2009年6月24日水曜日

*Short Essay on House Education(2)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(163)

●たくましさは緊急時にわかる

 やさしさ……ブランコを横取りされたとき、ニコニコ笑いながら、黙って明け渡すような子どもを、「やさしい子ども」と誤解している人がいる。しかしそういう子どもを、やさしい子どもとは言わない。やさしい子どもというのは、相手を喜ばすことを知っている子どもをいう。

ある男の子(年長男児)は幼稚園でみかけると、いつもだれかを三輪車に乗せ、それを押していた。で、ある日、私が「たまには君が押してもらってはどう?」と聞くと、その子どもはこう言った。「ぼくはこのほうが楽しいもん」と。そういう子どもをやさしい子どもという。

 まじめ……言われたことをきちんとする子どもを、「まじめな子」と誤解している人がいる。従順で、すなおな子どもを、だ。しかしこれも誤解。まじめな子どもというのは、自らを律する力をもっている子どもをいう。こんな子ども(小3女児)がいた。バス停でたまたま出あったので、「ジュースを買ってあげようか」と声をかけたときのこと。その子どもはこう言った。「これから家でごはんを食べますからいいです」と。こういう子どもをまじめな子どもという。

 がまん……サッカーならサッカーを一日しているから、がまん強いということにはならない。その子どもは好きなことをしているだけ。子どもにとって、がまんとは、いやなことをする力のことをいう。たとえば台所の生ゴミを手で始末するなど。おばあさんの吐いたものを、タオルでぬぐってあげていた子ども(年長女児)がいたが、そういう子どもをがまん強い子どもという。

 すなお……心の状態と顔の表情が一致している子どもをすなおな子どもという。あるいは、いじけ、ひがみ、つっぱり、がんこなど、心のゆがみのない子どもをすなおな子どもという。子どもは、おとなもそうだが、心がゆがんでくると、心の状態と表情が一致しなくなる。これを心理学の世界では、「遊離」と呼んでいる。こうした遊離は、たいへん危険なものである。親からすれば、「何を考えているか、わけのわからない子ども」ということになる。子どもはその表情の裏で、心をゆがめる。

 最後に、たくましさ……子どものたくましさは、緊急時をみて判断する。けんかが強いとか、そういうことではない。ある子ども(年長男児)は、急用で家をあけなければならなくなったとき、食事の世話、戸締り、消灯など、さらには妹の世話まで、すべてをひとりでやりこなした。こういう子どもをたくましい子どもという。母親は「やらせればできるものですねえ」と笑っていた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(164)

●ただより高いものはない

 昔から『ただより高いものはない』という。教育の世界ほどそうで、とくに受験勉強のような「きわもの」は、割り切ってプロに任せたほうがよい。実のところ、私も若いころ、受験塾の講師もしたことがあるが、身内や親戚、あるいは親しい知人の子どもについては、引き受けなかった。理由はいくつかある。

 まず受験勉強ほど、その子どものプライバシーに切り込むものはない。学校での成績を知るということは、そういうことをいう。つぎに成績があがればよいが、そうでなければ、たいていは人間関係そのものまでおかしくなる。ばあいによっては、うらまれる。さらに身内や親類となると、そこに「甘え」が生じ、この甘えが、金銭関係をルーズにする。

私もある時期、遠い親戚の子ども(小2のときから中2まで)教えたことがあるが、最後は月謝といっても、ほとんどただに近いものだった。しかし最初こそ感謝されても、半年、一年とたつと、それが当たり前になってしまう。が、本当の問題は、これだけではない。

 受験指導というが、子どもの側からみると、「しごき」以外の何ものでもない。子どもの側で考えてみれば、それがわかる。勉強がしたくて勉強する子どもなど、いない。偏差値はどうだ、順位はどうだ、希望校はどこだとやっているうちに、子どもの心はどんどんと離れていく。

またほんの数年前までだが、受験期の子どもについては、無料で(本当に無料で!)、7月から11月ごろまで、ほとんど毎晩部屋を開放して受験指導をしたことがある。夜7時から一一時ごろまで、である。教えたといっても、ときどき顔を出し、勉強の進みぐあいをみたり、わからないところを教えた程度だが、しかし率直に言えば、親に感謝されたことはあっても、子どもに感謝されたことは一度もなかった。

受験勉強というのは、もともとそういうもの。「教育」という名前を使う人もいるが、受験指導は指導であって、教育ではない。もともと豊かな人間関係が育つ土壌など、どこにもない。

 そこで本論。中に子どもの受験勉強を、親類や知人に頼む人がいる。そのほうが安いだろうとか、ていねいにみてもらえるだろうとか考えてそうするが、実際には、冒頭に書いたように、ただより高いものはない。相手がプロなら、成績がさがれば、「クビ!」と言うこともできるが、親類や知人ではそういうわけにもいかない。ズルズルしている間に、あっという間に受験期は過ぎてしまう。

そんなわけで教訓。受験勉強は、多少お金を出しても、その道のプロに任せたほうがよい。結局はそのほうが安全だし、長い目で見て、安あがりになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(165)

●未来を楽しみにさせる

 『未来をおどさない』は大鉄則だが、これを裏がえしていうと、『未来を楽しみにさせる』ということになる。たとえば幼稚園への入園を迎えるころには、「幼稚園は楽しい」「先生はいい人」「あなたは先生にほめられる」など、そのつど前向きに暗示をかける。まちがっても、「幼稚園はこわい」式の暗示をかけてはいけない。一人、こんなことを言う母親がいた。

「幼稚園では、10数えるうちに服を着られないと、先生に怒られる。先生はママと違ってこわいわよ」と。あるいは「幼稚園では先生の言うことを聞かないと、叱られる」と。

その母親は子どもに緊張感をもたせるためにそう言ったのかもしれないが、子どもによっては、まさに逆効果。しかもこの時期、一度未来に対して不安をいだくようになると、それがそのまま一つの思考回路となって残り、子どもはいつも未来に対して不安をいだくようになる。そうなればなったで、家庭教育の大失敗というもの。

 ところで集団生活が苦手になるかどうかは、子どもがはじめて集団に触れたときの印象で決まる。これは私が入園式のときの子どもの様子を観察していて発見したことであるが、その瞬間、心を解放してワーッと集団に溶け込めた子どもは、そのまま集団に溶け込むことができる。

が、そのとき、ある種の緊張感に包まれた子どもは、その緊張感を克服するのにかなりの時間がかかる。中にはその緊張感がいつまでも続いたり、あるいはそれが原因で情緒が不安定になる子どもがいる。そういう意味でも、その「はじめの一歩」を大切にする。無理をしない。無理強いをしない。無理を押しつけない。そっと子どもを包むようなおおらかさで、少しずつ集団に溶け込ませるようにする。

中に「わがまま」とか、「気のせい」とか言う親がいるが、これは誤解である。とくに乳児期から親とのマンツーマンで育てられたような子どもほど、注意する。このタイプの子どもは、外の世界に対して、免疫性がないので、最初の段階で失敗しやすい。

 方法としては、徐々に子どもの心をもりあげていくようにする。「あなたは服を早く着られるから、先生にほめられるわよ」「友だちがたくさん待っているよ」と。そしていよいよ当日に近づいたら、あたかもピクニックか何かでも行くような雰囲気にする。こうして子どもの緊張感をすっかり取っておく。

 ともかくも、子どもの未来はおどさない。その一語に尽きる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(166)

●旅は歩く

 私はときどき旅先で絵を描く。すると当然のことだが、その描いた絵のシーンは、強烈に印象に残る。

 同じように、私はできるだけ旅先では歩くようにしている。いや、それが私たちの世代にとっては、ごくふつうのことだった。が、車の発達とともに、それが変わってきた。今ではほんの近くに行くのにさえ、車を利用する。行動半径はそれだけ広くなったが、その分だけ記憶の密度が薄くなった……? 

もっともこれは個人の趣味の問題だから、私がとやかく言うものではないかもしれない。『旅は歩け』というのは、オーストラリアの友人が口グセのように言っていた言葉だが、しかしもしあなたが子どもと旅をするなら、歩いたほうがよい。健康にもよい。記憶にも残る。親子の旅なら、親子のきずなを太くする。こんなことがあった。

 私は息子たちとよく、行き当たりばったりの「冒険旅行」をした。目的地を決めないで、そのつどそこからつぎの目的地をさがして行くという旅行だった。その旅行でのこと。ある田舎町の夜遅く着いたのだが、どこをさがしてもホテルがなかった。「パパ、だいじょうぶ?」「だいじょうぶだ」と、互いに励ましあいながら、寒くて暗い夜道を一緒に歩いた。数時間あちこちを息子たちとさまよい歩いたと思うが、それが今、思い出すと、たまらなくなつかしい。

息子たちにはどんな印象で残っているかは知らないが、二男はその数年後、北海道をひとり旅をしているし、三男は、無類の旅行好きになった。さらに高校に入ると、二男も三男も、ワンゲル部や山岳部に入部している。心のどこかで、子どものときにしたあの冒険旅行が、生きているのかもしれない。

 が、この哲学(哲学と言えるほどのものかどうかはわからないが……)は、そのまま人生にも、そして子育てにも通用する。もっと言えば、生きることそのものが、「歩く」ことに象徴される。特急のグリーン車に乗っていくような人生もあるだろうが、人生の意味は、そこにどれだけの濃密なドラマがあるかによって決まる。

オーストラリアの友人は、『旅は歩け』と言ったが、それは『人生は歩け』、『子育ては歩け』という意味にもとれる。そんなことも考えながら、あなたもどこかで旅をするようなときがあったら、歩いてみてほしい。まわりの景色がかなり違って見えるはずである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(167)

●恩を着せない

 依存心というのは、相互的なもの。「産んでやった」「育ててやった」と親は子どもに恩を着せる。子どもに依存する。一方子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と恩を着せられる。親に依存する。

 こうした依存型の人間は、万事に「甘い」。ある子ども(小5女児)はこう言った。「明日の遠足は休むと、学校の先生に連絡したの?」と私が聞くと、「今日、足が痛いと言ったから、先生はわかってくれているはずだ」と。そこでまた私が、「休むなら休むで、しっかりと連絡したほうがいいんじゃないの?」と言うと、「先生はわかってくれているからいい」と。

 このタイプの子どもは、「だから何とかしてくれ」言葉をよく使う。たとえば何か食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア、(だから何とかしてくれ!)」というような言い方をする。「先生、おしっこオ、(だから何とかしてくれ!)」というのもそうだ。日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日本人はそれくらい依存心の強い国民ということになる。長くつづいた封建時代の中で、骨のズイまで、自由(自らに由る力)を奪われたためと考えてよい。

 子どもばかりではない。おとなでも依存心の強い人は多い。たとえばこのタイプの人は、相手の中にスキを見るのがうまい。そしてスキがあると、「なっ、いいじゃないか……」というような言い方をしながら、とことんそのスキにつけ入ってくる。あるいは「貸しがある」と感ずる相手には、とことん甘える。

 一方、自立心の旺盛な子どもは、攻撃的にものごとに取り組む。生きざまそのものが攻撃的で、前向き。このことについては前にも書いたので、問題はそのつぎ、つまりどうすれば自立心の旺盛な子どもにすることができるか、である。が、この問題は、冒頭にも書いたように相互的なもの。子どもに自立心をもってほしかったら、親自身が自立しなければならない。
が、たいていは親自身に、その自覚がない。親自身が「甘え」の中にどっぷりつかっているため、自分が依存型の人間であることに気づかないことが多い。あるいは反対に、依存的であることを、むしろ美化してしまう。よい例が、森進一が歌う『おふくろさん』である。大のおとなが、夜空を見あげながら、「ママ~」と涙をこぼす民族は、世界広しといえども、それほどない。そういう歌が、国民的な支持を受けているということ自体、日本人が依存性の強い国民であることを示している。

 子育ての目標は、子どもを自立させること。そのためにもまずあなた自身が自立する。その第一歩として、子どもには恩を着せない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(168)

●反面教師

 反面教師という言葉がある。できの悪い教師をもった生徒が、そのできの悪さを見ながらかえって成長するということをいったものだが、これはそのまま「親」にも当てはまる。いろいろな親がいたが、その中でもとくに印象に残っているのが、K君(高1)だった。

彼は現役で医学部に推薦入学で入ったほどの能力をもっていたが、あとでK君の家を見て驚いた。家といっても、駐車場の奥の一室だけ。ベニヤ板で二つに分けただけの部屋だった。しかも母親はいない。父親はアル中で、毎晩のように酒を飲み、ときにはK君に暴力を振るっていたという。

 こういう極端な例は少ないとしても、あなたの身のまわりにも、似たような話はあるはずだ。たとえばH君。彼は中学を卒業するころ、父親とおおげんか。そのまま家出。12年ほど音信がなかったが、その12年目のこと。一級建築士の免許をとって実家へ帰ってきたという。大検で高卒の資格をとり、鉄工場に勤めながら免許を取得した。その彼の父親も、とても「親」と言えるような親ではなかった。もう一人の娘がいたが、娘の貯金通帳を盗み、勝手にお金を引き出してしまったこともある。

 K君もH君も、こうした親をもったがゆえに、それをバネとして前に伸びたわけだが、だからといってそういう環境が好ましいということにはならない。第一、皆が皆、伸びるわけではない。失敗する可能性のほうが、はるかに高い。それに「教師」と言いながら、反面教師をもったがために、心に大きなキズをのこすこともある。

ふつう不安定な家庭環境に育つと、子どもの情緒は不安定になり、それが転じて、いろいろな神経症を引き起こすことが知られている。ひどくなると、それが情緒障害や精神障害になることもある。

私も「温かい家庭」へのあこがれは強いものの、実際のところそれがどういうものか、よく知らなかった。戦後の混乱期のことで、私の親にしても食べていくだけで精一杯。家族旅行など、小学6年生になるまで、一度しかなかった。その上私の父はアル中で、数日おきに酒を飲んで暴れた。そのためか今でも、何か心配ごとが重なったりすると、極度の不安状態になったりする。しかしこういうことは、本来あってはいけない。また子どもにそういうキズをつけてはいけない。たとえそれでその子どもが、俗にいう「立派な子ども」になったとしても、だ。

 もう一つこんな例もある。高校生のとき、古文の教師の声が小さく、聞き取ることができなかった。それで古文の勉強は、自分ですることにした。結果、私はほとんどの古文を全集で読みきるほどまで古文が好きになった。そういう反面教師もいる。これはあくまでも余談だが……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(169)
 
●母親が一番保守的?

 本来、地位や名誉、肩書きとは無縁のはずの、いわゆるステイ・アト・ホーム・ワイフ(専業主婦)、略してSAHWが、一番保守的というのは、実に皮肉なことだ。この母親たちが、もっとも肩書きや地位にこだわる。子供向けの同じワークブックでも、四色刷りの豪華なカバーで、「○○大学××教授監修」と書かれたものほど、よく売れる。中身はほとんど関係ない。中身はほとんど見ない。見ても、ぱっと見た目の編集部分だけ。子どものレベルで、子どもの立場で見る母親は、まずいない。たいていの親は、つぎのような基準でワークブックを選ぶ。

(1)信用のおける出版社かどうか……大手の出版社なら安心する。
(2)権威はどうか……大学の教授名などがあれば安心する。
(3)見た目の印象はどうか……デザイン、体裁がよいワークブックは子どもにやりやすいと思う。
(4)レベルはどうか……パラパラとめくってみて、レベルが高ければ高いほど、密度がこければこいほど、よいと考える。中にはぎっしりと文字がつまったワークブックほど、割安と考える親もいる。

 しかしこういうことは大手の出版社では、すでにすべて計算ずみ。親たちの心理を知り尽くした上で、ワークブックを制作する。が、ここに書いた(1)~(4)がすべて、ウソであるから恐ろしい。大手の出版社ほど、制作は下請け会社のプロダクションに任す。そしてほとんど内容ができあがったところで、適当な教授さがしをし、その教授の名前を載せる。

この世界、肩書きや地位を切り売りしても、みじんも恥じないようなインチキ教授はいくらでもいる。出版社にしても、ほしいのは、その教授の「力」ではなく、「肩書き」なのだ。

 今でもときどき、テカテカの紙で、鉛筆では文字も書けないようなワークブックをときどき見かける。また問題がぎっしりとつまっていて、計算はおろか、式すら書けないワークブックも多い。さらにおとなが考えてもわからないような難解な問題ばかりのワークブックもある。見た目にはよいかもしれないが、こういうワークブックを子どもに押しつけて、「うちの子はどうして勉強しないのかしら」は、ない。

 私も長い間、ワークブックの制作にかかわってきたが、結論はひとつ。かなり進歩的と思われる親でも、こと子どもの教育となると、保守的。むしろ進歩的であることを、「そうは言ってもですねエ……」とはねのけてしまう。しかしこの母親たちが変わらないかぎり、日本の教育は変わらない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(170)

●父親は母親がつくる

 こう書くと、すぐ「男尊女卑思想だ」と言う人がいる。しかしもしあなたという読者が、男性なら、私は反対のことを書く。

 あなたが母親なら、父親をたてる。そして子どもに向かっては、「あなたのお父さんはすばらしい人よ」「お父さんは私たちのために、仕事を一生懸命にしてくれているのよ」と言う。そういう語りかけがあってはじめて、子どもは自分の中に父親像をつくることができる。もちろんあなたが父親なら、反対に母親をたてる。「平等」というのは、互いに高次元な立場で認めあうことをいう。まちがっても、互いをけなしてはいけない。中に、こんなことを言う母親がいる。

 「あなたのお父さんの稼ぎが悪いから、お母さん(私)は苦労するのよ」とか、「お父さんは会社で、ただの倉庫番よ」とか。母親としては子どもを自分の味方にしたいがためにそう言うのかもしれないが、言えば言ったで、子どもはやがて親の指示に従わなくなる。そうでなくてもむずかしいのが、子育て。父親と母親の心がバラバラで、どうして子育てができるというのか。こんな子どもがいた。

男を男とも思わないというか、頭から男をバカにしている女の子(小四)だった。M子という名前だった。相手が男とみると、とたんに、「あんたはダメね」式の言葉をはくのだ。男まさりというより、男そのものを軽蔑していた。もちろんおとなの男もである。

そこでそれとなく聞いてみると、母親はある宗教団体の幹部、学校でもPTAの副会長をしていた。一方父親は、地元のタクシー会社に勤めていたが、同じ宗教団体の中では、「末端」と呼ばれるただの信徒だった。どこかぼーっとした、風采のあがらない人だった。そういった関係がそのまま家族の中でも反映されていたらしい。

 で、それから20年あまり。その女の子のうわさを聞いたが、何度見合いをしても、結婚には至らないという。まわりの人の意見では、「Mさんは、きつい人だから」とのこと。私はそれを聞いて、「なるほど」と思った。「あのMさんに合う夫をさがすのは、むずかしいだろうな」とも。

 子どもはあなたという親を見ながら、自分の親像をつくる。だから今、夫婦というのがどういうものなのか。父親や母親というのがどういうものなのか、それをはっきりと子どもに示しておかねばならない。示すだけでは足りない。子どもの心に染み込ませておかねばならない。そういう意味で、父親は母親をたて、母親は父親をたてる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(171)

●知識はメッキ

 私も法律の勉強を、五年間もした。私にとっては、おもしろくない勉強だった。いくつかの資格はとったが、卒業後、その資格を生かしたことはただの一度もない。で、それから30年。同窓会に出て、法曹の道に進んだ仲間と話しても、会話がうまくかみあわない。つまりそれだけ「法律」とは遠ざかってしまったということ。専門用語を忘れてしまったということもある。

では、私の法律の勉強がムダだったのかというと、そうでもない。ものの考え方というか、論理的に思考を積み重ねていくクセだけは残った。反対によく雑誌などで他人の教育論を読んだりするが、ときどきあまりの論理性のなさに、驚くことがある。中には感情論だけで教育論を組み立てている人がいる。つまりそういうことがわかるということは、やはり私が法律の勉強をしたためとみてよい。

 あのアインシュタイン(1879~1955、ドイツの物理学者)は、こう言っている。

「教育とは、学校で習ったことをすべて忘れ去ったあとに残っているものをいう」(「教育について」)と。

学校で習ったことを忘れたからといって、教育がムダだったということにはならない。むしろ「忘れる」ことを理由に、教育を否定する人のほうが、問題だ。……と言っても、知識教育をそのまま肯定することもできない。知識そのものは、生きるための武器であり、ないよりはあったほうがよい。しかし知識が多いからといって、アインシュタインが言うところの、「あとに残っているもの」になるとは限らない。大切なのは、その中身であり、思考プロセスということになる。

 こうした前提で、子どもの教育を考えると、教育がどうあるべきかがわかってくる。たとえばこんなことがある。中学生に教えているとき、その子どもがもっている能力のほんの少し先の問題を出してみると、ただ「できない」「わからない」「まだ習ってない」とこぼし、自分では考えようともしない子どもがいる。

が、反対にあちこちテキストを見ながら、調べ始める子どもいる。この時点で重要なことは、「その問題が解ける、解けない」ということではない。「解くためにどのような思考プロセスを働かすか」ということである。もちろん「できない」とこぼす子どもより、調べだす子どものほうがすばらしい。またそういう方向に子どもを導くのが、教育ということになる。

 教えられてできるようになるのが、知識教育。しかしそれで得た知識は、メッキのようなもの。時間がたてば、必ずはげる。しかし思考プロセスは残る。残ってあらゆる場面で、それが働くようになる。たとえば私のことだが、先に書いたように、いつもものごとを論理的に考えるクセだけは残った。こういった文章を書くについても、あいまいな言い方だけはしていないつもりである。あいまいなことは書かないというよりも、書く前に筆を止めてしまう。自分なりに結論が出た部分のみを書くようにしている。それが私が学生時代に受けた「教育」ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(172)

●知能は胸に問え

 教育の世界には、はっきりとわからなくてもよいことは山のようにある。その一つが、「子どもの知能」。この問題は親の、つまりあなた自身の遺伝子にも深くかかわっている。そのため問題にしてもほとんど意味がない。あなたが「うちの子は頭がいい」と思うなら、それはそれでよいし、「悪い」と思うなら、それもそれでよい。要するに、遺伝子の問題は、あなたの胸に聞けばよい。が、反対の問題もある。胸に聞こうとしない親もいるということ。

 四月の新学期になって、一組の夫婦が私のところにやってきた。そしてこう言った。「どうしてもうちの子を、S高校へ入れたいが、ついてはその指導をしてくれるか」と。そこで私はとりあえず一時間だけその子どもを教えてみることにした。が、能力的にかなり問題があった。まじめはまじめだが、ひらめきや鋭さがまるでなかった。言われたことを従順にやりこなすだけで、それをはずれた問題になると、思考そのものが停止してしまう。小学校の勉強では、このタイプの子どもはそこそこの成績を取るかもしれないが、中学校ではそういうわけにはいかない。いわんやS高校とは!

 数日後私は、FAXで、「引き受けられない」という内容の断りの手紙を出した。ていねいに書いたつもりだったが、その直後、父親から猛烈な怒りの電話がかかってきた。いわく、「君は、うちの子ではS高校は無理だと言うのか! 失敬ではないか!」と。

私は「ご期待にそえる指導はできません」と書いたのだが、それは「親の期待に」という意味で書いた。もっとも父親にそう怒鳴られたとき、「そのとおりです」と言いそうになったが、それは言わなかった。

 こうしたケースは、本当に多い。もう少し自分の子どものことがわかっていれば……というケースである。いやほとんどの親は、「私の子どものことは、私が一番よく知っている」と思いつつ、実のところ、ほとんど知らない。そんなわけで、あなたも一度、自分の胸に静かに問うてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(173)

●長男は外に出す

 子育てでむずかしいのが、長男、長女。親側に、とまどいや不安があり、それが原因でどうしても子育てが神経質になりやすい。昔は経験豊かな祖父母がそばにいて、子育てを指導してくれたが、今では核家族が当たり前。仮にそばにいたとしても、こうまで急速に価値観が変化すると、互いに理解しあうことすらままならない。そこで親の孤立化が一挙に進む。この孤立化が、ますます子育てを神経質なものにする。

 ……というだけではないが、長男、長女を育てるには、特別のコツが必要ということになる。そのひとつが、長男、長女は、できるだけ外へ出すこと。(もっともこの文章を読むころには、たいていは手遅れかもしれないが……。)はやく保育園や幼稚園へやれということではない。機会があれば、近所や親類づきあいを多くし、そのつきあいの中に子どもを巻き込んでいく。

まずいのは、隔離された世界だけで、マンツーマンの育て方をすること。その親子を包むカベだけがどんどんと厚くなり、やがて風通しが悪くなる。一度こういう状態になると、子育てが極端化する。同じ過保護でも、極端な過保護になったり、過干渉でも、極端な過干渉になったりする。

 要するに風通しをよくするということ。そのために長男、長女はできるだけ外に出す。ほかにもいろいろあるが、こんなことにも注意するとよい。
 よく知られた現象に、「赤ちゃんがえり」というのがある。下の子どもが生まれたことにより、上の子どもが本能的な嫉妬心から、赤ちゃんぽくなったり、反対に下の子どもを親に隠れて虐待するようになったりする。この赤ちゃんがえりは一度、こじれると、そのあと、子どもの情緒をたいへん不安定にする。

 この赤ちゃんがえりを防ぐためには、下の子を妊娠したときから、上の子どもに下の子どもの出産を楽しみにさせるようにし向ける。まずいのは、ある日突然下の子が生まれたというような状態にすること。嫉妬心というのは、原始的であるがゆえに、扱い方をまちがえると、子どもでも心まで狂う。ほかにもいろいろあるが、それについては別のところで書く。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(174)

●直接話法より、間接話法

 英語の文法の話ではない。これは子どもとの会話のコツ。たとえば子どもが指をしゃぶっていたとする。そのとき、「指しゃぶりをやめなさい!」と言うのが、直接話法。しかし「あなたの指、おいしそうね。先生にもなめさせて」と言うのが、間接話法。

 間接話法にすると、言葉のトゲトゲしさが消え、その分会話がまるくなる。ほかにたとえば、「座っていないさ!」というのは、直接話法、「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」というのが、間接話法。「字をきれいに書きなさい!」というのは、直接話法、「前よりきれいに書けるようになったね。これからもっときれいに書けるよ」というのは間接話法。これはほめるときにも応用できる。

 たとえば子どもをほめるとき、子どもに「あなたはいい子だね」とほめるのが直接話法、子どもの聞こえるところで、だれかほかの人に、「うちの子はすばらしい子よ」というのが、間接話法。ただしこの方法は、いやみのためには使ってはいけない。子どもの聞こえるところで、「○○さんは、もうカタカナが書けるそうよ」とか、「あの△△さんは、いい子だから、そんなことはしないわね」とか、など。こうした言い方は、子どもには卑怯に聞こえる。(子どもでなくても、そうだが……。)

 叱るときも、「どうしてそんなことをするの!」というのが直接話法、「あなたともあろう子がどうしてこんなことするの?」というのが間接話法。「もっといい点を取りなさい」というのが直接話法、「今回は調子が悪かったのね。つぎはだいじょうぶよ」というのが間接話法。そういえばつぎの会話も、直接話法と間接話法ということになる。

 英語では、日本人なら「がんばれ!」と言いそうなとき、「テイク・イット・イージィ」という。「気楽にしなよ」「気楽にやりなよ」という意味。たとえばテストの点が悪くて落ち込んでいるようなとき、そう言う。で、不思議なもので、そう言われると、かえってやる気が出てくる。あなたも一度、この間接話法を子どもにためしてみたらどうだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(175)

●使えば使うほどよい子

「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使いまくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、100%、スポイルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、「日本の子どもは何もしない」と。

反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。

(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。

(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。

(3) ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動することができない、など。
(4)
あなたの子どもをドラ息子、ドラ娘にしたくなかったら、とにかく使うこと。それ以外にあなたの子どもをよい子にする方法はない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(176)

●ドラ息子症候群

 ドラ息子かどうかは、早い子どもで、年中児の中ごろ(4歳半)前後でわかるようになる。しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因があるからである。

また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。

あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。子どもが二~四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ。幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば台所の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂場の排水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。

こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(177)

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもをドラ息子にしないためには、子どもを使う。もう少し具体的には、子どもを家庭の緊張感に巻き込む。が、親が寝そべってテレビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子どもが見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかし見て見ぬフリをしたり、そのままゲームに夢中になっていたりすれば、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘とみてよい。今は体も小さく、あなたの保護のもとでおとなしくしているかもしれないが、やはてあなたの手に負えなくなる。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。庭の草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むことをいう。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンで拭かせる。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。また何をどれだけさせればよいという問題でもない。

 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。

(1)生活感のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意識をもたせる。

(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。

(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。

(4)生活のルールを守らせる。

(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、

(6)バランスのある生活に心がける。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになっている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それを忘れてはならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(178)

●子どもの疲れは、神経疲れ

 子どもが「疲れた」と言うときは、神経疲れ(精神疲労)を疑う。この段階で、吐く息が臭くなったり、顔色が悪くなったりする、腹痛や頭痛を訴えることもある。一方、子どもというのは、体力や知力を使って疲れるということは、まずない。そういうときは、「眠い」という。あるいは本当に眠ってしまう。

その神経疲れだが、子どもは、この神経疲れにたいへんもろい。それこそ5~10分だけでも神経をつかっただけで、子どもによっては、ヘトヘトに疲れてしまう。とくに敏感児タイプの子ども、つまり俗にいう神経質な子どもは、神経疲れを起こしやすい。

このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にあることが知られている。その緊張した状態のところに不安が入ると、その不安を解消しようと一挙に緊張感が高まる。このとき、その緊張感を外へ吐き出すタイプ(暴れる、大声を出す、泣く)と、内へこめるタイプ(ぐずる、引きこもる、がまんする、よい子ぶる)に分かれる。前者をプラス型というのなら、後者はマイナス型ということになる。教える側からすれば、一見プラス型のほうがあつかいにくくみえるが、実際にはマイナス型のほうが、はるかにむずかしい。

どちらのタイプであるにせよ、子どもが神経疲れを起こしたら、子どもの側からみて、だれの視線も感じないような環境を用意する。親があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。子どもがひとりで、ぼんやりできるようにする。生活習慣が乱れても、目をつぶり、子どもがしたいようにさせる。子どもが求めるようであれば、温かいスキンシップをじゅうぶん与え、あとはカルシウム分やマグネシウム分の多い食生活にこころがける。

こうした神経疲れが慢性化すると、子どもは神経症(チック、どもり、夜尿、夜驚、夢中遊行など)、さらには恐怖症(対人恐怖症、集団恐怖症など)や、情緒不安定症状を示すようになり、それが高じて精神障害(摂食障害、回避性障害、行動障害など)になることがある。もちろん不登校の原因になることもあるので注意する。
 
 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(179)

●机は休む場所

学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくすると疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことができれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、なかなかもとに戻らない。

 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もしその食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合っているということになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。

 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使っていると圧迫感が生まれる。日本人は机を暗い壁に向けて置く習性があるが、このばあいも、長く使っていると圧迫感が生まれる。数か月程度なら問題ないかもしれないが、一年二年となると、弊害が現れてくる。

で、その棚式の机だが、もう25年ほども前になるが、小学1年生について調査したことがある。結果、棚式の机のばあい、購入後三か月で約80%の子どもが物置にしていることがわかった。最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるかもしれないが、あくまでも一時的。

そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あるいは低学年児のばあい、机はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強している。この時期は勉強を意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを育てる。親子のふれあいを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するのではなく、「一緒にやろうか?」と話しかけるなど。これを動機づけというが、こうした動機づけをこの時期は大切にする。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(180)

●机を置くポイント

学習机にはいくつかのポイントがある。

(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 
(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。
(3)座った位置からドアが見えるようにする。(4)光は左側からくるようにする(右利き児のばあい)。
(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。
(6)窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強できないということもあるので注意する。

 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に落ちつかないことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひじかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。

中に全体が前に倒れるようになっているイスがある。確かに勉強するときは能率があがるかもしれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。

 さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。たいていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思い切って、そういうところを勉強場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。

 ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相性を大切にする。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなければ、子どもは何かにつけ、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこともあるので注意する。

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