハ……、と。

●人間不信

 A子さんは、高校時代から大学時代まで、私を含めて、4人の男性とつきあっていたことになる。
わかっているだけで、4人!
同級生だけで、4人!
私はただのワン・オブ・ゼム。
もちろんそのほかにも、いただろう。
が、私が知るところではない。

 何人かと顔を見合わせ、「女性って、すごいね」「ホント!」と。
そのときはそれで終わった。
が、私に与えたショックは、大きかった。
浜松に帰ってから、ボディブローのように、じんわりと痛みが大きくなってきた。
「人間不信」。
その不信感に襲われた。

●C子さん

 まず、ワイフに聞いてみた。

私「なあ、お前、結婚前のお前の話はたくさん聞いた。でも、それはみんな、本当のことか?」
ワ「何よ、今さら」
私「だってさ、あのA子さんね、ぼく以外にも3人の男と同時に交際していたよ」
ワ「あら、すごいわね。田舎の人って、そんなにすごいの?」
私「都会も田舎もないよ。お前は、どうなんだ?」
ワ「私は、ウソはつかないわよ」
私「いえね、ぼくはね、それが信じられなくなった」と。

 同窓会で聞いた話ではないが、別の機会に、こんな話も聞いたことがある。
同じクラスに、C子さんという、見るからに静かで、純情そうな女の子がいた。
ほのかな恋心を抱いたこともある。
そのC子さんも、これまた、メチャメチャ。

 同級生の何人かと、肉体的な関係をもっていた!
しかも高校時代に!
一度は、高校の近くの林の中で、それをしているところを、みなに見つかっている。

 当初、私はその話が信じられなかった。
何度も、否定した。
「あのC子さんが、そんなことをするわけがない!」と。
しかしそれは事実だった。
残念ながら、事実だった。
その様子を直接目撃した友人がいて、それを詳しく話してくれた。

●マドンナ論

 要するに、聖母はいない。……ということ。
一般論からすると、マザコンタイプの男性ほど、マドンナ(聖母)を求めやすい。
女性の理想型を、相手の女性に求めやすい。
私は、そのマザコンだった。
いつも女性に、聖母的な潔癖さと、包容力を求めていた。

 だからいつも、その女性の言葉を、そのまま信じていた。
「疑う」ということすら、しなかった。
私自身も、生涯、そのときどきにつきあうのは、1人だけ。
真剣。
遊びで、女性と交際したことはない。
また交際した以上、いつもその責任を取ってきた。
今のワイフとも、そういういきさつの中で、結婚した。

 この性分は、私の実父譲りと思う。
私の父は、大のかたぶつ。
くそまじめで、融通がきかなかった。
浮いた話とは、まるで無縁の世界に住んでいた。

 が、私のような人間は、少数派。
50年前の高校時代においてですらも、少数派?

●被害者

 ここに書いたことは、かなりデフォルメしてある。
しかしウソでないという点で、A子さんやC子さんが、これを読めば自分とわかるはず。
それを心配して、ワイフがこう言った。

「あなた、A子さん、怒るわよ」と。

私「だって、ぼくはだまされた被害者だよ。もてあそばれただけだよ」
ワ「いくらそうでも、本人が読んだら、怒るわよ」
私「そうかなあ。ぼくは真剣に結婚まで考えた……」
ワ「だから、あなたはおめでたいのよ。相手の女性は、そういうあなたを、うるさく感じて、去っていったのよ」と。

 うるさい?

 そうかもしれない。
相手の立場で考えれば、それがよくわかる。
相手は、私をただの遊び相手と考えていた。
そんな相手が真剣になったら、たしかに、「うるさい」。

 しかし私は、A子さんとの思い出を、死ぬまで大切にしたいと思っていた。
それが今回の同窓会で、ものの見事に、破壊されてしまった。
フーッと、家の中にたまったほこりのように、散ってしまった。
何という虚脱感。
バカ臭さ。
「今度会ったら、あいつの顔をぶん殴ってやる」と。

ワ「私がA子さんだったら、とても同窓会には出られないわ」
私「そうだなあ……。ふつう同窓生というのは、大切にする。汚れた思い出を作らない」
ワ「親類みたいなものだからね」
私「そうなんだよ。そう言えば、それ以後、一度も同窓会に出てこない……」と。

●性欲の奴隷

 さらに一歩踏み込めば、こういうこと。
別に難しい話ではない。
最近の若い人たちを見れば、それがよくわかる。
つまりその年齢の男女は、性欲の奴隷。
性欲の奴隷となって、無数のドラマをつくる。
その一語につきる。(2012/05/03)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

マドンナ論について書いた原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●聖母か娼婦か?

 女性は、元来、聖母か娼婦か。どちらか。
ただし、聖母のように見えても、決して、聖母とは思ってはいけない。
一人の女性が、相手に応じて、聖母になったり、娼婦になったりする。

 だから見た目には、つまり男によっては、その女性は、聖母にも見えることがあるし、娼婦に見えることもある。
わかりやすく言えば、男しだいということ。

 若いころ、こんな経験をした。高校を卒業してから、まもなくのことだった。

 私には、その女性(C子さんとしておく)は、聖母に見えた。
高校時代、隣のクラスの女の子だった。
おしとやかで、恥ずかしがり屋だった。
その上、理知的で、分別もある人に見えた。
が、その女性が、別の世界では、まったくの別人? 
男を、まさにとっかえひっかえ、遊んでいた!

 ある友人が、こう言った。「あのな、林、あのC子さんな、高校生のとき、草むらで、男とSクスをしていたぞ。
自転車で家へ帰るとき、オレ、見てしまったぞ」と。

 私が驚いて、「そんなことあるかア!」と言うと、その友人は、「ウソじゃない。オレは、ちゃんと見た」と。

 それでも私は、信じなかった。
「きっと見まちがえたのだろう」とか、「何か、ほかのことをしていたのだろう」とか。
「C子さんではなかったのかもしれない」とも。

 しかしそれから20年くらいたってからのこと。
別の友人が、こう言った。
「ぼくは、あのC子さんと、高校3年生のとき、つきあっていた。そのとき、C子さんは、すでにバージンではなかった」と。

 私は「ヘエ~」としか、言いようがなかった。
私がC子さんにもっていたイメージとは、あまりにも、かけ離れていたからだ。

私「女って、わからないものだあ」
友「お前は、C子さんをどう思っていたんだ?」
私「とにかく、信じられない。ぼくにとってC子さんというのは、マドンナだった」
友「あのC子さんが、マドンナだったってエ? お前は、いったい、C子さんの、どこを見ていたんだい?」
私「そう、ぼくには、マザコン的なところがあるからな」と。

 一般論として、マザコンタイプの男は、女性に、理想像を求める。
そして好意を寄せる女性を、マドンナ化する。
日本語で言えば、聖母化する。(マドンナのことを、聖母という。
少しニュアンスがちがうような気もするが……。)

 聖母化するのは、その人の勝手だが、聖母化された女性のほうは、たまらない。
とくに夫に聖母化されると、妻は、困る。
これもまた一般論だが、マザコンタイプの男性は、離婚率が高いという。
浮気率も高いという。

 1990年に発表されたキンゼイ報告によれば、アメリカ人のうち、37%の夫が、少なくとも、1回以上の浮気をしているという。
この数字を多いとみるとか、少ないとみるか。
日本には、宗教的制約がないから、日本人の夫の浮気は、もう少し、多いのではないか。

 それはともかくも、マザコンタイプの男性は、理想の(?)女性を求めて、つぎからつぎへと、女性を渡りあるく傾向が強い。
新しい女性とつきあっては、「こんなはずではなかった」「この女性は、ぼくの理想の女性ではない」と。
だから離婚しやすい。
浮気しやすい。(多分?)

 要するに、女性を聖母化するというのは、それ自体が、マザコン性のあらわれとみてよい。
このタイプの男性は、肉欲的な荒々しい性的関係を結ぶことができない。
女性を聖母化する分だけ、成熟したおとなの関係を結ぶことができない。

 で、問題は、まだつづく。

 さらに一般論として、女性は、自分がどう見られているかを敏感に察知し、その見られている自分を、男の前で演ずることがある。

 「聖母に見られている」と感じたとたん、その人の前では、聖母のように振る舞うなど。
つまりC子さんは、私の前では、聖母を演じていただけ? 
しかしそう考えると、すべて、つじつまが合う。

 が、これは私自身の問題でもある。

 私は、ここにも書いたように、かなりマザコンタイプの人間だった。
母親を絶対化する分だけ、若いとき、私とつきあう女性にも、それを求めた。
私と結婚したワイフでさえ、あるとき、私にこう言った。

 「私は、あんたの母親じゃないのよ!」「あんたの母親のかわりは、できないのよ!」と。

 そのときはなぜワイフがそう言ったのか、その意味がわからなかった。
しかし当時の私は、ワイフに、いつも、女性としての完ぺきさを求めていたように思う。

 そこであなたの(あなたの夫の)マザコン度チェック!


(  )あなたは妻に、いつも完ぺきな女性であることを求める。(あなたの夫は、あなたに完ぺきな妻であることを求める。)
(  )あなたはいつも、女性に、母親的な女性像を求める。(あなたの夫は、あなたに母親的な女性像を求める。)
(  )あなたは妻に、動物的な妻であることを許さない。(あなたの夫は、あなたに動物的な妻であることを許さない。)
(  )あなたは、いつも妻に、完全に受けいれられていないと気がすまない。(あなたの夫は、あなたに完全に受け入れられている状態を求める。)
(  )あなたは妻に、かつてあなたの母親がしてくれたことと同じことを、求めることが多い。(あなたの夫は、夫の母親が夫にしたことと同じことを求めることが多い。)


 要するに、妻を聖母化するということは、その夫自身が、マザコンであるという証拠。(……と、言い切るのは危険なことだが、それほど、まちがってはいない。)

ワイフ「本人自身は、それに気づいているのかしら?」
私「さあね。たぶん、気がついていないだろうね。マザコンタイプの人は、そうであること自体、自分のことを、親思いのいい息子と考えているから」
ワイフ「でも、そんな夫をもったら、奥さんも、たいへんね」
私「お前も、苦労したな」
ワイフ「ホント!」(ハハハハ)と。

 人生も半世紀以上生きてみると、いろいろなことがわかるようになる。
男も女も、ちがわないというのも、その一つ。
どこもちがわない。この世の中には、聖母も娼婦もいない。
みんな、そのフリをしているだけ。
そうでないフリをしているだけ。

 だからこの議論そのものが、意味がない。
男性に、聖人も、男娼もいないように、女性にも、聖母も娼婦もいない。……ということで、この話は、おしまい。

●女性とおとなのセックスができない男性

 概して言えば、日本の男性は、総じて、マザコン的? 
母系社会というより、母子関係の是正をしないまま、子どもは、おとなになる。
つまり父性社会の欠落?

 よい例が、ストリップ劇場。
私も若いころは、ときどき(ときどきだぞ!)、見にいったことがある。

 日本のストリップ劇場では、中央の舞台で、裸の女性が、服を一枚ずつ脱ぎながら、なまめかしく踊る。
観客の男たちは、それを見ながら、薄暗い客席で、シコシコとペニスをマッサージする。

 この関係が、実にマザコン的? 女がほしかったら、「ほしい」と言って、飛びついていけばよい。
セックスをしたかったら、「したい」と言って、飛びついていけばよい。

 が、舞台の女性に、「あんた、ここへあがってきなさいよ。抜いてあげるからさア」と声をかけられても、その場で、照れて見せるだけ。
どうも、はっきりしない。そのはっきりしないところが、マザコン的?

 マザコンの特徴は、女性を美化し、絶対化するところにある。
あるいは母親としての理想像を、相手の女性や妻に求める。
そのため女性の肉体は、おそれおおい存在となる?

 ……という心理は、私にはよく理解できないが、多分、そうではないか。
このことは、子どもたちの世界を見ていると、よくわかる。

 数は少なくなったが、今でも、雄々しい男の子というのは、いるにはいる。
(反対に、ナヨナヨした男の子は、多いというより、ほとんどが、そう。)
そういう男の子は、女の子に対して、ストレート。
こんなことがあった。

 私が、何かのきっかけで、「騒いでいるヤツは、ハサミでチンチンを切るぞ」と言ったときのこと。
一人の女の子(小5)が、すかさずこう言った。
「私には、チンチンなんて、ないもんね」と。

 それを聞いた別の男の子(小5)が、「何、言ってるんだ。お前らには、クリトリスがあるだろ!」と。

 私はこのやりあいには、驚いた。
「今どきの子どもは……!」と。

 しかし思い出してみると、私たちが子どものころには、そういう言葉こそ知らなかったが、相手に対して、今の子どもよりは、ものごとをストレートに表現していたと思う。
「おい、セックスをさせろ」というなことまでは言わなかったが、それに近い言葉を言っていたように思う。

 だから同じ男として、「お前らには、クリトリスがあるだろ!」と言いかえす男の子のほうが、好きと言えば、好き。
一応、たしなめるが、それは立場上、そうしているだけ。

 そういえば、マザコン的といえば、マザコン的? 
かなり昔、こんなことを言う男子高校生がい
た。その高校生は、ま顔で、私にこう言った。

 「先生、ぼくの彼女ね、本当にウンチをするのかねエ?」と。

 その高校生に言わせれば、「彼女は、ウンチをしない」とのこと。
そこで私が「じゃあ、彼女は、何を食べているの?」と聞くと、「ごはんだけど、彼女は、ウンチをしないと思う」と。

 また反対に、こんなことを言う男子高校生もいた。

 「先生、ぼく、ブルック・シールズ(当時のアメリカの女優)のウンチなら、みんなの前で食べてみせることができる」と。

 彼は、そのブルック・シールズの熱狂的なファンだった。

 こうして考えてみると、初恋時には、男はみな、多かれ少なかれ、マザコン的になるのか? 
あるいはプラトニック・ラブを、そのままマザコンと結びつけて考えることのほうが、そもそも、おかしいのか?

 ただ、こういうことは言える。

 マザコンタイプの男性ほど、その女性のすべてを受け入れる前に、自分をすべて受け入れてくれる女性を求める。
そしてその女性に、母親的な完ぺき性を求めて、その女性を追いつめやすい、と。

 恋人関係ならまだしも、結婚生活となると、ことは深刻。
いろいろ問題が起きてくる。離婚率や浮気率が高いという説があるのも、その一つ。

 それについてワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

「夫がマザコン的だと、奥さんも、疲れるわよ。
夫が望むような妻にならなければならないから」と。

私「夫がマザコンだと、離婚率が高いという説があるよ」
ワイフ「当然でしょうね。そんな男と、生活するのは、たいへんよ」
私「妻より、母親のほうが大切と考えている男性も、多いよ」
ワイフ「だったら、母親と結婚すればいいのよ」
私「ワア、それこそ、マザコンだあ」と。

 そういう意味でも、母親は、ある時期がきたら、子どもを、自分から切り離していかねばならない。
いつまでも、濃密な母子関係に溺れていると、子ども自身が、自立できなくなってしまう。

 本来なら、父親が、母子関係に割ってはいり、その母子関係を調整しなければならない。が、今、その父親不在の家庭が多い。
あるいは、父親自身が、マザコン的であるというケースも、少なくない。

 最後に、タイトルに、「女性とおとなのセックスができない男性」と書いたので、一言。

 もう10年近くも前になるだろうか。中学3年生になったばかりの女の子が、私に、こう言った。

 「先生、あんな男とは、もう別れた」と。
その中学生には、ボーイフレンドがいた。そこで私が理由を聞くと、こう言った。

 「だって、先生、3回もデートしたけど、何もしてくれないのよ」と。

私「何もしてくれないって?」
中学生「手も、握ってくれないのよ」
私「で、君は、どんなことをしてほしいと思っていたの?」
中学生「ふふふ。わかっているくせに……」と。

 性的な男女交際を奨励するわけではないが、私はその話を聞きながら、そのとき内心では、「だらしない男もいるもんだ」と思った。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●結論

 冒頭にあげた、『故郷の空』の原曲は、『Comin' thro' the rye』。
つまり曲の歌詞が結論。

Gin a body meet a body
だれかが麦畑を分けてやってきた。

Comin' thro' the rye

Gin a body kiss a body
だれかがだれかに、キスをした。

Need a body cry?
それを嘆く必要はあるのか?

Ilka lassie has her laddie
どの女の子も、男の子をもっている。

Nane, they say, hae I
みんな私にはボーイフレンドはいないと言う。

Yet a' the lads they smile at me
が、男たちは、みな、私に笑いかけてくる。

When comin' thro' the rye.
麦畑をかき分けてやっってくるときに……。
(訳:はやし浩司)

 つまり、「いいじゃないの。(=どうでもいいじゃないの。)
みんな若いときは、がんばってやってください。
それが青春だから……」ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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