2009年6月23日火曜日

*Short Essays (5)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(98)

●4割の善と、4割の悪

社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、4割の善があり、4割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。

 ただし一言。悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。

こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(99)

●常識を大切に

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(100)

●不登校は前兆をとらえる

 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま。が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、3つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが次である。
(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜になると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど移動するのが特徴。
(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂ったように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。
(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピリした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすることはある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。
(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に1~2時間、週に1日~2日、月に1週~2週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。

 要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。

一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪化する。 
はやし浩司のプロフィール





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(101)

教師言葉は裏から読む

 この世界には、「教師言葉」というのがある。先生というのは、奥歯にものがはさまったような言い方をする。たとえば能力が遅れている子どもの親には、決して「能力が遅れています」とは言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになってしまう。

こういうとき先生は、「お宅の子どもは、運動面はすばらしいのですが……(勉強は、さっぱりできない)」「私のほうでも努力してみますが……(家庭で何とかしてほしい)」と言う。あるいは問題のある子どもの親に向かっては、「先生方の間でも、注目されています……(悪い意味で目立つ)」「元気で活発なのはいいのですが……(困り果てている)」「私の力不足です……(もうギブアップしている)」「ほかの父母からの苦情は、私のほうでおさえておきます……(問題児だ)」などと言う。

ほかに「静かな指導になじまないようです……(指導が不可能だ)」「女の子に、もう少し人気があってもいいのですが……(嫌われている)」「協調性に欠けるところがあります……(わがままで苦労している)」「ほかの面では問題はないのですが……(学習面では問題あり)」というのもある。

 一方、先生というのは、子どもをほめるときには、本音でほめる。先生に、「いい子ですね」と言われたときは、すなおに喜んでよい。先生は、おせじではほめない。おせじを使わなければならない理由そのもがない。裏を返して言うと、もしあなたの子どもが、園や学校の先生にほめられたことがないというのであれば、子どものどこかに問題がないか、それを疑ってみたほうがよい。

幼児のばあい、一つの目安として、誕生パーティがある。あなたの子どもが、ほかの子どもの誕生パーティによく招待されるならよし。そうでないなら、かなりの問題のある子どもとみてよい。実際、誰を招待するかを決めるのは親。その親は、自分の子どもや先生から耳にする、日ごろの評判を基準にして、それを決める。

 生々しい話になってしまったが、もともと教育というのは、そういうもの。親と教師の価値観やエゴが、互いに真正面からぶつかり合う。ふつうの世界と違うのは、そこに「子ども」が介在すること。だから本音と建前が、複雑に交錯する。こうした教師言葉は、そういう世界から必然的に生まれた。ある意味でやむをえないものかもしれない。だいたいあなたという「親」だって、先生の前では本音を言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになってしまう。それをあなたは、よく知っている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(102)

●よい先生、悪い先生

 私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるのは、「教える」という立場にあるからだ。子ども、なかんずく幼児に接していると、その純粋さに毎日のように心を洗われる。何かトラブルがあって、気分が滅入っているときでも、子どもたちと接したとたん、それが吹っ飛んでしまう。よく「職場のストレス」を問題にする人がいる。しかし私のばあい、職場そのものが、ストレス解消の場となっている。

 その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。しかし誤解しないでほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。子どもは確かに知識は乏しく未経験だが、決して幼稚ではない。むしろ人間は、おとなになるにつれて、多くの雑音の中で、自分を見失っていく。醜くなる人だっている。「子ども的である」ということは、何ら恥ずべきことではない。

とくに私のばあい、若いときから、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や出版界はもちろんのこと、翻訳や通訳の世界も経験した。いくつかの会社の貿易業務に携わったこともあるし、医学の世界をかいま見たこともある。しかしこれだけは言える。園や学校の先生には、心のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほかの世界よりは、はるかに少ない。

 そこで「よい先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、目線が子どもと同じ高さにいる先生もいる。が、中には上から子どもを見おろしている先生もいる。このタイプの先生は妙に権威主義的で、いばっている。そういう先生は、そういう先生なりに、「教育」を考えてそうしているのだろうが、しかしすばらしい世界を、ムダにしている。

それはちょうど美しい花を見て、それを美しいと感動する前に、花の品種改良を考えるようなものだ。昔、こんな先生がいた。ことあるごとに、「親のしつけがなっていない」「あの子は問題児」とこぼす先生である。決して悪い先生ではないが、しかしこういう先生に出会うと、子どもから明るさが消える。

 そこで子どもと先生の相性があっているかどうかを見分ける、簡単な方法……。子どもに紙とクレヨンを渡して、「園(学校)の先生と遊んでいるところをかいてね」と指示する。そのとき子どもがあれこれ先生の話をしながら、楽しそうに絵をかけばよし。そうでなく、子どもが暗い表情になったり、絵をかきたがらないようであれば、子どもと先生の相性は、よくないとみる。もしそうであれば、この時期はできるだけ早い機会に、園長なら園長に相談して、子どもと先生の関係を調整したほうがよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(103)

●温室から出ると風邪をひく

 過保護といっても、いろいろある。ある母親は、子どもが交通事故にあって以来、運動面で子どもを過保護にした。また別の母親は、子どもが重病を患ったことが原因で、食事面で子どもを過保護にした。親が子どもを過保護にする背景には、親がわに何らかの「心配」があるとみてよい。そのわだかまりが形を変えて、親は子どもを過保護にする。

 が、何が悪いかといって、精神面で子どもを過保護にするケースほど悪いものはない。子どもを小さな世界に閉じ込め、親子だけのマンツーマンの状態で育てるなど。そして「近所のA君は悪い子だから、いっしょに遊んではダメ」「あの公園には乱暴な子がいるから行ってはダメ」と、子どもの世界を、外の世界から遮(しゃ)断してしまう。そのため子どもは俗にいう「温室育ち」になり、いわゆる「外へ出るとすぐ風邪をひく」タイプの子どもになる。

 過保護児の特徴としては、つぎのようなものがある。(1)人格の「核」形成が遅れ、その年齢の子どもに比べて、全体に幼い感じになる。幼児性がそのまま持続することもある。(2)ブランコを横取りされても、それに抗議できないなど、社会性がなくなる。そのためストレスを内にためやすく、内弁慶外幽霊になりやすい。(3)柔和でやさしいが、ハキがなく、ものごとに追従的になりやすい。そのためいわゆる野性味がなくなり、全体にひ弱な感じになる。

それが年齢とともにはっきりしてくるため、親は親でますます過保護にする。この悪循環がますます子どもをひ弱にする。どこかでその悪循環を断ち切らねばならないが、たいていの親はこう言う。「子どもがああなのは、生まれつきです」と。しかし実際には、そういう子どもにしたのは、親自身にほかならない。それともあなたは赤ちゃんをみて、その赤ちゃんが過保護児かどうか、それがわかるとでもいうのだろうか。

 子どもへの過保護を感じたら、何が「心配のタネ」になっているかを、さぐってみる。そのタネが何であるかがわかるだけでも、この問題の大半は解決したとみる。まずいのはそれに気づかないまま、いつまでもそのタネに振りまわされること。心のわだかまりというのはそういうもので、あなたをいつも裏から操(あやつ)る。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(104)

●死は厳粛に

 「死」をどう定義するかによってもちがうが、3歳以前の子どもには、まだ死は理解できない。飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く」と言った子ども(3歳男児)がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(3歳男児)や、「病院へ連れて行こう」と言った子ども(3歳男児)もいた。子どもが死を理解できるようになるのは、3歳以後だが、しかしその概念はおとなとはかなり違ったものである。3~7歳の子どもにとって「死」は、生活の一部(日常的な生活が死によって変化する)でしかない。ときにこの時期の子どもは、家族の死すら平気でやり過ごすことがある。

 このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひとりぼっちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。たとえば母親が臨終を迎えたとき、子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死そのものではない。

ちなみに小学五年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問してみたが、8人全員が、「こわくない」「私は死なない」と答えた。1人「60歳くらいになったら、考える」と言った子ども(女子)がいた。質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死ぬとしたらどうか」と聞くと、「それはいやだ」「それは困る」と答えた。

 子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人がそれを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとではないと知る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。死を茶化してはいけない。もてあそんでもいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛にあつかう。

たとえば飼っていた小鳥が死んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように紙で包んでポイと捨てれば、子どもは「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかしそれではすまない。死があるから生がある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切にする。死をていねいにとむらうということは、結局は生きることを大切にすることになる。が、死を粗末にすれば、子どもは生きること、さらには命そのものまで粗末にするようになる。

 どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめるという目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えてよい。そんなことも頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(105)

●読解力と国語力

読解力……年中児ともなると、文字をスラスラと読む子どもが出てくる。しかしたいていは文字を音に変えているだけ。私「ウサギさんは、だれに会いましたか?」、子「……わかんない」、私「クマさんは、うれしかったのかな?」、子「……わかんない」と。読みの深い子どもは、一ページごとに、挿絵を見たり、前のページをのぞいたりするので、むしろ読む速度が落ちる。またそういう読み方のほうが好ましいことは言うまでもない。

表現力……子どもに紙と鉛筆を渡し、こんなテストをしてみてほしい。「リスさんが歩いていると、草の中に大きな穴がありました。リスさんは、その穴に落ちて、おおけがをするところでした。そこでリスさんは、あとから来た人が穴に落ちないように、立て札を立てることにしました。その立て札には何と書けばよいでしょうか」と。

 文字の書き方がおかしいとか、字が抜けているとかいうことは問題にしてはいけない。子どもが書けない文字があったら、そのつど教えてもかまわない。で、このテストで子どもが、「ここは穴があるからあぶない」とか、「穴に気をつけて」というような文章が書ければよし。「これは立て札です」とか、「あなたはここを歩いています」とか、どこかトンチンカンなことを書くようであれば、あまり表現力はないとみる。ちなみに年長児で、まあまあそれらしき文章を書くことができるのは約50%。

抑揚……本を読ませてみたとき、言葉の抑揚が自然な子どもは、それだけ家で、おうちの人に本などを読み聞かせてもらっている子どもとみる。どこか抑揚が不自然と感じたら、子どもにはたくさん本を読んであげるとよい。

国語力……中に「うちの子はたくさん本を読み聞かせているから、国語力がある」と誤解している人がいる。決してムダではないが、国語力というのは、日常生活の中で身につく。たとえば「ウサギさんの足はヒリヒリ痛みました」という文章があったとする。親はそれを読んであげることで、「ヒリヒリ」の意味を子どもが理解したと思う。しかしそれだけでは足りない。

子どもがその言葉の意味を理解するようになるためには、実際、子どもがけがをしたようなとき、「ヒリヒリ痛いの?」と聞いてあげねばならない。そういう体験があってはじめて、子どもは「ヒリヒリ」の意味がわかるようになる。

要するに子どもの国語力は、親の会話能力、あるいはその子どもを包む言葉環境で決まる。もっと言えば、子どもが将来、国語が得意になるかどうかは、親の言葉能力で決まるということ。学校で学ぶ国語は、その延長線上にあるにすぎない。いわんやワークやドリルで、国語力がつくと考えるのは大きな誤解である。

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