2011年7月7日木曜日

*The Deepest Sin in Ourselves

●7月7日(2011年)

●ワイフの弱音

 昨夜、寝るとき、ワイフが、生まれてはじめて弱音を吐いた。
「あなたはいいわね」と。
「どうして?」と聞くと、「あなたにはあなたを支えてくれる人がいるから、いいわね」と。

私「……ぼくを支えてくれる?」
ワ「そうよ。あなたにはあなたのファンがいる。でも私にはいない……」
私「でも、お前には家族がいる。兄も姉も、妹もいる。ぼくにはいない……」
ワ「そうね……。あなたは、ひとりぼっちね……」と。

 そしてそのあと、こう言った。
「私が死んでも何も残らない……。みんな、あっという間に、私のことなんか忘れてしまう」と。

 私はワイフがそんなふうに考えているとは、夢にも、思っていなかった。
アメリカへ行った二男にしても、東京へ行った三男にしても、「みな、それぞれが幸福になればそれでいいのよ」と言っていた。
そんなワイフがさみしがっている(?)。

●切なさ

 生きていくということは、さみしさの連続。
このところ昔つきあった友のことをよく思い出す。
もう30~40年も、音信のない人もいる。
さみしいというより、切ない。
生きていること自体が、切ない。

 父も母もいない。
兄も姉もいない。
帰るべき、故郷もない。
このところ昔、世話になった人が、ポツリ、ポツリと亡くなっていく。

私「ぼくなんかね、この浜松では、ひとりぼっちなんだよ。23歳のとき来たから、子どものころの友だちさえ、いない……」
ワ「でも、あなたの書いたものは残るわ」
私「残らないよ……」
ワ「残るわよ……」
私「そう願って書いてはいるけど、残らない。インターネットの世界は、不思議な世界だよ。そこに読者がいるはずなんだけど、その実感がまるでない。ものを書いたとたん、それが煙のようになって消えていく……」

●丸い涙

 気づかなかった。
ワイフはノー天気な女性とばかり、思っていた。
孤独とは無縁の世界に住んでいるとばかり、思っていた。
しかしワイフには、ワイフのさみしさがあった。
そのさみしさにじっと耐えながら、生きていた。

私「お前が、そんなふうに考えているとは、思ってもみなかった」
ワ「そう? でもよく考えるわ。このまま私が死んだら、私はどうなるのかって……」
私「……」
ワ「みな、すぐ私のことなんか、忘れてしまうわ」
私「……」
ワ「でも、あなたは自分の生き方を貫くことができた。自分のやりたいように、自分の人生を生きることができた。みんな、あなたのような人生を送りたいと思っているけど、それができないでいるのよ」と。

 それを聞いているとき、丸い涙が目の上に浮かんだ。
目を閉じたとき、頬を伝って下に落ちた。

●業(ごう)

 朝、目を覚ますと、時計は5時半を示していた。
外はどうやら小雨のよう。
まだ外は薄暗かった。
起きようか、どうか、私は迷った。
どうであるにせよ、一度、トイレに行かねばならない。

 10分……20分……と、時が流れた。
そういう私に気づいて、横でワイフが、私の背中をさすってくれた。
とたん、昨夜、寝る前の話が、そっくりそのまま私の脳に戻ってきた。
だれのせいでもない。
私のせいだ。
私が背負った、罪深い業(ごう)のせいだ。
祖父から父、父から私……。
代々、伝わった業のせいだ。

 みな、私は私と思って生きている。
私も、実は、そうだった。
が、今、その業を感ずる。
私を超えて、その向こうで流れる業を感ずる。
私という「私」は、その流れの中で生きている。

●7月7日

私「ぼくだって、さみしいよ」
ワ「どうして?」
私「だって、ぼくを理解してくれる人が、どんどんと少なくなっていく……。N先生も亡くなってしまった。T先生も亡くなって、もう4年になる……」
ワ「私は、あなたを理解しているわ」
私「でもね、そのお前が、そんな心細いことを言ったら、ぼくはどうすればいい? お前が死んだら、ぼくは、どうすればいい?」
ワ「そうね……。そういう点では、あなたは、かわいそうな人よね」
私「……」
ワ「いつもひとりぼっちで、歩いている……」と。

 昨夜は、そんな話もした。
さみしかった。
つらかった。
が、ともかくも、朝になった。
朝がやってきた。
グズグズ言っても、どうにもならない。
生きていくしかない。
今日の仕事をするしかない。

時刻は今、午前6時半。
7月7日、木曜日。
小雨が心地よい涼しさとなって、窓から流れてくる。

そこにいる孤独さんよ、今日もよろしくね!


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●業(ごう)

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業について書いた原稿を
さがしてみる。
昨年も、たしか書いたはず。

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●業(カルマ)(The Deepest Sin in Ourselves)

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仏教では、意識を、大きく、
(1)末那識(まなしき)と、
(2)阿頼那識(あらやしき)の2つに
わける。

末那識というのは、意識の総称。
阿頼那識というのは、現代心理学でいう、
「無意識」、あるいはさらにその奥深くに
ある、深層無意識と考えてよい。

その仏教では、末那識(「私である」という
自我)が、阿頼那識におりてきて、そこで
蓄積されると教える。
そして阿頼那識で蓄積された意識は、
今度は反対に、末那識の世界まであがってき、
末那識に影響を与えると、教える。

これについては、何度も書いてきたので、
ここではその先を考えてみたい。
いわゆる「業(ごう)」の問題である。

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●意識と無意識

 意識の世界のできごとは、常に、無意識の世界に蓄積される。
パソコンにたとえるなら、自動バックアップのようなもの。

(WINDOW7には、自動バックアップ機能というのがついている。
それを使うと、ファイルの変更などをすると、自動的に、別のディスクに
バックアップをコピーしてくれる。)

 仏教では、意識される意識を「唯識(ゆいしき)」とし、眼識、耳識、鼻識、
舌識、身識、意識の6つに分ける。
現代でいう、五感とも、ややちがう。
その唯識が、「私」を形成する。
それが「末那識」ということになる。

●末那識は一部

 この末那識は、先にも書いたように、常に阿頼那識の世界に影響を与え、
そこで業(カルマ)として、蓄積される。
が、現代の大脳生理学でも証明されているように、無意識の世界の広大さは、
意識の世界の広さとは、比較にならない。
20万倍とか、それ以上と言われている。

(数字で表現するのは、正しくない。
要するに、意識として使われている脳は、脳の中でもほんの一部に過ぎない
ということ。)

 よく「業が深い人」という言葉を耳にするが、つまりそれだけ阿頼那識に
蓄積された業は、大きく、反対に、末那識に与える影響も大きいということ。
言い替えると、私たち人間は、意識の世界だけで生きているのではないということ。
実際には、無意識の世界の命令に応じて、生きているということ。

●無意識の世界

 たとえばここに、場面かん黙児の子どもがいるとする。
入園など、はじめて集団に接したようなとき、発症することが多い。
家の中では、ごくふつうに会話ができる。
しかし集団の中に入ったとたん、貝殻を閉じたかのように、かん黙してしまう。

 そういう子どもと接していると、無意識の世界を操作するのが、いかに
むずかしいかがわかる。
あるいは子どもの、その向こうにある、無意識の世界の広さに、驚くことがある。
場面かん黙児の子どもは、その無意識の世界の命令によって行動する。
そのため意識の世界から、いくら話しかけたり、説教したりしても、意味がない。
効果もない。

●業(ごう)

 業(ごう)というのは、そういうもの。
人間がもつ本能とも直結している。
そのためそれが何であれ、またどういうものであれ、意識の世界でコントロールしよと
しても、ビクともしない。
仮にあなたが、きわめて知性的な人であっても、その知性で、コントロール
できるようなものではない。

 たとえば手鏡をもって、女性のスカートの下をのぞいていた大学の教授がいた。
超一流大学を出て、当時は、毎週のようにテレビに出演していた。
地位と名声、それに富を、順に自分のものにした。
にもかかわらず、自らの業を、コントロールすることができなかった。
今度は、電車の中で痴漢行為を働いて、逮捕された。

●ではどうするか

 仏教では、……といっても、釈迦仏教というよりは、釈迦滅後、500~600
年を経てからだが、「八正道」を説かれるようになり、さらに実践的な、「六波羅密」
が説かれるようになった。

 八正道についても、たびたび書いてきたが、こと、阿頼那識ということになると、
六波羅密のほうが重要ということになる。

 布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、「六波羅密」という。
これは私も最近知ったのだが、「波羅密(ハラミツ)」というのは、「徹底」を意味する
サンスクリット語の当て字だそうだ。
漢字の「波羅密」を見て意味を考えても、答は何も出てこない。

(ついでに、日蓮宗の『南無妙法蓮華経』という題目にしても、

ナム……サンスクリット語の「帰依する」を意味する語の当て字。
しかし実際には、「hello」の意で、現在でもインドでは、あいさつの言葉として、
広く使われている、

妙法……サンスクリット語の、「因果な」を意味する、当て字、

蓮華……サンスクリット語の、「物語」を意味する、当て字、

「経」の漢字は、中国に入ってから、学者たちによって、付加された。)

 「末那識」「阿頼那識」という言葉についても、無著(むじゃく)、世親(せしん)
あたりから、世に出てきたから、サンスクリット語の当て字と考えるのが妥当。
今風に言えば、「意識」「無意識」ということになる。
(不勉強で、申し訳ない。)

●六波羅密

 ここにも書いたように、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密」という。
これを実践することにより、人は涅槃(ねはん)の境地に達することができると
言われている。

 もっとも私のような凡人には、それは無理としても、しかしこの中でも「精進」の
重要さだけは、よく理解できる。
「日々に、私たちは前に向かって、邁進(まいしん)努力する」。
それは健康論と同じで、立ち止まって休んだ瞬間から、私たちは不健康に向かって、
まっしぐらに落ちていく。

 よく「私は、修行によって、悟りの境地に達した」とか、「法を取得しました」とか
言う人がいる。
しかしそういうことは、ありえない。
ありえないことは、あなた自身の健康法とからめて考えてみれば、それがわかるはず。

 で、私は、日常生活の中で、つぎのように解釈している。

布施……ボランティア活動をいうが、いつも弱者の立場でものを考えることをいう。

持戒……仏教的な「戒め」を堅持することをいうが、簡単に言えば、ウソをつかない、
ルールを守ることをいう。

忍辱……「忍辱」については、そういう場面に自分を追い込まないようにする。
「忍辱」は、ストレサーとなりやすく、心の健康によくない。
あえて言うなら、『許して、忘れる』。

精進……常に前に向かって、努力することをいう。
とくに老後は、脳みその底に穴が開いたような状態になる。
私はとくに精進を、日常の生活の中で大切にしている。

善定……善を、より確かなものすることをいう。
口先だけではなく、実行する。

知恵……「無知は罪悪」と考えることをいう。

 が、何も「6つの教え」に、縛られることはない。
そういう点で、私はこうした教条的なものの考え方は、好きではない。
まちがってはいないが、どうしてもそれだけに限定されてしまう。
その分だけ、視野が狭くなってしまう。

 要は修行あるのみ……ということになる。

●修行

 ……といっても、私は、仏教的な、どこか自虐的な修行の価値を認めない。
(釈迦だって、そうだったぞ!)
「修行」というのは、ごくふつうの人間として、ふつうの生活を、日常的に
しながら、その中で実践していくもの。
(釈迦が説いた、「中道」というのは、そういう意味だぞ!)
もし、そこに問題があるなら、真正面からぶつかっていく。

 燃えさかる炭の上を歩くとか、雪の中で滝に打たれるとか、そういうことを
したからといって、「修行」になるとは、私は思わない。
少なくとも、私は、ごめん!
またそういうことをしたからといって、「私」の中にある「業」が、消えるわけ
ではない。

●結論

 で、私なりの結論は、こうだ。

 まず業に気がつくこと。
あとはそれとうまく、つきあっていく。
業があっても、なくても、それが「私」。
個性をもった「私」。
それが「私」と認めた上で、(それが弱点であっても、また欠陥であっても)、
前向きに生きていく。

 まずいのは、そういう業があることに気づかず、それに振り回され、同じ
失敗を繰り返すこと。
そのために「智慧」があるということになるが、それについては、また別の機会に
考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 末那識 阿頼那識 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、はやし浩司 八正道 六波羅密、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵、6つの徳目 修行論)


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(付記)

 日付は、昨年(2010年)の3月になっている。
読みなおしてみる。
ずいぶんと荒っぽい原稿である。
その荒っぽい原稿を読みなおしながら、私の底を流れる「私」をさぐる。
つまり「業」に気づくのは、それほどまでにむずかしい。
脳の奥の奥に潜んで、そこから私たちを裏から操る。
だから「宿業」ともいう。

 その「宿業」についても、以前、書いたことがあるはず。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宿業

 「宿業(しゅくごう)」という言葉もある。
業の中でも、とくに大きく、そして自分の心の奥に潜んでいて、自分を操る業をいう。

 この宿業というのは、若いときにはわからない。
人はその宿業に操られるまま、それを「私」と思いこむ。
が、加齢とともに、それが少しずつ、姿を現してくる。
現像液につけられた写真のように、姿を現してくる。

 それが「私」ということになるが、ときにその醜さに、驚くかもしれない。
「これが私の顔か!」と。
そしてそれまでの「私」が、いかに業に振り回されていたかを知る。
つまり私であって、私でない部分に振り回されていたかを知る。

 言うなれば、若いときというのは、「煩悩(ぼんのう)」のかたまり。
大脳生理学的にいうなら、ドーパミンに操られるまま。
それが「生的エネルギー」(ユング)ということになるが、しかしそれは「私」ではない。
ほんとうの「私」は、深層心理の奥深くにあって、なかなか姿を現さない。
しかもその「私」の大部分は、0歳期~からの、乳幼児期に作られる。

 もちろん宿業がすべて悪いわけではない。
(ふつうは、宿業イコール、悪という前提で考えるが……。)
人間のもつ多様性は、煩悩によって作り出される。
またそれから生まれるドラマが人間の世界を、うるおい豊かで、楽しいものにする。
もちろんその反対もある。
憎しみや悲しみが、暗くて重い歴史を作ることもある。
が、もしなぜ私たち人間が、今、こうして生きているかと問われれば、そうした
ドラマの中で、懸命に生きるためということになる。

 そう、懸命に生きるところに、私たちの生きる意味がある。
追い詰められても、追い詰められても、土俵間際でふんばってがんばる。
それが「生きる」ということになる。

 だれにも宿業はある。
宿業のない人は、いない。
またあることを、恨んではいけない。
大切なことは、そうした宿業と仲良くすること。
どんなに醜い顔をしていても、結局は、それが「私」なのだから……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 宿業)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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