2009年12月25日金曜日

*The Philosphy of the Poor

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   25日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの人格の完成度

++++++++++++++++++

子どものばあい、その年齢に比して、
幼児ぽい(幼稚ぽい)というのは、
好ましいことではない。

やってよいことと、やっていけないことの
区別ができない。
突然、突飛もない行動をしたりする。

子どもの人格の完成度は、子どもの
様子を、ほかの子どもと比較して判断する。

+++++++++++++++++++

●前頭連合野

 「理性の府」と呼ばれるのが、前頭連合野。
この前頭連合野が何らかの形で損傷を受けると、善悪の判断が適切に
できなくなる。
欲望の命ずるまま、勝手な行動を繰り返すこともある。

 晩年の兄が、そうだった。
玄関先で小便をしたり、自動車のナンバーに、マジックインクで、いたずら書きを
したりした。
ゴミを捨てに行くときも、そのゴミを、近所の家の間にはさんで帰ってきたことも
ある。
 兄は、若いころから母の過干渉により、自分で考えるということができなかった。
それが晩年、ひどくなった。
軽い認知症が加わり、さらにひどくなった。

 子どものばあいでも、異常な過関心が日常化すると、似たような症状を示す。
「自分で考える」という習慣そのものが、育たない。
「自分で行動する」ということはできるが、その「行動」に対して責任を取らない。
「責任を取る」という意味すら、理解できない。
 
 強く叱ると、そのときだけは、(さも、叱られています)という姿勢(ジェスチャ)
をして見せる。
しかしジェスチャだけ。
その実、何も反省していない。

●ある母親

 その母親(当時35歳くらい)は、たいへん口うるさい人だった。
いつも子どもたち(息子と娘)を相手に、ガミガミと怒鳴ってばかりいた。
そのため子どもたちは、一見、従順な子どもになった。
が、自分で考えて、責任を取るということが、できなかった。

 その母親自身も、子どものころ、今で言うAD・HD児ではなかったかと思う。
異常な多弁性が、特徴的だった。
電話で話しても、いつも一方的にまくしたてるだけ。
相手の話を聞かない。
聞かないというより、相手に話させるようなスキ(?)をつくらない。
話の内容も、ポンポンと飛ぶ。

 ある日のことだった。
何かの会合に、その母親が娘を連れてきた。
娘は当時、10歳くらいではなかったか。
その娘にこう言っていた。

 「お茶を出すときは、絵柄を相手に向けて出すのよ、わかった?」と。
そしてお茶の出し方を、みなの前で、こまごまと指導していた。

 一方、私は、そのときまで、そういったことに注意を払ったことは、一度も
なかった。
そういう作法があることさえ、知らなかった。
しかしその母親の頭の中には、そういった情報が、ぎっしりと詰まっていたらしい。
ことあるごとに、こまごまとしたことを、娘に指示していた。

 私はそれを聞きながら、「こういう母親では、子どもたちも息が詰まるだろうな」と
思った。

●常識ハズレ

 結果としてそうなったのだろうが、息子も娘も、中学生のころには、いろいろな
事件を引き起こすようになった。
とくに息子のほうは、その町内でも有名なほど、「グレた」(同じ町内に住む友人の話)。
娘のほうも、同じような経過をたどった。

 が、息子も娘も、見た感じでは、ごくふつうの子どもといった感じだった。
おとなたちの前では、おとなしく、無口だった。
親の言うことには、従順に従っていた。

 が、常識ハズレはつづいた。

 これは人伝えに聞いた話だが、結婚式の当日、息子は、暴走族仲間を連れてきた
という。
予定外のハプニングに、母親は、(もちろん父親も)、あわてた。
しかしそれも後の祭り。
盛大な結婚式を用意しただけに、親たちは、かえって恥をかかされるところとなった。

●子育て自由論

 「自由」とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味。
自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る。
この3つを重ねて、「自由」という。

 そのためには、子どもには、まず自分で考えさせる。
行動させる。
そして自分で責任を取らせる。

 これは乳幼児期からの、子育ての基本ということになる。
そのためには、いくつかの前提がある。

(1) 子どもをひとりの人間と認める。
(2) 親意識(とくに悪玉親意識)を捨てる。
(3) 友として、子どもの横に立つ。

 ここでいう「悪玉親意識」というのは、親風を吹かすことをいう。
 頭ごなしに、ガミガミ言うのは、禁物。
それが日常化すると、子どもは自分で考えることができなくなってしまう。
親の言うことには従順に従っても、母親がいないところでは、何もできなく
なってしまう。

 あとは、(ますますガミガミ言う)→(ますます常識はずれになる)の悪循環。
それを繰り返す。

●早期診断

 こうした悪循環は、早期発見、早期解決が何よりも、大切。
私の経験では、子どもが3~4歳児になるころには、たいてい手遅れ。
というのも、子育ては(リズム)。
そのリズムは、ひょっとしたら、子どもを妊娠したときから始まっている。
そのリズムを直すのは、容易なことではない。

 基本的には、心配先行型の育児姿勢がその背景にあるとみる。
(異常な溺愛、あるいはその背景に、親自身の情緒的な欠陥が、子どもの精神的な
発育をはばむこともある。)
さらに言えば、親自身に、ちゃんとした(親像)がしみこんでいない。
親自身が、不幸にして不幸な家庭で、育っている。
根は深い。

 が、気がつけば、よい。
こうした問題は、気がつけばよい。
気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
5年とか、10年とかはかかるが、時間が解決してくれる。
まずいのは、そういう(過去)があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
過去に振り回されること。
 
 その診断の目安のひとつが、「人格の完成度」ということになる。
満5~6歳になると、子どもの核(コア・アイデンテティ)が、見えてくる。
「この子は、こういう子」という、つかみどころをいう。
そのとき、「うちの子は、どこかおとなっぽい」と言うのであれば、よし。
しかし反対に、「うちの子は、どこか幼稚ぽい」と感じたとしたら、人格の核形成
が遅れているとみてよい。
幼稚園や保育園の中での言動を、ほかの子どもと比較すれば、それがわかる。

●子どもらしさと幼稚性

 誤解がないように書いておく。

 子どもが子どもらしい心をもっているということと、幼児性(幼稚性)が残って
いるというのは、別問題である。
子どもらしい、素直さ、明るさ、無邪気さをもっているというのは、むしろ好ましい。
一方、ここでいう幼児性(幼稚性)は、退行的な症状をいう。

 騒いでいけないような場所で、騒いでみせたり、平気で人が困るようなことを
したりする。
言ってはいけないような冗談を口にしたり、悪いことでも平気でする、など。
その場の雰囲気を、適切に判断できない。
赤ちゃん返りのような、甘ったれた、ネチネチしたものの言い方をするときもある。

 が、何よりも目立つのは、常識はずれな行為。
色水をバケツの中で溶かし、それを幼稚園のベランダから、下の子どもにかけていた
子ども(年長・男児)がいた。
コンセントに粘土をつめて遊んでいた子ども(年長・男児)もいた。
小学3年生の子ども(男児)だが、虫の死骸をマッチ箱に詰めて、それを誕生日
プレゼントにした子どももいた。
そういうのを幼児性(幼稚性)という。

●では、どうするか?

 自分で考える子どもにするには、読書が効果的である。
反対に、読書が好きな子どもは、例外なく、様子がおとなっぽい。
人格の完成度が高い。

 親自身についても、そうだ。

 先にあげた母親のばあい、識字能力に問題があり、本や雑誌をまったくといってよい
ほど、読まなかった。
ある日何かの書類を手渡したことがあるが、その母親は、それを見せるやいなや、
片手で、それを払いのけてしまった。
「私には、こんなもの、読めません!」と。
文字に対する拒否反応すら示していた。

 つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、母親の問題。
家族の問題ということになる。
子どもは、その家族の「代表」に過ぎない。

 母親は今でもガミガミと子どもたちを叱りつづけている。
叱られるべきは、母親自身ということになる。
が、悲しいことに、自分を客観的に判断する能力すら、もっていない。

●ものを書く

 あとは、ものを書くという習慣を勧める。
ものを書くことによって、人は考える。
その(考える)という習慣が、長い時間をかけて、その人の人格を完成させる。

 日記でもエッセーでも、何でもよい。
ひとつのことがらが気になったら、それについて、自分の意見を書き添える。
それだけのことで、考えるという習慣を身につけることができる。

 それを5年とか、10年単位でつづける。
その結果として、人は、「自ら考える人」になることができる。
繰り返すが、子どもの人格の完成度は、あくまでも、その結果として決まる。

+++++++++++++++

過去に書いた原稿の中から、
いくつかを紹介します。
以下2作は、03年(6年前)に
書いた原稿です。
内容的に多少、荒っぽいところも
ありますが、基本的な考え方は、
今も変わっていません。

+++++++++++++++

●欲望vsコントロール

 こんな男性(45歳)がいた。子どものころから親の異常なまでの過干渉で、性格が萎
縮していた。そのため、どこかふつうではなかった。

 その男性の特徴は、自分の欲望をコントロールできなかったこと。正月用に買い置きし
ておいた料理でも、食べてしまったり、生活費でも、パチンコ代に使ってしまったりした。
そこで70歳近い母親が、それを叱ると、「ちょっと食べてみたかっただけ」「ちょっと遊
んでみたかっただけ」と、弁解したという。

 この話を聞いたとき、私は、子どもにも、似たような子どもがいることを知った。その
年齢であるにもかかわらず、とんでもないことをする子どもは、多い。先生のコップに殺
虫剤を入れた子ども(中学男子)や、無免許で、母親の車を乗りまわした子ども(高校男
子)などがいた。そしてつぎのような結論を得た。

 「おとなになるということは、自分の欲望をコントロールすること」と。

 してよいことと、悪いことを冷静に判断して、その判断にしたがって行動することがで
きる人を、おとなという。またそれができない人を、子どもという、と。そしてこの部分
に焦点をあてて子どもを観察すると、人格の完成度がわかる、と。

 たとえば先日も、やや太った女の子に向かって、「お前、デブだな」と言っていた男の子
(小2)がいた。すかさず私はその男の子をたしなめたが、その子どものばあい、言って
よいことと悪いことの判断が、つかない。

 小学2年生ともなれば、もうそのあたりの判断力があっても、おかしくない。が、それ
がないということは、人格の完成度が遅れているということになる。

 こうした完成度は、年齢とは関係ないようだ。60歳とか70歳とかになっても、遅れ
ている人は、遅れている。つい先日も、こんな事件があった。

 ある知人(64歳)から電話がかかってきて、こう言った。

 「うちの家内が言うには、林君から、おかしな電話がかかってきたというが、何の用だ
った?」と。

 いろいろな事情があって、私はその電話のとき、彼の奥さんに、遠まわしな言い方をし
た。それは事実だが、その電話を、「おかしな電話」と。たとえそうであっても、そういう
ことは、スケズケとは言わない。「おかしな電話とは何だ!」と、思わず言いそうになった
が、やめた。そういう人は、相手にしないほうがよい。

 もっとも、人間は、45歳前後を境にして、脳の活動も、そしてそれを支える気力も、
急速に衰えてくる。それまでは、何かと人格者ぶっていた人も、それがメッキであったり
すると、はげ始める。そこに、老人特有のボケが加わると、さらに、はげ始める。

 ここでこわいのは、このとき、その人の人格の「核(コア)」が、モロに外に出てきてし
まうこと。つまり、「地(じ)が出る」。

 考えてみれば、人格者ぶることは、簡単なこと。多少の演技力があれば、だれにだって
できる。さももの知りのような顔をして、だまっていればよい。しかし演技は演技。長つ
づきしない。人格の「核」というのは、そういうもの。一朝一夕にはできない。と、同時
に、実は、かなり早い時期にできる。

 青年期か? ノー。もっと早い。少年、少女期か? ノー。もっと早い。私の印象では、
その方向性は、年長児のころに決まるのではないかと思っている。この時期の子どもを、
少していねいに見れば、そののち、どんな人格者になるかどうか、だいたい、わかる。

 欲望の誘惑に強い子どもがいる。欲望の誘惑に弱い子どももいる。たとえば幼児でも、
ある一定のお金をもたせると、それをすぐ使ってしまう子どももいれば、そうでない子ど
ももいる。中には、「貯金して、お料理の道具を買う」と言う子どももいる。「その道具で、
お母さんに料理を作ってあげる」などと言う。

 こうした方向性は、すでに幼児期に、決まる。そしてそれが、ここでいう人格の「核」
となっていく。

 そこであなた自身の問題。あなたは、自分の欲望を、しっかりとコントロールできるだ
ろうか。もしそうなら、それでよし。しかしそうでないなら、あなたは、真剣に自分の老
後を心配したらよい。私も実は、中身はボロボロ。欲望には、弱い。誘惑にも、弱い。今
は、懸命にそういう自分と戦い、それを隠しているが、やがて外に出てくる。

 冒頭にあげた男性の話を聞いたとき、「私のことではないか」と、思った。さあ、どうし
よう?
(03年12月26日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「親である」という幻想

●親を美化する人

 だれしも、「親だから……」という幻想をもっている。あなたという「親」のことではな
い。あなたの「親」についてで、ある。

 あなたは自分の親について、どんなふうに考えているだろうか。「親は、すばらしい」「親
だから、すべてをわかっていてくれるはず」と。

 しかしそれが幻想であることは、やがてわかる。わかる人には、わかる。親といっても、
ただの「人」。ただの人であることが悪いというのではない。そういう前提で見ないと、結
局は、あなたも、またあなたの親も、苦しむことになる。

 反対に、親を必要以上に美化する人は、今でも、多い。マザーコンプレックス、ファー
ザーコンプレックスをもっている人ほど、そうだ。それこそ、森進一の『♪おふくろさん』
を聞きながら、毎晩のように涙を流したりする。

 つまりこのタイプの人は、自分のコンプレックスを隠すために、親を美化する。「私が親
を慕うのは、それだけ、私の親がすばらしいからだ」と。

●権威主義

 もともと日本人は、親意識が強い民族である。「親は絶対」という考え方をする。封建時
代からの家(先祖)意識や、それにまつわる権威主義が、それを支えてきた。たとえば江
戸時代には、親から縁を切られたら、そのまま無宿者となり、まともに生きていくことす
ら、できなかった。

 D氏(54歳)は、近所では、親思いの、孝行息子として知られている。結婚して、も
う30年近くになるが、今でも、給料は、全額、母親に渡している。妻もいて、長女もす
でに結婚したが、今でも、そうしている。はたから見れば、おかしな家族だが、D氏自身
は、そうは思っていない。「親を粗末にするヤツは、地獄へ落ちる」を口グセにしている。

 D氏の妻は、静かで、従順な人だった。しかしそれは、D氏を受け入れたからではない。
あきらめたからでもない。最近になって、妻は、こう言ってD氏に反発を強めている。「私
は結婚したときから、家政婦以下だった。私の人生は何だったの。私の人生を返して!」
と。

 自分自身が、マザーコンプレックスにせよ、ファーザーコンプレックスにせよ、コンプ
レックスをもつのは、その人の勝手。しかしそれを妻や子どもに、押しつけてはいけない。

 D氏について言えば、「親は絶対!」と思うのは、D氏の勝手。しかしだからといって、
自分の妻や子どもに向って、「自分を絶対と思え」「敬(うやま)え」と言うのは、まちが
っている。が、D氏には、それがわからない。

●親を見抜く

 まず、親を見抜く。一人の人間として、見る。しかしほとんどの人は、この段階で、「親
だから……」という幻想に、振りまわされる。とくにマザーコンプレックス、ファーザー
コンプレックスの強い人ほど、そうである。

 かりに疑問をもつことはあっても、それを自ら、否定してしまう。中には、他人が、自
分の親を批判することすら、許さない人がいる。

 U氏(57歳)がそうである。

 U氏の父親は、数年前に死んだが、その父親は、金の亡者のような人だった。人をだま
して、小銭を稼ぐようなことは朝飯前。その父親について、別の男性が、「あんたの親父(お
やじ)さんには、ずいぶんとひどい目にあいましたよ」と、こぼしたときのこと。U氏は、
猛然とその男性にかみついた。それだけではない。「あれは、全部、私がしたことだ。私の
責任だ。親父の悪口を言うヤツは、たとえ友人でも、許さん」と。そのとき、そう言いな
がら、その男性の胸を手でつかんだという。

 U氏のような人にしてみれば、そういうふうに、父親をかばうことが、生きる哲学のよ
うにもなっている。私にも、ある日、こう言ったことがある。

 「子どもというのは、親から言葉を習うものです。あなただって、親から言葉を習った
でしょう。その親を粗末にするということは、人間として、許されないことです」と。

 「親を見抜く」ということは、何も「粗末にする」ことではない。親を大切にしなくて
もよいということでもない。見抜くということは、一人の人間として、親を、客観的に見
ることをいう。つまりそうすることで、結局は、今度は、親である自分を知ることができ
る。あなたの子どもに対して、自分がどういう親であるかを、知ることができる。
 
● きびしい親の世界

親であることに、決して甘えてはいけない。つまり、親であることは、それ自体、きび
しいことである。

マザーコンプレックスや、ファーザーコンプレックスが悪いというのではない。えてし
て、そういうコンプレックスをもっている人は、その反作用として、自分の子どもに対
して、同じように考えることを求める。

 そのとき、あなたの子どもが、あなたと同じように、マザーコンプレックスや、ファー
ザーコンプレックスをもてば、よい。たがいにベタベタな関係になりながら、それなりに
うまくいく。

 しかしいつも、そう、うまくいくとは、かぎらない。親を絶対化するということは、同
時に親を権威化することを意味する。そして自分自身をまた、親として、権威づけする。「私
は、親だ。お前は、子どもだ」と。

 この権威が、親子関係を破壊する。見た目の関係はともかくも、たがいの心は、離れる。

●親は親で、前向きに

 親は親で、前向きに生きていく。親が子どものために犠牲になるのも、また子どもが親
のために犠牲になるのも、美徳でも何でもない。親は、子どもを育てる。そしていつか、
親は、子どもの世話になる。それは避けられない事実だが、そのときどきにおいて、それ
ぞれは、前向きに生きる。

 前向きに生きるというのは、たがいに、たがいを相手にせず、自分のすべきことをする
ことをいう。かつてあのバートランド・ラッセルは、こう言った。「親は、必要なことはす
る。しかしその限度をわきまえろ」と。

 つまり親は、子どもを育てながら、必要なことはする。しかしその限度を超えてはなら
ない、と。このことを、反対に言うと、「子どもは、子どもで、その限度の中で、懸命に生
きろ」ということになる。また、そうすることが、結局は、親の負担を軽減することにも
なる。

 今、親の呪縛に苦しんでいる子どもは、多い。あまりにも、多い。近くに住むBさん(4
3歳、女性)は、嫁の立場でありながら、夫の両親のめんどうから、義理の弟の子どもの
めんどうまで、押しつけられている。義理の弟夫婦は、今、離婚訴訟の最中にある。

 Bさんの話を聞いていると、夫も、そして夫の家族も、「嫁なら、そういうことをするの
は、当然」と考えているようなフシがある。Bさんは、こう言う。

 「(義理の)父は、長い間、肝臓をわずらい、週に2回は、病院通いをしています。その
送り迎えは、すべて、私の仕事です。(義理の)母も、このところ、さらにボケがひどくな
り、毎日、怒鳴ったり、怒ったりばかりしています。

 そこへ、(義理の)兄の子どもです。今、小学3年生ですが、多動性のある子どもで、1
時間もつきあっていると、こちらの頭がヘンになるほどです」と。

 こうしたベタベタの関係をつくりあげる背景に、つまりは、冒頭にあげた、「幻想」があ
る。家族は、その幻想で、Bさんを縛り、Bさんもまた、その幻想にしばられて苦しむ。
しかしこういう形が、本当に「家族」と言えるのだろうか。またあるべき「家族」の姿と
言えるのだろうか。

●日本の問題

 日本は、今、大きな過渡期を迎えつつある。旧来型の「家」意識から、個人型の「家族」
意識への変革期にあるとみてよい。家があっての家族ではなく、家族あっての家という考
え方に、変りつつある。

 しかし社会制度は、不備のまま。意識改革も遅れている。そのため、今、無数の家々で、
無数の問題も、起きている。悲鳴にも近い叫び声が聞こえている。

 では、私たちは、どうしたらよいのか。またどうあったらよいのか。

 私たちの親については、しかたないとしても、私たち自身が変ることによって、つぎの
子どもたちの世代から、この日本を変えていかねばならない。その第一歩として、私たち
がもっている幻想を捨てる。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係。1対1の人間関係。1人の人間と、1人の
人間の関係で、成りたつ。「親だから……」と、親意識をふりかざすことも、「子どもだか
ら……」と、子どもをしばることも、これからは、やめにする。

 一方、「親だから……」「子どもだから……」と、子どもに甘えることも、心して、最小
限にする。ある母親は、息子から、土地の権利書をだましとり、それを転売してしまった。
息子がそのことで、母親を責めると、母親は、平然とこう言ったという。「親が、先祖を守
るため、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 こういうケースは、極端な例かもしれないが、「甘え」も、行き着くところまで行くと、
親でも、こういうものの考え方をするようになる。

 もちろん子どもは子どもで、その重圧感で悩む。その息子氏とは、この数年会っていな
いので、事情がわからないが、最後にその息子氏は、私にこう言った。「それでも親ですか
ら……」と。息子氏の苦悩は、想像以上に大きい。

 さてあなたは、その幻想をもっていないか。その幻想で苦しんでいないか。あるいは、
その幻想で、あなたの子どもを苦しめていないか。一度、あなたの心の中を、のぞいてみ
るとよい。
(03年12月27日記)

【追記】

 正月が近づくと、幼児でも、「お正月には、実家へ帰る」とか言う子どもがいる。しかし
「実家」とは何か? もし祖父母がいるところが、実家なら、両親のいるところは、「仮の
家」ということになる。

 家族に、実家も、仮の家もない。こうした、封建時代の遺物のような言い方は、もうや
めよう。

 農村地域へ行くと、「本家(屋)」「新家(屋)」という言い方も残っている。20年近く
も前のことだが、こんなことを言った母親がいた。「うちは、あのあたりでも、本家だから、
息子には、それなりの大学に入ってもらわねば、世間体が悪いのです」と。

 日本人の意識を「車」にたとえるなら、こうした部品の一つずつを変えていけないと、
車の質は変わらない。

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ファーザーコンプレックス)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【貧者の論理】

+++++++++++++++++++

近代経済学が、なぜ、世情に合わないか。
国際政治学でも、よい。
近代経済学は、世情を捉えるのに、ことごとく失敗している。
理屈どおりには、いかない。
理論どおりにも、進まない。
そこで経済学者たちは、頭を悩ます。
国際政治は混乱する。

それもそのはず。
経済学者たちには、(こういうふうに大上段に
構えて、ものを書くのも気が引けるが)、
貧者には貧者の論理というものがある。
貧者の論理は、理屈や理論どおりには、動かない。
そのことがまったく、わかっていない。

貧困が、嫉妬、ひがみ、ねたみ、うらみ、いじけを生む。
それらが複雑に屈折し、絶望、虚無主義につながる。
善悪の基準そのものも、ちがう。
リッチな世界では重犯罪でも、貧者の世界では
ただの(遊び)。
窃盗にしても、貧者の世界では、窃盗されるほうが、
悪いとなる。

この(ちがい)が、経済学者が考える経済理論を、
根底からくつがえす。
国際政治学にしても、そうだ。
きれいごとだけでは、国際政治は動かない。
つまり数字や理屈で考える常識では、理解不能。
いくら想像力を豊かにしても、貧者の論理は、その
向こうにある。

+++++++++++++++++++++

●観光事業

 たまたまこんな事例がある。

 韓国側の1民間企業が主体となって、K国への観光事業を始めた。
その1民間企業にとっては、メリットは大きい。
K国内での観光事業を、独占的に展開できる。
一方、K国側は、観光客の落とす現金で、潤う。

 が、その観光事業は、現在、中断している。
理由は、観光客の射殺事件。
K国側は、その事件について、正式に謝罪をしていない。
補償もしていない。
事件の調査すら、韓国側にさせていない。

 韓国政府が、観光事業を中断させるのは、当然である。

 が、これに対して、1民間企業である観光会社の社長が、K国まで行って、直談判。
社長と、K国の幹部とは、何やら深い関係にあるらしい。
これに対して、K国側は、「観光事業を再開してほしい」と。

 その返答を受けて、社長は意気揚々と韓国へ帰ってきた。
が、韓国政府の反応は、こうだ。
「国としての正式の回答ではないので、政府としては、何とも返事をしかねる」と。
これにK国が、反発した。

 そのときのニュースが、これ(時事通信11月25日)。

『朝鮮中央通信は25日、中断しているK国の金剛山と開城での観光事業について、韓国
の玄仁沢統一相を、名指しで批判する朝鮮アジア太平洋平和委員会報道官談話を伝えた。
談話は南北間の観光事業について、「南朝鮮(韓国)当局が、対決の目的に悪用し、阻もう
としている」と主張した』と。

 とくに「?」なのが、「韓国当局が、対決の目的に悪用し」という部分。

●貧者の論理

 どうして、悪用なのか?
この理解不能の部分に、実は、貧者の論理が働いている。
貧者は、「援助してもらうのが、当然」と考える。
援助してもらうことについて、感謝の念は、最初から、ない。
だからその援助が止められることを、「悪用」ととらえる。

 誤解がないように書いておくが、「観光事業」とはいうものの、その中身は、「援助」。
道路整備から観光バス、宿泊施設の建設まで、韓国側で提供している。
わずかな距離の観光だが、その費用は、10~30万円。
韓国側の観光客は、法外な費用を払って観光する。
一方、K国側にとっては、そのまま貴重な外貨の収入源となる。
それを韓国側が、取りやめた。
それをK国は、「悪用」という。

●3年前の原稿より

 こうした貧者の論理を理解するためには、一度、あなた自身を貧者の立場に置いて
みる必要がある。
それについては、以前にも書いたので、そのまま紹介する。
日付は、06年の10月となっている。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●K国の核実験宣言

++++++++++++++++

K国が、核実験をすると、
公式に発表した。

だれにも相手にされなくなると、
悪あがきしてみせる。

「ならず者」の典型的な
行動パターンである。

++++++++++++++++

 とうとうというか、ついに、K国が、核実験を公式に宣言した。「アメリカの反共和国(反
北朝鮮)孤立圧殺策動が限界点を越えた状況にあって、われわれはこれ以上、傍観してい
るわけにはいかない」(10月3日・K国外務省)というのが、その理由だそうだ。

 アメリカが悪い。だから核実験をするのだ、と。

 とんでもない意見に聞こえるかもしれないが、貧者には貧者の論理(※)というものが
ある。その日の食べ物に困っている人にしてみれば、腹いっぱい、おいしいものを食べて
いる人を見ただけで、腹がたつもの。それはわかる。しかしそれを考慮に入れても、K国
のこの言い分には、(?)マークが、何個も並ぶ。

 が、もし核実験をすれば、それで本当に、K国は、おしまい。おしまいの、おしまい。
あとは自己崩壊するしかない。つまりK国は、現在、そこまで追いつめられている。K国
というより、金xxによる独裁政権は、そこまで追いつめられている。

 日本としては、金xx独裁政権を、自己崩壊させるのが、もっとも好ましいシナリオと
いうことになる。拉致問題も、それで解決する。

 しかし、問題は、韓国。いまだに、「同胞、同胞」と、K国にすりよっている。どこか演
歌的? どこか浪曲的? あのN大統領は、「北朝鮮の核は一理がある」とさえ言ったこと
がある。最近にいたっては、「K国が核実験をしても、戦時作戦統制権の単独行使には影響
しない」とまで言い切っている。「K国が核事件をしても、アメリカ軍は、必要ない」と。

 天下のおバカ大統領である。K国が核兵器をもてば、韓国内の軍隊は、すべて「紙くず」
(朝鮮N報)と化す。にもかかわらず、そういうことが、まるでわかっていない。あるい
はそのうち、「K国をここまで追いこんだのは、アメリカだ。日本だ」と言い出すかもしれ
ない。

 何度も書くが、K国の金xxは、もう(まとも)ではない。はっきり言えば、狂ってい
る。そういう人間を相手に、まともな議論などしても意味はない。金xxの言動を、いち
いち分析しても意味はない。真意はどうの、目的はどうのと、論じても意味はない。

 私たち日本人は、そういう前提で、K国問題を考え、K国の核開発問題を考える。K国
が自己崩壊すれば、韓国や中国は困るかもしれない。が、今の段階では、そんなことは日
本の知ったことではない。そういうのを、私たちの世界では、「自業自得」という。

 それにしても、とうとうここまで来たか……というのが、今の私の実感である。
 
【貧者の論理】(※)

 若いころ、オーストラリアの大学で、ある教授が口にした言葉である。名前は忘れたが、
その教授は、『貧困による公害(Pollution by Poverty)』という言葉を使った。

 つまり貧者には貧者の論理というものがあり、その論理を忘れて貧者を語ることはでき
ないというものだった。

 たとえば1人の金持ちと、1人の貧者がいたとする。金持ちは、自分が豊かであること
を、見せつけるともなく、見せつける。そして貧者に向かって、こう言う。「君も、ぼくの
ようになりたかったら、努力しなさい」と。

 金持ちは、貧者に努力の大切さを教えたつもりかもしれないが、貧者は、そうはとらな
い。貧者は、やがてその金持ちを、ねたむようになる。そしてこう思うようになる。「お前
たちのような人間がいるから、オレたちは貧しいのだ」と。

 そのよい例が、現在のK国である。

 情報が遮断(しゃだん)されていることもあるが、K国の人たちは、だれも、自分たち
の指導者がまちがっているとは思っていない。とくに金xxを取りまく人たちは、そうで
ある。

 西側の豊かさを見聞きするたびに、それをうらやましいと思う前に、「西側が、オレたち
の発展をじゃまするから、オレたちは貧しいのだ」と考える。豊かな生活といっても、その実感そのものがない。

 そのため貧者は、貧者であるがゆえに、屈折したものの考え方をする。そしてそのため、
貧者の世界では、勝者の論理は、ことごとく否定される。「核兵器を拡散させたら、世界は
たいへんなことになる」と説くのは、勝者の論理である。貧者は貧者で、別の論理で考え
る。そしてこう言う。

 「自分たちは核兵器をもっていて、何てことを言うのだ!」と。「第三世界」という言葉
も、そういう過程で生まれた。

 こうして勝者と貧者は、あらゆる場面で、ことごとく対立する。おおざっぱに言えば、
それがアメリカ流民主主義が、その世界でしか通用しないという理由でもある。さらにお
おざっぱに言えば、西側の経済論理が、その世界でしか通用しないという理由でもある。

 こうした貧者の論理にメスを入れ、それを解き明かそうとする努力も、いろいろな場面
でなされている。が、そのどれも結局は中途半端で終わってしまうのは、いつも勝者が勝
者の立場で、貧者を論ずるからである。
(06年10月4日記)

++++++++++++++++++++

07年にも、同じような原稿を書いていた。
こうして原稿を拾い出してみると、私は
ちょうど2年ごとに、同じことを考えて
いるのがわかる。
どうでもよいことだが・・・。

内容が一部、重複するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●今日・あれこれ

+++++++++++++++

K国は、K国で開発したミサイルを、
イランで実験していたという。

そのイランは、ウランの濃縮を加速
させているという。

K国とイラン。水面下で、深く、結
びついている。

+++++++++++++++

●貧者の論理

 貧者には、貧者の論理というものがある。(私はよく知っているぞ!)

 たとえばあなたが日々に生活に困り、今日の食べ物すらままならない生活をしていたと
する。子どもは腹をすかせて、泣いている。午後には、借金取りがやってくる。

 そういうとき、あなたの隣人は高級車を乗り回し、豪勢な買い物をしている。見ると車
の後部座席には、夕食の食材が、どっさり!

 そういう隣人を見て、あなたはうらやましいと思うだろうか。その隣人を、すばらしい
人と思うだろうか。が、実際には、そうではない。

 ここで貧者の論理が働く。貧者は、こう考える。「お前たちが富を独り占めにするから、
オレたちは貧しいのだ」と。

 が、そういう声は隣人には届かない。その隣人は、あなたに向かってこう言う。「あなた
も一生懸命、働きなさい。働けば、いい生活ができます」と。

 しかしあなたはそれに反発する。反発するだけではない。怒りすら覚える。隣人のアド
バイスは、こう言っているように聞こえる。「あなたが貧しいのは、あなたがなまけている
からだ」と。

 そうではない! この日本では、ほんのわずかでも、チャンスをつかんだ人だけが成功
する。そうでない人は、そうでない。それは個人の力というよりも、(流れ)の中で決まる。
あせればあせるほど、深みにはまり、ますます身動きが取れなくなってしまう。そういう
人は多い。

●富者の論理

 K国を理解するときは、この貧者の論理を念頭に置かねばならない。食糧はない。原油
もない。いろいろ経済政策を試みてはみるが、どれも、うまくいかない。失敗の連続。

 つまり相手の立場で、ものを見る。K国から見たら、この日本はどう見えるかというこ
と。このことは、日本に住んでいる、在日K国人と言われている人たちを見ればわかる。

 彼らは日本に住み、日本のことをたいへんよく知っている。同時に、K国のことも、た
いへんよく知っている。本来なら……というより、常識的に考えれば、K国の政治体制が
おかしいと、だれしも思うはず。しかし彼らは、そうは思っていない。日本の繁栄ぶりを
見ながらも、こう思っている。「この日本が繁栄しているのは、私たちが犠牲になったから
だ」「今も犠牲になっているからだ」と。

 貧者の論理がまちがっているというのではない。しかし富者の論理だけでものを考える
と、失敗する。そのよい例が、経済学である。

 ほとんどの近代経済学は、その富者の論理だけで成り立っている。国際政治にしても、
そうだ。大きく見れば、アメリカのイラク政策、イラン政策、さらにはK国政策も、アメ
リカという富者の論理ばかりが先行している。だからいつも限界にぶつかる。あるところ
までは正当性をもつが、それを乗り越えることができない。いつもそこで第三世界の反撃
をくらう。

●加工される貧者の論理

 だからといって、K国の核開発やミサイル開発を容認せよというわけではない。こうし
た貧者の論理を当てはめても、とうてい理解できないほど、K国の論理は、常軌を逸して
いる。むしろ貧者の論理を、逆手(さかて)に取って、自分たちを正当化している。

 そこで今度は、イランでのミサイル発射実験である。K国は、自国で開発した長距離ミ
サイルを、イランで実験していたという(5月16日)。

 日本にとっては、とんでもないニュースである。が、ここでもやはり貧者の論理が働く。
この日本でも、かつてこう言ったニュースキャスターがいた。当時は夜のニュース番組を
代表するキャスターだった。

 K国の核開発問題に触れながら、こう言った。「何、言っているんですか。アメリカだっ
て、核兵器をもっているではありませんか!」と。どこか吐き捨てるような言い方だった。
つまり、「核兵器を思う存分もっているアメリカが、K国の核兵器開発を問題にするのはお
かしい」と。

 しかし忘れてならないのは、K国の核兵器開発は、「日本向け」のもの。かねてから、K
国の政府高官たちは、そう繰り返し述べている。「韓国向け」ではない。もちろん「中国向
け」でもない。「アメリカ向け」という説もあるが、アメリカに対しては、「脅し」にすぎ
ない。

 私はこの発言にあきれて、即座にテレビ局に抗議の電話を入れた。あのA新聞社の系列
のA放送である。「拉致問題は、日本政府のデッチあげ」と主張してやまなかった、あのA
新聞社である。

 貧者の論理は貧者の論理でも、富者によって加工された貧者の論理である。

●経済制裁

 そういうK国に対して、経済制裁は、当然のことである。もっとわかりやすく言えば、
私たちは、目下、戦争状態にある。かつて「戦争は政治の延長である」と言った政治家が
いたが、戦争といっても、ある日、突然、始まるものではない。それまでの(くすぶり)
があって、ある日、ボッと火が燃えあがる。

 わかりやすく言えば、すでに戦争は始まっているということ。私たちがなすべきことは、
K国というよりも、K国の体制を崩壊させること。独裁政権であるがゆえに、ほかに方法
はない。

 が、この経済制裁を、つぎつぎと骨抜きにしているのが、ほかならぬK国の隣国の韓国
である。それについてはすでにたびたび書いてきたので、ここでは省略するが、今度は、
米中韓Kの、4か国首脳会議を画策している。南北首脳会談も画策している。もっとも4
か国首脳会議については、アメリカが異議を唱えたため、韓国政府は、「6か国協議の枠内
での4か国首脳会議」(5月16日)と、言いなおしている。

 どうであるにせよ、現在の韓国は、イコール、K国と考えてよい。つまりこの日本は、
韓国とも、すでに戦争状態にあるとみるべきである。

●東京に核兵器が!

 いろいろな意見がある。「原爆の1発や2発、(東京に落ちても)、どうということはない」
という意見もある。どこかの科学者が、ある雑誌で、堂々とそういう意見を披露していた
(雑誌「S」)。

 あるいは「K国には、核開発をする能力はない」と主張している学者も多い。

 しかしそのK国が、どうやら水面下で、イランと結びついているのがわかってきた。K
国はミサイル技術を提供し、イランは、核開発技術を提供する。……となると、今までの
図式が総崩れとなる。「K国、一国だけなら……」と考えていた人も多いかと思うが、それ
がグローバルな問題へと、ここで一気に拡大する。

 中東問題もからんでくる。米中、米ロ問題もからんでくる。もしそうなれば、(現実にそ
うなりつつあるが……)、それこそまさにK国の思うツボ。国際社会の混乱を引き寄せなが
ら、つぎに一気に、日本をおどしにかかってくるはず。

 そのとき、アメリカとの間に、相互不可侵条約のようなものであれば、仮にK国が日本
を攻撃しても、アメリカはK国に対して、手も足も出せない。日本は日本で、憲法9条に
制約されて、防衛に徹するしかない。

 たとえば仮に今、東京でK国の核兵器が爆発しても、日本は、それに対してK国に反撃
することもできない。もちろん今は、日本は、アメリカの核の傘のもとにあるから、一応、
アメリカがK国に反撃してくれることになっている。

 しかしそのアメリカにしても、自国を犠牲にしてまでも、日本を守ってくれるだろうか。
そんな疑問もないわけではない。

●ではどうするか?

 日本にとっての最良のシナリオは、K国が自己崩壊すること。これはK国の人たちのた
めでもある。あのFさん(韓国へ亡命したK国の元政府高官)や、韓国に脱北した人たち
も、みな、そう言っている。

 が、これに猛烈に反対しているのが、韓国政府であり、中国政府ということになる。と
くに韓国のN大統領の論理は、貧者の論理の上に成り立っている。

 「朝鮮半島が南北に分断されたのは、アメリカのせい」「しかも、こうした悲劇の基礎を
作ったのは日本」と。

 それが反米、反日運動の原点にもなっている。加えて、(1)「日本ごときに韓国が蹂躙
(じゅうりん)された」という憎しみ、(2)独立を自分たちの力でなしえなかったという
不完全燃焼感(以上、M氏談)もある。

 以上を考えていくと、私たち日本人がなすべきことは、ただひとつ。現在の日韓経済戦
争に勝利することである。わかりやすく言えば、韓国経済をたたきつぶす。

 ……こう書くと、かなり過激な意見に聞こえるかもしれないが、日本はそうでなくても、
向こう(=韓国)は、その気で、日本の常に挑戦をいどんできている。それがわからなけ
れば、韓国の中央N報、朝鮮N報、東亜N報の各紙を、ほんの少しでもよいから目を通し
てみることだ。

 「日本に勝った」「日本に負けた」の記事が、連日のように、トップ記事として並んでい
る。

 ……何はともあれ、東京とのど真ん中で、たった1発でも、核兵器が爆発してからでは、
遅いのである。それだけは忘れてはならない。
(07年5月17日記)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●母のこと

 「貧者の論理」というと、特別の人だけがもつ論理に考えるかもしれない。
しかし実際には、そうでない。
私だって、あなただって、その立場になれば、もつ。
私の母だって、そうだ。……そうだった。

 私は結婚する前から、実家に住む母に、収入の約半分を仕送りしてきた。
今のワイフと結婚するときも、それを条件として、ワイフと結婚した。
だからワイフは、以後、20年以上、何ひとつ不平や不満を言わず、それをつづけてくれ
た。

 が、一度(保護)(依存)の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではない。
最初は感謝されるが、1~2年もすると、それが当たり前になり、さらに1~2年もする
と、今度は相手側から請求されるようになる。

 仕送りの額を減らしたり、遅らせたりすると、かえって相手の反感を買ってしまう。
私の母のばあいは、泣き落とし戦術というか、そのつど、メソメソと泣き言を言ってきた。
兄もそうだった。
何かほしいものがあると、「~~がないで困る」「~~が壊れた」と電話をかけてきた。
こうして冷蔵庫、ステレオ、テレビなどなど。
コンロまで、別枠で、私が買って与えるようになってしまった。

 そんなある日、私は私の山荘へ母と兄を招待した。
山荘といっても、小さな山を買い、6年かかって、造成した土地である。
毎週土日に、ワイフと2人で、工事をした。
家だけは、地元の建築会社に建ててもらった。

 その山荘を見て、母は、こう言った。
「どうせ建てるなら、M町(実家のある町)に建ててくれればよかった」
「そうすれば、私が使えた」と。

 私の夢がかなったことを、母は喜んでくれるものとばかり思っていた。
が、母には、母の論理があった。
「親孝行をするのが、先。息子であるお前が、親よりいい生活をするのは許せない」と。
そうは言わなかったが、私には、そう聞こえた。

 だからといって、母を責めているのではない。
母は母で、貧者の論理で、ものを考えていた。

●机上の空論

 貧者の論理は、人間が原罪的にもつ(欲望)と深くからんでいる。
そのためにひとたび扱い方をまちがえると、その論理に毒されてしまう。
正常な判断力、思考力すら、見失ってしまう。

 これは人間性の問題というよりは、油断の問題と考えてよい。
つまり人は、いつもどこかで、(保護)(依存)の関係を保ちながら、他の人と交わってい
る。
それが複雑にからみあっている。
保護している人も、べつの場面では、だれかに依存している。
依存している人も、べつの場面では、だれかを保護している。

 が、ひとたびどこかで油断すると、そうした関係が、貧者の論理に毒されるようになる。
嫉妬、ひがみ、ねたみ、うらみ、いじけが、その人の心をゆがめる。
心そのものがゆがむため、自分でそれに気づくことは、まずない。
その一例が、現在のK国ということになる。

 韓国側が、観光事業を止めたことを、「被害」と、受け止める。
そして観光事業を再開しないことを、「悪用」と、とらえる。
韓国政府は先に、トウモロコシ1万トンの援助を申し出た。
それについても、「少なすぎる?」という理由で、K国側は、受け取りすら拒否している。

 私たち日本人からすると、「どこまでいじけるか?」ということになる。
しかし彼らは、けっして自分たちが、いじけているとは思っていない。
それが正当な行為と信じ切っている。
貧者の論理に毒されると、そういうものの考え方をするようになる。

 で、冒頭の話になる。

 経済学にもいろいろある。
そのつどいろいろな学者が自説を披露する。
しかしこと経済については、(国際外交もそうだが)、理論どおりには機能しない。
「援助してやったから、貧しい国の人たちは、感謝しているはず」
「~~億ドル、渡したから、これで国の再建はできるはず」と。
しかしこうした論理は、貧しい国の人たちには、通用しない。
彼らには、彼らを支える論理がある。
それが、「貧者の論理」ということになる。
言い換えると、貧者の論理にメスを入れないかぎり、経済学も、国際政治学も、いつまで
たっても机上の空論で終わってしまう。

 私は、それを書きたかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 貧者の論理 ゆがんだ心 歪んだ心 嫉妬 ひがみ 
いじけ 恨み)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov.09+++++++++はやし浩司

●36億円!

++++++++++++++++++

もちろん私の中にも、貧者の論理が
巣くっている。
「36億円」という数字をみたとき、
それを感じた。

++++++++++++++++++

●ケタはずれ

 あまりにもケタはずれなので、驚いた。
鳩山首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」をめぐる、政治資金収支報告書の
虚偽記載問題に関して、驚くなかれ、鳩山首相の実母が、自己名義の口座から、
何と計約36億円を引き出し、現金化していたという。

36億円だぞ。

 新聞などの報道によれば、「現金化された資金の一部が、首相の政治資金に
充てられた可能性もあるとみて、東京地検特捜部が、慎重に調べている」(C新聞)
とのこと。

 今のところ、「首相への貸付金なら、法的な問題は生じない」とし、「悪質ではない」
という理由で、直接の担当者については、在宅起訴程度ですませる予定という。

●悪意性はない?

 親子の間だから、多少の金銭の動きはあるだろう。
政治活動ともなれば、なおさら。
しかしその額が、問題。
約36億円!
つい先日、民主党のOZ党首の、3億円の献金が問題になった。
そのあと、自民党のAS前首相の、2億5000万円の機密費が問題になった。
しかし36億円というのは、1桁、桁がちがう。

 その36億円について、「貸付金なら問題はない」「悪質性はない」とは!
いくらそうであっても、貧者は、それでは納得しない。

●消えた36億円

 それにしても興味深いのは、つぎの2点。

(1) 36億円という巨額の資金は、どこへ消えたのか。
(2) 貸付金とはいうものの、そんな借金を、この先、どうやって返済するのか。

 この先、その中身は特捜部の捜査によって、少しずつ明らかになるだろう。
しかしいろいろな見方ができる。

 ひとつは、母親から鳩山総理大臣に対する、生前贈与。
毎月、小口に分けて送金したということから、それが疑われる。
だから鳩山総理大臣は、政治資金に使ったというよりは、自分の(財産)として、
それをプールした可能性も、なくはない。

 仮に政治資金として使われたとするなら、それによって利益を受けた人もいるはず。
どこに、どのように使われたのか。
考えれば考えるほど、疑惑がわいてくる。

●貧者のひがみ

 週に1回、温泉街にある温泉に行く。
1回の入浴料金は、1000円。
ゆかたを借りると、プラス300円。
たいてい帰りには、回転寿司の店に寄って、一皿100円の寿司を食べる。
あるいは全国チェーンのラーメン店に寄る。
計、2000円。
夫婦で遊んでも、4000円。

 計算するのもバカ臭いから、数字を並べてみる。

温泉+回転寿司            4000円
鳩山首相のポケットマネー 3600000000円

 「0」の数だけ並べ比べても、それがわかるはず。

 それでも、まあ、自分としては、リッチなほうっだと思っている。
好きなことを、予算を考えないでできる。
(たいした予算ではないが……。)

 しかしそれでも、36億円という金額は、想像できない。
しかも新聞報道によれば、毎月5000万円。
それを6年間!

●論理という非論理

 いつの間にか、この日本は、こんなバカげた国になってしまった。
こういう話を耳にするたびに、(まじめ)さが、この国から色あせていく。
つまり自分のしていることが、バカ臭くなっていく。

 もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 あなたには3人の子どもがいる。
みんな、腹をすかせている。
電気代もガス代も、節約しなければ、生活できない。
そんな中、隣の家を見ると、煌々と明かりがついている。
垣間見る台所には、食べ物が山のようになっている。

 そんなとき、だれかがあなたにこう言ったとする。

「この世は、より働くものが、よりよい生活ができる。
そうでないものは、そうでない」と。

 あなたはその論理に、素直に納得するだろうか。

●毎月5000万円、6年間!

 そういう人が、日本の総理大臣をしている!
私はこの事実が、許せない。
たとえばあのK国では、首都のP市に住む人だけが、それなりによい生活が
できるという。
P市に住めるというだけで、特権階級。
一方、地方では、09年の秋になってから、餓死者が出始めているという。

 そういう話を聞くと、私たちは、こう思う。
「何て、バカげた国なんだろう」と。
しかしそういう国を、だれが笑うことができるのか。
笑うことができないだけではない。
結局は、私たち日本人も笑われている。

 いくら「悪意性はない」と言っても、そんな論理は、まともな世界では通用しない。
はっきり言えば、狂っている。
一国の首相の母親が、毎月5000万円だと!
それを6年間も!

●退陣あるのみ

 何が、民主主義だ。
民主党だ。
名前を聞いて、あきれる。
民主主義の本質を、根底からひっくり返している。
民主主義そのものを、否定している。

これほどまでの不平等を、自ら放置し、容認するばかりか、その不平等の上に、
どっかりと腰をすえている。

 36億円というポケットマネーは、そういうお金。
どうしてそういう人物が、日本の首相でありえるのか。
日本の首相で、いてよいのか。

 自民党のあのAS前首相には、うんざり。
がっかり。
その上、鳩山首相まで!
いったい、私たちは何を信じたらよいのか。

 最後に一言。

 この問題は、「悪意性がない」とか、あるとかいう問題ではない。
私たちが今感じている、このやりようのない(怒り)。
それが、問題。
挫折感。
失望感。
それが、問題。

 昨日の世論調査によれば、民主党の支持率こそ、50~60%前後だそうだが、
鳩山首相個人への支持率は、10%前後しかないという。
当然のことだ。
あのAS前首相の支持率より低くなったことを、忘れてはいけない。

 「民主党」のために、鳩山首相、ならびに、OZ氏は、即刻退陣したらよい。
がんばればがんばるほど、民主党に与えるダメージは、大きくなる。
日本の民主主義は、後退する。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

【内閣官房報償費】(機密費)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

こんな記事が、中日新聞のトップに載っていた(09年11月21日)。

『官房・機密費・麻生氏退陣前、2億5000万円』

いわく「麻生内閣の河村建夫官房長官(当時)が、先の
衆院選2日後の9月1日に、機密費2億5000万円を
引き出していたことが判明。
毎月の支出額は、1億円程度で、退陣が決まっていた
麻生内閣の最後の支出は、突出している」と。

+++++++++++++++++++++++++++++++++

●大敗北の2日後に、2億5000万円?

わかりやすく言えば、衆議院銀選挙で、大敗北した麻生前首相が、その選挙の2日
あとに、機密費2億5000万円を引き出していたという。

何のために?
どうして?

機密費(正式には、「内閣官房報償費」という)について、ウィキペディア百科事典は
つぎのように説明する。

『官房報償費は国政の運営上必要な場合、内閣官房長官の判断で支出される経費。
内閣官房機密費とも呼ばれる。
会計処理は、内閣総務官が所掌(閣議決定等に基づく各本部等については、当該事務局が
分掌)する。

支出には領収書が不要で、会計検査院による監査も免除されている。
原則、使途が公開されることは無い。毎年約12億円ほどが、計上されている。
以前から「権力の潤滑油」などと呼ばれ、不透明な支出に疑惑の目を向けられていた。

しかし、近年の外務省や都道府県警察本部の報償費が裏金としてプールされたり、横領さ
れていた問題の発覚を受け、元内閣官房長官塩川正十郎が「外遊する国会議員に餞別とし
て配られた」、「政府が国会対策の為、一部野党に配っていた」、「マスコミ懐柔の為に、一
部有名言論人に配られていた」など、内閣官房報償費の実態をテレビで暴露する。

報償費の使い方にマスコミや一部野党による批判や追及が激しくなり、与野党政治家主催
のパーティ券購入や会食、紳士服の購入、さらには官房長官による私的流用疑惑なども噴
出する。

これを受け、会計検査院も管理が不十分と指摘する。政府は1998年には支出の基準(内
規)を設けた』と。

●機密費=報償費

 機密費というのは、

(1) 領収書が不要。
(2) 毎年、12億円ほどが計上されている、という。

 またその内容については、

(1)「権力の潤滑油」とも呼ばれている。
(2)国会議員に選別として配れたこともある。
(3)一部、野党にも配れたこともあるという。
(4)一部有名言論人に配られたこともあるという。
(5)パーティ券の購入や、紳士服の購入などにあてられたこともあるという。

 これもわかりやすく言えば、機密費というのは、内閣のポケット・マネーということに
なる。
では、どうして「機密費」と呼ばれるのか?

 機密的な仕事、たとえば「ゴルゴ13」に出てくるような、諜報活動などに使われる
から、「機密費」というのか。
それとも内閣が、極秘に使えるから、「機密費」というのか。
前者的な使用方法であれば、外務省あたりに、そうした機関があり、予算もそれなりに
つけられているはず。
内閣が独自に、諜報活動をするということは、役職的にも限界がある。

 となると、「機密費」の「機密」というのは、やはり「報償費」ということになる。

●大敗北の2日後に、2億5000万円?

 衆院選挙で大敗北したあと、麻生内閣は、機密費を、2億5000万円も引き出して
いたという。
もしこれが事実であるとするなら、(事実であることには、ほぼまちがいないが)、この
一事によって、麻生前総理大臣がどういう人であったかが、わかる。
一事が万事。
万事が一事。

 まさかとは思いたいが、麻生前総理大臣以下、当時の内閣は、退職金がわりに、
機密費を山分けしたとも考えられなくはない。
本来ならその時点で、政権交代は確実だったはず。
麻生前総理大臣の政治活動は、(終わり)に向かって、掃除段階に入っていたはず。
その日の授業がすべて終わり、「さあ、みなさん、掃除ですよ」というときの、「掃除」
である。

 どうしてそんなときに、2億5000万円も、必要だったのか?
私には、2億5000万円の上に、あの小ずるそうな笑みを浮かべた麻生前総理大臣
の顔がダブる。

●浮動票

 私は、自称、「浮動票の王様」。
(あるいは「川面に浮かぶ、枯れ葉」?)

「王様」というのもヘンだが、私はずっと、浮動票層の1人として、投票してきた。
そのときどきによって、支持政党が変わる。
自民党に入れることもあれば、共産党に入れることもある。
公明党に入れることもあれば、民主党に入れることもある。
が、私が動くところ、浮動票層もいっしょに、ザザーッと動く。
(その逆でもよいが……。)

 その浮動票層には、いくつかの「掟(おきて)」がある。

(1) ギリギリまで、支持政党、支持候補者を決めない。
(2) 自分が投ずる1票は、死に票にしない。
(3) 極端な勝ち組は作らない。
 
 これは私が決めた掟だが、浮動票層の人たちは、おおむね、同じような掟をもっている
とみてよい。

 世間一般の人は、「浮動票層」というと、半ば軽蔑の念をこめて、私たちをそう見る。
が、ひょっとしたら、どこかの政党を支持する人たちよりも、はるかに政治について
真剣に考えている。
(もちろん、そうでない人もいるが……。)

何も考えないで、盲目的に、どこかの政党を支持するほうが、実際には楽。
そういう人のほうが、多い(?)。

●「やっぱり、なア~」

 が、前回の衆議院議員選挙では、自民党が大敗退した。
浮動票層が、ドドーッと、雪崩(なだれ)をうって、民主党支持に回った。
本来なら、ここで「極端な勝ち組は作らない」というブレーキが働いたはず。
しかし前回は、そのブレーキが働かなかった。

 なぜか?

 理由は簡単。
「あの麻生だけには、勝たせたくない」という思いが、先に立った。

 が、一抹の不安はあった。

 民主党は、かねてから、反米意識が強く、選挙の前から、「脱・アメリカ追従外交」を
唱えていた。
そのうしろでは、さらに訳のわからない、OZ氏という、闇将軍が君臨していた。

 果たして、あの結果でよかったのか?
自民党は、大敗退。
民主党は、大勝利。
それでよかったのか?

……そんな疑念を、選挙のあと、浮動票の多くは、もったはず。
が、今回の機密費の公表で、その疑念は消えた。
「やっぱり、なア~」と。
つまり麻生前総理大臣は、自己の政治姿勢を、自ら証明して見せてくれた。
それが「2億5000万円」という数字ということになる。

●付記

 が、あえて、一言。
今、こうして機密費の支出が公表されたわけだが、それを公表した民主党の歯切れも、
あまりよくない。
「今度は、自分たちの番だ」と言わんばかりの、雰囲気である。

 政治の世界は、ドロドロした欲望の渦に、よくたとえられる。
今回の公表にしても、どこか陰謀臭い。
「やられたから、やり返す」と。
OZ氏の1億円の闇献金発覚の翌週に、こうした公表がなされた?

 何かしら国民である私たちだけが、振り回され、もてあそばれているような感じが
しないでもない。
そういうことも頭のどこかに入れながら、こうした記事は読んだほうがよい。
つまり一方的に、あの麻生氏は、悪だと決めてかかることもできない。
(善人でないことは、たしかだが……。)

 で、私の立場で、気になったのは、ウィキペディア百科事典に書いてあった、つぎの
一文。

「マスコミ懐柔の為に、一部有名言論人に配られていた」と。

 当時、いろいろとうわさされていた言論人(評論家やニュースキャスター)が、
いるにはいた。
ある大学教授の書いた本を、大量に購入し、ベストセラーに祭りあげたという話も、
聞いている。
さらにある政党では、機関誌に投稿してもらうことによって、常識では考えられない
高額の原稿料を払っていた。
つまりそういう形で、「一部有名人」を、懐柔していた。

もちろんそういうことのために、機密が使われたと言っているのではない。
ひょっとしたら、2億5000万円程度なら、この世界では、ハシタ金なのかも
しれない。
それ以上に、この世界は、ドロドロとした闇に包まれている。

 何とも言われない(怒り)を覚えて、一気にこの原稿を書いた。
(2009年11月22日・朝)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●Open Office

++++++++++++++++++++

ワープロソフトといえば、MSのワード。
定番ソフトだが、値段が高い。

……ということで、今日から、ワープロソフトを、
フリーソフトの(Open Office)に、
少しずつ乗り替えることにした。

MSのOfficeは、単体で購入しても、2万円前後。
(以下、MSのOfficeは、単に、Officeと表記。)

パソコンでも、Officeのプレ・インストール版は、
1~2万円ほど、割高になる。

パソコンが20万円を超えていた時代には、
それほど気にならなかった。
が、今は、平均価格も、10万円以下。
性能も、ぐんとよくなった。
ふだん家庭で使う分なら、それでじゅうぶん。
そういう時代だから、Officeの割高感が、
ぐんと身にこたえるようになった。
つまり、バカ臭くなった。

たとえば先日、ネットショップで、ミニパソを買った。
TOSHIBAのUXノート。
購入価格は、3万5000円。
それにOfiiceを載せると、
プレ・インストール版でも、
4~6万円。
近くの店で買うと、6万円~。
Officeを、単体で別に買うと、プラス、2万円。

そんなことがあって、ためしに今度、
Open Officeを
使ってみることにした。
(以下、Open Officeは、単にOOと表記。)

++++++++++++++++++++

●互換性

 いちばん心配なのが、互換性。
今まで書いてきた原稿が、無駄になってしまっては、意味はない。
で、恐る恐る、Officeと、OOの間で、文章を交換してみる。
Officeで書いた文章を、OOで開く。
適当に加筆し、それを一度保存をかけたあと、再び、Officeで開く。

 数度繰りかえしてみたが、まったく問題、なし!
となると、今までの、Officeは、何だったのかということになる。
10年ほど前には、パソコンを買い替えるたびに、7~8万円の出費を強いられた。
そのときのパッケージは今でも捨てられず、棚に飾ってある。

●OO(Opnen Office)

 Office 2007と比べて、・・・というより、今まで使いなれていたせいもある
が、使いにくい面もある。
が、これも(慣れ)の問題。
時間の問題。
ふと、昔、使っていた、ワープロ専用機を思い出す。

 あのころは、メーカーによって、キー配列まで異なっていた。
最初は、Sharpのワープロ。
それからToshiba、Fujitsuと、乗り替えていった。
そのつどそれまで書いた文章が、無駄になった。
ファイル交換機能というのはあるにはあったが、めったに使わなかった。
当時は、まだ「紙」全盛期。
紙に印字できれば、それでじゅうぶんだった。
それで満足した。
「他機種に変換してまで・・・」とは、だれも考えなかった。

 が、今は、互換性がなければ、使えない。
はたして、互換性は、だいじょうぶなのか。

 ・・・ここまで書いた文章を、一度コピーして、O.E.(メール)に張りつけて自分宛て
に送受信してみる。
うまくできるかな?

(この間、数分・・・。)

●無料

 たった今、O.E.にコピーして、自分宛てに送受信してみた。
が、まったく問題、なし!

 ・・・ウム~~~ン・・・

 しかし大量の文書は、どうなのか。
今度は、自分のHPから、600ページ(40x36)を、ダウンロードして、別の新規
作成文書に、張りつけてみる。

(この間、1分程度)

 難なく、コピー、張りつけができた!
まったく問題、なし!
驚いた!

 が、OOには、「編集記号」がない。
そこで(表示)→(編集記号)と進み、(編集記号)をクリックしてみる。
とたん派手な記号が、ズラズラと、文面に現れた。
ギョッ!
あわてて編集記号を消す。

 ・・・とまあ、こうした戸惑いがあるのは、しかたない。
無料ということだから、文句は言えない。
この先のことを考えると、やはりOOを使ったほうが、得。
ここは慣れるしかない。

 そう言えば、コンピュータ技師をしている二男も、数年前に、こう言っていた。
「パパ、オープン・オフィスにしなよ。MSのオフィスは、不安定だから・・・」と。

 今になって、二男の言った言葉の意味が、よくわかる。

 で、どうして、今、OOかって?
実は、今朝、1時間あまり書いた文章が、あやうく途中で、消えそうになった。
あちこちをいじって、何とか復元できた。
が、Office 2007にしてから、こうした不調がたびたび起こるようになった。
で、OOへの切り替えを考えた。
たしかにワードは、不安定。
それがきっかけ。
けっしてお金だけの問題ではない。

(疑問)

 WINDOW7では、どうかな?
OOは、うまく作動するのかな?
WINDOW7のOSは、先日、購入した。
が、まだこわくて、使えないでいる。


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