2009年12月12日土曜日

*Who wants to live forever?

●Who wants to live forever?

++++++++++++++++++

よく知られた曲に、「Who wants to live forever?(だれが永遠に生きたいか?)」

というのがある。

いろいろなシンガーが歌っているが、私はグレゴリアンが歌うのが、好き。

おごそかで、それに重みがある。

++++++++++++++++++

●どう死ぬか

「だれが永遠に生きたいか?、いや、だれもそんなことを望んでいない」と。

が、もし、私から(考える力)が消えたとしたら……。

「死んでもいい」とは思わないかもしれないが、「生きていても意味はない」と

思うかもしれない。

どこかのオバチャンと、意味のない会話をつづけるようになったら……。

(オバチャンでなくても、オジチャンでもよいが……。)

考えるだけでもゾッとする。

それにいつまでも無駄に生きて、ワイフや息子たちや、その家族の死を見るように

なったら、たぶん、今の私なら、それに耐えられないだろう。

生きていることをのろうようになるかもしれない。

人は、いつも、どう生きるか考える。

しかしそれではいつまでたっても、結論は出てこない。

そこで発想を変えて、どう死ぬかを考える。

その結果として、どう生きるかが決まってくる。

「永遠に生きよう」と思うから、苦しむ。

悩む。

しかし「永遠に生きても無駄」と考えることによって、その先に、生き様(ざま)が

見えてくる。

それがわからなければ、あのオバチャンたちの、とりとめのない、いつまでも

つづく無意味な会話に耳を傾けてみることだ。

(繰り返すが、オバチャンでなくても、オジチャンでもよい。

以下、すべて同じ。)

ペチャペチャ、クチャクチャ……と。

人生の晩年にあって、しかも人生の完成期にあって、その程度の会話しかできない。

そういう自分に恥じることもなく、ただしゃべりつづける。

「隣の息子がね……」「うちのダンナがね……」「娘の婿がね……」と。

●脳みその穴

ある年齢になると、脳みその下に、穴があく。

その穴から、知識や知恵、経験が、ボロボロとこぼれ落ちていく。

もっとも私がそれに気づいたのは、50歳も過ぎてからのことだった。

当時、こんなことがあった。

何かの原稿を書いているとき、「?」と思った。

「以前にも、同じことを書いたことがあるぞ」と。

そこで自分の原稿集をさがしてみると、ほとんど同じ内容の原稿があることを知った。

しかも私にとってショックだったのは、「遠い昔に書いた原稿」と思っていた

その原稿が、ほんの、その数年前に書いた原稿だったことだ。

つまりその数年の間に、自分が書いた原稿の内容すら、忘れてしまっていた。

以来、私はいつも自分の脳みそを疑ってみるようになった。

つまりそれまでの私は、脳みそというのは、進歩することはあっても、退化する

ことはないと信じていた。

とくに私が考えて、自分で書いた文章については、そうだった。

しかし実際には、書いた先から、ボロボロとこぼれ落ちていく。

●穴との戦い

脳みその穴にパッチを当てる方法は、残念ながら、ない。

それは健康法と似ている。

運動をやめたとたん、肉体は衰え始める。

不健康になっいくのを止める方法はない。

それと同じように、穴は穴として認める。

その穴からは、常に一定の知識や知恵、経験は、ボロボロとこぼれ落ちていく。

であるとするなら、それ以上のものを、上から補充していくしかない。

これも健康法と似ている。

放っておいたら、肉体の健康はどんどんと衰えていく。

であるとするなら、それ以上の運動をして、自分の体を鍛えるしかない。

日々の鍛錬こそが、健康法の秘訣ということになる。

が、それには常に、ある種の苦痛がともなう。

寒い朝に、ジョギングに出かけるような苦痛である。

あるいは難解な数学の問題を与えられたときのような苦痛である。

その(苦痛)を乗り越える勇気と努力が必要。

それがなければ、人間は、どんどんと、あのオバチャンになっていく。

●「♪だれが永遠行きたいか?」

「♪だれが永遠に生きたいか?」は、もともとは、SF映画の主題歌では

なかったか。

時代を超えて戦う、勇者と悪魔の戦いの映画だった思う。

映画そのものは、見るに耐えないというか、駄作(失礼!)。

で、主題歌だけが、ひとり歩きの形で、よく知られるようになった。

で、その曲を聴きながら、私はこう考えた。

「オバチャンのようになって、だれが永遠に生きたいか?」と。

……こう書くと、世のオバチャンたちは、怒るかもしれない。

しかしあえて言うなら、私が言うオバチャンというのは、こうした文章を

ぜったいに読まない。

電車やバスの中で、大声で、ギャーギャー、キャハハハと騒ぐことはあっても、

こうした文章は、読まない。

そもそも、そういう向上心をもっていない。

向学心もない。

あるいは、こういう文章を見せても、手で払いのけてしまう。

「私には、そういうものを読んでも、わかりません!」と。

(追記)

先日も、電車の中で、実にそれらしいオバチャンが、2人、こんな会話をしていた。

一部だけだが、こう言った。

「うちのあのバカ○(=弟の名前らしい)ったら、親の一周忌にも来なかった。

親の葬式に来ないようなヤツは、地獄よねエ」

「そうよ。親の一周忌くらい、どんなことがあっても、来るべきよねエ」と。

私の頭の中で、脳細胞がショートするのを感じた。

バチバチ、と。

それでその女性たちの会話に、耳を傾けた。

けっして盗み聞きしたわけではない。

向こうのほうから声が聞こえてきた。

……が、話の内容をコメントするつもりは、まったくない。

あまりにも愚劣で低劣。

言い忘れたが、年齢は2人も50歳くらい。

その話を電車を降りてからワイフにすると、ワイフはこう言った。

「ああいう人たちが、古い常識を、つぎの世代に伝えていくのね」と。

そう、そういう人たちが、(大勢)を作っていく。

そしてそれが大きな流れとなって、つぎの世代に伝わっていく。

が、この(大勢の流れ)を変えることは容易なことではない。

巨大な流れである。

私「そういう流れを変えないかぎり、日本は変わらないよね」

ワ「そうよね。100年後も、200年後も、同じようなことを言う人が

出てくるわ」

私「しかしいつも不思議だと思うのは、そういう女性たちでも、若いときがあった

と思う。そういう若いとき、何をしていたんだろう」

ワ「自分を変える暇など、なかったのよね」と。

本来なら、若い人たちが問題意識をもって、古い因習やタブー、それにカビの生えたような常識を変えていかねばならない。

しかしそれをしないまま、歳だけは取っていく。

そして大半の女性たちは、私が見たようなオバチャンになっていく。

それでいいのか、世の女性たち!

このままでいいのか、世の女性たち!

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。