2011年11月27日日曜日

*My Brother

●11月27日(朝記)「己との闘い」

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寒さが少し緩んだ。
起きるとすぐ、そのままウォーキングマシンの上に。
30分、歩く。
時速6キロ。
結構な速さである。
ときどき足がもつれる。

書斎に入ったのが、午前6時5分前。
あたりはまだ真っ暗。
メールを読み、ニュースに目を通す。
日曜日の朝ということもあり、とくに目新しい記事はなし。
ただアフリカのジンバブエで、象が200頭死んだという記事が気になった。
猛暑と渇水が原因という(新華社)。
「毎週100頭の割合で死んでいる」とも。

その象の数。
毎年、減少している。
ウィキペディア百科事典によれば、
1970年代……2,700,000頭、
1980年 ……1,000,000頭、
1988年 …… 620,000頭と推定されている。
1995年 ……約280,000頭が確認され、580,000頭と推定されている、とある。

この数字が正しいとするなら、この1970年から1995年までの間に、
270万頭から、58万頭に減ったことになる。
約4~5分の1。
2000年に入ってからはどうなのだろう。

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●夢

 今朝も、起きがけに何かの夢を見ていた。
見ていたが、思い出せない。
時間がたつと、乾いた砂が風に舞うように、記憶が消えていく。
何の夢だったのだろう。
どうしても思い出せない。

 ただここで言えることは、同じような夢は、めったに見ないということ。
毎朝、違う。
今朝見た夢も、また別の夢だった。
脳がもつ奥深さに、改めて驚く。

●兄

 数年前、兄が他界した。
子どものころから、体が弱かった。
それもあり、9歳年上の兄だったが、兄弟関係がいつの間にか逆転した。
私が兄、兄が弟。
そういう関係になった。

 晩年の兄は、うつ病になっていたと思う。
人は認知症になったと言ったが、頭はしっかりとしていた。
老人のうつ病と認知症は、専門医でも区別がむずかしいという。

 それはさておき、その兄からは電話がよくかかってきた。
いつもこう言った。
「お客さんが、ござらん(=来ない)」と。

 兄は兄なりに、不安だったのだろう。
さびれいく町に、さびれゆく商店街。
そういう中にあって、兄は当時、65歳を過ぎていた。
その兄が、昨日、夢の中に出てきた。
その夢のことは、よく覚えている。

 ……あの町の通りを2人で歩いていた。
私が兄の腕を片側から支えていた。
その兄がこう言った。
「お客さんが、ござらん」と。
いつもの口癖である。
私はそれを聞き、精一杯気丈夫なふりをしながら、こう言った。
「心配せんでもいい。何とかしてやるから」と。

●貧乏

 貧乏が、こわいというのではない。
貧乏に至る負け戦が、こわい。
とくに商店街では、貧乏は長い時間をかけ、ゆっくりとやってくる。
ジワジワ、ジワジワ……と。
5年とか、10年とか、それくらい長い月日をかけて、やってくる。
それがこわい。

 人はこう言う。
「先を読め」「先手を打て」「頭を切り換えろ」と。
あるいはさらに無責任な人になると、こう言う。
「それも時代の流れ」と。
しかしそれは言葉。

実際には、「明日は何とかなるだろう」という甘い期待を抱きつつ、毎晩床に入る。
が、その明日も、昨日と同じ。
これを繰り返しているうちに、5年とか10年とかが過ぎてしまう。

●シャッター街

 私の実家には、シャッターこそなかった。
ガラス戸と薄いカーテンだけ。
しかしいつの間にか、ガラス戸は閉まり、カーテンも閉ざされるようになった。
だからというわけでもないが、私は「シャッター街」という言葉を耳にするたびに、その言葉がドシリと胸に響く。
響くというより、胸をつぶす。

 外から見ればただのシャッター街だが、その向こうに商店主だった人たちの重苦しい思いを感じてしまう。
負け戦はつらい。
本当につらい。
真綿で首を絞めるような閉塞感。
いくら虚勢を張り、明るく振る舞っても、その笑い声は地には着かない。
先の見えない不安感。
孤独感。
「私は何をしてきたのだろう」という自己否定。
来る日も来る日も、それと闘う。

●強迫観念

 私は社会に出てから、懸命に働いた。
仕事をしたくて、働いたわけではない。
貧乏がこわかった。
貧乏になるのが、こわかった。

 だからといって、金持ちになったわけではない。
振り返っても、私が受け取った(他人のお金)は、ほとんどない。
子どもたちの出産時に手にした、それぞれ10万円前後の祝い金。
それに義父が亡くなったとき受け取った、10万円。
それだけ。

 だからいつも孤立無援。
失敗が許されないという孤立感。
ただひたすら、がむしゃらに働いた。
それが今でも、私が見る夢の原点になっている。

 そう、悪夢といえば、電車やバスに乗り遅れる夢。
ホテルで寝過ごして、飛行機に乗り遅れる夢。
そんな夢ばかり。

 心理学的では、強迫観念という言葉を使う。
医学的には、不安神経症という言葉を使う。
どちらでもよい。
私は子どものころから、そういう不安感から抜け出すことができないでいる。
きっと兄もそうだったのだろう。
「お客さんが、ござらん」と。

●戦争

 が、だれの責任でもない。
父や母にしても、あの時代を懸命に生きてきた。
もし悪いとすれば、あの戦争。
あの戦争が悪い。

 戦後生まれの私だが、みな、あの戦争の後遺症を傷深く背負っていた。
それが姿、形を変え、私の「心」となっていった。
だから今でも、こう思う。

 イラクにせよ、アフガニスタンにせよ、仮に戦争が終わっても、その後遺症は、何世代にも渡ってつづいていくのだろうな、と。
罪もない、子どもたちが、将来に渡って苦しむだろうな、と。
兄が子どものころから体が弱かったのも、元はと言えば、栄養失調。
兄が育った時代の日本には、満足な食糧すらなかった。

●「やっと死ねる」

 64歳になった。
その今でも、こう思う。
「いつになったら、平安が訪れるのだろう」と。
……というか、もうとっくの昔にあきらめた。
だから今は、こう言う。
「死ぬまでつづくだろうな」と。

 だから去年の正月に廊下で倒れたときも、こう思った。
「ああ、これで死ねる」と。

 死にまつわるはずの恐怖感は、まったく感じなかった。
「やっと死ねる」という感じに近かった。

ただ不要な心配をかけたくないので、その理由について書いておく。
そのとき、何か大病があって、倒れたというわけではない。
私はときどき、不用意に首をひねったようなとき、後頭部にはげしい神経痛を覚えることがある。
(重篤な病気の前兆ということも考えられるが……。)
そのときはそれが、いつもになくひどかった。
それが原因で、廊下に倒れた。

●平安

 仏教で言えば「執着(しゅうじゃく)」。
心理学で言えば「固着」。
俗な言葉を借りれば、「こだわり」。
これを取り除かないかぎり、私の心に、平安は訪れない。
それはよくわかっている。
「心の傷」というのは、そういうもの。

 ただ誤解してはいけないことがある。
心の傷などというものは、だれにでもある。
ない人はいない。
みな、ある。

 それに気づいている人もいるが、気づいていない人もいる。
気づかないまま、いつもそれに振り回される。
同じ失敗を、繰り返す。

 だから今は、そういう相談があるたびに、こう言う。
「心の傷なんてものは、死ぬまで消えませんよ。
仲よくつきあっていくしかないですよ」と。

●精進

 今朝の夢も、悪夢に近かった。
よく覚えていないが、いやな夢だった。
断片的に覚えているのは、どこかの部屋にいたこと。
ガラス窓が見えた。
……あとは、覚えていない。

 そう、その悪夢にしても、私はこの先、死ぬまで仲よくつきあっていくしかない。
脳というのは、そういもの。
いくら楽しい思い出で上書きしても、その上書きを突き破って、古い思い出が顔を出す。
しかも皮肉なことに、加齢とともに、上書きされた部分が、どんどんと崩落していく。
いやな自分に逆戻りしていく。

 だから……と書くと、安っぽい映画の主題のように思う人もいるかもしれない。
しかし結論は、ひとつ。
だから、日々に精進あるのみ。
日々に鍛錬し、前向きに生きていく。
己(自分)に負けたとき、負け戦は、本当に負け戦になってしまう。
何としても、それだけは避けなければならない。

 ……ということで、今朝も始まった。
先ほど(7時過ぎ)、ワイフが茶を届けてくれた。
それをゆっくりと飲みなおす。
時刻は午前7時半。
もう1時間も、過ぎた。

 みなさん、おはようございます。2011/11/27朝記


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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