2009年6月9日火曜日

*Das Mann

●『ただの人(Das Mann)』

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「(ハイデッガーは)、自分の未来に不安をもたず、
自己を見失って、だらだらと生きる堕落人間を、
ひと(das Mann)と呼びました」(「哲学」宇都宮輝夫・
PHP)と。

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●堕落人間

 堕落人間(ハイデッガー)は、いくらでもいる。
ここにも、そこにも、あそこにも……。
年齢が若いならともかくも、60歳代ともなると、言い訳は通用しない。
いまだに「老後は孫の世話と、庭いじり」と言っている人が多いのには、驚かされる。
「晴耕雨読」というのも、そうだ。
そういうバカげた老人像を、いつ、だれが作り上げた?

 私の知人に、公的機関の副長職を、満55歳で定年退職したあと、以後、30年近く、
庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
30年だぞ!
年金だけで、毎月30数万円。
妻も公的な機関で働いていたから、2人の年金を合わせると、相当な額になる。

 ここで「庭いじりだけ」と書いたが、本当に庭いじりだけ。
子どもはいない。
孫もいない。
近所づきあいもしない。
まったく、しない。
もともと農家出身だったらしく、裏には、100坪前後の畑ももっている。
そのくせ周囲の家にはうるさく、隣の家にある木の葉が落ちてきただけで、樋(とい)が
つまると、その家に苦情の電話を入れたりする。

 最近、私はそういう老人がいるのを知ると、腹の底から怒りがこみあげてくるように
なった。
加齢とともに、その怒りは、ますます大きくなってきた。
ねたみとか、ひがみとか、そういう低次元な怒りではない。
人気として許せないというか、そういう次元の怒りである。
が、そういう私の気持ちを、あのハイデッガーは、みごとに一言で表現してくれた。
『ただの人(das Mann)』と。

●生きがい

 世の中には、恵まれない老人はいる。
が、その一方で、恵まれすぎている老人もいる。
その知人にしても、介護保険制度が始まって以来、週に2回、在宅介護を受けている。
……といっても、どこか具合が悪いということでもない。
ときどき見かけるが、夫婦で庭の中を、歩き回っている。
元役人ということで、そういう制度の使い方は、よく心得ているらしい。

 その知人をよく知る、同年齢のX氏は、こう皮肉る。
「あれじゃあ、まるで、毎月30数万円の税金を投入して、庭の管理をしてもらって
いるようなものですナ」と。

 が、うらやましがるのは、ちょっと待ってほしい。
いくら年金がそれだけあるといっても、また庭いじりができるといっても、私なら、
そんな生活など、数か月も耐えられないだろう。
何が「晴耕雨読」だ。
自分がその年齢になってみてはじめてわかったことがある。
それがこれ。
「老人をバカにするにも、ほどがある!」と。

 私たち老人が求めるものは、「生きがい」。
わかりやすく言えば、「自分を燃焼させることができる仕事」。
晴れの日に、畑を耕して、それがどうだというのか?
雨の日に、本を読んで、それがどうだというのか?
「だから、それがどうしたの?」という質問に、答のない生活など、いくらつづけても
意味はない。
ムダ。
そういう生活をさして、「自己を見失って、だらだらと生きる」という。

 私はその知人に、こう言いたい。
「お前らのような老人がいるから、ぼくたちは肩身の狭い思いをしているのだ」と。
若い人たちは、そういう老人を見て、老人像を作ってしまう。
誤解とまでは言えないが、しかし懸命に生きている老人まで、同じ目で見てしまう。
だから腹が立つ。

 いいか、老人たちよ、よく聞け。
あのクラーク博士はこう言った。
『少年よ、野心的であれ!』と。
本当は少しちがった意味で、「Boys, be ambitious」と言ったのだが、同じ言葉を、
私はそうした老人たちに言いたい。

『老人よ、野心的であれ!』と。
この意見は、少し過激すぎるだろうか?

(付記)

「少年よ、大志を抱け」で検索してみたら、6年前に書いた原稿が見つかった。
そのまま掲載する。

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●納得道(なっとくどう)と地図

●納得道

 人生には、王道もなければ、正道もない。大切なのは、その人自身が、その人生に納得しているかどうか、だ。あえて言うなら、納得道。納得道というのなら、ある。

 納得していれば、失敗も、また楽しい。それを乗り越えて、前に進むことができる。そうでなければ、そうでない。仮にうまく(?)いっているように見えても、悶々とした気分の中で、「何かをし残した」と思いながら生きていくことぐらい、みじめなことはない。だから、人は、いつも自分のしたいことをすればよい。ただし、それには条件がある。

 こんなテレビ番組があった。親の要請を受けて、息子や娘の説得にあたるという番組である。もともと興味本位の番組だから、それほど期待していなかったが、それでも結構、おもしろかった。私が見たのは、こんな内容だった(〇二年末)。

 一人の女性(二〇歳)が、アダルトビデオに出演したいというのだ。そこで母親が反対。その番組に相談した。その女性の説得に当たったのは、俳優のT氏だった。

 「あなたが思っているような世界ではない」「体を売るということが、どういうことかわかっているの?」「ほかにしたいことがないの?」「そんなにセックスがしたいの?」と。

 結論は、結局は、説得に失敗。その女性は、こう言った。「私はアダルトビデオに出る。失敗してもともと。出ないで、後悔するよりも、出てみて、失敗したほうがいい」と。

 この若い女性の理屈には、一理ある。しかし私は一人の視聴者として、その番組を見ながら、「この女性は何とせまい世界に住んでいることよ」と驚いた。情報源も、情報も、すべて、だれにでも手に入るような身のまわりにあるものに過ぎない。あえて言うなら、あまりにも通俗的。「したいことをしないで、あとで後悔したくない」というセリフにしても、どこか受け売り的。そのとき私は、ふと、「この女性には、地図がない」と感じた。

 納得道を歩むには、地図が必要。地図がないと、かえって道に迷ってしまう。しなくてもよいような経験をしながら、それが大切な経験だと、思いこんでしまう。私がここで「条件がある」というには、それ。納得道を歩むなら歩むで、地図をもたなければならない。これには若いも、老いもない。地図がないまま好き勝手なことをすれば、かえって泥沼に落ちてしまう。

●地図 

 人生の地図は、三次元で、できている。(たて)は、その人の住んでいる世界の広さ。(横)は、その人の人間的なハバ。(深さ)は、その人の考える力。この三つが、あいまって、人生の地図ができる。

 (たて)、つまり住んでいる世界の広さは、視点の高さで決まる。自分の姿を、できるだけ高い視点から見ればみるほど、まわりの世界がよく見えてくる。そしてそこには、知性の世界もあれば、理性の世界もある。それをいかに広く見るかで、(たて)の長さが決まる。

(横)、つまり人間的なハバは、無数の経験と苦労で決まる。いろいろな経験をし、その中で苦労をすればするほど、この人間的なハバは広くなる。そういう意味で、人間は、子どものときから、もっと言えば、幼児のときから、いろいろな経験をしたほうがよい。

 が、だからといって、人生の地図ができるわけではない。三つ目に、(深さ)、つまりその人の考える力が必要である。考える力が弱いと、ここにあげた女性のように、結局は、低俗な情報に振りまわされるだけということになりかねない。

 で、もう一度、その女性について、考えてみる。「アダルトビデオに出演する」ということがどういうことであるかは別にして、……というのも、それが悪いことだと決めてかかることもできない。あるいはあなたなら、「どうしてそれが悪いことなのか」と聞かれたら、何と答えるだろうか。この問題は、また別のところで考えるとして、まず(たて)が、あまりにも狭い。おそらくその女性は、子どもときから低俗文化の世界しか知らなかったのだろう。テレビを通してみる、あのバラエティ番組の世界だ。

 つぎのこの女性は、典型的なドラ娘。親の庇護(ひご)のもと、それこそ好き勝手なことをしてきた。ここでいう(横の世界)を、ほとんど経験していない。そう決めてかかるのは失礼なことかもしれないが、テレビに映し出された表情からは、そう見えた。ケバケバしい化粧に、ふてぶてしい態度。俳優のT氏が何を言っても、聞く耳すらもっていなかった。

 三つ目に、(深さ)については、もう言うまでもない。その女性は、脳の表層部分に飛来する情報を、そのまま口にしているといったふう。ペラペラとよくしゃべるが、何も考えていない? 考えるということがどういうことなのかさえ、わかっていないといった様子だった。いっぱしのことは言うが、中身がない。

 これでは、その女性が、道に迷って、当たり前。その女性が言うところの「納得」というのは、「狭い世界で、享楽的に、したいことだけをしているだけ」ということになる。

●苦労

 納得道を歩むのは、実のところ、たいへんな道でもある。決して楽な道ではない。楽しいことよりも、苦労のほうが多い。いくら納得したからといって、また前に別の道が見えてくると、そこで悩んだり、迷ったり、ときにはあと戻りすることもある。あえていうなら、この日本では、コースというものがあるから、そのコースに乗って、言われるまま、おとなしくそのコースを進んだほうが得。楽。無難。安心。納得道を行くということは、そのコースに背を向けるということにもなる。

 それに成功するか、失敗するかということになると、納得道を行く人のほうが、失敗する確率のほうが、はるかに高い。危険か危険でないかということになれば、納得道のほうが、はるかに危険。だから私は、人には、納得道を勧めない。その人はその人の道を行けばよい。私のようなものが、あえて干渉すること自体、おかしい。

 が、若い人はどうなのか。私はこうした納得道を歩むというのは、若い人の特権だと思う。健康だし、気力も勇気もある。それに自由だ。結婚には結婚のすばらしさがあるが、しかし結婚には、大きな束縛と責任がともなう。結婚してから、納得道を歩むというのは、実際問題として、無理。だから納得道を歩むのは、若いときしかない。その若いときに、徹底して、人生の地図を広げ、自分の行きたい道を進む。昔、クラーク博士という人が、北海道を去るとき、教え子たちに、『少年よ、野心的であれ(Boys, be ambitious!)』と言ったというが、それはそういう意味である。

 私も若いときには、それなりに納得道を歩んだ。しかしそのあとの私は、まさにその燃えカスをひとつずつ、拾い集めながら生きているようなもの。それを思うと、私はよけいに、子どもたちにこう言いたくなる。「人生は、一度しかないのだよ。思う存分、羽をのばして、この広い世界を、羽ばたいてみろ」と。つまるところ、結論は、いつもここにもどる。

 この「納得道」という言い方は、私のオリジナルの考え方だが、もう少し別の機会に、掘りさげて考えてみたい。今日は、ここまでしか頭が働かない。
(03-1-10)

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