2009年6月29日月曜日

*Essays on House Education(Part 3)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(221)

●個性は生きザマ

 個性は生きザマの問題。服装ではない。外観でもない。中に子どもを茶パツにし、(茶パツが悪いといっているのではない)、「個性です」という親がいるが、そういうのは個性とは言わない。個性というのは生きザマだ。その人がどんな人生観をもち、どんな生き方をしているかが個性だ。その生きザマが光る人を、個性のある人という。服装や外観は、あくまでもその結果でしかない。

 私ははからずもある国家プロジェクトの会議のメンバーに選ばれたことがある。行政担当者の人選ミスによるものだが、その会議のメンバーは、私をのぞいて、そうそうたるメンバーであった。日本を代表するような哲学者や科学者、それに毎晩テレビに顔を出すキャスターもいた。その中でもとくに私の印象に残ったのが、養老猛司氏であった。解剖学が専門だと聞いている。

で、会議で見ると、頭はボサボサ、ブレザーのスーツも、どこかごくふつうのブレザーであった。もし電車の中で横に並んでも、だれもあの養老氏とは思わないだろう。私なんかふだんはそんなことを気にしたこともないのに、会議のたびに、何を着ていこうかとか、そんなことばかり気にしていた。(会議のたびに10~20人の取材人が押し寄せたこともある。)

が、養老氏は、まったくのふだん着。それだけを見てそう判断するのは、軽率かもしれないが、「ああ、大物は違うな」と、そのときはそう思った。そういうのを個性という。

 子どもでも個性の光る子どもと、そうでない子どもがいる。どこがどう違うかといえば、要するに自分をもっているかどうかということ。もう少しわかりやすく言えば、「つかみどころ」ということになる。個性をもっている子どもは、子どもながらにそのつかみどころがはっきりとしている。

方向性や志向性がはっきりしていて、その方向性や志向性に向かって、前向きに取り組んでいる。もっと言えば、内に秘めたバイタリティというか、そういうエネルギーを感ずる。もちろん子どもの段階では、その子どもがどんな個性をもつようになるかまではわからない。わからないが、個性をもつだろうということはわかる。

 このことはつまり、子どもの個性を伸ばすということは、子ども自身がもつ方向性や志向性を認め、そのバイタリティを前向きに引き出すということにもなる。結果、その子どもがどういう個性を光らせるようになるかは、あくまでもその子ども自身の問題であって、教師はもちろんのこと、ひょっとしたら親ですら関知しえない問題かもしれない。あくまでも子ども自身が決める問題なのだ。

 ……しかし実際のところ、「私は私」という生きザマを貫くことは、この日本ではたいへん難しい。日本の社会そのものが、個性を認めるほど社会的に成熟していないこともある。このことについては、また別のところで考える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(222)

●アルバムをそばに置く

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成長していく喜びを知る。それだけではない。子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を学ぶ。ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なのだ。

一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長男児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まずいない。哺乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たいてい「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。記憶が記憶として想起できるようになるのは、満4・5歳前後からとみてよい(※)。

このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長児にならないとわからない。が、一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理解するのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、このアルバムには、不思議な力がある。

 ある子ども(小5男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見ていた。また別の子ども(小3男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つまりアルバムには、心をいやす作用がある。

それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、それだけではない。

冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに父親や母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。それは子どもにとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私はあのとき感じたショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときのことだ。「これがぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学3年生ぐらいのときのことだったと思う。

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあった。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには100冊近いアルバムが並んでいた。それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあった。

そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情をしているのに、私は気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置いてみるとよい。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(223)

●前向きの暗示を

 子どもを伸ばす秘訣の一つ、それはいつも子どもには前向き(プラス)の暗示をかける。「あなたはどんどんいい子になる」「あなたはどんどん伸びている」「あなたは以前のあなたよりすばらしい」と。まちがってもうしろ向き(マイナス)の暗示をかけてはいけない。いわんや、「あなたはやっぱりダメな子」式の、人格攻撃はタブー中のタブー。これはもう、言葉による虐待と考えてよい。そこで子どもを伸ばす話術。いろいろある。

(1) 頭ごなしの禁止命令はしない……「○○をしてはダメ」式の禁止命令は、できるだけ少なくする。「指しゃぶりはダメ」「騒いではダメ」など。そういうときは私のばあい、「おいしそうな指ね、先生にもなめさせてね」「お尻がかゆい人は騒いでいていい」などと言うようにしている。頭ごなしの禁止命令が日常化すると、子どもの心は内閉する。(あるいは粗放化する子どももいる。)

(2) いつも具体性をもたせる……「静かにしないさい」ではなく、「口を閉じていなさい」と言う。「しっかりとあいさつをしないさ」ではなく、「体をまげて、自分の足を見なさい」と言うなど。具体性のない指示は、子どもには意味がないと思うこと。

(3) そして子どもには、いつも「あなたはすばらしい子」という前提で話しかける。何か失敗しても、「あなたらしくはないわね」「いろいろなときがあるわね」とか言うなど。そのためには、まずあなた自身の心をつくりかえなければならない。もし心のどこかで不安だ、心配だと思っているなら、そういう不安や心配を取り除く。それがあると結果として、そういうあなたの心は子どもに伝わってしまう。そしてそれがマイナスの暗示になってしまう。

 つまるところ子どもを伸ばすということは、子どもを信ずるということ。しかし子どもを信ずることは、たいへんむずかしい。子育てでも、最大のテーマではないか。そんなことも考えながら、前向きの暗示とは何か、それを考えてみるとよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(224)

●新居の関所

 浜名湖の南西にある新居町には、新居関所がある。関所の中でも唯一現存する関所ということだが、それほど大きさを感じさせない関所である。江戸時代という時代のスケールがそのまま反映されていると考えてよいが、驚くのは、その「きびしさ」。関所破りがいかに重罪であったかは、かかげられた史料を読めばわかる。

つかまれば死罪だが、その関所破りを助けたものも同程度の罪が科せられた。新居の関所破りをして、伊豆でつかまった男は、死体を塩漬けにして新居までもどされ、そこでさらにはりつけに処せられたという記録も残っている。移動の自由がいかにきびしく制限されていたかが、この事実ひとつをとっても、よくわかる。が、さらに驚いたことがある。

 あちこちに史料と並んで、その史料館のだれかによるコメントが書き添えてある。その中の随所で、「江戸時代は自由であった」「意外と自由であった」「庶民は自由を楽しんでいた」というような記述があったことである。当然といえば当然だが、こうした関所に対する批判的な記事はいっさいなかった。私と女房は、読んでいて、あまりのチグハグさに思わず笑いだしてしまった。「江戸時代が自由な時代だったア?」と。

 もともと自由など知らない人たちだから、こうしたきゅうくつな時代にいても、それをきゅうくつとは思わなかっただろうということは、私にもわかる。あの北朝鮮の人たちだって、「私たちは自由だ」(報道)と言っている。

あの人たちはあの人たちで、「自分たちの国は民主主義国家だ」と主張している。(北朝鮮の正式国名は、朝鮮人民民主主義国家。)現在の私たちが、「江戸時代は庶民文化が花を開いた自由な時代であった」(パネルのコメント)と言うことは、「北朝鮮が自由な国だ」というのと同じくらい、おかしなことである。私たちが知りたいのは、江戸時代がいかに暗黒かつ恐怖政治の時代であったかということ。新居の関所はその象徴ということになる。

たまたま館員の人に説明を受けたが、「番頭は、岡崎藩の家老級の人だった」とか、「新居町だけが舟渡しを許された」とか、どこか誇らしげであったのが気になる。関所がそれくらい身分の高い人によって守られ、新居町が特権にあずかっていたということだが、批判の対象にこそなれ、何ら自慢すべきことではない。

 たいへん否定的なことを書いたが、皆さんも一度はあの関所を訪れてみるとよい。(そういう意味では、たいへん存在価値のある遺跡である。それはまちがいない。)そしてその関所をとおして、江戸時代がどういう時代であったかを、ほんの少しでもよいから肌で感じてみるとよい。

何度もいうが、歴史は歴史だからそれなりの評価はしなければならない。しかし決して美化してはいけない。美化すればするほど、時代は過去へと逆行する。そういえば関所の中には、これまた美しい人形が八体ほど並べられていたが、まるで歌舞伎役者のように美しかった。私がここでいう、それこそまさに美化の象徴と考えてよい。
(※こまかい点は、聞き覚えなので、事実と違うかもしれない。)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(125)

●便利な世界

 便利さはそれになれると、感覚がマヒする。私のきわめて身の回りのことを書く。
 
10年近く前から私はワープロを使うようになった。いや、もう15年になるかもしれない。当初私は、その便利さに圧倒された。そのワープロが今度は、パソコンにかわった。私はこれまたその便利さに圧倒された。文を書くだけではなく、原稿の送受信まで、それこそ瞬時にやってのける。そこで私はさらに便利にするため、周辺機器を買いそろえた。プリンターやスキャナーはもちろんのこと、ほとんどの周辺機器はとりそろえた。で、今では私の部屋は、足の踏み場もないほどコード類が走り回っている。パソコンだけで6台だから、どの程度のコードかは、わかる人ならわかると思う。

 が、便利というのは恐ろしいものだ。そのつど格段に私の仕事は便利になったが、気がついてみると、最近ではマウスをクリックするだけでも、不便に感ずるのだ。ワープロの時代は文書をそのつどフロッピーに保存し、プリントのたびに紙をワープロに設置した。印刷時間も今の5~6倍はかかったのではないか。もちろん原稿は封筒に入れ、真夜中でも速達で出すため、郵便局まで車を走らせた。(それでも当時は当時で便利になったものだと喜んでいた!)それがマウスをクリックするだけでも、不便に感ずる? 

たとえばOCRというソフトがある。スキャナーに原稿をはさんで、それをスキャンすると、その原稿の文字をパソコンの中に取り込んでくれる。昔のように原稿を見ながら、それをカチャカチャとキーボードをたたいて入力する必要など、もうない。ないにもかかわらず、それがめんどうなのだ。女房からひとつの仕事を頼まれているが、「まだア?」とこのところ毎日のように催促されている。やる気になれば、5分程度で、数枚の原稿を読み取ることができるというのに!

 だいたいにおいて書斎に座ったら最後、動くのは指先だけ。体を動かさねばならないようなことは、めったにない。それこそ紙の補給ぐらいなものか。だからこういう世界にどっぷりとつかってしまうと、体を動かすこと、たとえば立ちあがってすわることが重労働に思われるから不思議である。

 ……と考えて、これはもう現代文明に共通する「矛盾」ではないかと思っている。考えてみれば、ありとあらゆるものがそうなのである。しかし人間はあくことなく、さらなる便利さを求めて動き回っている。これを進歩というか、はたまた後退というのかは、私にはわからないが、大きな矛盾であることには違いない。あるいはそれは本当に人間が求めているものかどうかは、大きな疑問の残るところでもある。

 私は今、この文をその書斎で書きながら、やがて私はその便利さにどこまで体がなれてしまうか、それをそら恐ろしくすら思い始めている。やがて指を動かすことすらめんどうに感ずるようになってしまったら……? それももう時間の問題のような気がするが……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(226) 
 
●案ずるより産むがやすし

 心配性の親というのは、たしかにいる。しかし「心配性」というのは、不安神経症のことか。さらにはうつ病の「不安発作」ということも考えられる。感情のコントロールができなければ、感情障害ということにもなる。このタイプの親は頭の中でつぎつぎと不安のタネをつくり、そしてそれを限りなく増大させる。「被害妄想」という言葉があるが、まさにその妄想のウズに巻き込まれてしまう。

 あるとき一人の母親が私のところへ来て、こう相談した。何でも幼稚園の下の階が、炊事室になっているという。その母親の子どもの教室がその真上にあって、「火事にでもなったら、たいへん」と。その幼稚園には避難用として一応、大きなスベリ台が二階から地上へとつながっているが、「それでは不安だ」とも。

私が「幼稚園は一応どこも、消防署の検査を受けているはずです」と言ったが、それでも納得しなかった。「地震のときはどうなのか」とか「子どもがスベリ台をこわがったらどうするのか」と。こんな母親もいた。

 息子がアメリカへ1年間留学することになったという。それについて、「心配で夜も眠られない」と。その母親はアメリカで何か事件が起きると、すべてアメリカ中で同じような事件が起きていると思ってしまうらしい。

そこで私が「テキサス州といっても、日本の二倍の広さがあります」「インドネシアで地震があると、日本も壊滅状態になったと考えるアメリカ人も少なくありません。それと同じことです」と説明したが、やはり納得しなかった。アジア全域を含めても、アメリカ大陸より小さい。

愉快だった(失礼!)だったのは、たまたまその母親はブルースウィルスの「ダイハード」という映画を見たらしい。その映画を例にとって、「アメリカは恐ろしい国ですから」と。(もしそんな心配をするなら、ビートたけしの「バトルロワイヤル」を見て、「これが日本の中学校だ」と思うようなものだが……。)ともかくも、心配する人は、そこまで心配する。

 そこで格言。「案ずるより産むがやすし」。ここでいう意味とは少しはずれるかもしれないので、この格言を少し言いかえるとこうなる。「案ずるより任すがやすし」と。子どもというのは、親の心配の外で成長するもの。心配したからといってどうにもならない。心配しないからといって、どうにかなるものでもない。子育てにはこうした心配はつきもの。そういう意味で、子育てというのはいつも自分との戦い。自分が心配だからといって、その心配を子どもにぶつけてはいけない。ぶつけるというのは、それはもう親のエゴでしかない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(227)

●威圧で閉じる子どもの耳

叱られじょうずな子どもがいる。親や先生が叱るときだけ、いかにも反省していますというような態度を示す。元気なさそうに頭をうなだれたりする。しかしそういう様子にだまされてはいけない。「だます」という言い方には少し語弊があるかもしれないが、子どもの心というのは、もっと別の角度からみる。あるいは子どもを叱るというのは、もっと別のことと考える。

 子どもの叱り方は、子育ての要(かなめ)。叱り方ひとつで、伸びる子どもも伸びなくなってしまう。あるいは反対に子どもの伸びる芽をつんでしまうこともある。そこでその叱り方。たとえば「威圧で閉じる子どもの耳」と覚えておく。親が威圧的になればなるほど、子どもの耳は閉じるということ。そして一度閉じると、あとはいくら叱っても意味がないということ。

 実際こんな子ども(小5男児)がいた。親に叱られるときは、いつも心の中で「ポケモン言えるかな」を歌っていると。この歌は、ポケモンの名前を連ねただけの意味のない歌だが、意味がないだけにそういうときに役にたつらしい? 子どもを叱るときには、つぎのようなことに注意するとよい。

(1)視線を子どもの目線の高さまで落とす。
(2)子どもの体を両手で固定し、視線をしっかりと子どもの視線にあわせる。
(3)何度も大切なことだけを繰り返し、怒鳴ったり暴力を加えてはいけない。
(4)すぐには効果をもとめず、言うだけ言ったらあとは時間がすぎるのを待つ。そしてここが重要だが、
(5)子どもは決して叱りっぱなしにしてはいけない。子どもが言ったことを守れるようになったら、「ほらできるわね」とほめて仕上げる。

 親の威圧が日常的につづくと、子どもは俗にいう「常識ハズレ」になりやすい。自分で静かに考えて行動するということができなくなるためと考える。友だちの誕生日に、酒粕を包んで送った子ども(小三男児)や、虫の死骸を箱につめて送った子ども(小三男児)などがいた。そういうことを平気でするようになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(228)

●よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよい子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。またどのレベルで判断するかによっても、変わってくる。

たとえば息子が同性愛者になったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女の子はうらやましく思えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がないように。)それだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面もある。こんなことがあった。

K君(小5)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出されていた。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談があったので、私は月に1、2回程度、彼の勉強をみることにした。で、そうして1年ぐらいがたったある夜のこと、私はK君と母親の3人でたまたま話しあうことになった。が、私はK君が悪い子だとはどうしても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばかりの生命力をもっていた。おとなの冗談がじゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。

それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろうから、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間後のこと。私が一人で教室にいると、いつもより30分も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君はこう言った。「先生、肩をもんでやるよ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題ではない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そしてその像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。

要は子ども自身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性をもっていればよい子であり、そうでなければそうでないということになる。たいへんわかりにくい言い方になってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらいわかりにくいということ。もっと言えば、この世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい子も悪い子も存在しないということになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えても、意味はない。まったくない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(229)

●子どもの家出

 子どもの家出といっても、一様ではない。まず目的のない家出と、目的のある家出に分ける。目的がないかあるかは、もちものを見ればわかる。目的のない家出は、身の回りのありとあらゆるものをもって、家から一方向に遠ざかるという特徴がある。

S君(年長児)は、買い物バッグの中に、サイフから大根、おもちゃから人形、ビデオテープなど、手当たり次第につめて家出した。親が気がついて追いかけたときには、数キロ先を黙々と下を向きながら歩いていたという。一方、目的のある家出は、その先で何をするかがはっきりわかるものをもって、家を出る。サッカーの試合を見るための家出は、試合の応援のグッズをもっていくなど。

 目的のある家出は、それほど心配しなくてもよい。だれしも一度や二度は経験する。しかし目的のない家出は、家庭にかなり深刻な問題があるとみる。子ども自身が家庭の中に居場所がないばかりか、家庭が家庭として機能していないなど。たいていこのタイプの子どもは、同時に帰宅拒否(なかなか家に帰りたがらない)や、いろいろな神経症などの症状をあわせもつ。で、こうした症状はできるだけ初期症状の段階で、それを知り、家庭のあり方そのものを反省する。そこでテスト。

 あなたの子どもが園や学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めているか、それを静かに観察してみてほしい。そのときあなたの子どもがあなたのいる前で、あなたの存在を気にせず体を休めているならよい。しかしあなたの姿を見ると、どこかへ逃げていくとか、あるいは好んであなたのいないところで体を休めるようであれば、あなたと子どもの関係はかなり危険な状態にあるとみてよい。今は小さなキレツかもしれないが、やがて大きな断絶となる可能性が高い。

 子どもが小学校へ通うようになったら、家庭は「しつけの場」から、「いこいの場」、「心をいやす場」へと、変化しなければならない。またそれが家庭のあるべき姿ということになる。家出を決して軽くみてはいけない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(230)

●現場主義

 絵でもアトリエで描く絵と、現場で写生しながら描く絵がある。(それ以外にもあるが……。)教育論も、部屋に閉じこもって書く教育論と、現場で子どもたちを見ながら書く教育論がある。

私のばあい、子どもたちを直接見ながらでないと、その教育論が書けない。たとえば一週間も休みがつづいたりすると、原稿そのものが書けなくなることがある。(教育論というよりは、子育て論に近いが……。)そういう私の教育論の書き方を、私は勝手に、現場主義と呼んでいる。

 この現場主義にはいろいろな意味がある。生々しい話は現場でないと書けないという意味のほか、現場でないと、「発見」「修正」「発展」を繰り返すことができないという意味。たとえばどうも様子がほかの子どもと違う子どもを見つけたとする。それは「発見」ということになる。

で、原因をあれこれ考えながら、一つの仮説を頭の中で考える。もっとも30年以上も子どもたちを見つづけていると、どの子どもも、ある一定のパターンに分類することができる。そのパターンに分類しながら、自分の意見をまとめる。しかし簡単にはまとめられない。子どもとて、人間。いろいろな環境や要因が複雑にからみあっている。同じ過保護児といっても、症状はまさに千差万別。そこで自分の意見に、修正や訂正を加える。そのときも目の前に子どもを見ていないとできない。その修正や訂正を加えながら、さらにその奥へと切り込んでいく。これが「発展」ということになる。

 これは私が教育論を書くときの「方法」であるが、それは同時に私の「強み」でもある。ほとんどの教育評論家は、実際には子どもと接していないか、あるいは接していても、その量そのものがきわめて少ない。大学の教授と言われる人になると、ほとんど接していない。

先日もある幼稚園で講演をしたら、「○○大学附属幼稚園」となっていた。園長はその大学の教授ということだった。そこで私が「園長はよく来るのですか」と聞くと、女性の副園長(実際にはその副園長がその幼稚園を取りしきっている)は、こう言った。「たまにね。それに来ても、お客様ですから……」と。で、その道の専門家と議論しても、「私ほど現場を踏んだものはいない」という事実が、私をうしろから支えてくれる。

 私は毎日、子どもたちと接している。もしそういう経験がなかったら、私はこうまで自分の意見をまとめることはできなかっただろうと思う。それにまだある。子どものことで何かわからないことがあると、私はすぐ、子どもたちに問いかけることにしている。本でもなければ、参考書でもない。子どもたち自身にである。つまり子どもたち自身が私の先生ということになる。考えてみれば、これも現場主義ということか。

 少しコマーシャル的になったが、ここに書いているようなアドバイスは、私の現場主義から生まれたものである。






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(231)

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。

しかし幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。

 今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではないが……。)教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくなることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(232)

●子どもの自我

フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、ものの考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来に向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、まじないや占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみどころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわからない子どもといった感じになる。

その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から考える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。

反対に、威圧的な過干渉(親の価値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子どもを当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。そしてここが重要だが自我は一度つぶれると、以後、修復するのがたいへん難しい。たとえば幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その影響は一生続く。とくに乳幼児から満四~五歳にかけての時期が重要である。

 人間は、ほかの動物と同様、数10万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。その過程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。こうした本質は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思うほうがおかしい。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかということ。子育ての原点はここにある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(233)

●いじめられっ子は徳をつむ?

 世の中にはいじめる人、いじめられる人がいる。またいじめられる人が、どこかでだれかをいじめ、いじめる人が、どこかでだれかにいじめられるということもある。意識していじめたりすることもあるが、意識しないでいじめることもある。人間関係はそれだけ複雑だが、子どもの世界もまたしかり。いじめる側が絶対的な悪であり、加害者ということにはならない。いじめられる側が絶対的な善であり、被害者ということにもならない。

いじめのない世界は理想だが、しかしいじめのない世界はない。それは人間も含めて、すべての動物が共通してもつ宿命のようなものではないか。このことは飼っている犬をみてもわかる。つまり「いじめ」という表面に表れた症状だけをみて、いわば対症療法するだけではこの問題は解決しないということ。いじめの「根」はもっと深く、大きい。

最近の傾向としては、ささいないじめまで、「そら、いじめだ!」と大騒ぎする親が多いということ。もちろん問題とすべきような大きないじめもあるが、大半は、子どもどうしのトラブルと考えてよい。子どもは(そしておとなも)、それぞれの摩擦や衝突、解決や和解をとおして成長する。

 ただこういうことは言える。いじめる側はいつも何か大切なものをなくし、いじめられる側はいつも何か大切なものを手に入れるということ。以前、O君という中学生がいた。彼はやさしくて、だれにも親切な子どもだった。ある日学生服をみると、背中にいっぱい落書きがしてあった。「どうしたの?」と聞くと、O君は、「いいんです。ふざけていただけです」と笑ってごまかしていた。

明らかに皆のいじめにあっていたが、そのためか、O君にはおとなの私をもほっとさせるような人間味があった。で、その結果ということになるが、大学は、学校の推薦を受け、日本でも一、二を争う私立大学へ入学した。高校の先生たちも、私が感じたのと同じ印象をO君にもったためではないか。私もいつか、「こういうO君のような子どもが成功しない世界があったとしたら、その世界のほうがまちがっている」と思ったことがある。

 もちろんいじめられて心がゆがむ子どもも少なくない。いじけたり、ひがんだり、あるいはそれが原因で不登校を起こしたりすることもある。皆が皆、O君のようになるというわけではない。そういう意味でも、いじめは大きな問題だし、無視してよいというわけではない。

が、もし、少なくともアメリカのように、日本人も、「学校とは行かねばならないところ」という呪縛から少しは解放されたら、少しはこの問題の見方も変わってくるのではないか。アメリカではホームスクーラーが、2001年の終わりには200万人を超えたと言われている。つまり教育の硬直化が、いじめの問題をより深刻化させているとも考えられなくはない。そういう視点でも、この問題は考えてみるべきではないのか。あくまでもひとつの参考的意見にすぎないが……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(234)

●ホームスクール

アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、つぎのように反論している。いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(235)

●いたずらとジョーク

 「笑い」は高度に進化した動物たちに与えられた、まさに知的特権である。人間はもちろんのこと、サルや犬も笑うことが知られている。ほかの動物については知らないが、中には笑っているのもいるかもしれない。

 その「笑い」を誘うのが知的遊戯であり、その代表的なものが、いたずらとジョークである。子どもはこのいたずらとジョークが大好きで、一般論として融通のハバが広い子どもほど、いたずらやジョークのハバが広い。この時期、いたずらもしなければ、ジョークも通じないというのは、あまり好ましいことではない。俗に頭のかたい子どもは、その融通がきかない。ジョークも通じない。こんなことがあった。

 ある夜遅く、一人の母親から抗議の電話がかかってきた。いわく、「先生は、授業中、虫を食べているそうですね。娘が気味悪がって泣いていますから、どうかそういうことはしないでください」と。私はときどき子どもたちの前で、泣き虫とか怒り虫を食べたフリをしてみせる。泣き虫を食べたときは、オイオイと泣いて見せるなど。それをその子ども(長女児)は本気にしたらしい。

あるいは同じことについて、別の日。怒り虫を食べて、子どもたちの前で起こったフリをしてみせたことがある。そのとき(もちろん演技でだが)、プリンとを丸めて、最前列にいた子ども(年中男児)の頭をポンポンとたたいてみせた。(痛いはずがない!)が、それについてやはり電話で、「先生は、うちの子どもの頭を理由もなくたたいたというではありませんか! 先生は体罰反対ではなかったのではないですか!」と。ものすごい剣幕だった。

 いたずらといっても、常識をはずれたいたずらがよいわけではない。私のお茶に、殺虫剤を入れた中学生がいた。あるいは私が黙ってうなずいた瞬間、顔の下にシャープペンシルを立てた中学生もいた。そのときはマユの下を切り、顔中が血だけになった。あと数センチ位置がずれていたら、私は右目を失明していただろう。そういういたずらは、常識のブレーキが働かないという点で、好ましいいたずらとはいえない。

 頭のやわらかい子どもや、知的レベルの高い子どもほど、ジョークが通ずる。幼稚園児でもおとなのジョークを理解することができる。ある日、幼稚園児の前で、「アルゼンチンのサポーターには、女の人はいないんだってエ」と言ったときのこと。子どもたちが「どうしてエ?」と聞いたので、私が「だって、アル・ゼン・チンだもんねえ」と言った。言ったあと、「無理かな」と思ったが、一人だけニヤッと笑った子どもがいた。日ごろから頭のよい子だった。




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●一芸論

 子どもには一芸をもたせる。しかしその一芸は、つくるものではなく、見つけるもの。いろいろなことがあった。S君(年中児)は父親が新車を買ってきたときのこと、車の中のスイッチに異常なまでの興味をもった。そこで母親から相談があったので、私はパソコンを買ってあげることをすすめた。

パソコンはスイッチのかたまりのようなもの。案の定S君はそのパソコンにのめりこみ、小学三年生のときにはベーシックを。中学生になるころには、C言語をマスターするまでになった。Tさん(二歳児)もそうだ。お風呂に入っても、お湯の中に平気でもぐって遊んでいたという。そこで母親が水泳教室へ入れてみたのだが、まさに水を得た魚のようにTさんは泳ぎ始めた。そのTさんは中学生のときには、全国大会に出場するまでに成長した、などなど。

 中に「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるかのように、勉強から遠ざかってしまう。そのためだけというわけではないが、子どもには一芸をもたせる。その一芸が子どもを側面から支える。さらに「芸は身を助ける」の格言どおり、その一芸がその子どもの天職となることもある。

M君(高校生)は、不登校を繰り返し、ほとんど高校へは行かなかった。そのかわり近くの公園で、ゴルフばかりしていた。で、それから一〇年後、ひょっこり私の家にやってきて、いきなりこう言った。「先生、ぼくのほうが先生より、(お金を)稼いでいるよね」と。M君はゴルフのプロコーチになっていた。

 一芸を子どもの中に見つけたら、お金と時間をたっぷりとかける。子どもの側からすれば、「これだけは絶対、人に負けない」という状態にする。また周囲の子どもの側からすれば、「これについては、あいつしかできない」という状態にする。

 ただしここでいう一芸というのは、将来に向かって前向きに伸びていく「芸」のことをいう。モデルガンやゲームのカードを集めるというのは、ここでいう芸ではない。





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●一芸は聖域

 子どもの一芸は、聖域と思うこと。この聖域を踏み荒らすようなことがあると、子どもの心は大きな影響を受ける。よくある例が、「成績がさがったから、(好きな)サッカーはやめさせる」というもの。こういうケースで、サッカーをやめさせればさせたで、成績はかえってさがる。こんなケースがある。

 H君(中1)は毎日、学校から帰ってくると、パソコンに向かって作曲をしていた。が、成績がさがったこともあり、父親がそれを強引に禁止した。とたん。H君の情緒は不安定になってしまった。まず朝起きられなくなり、つづいて昼と夜が逆転し始めてしまった。食事も不規則になり、食べたり食べなくなったりするなど。何とか学校へは行くものの、感情的な反応そのものが鈍くなってしまった……。

 子どもが一芸にのめりこむ背景には、そうせざるをえない子ども自身の心の問題が隠されていることが多い。いわば自分の心のすきまを生めるための代償的行為ともいえるもので、それを奪うと、子どもによってはここにあげるH君のようになる。H君は学校で疲れた心を、音楽を作曲することでなぐさめていた。それを父親が奪ってしまったのだから、H君の症状は当然といえば当然の結果でもあった。

 また一芸が、子どもによってはいわば生きがいそのものになっていることが多い。ある女の子(中学生)は手芸で、また別の男の子(小学生)はスケボーで自分を光らせていた。もしそうであるなら、それを奪う権利は親にもない。さらに……。

 これからはプロが生き残る時代といってもよい。少なくとも世界は、そういう方向に向かって進んでいる。たとえばアメリカでは、大学でも入学後の学部変更や、さらには大学から大学への転籍すら自由化されている。より高度な勉強を求めて、大学から大学へと渡り歩いている学生すらいる。「学歴」にこだわる理由そのものがない。そしてそれが今、国際間でもなされている。日本もやがてそうなるのだろうが、そういう意味でも子どもの一芸を大切にする。





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●フリ勉、ダラ勉、時間ツブシ

 勉強が空回りするようになると、子どもはフリ勉、ダラ勉、時間ツブシをするようになる。フリ勉というのは、いかにも勉強していますというような様子だけを見せる勉強をいう。しかしその実、何もしない。ダラ勉というのは、簡単な計算問題を10~30分もかけてするなど。あるいは描かなくてもよいようなグラフを、いつまでも描きつづけたりする。さらに時間ツブシというのは、勉強のあいまに、シャーペンの芯を出したり入れたり、ときにあちこちに落書きをしたりしながら時間をつぶすことをいう。

小学校の低学年で一度、こういう症状を見せると、その修復はたいへんむずかしい。それがその子どもの勉強方法として定着してしまうからである。無理、強制が日常的につづくと、子どもはそうなるが、この段階でそれに気づく親はまずいない。「やればできるはず」「そんなはずはない」と子どもを追い立てる。その悪循環がますます子どもをして、勉強から遠ざける。

 では、どうするか。一度、こういう症状を示し始めたら、あきらめる。つまりそれがその子どもの能力と思い、あきらめる。しかもその時期は早ければ早いほどよい。小学1年生でも早過ぎるということはない。……と書くと、たいてい「まだ一年生ですよ!」と言う親がいる。しかし1年生だから、あきらめる。もう少し年齢が大きくなって、自意識でコントロールできるようになると、自分で勉強に向かうようになる。しかしその前に勉強グセをつぶしてしまうと、ここに書いたように修復そのものがむずかしくなる。(あるいは不可能になる。)

 が、それで終わるわけではない。さらに症状が進むと、ごまかすのがうまくなる。学校ではいつもカンニングをして、その場をごまかすようになる。しかもそれが天才的に(?)うまくなる。先生の目を盗み、隣の子どもの答などを、そのまま丸写しにしたりする。小学2年生で、このタイプの子どもは、20人もいれば必ず1人はいる。もうこうなると、学力が身につくことなど、望むべくもない。

 要はそういう子どもにしないこと。そのためには無理、強制を避ける。動機づけ(子どもに興味をいだかせるような努力)をしっかりとしながら、達成感(やり遂げたという喜び)を感じさせながら、少しずつ学習に向かわせる。それはある意味でたいへんなことだが、子どもに勉強させるのは、それくらいたいへんなことだということを、まず親が自覚すること。またその前提で、子どもの勉強を考えること。





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●勉強が苦手な子ども

 勉強が苦手な子どもといっても、一様ではない。まず第一に、学習能力そのものが劣っている子どもがいる。専門的には、多動型(動きがはげしい)、愚鈍型(ぼんやりしている)、発育不良型(知的な発育そのものが遅れている)などに分けて考える。

最近よく話題になる子どもに、学習障害児(LD児)というのもいる。教えても覚えない。覚えてもすぐ忘れる。覚えても応用がきかない。集中力がつづかず、教えたことがたいへん浅い段階で止まってしまう、など。

 しかし実際に問題なのは、能力そのものに問題があるというよりは、たとえば私のようなもののところに相談があったときには、すでに手がつけられないほど、症状がこじれてしまっているということ。たいていは無理な学習や強制的な学習が日常化していて、学習するということそのものに、嫌悪感を覚えたり、拒否的になったりしている。中には完全に自身喪失の状態になっている子どももいる。

原因は親にあるが、親自身にその自覚がないことが、ますます指導を困難にする。どの親も、「自分は子どものために正しいことをしただけ」と思っている。中には私がそれを指摘すると、「うちの子は生まれつきそうです!」と反論する親さえいる。(生まれた直後から、それがわかる人などいない!)

 ……と書きながら、日本の教育はどこかゆがんでいる。日本の教育にはコースというのがあって、親たちは自分の子どもがそのコースからはずれることを、異常なまでに恐れる。(「異常」というのは、国際的な基準からしてという意味。)

こういうばあいでも、本来なら子どもの能力にあわせて、子どものレベルで教育を進めるのが一番よいのだが、日本ではそれができない。スポーツが得意な子どももいれば、そうでない子どももいる。勉強についても、得意な子どもがいる一方、不得意な子どもがいてもおかしくないのだが、日本ではそういうものの考え方ができない。勉強ができないことは悪いことだと決めてかかる。

このことが、本来何でもないはずの問題を、深刻な問題にしてしまう。それだけならまだしも、子どもに「ダメ人間」のレッテルをはってしまう。考えてみれば、おかしなことだが、そのおかしさがわからないほどまで、日本の教育はゆがんでいる。

……という問題が、勉強が苦手な子どもの問題にはいつもついて回る。だからといって、勉強などできなくてもよいと書くのは暴論だが、子どもを見るための一つの視点として、ここに書いたことを考えてみるとよい。少しは見方が変わると思う。





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●「今」の価値を忘れない

 未来はあるという。過去はあるという。……しかし、どこにあるのか? 「未来はある」と思っている人も、「過去はある」と思っている人も、もう一度、冷静に考えてみてほしい。どこにあるのか、と。未来にせよ、過去にせよ、それは人間がバーチャルな世界で勝手につくりあげた概念で、実のところ、どこにもない。あるのは「今」という現実のみ。どこまでも、どこまでも「今」という現実のみ。「現在」はあくまでも、いままでの「結果」でしかない。そして未来があるとするなら、それは「現在」の結果でしかない。

 ……とまあ、こんなことを書くと、「はやし浩司は頭がおかしい」と思う人がいるかもしれない。私とて、こう書きながら、そこまで厳格に考えているわけではない。ただ人間は、過去にしばられるのもよくないし、また未来のために今を犠牲にするのもよくないということ。あくまでも「今」を大切にして生きる。どこまでも、どこまでも、「今」を大切にして生きる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 一人の子どもがいる。その子どもは、今、懸命に遊んでいる。大切なことは、その子どもが今、懸命に生きているという事実なのだ。一方、こういう子どもがいる。幼稚園児のときは、小学校入学のため、小学校生のときは中学や高校へ入学するため。そして高校生のときは大学へ入学するため。さらに大学生のときは就職するためと、いつも未来(?)のために「今」を犠牲にしている。

人生が永遠に保証されるならまだしも、しかしこういう生き方をしていると、いつまでたっても「今」をつかむことができない。気がついたときには、人生が終わっていた……、と。中には自分の子ども(中1男子)に向かって、こんなことを言う親だっている。

「あんたを高い月謝を払って、幼稚園児のときから英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と。

その子どもがはじめての英語のテストで、悪い成績をとってきたときのことだった。こうしたものの考え方は、どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人は、独特の過去観、未来観をもっている。来世、前世思想に代表される、日本独特の仏教観の影響とも考えられる。「空から伊勢神宮の御札が降ってきた。こりゃなんか、ええことがあるぞ。まあ、ええじゃないか」と。

 今には今の価値がある。大切なことは、今というこの時点において、いかに自分を燃焼させて生きるかということ。結果は結果。結果かはあとからついてくる。ついてこなくてもかまわない。今やるべきことを、懸命にすればよい。「今を生きる」というのは、そういうことをいう。
 
 



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●ええじゃないか

 慶応8年(1867)というから、まさに幕末のころ。名古屋市周辺で、奇妙な踊りが流行した。きっかけは伊勢神宮の御札が天から降ってきたためと言われているが、もちろんそれは言い伝えに過ぎない。人々は狂ったように踊りだした。「ええじゃないか、ええじゃないか」と。

言い伝えによると、女は男装、男は女装し、太鼓や三味線をならし、踊り狂ったという。「群集が地主である庄屋や金持ちの商人の家へ土足で入り込む。で、なぜか押し込まれたほうは、酒や肴(さかな)を際限なく振る舞った。押し入った人々は金品をまき散らし、これくれてもええじゃないかともち去る。

で、取られたほうは、それやってもええじゃないかとやってしまう。役人が止めようとしても、まったく聞き入れない。踊りくたびれると、だれの家でもかまわず寝てしまい、目が覚めると、またええじゃないかと踊りだす。このええじゃないかはウワサはウワサを呼び、東海道筋から東に江戸、横浜、静岡。西は京都、大阪、西宮にまで及んだ」(マスダ組「歴史概論」)という。

 この「ええじゃないか」について、「この大騒動をカモフラージュして、倒幕派は着々と江戸幕府打倒の動きを進めていた」(同「歴史概論」という説もあるが、私はそういう政治的背景は、当時の日本にはなかったと思う。結果として、倒幕運動に利用したという動きはあったかもしれないが、そうした高度な政治意識というのは、近年になって生まれたもの。江戸幕府があった東京で起きたとか、薩摩、長州の息がかかった京都で起きたというのなら話もわかる。しかしこのええじゃないかは、名古屋市周辺で起きているということを忘れてはならない。

それはともかくも、その根底に、鬱積した民衆の不平や不満があったことは事実だ。しかし当時の日本は、いくら幕末とはいえ、それを訴える自由もなければ方法もなかった。300年も続いた封建体制の中で、民衆は骨のズイまで「魂」を抜かれていた。「自由」が何であるかさえわからない状態で、この運動は起きた。が、私はこの運動こそが、まさに現世逃避の象徴ではなかったかと思う。「この世はどうなってもええじゃないか。あの世があるではないか」と。それはまさに前世、来世論で組み立てられた日本の仏教の教えを、そのまま象徴していたともとれる。 

 このええじゃないかが、幕末の話でないことは、映画化もされ、また日本各地で、イベントとして再現されていることでもわかる。「これこそ日本人のやさしさ」と美化する動きさえある。しかし本当にそうか? そうあってよいのか? 「今」という現実を直視するのが苦手な日本人が、現実逃避の新たなる手段として利用しているとも考えられるのだが、皆さんはどう考えるだろうか。





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●子どもの創造力

2002年の3月、「サイエンス」におもしろい研究結果が載った。何でもギャンブルで負けたりすると、「頭が熱くなる」ということが、科学的に実証されたというのだ。

アメリカ・ミシガン大学のW・ゲーリング博士らの研究によると、「勝敗の表示から、平均0・265秒後から、脳の前頭葉皮質部から、強い神経系処理信号が出る」という。しかもそれは「勝ったときよりも、負けたときのほうが信号が強く出る傾向があった」というのだ。私はこの論文を読んで、別のことを考えた。

よく子どもの創造力が話題になる。「子どもの創造力を育てるにはどうしたらいいか」と。もちろん環境や教育によるところも大きいが、それだけでは足りない。人というのは、追いつめられ、崖っぷちに立たされてはじめて、自分の能力をふるい立たせることができる。創造力もそこから生まれる。

反対に、水温が調整され、酸素もエサも自動的に与えられるような環境では、伸びる芽そのものが出てこない。伸びる力も育たない。たとえば私のことだが、今までに何度か幼児教育から足を洗おうと思ったことがある。収入ということを考えるなら、もっとお金になる仕事はほかにいくらでもある。

しかしそのたびに、「今までの経験を文にまとめたい」という強い願いが私を襲った。それは文を書くという甘いものではなく、もっと切羽つまったものだったような気がする。だからこそ文を書き、それを本にすることができた。(ひょっとしたら、今もそうかもしれない。体力的な衰えを感ずる今、年齢的にその崖っぷちに立たされているような気がする。)

つまり勝負で負けると、前頭葉皮質部からの信号が強くなることからもわかるように、追いこまれると、それまで活動していなかった脳の機能が全開状態になる(?)。そしてそれが何とかしなければならないという生活上の必要性とあいまって、新しい創造力へとつながっていく……。

もちろんこれは私の推論でしかない。しかし経験上、それを裏づけるような話はいくらでもある。たとえばベートーベンにせよ、もし彼が満ち足りた裕福な生活をしていたら、あの第九交響楽ができたかどうかは疑わしい。言いかえると、子どもの能力を引き出すためには、子どももある程度は、崖っぷちに立たせねばならない。

具体的には子どもはいつもややハングリーな状態におく。与えすぎややりすぎは、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうこと。どこか不満足な状態をつくりながら、それをうまく利用しながら子どもを伸ばす。

まとまりのない話になってしまったが、サイエンスの論文を見ながら、そんなことを考えた。





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●習うより慣れる

私の三男は、人前で話をするのが苦手だった。しかしその三男が児童会の会長に選ばれ、宿泊訓練の場であいさつをすることになったときのこと。三男はその数日前から食事もしなくなり、当日も睡眠不足でフラフラの状態でその訓練にでかけていった。結果、それなりにうまくできたのだろう。

以後、人前で話すのが平気になってしまったようだ。つまりそういう積み重ねをしながら、子どもは成長していく。私も実のところ子どものころ、人前で話すのが得意ではなかった。大学生のときもそうだった。好きか嫌いかと問われれば、好きではなかった。英語でいえば、ナーバス、つまりあがり症だった。が、その私がこわいもの知らずになったのには、理由がある。

今の私はどんな場に出ても、おじけづくということはない。相手が総理大臣でも、多分、平気で話ができるとだろうと思う。その理由としては、学生時代、オーストラリアのメルボルン大学で幸運にも、そういう人たちに囲まれて生活したという体験がある。各国の元首や外務大臣たちが毎週のように晩餐会に来たし、ノーベル賞級の研究者たちも、数週間単位でよくとまっていった。日本の政治家もよくきた。そういう中で私は学生という身分ではあったが、「頂点」をその時点で見てしまった。

ただそのあと、日本へ帰ってきてから、私は社会的にも経済的にもどん底状態にほうりこまれ、そのギャップに苦しむことになったが、それはそれとして、人生全体で総決算するなら、幸運だったということになる。自分では絵を描かないが、絵の鑑定士としては、最高の作品がどういうものであるかくらいは、わかるようになった。

要するに習うより慣れろということだが、人というのは、一つずつ階段をのぼるようにして、成長していく。そのときどきでは苦しい思いはするが、その思いをしながら、つぎのステップへと進んでいく。たいていの人はその苦しさに耐えかねて、その段階でつぎのステップに進むのを放棄してしまう。(私も偉そうなことは言えないが……。)

もっともそれが自分のことであれば、それを判断するのは自分の勝手だが、今まさに伸びていこうとする子どもについては、親として別の考え方をしなければならない。子どもが伸びていくのをみるのは楽しみなことであるのと同時に、結構、つらいことでもあるということ。とくに子どもが苦しんでいるときはそうだ。つい、「そんなにがんばらなくてもいい」と言いそうになるときもある。

三男が宿泊訓練に行くときもそうだった。学校の先生に、「会長をもう辞退させてやってほしい」と、ほとんど手紙を出す寸前のところまで私と女房は追い込まれた。もっとも三男が成長したというよりは、私たち夫婦が、三男によって成長させられたというのが正しいかもしれない。そのあと同じようなことがあるたびに、私たち夫婦もまた、平気でそれを乗り越えることができるようになった。





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●子どもの嫉妬

 嫉妬はたいへん原始的な、つまり本能に根ざす感情であるだけに、扱い方をまちがえると、その子どもの人間性そのものにまで影響を与える。「原始的」というのは、犬やネコをみればわかる。犬やネコは、一方だけをかわいがると、他方ははげしく嫉妬する。また「人間性」というのは、情緒面のみならず、精神面にも大きな影響を与えるということ。そしてそれは多くのばあい、行動となって表れる。

 嫉妬が「内」にこもると、子どもはぐずったり、いじけたりする。ひがみが強くなったり、がんこになったりする。幼児のばあい、原因不明の身体の不調(発熱、下痢、嘔吐)を訴えることもある。「外」に出ると、いじめや動物への虐待となることが多い。嫉妬がからんでいるばあいには、それが相手に向けられたときには、「殺す」というところまでする。残虐かつ陰湿になるのが特徴で、容赦しないのが特徴。

弟に向かって自転車で突進したケースや、弟を逆さづりにして頭から落としたケース、さらに妹の人形をバラバラにしてしまったケースや、妹をトイレに閉じ込めてしまったケースなどがある。一人、妹にお菓子と偽り、チョークを口の中に入れた女の子(小2)もいた。また動物への虐待では、飼っていたハトの背中に花火をくくりつけ、ハトを殺してしまったケース、つかまえてきたカエルを地面にたたきつけて殺してしまったケースなどがある。

 ふつう子どもが理由もなく(また原因がはっきりしないまま)、ぐずったり、ふさいだりするときは、愛情問題を疑ってみる。そういうときは抱いてみるとわかる。最初は抵抗する様子を見せるかもしれないが、強引に抱き込んだりすると、そのまま静かに落ち着く。

 乳幼児期は、静かで穏やかな生活を大切にし、嫉妬と闘争心の二つはいじらないようにする。中に、わざと子どもを嫉妬させながら、親への依存心をもたせる人がいる。一昔前の親がよく使った方法だが、依存心をもたせるという意味で、好ましくないことは言うまでもない。





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●子どもの闘争心

 年長児でも、「このヤロー」「てめえエ~」と言いながら、興奮状態になって飛びかかってくる子どもは少なくない。興奮といっても、ふつうの興奮ではない。狂暴的になる。目つきそのものが鋭くなり、別人のようになってしまうこともある。N君(年長児)がそうだ。

 別の子ども(年長男児)が騒いでいたので、その子どもを制するために席を離れたとたん、何を誤解したのか、N君が私に飛びかかってきた。私も最初はふざけて飛びかかってきたのかと思ったが、そうではなかった。私を足で蹴りあげたが、それはまさに全身の力をふりしぼって、というような蹴り方だった。あまりのはげしさに驚いて、N君を私は抱きこもうとしたが、今度は爪をたてて私の顔にそれを突き刺してきた。人間の子どもというより、ケダモノそのものだった……。

 ある程度の闘争心は、この時期、よい方向に作用する。闘争心がまったくないというのも、決して好ましいことではない。ドッジボールなどをさせても、ただウロウロと逃げ回るだけでは、試合にもならない。しかしその闘争心が度を超すと、ここでいうN君のようになる。特徴としては、闘争心そのものがむきだしになり、いわゆるキレた状態になる。

心理学的には、そう状態における錯乱と説明されているが、キレた子どもとは違う。キレる子どもは異常な興奮状態になるが、このタイプの子どもにはそれがない。冷静なまま凶暴化する。闘争心だけがやたらと刺激されたような状態になる。そうした説明はともかくも、こうした動物的な闘争心は、幼児期には決して好ましいものではない。闘争心が強くなると、ものの考え方が短絡的になり、冷静な判断そのものができなくなる。

 人間も昔は動物であった(今もそうだが……)という前提で考えるなら、人間にも原始的な本能が残っていても、おかしくない。生殖本能や食欲本能など。闘争本能もその一つということになる。しかしこうした本能は、あまり早い時期にはいじらないほうがよい。とくに闘争本能はそうで、いじればいじるほど子どもはより野獣的になる。そして一度こうした野獣性が出てくると、それを抑えるのはむずかしくなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(246)

●権威主義者

 その人が権威主義的なものの考え方をする人かどうかは、電話のかけ方をみればわかる。権威主義的なものの考え方をする人は、無意識のうちにも、人間の上下関係を心の中でつくる。それが電話の応対のし方に表れる。目上の人や、地位、肩書きのある人には必要以上にペコペコし、そうでない人にはいばってみせる。私の伯父がそうで、相手によって電話のかけ方が、まるで別人のように変わるからおもしろい。

(政治家の中にも、そういう人がいる。選挙のときは、米つきバッタのようにペコペコし、当選し、大臣になったとたん、ふんぞり返って歩くなど。その歩き方が、まさに絵に描いたような偉ぶった歩き方なので、おもしろい。)

 そのほかにたとえば、あなた自身の「印象」をさぐってみればわかる。あなたが自分の印象の中で、どこか堂々としていて、立派と感ずる人は、権威主義的なものの考え方をする人とみてよい。このタイプの人は、日ごろから世間的な見栄を大切にする。あるいは外から見た自分に注意を払う。そのため他人には、立派に見える。(「立派」という言い方そのものが、封建時代からの名残である。)

 親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前では仮面をかぶるようになる。そしてその分だけ、子どもの心は親から離れる。仮にうまくいっている家庭があるとしても、それは子ども自身がきわめて従順か、あるいは子ども自身も権威主義的なものの考え方を受け入れてしまっているかのどちらかにすぎない。たいてい親子関係はぎくしゃくしてくる。キレツから断絶へと進むことも多い。

 ……と決めてかかるいのは、危険な面もあるが、もうこれからは親が親の権威で子育てをする時代ではない。江戸時代や明治の昔ならともかくも、葵の紋章だけで、相手にひれふしたり、相手をひれ伏させるような時代ではない。またそういう時代であってはいけない。

私もいろいろな、その世界では第一線級の人たちに会ったが、そういう人ほど、腰が低くどこか頼りない。相手がだれでも、様子が変わるということはない。つまりそれだけ自分自身を知っている人ということになるのか。生きザマのひとつの参考にはなる。

 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(247)

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くようなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをなす」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「その年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。20歳でループに入る人もいれば、50歳や60歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そこで進歩を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさらに低下する。私はこのことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよい。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたちに接するときもそうだ。毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーにしている。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。たしか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさかのぼること20年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を感じた。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、10年前より進歩しただろうか。20年前より進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほしい。さらにあなたはこの10年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろうか。こわいのは、思考のループに入ってしまい、10年一律のごとく、同じ話を繰り返すことだ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失礼!)。

犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だから犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなたはすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅くないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返していく。どんどん繰り返して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(248)

●宗教のもつ愚鈍性

 ある宗教を信仰している人は、それなりに穏やかな顔をしている。表情やしぐさまで違ってくる人がいる。さらに見るからにどっしりと、落ち着いている人もいる。思想というのはそういうもので、他人のそれであっても、「絶対正しい」と思われるものを脳に注入されると、脳というのはそれで満足してしまう。が、同時に、自ら思考することをやめてしまう。一度そうなると、まさに上意下達方式のもと、「上」から「下」へ一方的に思想が注入される。これがこわい。

 ……と言っても、私は宗教を否定しているのではない。信仰を否定しているのでもない。しかし宗教や信仰には、高邁な哲学と引き換えに、その人をして自ら考えさせるのをやめさせてしまうという麻薬性がある。それは否定できない。

中には、その宗教の批判を一切許さない宗教がある。(たいていの宗教はそうだが……。)疑っただけで、「地獄へ落ちる」とか、その宗教から離れただけで、「バチが当たる」と脅す宗教団体もある。が、それでも私は宗教を否定しているのではない。信仰を否定しているのでもない。それぞれの人は、それぞれの思いの中で、宗教や信仰に身を寄せる。この私とて、今は何とかがんばっているが、やがてそれができなくなったら、宗教や信仰に身を寄せるかもしれない。私が知っている哲学者や文学者の中には、死の直前になって入信した人が何人かいる。私がそういう人たちより強いという自信は、今のところ私にはまったくない。

 しかしこれだけは言える。仮に宗教や信仰をしても、自ら考えることはやめてはいけない。ある男性はこう言った。私が「少しは指導者の言うことを疑ってみてはどうですか」と聞いたときのこと。「あの先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいない」と。こうした愚鈍性が見られたら、それはまさにその人の敗北でしかない。他人の意見は他人の意見。参考にはしても、自分のものにしてはいけない。

それはちょうど、借金ばかりで建てた家に住むようなものだ。借金ばかりで買った車に乗るようなものだ。家や車ならまだよいが、人生はそうであってはいけない。いわんや自分の「魂」まで売り渡してはいけない。たとえ不完全でも、人間は自らの足で立ちあがるからこそ、そこに生きる価値がある。医学も政治も社会も科学も、どれも不完全なものばかりだが、その不完全さを一つずつ克服していくから、人間なのである。生きるドラマもそこから生まれる。

 もっとも、愚鈍でもよい。その日その日を、平和で無事に過ごせれば、それでよいという人も少なくない。もしあなたがそうなら、私はこれ以上何も言うことはない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(249)

●親孝行論

 ある地方の、ある老人ホームの責任者から聞いた話。そのホームでは、(どこでもそうだそうだが)、老人たちはいつも、息子や娘の孝行話ばかりを自慢しあっているという。

孝行息子や孝行娘をもった老人は、それを自慢げに誇示し、そうでない老人は毎晩のように悔しがっているというのだ。そこで私が「どういう子どもを、孝行息子や孝行娘というのですか」と聞くと、こう話してくれた。「要するに親にいかに尽くすかで決まるんですなア」と。

つまり親への犠牲度、忠誠度、貢献度、献身度、服従度で決まるという。老人たちのさみしい気持ちはわからないわけではないが、それにしても、それ以上にさみしい話ではないか。私はその話を聞いたとき、まず最初に、「私はそうはなりたくない」と思った。

 この日本では親孝行が、美徳のひとつになっている。子育てや教育の中心に考えている人も少なくない。しかし親孝行するかしないかは、子どもの問題。子どもの勝手。少なくともそれは、親が求めるものではない。いわんや子どもにそれを強制したり、押しつけてはいけない。親子といえども、そこは人間関係。親孝行があるとするなら、それはそういう人間関係から、自然に発生するものでなければならない。親孝行をしないからといって、その子どもが否定されたり、またしたからといって、その子どもの価値をあげるようなことはしてはいけない。

人にはそれぞれの思いがある。複雑な家庭環境や、さらに複雑な過去を背負っている人はいくらでもいる。(親をだます子どもはいるが、世の中には子どもをだます親だっている。例外とはいえ、子どもを殺す親だっているのだ!)むしろ日本人で問題なのは、安易な孝行論をふりかざし、子どもに向かっては「産んでやった」「育ててやった」と、親の恩を子どもに押し売りしてしまうこと。

子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまうこと。結局は、親も子どもも、自立できない親、自立できない子どもになってしまう。それが日本人独特の親子関係といえばそれまでだが、しかしそれは決して世界の標準ではない。極東の、アジアの小さな島国でしか通用しない、親子関係といってもよい。

 ……と書くと、決まって「はやしの意見は、欧米かぶれしている」と言う人がいる。しかし事実は逆で、日本の若者で、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えているのは、20%もいない。アメリカも含めて、欧米の若者たちはどこも60%以上である(総理府調査)。

 日本は今、大きな過渡期にきている。形だけの親子、形だけの家族から、人間関係を基本に置いた親子、人間関係を基本に置いた家族への移行期ととらえてよい。それはもう欧米化というより、グローバル化といってもよい。日本人が好む孝行論も、そのグローバル化の中で、もう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(250)

●代償的過保護

 本来、過保護というのは親の愛がその背景にある。その愛があり、何かの心配ごとが重なって、親は子どもを過保護にするようになる。しかしその愛がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。いわば過保護もどきの過保護。親のエゴにもとづいた、自分勝手な過保護と思えばよい。

 代償的過保護の特徴は、(1)親の支配意識が強く、(2)子どもを自分の思いどおりにしたいという意欲が強い。そのため(3)心配過剰、過干渉、過関心になりやすい。(4)子どもを人間というよりは、モノとして見る目が強く、子どもが自立して自分から離れていくのを望まないなどがある。

このタイプの親は、一見子どもを愛しているように見えるが、(また親自身もそう思い込んでいるケースが多いが)、その実、子どもを愛するということがどういうことか、わかっていない。わからないまま、さまざまな手を使って、子どもを自分の支配下に置こうとする。

ある父親は、息子が家を飛び出し、会社へ就職したとき、その会社の社長に電話を入れ、強引にその会社をやめさせてしまった。またある母親は、息子の結婚にことごとく反対し、そのつど結婚話をすべて破談にしてしまった。息子を生涯、ほとんど家の外へ出さなかった母親もいるし、お金で息子をしばった父親もいる。「お前には学費が3000万円かかったから、それを返すまで家を出るな」と。

結果的にそうなったとも言えるが、宗教を利用して子どもをしばった親もいた。そうでない親には信じられないような話だが、実際にはそういう親も少なくない。ひょっとしたら、あなたの周囲にもこのタイプの親がいるかもしれない。いや、あなたという親にも、いろいろな面があり、その中の一部に、この代償的過保護的な部分があるかもしれない。

もしそうなら、あなたの中のどの部分が代償的過保護であり、あるいはどこから先が代償的過保護でないかを、冷静に判断してみる。この問題は、どこが代償的過保護的であるかに気がつくだけで、問題のほとんどは解決したとみる。ほとんどの親は、それに気づかないまま、代償的過保護を繰り返す。そしてその結果として、親子の間を大きく断絶させたり、反対に子ども自立できないひ弱な子どもにしたりする。

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