2009年12月10日木曜日

*"Onglourious Basterds" and others

●12月9日(映画『イングロリアス・バスターズ』)(Inglourious Basterds)

 昨夜は仕事が終わってから、ワイフと、ブラッド・ピット主演の『イングロリアス・バスターズ』という映画を観てきた。
意味のない、ただの殺戮(さつりく)映画。
このところブラッド・ピット主演の映画には、がっかりさせられることが多い。
星は、2つか3つの、★★。

 スポーツ感覚で人を殺すのも、どうかと思う。
やり方も残忍。
殺した相手の、頭の皮をはぐというのも、どうかと思う。
つまりその程度の映画。
殺す側の主人公のほうよりも、殺される側のドイツ兵のほうに、同情してしまった。
つまり映画としては、駄作。
観終わったあとの気分も悪かった。

 で、今朝は、映画館で食べたポップコーンや、スルメが、まだ胃の中に残っていて、どうも気分がよくない。
軽い頭痛もある。
やはり深夜劇場というのは、体にあまりよくない。

 ……と、まあ、この程度の批評なら、だれにでもできる。
そこでもう一歩、話を進めてみる。

●パラドックス

 最後のところで、映画館ごと、ヒットラー以下、ナチスの幹部たちを、まとめて焼き殺すというシーンが出てくる。
その劇場でヒットラーが観ていた映画は、戦争映画。
ひとりの勇敢なドイツ兵が、つぎつぎとアメリカ兵を撃ち殺すという映画。
わかるかな、このパラドックス?
戦争映画を笑って観ている人を、笑いながら殺す。
そういう戦争映画を、私たちは笑いながら観ている。

 つまりアメリカ兵をつぎつぎと撃ち殺す映画を、笑いながら観ているヒットラー以下、ナチスの幹部たち。
が、その映画館は放火され、爆破される。
ドアにはすべて施錠してある。
逃げ場はない。
まさに大量虐殺。
それを笑いながら観ている、私たち観客。

 つまりヒットラーと私たち観客は、どこもちがわない!
まったく相対立する立場にいるようには見えるが、中身は同じ。
考えてみれば、もともと戦争というのは、そういうもの。
アフガン戦争を例にあげるまでもない。

●正義

 アルカイダはアルカイダの論理で、自分たちの正義のために戦っている。
アメリカはアメリカの論理で、自分たちの正義のために戦っている。
もともと「正義」というのは、そういうもの。
立場が変われば、正義は不正義になり、不正義は正義になる。
自分たちの都合で、いかようにも変化する。

ついでに言えば、正義と不正義がごちゃ混ぜになったとき、戦争は、泥沼化する。
(あるいはその逆でも、よいが……。
泥沼化すればするほど、正義と不正義は、ごちゃ混ぜになる。)

つまり戦争には、加害者も被害者もない。
戦争にかかわりあった人すべてが、加害者であり、同時に、被害者。
「戦争」がもつ愚劣さは、この一点に集約される。

 で、ナチスにはげしい敵意を抱くユダヤの人たちには、おもしろい映画かもしれない。
笑って観る人も多いかと思う。
しかし私たち日本人にも、その(おもしろさ)をわかれと迫られても、それは困る。
ドイツ人に対して、あそこまでの敵意はない。
映画を観ていて気分が悪くなったのは、そのため。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 正義 不正義 戦争論)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【ボケ防止論】

●映画

 その映画(『イングロリアス・バスターズ』)を観ながら、こんなことを考えた。

 「今、観ている映画にしても、いつまで記憶に残るだろうか」と。

現在、月に4~5本は、劇場で映画を観ている。
「ボケ防止にはよいのではないか」と、勝手にそう考え、そうしている。
(実際にボケ防止としての効果があるかどうかということについては、わからない。)

 先週は、『カールじいさんと空飛ぶ家』というのを観た。
が、その前に観た映画については、題名どころか、内容すら思い出せない。

 「……何だったかなア……?」と。

 ……今、やっと思い出したが、その前に観た映画は、『2012』だった。
つまりこうして記憶というのは、つぎつぎと頭の中に入ると同時に、同じくつぎつぎと頭の中から消えていく。
が、映画だから、まだよい。
毎回、ストーリーが、大きく違う。
あとになって、「2012はどんな映画だった?」と聞かれたら、ある程度は、その内容についての話をすることができる。

 が、これがたとえば野球中継のようなテレビ番組だったら、どうだろうか。
サッカーの試合でもよい。

●脳みその穴

 「変化」といっても、ある一定の枠(わく)の中に、閉じ込められてしまう。
とくに印象に残っている試合は別として、日々の食事のように、記憶にさえ残らない。
観て楽しんで、それでおしまい。
覚えて忘れて、それでおしまい。
それを繰り返す。

ボケがひどくなると、食べたことすら、忘れてしまうという。
同じように、野球中継を観たことすら、忘れてしまう?

 若いころは小さな穴かもしれない。
しかし加齢とともに、その穴は、どんどんと大きくなっていく。
「穴」というのは、脳みその底の穴をいう。
その穴から、知識や知恵、経験や手続きが、どんどんと下へこぼれ落ちていく。

 毎週のように劇場へ足を運んで映画を観ていると、そのことが、実感としてよくわかる。
先にあげた『2012』にしても、かなり印象に強く残った映画である。
そんな映画でも、つぎに『カールじいさんと空飛ぶ家』を観、そのあと『イングロリアス・バスターズ』を観るころには、忘れてしまう。

 考えてみれば、これは恐ろしいことである。
というのも、忘れたということに気づかないまま、忘れていく。
気がついたときには、ボケは、再起不能の状態のところまで進んでいる!

 だからというわけでもないが、「ボケ防止」といっても、映画程度では、ボケ防止にならないのではないか。
どこかの音楽会へ行くとか、演劇を観賞するとか。
美術館へ足を運ぶのもよい。
もちろん旅行でもよい。
つまり努力して、その(変化)の枠を大きくしないかぎり、何をしても、ボケ防止としての効果はない(?)。

 繰り返しになったとたん、枠の中に閉じ込められてしまう(?)。

 いわんや、毎週野球中継を観る程度の変化では、効果はない(?)。
昨年、他界した私の実兄ですら、死ぬ1、2年前、こう言っていた。
「野球なんて、どれも同じ」と。
実兄は、うつ(鬱)から認知症に似た症状を、そのとき発症していた。

●みな、同じ

 要するに私たちの脳みそは、日々に、どんどんとボケているということ。
しかもタチの悪いことに、それに気づかないまま、ボケているということ。
「私はまとも」と思っている間にも、どんどんとボケていく。
脳のCPU(中央演算装置)からボケていくから、理屈の上では、それに気づくことはない。

 その点、肉体のばあいは、自分の顔や体を鏡に映すことによって、老化の度合いを知ることができる。
たるんだ胸や腹、それに尻。
それを見ながら、「ああ、私も年を取ったなア」と。

 しかし脳みそのばあいは、それがわからない。
聞くところによると、あの特別養護老人ホームにいる老人たちにしても、自分で自分のボケを自覚している人は、まずいないという。
みんな自分では、「私は若いころと同じように、利口」と思っているらしい。

 このことは、子ども(幼児)についても言える。

 先日も、「3+4」の問題を、私が計算機を使って計算してみせたら、(もちろん演技で、そうしたのだが)、真顔で私にこう言った子ども(年長・女児)がいた。

「先生、そんな問題もできないの!」と。

 特別養護老人ホームの老人たちを、笑ってはいけない。
子どもたちを、笑ってはいけない。
私たちと彼らは、どこも違わない。
まったく、同じ。

●では、どうするか?

 ボケについては、まず、自分を知る。
すべては、そこから始まる。
幸いにも私のばあいは、中学生や高校生にものを教えるという立場で、ある程度、自分を知ることができる。

 昨日は、高校生にベクトルを教えた。
ある高校生が、いきなりこんな問題をもってきた。

「a(→)=(1、2)、b(→)=(1、-1)、c(→)=(5、4)のとき、sa(→)+tb(→)=c(→)となった。
sとtの値を求めろ」と。

 きわめて初歩的な問題だが、実のところ、高校生にベクトルを教えるのは、10年~ぶり。
英語なら、予習なしでも、高校3年生まで教えられる。
が、数学は、そこまで得意ではない。

で、こういうとき私は、まず、「こんな簡単な問題は、私にできないはずはない!」と言い聞かせながら、教え始める。
とたんカーッと、頭に血が上っていくのがわかる。
つまりそれが大切。
言うなれば、サビついた脳細胞を、そのつど血で洗う。

 が、もしこの段階で、「私にはできない」と逃げてしまったら、どうか?
頭は冷えたまま。
頭に血が上ることはない。
そのままベクトルを忘れてしまう。
が、これではいけない。

つまりそうした場を、日常的に、身のまわりに作りあげていく。
「頭に血が、カーッと登るような場」を、である。
それがボケ防止ということになる。

 けっして、同じことを繰り返すようになってはいけない。
それには映画も、野球中継もない。
繰り返すようになったとたん、ボケ防止としての意味を失う。

 常に新しいことに挑戦し、脳細胞に刺激を与えていく。
枠を広げる。
それが結局は、ボケ防止になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ボケ ボケ防止 ボケ防止論)

 
Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【雑談】

●WINDOW7

 居間のコタツの上には、2台のパソコンが置いてある。
16インチのノートパソコンと、10インチのミニパソコン。
ともにTOSHIBA製。
その16インチのノートパソコンを、今、ビスタから、WINDOW7に、アップグレイドしている。
その間に、10インチのミニパソコンを使って、この文章を書いている。
すでに1時間ほど、たった。
けっこう、時間がかかる……。

 現在は、「Window ファイルのコピー中」と表示され、(43%)終了という数字が見える。
もっと簡単にできると思っていた。
が、雑誌などを読むと、全体で、3~4時間もかかるそうだ。
(これはビスタをアップグレイドしたばあい。
新規にインストールしたばあいは、もっと速くできるとのこと。
そのばあいは、ビスタに残っていたデータが、すべて削除されてしまうとのこと。)

 今、やっと(69%)になった。

 アップグレード・キットは、1か月ほど前に手に入れた。
が、そのままにしておいた。
どうも自信がもてなかった。
それでこの1か月の間、何冊か雑誌を買ってきて、先にそれを読んだ。
勉強した。
前知識もなく、あわてて作業をすると、たいてい失敗する。
で、どうして今日になったか?
どうして今日、アップグレイドする気になったか?

 ハハハ。

 高性能のデスクトップパソコンが、12月22日に届く。
(i7)の64ビットマシンと言えば、わかる人にはわかる。
メモリーは、8GB。
今日は、その前哨戦。
まずこのノートパソコンで、使い勝手を試してみる。

 ……今、「ファイルのコピー」が終わり、今は、「プログラムの収集中」となった。
このあと、まだ「Windows ファイルの展開」「更新プリグラムのインストール」「プログラムの転送」とつづく。

 私は、ただ画面を見ているだけ。
が、それが結構、楽しい。

●パソコンのない世界

 今では、逆に(パソコンのない世界)が想像できない。
パソコンがなかったら、私という個人だけをみても、仕事が止まってしまう。
それに今では、2~3万円を超える買い物は、たいていネットを使って、している。
息子たちのやり取りも、パソコン。
株や債権の売買も、パソコン。
それだけではない。
(ものを書く)という仕事も、パソコンでしている。
お金儲けが目的ではないから、「仕事」と書くのも、へんだが……。

 だから同年齢の人で、「私はパソコンをしていません」などと言う人に出会ったりすると、「ハア……?」と思ってしまう。
「この人は、どうやって生活しているのだろう」と、思うこともある。

 つまりこうして、(パソコンをしている人)と、(パソコンをしていない人)の間に格差が生まれる。
「情報格差」という格差である。
が、そういう人にかぎって、こう言う。
「あんなもの(=パソコン)なくても、一向に困りませんよ」と。

●庭の雛

 そのパソコンのすばらしさをあげたら、キリがない。
が、何がすばらしいかといって、世界中の最先端の情報を、地方の、しかも家庭の中で手に入れることができるようになったこと。
それにまさるすばらしさは、ない。
画面の向こうは、巨大な図書館。
若いころはと言えば、何かの情報を手に入れるためには、図書館へ行かねばならなかった。
静岡市にある県立図書館へ通ったこともある。

 このことは、逆に、私が書く情報については、即、そのまま世界に向けて発信できることを意味する。
つまり情報に、(地方性)がなくなった。
私について言えば、(地方コンプレックス)がなくなった。
東京の第一線級の評論家が手に入れるものと同じ情報を、私も手に入れることができる。
(個人的なコネを経て得る情報は別だが……。)

 ……たった今、山鳩の雛を、庭の端に埋めてきた。
先ほどから何かあると思っていたが、よく見たら、山鳩の雛の死骸だった。
おとなの握りこぶしほどの大きさに成長していた。
たぶん栗の木から落ちてきたのだろう。
くちばしのところから、うっすらと赤い血が流れていた。
元気で育てば、大空を飛ぶことができたのに……。

 WINDOW7のアップグレイドは、まだつづいている。

●時間がもったいない

 現在は、「ファイルの展開中」(21%)。
その(21%)で、動きが止まったような状態になっている。
その右に、小さなドットが現れては消えたりしている。
動いていることは動いている。
こういうときは、ただひたすら、じっと待つ。

……静かな朝だ。
庭の木の葉も、動きを止めている。

見ると犬のハナは、先ほどまで山鳩の雛が死んでいたあたりを、懸命に鼻でかいでいる。
ものわかりのよい犬で、「鳩は友だちだ」と数回教えたら、それからは、鳩には近づかなくなった。
鳩が庭で餌を食べていたりすると、わざわざ遠回りをして、鳩を避ける。

 まだ(21%)……。

 こんなことをしていたら、時間がもったいない。
ここで書くのを一休止して、午後からの仕事の準備に取りかかる。
時刻は、午前10時20分。
薄曇りの、のどかな朝。

●WINDOWメール

 昼少し前、ワイフが、テニスクラブから帰ってきた。
その少し前、私は、庭の枯れ木を集め、それを燃やした。
「まだしているの?」とワイフが聞いた。
「まだ……。あと少しかな」と、私。

 パソコンは、最後の仕上げをしているといった感じだった。
「WINDOW7にすると、速くなるの?」
「速くはならないが、軽快になるそうだ」
「フ~ン」と。

 ワイフはそのままキッチンに向かった。
向かったまま、「何を食べる?」と聞いた。
「何でもいい」と答えた。

 説明書が写真入りで、ていねいだったこともある。
アップロードは、無事済んだ。
あとは「WINDOWメール」を、ダウンロードすればよい。
WINDOW7には、Outlook Express(メールソフト)が、入っていない。
そのかわり、WINDOWメールというのを、自分でダウンロードして使うようになる。
その作業が少し、めんどう。

「どうして最初から、入ってないのかしら?」
「そうだな……。いろいろなメールソフトが出回っているからかな」
「でも、パソコンに触れるのがはじめてという人には、そんな作業は無理よね」
「そうだな……」と。
 
●アップグレイド、完了!

 こうして今日、ビスタからWINDOW7へのアップグレイドは、無事終了した。
かかった時間は、WINDOWメールの設定も含めて、ちょうど3時間。
パソコンを立ち上げると、琴の音で、コココ~ン、と。
それが私には、「ごくろうさん」と言っているように聞こえた。

 「これならWINDOW7とも、親しくなれそう」と感じた。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司
 
【今、K国では……】

●餓死者

 K国では餓死者が出始めているという。
餓死者だぞ!
が、それはまさに氷山の一角。
その直前で、がんばっている人も多い。
その数10倍の人、あるいはそれ以上が、餓死寸前の状態にあるとみてよい。
あのピョンヤンの小学校でも、1クラス40人のうち、10人前後が、「欠食」で学校を休んでいるという(韓国紙)。

「欠食」?

「欠食」という言葉は、はじめて知った。
つまり食事をとっていないから、登校できないということらしい。

●そこは地獄

 世界でも1、2を争う最貧国。
それがK国。
で、そういう国がどういう状況になっているかは、同じく1、2を争っているアフリカの国々を見ればわかる。
表向きはどうであれ、その内部では、私たちの想像を絶するような地獄絵図が繰り広げられているにちがいない。
漏れ伝わってきた情報によると、「旧紙幣で払う」「受け取らない」で、殴り合いの喧嘩になり、死んだ人もいるとか。
さらに「もう生活できない」と言って、自殺していく人も多いという報道もある。
少し前に読んだ記事には、人肉まで、売買されているというのもあった。

 人肉だぞ!

 暴力、略奪、窃盗、強盗、殺人……。
「悪」として思いつくことすべてが、あの国の闇の部分で繰り広げられている。

●後遺症

 しかし本当にこわいのは、人心の荒廃。
一度壊れた心は、元には戻らない。
幼児期、少年少女期の子どもほどそうで、後遺症は世代連鎖を経て、そのあと何世代にも渡ってつづく。
そうした禍根を作りつつある現政権、つまり金xxの罪は重い。

 が、これはK国だけの問題ではない。
金xx政権はやがて崩壊するとしても、私たち日本人は、そのあと何10年も、そういう人たちと、付きあっていかねばならない。
現在の日本と韓国、あるいは日本と中国の関係を見れば、おおかたの予想はできる。
教育によって徹底的に植え込まれた反日意識、反日感情というのは、それこそこの先、何10年もつづく。

●戦後補償

 で、この時点で、改めて念を押しておきたいことがある。

 日本は戦後、中国、韓国をはじめとして、東南アジアの国々に、莫大な戦後補償を払ってきた。
とくに韓国には、日本の屋台骨を何本も抜くほどの補償をしてきた。
しかしお金では、心は買えない。
買えないばかりか、札束で相手の頬を払うようなことをすれば、さらに深い反感を買ってしまう。
戦後補償をするとしても、一般民衆にわかる形で、かつ一般民衆に感謝される形でしなければならない。

 さらに一度、(保護)(依存)の関係ができてしまうと、依存する側は、「助けてもらって当然」というような考え方をするようになる。
そうなると、いくら援助しても、それこそ乾いた砂漠に、水をまくようなことになってしまう。

 私が韓国にいたときも、日本は、日本のお金でどこかにダムを建設した(1967)。
そのときもダムの前に、「このダムは日本の援助で建設されました」というようなプレートを立てる約束だった。
にもかかわらず、韓国政府は、それ立てなかった。
たまたまその式典から帰ってきた日本政府の高官が、その話をしながら、かなり怒っていた。

 この先、そういう話は、山のようにつづく。
今から覚悟して、対処する。

●人間性

 『衣食足りて、礼節を知る』※という。
それは事実だが、一時的なものであってはいけない。
また一時的なもので、礼節は身につかない。
現在私たちが人間性、文化性と呼んでいるものはそうで、それを培(つちか)うには、何世代にも渡る(努力)と(時間)が必要である。

 一度壊れた心を元に戻すには、さらに長い(努力)と(時間)が必要となる。
そのことは、戦後生まれの私たちの世代なら、みな、知っている。
私たちはあのドサクサの中で、まさにその人心の荒廃を、身をもって体験している。
ただ幸いなことに、その期間が短かった。
5年とか10年。
その間に日本は経済を立て直し、今に見る繁栄を築きあげた。

 もしあんな状態が、半世紀もつづいていたら……。
日本も恐らく、現在のK国のようになっていたにちがいない。

(注※)原文……『倉廩(そうりん)実ちて 則(すなわ)ち礼節を知り、衣食足りて則ち 栄辱(えいじょく)を知る』(管仲著「管子」)。

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