2012年4月30日月曜日

Journal of Society of Automotive Engineers of Japan

●『自動車技術 2012年05月号』

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨夕、郡上八幡+同窓会から帰ってきたら、
『自動車技術』(自動車技術界発行・定価2500円)
が届いていた。

全世界配布版である。

で、問題は、これをどうBLOGにUPLOADするかということ。
方法としては、(1)1度、スキャナーでパソコン本体に取り込み、
(2)たとえばFrickr」のようなストーレッジ・サービスに、
保存する。
(3)そこから埋め込みコードを引き出し、それをBLOGに貼り付ける。

従来はそういう方法を繰り返してきた。
が、今回の『自動車技術』誌は、A4サイズの大型雑誌。

スキャナー時の解像度を落とすと、文字が読めなくなる。
かといて、300dpiで収録すると、画像が大きくなり過ぎ、
通常のノートパソコン(12~13インチ)では、画面からはみ出してしまう。

・・・ということで、いろいろなサイズをここに収録してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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++++++++++++++++以上、300dpi版+++++++++++++++++++++++


一度BLOGに実験的に、UPLOADしてみたが、ほぼだいじょうぶかな(?)というところ。

みなさん、おはようございます。

はやし浩司 2012-04-30


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

2012年4月29日日曜日

Yoshida-ya Inn、Gojyo Hachiman Gifu-pref., Japan

【岐阜県・郡上八幡町へ】(はやし浩司 2012-04-28~29)



Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今、電車の中で、一息ついた。
コーラを口にした。
真っ白な日差し。
まぶしい……、というよりパソコンの画面が光る。
ブラインドを、下までさげる。

これから岐阜県は、郡上八幡町へ。
八幡城下町プラザ横、吉田屋旅館に一泊。
以前から、一度は泊まってみたいと思っていた。
その旅館に一泊。

ワイフは、チューハイを飲んでいる。
「キッチンドリンカーになるなよ」と声をかける。
「休みのときだけよ」とワイフ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●読売新聞

 昨夕、読売新聞社(東京)から電話があった。
電話取材。
何でも東京都で、41歳の母親が、2歳の幼児を殺してしまったという。
それについてのコメント。

 つい先ほど、記事の確認の電話があった。
あわてて通路まで走ったが、そこで切れる。
待つことしばし。
2度目の電話。
「記事は、メールで送りました」と。

 記事は今日(4月28日)の夕刊(全国版)に載るとか。
が、肝心の私は、岐阜県の山の中。
夕刊を見ることはないだろう。

(記者の人が、記事をあとで送ってくれると言った。)

●母親心理

 2歳児前後の母親の心理。
(1)一体性と、(2)完ぺき性。

 一体性というのは、母子間の間に、「壁」がないことをいう。
この時期の母親は、自分イコール、子ども、子どもイコールという考え方をする。
本能に根ざしているだけに、それを母親に気づかせることは、ほぼ不可能。
本能に操られながらも、それを「私」と思い込んでいる。
私の意思でそうしている、と。
またそれが親の深い愛情の証(あかし)、と。
(それがまちがっていると書いているのではない。誤解のないように!)

 つぎに完ぺき性。
完ぺき性というのは、この時期の母親は、子どもに完ぺきさを求めやすいということ。
弱点、欠点があってはいけない。
遅れも許さない。
「標準」「平均」という言葉に、鋭く反応する。
たとえば言葉の発達が少し遅れた程度のことでも、大騒ぎする。
絶望感をもつ母親さえいる。
それぞれの子どもには、それぞれの子ども特有の発達特性というものがある。
それが理解できない。

 運動面がすぐれていても、言葉の面で遅れるということは、珍しくない。
もう少し大きくなれば、音感面ですぐれていても、数値能力面で遅れるということも、珍しくない。
が、もちろんその反対のこともある。

 たとえば自閉症児(「自閉症スペクトラム」)の中には、特異な才能を示す子どもがいる。
超難解な計算を、瞬時にしてしまう、など。
100桁の数を、瞬時に暗記してしまうのも、それ。
車のほんの一部を見ただけで、メーカーから車種まで当ててしまう子ども(4歳児)もいた。

 親はそういった天才児と思い込む。
それはそれ。
しかしこうした(こだわり)は、「能力」ではない。
能力とは区別して考える。
つまり教育の世界では、能力と認めない。
「能力」と認めるためには、教育的な普遍性がなければならない。
教育的効果によって、どんな子どもでも、そういう能力が引き出せる。
その方法があるか、ないか。
つまり、その方法論を実践するのが、「教育」ということになる。
実践できなければ、「教育」の範囲には、入らない。

 それはともかくも、母親は、常に「万能」を求める。
それが子育てをギクシャクしたものにしやすい。

 子どもを伸ばすコツ。
『得意分野を、伸ばす。不得意分野は、目を閉じる』、である。

 ついでながら、欧米では、「子どもは神から授かった子」という考え方をする。
だからたとえ子どもに何らかの障害があっても、日本人とはちがった考え方をする。
一方、日本人は、「子どもを自分の所有物」と考える傾向が強い。
だから子どもに何らかの障害があったりすると、「自分の責任」と思い悩。
その傾向が、より強い。

●蒲郡(がまごおり)

 たった今、JR蒲郡を出たところ。
このあたりには、いくつかの温泉地がある。
この10年間で、ほとんどのホテルや旅館に泊まった。

 ワイフが「あそこが、~~ね」と、さかんに話しかけてくる。
うるさい!

 ……今日は土曜日ということもあり、電車の中では、子どもの声も聞こえる。
大型連休の初日。
天気はまさに行楽日和(びより)。
今日の朝刊によれば、あちこちの高速道路で渋滞が始まっている、とか。

●録音機

 郡上八幡町の思い出は多い。
子どものころから学生時代まで。
よく行った。
町内の旅行会といえば、そちらの方面が多かった。
その郡上八幡町と言えば、盆踊り。
「♪かわさき」。
「♪郡上のなア~、八幡~ン、出ていくときはワ~」という、あの歌。

 今回は、デジタルの録音機を用意した。
博覧館(祭り会館)というのがあって、そこでは常時、「♪かわさき(郡上踊り)」などの民謡を聞くことができる。
それを録音する。
郡上の町をデジタルカメラに撮り、その上に、民謡を重ねる。
よいビデオができそう。
楽しみ。

●「日本海」の呼称問題

 韓国人は、どうしてああまで「日本海」の呼称問題にこだわるのか。
慰安婦問題にしても、そうだ。
ふつうではない。
病的ですら、ある。
もともと「東海」であったものを、日本人が勝手に「日本海」にしたのなら、まだ話もわかる。
しかし「日本海」という名前は、国際的に自然発生したもの。
それを今になって、「東海が正しい」とは?

 自己中心性もここまでくると、理解できない。
もしこんな論法がまかり通るなら、「メキシコ湾」を、「フロリダ湾」にすればよい。
アメリカの南にあるから、「南湾」でもよい。

 韓国の人たちが日本海を、「東海」と呼んでいたのは、至極、自然なこと。
日本海は朝鮮半島の東にある。
「東海」というのは、方向を示す言葉。
固有名詞ではない。
どうしてその「日本海」を、あえて「東海」にしなければならないのか。

 ……現在、韓国は、日本海と東海の併記を主張している。
が、そのうち、今度は、なし崩し的に、東海と日本海の併記にしたあと、日本海を消すつもりでいる。
どうして自然の成り行きに任せないのか。

 わかりやすく言えば、『坊主憎ければ……』というのが、本音。
一言、付け加えると、あの福沢諭吉は、こう書き残している。
当時の韓国を訪問したあと、「あの国とは謝絶する」※と。
そのころを基準にして、日本海は日本海になった。
そのことは、以前、どこかに書いた。

 これに対して、韓国は、日本が提案した、「日本海の単独表記は否決された」(4月26日、IHO(国際水路機関))と喜んでいる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

注※(2007年11月の原稿より)

かつて福沢諭吉は、こう言った。

「我は心に於て、亜細亜東方の悪友と謝絶するものなり」(脱亜論)と。
亜細亜(アジア)東方の国というのは、現在の韓国と北朝鮮のことをさす。

福沢諭吉のようなリベラリストですら、そう結論づけている。
なぜか? 
当時の朝鮮半島は、国としての「体」をなしていなかった。
では、現在の韓国(&北朝鮮)の反日感情の底流にあるのは何か。
答は明白。
韓国人にしてみれば、日本ごときが、アジアでナンバー・ワンであることが、気に入らないのだ。

わかりやすく言えば、逆差別意識。
過激な民族主義(国粋主義)から生まれる、逆差別意識。
つまりそれがあるかぎり、日韓関係は、好転しない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●男の顔は履歴書

『男の顔は履歴書と言ったのは大宅壮一さんだが、(それを受けて吉行淳之介さんが「女の顔は請求書」と)、人間の顔くらいおもしろいものはない』と言ったとか。
MSNニュースの「小沢一郎の隠し子スクープ」という記事の中に、そんな一節があった。

 男の顔は履歴書というのは、わかる。
しかしどうして女の顔は請求書なのか?
ただつぎのようなことは、よく思う。

 「女性(妻)には、苦労させてはいけない」と。
とくに金銭的な苦労。
生活態度がガツガツし始めると、とたんに、生活臭が顔に出てくる。
それが10年、20年とつづくと、生活臭が、醜悪さに変わる。
見苦しくなる。
男の顔は、たしかに履歴書だが、女の顔は、生活を映すカガミ。

 ……と書くと、「じゃあ、はやし(=私)、お前はどうなんだ!」と言われそう。
が、その前に、大宅壮一はどうなんだ、ということになる。
大宅壮一は、実に大宅壮一らしい。
そういう人が、「男の顔は履歴書」というのは、わかる。
が、私では役者不足。
いかにも、貧相。
底の浅さが、そのまま顔に出ている。
何とか、深み、重みをつけたいと思っているが、それができない。 

 だからこの話は、ここまで。

●「ツボ」という村

 岐阜からは、郡上八幡行、高速バスに乗る。
高速道路を走るから、高速バス。
そのバスが、故郷の美濃市を通り過ぎた。
その直後、眼下に、どこか見慣れた景色が飛び込んできた。
私の祖父の生まれ故郷である。

 「ツボ」という名前の村だった。
祖父は、8歳のとき、美濃町(美濃市)にある加治屋へ、丁稚奉公(でっちぼうこう)に出された。

 何人かいる兄弟のうちの、末っ子だったと聞いている。
名前を「銀吾」と言った。

 祖父はその鍛冶屋で、16歳まで働き、つぎの2年間、「礼奉公」というのをしたあと、18歳で、独り立ちした。
当時は、そういう時代だった。
言うなれば、祖父は、実家から捨てられたようなもの。
が、それ以上に、実家は貧しかった。
やむをえなかった。

●祖父の実家

 その祖父の実家へ、私は小学6年か、中学1年のとき、自転車で行った。
祖父が連れていってくれた。
道端の、道路から少し入ったところにあった。
幅が、2間程度。
長さが、4間程度ではなかったか。
壁といっても、土壁を塗りたくっただけの、粗末な家だった。
だれも住んでいなかった。
荒れたままだった。
裏側から見た様子しか記憶に残っていないが、窓といっても、木枠などはなかった。

 そのあとしばらくして、今度は、独りで見に行った。
そのとき私は、中学生だった。
その家を見たとき、なぜ、祖父が8歳で丁稚奉公に出されたか。
その理由が、よくわかった。

●王子様、王女様

 が、祖父は、一度とて、自分の父親や母親を悪く言ったことはなかった。
聞いたこともなかった。
当時はそういう時代だったし、それがふつうの「親子関係」だった。
今のように、子どもが王子様、王女様になったのは、ここ30~40年のこと。
今では、親は腫れ物にでも触れるかのように、子どもを育てる。
またそれが常識になっている。
が、私の時代を振り返っただけでも、私は今の時代のほうが、おかしい。

 どうして子どもが、王子様なのか。
王女様なのか。
先日亡くなった、K氏(享年82歳・浜松市引佐町)は、いつもこう言っていた。

「山から薪(たきぎ)を拾ってくるのは、子どもの仕事だったよ。
学校から帰ってくると、みな、暗くなるまで、薪拾いをしたものだよ」と。

 私の時代でも、私自身、家族旅行など、小学6年生までに1度しかしていない。
あとは町内で行く、町内旅行だけ。
それがふつうだったし、だれも不平、不満を言わなかった。
が、今は、ちがう。
どうちがうかは、ここに書いたことと比較してみればわかる。

 が、昔がよいとか、悪いとか、そんなことを書いているのではない。
子どもへのサービスは、時代とともに、変わる。
基準そのものが変わる。
今の基準が、けっして、標準的なものではない。
今、子どもに薪拾いをさせたら、「虐待」と言われるかもしれない。

ただ私の印象としては、現在は、サービス過剰。
手のかけ過ぎ。
時間のかけ過ぎ。
お金のかけ過ぎ。

やらなくてもよいことまでやり、かえって子どもに嫌われる。
子どもをだめにする。
昔でいう「ドラ息子・ドラ娘」は、当たり前。
今では、そうでない子どもを探す方が、むずかしい。

●新緑

 バスの中で、私はワイフとそんな話をした。
「要するに子どもの機嫌を取り過ぎなんだよ」と私。
「そうね」とワイフ。
機嫌を取るから、依存性がついてしまう。
「子どもは、してもらうのが当たり前」と考える。

……バスは、やがてすぐ郡上八幡町に入った。
若いころは、眼下の旧道を走った。
そのこともあって、郷里の美濃市から遠い町のように感じた。
が、今は、30分もあれば、着いてしまう。

 新緑が美しかった。
深い山々を背景に、薄黄緑色の木々が、青い空の下で、美しく輝いていた。
ワイフは、ときどき、こうつぶやいた。
「今が、いちばんいい季節ね」と。

 そう、今がすばらしい。
いちばん、すばらしい。
新緑の季節。

●郡上八幡町

 着くとすぐ、カメラを首にかけ、市内を歩いた。
日差しが強かった。
ワイフは一度、吉田屋に戻った。
日傘を取ってきた。
私も一度、戻った。
カメラの三脚を取ってきた。

 私には、ひとつの目的があった。
吉田屋から歩いて数分のところにある、博覧館(祭り会館)へ行くこと。
そこで郡上踊りの民謡を、録音すること。
デジタル録音機も、持参した。

 ちょうど3時からの説明が始まるときだった。
ビデオを回してよいかと聞くと、1人の女性が、指で、OKサインを返してくれた。
私は郡上踊りの説明を受けた。
踊り方も習った。

 ……といっても、踊り方は、知っている。
体にしみついている。
子どものころから高校生になるまで、夏になると、毎晩、踊った。
その私が踊り方の説明を受ける。
おかしな気分だった。
自分であって、自分でないような……。
地元の人間であるはずなのに、身分はよそ者。
踊り方を知らないフリをしながら、指示に従って手を動かす。
みなといっしょに笑う。

 そのあとワイフと町中をぐるりと一周した。
途中「美濃」という喫茶店に入った。
私はメロン・ソーダ。
ワイフはアイスクリームを注文した。

●吉田屋旅館

 吉田屋旅館は、町の中心部にある。
ときどき何かのことで郡上八幡へ来るたびに、「一度は泊まってみたい」と思っていた。
その願いが、今日、かなった。

 もちろん星は、文句なしの5つ星。

(ただし部屋にトイレ、風呂はない。
新館のほうには、ユニットバスだが、風呂とトイレがついている。
旧館のほうは、……つまり今回私たちが泊まったほうは、昔の料亭風。
どちらにするかは、宿泊を申し込むとき、よく相談してみたらよい。)

昔風の、つまり大正時代風の、格式ある旅館。
電話番号も、0001になっていることからも、それがよくわかる。
部屋に入ると、あの独特の匂い。
湿った木々の、古い屋敷の匂い。
私の実家の匂い。
母の実家の匂い。

中庭には、小さいが、よく手入れされた植えこみがあった。
あちこちに大きな石が、配してあった。

お茶を飲んだとたん、自分の体がスーッと部屋の中に溶け込んでいくのがわかった。

●同窓会

 明日は、美濃市で、高校の同窓会がある。
こちらを11時少し前のバスに乗れば、ちょうど12時ごろ、美濃市に着くことができる。
私はそれに出席する。
ワイフは、その間、美濃市の観光をする。
小倉公園で、味噌田楽(でんがく)を食べたらどうかと、提案した。

 「終わるのは3時ごろと思う」と私。
「そうね、それくらいね」とワイフ。

 今回は、MR君の大賞祝いを兼ねた同窓会。
MY君から、そのような連絡が入った。
今では、毎年年賀状を交換しているのは、その2人だけ。
高校時代といっても、それくらい遠い昔。
本当にそんな時代が、私にもあったのかと思えるほど、遠い昔。
その分だけ、みなと疎遠になってしまった。

 ともあれ、こうして無事、出席できることを喜ぶ。
中には、すでに他界した人もいる。
病気と闘っている人もいるだろう。
出席できるだけでも、御の字。
田丸謙二先生は、いつもメールでこう書いてくる。

「感謝、感謝、感謝です」と。
私も、それをまねる。
感謝、感謝、感謝、と。

●食事

 食事は、大満足。
量はどうしても多くなってしまうが、それぞれに趣向をこらしてあった。
ひとつひとつ、ワイフとああでもない、こうでもないと言いあって食べた。
懐石料理は、それが楽しい。

 鰻の蒲焼も出た。
それだけでも一食分。
このあたりでは、取った鰻をそのまま焼く。
浜松市のほうでは、一度蒸したあと、そのあと焼く。
だからこちらの蒲焼は、食感としては、かたい。
が、その分だけ、肉がしまっていて、おいしい。

●ビデオ撮影

 こうした旅行に来ると、私はいつも食事中の様子をビデオカメラに収める。
不思議に思う人もいるかもしれない。
しかしそれには理由がある。

 ……私は子どものころ、いつもおなかをすかしていた。
そんな中、ときどき祖父に連れられ、時代劇を見に行った。
その時代劇。
当時はかならずといってよいほど、侍たちが宴会をするシーンがあった。
私はそれを見て、「ぼくも俳優になりたい」と思った。
本気で思った。
「俳優になれば、いつも、ごちそうを食べられる」と。

 そういう思いが、今でも、心のどこかに残っている。
それがこういう所で、顔を出す。
旅行先で何かのごちそうを食べるたびに、こう思う。
「これが、ごちそう」と。
だからビデオカメラに収める。

 最初は軽い気持ちからだったが、今は、ほとんど毎回収めるようになった。
それがそのまま、ビデオを撮るときの、習慣になってしまった。

 ……それに旅行先で、食事タイムほど、楽しいものはない。
だからビデオカメラに収める。
あとで再生したとき、その楽しさがよみがえってくる。

●午後9時半

 先ほど2度目の入浴をすました。
どうやら旧館のほうの泊り客は、私たち夫婦だけ。
昼中は、多くの観光客でにぎわっていた通りだったが、日没とともに、人影が消えた。
みな、車でやってきて、車で帰っていく。
日帰り客。

 この傾向は、どこの観光地も、同じ。
高速道路ができたおかげで、泊り客は、ぐんと減った。
温泉地でも、今では日帰り客のほうが多いと聞く。
たいていは昼食をはさみ、温泉につかって帰る。

 ワイフはすでに寝息をたてて熟睡状態。
私も眠いはず。
今日は昼寝をしなかった。
が、頭の中のモヤモヤは、まだ残っている。
書きたいことがそこにあるはずなのに、それが吐き出せない。
このもどかしさ。

 ……やはり、今夜は、このまま眠る。
明日の朝、このつづきを書く。

●午前4時

 午前4時に目が覚めた。
枕元の明かりをつけて寝たのが悪かった。
「もう朝か?」と思いながら、目を覚ましてしまった。
それに、のどがカラカラだった。

 しばらくそのままにしていたが、頭が冴えてしまった。
で、起床。
こういうとき手元にパソコンがあるのは、ありがたい。
退屈しない。

●部屋の様子

 こうした旅館では、間取りが迷路のように入り組んでいる。
それがまた楽しいわけだが、この部屋にしてもそうだ。
廊下をくねくねと曲がって、やっとたどり着く。

 部屋は、10畳プラス縁側付き。
正方形。
床の間に、ユリが5~6本、それにスズランが生(い)けてあった。
まさか……と思いながら指で触ってみると、本物だった。
そう言えば、着いたとき廊下で、お茶の葉の香りがした。
泊り客にしてみれば、こうした本気度がうれしい。

 料金は、1人1泊、16000円弱。
これに飛騨牛の焼き物がつくと、19000円弱。

●味噌

 ……かといって、今は、とくに書きたいことはない。
あえて言えば、味噌の話。

 今日、通りを歩いていて、味噌屋に入った。
いろいろな味噌が並べてあった。
「郡上味噌」というのもあった。
少し試食してみたが、舌が驚くほど、塩からかった。
このあたりでは、昔から塩が貴重品。
料理の味付けも、その分だけ、全体に塩からい。

 で、私たちは、岡崎で生まれたという、「八丁味噌」を、2パック買った。
濃い、丸味のある味噌で、具に何を入れてもおいしい。
簡単な食事のばあい、白いご飯とみそ汁だけという家庭も、少なくない。
そういうときは、味噌汁の中に入れる具を、多くする。

 郡上まで来て、岡崎の味噌を買う。
ハハハと笑いながら、岡崎の味噌を買う。

 ……やはり、もう一度、布団の中にもぐることにする。
今日は、同窓会もあり、途中で昼寝をする時間がない。

●チェックアウト

 今、部屋で最後のお茶を飲んでいる。
時刻は、9時を少し回ったところ。
バスは、11時27分に出発する。
それまで1時間ほど、時間がある。

 隣の城下町プラザでは、日曜日(今日)の朝は、朝市を開いているという。
ここを出たら、行ってみる。
また盆踊りの季節に、もう一度、来てみたい。
先ほど、女将に相談したら、旧館なら、まだ空いている、とのこと。

 「どうしようか?」と聞くと、「そうね……」と。

 が、8月には、大きな講演会が1本、入っている。
その日にちが、ここでは不明。
一度家に帰り、スケジュールを調整してみる。

 「これも冥土のみやげ」と私。
「そんな言い方はよくない」とワイフ。

●そうもん橋(惣門橋)

 町から岐阜バス営業所まで、歩いた。
30分ほど、歩いた。
一度、北へ歩き、トンネルをくぐり、その先へ。

 途中、脇道へそれたところで、「そうもん橋」を見つけた。
「♪かわさき」に出てくる、「そうもん橋」である。

 『♪心中なア~、したげなア~、そうもん橋でエ~』(歌詞)と。

 小さな橋だった。
幅は、車1台分。
長さは、5~6メートル。
こういう発見があるから、旅は楽しい。

 ワイフをその横に立たせ、記念撮影。

●岐阜バス営業所

 岐阜バス営業所へは、発車時刻より、1時間ほど前に着いた。
待合室に入り、飲料水を買った。

「なあ、同窓会、ドタキャンし、白鳥(しらとり)から大野(福井県)まで行かないか?」
「同窓会は?」
「ウ~ン、そうだな……」と。

 絶好の行楽日和。
ほどよく暑く、歩けばひんやりとした森の冷気。
先ほどから、ワイフは、つぎの旅行先を探している。

「日本平(だいら)へ行きたいわ」
「しかしね、車でないと、無理だよ」
「新東名を使えば、すぐよ」と。

 日本平には、昔、日本平ホテルというのがあった。
今でもあるらしい。
通訳をしていたころ、外国から賓客が来ると、いつもそこへ案内した。
その中の1人が、スウェーデンから来た、エリザベス・ベッテルグレン女史。
スウェーデン性教育協会の会長をしていた。
たしか娘を1人、連れてきた。
とくに印象に残ったのには、理由がある。
女史が、「Free Sex」を説いて回ったため。

 誤解がないように書いておくが、女史が説いたのは、行為としてのSexではなく、性差別からの解放。
「男だから……」「女だから……」という差別。
その性差別からの男女を解放という意味で、ベッテルグレン女史は、「Free Sex」という言葉を使った。
(現在は、「ジェンダー」という言葉を使う。)

 ……しかしFree Sexというよりは、性の荒廃がここまで進むと、行為としての実技指導も、そのうち必要になるかもしれない。
浜松市内でも、今では女子中学生の中絶手術など、珍しく何ともない。

 その日本平ホテルに泊まった夜のこと。
地元のテレビ局が、取材に来たのを覚えている。
ベッテルグレン女史、つまりエリザベス・ベッテルグレン女史というのは、そういう人だった。

●名鉄電車

 同窓会も無事終わった(?)。
予想以上に楽しい会だった。
今は、その帰りの電車の中。
みな、再来年の再開を約束し、別れた。
次回は、高山市にて。
T君が、その町で内科医をしている。
楽しみ!

 ……名鉄電車は、もうすぐ知立(ちりゅう)。
猛烈な睡魔が襲ってきた。
眠い。
つらい。

●恋話

 ……同窓会では、どうしても恋話に花が咲く。
そこらの中学生や高校生たちと同じ話。
「あのとき~~だった」、「このときは~~だった」と。
その結果、いくつかの新事実。

 こちらが思っていたほど、相手の女性は何とも思っていなかった。
反対に、そのときは軽く受け止めたが、相手の女性は、それを真剣に悩んでいた、など。
心というのはそういうもの。
かみあうことは、めったにない。
たがいに「ナーンダ、そうだったの!」と。

 誤解といえば、誤解だが、その誤解が楽しい。
話に花が咲く。
何人かが、「時効」という言葉を使った。
が、「時効」というより、「今さら」というところ。
今さら誤解も何も、あったものではない。
こんなショッキングな話も。

 私が交際していた女性が、私のほかにも別の男とも交際していたのが、わかった。
「エッ、本当?」と。
驚くこと、しばし!

私「ぼくは、知らなかった……」
女「ちがうわよ。あの人ね、林君じゃあなくて、G君が好きだったのよ」
私「でも、ぼくともつきあっていましたよ」
女「そんなはずは、ないわよ」
私「……?」と。

 それを横で聞いていたX君まで、こう言い出した。
「実は、ぼくも、つきあっていた……」と。

私「ちょっと待ってよ。ぼくは、純愛だと信じていた……」
X「林君(=私)ともつきあっていると、本人は言っていたけどね……」と。

 ……あとは、笑い話。
ゲラゲラ、ハハハと笑って、おしまい。

 それにしても、女性って、すごいね……ということで、郡上八幡町への旅行記は、これでおしまい。

 「楽しかったね」「楽しかったわ」と。
ホント!
楽しかった。

 ……つぎは、日本平!
日本平ホテル!

(先ほどネットで調べたら、日本平ホテルは、目下再建設中とか。
2012年の秋、新装、オープンすると、あった。)

(はやし浩司 2012-04-29)

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 郡上八幡 吉田屋 吉田屋旅館 はやし浩司 同窓会)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

2012年4月28日土曜日

Life is full of dramas

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年 5月 7日
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page005.html

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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●複合症状

 子どもを見るときむずかしいのは、症状が複合しているばあい。
あるいはひとつの症状であっても、その症状が、こじれているばあいもある。
たとえばAD・HD児。

 親が早い段階でそれに気づき、適切に対応していればよい。
が、実際には、無理に無理を重ね、症状を悪化させてしまうケースが少なくない。
中には、はげしい暴力、威圧、虐待を加える親もいる。
そうなると、同じAD・HD児でも、ちょうど複雑骨折のように、骨がどこでどう折れているかさえ、わからなくなる。

 さらにAD・HD児に、別の問題、たとえば、かんしゃく発作、さらには、てんかん症が加わることもある。
こうして子どもの見せる症状は、ますます複雑になる。
症状が複合化するので、「複合症状」(はやし浩司)という。

●いろいろな例

 ほかにもいろいろある。

 たとえば同じかん黙児でも、それに親の情緒不安や精神不安が加わることもある。
親が、それを気にしすぎるあまり、子どもに手をかけ過ぎてしまう。
たいていはベタベタに溺愛する。

 このタイプの子どもは、たいてい、手がつけられないほどの、ドラ息子、ドラ娘になる。
外の世界で、自分を発散できない分だけ、内の世界(=家庭)で、粗放化する。
何か気にくわないことがあると、そのつど母親に包丁(包丁だぞ!)を、投げつけていた女児(年長児)もいた。

 あるいはLD児。
タイプはいろいろある。
文字を読むことはできても、意味を把握することができない子ども。
漢字を覚えたり、単語を暗記するのが、極端に苦手な子ども。
脳の機能障害説が常識になっているが、それだけに無理をしても、意味がない。
が、親には、それがわからない。
わからないから、子どもを叱る。
「どうして、あなたはこんなことができないの!」と。

 そうでなくても、勉強は苦手。
その上、勉強に、恐怖心まで、もってしまう。
小学校の入学までに、一度、そういった症状を見せるようになると、以後、勉強が好きになるということは、まず、ない。
(できない)→(逃げる)の悪循環の中で、ますます勉強から遠ざかっていく。

●知らぬフリ

 複合症状を見分けるのは、それほど、むずかしいことではない。
たとえばアスペルガー児が、本来のアスペルガー児特有の症状以外の症状を、併せもつことがある。
そういうときは、アスペルガー児特有の症状を、その子どもから削ってみればよい。
残ったのが、複合された部分の症状ということになる。

 が、問題は、どうすれば、それを親に、わからせることができるかということ。
私の立場では、症状名やその内容まで、話すのは、タブー。
あくまでも知らぬフリをして、指導に当たる。
たとえば親の強圧的、かつ威圧的な育児姿勢が、子どもの心をゆがめることがある。
アスペルガー児は、そういう点では、たいへん傷つきやすい。
殻に閉じこもり、がんこになる。
それを親が、はげしく叱る。
だからそれとなく、私は、こう言う。

「もう少し、お子さんを信じ、お子さんの立場で、ものを考えたらいいですよ」と。

 が、母親にはそれがわからない。
「うちの子ががんこなのは、根性が曲がっているから」と。
こうして症状は、ますます複合化する。
つまり複雑になる。

●10%のニヒリズム

 本来、子どものそばにいて、子どもを伸ばす立場の親が、子どもの伸びる芽を、かえってつぶしてしまう。
こういうケースは、多い。
「私は学校の先生より、子どものことはよく知っている」「私のしていることが、いちばん正しい」と豪語する親ほど、あぶない。
風通しが悪い分だけ、他人の話に耳を傾けない。
独断と独善の世界で、自己流の子育てを繰り返してしまう。

 が、私には、それがよくわかる。
手に取るように、よくわかる。
それだけではない。
その子どもの未来まで、ざっとわかる。
会った瞬間に、それがわかる。

若い親たちから見れば、私はバカに見えるかもしれない。
そういう目で私を見ていることさえ、私には、よくわかる。
「この親は、私をただの教師と思っている」と。
わかるが、私は、さらにバカなフリをする。 

 というのも、この世界には、「内政不干渉」という大原則がある。
親の方が、具体的に問題を提起し、それについて意見を求めてきたときだけ、それに答える。
この世界では、不用意に言った、ささいな言葉が、大問題になるということは、よくある。
だからこそ、わかっていても、何も言わない。
これを「10%のニヒリズム」という。
(「10%」でなくても、「20%」でもよいが……。)

 つまり切るべきところは切り、あとは親に任す。
もともと「親」というのは、そういうもの。
自分で失敗してみて、はじめて気がつく。
それまでは、聞く耳すら、ない。

●「私は無知」

 では、どうするか。
 
 これについては、何度も書いてきた。
要するに、自分たちを取り巻く「殻」を取り除き、風通しのよい家庭環境を作る。
さらに言えば、「私は無知」を前提に、謙虚になる。

 指導する側でいちばん困るのが、子どものことで何かを告げようとしたとき、すぐ反発してくる親。

私「最近、元気がありませんが……」
親「家では、ふつうです」
私「愛情不足ということはありませんか」
親「いえ、子どもたちは、みな、平等にかわいがっています」
私「学習面で、無理をしているようなことはありませんか」
親「ありません」と。

 とくに学校の先生には、謙虚になったほうがよい。
教育のプロということはもちろん、先生は、いつも多人数の子どもたちの間で、比較しながら、あなたの子どもを見ている。
その(比較)が、大切。
つまり客観的に、その子どもを見ることができる。
が、親には、その比較ができない。

 そのためには、聞き上手になること。
もう一歩、話を進めれば、自分の子どもでも、他人と思うこと。
距離を置けば、自分の子どもでも、客観的に見ることができるようになる。

 そんなわけで、「私は無知」を恥じてはいけない。
親は、みな、無知。
無知であるのが、当たり前。
学校でも、育児について学ぶ時間というのは、ほとんどない。
(最近は、それを教えるようになったが……。)
が、そんな程度で、育児がかかえるさまざまな問題に対処できるようになるということは、ありえない。

 だから結論は、どうしても、こうなる。
「謙虚になりなさい!」と。

●対処法

 「複合症状」という言葉は、私が考えた。
が、その「複合」といっても、2つとか、3つ程度の複合は、当たり前。
中には、さらに4つとか、5つも複合することがある。

 組み合わせ論的に考えるなら、それこそ、子どもが見せる症状は、千差万別ということになる。
が、ていねいに分析していけば、やがて混乱したコードをほぐすように、やがて症状を分離し、類型化することができる。
と、同時に、千差万別に見える子どもも、単純な組み合わせでそうなっていることがわかる。

 そこで私がすることは、類型化した「型」に優劣をつけ、また直しやすい部分から、直していく。
一方、簡単には直らない部分もある。
脳の機能や器質にかかわるような問題は、簡単にはなおらない。
ゆいいつできることがあるとすれば、「それ以上、症状を悪化させない」ということ。
消極的な対処法だが、あとは「時」を待つ。
どんな子どもにも、成長とともに、自分を正していくという能力が備わっている。
それを信じ、それを引き出す。
冒頭にあげたAD・HD児にしても、症状さえこじらさなければ、成長とともに、やがて落ち着いてくる。
見た目の騒々しさなどは残ることはあるが、それとてその子どものコントロール下に置かれるようになる。
つまり自分で自分をコントロールすることができるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 複合症状 複雑化する子どもの症状)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【生きる意味・高校生との会話】(はやし浩司 2012-03-23)

●今日は雨

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 朝起きると、野鳥たちが、私を待っていた。
庭を取り囲んでいた。
近くの木々や、隣の屋根の上にいた。
スズメ、ヒョドリ、ムクドリ……。
最近は、カラスまで来るようになった。
ついでに、どこかの飼い猫とリスまで来るようになった。

 「まだ6時ごろかな……」と思って起きたら、8時半!
外は雨だった。
重い雲が低く垂れ、春雨というよりは、梅雨時のような雨。
かなりはげしい雨だった。

腹をすかせているのだろう。
野鳥たちは、私を見ても、逃げようともしなかった。
そのあたりを飛び回っていた。
それを知り、私は、小走りに、あちこちに餌をまいた。

居間に戻ると、ランニング・マシンを庭に向けた。
野鳥たちが餌を食べるのを見ながら、まず30分。
ほどよい汗をかく。

今日も、こうして始まった!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原稿

 書斎に入ると、すぐ原稿のチェック。
F雑誌社からのものと、J工業会(機関誌)からのもの。
J工業会からのものは、44行分、削除してくれというものだった。
が、こういう作業が、いちばん、つらい。

「ふやせ」というのは、楽。
「減らせ」というのは、つらい。
原稿全体がもっている、バランスを崩してしまう。
原稿というのは、そういうもの。

 あとは昨日撮った、教室の動画を1本、YOUTUBEにUPする。
が、それだけで午前中の大半が、終わってしまった。

●ドーパミン

 ドーパミン(脳内ホルモン)が、かなり低下しているらしい。
もろもろの欲望が、わいてこない。
というか、気力がわいてこない。
……しぼんでしまっている。

こういうときは、何らかの方法で、(欲望)を刺激するのがよい。
もっとも簡単な方法は、物欲。
物欲を刺激する。

私のばあい、複雑な電子製品が効果的。
分厚い取り扱い説明書を見ただけで、ゾクゾクする。
これは、私の病気のようなもの。

 買い物依存症の人の、それと同じ。
そういう受容体が、線条体にできてしまっている。
わかりやすく言えば、ニコチン中毒や、アルコール中毒の人と同じ。
脳の中で、条件反射が起きる。
メカニズム的には、同じ。

●刺激

 が、今は、欲しいもの自体が、思い浮かばない。
これといって、欲しいものがない。
が、あえて言えば、パソコンということになる。
超・高性能のパソコン。
が、もうすぐWINDOW8マシンが売り出される。
それまで、がまん。

 ほかに……私は持ち物には、ほとんど興味がない。
車にも、ない。
あるとすれば、カメラか時計ということになる。
が、どれも家の中にゴロゴロしている。

 ワイフは、「旅行がいい」と、さかんに言う。
しかしそれも、少し疲れた。
旅先での睡眠調整に苦労する。
よいホテルや旅館になると、湿度も調整できるようになっている。
枕もいろいろなタイプのものが用意してある。
そうでないと、そうでない。
エアコンだけだと、空気がカラカラになる。
枕がちがうと、安眠できない。
それでいつも、夜中に目が覚める。

 で、来週は、講演を兼ね、伊勢志摩に行くことになっている。
そのあと、今度は方向を北に向け、飛騨の高山に行くことになっている。

 旅行に出かける前は、いつもこう思う。
「旅行をやめて、家でのんびりしていたい」と。

 しかし出かけてみると、「来てよかった」と。
意識が180度、ひっくり返る。
だから旅行に、行く。
それが脳の刺激になる。
そう、我ら老人組は、常に自らを刺激する。
刺激しながら、ボケを防止する。

●教室で

 教室へ入ると、ワイフが、缶ジュースを2本、買ってきた。
が、そのうち1本が、ゼリー・ジュース。
「よく振ってから、お飲みください」という注意書きがあった。
このタイプのジュースは、最初によく振り、中のゼリーを粉々にしてから飲む。
ワイフは、それを読まなかった。

だからプルタブを抜いてからが、一苦労。
箸でつつきながら、チビチビと飲み始めた。

 そういうワイフを見ながら、私はこう話してやった。

「B起したPニスを、昔、ブルブルと振った男がいてね。それで中の海綿体がバラバラになってしまったそうだ。そのあとその男のPニスは、使い物にならなくなってしまっというよ」と。

(B=勃、P=ペ。Blogには使用禁止用語というのがある。)

 ワイフは、一度は「ウソッ!」と言ったが、どこか本気にしたような雰囲気。
そのまま何やら深刻な顔つきになってしまった。

「60歳を過ぎたバーさんが、そんなことも知らなのか」と思ったが、それは言わなかった。 

●夢と失望

 昨夜、高校生たちと、こんな議論をした。
東大の入試問題(英文)を訳させていたときのこと。
こんな英文があった。

『……夢も失望も、幻想。年を取ると、それがよくわかる。夢にうつつを抜かすこともなくなるが、一方で、失望したからといって、それで傷つくこともない……』と。

 すかさずNさんが、こう言った。
「夢をもつことは、幻想ということ?」と。
私も、すかさず、こう答えてやった。
「いいや、夢をもつことは重要。夢がその人を動かす原動力となる。が、人は、その夢と失望を何度も繰り返したあと、こう気がつく。それが幻想であった、とね。が、それは、それ。だから今は、迷わず、あなたはあなたの夢を追求したらいい。」と。

 まず、何ごともやってみる。
懸命にやってみる。
失敗を恐れてはいけない。
バカだ、アホだと言われても、まず、やってみる。
たとえそれが無駄とわかっても、失敗ということにはならない。
大切なのは、そのプロセス。
ドラマ。
そのドラマに、価値がある。
生きる価値がある。
あのトルストイも、そう言っている※。

 で、その結果として、夢や失望が、幻想であったことを知る。
が、誤解してはいけない。
だからといって、その人の人生が無駄だったということにはならない。
幻想とわかったとき、人は、はじめて、なぜ今、ここに生きているか、その意味を知る。

 最初から、何もしない人には、それがわからない。
懸命に生きたことがない人には、それがわからない。
わからないまま、ただの凡人として、この世から去っていく。

 その問題は、そのあたりまで読み込まないと、設問には答えられない。
「さすが、東大の入試問題」と、私は感心した。

(注※)(中日新聞に発表した原稿より)

『……生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。
もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。
『人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●高校の同窓会

 高校の同窓会の案内が届いた。
それはそれとして、こんなことを考えた。
「もし、あの美濃町に居を構えるとしたら、どこがいいか?」と。

 その前に、美濃町について。
(正式には、「美濃市」だが、私は「美濃町」と呼ぶほうが、好き。
牧歌的な温もりを覚える。)

 美濃町は、昔から美濃和紙の集散地として知られている。
ミニチュア京都と呼ばれるほど、古い町。
北側に、長良川が流れ、三方を山に囲まれている。
私の実家は、その美濃町の旧市街、その西のはずれにあった。

 で、私が好きなのは、南の山のふもと。
松森山という小さな山がある。
その手前。
現在の美濃第一中学校のあるあたり。
なだらかな丘陵地帯になっていて、そこからは美濃町の町が、一望できる。

 今度、同窓会に出たら、帰りにでも、あのあたりで、土地をさがしてみる。
終(つい)の棲家(すみか)というほど、大げさなものではない。
が、晩年のうち、何年かでも、そこに住めたら、うれしい。
今、ふと、そんなことを考えた。

 ……いつもは、美濃町へ行くたびに、長良川沿いにある、緑風荘という旅館に泊まる。
昔は高級旅館だった。
その面影は、今でもしっかりと残している。
が、今は、1泊、1万円前後で泊まれる。
その気軽さが、うれしい。

 ……と書くと、同窓会に出席、ということになるが、今のところ未定。
4月に入ると、毎年、講演の依頼が、入る。
その成り行きをみてから、決める。

そんなわけで、ハガキには、一応、(出席)に丸をつけたが、まだ投函していない。

●満光寺

 たった今、こんなメールが、入った。

山荘の近くに、満光寺(まんこうじ)という寺がある。
徳川家康の命を救ったこともあるという、由緒ある寺である。
その寺で撮った写真について、愛知県観光協会発行の「旬感観光あいち」編集部より、写真転載の申し込みがあった。
「5月号の表紙に使わせてもらえないか」と。
私のHPに載せている写真である。
「その写真を、使っていいか」と。
こんな依頼は、はじめての経験。

すかさず、「はやし浩司のクレジットを、どこかに入れてくれるならOK」という条件で、許可した。
私にとっても、たいへん光栄なことである。

……と同時に、その写真に見入る。
ワイフと2人で、その寺へ行ったとき、撮った写真である。
観光スポットとしては、ほとんど知られていない寺である。
もう何回か行ったことがあるが、いつもガランとしている。

庭園のすばらしさは、この写真の通り。
右横に座っているのは、私のワイフ。
その近くにある龍潭寺に勝るとも劣らない、庭園を、無料で、楽しむことができる。
 
img392 

●さて、仕事

 午後は、パン2切れに、ジャムをつけて食べた。
それだけ。
2週間で、やっと2キロの減量。
……と油断していたら、また1キロ、太っていた。

 たいしたものは食べていない。
しかし太る。
食べたら、食べた分だけ、太る。
それが私の体質。

プラス、このところ運動をサボっている。
1日、30分のウォーキングだけ。

 寒い日は、何をやるにも、おっくうになる。
それがいけない。

 では、今日も1日、がんばる。
春休みも近い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【付記】(中日新聞の記事より)

【高校野球】(トルストイの言葉)

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。
輝く。
その価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。
生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。
たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。
たかがボールのゲームと笑ってはいけない。
私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。
「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。
幻想的なミュージカルだった。
あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。
「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。
私もこの問題について、ずっと考えてきた。
そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。
愛すること。
信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。
もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。
『人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。
一球一球に全神経を集中させる。
投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。
応援団は狂ったように、声援を繰り返す。
みんな必死だ。
命がけだ。
ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。
一瞬時間が止まる。
が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。
そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。
つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。
生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。
夢も希望もない。
情熱も闘志もない。
毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。
あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。
感動もない。見るほうも、つまらない。
そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。
人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。
高校野球は、それを私たちに教えてくれる。
(中日新聞・発表済み)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●複合症状

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨夜、寝る前に、濃いお茶を飲んだ。
それがよくなかった。
床に入ってから、……それまではかなり眠かったのだが、頭が冴えてしまった。
で、1~2時間、がんばったが、ギブアップ。
そのまま起きて、書斎へ。
時計を見たら、午前1時半だった。

やることもないので、雑誌(「週刊・ダイアモンド)に目を通す。
眠られぬ夜は、経済誌がいちばんよい。
10人の識者がいれば、10色の意見が出てくる。
それがおもしろい。

で、目を通しながら、パソコンを立ちあげ、Bloombergを開く。
開いたとたん、思わず、お茶をプーッと吹きだしてしまった。

「ギリシャの新国債の金利、20%を超える!」と。

少し前、80%近い、借金の棒引きをしたばかり。
「これでギリシャ問題は、何とかなった」と喜んでいた矢先の、20%!
(金利が、20%だぞ! そんな借金、返せるわけがない!)

わかりやすく言えば、元の木阿弥。
ギリシャの金融危機問題は、何も解決していない。
が、そこへもってきて、今度は、ポルトガルがおかしくなり始めた。

だれかが得をすれば、だれかが、損をする。
経済の世界は、そういうもの。
が、おかしなことに、損をした人が意外と少ない?
それもそのはず、世界の国々は、目下、札の印刷競争をしている。
札をばらまいている。
EUも、アメリカも、そしてアジア各国も。

足下の日本も、例外ではない。
現在、日本の株価は、バブル状態。
1万円の大台を越えたと、はしゃいでいるが、中身はガタガタ。
不気味なのは、海外の投資家が、日本の国債を買い始めていること。
そういった連中は、いったんことあれば、平気で今度は売り手に回る。
そのときが、こわい。

結局、再び床に入ったのが、午前4時ごろ。
起きたのが、8時半ごろ。
先ほどまでランニングマシーンの上で、一汗かいた。
そのあと軽い朝食をとり、そのまま書斎へ。
今日の予定は、とくになし。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●高校の同窓会

今度、高校の同窓会がある。
前回、出席させてもらってから、もう15年近くになる。
15年!
年数を計算し、改めて、驚く。

 現在、年賀状を交換しているのは、同窓生の中でも、宮崎K君と森H君だけ。
その森君が、岐阜県でももっとも権威ある賞の、その大賞を受賞したとか。
宮崎君から、その祝賀会をかね、同窓会を開こうという連絡が入った。
私にとっては、何としても出席しなければならない同窓会である。

 ……森君といえば、まっさきに思い浮かぶのが、プラモデル。
小学生のころのことだと思う。
彼の2階の、道路に面した部屋で、大きなプラモデルを見せてくれた。
それが私には、たいへんうらやましかった。
どうしてだろう?
どうしてそんなことを真っ先に思い出すのだろう。

 宮崎君というと、柔道を思い出す。
宮崎君の叔父にあたる人だったと思う。
中学生のとき、3年間、その男性に、柔道を習った。
ただ宮崎君本人は、道場には来ていなかったと思う。

 みんな元気なのだろうか?
この浜松に住んでいると、情報は、まったくといってよいほど、入ってこない。
1人、こまめに連絡してくれた友人がいたが、彼はこの10年間、病院に入ったままという。
家族、つまり彼の母親とは、ときどき電話で話す。
それ以前は、奥さんと話していたが、現在は、その電話番号は使われていない。
数年前、中学の同窓会があった。
そこでそれとなく聞いた話では、離婚しているらしいとのこと。

 興味があるのは、女性軍(失礼!)。
私たちのクラスには、美しい人がそろっていた。
もっともそれに気づいたのは、高校を卒業してから。
それまでは気がつかなかった。
そういう人たちは、どうなったのだろう。
今でも、みんな昔のままなのだろうか。
不謹慎な意味で、(本当に不謹慎だが……)、たいへん興味がある。

●夫婦同伴

 日本では、パーティというと、(同窓会も含めてだが)、単独出席が当たり前。
一方、欧米では、夫婦同伴が、当たり前。
欧米のほうがよいというわけではない。
しかし夫婦同伴というパーティがあっても、よいのではないか。
あるいは、みなで簡単な旅行をする、とか。
バスを借り切って、どこかへ行く……。
いいね!

 飲んで、食べて、カラオケを歌って……。
あとはワイワイと騒ぐ。
同窓会というと、そんなイメージというか、「型」が決まっている。
親戚が集まる、親類会、いとこ会、OB会……。
みな、そうだ。

●人間関係

 同窓会のよい点といえば、上下関係がないこと。

ふつう人間関係は、(1)対立関係(けんか状態)、(2)調和関係(仲良し関係)、(3)専制関係(上下関係)、(4)分離関係(心の通わないバラバラ関係)に分類される。

 もちろん高校生だった当時には、こうした関係が、色濃くあった。
が、それから40数年。
今さら、「関係」もあったものではない。
そこに「死」がまっている。
それに、私も含め、みな、おおかたの人生を終えている。
今、こうして生きているだけでも、御の字。
上下関係がどうのこうのと言っている方が、おかしい。
みな、平等。
その平等感がよい。

 ……帰りには、岐阜市の旅館に一泊するつもり。
長良川沿いには、よい旅館やホテルが並んでいる。

●女性

 そう言えば、女性というのは、30歳くらいを境に、顔が変わってしまう。
35歳を過ぎると、20歳前後の面影が、完全にと言ってよいほど、消えてしまう。
本来なら、こういうことはありえないはず。
遺伝子はそのまま。
どうしてだろう?

 一方、男性というのは、あまり変わらない。
街で会っても、その人と、すぐわかる。
20歳前後の面影を、しっかりと残している。
どうしてだろう?

 ……先ほども、近所の家の中へ、1人の女性が入っていった。
ワイフに、「あの人は、だれ?」と聞くと、「娘さんよ」と。
「わからなかったよ」と言うと、「あの娘さんも、年を取ったからね」と。

 若いころの娘さんの印象は、残っている。
ほっそりとした、かわいい女性だった。
その女性も、今では、まったくのオバサン姿。
ズングリとした体型。
ポッテリとした顔。
目の周りだけが、昔の面影を残していた。

 もし別の場所で会ったら、その人と、私にはぜったいわからないだろう。

私「女性は、どうしてああまで変わるのかな?」
ワ「そんなことないわよ。男性だって変わるわよ」
私「そうかなあ……。いくら年をとっても、ぼくには、わかるよ」
ワ「それまでの生活によるんじゃ、ないの?」と。

●脳

 その点、脳細胞は、再生しない。
死滅する。
その一方。
だから、脳細胞は、昔のままを保つことができる。
性格も性質も、昔のまま。

 もし脳細胞が、再生するようなことがあれば、性格や性質が変わってしまうかもしれない。
情報の伝達が、そこまで正確になされるとはかぎらない。
言い換えると、だからこそ、10年たっても、20年たっても、私たちは昔のままで、たがいに会うことができる。

 ただし、死滅する分だけ、バカになる。
「バカ」という言葉に語弊があるなら、ボケる。
そのボケるのが、心配。

 大学の同窓会でも、まず最初の会話がこれ。
「あいつ、だいじょうぶか?」と。

 「だいじょうぶ?」というのは、脳のほうのことをいう。
少し様子がおかしいと、まず、それを聞く。
こういうことを調べるのは、不謹慎きわまりない。
しかし興味があるので、調べてみる。
年齢別、ボケ老人の割合。

●年齢別、ボケ老人の割合

 平成4年の老計第29号によれば、つぎのようになっている。

(認知症患者の出現割合)

65~69歳……1・5%
70~74歳……3・4%
75~79歳……7・1%
80~84歳……14・6%
85歳以上 ……27・3%

 なおここでいう認知症患者というのは、介護が必要な患者をいう。
つまりかなり重症ということ。
私や私のワイフ程度のボケ老人まで含めたら、その数は、10倍以上になるのでは?

 恐ろしいことに、この10年間だけでも、ボケ老人の割合は、減るどころか増えているという。
別のサイトには、そうあった。

●自覚

 認知症の怖ろしいところは、それを的確に自覚できないこと。
エーザイ(製薬)HPには、つぎのようなチェックテスト項目が並んでいる。

●同じことを何度も言ったり、聞いたりする
●慣れているところで、道に迷った
●財布を盗まれたと言ってさわぐ
●以前よりだらしなくなった
●夜中に起き出して騒いだ
●置き忘れや、しまい忘れが目立った
●計算の間違いが多くなった
●ものの名前が出てこなくなった
●水道の蛇口やガス栓の締め忘れが目立つ
●ささいなことで怒りっぽくなった
●時間や日付が不確かになった
●日課をしなくなった
●以前はあった関心や興味が失われた
●以前よりもひどく疑い深くなった
●薬の管理ができなくなった
●テレビドラマの内容が理解できない

 しかしこんなテストをしても、意味がない。
仮にこのテストで「あやしい?」と思っても、それは「自覚」とはちがう。
(もちろん自分以外の人のことを、診断するのには、役に立つ。
「うちのバーチャン、最近おかしいわね」と。)

 どうすれば、自分のボケ度を自覚できるか。

●ボケの自覚

 私のばあい、つぎのようにして、自覚するときがある。

 たとえばこうして毎日、原稿を書いていると、ときどき以前、書いたのと同じテーマで、書くときがある。
そこでネットで検索をかけてみる。
(検索しやすいように、私のばあい、原稿の末尾に、検索キーワードを並べることにしている。)

 すると、10年前に書いた原稿が出てきたりする。
タイトルも同じ……ということは、よくある。

 そこでその原稿を開き、現在書いている原稿と、読み比べてみる。
それでボケの進行度を、自分で知ることができる。

 あるいは、そのつど新語に出会う。
英語の単語でもよい。
そういった新語や単語については、その場で脳の中に叩き込む。
これを「記銘」という。

 が、50歳を過ぎてから覚えた言葉や単語というのは、あっという間に忘れてしまう。
その期間とか、割合で、自分のボケ度を自覚することができる。

 それによれば、私の脳みそも、かなりあぶない。
65歳を過ぎると、1・5%程度の人が、介護が必要なほどまでにボケる。
そこで予防ということになる。

●運動と予防

 が、最近、本当に最近、私はこんなことに気がついた。

 私は暇があれば、テレビのニュースを見ながらでも、ウォーキングマシンの上で歩いている。
そんなときのこと。

運動をし、一汗かいてから、キーボードを叩くのと、運動をしないまま、キーボードを叩くのでは、調子がまるでちがう。
運動をしたあとだと、パラパラとキーボードを叩くことができる。
運動をしていないと、モタモタ……という感じになる。
打ちミスもおおくなる。
微妙なちがいなのだろうが、その(ちがい)が、よくわかるようになった。

 ボケ防止のためには、脳みその運動のみならず、肉体の運動も重要である。

●脳梗塞

 が、認知症もさることながら、直近では、血栓性脳梗塞、あるいは微細脳梗塞も心配である。
総じてみれば、大酒飲みやヘビースモーカーの人には、頭の活動が鈍い人が多い。
50歳を過ぎるころから、「?」と思うようになり、60歳を過ぎるころから、それがはっきりとしてくる。
だれにでもそれとわかるようになる。
たとえば……。

●反応が鈍くなる
●話し方がかったるくなる
●繊細な会話ができなくなる
●内容が通俗的になってくる
●「ア~」「ウ~」という間投詞(擬声語)が多くなる
●ささいなジョークに、ことさら大げさに反応する、など。
(以上、はやし浩司)

 最近の研究によっても、飲酒が脳そのものを委縮させる、またスモーキングは、感情の抑揚を平坦化させるということがわかっている。
脳みその健康を保つのも、楽ではない。……ということらしい。

●回顧主義(懐古主義)

 できれば、こう願う。
 
 同窓会といっても、回顧主義的なものであってほしくない。
会って話をしたい人がいるとすれば、現役でまだがんばっている人。
そういう人たちと、情報を交換したい。
健康法なり、日常の過ごし方、など。

 「あのときは、こうだった」式の話には、興味はないし、そんなことならいくら話しあっても、意味はない。
まだ、この先人生は、長~~~~~~~~~~~~~~~い。
どうせ生きるなら、前向きに、生きた~~~~~~~~~~~~~~い。

 ということで、同窓会の話は、ここまで!

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 同窓会 武義校同窓会 武義高校同窓会 はやし浩司 同窓会論 高校の同窓会 同窓生 はやし浩司 2012ー03-25)


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母子関係不全症候群byはやし浩司

●4月28日(土曜日)朝記(2012)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

私が住んでいるこのあたりでは、大型店の建設がつづいている。
大都市で見る、たいていの大型店は、ほぼ出そろった。
そんな中、こんな喜劇も……。

そこにはもとから、洋品店があった。
結構、はやっていた。
ところがその右隣に、ユニクロができた。
とたん、その洋品店からは客が消えた。
さらに不幸がつづいた。
今度はその左隣に、コックスができた。
さらに客が消えた。

右にユニクロ、左にコックス……。
その間に、その洋品店。

そこでその洋品店の主人は考えた。
店の名前を変えることにした。
考えて名前を、「入り口」とした。
店の上に、「入り口」という看板をかかげた。
とたん、その店は、大盛況。
押すな押すなの客が、その洋品店に入ってきたという。

……というこの話は、何かのジョーク集に書いてあった。
それを思いだし、少し内容を変えて書いてみた。
(私が作ったオリジナルのジョークではない。念のため。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「おぶつだんや」

 が、これは私の大発見。
昨日、ワイフと仕事に向かう途中、こんなことを知った。

 ちょうど町に入る境あたりに、A坂というなだらかな坂がある。
その左側に、仏壇屋がある。
その仏壇屋に、新しい看板が立った。
平仮名で、「おぶつだんや」と書いてあった。
それを読んで、ピンときた。

「お・ぶ・つ・だ・ん」の文字を並び替えると、「お・だ・ぶ・つ」になる。
つまり「お陀仏(おだぶつ)」になるから、「お仏壇屋」と。

●高校生

 そんな話を高校生のクラスで話したら、みな、笑いが止まらなくなってしまった。
この年齢の子どもたちは、一度笑い始めると、ゲラゲラと笑い始める。
それこそ、鉛筆をポロリと落としただけでも、笑う。

 そんな中、Bさんが、ふとこう言った。
「うちのお父さんね、ドイツ語がわかるのよ」と。

 そこですかさず、私がベートーベンの第九の歌詞を口にしてみてやった。
あの「♪ダイネ・ツアウベル・ビン・デン・ビーデル……」というのである。
それを聞いてBさんが、目を白黒させた。
「先生って、ドイツ語も話せるの?」と。

私「そうだよ。たとえば、ドイツ語で『おまんじゅう』は、『オスト・アン・デール(押すと餡(あん)出る』という」
B「フ~~ン」
私「それに、こんなドイツ語もある。『イヒ・フンバルテート・デル・ウンチ(私・ふんばると・出る・ウンチ』」と。

 かなりドイツ語らしく言った。
ほかの高校生たちは、みな、腹をかかえて笑った。
が、Bさんだけ、それを本気にしてしまった。
それを見て、ほかの高校生たちが、さらに大声で笑い始めた。

 どれも私が学生時代に知った、古いジョークである。
内心では、「こんなジョークも知らないのか」と思ったが、それは言わなかった。
さらに、定番ジョーク。

「あのね、この英語を訳してごらん……」と。

「To be to be ten made to be.」

 みんな英語には自信のある子どもたちである。
それぞれが懸命に訳し始めた。
中には、もっともらしい訳をつける子どももいた。
が、やがてギブアップ。

「あのね、これは英語ではないの。ローマ字で、『飛べ・飛べ・天まで飛べ』と書いてあるだけなの」と。

 結局、皆で、30分以上、笑いつづけた。
涙まで流して、笑いつづけた。
腹の皮がよじれるほど、笑いつづけた。
ゲラゲラ、ワッハハハ……と。

 ……ということで、今朝は気分爽快。
頭もすっきり。
目を覚ますとき、全身の細胞が、プチプチとはじけているのを感じた。
『笑いは健康のもと』と。
それを改めて強く実感した。
(2012/04/28朝記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(補記)(以前書いた原稿より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●笑いの効能

 最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われるようになった。

 「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。

 たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわかってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。

 がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細胞が、活性化することもわかっている(同)。

 子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。「なおす」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしまう。

 私は、そういう経験を、何度もしている。

 大声で、ゲラゲラ笑う。
たったそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びていくということ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 笑いの効能 笑う 笑えば子どもは伸びる)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【今朝のニュースより】(はやし浩司 2012-04-28)

●失業率が24%!

 ロイターは、こう伝える。
『失業率は2011年の21.6%から、2012年は24.3%に悪化。
その後は2013年に24.2%、2014年に23.4%、2015年に22.3%と、徐々に改善するとの見通し』(ロイター)と。

 「24%」という数字は、とんでもない数字と考えてよい。
どこの国でもそうだが、失業率が20%を超えると、とたんに街角に失業者があふれるようになる。
つまり4人に1人が、失業者。
1~2年の間なら、まだ何とかなる。
しかしそれが4~5年もつづいたら、勤労意欲そのものが、消え失せる。
社会不安は増大し、社会秩序そのものも崩壊する。
スペインは、今、その危機的状況の中にある。

 スペインがそこまで病んでいるとは、知らなかった!

●内ゲバ

 MSN・ニュースは、こう伝える。
小沢一郎さんが、無罪になったことについて、

『民主党の小沢一郎元代表に無罪判決が下されたことを受け、政府・民主党内では27日、親小沢派と反小沢派のさや当てが激化し「内ゲバ」の様相を呈してきた。
野田佳彦首相が「命を懸ける」と言い切る消費税増税関連法案の審議入りを目前に控え、政権は瓦(が)解(かい)の一途をたどる』(以上、MSN)と。

 (注:「小沢さん」と「さん付け」で呼ぶのは、けっして尊敬しているからではない。
実は、その反対。)

 もとはと言えば、一連の裁判劇は、「西松事件」から始まっている。
MSN・ニュースから、一文を拾ってみる。
こうある。

『……特捜部は21年夏、中堅ゼネコン「水谷建設」元社長から、胆沢(いさわ)ダム受注をめぐり「元秘書らに1億円を渡した」との供述を獲得。
土地購入の原資4億円に、ゼネコンマネーが含まれていると見立て、小沢元代表本人の立件を視野にした捜査が本格化した』(以上、MSN)と。

 今回の裁判で、無罪になったからといって、「シロ」というわけではない。
いくら小沢一郎さんや、そのチルドランの女性軍たちが涙を流し、それを喜んだとしても、疑惑が消えたわけではない。
むしろ疑惑は、増大した。

 私たちは、その手法に、大きな反感を覚える。
つまり田中角栄のときもそうだったが、小沢一郎さんも、裁判が始まると、勢力の拡大をねらった。
取り巻きが多くなればなるほど、それがそのまま無言の圧力団体となる。
使い古された手法だが、この日本では、効果がある。
小沢一郎さんがそうであったかどうかは別とし、だれしも、その胡散(うさん)臭さは感じていたはず。
顔は心の鏡というが、あの顔を見て、小沢一郎さんを、誠実な人と思う人はいない。
今年のはじめ、日本へやってきた、オーストラリアの友人も、そう言っていた。

 で、その結果、民主党内は大混乱。
それが冒頭のMSN・ニュース。
内ゲバが始まりそう、と。

 ……私はこのニュースを読んだとき、日本も北朝鮮も同じと、感じた。
まさに平成の忠臣蔵。
小沢グループは、忠僕心だけで、政治を動かしている。
小沢チルドレンの国会議員たちは、「正義が通った」とはしゃいでいるが、その非現実感。
私たちの庶民感覚とは、完全に遊離している。
ズレている。

 民主党が政権をとると、ゾロゾロと国会議員を引き連れ、中国詣でをした小沢一郎さん。
小沢一郎さんも、小沢一郎さんだが、ついて行く国会議員も国会議員。
それに恥じることもなく、小沢派の国会議員たちは、また同じことを繰り返そうとしている。

 とくに野田首相を支持するわけではないが、今、日本の国家経済は崖っぷちに立たされている。
そんな中、いまだに旧態依然の国盗り物語(=NHKの大河ドラマ)を、国会という場で繰り返している。
その愚かさ。
その浅はかさ。

 ミーンナ、あのNHKの大河ドラマが悪い。
いまだに「織田信長こそが、理想の政治家」と豪語する政治家がいるのには、本当に驚かされる。

●くじら牧場?

 こんなニュースも載っていた。

『イルカの追い込み漁で知られるW県T町で、一部の湾を「くじら牧場」にする構想が持ち上がっている。
湾の入り口を網で仕切り、イルカや小型くじらを「放牧」。
一緒に泳いだり、カヤックで回遊したりしながら、クジラたちと触れ合える海のサファリパークにしたいという。
同町は今後、沿岸管理者の県や湾内の真珠養殖業者らと交渉を進め、5年後をめどに事業化を目指す方針。
水産庁は「こうした試みは他では聞いたことがない」としている』(以上、Yahoo・ニュース)と。

 「くじらは魚」とみるか、「くじらは知的動物」とみるかで、このニュースのとらえ方は大きく変わる。
つまり意識を支える、認識の問題。
恐らく太地町の人たちは、「くじらは魚」とみているのだろう。
だから「くじら牧場」?

 このニュースを読んだとき、即、私は映画『ウィリー(原題:Free Willy)』を思い浮かべた。
ウィリーは、シャチだが、感動的な映画だった。
最後にウィリーは、防波堤を越える大ジャンプをし、海へと逃げていく……。

 映画の話は別として、しかし「くじら牧場」には、どうしても違和感を覚えてしまう。
その必要性があって、そういう牧場を作るのなら、まだ理解できる。
たとえばくじらやイルカの数をふやすために、そうする、とかなど。
が、一方でくじらを殺しながら、他方で、くじらを飼い、それを観光収入につなげる?
そこには人間が原罪的にもつ身勝手さが、見え隠れする(?)。

 そうでなくても、そういう牧場を作れば、反捕鯨国の人たちの神経を逆なですることになる。
なぜ反捕鯨なのか。
捕鯨に反対する国や人たちの意見を、もう少し理解する必要があるのではないか。
でないと、日本は、ますます大きな反感を買うことになる。

 むずかしい話はやめよう。

 くじらを殺してはいけない。
イルカを殺してはいけない。
……とまあ、そういうふうに考える人たちが、「くじら牧場」を作るのなら、まだ理解できる。

くじらやイルカには、未知の部分が多い。
……その研究のためとか、そういうことなら、まだ理解できる。

さらに、くじらやイルカは、知的動物である。
……そういう意識をもっている人たちが、「くじら牧場」を作るのなら、まだ理解できる。

 が、そうでないから、そうでない。
私には理解できない。
言い換えると、今までいろいろな意見を聞いてきた。
たとえば「捕鯨は日本の伝統的文化である」とか、など。
しかし「くじら牧場」ということになると、「ナーンダ、結局は金儲けのためだったのか」ということになってしまう。

 この先、この「構想」がどうなるか、静かに見守りたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 くじら牧場 クジラ牧場 捕鯨 反捕鯨)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年 5月 9日
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【愛とは何か? もう一度、原点に立ち返って考えてみる】 by はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

先日、ある女性の読者(?)の方から、こんなメールをもらった。
「あなたは毎日、いろいろな原稿を書いているが、だれも読んでいない。
無駄なことはやめなさい」と。

が、その女性の読者の方には、たぶん、たいへん残念なことかもしれないが、現在、多くの方に、原稿を読んでもらっている。
アクセス数と読者数は、この世界では分けて考えるが、(というのも、アクセス数イコール、読者数ではないので)、アクセス数だけをあげるなら、毎月50万件を軽く超えている。
カウントに入れていないアクセスを入れると、(というのも、すべてのホームページに、カウンターを置いているわけではないので)、もっと多いかもしれない。

インターネットの世界は不可思議な世界で、そこに読者の方がいるはずなのに、その実感が、まったくない。
ゆいいつの手掛かりは、アクセス数という、無機質な数字のみ。
で、私はその「数字」に励まされながら、(実のところ、自分で自分を励ましながら)、今朝もこうしてエッセーを書き始めた。

もちろんみながみな、私に好意的というわけではない。
冒頭にあげた読者のように、私にかなりの反感を覚えている読者も多いはず。
が、それはそれ。
たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう人たちの反感をいちいち気にしていたら、こうしてエッセーなど書けないし、公開もできない。
私は、私の道を行く。
書きたいことを書く。

……頭がボケ、使い物にならなくなるのも、それほど遠い未来ではないと思う。
事実、東大の薬学部長をしていたM先生(現在、鎌倉市在住)は、すでに家族の顔もわからないほどまでに、ボケてしまった。
あれほどまでに頭脳明晰であった教授でも、そうなる。

明日は我が身。
けっして他人事ではない。
だからこそ、書けるうちに書く。

「はやし浩司はバカ」と思う人も多いかもしれない。

(事実、バカだから、反論のしようがないが……。
あるいはこうして今、書いていることが、いつか、ボケていく人間の見本になるかもしれない。

いつだったか、絵画の世界で、そういう画家が紹介されていたのを、何かの本で読んだことがある。
その画家は、毎年、自画像を描いていた。
が、そのうちアルツハイマー病を発症。
彼の描く絵画は、年々、異様なものになっていった。

文章の世界で、それを私が証明することになるかもしれない。
が、それとて、ひょっとしたら、後世の人の役にたつかもしれない。
「はやし浩司の文章は、~~病とともに、かくのごとく変化していった」とか、など。)

ともあれ今朝は、「愛の原点」について、「憎」とからませ、考えてみる。
たまたま昨夜、床に入ってから、ワイフとそんな話をした。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●二律背反(アンビバレンス)

 愛と憎。
愛が深ければ深いほど、それが転じて、一度、憎になると、その憎も深い。
昔から「愛と憎は紙一重」という。
(正確には、「愛憎は、紙一重」という。)
「可愛さ余って憎さ百倍(かわいさあまってにくさ ひゃくばい)」ともいう。
こうした二律背反の心理は、すでに幼児期に形成される。
その一例が、子どもの側から見た、母子分離不安。

 母親の姿が見えるところ、あるいは母親の存在を近くに感じているときは、穏やかな表情をし、見知らぬ場所でも、探索行動を繰り返すことができる。
が、ひとたび母親がその場からいなくなると、極度の不安状態に置かれ、パニック症状を示す。
たいていは、ギャーッとヒステリックに泣き叫び、母親のあとを追いかけたりする。
反対に、オドオドし、混乱状態になる子どももいる。
前者をプラス型とするなら、後者は、マイナス型ということになる。
数の上では、前者のほうが、圧倒的に多い。

 こうした一連の錯乱的な混乱症状を、母子分離不安という。

●母子分離不安

 母子分離不安は、子どもの側の限度を超えた不安が原因として、起こる。
が、中には、まったくそういった症状を示さない子どももいれば、反対に、母親に対して、暴力的行動を繰り返す子どももいる。

 母児分離不安そのものは、よく見られる症状であり、それが一定の範囲内のものであれば、むしろ好ましい症状と考える。
母子との間に、健常な基本的信頼関係が築かれていれば、どんな子どもでも、一度は経験する症状である。

●3様態

 そこで一般的には、母子分離不安を、つぎの3つに分けて考える。

(1) 母親に対して、まったく情愛行動を示さない子ども。
母親がいても、いなくても、まったく平然とした様子で、見知らぬ場所でも、自分勝手な行動や探索を繰り返す。

(2) 母親の姿が見えなくなったりすると、不安状態になり、母親の後を追いかけたり、ときには混乱状態にはなるものの、再び母親の姿を見たり、近くにいるのを感じたりすると、そのまま静かに落ち着く。

(3)(2)と同じような状況になったとき、極度の不安状態に襲われ、激しく泣いたり、暴れたりする。
   再び母親の姿を見たり、近くにいるのを感じたりしても、興奮状態がそのままつづき、母親に対して、殴る、蹴るなどの暴力的行為を繰り返す。
(以上、参考「心理学用語」(渋谷昌三))。

●ホスピタリズム(施設児)

こうした3つのタイプは、母子間の情愛の深さによって、決まる。
情愛の深さを(1)(2)(3)の3つのタイプにあてはめて考えると、(1)は、情愛そのものが育(はぐく)まれていない。
(2)は、情愛と信頼関係が、健常的に育っている。
(3)は、情愛は健常的に育っているが、基本的信頼関係は、育っていないというように考えられる。

従って(1)のようであることが、かならずしも、よいというわけではない。
親側の育児拒否、冷淡、無視などが日常化すると、母子の間に、十分な情愛が育まれず、(1)のような症状を示すことが多い。
たとえば生後間もなくから、母親の手を離れ、育てられた子どもが、似たような症状を示すことはよく知られている。
ホスピタリズム(施設児)と呼ばれるのもそのひとつだが、さらに近年、「マターナル・デブリべーション(母性的情愛感の欠落)」という言葉も生まれ、問題になっている。

●包丁を投げつける

 ここでは(3)の症状について、考えてみる。
というのも、母子分離不安にかぎらず、子どもの世界では、まさに「愛と憎は紙一重」という現象がよく観察されるからである。
一例として、かんしゃく発作がある。
私の印象に強く残っている事件に、こんなのがある。

 ある日、母親が、真っ青な顔をして、私の教室に飛び込んできた。
そしてこう言った。
「うちの子が、包丁を投げつけます」と。
年長(6歳)の女児だった。

話を聞くと、「ピアノのレッスン」という言葉が、キーワードになっていることがわかった。
母親がその子どもに対し、「ピアノのレッスンをしましょうね」と声をかけた瞬間、子どもは、突発的に錯乱状態になる。

内圧された不安感が、その一言で、一気に爆発すると考えるとわかりやすい。
そのときも母親は、子どもに包丁を投げつけられた。
その様子が、尋常ではなかったため、あわてて母親は私のところへ飛んできた。

似たような現象としては、こんなのもある。

 たとえば、外の世界(幼稚園やおけいこ塾など)では、おとなしく、従順な子どもが、家へ帰ると、まったく別人のように暴れたりする、など。
このばあいも、内面世界に抑圧された不満や不平が、家庭という、弛緩された場所で、爆発すると考えるとわかりやすい。
このタイプの子どもは、外の世界では、「いい子」と評されることが多く、そのつど、それを聞いた母親は、戸惑ったりすることが多い。

これらの症状で共通するのは、母子関係はむしろ良好で、ふつう。
もしくはふつう以上に、心豊かな家庭環境であることが多い。
(かんしゃく発作そのものは、家庭教育の失敗が原因とみる。)
母親がとくに冷淡とか、子どもへの愛情が欠損しているというふうでもない。

●激変する子ども

 が、今度は子どもの側に視点を置いてみると、見方が一変する。
気分が落ち着き、穏やかなときは、ふつうの子ども以上の、やさしい情愛行動を母親に示す。
柔和な笑みと、満足そうな表情。
母親に対する気配りも、忘れない。
私が「一緒に家に帰るときは、お母さんの手をしっかりもってあげてね」などと言うと、素直にそれに従ったりする。

が、そんな子どもが、ときとして突発的に錯乱状態になる。
とたん、その子どもの表情、行動が、激変する。
それこそ、「母親に向かって、包丁を投げつける」ようなことを、平気でする。
が、こうした一連の子どもの心理を分析すると、そこに「愛」と「憎」が、同居しているのがわかる。

●異質の愛

 話は少し脱線する。

 ここで私は「愛」という言葉を使ったが、この言葉を使うときは、慎重でありたい。
というのも、愛といっても、若い人たちがよく使う、「肉欲的な愛」も愛であり、老親の世話をするような、「献身的な愛」も愛。
同じ「愛」という言葉を使う。
が、中身は、まったく異なる。

また最近の脳科学によれば、母親が自分の子どもに対して感ずる「愛」について、それが人格的な裏付けのある愛というよりは、本能的な愛であることがわかってきた。
つまりそこらのイヌやネコでも、その程度の「愛」はある……という範囲での「愛」であるということがわかってきた(失礼!)。

 もう少しわかりやすく説明すると、こうなる。

たとえば赤ん坊の泣き声を聞くと、母親は、(もちろん父親の多くも)、いたたまれないような高揚した気分を味わう。
このとき脳内では、麻薬を得たときに反応する部分が、同じように反応していることがわかった(ベイラー医科大学の研究チーム)※。

(注※……母親の反応)
時事通信、2008年7月13日は、つぎのように伝える。
『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似たような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した』(以上、時事通信)と。
 
つまりこうした本能的な反応まで、「愛」に含めてよいかどうかということについて、私は、疑問に思う。
あるいは、さらに言えば、キリスト教で説く「愛」、仏教で説く「慈悲」とは、区別して考える。

●破滅的な攻撃

 話を戻す。

 子どもはかぎりなく深い愛を、親に求める。
が、その一方で、それが満たされないと、一転、破滅的な方法を用いて、母親を攻撃する。
ふつうの攻撃の仕方でないことは、先にも書いた。
まさに相手を、「殺す」、もしくは、「相手が死んでも構わない」というような様子で、相手を攻撃する。
その様子が、あまりにもふつうでなかったため、母親はあわてて、私のところへ飛んできた。

●アンビバレンス(二律背反)

 が、こうした不可解な子どもの行動も、こう考えると、理解できるようになる。

 つまり本能的な「愛」というのは、それ自体が、「憎」を含むものであるということ。
フロイト流に考えるなら、リビドー(性的エネルギー)と、サナトス(破滅エネルギー)ということになる。
ひとつの心理状態があるとするなら、それと対立的に、相反した心理状態があるという考え方である。
フロイトは、こうした二律背反した人間の心理を、「アンビバレンス(二律背反)」と名づけた。
これもわかりやすく説明すれば、(相手を自分に同化させたい)という欲求そのものが、(というのも、それはもともと不可能なことであるため)、その子どもの内部で、はげしく葛藤すると考えると、わかりやすい。

 もちろん、こうした現象は、子どもだけのものではない。
おとな、とくに精神的に未熟なおとなの世界でも、よく観察される。
わかりやすい例として、ストーカー行為を繰り返す、ストーカーがいる。
自分勝手な思い込みだけで、相手を、無理やり、自分の心と同化させようとする。

結論的に言い換えると、そもそも「憎」をともなう「愛」などというものは、キリスト教で説く「愛」、あるいは仏教で説く「慈悲」とは、まったく異質のものであるということ。

さらに言えば、発達心理学の世界でも、「愛着行為」というように、「愛」という言葉を使うが、それは愛でも何でもないということ。

(ただし英語では、「愛着行為」を、「Attachment」と言い、「愛」という言葉を使っていない。)

●親友夫婦

 とはいえ、「愛」は、常に「憎」を伴う。
男女の間であれば、年齢には、関係ない。
というのも、もともと男女の間では、肉欲的な愛が基本になり、その関係が始まる。
夫婦でも、「友だち夫婦」もしくは「親友夫婦」と言えるほどまで、その関係を昇華するのは、並大抵の苦労では、できない。
というか、幾多の苦楽を共にしたあと、やがてそういう境地に達することができる。
そうでなければ、そうでない。
つまり共にできなければ、その段階で、関係は、終焉する。

●憎

 そこで私は自分の心の内部を見つめなおしてみる。
現在、時刻は午前6:42。
ワイフは、まだ床の中で眠っている。
すっかりバーさん顔になってしまった。
そういうワイフに対して感じている「愛」は、本物か、と。

 答は、残念ながら、「NO」ということになる。
たとえば何かのことで、言い争いになったりすると、私はワイフに対して、明らかに憎しみを覚える。
一方、ワイフは、ワイフで、私に憎しみを覚えるという。
このことは、昨夜、眠る前に、ワイフにそう確かめたから、知っている。

「お前は、ぼくと喧嘩すると、極端に冷たくなるが、ぼくを憎んでいるからか」と聞くと、ワイフは、それをあっさりと認めた。
「そうね、そういうとき、あなたも私も、別人になったように感ずる」と。

つまり「憎」を覚えるようであれば、仮に何十年、いっしょに生活をしてきたとしても、たがいの間には「愛」はないということになる。
あるいは、それは「不完全な愛」と考えてよい。

●愛と憎は紙一重

 こうして今朝、私は、「愛」と「憎」について、ひとつの結論を出すことができる。
昔から、『愛と憎は、紙一重』という。
しかしこの諺の中で説く「愛」は、愛ではない。
それがたとえ子どもに向けられたものであっても、愛ではない。
本能的な、つまりは肉欲的な愛に過ぎない。

 同時にもちろん、母親に向けられたものであっても、それは愛ではない。
そもそもの誤解のもとは、同じ「愛」という言葉を使うところにある。
それが混乱を招く。
だからたとえば、『愛と憎は、紙一重』にしても、本来なら、『肉欲と憎は、紙一重』と言うべき。
子どもの「愛着行為」にしても、「欲着行為」と言い換えたらよい。
母子の間で見せる、あの情愛行動にしても、「情欲行動」と言い換えたらよい。

 それが今朝の、このエッセーの結論ということになる。

●付記
 
 愛というのは、それ自体が深遠なもの。
静かで、音もなく、その人を包む。
同時に、人を愛するというのは、苦しい。
苦しさを伴わない愛など、存在しない。

 よく若い男女が、「愛している」「愛されている」などという言葉を使う。
しかしそんなものは、愛でも何でもない。
ただの「情欲」。
情欲であることは、テレビのバラエティ番組に出てくる男女を見ていれば、わかる。
見るからに軽薄そうな男女でも、平気で、「愛」という言葉を使う。

 同時に、若い母親や父親が、自分の子どもに対して、「愛している」と言うときも、まずそれを疑ってみたほうがよい。
発達心理学の世界には、「代償的過保護」という言葉もある。

 過保護もどきの過保護と考えればよい。

 ふつう「過保護」というときは、その底流に、親の深い、子どもへの(慈しみ)がある。
(思いやりの心)と言い換えてもよい。
が、代償的過保護というときには、それがない。
自分の子どもを自分の支配下に置き、自分の思い通りに子どもを動かそうとする。
自分の果たせなかった夢や希望を、子どもを利用して、実現させようとする。
(だからといって、子育てに夢や希望をもつことは悪いことではない。誤解のないように!)

よい例が、子どもの受験競争に狂奔する父親や母親。
「子どものため」と思ってそうするが、何も子どものためになっていない。
自分の身勝手な価値観を、子どもに押しつけているだけ。

 それを代償的過保護という。

 さらに私は、最近、「タイタニック・シンドローム(症候群)」という言葉を考えた。

●タイタニック・シンドローム

 あの『タイタニック』という映画が、今度は3D版になって、復活するという。
近く劇場で、公開される。

 が、私はしばらくは、3D映画は見ない。
とくにタイタニックのような長時間の大作は、目によくない。
そのことを、数日前、『スターウォーズ』を見て、知った。
途中で目が痛くなるほど、目が疲れた。
ああした動きの速い3D映画を、長時間見るのは、たいへん危険なことでもある。

 それはさておき、あの映画『タイタニック』を見て、それが人として、あるべき原点と錯覚した人は、多いと思う。
あるいはそこに(人生の理想形)があると錯覚した人は、多いと思う。
だからというわけでもないが、最近の若い人たちの傾向として、ひとつ、気になることがある。

 「恋愛こそ、すべて」という価値観である。
(だからといって、恋愛を否定しているのではない。誤解のないように!)

 恋愛イコール、結婚……と突っ走ってしまう人は多い。
しかしたいていの恋愛は、熱病のようなもの。
うたかたの夢。
さらに言えば、脳内ホルモン(フェニルエチルアミン)のなせる業(わざ)。
そこらのイヌやネコでもしているようなことをしながら、それがすべての価値にまさる「愛」と思い込んでしまう。
平たく言えば、裸でベッドの上で、転げまわっているだけ。
それを称して「愛」と。

 こうした一連の、錯覚現象を、私は「タイタニック・シンドローム」と呼んでいる。

●退いた視点

 さて、子育て。
「私は子どもを愛している」と思うのは、その人の勝手。
(私はそれを否定しているのでは、ない。誤解のないように!)
若いときの、体が燃えつくすような情熱とSxx。
それが「愛」と思うのは、その人の勝手。
(私はそれを否定しているにでは、ない。誤解のないように!)

 が、何ごとにも、節度と限度というものがある。
その節度と限度を超えたとき、溺愛になる。
過干渉も過保護も、さらには過関心も、それに含まれる。

 では、どうするか?

子育ては、いつも一歩退いた視点で、する。
見つめる。
ちょうど自分を、自分とは離れた視点で客観的にながめるように、子育てもまた客観的にながめる。
その作法を誤ると、結局は、子どもの心のみならず、自分の心さえも見失ってしまう。
そのひとつの例として、今朝は、「母子分離不安」をテーマにして、考えてみた。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 母子分離不安 アンビバレンス アンビバレント症候群 二律背反 はやし浩司 愛と憎 愛憎 本能的な愛 愛着行動 アッタチメント はやし浩司 attachment ボウルビィ 子どもの情愛 はやし浩司 情愛行動)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

マターナル・デブリベーションとホスピタリズム
について、以前書いた原稿を添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●マターナル・デブリベーション(母子関係不全症候群)

+++++++++++++++++++

 乳幼児期の母子関係の不全。
それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
とくに母子関係にあるべき情愛の欠如を、「マターナル・デブリベーション」という。

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。

また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、8~10%いる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

 その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるにつれて、自分より弱い者をいじめたり、自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

 さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

 もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デブリエイションが原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

++++++++++++++++++

●心の葛藤

 母子関係に悩み、葛藤している人は多い。
「親子だから……」「母親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないものはない。
またそういう前提で、この問題を考えてはいけない。
現在、人知れず、母親との関係に苦しんでいる人は多い。

++++++以下、2チャンネル投稿記事より転載+++++++

●症状(1)

【主訴、症状】自分が無価値、無意味だと思う。
漠然と怖い。
超泣く。
所構わず突発的に。
睡眠障害(眠剤入れても3時間で目覚める) 。
母親が死ぬほど怖いし憎い(毒親で現在距離置き中) 。

【その他質問、追加事項】

抑うつ(っぽいと言われましたが病名はまだ)、過食嘔吐です。
大学に入るまでずっと抑圧された優等生でいざるをえなくて、それでも母親に否定され続けた。

反抗期も持てなく、完璧でないと思っている。
結婚したいヒトがいると言ったら、「これ以上親を不幸にするな」と言われた。
そこらへんくらいから将来を考えると不安になる(ネガティブな未来ばかりを想像して)ようになり 年末に仕事を失敗してから、仕事を拠り所にしていたことだろうことから(カウンセラーの言葉)自分の存在が0になったと思い、全く身動きが取れなくなりました。

●症状(2)

【主訴、症状】引き篭もり。対人恐怖症。大声や物音に敏感で、緊張・恐怖・混乱・不安等を感じます。電話に出たり、ひとりで外出できません。

母親からのモラハラと肉体的暴力、学校での虐め、母親の再婚先での連れ子虐待等から立ち直れません。フラッシュバックがよく起きます。

常に焦燥感があります。落ち着きや集中力や記憶力がなく頻繁に苛々しやすい。無心で喋り続ける妙な癖のようなものがある。

「死にたい」というよりも、寧ろ母親が憎くて殺したいと思っています。母親が死ねば解放されると信じていたりして、自分でもマズイと思ってます。

普通の悪夢もありますが、憎い人間を殺す夢を見ることが多いです。
中学生の頃より酷くはないですが、フラッシュバックで気持ちが悪くなり、泣き喚いたりヒスっぽい奇声を発することもあります。これはごく稀です。

++++++以上、2チャンネル投稿記事より転載(原文のまま)+++++++

●母子関係の重要性

 乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。

 基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対して、心が開くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)

 が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、アマラ、カマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)

 さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と思いこむ習性がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。

 が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗する。

●ホスピタリズム(施設病)

 生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、独特の症状が現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」※という。

(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではない。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わってきた。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになっている。)

 ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。

ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、それを末尾に添付しておく。
 
 マターナル・デブリエイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるにつれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐待したりするようになる。

 さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかってきた。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこされたが、最後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという。
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。

(注※……ホスピタリズム)

「心理学用語」(渋谷昌三)P192によれば、ホスピタリズムについて、つぎの1項目の症状をあげる。

(1) 身体発育の不良
(2) 知能の発達の遅れ
(3) 情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4) 社会的発達の遅滞
(5) 神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、夜泣き、かんしゃくなど)
(6) 睡眠不良
(7) 協調性の欠如
(8) 自発性の欠如と依存性
(9) 攻撃的傾向
(10)逃避的傾向
(以上、「心理学」より)。

●いじめの問題

 このマターナル・デブリエイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)について、少し書いてみる。

 先に、「年齢を重ねるにつれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐待したりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児~年長児(4~6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわかる。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかうっとりとした表情を示す。
全体の7~8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子どももいる。

(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないように!)

しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持することができる。

 もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れておく必要がある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。

 反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子どもがいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、いつも満足げでおっとりした様子を示す。

人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに関していえば、いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。

●「私」はどうか?

 こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて回る。
 「マターナル・デブリベーションという問題があるのは、わかった。
では、私はどうなのか?」と。

 この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは難しい。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
が、自分ではそれをふつうと思い込む。
私はやさしいとか、冷たいとか、客観的に判断できる人は、ふつうの世界では、いない。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。

 言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。

 そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。

 そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたかもしれない。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。

 そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があって、そうしていただけにすぎないということになる。

 ……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、この「マターナル・デブリベーション」の問題を考えてみたらよい。

 そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。

「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、それとも「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。

 もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性が高い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。

●では、どうするか

 心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろうか。

私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易なことではない。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうということもある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。

 この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。

 さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温もりに関しているという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン(エンドロフィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)

●まず「私」を知る

 が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。

 たとえばホームレスの人が路上で寝ていたとする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。

 たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。

 いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。

 「マターナル・デブリエイション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

日付は、2008年7月となっています。
古い原稿ですが、そのまま掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考原稿)【自立と自律】(N小学校、分科会、レジュメ)

●自立と依存

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自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。

一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、相互作用がある。

一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。

たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。

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たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。

「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしています。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。

ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。

M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。

が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えてはいけない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがちだが……。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。

これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。

親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依存性が強くなる。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。

「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、ママ」と自分に甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。

あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。

ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い物など、雑務のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。

一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってください」という相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。

だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければならない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はない。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。

そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、親自身が自立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。

さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜文化圏の民族は、自立心が旺盛と考えてよい。

ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもないようだ。

オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。

「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由のひとつにもなっている」と。

●自立と自律

自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、セルフ・コントロールの問題ということになる。

さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつの大切なバロメーターにもなっている。

自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。

その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわかってきた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができなくなると言われている。)

さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。

++++++++++++++++

それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。
2002年11月に書いた原稿です。

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●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。
それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。
たとえば、私の家には二匹の犬がいる。
一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。
これをA犬とする。
もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。
生後二か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。
いつも人の顔色ばかりうかがっている。
私の家に来て、一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。
愛想はいいが、決して心を許さない。
その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。
そして腹が減るまで、戻ってこない。
もちろん番犬にはならない。
見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。
寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そべっている。
庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。
おかげで植木鉢は全滅。
小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。
しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。
見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。
いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わらないということ。
A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。
心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。
一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っている。
だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。
つまり人間を信頼している。
幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。
人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。
このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。
感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。
相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。
一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。
許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。
「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそれだけではなさそうだ。
相手の心に取り入るのがうまい。
相手が喜ぶように、自分をごまかす。
茶化す。
そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。
当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそうだった。
親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。
……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。

他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。
「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。
私が私であって、私でない部分だ。
私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。
家庭崩壊、家庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。
しかしそれが問題ではない。
問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。
そして同じ失敗を繰り返す。
それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。
心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。
私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるようになった。
「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。
そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。
そこに教育の本当のおもしろさがある。
あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02-11-7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の過去をのぞいてみよう。
何かがあるはずである。
問題はそういう過去があるということではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。
またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。
あとは時間の問題。

++++++++++++++++

心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
子供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マターナルデブリエイション マターナル・デブリエイション 母子関係 母性愛の欠落 ホスピタリズム はやし浩司 ホスピタリズム 症状 長畑 施設病 人間性の欠落 臨界期 敏感期 刷り込み 保護と依存 子どもの依存性 幼児期前期 自律期 幼児期後期 自立期)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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2012年4月27日金曜日

Is Ichiro Ozawa innocent?

●4月26日(はやし浩司 2012-04-26)

【ケシの花を育てる教育と、ケシの花】

Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●新年中児(4歳児)のみなさんと、新小3児のみなさんを紹介します。

【新年中児(4歳児)】

今回も「声を出す」をテーマにしました。
数と文字を交互に教えました。



【新小3児+2児】

組み合わせと場合の数について教えました。
楽に理解してくれました。
こうして指導をしてみると、(子どもたちの求める教育)と、(国が「教育」として与える教育)の間には、大きなギャップがあるのがわかります。
いくら口で説明してもわかってもらえませんので、こうして自分で実践し、YOUTUBEにUPしています。




Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●小沢さんの無罪判決

 無罪判決?
予想どおりの判決。
有罪でも、記述違反程度の微罪。
私はそうみていた。

 が、肝心の4億円の出所は、最後までわからずじまい。
闇の奥に葬られたまま。
こんな裁判で、こんな判決が出たところで、国民は納得しない。
言うまでもなく、小沢さんは4億円の出所について、2度、説明を変えている。

最初は、銀行融資。
それがウソとバレると、今度は政治献金。
が、それもマズイとわかると、最後は、タンス預金。
贈収賄事件から、記述違反事件。
いつの間にか、記述違反事件?
当の本人は、「私は秘書たちにすべてを任せていたから、何も知らない」と。

 今回争点となったのは、(1)2004年10月に、陸山会から、不動産会社に支払われた代金(3・5億円)の記載。
それが報告書では、2005年になっていた。
もうひとつは(2)2007年に陸山会から小沢さんに変換された4億円。
こちらのほうは、記載漏れ?

 これらの一連の現金の流れは、結局は、小沢さんから、陸山会への現金の流れ(2004年)を隠ぺいするものではなかったのか。
さらに言えば、建設会社からのワイロを、隠ぺいするものではなかったのか※(1)。
だれしもそう疑う。
それが裁判になった。

 それが2011年9月の判決。
当時の裁判官は、石川議員ら、元秘書に対して有罪判決をくだしている。
いわく「建設会社からもらった裏金を隠すためだった」(裁判記録)と。
3人は無罪を主張し、即日控訴している。

 もしそうなら、真っ先に秘書たちのクビを切ればよい。
切っただけではすまない。
これほどまでの疑獄事件として、世間を騒がせた責任は、すべてその秘書たちにある。
あるいは相手の建設会社を訴えればよい。
たいへんな、えん罪事件である。
少なくとも、私なら、そうする。
が、それはしない。
なぜか?
どうして?
無罪は無罪でも、何からなにまで、疑惑だらけの判決。

 これに対して、小沢さんは、判決に対して涙まで流し、それを喜んだという。

 ……この結果は、つぎの総選挙で出る。
その前に民主党の支持率は、さらにさがる。
我ら浮動票層は、黙っていない。

(以上、参考文献……「時事用語」(新星出版社))

注※(1)(以下、2011年10月に書いた原稿より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●小沢一郎氏vs司法

 小沢一郎氏が今回の裁判についての結果を、批判している。
自分の3人の部下が、有罪になった。
罪状は、「資金管理団体をめぐる政治資金規正法違反」。
それについて「民主主義の世界では、考えられないこと」※(2)と。

 3人の部下が有罪になったことで、小沢一郎氏は、かなり不利な立場に立たされる。
それはわかるが、行政府を構成する実質的な支配者である小沢一郎氏が、個人的立場であるにせよ、司法を批判するのは、許されない。
三権分立の精神に、まっこうから違背する。

 で、今回、「金(マネー)の出口」が、裁判所で争われた。
が、本当の問題は、「金(マネー)の入り口」。
4億円という現金である。
それがどういう経路を経て、小沢一郎氏の懐(ふところ)に入ったか。

(うち1億円については、贈賄側の土建業者が、それを認めている※(3)。
一方、小沢一郎氏は、「タンス預金をしていた、そのお金」と弁明している。)

私たちは、それを問題にしているし、それを知りたい。
つまり金(マネー)の出所。

 さらに言えば、「本当に4億円だけだったのか」という疑問も残る。
一連の流れからすると、「4億円どころではなかった」と、私は推測する※(4)。
が、もしそうなら、それこそ「民主主義の世界では、考えられないこと」ということになる。
今回の判決について、裁判官は、つぎのように断じている。

「……小沢事務所は談合を前提とする公共工事の本命業者の選定に強い影響力があり、影響力を背景に公共工事の受注を希望する企業に多額の献金を行わせていた。
規正法の規制の下で、引き続き企業からの多額の献金を得るため、他人名義の寄付を受け、報告書上、明らかにならないよう虚偽記入した」(判決要旨より)と。

注※(2)「大変びっくりした。何の証拠もないのに推測に基づいて決めてしまうのは民主主義国家では考えられない」と批判した」(Yahoo News)と。

注※(3)当時の水谷建設社長は胆沢ダム建設工事の受注に絡み、大久保被告の要求に応じて、04年10月に5千万円を石川被告に、05年4月に同額を大久保被告に手渡したと証言している。

なお政治評論家のは、MSN・NEWSの中で、つぎのように書いている。

注※(4)『…… 誰もが不審に思う一つが、土地の「確認書」問題である。2007年2月、小沢氏は、自分が所有する13の土地、建物について釈明の記者会見を行った。
中に、今回の裁判で争点となった世田谷の4億円の土地が入っている。

 小沢氏は「土地の名義は小沢一郎になっているが、実際は政治団体、陸山会の所有物である」と釈明し、政治団体で登記できないから小沢名義にした証しとして、「確認書」を示した。
であれば、登記した日に確認書を作成すべきなのに、6件の確認書は後で同じ日に書かれたと判明する。

 それが、今回の裁判でいつの間にか、4億円の土地は自己資金で買ったから問題ないという話にすり替わっている。

自己資金なら、なぜ確認書の公表という大芝居を打つ必要があったのか。
あれから5年たつが、小沢氏はこの点に関し一度も説明していない』(MSN・2012年4月26日)と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言論の自由

 日本に言論の自由があるというのは、ウソ。
……というか、一応は、保証されている。
が、それ以上に、金と権力によって、マイナーな意見を圧殺してしまう。
方法は簡単。
その反対意見を大きくする。
自分たちの主張を大きくする。
結果として、マイナーな意見を圧殺する。

 よい例が、一連の原子力行政。
中にはその危険性を見抜き、反対した人もいるかもしれない。
が、そういう人の意見は、巨大なブルドーザーを前にした、小枝のようなもの。
もとから勝ち目はない。
声をあげても、身を寄せあう人さえ見つからない。

 だから黙る。
黙って、あきらめる。
金と権力のない者は、この日本では、ただひたすら静かにしているよりほかに、生きる道はない。


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●教育で作られる心(ケシの花)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ヤフーNEWSに、こんな興味深い記事が載っていた。
ここに書いてあることは、30年前、40年前の日本。
そして現在の今の今も、それはつづいている。
あるいは「今」が、その結果と、読めなくもない。

反省の意味もこめ、熟読したい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

++++++++++++++以下、YAHOO NEWSより++++++++++++++

今の中国は汚職に溢れ、たたけばたたくほど埃(ほこり)が出てくる。
将来の夢を「官僚になって汚職する」と答える小学生がいるほど、中国では汚職がまん延し、社会への影響が大きいといえる。

この現状に対し、銭教授は「北京大学を含む中国の大学は今、利己主義者を生み出す元凶となっている。
彼らは知性が高く、世俗的で、世渡りがうまい。
このような人間が権力を持ってしまうと、とてつもない汚職が行われる。
われわれの教育体制は今このような有毒なケシの花を育てているのだ」と、鋭く指摘した。
2012/04/25ヤフーNEWS

++++++++++++++以上、YAHOO NEWSより++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 汚職 教育 はやし浩司 ケシの花)2012/04/27記


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

2012年4月26日木曜日

*Why do the Japanese look like monkeys?

【今朝の発見】(はやし浩司 2012-04-26)

●目つき

 先日、電車に乗ったときのこと。
前の席に座った女性が、少し変わった動き方をしていた。
年齢は60歳くらいだっただろうか。
落ち着かない動き方だった。
動作が小刻みに動き、そのつど顔がキョロキョロと動いた。
それがちょうど、動物園で見る猿の様子に、そっくりだった。

 その瞬間、欧米人の言葉が、思い浮かんだ。
欧米人は日本人をさして、よくこう言う。
「ジャパニーズ・モンキー(Japanese Monkey)」と。
失礼な言い方だが、その理由がわかった。

 そこで、私はその女性の動きを観察した。
「どこが、どうちがうのだろう?」と。

 結果、つぎのことがわかった。

(1)たとえば左右・上下を見るとき、眼球を動かさない。
(2)眼球を動かさないで、顔(頭蓋骨)を動かす。
(3)そのため、顔の動きが、キョロキョロしたものになる、と。

 一方、欧米人は、顔(頭蓋骨)を、比較的、動かさない。
目が大きいこともある(?)。
それとも遊牧民族の特徴(?)。
左右を見るときも、先に眼球を動かす。
顔(頭蓋骨)を、あまり動かさない。
そのつど動作(顔)を、ピタッ、ピタッと止める。
わずかなちがいなのだろうが、それが連続的につづく。
それが日本人と欧米人のちがいとなって現れる。

 ……と、ここまでは、以前にも書いた。
そこでここではもう一歩、話を進める。

●中国人のばあい

 中国とか朝鮮の人の特徴として、目つきが鋭いということがある。
キロッ、キロッと、目が動く。
「ギロッ」に近い。
形のことを書いているのではない。
動きが鋭い。

 そこで数日前のこと。
駅前にある中華料理店へ入ったとき、私たち日本人とどこがどうちがうかを観察してみた。
その店では、4~6人の中国人たちが働いている。
全員、北京周辺から来た人たちという。

 結果、つぎのことがわかった。

(1)たとえば右の方を見るとき、まず眼球を固定したまま、顔(頭蓋骨)を鋭く右に向ける。
(2)見たい方向の半分くらいまで動かす。
(たとえば60度、右の方を見たいときは、30度分ほどは、顔(頭蓋骨)を動かす。)
(3)その状態で、つまり顔(頭蓋骨)を固定し、今度は眼球だけを、さらに右へ動かす。
(つまり残り30度分ほどは、今度は眼球だけを動かす。)
(4)そのとき眼球を目尻いっぱいまで、やや上方に向かって動かす。

 つまり2段構えの動かし方をする。
半分を顔(頭蓋骨)で動かし、つづいて眼球だけをさらに動かし、左右・上下を見る。
そのとき眼球をやや上方へ動かす。
そのため日本人の私たちには、目つきが鋭く見える。

 「どうしてあんな器用な動かし方ができるのだろう?」と思った。
ためしに私もあとでまねてみたが、これが結構、むずかしい。
(あなたもここに書いたことを参考に、一度、まねてみるとよい。)
が、彼らにしてみれば、何でもない。
生まれたときから、祖父母→両親から、それを見習っている。

 ……民族によって、動作、表情は微妙にちがう。
日本人がよいとか、欧米人がよいとか、中国人や韓国人がよいとか、(あるいはその反対に、おかしいとか書いているのではない。誤解のないように!)、そういうことではない。
たとえばここに書いたように、目つきも、民族によってちがうということ。
私が知るかぎり、こんなことを調べたのは、私が最初かと思う。
(気づいたのも、私が最初かと思う。)

 この世界には、まだまだ未知なことも多い……ということで、「目つき」について書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 目つき 視線 動作 仕草 しぐさ はやし浩司 眼球の動かし方 民族性)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●進歩と借金

 朝食のとき、私はそれまでパソコン雑誌に目を通していた。
この世界は、まさに日進月歩。
今度は、WINDOW8!
目まぐるしく変わっていく。

 で、その雑誌を見ながら、こう思った。
「どうしてコンピューターと無縁の人も多いのだろう?」と。
今ではコンピューターは、万人の必需品。
少なくとも、コンピューターの世界で生きている人は、そう思っている。

 が、その一方で、私の知人の中には、コンピューターはいっさい、使わないという人がいる。
触ろうとすらしない。
年齢的には、60~65歳以上ということになる。

不動産会社を経営している友人などは、資料などは、すべて一度、プリントアウトさせ、それを読んでいる。
理由を聞くと、「あんなのは、(女性)事務員の仕事だよ」と。

 さらに恐ろしい人になると、コンピューターそのものを魔物扱いしている。
コンピューターを扱っている人を、変人扱いしている。

 が、問題は、どうしてこういう(ちがい)が生まれるかということ。

●『借金vsコンピューター論』

 そのことが朝食のとき、ワイフと話題になった。
「どうしてだろうね?」と。

 するとワイフが端的に、こう説明した。
「進歩が速すぎて、ついていけないのよ」と。

 ナルホド!

私「そう言われてみれば、そうだね」
ワ「それにね、50歳も過ぎるとね、覚えるよりも先に、忘れることのほうが多いから」
私「それもそうだね」
ワ「アタフタしているうちに、遠ざかってしまうのよ」と。

 ワイフだってそうだ。
パソコンが不調になっても、自分では直せない。
してもメールのやり取りと、決まったHPの閲覧だけ。
あとのことは、ナ~ニモ知らなくても、困ることはない。

 つまりこうして二極化が進む。

 どんどんと進歩を追いかける人と、どんどんとパソコンから遠ざかっていく人。
進歩を追いかけるためには、月2~3冊の雑誌は読まねばならない。
「進歩」イコール、「学習」と考えてよい。
しかもその学習には、苦痛が伴ってはいけない。
楽しむ。
楽しんで、進歩を追いかける。

私「借金と同じだね」
ワ「どういうこと?」
私「金儲けも、攻めのときは、楽しんでそれができる。でもね、一度守勢に守ると、金儲けも、とたんに苦しくなる」
ワ「借金取りに追いかけられたら、仕事も手につかなくなるわね」
私「そう、それと同じ」と

 称して『借金vsコンピューター論』ということになる。
つまり、前向きにコンピューターの世界をのみ込んでそれを使えば、よし。
そうでなければ、そうでない。
一度「遅れた」と感じたとたん、後方にはじき飛ばされてしまう。

 で、そういう人ほど、自分の心を合理化するため、「魔物」とか「変人」とかいう言葉を使う。


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年 5月 4日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●小1,2年生に、「時速」と「距離」を教えてみる。

少し意気込んで・・・小学1年生と2年生に、「時速」と「距離」を教えてみました。
結果は、「まだ理解できないな」という印象をもちました。
こうしたレッスンは、教える側の私が、かなり意気込まなければ、失敗します。
が、その私は、この日花粉症がひどくで、たいへん調子が悪かったです。
それに薬のせいか、眠くてたまりませでした。
4月にもう一度、教えてみます。

I teach here in the video, Km.p.h. to children of Age 6,7,&8. Hiroshi Hayashi Hamamatsu Japan 2012




Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【仮面をかぶる、親と子】

●仮面親子

「仮面夫婦」という言葉がある。
表面(おもてづら)だけは、何とか、取り繕っている。
見た目には、仲のよい夫婦。
しかし互いの心は、バラバラ。
いちばんの特徴は、互いの悲しみや苦しみを、共有できないということ。
いざというときに、顔をそむけてしまう。

 夫が息子たちと言い争いになった。
一方的に、息子が夫に向かい、はげしい暴言を吐いた。
そのときのこと。
何かの拍子に、息子が、夫(息子の父親)の胸ぐらをつかんだ。
つかんで、片方の手で、夫を殴ろうとした。

が、その妻(息子の母親)は、それを止めようとしなかったばかりか、立ったまま、それを上から見ていた。
顔には、意味のわからない笑みまで浮かべていた。

 あとで夫がそのことで、妻に問いただすと、妻は、平然とこう答えたという。
「本当に殴るとは思っていなかったから……」と。

 さらにこんなことも。

 ある日、何気なく、夫が妻にこう聞いたという。
「お前は、ぼくのことを愛してないだろ」と言うかわりに、「ぼくは、お前のことを愛していると思うか」と。
そう聞いた。
すかさず、妻は、こう答えたという。
「あなたは、私を愛していないわ」と。

 こういうのを心理学では、「投影」という言葉を使って説明する。
つまり自分の心を相手に、そのまま投影※させる。
「私があなたを嫌っているのは、あなたが私を嫌っているから」と。

 自分の中の好ましくない評価を、それを相手のせいにして、自分を正当化する。
その妻は、子どものころから、心を開けない女性だったよう。
それもあって、夫にすら、心を開くことはなかった。
が、自分がそうであるのは、「夫が悪いから」と。

 つまり妻は、「自分が夫を愛していない」とは言えなかった。
それで「あなたは私を愛していない」という言い方で、自分の心を表現した。

(注※……投影)
 『自分のもっている不都合な欲求や、好ましくない事象を、他人に転嫁すること。被害者意識の強い人は、投影をよく使います』(心理学用語・渋谷昌三)と。

 同じように、「仮面親子」というのがいる。
「仮面夫婦」というのは、よく論じられる。
しかし「仮面親子」というのは、あまり話題にならない。
「仮面親子」という言葉そのものは、あちこちで使われている。
が、アカデミックな意味では、あまり話題にならない。
数は、かなり多いと思われるのだが……。

●仮面親子

 見るからに母親は、子ども思いのよい人に見える。
子どもの世話も、よくしている。
やさしそうで、穏やか。
教養もあり、話し方も知的。

 が、子どもの評価は、まったく、違う。
母親のことを、「鬼ババ」と言う。

 最初、H子さん(小4)が、そう言ったとき、私は、冗談かと思った。
それでフフフと笑い、相手にしなかった。
とたん、H子さんが、キレた。
プリントに書き始めていた答を、鉛筆で、ゴシゴシと塗りつぶし、そのまま紙に穴をあけてしまった。

 しばらくしてから、こう聞いた。

私「おうちで、いちばん、こわいのはだれかな?」
H「お母さん……」
私「どうして?」
H「勉強しないと、私を叩く……」
私「叩くの?」
H「テストで悪い点を取ってくると、私を叩く……」と。

 母親の気持ちはともかくも、H子さんの心は、完全に母親から離れていた。
が、母親自身は、それに気づいていない。
こういうケースは、多い。
称して、「仮面親子」。

 その「仮面親子」と言えば、最初に思いつくのが、イプセンの『人形の家』。
主人公のノーラは、いい子ぶることで、少女時代を過ごす。
つまり仮面をかぶったまま、少女時代を過ごす。
「私は人形子でした」と。

 そしてその状態は、結婚してからも、つづく。
今度は、夫の前で、いい妻を演ずる。
が、やがてそれも限界にくる。

 ある日、ノーラは、夫のもとを去る。
そのときはじめてノーラは、仮面を脱ぎ去ることができた(?)……というところで、物語は、終わる。

●故郷

 仮面をかぶったまま、「いい子」を演ずる。
が、親には、それがわからない。
わからないから、「うちの子はいい子」と思い込む。
思い込んだまま、子どもの心を見失う。
子どもの心が、まったく別の方向を向いているのに、気づかない。

 私にも、こんな経験がある。

 ……私は中学校へ入るころから、あの郷里の美濃の町が嫌いだった。
息苦しく、自分の居場所すらなかった。
だからいつも、こう考えていた。
「おとなになったら、この家を出よう」と。

 しかしある日、それは私が高校生くらいになってからのことではなかったかと思うが、母が、こう言った。
「ここは、お前の故郷(ふるさと)だからな」と。
私はその言葉に、心底、ぞっとした。
美濃の町を、「故郷」という思いで、ながめたことは、それまでにも、一度もなかった。
それで、ぞっとした。

 母は母だったが、私の心の奥底を、まったく理解していなかった。
(今から思うと、それもしかたのないことだったかもしれないが……。)

 もし今、あなたがこう思っているとしたら、それはどうかな?

「私は子どもを愛している。
人一倍、愛している。
私と子どもの絆は、太い。
子どももまた、私の愛を理解してくれている。
私たちは、すばらしい親子だ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●離れる子どもの心

●心の別室論(Another Room in the Mind)

人間には、自分にとって都合の悪いことがあると、心の中に別室を作り、そこへ押し込めてしまうという習性がある。

心理学では、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
「心の平穏を守るために自らを防衛する機能」という意味で、「防衛機制」のひとつと考えられている。

その防衛機制は、つぎの7つに大別される。

(1) 抑圧
(2) 昇華
(3) 同一化
(4) 投射
(5) 反動形成
(6) 合理化
(7) 白日夢(以上、深堀元文「心理学のすべて」)

 この中でも、「不安や恐怖、罪悪感などを呼び起こすような欲求、記憶などを無意識の中に閉じ込め、意識にのぼってこないようにする」(同書)を、「抑圧」という。

つまり心の別室の中に、それを閉じ込め、外からカギをかけてしまう。
よく「加害者は害を与えたことを忘れやすく、被害者は害を受けたことをいつまでも覚えている」と言われる。

(そう言っているのは、私だが……。)

この「加害者は害を与えたことを忘れやすい」という部分、つまり都合の悪いことは忘れやすいという心理的現象は、この「抑圧」という言葉で、説明できる。

が、実際には、(忘れる)のではない。
ここにも書いたように、心の別室を作り、そこへそれを押し込んでしまう。
こうした心理的現象は、日常的によく経験する。

 たとえば教育の世界では、「おとなしい子どもほど、心配」「がまん強い子どもほど、心配」「従順な子どもほど、心配」などなど、いろいろ言われる。
さらに言えば、「ものわかりのよい、よい子ほど、心配」となる。
このタイプの子どもは、本来の自分を、心の別室に押し込んでしまう。
その上で、別の人間を演ずる。
演ずるという意識がないまま、演ずる。
が、その分だけ、心をゆがめやすい。

 これはほんの一例だが、思春期にはげしい家庭内暴力を起こす子どもがいる。
ふつうの家庭内暴力ではない。
「殺してやる!」「殺される!」の大乱闘を繰り返す。
そういう子どもほど、調べていくと、乳幼児期には、おとなしく、静かで、かつ従順だったことがわかる。

世間を騒がす、凶悪犯罪を起こす子どもも、そうである。
心の別室といっても、それほど広くはない。
ある限度(=臨界点)を超えると、爆発する。
爆発して、さまざまな問題行動を起こすようになる。

 話が脱線したが、ではそういう子どもたちが、日常的にウソをついているとか、仮面をかぶっているかというと、そうではない。
(外から見える子ども)も、(心の別室の中にいる子ども)も、子どもは子ども。
同じ子どもと考える。

このことは、抑圧を爆発させているときの自分を観察してみると、よくわかる。

よく夫婦喧嘩をしていて、(こう書くと、私のことだとわかってしまうが)、20年前、30年前の話を、あたかもつい先日のようにして、喧嘩をする人がいる。
「あのとき、お前は!」「このとき、あなたは!」と。

 心の別室に住んでいる(私)が外に出てきたときには、外に出てきた(私)が私であり、それは仮面をかぶった(私)でもない。
どちらが本当の私で、どちらがウソの私かという判断は、しても意味はない。
両方とも、(心の別室に住んでいる私は、私の一部かもしれないが)、私である。

私「お前なんか、離婚してやるウ!」
ワ「今度こそ、本気ね!」
私「そうだ。本気だア!」
ワ「明日になって、仲直りしようなんて、言わないわね!」
私「ぜったいに言わない!」
ワ「この前、『お前とは、死ぬまで一緒』って言ったのは、ウソなのね!」
私「ああ、そうだ、あんなのウソだア!」と。

そこでよく話題になるのが、多重人格障害。
「障害者」と呼ばれるようになると、いろいろな人格が、交互に出てくる。
そのとき、どれが(主人格)なのかは、本当のところ、だれにもわからない。
「現在、外に現れているのが、主人格」ということになる。
夫婦喧嘩をしているときの(私)も、私なら、していないときの(私)も、私ということになる。
実際、夫婦喧嘩をしている最中に、自分でもどちらの自分が本当の自分か、わからなくなるときがある。

 ともかくも、心の別室があるということは、好ましいことではない。
「抑圧」にも程度があり、簡単なことをそこに抑圧してしまうケースもあれば、重篤なケースもある。
それこそ他人を殺害しておきながら、「私は知らない」ですませてしまうケースも
ないとは言わない。
さらに進むと、心の別室にいる自分を、まったく別の他人のように思ってしまう。
そうなれば、それこそその人は、多重人格障害者ということになってしまう。

 ところで最近、私はこう考えることがある。
「日本の歴史教科書全体が、心の別室ではないか」と。
まちがったことは、書いてない。
それはわかる。
しかしすべてを書いているかというと、そうでもない。
日本にとって都合の悪いことは、書いてない。
そして「教科書」の名のもとに、都合の悪いことを、別室に閉じ込め、カギをかけてしまっている(?)。

 しかしこれは余談。
ただこういうことは言える。
だれにでも心の別室はある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なことは、その心の別室にいる自分を、いつも忘れないこと。
とくに何かのことで、だれかに害を加えたようなとき、心の別室を忘れないこと。
忘れたら、それこそ、その人は、お・し・ま・い!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
心の別室 防衛機制 抑圧 はやし浩司 心の別室論 人格障害 加害意識)

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●シャドウ論

そこで「シャドウ論」。

以下の原稿も、2009年ごろ書いた原稿である。
この中では、北朝鮮と韓国を例にあげ、「シャドウ論」を
展開してみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●なし崩し的既成事実化

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「独島(日本名、竹島)と、K国の核兵器と
かけて、何と、説く?」。
答……「なし崩し的、既成事実化」。
共に、ものごとをなし崩し的に、既成事実化しよう
としている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●矛盾する論理

 韓国の人たちは、「オレたちは、K国とはちがう」と思っているかもしれない。
とくに、K国の核開発問題については、そうであろう。

K国は事実上、核兵器を所有し、核保有国であることを、既成事実化しようとしている。
韓国政府も、「それは認めない」とがんばっている。
が、同じように韓国は、K国と同じことをしている。
竹島(独島)への実効的支配を強化し(中央N報)、竹島は韓国領土であることを、既成事実化しようとしている。
同じ民族。
発想が、よく似ている。

……というより、K国は、韓国のあとを、懸命に追いかけている。
今日(4月10日)の韓国・中央N報は、つぎのように伝えている。
 「…… 鄭総理は日本の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の主張に関し、『日本がこの問題を持続的に取り上げるのは、韓日間の未来の発展に決して役立たない。
すでに韓国の国民が居住しているが、独島に対する実効的支配をさらに強化していく必要がある』と強調した」と。

 つまり事実上、支配しているから、竹島は、韓国の領土だ、と。

しかしこんな論理がまかりとおるなら、K国の核兵器開発問題は、どうなる?
K国も同じ論理をふりかざして、「自分たちの国を核保有国として認めろ」と騒いでいる。

●シャドウ論

 韓国とK国を並べてながめていると、ユングのシャドウ論が、頭の中を横切った。
韓国のもつシャドウを、K国が受け継いでいる。
そんな感じがした。

そんな感じがしたので、韓国とK国、それにシャドウ論をからめて考えてみたい。
うまくまとめられるかどうか自信はないが、一度、書いてみる。

 シャドウ論……「シャドウ(影)」として、心の裏に閉じこめられた人間性は、その近くにいる人に伝染しやすい。その一例として、佐木隆三の『復讐するは我にあり』がある。

 昨年(09年3月)に書いた原稿を、もう一度、ここでとりあげてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。
で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。
といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

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●みな、かぶっている

 たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

 今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。
私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。

ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

 映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

 以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

 もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。
たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

 が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、(現実)とは、しっかりと切り離すこと。
たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

 しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたりする。

 が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、自分のことを(神)と思いこんでしまう。
が、それだけではすまない。

●シャドウ

 このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。
が、さらに恐ろしいことが起きる。

 このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付しておく。
こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

 ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と言っていた。

が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に閉じことによって、善人を演じていただけである。
そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。
では、どうするか。

 私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。
この私だって、そうだ。

 で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。
その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

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●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。
自分で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。
さも私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。
全体に演技ぽい。ウソっぽい。
大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、まあ、それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、おだやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。
嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜い欲望が、いつもウズを巻いていた。
そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。
その女性は、自分の醜い部分を、そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができた。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単位の話ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。
その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。
一度その娘にねたまれると、とことん、意地悪をされるという。
人をだますのは、平気。親類の人たちのみならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。
 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っていました。
家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。
ほとんど、毎日が、そうではなかったかと思います。
母には、そういう2面性がありました。
私の姉は、その悪いほうの一面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシャドウのもつ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。
その前に、仮面をかぶらないこと。
といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。
教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。
 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。
家に帰って家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。
はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。
が、それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受けつがれてしまう。

(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ユング 仮面 ペルソナ シャドウ論 はやし浩司 仮面親子 はやし浩司 仮面夫婦 仮面 ペルソナ)

++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。
親としての仮面、隣人としての仮面、夫としての仮面など。
もちろん、商売には、仮面はつきもの。
商売では、いくら客に怒鳴られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。
本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。
ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。
陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわかる。
むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。
都会の立派なマンションに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。
知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。
いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そう言うなら、まだ話がわかる。
しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。
日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断している人ほど、そうだ。
このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。
「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。
身分制度が、そのまま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。
街道筋の宿場町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。
その人を判断する基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしまう。
実は、これがこわい。
「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」と。
そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。
名優、緒方拳が、みごとな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。
が、その榎津厳もさることながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。
それが三國連太郎が演ずる、父親、とるけん」と言う。
そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。
映画を見た人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与える。
嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。
それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関係になる部分が、シャドウということになる。
主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりそのまま引き継いでしまった。
そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげる原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。
 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。
見抜くだけならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。
ついでにシャドウもつくらない。
いつもありのままの自分を見せる。
シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。
もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましいということになる。

(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●韓国とK国

 K国は韓国に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、韓国は、何もしてこないだろう」と。

一方、韓国は日本に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、日本は、何もしてこないだろう」と。

 そしてK国は、韓国に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをして
いる。

韓国は、日本に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをしている。
ともにその根底にあるのは、被害妄想と「甘えの構造」。

 たしかに韓国はK国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
南北統一についても、今、統一したら、それこそたいへんなことになる。
南北統一を望んでいないのは、当の韓国ということになる。

 一方日本は韓国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。

竹島の実効的支配を進めれば進めるほど、世界に向かって、「竹島は韓国の領土ではない」
と、宣言しているようなもの。

どうしてあんな島に、ヘリポートを作り、一般人を住まわせるのか?
その(無理)が、不自然!
不自然だから、無理をする!
世界の人は、だれしも、そう思う。
本当に自分の領土なら、もっと堂々としていればよい。
姑息なことをするから、かえって疑われる。

●で、シャドウ論

 K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ。
わかるか?
表では正論をぶっているが、仮面の下では、姑息なことを繰り返している。
自動車にしても、「前から見れば、TOYOTA車、うしろから見れば、NISSAN車」。
そんな車を、平気で作っていた。
ほんの10年前の話である。

 日本中の、それこそ津々浦々にまで産業スパイをはびこらせ、日本から奪えるものは、何でも奪っていった。
その結果が今である。

ウソだと思うなら、韓国の現在の産業構造を見ればよい。
20~40年前の日本の産業構造そのもの。
自動車、鉄鋼、電子産業などなど。
反対に韓国が独自に発展させた産業は、ひとつもない!
 
 それをK国は、横から見ている。
そして韓国が生来的にもっていた(姑息さ)を、K国がそっくりそのまま引き継いでいる。
先に「K国は、韓国のあとを追いかけている」と書いたのは、そういう意味。
 ……と書くのは、書き過ぎ。
かなり過激。
私もそれをよくわかっている。
しかしこれだけは言える。

 韓国の人よ、K国の人よ、なし崩し的に、ものごとを既成事実化するのは、やめよう。
「竹島」にしても、韓国の人よ、日本人がおとなしいからといって、それをよいことに、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをやるのは、やめよう。
いいか、韓国の人よ、K国が崩壊したら、竹島どころではなくなるぞ。
へたをすれば、38度線以北は、中国の領土となる。
「渤海国」になる。
わかっているのか。
そのとき日本に泣きついてきても、遅いぞ。

 ここは冷静に!
この極東アジアで、だれが友人で、だれが友人でないか、少しは頭を冷やして考えろ。
謙虚になれ。

 「自分たちの領土でない」ということを、心の奥で自覚しているからこそ、日本政府の発言に、そのつどビクつく。
大騒ぎする。

それがいやなら、もっと正々堂々と、国際裁判所という「場」で、たがいに証拠をあげて闘おうではないか。
どうしてそれがまずいのか?
何かまずいことでもあるのか?

 以上、「竹島(独島)」問題を、シャドウ論をからめて、考えてみた。
どこか「木に竹を接ぐ」ようなエッセーになってしまったが、許してほしい。
竹島問題の記事を読んだとき、ふと「シャドウ論」が頭の中を横切った。
「K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ」と。
それでこんなエッセーになってしまった。

 「?」と思われる人がいるなら、このエッセイを、「朝鮮問題」と、「シャドウ論」の2つに、頭の中で分けて読んでほしい。
勝手な願いで、ごめん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 竹島問題 独島問題 シャドウ論 はやし浩司 ユング シャドウ論 
実効的支配 なし崩し的支配 はやし浩司 シャドウ論 シャドウ)(以上、2009年3月記)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●2011年11月25日

 先のシャドウ論を書いた日付は、2009年3月になっている。
それから2年。
今は、2011年11月25日。

 で、改めて自分の書いた原稿を読みなおす。
いろいろ考える。
「これはシャドウ論というよりは、サイコパス(性格障害)の問題ではないか」とか、「妄
想とどう区別するのか」とか。

●日韓問題

 日韓問題にしても、すべてをシャドウ論で説明できるわけではない。
が、シャドウ論をあてはめてみると、韓国人のもつ精神的に二重構造性が、よく理解でき
る。

 (1)「日本ごときに植民地にされた」という屈辱感。
 (2)「自分たちの力で独立できなかった」という不完全燃焼感。
 (3)さらに「南北に分断されたのも、もとはと言えば、日本の責任」という日本責任論。

 これら3者が混然一体となり、韓国人の心の別室の中に、押し込まれている。
それが時と場合に、表に出てくる。
よく「韓国人は政治と経済を、使い分けている」という。
政治で反日、経済では親日、と。
しかし使い分けているのではない。

 民族意識はどこの民族にもある。
それが誇張されたのが、民族主義。
「我ら民族がもっともすぐれている」と。
韓国人のばあい、「日本ごときに、蹂躙(じゅうりん)された」という思いが、心の別室の原点にある。
言い換えると、そう思いながら、実は日本人を徹底的に差別している。
(「差別」というよりは、「軽蔑」に近いが……。)
私はこれを「逆差別」と呼んでいる。

●二重構造性

 それはともかくも、ユングのシャドウ論で考えると、韓国人がもつ精神の二重構造性がよく理解できる。
と、同時に、私たちが個人がもつ二重構造性も、よく理解できる。
 私たちは円滑な人間関係を保つために、常に、この二重構造的精神状態の中で生きている。
冒頭にも書いたように、それが悪いというのではない。
それがあるからこそ、またそれができるからこそ、私たちは、この複雑な社会で生きることができる。

 が、問題は、親子関係である。
ほとんどのばあい、子どものほうが、心の別室を作り、そこへ不平や不満をためこむ。
そしてそれが、時と場合に応じて、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だア!」と。

 そういう言葉が、10年たっても、20年たっても、口から出てくる。
もちろん子ども自身にはそれがわかっていない。
「抑圧」「心の別室」という言葉すら知らない。
加えて先にも書いたように、「心の別室」には、時効が働かない。
20年前、40年前の記憶がそのまま、生々しく残る。
また上書きされることもない。
楽しい思い出は、心の別室には入らない。

●よい子論

 終わりに「よい子論」についても書いておきたい。
 今、日本の子ども観、子育て観は、世界の標準から、かなりかけ離れつつある。
結論から先に言えば、たくましさがない。
またそうであることを、ほとんどの親たちは、「できのいい子」と誤解している。
たとえば従順で柔和で、やさしく、キバを抜かれてしまったような子どもほど、「よい子」と位置づける。
またそういう子どもにしようと、あくせくしている。
 昔風の、腕白で、自己主張が強く、たくましい子どもを、「できの悪い子」として、むしろ遠ざけたり、白い目で見たりする。
私の教室でも、そうである。

ときどき「うちの子には、この教室は合いません」と言って去っていく親がいる。
が、そういう親でも自分の子どもが、親の過干渉や過関心で萎縮していることに気づいていない。

親自身のものの考え方が権威主義的で、威圧的であることに気づいていない。
その結果として、むしろそういう子どもほど、心をゆがめやすい。
ゆがめやすいことは、ここに書いた「シャドウ論」を読んでもらえばわかるはず。
あるいはイプセンの『人形の家』を読んでみたらよい。
自らを「人形子」と呼んだ主人公が、精神の二重構造の中で、いかに苦しみもがいたか。
それがよくわかるはず。
 本来、子どもは、そうであってはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

しめくくりに、イプセンの『人形の家』。
ウィキペディア百科事典に書かれている(あらすじ)を、
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●イプセン、「人形の家」(ウィキペディア百科事典より)

『弁護士ヘルメルの妻ノラは、無邪気にヘルメルを含めて人間を信じ、貧しいものに分け与える心の余裕を持ち合わせた女性であった。
彼女はヘルメルに「大切に」されていた。
猫かわいがりするヘルメルの愛の性質に、気づいていながらも日々を過ごしていたノラにある日、事件が訪れる。

ヘルメルの部下クロクスタが、ヘルメルの留守を狙ってノラのもとに嘆願にやって来たのだ。
彼は馴れ馴れしい態度を取ったためヘルメルに疎まれ、じきに解雇される予定であった。
ノラは断ろうとするが、クロクスタは彼女の弱みを握っていた。
それはヘルメルが重病に陥り金銭が不足したとき、彼女はクロクスタから借金をし、その際、借用証の父のサインを捏造していたということだった。
当時、彼女の父は重病であったため、これは苦肉の策であった。
もし解雇されるなら、この事実をヘルメルに暴露すると、クロクスタに宣言されたノラは悩む。
自分を支配しているヘルメルがこのことを知れば、すべての生活は破滅することは目に見えているからだ。

やがて、ノラはヘルメルにクロクスタの解雇を取り消すよう頼むが、事情を知らないヘルメルは取り合わず、クロクスタは解雇される。
宣言どおりクロクスタは暴露する手紙をヘルメルに送った。
事実を知ったヘルメルは激怒し、ノラをさんざんに罵倒する。
すべての終わりがやってきたと思ったさなか、改心したクロクスタから捏造の証拠である借用証書が送られてくる。
これでヘルメルの危機は過ぎ去った。
先ほどまでの態度を豹変し、再び微笑んで甘いことを言い放つようになるヘルメル。
ヘルメルが対等な人間として、絶望や悩みを共有し、喜びを分かち合える存在、「1人の人間」として自分を見ていないことにノラは絶望し、ヘルメルの制止を振り切り、ノラは家を出る』(以上、ウィキペディア百科事典より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●では、どうするか?

【子どもの見方・考え方】8月6日(2010)

●子どもの見方

 子どもを見るとき、『いい子ほど、心配』と覚えておくとよい。
もっとはっきり言えば、子どもに(いい子)は、いない。
「いい子」と感じたら、それは仮面と考えてよい。

 子どもは、子どもらしいこと。
すべてはそこに始まり、そこで終わる。
その年齢ごとに、発達段階に応じた変化を、子どもは見せる。
何に対しても否定的になったり(幼児期前期)、あるいはあるいは生意気になったりする(幼児期後期)。
こうした変化を一足飛びに、飛び越えて、いきなりものわかりの
よい子どもになる・・・ということは、ありえない。
もしそうなら、先に書いた、仮面を疑う。

●不自然

 仮面をかぶっている子ども(人)は、どこか不自然。
バカ丁寧であったり、バカ親切であったりする。
「バカ」がつく。
 先日もある旅行社の女性と話をしていたとき、それを感じた。
営業用の仮面と言えば、そういうことになる。
バカの上に、バカがつくほど、丁寧だった。
が、そういう表面的な様子だけをみて、その女性はすばらしい人と思ってはいけない。
人格的に完成された人と思ってはいけない。
心理学の世界にも、「原我」という言葉がある。
「本来の我」という意味である。
その女性は、「本来の我」を、営業用の顔、つまり
自我」で覆い隠している。

●原我

 人はなぜ仮面をかぶるか。
それにはさまざまな理由と事情が、からんでいる。
前提として、原我が、その人にとって好ましいものでないと、その人自身が判断していることがある。
つまり(好ましくない我)を隠すために、仮面をかぶる。
私は原我を、つぎの4つに分類している。

(1) 邪悪な原我
(2) 陰湿な原我
(3) 攻撃的な原我
(4) 劣等的な原我

 こうした原我を隠すために、仮面をかぶる。
たいていは本来の我とは、正反対の我を演ずる。
ケチな人が、妙に寛大ぶってみせたり、攻撃的な人が、不自然なほどやさしくしてみせたりするなど。
が、それが仮面と本人が気づいている間は、まだよい。
仮面というのは、長くかぶっていると、仮面をかぶっていること
すら忘れてしまう。
反対に仮面をかぶった自分を、「本当の我」と思ってしまう。
これがこわい!
牧師や教師、医師など、聖職者と呼ばれる人に、このタイプの
人が多い。

●反動形成

 こうした一連の心理的操作を、「反動形成」と呼ぶ。
よくある例は、長男(長女)が、下の子ども(弟や妹)に見せる反動形成。
本当は下の子どもが憎くてしかたないのだが、それを表に出したら、自分の立場がなくなってしまう。
そこで下の子に対して、妙にやさしく振舞ったり、親切にしたりする。
一見するとよい兄(姉)に見える。
が、原我は、そうでない。
下の子(弟、妹)が憎くてしかたない。
つまり本当の自分を押し殺して、別の自分を演ずる。
が、そのままではすまない。
それがときとばあいに応じて、爆発する。

●原我の爆発

 原我はときとして、爆発する。
こうした爆発を理解するためには、「抑圧」という言葉を知らなければならない。
私は「心の中の別室」と呼んでいる。
 人間は、(ひょっとしたらあらゆる高等生物は)、何かのことで心が抑圧されると、心の中に別室を作り、そこに別の自分を押し込めようとする。
たいていは不平や不満など。
つまり心の別室を作り、そこに不平や不満を押し込むことによって、本来の自分を守ろうとする。
心理学の世界でも、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
防衛機制のひとつに考えられている。

●抑圧された「我」

 が、抑圧された「我」は、ときとして爆発する。
「こんなオレにしたのは、テメエだろ!」と。
「私の人生を返してヨ!」と。
 60歳、70歳になった老夫婦が、結婚当初のことをもちだして、夫婦喧嘩をするという例は、少なくない。
それこそ40年前、50年前の話を持ち出して、喧嘩する。
 この「心の別室」には、(1)上書きが働かない。
(2)時効がない。

●記憶の上書き

 何かいやなことがあっても、そのあと楽しい思い出があれば、その前にあったいやなことは消える。
これを「記憶の上書き」という。
 が、心の別室に入った記憶は、ほかの心とは隔離されたままになる。
そのため上書きされるということがない。
そのあといくら楽しい思い出がつづいたとしても、そのままの状態で、心の別室に残る。

●時効

 また心の別室に入った記憶には、時効が働かない。
時間の経緯とともに、記憶が薄れたり、あるいは消えたりするということがない。
30年、40年・・・という長い年月を経ても、そのままそこに残る。
だから「こんなオレにしたのは、テメエだろ!」、「私の人生を返してヨ!」となる。

●人形の家

 一見、いい子は、こうした心の別室を作りやすい。
抑圧された自分を、その中に閉じ込め、外の世界ではいい子ぶる。
それが日常化するため、まわりの人たちはもちろん、本人自身も、それが本当の自分と思い込んでしまう。
が、それがその本人にとって不幸なものであるか。
それはイプセンの『人形の家』を読めば、わかる。
 だからここが重要だが、子どもは、まず発散させる。
ありのままを発散させる。
言いたいことを、大声で言わせる。
つまりこれが幼児教育の第一歩ということになる。

●すなおな子ども 

 よく誤解されるが、従順で、何でもおとなの指示に従う子どもを、「すなおな子ども」というのではない。
心の状態(情意)と顔の表情が一致している子どもを、「すなおな子ども」という。

 このタイプの子どもは、教えていても、教えやすい。
何をどう考えているか、外からわかりやすい。
が、そうでない子どももいる。

 一般に、「情緒障害児」と呼ばれている子どもは、外から見たとき、何を考えているか、つかみにくい。
情意と表情が遊離している。
かん黙児、自閉症児など。
近年よく話題になる、アスペルガー児も、それに含まれる。

●態度

 心理学でいうところの「態度」というのは、その人の外に現れた人生観などの、表象された「我」をいう。
が、一般的な意味では、その人の「様子」をいう。
どちらであるにせよ、子どものすなお度は、その態度を見て判断する。

 すなおな子どもは、態度もでかい。
家の中でも、やりたいようにやっている。
言いたいことをいい、行動も表情も自然。
で、あなたの子どもがそうであれば、それでよし。
そうでなければ、家庭環境そのものを、一度、猛省してみる。
 とくに児童期に入ったら、「家庭は心を休める場所」と心得る。
どうして周囲に気をつかっていて、心を休めることができるだろうか。

●仮面夫婦

 ついでながら「抑圧」の恐ろしいのは、それだけではない。
たとえば「仮面夫婦」と呼ばれる夫婦がいる。
一見、仲がよい。
しかしその実、いつもたがいにいがみ合っている。
 こうした夫婦のばあい、それぞれが心の別室を作り、その中に自分を押し込める。
本当は憎しみ合っているのに、表面的には、よい夫婦を演ずる。
 こういうケースのばあい、邪悪な「我」が、シャドウ(ユング)となって、子どもに伝播しやすい。
つまり子どもは親の心を裏から読み、それをそっくりそのまま、
自分の心としてしまう。

 よくあるケースは、子どもたちがみな、母親のシャドウを受け継ぎ、
父親を軽蔑したり、忌み嫌ったりするなど。

●いい子ほど心配

 これで『いい子ほど心配』の意味がわかってもらえたことと思う。
そこにいい子がいたら、まず疑ってかかる。
というのも、その人の人格というものは、幾多の山や谷を越えて、完成されるもの。

 そこらの子ども(失礼!)が、5歳や6歳、8歳や9歳で、人格的に高邁(こうまい)になることなど、ありえない。
もしそう見えたら、繰り返すが、仮面を疑ってみる。
またどうして仮面をかぶっているか、その背景を疑ってみる。
 たいていは親の過干渉、過関心、あるいは親の情緒的不安定、精神的未熟が原因となっている。
子どもの側からみて、抑圧された家庭環境がそこにある。

 子どもの見方のひとつとして、心のどこかにおいておくとよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 原我 自我 いい子ほど心配 心の別室 抑圧 抑圧された心 よい子論 子どもの見方 考え方)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司


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