2012年5月27日日曜日

●老後、つづく老後

【老後vs老後】(人間と人間をつなぐ絆の粘着力)

●5月27日(日曜日)(朝記)

 昨夜遅く、この山荘にやってきた。
時刻は、午後9時ごろだった。
途中、いつものようにコンビニに寄り、いくつかの食料を調達。
山荘に着いてから、それを遅い夕食とした。

●雑談

 昨夜はDVDは、なし。
そのかわり、ワイフと雑談。
気がついたときには、午後11時を過ぎていた。

「風呂はどうする?」とワイフが聞いたので、「明日の朝にしよう」と私。
そのまま雑誌を読みながら、就寝。
で、今朝は、午前4時に目が覚めた。
ふだんなら、もう一度眠りなおすのだが、今朝はそのまま起床。
このところ原稿らしい原稿を書いていない。
それが理由で、起床。
そのまま居間へ。

 パソコン用バッグから、マウス、老眼鏡、目薬を取り出す。
それをコタツの天板の上に並べる。
携帯端末機を、ネットにつなぐ。
サッとニュースに目を通したあと、こうして文章を叩き始める。
時刻は今、ぴったり、午前4:00分。

●離婚

 書きたいことは、いくつかある。
……というか、昨日、「病気と離婚」について、少し書き始めた。
たとえばある精神科医はこう書いている。
「うつ病で医院へやってくる男性の50%は、その段階で、離婚している」と。

 うつ病になったから、離婚したのか、それとも離婚したから、うつ病になったのかはわからない。
ともかくも、事実は、そういうことらしい。

●心情的に理解できない

 が、夫か妻ががんに罹患したとき、離婚率が高くなるというのは、心情的に理解できない。
こういうばあい、「ふつうなら……」という言い方は避けたい。
しかしふつうなら、離婚しないでがんばる。
妻か夫の最期を見届ける。

 もっとも夫婦の仲ほど、摩訶不思議なものは、ない。
それぞれの夫婦には、それぞれに事情が複雑にからんでいる。
がんでなくても、ふつうの病気でも、それがきっかけで離婚ということもありえる。
また離婚するからといって、薄情(昔風の言い方)と決めつけては、いけない。

 が、全体としてみると、人間関係が希薄になっていることは、事実。
たとえば老親のめんどうをみない息子や娘が、急増している。
親が生活保護を受けながら、息子が優雅な生活を送っているというケースは、多い。
先ほど問題になった、お笑いタレントのKJ(37歳)も、その1人。

 Yahoo・Newsは、つぎのように伝える。

 『お笑いコンビ「次長課長」のKJさん(37)は25日、母親が最近まで生活保護を受給していたことを東京都内で開かれた記者会見で認め、一部を返還する考えを明らかにした。
厚生労働省は今後、扶養可能な親族がいる場合は、家庭裁判所での調停を通じ、民法の扶養義務を果たさせるよう自治体に呼びかけるなど、運用を厳格化することを決めた』と。

●親を棄てる子どもたち

 が、現実はきびしい。
結婚と同時に、「ハイ、さようなら!」と、親を捨てていく息子や娘は、多い。
それについて去年(2011年10月)、私が批判記事をBLOGに書いたら、つぎのようなコメントを書いてきた男性(千葉県・EH)がいた。
題名は、「阿呆」。

「親の面倒をみろというのは、それ自体が束縛だ。
私は、自分の子どもには、そういう思いをさせたくない」と。

 年齢は文面からすると30歳前後。
最近、子ども(性別不明)をもったらしい。

 現在の若者たちは、親のめんどうをみることを、「束縛」ととらえる。
しかもまだ親の面倒を経験したこともないような男性が、未来を先取りする形で、だ。
そしてこう言う。
「自分の子どもは、束縛しない」と。

 ずいぶんと勝手な意見というより、オメデタイ!
が、民法の扶養義務をあげるまでもなく、子どもが親のめんどうをみるのは、「義務」。
「束縛」とか、そうでないとか議論する以前の問題である。

 つまり現在は、子どもが親を棄てる。
配偶者が配偶者を棄てる。
そういう時代になった……と考えてよい。

●パサパサ

 たしかに人間関係が、パサパサし始めている。
友人、親類、親子、それに夫婦。
その夫婦の仲も、粘着度で決まる。
粘着度の低い夫婦もいれば、高い夫婦もいる。

 それについては、たびたび書いてきた。
その中のひとつを、そのまま紹介する。
日付は、2011年6月になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(2011年6月の原稿より)

●人間どうしをつなぐ粘着力

++++++++++++++++++++

心理学の世界には、「共依存」という言葉がある。
それについては、たびたび、書いてきた。
よくあるケース。
暴力的な夫と、その夫に、涙ぐましいほどまでに、
献身的に仕える妻。
「ふつうなら……」ということになるが、一度、
共依存関係ができてしまうと、その関係を
断ち切るのは容易なことではない。
まず、共依存について書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●共依存(改)2011-06-29

酒に酔って暴れる夫。殴られても蹴られても、そういう夫に尽くす妻。
典型的な共依存関係である。
妻に依存することで、自分の立場を確保する夫。
依存されることで、自分の立場を確保する妻。
妻を殴ったり蹴ったりすることで、妻の従順性を確かめる夫。
殴られたり蹴られたりすることに耐えながら、夫への従順性を証明しようとする妻。
たがいに依存しあいながら、自分を支える。
傍から見ると何とも痛ましい夫婦関係だが、親子の間でもときとして、同じことが起きることもある。

家庭内暴力を繰り返す息子と親の関係。
ニートとなり家の中に引きこもる子どもと親の関係。
子どもを突き放すことができない。
親自身も、無意識のうちに子どもに依存しているからである。

(補記)

●共依存

 依存症にも、いろいろある。
よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症など。
もちろん、人間が人間に依存することもある。
さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。
それを「共依存」という。典型的な例としては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。
仕事はしない。
何かいやなことがあると、妻に怒鳴り散らす。
しかし決定的なところまでは、しない。
妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前でやめる。
(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)
それに、いつも、暴力を振るっているのではない。
日ごろは、やさしい夫といった感じ。
サービス精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。
お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけている」と、謝ったりする。
一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。
私は、この人には必要なのだ。
だからこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と思い込み、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。
そして夜、遅く帰ってくる。
子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。
そして仕事から帰ってくるときは、必ず、夕食の材料を買って帰るという。
それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。
そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところがあった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。
本来なら、夫に、依存性をもたせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だった。
当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。
夫は、自分から離れていってしまうかもしれない。
そんな不安感があった。
だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をもたせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きなキズを負うことが知られている。

「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。
このような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないかという不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを身につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェルドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症とも考えられなくはない。
もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような症状は現れる。
で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……という疑問をもつ人がいるかもしれない。
理由は、簡単。

このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。
一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。
世間的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。
だからますます、夫に依存するようになる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。
これが「共依存」であるが、しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。
親子、兄弟の間でも、生まれやすい。
他人との関係においても、生まれやすい。
生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。

親子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。
わざと、弱々しい母親を演じてみせるなど。
娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買ってきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存していたことになる。
こういう例は多い。
息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたりするなど。

前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いている自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。
その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりながら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。
その同じ母親が、その翌日には、友人たちとスタスタと歩いていた!
その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。
いわゆる自立できない親は、そこまでする。

「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではない。
言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。
決して珍しくない。
で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。
そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像するが、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。
むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、男性のそれより、強烈であることが知られている。
女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。

母と成人した息子がいっしょに風呂に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題にはならない。
こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。
このつづきは、また別の機会に考えてみたい。

(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティックバイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●読み返してみて……

 前述の原稿は、ずいぶん前に書いた原稿である。
「ずいぶんと勝手な解釈をしているな」と思うところもないわけではない。
しかしこれは心理学一般に共通することだが、心理学の世界では、数学でいえば、いわゆる「公式」的なことしか書いてない。
具体例が書いてある本というのは、少ない。
さらに「では、どうすればいいか」というところまで書いてある本は、さらに少ない。
「心理学」というのは、そういうものかもしれない。
言うなれば、心の作用を、結晶化したもの。
それを並べて説明したのが、心理学。

 言い換えると、心の作用は複雑。
複雑というより、もろもろの心理作用が、複雑にからみあって、その人の心理作用を決める。

共依存についても、純粋な意味での「共依存」というのは、ない。
だからそのあとは、「それぞれの人の解釈で……」となる。

 こうした勝手な解釈は、アカデミックな世界では許されないことかもしれない。
自分の意見を付け足すことについても、そうだ。
が、しかし逆に言えば、心理学だけで、人間の心の採用をすべて説明できるわけではない。
たとえば、こんな例で考えてみよう。

●仮面夫婦

 「仮面夫婦」という言葉がある。
私たち夫婦もそれかもしれない。
あなたがた夫婦も、それかもしれない。
表面的には夫婦だが、中身は空っぽ。
形だけの夫婦をいう。

 が、そういう夫婦の方が多いことを思えば、「それが夫婦」ということになる。
結婚当初のように、ラブラブの関係にある夫婦というのは、まず、いない。
またそういう夫婦を基準にしてはいけない。
恋愛は、ロマンス(=夢の中のできごと)だが、結婚は、現実である。

●悪妻

 私は率直に言うが、Nさん(女性、45歳)ほどの悪妻を、ほかに知らない。
まさに悪妻中の悪妻。

 突発的に錯乱状態になり、夫を蹴る、殴るは当たり前。
一足数万円もするようなハイヒールの靴を、夫に投げつけたりする。
さらにはげしくなると、台所からフライパンをもってきて、それを夫に投げつけたりする。

 見るに見かねて、夫の両親と夫の兄が、Nさんを精神病院へ連れて行こうとしたことがある。
しかしNさんは、さらに暴れて、それを拒否。
近所中に聞こえるような声で、泣きわめいた。

 が、一晩……というより、数時間もすると、まったく別人になってしまう。
まったくの別人である。
穏やかで、やさしい。
言葉の使い方も、ていねい。
が、よく観察すると、どこか不自然。
どこか演技ぽい。
別の心を、どこかで押し殺しながら、そうする。

 こんなことがあった。

 夫は、宅配便の運転手をしている。
稼ぎは、それほど、多くない。
そのこともあり、生活費が足りなくなると、Nさんは、夫の実家へ行く。
やや痴呆症になりかけた父親と病弱な母親がいる。
それをよいことに、「100万円、出せ!」「200万円、出せ!」と。
 夫の両親は、ともに80歳を超えている。

会計士として蓄えた財産はあるが、それにも限度がある。
そこで母親が、「5万円くらいなら……」と言うと、Nさんは、その現金を、母親の顔に叩きつけて、その場を去っていったという。

 が、夫は、Nさんと離婚はしない。
2人の子どもがいた。
それにNさんの夫は、心のやさしい男性だった。
妻に蹴られたり、殴られたりしても、オロオロと逃げ回るだけ。

●心の病気

 こういう関係を、どう理解するか。
「共依存」という言葉だけでは、説明がつかない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、多分に心の病気がからんでいる。
夫にしても、そういう妻であるにしても、孤独であるよりはよい。
あるいは夫自身も、何かの心の病気をかかえているのかもしれない。
それに毎日がそうであるというわけでもない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、10日に1度くらい。
多くて、5日に1度くらい。
それ以外のときは、先にも書いたように、むしろおだやかで、やさしい。

 そこで私は、……つまりNさんの夫のことを思いめぐらすうち、「心の粘着力」という言葉を思いついた。
もちろん心理学上の言葉ではない。
私が勝手につけた名前である。

●心の粘着力

 人間関係には、ある程度の粘着力がある。
強弱の差はあるかもしれない。
粘着力の強い人間関係もあるだろうし、弱い人間関係もある。
強い人間関係は、「ネバネバ」ということになる。
弱い人間関係は、「パサパサ」ということになる。

 夫婦の関係。
友人の関係。
親類、縁者の関係。
近隣の人たちとの関係。
もちろん親子の関係、などなど。

 最近の若い人たちの傾向としては、前にも書いたが、デジタル型の人間関係が目立つ。
人間関係を、「ON」と「OFF」だけで、割り切ってしまう。
一度、「OFF」にすると、まったくのゼロにしてしまう。

 で、ここではもう一歩、話を進めて、ではどういうときにネバネバになり、またどういうときにパサパサになるか。
それについて考えてみたい。

●ネバネバ

 最近、私とワイフの関係は、加齢とともに、よりネバネバになってきたように感ずる。
「先が短くなった」という思いもある。
積み重ねてきた思い出も多い。
とくに私たち夫婦は、すべてを、2人だけでしなければならなかった。
だれの助けも期待できなかったし、だれも助けてくれなかった。

 3人の息子たちにしても、ワイフは自分で助産院に行き、ひとりで子どもたちを産んだ。
そのあとも、だれにも助けてもらわなかった。

 一方、私は仕事オンリー。
それでも家計は苦しかった。
当時はそういう時代だった。
だから余計に、私はがむしゃらに働いた。
20~30代のころは、休日は、月に1日だけ。
そんな年が何年もつづいた。

 だからというわけでもないが、私たち夫婦は、言うなれば「ネバネバ夫婦」。
どんなはげしい夫婦げんかをしても、1~2日のうちには、もとに戻る。
もとに戻って、また手をつないで歩く。
が、私がここで書きたい「ネバネバ」は、それとは意味が少しちがう。

 先のNさん夫婦のばあいである。
「ふつうなら、離婚」ということになるが、離婚しない。
「子はかすがい」とは言うが、それもあるのかもしれない。
が、何が2人をつないでいるのか。
そのつないでいるものが、ここでいう「ネバネバ」ということになる。

●理解のワク

 もう一度、共依存の話に戻る。
共依存の関係にある夫婦は、たしかにネバネバしている。
ほかにも、夫婦の間の会話が完全に途切れてしまった知り合いもいる。
まったく、しない。
そこでその夫婦のばあい、息子たちが、夫婦の、(つまり両親の)、連絡係をしている。
が、それでも夫婦。
離婚しないのか、できないのか、あるいはなぜそうなのか。

 そういうのを「仮面夫婦」というが、仮面の向こうに隠されたネバネバは、常識では理解できない。
外見だけからは、わからない。
それこそ私のような人間が、いくら想像力を働かせても、理解できるようなものではない。
理解のワクを超えている。
「私なら、即、離婚」と口で言うのは、たやすい。
しかし、問題は、そんな簡単なことでもない。

●離婚率35・4%

 もちろん反対に、「パサパサ夫婦」というのも、いる。
昔は、「成田離婚」というのも、あった。
新婚旅行から帰ってきたそのとき、成田空港で離婚する。
だから「成田離婚」。

 パサパサといえば、パサパサ。
成田離婚は別として、さしたる理由もないまま、簡単に離婚していく人も、これまた少なくない。

一般論からいうと、(統計的にもそういう数字が出ているが)、身近に離婚経験者がいると、その影響を受けて、その夫婦も離婚しやすいという。
姉夫婦が離婚したとたん、妹夫婦も、離婚する。
親が離婚経験者だと、子も離婚しやすくなる、など。

 何も離婚することが悪いと書いているのではない。
離婚など、今どき、珍しくも何ともない。
厚生労働省が発表している人口動態総のデータによれば、平成19年度に結婚した人の数が約72万人に対して、離婚した人の数は25万5000人ということになっている※。
72万人に対して、25万人。
離婚率でみるかぎり、254832÷719822=35・4%!

 この数字をどう読むかだが、意外と、都会に住む人ほど、離婚率が低いというのも、興味深い(同、統計)。

(注※)結婚届を出す数が、毎年72万人。
離婚届けを出す人が、毎年25万人ということ。
結婚年数や、結婚→離婚を繰り返す人の数などは、考慮に入っていない。

(注※)2010年について
『厚生労働省の「2010年・人口動態特殊報告」によると、つぎのようになっている。
婚姻数……98万2044人
離婚数……36万9140人』

 この数字から、「結婚した10組のうち、4組が離婚する」(厚生労働省)ということになる。(37万÷98万=0・38)

●二人三脚

 私の考えでは、夫婦でも、「形」にしばられることなく、人間関係が破綻したら、さっさと離婚したほうがよいのでは、と思う。
思うだけで、では、実際、自分たちがそうなったら……というときのことを考えると、自信はない。
それでもネバネバとがんばるかもしれない。

 世間体もある?
もちろん子どもたちのこともある?
が、それ以上に、今は、もう夫婦でありつづけるしかない。
二人三脚でも生きていくのがむずかしい。
ひとりになって、どうやって生きていくというのか。

 が、結論から先に言うと、つまり、これがこのエッセーの結論ということになるが、人間関係が、近年、ますますパサパサになってきた。
ネバネバ感が消え、パサパサになってきた。
つまり人間どうしをつなぐ、粘着力が、弱くなってきた。
それがよいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
その結果は、もう少し先になってみないとわからない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 粘着力 パサパサ人間 ネバネバ人間 離婚率 日本人の離婚率)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(以上、2011年6月に書いた原稿)

●離婚率

 離婚率の計算はむずかしい。
厚生労働省が発表する人口動態調査にしても、どの部分をどうみればよいのか、それがよくわからない。

たとえば直近の2010年についてみれば、(離婚届数)を(婚姻届数)で割ってみると、約38%という数字があがってくる。
つまり現代は、10組の夫婦のうち、4組までが離婚する時代ということになる。

 一方、厚生労働省は、こんな数字もあげている(人口動態調査)。

「……婚姻率、5・3%(2011年)、離婚率、1・86%」と。

 表のトップに、「人口千対(人口1000人に対して)」という注釈が入っている。
が、ここがよく理解できない。
「率」で示すのなら、「人口千対」は、必要ない。
1000人だろうが、1億人だろうが、率は、変わらない。
それとも、「人口1000人に対して、結婚した人が、5・3人、離婚した人が、1・86人」という意味なのだろうか。
しかし人口動態調査には、「婚姻率」「離婚率」とある。

 ともあれ、こと離婚率をみるかぎり、2002年の2・30をピークに少しずつだが、さがり始めている。
俗説だが、不景気になればなるほど、離婚率は下がるという。
理由は容易に推察できる。

●私たち夫婦

 私たち夫婦も、何度か危機を経験している。
けっして無事というわけではなかった。
言い換えると、仮面夫婦であれ何であれ、離婚の一歩手前でふんばっている夫婦も多いということ。
離婚届けを出す夫婦は、まさに氷山の一角。

 また同じ夫婦でも、いろいろな時がある。
夫婦喧嘩、離婚騒動を、年中行事にしている夫婦だっている。
「離婚していないから、いい夫婦」というふうには、考えていけない。

 で、私たちの結論。
「夫婦も、友人ね」と。

●終の棲家(ついのすみか)

 人生も最終段階に入ってきた。
昨夜もワイフが、「終の棲家はどうするの?」と、数度、聞いた。
家の建てなおしをいう。

 ……といっても、計画は、すでに立ててある。
あとはいつそれを実行するか。
現在の住居地の3分の1を売る。
それで得たお金で、家を建てなおす。
老人向けの家にし、どちらかが独りになっても、生活できるようにする。

 「老人向け」というのは、老人向け。
居間と寝室、風呂、洗面所、トイレを、効率的に結合する。
壁すべてに、手すりをつける。
車椅子のまま、道路へ出られるようにする、など。

 で、最終的に、残された1人が動けなくなったら、有料の老人ホームに身を寄せる。
それが私たち夫婦の、最期の計画。

●「外見(そとみ)だけはなア……」

 が、それよりも深刻な問題。
つまりいつ、どのような形で、「負け」を認めるか。
このところ、そういう問題が、浮上してきた。
というのも、ちょうど2年ほど前、こんな事件があった。

 で、その前に、養老孟司氏について書いておく。
解剖学の権威である。
個人的には、数回、面識がある。
愛知万博の諮問委員をしているときに、会った。
氏の「バカの壁」という本だけは読んだことがある。
それ以外には、知らない。
養老孟司氏を意識したこともないし、目標にしたこともない。

 で、その会に出たときのこと。
だれかが、私にこう言った。
「林君(=私)は、養老孟司の若いときに似ているな」と。
多分白髪まじりのボサボサの頭を見て、そう言ったと思う。
が、横にいたX君(同年齢)が、すかさず、こう言った。
「外見だけはなア……」と。

 X君は、少し、酔っていた。
それを差し引いても、辛辣(しんらつ)な言葉である。
そのときは、ハハハと笑ってすましたが、あとになってその言葉が、私の心に大きな穴をあけたのを知った。

●敗北宣言

 いろいろやってはみたけれど……ということになる。
いろいろやってはみたけれど、所詮(しょせん)、私は、この程度の人間。
それをいつ、どのような形で認めるか。
敗北宣言という深刻なものではないにしても、それに近い。

 といっても、私は何も名声や地位、財力を求めてきたわけではない。
「自由」を求めてきた。
が、その自由も、「死」を前にすると、粉々に吹き飛んでしまう。
いくら「私は自由だ」と叫んでも、そこには限界がある。

 まずやってくるのが、肉体的な限界。
足腰が弱くなる。
歩けなくなる。

 つぎにやってくるのが、精神的な限界。
気力の限界と言い換えても、よい。
脳みその限界と言い換えても、よい。
「死」は、そのあとに、やってくる。

 そうした限界を乗り越えるためには、サルトル※が説いたように、「無の概念」を取り入れるしかない。
徹底して、自分を「無」にする。
「失うものは何もない」という状態にする。
そのとき私たちは、「限界(限界状況)」を乗り越えることができる。
もっとわかりやすく言えば、「私」を消す。
それがここでいう敗北宣言ということになる。
「身を運命に差し出す」。

(注※)サルトル……ジャン・ポール・サルトル
フランスの哲学者。
1905年6月21日生まれ、1980年4月15日(74歳)没。

●孤独

 わかりやすく言えば、「離婚どころではない」ということになる。
たとえて言うなら、崖っぷちに向かって進んでいる車の中で、夫婦喧嘩をしているようなもの。
また仮に離婚したからといって、未来は何も変わらない。
(どちらかに愛人でもいれば、話は別だが……。)
そこで待ち構えているのは、孤独だけ。
そうでなくても、独りで生きていくのは、むずかしい。
さらに言えば、離婚するエネルギーが残っているなら、そのエネルギーは、別のことに使いたい。

 ……というような話を、昨夜、こたつに入って、ワイフとした。

私「あのX君ね、ズバリ、痛いところを突いてくれた」
ワ「……」
私「ぼくはX君が言うように、外見だけの人間だった……」
ワ「でも、あなたは名誉も地位も、蹴飛ばして生きてきたわよ」
私「本当は、そうではない」
ワ「?」
私「そのチャンスがなかった。あれば、シッポを振っていたかもしれない」と。

●今日は今日

 さて今日も始まった。
時刻は、午前5:34分を示している。
ワイフが起きたら、入浴。
そのあと、庭掃除。
それがすんだら、たき火。

 で、昼から、映画を見に行くことになっている。
『MIB(メン・イン・ブラック)』。
楽しみ。

 それから現在、我が家の最大の関心ごとは、ぼたんインコの「ピッピ」。
息子は、昨夜も、「ぼたんインコの飼い方」という本を熱心に読んでいた。
ぼたんインコは、たしかに、かわいい。
「ラブ・バード」ともいう。
頭もよい。
感情は、人間並み。
で、だれかがこう言った。

『インコを飼ったことがない人は、人生の半分を無駄にしたようなもの』と。

 その言葉を知ったときには、「何を、おおげさな!」と思った。
しかし今は、その言葉に同意する。
安心しきって、私の手の中で眠っているのを見るだけで、心が休まる。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 サルトル 自由の限界 無の概念 はやし浩司 終の棲家 離婚問題 離婚率)はやし浩司 2012-05-27記


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【流出する頭脳】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

全国津々浦々、市町村の「村」レベルにまで、
韓国の産業スパイは、入り込んでいた。
「日本人にできることが、ワレワレにできないはずがない」という、
逆差別意識が、「日本から盗めるものは、すべて盗め」が、合言葉になっていた。

昨日、今日の話ではない。
私が商社マンだった、1970年代の話である。
その結果が、まさに現在。
それを象徴するかのような事件が、新日本製鉄を舞台にして起きた。
MSN(産経ニュース)から転載させてもらう。

この事件が、日本人が、もう一度、「日本人とは何か」「愛国心とは何か」、
それを考えなおすきっかけになればよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●盗まれた技術

++++++++以下、MSN(産経ニュース)2012-05-27++++++++

 付加価値の高い鋼材の生産技術が盗まれたとして、新日本製鉄が韓国の鉄鋼大手、ポスコと同社日本法人、新日鉄元社員などを提訴した。
昭和40年代に開発し、門外不出としてきた技術だけに、新日鉄の怒りは強い。
ポスコに対し、1千億円の損害賠償などを求めている。
ポスコは争う構えだが、敗訴すれば高収益な同事業分野からの撤退は避けられない。
産業スパイの代償の大きさを知らしめる裁判となるか。

 「やはりそうだったのか」

 韓国内でポスコが起こした裁判での証言の一つから、ある新日鉄幹部は、それまでのポスコへの疑念が、明確な不正だと確信。
昨年末、証拠保全手続きを申し立て、裁判所が元社員の保有していた“動かぬ証拠”を押さえた。

 新日鉄は、「時効の懸念もあり、早期に提訴が必要」(幹部)と判断。
4月に不正競争防止法(営業秘密の不正取得行為)違反で、ポスコなどを東京地裁に提訴した。
日本企業が、不正な技術流出で外国企業を訴える事例としては最大規模だ。

 訴訟対象の「方向性電磁鋼板」は、新日鉄の八幡と広畑の両製鉄所だけで製造されている。
工場勤務の長かった幹部でも、「生産工程は見たことがない」という秘中の秘の技術だ。

 変圧器などに用いられる特殊な鋼板で、電圧変更時のロスなど従来製品の課題をことごとく解消。
鉄の結晶がきれいに整列する様子から、業界では「鉄の芸術品」とも呼ばれている。

(3分の1ほど省略)

 新日鉄はポスコ側に真偽を問い合わせたが、独自技術と言い張るばかり。
「何十年もかけ、数百億円を投じてきた技術が、なぜこんなに早く追いつかれたのか」(宗岡正二社長)。
疑念は募っていった。

 平成19年、ポスコが韓国で起こした裁判をきっかけに事態は急転した。
ポスコは、同社の元社員が方向性電磁鋼板の技術を中国の鉄鋼メーカーに売り渡したとして提訴。
しかし、裁判で元社員は「渡したのは(ポスコの技術でなく)新日鉄の技術」と証言した。
これを受け、新日鉄が調査を開始。
同社元社員の証拠差し押さえを経て今回の提訴に至った。

 事情を知る業界関係者は、「ポスコ側に情報を漏らしたのは1人ではなく、グループだ」と指摘する。
1990年代に新日鉄を退社した開発担当者を含む数人が関与したらしい。
新日鉄が提訴したのはグループのリーダー格とみられる。

(4分の1ほど、省略)

 元社員はどのように取り込まれたのか。
ポスコに限らず、日本企業の退職者を積極的に雇用する外資は多い。
多額の報酬が提示されることもある。
「エージェントを通じて慎重に接触し、籠(ろう)絡(らく)する」(事情通)ケースもある。

 技術を流した側と受け取った側の関係を立証するのは難しい。
裁判は長期化が予想されるが、新日鉄側は「明らかな形で情報が流出した証拠をつかんでいる」として勝訴に自信を見せる。

 元社員はなぜ技術を漏らしたのか。
「結局は金だろう」。
新日鉄幹部らはそう吐き捨てる。

(以下省略)

++++++++以上、MSN(産経ニュース)2012-05-27++++++++

●売国奴

 「金で、日本の技術を売った?」……まさに売国奴。
が、言い換えると、今、日本人がもつ民族意識、さらに言えば愛国心は、そこまで希薄になっている。
ここにこうして載っている、MSNの記事は、その結果……というより、まさに氷山の一角。
それを疑う人は、韓国の現在の産業構造を見てみればよい。
鉄鋼産業はもちろん、自動車、コンピューター、家電、造船など、まさにひとつの卵子から分かれた、双生児。
あのヒュンダイにしても、当初は、「前から見ればトヨタ、後ろから見れば日産」という自動車を、平気で作っていた。

 その韓国が、中国を訴えた。
が、それに対して、当の韓国の技術者は、裁判所でこう証言した。

「渡したのは(ポスコの技術でなく)新日鉄の技術」と。

 厚顔無恥というのは、まさにこれを言う。
中国の企業が、韓国車を模倣したときも、ヒュンダイは、中国を訴えている。
思考回路は、まったく同じ。
何も変わっていない。

●韓流ブーム

 一時、(そして今も)、韓流ブームが日本を沸かした。
よい年齢をしたオバちゃんたちが、それも夫や子どももいるような、オバちゃんたちが、韓国の映画俳優の尻を追いかけた。
整形を繰り返し、化粧を塗りたくったような、若い俳優である。

 私はあれを最初に見たとき、「日本人は、どうしてああまでバカなのか」と思った。
本当に、バカ!
当の韓国では、日本文化の流入は、きびしく制限されていた。
日本映画が全面解禁になったのは、2004年の1月1日のことである。

 韓流ブームと産業スパイとの関係は、ない。
しかしその底流では、太くつながっている。
民族意識の喪失と愛国心の希薄化。

 が、誤解しないでほしい。
私は行き過ぎた民族主義、愛国心には、反対である。
たとえば「日本民族はすばらしい」と思うのは、民族意識。
その返す刀で、「多民族は劣っている」と思うのは、行き過ぎた民族意識。

 また「日本を愛する」というのは、愛国心。
その返す刀で、「他の国を犠牲にしてもよい」と考えるのは、行き過ぎた愛国心。

 が、この日本では、それ以下。
国を売るような行為を平気でしながら、みじんも恥じない。
そういう意味で、売国奴と、韓流ブームに踊らされるオバちゃんたちは、底流で太くつながっている。
少しは恥を知れ!

●高額な報酬

 まず人材を、高額な報酬をちらつかせ、引き抜く。
引き抜かれた人材は、その期待に応えようと、もてる技術を最大限、提供する。
こうして日本の技術は、外国へ流出する。

 それを守るのが、「守秘義務」ということになるが、民族意識や愛国心の希薄な人にとって、守秘義務など、絵に描いた餅。
で、自分のこととして考える。

 もしだれかが私のところへやってきて、こう言ったとする。
「林さん(=私)、あなたの教育技術を、1億円で売ってくれませんか」と。
(私の教室は、YOUTUBEで公開しているので、そういうことはありえないが……。)
そのとき、私は、どのような反応を示すだろうか。

 もっとも私のもっている教育技術など、その価値もない。
それに他人の技術を流用したり、盗用したりしたものでないから、売るのは、私の自由。
だから即座に、「YES」と答えるだろう。

 が、それが外国であったら……?
とくに日本のライバルとなっている国であったら……?

 ……これはかなり迷う。
日本の未来を考えたら、おいそれと「YES」とは、言えない。
この世界には、「ブーメラン効果」という言葉がある。
へたに技術を手放せば、やがてその被害は、ブーメランのように自分のところに戻ってくる。
だから「ブーメラン効果」。
つまりその精神的支柱となるのが、民族意識であり、愛国心ということになる。
 
 それがあるか、ないか?

 そこで教育ということになるが、しかし教育にも限度がある。
となると、法律による厳罰主義しかないということになる。
だいたい産業スパイが野放しになっている国は、この日本をおいて、そうはない。
韓国にしても、産業スパイは、スパイ。
政治スパイと同じ。
区別しない。
きわめてきびしい罪が科せられる。
当然、取り締まりも、きびしい。

 10年ほど前、大学の同級生が、アメリカで逮捕された。
H社の工場の責任者(副工場長)だった。
その同級生は、即、逮捕、投獄。
2年間の懲役刑を宣告された。
(しばらくして、保釈されたが……。)

 ともあれ、日韓経済戦争は、終わったわけではない。
今の今も、水面下でつづいている。
頼みの綱は、日本政府だが、あの体たらく。
与党の元代表が、「無罪になった」と、はしゃいでいる。
が、最後の最後まで、4億円の出所は、わからずじまい。
そういうことを、日本を指導する指導者が、平気でしている。
どうして新日本製鉄の技術を韓国に売った技師を、売国奴と非難することができるか……ということになってしまう。

 残念な事件である。
と、同時に、今一度、韓国という国がもつ異常性に、みなが気がつくべきときでもある。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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