2012年5月23日水曜日

Parakeet and its intelligent Ability

【BW教室】

●年長児(言葉の学習)

言葉から、お話作り。
それを目的に、指導してみました。



●小1&2児(対称図形)

「対称」という言葉を使って、指導してみました。
まったく問題、ありませんでした。




Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●3歳児の知能

 ぼたんインコなどには、人間の3歳児程度の知能(知的能力)があるという。
どういう基準で、またどういう方法でそれがわかったかは、不明。
しかしあちこちのサイトには、そう書いてある。

 3歳児!

 「頭がいい」という意味で、そう言うのだろう。
が、それにしても、すごい。
3歳児の知能があるということよりも、あんな小さな頭で、それだけのことを考えられるところが、すごい。
たとえばあるサイトには、こんな話が紹介されている。

 その家の人が、台所で、ある料理を始めた。
そのインコは、その家の中で放し飼いになっていた。
で、その人が、つぎに使う食材を知っていた。
冷蔵庫の前で待ちかまえていた。
で、その家の人がその食材を、冷蔵庫から取り出そうとしたその瞬間、サッと横取り。
その食材をもって逃げていったという。
つまりその家の人の行動を、先読みしていた、と。

●たったの1グラム

 人間のばあい、「成人で体重の2%ほどにあたる1・2~1・6キログラムの質量がある」(ウィキペディア百科事典)という。
1・4キロと考えて、1400グラム。
一方、ぼたんインコのばあい、同じく2%と考えても、1グラム。
(現在、私のぼたんインコは、生後4~5週間目で、体重は50グラム前後。
50x0・02=1グラム。)

 たったの1グラム。
その1グラムで、3歳児程度の知能があるという。
人間の脳よりも、はるかに緻密な構造になっていると考えてよいのか。
大小ではない。
緻密度。

 驚くのは、あのハチの能力。
ハチのもつ知能にも、驚かされる。
それについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。
「あんな小さな頭で……!」と。

●神経細胞

 生涯にわたって、神経細胞の数は、減ることはあっても、ふえることはない。
その数は、300億個ともいわれている(ウィキペディア百科事典)。
日々に、一方的に死滅するのみ。
つまり幼児のほうが、おとなのもつ神経細胞の数は多いということになる。
が、知能(知的能力)の優劣は、神経細胞の数だけでは、決まらない。
神経細胞から伸びる、樹状突起の数と、からみあいで決まる。
(「からみあい」というのは、私の個人的な印象による表現。)

 だから幼児のほうが、おとなより、知能が高いということには、ならない。
(ただしおとなより、知的回転速度が速く、柔軟性に富んでいるのは、事実。)

400px-Complete_neuron_cell_diagram_en_svg
(神経細胞の模式図、ウィキペディア百科事典より)

 この図のような神経細胞が、300億個もあるという。
驚きである。

●俗説

 「脳」というより、「脳みそ」。
これから書くことは、脳科学の分野で証明された事実ではないので、あえて「脳みそ」と書く。
つまり俗説。

俗説的に考えれば、知能のよし、あしは、要するに「使い方の問題」と考えてよい。
そのことは、幼児というより、老人を見れば、よくわかる。

 肉体の健康と同じで、日ごろからよく訓練している人は、それなりに頭がよい。
そうでなければ、そうでない。
つまり習慣の問題。
その差が、50歳を過ぎると、ぐんと出てくる。
さらに60歳を過ぎると、決定的になる(?)。

 が、ここでパラドックス。
皮肉なことに、知的能力の低い人ほど、自分では「高い」と思っている(?)。
自分を基準にして、ものを考えるから、そうなる。
同時に、知的能力の低い人からは、高い人が理解できない。

 反対に知的能力の高い人ほど、自分を客観的に判断できるから、自分では「低い」と思っている?
で、こんな例がある。

 ある認知症の女性(当時67歳くらい、後にアルツハイマー病と診断された)は、こう叫んだ。
私が「……私は、そんなにバカではありません……」と言ったときのこと。
「私だって、バカではありません!」と。
ものすごい剣幕だった。

 あまりにもくどくどと、同じことを何度も言ったので、私は、そう言った。
それに対して、「私だって、バカではありません!」と。

●人間のほうがバカ

 ……で、インコの話に戻る。

 また別のサイトには、こうあった。
インコによっては、人間を、主人とは思っていないそうだ。
自分が主人と思っているそうだ。

「人間は、自分の世話をする、僕(しもべ)である」と。

 もっともこれは育て方の問題かもしれない。
人間の子どもでも、育て方をまちがえると、主従関係が逆転する。
子どものほうが威張る。
親のほうが小さくなる。

が、インコに人間の知能の高さが、理解できないのは事実。
今も、私の胸の中で眠っている。
が、その態度がデカイ。
手で出そうとすると、それをいやがり、ガリガリと鳴く。
恐らくインコのほうから見れば、人間のほうがバカに見えるにちがいない。

●ミニチュアの人間

 で、今、私はこんなことを考えている。
「これは、やっかいなことになるぞ」と。

 ペットとして買ってきたインコ(ぼたんインコ)だが、育て方をまちがえると、やっかいなことになるぞ、と。
たとえばインコには、「かみ癖」というのがある。
くちばしが大きいだけに、一度、かみ癖がつくと、人間の耳たぶくらいなら、食いちぎってしまうそうだ。
そうなると、人間のほうがこわがり、逃げてしまう。
ペットとして、抱くこともできなくなる。
頭がいいだけでに、余計にたいへん。

 で、今のところ幸いなことに、私のインコ(まだ名前が決まらない)は、おだやかで、やさしい。
甘えん坊。
私の胸の中で、ときどきピヨピヨと寝言を言っている。
どうかこのまま育ってくれればよいと願っている。

 で、結論。

●人間vsインコ

 ペットと言えば、イヌやネコが定番。
ほかにウサギやハムスターもいる。
しかし、ことインコに関して言うなら、体は小さいが、ただのペットではない。
ミニチュアの人間と考えた方がよい。
この10日間だけでも、日々に成長している。

昨日あたりから、縄張り意識が急に強くなったように思う。
また昨日、小さな犬のぬいぐるみを買ってきてやった。
それを見せたが、こわがって近づこうともしない、などなど。
そのうち人間の私たちのほうが、このインコに振り回されるようになるかもしれない。
楽しみというより、どこか心配になってきた。2012/05/23朝記

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Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司




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 子育て最前線の育児論byはやし浩司     6月 11日号
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●晃子へ

Happy Birthday to you!


【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【4月17日2012年のレッスンより】

(1)新年長児に、「あいうおえ」をテーマに、声を出させるレッスンをしました。

新年長児、2回目のレッスンです。テーマは、前回についで、「声を出す」。「声を出す」?と、疑問に思う人も多いかと思いますが、この時期、声を出すというのは、学習の基本です。(声を出せない子どもも多い。)またこの日本では、学習というと、ペーパーワークが中心。またペーパーテストでよい成績を取った子どもが頭がよいということになっていますが、これぞまさしく世界の非常識! 教師と生徒が、ワイワイと言い合いながら、学習を進める。それが教育の基本です。




(2)新小2児に「対角線」の概念を教えてみました。

小学2年生に「対角線」を教えてみました。もう少し時間があれば、ていねいな指導ができたと思いますが、時間がなく、次回に回しました。かなり荒っぽいレッスンで、ごめんなさい。




Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【2002年に書いた古い原稿より】(前編)

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古い原稿ですが、同じく古いHPの中に
埋もれていましたので、拾い上げ、再発表します。

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●悲しき人間の心

 母親に虐待されている子どもがいる。
で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に保護する。
しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」とか、「ママのところに戻りたい」と言う。
それを話してくれた、K市の小学校の校長は、「子どもの心は悲しいですね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。
私たちおとなだって、いつもこの悲しみと隣りあわせにして生きている。
そういう悲しみと無縁で生きることはできない。家庭でも、職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者たち」)を歌っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。
「もう、生きているのをやめなさい。
無理することはないよ。
死んで早く、私の施設に来なさい」と。
しかし私は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私はきっとこう言ったにちがいない。
「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに戻りたい」と。
それはとりもなおさず、この世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。
あなたも懸命に生きている。
が、みながみな、満ち足りた生活の中で、幸福に暮らしているわけではない。
中には、生きるのが精一杯という人もいる。
あるいは生きているのが、つらいと思っている人もいる。
まさに人間社会というワクの中で、虐待を受けている人はいくらでもいる。
が、それでも私たちはこう言う。「家に帰りたい」「ママのところに戻りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NWという友人がいた。
一〇年ほど前、くも膜下出血で死んだが、円空(えんくう・一七世紀、江戸初期の仏師)の研究では、第一人者だった。
その彼と、金沢の野田山墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、死ぬんだね」と言うと、彼はこう言った。
「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽になれると思うのは、立派な希望だよ」と。

 それから35年。私はNW君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。
しかし今、ここで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。
今はもうこの世にいないNW君に、こう言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。
何がどうあるかわからないし、どうなるかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命に生きてみる。
そこに人間の尊さがある。生きる美しさがある。
だから、死ぬことは、決して希望ではない、と。

 ……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっているだけかもしれない……。
ときどき「NW君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と思うことがこのところ、多くなった。今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うとき、ふと、心のどこかで、抵抗を覚えた。

「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌ったとき、「本当にそうかなあ?」と思ってしまった。
(02-11-20)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育てのリズムとパターン

 子育てには、一定のリズムがある。
このリズムは、たいてい母親が子どもを妊娠したときから始まる。
そしてそのリズムは、子育てが終わるまで、あるいは終わってからも、そのままつづく。

 たとえばこんな母親がいた。胎教とか何とか言って、妊娠中は、おなかにカセットレコーダーを置き、胎児に英会話やクラシック音楽のCDを聞かせた。
生まれてからは、子どもが泣き出す前に、つまりほしがる前に、いつも時間をはかってミルクを与えてた。
子どもがヨチヨチ歩くようになると、スイミング教室へ入れたり、音感教室に入れたりした。
さらに子どもが大きくなると、算数教室へ入れたり、英会話教室に入れたりした。

 この母親のばあい、何かにつけて、子どものテンポより、一テンポ早い。
これ
がこの母親のリズムということになる。
そしてこのリズムが、全体として、大きなうねりとなる。
それがここでいうパターンということになる。このパターンは、母親によって違う。
いろいろなケースがある。

 ある母親は、子どもによい思いをさせるのが、よい親のあるべき姿と信じてい
た。だから毎日の食事の献立も、休日の過ごし方も、すべて子ども中心に考え
た。家を新築したが、一番日当たりのよい部屋は、子ども部屋にした。それぞ
れの部分は、リズムで決まるが、全体としてそれがその母親のパターンになっ
ているのがわかる。この母親は、子どものためと思いながら、結局は子どもを甘
やかしている。そしてこのパターンは、一度、できると、あとは大きなうねりとな
って、繰り返し、繰り返し現れては消える。
 
 その子どもが中学生になったときのこと。
その子どもが大型量販店で万引きをして、補導されてしまった。
その夜のこと。
その母親は、まず私の家に飛び込んできた。
そしてこう泣き叫んだ。
「今、内申書に悪く書かれると、あの子は高校へ進学できなくなります。
何とかしてほしい」と。
しかし私には助ける術(すべ)がない。
断ると、その母親はその夜のうちに、あちこちを駆け回り、事件そのものを、もみ消してしまった。多分、お金で解決したのだろうと思う。

 この母親のばあい、「子どもを甘やかす」というパターンがあるのがわかる。
そしてそのパターンに気づかないまま、その母親はそのパターンに振り回されているのがわかる。
もしそれがよいパターンならよいが、悪いパターンなら、できるだけ早くそれに気づき、そのパターンを修正するのがよい。
まずいのは、そのパターンに気づかないまま、それに振り回されること。
子どもはそのパターンの中で、底なしの泥沼に落ち込んでいく。
それを防ぐ第一歩として、あなたの子育てが、どのようなリズムをもっているかを知る。

 一見人間の行動は複雑に見えるが、その実、一定のリズムとパターンで動いている。
もちろん子育てに限らない。
生活のあらゆる部分に、そのリズムとパターンがある。
ここにも書いたように、それがよいリズムとパターンなら、問題はない。
しかし悪いリズムとパターンなら、長い時間をかけて、あなたの生活全体は、悪いほうに向かう。
そのためにも、今、あなたの生活が、どんなリズムで、どんなパターンの中で動いているかを知る。

 ついでに一言。こと子どもについて言うなら、このリズムとパターンを知ると、その子どもが今後、どのようになって、どのような問題を引き起こすようになるかまで、わかるようになる。
少なくとも、私にはわかる。
よく「林は、超能力者みたいだ」と言う人がいるが、タネを明かせば何でもない。
子どもというのは、どんな人間になるかは、無数の方程式の組み合わせで決まる。
その方程式を解くカギが、その親のリズムとパターンということになる。

 そのリズムとパターンがわかれば、子どもの将来を予測することぐらい、何で
もない。ただ立場上、わかっていても、それをはっきり言わないだけ。万が一ま
ちがっていたらという思いもあるが、子育てにははっきりわからなくてもよいこと
は山のようにある。わからないまま手さぐりで進むのも、子育てのまた、おもしろ
いところではないのか。
(02-8-18)※

問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。
学校の先生や、みなに、迷惑をかけているのではという思いが、自分を小さくする。
よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そういう親ほど、出てこない」という意見を聞く。
教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実際には、行きたくても行けない。
恥ずかしいという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさらされるのは、つらい。
それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。

 たしかに自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。
そんなわけで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育てをとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。
目が上ばかり向いている。
たとえばマスコミの世界。
私は昔、K社という出版社で仕事をしていたことがある。
あのK社の社員は、地位や肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。
電話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。
おおせのとおりにいたします」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは言ってもねエ……」と。
それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態度を切りかえていた。
その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといってもよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。
私の立場でいうなら、『教育論は、教育で失敗した人に聞け』ということになる。
実際、私にとって役にたつ話は、子育てで失敗した人の話。
スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話など、ほとんど役にたたない。
が、一般世間の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育て
を組みたてる。

 たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えない。
すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということは考えない。
この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。
ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、もっと簡単なこと。
しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。
あるいは自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。
聖書にもこんな言葉がある。
「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろう」(Matthew5-9)と。
この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分が笑われる」ということになる。
そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に自分を置く。
そういう視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「す
なおな子ども」とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味があ
る。一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれし
そうな顔をする。いやなときはいやな顔をする。たとえば先生が、プリントを一枚
渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子どもがいる。一見
教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」が
なく、実際には教えやすい。いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、
その分、どこかで心をゆがめやすく、またその分、心がつかみにくい。つまり教
えにくい。

 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれ
る、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。ゆがみという
のは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の
子どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が
見えなくなったとたん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけ
たりする。その追いかけている様子を観察すると、その子どもは子ども自身の
意思というよりは、もっと別の作用によって動かされているのがわかる。それが
ここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」ということになる。

 すなおな子どもに育てるには、心(こころ)豊かで、心穏やかで、かつ心静かな
環境で育てることだが、それ以上に大切なことは、子ども自身の心を大切にす
ること。過干渉、過関心、威圧、暴力や暴言が日常化すると、子どもの心は、抑
圧された分だけゆがむ。そしてここが重要だが、幼児期に一度心ゆがむと、そ
の心はまずなおらない。唯一なおす方法があるとするなら、子ども自身がいつ
かそれに気づいて、子ども自身が努力するしかない。

 もっとも考えてみれば、ほとんどの人は、多かれ少なかれ、そのゆがみをもっ
ている。言いかえると、ほとんどの人が毎日、そのゆがみと戦いながら生きてい
る。ただ言えることは、ゆがみがあることが悪いのではなく、そのゆがみに気づ
かないまま、そのゆがみに振り回されることだ。そしていつも同じようなパターン
で、同じような失敗を繰り返す……。もしそうならあなたも一度、あなた自身のゆ
がみを、じっくりと観察してみるとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。
幼児期から生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。
庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。
毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。
リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。
なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。
旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。
息子は出不精。
娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。
二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。
しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。
私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 
最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。
子どもたちとどう接したらいいの?」
(内容を改変・K県・五〇歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。
こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。
「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。
が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。
どうしたらいいでしょうか」と。
もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。
「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。
が、そのまま保健室へ。
何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。
仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。

こういう相談も多い。「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。
そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。
要するに親のエゴには際限がないということ。
そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

 投書に話をもどす。

 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。
しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。
もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。
そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。
親の独善と独断だけが目立つ。
「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。
この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。
その中でも最大のパターンは、

①「子どもの心に耳を傾けない」。
「子どものことは私が一番よく知っている」というのを大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。
そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。
「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。
そのつど子どもの心を確かめるということをしない。
ときどき子どもの側から、サインを出しても、そのサインを無視する。
あるいは「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

 このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けないから、それがわかる。
私「明日の休みはどう過ごしますか?」、
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」、
私「緑花木センター……ですか?」、
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから……」と。

あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。
息子は、「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。
①よきガイドとしての親、
②よき保護者としての親、
そして③よき友としての親の三つの役目である。

この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、③の「よき友」としての視点がどこにもない。
とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。

この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。
はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。
あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。
いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アルツハイマーの初期症状

 アルツハイマー病の初期症状は、異常な「物忘れ」。
しかしその初期症状のさらに初期症状というのがあるそうだ。
①がんこになる、
②自己中心的になる、
③繊細な感覚がなくなるなど。こうした症状は、早い人で四〇歳くらいから現れ、しかも全体の五%くらいの人にその傾向がみられるという(※)。

五%といえば、二〇人に一人。学校でいうなら、中学生をもつ親で、一クラスにつき、三人はその傾向のある親がいるということになる(生徒数三〇人、父母の数六〇人として計算)。

 問題はこういう親にからまれると、かなり経験のある教師でも、かなりダメージを受けるということ。
精神そのものが侵される教師もいる。
このタイプの親は、ささいなことを一方的に問題にして、とことん教師を追及してくる。
私にもこんな経験がある。ある日一人の母親から電話がかかってきた。
そしていきなり、「日本の朝鮮併合をどう思うか」と質問してきた。
私は学生時代韓国にユネスコの交換学生として派遣されたことがある。
そういう経験もふまえて、「あれはまちがっていた」と言うと、「あんたはそれでも日本人か」と。
「韓国は日本が鉄道や道路を作ってあげたおかげで、発展したのではないか。
あんたはあちこちで講演をしているということだが、教育者としてふさわしくない」と。
繊細な感覚がなくなると、人はそういうことをズケズケと言うようになる。

 もっとも三〇年も親たちを相手にしていると、本能的にこうした親をかぎ分けることができる。
「さわらぬ神にたたりなし」というわけではないが、このタイプの親は相手にしないほうがよい。
私のばあい、適当にあしらうようにしているが、そうした態度がますます相手を怒らせる。
それはわかるが、へたをすると、ドロドロの泥沼に引きずり込まれてしまう。
先の母親のケースでも、それから一年近く、ああでもないこうでもないという議論が続いた。

 アルツハイマー病の患者をかかえる家族は、それだけもたいへんだ。
(本人は、結構ハッピーなのかもしれないが……。)
しかしもっと深刻な問題は、まわりの人が、その患者の不用意な言葉でとことんキズつくということ。
相手がアルツハイマー病とわかっていれば、それなりに対処もできるが、初期症状のそのまた初期症状では、それもわからない。
私の知人は、会社の社長に、立ち話で、リストラされたという。
「君、来月から、もう、この会社に来なくていい」と。
その知人は私に会うまで、毎晩一睡もできないほどくやしがっていたが、私が「その社長はアルツハイマーかもしれないな」と話すと、「そういえば……」と自分で納得した。
知人にはほかにも、いろいろ思い当たる症状があったらしい。

 さてもちろんこれだけではないが、今、精神を病む教師は少なくない。
東京都教育委員会の調べによると、教職員の全休職者のうち、約五二%が精神系疾患によるものとし、九七年度には一六一九人がそのため休職している。
もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ通院している教員はその一〇倍。
さらにその前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍はいる。
まさに現在は、教師受難の時代とも言える。
ああ、先生もたいへんだ! 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……?
 
 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。
母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。
仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。
年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。
が、それが一転するできごとがあった。
ある英語塾で講師をしていたときのこと。
高校生の前で「サダコ(禎子)」(『原爆の子の像』のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むこともできなかった。
そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。
「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。
私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。
いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。
「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。
そのように祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。
いたとしたらインチキだ。
一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行してる。携帯電話の運勢占いのコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。

 どうせインチキな人が、でまかせで作っているコーナーなのだろう。
が、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、どこでも電話というのが登場する。
今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だってもっている。
奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。
その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 
人間の知性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。
話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 難解な仏教論も、教育にあてはめて考えると、突然わかりやすくなることがある。
たとえば親鸞の『回向(えこう)論』。「(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや」という、あの有名な言葉である。
これを仏教的に解釈すれば、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているに過ぎない。
だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける…………」(石田瑞麿氏)と続く。

 こうした解釈を読んでいると、何が何だかさっぱりわからなくなる。
言葉の煙に包まれたかのような気分にすらなる。
要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前ではないか。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。
つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。
しかしそれでもまだよくわからない。
そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもがいい有名大学へ入るのは当たり前のことだ。
頭のよくない子どもが、有名大学へ入るところに意味がある。
またそこに人間が人間として生きるドラマ(価値)がある」と。
もう少し別のたとえで言えば、こうなる。
「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。
そういうのは教育とは言わない。
しかし問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。
私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔だが、私はある宗教団体を批判する原稿を、ある雑誌に書いた。
その教団の機関誌に、こんなことが書いてあったからだ。
いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。
他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。
あるいは   その団体には、身体に障害がある人がいないとでもいうのだろうか。

 が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口をいいふらし始めた。
「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。
こういうものの考え方(?)は、明らかにまちがっている。
他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやるのが、愛ではないのか。
慈悲ではないのか。私だっていつも、批判されている。
子どもたちにさえ、批判されている。
中には「バカヤロー」と悪態をついて、教室を出ていく子どももいる。
しかしそういうときでも、私は、「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。
神や仏ではない私だって、それくらいのことは思う。いわんや神や仏をや。

 批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようななら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 悪いことをして、失敗し、問題のある子どもをもつことが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなこともわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 私はときどきこう思う。
キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。
ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。
さらに自分が神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。
しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。
「○○大学へ入学させてください」と言ってきたときもそうだ。
いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまうだけ。
そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。
人間全体についても同じ。
スーパーパワーで、病気を治したり、国を治めたら、人間は自ら努力することを、やめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。
それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。
朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。
子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、私は今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

かわいた冬の風

●心を破壊する受験勉強●温もりの消えた日本

 昔、バリバリの猛烈社員がいた。ある企画会社の男だったが、彼は次々とヒ
ット作を世に送り出していた。その彼と半年あまり一緒に仕事をしたが、おかし
なことに気づいた。彼の頭の中にあるのは、営業成績だけ。数字だけ。友人の
姿はおろか、家族の姿すらなかった。「仕事が生きがい」と言えば、聞こえはよ
いが、その実、仕事の奴隷。私はその男を見ながら、どうしてこういう人間が生
まれるのか、それに興味をもった。しかしその原因はすぐわかった。

 受験期を迎えると、子どもの心は大きく変化する。選別されるという恐怖と将
来への不安の中で、子どもの心は大きく動揺する。本来なら家庭がそういう心を
いやす場所でなければならないが、その家庭でも、親は「勉強しろ」と、子どもを
追いたてる。行き場をなくした子どもはやがて、人とのつながりを自ら切る。切り
ながら、独特の価値観を身につける。

 話はそれるが、こんな役人がいた。H市役所でもトップクラスの役人だった。あ
る日、私にこう言った。「林君、H市は工員の町なんだよ。その工員に金をもた
せると、働かなくなるんだよ。だから遊ぶ施設をたくさん作って、その金を吐き出
させなければならないんだよ」と。この話で思い出したが、こんなことを言った通
産省の役人もいた。「高齢者のもつ貯金を、財政再建に利用できないものか」
(テレビ)と。

 受験勉強の弊害を説く人はほとんどいない。戦後、教師も親も、そして子ども
たちも、それが「善」であると信じて、受験勉強をとらえてきた。しかしそれによっ
て犠牲になったものも多い。その一つが、「心」ということになる。もちろん「勉
強」が悪いのではない。受験にまつわる「競争」が悪い。青春期の一番大切な
時期に、この競争で子どもを追いまくると、子どもから温かい人間的な心が消え
る。「他人を蹴落としてでも…」という人生観が支配的になり、ものの考え方が、
ドライになる。冷たくなる。親子という人間関係すらも、数字でみるようになる。
今、日本の若者のほとんど(六六%)は、「生活力に応じて、(老後の)親のめん
どうをみる」(総理府調査)と答えている。

 子どもが有名大学へ入ったりすると、親は、「おかげさまで」と喜んでみせる。
しかしその背後で吹きすさぶのは、かわいた冬の風。その風が、今、日本中を
おおっている。そのかわいた風を、ひょっとしたら、あなたもどこかで感じている
はずだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人のエゴイズム

 駅の片隅で、数人の高校生たちが隠そうとするふうでもなく、タバコを吸ってい
る。そういう光景を見ても、多くの日本人は見て見ぬフリ。進んで高校生を注意
する人はいない。が、それこそまさに日本の文化。日本の文化そのものであ
る。

 日本人は庭をつくるとき、まずその周囲を塀で囲む。囲んで、その中に庭をつ
くる。家の中に「美」を引き込むためである。一方、欧米人は、塀そのものをつく
らない。そして庭をつくるとしても、通りから見た「美」を追求する。何でもないよ
うな違いだが、この違いは大きい。そのため日本人は、塀の外の世界にはほと
んど関心を払わない。「自分のまわりさえよければ」というエゴイズムが何かに
つけ優先する。一方、欧米では、自分の庭であっても、芝生の草を伸び放題に
しておいたりすると、近所から苦情が出る。アメリカでもオーストラリアでも、罰
金を課すところさえある。わかりやすく言えば、全体の「美」を大切にする。子ど
もについても同じで、日本に住んでいるガーナ人の男性は次のように書いてい
る。

 「駅などの公共の目が光っているところで、中高校生が喫煙しているのを見か
けますが、(日本では)だれも注意しません。ガーナではこのようなとき、だれも
強く叱りますが、日本ではそういうことはありませんので、すべての責任は親が
負わされます」(「ファミリス・〇一年九月号」と。

 話は大きくそれるが、千葉県に成田空港という、これまたヘンピな、しかも不
便なところに空港がある。国際空港をもう一度、羽田空港に戻そうという動きも
あるそうだが、千葉県は、それに猛烈に反発している。いわく「今まで土地買収
など、苦労してきた我々の努力はどうなるのか」(千葉県県職員幹部)と。しかし
この論法はおかしい。

 だいたいにおいて、あんなところに空港を建設したこと自体、おかしい。また
国際空港などというものは、国家的利益の観点から考えるべきはないのか。二
〇年前のように日本に国力があり、その国力でアジア経済の総帥(そうすい)
の立場にあったときならまだしも、その経済に陰りが見えてきた今は、そんなこ
とを言っている場合ではない。あの不便さが、日本の経済にボデーブローのよう
にききはじめている。日本のスキをねらって、シンガポールや韓国は、巨大な空
港を建設した。「成田空港ではハブ(移動の拠点)空港にはなりえない」という弱
点を、彼らは見透かしている。つまり千葉県が地域エゴをむきだしにすればする
ほど、日本全体の地盤が沈下する。

 話をもとにもどす。庭の話と、空港の話は、どこかでつながっている。そしてそ
の延長線上に、冒頭の話がある。よく「他人の子どもでも、悪いことをしていたら
注意すべきだ」と言う人がいる。しかしことはそう簡単ではない。他人の子どもを
注意するには、自分自身の中にある、「日本の文化」というカベを乗り越えなけ
ればならない。封建時代の昔から、えんえんと作りあげたカベだ。大半の人は、
ひょっとしたら、本音を言えば、「他人の子どもなど、どうでもいい。うちの子さえ
よければ」と考えている。それはちょうど、塀をつくってその中に庭をつくる発想
と似ている。同じと言ってもよい。「おらが県さえよければ、それでいい」という発
想そのもの。

 しかしそう考えること自体、きわめてそれは島国的。日本的である。そうでな
いというなら、あなたは駅の片隅でタバコを吸っている高校生を、注意すること
ができるだろうか。いや、できないならできないでよい。しかしそのときでも、「ど
うしてできないか」を、ほんの少しだけ自問してみてほしい。

 何でもない光景だが、駅の中でタバコを吸っている高校生を見かけたとき、私
はそう考えた。(2001・10・22記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●運命と生きる希望

●希望をなくしたら死ぬ?●平凡は美徳だが…

 不幸は、やってくるときには、次々と、それこそ怒涛のようにやってくる。容赦
ない。まるで運命がその人をのろっているかのようにさえ見える。Y氏(四五歳)
がそうだ。会社をリストラされ、そのわすかの資金で開いた事業も、数か月で失
敗。半年間ほど自分の持ち家でがんばったが、やがて裁判所から差し押さえ。
そうこうしていたら、今度は妻が重い病気に。検査に行ったら、即入院を命じら
れた。家には二四歳になる自閉症の息子がいる。長女(二一歳)は高校を卒業
すると同時に、暴走族風の男と同棲生活。ときどき帰ってきては、遊興費を無
心する…。

 二〇〇〇年、日本での自殺者が三万人を超えた。何を隠そう、この私だって、
その予備軍の一人。最後のがけっぷちでかろうじて、ふんばっている。いや、自
殺する人の気持ちが、痛いほどよくわかる。昔、学生時代、友人とこんな会話を
したことがある。金沢の野田山にある墓地を一緒に歩いていたときのこと。私
がふと、「希望をなくしたら人はどうする。死ぬのか?」と語りかけた。するとそ
の友人はこう言った。「林君、死ぬことだって希望だよ。死ねば楽になれると思
うことは、立派な希望だよ」と。

 Y氏はこう言う。「どこがまちがっていたのでしょうね」と。しかしその実、Y氏は
何もまちがっていない。Y氏はY氏なりに、懸命に生きてきた。ただ人生というの
は、社会という大きな歯車の中で動く。その歯車が狂うことだってある。そして
そのしわ寄せが、Y氏のような人に集中することもある。運命というものがある
のかどうか、私にはわからない。わからないが、しかし最後のところでふんばる
かどうかということは、その人の意思による。決して運命ではない。

 私は「自殺するのも希望だ」と言った友人の言葉を、それからずっと考えてき
た。が、今言えることは、「彼はまちがっていた」ということ。生きているという事
実そのものが、希望なのだ。私のことだが、不運が重なるたびに、その先に新
しい人生があることを知る。平凡は美徳であり、何ごともなく過ぎていくのは、そ
れなりにすばらしいことだ。しかしそういう人生から学ぶものは、何もない。
私はどうにもならない問題をかかえるたびに、こう叫ぶ。「さあ、運命よ、来たけ
れば来い。お前なんかにつぶされてたまるか!」と。生きている以上、カラ元気
でも何でも、前に進むしかない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家族主義と幸福論

●幸福の原点は家庭にある●オズの魔法使い

ボームが書いた物語に「オズの魔法使い」がある。カンザスの田舎に住む、ドロ
シーという女の子と、犬のトトが虹のかなたにある幸せを求めて、冒険するとい
う物語である。こんなことがあった。

 オーストラリアにいたころ、仲間に「君たちはこの国(カントリー)が、インドネシ
ア軍に襲われたらどうするか」と聞いたときのこと。皆はこう答えた。「逃げる」
と。「おやじの故郷のスコットランドへ帰る」と言ったのもいた。何という愛国心!

 私があきれていると、一人の学生がこう言った。「ヒロシ、オーストラリア人が
手をつないで一列に並んでもすきまができるんだよ。どうしてこの国を守れる
か」と。

 英語でカントリーというときは、「国」というよりは、「土地」を意味する。そこで
質問を変えて、「では、君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどうするか」
と聞くと、皆血相を変えてこう言った。「そのときは、命がけで戦う」と。これだけ
ではないが、私はいつしか欧米人の考え方の基本に、「家族」があることを知っ
た。愛国心もそこから生まれる。

 たとえばメル・ギブソンの映画に『パトリオット』というのがあった。日本語に訳
する「愛国者」ということになるが、もともとパトリオットという語は、ラテン語のパ
トリス、つまり「父なる大地」という語に由来する。つまり欧米で、「ペイトリアチズ
ム(愛国心)」というときは、「父なる土地を愛する」あるいは、「同胞を愛する」を
意味する。その映画の中でも、国というよりは家族のために戦う一人の父親
が、テーマになっていた。
 
 家族主義というと、よく小市民的な生き方を想像する人がいる。しかしそれは
誤解。冒頭にあげたオズの魔法使いの中でも、人間が求めている幸福は、そ
んな遠くにあるのではない。あなたのすぐそばで、あなたに見つけてもらうの
を、息を潜めて待っている…。ドロシーは長い冒険の末、それを教えられる。
 明治の昔から、日本人は「出世」という言葉をもてはやした。結果として、仕事
第一主義が生まれ、その陰で家族が犠牲になるのは当然と考えられていた。
発展途上の国としてやむをえなかったのかもしれないが、しかし今、多くの人が
そうした生き方に疑問をもち始めている。九九年の終わりに中日新聞社がした
調査でも、四五%の日本人が「もっとも大切にすべきもの」として「家族」をあげ
た。日本人は今、確実に変わりつつある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●三男からのハガキ

●一四年ぶりの屈辱●後悔は心のトゲ

 富士山頂からハガキが届いた。見ると三男からのものだった。登頂した日付
と時刻に続いて、こう書いてあった。「一四年ぶりに屈辱を晴らしました。今、ど
うしてあのとき泣き続けたか、その理由がわかりました」と。
 
一四年前、私たち家族は富士登山を試みた。私たち夫婦と、一二歳の長男、九
歳の二男、それに六歳の三男だった。が、八合目まで来て、そこから見あげる
と、山頂が絶壁の向こうに見えた。私は多分そのとき三男にこう言ったと思う。
「お前には無理だから、ここに残っていなさい」と。女房も同じ意見だった。で、
私は女房と三男を山小屋に残して、頂上をめざした。つまりその間中、三男は
山小屋で泣き続けていたという。

 三男はそのあと、高校時代には山岳部に入り、部長を務め、全国大会にまで
出場している。今の彼にしてみれば富士山など、そこらの山を登るくらい簡単な
ことだろう。その日も、大学の教授たちとグループを作って登山しているというこ
とだった。女房が朝、新聞を見ながら、「きっとE君はご来光をおがめたわ」と喜
んでいた。が、私はその三男のハガキを見て、胸がしめつけられた。

 あのとき私は、三男の気持ちを確かめなかったのかもしれない。私たちが登
山していく姿を見ながら、それが悔しかったのだろう。そう、振り返ったとき、三
男が女房のズボンに顔をうずめて泣いていたのは思えている。しかしそのまま
泣き続けていたとは!

 「後悔」という言葉がある。それは心に刺さったトゲのようなものだ。しかしそ
のトゲにも、刺さっていることに気づかないままのトゲもある。私は三男がこの
一四年間、そんな気持ちでいたことを知る由もなかった。何という不覚! 私は
どうして三男に心にもっと耳を傾けてやらなかったのか。何でもないようなトゲだ
が、子育ても終わってみると、そんなトゲに心が痛む。私はやはりあのとき、時
間はかかっても、そして背負ってでも、三男を連れて登頂すべきだった。重っ苦
しい気持ちで女房にそれを伝えると、女房はこう言って笑った。

 「だって、あれは、E君が足が痛いと泣いたからでしょ」と。「Eが、痛いと言っ
たのか?」「そう、E君が痛いから歩けないと言ったのよ。それで私も残ったの
よ」と。とたん、心の中をスーッと風が通り抜けるのを感じた。軽い風だった。さ
っそくそのあと三男にメールを出した。「登頂、おめでとう」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●学校恐怖症の子ども

●前兆期を見逃すな●無理をしないのが鉄則

 同じ不登校といっても、症状や様子はさまざま。私の息子はひどい花粉症で、
睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐怖
症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」(AMジョンソン)、行為障害に近い
不登校を「怠学」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、
次の三つの段階に分けて考えられている(長崎大・中根允文)。心気的時期、
登校時パニック時期、自閉的時期。それをもう少しわかりやすくしたのが、次で
ある。

①前兆期…登校時刻の前になると、腹痛、頭痛、脚痛、倦怠感、吐き気、気分
の悪さを訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜になると、「明日は学
校へ行く」などと、明るい声で答えたりする(症状の日内変動)。理由を聞くと、
「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除すると、今度は「B君が
いじめる」と言い出したりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど移動す
るのが特徴。

②パニック期…攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりす
ると、狂人のようになって暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日
は休みなさい」などと言ったりすると、一転、症状が消滅する。ある母親は、こう
言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。

③自閉期…自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりするが、心の中はい
つも緊張状態にあり、ささいなことで激怒したり、暴れたりする(感情障害)。こ
の段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感を
もつ)の症状を示すこともある。こうした状態が、数ヶ月から数年続く。

④回復期…断続的に外の世界と接触をもつようになり、登校できるようになる。
週一回が二回、あるいは月に一週が二週となり、序々に登校期間が長くなる。

 要はいかに①の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。
たいていの親は一通り病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をす
る。この無理が症状を悪化させ、②のパニック期を招く。この段階でも、もし親が
無理をせず、「そうね、だれだって学校へ行きたくないときもあるわよ」と言え
ば、その後の症状は軽くすむ。一般に子どもの心の問題は、今の状態をより悪
くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、逆効果となる。  
(詳しくは、「子どもの指導法」→「子育て論文」で。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本の文化、恥の文化

●世間体を気にする人●私は私という人生観

 夫が入院したとき、「恥ずかしいから」という理由(?)で、その夫(五七歳)を
病院から連れ出してしまった妻(五一歳)がいた。あるいは死ぬまで、「店をた
たむのは恥ずかしい」と言って、小さな雑貨店に居座り続けた女性(八五歳)も
いた。人は「恥」を気にすると、常識はずれの行動をする。S氏(八一歳)もそう
だ。隣の家に「助けてくれ」と電話をかけてきた。そこで隣人が行ってみると、S
氏は受話器をもったまま倒れていた。隣人が「救急車を呼びましょうか」と声を
かけると、S氏はこう言ったという。「近所に恥ずかしいから、救急車を呼ばない
でくれ」と。

 恥にも二種類ある。世間体を気にする恥。それに自分に対する恥である。日
本人は、世間体を気にする反面、自分への恥には甘い。それはそれとして、そ
の世間体を気にする人には、独特の価値観がある。相対的価値観というべきも
ので、自分の幸不幸を、他人との比較の中で判断する。他人より幸福であれ
ば、幸福(?)、他人より不幸であれば、不幸(?)と。それだけではない。こうい
う尺度をもつ人は、自分より幸福な人をねたみ、自分より不幸な人をさげすむ。
が、そのさげすんだ分だけ、結局は自分で自分のクビをしめる。先の雑貨点を
営んでいた女性は、それまで近所で店をたたんだ仲間を、さんざん悪く言ってき
た。「バチがあたったからだ」「あわれなもんだ」とか。また救急車を拒否したS
氏も、自分より先に死んでいった人たちを、「人間は死んだらおしまいよ」と笑っ
ていた。

 こうした価値観は、そのまま子育てに反映される。世の中には親をだます子ど
もがいるが、子どもをだます親もいる。Yさん(七五歳女性)は、言葉巧みに息子
(四五歳)から土地の権利書を取りあげると、それをそのまま転売してしまった。
が、Yさんには罪の意識はない。息子がそれを責めると、「先祖のために息子
がお金を出すのは当然」とそれをはねのけた。もちろんそれで親子の縁は切れ
た。息子はこう言う。「母にとっては、私よりも、家のメンツのほうが大切なので
す」と。ふつうに考えれば、Yさんのした行動は、おかしい。おかしいが、恥を重
んずる人には、それがわからない。が、これだけは言える。恥だの世間体だの
言っている人は、他人の目の中で自分の人生を生きるようなもの。せっかくの人
生をムダにする。が、それほど見苦しい人生もない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親子の断絶診断テスト①

●最初は小さな亀裂●一〇点以上なら要注意

 最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる…。今、親を尊敬できないという
中高校生は、五〇%もいる。親のようになりたくないという中高校生は八〇%弱
もいる。そこであなたの子育てを診断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状
態を、行動で示す。それを手がかりに、子どもの心の中を知るのが、このテス
ト。

①あなたは子どものことについて…。
★子どもの仲のよい友だちの名前(氏名)を、四人以上知っている(0点)。
★三人くらいまでなら知っている(1点)。
★一、二人くらいなら何となく知っている(2点)。
★ほとんど知らない(3点)。

②学校から帰ってきたとき、あなたの子どもはどこで体を休めるか。
★親の姿の見えるところで、親を気にしないで体を休める(0)。
★あまり親を気にしないで休めているようだ(1)。
★親のいるところをいやがるようだ(2)。
★親のいないところを求める。親の姿が見えると、その場を逃げる(3)。

③「最近、学校で、何か変わったことがある?」と聞いてみる。そのときあなた
の子どもは……。
★学校で起きた事件や、その内容を詳しく話してくれる(0)。
★少しは話すが、めんどうくさそうな表情をしたり、うるさがる(1)。
★いやがらないが、ほとんど話してくれない(2)。
★即座に、回答を拒否し、無視したり、「うるさい!」と怒る(3)。

④何か荷物運びのような仕事を、あなたの子どもに頼んでみる。そのときあな
たの心は…。
★いつも気楽にやってくれるので、平気で頼むことができる(0)。
★心のどこかに、やってくれるかなという不安がある(1)。
★親のほうが遠慮し、恐る恐る…といった感じになる(2)。
★拒否されるのがわかっているから、とても言えない(3)。

⑤休みの旅行の計画を話してみる。「家族でどこかへ行こうか」というような話で
よい。そのときあなたの子どもは…。
★ふつうの会話の一つとして、楽しそうに話に乗ってくる(0)。
★しぶしぶ話にのってくるといった雰囲気(1)。
★「行きたくない」と、たいてい拒否される(2)。
★家族旅行など、問題外といった雰囲気だ(3)。
(結果)点数が15~12点…目下、断絶状態。
11~9点…危険な状態。
8~6点…平均的。なお平均点はX点(ZZ中学)。
5~0点…良好な関係。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

親子の断絶診断テスト② 
  
●自立と断絶は別●子どものうしろを歩く

★ある程度の「断絶」は、この時期、問題はない。子どもは小学三~四年生を
境として、少しずつ親離れを始める。そして「親から独立したい」という意欲は、
思春期にピークに達する。

★断絶が断絶になるのは、①互いの意思の疎通がなくなること。②互いの会話
が消える。そのため③家族が家族としての機能を果たさなくなるときをいう。ここ
でいう「機能」というのは、「家族は守りあい、助けあい、理解しあい、教えあう」
という機能のことをいう。

★原因は、①親側の権威主義的な子育て観。「私は親だ」「子どもは親に従う
べきだ」という親意識が強い人ほど要注意。子どもは親の前では仮面をかぶ
る。仮面をかぶった分だけ、子どもの心は親から離れる。

②相互不信。「うちの子はすばらしい」という思いが、子どもを伸ばす。親子の心
は、鏡のようなもの。親が「うちの子はダメな子」と思っていると、長い時間をか
けて、子どもの心は親から離れる。

そして③子育てのリズムの乱れ。子育てのリズムは、子どもが乳幼児のときか
ら始まる。あなたが子どもと歩いていたときのことを思い出してみてほしい。そ
のときあなたは子どもの横かうしろを歩いていただろうか。もしそうならなら、そ
れでよし。しかしあなたが子どもの手をぐいぐいと引きながら、前を歩いていたと
したら、そのときから、親子のリズムは狂っていたことになる。「子どものことは
私が一番よく知っている」という過信があぶない。このタイプの親はおけいこ塾
でも何でも、親が一方的に決める。やめるときもそうだ。

★親子の断絶が始まったら、①修復しようとは考えないこと。今の現状をそれ
以上悪くしないことだけを考えて、一年単位で様子をみる。親があせって何かを
すればするほど、逆効果で、子どもの心はあなたから離れる。②あなたが権威
主義的であるなら、そういうまちがった子育て観は捨てる。人間に上下はない。
親子の間にもない。アメリカでは、親子でも「お前は、パパに何をしてほしい?」
「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と聞きあっている。こういう謙虚さが、子ども
の心に穴をあける。そして子どもに向かっては「あなたはいい子」を口グセにす
る。最初はウソでも構わない。そういう口グセが、子どもの心を開く。そして最後
に、今日からでも遅くないから、子どもと歩くときは、子どものうしろを歩く。子ど
ものリズムにあわせる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親のうしろ姿2001-7-11

 生活のために親が苦労している姿。子どもを育てるために親が苦労している
という姿。これを日本では、「親のうしろ姿」という。そしてそのうしろ姿を子ども
に見せることを美徳のように考えている人がいる。あるいは「子どもは親のうし
ろ姿を見て育つ」などと言う人もいる。しかし親のうしろ姿などというものは、子ど
もに見せるものではない。見せるつもりはなくても、子どもは見てしまうかもしれ
ないが、それでも見せるものではない。親は親で、子どもの前では、どこまでも
自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。そういう姿が、子どもに
生きる活力を与え、子どもを伸ばす。

 昔『一杯のかけそば』という話があった。貧しい親子が、一杯のかけそばを分
けあって食べるという、あの話である。あの話に日本中が泣いたが、あの話は
基本的な部分でおかしい。私がその場にいた親なら、多分子どもにはこう言う
だろう。「パパは、おなかがすいていない。お前たちだけで食べなさい」と。が、
あの話の中では、親も分けあって食べている。こういのを、親の恩の押し売りと
いう。このタイプの親に限って、「生んでやった」だの「育ててやった」だのと言い
出す。子どもは子どもで、「生んでもらった」だの「育ててもらった」だのと言い出
す。こうして親は子どもに甘え、子どもは親に甘える。そこにいるのは、綿々と
子離れできない親、親離れできない子どもということになる。
 
親は確かに子どもを生むが、しかし子どもに頼まれたから生むのではない。そ
んなことはありえない。つまり親は自分の勝手で子どもを生む。そして生んだ以
上は、育てるのは親の義務ではないか。責任ではないか。

 子どもは親から生まれるが、決して親の「モノ」ではない。一人の独立した人
間だ。親は子どもに向かって、「あなたの人生はあなたのもの。たった一度しか
ない人生だから、思う存分、自分の人生を生きなさい。親孝行? …そんなこと
考えなくてもいい。家の心配? …そんなこと考えなくてもいい」と、一度は肩を
たたいてあげる。それでこそ親は自分の義務を果したことになる。もちろんその
あと子どもが自分で考えて、親のめんどうをみるとか、家のめんどうをみるという
のであれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。子どもに親孝行を期待した
り、要求するのは、親のすべきことではない。要するに親のうしろ姿は見せない
ことだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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