2009年6月22日月曜日

+*the important thing is just to keep questioning

●ふと、こんなことを考えた

(1)教室で……

 親たちが、そこにいる。
その前に、子どもたちが座っている。
それを見た。
そのときふと、それが、不思議に思えた。
どうしてそんなふうに思ったかは、わからない。
が、そう思った。
私は大きな声で、子どもたちに何かを言っていた。
これに答えて、子どもたちも何かを言っていた。
そんな最中、私は、ふと、そんなことを考えた。
おかしなことだが、そんなことを考えた。

 「どうして子どもたちが、ここにいるのだろう」と。
ほんの10年前には、その形すらなかった子どもたちである。
そんな子どもたちがそこにいて、大きな声でしゃべっている。
その子どもたちを見守る母親たちにしても、ほんの30~40
年前には、その形すらなかった母親たちである。
そんな母親たちがそこにいて、子どもたちの姿を見て、笑っている。
言うなれば、(無)から(無)が生まれて、その(無)が
二重に並んで、そこに座っている。
そしてそれを見る私にしても、100年前には、その形すらなかった。
それがふと、不思議に思えた。


(2)立小便をして……

 そのつど、いつも「どうして?」と思うことがある。
どこの公衆トイレへ行っても、男子トイレの便器のまわりは、いつも汚れている。
男たちのする小便が、その周りに飛び散っている。
便器の中でじょうずに小便をすれば、それほど汚れるものではない。
が、その小便をじょうずにできない人がいる。
それで便器のまわりは、汚れている。

 ……と、長い間、そう考えてきた。
ところが、である。

 先日、太陽を背に、野原で立小便をした。
そのときのこと。
自分のしていた小便を上から注意深く観察すると、それぞれの小便が
丸い玉になって下へ落ちていくのがわかる。
そのことは子どものころから知っていたが、さらによく観察すると、
細かい霧状の小便が、四方八方に散って落ちていくのがわかった。
太陽の光を受けて、それが美しく輝いていた。

 公衆トイレの便器の周辺が汚れるのは、小便をこぼす人がいるからだけではない。
必然的に小便が、飛び散るのだ。
だから便器のまわりは、汚れる。
それがわかった。

 だから……というわけでもないが、便器の構造をいくら改良しても、便器の
まわりは必然的に汚れる。
それは不届きな男たちが、小便をこぼすからではなく、もともと小便というのは、
そういうものなのだ。


(3)排除?

 たとえばここに問題のある子どもがいたとする。
静かな落ち着きがなく、騒がしい。
周囲の子どもたちを巻き込んで、授業そのものを破壊してしまう。

 その子ども自身の責任というよりは、そういう子どもは確率的に
ある一定の割合で出現する。
子ども自身の管理能力を超えたところで、遺伝子が、その子どもを操っている。
だから子どもを叱ったり、責めても、意味はない。
自己認識能力にしても、小学3年生以前の子どもには、ない。
だから説教しても、意味はない。
自分がどういうことをしているか、それを客観的に判断することができない。

 ……で、こうした子どもにぶつかると、教育者は、すぐ「排除」という
ことを考える。
特別クラスを作って、別のクラスに移そう、と。
が、そういう発想では、この問題は、解決しない。
ではどうするか?

逆!
逆のことをする!

 たとえば私の教室でも、そういう子どもがいる。
そういうときは、その子どもを排除しようと考えるのではなく、その子どもを残した
まま、ほかの子どもを、別のクラスに移していく。
問題のある子どもを、ほかのクラスに移したりすると、その子どもは、それを「罰」
ととらえる。
子どもの心理形成にとって、悪い影響を与えることはあっても、よい影響を与える
ことはない。

 そこでたとえば学校教育の場でも、この方法を応用してみてはどうだろうか。
多くの学校では、名称こそみなちがうが、「~~特別教室」というのを用意している。
何か、問題のある子どもを、そういうクラスへ入れる。
つまり「排除」する。

 が、もしこういう方法だったら、どうだろう。
逆に、学習態度のよい子ども(能力差別ではなく、あくまでも学習姿勢を見て判断)を、
少しずつ、別のクラスに移していく。

「あなたは、学習態度がいいから、ブルーリボン教室に入ってもいいです」と。
こうして1年くらいをかけて、数人から10数人へと順に児童を移動させていく。
そうすれば、クラスを移動する子どもも、喜んで移動するだろう。
あとに残された子どもも、それを見て、自分なりに努力するようになるかもしれない。

 ……という方法を、実は、私の教室では、ずっと実践している。
そのため、残った子どもが、数人だけというクラスもある。
しかしその数人だけでも、それなりに楽しく学習している。
(できる)(できない)は、問題ではない。
人間関係は、そういうものでは影響を受けない。
たがいに楽しければ、それでよい。

ひとつの参考意見として……。


(4)体重

 現在、体重を63キロ台にキープしている。
2か月で、5キロ以上の減量をしたことになる。
その結果だが、5キロといえば、かなりの重さである。
私はいつも2リットル入りのペットボトルに換算して、重さを換算する。
つまり5キロといえば、ペットボトル2本半分!

 しかしおかしなことに、自分の体が軽くなったという実感が、あまりない。
どうしてだろう?
2か月という期間の中で、徐々にそうなったからだろうか。
というのも、体重というのは、一日の間だけでも、大きく変化する。
就眠前と就眠後だけでも、1キロはちがう。
食後、水をたくさん飲めば、それだけで1キロくらいは、ふえたりする。

 つまり5キロというのは、まだ誤差の範囲ということになる。
それにこうしたダイエットで重要なことは、食事管理だけでしてはいけない。
運動、である。
食事管理と並行して、運動をどうするかが、重要。
というのも、食事だけを減らすと、筋肉のほうが先に萎(な)えてしまう。
おまけに体の抵抗力が落ちるから、いろいろな皮膚病になったりする。

 で、ふと、こんなことを考えた。
反対に、太り始めた人は、逆の現象が起きるのではないか、と。
つまり自分の体重を重く感じないまま、太っていく、と。
先に「5キロは誤差の範囲」と書いたが、その誤差が2回積み重なれば、
10キロとなる。
3回積み重なれば、15キロとなる。
つまりこうして太っていく。


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●映画『愛を読む人』(The Reader)

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ハンカチを用意して、映画館へ足を運んだ。
思いっきり涙をこぼすつもりだった。
だからワイフにこう言った。
「涙が出なかったら、お金を返してもらう」と。

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見たのは、ケイト・ウィンスレット主演の、『愛を読む人』。
ものすごい映画だった。
息がつまるというか、演技にしても、迫真の演技。
緊張の連続。
それはその通り。
が、涙は出なかった。
一滴も出なかった。
だから私は星3つ。
ワイフは星4つ。
間を取って、★★★+。

が、どうしてか、「お金を返せ」とは言いにくい。
ものすごい映画だったことは、事実。
しかし娯楽映画でもない。
たとえて言うなら、ギューギューと2時間近く、頭の上から押さえつけられたような感じ。
が、映画としては、おもしろくなかった。

どうしてだろう?
映画館でもらった案内には、「朗読を通した30年にわたる切ない愛の
奇跡に、絶賛の声」とある。
そして各界の著名人たちも、言葉を尽くして、「すばらしい映画」と
評価している。
「涙、涙、涙の繰り返しなので、くれぐれもティッシュのご用意を」
(某モデル)というのもある。

涙もろくなった私。
いつもならボロボロと涙をこぼしたはず。
が、涙は、出なかった。
かといって、先にも書いたように、「お金を返せ!」とも言えなかった。
映画がつまらなかったのか?
それとも私の感性が落ちたのか?

ものすごい映画だということは認める。
たしかに、すごい!
しかしその(ものすごさ)に圧倒されすぎて、かえって涙が引っ込んでしまった。
『愛を読む人』というのは、そういう映画。
「もう一度、見たいか」と聞かれたら、私は、「1回でたくさん」と
答えるだろう。

私には、やはり、ああいう映画は向かない。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

【「私」って、何だろう?】

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今、私はここにいる。
ここにいて、頭蓋骨の中から、外の世界を
ながめている。
下のほうには、自分の鼻先が見える。
メガネのワクも、焦点が合っているわけではないが、
見える。
その向こうにはパソコンの画面。
周囲の雑多な電子機器の数々……。

この頭蓋骨の中にいる私が、「私」ということになる。

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●精子と卵子

 若い男性のばあい、1回の射精で、約1億個の精子が放出される。
約1億個、である。
 一方、女性のほうは、毎月新しい卵子を排出する。
毎月、である。
 その精子と卵子が結合して、1人の人間が誕生する。
確率論的に言えば、1人の人間が「私」になるためには、男性側が毎月10回、射精した
としても、10年の間では、1200億個。
それに女性の卵子の数、120回(10年分)をかけると、約14兆分の1の確率という
ことになる。

 約14兆分の1、である。
もしそのとき、卵子に到達する精子が、ほんの1つ、ずれていたとしても、また結合する
時期が、1か月ずれていたとしても、「私」は、この世の中に、いなかったことになる。

●必然的な結果

 一方、外から見たらどうだろうか。
そこに一組の夫婦がいる。
その夫婦が、セックスをして、子どもをもうけたとする。
その夫婦からすれば、子どもが生まれるのは、必然的な結果ということになる。

 話をわかりやすくするために、川原に向かって小石を投げたばあいを考えてみよう。
投げた石は、重力の法則にしたがって、やがて下に落ちる。
どれかの石に当たる。
必ず、当たる。

 しかし当てられたほうの石からみると、それは何百万分の1の確率で、「当たった」
ということになる。
(川原の広さにもよるが……。)
つまり石を投げれば、必ず、どれかの石に当たる。
しかし川原の石から見れば、「私」という自分の石に当たるのは、偶然の、そのまた
偶然ということになる。

●もし……

 そこでさらにこう考えてみる。
仮に、卵子に結合した精子が、「私」の精子ではなく、その横を泳いでいた別の精子だった
ら、「私」はどうなっていただろう。
それでも卵子と精子は結合し、そこで子どもは誕生する。
で、ここでの最大の問題は、そのときそこで誕生する子どもは、「私」であるか、「私」
ではないかということ。

 もちろん「私」ではない。
「私」の兄弟あるいは姉妹かもしれないが 
このことは、もしあなたに兄弟姉妹がいれば、何でもない疑問ということになる。
あなたの兄弟姉妹が「私」ではないのと同じように、そうして生まれた私は、「私」では
ないということになる。
 つまりほんのわずかだけ、タイミングと時期がずれただけで、私という「私」は
生まれず、別の人間が生まれていたことになる。

 が、親や、その周囲の人たちからみれば、そこにいるのは、(あなた)ということに
なる。

 ここが重要な点だから、もう一度、考え直してみる。

●9999万9999人の兄弟・姉妹

 仮に1人の男が、1億個の精子を放出したとする。
その中で卵子にたどりつき、生き残るのは、たった1個。
残りの、9999万9999個の精子は、そのまま死滅することになる。
が、仮に、「それはかわいそうだ」ということで、全世界の女性たちから、
9999万9999個の卵子を集めてきて、人工授精したとする。
そしてそれらの女性の体を使って、9999万9999人の子どもを作ったとする。

 しかしその9999万9999人の子どもは、あなたの兄弟や姉妹かもしれないが、
けっしてあなたではない。
「私」ではない。

●生の人間

 言うなれば生まれた直後の子どもは、(妊娠した直後の子どもでもよいが)、言うなれば、
(生の人間)ということになる。
 性質や気質など、親から引き継ぐものも多いが、一応(生の人間)と考える。
この(生の人間)は、その後の環境によって、(あなた)に作りあげられていく。

 日本で生まれ育てば、日本人らしくなる。
浜松で生まれ育てば、浜松の言葉を話すようになる。
私の家庭のような環境で育てば、まちがいなく、ドラ息子、ドラ娘になる。

 つまりあなたの親を含めて、外の世界から見た(あなた)は、あなた。
卵子と精子が結合するタイミングと時期が、多少程度ずれていたとしても、あなたは
あなた。
 しかしこれだけは、絶対、たしか。
その(あなた)は、けっして「私」ではない。
私という「私」は、私になれないまま、他の9999万9999個の精子とともに、
闇から抜け出ることもなく、そのまま死滅する。
もちろんそれらの精子が、「私」を自覚することはない。

●「私」は奇跡中の奇跡

 こうして考えてみると、「私」というのが今、ここにいるのは、まさに奇跡中の奇跡、
ということになる。
「約14兆分の1の確率で生まれた」と言っても過言ではない。
もしほんの1つでもタイミングがずれていたとしたら、「私」はいない。
だれかほかの人は生まれたかもしれないが、しかしそれは「私」ではない。
今の私とまったく同じ顔をし、同じことをしているかもしれないが、「私」ではない。

 もしタイミングがほんの1つでもタイミングがずれていたとしたら、私は「私」になる
前に、そのまま永遠の闇の中に、葬られていた。
永遠ということは、永遠。

●意識

 というふうに考えていくと、「私」というのは、この頭蓋骨の中から外をながめている、
「意識」ということになる。
頭蓋骨から離れたとたん、それは「私」ではなくなってしまう。
こんな例で考えてみれば、それがわかる。

 コンピュータの技術が進歩して、あなたの脳をそっくりそのままコピーできるように
なったとしよう。
そっくりそのまま、だ。
が、そのままではその脳は、見ることも、聞くことも、話すこともできない。
そこでそのコピーされた脳に、カメラやイヤホン、それにスピーカーを取りつける。
その脳は、あなたの脳とまったく同じだから、他人から見れば、(あなた)かもしれない。
しかしその脳は、けっして、あなたではない。

 あなたがその脳に向かって、名前を聞けば、その脳は、ちゃんとあなたの名前を
言うだろう。
しかし、けっして、あなたではない。
何からなにまで、そっくりあなたと同じであったとしても、あなたではない。

●死後の世界

 こう考えていくと、「死後の世界」という「世界」を考えることすら、無意味に
思えてくる。
死んだら、「世界」はない。
少なくとも「私」という意識は、そこで完全に途絶える。
あなたの肉体や脳を作っている無数の分子は、バラバラに解体され、その一部は、
また別の肉体や脳を作るために、再利用される。
が、だからといって、そこであなたの意識が再生されるというわけではない。
肉体や脳のほとんどは、土となり、植物となり、もろもろの生物に生まれ変わる。

 念のため、申し添えるなら、死んだとたん、意識をもつあなたの脳は、バラバラに
なる。
たとえはよくないかもしれないが、日々に排泄するあの便と同じ。
つまり意識は消える。
中に、スピリチュアル(霊)とか何とか、わかったようなことを言う人もいるが、
その意識だけが肉体から離れて、別の世界に浮遊するなどということは、ありえない。

●思考の限界を超えて……

 このあたりが、人間の思考の限界ということになるのか。
私にしても、この先が、わからない。
だから人間は、その手前で、右往左往する。
「あの世はあるのか」という命題にしても、結論を出すこともできず、今の今も、
迷っている。
またそれを乗り越えて、その先へ進むこともできない。
「その先」というのは、既存の宗教観を乗りこえた、その先という意味である。
宗教を否定しながら、宗教に頼り、宗教に頼りながら、宗教を否定する。
毎日が、その繰り返し。
その先へ、進むことができない。

 実際、宗教の先に見えるのは、広大な、それこそ果てしなくつづく広大な原野。
それを知っただけで、人々は、みな、おびえてしまう。
だからこう考える。
「そんな広大な原野にひとり、取り残されるよりは、妥協して安易な道を選んだ
ほうがいい」と。

 いくら冒険好きといっても、大宇宙へ、たったひとりで、宇宙船に乗ってでかける
ようなもの。
想像するだけで、ぞっとする。

 こうしてまたもとの世界に戻ってしまう。
それが「右往左往」ということになる。

●真の勇者

 いつか真の勇者が現れるかもしれない。
「私」という意識を乗り越えて、さらに言えば、あらゆる宗教観を乗り越えて、
広大な原野に道を切り開いてくれる人が、現れるかもしれない。

 が、それは、庭に遊ぶ犬のハナに、コンピュータの原理を理解しろというくらい、
難しいことかもしれない。
仮にこのまま数万年、進化しつづけたとしても、難しいことかもしれない。
同じように、人間が、そこへ到達するためには、長い長い時間がかかるだろう。
しかしだからといって、あきらめるわけにはいかない。
方法がないわけではない。
あのソクラテス流に言うなら、常に「私とは何か」、それを問いつづけること。
それが重要ということになる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 私論 私とは何か ソクラテス)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

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