2009年6月22日月曜日

*Essays for Fathers & Mothers

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(49)

●国語力を豊かにするために

 「ほら、カバン! ハンカチは! バス、バス……、ほら、帽子!」と、こんな話し方をしていて、子どもに国語力が育つはずがない。こういうときは、たとえめんどうでも、「あなたはカバンをもちます。ハンカチはもっていますか。もうすぐバスが来ますから、急いでしたくをしなさい。帽子を忘れないでください」と。

こうした会話環境があってはじめて、子どもは国語力を身につけることができる。が、こんな方法もある。

 一人、バツグンの国語力のある子ども(年長女児)がいた。作文力をみたら、小学4~5年生程度の力があったのではないか。紙芝居を渡しても、その場でスラスラと物語をつくってみせた。そこで母親にその秘訣を聞くと、こう話したくれた。

 母親の趣味はドライブ。そこでほとんど毎日、それもその子どもが乳幼児のときからドライブに連れていったのだが、そのとき母親は、自分の声で吹き込んだ物語のテープを聞かせつづけたという。物語は、子ども向けのものから、もう少し年齢の大きい子ども向けのものまで、いろいろあったという。

 確かにこの方法は効果的である。別の母親は、森鴎外の難解な小説(「高瀬舟」)を吹き込んだカセットテープをその子ども(小1)に、毎晩眠る前に聞かせた。数か月もすると、その子どもはその物語をソラで言えるようになったという。

 この方法にはいくつかのコツがある。やはり一番よいのは、母親の声で録音したテープ。物語は何でもよいが、読んで聞かせる目的なら、2~4年レベルの高いものでも構わない。大きな書店へ行くと、学校の教科書を売っている。そういうところで、いろいろな教科書を手に入れて読んであげるとよい。値段も安いし、内容もよく吟味されている。

また国語に限らず、社会や理科、あるいは道徳の教科書でもよい。子どもが興味をもっていることなら一番よいが、あまりこだわらなくてもよい。

 さて冒頭の話だが、子どもの国語力の基本は、あくまでも親、なかんずく母親の国語力による。あなたも子どもの前では、正しい日本語で話してみてほしい。








ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(50)

●子どもの体で考える

 体重15キロの子どもがかん缶ジュース1本飲むということは、体重60キロの人が同じ缶ジュースを4本飲むのに等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを四本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。

しかし無頓着な人は、子どもに平気で缶ジュースを1本与えたりする。ソフトクリームもそうだ。横からみると、子どもの顔よりも大きなソフトクリームを子どもに与えている人がいる。それがいかに多い量かは、一度あなたの顔よりも大きなソフトクリームを特別に注文してみればよい。そういうものを一方で子どもに与えておいて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。(ちなみに約半数の親が、子どもの小食で悩んでいる。好き嫌いがはげしい。食が少ない。ノロノロ食べるなど。)

 私は職業がら、そういう親子を見ると、つい口を出したくなる。先日もファミリーレストランで、アイスフロートのジュースを飲んでいる子ども(年長児)を見かけたので、にこやかに笑いながらだったが、「そんなにたくさん飲まないほうがいいよ」と声をかけてしまった。が、それを聞いた母親はこう叫んだ。「いらんこと、言わんでください!」と。いらぬお節介というわけだ。

 ほかにスナック菓子、かき氷しかり。世界を歩いてみても、日本ほどお菓子の発達(?)した国は少ない。もっとも味についていえば、アメリカ人のほうが、日本人よりはるかに甘党で、健康に害があるとかないとかいうことになれば、日本ではそれほど心配しなくてもよいのかもしれない。

しかし一時的に甘い食品(精製された白砂糖が多い食品)を大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、それが脳間伝達物質であるセロトニンの分泌を促し、脳に変調をきたすことが知られている。そしてそのため、脳の抑制命令が阻害され、子どもは突発的に興奮しやすくなったりするという。もう30年ほど前に、アメリカで問題になったことだが、もしあなたの子どもが日常的に興奮しやすく、突発的に暴れたり、ヒステリー状態になることが目立つようだったら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。

子どもによっては、たった1週間、砂糖断ちしただけで、別人のように静かになるということはよくある。







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(51)

●子どもの耳は長い

 イギリスの格言に『子どもの耳は長い』というのがある。もともとの意味は、子どもというのは、耳がよい。親の会話などでも、聞いていないようで聞いてしまう。だから子どもの近くでは、めったな話を軽率にしてはいけないという意味だが、私ははじめてこの格言を知ったとき、別の意味に考えた。

 子どもというのは、親が説教しても、その説教の内容が理解できるようになるまでに時間がかかる。たとえば子どもが母親のサイフからお金を盗んで使ったとする。そういうとき親は、それが悪いことだと子どもに教えるが、子どもがそれが悪いことだと本当に理解するようになるまでには、しばらく時間がかかる。

親があせって早く理解させようとしてもムダ。強く叱ったり怒ったりすれば、一応しおらしい顔で、反省しているかのような様子を見せることもあるが、わかっていてそうしているのではない。こわいからそうしているだけ。叱られじょうずな子どもほど、叱られ方がうまい。このタイプの子どもは、叱る割には効果はない。親は言うべきことを繰り返し言いながらも、あとはそれが子どもの脳に届くまで、待つ。ただひたすら待つ。そういう意味で、『子どもの耳は長い』と。

 子どもを指導するというのは、まさに根気との勝負。イライラしたら負け。怒ったり、怒鳴ったりしたら負け。子どもが親のリズムに合わせることができない以上、親が子どものリズムに合わせるしかない。親と子どもは平等ではあっても、決して対等ではない。

親は絶対的な「強者」であるのに対して、子どもは絶対的な「弱者」。強者は弱者に対して、どこまでも謙虚でなければならない。それに親が絶対的に正義ということも、ありえないのだ。

……とまあ、少し難しい話になってしまったが、要するに、「しょせん相手は子ども」というおおらかさが、子どもを伸ばす。善悪の判断もそれで身につく。まずいのは一方的に、ガンガンと親の価値観を子どもに押しつけるような行為。子どもは自分で考える力そのものをなくしてしまう。そうなると、子どもはますます常識ハズレになり、もっと大きな失敗を繰り返すようになる。









ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(52)

●子育てはリズム

 子育てはリズム。しかもそのリズムは、あなたが子どもを妊娠したときから始まる。そしてそのリズムは、よほどのことがない限り、一生つづく!

 胎教だ何だと、おなかの赤ちゃんに英語やクラシックの音楽のカセットテープを聞かせる母親もいれば、赤ちゃんのことはまったく気にせず、マイペースで自分の仕事をつづける母親もいる。

 赤ちゃんが泣く前に、時間がきたからといってミルクビンを赤ちゃんの口につっこむ母親もいれば、赤ちゃんが泣いてからもしばらくミルクをあげない母親もいる。

 子どもが望む前に、勝手に英語教室に入会届けを出す母親もいれば、子どもが「行きたい」と言っても、なかなか動かない母親もいる。やめるときも、母親が決め、勝手にやめる母親もいれば、そのつど子どもに「どうするの?」と、子どもの意思を確かめながら行動する母親もいる。

 一事が万事。こうしたリズムは一度できると、姿や形こそ変わるが、そのリズムそのものは変わることはない。ある日1人の母親が私のところにきてこう言った。「先生、うちの子はああいう子でしょ。だから夏休みの間、洋上スクールに入れようと思うのですが、どうでしょうか」と。そこで私が「本人は行きたがっているのですか」と聞くと、「いえね、それが行きたがらないので困っているのです」と。

 親が3拍子で子どもが4拍子では、うまくいくはずもない。そして子どもが親のリズムに合わせることができない以上、親が子どものリズムに合わせるしかない。でないと、やがてあなたは子どもと、こんな会話をするようになる。

 母親「あんたはだれのおかげでピアノが弾けるようになったか、それがわかっているの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアの教室へ連れていってあげたからでしょ!」、子「だれがそんなことしてくれと、いつあんたに頼んだア!」と。

こういう会話をしたくなかったら、今日からでも遅くないから、子どものリズムに合わせる。







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(53)

●子どもは気分屋

 子どもの最大の弱点は、未経験で知識に乏しいということ。それは当然だが、そのためあと先のこともわからないまま、そのときの気分で親と約束をしてしまうこがある。

よくある例が、子どもが水泳教室へ入りたいというから、親が水泳教室へ入れたようなばあい。やがて子どもはそのハードな練習にいやになり、「行きたくない」と言ったとする。こういうとき親は子どもに、「ちゃんと約束したから行きなさい」と子どもに、それを強要したりする。あるいは「子どものときから、こんないいかげんなことでは、うちの子はダメになる」と思い込んで、さらに無理に無理を重ね、水泳教室へ通わせたりする。しかし……。

 子育てはまじめ8割、いいかげんさ2割。子どもに完ぺきさを求めても意味はないし、へたに求めると、子どもからかえって伸びる芽をつんでしまう。ある程度は押しても、それで動かないときは、親のほうが引く。

「そんなに行きたくないなら、いいわ」と。まずいのは、子どもをとことん追いつめるような行為。子どもは行き場をなくし、それが原因となって情緒が不安定になったり、精神的におかしくなったりする。(反対に粗放化する子どももいる。)

 いいかげんであることが悪いのではない。子どもはこの「いいかげんさ」の中で、羽をのばす。心を休める。よくあるのが、「そういういいかげんなことで、子どもはいいかげんな人間になりませんか」という相談。しかし心配は無用。子どものまじめさや、それに対するいいかげんさは、もっと別のところで決まる。

このことについては、ほかで説明するが、それよりも、親の完ぺき主義のほうが、はるかに弊害が大きい。いいかげんな親か、完ぺき主義の親か、どちらがいいかと聞かれれば、子どもにとっては、いいかげんな親のほうがはるかによい。しかしいいかげんばかりでも困る。だから「子育てはまじめ8割、いいかげんさ2割」。それくらいの割合がよい。

 要するに子どもは気分屋。子どもの約束など、真に受けないこと。









ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(54)

●子どもが育てる

 よく「育自」という言葉をつかって、「子育ては自分育て」と言う人がいる。まちがってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、いやおうなしに育てられる。

ある父親は、体の弱い息子(中1)と毎朝近くの湖の周囲をランニングした。また別の母親は、子どもと毎週図書館通いをした。その父親や、母親はこう言った。「自分のためだけなら、そこまではしなかった」と。とくにできの悪い子(失礼!)をもった親ほど、子どもに育てられる。子育てというのはそういうものだが、こんな例もある。

 自分の子ども(2歳男児)が、重い病気にかかり、生死の境目をさまよったとき、その母親は、「自分の命はどうなってもよいから、息子の命を救ってほしい」と、自分の心の中で祈りつづけたという。こうしたことはあってはならないことだが、しかし自分の命すらも惜しくないという深い愛は、人は子どもをもってはじめて知る。

 親が子どもを育てるというのは、とんでもない誤解。子どもが親を育てる。はじめて子どもを園へ連れてくるような母親は、たしかに若くてきれいだが、どこかツンツンとしていて、中身がない(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさつもしない。しかしそんな親でも、子育てで苦労をしながら、野を越え、山を越え、そして谷を越えるうちに、しだいに姿勢が低くなる。人間的な丸みができてくる。

 子どもに育てられることを恐れてはいけない。またそれが恥ずかしいことだと思う必要もない。むしろ実際には、子どもに教えを請うつもりで、子どもに接するとよい。子どもは未熟だとか、未完成だとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。むしろ子どもの世界のほうにこそ、真理が隠されていることがある。私も自分の子育て論でわからないところがあると、子どもの世界へ入って、そこで考えるようにしている。それだけではない。子どもと接していると、何が大切で何が大切でないか、それを教えられることがある。あるいは忘れかけていた感動や生きる力を教えられることもある。

 子どもが親を育てる……。もっともそれがわかるようになるのは、子育ても終わるころになってからだが、あなたも一度そういう謙虚な気持ちで、あなたの子どもと接してみてはどうだろうか。







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(55)

●子どもは社会の縮図

 おとなの世界に4割の善と4割の悪があるなら、子どもの世界にも、4割の善と4割の悪がある。子どもの世界はまさにおとなの社会の縮図。おとなの世界をよくしないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、それはおとなの身勝手。

もっと言えば、ムダ。子どもの世界をよくしようと考えたら、おとなの世界をよくする。たとえばいじめにしても、非行にしても、おとなたちの世界にもそれがあるのに、どうして子どもに向かって、それをやめろと言えるのか。子どもしてもはじめて読んだカタカナが、「ソープ」であったり「ホテル」であったりする(「クレヨンしんちゃん」)。

 ただ悪があるから、悪いというのでもない。もし人間がすべて、天使のようになってしまったら、この世界、何とつまらないものになってしまうことか。善と悪のハバがあるから、この世界はおもしろい。無数のドラマもそこから生まれる。

旧約聖書の中にも、こんな説話が残っている。ノアが、神にこう聞いたときのこと。「神よ、どうして人間を滅ぼそうとしているのか。(滅ぼすくらいなら)、最初から完全な人間をつくればよかった」と。それに対して神は、「(人間に)希望を与えるため」と。つまり人間は悪いこともするが、一方努力によって、神のような人間にもなれる。「それが希望だ」と。

 私も若いころは、子どもの世界をよくしようとがんばったこともある。しかし40歳になり、50歳になると、どんどんそういう気持ちは薄れた。薄れて、その反対に、結局は問題の根源はおとなの世界にあることを知った。「犠牲」という言い方はあまり好きではないが、子どもたちこそ、その犠牲者に過ぎない。我欲と貪欲のウズに巻き込まれ、子どもたちにしっかりとしたビジョンを示せない私たちおとなのほうにこそ、その責任がある。

たとえば援助交際にしても、子どもたちにそれをやめろという前に、どうしておとなたちが、おとなに向かって、それをやめろと言わないのか。あなたの友人や仲間が若い女の子と援助交際していても、みんな、見て見ぬフリをしている!

 子どもの世界を見るときは、まずおとなの世界を見る。何か問題が起きたら、「自分ならできるか」「自分はどうか」と自問してみる。そしてここが重要だが、自分にできないことは、子どもに求めないこと。期待しないこと。「子どもの世界は社会の縮図」というのは、そういう意味である。
 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(56)

●ゆがんだ自然観

 もう40年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよう」と。この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。

小さな虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかった。

が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには1740年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんどん破壊された。埼玉県では、この40年間だけでも、30%弱の森林や農地が失われている。(2000年当時)

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかないという事実の再認識である。

さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にしましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。








ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(57)

●机は平机

 以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購入後3か月で、約80%の子どもが机を、物置にしていることがわかった。いろいろな附属品ついいる棚は、一時的に子どもの関心を引くことはできても、あくまでも一時的。

棚式の机は長く使っていると、圧迫感が生まれる。その圧迫感が子どもを勉強から遠ざける。あなたも一度、カベに机を向けて置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫感がどういうものか、理解できる。そんなわけで机は買うとしても、長い目で見て、平机が好ましい。あるいはこの時期、まだ机はいらない。

 まず第一に、「勉強は学習机」という誤った固定概念は捨てる。日本人はどうしても型にはまりやすい民族。型を決めないと落ちつかない。学習机その延長線上にある。小学校の低学年児の場合、大半の子どもは、台所のテーブルなど利用して学習している。もしそうであれば、それでよい。この時期、あまり勉強を意識する必要はない。「勉強は楽しい」という思いを子どもがもつようにするのが大切。そこであなたの子どもと机の相性テスト。

 子どもが好きそうな食べ物などをそっと机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそれをそのまま机に向かって座って食べればよし。そうでなく、その食べ物を別の場所に移して食べるようであれば、机との相性はよくないとみる。長く使っていると、それが勉強嫌いの遠因になることもある。

 よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにある。どんな勉強でも、10~30分もすれば疲れてくる。問題はその疲れたときだ。子どもがそのまま机に向かって休めればよし。そうでないと子どもは机から離れ、そこで勉強が中断する。勉強というのは、一度中断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休むためにある。が、それでもなかなか勉強しないというのであれば、奥の手を使う。

 あなたの子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めるかを観察してみる。たいては台所のテーブルとか、居間のソファだが、そういうところを思いきって勉強部屋にする。あなたの子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。

 ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはうまくいく。そうでなければ失敗する。






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(58)

●勉強部屋は開放感がポイント

 以前、高校の図書室で、どの席が一番人気があるかを調べたことがある。結果、ドアから一番離れた、一番うしろの窓側の席ということがわかった。子どもというのは無意識のうちにも、居心地のよい場所を求める。その席からは、入り口と図書室全体が見渡せた。このことから、子ども部屋について、つぎのようなことに注意するとよい。

(1) 机に座った位置から、できるだけ広い空間を見渡せるようにする。ドアが見えればなおよい。ドアが背中側にあると、落ち着かない。

(2) 棚など、圧迫感のあるものは、できるだけ背中側に配置する。

(3) 光は、右利き児のばあい、向かって左側から入るようにする。窓につけて机を置く方法もあるが、窓の外の景色に気をとられ過ぎるようであれば、窓から机をはずす。

(4) 机の上には原則としてものを置かないように指導する。そのため大きめのゴミ箱、物入れなどを用意する。

 多くの親は机をカベにくつけて置くが、この方法は避ける。長く使っていると圧迫感が生じ、それが子どもを勉強嫌いにすることもある。

 また机と同じように注意したいのが、イス。イスはかためのもので、ひじかけがあるとよい。フワフワしたイスは、一見座りごこちがよく見えるが、長く使っているとかえって疲れる。また座ると前に傾斜するイスがあるが、たしかに勉強中は能率があがるかもしれない。しかしそのイスでは、休むことができないため、勉強が中断したとき、そのまま子どもは机から離れてしまう。一度中断した勉強はなかなかもとに戻らない。子どもの学習机は、勉強するためではなく、休むためにある。それを忘れてはならない。

 子どもは小学三~四年生ごろ、親離れをし始める。このころ子どもは自分だけの部屋を求めるようになる。部屋を与えるとしたら、そのころを見計らって用意するとよい。それ以前については、ケースバイケースで考える。

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