2009年6月25日木曜日

*Short Essays for House Mothers

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(201)

●教育と指導

 私の最大のジレンマ。それは私の説く教育論など、だれも求めてはいないということ。また社会的にも一片の価値もないということ。傍観者が見れば、私という物好きな男が、社会のかたすみで勝手にほえているに過ぎない。しかも私がいくら訴えても、社会は微動だにしない……。

 だいたいにおいて私のようなものが、教育を説くこと自体おこがましい。常日ごろの生活において、人に教えるようなこと、あるいは教えられるようなことは何一つ、していない。たまたま子どもを教えてきたというだけだが、それは教えるというよりは、指導。しかし指導は教育ではない。

よく受験塾を経営しながら教育論を説く人がいるが、それはまるで暴力団の組員が平和論を説くようなもの。いくら偉そうなことを言っても、どこかチグハグで説得力がない。彼らは教育など、していない。受験指導をしているにすぎない。

そこで私こう考えるようにしている。教育と指導は別のものである、と。しかしこの二つを分けるのはむずかしい。そこでさらにこう考えるようにしている。指導は指導して考え、その指導から生まれるより人間的な指導を「教育」と。が、これでもわかりにくい。一つの例をあげて考えてみよう。

 たとえば一人の青年が自動車教習所へ通ったとする。その自動車教習所では、生徒に車の運転のし方を教える。運転ができるようにするのが、その目的だ。で、その青年が運転できるようになったとする。そこで問題は、その青年はその教習を受ける段階で、何かを学んだかということ。結論から言えば、何も学んでいない。学んでいないから、それは教育ではない。……となると、またわからなくなる。そこでまた視点を変えて考えてみる。

 一人の幼稚園児が一生懸命、穴を掘っていたとする。そこで私が「何をしているの?」と声をかけたとする。するとその子どもが、「石の赤ちゃんをさがしている」と答えたとする。その子どもは石は土の中から生まれるものと思っていた。そこで私が「そうだね、きっと赤ちゃんがいるかもしれないね」と言う。するとその子どもはますます懸命に穴を掘り始める。

これは私が実際経験したエピソードだが、これは教育だ。私は子どもの考えを認め、子どもに考えるヒントを与えた。子どもは子どもなりの考えで、自分の説を証明しようと穴を掘りつづけた。この段階で、子どもはまちがっているとか、まちがっていないとかいう判断は、それをくだすこと自体、まちがっている。

 今、単なる指導を教育と誤解しているケースがあまりにも多い。たとえば受験指導をしながら、それが教育と思い込んでいる教師すらいる。しかし教育と指導は、本質的に異質なものである。どこでどう分けるかは、ここに書いたように、たいへん微妙な問題を含んでいるため、一概には言えない。が、しかし心のどこかで分けて考える必要はある。でないと、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(202)

●いい学校から、いい家庭へ

 「いい学校」を口にする親はいても、「いい家庭」を口にする親は少ない。「いい学校」を誇る親はいても、「いい家庭」を誇る親は少ない。日本人は伝統的に、仕事第一主義。学歴第一主義。もっと言えば出世第一主義。しかしその陰で犠牲にしているものも多い。その一つが、「家庭」であり「家族」。こんな家族がいる。

 その娘の一人が、やや重い精神病をわずらった。しかし親は、それをすなおに受け入れた。そして家族が力を合わせてその娘を支えることにした。娘は学校へは行かなかったが、母親は娘にあれこれ経験させることだけは忘れなかった。その中の一つが、絵画。娘はその絵画をとおして、やがてろうけつ染に興味をもつようになった。で、年齢的には中学二年生のときに、市内で個展を開くまでになった。こういう家族をすばらしい家族という。

 一方、こんな親は多い。子どもの受験勉強で無理に無理を重ねて、親子関係そのものを破壊してしまうような親だ。その日のノルマがやっていないと、その父親は、子どもを真夜中でもふとんの中から引きずり出してそれをさせていた。私が「何もそこまで……」と言うと、その親はこう言った。「いえ、私が多少嫌われてもし方ないことです。息子さえいい中学へ入ってくれれば。息子もいい学校へ入ってくれれば、私を許してくれるでしょう」と。

このタイプの親の頭の中には、「いい家族」はない。脳のCPU(中央演算装置)そのものがズレているから、私のような意見そのものが理解できない。それはちょうど映画『マトリックス』に出てくるような世界のようなもの。現実と仮想世界が入れ替わり、仮想世界に住みながら、そこが仮想世界だとすら気がつかない。本来大切にすべきものを粗末にし、本来大切でないものを大切だと思い込んでしまう。

 少し前、アメリカ人の友人だが、私にこう言った。「ヒロシ、一番大切なのは、友だちだよ。友だちの数こそが財産だよ」と。彼のこの言葉を借りるなら、「一番大切なのは、家族だよ。家族のきずなこそ財産だよ」ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(203)

●疑いをいだかない愛

 子どもというのは、絶対的な愛があってはじめて心をはぐくむことができる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。

言いかえると、子どもが家族の愛に疑問や不安をもったりすると、その心は確実にゆがむ。たとえば親の冷淡、無視、拒否的態度が日常的につづくと、子どもはいわゆる愛情飢餓の状態になり、さまざまな不安定症状を表すことが知られている。ぐずったり、反対にイライラと怒りっぽくなったりするなど。そしてそれがさらに慢性化すると、性格そのものがゆがむことが多い。すねたり、いじけたり、ひねくれたりするなど。がんこになったり、いじっぱりになったりすることもある。

この段階になると、神経症による症状を訴えることも多い。が、それではすまない。こんなことがあった。

 小学1年生の女の子だが、断続的に不登校を繰り返していた。最初は「不登校かもしれない」と母親は心配したが、「断続的」という点で、学校恐怖症による不登校とは区別される。で、ときどきその子を学校へつれていくのだが、母親が教室の中にいる間は、それなりにおとなしく授業を受けることができる。が、見えなくなったとたん、ギャーッと泣いてあとを追いかけたりする。

それだけを見れば今度は、分離不安ということになる。が、どうも分離不安の様子とも違った。で、さらに観察してみると、ほかにネチネチと母親に甘えるという症状もあることがわかってきた。そこで調べてみると、案の定、原因はどうやら下の弟(四歳)らしいということがわかってきた。赤ちゃんがえりである。こうしたケースでも、表面的な症状だけをみると、判断をまちがえる。

 ふつう子どもがわけの分からない症状を示したら、愛情問題を疑ってみる。この赤ちゃんがえりにしても、本能的な嫉妬心がその背景にあるとみる。下の子どもに向けられた愛情をもう一度取り戻そうと、子どもは本能的に赤ちゃんを演じてみせる。本能的であるがため、説得したり叱ってもムダで、対処のし方がまずいとこじれにこじれてしまう。それこそありとあらゆる情緒不安症状を示すようになる。

その女の子にしても、親たちが下の子ばかりをかわいがるのを見て、自分への愛情に大きな不安を感じたのだろう。親は「平等だ」というが、平等ということそのものが、上の子どもには納得できないのだ。

 ……などなど。これはほんの一例にすぎないが、子どもというのは愛情がからむ問題には、きわめて敏感に反応する。そういう意味でも、子どもの側からみて、「疑いをいだかない家庭環境」をいつも大切にする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(204)

●愛情は落差の問題

 親が子どもに与える愛情に、絶対的な尺度はない。どの程度、どれだけ深く与えればよいという基準はない。しかし子どもは、その「落差」にはきわめて敏感に反応する。

たとえばよく知られた現象に赤ちゃんがえりがある。下の子どもが生まれたことがきっかけとなって、子どもが急に赤ちゃんぽくなる症状をいう。言葉や言い方そのものが赤ちゃんぽくなったり、おねしょをしたり、指しゃぶりをしたりするようになったりする。(反対に、下の子に攻撃的に出る子どももいる。)

こういうケースでは、ほとんどの親は、「上の子も下の子も、平等にかわいがっている」と言う。「だから文句はないはずだ」と。しかし上の子どもにしてみれば、それまで100あった愛情が、半分の50に減ったことが問題なのだ。つまり子どもへの愛情の問題は、量ではなく、落差の問題である。

 子どもが赤ちゃんがえりを起こしたら、その症状に応じて、つぎのように対処する。症状がたいへん重く、複雑な症状を示し始めたら、もう一度全幅の愛情を上の子どもに注ぐ。そして様子をみながら、少しずつ手を抜きながら、その分、下の子どもに愛情を分け与えていく。症状が軽く、子どもの自意識でコントロールできるようなら、子どもを説得しながら、平等をつづける。

 また下の子どもに暴力を振るうなど、攻撃的な様子がみられたら、スキンシップを濃厚にしてみる。このケースでも、叱れば叱るほど、逆効果。本能的な嫉妬心が原因であるだけに、叱っても意味がない。ないばかりか、症状をますますこじらせる。

 ふつうはこうした赤ちゃんがえりを起こさないように、下の子を妊娠したときから、上の子教育を始める。たとえば上の子が下の子の誕生を楽しみにさせるような雰囲気づくりをするなど。まずいのはある日突然、下の子が生まれたというような状態にすること。子どもの側からみて、嫉妬するのは当然。また嫉妬がいかに恐ろしいものであるかは、いまさらここで説明する必要はないと思う。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(205)

●愛想は悪くて当たり前
 
 子どもは生後六か月くらいから一歳半にかけて、人見知りする時期がある。見知らぬ人に近寄られたり抱かれたりすると、ワーワー泣いて抵抗したり、いやがったりする。じっと相手を見すえることもある。しかしこれはきわめて自然な反応であり、それをおかしいとか、悪いとか決めてかかってはいけない。この時期をとおして子どもは親との絆(きずな)を深める。(あるいはもっと本能的な意味があるのかもしれないが、私にはよくわからない。)

 ふつう穏やかな家庭で、豊かな愛情を受けて育った子どもほど、静かな落ち着きを示す。どっしりしているというか、態度が大きい。反対に不安定な家庭で、愛情飢餓の状態で育てられた子どもほど、反対にヘラヘラとし、見た目には愛想がよくなることがある。一見人なつっこくみえるが、その実だれにも心を許さない。許さない分だけ、心は冷たい。

あるいは自分がキズつくのを恐れるあまり、先に自分から相手をキズつけて遠ざかろうとする。たとえば自分が好意を寄せている相手に、わざと意地悪をして嫌われる、など。どこかものの考え方がゆがんでくる。私はこのことを、二匹の犬を自分で飼ってみて発見した。

 1匹は保健所で処分される寸前にもらってきた犬。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで手厚く育てられた犬。これをB犬とする。この2匹の犬はまるで性格が違う。A犬は育児拒否を経験した犬。一方B犬は愛情をたっぷりと受けた犬。A犬はだれにでもシッポを振るので番犬にはならない。いつもどこかオドオドしている。一方B犬は忠誠心も強く、見知らぬ人が家の中へ入ってきたりすると、ワンワンとほえる。態度も大きい。ガムをかんでいたりすると、私が呼んでも、返事もしない。つまりそれだけ安心しているということか。

だから人間の子どもも……、というのは、少し危険な意見かもしれないが、それほどまちがっていないような気がする。冒頭にあげた子どもが人見知りする時期に、親の愛情が希薄で、たとえば施設に入れられて育ったような子どもは、どこかA犬のような様子を見せる。が、人見知りがはげしく、「うちの子は人見知りが強くて困ります」と言った子どもほど、B犬のような様子を見せる。(そういう意味で、本能的な意味があるかもしれないと先に書いた。)

昔から「愛想がいい子はいい子」と言うが、そんな単純な問題でもない。子どもの「愛想」にもいろいろな問題が隠されている。それがわかってほしかった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(206)

●子どもへの虐待

 親だから……というふうに、ものごとは決めてかかってはいけない。「親だから子どもを愛する心があるはず」とか。先日も朝のワイドショーを見ていたら、キャスターの1人がそう言っていた。しかし実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わずらわしくてしかたない」とかなど。

私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、約10%(私の母親教室で約200人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、7%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待していることがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答500人・2000年)そうだ。

妹尾栄一氏らの調査によると、約40%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしているという。(妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」「しばしばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、「虐待なし」が、61%であったという。)

 だからといって、子どもの虐待が肯定されるわけではない。しかしこの虐待の問題は、もう少し根が深いのではないか。その一つのヒントとして、今の母親たちの世代というのは、日本が高度成長をやり遂げた時期に乳幼児期を過ごしている。そしてそのうちの大半が、かなり早い時期から親の手を離れ、保育園や保育所へ預けられた経験をもっている。

つまり生まれながらにして、本来あるべき親の愛情が希薄な状態で育てられている。もちろんそれだけが理由とは言えないが、子育てというのは本能でできるようになるわけではない。親の温かい愛情に包まれて育ってはじめて、親になったとき、自分も子どもを温かい愛情で包むことができる。このことを考え合わせると、子どもを虐待する親というのは、そもそもそういう温かい愛情を知らない親と考えてよい。

そしてその理由として、日本が戦後経験した、いびつな社会構造にあるのではないかと考えられる。私たち日本人は、仕事第一主義のもと、「家庭」や「家族」をあまりにもないがしろにし過ぎた。つまり今にみる子どもへの虐待は、あくまでもその結果でしかないということになる。

 子どもを虐待する親もまた、自分ではどうしてよいかわからず苦しんでいる。世間一般は、子どもを虐待する親を、ただ一方的に責める傾向があるが、その親たちもまた現在の社会が生み出した犠牲者と考えてよい。虐待に対する一つの見方としてこの原稿をとらえてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(207)

●あきらめは悟りの境地

 子育てをしていて、あきらめることを恐れてはいけない。子育てはまさに、あきらめの連続。またあきらめることにより、その先に道が開ける。もともと子育てというのはそういうもの。

 一方、「そんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路に入る。そしてやがてにっちもさっちもいかなくなる。要はどの段階で、親があきらめるかだが、その時期は早ければ早いほどよい。……と言っても、これは簡単なことではない。どの親も、自分で失敗(失敗という言葉を使うのは適切でないかもしれないが)してみるまで、自分が失敗するとは思っていない。「うちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくところまで行く。また行きつくところまで行かないと気がつかない。

 要は子どもの限界をどこで知るかということ。それがわかれば親も納得し、その段階であきらめる。そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならできるか」「自分ならどうするか」という視点で考える。あるいは「自分が子どものときはどうだったか」と考えるのもよい。子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。

たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分ならできたか」と考える。それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。

 もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。「あなたの料理のし方、76点。接客態度、54点。家計簿のつけ方、80点。主婦としての偏差値48点。あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入○○万円程度の男」と。またそういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ」「何だ、この点数は!」とあなたを叱ったら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。子どもが置かれた立場というのは、それに近い。

 親というのは身勝手なものだ。子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を読んでいる親は少ない。子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親は少ない。そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。

そしてここが子育ての不思議なところだが、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。親子のきずながその時点からまた太くなり始める。もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめてみてほしい。それで道は開ける。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(208) 

●悪筆、言ってなおらず

 年長児くらいになると、子どもの悪筆が目立ってくる。小学校へ入ると、さらにそれがはっきりとわかるようになる。手の運筆能力が固定化してくるためと考えられる。その運筆能力は、子どもに丸(○)を描かせてみるとわかる。

運筆能力のある子どもは、きれいな、つまりスムーズな丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近いぎこちない丸を描く。(縦線を描くときと横線を描くときは、指、手、手首の動きは基本的に違う。違うことは一度、自分で縦線と横線を描き、それらがどう変化するかを観察してみるとわかる。さらに丸を描くときは、これからがきわめて複雑な動きをするのがわかる。つまりきれいな丸を描くというのは、それだけたいへんということ。)

 悪筆が目立ってくると、親はすぐ、「書道教室へ」と考えるが、これは誤解。そもそも運筆能力のない子どもに書道をならわせると、見た目にはきれいな文字を書くようになるが、今度は時間ばかりかかって、先へ進めなくなってしまう。

学校の授業でも、先生が黒板に文字を書く速さについていけない子どもはいくらでもいる。以前、M君(小二男児)がいた。文字はきれいだが、とにかく遅い。皆が書き終わっても、まだノロノロと書いている。そこである日、私はきつく注意した。「はやく書きなさい!」と。とたんM君ははやく書くようになったが、私はその文字を見て心底驚いた。文字がめちゃめちゃだったのだ。しかしそれがM君の本来の文字だった。

 運筆能力を養うためには、塗り絵がよい。塗り絵をしながら、子どもは運筆能力を養う。その塗り絵で訓練すると、こまかい四角や丸い部分を、いろいろな線を使って塗りつぶそうとする。そうなればしめたもの。(塗り絵になれていない子どもは、横線なら横線ばかりで色を塗ろうとするから、線があちこち飛び出したりする。)文字の学習に先立って、子どもには塗り絵をさせる。あとあと文字がきれいに書けるようになる。

 なおクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは3本の指でつかむようにしてもつ。鉛筆は、親指とひとさし指でつかみ、中指でうしろから支えるようにしてもつ。(だからといってそれが正しいもち方ということにはならないが……。)鉛筆を使い始めたら、一度正しいもち方を教えるとよい。ちなみに年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは約150%。クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、30%。残りの20%は、きわめて変則的なもち方をするのがわかっている(筆者調査)。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(209)

●ふつうこそ最善

 ふつうであることにはすばらしい価値が隠されている。賢明な人はその価値をなくす前に気づき、そうでない人はそれをなくしてはじめて気づく。健康しかり、家族しかり、そして子どものよさもまたしかり。

 私は3人の息子のうち、2人をあやうく海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったのは奇跡中の奇跡。そういうことがあったためか、それ以後、二男の育て方がほかの2人とは変わってしまった。二男に何か問題が起きるたびに、私は「ああ、こいつは生きているだけでいい」と思いなおすようになった。たとえば二男はひどい花粉症で、毎年その時期になると、不登校を繰り返した。中学2年生のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。しかしそのつど、「生きているだけでいい」と思いなおすことで、私は乗り越えることができた。

 子どもに何か問題が起きたら、子どもは下から見る。「下(欠点など)を見ろ」というのではない。「生きている」という原点から見る。が、そういう視点で見ると、あらゆる問題が解決するから不思議である。またそれで解決しない問題はない。

 ……と書いて余談だが、最近読んだ雑誌の中に、こんな印象に残った話があった。その男性(50歳)は長い間、腎不全と闘っていたが、腎臓移植手術を受け、ふつうの人と同じように小便をすることができるようになった。そのときのこと。その人は自分の小便が太陽の光を受け、黄金色に輝いているのを見て、思わずその小便を手で受けとめたいうのだ。

私は幸運にも、生まれてこのかたただの一度も病院のベッドで寝たことがない。ないが、その人のそのときの気持ちがよく理解できる。いや、最近になってこんなふうに考えることがある。

 私はこの30年間、往復約一時間の道のりを、自転車通勤をしている。ひどい雨の日以外は、どんなに風が強くても、またどんなに寒くても、それを欠かしたことがない。しかし30年もしていると、運動をしていない人とは大きな差となって表れる。たとえば今、同年齢の多くの友人たちは何らかの成人病をかかえ、四苦八苦している。しかし私はそうした成人病とは無縁だ。そういう無縁さが、ある種の喜びとなってかえってくる。「ああ、運動をつづけてよかった」と。その喜びは、小便を手で受けとめた人と、どこか共通したものではないか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(210)

●それ以上、何を望むか

 法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言う。「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

 これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そういう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではないか。それ以上、何を望むのか」と。

 子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、7%。そしてその大半が何らかの形で虐待しているという。「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。7%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、それ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。

言いかえると楽な子育てというのは、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめて稀だ。

 ……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつまらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子どもは私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。たとえば子どものほしそうなものを手に入れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてくれた。

もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのような感じがする。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろいろ問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たちのおかげで、私の人生は楽しかったよ」と。

 ……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に進めばよい。
 
 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(211)

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(212)

●汗はかかせる

 最近の子どもたちは驚くほど、暑さに弱い。夏場でも、冷房がある生活のほうが当たり前になっている。……というようなグチは、今さら言ってもしかたない。そこでここでは話を一歩進めて、「文明」とは何かを考える。

 私の女房も、週2回テニスクラブへ行くのに、車を使っている。距離は500メートルもない。運動ということを考えるなら、歩いていったほうが、よっぽど運動になる。

しかしこういう「矛盾」は、今、日常生活の中にありあふれている。たとえばダイエット食品がある。こんにゃくで作った焼きそばとかスパゲッティなどがある。ラーメンもあるが、どれも値段は本物の焼きそばやスパゲティより高い。腸をゆるくするダイエット食品もいろいろあるが、しかしどれも高価なものばかり。中には一回分、数百円。一か月もつづけると、数万円という食品もある。一方で食べるだけ食べておいて、そのまた一方で、ダイエット食品をとる。これも矛盾だ。

しかし最大の矛盾は、洗濯は全自動の洗濯機にさせ、料理も電子レンジですましながら、一方で運動不足を理由にスポーツセンターへ通うことだ。冒頭にあげた子どももそうだ。夏の間中、冷房のきいた部屋の中ばかりにいれば、当然体は弱くなる。冷房のない部屋だと暑苦しいのか手で胸をかきむしる子どもなど、今どき珍しくもなんともない。

中には青白い顔をして、ハーハーとあえぐ子どももいる。……というようなグチも、今さら言ってもしかたない。こうした文明には、いつも大きな矛盾がともなう。要はこうした矛盾と、どうつきあっていくかだが、これについても今さらここに書いてもしかたない。さらに一歩、話を進める。

 文明生活の中で一番こわいのは、こうしたもろもろの矛盾を、矛盾と感じなくなってしまったときだ。矛盾が当たり前になり、その矛盾がさらに巨大な矛盾を生み出す。それを「矛盾」と知っていればまだ救われるが、その矛盾が矛盾とわからなくなれば、ひょっとしたら人間の存在そのものが矛盾ということになるかもしれない。それはまさしく人間そのものが矛盾の中で自己崩壊することを意味する。それはちょうど暴走族のようなものだ。

車という最先端の知恵と技術が結集された「文明の利器」を使いながら、多くの人たちに迷惑をかける。やっていることは、野性のサル以下。が、彼らはそうした矛盾に気づいていない。人間全体が、その暴走族と同じことをしないとも限らない。これがこわい。

 ……とまあ、話がどんどんと飛躍してしまったが、子どもはできるだけ自然の中で、不便を感じさせながら育てるのがよい。夏は夏で、どんどんと汗をかかせる。そのほうが健康によいことは、当然ではないか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(213)

●あせる親は結論も早い

 あるおけいこ塾の先生が、こんなことを言った。「親の中でもワーワーと騒いで入会してくる親ほど、要注意です。そういう親ほど、これまたワーワーと言って去っていきます」と。ある学校の先生も、同じことを言っていた。

「口がうまい親ほど、気をつけています」と。私にも、つきあいたい親と、そうでない親がいる。そのキーポイントとなるのが、やはり信頼関係。この信頼関係があれば、つきあっていても心地よいが、そうでなければそうでない。もっとも私のばあいは、その信頼関係が切れたとき、それは同時に互いの別れということになる。が、学校の先生はそうはいかない。中にはその母親からの電話がかかってきただけで、心臓が踊るということもあるという。

 ……と書きながら、これ以上書くと、親の悪口になるので、書きたくない。私の世界では、親はいつもスポンサーであり、また私のよき理解者かつ支援者である。いわばお客さんのようなもの。そういうお客さんに向かって、「こういう客はよい客だ。こういう客は悪い客だ」と書いていたら、仕事(商売)にならない。しかしこれだけは言える。

 教育がふつうの商売と違うところは、そこに太い人間関係ができるとこと。ものの売り買いとは違う。自動車学校や予備校の指導とも違う。子どもに与える影響は、きわめて大きい。だから教育を商売と同じように考えることはできない。またしてはならない。そこでいくつかのポイントがある。

(1) 先生とつきあうときは如水淡水……子どもの教育だけにかかわり、プライベートなことは、一切、避ける。よく誤解されるが、プライベートなつきあいをしたからといって、信頼関係が深まるということは、ない。

(2) 過剰期待はしない……教師を聖職者だと思っている人は多い。思って、やりたい放題のことをする人も多い。しかしこれはまったくの誤解。子どもを相手に仕事をしているという点をのぞけば、あなたやあなたの夫と、どこも違いはしない。とくに人間性がすぐれているということもない。怒るときには怒る。不愉快に思うときは思う。そういう前提で、つまり同じ人間という前提でつきあう。

(3) 別れ際を大切に……人間関係は、すべてその別れ際の美学で決まる。出会い以上に、別れるときを美しくする。美しい別れを方をするということは、つぎの新しい出会いをまた美しくするということにもなる。教師というのは因果な商売で、その人との出会い方をみると、その別れ方までおおよその見当がつくようになる。「ああ、この人は別れ方がきたないぞ」と。しかしそう思ったとたん、信頼関係は崩壊する。

 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(214)

●遊びが子どもの仕事

 「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらずとも、はずれてもいない。「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがある。オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。

また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外で身につける。実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんかのし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまでは私の過去はただの過去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。いわんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあった。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離されていたということ。たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。山ででくわしたら最後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリンチもしたし、つかまればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手ではないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がない。つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでいた。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子どもや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。仲間意識もあった。仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。

しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、簡単に理解することができる。もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(215)

●思考回路

 人間にはだれしも思考回路というのがある。たとえば暴力団の男たちは、ものごとを何でも暴力で解決しようとする。一方私は文を書くのが好きだから、何か問題が起きたりすると、すぐ文を書いて解決しようとする。こういのを思考回路という。

 こういう思考回路は子どもにもあって、また子どもによって思考回路はそれぞれ違う。たとえば年長児あたりに、「あなたはブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」と聞く。すると子どもたちはそれぞれ自分の思考回路を使って、その問いに答えようとする。「順番に使えばよい」「横取りはさせない」など。しかし中には、「ぶん殴ってやればいい」と言う子どもいる。これは余談だが、あとでその子どもの父親は元ヤクザだたっということがわかった。その父親の左手の小指は欠損していた

 で、問題はいかにしてよい思考回路を子どもの中につくっていくかということ。いや、それを話す前にこんなことがある。以前、「たまごっち」という電子ゲームがはやったことがある。ほとんどの子どもがそれにハマったが、そのたまごっちのブームが去ると、今度はそれがポケモンになり、今ではさら遊戯王になったり、マジックザギャザリングになったりしている。それぞれは別々のゲームだが、思考性という点では、連続性がある。この連続性をつくりあげているのが、ここでいう思考回路ということになる。

 そこで幼児教育で注意しなければならないことは、粗悪な思考回路をつくらないということ。一度それができると、以後、ずっとその子どものものの考え方を支配するようになる。たとえばこんな子ども(中学男子)がいた。ある日窓の外をぼんやりと見ているので、「何を考えているのだ」と声をかけると、こう言った。「先生、ぼくはあのビルを超能力を使って、破壊してみたい」と。

彼は幼児のときからものの考え方が現実離れしていた。うらないやまじないばかりを信じ、魔法とか魔術に強い関心をもっていた。つまりそれが彼の思考回路ということになり、だからそれが転じて、「超能力使って破壊してみたい」となる。

 言いかえると、幼児期には子どもの論理性を育てることを大切にする。もっとわかりやすく言えば、子どもに何かもの教えるときは、「何をどう教えたか」とか「どれくらい覚えたか」ではなく、子どもの心の中にどのような思考回路ができつつあるかをみる。そしてそれが論理的なものであればよし、しかし先に書いたように粗悪なものであれば、それは避ける。

 幼児教育の一つの方向性として、思考回路について考えてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(216)

●構造的な問題

国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・1999年)の調査によると、日本の中学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港に次いで、第5位。以下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続く。理科については、台湾、シンガポールに次いで第3位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシアと続く。

また偏差値(日本……世界の平均点を500点としたとき、数学579点、理科550点)だけをみて、学力を判断することはできない。この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。

 こうした現状の中で、学校5日制が実施され、ゆとり教育の中で学習要領そのものが3割削減されようとしている。今以上に、日本の子どもの学力が低下することは、もう避けられそうにもない。が、本当の問題は、学力ではない。思考力である。

学力と思考力は本来異質のものであり、学力(知識)があるからといって、思考力があるとはかぎらない。しかし日本の子どもたちは、その思考力においても、低下する傾向にある……? 

たとえば東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏は、同じ調査結果をふまえて、文部科学省の徳久氏とは対照的に、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べている。ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学が最低(48%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ2であった(韓国52%、日本55%)。学校の外で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ2。一方、その分、前回(95年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、2・6時間から3・1時間にふえている。

同じような調査だが、ベネッセコーポレーションの「第3回学習基本調査」によれば、次のようになっている(2001年5月と6月に小、中、高校生約8700人について調査)。

学習時間が30分以下……小学生 40・3%
                中学生 30・7%
                高校生 37・1% 

家ではほとんど勉強しないと答えた中、高校生……23・1%

 日本の中学生たちがますます勉強嫌いになり、かつ家での学習時間が短くなっていることが、これらの調査でわかる。が、それにしても小学生よりも高校生のほうが、勉強時間が短いとは! それはともかくも、日本がもつ教育の問題は、もっと構造的なものではないか。これについては別のところで考えるが、ここでは事実だけをあげるにとどめる。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(217)

●知識と学力

 もの知りの人間が、賢い人間ということにはならない。知識と学力は本来別のものであり、これを混同すると、教育そのものが混乱する。

たとえば幼稚園児が掛け算の九九をペラペラと口にしたとしても、その子どもが賢い子どもということにはならない。いわんや算数ができるとか、頭のよい子ということにもならない。が、もしその子どもが、「車が3台でタイヤの数は12」と、即座に計算できれば、算数のできる子どもということになる。さらにその計算方法を自分で考えだしたとしたら、頭のよい子ということになる。

 ところがこの日本では、子どもに知識をつけさせることが教育だと思い込んでいる人が多い。教育の体系そのものがそうなっている。あるいは入試内容にしても、学力をためすというよりは、知識をためすものになっている。いろいろな改善策がこころみられてはいるが、基本的にはこの構図は明治以来、変わっていない。

たとえば今でこそやや少なくなったが、30年前にはどこに進学高校にはいわゆる頭のおかしい「勉強バカ」というのがいた。勉強しかしない、勉強しかできない、頭の中は勉強だらけという子どもである。しかしそういう子どもほど、スイスイと一流大学の一流学部(「一流」という言い方は本当にいやだが……)へ進学していった。私は進学塾の講師をしながら、そのときはそのときで、少なからず疑問に思ったことがある。「こんなことでいいのか」と。

 では、学力とは何か。また学力はどうやって養えばよいのか。実はその答はあなた自身が一番よく知っている。あなたが今、35歳なら35歳でよい。あなたは20歳のときから今までの15年間で、何かを自ら学ぼうとしたか。あるいは学んだか。何かを発見したとか、何かを新たにできるようになったとか、そういうことでもよい。そのとき「知識」は除外する。知識は学力ではない。

するとたいていの人は、何もないことに気づくはずだ。もともと学ぶということにはある種の苦痛がともなう。美濃部達吉も「語録」の中で、「学ぶ者は山に登るごとし」と書いている。だからたいていの人は学ぶことを、自ら避けようとする。私やあなたとて例外ではない。学力とはそういうものであり、また学力を養うということはそういうことである。つまりそれだけむずかしいということ。教育のテーマそのものと言ってもよい。

ここでもう一度、あなたにとって子どもの教育とは何か、それをじっくりと考えてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(218)

●頭をよくする方法

 ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリッパをひもでつないで、電車ごっこなど。時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども(小3)がいた。

母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をしているのだ」と。ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。絵の具を溶かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをする。

 その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説がある。アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。で、この話をすると、ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかませた。しかもそれを年長児のときから、数年間続けた。で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。……と思う。

 また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。作文力だけをみたら、小学校の3、4年生以上の力があったと思う。で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃんのときから、毎日本を読んで、それをテープに録音して、聴かせていました」と。母親の趣味は、ドライブ。外出するたびに、そのテープを聴かせていた。

 今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もある。子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。その敏しょう性。

一人、ドッジボールの得意な子ども(年長男児)がいた。その子どもは、とにかくすばしっこかった。で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。雨の日もはだしだったため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。子どもを将来、運動の得意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(219)

●読書のしつけ

 子どもの読書のしつけについて、いくつかのコツがある。

(1) まず方向性を知る……子どもには子どもの方向性がある。その方向性をうまく利用する。たとえばサッカーが好きな子どもには、サッカーの本を与える。ゲームが好きな子どもなら、ゲームの攻略本でもよい。児童文学書などを無理に与えても、たいてい失敗する。私もあの文学者の書いた本が、どうも性に合わない。最近はほとんど読んだことがない。(これはたまたま私が出会った文学者というのが、どの人もまともでないという印象を受けたためだと思う。)

(2) レベルをさげる……つぎに子どもに与える本は、思い切って一、二年、レベルをさげる。親は書店へ行くと、どうしても一、二年レベルの高い本に手を子どもに買い与えようとする。しかしちょっとしたこの無理が、子どもを本から遠ざける。しかし子どもを本好きにさせようと考えるなら、レベルをさげる。(もともとレベルというのは、いいかげんなものだということもあるが、いわゆる児童文学者というのは、本当に子どものレベルを知っていて本を書いているのではない。せいぜい漢字の使い方で、年齢別にしているに過ぎない。)

(3) 教科書がよい……本を買うなら、少し大きな書店へ行くと、いろいろな学校の教科書を売っている。どうせ買い与えるなら、教科書がよい。内容も吟味されているが、値段も安い。何も国語の教科書に限らない。算数でも社会でもよい。理科でもよい。最近の教科書は子どもが楽しみやすいように工夫してあるので、読み物としてもそれなりにおもしろい。

(4) まず親が読んでみせる……子どもに本を与えるときは、まず親がおもしろそうに読んでみせる。これを動機づけという。動機づけがうまくいくと、あとは子どもが自らの力で本を読むようになる。こうなればしめたもので、あとは子ども自身に任せればよい。

 なおちなみに経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・2000年調査)によれば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(15歳)のうち、53%が、「しない」と答えている。この割合は、参加国32か国中、最多であった。

また同じ調査だが、読解力の点数こそ、日本は中位よりやや上の8位であったが、記述式の問題について無回答が目立った。無回答率はカナダは5%、アメリカは4%。しかし日本は29%! 文部科学省は、「わからないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日新聞)とコメントを寄せている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(220)

●あと一歩でやめる

 子どもを勉強好きにするコツがこれ。「あと一歩でやめる」。これにはいろいろな意味が含まれる。

 与えすぎない……学習量を、子どもの能力が10とみたら、8か9、できれば7のところでやめる。親は「11、もしくはせめて12」と無理をするが、この無理が続くと、子どもは確実に勉強嫌いになる。こんな相談があった。

その子どもは毎日プリント学習を三枚することになっているのだが、何とか2枚はするのだが、3枚目になると時間ばかりかかって先へ進まないという。それで「どうしたらいいか」と。答は簡単。そういうときは2枚でやめる。仮にその子どもがスラスラと3枚もしたら、親は今度は「4枚!」と枚数をふやすに違いない。子どもはそれを知っている。

 30分やって、勉強らしきことは5分……受験生でもないなら、30分間机に向かって、丸々30分勉強する子どもなど、いない。勉強というと、戦前の軍国主義教育のなごりなのか、子どもは黙々と勉強するものだと思っている人は多い。しかしそれはまったくの誤解。

よほどのプロでも、幼児(年長児)を、30分間学習にひきつけておくのは、至難のわざといってもよい。だからあなたの子どもが30分間くらいなら座っていることができるなら、勉強はその30分以内できりあげる。10分でも20分でもよい。その中で、5分くらいで勉強らしきことをしたと思ったら、それでよしとする。

 レベルをさげる……家でする学習は、思い切ってレベルをさげる。ワークブックにしても、文字が大きく、やりやすいものを選ぶ。簡単なものでよい。子どもにとって大切なことは、達成感。「やり終えた」という満足感を大切にする。

 やってここまで……ほとんどの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。しかしやる、やらないも「力」のうち。「やればできるはず」と思ったら、すかさず「やってここまで」と思う。また親というのは、たまに子どもが100点を取ってくると、「やはりうちの子は……」と思い、悪い点を取ってくると、「そんなはずはない」と思うもの。しかし子どもの能力も、その一歩手前で判断するとよい。80点を取ってきたら、70点くらいと思う。70点を取ってきたら、60点と思うなど。一歩退いた見方が、子どもの心に余裕を生む。それが子どもを伸ばす原動力になる。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。