2009年6月30日火曜日

*Proverbs on House Education

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(276)

●子どもの理性

 「理性」とは、善と悪を両方に置き、その善悪の判断に従って冷静に考えたり行動したりする感覚のことを、理性という。簡単に言えば、「バランス感覚」ということになる。このバランス感覚に欠けると、子どもは極端なものの考え方をするようになる。

 「地球の人口は多すぎるから、核兵器か何かで、人口の半分を殺せばいい」と言った男子高校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人になって、黒い喪服を着てみたい」と言った女子高校生がいた。そういうようなものの考え方をして、みじんも恥じなくなる。

 子どもの理性は、かなり早い時期にできる。年長児の段階では、かなり決まっている。たとえば「ブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」という問題を出したとき、バランス感覚のすぐれている子どもは、「順番を待ってもらう」とか、「先生に言いつける」とか言う。しかし中には、「そういうヤツはぶん殴ってやる」とか言う子どもがいる。そこで私が「どうして?」と聞くと、「どうせ、そういうヤツは口で言っても、わからネエ」と。

 このバランス感覚は、静かで穏やかな家庭環境ではぐくまれる。もちろん愛情も大切だが、それ以上に大切なのは、子ども自身が静かに考えて行動する環境があるかどうか、だ。神経質な過関心、威圧的な過干渉、さらには家庭騒動や家庭崩壊などがあると、子どもは心の落ち着きをなくし、ついでそのバランス感覚をなくす。さらにたとえば極端に甘い父親、極端にきびしい父親が同居するようなばあいにも、子どもはこのバランス感覚をなくすこともある。J君(中一)がそうだった。

ある日私にこう言った。「先生、おれの親父ね、毎晩ひとりでこっそりと、エロビデオ、見てるんだよ。先生も見てるのか?」と。言ってよいことと悪いことの区別すらつかない。昔からの裕福な家庭で、外見からは問題があるようには見えなかった。しかしいろいろ話を聞くと、家庭をかえりみない父親、教育熱心な母親、それにデレデレに甘い祖父母と同居していることがわかった。つまりJ君の家庭では、J君に対してそれぞれがてんでバラバラな接し方をしていた。それが原因だった。

 理性のこわいところは、それは一度破壊されると、以後、修復がたいへんむずかしくなるということ。その後の経験で、理性的な判断力が育つことはあるかもしれないが、それは古いキズの上にかさぶたができるようなものではないか。さらに幼児期に一度心がすさむと、それをなおすのは、不可能とさえ言える。要はそういう状態にまで子どもを追いつめないということ。幼児期に一度キズついた心は、顔についたキズのようで、消えることはない。

 ついでに一言。理性はつくるのに、数年かかるが、こわすのは、半日でよい。それくらいデリケートなものであることを忘れてはならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(277)

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさす。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子どもは年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解されるが、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。どれくらいの割合かと言われれば、1対100、あるいは1対1000、さらにはもっと多いかしれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでもない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士になるという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(10人)がこう言った。「どうせ、なれないもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしまう。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そして子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それを少しだけここで考えてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(278)

●親のうしろ姿

 生活のために苦労している親の姿。子育てのために苦労している親の姿。そういうのを日本では、「親のうしろ姿」という。そしてそのうしろ姿を、子どもに見せることを、この日本では美徳のように考えている人がいる。しかしこれはまちがい。

親が見せたくなくても見せてしまうのが、親のうしろ姿。子どもが見たくなくても見てしまうのが、親のうしろ姿。親のうしろ姿というのはそういうものだが、しかし中には、うしろ姿を見せながら、親の恩(?)を押し売りする人がいる。「産んでやった」「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまう。

 子育ての目標は、子どもを自立させること。そして親は、一度は子どもに対して、「あなたの人生はあなたのものだから、思う存分、あなたの人生を生きなさい」と肩を叩いてあげてこそ、親の義務を果たしたことになる。安易な孝行論や、「家」制度で、子どもをしばってはいけない。いわんやそれを子どもに求めたり、強制してはいけない。

子どもの人生は、あくまでも子どもの人生。もちろん子どもがおとなになって、そのあと親のめんどうをみるとか、家の心配をするというのであれば、それはあくまでも子どもの勝手。子どもの問題。

 日本の親たちは子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無頓着。たとえば日本では親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコールよい子とする。そして独立心が旺盛で、親になつかない(?)子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

そのため日本の親は子どもを育てるとき、ちょうど、飼い犬を手なずけるかのようにして、子どもを育てる。エサを見せてはひっこめ、また見せてはひっこめる。それでもそのエサをねだったら、ころあいを見はかりながら、おもむろに、つまり恩着せがましくエサを与えるというように、である。結果、子どもは親なしでは生きていかれないということを、徹底的に教え込まれる。そしてそれがやがて、ここでいう依存心へなっていく。

 よく日本は依存型社会だと言われる。「生きるのは私」と考えるよりも先に、「人に何とかしてもらおう」とか、「人が何とかしてくれるだろう」と考える。どこかでいつも他人に甘えるような生き方をする。あるいは集団にならないと、力が発揮できない。日本はこのままでよいという人には、私は何も言わないが、子育ての目標は、子どもを自立させること。そういう視点に立つなら、親のうしろ姿は見せない。親は親で、どこまでも気高く生きる。それが結局は、長い目で見て、親と子どものきずなを深めることになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(279)

●おどしは理性の敵

 子どもをわざと不安にさせる。わざと孤立させる。あるいはおどす。日本人には日本人独特の子育て法というのがある。

15年ほど前だが、私はT教授が書いた本を読んで、体中が怒りで震えたことがある。当時(今も?)、日本を代表する教育評論家だった。いわく、「親子のきずなを深めるためには、遊園地などで子どもをわざと迷子にしてみればよい」と。

とんでもない教育法である。当時の日本人は、この程度の教育論(失礼!)を読んで納得したかもしれないが、それにしてもお粗末。もしあとで「わざと」であったことを子どもが知ったら、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。いや、そういう卑怯なやり方ができるということ自体、その人の人間性そのものを疑ってよい。親は子どもには、どこまでも誠実でなければならない。たとえ子どもが親を裏切ったとしても、親は子どもに誠実でなければならない。それがまた親の親としての愛の深さを決める。

話を戻すが、こうした方法は、子育てでは邪道。手っ取りばやく子どもをしつけるには、それなりの効果があるが、長い目で見れば、逆効果。よくある例が、デパートなどで泣き叫ぶ子どもに向かって、「あなたを置いてきますからね」とか、「あんたを捨てますからね」と言う親がいる。親としては軽いおどしのつもりで言うかもしれないが、子どもはそれを本気にしてますます大声で泣き叫ぶ……。

そういうとき子どもは、わかっていて泣き叫ぶのではない。恐怖心にかられて泣き叫ぶ。だからしつけとしての効果はまったくないばかりか、ばあいによっては、子どもの理性そのものを破壊する。

 そこで「おどしは、理性の敵」を覚えておく。おどしが日常化すればするほど、子どもから、静かに善悪を判断するというバランス感覚が消える。ものの考え方が極端になったり、先鋭化したりする。いや、その前に、おどさなければ子どもがあなたの言うことを聞かないというのであれば、もうすでにあなたと子どもの関係は、かなり危険な常態にあるとみてよい。やがてあなたの子どもは、あなたの手に負えなくなる。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(280)

●未来を楽しみにさせる

 子どもを伸ばす秘訣の一つは、いつも「未来を楽しみにさせる」こと。明日は今日よりよくなるという希望が、子どもを伸ばす。そのために子どもには、いつも前向き(プラス)の暗示をかける。「あなたは去年よりすばらしい子になった」「来年はもっとすばらしい子になる」と。

 前向きに伸びている子どもは表情も生き生きとしていて、明るい。何か新しいことができるようになるたびに、親に向かって、「見て!」「見て!」と言い寄ってくる。そうでない子どもは暗い。そこでテスト。あなたの子どもはつぎのうちのどちらだろうか。

何か新しいことをやってみないと提案したとき、(1)「やる」とか「やりたい」と言って、すぐくいついてくる。(2)「いやだ」とか「やりたくない」とか言って、すぐ逃げ腰になる。その中間もあるだろうが、もしあなたの子どもが(1)のようなら、よし。(2)のようなら、あなたの子育てをかなり反省したほうがよい。その一つの方法に、あなたの心を作り変えるというのがある。

 「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。ウソではいけない。親子というのはそういうもので、長い時間をかけて、あなたの心はそっくりそのままあなたの子どもに伝わる。そこでもしあなたが「うちの子は何をしても心配だ」と思っているなら、こうする。「あなたはいい子だ」を口グセにする。子どもの顔を見たら、そう言う。最初はどこかぎこちなく、とまどいを覚えるかもしれないが、あなたがその言葉を自然に言えるようになったとき、あなたの子どももまたその「いい子」になっている。

 話が少しそれるが、以前、「小学校へ行きたくない」という園児が続出したことがある。理由を聞くと、「花子さんがいるから」と。『学校の怪談』に出てくる花子さんのことだった。おとなは興味本位にこういうテレビ番組をつくるかもしれないが、子どもに与える影響を、少しは考えてほしい。幼児期には、こういうことはあってはならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(281)

●本当の問題

 この日本では、一度コースにのってしまえば、役職は向こうからやってくる。そうでない人から見れば、夢のまた夢のような役職ですら、町内の役職が回ってくるように回ってくる。そしてその役職をそれなりにうまくやりこなしていると、いわゆる「出世」できる。こういうのを日本では、学歴社会という。「学歴」という言い方に問題があるなら、コース社会と言ってもよい。不公平社会と言ってもよい。

 こうして出世(?)した人の中には、もちろん力のある人もいるが、しかし大半は、コースという「波」に乗っただけとみてよい。つまり「運」。が、問題は、こうしたコースがあることもさることながら、こうしたコースは、代々、それぞれの人に受け継がれ、それをまたつぎの代に残しているということ。

コースにのるということは、生活が安定するばかりではなく、それ自体、たいへん居心地のよい世界でもある。地位や名声が高ければ高いほど、あがめたてまつられる。その人が発する一言一句、一挙一動が注目される。

 信じられないような話かもしれないが、こうして出世した人は、講演にしても、1時間で100万円をくだらない。テレビや雑誌に出るような人だと、もっと高額になる。事実を一つ、書く。もう20年ほど前だが、私はいろいろな人のゴーストライターをしていた。書いた本は、10~20冊はある。(冊数が不明なのは、半分だけ書いたというのもあるから)。

ほとんどは初版だけで絶版になったが、何冊かは結構売れた。その中でもあるドクターの名前で書いた1冊だけは、専門書だったが、年間、数10万部も売れた。そのドクターにとっては、最初で、今にいたるまで最後の本だったが、しかしそのドクターは、私が書いた本をぶらさげて講演するようになった。そのときの講演料が1日、20万円。大卒の初任給が10万円前後の時代だった。日本にはこういう社会が、歴然として存在する。

 ……というような話なら、あなたもどこかで聞いたことがあると思う。しかし本当の問題は、こうした不公平社会があるということではない。本当の問題は、そういう社会を容認している「私たち」自身にある。ひょっとしたら、あなたも、「あわよくばそうなりたいものだ」と思っているかもしれない。

そういう「思い」が、結局はこうした社会を容認し、支えてしまう。が、ここで大きな問題にぶつかる。では、そういう社会がまったくなくなってしてまったら、それはそれでよいのかという問題である。不公平であることそのものが、目標になることがある。社会を動かす原動力になることもある。

そこで言えることは、不公平なら不公平でもよいが、それが合理的なものであればよいということ。その人の努力や能力が、正当に評価されるなら問題はない。が、いびつな不公平がはびこればはびこるほど、他方で、もともと正当に評価されるべき人が正当に評価されなくなってしまう。それこそが本当の問題ということになる。そしてそういう社会がはびこれば、人はまじめに働くことをやめ、社会そのものが崩壊する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(282)

●見方を変える

 中高年の自殺がふえているという。私もその予備軍のようなものだ。ときどき生きていることそのものが無意味に思えることがある。「死んだら、どんなに楽になるだろう」と。しかしそのたびに、つまりそのあとになって、私がまちがっていたことを知る。

 名前は忘れたが、少し前ビデオで見た映画(※)の中に、こんなジョークがあった。
 ある男が病院へ来てこう言った。「ドクター、私は頭を押さえても頭が痛い。腹を押させても腹が痛い。足を押さえても足が痛い。体中、どこを押させても痛い。私は何の病気でしょうか」と。するとそのドクターは、こう言った。「あなたはどこも悪くない。ただあなたの指が折れているだけだよ」と。

 ほんの少しだけ見方を変えると、ものの考え方も180度変わるということだが、「何もかもダメだ」と思うときも、見方を変えると一変する。ダメなのは、私自身ではなく、ものの考え方なのだ。子どもにしてもしかり。勉強はしない。夜な夜なコンビニの前に座り、酒を飲む。タバコを吸う。叱るどころか、こわくて話をすることもできない。「生きていてくれるだけでもいい」と思うのは、まだよいほうだ。親も追いつめられるところまで追いつめられると、「よそ様に迷惑さえかけなければ……」と願うようになる。親子でも、どこかで歯車が狂うと、そうなる。

そしてそういうとき親は、深い絶望感にさいなまれる。その子どもを産んだことを後悔する親さえいる。が、そういうときでも、ダメなのは子ども自身ではなく、子どもを見る、あなたの見方なのだ。

 今、あなたは生きている。子どもは子どもで生きている。この数10億年という歴史の、その瞬間に、同じく数10億人という人間の、その中で、親として、そして子どもとして、互いに同じ時代で、同じ場所で、しかももっとも近い人間として生きている! そのすばらしさの前では、どんな問題もささいな問題でしかない。繰り返すが、ダメなのは、あなたの子どもではなく、あなた自身の見方なのだ。子どもがダメだと思ったら、あなたの見方を変えればよい。それですべての問題は解決する。

 ……もっともこういう極端な例は別としても、最後の砦(とりで)の一つとして、こうしたものの考え方を心の中に用意しておくことは、大切なことだ。私もふと死にたくなるときがある。女房は「初老成のうつ病よ」と笑うが、そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。しかし私は一方で、こう思う。どうせ一度しかない人生だから、とことん最後まで見てやろうと。そして最後の最後になったら、この宇宙もろとも、消えればよい、と。

何とも深刻な話になってしまったが、あなたの見方を変える一つのヒントになればうれしい。

※……イラン映画「桜桃の味」





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(283)
 
●子どものおねしょとストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。

 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。ただ子どものばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。

「尿」についても、夜尿(おねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)など。私がそれを指摘すると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明るく伸びやかな子どもでも、夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、自律神経。その自律神経が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)同じストレッサー(ストレスの原因)を受けても、子どもによっては受け止め方が違うということもある。

 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほとんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)大切なことは、仮にそういうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場所があれば、それで問題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、またストレスと無縁であるからといって、それでよいというのでもない。ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの中でもまれながら成長する。で、その結果、言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所が、「家庭」ということになる。

 子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を反省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。一番よいのは、子どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭環境を用意する。

たいていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自身がだれの目を感ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。子どものおねしょについても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのものを考えなおす。そしてあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、対処法ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(284)

●男らしさ、女らしさ

 男らしさ、女らしさを決めるのが、「アンドロゲン」というホルモンであることは、よく知られている。男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、ある程度の性差があることも知られている。

そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はより女性的な遊びを求めるということらしい。(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男性的でないとは書けない。それ自体が、偏見を生む。)

男と女というのは、外観ばかりでなく、脳の構造においても、ある程度の違いはあるようだ。たとえば以前、オーストラリアの友人がこう教えてくれた。その友人には二人の娘がいたのだが、その娘たち(幼児)が、「いつもピンク色のものばかりほしがる」と。そこでその友人は、「男と女というのは、生まれながらにして違う部分もあるのではないか」と。

 が、それはそれとして、「男らしく」「女らしく」という考え方はまちがっている。またそういう差別をしてはならない。とくに子どもに対して、「男らしさ」「女らしさ」を強要してはいけない。しかしこんなことはある。ごく最近、あった事件だ。

 私はこの世界へ入ってから、一つだけかたく守っている大鉄則がある。それは男児はからかっても、女児はからかわない。男児とはふざけて抱いたり、つかまえたりしても、女児には頭や肩以外は触れないなど。(頭というのはほめるときに、頭をなでるこという。肩というのは、背中のことだが、姿勢が悪いときなど、肩をぐいともちあげて姿勢をなおすことをいう。)

が、女児の中には、相手から私にスキンシップを求めてくるときがある。体を私にすりよせてくるのだ。しかしそういうときでも、私はていねいにそれをつき放すようにしている。こういう行為は誤解を生む。その女の子(小3)もそうだった。何かにつけて私にスキンシップを求めてきた。私がイスに座って休んでいると、平気でそのひざの中に入ってこようとした。しかし私はそれをいつもかわした。

が、ところが、である。その女の子が学校で、彼女の友だちに、「あのはやしは、私にヘンなことをする」と言いふらしているというのだ。私が彼女を相手にしないのを、どうも彼女は、ゆがんでとらえたようである。しかしこういう噂(うわさ)は決定的にまずい。親に言うべきかどうか、かなり迷った。で、女房に相談すると、「無視しなさい」と。

 この問題も、アンドロゲンのなせるわざなのか? 男と女は平等とは言いながら、その間には微妙なニュアンスの違いがある。それを越えてまで平等とは、私にも言いがたいが、しかしその微妙な違いを、決して「すべての違い」にしてはいけない。昔の日本人はそう考えたが、あくまでもマイナーな違いでしかない。やがてこの日本でも、「男らしく」「女らしく」と言うだけで、差別あるいは偏見ととらえるようになるだろう。そういう時代はすぐそこまできている。そういう前提で、この問題は考えたらよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(285)

●親子とは

 東洋では、「縁」という言葉を使う。「親子の縁」というときの縁である。今でもこの日本では、その縁という言葉を使って、子どもをしばることがある。

ある男性(45歳)は、母親(76歳)に貯金通帳を預けておいたのだが、その母親は勝手にその通帳からお金を引き出し、全額、自分の借金の返済にあててしまった。その男性(45歳)が、たまたま半年あまり、アメリカへ行っている間のできごとだった。

帰国後それを知ったその男性は、母親に、「親子の縁を切る」と迫ったが、母親はこう言ったという。「親が先祖を守るために、息子の金を使って何が悪い! 親子の縁など切れるものではない!」と。しかしその事件があって、その息子は親との縁を切った。10か月近くも苦しんだあとの結果だった。今年50歳になるその男性はこう言う。「母はその10か月の間、ほとぼりを冷まそうとしたのですが、私のほうはその10か月で心の整理をしました」と。

 その男性は、親子であるがゆえに悩んだ。苦しんだ。この事件だけで親子とは何かを定義づけることはできないが、しかしこれだけは言える。いろいろな家族がいる。そしてその中身も人それぞれによって違う。しかし最後の最後に残るのは、純粋な人間関係のみである、と。

あなたが親なら、いつかあなたは自分の子どもを1人の人間としてみるときがくる。一方、あなたの子どももあなたをいつか、1人の人間としてみるときがくる。そのとき互いにそういう「目」に耐えられるなら、それでよし。そうでなければ、親子といえども、その関係はこわれる。決して永遠のものでも、不滅のものでもない。またそういう幻想に甘えてはいけない。そういう意味で、親が親であるのは、たいへんきびしいことでもある。

 とくにこの日本では、親子の関係がどうしてもドロドロしがちである。「ドロドロ」というのは、互いの「私」が、そのつど入り混じり、どこからどこまでが「私」で、どこからどこまでが「私でない」のかわからないことをいう。

ここに例としてあげた母親のケースでも、いまだにその母親は息子のその男性に、お金を無心にきたり、関係を修復しようと、あれこれ食べ物などを送ってくるという。その男性はこうつづける。「母は死ぬまで、とぼけるつもりでいるようです。母としてはその方法しかないのでしょうが、私はもう母から解放されたいのです」と。

 親子とは何か。親は子どもをもったときからこの問題を考え始め、そして自分が死ぬまでこの問題を考えつづける。たいていの人は、その結論が出る前に、この世を去る。そうそうあの芥川龍之介は、こう書いている。

 「人生の悲劇の第一幕は、親子となったときにはじまってゐる」(「侏儒の言葉」)と。ひとつの参考にはなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(286)

●ユニバーサルスタジオ

 大阪にユニバーサルスタジオという、巨大な遊園地がある。映画ごとにパビリオンに分かれていて、それぞれが趣向をこらして観客をひきつけている。「ジョーズ」あり、「E.T.」あり、「ターミネーター」あり。正直に告白するが、おもしろかった。が、心のどこかで何かしらの疑問を感じなかったわけではない。

 その1つ。私はたまたま愛知万博の名古屋市パビリオンの懇談会のメンバーをしている。パビリオンの理念を話しあう会である。そういう立場上、何としても愛知万博を成功させたい……という思いはもっている。

しかしあのユニバーサルスタジオを見たとき、その考えは吹っ飛んでしまった。つまり「いまどき、万博なんて……?」という思いにかられてしまった。仮に成功させるとしたら、少なくともユニバーサルスタジオ級でないと、観客は満足しないだろう。となると、そのためにどういう方向性を出したらいいのか。園内を回りながら、何度もそれを考えたが、回れば回るほど、絶望的にならざるをえなかった。

 つぎに、日本の大都市のど真ん中に、こうまでアメリカナイズされた娯楽施設があってよいものかという疑問。私は国粋主義者ではない。ないが、しかしここまで「外国」が堂々と日本の中に入っているのを見ると、「これでいいのかなあ」と思ってしまう。

当然のことながら、ユニバーサルスタジオで見るかぎり、日本人は身も心も、そして魂までもが、完全に抜かれてしまっている。アメリカ映画を見て、アメリカ風の食べ物を食べ、これまたアメリカ風のみやげを買う。けばけばしい色の看板、そしてビル。園内を流れる音楽も、これまたロックンロールであったり、ジャズであったりする。こういうのを見て、当のアメリカ人はどう感ずるだろうか。いや、ほかの国のアジア人でもよい。見ると、韓国や中国、台湾からの観光客が、何割かがそうであるというぐらい目についた。彼らは日本という国を訪れながら、その日本でアメリカを見ているのだ!

 ……こういうとき、あの戦争の話をするのもヤボなことだが、こういう現状を目の当たりにすると、「いったいあの戦争は何だったのか」と、そこまで考えてしまう。300万人の日本人がそのために死に、同じく300万人の外国人が死んでいる。「これらの人たちは、いったい何のために死んだのか」と。

 女房は「こういうところは楽しめばいいのよ」と言う。私もそう思う。しかし人生も50歳を過ぎると、そうは小回りがきかなくなる。脳みそをカラッポにして楽しむというわけにはいかない。ときどきため息をつきながら、私は夕方、ユニバーサルスタジオをあとにした。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(287)

●大声で笑わせる

 「笑う」ことにより、心は解放される。しかも大声で笑えば笑うほどよい。「笑う」という行為には、不思議な力がある。言いかえると、大声で笑える子どもに心のゆがんだ子どもはまずいない。

反対に、どこか心がつかめない子どもや、どこか心がゆがんだ子どものばあい、大声で笑わせることによって、それがなおることがある。そのため私は教室では、子どもを笑わせることだけを考えて授業を進める。50分1単位の授業だが、50分間、笑わせつづけることも珍しくない。もしそれがウソだと思うなら、一度、私の教室へ見学に来てみたらよい。(それにもしここに書いていることがウソなら、今、私の教室にきている父母の信用を失うことになる。)

 笑わせるには、もちろんコツがある。たとえばバカなフリをするときでも、決して演技っぽくしてはいけない。本気で演ずる。本気でドジをする。子どもはこのドジには敏感に反応する。たとえば粘土のボール4個と、4本のひごで4角形を作ってみせる。そのとき、空中でそれを作ってみせると、そのたびに粘土のボールがポトリと下へ落ちてしまい、うまくできない。そこであれこれ口をつかったりして、苦労してみせる。そのとき私は真剣に四角形を作ろうとするが、うまくできない。(できないことはわかっている。)子どもたちは私が失敗するために、腹をかかえてゲラゲラと笑う。

 「笑われる」ということは、「バカにされた」ということではない。中に、教師というのは、子どもの前では毅(き)然としていなければならないと説く人もいる。実は私の恩師のM先生(幼稚園元園長)がそうだった。女性の先生だったが、いつも私にこう教えてくれた。

「子どもの前に立つときは、それなりの覚悟をして立ちなさい」と。そのためM先生のばあいは、服装の乱れを絶対に許さなかった。先生が子どもたちの前で失敗するなどということも、M先生についてはありえなかった。M先生は、教師の威厳を何よりも大切にした。

 それから30年。私の教え方は、その恩師の教え方からすれば、まったく異端なものになってしまった。が、それがよいとか悪いとかいう前に、私は今の私の教え方が自分には合っている。

実のところ、私自身はそのほうが楽しいのだ。つまり教えることで、私も楽しむ。言いかえると、先生が楽しまないで、どうして子どもが楽しむことができるのか。それに私はもともとそれほど威厳のある人間ではない。不完全でボロボロで、そのうえ情緒も不安定。そんな私が偉ぶっても、しかたない。

 私は、子どもたちの笑顔と笑い声が、何よりも好きなのだ!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(288)

●子どもへの禁止命令 
 
 「~~をしてはダメ」「~~はやめなさい」というのを、禁止命令という。この禁止命令が多ければ多いほど、「育て方」がヘタということになる。イギリスの格言にも、「無能な教師ほど、規則を好む」というのがある。家庭でいうなら、「無能な親ほど、命令が多い」(失礼!)ということになる。

 私も子どもたちを教えながら、この禁止命令は、できるだけ使わないようにしている。たとえば「立っていてはダメ」というときは、「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」。「騒ぐな」というときは、「ママのオッパイを飲んでいるなら、しゃべっていい」と言うなど。また指しゃぶりをしている子どもには、「おいしそうだね。先生にも、その指をしゃぶらせてくれないか?」と声をかける。禁止命令が多いと、どうしても会話がトゲトゲしくなる。そしてそのトゲトゲしくなった分だけ、子どもは心を閉ざす。

 一方、ユーモアは、子どもの心を開く。「笑えば伸びる」というのが私の持論だが、それだけではない。心を開いた子どもは、前向きに伸びる。

イギリスにも、「楽しく学ぶ子どもは、もっとも学ぶ」(Happy Learners Learn Best)というのがある。心が緊張すると、それだけ大脳の活動が制限されるということか。私は勝手にそう解釈しているが、そういう意味でも、「緊張」は避けたほうがよい。禁止命令は、どうしてもその緊張感を生み出す。

 一方、これは予断だが、ユーモアの通ずる子どもは、概して伸びる。それだけ思考の融通性があるということになる。俗にいう、「頭のやわらかい子ども」は、そのユーモアが通ずる。以前、年長児のクラスで、こんなジョークを言ったことがある。

 「アルゼンチンの(サッカーの)サポーターには、女の人はいないんだって」と私が言うと、子どもたちが「どうして?」と聞いた。そこで私は、「だってアル・ゼン・チン!、でしょう」と言ったのだが、言ったあと、「このジュークはまだ無理だったかな」と思った。で、子どもたちを見ると、しかし1人だけ、ニヤニヤと笑っている子どもがいた。それからもう4年になるが、(というのも、この話は前回のワールドカップのとき、日本対アルゼンチンの試合のときに考えたジョーク)、その子どもは、今、飛び級で2年上の子どもと一緒に勉強している。反対に、頭のかたい子どもは、どうしても伸び悩む。

 もしあなたに禁止命令が多いなら、一度、あなたの会話術をみがいたほうがよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(289)

●依存心と自立心

 アメリカのテキサス州の田舎町で、迷子になったときのこと。アメリカ人の友人は車をあちこち走らせながら、さかんに道路標識と地図を見比べていた。そういうとき日本人ならすぐ、通りの人に声をかけて、今いる場所を聞く。

そこで私が「どうして通りにいる人に道を聞かないか?」と声をかけたのだが、その友人はけげんそうな顔をするだけで、何も言わなかった。で、それが気になっていたので、別のある日、アメリカの中南部に住む日系人の別の友人にそれを聞くと、こう教えてくれた。「アメリカ人は、人に頭をさげない。通りを歩いている人に道を聞くのは、危険なことだし、相手もこわがるだろう」と。つまり「そういう習慣はない」と。

 よく英語の教科書に、英語で道を聞くというのがある。「駅へ行く道を教えてください」「駅へは、この道をまっすぐ行って、2本目の角を右へ回りなさい」とか。しかしこういう会話というのは、ごく親しい人との間の会話であって、ふつうでは考えられない。

それとも皆さんの中で、いまだかって、アメリカ人に(オーストラリア人でも、イギリス人でもよいが)、道路で道を聞かれたことがあるだろうか。少なくともアメリカ人は、通りの見知らぬ人に道など聞かない。彼らはまず地図を手に入れる。そしてその地図を頼りに自分の居場所を知る。つまりそれだけ自立心が旺盛ということ。そして一方、こういう話を驚いて聞くという私は(日本人なら皆、そうだが)、それだけ依存心が強いということ。

 もっとも私はどちらがいいとか悪いとか言っているのではない。日本は日本だし、アメリカはアメリカだ。しかし日本から一歩外へ出ると、日本の常識はもう通用しないということ。日本がこのまま鎖国的に、今のままでよいと言うのならそれはそれで構わないが、そうであってはいけないというのなら、日本人も外国の常識に合わせるしかない。あるいは少なくとも、日本の常識とは違うということを理解しなければならない。こんな話もある。

 私の二男フロリダへドライブしたときのこと。きれいな砂浜があったので、つい油断して車をその中へ入れてしまった。とたん、車は立ち往生。するとどこにいたのか、アメリカ人の学生たちが数人寄ってきて、「車を出してほしかったら、20ドルよこせ」と。つまりそれが彼らのアルバイトになっていた。二男は「同じ学生だから」ということで、10ドルにしてもらったというが、こういうドライさというのは、日本人は理解できないものかもしれない。しかしそれが世界の常識でもある。

 日本人がもつ「依存心」を考えるヒントになればと思い、ここに二つのエピソードをあげた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(290)

●あるがままを受け入れる

 親子にかぎらず、人間関係というのは、相互的なもの。よく「子どもは、あるがままを受け入れろ」という。それはそうだが、それは口で言うほど、簡単なことではない。簡単なことでないことは、親ならだれしも知っている。

 で、こう考えたらどうだろうか。「あるがままを受け入れる」ということは、まず自分も、「あるがままをさらけ出す」ということ。子どもについていうなら、子どもにはまず、あるがままの自分をさらけ出す。心を許すということは、そういうことをいう。しかしそうでない親もいる。

 Tさん(55歳)は、息子(40歳)に、「子ども(Tさんの孫)の運動会を見にきてほしい」と頼まれたとき、「足が痛いから行けない」と言った。しかしそれはウソだった。Tさんは、何か別の理由があったので、運動会へは行きたくなかった……らしい。それで「足が痛い」と。

 この話の中で大切なポイントは、本当のこと(本音)を言えないTさんの心の状態にある。親でありながら、子どもに心を許していない。行きたくなかったら、「行きたくない」と言えばよい。しかしTさんは、自分という親をよく見せるために、ウソをついた。つまりその時点で、親子でありながら心を開いていないことになる。

しかしこういう関係では、子どものほうも心を開くことができない。子どもの側からして、親のあるがままを受け入れることができなくなってしまう。そういう状態を一方でつくっておきながら、「うちの子どもは心を開かない」はないし、そうなればなったで、今度は「どうしても子どものあるがままを受け入れることができない」は、ない。

 少しこみいった話になってしまったが、親子も、互いに自分をさらけだすことが、互いのきずなを深めるコツということ。そのために親は親で、子どもは子どもで、自分をさらけだす。美しいものも、きたないものも、みんな見せあう。また少なくとも、親子はそういう関係でなければならない。が、もしそれができないというのであれば、もうすでにその段階で、親子の断絶は始まっているということになる。

 ただここで注意しなければならないのは、あなたが子どもに自分をさらけ出したからといって、子どももそれに応ずるとはかぎらないということ。ばあいによっては、子どもはあなたに幻滅し、さらには軽蔑するようになるかもしれない。

しかしそうなったとしても、それはしかたないこと。親子関係もつきつめれば、人間関係。つまりさらに言いかえると、親になるということは、それだけきびしいことだということ。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」という人がいる。それはそうだが、しかしそれをしなければ、結局は子どもにあきられる。よい親子関係をつくりたかったら、さらけ出しても恥ずかしくないほどに、親自身も一方で自分をみがかねばならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(291)

●依存性の二つの側面

 依存性には、二つの側面がある。(1)相互依存性と、(2)依存性の伝播(連鎖)である。相互依存性というのは、子どもに依存心をもたせることに無頓着な親というのは、自分自身もまただれかに依存したいという、潜在的な願望をもっているということ。その潜在的な願望があるために、子どもが依存心をもつことにどうしても甘くなる。

 つぎに依存性の伝播(連鎖)というのは、こうした依存性は、親から子どもへと伝播しやすいということ。たとえば親に服従的であった子どもは、自分が親になったとき、こんどはそのまた子どもに服従を求めるようになりやすいということ。こうして依存性は、親から子へと代々と受け継がれていく。これを依存性の伝播(連鎖)という。

 何ともわかりにくい話になったので、わかりやすい例をあげて考えてみる。

 たとえば依存心の強い子どもは、おなかがすいて何かを食べたいときでも、「○○を食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア~(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。こうした言い方というのは、子どもだけの問題ではない。その子どもの親自身も、同じような言い方をする。ある女性(60歳)は、いつも自分の息子(35歳)にこう言っている。「私も歳をとったからねエ~」と。つまり「歳をとったから、何とかせよ」と。

 ……こう書くと、「それは日本語の特徴だ」と説明する人もいる。日本人はそもそもはっきりと言うのを避ける民族だと。しかしこのことを別の角度からみると、日本人には、それほどまでに依存性が、骨のズイまでしみこんでいるということにもなる。つまり自分たちの依存性が、それが依存性であることがわからないまで、なれてしまっている、と。

 で、ここにも書いたように、こうした依存性は、代々と、親から子どもへと伝えられやすい。1人の人が、親には服従しながら、自分の子どもには服従を求めていくという二面性は、日常生活の中でもよく観察される。このタイプの親は、自分の価値観で子どもを判断するため、自分に対して服従的な子どもを、「できのいい子」と判断する。たとえば親にベタベタと甘え、親の言いなりになる子どもイコール、かわいい子イコール、「いい子」と、である。

 こうして考えてみると、日本では親のことを「保護者」と呼ぶが、この保護者という言葉は、子育てにおいてはあまりふさわしくない言葉ということにもなる。言うまでもなく、保護と依存はちょうどペアの関係にある。親の保護意識が強ければ強いほど、それは同時に子どもに依存性に無頓着になる。

 要は子育ての目標をどこに置くかという問題に行き着くが、子どもの自立ということを目標にするなら、依存心は、親にとっても、子どもにとっても好ましくないものであることは、言うまでもない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(292)

●赤ちゃん言葉

 日本語には幼稚語という言葉がある。たとえば「自動車」を「ブーブー」、「電車」を「ゴーゴー」と言うなど。「食べ物」を「ウマウマ」、「歩く」を「アンヨ」というのもそれだ。英語にもあるが、その数は日本語より、はるかに少ない。

 こうした幼稚語は、子どもの言葉の発達を遅らせるだけではなく、そこにはもうひとつ深刻な問題が隠されている。

 先日、遊園地へ行ったら、60歳くらいの女性が孫(5歳くらい)をつれて、ロープウェイに乗り込んできた。私と背中あわせに座ったのだが、その会話を耳にして私は驚いた。その女性の話し方が、言葉のみならず、発音、言い方まで、幼児のそれだったのだ。「おばーチャンと、ホレ、ワー、楽チィーネー」と。

 この女性は孫を楽しませようとしていたのだろうが、一方で、孫を完全に、「子ども扱い」をしているのがわかった。一見ほほえましい光景に見えるかもしれないが、それは同時に、子どもの人格の否定そのものと言ってもよい。もっと言えば、その女性は孫を、不完全な人間と扱うことによって、子どもに対するおとなの優位性を、徹底的に植えつけている!

それだけその女性の保護意識が強いということになるが、それは同時に、無意識のうちにも孫に対して、依存心をもたせていることになる。ある女性(63歳)は、最近遊びにこなくなった孫(小4男児)に対して、電話でこう言った。「おばあちゃんのところへ遊びにおいで。お小づかいをあげるよ。それにほしいものを買ってあげるからね」と。これもその一例ということになる。結局はその子どもを、一人の人間として認めていない。

 欧米では、とくにアングロサクソン系の家庭では、親は子どもが生まれたときから、子どもを一人の人間として扱う。確かに幼稚語(たとえば「さようなら」を「ターター」と言うなど)はあるが、きわめてかぎられた範囲の言葉でしかない。こうした姿勢は、子どもの発育にも大きな影響を与える。たとえば同じ高校生をみたとき、イギリスの高校生と、日本の高校生は、これが同じ高校生かと思うほど、人格の完成度が違う。

日本の高校生は、イギリスの高校生とくらべると、どこか幼い。幼稚っぽい。大学生にいたっては、その差はもっと開く。これは民族性の違いというよりは、育て方の違いそのもの。カナダで生まれ育った日系人の高校生にしても、日本の高校生より、はるかにおとなっぽい。こうした違いは、少し外国に住んだ経験のある人なら、だれでも知っていること。その違いを生み出す背景にあるのが、子どもを子どものときから、子ども扱いして育てる日本型の子育て法にあることは、言うまでもない。

 何気なく使う幼稚語だが、その背後には、深刻な問題が隠されている。それがこの文をとおして、わかってもらえれば幸いである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(293)

●依存心と人格

 依存心が強ければ強いほど、当然のことながら、子どもの自立は遅れる。そしてその分、人格の「核」形成が遅れる。よく過保護児は子どもっぽいと言われるが、それはそういう理由による。

 人格というのは、ガケっぷちに立たされるような緊張感があって、はじめて完成する。いわゆる温室のようなぬるま湯につかっていては、育たない。そういう意味では、依存心を助長するような甘い環境は、人格形成の大敵と考えてよい。

 で、その人格。わかりやすく言えば、「つかみどころ」をいう。「この子どもはこういう子どもだ」という、「輪郭」と言ってもよい。よきにつけ、悪しきにつけ、人格の完成している子どもは、それがはっきりしている。そうでない子どもは、どこかネチネチとし、つかみどころがない。「この子どもは何を考えているのかわからない」といった感じの子どもになる。

そのため教える側からすると、一見おとなしく従順で教えやすくみえるが、実際には教えにくい。たとえば学習用のプリントを渡したとする。そのとき輪郭のはっきりしている子どもは、「もうやりたくない。今日は疲れた」などと言う。そう言いながら、自分の意思を相手に明確に伝えようとする。しかし輪郭のはっきりしない子どもは、黙ってそれに従ったりする。従いながら、どこかで心をゆがめる。それが教育をむずかしくする。

 が、問題は、子どもというより、親にある。設計図の違いといえばそれまでだが、依存心が強く、従順で服従的な子どもを「いい子」と考える親は多い。つい先日も、私の教室をのぞき、「こんなヒドイ教室とは思いませんでした」と言った母親がいた。見るとその母親がつれてきた子ども(小2男児)は、まるでハキがなく、見るからに精神そのものが萎縮しているといったふうだった。表情も乏しく、皆がどっと笑うようなときでも、笑うことすらできなかった。

そういう子どもがよい子と信じている母親からみると、ワーワーと自己主張し、言いたいことを言っている子どもは、「ヒドイ」ということになる。私は思わず、「あなたの子育て観はまちがっている」と言いかけたが、やめた。親は、結局は自分で失敗してみるまで、それを失敗とは気づかない。それまでは私のような立場の人間がいくら指導しても、ムダ。しかも私の生徒ならまだしも、見学に来ただけだ。私にはそれ以上の責任はない。

 総じて言えば、日本人は自分の子どもに手をかけすぎ。そうした日本人独特の子育て法が、日本人の国民性にまで影響を与えている。が、それだけではない。日本人の考え方そのものにも影響を与えている。その一つが、日本人の「依存心」ということになる。


 


ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(294)

●心の風邪……いかにして「無」になるか

 夢や期待がある間は、親も苦しむが、子どもも苦しむ。とくに子どもが「心の風邪」をひいたときはそうで、もしそういう状態になったら、親は自分の心を「カラ」にする。またその「カラ」になったときから、子どもは立ちなおり始める。親が「こんなはずはない」「まだ何とかなる」と思っている間は、子どもは心を開かない。開かない分だけ、立ちなおりが遅れる。

 ある高校生(高2女子)はこう言った。「何がつらいかといって、親のつらそうな顔を見るくらい、つらいものはない」と。彼女は摂食障害と対人恐怖症がこじれて、高校に入学したときから、高校には通っていなかった。

こういうケースでも大切なことは、子どもの側からみて、親の存在を感じさせないほどまで、親が子どもの前で消えることである。「あなたはあなたの人生だから、勝手にしなさい。そのかわり私は私の人生を勝手に生きるから、じゃましないでね」という親の姿勢が伝わったとき、子どもの心はゆるむ。こうした心の風邪は、「以前のほうが症状が軽かった」という状態を繰りかえしながら、症状は悪化する。そして一度こういう状態になると、あとは何をしても裏目、裏目に出てくる。それを断ち切るためにも、親のほうが心を「カラ」にする。ポイントはいくつかある。

(1) 子どもがあなたの前で、心と体を休めるか……今、あなたの子どもは学校から帰ってきたようなとき、あなたの目の前で、心と体を休めているだろうか。あるいは休めることができるだろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。子どもが心の風邪をひいたときもそうで、もしあなたの子どもがあなたの目の前で平気で、心と体を休めることができるようなら、もうすでに回復期に入ったとみてよい。

(2) 症状は一年単位でみる……心の風邪は外からみえないため、親はどうしても軽く考える傾向がある。「わがまま」とか、「気のせい」とか考える人もいる。しかし症状は一年単位でみる。月単位ではない。もちろん週単位でもない。親にしてみれば、一週間でも長く感ずるかもしれないが、いつも「去年とくらべてどうだ」というような見方をする。月単位で改善するなどということは、ありえない。いわんや週単位で改善するなどということは、絶対にありえない。つまり月単位で症状が改善しても、また悪化しても、そんなことで一喜一憂しないこと

(3) 必ずトンネルから出る……子ども自身の回復力を信じること。心の風邪は、脳の機能の問題だから、時間をかければ必ずなおる。そしてここが重要だが、必ずいつか、「笑い話」になる。要はその途中でこじらせないこと。軽い風邪でもこじらせれば、肺炎になる。そんなわけで、「なおそう」と思うのではなく、「こじらせない」ことこそが、心の風邪に対するもっとも効果的な対処法ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(295)

●自分を知る

 教育のすばらしい点は、教育をしながら、つまり子どもを通して、自分を知るところにある。たとえば私はときどき、自分の幼児期をそのまま思い出させるような子どもに出会うときがある。「ああ、私が子どものころは、ああだったのだろうな」と。そういう子どもを手がかりに、自分の過去を知ることがある。

 私は子どものころ、毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた(=帰宅拒否?)。私はよく大泣きして、そのあとよくしゃっくりをしていた(=かんしゃく発作?)。私は今でも靴が汚れていたりすると、ふと女房に命令して、それを拭かせようとする(=過保護?)。ひとりで山荘に泊まったりすると、ときどきこわくて眠れないときがある(=分離不安?)、と。

私のいやな面としては、だれかに裏切られそうになると、先にこちらからその人から遠ざけてしまうことがある。小学五年生のときだが、自分の好意の寄せていた女の子のノートに落書きをして、その女の子を泣かせてしまったことがある。その女の子にフラれる前に、私のほうが先手を打ったことになる。あるいは学生時代、旅行というと、家から離れて、とにかく遠くへ行きたかったのを覚えている。……などなど。理由はともかくも、私は結構心のゆがんだ子どもだったようだ。そんなことが子どもを教えながらわかる。

が、ここで話したいことは、このことではない。自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児放棄であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。

「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それに気づくことが、自分を知る第一歩である。

まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。そのためにも、一度、自分の中を、冷静に旅してみるとよい。あなたも本当の「自分自身」に出会うことができるかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(296)

●親は子で目立つ

 よきにつけ、悪しきにつけ、親は子で目立つ。つまり目立つ子どもの親は、目立つ。たとえば園や学校で、よい意味で目立つ子どもの親は、あれこれ世話役や委員の仕事を任せられる。そんなわけでもしあなたが、よく何かの世話役や委員の仕事を園や学校から頼まれるとしたら、それはあなたの子どもがよい意味で目立つからと考えてよい。

子どもというのは、家へ帰ってから、園や学校での友だちの話をする。ほかの親たちはそういう話をもとにして、あなたのことを知る。もちろん悪い意味で目立つ子どももいる。しかしそういうばあいは、世話役や委員などの仕事は回ってこない。

一つの基準として、あなたの子どもが、友だち(とくに異性)の誕生会などのパーティによく招かれるようであれば、あなたの子どもは園や学校で人気者と考えてよい。実際に子どもを招くのは親。その親は日ごろの評判をもとにして、どの子どもを招待するかを決める。同性のときは、ギリやつきあいで呼ぶことも多いが、異性となると、かなり人気者でないと呼ばない。

一方、嫌われる子どもというのはいる。もう一五年ほど前(一九八五年ころ)の古い調査で恐縮だが、私が調べたところ、嫌われる子どもというのは、つぎのようなタイプの子どもということがわかった(小学生三~五年生、二〇人に聞き取り調査)。

(1)いじめっ子、(2)乱暴な子、(3)不潔な子、(4)無口な子。私が「静かな子(無口な子)は、だれにも迷惑をかけるわけでないから、いいではないのか?」と聞くと、「不気味だからいやだ」という答がはねかえってきた。親たちの間で嫌われる子どもは、何か問題のある子どもということになる。また人気のある子どもは、明るく活発で、運動や学習面で目立つ子どもをいう。やさしい子どもや、おもしろい子どもも、それに含まれる。

 先日もある母親がこう相談してきた。「いつも世話役を命じられて困っています」と。で、私はこう言った。「それはあなたの子どもがいい子だからですよ」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(297)

●臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

 「臥薪嘗胆」というよく知られた言葉がある。この言葉は「父のカタキを忘れないために、呉王の子の夫差(ふさ)が薪(まき)の上に寝、一方、それで敗れた越王の勾践(こうせん)が、やはりその悔しさを忘れないために熊のキモをなめた」という故事から生まれた。「目的を遂げるために長期にわたって苦労を重ねること」という意味に、広く使われている。しかし私はこの言葉を別の意味に使っている。

 私は若いころからずっと、下積みの生活をしてきた。自分では下積みとは思っていなくても、世間は私をそういう目で見ていた。私の教育論は、そういう下積みの中から生まれた。言い換えると、そのときの生活を忘れて、私の教育論はありえない。で、いつも私はそのころの自分を基準にして、自分の教育論を組み立てている。つまりいつもそのころを思い出しながら、自分の教育論を書くようにしている。それを思いださせてくれるのが、自転車通勤。

 この自転車という乗り物は、道路では、最下層の乗り物である。たとえ私はそう思っていなくても、自動車に乗っている人から見ればジャマモノであり、一方、車と接触すれば、それで万事休す。「命がけ」というのは大げさだが、しかしそれだけに道路では小さくなっていなければならない。その上、私が通勤しているY街道は、歩道と言っても、道路のスミにかかれた白線の外側。側溝のフタの上。電柱や標識と民家の塀の間を、スルリスルリと抜けながら走らなければならない。

 しかしこれが私の原点である。たとえばどこか大きな会場で講演に行ったりすると、たいていはグリーン車を用意してくれ、駅には車が待っていてくれたりする。VIPに扱ってもらうのは、それなりに楽しいものだが、しかしそんな生活をときどきでもしていると、いつか自分が自分でなくなってしまう。が、モノを書く人間にとっては、これほど恐ろしいものはない。

私が知っている人の中でも、有名になり、金持ちになり、それに合わせて傲慢になり、自分を見失ってしまった人はいくらでもいる。そういう人たちの見苦しさを私は知っているから、そういう人間だけにはなりたくないといつも思っている。仮に私がそういう人間になれば、それは私の否定ということになる。

もっと言えば、人生の敗北を認めるようなもの。だからそれだけは何としても避けなければならない。そういう自分に戻してくれるのが、自転車通勤ということになる。私は道路のスミを小さくなりながら走ることで、あの下積みの時代の自分を思い出すことができる。つまりそれが私にとっての、「臥薪嘗胆」ということになる。私はときどきタクシーの運転手たちに、「バカヤロー」と怒鳴られることがある。しかしそのたびに、「ああ、これが私の原点だ」と思いなおすようにしている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(298)

●親は外に大きく

 生きザマにも2種類ある。プラス思考とマイナス思考である。「思考」を「志向」という漢字に変えてもよい。前向きに生きていくのが、プラス思考。内向きに生きていくのが、マイナス思考ということになる。

たとえば人は、一度マイナス思考になると、ものの考え方が保守的になり、過去の栄光にしがみつくようになる。たとえば退職した人が、現役時代の役職や肩書きにこだわるのがそれ。退職してからも、「自分は偉かったのだ」という亡霊をひきずって歩く。だれもそんなことを気にしていないのだが、本人は注目されていると思いこんでいる。思いこみながら、「自分は大切にされるべきだ」「自分は皆に尊敬されているのだ」という意識をもつ。学歴や自分の家柄にこだわる人も同じように考えてよい。

 実のところ、子育ても同じように考えてよい。その時点でいつも前向きに子育てをしている人もいれば、そうでない人もいる。前向きに子育てするのは問題ではないが、問題は内向きになったときだ。子どもの成績が気になる。態度も気になる。親どうしのトラブルも絶えない、など。一度こういう状態に入ると、かなりタフな親でもかなり神経をすり減らす。そしてそれが長く続くと、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。そこから抜け出ようともがけばもがくほど、ますますにっちもさっちもいかなくなってしまう。

 こういうときの解決法が、これ。『親は外に大きく』である。子育てを忘れて、外に向かって大きく羽ばたく。そしてその結果として、子育てから遠ざかる。大きくなる方法はいくらでもある。仕事でもボランティア活動でも、好きなことをすればよい。要するに身の回りに大きな敵をつくって、身近なささいな敵は相手にしないようにする。

私も過去、たとえばあるカルト教団を相手に本を何冊か書いて戦ったことがある。最初はこわかったが、しかしそれも終わってみると、いつの間にか、私はこわいもの知らずなっていた。あるいは私は30歳くらいのときから、あちこちで講演活動をしている。最初のころは、より大きな講演会場になればなるほど、神経をすり減らしたものだ。数日前から不眠症になってしまったこともある。しかしそれを繰り返すうちに、やはりこわいものがなくなってしまった。人は自らを、そういう方法で大きくすることができる。

 自分がマイナス思考になるのを感じたら、外に向かって大きく羽ばたくとき。それは子どものためでもあるが、結局は自分のためでもある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(299)

●互いに別世界

 世間体や見栄、体裁がいかにくだらないものかは、その世界から離れてみるとよくわかる。しかしその世界の中にいる人には、それがわからない。それはいわば信仰の世界のようなもの。

その信仰の世界にいる人には、その信仰の世界がすべて。その信仰の世界の外の世界そのものが信じられない。あるいはその信仰の外の世界が、まったく無意味に見える。が、その信仰も一度離れてみると、「どうしてあんなものを信じていたのだろう」と思うもの。どんな信仰にも、そういう面がある。「私の信じている信仰だけは違う」と思いたい気持ちはわかるが、現に今、この日本だけでも約20万団体もの宗教団体があり、それぞれが、「自分たちのこそが絶対正しい」と言って、しのぎを削っている。20万という数は全国の美容院の数とほぼ同じ。

 子育ての世界でも、同じような現象を見ることができる。たとえば自分の子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親はその世間体の悪さ(何も悪くはないのだが……)、その事実を必死になって隠そうとする。自分の子育てそのものを否定されたかのように感ずる親も多い。

しかしそういう世界から抜け出て、いつか不登校の子どもと一緒に街の中を歩くことができるようになると、それまでの自分が、限りなく小さく見えてくる。「どうしてあんなことを気にしていたのだろう」と。つまりまったく別の世界に入るわけだが、それがここでいうひとつの信仰から、その外の世界に出た人の心境に似ている。離れてみると、何でもなかったことに気づく。

 ここで大切なことは、二つある。一つは、自分の中の信仰に気づくこと。つぎに大切なことは、勇気を出してその信仰の世界から遠ざかること。「勇気を出して」というのは、実際、一つの信仰から離れるということは、勇気がいる。まず心に大きな穴があく。この穴がこわい。それはものすごい空虚感といってもよい。人によっては、混乱を通り越して、狂乱状態になる。たとえばたいていの宗教では、とくにカルトと呼ばれている宗教ほどそうだが、バチ論をその背後で展開している。「この信仰をやめたらバチがあたる」と教えている宗教団体は少なくない。だからよけいに、勇気がいる。

 同じように、世間体や見栄、体裁の中で生きてきた人も、それらから決別するとき、大きく混乱する。そういうもので、自分の価値観をつくりあげているからだ。人生の柱にしている人も少なくない。だから勇気がいる。しかし……。

 仮に信仰するとしても、自分の理性まで眠らせてしまってはいけない。何が正しくて、何が正しくないかを、いつも冷静に判断しなければならない。おかしいものはおかしいと思う、理性まで眠らせてはいけない。子育てもまさにそうで、私たちは親として子どもを育てるが、そういう冷静な目は、いつももっていなければならない。でないと、よく信仰者が自分を見失うように、親も子どもを見失うことになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(300)

●バカなフリをして、子どもを自立させる

 私はときどき生徒の前で、バカな教師のフリをして、子どもに自信をもたせ、バカな教師のフリをして、子どもの自立をうながすことがある。「こんな先生に習うくらいなら、自分で勉強したほうがマシ」と子どもが思うようになれば、しめたもの。親もある時期がきたら、そのバカな親になればよい。

 バカなフリをしたからといって、バカにされたということにはならない。日本ではバカの意味が、どうもまちがって使われている。もっともそれを論じたら、つまり「バカ論」だけで、それこそ一冊の本になってしまうが、少なくとも、バカというのは、頭ではない。映画『フォレストガンプ』の中でも、フォレストの母親はこう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。いわんやフリをするというのは、あくまでもフリであって、そのバカなことをしたことにはならない。

 子どもというのは、本気で相手にしなければならないときと、本気で相手にしてはいけないときがある。本気で相手にしなければならないときは、こちら(親)が、子どもの人格の「核」にふれるようなときだ。しかし子どもがこちら(親)の人格の「核」にふれるようなときは、本気に相手にしてはいけない。そういう意味では、親子は対等ではない。

が、バカな親というのは、それがちょうど反対になる。「あなたはダメな子ね」式に、子どもの人格を平気でキズつけながら(つまり「核」をキズつけながら)、それを茶化してしまう。そして子どもに「バカ!」と言われたりすると、「親に向かって何よ!」と本気で相手にしてしまう。

 言いかえると、賢い親(教師もそうだが)は、子どもの人格にはキズをつけない。そして子どもが言ったり、したりすることぐらいではキズつかない。「バカ」という言葉を考えるときは、そういうこともふまえた上で考える。

私もよく生徒たちに、「クソジジイ」とか、「バカ」とか呼ばれる。しかしそういうときは、こう言って反論する。「私はクソジジイでもバカでもない。私は大クソジジイだ。私は大バカだ。まちがえるな!」と。子どもと接するときは、そういうおおらかさがいつも大切である。
  

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