2011年7月23日土曜日

*Open your Hearts

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【人生はドラマ】2011/07/23記

●心が通わない子ども

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私は最近まで、幼稚園の年中児(4歳)から、
高校3年生の子どもまで、連続して教えていた。
幼稚園の講師の仕事が終わると、午後は中学生や
高校生を相手にした、進学塾で講師をしていた。
やがて幼稚園を卒園した子どもをそのまま教える
ようになり、それが中学生や高校生へとつながって
いった。

年数にすると、2年(幼稚園)+9年(小中学校)
+3年(高校)=14年となる。
14年!

私にとっても長い年月だが、子どもにとっても
そうである。
あるOB(当時30歳くらい、男性)は、
私の家に遊びに来て、こう言った。
「ぼくは、100%、先生の影響を受けました」と。
そのOBも、私の教室に、14年間通ってくれた。
そこで私が、「どういう意味だ?」と聞くと、
こう答えた。

「気がついてみると、ものの言い方、考え方、
すべて先生のまま。自分でもおかしいほど、
先生のまねをしています」と。

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●人生はドラマ

 人生も、最後には、「人」に行き着く。
もちろん名誉や地位や肩書きではない。
財力でもない。
「人」である。

 そのポイントとなるのが、「心」。
同じ「人」といっても、心を閉ざしていたのでは、ドラマは生まれない。
ドラマを作り出すためには、まず心を開く。
開いて、相手の心を受け入れる。
あるいは反対に、飛びこんでいく。

 ドラマはそこから生まれる。
生きる意味も、そこから生まれる。

●記憶に残る子どもvs残らない子ども

 長くつきあったから、その分だけ人間関係が濃密になるかというと、そういうことはない。
いくら長くつきあっても、記憶に残らない子どもは、残らない。
一方、短い年数でも、記憶に残る子どもは、残る。
そのちがいは、何か。
何によって、そういうちがいが生まれるか。

 それが「心」ということになる。

●遊離

 たとえば幼稚園の年長児。
年齢的には、5歳児と6歳児ということになる。
そのうちの30%前後は、うまく心がつかめない。
教える側からすると、何を考えているか、よくわからない。

さらに自閉傾向のある子どもとなると、(自閉症児ではない)、10~20%はいる。
このタイプの子どもは、心を閉ざしてしまっている。
さらに症状が進むと、心と表情が遊離する。
心で思っていることと、顔の表情が、チグハグになる。
不愉快に思っているはずなのに、ニンマリと笑っている、など。
が、それだけではない。

 とても残念なことに、このタイプの子どもは、それこそ10年教えても、何も残らない。
「時間」だけが、切り取ったように過ぎてしまう。

●記憶

 正直に告白する。
これは多分に、私の脳みその老化とも関係があるのかもしれない。
しかしたった1年前に別れた子どもなのだが、名簿を見て、「エッ、そんな子いたの?」と思うことが、しばしばある。
名前どころか、顔さえ、忘れてしまう。

 ワイフは、そういう子どもを「通りすがりの子」と呼んでいる。
何かを学ぶために私のところへ来て、1年なら1年を過ごす。
が、そのまま去っていく。
相手の子どもにしても、そうだろう。
心には、双方向性がある。
私のことなど、別れたとたん、忘れてしまう。

 たとえば私の息子たちも子どものころ、体操教室や水泳教室へ通ったことがある。
ワイフと2人で、よく参観させてもらったことがある。
しかし講師の先生となると、名前はもちろん、顔すら思い出せない。

●ドラマ

 こうした(ちがい)は、どうして起きるのか?
……と、あえて問うまでもない。
記憶に残るかどうかは、ドラマによる。
ドラマが互いの関係を、深くする。
が、ドラマといっても、よいドラマとはかぎらない。
悪いドラマのときもある。

 たとえば喧嘩や騒動など。
皮肉なことに、こと「教育」に関していうなら、何か問題があり、四苦八苦した子どものほうが、印象に残る。
親とのトラブルでもよい。
(好ましいわけではないが……。)

 自分の子育ても、これに通ずる。
人生論も、これに通ずる。
『平凡は美徳だが、平凡な人生からは何も生まれない』(某賢者)。

●心を通わせる

 一方、私も60歳を過ぎた。
もうすぐ64歳になる。
無駄にできる時間は、ほとんどない。
たとえていうなら、「命の砂時計」。
その砂時計から、刻一刻と、命の砂が上から下へと落ちていく。

 だから教えていても、そこに何かのドラマを感じていたい。
生徒も、「通りすがりの子」(ワイフ)であっては、いけない。
またそんな教育には、意味がない。
わかりやすく言えば、心を通わせる。
先にも書いたように、子どものほうが心を閉じているばあいは別として、たがいに心を通わせる。

いや、あるいは閉じているばあいは、こちらからこじあけてでも、心を通わせる。
ドラマはそこから生まれる。
ただ教えるだけの教育には、意味がない。
お金儲けにはなるかもしれないが、それもまた虚しい。
このことは、先にも書いたように、人生論そのものにも通ずる。

●2つの生き方

 夫婦にしても、そうだろう。
親子にしても、そうだろう。
親戚づきあいにしても、そうだろう。
大切なのは、ドラマ。
心の通いあい。
それがあれば、よし。
生きる意味も、そこから生まれる。

 が、それがなければ、それこそ時間の無駄づかい。
若いときなら、まだよい。
時間に余裕がある。
が、年を取ると、そうではない。
時間を無駄にしたりすると、「しまった!」と思う。
が、ここで2つの考え方が、生まれる。

 ひとつは、のんびりと、好き勝手なことをして余生を送るのがよいという考え方。
もうひとつは、刻一刻を争って、何か有意義なことをするのがよいという考え方。
この2つを両極端とするなら、もちろんその中間的な生き方もある。
あるいはこの2つを織り交ぜながら過ごすという生き方もある。

●ボケ

 が、ここで、とんでもない伏兵が現れることがある。
「ボケ」という伏兵である。
いくら自分でそうであってほしくないと思っても、脳みそのほうが勝手に衰えていく。
これは私の年齢に者にとっては、恐怖以外の何ものでもない。
(というか、脳のCPUそのものが衰えるため、衰えていること自体に気がつかないこともある。)
となると、今度は、時間との闘いということになる。
今日できることは、今日する。
けっして、明日に延ばさない。

 そこでただただ願う。
「どうかボケませんように」と。
というのも、この問題だけは、運と確率の問題。
自分の力では、どうしようもない。

●有意義に生きる

 では、有意義に生きるためには、どうすればよいか。
「有意義」ということは、つまりは、「ドラマを残すこと」を意味する。
そこで私のばあい、(あくまでも私のばあいだが)、いつも自分にこう問いかける。
「だから、それがどうしたの?」と。

 何かをする。
そのとき「だから、それがどうしたの?」と。
何かをした人を見る。
そのとき「だから、それがどうしたの?」と。

 そう問いかけてみたとき、スーッと空気が漏れるように、それが消えてしまうことがある。
反対にドシンと音を立て、ズシリとその重さを感ずることがある。
こうして時間の使い方を、そのつど選択していく。

 ただこの方法が、みなに有効とは思わない。
それぞれの人には、それぞれの生き方がある。
考え方がある。
大切なことは、それが自分のものと異なっていても、認めあうこと。
相手に自分の考え方を押しつけないこと。
何をスーッと消えていくように感ずるか。
反対に、ズシリと重く感ずるか。
それも、人それぞれ。

 しかし「だから、それがどうしたの?」と問いかけてみると、何が大切で、また何がそうでないかが、割と的確に判断できる。
一度、試してみてほしい。

●終わりに

 人生も、最後には、「人」に行き着く。
もちろん名誉や地位や肩書きではない。
財力でもない。
「人」である。

 その「人」とのドラマにこそ、意味がある。
だから私はつぎの言葉を導いた。
『人生はドラマ』と。

 私のメールの署名にところにもそう書いている。
「Life is full of Dramas.」と。
「人生はドラマが一杯」という意味である。
「人生にドラマを残したい」という願いをこめて、そう書いている。

 どこか中途半端な締めくくり方だが、今朝の私はそう思う。

 2011年7月23日早朝。

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Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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