2009年12月30日水曜日

*E-Magazine (Dec 30th)

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   30日号
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

●2009年は、これでおしまいです。
どうかみなさん、よい新年をお迎えください。
また来年もよろしくお願いします。

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http://bwhayashi2.fc2web.com/page028.html

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・心の問題、あれこれ】

●心の一貫性

良好な人間関係は、生きる基本。
それができる人を、人格の完成度が高い人という。
それができない人を、そうでないという。
良好な人間関係を決める第一の鉄則が、一貫性。
一貫性があれば、相手は安心する。
あなたを信頼する。
その安心感や信頼感が、良好な人間関係をはぐくむ。

が、この一貫性には、2つの意味がある。

表の意味と裏の意味。
称して、「表の一貫性」と、「裏の一貫性」。
「対人の一貫性」と、「反応の一貫性」と言い換えてもよい。
「行動の一貫性」と、「心の一貫性」と言い換えてもよい。

ルールは守る。
ウソはつかない。
そのときどきにおいて、動じない。
コールバーグという学者は、そういう人を「道徳の完成度の高い人」と説いた。
これが表の一貫性。
この表の一貫性がないと、言動がコロコロと変わることになる。
一義的には、信用をなくす。
相手を不安にする。

もうひとつは、裏の意味。

言うなれば、「反応の一貫性」ということになる。
同じことをしてやっても、そのときどきの気分に応じて、反応が変化する。

たとえば何かの荷物をもってやったとする。
それに対して、あるときは、たいへんな喜び方をし、あなたに感謝する。
が、つぎのときには、ブスッとしている、など。

裏の一貫性がなくなると、つきあうこちら側が、不安になる。
こちらの心が相手に伝わらなくなる。
親切にしてやっても、次の機会には、それを忘れてしまったかのような
言動を示す。
もちろん誠意も通じなくなる。

●Iさん(40歳くらい、女性)

 Iさんという女性がいる。
もちろん架空の女性である。
何人かの女性を、1人の女性に仕立ててみた。

 そのIさんは、そのときどきの気分に応じて、様子ががらりと変わる。
機嫌のよいときは、愛想もよく、会う人ごとにニコニコと笑いながら、あいさつを交わす。
が、ひとたび機嫌をそこねると、ささいなことで激怒。
ふつうの激怒ではない。
近所中に聞こえるような大声で、怒鳴り散らす。

 あるとき、自分の家の前にだれかが、車を無断駐車した。
ほんのわずかな時間だった。
道路の反対側の家の人に、何かの届け物を届けるために、そこに駐車した。
が、Iさんは激怒。

 駐車場から自分の車を出すと、その人の車の前に、横向きに置いた。
で、数分後、その車の持ち主が届け物を置いて出てくると、自分の車が動かせなくなって
いた。
が、その人に向かって、Iさんは、こう怒鳴った。
「2万円、もってこい。このバカヤロー!」と。

 大声を聞いて、道路の反対側の人たちも出てきた。
しかしみな、Iさんのあまりの剣幕に、足が震えたという。

 この話をしてくれた、道路の反対側に住んでいる知人は、こう言った。

「よく私の家の前に、自分でも車を停めることがあるのですよ。
機嫌のいいときには、『すみませんね』と言って、声をかけてくれます。
でも、一度でもああいうことがあると、不安になります。どうつきあって
いいのか、わからなくなります」と。

●努力の問題

 表の一貫性を保つことは、先にも書いたように、良好な人間関係を築く基本である。
教師という職業においては、それがとくに強く、要求される。
そのときどきの気分で、教え方が変化するというのは、たいへんまずい。
相手が幼児のばあいは、なおさらである。

 子どもの側から見て、安心感をもてない。
安心感をもてないから、最低限のところで、教師に合わせようとする。
つまり委縮する。

 同じように裏の一貫性を保つことも、良好な人間関係を築く基本である。
わかりやすく言えば、そのときどきの気分に左右されて、反応を変えては
いけない。
これは人間性の問題というよりは、努力の問題と考えてよい。
というのも、この問題には、心の問題がからむ。
ここに書いたIさんにしても、この10年以上、うつ病の薬をずっとのんでいる。
何かのことで(こだわり)をもつと、自らその深みに、どんどんと入りこんでいって
しまう。

 が、Iさんほどではないにしても、私たちはみな、それぞれいろいろな心の問題を
かかえている。
最近の精神医学の分野では、「正常」の定義すら、していない。
つまりこの世の中には、「正常」と呼べる人はいない。
だから「努力の問題」ということになる。

 たとえば簡単なことだが、子ども(生徒)が、何かの絵を描いてきて、私に見せたと
する。
そういうとき私は、努めて、同じような反応を示すようにしている。
花丸を描き、ほうびのシールを張り、その絵をしばらく掲示板に飾る。
その間に、子どもをほめ、頭をさすってやる。
もちろん本気で喜んでみせる。

 つまりこうした「裏の一貫性」を貫くことで、子どもは安心する。
その安心感が、子どもを伸びやかにする。
(私の生徒は、1、2年もすると、みんな伸びやかになるぞ!
ウソだと思うなら、YOUTUBEを見てほしい!)

 こうした裏の一貫性は、行動としてパターン化しておくとよい。
というのも、私はもともと、情緒がそれほど安定していない。
こだわりも強い。
だから自分の行動をパターン化することで、裏の一貫性を保つようにしている。
そうでない、つまり情緒の安定している人からすれば、「何だ、そんなことか!」と
思うかもしれない。
しかし私には、「努力」が、必要ということになる。

 「表の一貫性」「裏の一貫性」。
これはよき家族を築くためにも、必要条件ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 表の一貫性 育児の一貫性 教育の一貫性 子育ての一貫性 はやし
浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 一貫性 人格の完成度 道徳の完成度 表の一貫性 裏の一貫性 反応の一
貫性 心の一貫性 はやし浩司 行動の一貫性 コールバーグ 道徳の完成論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【高学歴の条件(逆流的教育論)】

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「高学歴」のもつ意味が、大きく変化
しつつある。
「高学歴者」イコール、「成功者」あるいは
「人格者」と考えるのは、今では幻想以外の
何物でもない。

が、高学歴への志向性がなくなったわけではない。
ここでは、どうすれば高学歴をめざせるのか
について考えると同時に、高学歴者のもつ
責務について、考えてみたい。

+++++++++++++++++

(1) 環境
親の学歴(親の思考パターンが、世代連鎖する)
親の収入(高品質の教育を受けられる)(※1)
教育環境(地方よりも、都会のほうが有利)
育児環境(親の育児姿勢、育児観、教育観が影響する)

(2) 能力
遺伝的要素(否定する人も多いが、実際には遺伝的要素は否定できない)

●高学歴者の問題点

(1) 合理主義的なものの考え方(情感的なものの考え方ができない)
(2) 自己中心的なニヒリズム(自分勝手で、他者の犠牲を過小評価する)
(3) 点数主義(順位、成果、数字、成績に大きくこだわる)
(4) 優越・劣等感覚(低学歴者に対して、優越感をもつ)
(5) 社会性の欠落(家庭人としての常識の欠落) 

●権威主義の崩壊

(1) 高学歴の意義の変化(EUに見る、大学の権威の崩壊)
(2) 学歴から実力主義への転換。(「何ができるか」が評価される)
(3) 教育制度の自由化(大学間の単位の共通化、入学後の学部学科の変更の自由など)
(4) その一方で、受験競争の低年齢化(小学受験、中学受験が、関門になっている)
(5) 子どもたちの二極化(学力試験の形骸化とともに、学力の低下が指摘されている)
(6) 新家族主義の台頭(2000年を境に、親たちの意識が大きく変化した)
(7) 大卒から大学院卒への高学歴化(「大卒」程度では役にたたない)

●高学歴者を見る社会の変化

(1) 学歴から専門評価へ(「何ができるか」が問題)
(2) 人格評価の変化(AO入試の採用など)(※2)
(3) 大卒後の各組織体による再教育制度の充実(とくに文系出身者)
(4) 高学歴をありがたがる官僚制度(学歴制度温床の場としての官僚制度)

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以下、順に、考察を加えてみたい。

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(※1)【年収と学力】(Parent’ s Income and their Children’s Ability of Studying)

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予想されてはいたことだが、平たく言えば、
金持ちの親の子どもほど、成績は総じてよいということ。
文科省は、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)
をもとに、このほど、そのような調査結果を公表した。

+++++++++++++++++++++

●年収200万円層

 時事通信(8月5日)は、以下のように伝える。
 
『年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生を
対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委託
研究で4日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは初
めて。

 委託研究では、5政令市にある公立小、100校を通じて、6年生約5800人の保護
者から家庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力
テストの結果と照合した。

 学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、
世帯年収ごとに子供を分類すると、いずれも200万未満の平均正答率(%)が、最低だ
った。

 正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満
だと、200万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答
率が微減に転じた』(以上、原文のまま)と。

●数字の整理

 数字を整理してみる。

(1) 年収200万円未満の平均正答率が、最低だった。
(2) 年収が1200万円~1500万円の層は、200万円未満の層より、20ポイン
ト、高かった。
(3) ただ1500万円以上では、正答率は、微減に転じた。
 
つまり金持ちの子どもほど、成績はよいということ。
しかし年収が1500万円を超えた層では、正答率が微減に転じた、と。
 
が、この調査ほど、納得がいくというか、矛盾を感じない調査はない。
年収1500万円以上の子どもたちの正答率が微減したということについても、
妙に納得がいく。
その分だけ、子どもがドラ息子しているとも解釈できる。
 
しかし親の年収で、子どもの学力に(差)が出るということは、本来は、あってならない
こと。

しかし現実には、ある。
「金持ちの親の子どもほど、学力が高い」と。
が、ここで新たな疑問が生まれる。
親の年収と、子どもの学力を、そのまま関連づけてよいかという疑問である。

●学歴と親の年収

 それ以前の問題として、親の学歴と、親の年収との間には、明らかな相関関係がある。
学歴が高ければ高いほど、年収も高い。
言い換えると、このことから、親の学歴が高ければ高いほど、子どもの正答率も高くなる
と言えなくもない。

(親の学歴が高い)→(年収が多い)→(子どもの正答率が高くなる)、と。
子どもは、いつも親の影響を受けながら、成長する。
つまり年収だけをみて、「親の年収が子どもの学力に影響を与える」と考えるのは、少し、
短絡的すぎるのではないのか?
(もちろん今回の調査では、そんなことは一言も述べていないが……。)

 つまりもっと正確には、(親の学歴が低い)→(その分だけ、家庭における知的環境レベ
ルが低い)→(子どもの知的学習能力も低くなる)→(正答率が低くなる)、ということで
はないのか。

 もし親の年収が子どもの学力に直接的に影響を与えるものがあるとするなら、塾などの
学外教育費用、あるいは学外教材費用の面である。
年収に余裕があればあるほど、子どもの学外教育に、親はお金をかけることができる。

●親の知的レベル

 「知的レベル」という言葉を使ったので、それについて補足。
 親の知的レベルが、子どもの知的レベルに大きな影響を与えるということは、常識と
考えてよい。

(ただし親の学歴が高いから、親の知的レベルが高いということにはならない。
反対に、親の学歴が低いから、親の知的レベルが低いというこにもならない。)

 「知的レベル」というのは、日々の生活の場で鍛錬されて、決まるもの。
学歴のあるなしは、それに影響を与えるという程度のものでしかない。
要するに、親のものの考え方次第ということ。
それが子どもに知的好奇心、問題の解決能力に大きな影響を与える。

●知的レベルの怖ろしく低い親

3、4年前のことだが、私はこんな場面に遭遇したことがある。
その家の長男(当時、35歳)に愛人ができ、離婚騒動がもちあがった。
そのときのこと。
その長男の父親は、一方的にどなり散らすだけ。
「テメエ、コノヤロー、オメーモ、男だろがア!」と。
 
 が、これでは会話にならない。
話し合いにもならない。
もちろん騒動は解決しない。
私はその父親の言葉を横で聞きながら、その父親のもつ知的レベルのあまりの
低さに驚いた。

 別のところで話を聞くと、その父親の趣味は、テレビで野球中継を見ること。
雨の日はパチンコ。
晴れの日は海釣り。
本や雑誌など、買ったこともなければ、読んだこともないという。
 
子どもに直接的に影響を与えるのは、親の知的レベルである。
学歴ではない。
年収ではない。

●ともあれ……

 ともあれ、(親の年収)と、(子どもの学力)との間に、相関関係があることは、
これで確認できた。

しかしこんなことは、何もあえて調査しなくても、わかりきったこと。
ゆいいつ意味があるとするなら、「20%」という数字が出されたこと。
要するに、平均点が20点ほど、低いということか。

 年収が1200~1500万円の親の子どもの平均点が、80点とするなら、
200万円以下の親の子どもの平均点は、60点ということになる。
そうまで単純であるとは思わないが、かみくだいて言えば、そういうことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 親の年収と子供の学力 親の知的レベルと子供の学力 子どもの
学力調査 はやし浩司 全国学力調査)

(付記)

 都会地域へ大学生を1人送ると、平均して、月額17万円前後の費用がかかる。
それを12倍すると、年額204万円。
つまり年収200万円以下の親の子どもが大学へ通うのは、事実上、不可能。
文科省の今回の調査では、「年収200万円以下」を問題にしているが、この数字そのもの
が、少し極端すぎるのでは?

仮に年収100万円以下ということになれば、「家庭」そのものが、成り立たない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※2)●AO入試

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アドミッション・オフィス入試、略して、「AO入試」。


 簡単に言えば、志願者のそれまでの経験や成績、
志望動機など、さまざまな側面を評価し、
合否を決める入試方法をいう。

 従来のペーパーテスト、面接試験から、
さらに1歩踏み込んだ入試方法ということになる。

 当初は、慶応義塾大学で試験的になされていたが、
それが昨年度(05)は、国交私立、合わせて、
400を超す大学で実施され、最近では、
一部の小中学校でも採用されるようになった。

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●AO入試とは

 AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。

「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試
と並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)
です。

AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990
年のことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、200
1年度には、207大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途を
たどっています。

自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目
的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務
局とやりとりを行ってから正式に出願するといったもの。

選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かな
ものもあります。

出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事
前面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びた
い」受験生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が
許可されたり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。

ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授
業についていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考
えられますから、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。

AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミ
ッションズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれ
ています。 AOとは(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。

一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行
っているというのが実情です。

しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の
能力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよら
ない新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」
(同サイトより)。

●推薦制度とのちがい 

 従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。

「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求める
ことを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募で
きる「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や
日数をかけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。

(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方
法に従来の推薦入試にはない創意工夫がなされている。

(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている

(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行って
いる大学がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

●AO入試、3つのタイプ

大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のよう
である。

「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を
課したり、出願時に2000~3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面
接はそれをもとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学
力の成績がモノをいう選抜型の入試となっています。

(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1~2回の予備面接やインタビューを
行うもので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や
面談は大学主催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自
己アピールを大学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。
このタイプの場合は、大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意
志の確認が重視されます。

(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという
名称の入試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」
(同サイトより)。

 詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
   http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm

 また文部科学省の統計によると、

 2003年度……337大学685学部
 2004年度……375大学802学部
 2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。

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 年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これからの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。

 知識よりも、思考力のある学生。
 ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
 目的意識をもった個性ある学生。

 AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。
ただ現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用
することについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
AO入試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※3)【カナダの幼稚園】

++++++++++++++++

少し前まで、カナダで暮らして
おられた、GSさん(静岡市在住)から、
こんなメールが届きました。

そのまま紹介させていただきます。
カナダの幼稚園の様子がよくわかる、
たいへん興味深いメールです。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【GSさんより、はやし浩司へ】

カナダの幼稚園についての原稿ですが、もちろん引用してくださって構いません。

カナダでの育児状況について、もし参考になるようでしたらと思い、もう少し、お話させ
ていただきます。

私も含め皆さんが、とても利用していたのが、フリー(無料)で行われる、『プレイグルー
プ』(確か州で運営)というものでした。

会場は、各地域にある大きなスーパーの2階です。そこが日本でいう公民館的な空間にな
っていて、大き目の会場とキッチン付きの部屋などもあり、そこで様々な集会、会議、講
習、お稽古などが催されています。

プレイグループは週2回、予約、会費なども一切なく、本当にフリーに出入りできるので、
人気がありました。ベテラン保母さん(たぶん退職されたであろう年齢の方々)が来てい
て、午前中の間開放されます。

その時間内、入りたいときに入り、出たいときに出るというやり方です。子どもだけ置い
ていっても構いませんが、親が一緒に入っているケースがほとんどです。(親がいない子ど
もは、数人いるかいないかという程度です。)それでも、定員を超えるとドアは閉められ、
誰かが抜けるまで、入れず、外で待ちます。 

お絵かき、粘土、パズル、玩具、絵の具、はさみ遊び等等、たくさんの物が用意されてい
て、どれでも好きな物で遊べます。最後に、みんなが円になり、絵本の時間と歌遊びがあ
って、最後までいた子ども達は先生からご褒美シールをもらって終了。

そのシールって好きなところに張ってくれるのだけれど、だいたい、手とか腕とかホッペ
とかでカワイイ(笑)です。

本当に産まれたばかりのような赤ちゃんから、(日本ではきっと外に連れ出さない程の月
齢)、PreSchoolの年齢の子までいます。 

そこで、玩具の貸し借り、順番、ケンカした時の対応などが、自然に意識することなく経
験できたように思います。 

1歳、2歳でもその環境で習得する力はすざましく、林先生の何かの原稿にあったように、
親、先生よりも周りにいる年上の子の真似事が一番の影響を持ちますね。

もちろん、様々な子ども達がいるし、人種も宗教も肌の色も本当に様々なはずですが、子
どもの世界はさほど変わりありません。先生達は特別な指導はなく、何かもめている子ど
ものところへ行っては解決させ、後は良くできているね!と褒めて歩いたり、相談を聞い
たりといった感じです。

息子は、そのプレイグループが大好きで、先生にもすっかり名前を覚えてもらい帰国前に
は涙してサヨナラして来た程でした。

公園の違いについて。

小さな幼児用の遊具と、大きい子用の遊具がしっかり分かれていました。
下は転んでもさほど問題のないように2~3センチの木片や大鋸屑がひきつめられているか、
滑らないゴムのようなものになっていて、滑り台への階段も、1歳児がハイハイして登って
行けるほど、広く段差が低いものです。一か所の公園だけでのことではありません。

また、夏には幼児向けプールが開かれます。 だいたい遊具の近くの芝生の真ん中にあり
ます。

大きな円のプールで中心へむかい深くなっていて、一番深い所で大人の膝程度です。 な
ので端の浅い所では、1歳未満の子が水着で遊んでいたりする中、4~5歳の子が大はしゃ
ぎで走り回るという感じです。週末は短パンで水に入りながら一緒に遊び、周囲の芝生で
ランチしている家族が多く見られます。

高校生のボランティアが監視役として必ず一人ついていて、時間になると水遊び用の玩具
をぶら下げながらやってきて、プール内を掃除して水をはります。決まった時間になると
笛をふき、全員プールから出し水の消毒にかかります。 

毎度、プールから全員上がらせるまでに時間がかかりますが、出てしまった後は、みんな、
まだかまだかと持参したフルーツやおやつを食べたりしながら、しっかり待っています。

以上、特に印象が強かった良い環境だなあと思った2点です。 

私は、妊娠6か月の時にカナダへ行き、親や友達は海外での出産と育児でとても大変だと
心配してもらいましたが、かえって日本よりとっても精神的にもリラックスできていた気
がしますし、子育てはむしろ日本よりもしやすい環境だったと感じています。

もちろん、出産は日本のようにいたれりつくせりではないし、身体的に問題が起きて大変
な思いもしたし、いわゆる子どもを預けてつかのまの休息というものは一切なかったので、
大変は大変でしたけど(笑)。 
だからといって、子どもと少し離れたい!、と思ったこともありませんが。

小学、中学、高校になると、スポーツ系のクラブが数多くあり所属している事が多いよう
です。夏は日が長いせいもあるのか、9時過ぎまでグランドで練習、試合をしている姿が
よく見られます。また、クラブ活動を通しての縦割りのボランティア活動も多いようです。 

女の子のチームも多くあります。ある中学生の子どもを持つ銀行員のお母さんは、やっと
の週末のお休みも、子どものクラブの活動で朝から大忙しだと話していました。でも、そ
の家族の時間も嬉しいと楽しんでいました。 

どちらにせよ、カナダでは、ハッキリと言えることは、家族で過ごす時間をとても大切に
しているというのが強いですよね。日本ではそうではないとは決して言えませんが、平均
的にそれに対する比重はとても違うように感じます。

なんだかまた長々と書いてしまいましたが、少しでも参考になれば幸いです。

【はやし浩司より、GSさんへ】

カナダの教育についての情報、ありがとうございました。
「幼稚園」と構えないで、「(無料の)プレイグループ」というのは、すばらしいですね。
保育時間も、親自身が決められるところも、すばらしいですね。

私の孫も、アメリカで、おおむねそのようなやり方で、少しずつ、集団教育に慣れていっ
たようです。
最初は、週に1、2回程度。
様子をみながら、回数をふやしていきました。

どうして日本では、そういうことをしないのか、不思議でなりません。
いきなり集団教育の場に子どもを放り込んで、それでよしとしています。
考えてみれば、これほど、乱暴な教育もないわけです。

またいろいろ教えてください。
イギリス→カナダは、さすが教育の先進国だけあって、日本とは、ちがいますね!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist カナダ カナダの幼児教育
 カナダの教育事情 カナダの幼児教育 プレーグループ プレイグルー play group は
やし浩司 カナダ 幼児教育 幼稚園)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※4)●教育の自由化

アメリカに限らず、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの小学校を訪れて驚く
のは、その「楽しさ」。まるでおもちゃ箱に入ったかのような錯覚にさえとらわれる。百
聞は一見にしかず。この写真は、アメリカ中南部の、ある公立小学校で撮影したもの。
アメリカでは、ごく一般的な、ふつうの学校とみてよい。

●アーカンソー州、アーカデルフィア、ルイサ・E・ぺリット・プライマリー・スクール。
ブルー・リボン賞受賞校。四歳児(年中)から七歳児(小一)までを教える。全校生徒
三七五名。公立学校だが、朝食代と昼食代など、必要実費が、週六〇ドル必要。
 
(写真ABC)は、小一クラス。一クラス二〇名。この日は、教師、大学からきたインタ
ーンの学生、それに当番制で学校に手伝いに来ている母親の三名が、指導に当たってい
た。写真右端にあるのが、教師のデスク。教師のデスクは、それぞれの教室の内部にあ
り、日本でいう職員室のような部屋はない。写真左端で床に座っているのが、当番制で
やってきた、母親。奥のほうでマンツーマンの指導をしているのが教師。インターンの
学生は、私と並んでいたので、この写真には収まっていない。

(写真D)は、図書室の様子。アメリカでは、そして他の国々でも、図書室の充実が、学
校教育の柱になっている。たいていどこの学校にも、専門の司書がいて、子どもの読書
指導にあたっている。写真の女性は、ボランティアでやってきた母親。

(写真E)は、コンピュータ学習ルーム。この日は、四歳児が授業を受けていた。この学
校では、四歳児からコンピュータの学習を実施している。ちなみにオーストラリアでも、
すでに一五年前から、コンピュータ学習は、小学三年生から必須科目になり、現在では、
幼稚園レベルから教育を行っている(南オーストラリア州)。

●アメリカの学校制度

 こうした公立、私立の学校のほか、アメリカには、チャータースクール(親たちが自ら
教師を雇い、学校そのものをチャーターする)、バウチャ(学校券)スクール(親に配布
した学校券で、学校を運営する)、さらにはホームスクール(学校へ通わないで、家庭で
学習する)などの学校がある。ホームスクールというと、日本では不登校児のための制
度と誤解している人が多いが、それはまちがい。九七年度にはアメリカだけで、ホーム
スクーラーは、一〇〇万人になり、毎年約一五%程度の割合でふえている。「真に自由な
教育は家庭でできる」(「LEARN IN FREEDOM」)という理念のもと、この
運動は、全世界的に拡大している。アメリカでは、親の希望に応じて、公的な機関が、
専門の教師やアドバイザーを、定期的に派遣するという制度も確立している。また地域
のホームスクールの親や子どもたちは、ひんぱんに会合を開き、合同で教育活動も行っ
ている。そして現在、世界で一〇〇〇以上もの大学が、ホームスクーラーの子どもの受
け入れ態勢を整えている(前述、L.I.F)。

●教育の自由化

 アメリカの学校では、公立、私立に限らず、カリキュラムの作成は、州政府のガイドラ
インに従い、親と教師が、「カリキュラム作成委員会」の席で、決定している。日本でい
う全国一律の学習指導要領なようなものはない。(たとえば中学校レベルでも、三年間で
所定の単位学習をすませばよいことになっていて、一年生だから、一年の学習を、とい
う拘束性はない。)また当然のことながら、アメリカには、日本でいう「文部省検定済教
科書」のようなものはない。検定制度そのものがない。子どもたちが使っているのは、
あくまでも「テキスト」である。よくテキストを「教科書」と訳す人がいるが、欧米で
いう「テキスト」と、日本の「教科書」とは、本質的にまったく異質なものと考えてよ
い。

 ついでながら検定制度について、たとえばオーストラリアには、民間団体による検定委
員会はある。しかし検定する範囲は、過激な性的描写、暴力的表現に限られていて、特
に「歴史的分野」については、検定してはならないことになっている(南オーストラリ
ア州)。
 欧米では、「教育の目標は、将来、多様な社会に、柔軟に適応できる子どもを育てること」
(オーストラリア)が柱になっている。アメリカでは行き過ぎた自由化が、一部で問題
になっている部分もあるが、しかしこうした自由な発想が、学校教育そのものをダイナ
ミック

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 アメリカ 教育制度 実情 教育の自由化)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※5)教育の自由化

【教育再生会議・中間報告原案】

++++++++++++++++++

06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。

「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?

いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。

案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。

かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。

++++++++++++++++++

 06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下の
ようなもの。

(1) ゆとり教育の見直し
(2) 教員免許更新制
(3) 学校の第三者評価制度
(4) 教育委員会改革
(5) 大学9月入学

 このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。
(2) の教員免許更新制については、検討中ということ。

 どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この
(3) 原案なるも
のを、検討してみたい。

●ダメ教員の問題

 どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認
定された教師の10倍以上はいるとみてよい。

 しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師と
なると、それぞれ個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自
信をもっている教師も多い。あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。

 だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講
習を受けるなどいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、
無理。


 もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること「あの先
生に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。

 アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年
も、エリー先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教
室で勉強できるようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげ
ているが、これは教育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。

 だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。

 ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園であ
るかどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性
が、あちこちで光っている。

 しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だというこ
と。しかも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねて
いる。

●美しい国づくり 

 提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づく
り」が、教育と関係があるのか。

 あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも
大賛成だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。

 外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、
がく然とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。

 雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモ
の巣のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手
あたりしだいにつけられたガードレールなどなど。

 その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、
今度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という
国は、基本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。

 が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ
文化性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その
自然を生かすことさえできないでいる。

 教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。

●いじめを許さない

 提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。

 方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科
目数をふやせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好
きなことを好きなだけできるような環境を用意すればよい。

 好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れる
ことができる。

 たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フラン
ス語、インドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。
芸術にしても、ドラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になって
いる。

 以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。

+++++++++++++++++

【学校神話を打ち破る法】

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、た
いていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。
しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が18歳のとき
にもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑っ
てみる。たとえば……。

●日本の常識は世界の非常識

★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材
一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけ
でも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の
割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教
育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運
動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明し
ている(LIFレポートより)。

★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラ
ブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。

ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決め
ることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラ
ブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1
200円前後(2001年調べ)。

こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日
本円で約1万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子ども
が就職するまで、最長27歳まで支払われる(01年)。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣
向と特性に合わせてクラブに通う。

日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ
低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責
任をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親
が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー
市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。

「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生の
ほうから電話がかかってきます」と。

★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚
いた。

どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、
はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友
人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オ
ーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャール
ズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校が
カリキュラムを組んでくれる。

たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日
木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ
行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなこ
とでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、
あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何
か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、
「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を
信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画
『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だ
と気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さ
んと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそう
した。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私
が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人
ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことがで
きる。

※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午
後3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決
めることができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On
Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると
考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいもので
しかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の
上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由
と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)
学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が
始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まると
いうことを忘れてはならない」と。
 
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意
見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯
罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるの
は正しくない。

学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シ
ステムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討
すべきではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえ
ている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中
学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、400
0人多い。
 
++++++++++++++++++

 世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学
9月入学だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞し
た偉い(?)先生かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。

 「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という
提言にいたっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化
(=民営化)をこぞって選択している。

 カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化し
ている。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作り
たいと思えば、それもできる。

 (これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になって
いる。またそういう学校しか認可されていない。)

 ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を
側面から支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。
少なくとも、もう少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。

 教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけてい
るが、それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
教育再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●逆流的教育論

昔は町内で東大生が生まれたとすると、その
町内の人が、ちょうちん行列までして、その
学生と家族を祝った。

しかしそれから100年。
尾崎豊が「卒業」を歌ったころから、こうした
日本独特の権威主義、それを支える学歴制度は、
大きな転機を迎えるところとなった。

「学歴」よりも、「中身」「実力」をみる時代へと
変化した。
そのため大学の選抜方法も、AO入試に見られる
ように、時代の流れの中で変化しつつある。

たとえばEUでは、大学の単位そのものが、
共通化されている。
学生たちは、自由に各大学間を渡りあるいている。
最終的にどこの大学で、学位、博士号を認定される
かということは、重要なことだが、少なくとも
「出身大学」という概念は、もうない。

日本でも同レベル(?)の大学間で実験的に
単位の交換がなされているが、あまりパッとしない。
ブランド志向は、過去の亡霊として、まだ残っている。

もちろん小中高校生の教育制度も、大きく変化
しつつある。
ドイツにおけるクラブ制度を例にあげるまでもない。
EUでは、子どもたち(中学生)は、学校での
カリキュラム(ほとんどが単位制)を終えると、
午後は、それぞれが自分の好きなクラブに通って
いる。
それを支えるための、「チャイルド・マネー」も
支給されている。

(高学歴者)イコール、(成功者)という発想そのもの
が、陳腐化している。
もちろん(高学歴者)イコール、(人格者)という
わけでもない。

もし(高学歴)に求められるものがあるとするなら、
真・善・美の追求者としての、社会的責務である。
その責務を果たしてこそ、高学歴者は高学歴者としての
意味をもつ。
そうでなければ、高学歴といえども、卒業証書は、
ただの紙切れ。
自己利益の追求のための道具でしかない。

ちょうど2000年を境にして、日本人の学歴意識は
大きく変化した。
(出世主義)から(新・家族主義)への変化である。
このころ、「仕事より家族のほうが大切」と考える
人が、50~80%へと変化した。
こうした変化を、「サイレント革命」と名づけた人もいる。

今後この(流れ)は加速することはあっても、逆行する
ことはありえない。
理由は簡単。

世界はすでにその先を走っている。
日本は今、それを追いかけなければならない立場にある。
単位の共通化にしても、今では、世界の常識。
インドネシアのジャカルタ大学で1年、中国の北京大学で
1年、3年目と4年目は、EUのソルボンヌ大学と、
ハイデベルグ大学で。
合計して必要単位を履修していれば、あとはどこかの大学で
単位を認定してもらう……。

日本だけが、そのカヤの外。
日本の医師免許は、日本以外の国では通用しない。
アメリカの医師は、日本で開業することができない。
これはほんの一例だが、こうした閉鎖性を打破しない
かぎり、日本の未来に明日はない。

大切なのは、学歴の追求ではなく、実力の追求。
それができる社会システムを、早急に立ち上げる。
(学歴)というキャリアは、あくまでもあとから
ついてくるもの。
(学歴)を目的とする時代は、すでに終わっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 逆流的教育論 教育の自由化 日本の教育)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●あとから理由(無意識下の思考)

+++++++++++++++

何かを言う。
言ったときは、何も考えていない。
直感的というか、反射運動的に、言う。
言ったあと、理由を言う。
こういうのを「あとから理由」という。
わかりやすく言えば、「こじつけ」。

たとえば運転をしていて、道をまちがえたとする。
そのとき横に乗っていた人が、「この道じゃ、ない」と
言ったとする。
軽い気持ちで、そう言った。

が、すかさず、そのまちがえた人が、こう言い返す。
「うしろから車が来ていたから、そちらに
気を取られていた」と。

子どもの世界でも、似たような現象は、よく起きる。
たとえば子どもが、何かを不注意で落としたとする。
教師が、アッと声をあげる。
とたん、その子どもはこう反論する。
「先生が、こんなところにものを置いておくから悪い!」と。

+++++++++++++++

●こじつけ論

 人はなぜ、あとから理由を言うか。
あるいは自分の行為を正当化するために、あとからこじつけをすることは多い。
が、そういう言い方を、「ずるい」と決めてかかってはいけない。
脳には、どうやらそういう機能が、もとからあると考えてよい。

 たとえば(意識)。
この意識として働いている部分は、脳の中でも、数10万分の1程度と言われている。
たとえば今、あなたはパソコンの画面上で、私の書いた文章を読んでいる。
が、同時に、目の中には、無数の情報が、いっしょに入っているはず。

 画面の色、モニターの色、机の上に雑然と置かれたモノ、周囲の温度、光の強さ、
時計などなど。
そういったものを、あなたの目は同時にとらえている。
その中から、文字だけを選び、それを選んでいる。
意識している部分は、その部分だけ。
ごくかぎられた部分だけ。

●「うしろから車が……」

 その人は、実は道をまちがえる前から、無意識の世界で、車を見ていたのかも
しれない。
そして意識している脳とは別の脳、つまり無意識の世界で、「うしろから車が来たぞ」
「運転が乱暴だ」「気をつけろ」と考えていたかもしれない。
が、こうした無意識下での反応は、意識の世界までは、あがってこない。

 が、そこで道をまちがえた。
隣の席にいた人に、「道が違う」と指摘された。
とたん、無意識下で考えていたことが、意識の世界にあがってくる。
だからすかさず、こう言う。

「うしろから車が来ていたから、そちらに気を取られていた」と。

 先の子どもの例で考えるなら、その子どもはそのものを落とす前から、無意識の世界で
こう考えていたかもしれない。
「あんなところに先生は、ものを置いたが、先生は、あんなところにものを置いては
いけない」と。

●反対の現象

 たまたま昨日、こんなことがあった。

 自分の部屋を出るとき、何か、心がすっきりしなかった。
忘れ物をしたような気分が残った。
が、それが何だか、そのときはわからなかった。
しかし何かを、忘れた。
その意識は、軽く残っていた。

 居間で椅子に座っているときも、気になった。
が、わからなかった。
思い出せなかった。

 が、しばらくしてワイフが、テレビの番組の話をした。
とたん、それを思い出した。
テレビのリモコンを、うっかり自分の部屋にもっていってしまった、と。

 私は自分の部屋にあわてて戻り、リモコンをもってきた。

 このばあいは、「テレビのリモコンを自分の部屋にもっていってしまったから、
もってこなくてはいけない」という意識が、無意識の世界にとどまっていたことになる。

 このことと、先に書いた、(こじつけ)と対比させて考えてみると、無意識下の
心の反応が理解しやすくなる。

●頭の中のモヤモヤ

 私たちはいつも、同時に、意識の世界と無意識の世界で生きている。
意識している世界だけが、すべてではない。
むしろ無意識の世界のほうが、はるかに広い。
意識の世界で考えていることよりも、はるかに多くのことを考えている。

 もうひとつの例だが、たとえば私のばあい、何か書きたいテーマがあると、まず
それは頭の中で、モヤモヤとした感じとなって現れてくる。
そのときは何か、よくわからない。
今、書いているこの文章にしても、そうだ。
最初から、今、ここに書いていることがわかっていたわけではない。

 そこで何かを書き始める。
するとやがて、そのモヤモヤの正体がわかってくる。
輪郭が見えてくる。

 そこでこうも考えられる。

 実は私はこうしてものを書き始める前に、無意識の世界で、つまり別の脳が、すでに
ものを考え始めていた、と。
それがモヤモヤといった感じとなって、頭の中に充満する。

●無意識の世界

 今まで、私はあとから理由を述べたり、自分を正当化するために(こじつけ)を
する人を、ずるい人と考えていた。
しかしこの考え方は、ここで修正しなければならない。

 わかりやすく言えば、意識の世界だけが、すべての世界ではないということ。
私たちは同時進行の形で、無意識の世界でも、いろいろとものを考えている。
それが表に出てくるかどうかは、(きっかけ)の問題ということになる。
きっかけに応じて、無意識の世界の(思い)が、表、つまり意識の世界に飛び出して
くる。

 それがあとから理由になったり、こじつけになったりする。
ワイフがテレビの番組の話をしたとたん、リモコンのことを思い出したのも、そうだ。
あるいは、私がものを書くときもそうだ。

 反応としては、すべて、同じワクの中で考えてよい。

●付記

 私はよく「モヤモヤ」という言葉を使う。
ワイフと話していても、「頭の中がモヤモヤとしてきた」と言うなど。

 それが何だかそのときは、よくわからない。
無意識の世界の中にとどまったままの状態で、外に出てこない。
ちょうどリモコンを忘れて、自分の部屋を出たときのような気分である。
が、何かのきっかけで、その片鱗をつかむ。
たとえばこの文章を書き始めたときも、そうだ。

「あとから理由を並べて、自分を正当化するということは、よくある」と考える。
とたん、そのモヤモヤの中から、書きたいことが姿を現す。
あとはそれについて、一気に書きあげる。
時間的にすれば、20~30分程度。
この文章が、それである。

 つまり私のばあい、頭の中にモヤモヤがあると、それが気になってしかたない。
しかしそのモヤモヤを吐き出したときのそう快感は、何物にも代えがたい。
たとえて言うなら、(汚いたとえで恐縮だが)、長い間便秘で苦しんでいた腸が、
一気に便を排出したときのようなそう快感である。

 またそれがあるから、こうして文章を書く。
楽しい。
反対に、モヤモヤをそのままにしておくと、気分が悪くなる。
ときにイライラしてくることもある。

 で、今は、どうか?

 実は、もうひとつ、頭の中でモヤモヤしているものがある。
先日、「ケチ論」について書いた。
が、「ケチ」といっても、お金だけの問題ではない。
心の問題もあるし、時間の問題もある。
さらに言えば、命の問題もある。

 モヤモヤの中に、私はその片鱗を見つけた。

 ……ということで、つぎに、「ケチ論」について、補足してみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●本物のケチ

++++++++++++++++

金銭的な面でのケチというのは、わかりやすい。
またふつう「ケチ」というときは、金銭的な面での
ケチをいう。
しかしどうも、それだけではないようだ。
「ケチな人」について、思いつくまま、まず、書いてみる。

++++++++++++++++

●ケチな人

自分の時間を、自分のためだけに使う人。

自分の時間を、自分の欲望を満足させるためだけに使う人。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

自分の人生を、自分だけのために生きる人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

自分勝手でわがまま、他人の失敗を許さない人。

視野が狭く、欲望の虜(とりこ)になっている人。

自分の欲望を満足させるためにしか、頭を働かせない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

愛されることだけを考え、人を愛することを考えない人。

自分の得だけを考え、相手に得をさせることを考えない人。

失うことを恐れ、ものを失うと、ギャーギャーと大騒ぎする人。

相手の欠点を指摘しても、自分の欠点を指摘されることを許さない人。

小さな欲望を内へ内へと引き寄せ、外に向かって、冒険しない人。

来年の100万円より、明日の1000円を、大切にする人。

他人の失敗を酒の肴にして笑っても、自分では何もしない人。

臆病で、自分の勇気を外の世界で試さない人。

わずかな財産にしがみつき、自分は成功者といばる人。

無難な道だけを歩き、その道を他人に歩かせない人。

無私、無欲の世界を、知らない人。

自分の才能や健康を、自分だけのために使う人。

心よりも、金、モノを大切にする人。

自分より劣っている人には尊大ぶっても、自分よりすぐれている人が理解できない人。

自分の欲望を満足させるためだけに、時間と才能を使う人。

他人の幸福をねたみ、それを邪魔する人。

心にやさしさがなく、損得計算でいつも心が緊張状態にある人。

●心のケチ

 いくつか箇条書きにしているうちに、同じような内容のことを書いた部分もある。
しかし冒頭にも書いたように、「ケチ」と言っても、けっしてお金だけの問題ではない。
最悪のケチは、「心のケチ」ということになる。

 この中でも、たとえば、つぎのものが、それ。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

 わかりやすく言えば、心に余裕がない。
いつも緊張しているというか、ピリピリしている。
一方、若いころ、こんな人に出会ったことがある。

 その男性(75歳くらい)は、若いころから、無精子症だったという。
それについて、「オレにはね、種(=精子)がないんだよね」と。
で、「いつからですか?」と聞くと、「もう20歳になるころには、なかったよ」と。

 が、そんなはずはない。
その男性には、息子さんがいた。
そこですかさず私が、その男性に、「だってあなたには、40歳になる息子さんが
いるではありませんか」と言うと、その男性は、カラカラと笑った。
笑いながら、何度も、「いいじゃ、ねエ~カ、いいじゃ、ねエ~カ」と言った。

●寛大さ

 ケチの反対側にあるのが、「寛大さ」ということになる。
お金でもない。
モノでもない。
心である。

 で、あのマザーテレサは、「愛」を人に、惜しみなく与えた人という。

“It is not how much we do, but how much love we put in the doing.
It is not how much we give, but how much love we put in the giving.”
どれだけのことをしたかは、問題ではありません。
することについて、どれだけ愛を込めたかが大切なのです。
どれだけのものを与えたのかは、問題ではありません。
与えることに、どれだけの愛をこめたかが、大切なのです。

“I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only
more love”.
私はパラドックスを発見しました。
もしあなたが苦しいほどまでに人を愛するのなら、もう苦しみはありません。
そこにあるのは、さらに深い愛です。

 これ以上のことは、書く必要はない。
書けない。
マザーテレサがすべてを、語ってくれた。

つまりどこまで、人を許し、忘れるか。
その度量の深さこそが、その人の寛大さを決める。

 卑俗な言い方で申し訳ないが、これでモヤモヤが消えた。
書きたいことを吐き出した。
今日は、すばらしい一日になりそう。

2009年11月29日早朝

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 マザーテレサ パラドックス 心のケチ論)


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