2009年6月9日火曜日

*Self-Justification

●自己正当化(Self-Justification)

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なんだかんだと理由をこじつけて、
自分を正当化する。
そういうケースは、多い。
たとえば自分が失敗しても、「もともとは、
あいつが悪いから、こうなった」
「たまたま運が悪かっただけ」と。
が、それを悪いことと決めつけてはいけない。
(よくないことは、確かだが……。)

つまりそうすることで、人は、自分の心を
救済しようとする。
個人的なことというよりは、だれにでも
そういう傾向があるという意味で、
心理学の登場ということになる。

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●投射

 ある夕方、A君(小3)の母親から電話がかかってきた。
話を聞くと、A君が、「林先生(=私のこと)が、ぼくを嫌っている」と言っているという。
しかし私には、そんな気持ちは、まったくない。
そこで話をよく聞くと、こういうことだった。

 A君が勉強から逃げ始めたのは、その数か月ほど前からのことだった。
理由はわからない。
たぶん過剰負担からではなかったか。
学習中も、やる気なさそうに、時間をつぶすことが多くなった。
そこで私はそのつど、こまかく、A君を注意した。
が、それがよくなかった。
A君はやがて私を避けるようになり、ついで、私を嫌うようになった。
A君が、(私ではなく、A君が)、私を嫌った。

 心理学の世界にも、「投射」という言葉がある。
自分の感情を相手に投射させて、「自分が悪いのは、相手のせいだ」と、責任を回避する
ことをいう。

 たとえばこのばあいも、A君は、(勉強がいやだ)→(林先生がぼくにきびしい)
→(だからぼくは、林先生が嫌い)→(林先生がぼくを嫌っているからだ)と、
自分の気持ちを、私に投射してしまった。

 わかりやすく言えば、たとえばあなたがBさんならBさんを嫌いだったとする。
そのときあなたは、こう言って、自分の感情を正当化する。
「私がBさんを嫌いなのは、私が悪いからではない。
Bさんが、私を嫌っているからだ」と。
つまり私には責任はない。
そういうふうに思わせているのは、Bさんのほうだ、と。

●老人心理

 私もその仲間に入って、おもしろいことに気づきつつある。
老人世界という(仲間)である。

 相手が幼児のばあいも、それがよくわかる。
しかし相手が老人だと、さらにそれがよくわかる。
老人になればなるほど、人はまさに、心理学の教科書どおりの行動をするようになる。
それに気づきつつある。

 老人といっても、いろいろある。
老人のなり方も、人によって、みな、ちがう。
しかし老人になればなるほど、その人の内なる「私」が、モロに表に出てくる。
たとえばフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使った。
ユングは、「生的エネルギー」という言葉を使った。
そうしたエネルギーは、老人を見れば、よくわかる。
それこそ車椅子に座ったままの生活をしているような老人が、一日中、「飯(めし)、
よこせエ(=くれ)」と叫んでいる。

 そういう姿を見ていると、生きる力のものすごさを感ずる。
と、同時に、「ああ、これがユングの説いた、生的エネルギーなんだ」とわかる。
もちろん色恋沙汰も、多い。
近くの老人ホームで働く女性が、こう教えてくれた。
「80代の女性たちが、1人の男性を取りあって、とっくみあいの喧嘩を
していますよ」と。
老人だから、そういうことに興味をなくすと考えるのは、まったくの誤解。
むしろ若いときより、はげしくなる。

 つまりこういう形で、老人たちは、人間の心理を、そのまま表現してくれる。
(あるいはフロイトやユングは、老人を見ながら、心理学をまとめたのかもしれない?
今、ふと、そんな疑念がわいてきた。)
ともかくも、老人たちを見ていると、相手が幼児ではわからなかったようなことが、
わかることがある。
「老人」といっても、私自身も含めての話だが……。

●嫌う

 話を戻す。
「嫌う」という感情は、ものすごいエネルギーを消耗する。
仏教の世界には、四苦八苦の一つとして、『怨憎会苦(おんぞうえく)』という言葉
さえある。

 人を嫌うのも、たいへんということ。
疲れる。
扱い方をまちがえると、心が腐る。
それゆえに、人は、(嫌う)という感情を、いろいろな形で、自分から発散させようとする。
そのひとつが、「投射」ということになる。
「私があの人を嫌うのは、私が悪いからではない。あの人が私を嫌っているからだ」と。

 先のA君(小3)のケースでいうなら、「ぼくが勉強を嫌いになったのは、林先生が
ぼくを嫌っているからだ」と。
そこでこういうケースのばあい、たいてい先手を打って、A君は、私の悪口を言い始める。
「林先生は、えこひいきをする」
「林先生は、まちがえると怒る」
「林先生は、ていねいに教えてくれない」と。

 つまりそういう形で、親を誘導する。
親をして、「そんな教室なら、やめなさい」と思うようにしむける。
子どもがよく使う手である。
だからこのタイプの子ども(プラス親)は、やめ方がきたない。
ある日突然、電話一本で、そのままやめていく。
「今日でやめます!」とか、など。

●「私」はどこに?

 こうして人の心というのは、集約され、普遍化される。
つまりどの人も、「私は私」と思って行動しているかもしれないが、その実、
ある一定のパターンで行動しているのがわかる。
それが「普遍化」ということになる。
わかりやすく言えば、北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
同じように、アラスカに住む人間も、タスマニアに住む人間も、人間は人間。
大きく違うようで、それほど違わない。
あるいはまったく同じ。

 言い換えると、その(同じ)という部分を抜け出さないかぎり、人は「私」を
つかむことはできない。
そのためには、まず人間の心理を知り尽くす。
その上で、「では、私はどうあるべきか」を考える。
その操作を怠ると、それこそハイデッガー※の言った、『ただの人』になってしまう。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、『ただの人』という言葉を使った。
が、それはとりもなおさず、「個人の死」を意味する。
「人生の敗北」を意味する。
 余計なことかもしれないが……。

(注※)ハイデッガー(マルティン・ハイデッガー)……1889~1976、
ドイツの哲学者。20世紀最大の哲学者と評されている。
「自分の未来に不安をもたず、自己を見失ってだらだらと生きる堕落人間を、
ひと(das Mann)と呼びました」(「哲学」宇都宮輝夫・PHP)とある。

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