2009年6月22日月曜日

*Essays on House Education

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(59)

●動機づけの四悪

 子どもを勉強を遠ざける四悪に、無理、強制、比較、それに条件がある。能力を超えた学習を押しつけることを無理。時間や量を決め、それを押しつけることを強制。無理や強制が日常化すれば、子どもが勉強嫌いになって当然。さらに……。

 「A君はもうひらがな書けるのよ」とか、「お兄ちゃんはあなたの年齢のときには、算数は一〇〇点ばかりだったのよ」というのを、比較という。この比較は一度クセになると、あらゆる面でするようになるから注意する。勉強嫌いになるだけならまだしも、子どもから「私は私」というものの考え方をうばう。

 日本人は本当に他人の目をよく気にする。長くつづいた封建時代の名残(なごり)とも言える。他人と違ったことをすることができない。あるいは自分と違ったことをする人を、排斥する。そして幸福感も相対的なもので、「隣の人よりいい生活だから、幸せ」「隣の人より悪い生活だから、不幸」というような考え方をする。ここでいう「比較」というのは、そういう日本人独特のものの考え方と深く結びついている。

 つぎに「条件」。「成績があがったら、自転車を買ってあげる」「100点をとったら、お小遣いを1000円あげる」など、何かの条件をつけて子どもを釣るのを、条件という。

この条件も、一度クセになると、習慣になるから注意する。が、それだけではすまない。条件が日常化すると、子どもから「勉強は自分のためにするもの」という意識をうばう。そして子どもが小さいうちはまだしも、この条件はやがてエスカレートし、中学生になると、バイク。さらに大学生になると、自動車となる。そうなればなったで、苦労するのはあたな自身だ。

実際、今、親に感謝しながら高校に通っている高校生はいない。大学生でも少ない。中には、「親がうるさいから大学へ行ってやる」と豪語する高校生すらいる。そうなる。

 子どものほうから何か条件をつけてくることもあるかもしれないが、そういうときは、「あなたのためでしょ」とはねのける。こういう毅然(きぜん)とした態度が、結局は子ども自立させる。

 ともかくも無理、強制、比較、それに条件は子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい方法だが、それだけに弊害も大きい。

 







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(60)

●子どもは人の父

 イギリスの詩人ワーズワース(1770~1850)は、次のように歌っている。

 空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
 私が子どものころも、そうだった。
 人となった、今もそうだ。
 願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
 子どもは人の父。
 自然の恵みを受けて、それぞれに日が
 そうであることを、私は願う。

 原詩は、「The Child is Father of the Man」となっている。私はその「Man」の訳に苦しんだ。ここでは、ほかの訳者と同じように、「人」と訳したが、どうもしっくりこない。「おとな」、あるいは「人格者」と訳すこともできる。つまりワーズワースがこの詩の中で言わんとしていることは、子ども時代がその人の原点であるということ。

いくらおとなになっても、その子ども時代の美しい心や純粋な心を忘れてはいけないということ。もっと言えば、人はおとなになるにつれて、知識や経験はたしかに豊富になるが、ともすればそれと引き換えに、子ども時代に覚えた感動を踏みにじってしまう。ワーズワースは、そうであってはいけない、と。

 私はこの詩に出会ってからというもの、この詩をずっと子育て評論の座右の銘としている。そしてそのつど、ふとどこかで袋小路に入りそうになったとき、この詩を思い出して、自分を取り戻すようにしている。たしかに子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。自尊心もあれば、嫉妬心もある。むしろ人はおとなになればなるほど、悪賢く、そして醜くなっていく。そのため失うものも多い。

 「子ども的」であることは、何ら恥ずべきことではない。子ども的であるということは、それ自体すばらしいことなのだ。あなたも一度、空の虹を見ながら、童心に返って、「わーっ」と大声をあげて感動してみたらどうだろう。遠慮することはない。「わーっ」とだ。あなたも子どものころを純粋さを、心のどこかに感ずるはずだ。




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(61)

●子どもは水

 私は幼児教育の世界に入って、まずしたことは、アンケート調査だった。そのアンケート調査だけを、ただひたすら繰り返した。で、その調査の中でも、最初にしたのが、つぎのような調査だった。

私は静かな住宅団地に住む子どもは静かで、街中の交通のはげしいところに住む子どもは騒々しいと思っていた。それを証明したくて、調査をした。が、結果はハズレ。住環境と子どもの静かさ、騒々しさはまったく関係がないことがわかった。静かな環境に住んでいる子どもでも、騒々しい子どもはいくらでもいた。騒々しい環境に住んでいる子どもでも、静かな子どもはいくらでもいた。

 子どもというのは、物理的な環境の変化、たとえば引っ越しなどによっては、ほとんど影響を受けない。とくに満4・5歳までの子どもは、あたかも水のように自在に形を変えて、それぞれの環境に適応していく。むしろ引っ越しなどは、子どもによい影響を与えることが知られている。よく「転勤族の子どもは頭がいい」と言うが、それもその一つ。そんなわけで、私は『子どもは水』という格言を考えた。が、子どもは、愛情の変化には、たいへん敏感に反応する。こんなことがあった。

 俗にいうツッパリ症状というのがある。目つきが鋭くなる、肩をいからせて歩く、ものの考え方が投げやりになり、言動が乱暴になるなど。私が経験した中での最年少は、小学一年生のI君だった。彼は夏休みを境に、ここでいうツッパリ症状が出てきた。そこで母親に聞くと、母親は「思い当たることはありません」と。そこでさらに調べてみると、こういうことだった。

 それまでI君は、両親の間で、「川」の字になって寝ていた。が、夏休みに入って子ども部屋ができ、I君はそこでひとりで寝ることになった。I君はI君なりに、親の愛情が変化を感じたのかもしれない。私がそれを指摘すると、母親は「そんなことで!」と言ったが、もとのようにまた床を移すと、ツッパリ症状もウソのように消えた。

 家庭騒動、離婚騒動など、子どもの側からみて愛情の変化と見られるような行動は、慎重にするにこしたことはない。








ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(62)

●子どもは見るもの、聞くものではない

 子どもはうるさいのが当たり前。ワーワーと自己主張する。ワーワーと驚いたり、親に反発したりする。時には大声で歌を歌ったり、笑ったりする。それが子どものふつうの姿と考えてよい。そういう意味で、『子どもは見るものでは、聞くものではない』という。イギリスの格言である。

 これに対して静かな子どもは、それだけで何らかの心の問題を疑ってみたほうがよい。たとえば親の神経質な過干渉が日常的につづくと、子どもの心は内閉する。さらに症状が進むと、精神の発達そのものが阻害され、心が萎縮する。今、幼稚園の年中児でも、皆がドッと笑うようなときでも、大声で笑えない子どもが、10人のうち、1人2人はいる。

 ところで日本では、静かで、先生の言うことをハイハイと聞く子どもほど「いい子」と考える傾向が強い。少なくとも2、30年前までは、そう考えられていた。今でも、そういうふうに思っている先生や親は多い。しかしそれは世界の常識ではない。

たとえば日本では、学校の先生は、「わかったか?」「では、つぎ!」と授業を進める。しかしアメリカやオーストラリアでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って授業を進める。日本では、先生が教えたことをスラスラとできる子どもを優秀な生徒と考え、アメリカやオーストラリアでは、自分の考えをしっかりともち、それを発言できる子どもを、優秀な生徒と考える。

科目にしても、向こうには「ドラマ(演劇)」という科目があるくらいだ。さらに日本では子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と言う。しかしアメリカでは(特にユダヤ系の家庭では)、「わからないところがあったら、先生によく質問するのですよ」と言う、などなど。日本で常識になっていることでも、外国ではそうでないということはいくらでもある。

 ただし同じ騒々しいといっても、キャーキャーと奇声をあげて騒ぐというのは、別問題である。以前、オーストラリアの幼稚園を訪問したことがあるが、日本の子どもたちとは比較にならないほど静かだったのには驚いた。サワサワとした風の音すら聞こえていた。「子どもはうるさいもの」と言っても、その内容は国によってかなり違う。







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(63)※

●学力は低下している?

 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・1999年)の調査によると、日本の中学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第5位。以下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポールに次いで第3位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(48%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ2であった(韓国52%、日本55%)。学校の外で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ2。一方、その分、前回(95年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、2・6時間から3・1時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この20年間(1982年から2000年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学6年生で、80・8%から、61・7%に低下。分数の割り算は、90・7%から66・5%に低下。小数の掛け算は、77・2%から70・2%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、38・3%から32・8%に低下。全体として、68・9%から57・5%に低下している(同じ問題で調査)、と。

いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見。あるいは文部科学省を批判した意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようがない。

同じ澤田教授の調査だが、小学6年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、2000年度に30%を超えた(1977年は13%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、2000年度には35%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、もはや幻想でしかない。






 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(64)

●子どもを飾らない

 「私はどこの中学でもいいのですが、息子がどうしてもA中学と言いますので、先生、息子の願いをかなえてあげてください」と。あるいは「学校の先生はB中学でも合格できると言っているのですが、息子はどうしてもC中学のほうがいいと言って私の言うことを聞きません。しかたないので、C中学にしました」と。さらにこんな例もある。

 かなり情緒が不安定な女の子(小6)がいた。心はいつも緊張状態にあって、ささいなことで突発的に泣き叫んだり、暴れたりした。が、母親の悩みはそのことではなかった。ある日私にこう言った。「ああいう子でしょ。中学の面接試験のときだけでも、落ち着いていてくれればいいのですが……」と。

 子どもを飾る親は少なくない。見栄やメンツ、世間体が親をして、子どもを飾らせる。「近所の人に子どもの制服を見られると恥ずかしいから」という理由で、毎朝、駅まで子どもを送り迎えしていた親がいた。あるいは高校の進学校別懇談会に、やはり「恥ずかしいから」という理由で、一度も出席しなかった親もいた。

不登校児になった子どもを、親戚の叔父に預けてしまった親もいた。こうした親の気持ちはわからないわけではないが、しかしこうした卑屈な気持ちは、親子の間に大きなキレツを入れることになる。どう入れるかは別のところで書くとして、「子どもは飾らない」。ありのままを認めて、ありのままを受け入れる。

そして子どもは子どもで、ありのままの自分を、外の世界に向かって見せることができるようにする。つまりありのままの「自分」に自信をもたせるようにする。こうした姿勢が、子どもの中に「私は私」という意識を育てる。また「私は私」と堂々と生きるところから、その人の価値が生まれる。

 「飾る」ということは、他人の目を意識した生き方をするということ。しかし他人の目の中で生きれば生きるほど、結局は「私」を犠牲にすることになる。が、これほどつまらない人生はない。他人から見ても、これほど見苦しい生き方もない。たとえば見栄やメンツにこだわればこだわるほど、その分、時間をムダにする。世間体を気にすればするほど、結局はその世間から笑われる。







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(65)

●神経症は親を疑う

 子どもの神経症(心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)は、まさに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑う。その神経症は、大きくつぎの三つに分けて考える。

(1) 精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2) 身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。

(3) 行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 こうした神経症が表れると、親は園や学校、さらには友人関係を疑うが、まず疑うべきは、家庭環境である。こんな母親がいた。学校でその子ども(小四男児)の吃音(どもり)が笑われたというのだ。その母親は「教師の指導が悪いからだ」と怒っていたが、その子どもにはほかに、チックによる症状(目をクルクルさせる)もあった。問題は「笑われた」ということではなく、現に今、吃音があり、チックがあるということだ。たいていは親の神経質な過干渉が原因で起こる。なおすべきことがあるとするなら、むしろそちらのほうだ。

子どもというのは、仮に園や学校でつらい思いをしても、(またそういう思いをするから子どもは成長するが)、家庭の中でキズついた心をいやすことができたら、こうした症状は外には出てこない。

 神経症が子どもに現れたらら、子どもの側からみて、親の存在を感じないほどまでに、家庭環境をゆるめる。親があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。子どもがひとりでぼんやりとできる時間と場所を大切にする。








ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(66)

●子どもは環境で包む

 私はときどき、たとえば小学5、6年生の子どもを、中学生のクラスに座らせて勉強させることがある。何かを教えるのではなく、「好きな勉強をしなさい。本読みでも、宿題でもいい」と言って、子どもの自由に任せる。(クラスといっても、私のばあいは、一クラス、5~6名の小さなクラスだが……。)この方法は、下の子どもが上の子どもの勉強グセを受け継ぐには、たいへん効果的である。

週一回程度でも、数か月もすると、下の子どもは上の子どもを見習って、黙々と勉強するようになる。実際、私はこの方法で、ツッパリ始めた子どもをなおしたこともあるし、騒々しくて落ち着かない子どもをなおしたことがある。

 それはそれとして、子どもを指導したいと考えたら、環境で包む。……包むことを考える。釣り好きの親の子どもは、釣りが好きになる。読書好きの親の子どもは、読書が好きになる。社交的な親の子どもは社交的になる。しかし押しつけはいけない。親が本を読まないのに、「うちの子はどうして本を読まないでしょう」は、ない。

子どもというのはそういうもので、親の考え方や感じ方をそのまま受け継いでしまう。たとえば今あなたが、「男なんてつまらないもの」とか、「うちの夫はだらしない」などと思っていると、あなたの娘もそう思うようになる。これは一つのテストだが、こんなことをしてみると、親子の密着度を知ることができる。

 紙と鉛筆を用意し、まずあなたが山、川、木を二本、家、雲、太陽を描いてみる。そしてその絵をどこかへ隠し、つぎに子どもに、同じように山、川、木を二本、家、雲、太陽を描かせてみる。子どもの絵ができあがったら、あなたの絵と見比べてみる。親子の密着度が高い親子ほど、実によく似た絵をかく。年長児で30組に1組は、ほとんど同じ絵を描く。

 子どもに何かをさせようと思ったら、まず自分でしてみる。環境で包む。そういう姿が、子どもを前向きに伸ばす。ただし一言。あなたが努力しても、子どもがそれに乗ってこなければ、それはそれでおしまい。あのレオナルド・ダ・ビンチもこう言っている。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない』と。

何ごとも無理強いは禁物。子どもというのは、親の期待を一枚ずつ剥ぎ取りながら成長するもの。そういう前提で、子育てを考えること。










ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(67)

●休息を求めて疲れる

 「休息を求めて疲れる」。イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言でもある。「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできなくなる」という意味である。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。

 ところでこんな人がいる。もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八八か所を巡礼をしてみたい、と。そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。「ならば、なぜ今、しないのか?」と。

 私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかった。名誉や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味があるというのか。私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。これが原点だ。

だから○○部長の名前で稼いだ100万円も、幼稚園の講師で稼いだ100万円も、100万円は100万円。問題は、そのお金でどう生きるか、だ。サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組織に、義理立てをしなければならないのか。

 未来のためにいつも「今」を犠牲にする。そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分の時間をつかめない。たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。幼稚園は小学校の入学のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学は就職のため……と。社会へ出てからも、そうだ。子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを途中で変えることはできない。いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終わる。

 あえて言えば、私にもこんな経験がある。学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試験が終わったら、ひとりで映画を見に行こう」と。しかし実際そのテストが終わると、その気力も消えてしまった。どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望が生まれるものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。

先の「四国八八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをしたら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。私の経験では、多分、その人は四国八八か所めぐりはしないと思う。退職したとたん、その気力は消えうせる……?

 大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。「今」というときをいかに充実させるか、だ。明日という結果は明日になればやってくる。そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけはしてはいけない。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)








ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(68)

●こまかい指導は、子どもをつぶす

 文字を覚えたての子どもは、親から見てもメチャメチャな文字を書く。形や書き順は言うにおよばず、逆さ文字、鏡文字など。このとき大切なことは、こまかい指導はしないこと。

日本人はとかく「型」にこだわりやすい。トメ、ハネ、ハライがそれだが、今どき毛筆時代の名残をこうまでこだわらねばならない必要はない。……というようなことを書くと、「君は日本語がもつ美しさを否定するのか」と言う人が必ずいる。あるいは「はじめに書き順などをしっかりと覚えておかないと、あとからたいへん」と言う人がいる。

しかし文字の使命は、自分の意思を相手に伝えること。「美しい」とか「美しくない」というのは、それは主観の問題でしかない。また、これだけパソコンが発達してくると、書き順とは何か、そこまで考えてしまう。

 10年ほど前、オーストラリアの小学校を訪れたときのこと。壁に張られた作文を見て、私はびっくりした。スペルはもちろん、文法的におかしなものがいっぱいあった。そこで私がそのクラスの先生(小3担当)に、「なおさないのですか」と聞くと、その先生はこう言った。

「シェークスピアの時代から正しいスペルなんてものはないのです。音が伝わればいいのです。またルール(文法)をきつく言うと、子どもたちは書く意欲をなくします」と。

 私もときどき、親や祖父母から抗議を受ける。「メチャメチャな文字に、丸をつけないでほしい。ちゃんとなおしてほしい」と。しかしこの時期大切なことは、「文字はおもしろい」「文字は楽しい」という思いを子どもがもつこと。そういう「思い」が、子どもを伸ばす原動力となる。

このタイプの親や祖父母は、エビでタイを釣る前に、そのエビを食べようとするもの。現に今、「作文は大嫌い」という子どもはいても、「作文は大好き」という子どもは少ない。よく日本のアニメは世界一というが、その背景に子どもたちの作文嫌いがあるとするなら、喜んでばかりはおれない。

 ある程度文字を書けるようになったら、少しずつ機会をみて、なおすところはなおせばよい。またそれでじゅうぶん間に合う。そういうおおらかさが子どもを勉強好きにする。

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