2009年6月24日水曜日

*The Body and the Spirit

●肉体と精神(未完成)

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仏教では、「肉体とは棄(す)去らねばならないもの」
(世親・浄土三部経・観無量寿経)と教える。
精神は善であろうとしても、肉体の内側から湧き起きてくる、
もろもろの欲望、つまり煩悩(ぼんのう)が、
その精神をむしばむ。
仏教では、そう考える。

が、肉体を棄て去るということは、精神が宿る
脳そのものまで棄て去ることを意味する。
東洋医学でも、「肉体と精神は、密接不可分のもの」
(黄帝内経)と教える。
たとえば喜怒哀楽などの感情にしても、五臓六腑
の働きと密接に関連しあっている、と。

世親が説いた「棄て去る」というのは、もちろん、
切り捨てるという意味ではない。
「肉体と精神を分離せよ」という意味である。
仏教学者の人たちが聞いたら、吹き出して笑うかも
しれないが、私はそう解釈している。

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●大脳生理学

 最近の大脳生理学の発達には、ものすごいものがある。
脳の構造のみならず、その働きまで、リアルタイムで追跡、観察する装置まで
開発されている。

 たとえば自分の意志で行動していると思っていることにしても、実はそれ以前に、
脳の別の部分が、すでに「そうしろ」と命令を下しているということまでわかるように
なった。
つまり私たちは、常に脳の別の部分が下した命令に従って、それを自分の意志と
誤解しながら行動しているにすぎない、と。

 たとえばあなたが台所へ行ったとする。
テーブルの上に、オレンジジュースがあったとする。
するとあなたは、それを飲みたいと思い、コップに注ぐ。
そしてそれを口に入れる。
そのときだれかが、あなたにこう聞いたとする。
「あなたは自分の意思で、ジュースを飲んでいますか?」と。
するとあなたはまちがいなく、こう答えるだろう。
「そうです」と。

 が、事実は、少しちがう。
あなたが台所へ行く前から、すでに脳の別の部分が、あなたの脳にこう命令を
下している。
「のどが渇いたから、何か飲み物を口にせよ」「台所へ行け」と。
あなたはそうした命令を意識することもなく、台所へ向かい、ジュースを口にする。

●ウソ発見器

 ウソ発見器という装置がある。
あの装置を使うと、あなたがいくら意識的に
ウソをついても、ウソ発見器は、それを見抜いてしまう。
脳の奥の反応まで、感知してしまうからである。

 つまり自分で意識できる部分で、いくらウソを言っても、脳の奥深くの意識まで、
だますことはできない。
それをウソ発見器は感知し、「ウソ」と判断する。
たとえばいくら口先で、「私は盗んでいません」と言っても、ウソ発見器は、脳の別の部分
の反応をみて、「ウソ」と判断する。
だから、よほどのことがないかぎり、あのウソ発見器をだますことはできない……そうだ。
(何かの薬をのめば、ウソ発見器をだませるというようなことは、あるらしい。)

 つまり私たちの意識というのは、常に無意識下の脳によって、命令され、作られている。
すべてがそうではないかもしれないが、そのほとんどがそうであると考えてよい。
その第一が、肉体の内側から湧き起きてくる、欲望ということになる。
その欲望が、善なる意識に影響を及ぼす。

●落語

 落語にこんな話があった。
学生時代にそれを聞いたときには、私は腹をかかえて笑った。

 ある寺に、有名な高僧がいた。
しかし歳には勝てない。
日に日に体が衰えていくのを感じた。
そこである日、その寺の後継者を決めることにした。
選りすぐった若い弟子たち10人ほどを一堂に集めて、こう言った。

「これから寺の後継ぎを決める」と。

 そこでその高僧は、若い弟子たちを全員、裸にして、チンxxのあの先に鈴を
つけさせた。
そうしてみなに瞑想をさせていると、そこへ素っ裸の若い女性が何人か入ってきた。

 するとあちこちからチリチリと鈴の音が聞こえだした。
チリチリ、チリチリ……、と。
それを聞いて高僧は、こう思った。
「ああ、どいつもこいつも修行が足りん」と。

 が、1人だけ、鈴の音が聞こえない若い僧がいた。
それを知って高僧は、その若い僧のそばにやってきてこう言った。

「お前こそ、この寺の後継ぎにふさわしい」と。
が、それを聞いて、その若い僧は、こう答えた。

「いいえ、○○様、私の鈴は、とっくにどこかへ飛んでいってしまいました」と。

●煩悩の力
 
 この話は(肉体)の反応がいかに強力であるかを示す例として、おもしろい。
が、似たような話は、多い。
たとえばニコチン中毒がある。
アルコール中毒でもよい。
こうした中毒性は、一度身につくと、それを断ち切るのは容易なことではない。
容易でないことは、みな、知っている。

 が、「私は、だいじょうぶ」と思っている人も、ちょっと待ってほしい。
ニコチン中毒やアルコール中毒とは違うかもかもしれないが、私たちの脳は、
何らかの(中毒)で、がんじがらめになっている。

 マネー中毒、時間中毒、権力中毒などなど。
性欲や食欲、物欲の奴隷となっている人となると、いくらでもいる。
ただ中毒になっていながら、自分でそれに気づくことはない。
ほとんどの人は、「私は正常だ」「ノーマルだ」と思っている。
が、実際には、何かの(中毒)で、がんじがらめになっている。
 
 仏教でいう「煩悩(ぼんのう)」というのは、まさにそれをいう。
先にも書いたように、「肉体の内側から湧き起こる欲望」ということになる。
その欲望は、先にも書いたように、かなり強力なもので、自分の意思でコントロール
するのは、並大抵の努力ではできない。

●東洋医学では

 東洋医学では、肉体と精神とは、密接不可分のものと教える。
そして人間の(意)(志)(思)(慮)(智)は、順に(心・しん)の活動の一部として
生まれると教える。

 「徳、つまり自然の生命力と気の二つが合体して、生が発現する。
その生の基本物質が精であり、精は精神活動の源である魂(こん)と、
肉体活動の源である魄(はく)を生ずる。
この魂と魄は、心のコントロールを受けながら、相互に作用しあい、さまざまな
精神活動を展開する」(「霊枢」・本神篇)と。

意……物事を話す働き
志……意から生ずる思い
思……いろいろ考える力
慮……考え抜いた結果、理想を慕うようになること
智……その理想に達するために人はいろいろな方法を選択するが、その力のこと。

 そしてこれらは、五臓六腑と密接に結びついている。

肝は(魂)、心は(神)、脾は(意)、肺は(魄)、腎は(志)を宿す、と(はやし浩
司著、「目で見る漢方診断」)。

 東洋医学の考え方を、そのまま仏教に当てはめることはできない。
が、参考にはなる。

 その東洋医学でも、「智」を最後に置いているところが、興味深い。

●理想

 世親は、さらにこう教える(浄土三部経)。
「仏陀を思念せよ」と。
わかりやすく言えば、「自分の理想とすべき人物を頭の中で、思い描き、その人物
に近づくように、努力せよ」ということになる。

 世親が説く「仏陀」というのは、真理の会得者ということになる。
が、これはたいへん重要なことである。
そのことは、逆の人たちを接してみると、わかる。
わかるというより、気がつく。

 たとえば愚劣な人と交わっていると、自分まで愚劣になっていくのが、よくわかる。
愚劣な話題に、愚劣な会話。
で、気がついてみると、いつの間にか、その人と同じような口調で、同じようなことを
話している!

 そういう意味でも、自分を高めることは、むずかしい。
しかし下げるのは、簡単。
山を登るのは苦しいが、山を下るのは簡単。
それに似ている。

 ともかくも、世親は、「仏陀を思念せよ」と。
近くに、それにふさわしい人がいれば、その人を思念するのもよい。
が、いないときは、どうするか?
絵画や音楽など、その世界で、道を究めたような人でも、またその作品でも
よいのではないか。
国宝となっているような仏像などをながめるのもよい。
ながめているだけで、厳粛な気持ちになる。

 要するに私たちは、常に高い理想をもち、その理想に近づくよう、努力するという
こと。
それを怠ったとたん、たちまち私たちは愚劣な俗世間の渦の中に、巻き込まれてしまう。

●現実性
 
 さらに世親のすぐれている点は、現実性を忘れなかったこと。
つねに「衆生(人間を含む、あらゆる生物)を観察し、それからでは、自分はどうあるべきかを学べ」(「浄土三部経」)と。

 そういう意味でも、私は仏教というのは、もともとたいへん現実的な宗教であったと
考える。
現在でいうところの実存主義に近い、あるいはそれと同じほど、現実的な哲学をもって
いた。
その仏教が、おかしなオカルトに毒されたのは、そこにインドのヒンズー教が混入した
ためである。
輪廻転生論が、その一例である。
「人は死に、また別の何かに生まれ変わる」という、あれである。
しかし法句経を読むかぎり、釈迦は、あの世とか、前世とか、今で言うスピリチュアルな
世界については、一言も述べていない。

●肉体と精神の分離

 話がどんどんと脱線してしまったが、私たちがそこにある真理に到達するため
には、まず、(肉体)から(意識)を解放させなければならない。
たとえば目の前に、山のようなごちそうが並んでいる。
しかも、いくら食べても、無料。

 そういうときあなたなら、どう判断するだろうか。
もしあなたが肉体、つまり欲望の奴隷なら、「食べなければ損(そん)」と考える。
しかしもしあなたの意識が肉体をコントロールしているなら、こう考えるはず。
「食べたら、体を損(そこ)ねる」と。

 食欲にかぎらない。
肉体が求めるあらゆる欲望も、また同じ。
それに溺れてよいことは何もない。

 たとえば昔、『おしん』というテレビドラマがあった。
当時、一世を風靡(ふうび)した、あるスーパーマーケットの創始者をモデルに
したドラマである。
 あの(おしん)は、当初、生きるために働く。
が、それが成功を収めると、今度は、働くために生きるようになる。
全国に支店を展開し、二代目の社長は、全世界にまで進出する。
サクセス・ストーリーとして、日本ではもてはやされた。
が、そのとたん、つまり、(おしん)が働くために生きるようになったとたん、
人々の心は(おしん)から離れ始めた。

 (おしん)が故郷を離れて行くシーンではみな、涙をこぼした。
が、二代目の社長が多額の借金をかかえて倒産したときに、それに対して涙を
こぼす人はいなかった。
 (おしん)は、あるときから欲望の奴隷になってしまった。
とたん、自ら、真理からはずれてしまった(?)。

●最後に……
 
 「私」と思っている部分について、それをよくよく考えてみると、それが
「私」ではないと気がつくことが多い。
たとえて言うなら、見かけの「私」は、タマネギかニンニクのようなもの。
そのタマネギやニンニクから、欲望をはがしていくと、最後に残るものは、
ほとんどない。
細いヒモのようなものでも残っていれば、まだよいほう。
それが「智」ということになるが、まったく何もなくなってしまう人のほうが、
多い。

 このことは逆に、子どもの発達段階を見ているとよくわかる。
純粋無垢だった子どもでも、世俗にさらされるうちに、どんどんと俗化していく。
俗化されながら、自分が俗化していることに気がつく子どもはいない。
「智」をはぐくむ前に、それを包む欲望だけが、どんどんと肥大化していく。
つまりそういう子どもの延長線上に、私たち、おとながいる。

 肉体と意識の分離。
それが真理到達への第一歩となる。
(私がわかったのは、ここまでだが……。)
そのまた第一歩として、今日からでも、食事のとき、あなたは自分にこう問いかけて
みるとよい。

「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損(そん)なのか」と。
食欲にかぎらない。
肉体の内側から湧き起きてくる欲望に、そのつどブレーキをかける。
たったそれだけのことだが、あなたの人生観は、大きく変わるはず。

(以上、未完成の原稿のまま……。後日、書き改めることにする。090624)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 肉体と精神 精神と肉体 浄土三部経 世親 はやし浩司 煩悩)

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