2009年12月14日月曜日

*Internet Magazine dated Dec 14th

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   14日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教育の法則

+++++++++++++++++

昨日、「科学の法則」(PHP)を買ってきた。
私が読むつもりだった。
しかしここでありえないこと(?)が起きた。
ワイフが、夢中になって読みだした。
「ヘエ~」と感心した。

で、今、その本は、ワイフの手元に。
しかたないので、私は私の法則について書く。
「私の法則」というよりは、私が考えた
「教育の法則」。

+++++++++++++++++

●Y=A/X

Y=教育の質
X=雑務の量
A=その教師がもつ指導エネルギー

この法則によれば、(教育の質)と、(雑務の量)は、反比例の関係にある。
つまり教師の雑務が多ければ多いほど、教育の質は低下する。


●Y=(x2-x1)/(年数)

Y=教育の質
x2=現在の教育の内容
x1=過去の教育の内容
(年数)=その間の経過年数

この法則によれば、Yの値が大きければ大きいほど、その教師は努力したことになる。
マイナスに転じれば、その教師の教育の質は、低下したことになる。
たとえばこの10年で、教育の内容が大きく成長的に変化すれば、Yの値は大きくなる。
逆にマイナスになれば、教育の内容が、低下したことを意味する。


●Y=(勉強が好きな子ども)/(指導生徒数)x100

Y=教師の指導力
この値が大きければ大きいほど、その教師の指導力は高いということになる。
低ければ低いほど、指導力は低いということになる。
たとえば30人の生徒のうち、(勉強が好き)と答えた子どもが15人いれば、その
教師の指導力は、50ポイントということになる。


ほかにも(教師のやる気)(心を病む教師の出現率)(親と教師の関係)などなど。
いろいろ法則は考えられる。

が、何が重要かといって、(楽しさ)ほど重要なものはない。
「教えていて楽しい」……これにまさる教育の評価の仕方はない。
本来、子どもと接し、子どもに教える仕事は、楽しいもの。
「教えるのが苦痛である」とか、「子どもと接していると、疲れる」というのであれば、
教える姿勢そのものの中に、何か大きな問題があるとみる。
そういう前提で、教育、教師のあり方を考える。

もっとも、そのカギを握るのは、親ということになる。
子どもと接するのは、楽しい。
どんな教師でも、そう言う。
しかしそこへ親が入ってくると、教育の世界が一変する。
とたん、教育そのものが、おかしくなる。
そういうことは、よくある。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【沈まぬ太陽】

●「信念と良心の人」?

+++++++++++++++++++++++

公開中の映画『沈まぬ太陽』(WK監督)を劇場で見た。
その原作者で作家である、山崎豊子氏(84)が、このほど、
地元の堺市でWK監督と共に、その映画を鑑賞したという。
そして映画を観たあと、つぎのような感想を
述べたという(毎日JP)。

『映画は、人間の心の内を丹念に描いていて
見ごたえがありました。今の日本に必要なのは、
恩地(主人公名)のように、たった1人になっても筋を通し、
信念と良心を持ち続ける人。特に男の人たちに
見てもらいたい』(同)と。

+++++++++++++++++++++++

●日航123便の墜落事故

 日航123便の墜落事故について、毎日JPは、つぎのように説明する。
「ジャンボ機墜落事故を引き起こした航空会社の組織的、構造的な問題を浮き彫りにする」
と。

 つまり「航空会社(=日本航空)の組織的、構造的な問題があったから、ジャンボ機墜
落事故は起きた」と。

 ここでいう「組織的、構造的」というのは、映画『沈まぬ太陽』を観るかぎり、会社の
利益優先型の経営方針をいう。
事実、映画の中では、経営者たちは始終一貫して、(悪玉)として描かれている。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
そこで百歩譲って、もしそうだとするなら、つまり悪玉とするなら、事故の原因を、
もう一度丹念に、原因を検証してみる必要がある。

原因をオブラートに包んだまま、「事故の原因は、会社側の安全運航に対する努力怠慢であ
る」と、短絡的に結びつけるわけにはいかない。
映画で表現されている労使紛争にしても、安全運航のための闘争というよりは、賃上げ闘
争が主体になっていたはず。
(もし山崎豊子氏の論理が正しいとするなら、組合員も賃上げばかり主張しないで、
その分を、安全運行のために回せばよかったということになる。)

 が、ここで私たちは映画の映像トリックに、ひかかってしまう。

 映画『沈まぬ太陽』は、まず日航(JAL)123便の墜落事故から始まる。
その場面とケニア大使を招いた、パーティ会場が行き来し、やがて映画は、「~~年前」「~
~年前」……と進行していく。

 そして結果として、(はげしい労使紛争)が、事故の原因であるかのような印象を観客に
与える。
その(労使紛争)にしても、経営者側に責任があるかのような印象を観客に与える。
山崎豊子氏が言う、「信念と良心の人」(毎日JP)というのは、その労使紛争に巻き込ま
れ、その中で翻弄される恩地という名前の、1社員を言う。

 しかしここで誤解してはいけないのは、恩地といえども、1社員。
会社内部の人間である。
また墜落事故のあと、墜落事故の原因を究明したり、あるいは会社側の責任を追及した人
でもない。
社長が交代したあと、今度は新社長の側近として活躍する。
経営者側の人間となる。
もちろんそれなりの高給で優遇されたはず。
最後はまた懲罰左遷(?)され、アフリカの地に戻っていくが、ここでも映画の映像トリ
ックにひかかってしまう。

 海外勤務は、懲罰左遷なのか?

 で、当時の世相を振り返ってみると、日本航空にかぎらず、いわゆる三公社五現業と呼
ばれた組織体の中では、日夜はげしい労使紛争が繰り返されていた。
三公社五現業というのは、日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社(以上3公社)
と、5つの現業官庁(郵政、国有林野、印刷、造幣、アルコール専売の各事業部門)をい
う。

●疑わしきは罰する(?)

 話が大きく脱線する前に、ひとつ、明らかにしておきたいことがある。

恩地は、「信念と両親の人」という立場で、描かれている。
それはわかる。
が、その一方で、会社側の人間が、すべていかにも(悪玉)という立場で描かれている。
このあたりの描き方について、少し前に書いた原稿の中で、私は、一昔前の、チャンパラ
映画のよう、と書いた。

 しかしこの手法には、たいへん問題がある。
何度も書くが、日本航空は、現在は、1民間会社である。
明らかにその民間会社とわかる形で、その経営陣を悪玉に仕立てあげるのはどうか?
江戸時代の代官を悪代官に仕立てあげるのとは、わけがちがう。

法律の世界には、『疑わしきは罰せず』という大原則がある。
が、この映画の中では、何の証拠も、また因果関係も示されないまま、「航空会社の組織的、
構造的な問題を浮き彫りにする」「それが日航123便の事故につながった」(毎日JP)
という論理で(?)、日本航空を直接的に攻撃している。
「疑わしいまま、罰している」。
そういうことが許されてよいのか?

 仮に恩地が、「信念と良心の人」というのなら、当初は、組合の委員長だった人物が、の
ちに石坂浩二演ずる、新社長のもとでは、社長の最側近として働く。
どうしてそんな人物が、「信念と良心の人」なのか。

 さらに念を押すなら、恩地は、日航123便の墜落事故の原因を究明するために闘った
人でも、また、事故のあと、会社の責任を追及した人でもない。
映画の中では、遺族との交渉係を務めた人である。
(この点についても、日本航空側は、そういう立場にあった人物は存在しなかったと社内
報で書いている。)

●墜落事故の原因 

 墜落事故の原因については、いろいろな説がある。
公式には、圧力隔壁と呼ばれる後部の壁が破裂し、それが尾翼を吹き飛ばしたからという
ことになっている。
しかしほかにも、尾翼のボルトが緩んでいたのが原因とか、アメリカ軍用機のミサイル誤
射説などもある。

 どうであるにせよ、「航空会社の組織的、構造的な問題を浮き彫りにする」というのは、
あまりにもひとりよがり過ぎる。
当時の世相を振り返っても、当時はそういう時代だった。
労使紛争はあちこちで起きていた。
日本航空のことはよく知らないが、旧国鉄における労使紛争には、ものすごいものがあっ
た。
そういう中で、懲罰左遷というのも、あったかもしれない。

しかしこの言葉は、当時、海外勤務をしていた人たちに対して、失礼極まりない。
商社マンのばあい、海外勤務はあこがれの的だった。
また当時は、2年程度を限度とする短期出張は当たり前だった。
短期出張は、単身赴任が原則だった。
それを「懲罰左遷」とは!

●日航123便

 さて本題。
作家の山崎豊子氏は、「犠牲になられた方、遺族の気持ちを思うと今も義憤にかられます」
(毎日JP)と述べている。
山崎豊子氏にしてみれば、たとえ思い込みであるにせよ、そうとでも言わなければ、自分
の立場がない。
つまり「義憤にかられて、あの本を書いた」と。

 しかしそうであるなら、また話は振り出しに戻ってしまう。
労使紛争と日航123便の事故が、どうして結びつくのか、と。
つまり山崎豊子氏としては、日本航空をどうしても悪玉に仕立てあげなければならない。
「義憤」という言葉も、そこから生まれた(?)。
が、どうして義憤なのか?

 もし日本航空に「組織的、構造的な問題」があったとするなら、それを追及してこそ、「信
念と良心の人」ということになる。
私には、恩地なる人物には悪いが、恩地という人は、やはりただの会社人間にしか見えな
い。
殴られても、蹴られても、会社にしがみつく……。
「一社懸命」という言葉は、そういう人のためにある。

繰り返すが、その「組織的、構造的な問題」を追及した人ではない。
会社の裏命令で、恩地は労働組合の委員長になり、労使紛争の茶番劇を演じて見せる。
が、それをやり過ぎたため、アフリカと中東に左遷。
今度は新社長に呼び戻されて、再び本社勤め。
その過程で、恩地は、安全運行についての発言は、一度も行っていない。
それもそのはず。

 もし恩地が、安全運行のことを口にすれば、それこそまさに日航123便の墜落事故は、
会社側の責任ということを認めることになってしまう。
これは山崎豊子氏にとっても、まことにまずい。
そのまま直接的に、確たる証拠もないまま、日本航空の経営者を加害者と認めることにな
ってしまう。
そのまま名誉毀損で訴えられても、文句が言えなくなってしまう。

 そこで山崎豊子氏は、日本航空を何としても、悪玉に仕立てあげねばならなかった。
それが『沈まぬ太陽』ということになる。
で、山崎豊子氏は、こう述べている(毎日JP)。

「今の日本に必要なのは、恩地のように、たった一人になっても筋を通し、信念と良心を
持ち続ける人だ」と。

 とすると、また話がわからなくなる。
もしそうなら、なぜ日本航空なのか?
どうして、今というこの時期なのか?

●名誉棄損

 この映画は、明らかに、日本航空という1企業の名誉を著しく毀損している。
映画『沈まぬ太陽』を見た人なら、だれでも、そう思う。
「名誉棄損」という言葉があるが、もしこれを名誉棄損と言わないなら、では、いったい、
名誉棄損とは何かということになってしまう。

 日本航空は、実在する、1企業である。
墜落事故が起きた当時、3公社は、つぎつぎと民営化を果たしている。
日本航空も、まさにその日、民営化に向けて、その第一歩を決議しようとしていた。
その企業を、明らかにその企業とわかる形で、こうまでこういう露骨に、攻撃してよいも
のか。
もし「信念と良心の人」を描きたいのなら、何も日本航空にする必要はなかったし、あの
日航123便事故と、からめる必要はなかった。

●映画論

比較するのもヤボなことだが、最近観た映画の中に、『チェンジリング』という映画があ
った。
行方不明になった息子を懸命に捜そうとする母親を描いたものだが、途中で、役人の欺瞞
に翻弄される。
が、その母親は闘いつづける。
そして最後に、自分の息子を取り戻す。
そういう母親を、「信念の人」という。
もちろん映画もすばらしかった。
最後は、涙がポロポロとこぼれた。

 先週の夜は、『路上のソリスト』という映画を観てきた。
最後のしめくくりが甘かったが、実話ということ。
それに現在進行形ということ。
それで「そういうしめくくりの仕方にするしかなかったかな」と納得した。
が、そのソリストをコラム(新聞記事)にすることによって、ロサンジェルスのホームレ
スの待遇が、大きく改善された。

 またおとといの夜は、これはDVDだったが、『扉を叩く人』というのを家で観た。
アメリカの移民政策の中で、シリアへ強制送還される男性と、それを救い出そうとする大
学教授の映画だった。
映画を通して、監督は、アメリカの移民政策を痛烈に批判する。
この映画は、アカデミー主演男優賞の候補にあがっている。

 これら3本は、どれも秀作で、星は、4つか5つ。
主演した俳優たちもうまいが、それをまわりからかためる、脇役たちの演技もうまい。
もちろん内容も、濃い。

 が、である。
当然のことながら、個人はもちろん、公的な機関ではあっても、その機関とわからないよ
うな形で、映画の中に登場させている。
またそこで働く職員の名誉を傷つけないような形で、俳優たちは演技している(「扉を叩く
人」の、移民局の職員など。)
こうした配慮は、映画のみならず、公の場所で、自説を唱える者にとっては、最低限守ら
なければならないマナーと考えてよい。
つまり相手が日本航空だからよいという論理は、まったく通用しない。

 で、日本航空内部では、この映画について、名誉棄損で訴えるという動きもあるという。
当然、訴えるべき映画と考えてよい。
今は何かとたいへんな時期かもしれないが、後日の裁判闘争に備えて、公式な抗議文を1
通くらいは、出しておいたほうがよい。
「無視」イコール、「黙認」という形になるのは、避けた方がよい。

●表現の自由vs表現の暴力

 一般論として、テレビや映画に携わる人たちは、もう少し謙虚になったらよい。
「マスコミ」という武器を手にしたとたん、好き勝手なことをしたい放題している。
あるいは「マスコミ」を背に負ったとたん、態度が横柄になる。
威張りだす。
自分たちが、日本の代表であるかのように錯覚する。

 簡単なことだが、「表現の自由」と「表現の暴力」はちがう。
威張るのは勝手だが、だからといって、表現の暴力をしてよいということではない。
たとえば1社員の信念と良心だけを描くなら、それは「表現の自由」である。
しかしそこに日本航空をからませ、さらに日航123便の墜落事故をからませたら、それ
は表現の暴力ということになる。
いくら「この映画はフィクションです」と断っても、その程度で、責任が回避できるよう
な問題ではない。

 さらに言えば、WK監督は、原作者の山崎豊子氏を最前面に押し出すことによって、自
らにふりかかる責任を回避しているかのようにも見える。
脚本家を3人替えたとか、脚本をそのつど山崎豊子氏に見せ、校閲してもらったとかなど
という話も漏れ伝わっている(某週刊誌)。
そして今度は、山崎豊子氏と同席で、映画を鑑賞したという(毎日JP)。

 「この映画は、山崎豊子原作の『沈まぬ太陽』を忠実に映画化したものです」と。
「だから私には責任はありません」と。

 もしそうなら、つまりこうした一連の行為が、自らへの責任を回避するためのものであ
ったとするなら、日本航空への名誉棄損を事前に確信していたことになる。
罪は重い。

 とは言え、『沈まぬ太陽』は、主演の渡辺謙をのぞいて、……というより渡辺謙だけが浮
いてしまったような映画で、映画としては、つまらない。
「2度目を見たいか」と問われたら、答は、「NO!」。
全体に説教ぽい映画で、観ていて何度も不愉快になった。
私たちは、貴重な時間をつぶし、劇場へ足を運ぶ。
そこでお金を払って、映画を観る。
WK監督は、そうした観客の心を忘れてしまっている。

観てから10日以上も過ぎたが、その感想は、今も消えない。

+++++以下、毎日JPより+++++

映画:「沈まぬ太陽」山崎豊子さんが鑑賞 「今も信念と良心の人が必要」

ジャンボ機墜落事故を引き起こした航空会社の組織的、構造的な問題を浮き彫りにする。
主人公の恩地元(主演・渡辺謙さん)は、社員の待遇改善のため、組合活動に力を尽くす。
が、報復人事に遭って中東やアフリカに配転させられる。良心や出処進退のありか、組織
と個人の間にそびえる壁などさまざまなことを考えさせられる。上映時間は3時間22分
と日本映画としては異例の長さ。

 山崎さんは「犠牲になられた方、遺族の気持ちを思うと今も義憤にかられます」。時に声
を詰まらせながら、「自分の映画で泣いたのは初めて……。渡辺謙さんの演技が素晴らしか
った」と評した。

 長文の手紙を山崎さんに送り、主演を懇願した渡辺さんと同様、WK監督も山崎作品を
撮ることを切望した。「自分でもよくぞ撮り終えたな、と思います。先生からは『(「不毛地
帯」の映画化以来)映画化は33年ぶり。完成するまで死ねないわ』と言われていました
から両肩がいつも重かったですね」

 山崎さんは「映画は、人間の心の内を丹念に描いていて見ごたえがありました。今の日
本に必要なのは、恩地のように、たった一人になっても筋を通し、信念と良心を持ち続け
る人。特に男の人たちに見てもらいたい」と語った。
(毎日JP 2009-11-09)

+++++以上、毎日JPより+++++

●日本映画

 最後に一言。

 日本映画というと、どれもどうしてこうまで底が浅いのかと思う。
俳優にしても、演技、演技していて、薄っぺらい。
力みすぎ。
顔と声だけで演技する。
しかも不自然。
動作も話し方も、ぎこちない。
そのため観客として、感情移入するのが、むずかしい。
ときにその前に、はじき飛ばされてしまう。

 山崎豊子氏は、映画『沈まぬ太陽』を絶賛しているが、一度でよいから、
先にあげた『扉を叩く人』(The Visitor)、あるいは『チェンジリング』のような映画を
観てみるとよい。
そのちがいが、よくわかるはず。
(私は毎週1本程度、劇場で映画を観ているぞ!)

 『沈まぬ太陽』にしても、(1)まず俳優がペラペラと、文章を読むようなセリフを言う。
つぎに(2)視線を外へはずし、何かを思いつめたように、別のセリフを言う。
そんなシーンがいくつもあった。
恐らく監督の演技指導に従ってそうしたのだろう。
が、その言い方が、みな、同じ。
俳優自身が、自分を殺してしまっている。
監督の前で、委縮してしまっている。
もっと俳優自身がもつ個性を尊重して、それを前に出すようにすればよい。
つまり「自然な演技」。
それが重要。
それをもっと大切にしたらよい。
(当然、俳優側にも、それなりの努力と精進が必要になるが……。)

 とくにひどいのが、恩地の妻役を演じた、SK。
イプセンの『人形の家』に出てくる、「人形妻」を思い起こさせた。
できすぎというか、まるで心を開いていない。
「あんな夫婦がいるか!」と、私はそう思った。

 『沈まぬ太陽』という話題作に、あえてケチをつけてみた。
「沈まぬ太陽」と言いながら、今、その「太陽」は、沈むか浮かぶかの瀬戸際で
苦しんでいる。
このままでは、本当に沈んでしまうかもしれない。
だとするなら、映画のタイトルを、こう変えたらよい。
『沈め、この太陽!』と。
そのほうが、よほど、正直なタイトルということになる。
もともとそういう意図で作られた映画(本)なのだから……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 沈まぬ太陽 山崎豊子 映画評論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●沖縄の苦悩vs日米関係

今、日米関係が、大揺れに揺れている。
「戦後、最大の危機的状況にある」と説く人もいる。
よい状態とは言えないが、「危機的」というのは、どうか?
また危機的であるといっても、日本がアメリカを必要とするのと同じくらい、
アメリカも日本を必要としている。
戦後一貫して、紙くず同然になったドル紙幣を買い支えてきたのは、ほかならない、
この日本である。
今の今も、買い支えている。
その地位を、今、中国に譲りつつあるが、それでも、日本あってのアメリカ。
言うなれば、もちつ、もたれつの関係。
もしこの日本が手持ちのドルのうち、5%でも、ユーロに換えたらどうなるか?
アメリカはそのまま大恐慌に陥る。

が、ある程度の清算は必要かもしれない。
たとえば沖縄。
沖縄の人たちが強いられている負担感には、相当なものがある。

そういう負担感を知りつつ、私たちは、知らぬフリをつづけている。
「私には関係ない」と。
そのニヒリズムこそが、問題。
今、こういう形で、問いなおされようとしている。

沖縄の問題は、私たち自身の問題である。
が、それでもニヒリズムを決め込むとしたら、あなたの町にアメリカ軍の基地が
移設されても、文句を言わないこと。

……と書くのは、少し過激な意見だが、
しかしこの問題は、そういう問題である。

●マンション建設反対運動

 ところで私の住む家の近くの丘の上に、マンションが建設されることになった。
もう5年ほど、前のことである。
そのとき、その周辺の住民たちが、建設反対運動を始めた。
同時に、はげしい文句の看板が、無数に並んだ。
「地獄へ落ちる」「自殺者続出」「のぞき見反対」「ここはもと墓地」などなど。
「入居者にも責任を取ってもらいます」という旗も、無数に並んだ。

 私は、反対運動そのものよりも、そのはげしい文句に驚いた。
で、そのときのこと。
隣の町内の問題なのだからと、私たちは、当初から逃げ腰だった。
そこにマンションが建設されたところで、直接的な被害は、まったくない。
しかしその近隣の人たちにとっては、そうでなかった。
ときどき通りで、住民たちが10~15人単位で、デモをしているのを見かけた。

 が、ともかくも、マンションは建設されてしまった。
今年の夏ごろから販売が始まり、今のところそのうちの2~30%程度は、
すでに入居者が生活を始めている(09年終わり)。
が、当初の看板よりは少なくなったが、それでもマンション周辺の看板は、
今もそのまま残っている。

 立場が逆転した(?)。

 看板といっても、手書きのもの。
それにはげしい抗議の言葉は、そのまま。
「今さら反対運動をしたところで、どうしようもないではないか」というのが、
私というより、このあたりに住む人たちの共通した感想。
むしろそういった看板のほうが、景観を損ねている。

 が、今まで反対してきた人たちにとっては、そうでない。
挫折感も大きいだろう。
敗北感もある。
「マンションは建ってしまった」「だから反対運動はやめます」「看板を撤去します」
というわけにはいかない。
その気持ちは、痛いほど、よくわかる。
もしこのとき、「それは隣の町内の問題で、私たちには関係ない」と決め込むとしたら、
あなたの家の隣にマンションが建っても、文句は言わないこと。
……と書くのも、少し過激な意見だが、
しかしこの問題は、そういう問題である。

 で、私は今、ふと考えた。
もし私の家の隣地に、10階建てのマンションが建設されることになったら、
私はどうするか、と。
やはり反対運動を起こすかもしれない。

●ニヒリズム

 が、沖縄の基地周辺に住んでいる人たちの思いは、そんなものではない。
アメリカ軍の戦闘機が離着陸するたびに、「鼓膜が破れんばかりの騒音」(テレビ報道)
になるという。
私も何度か、アメリカ軍の戦闘機の離着陸の様子を見たことがあるが、たしかに
ものすごい。
浜松には浜松基地(航空自衛隊)があるが、騒音の質そのものがちがう。
アメリカ軍の戦闘機のそれは、バリバリと頭から体を叩きつけるような騒音。
それと比べたら、日本の自衛隊のそれは、ゴーッという、ただの騒音。
そうした騒音に、今の今も、戦後何10年にわたって、沖縄の人たちはさらされている。

そういう現状を知って、「日本の平和と安全のために、どうか犠牲になってください」
などと、どうして言えるか。

 が、ここでもあのニヒリズムが働いてしまう。
「私には関係ない」と。

●心の欠陥

 マンション建設問題とアメリカ軍の基地問題。
こうして並べてみると、そこに、ある共通点があるのを感ずる。

(1)自分に関係のない問題については、人は、それを避ける傾向がある。
(2)避けるについては、それなりの理由づけをして、自分を正当化する傾向がある。
(3)そのとき、脳は問題の大小を適切に判断できない。
(4)問題の大小を適切に判断するのが、理性ということになる。

 とくにこの中で重要なのは、(3)の「問題の大小を適切に判断できない」という部分。
マンション建設問題は、マイナーな問題である。
しかし沖縄のアメリカ軍の基地問題は、メジャーな問題である。
ところがこの2つの問題が同時に脳の中に入ると、その「大小」が判断できなく
なってしまう。

 もっと極端な例では、これは私自身が経験したことだが、一方で天下国家を論じながら、
他方で、身内のささいな冠婚葬祭の問題で悩むことがある。
2つの問題が同時に頭の中に入ってくると、どちらが重大で、どちらが重大でないかが、
わからなくなる。
その結果、本来どうでもよい、ささいな問題で心を煩わす。
私は、これは人間が本来的にもつ、心の欠陥のひとつではないかと考える。

●ニヒリズムと闘うために

 ニヒリズムを感じたら、それを「心の敵」ととらえる。
ニヒリズムに毒されると、人間性はかぎりなく縮小し、やがて心も腐り始める。
ピーター・サロベイが説く「人格の完成論」にしても、「他者との共鳴性」を重要視
している。
その人の立場になって、ものを考える。
それは人間が人間であるための、最低限の条件ということになる。
もしそれすらもできなくなってしまったら、人間も、それでおしまい。

では、どうするか。

 私はそういう点では、自分勝手で、わがまま。
自己愛者と言ってもさしつかえない。
心の中は、自己中心性のかたまり。
偉そうなことは言えない。

 そこで私が考えた方法は、前にも書いたが、相手の頭の中に自分を置いてみるという
方法。
この方法は、電車に乗っているときに、思いついた。
つまり相手の目を通して見ると、私はどういう人間に見えるかを、頭の中で想像してみる。
相手は、だれでもよい。
若い男でも、年老いた女性でも、だれでもよい。
子どもでもよい。
そうして自分の姿を客観的に見る。

 それができるようになると、つぎにだれかから相談を受けたようなとき、その人の
頭の中に、自分を置いて考えることができるようになる。
私の立場で、その人の問題を考えるのではなく、その人の立場で、その人の問題を
考えることができるようになる。

 こうして自分の中に潜む、邪悪なニヒリズムと戦うことができる。
が、これについては、最近、こんな経験をした。

 ある日、ある女性(70歳くらい)から、その女性の息子についての相談がもちかけ
られた。
息子夫婦が、離婚することになったという。
話を聞くと、息子の妻(その女性の嫁)の悪口ばかり。
で、その女性の相談というのは、「どうすれば、嫁に財産を分与しなくてすむか」という
ものだった。

 そのときのこと。
私はその妻(その女性の嫁)のほうの頭の中に、自分を置いてしまった。
とたん、その女性(70歳くらいの相談者)の言っていることのほうが、理不尽に思えて
きた。
子ども(小学生の男女児)も、2人いるという。
が、一度そうなると、相談でなくなってしまう。
むしろ逆に、その女性(70歳くらいの相談者)のほうを、説教したくなってしまった。
そういうこともある。
これは余談。

 ともかくも、相手の頭の中に自分を置いてみるという方法は、結構、楽しいことでも
ある。
ニヒリズムと戦う、第一歩として、一度、あなたも試してみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ニヒリズム)

(補記)

●人格の完成論

ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emot
ional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」
では、主に、つぎの3点を重視する。

(1) 自己管理能力
(2) 良好な対人関係
(3) 他者との良好な共感性
(09-11-11記)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

【老人心理】(回顧性との闘い)

●前向きに生きる

+++++++++++++++++++

今、すべきことをする。
今、したいことをする。
今、できることをする。
それが「前向きに生きる」ということ。

年齢は関係ない。
年齢を考える必要はない。
年齢に制限される必要もない。
私は私。
どこまでいっても、私は私。

……ということで、昨日、パソコンの
モニターを新調した。
(あまり関係ないかな?)
サイズは、25・5インチ。
ワードで書いた文章を、丸々4ページずつ
表示できる。

ワイフもこう言った。
「やりたいと思ったら、どんどん
したほうがいいわ」
「今しか、するときがないから」と。

YES!

そのモニターの前に座ったとき、
私は、こう思った。

「ようし、やりたいことをする」と。
……とまあ、今朝もそう自分に言い聞かせながら、
始まった。
(11-13朝)

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●展望性vs回顧性

 加齢とともに、展望性が弱くなり、回顧性が強くなる。
ちょうどこの2つが交差するのは、満55歳前後と言われている。
つまりその年齢を境にして、未来に向かって何かをしたいと思うよりも、
過去を懐かしむことのほうが、多くなる。

 が、展望性と回顧性は、バランスの問題ではない。
展望性というのは、その人を前向きに引っ張っていく。
回顧性というのは、その人の生き様を、うしろへと後退させる。
つまり回顧性というのは、戦うべきものであって、受け入れるべきものではない。
では、そのためには、どうするか。

●回顧性との闘い

 2つの方法がある。
ひとつは、回顧性を排除する。
もうひとつは、展望性を自ら大きくふくらます。
この2つを同時に実行してはじめて、回顧性を闇に葬ることができる。

 「回顧性を排除する」というのは、要するに過去を振り返らないということ。
が、それだけでは足りない。
そこで「展望性をふくらます」ということになる。
未来に夢や希望をもち、しっかりとした目標を定める。
しかし夢や希望などというものは、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
その努力は、怠ってはならない。
目標は、そこから生まれる。

●特徴

 回顧性が強くなると、親戚づきあいとか、近所づきあいという言葉を、よく
使うようになる。
自分の身の回りを、(過去の時間)で、固めるようになる。
満50歳を過ぎると、同窓会のような会が急にふえるのも、そのためと考えてよい。

 特徴をいくつかあげてみる。

(1)生活が防衛的になる。(ケチになる。)
(2)生活圏が縮小される。(狭い世界で生きる。)
(3)慢性的な自信喪失状態になる。(「何をしてもだめだ」と思う。)
(4)自己中心性が強くなる。(自分に合わない人を、否定する。)

 こうした傾向は相互に関連しあいながら、ときにはその人の心をむしばむ。
「初老性うつ」に代表される、精神疾患も、そのひとつ。
回顧性に毒されてよいことは、何もない。

●(老い)の受容

 これについては、以前書いた原稿を、もう一度、手直してみる。

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老いの受容段階説

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【老人心理】

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キューブラー・ロスの『死の受容段階論』は、よく知られている。

死を宣告されたとき、人は、(否認期)→(怒り期)→(取り引き期)
→(抑うつ期)→(受容期)を経て、やがて死を迎え入れるように
なるという。

このロスの『死の受容段階論』については、すでにたびたび書いてきた。
(たった今、ヤフーの検索エンジンを使って、「はやし浩司 死の受容段階」
を検索してみたら、113件もヒットした。)

で、またまた『死の受容段階論』(死の受容段階説、死の受容過程説、
死の受容段階理論などともいう)。

その段階論について、簡単におさらいをしておきたい。

●キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

(第1期)否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病
気は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期)怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健
康な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期)取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引
きを試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期)抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期)受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の
終わりを静かに受け入れる。(以上、同書より)

●老人心理

老人心理を一言で表現すれば、要するに、キューブラー・ロスの『死の受容段階論」に、
(第0期) を加えるということになる。
(第0期) 、つまり、不安期、ということになる。
「まだ死を宣告されたわけではない」、しかし「いつも死はそこにあって、私たちを
見つめている」と。

不治の病などの宣告を、短期的な死の宣告とするなら、老後は、ダラダラとつづく、
長期的な死の宣告と考えてよい。

「短期」か「長期」かのちがいはあるが、置かれた状況に、それほど大きなちがいは
ない。
ロスの説く、(第1期)から(第5期)まぜが混然一体となって、漠然とした不安感
を生みだす。
それがここでいう0期ということになる。

ある友人(満62歳)は、こう言った。

「若いころは何かの病気になっても、それを死に直接結びつけることはなかった。
しかし今は、経験したことのない痛みや疲れを感じただけで、もしや……と思う
ようになった」と。

そしてそれが老人心理の基盤を作る。

●死の受容

死の宣告をされたわけではなくても、しかし死の受容は、老人共通の最大のテーマ
と考えてよい。

常に私たちは「死」をそこに感じ、「死」の恐怖から逃れることはできない。
加齢とともに、その傾向は、ますます強くなる。
で、時に死を否認し、時に死に怒りを覚え、時に死と取り引きをしようとし、時に、
抑うつ的になり、そして時に死を受容したりする。
もちろん死を忘れようと試みることもある。
しかし全体としてみると、自分の心が定まりなく、ユラユラと動いているのがわかる。

 それについては、こんなエピソードがある。

 恩師のMN先生の自宅を訪れたときのこと。
MN先生は、私を幼児教育の世界に導いてくれた先生である。
そのとき80歳を過ぎていた。

 縁側に座って、何かを話しているとき、私はこう聞いた。
「先生、歳をとると、死ぬのがこわくなくなるものですか?」と。
すると先生は、笑いながら、こう言った。
「林さん、いくつになっても、死ぬのはこわいですよ」と。

●「死の確認期」

この「0期の不安期」をさらに詳しく分析してみると、そこにもまた、いくつかの
段階があるのがわかる。

(1)老齢の否認期
(2)老齢の確認期
(3)老齢の受容期

(1)の老齢の否認期というのは、「私はまだ若い」とがんばる時期をいう。
若いとき以上に趣味や体力作りに力を入れたり、さかんに旅行を繰り返したりする時期
をいう。

若い人たちに対して、無茶な競争を挑んだりすることもある。

(2)の老齢の確認期というのは、まわりの人たちの「死」に触れるにつけ、自分自身
もその死に近づきつつあることを確認する時期をいう。
(老齢)イコール(死)は、避けられないものであることを知る。

(3)の受容期というのは、自らを老人と認め、死と共存する時期をいう。
この段階になると、時間や財産(人的財産や金銭的財産)に、意味を感じなくなり、
死に対して、心の準備を始めるようになる。

(反対に、モノや財産、お金に異常なまでの執着心を見せる人もいるが……。)

もっともこれについては、「老人は何歳になったら、自分を老人と認めるか」という問題も
含まれる。

国連の世界保健機構の定義によれば、65歳以上を高齢者という。
そのうち、65~74歳を、前期高齢者といい、75歳以上を、後期高齢者という。
が、実際には、国民の意識調査によると、「自分を老人」と認める年齢は、70~74歳が
一番多いそうだ。半数以上の52・8%という数字が出ている。(内閣府の調査では
70歳以上が57%。)

つまり日本人は70~74歳くらいにかけて、「私は老人」と認めるようになるという。
そのころから0期がはじまる。

●「0期不安記」

この0期の特徴は、ロスの説く、『死の受容段階論』のうち、早期のうちは、(第1期)
~(第3期)が相対的に強く、後期になると、(第3期)~(第5期)が強くなる。
つまり加齢とともに、人は死に対して、心の準備をより強く意識するようになる。

友や近親者の死を前にすると、「つぎは私の番だ」と思ったりするのも、それ。
言いかえると、若い人ほど、ロスの説く(否認期)(怒り期)(取り引き期)の期間が
長く、葛藤もはげしいということ。

しかし老人のばあいは、死の宣告を受けても、(否認期)(怒り期)(取り引き期)の
期間も短く、葛藤も弱いということになる。
そしてつぎの(抑うつ期)(受容期)へと進む。
が、ここで誤解してはいけないことは、だからといって、死に対しての恐怖感が
消えるのではないということ。
強弱の度合をいっても意味はない。
若い人でも、また老人でも、死への恐怖感に、強弱はない。

(死の受容)イコール、(生の放棄)ではない。
老人にも、(否認期)はあり、(怒り期)も(取り引き期)もある。
それゆえに、老人にもまた、若い人たちと同じように、死の恐怖はある。
繰り返すが、それには、強弱の度合は、ない。

●死の否認期

第0期の中で、とくに重要なのは、「死の否認期」ということになる。
「死の否認」は、0期全般にわたってつづく。
が、その内容は、けっして一様ではない。

来世思想に希望をつなぎ、死の恐怖をやわらげようとする人もいる。
反対に、友人や近親者が死んだあと、その霊を認めることによって、孤独をやわらげ
ようとする人もいる。
懸命に体力作りをしたり、脳の健康をもくろんだりする人もいる。
趣味や道楽に、生きがいを見出す人もいる。

が、そこは両側を暗い壁でおおわれた細い路地のようなもの。
路地は先へ行けば行くほど、狭くなり、暗くなる。
そしてさらにその先は、体も通らなくなるほどの細い道。
そこが死の世界……。

老人が頭の中で描く(将来像)というのは、おおむね、そんなものと考えてよい。
そしてそこから生まれる恐怖感や孤独感は、個人のもつ力で、処理できるような
ものではない。

つまりそれを救済するために、宗教があり、信仰があるということになる。
宗教や信仰に、救いの道を見出そうという傾向は、加齢とともにますます大きくなる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●では、どうするか

 かなり暗い話になってしまったが、回顧性が強くなればなるほど、同時進行の形で、
上記「0期の不安期」が始まる。

 そこでこう考える。
「もし私(あなた)が、今、30歳なら、どうするか?」と。

 ひとつの例として、冠婚葬祭、とくに葬儀をあげる。

 たまたま昨夜、叔母が亡くなった。
いとこから、そういう連絡が入った。
葬儀は明日(土曜日)ということらしいが、K市での講演と重なり、私は参列できない。
そこで昨夜、私は香典を送金し、お悔やみの電報を打った。

 が、そのときいろいろと複雑な心理が働く。
「失礼はないだろうか」「これでいいのだろうか」と。

 そうした心理が働く背景には、私流の回顧性がある。
そこで私自身を、30歳という年齢に置き換えてみる。
すると葬儀に対する考え方が、一変する。
「死者をていねいに送ることは大切なことだが、私には遠い未来の話」と。

 そこでもう一度、こう考える。
「私の息子なら、どうするだろう」
「私は、私の息子に、どうしてほしいだろう」と。

 息子たちはみな、30歳前後である。

 するとそこにひとつの答が見えてくる。
叔母の死は悲しいことだが、ひとつの(事実)として受け入れるしかない、と。
つまり甥(おい)として、やるべきことはやる。
しかしそれをきっかけとして、自分を回顧性に追い込んではいけない。

だからといって、叔母の死を軽く見ろということではない。
私たちが若いころそうであったように、老人の死は、淡々と見送るしかないということ。
早く忘れて、「私は私」という生き方に、戻るということ。

●展望性の維持vs回顧性との闘い

 そこで最後に、展望性の維持と回顧性との闘いについて考えてみたい。
これは私自身の努力目標ということになる。

○展望性の維持

(1)若い人たちと、努めて交際する。
(2)いつも新しいものに興味をもつ。
(3)今できることは、つぎに延ばさない。
(4)体力と知力の維持に、努力する。
(5)夢と希望をしっかりともつ。
(6)1日の目標、1年の目標を、いつも定める。

○回顧性との闘い

(1)過去を振り返らない。
(2)退職したら、肩書き、名誉、地位を捨てる。
(3)「死」にまつわる行事、法事は、最小限に。
(4)常に「今、あるのみ」と心得る。
(5)過去にしがみつかない。
(6)「老人はこうあるべき」という常識を作らない。

 ざっと思いついたまま書いたので、荒っぽい努力目標になってしまった。
私の母や兄などは、ともに60歳を過ぎるころから、仏壇の金具ばかりを磨いていた。
要するに、そういう人生になってはいけないということ。

この努力目標を三唱して、ともかくも、今日も始まった。
がんばろう!
どこまでできるかわからないが、がんばろう!

09年11月14日、土曜日の朝
今朝は生暖かい雨が、シトシトと降っている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 老人心理 老人の心理 回顧性と展望性 回顧性 展望性)


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