2009年6月30日火曜日

*Essays on House Education (2)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(251)

●上見てきりなし

 戦前の教科書に載っていた説話らしい。『上見てきりなし、下見てきりなし』といった。つまり人というのは、上ばかり見ていると、その欲望や不満は際限なくつづき、安穏たる日々はやってこない。一方、下には下に、自分より不幸な人はいくらでもいるから、最後の最後まで夢や希望は捨ててはいけない、と。

「なるほど……」と思いたいが、この格言はどこかおかしい。人にあきらめと慰めを同時に教えながら、その実、幸福感や価値観に「上下」の差別をつけている。「上とは何か」「下とは何か」ということをはっきりさせないまま、この格言をそのまま鵜呑みにするのは危険なことでもある。

あるいは「上を見て何が悪い」「下とは何だ。失敬ではないか」と言われたら、あなたはどう反論するのか。

 それはさておき、子どもに何か大きな問題が生じたときは、子どもは、「下から見る」。「下(欠点や弱点)を見ろ」というのではない。「下から見る」。子どもが生きているという原点から子どもを見る。するとほぼありとあらゆる問題が、その場で解決するから不思議である。いや、私とて、何度かこの言葉に救われたことか。

だいたいにおいて、親の悩みや苦しみなどというものは、「上」から見るから始まる。「何とかならないか」「もっと何とかしたい」「まだ何とかなる」「何とかしなければならない」と。しかしその視点を一転させ、「私は生きている」「子どもも生きている」「生きていること自体が奇跡だ」「生きることはすばらしいことだ」という視点で見ると、ものの考え方が180度変わる。そしてそれまでの自分が、小さな世界で右も左もわからず右往左往していたのに気づく。

とくに私の二男は、一度海でおぼれて死にかけたことがある。今、二男が生きていることだけでも奇跡のようなものだ。そういう視点でみると、「不登校が何だ」「進学が何だ」となる。それは決してあきらめろと言っているのではない。人というのは、自分たちがつくりあげたバーチャルな世界で、本来大切でないものを大切と思い込み、本来大切なものを、大切でないと粗末にすることが多い。「下」からその人間社会をみると、本来、何が大切で、何が大切でないかがよくわかる。それに気づく。そういう意味で、「子どもは下から見る」。

 あなたもあなたの子育てで、どこか行きづまったら、この格言を思い出してみてほしい。心が必ず楽になるはずである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(252)※

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というのは、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけでは、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によって、その価値が決まる。たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識するのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳ということになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正男氏)。伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別のものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはならない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(253)

●思考について

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル(「パンセ」)、さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を書きつづけたモンテーニュ(「随想録」)などがいる。

 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。それほど楽なことではない。それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。いろいろな条件を組み合わせながら解くのだが、それで解ければよし。しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。子どもたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。

もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救われる。大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間のレッテルを張られてしまう。だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じような苦痛がついて回る。それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそうでない。そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。一度そうなると、思考にもいくつかの特徴が表れる。

●ループ性……10年1律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。とくに人生論や価値観など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。
●退化性……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。それはスポーツ選手が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。思考も同じ。
●先鋭化……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。ものの考え方が極端になったり、かたよったりするようになる。

 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。もちろんこのほか、年齢的な問題もある。私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。集中力が衰えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。そういうことはある。

 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止する人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。個人差というより、それまでにどのような教育を受けたかで決まる。概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構造になっていない。それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると考えられる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(254)

●詰め込み教育

 どこかの本山の小僧たち。机を「コ」の字型に並べて、読経の練習をしている。その本山では、どこでもそうだが、徹底した上意下達方式のもと、小僧たちはこれまた徹底的に教義を叩き込まれる。疑問をもつことはもちろんのこと、質問することすら許されない。反感をもったら最後、即、本山から叩き出される。

 日本の教育のルーツは、寺子屋。その寺子屋のルーツは、その本山教育にある。明治※年、学校教育法が施行されたが、この教育方法は、軍国主義の台頭とともに、さらに強化された。それがどういう教育であったかは、いまさらここに書くまでもない。

 で、戦後日本の教育は変わったかというと、それは疑わしい。いや、教育を変えようとする動きはあるにはあったが、日本人、つまり親たちの意識は変わらなかった。その親たちが、学歴社会を復活させ、受験競争を復活させた。「何だかんだといっても、やはり学歴ですから」という、いわばなし崩し的な教育観が、戦後の教育改革をことごとく失敗させた。いろいろ言われているが、学校教育はまさにそのウズの中で翻弄(ほんろう)されたに過ぎない。

 教育法とてその流れから出ることができなかった。独創的なアイデアをもった教師がいたとしても、「受験勉強にさしさわりがある」という理由で、かえって排斥されてしまった。そういう例は、数多くある。

たとえばM小学校(浜松市)の教師は、毎日のように隣の公園へ生徒たちをつれていき、そこで野外教室を開いた。しかしそれにストップをかけたのは、ほかならぬ親たちであった。だから今、戦後60年近くにもなろうというのに、いまだに詰め込み教育が、教育の「柱」としてなされている。

私の知人の東大の元教授は、高校の理科の授業を参観したあと、つぎのような印象をもらしている。「先生のしていることは『どうだ、解ったか? 覚えておけ』と、まさに一方通行です。それで入試に成功するのです。生徒たちは授業を受けるし方はそうやって先生の言うことを理解し覚えることと思っています。そのやり方が困ったことに大学に持ち込まれます。ですから講義中に学生からの質問はないのです。考えながら講義を聴く習慣がないのです。アメリカの大学生たちとはおお違いです」と。この授業の形態そのものが、本山教育そのものと言ってもよい。

 ほとんどの親たちも、そして子どもたちも、そういうのが教育だと思い込んでいるし、さらに悲劇的なことに、教師自身も、そういうのが教育だと受け入れてしまっている。もちろんこうした教育を変えようとする動きもあるが、社会全体の力はそれ以上に大きい。体制の流れというのはそういうもので、一朝一夕には変えられない。私立高校でも大学受験に背を向ければ、あっという間に閉鎖に追い込まれる。悲しいかな、それが日本の現実なのだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(256)
 
●図書指導の充実を

 「考える子ども」を育てる人の方法として、図書指導がある。アメリカのほとんどの小学校では、週1回、1時間程度の図書指導をしている。彼らはそれを「ライブラリィ(の時間)」と呼んでいる。

それを指導ずるのが、専門のライブラリアン(司書)。そのライブラリアンが、生徒一人ひとりの方向性とレベルに合わせて、本を貸し与え、その読書指導をしている。私の息子の嫁の母親が、その仕事をしている。その母親に話を聞くと、こう教えてくれた。「毎週その子に合わせた本を貸し与え、つぎの週に、その本についてのレポートを書かせている」と。私が「ライブラリィの授業は、必須科目か」と聞くと、「そうだ」と。

 アメリカでは、移民国家というだけあって、多様性を認めない教育というのは、それ自体が反アメリカ的であると判断される。日本でいう画一教育など、考えられない。今では、人種、性別、皮膚の色などで相手を差別しようものなら、それだけで処罰される。あらゆる公文書にも、そのように明記してある。(明記しなければならないというのは、それだけまだ差別意識が残っているということにもなるが……。)

学校教育とて例外ではない。今、アメリカでは、学校の設立そのものが自由化されている。また学校にしても、親と教師が話しあって、自分たちでカリキュラムを組むこともできる。日本の教育も自由化されつつあるとはいえ、「今」というこの段階においても、比較にならない。

つまりアメリカでは、制度的にも、子どもたちのもつ「自由意識」が最大限、尊重されている。東大の元教授が「日本の大学生とアメリカの大学生はおお違いです」というときの「違い」は、こうした背景から生まれるものとみてよい。

 ただもう一点補足するなら、アメリカも含めてほとんどの欧米の国々では、大学生は、受講する講座について、1講座ずつ「買う」という意識がある。(まとめて買うということがふつうだが……。)しかもその「買う」ための費用には奨学金であてる。そのため彼らにしてみれば、「どこの大学へ入ったか」ということよりも、「どこでどの程度の奨学金を得るか」ということのほうが、重要な関心ごとになる。

こうしたシステムの上に大学教育が成り立っているから、学ぶ学生も必死なら、教える教官も必死である。講座を買ってくれる学生がいなければ、その講座は閉鎖される。つまり教官自身が職を失うということになる。日本の大学生のように、親のスネをかじって……、というのとはまさに「おお違い」というわけである。

 子どもの多様性を認めるとか認めないとかいう議論は、もう古い。子どもというのは生まれながらにして、多様であるという前提で、教育を組み立てる。一律の算数教育、一律の国語教育、そして一律の学年制。そのどれをとっても、もう時代錯誤としか言いようがない。そのひとつの例として、「ライブラリー」の授業をあげてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(257)

●ウソ(虚言)と虚言(空想的虚言)

ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。こんなことがあった。

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではありませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」と。ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソがうまくなる。






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(258)

●子どもの緩慢行動

 子どもには子どもらしい、自然な動きというものがある。どこかどうというわけではないが、その自然さが消えたら、何か心の変調を疑ってみる。その一つが、緩慢行動。

 抑圧された精神状態が、日常的につづくと、子どもは独特の症状を示すようになる。たとえば緩慢行動。緩慢動作ともいう。動作そのものが鈍くなり、機敏な行動ができなくなる。全体にノソノソ、あるいはノロノロとした動きになる。たとえばB君が忘れものをしたとする。そのとき先生が、A君に向かって、「これ、B君にもっていってあげて!」と言ったとする。ふつうなら(「ふつう」という言い方は適切ではないが……)、子どもはパッと腰をあげ、B君のあとを追いかけたりする。

しかしこのタイプの子どもは、それができない。明らかにワンテンポ遅れた様子で、ノソノソと立ちあがったりする。そこで先生のほうが、またA君に向かって、「急いで!」と号令をかけるのだが、その号令にも反応しない。よく観察すると、体の動きそのものが、子どもの意思とは無関係に動いているのがわかる。

 こうした症状が見られたら、家庭教育のあり方をかなり反省する。威圧的な過関心や過干渉など。ほかに(1)顔から生彩が消え、(2)子どもらしいハツラツさが消え、(3)ため息、無気力症状など、気うつ症的な症状をともなうことが多い。緩慢行動を、神経症の一つにあげる学者も多い。

 こうしたケースで、指導がむずかしいのは、子どもというより、親にその自覚がないこと。たいていの親は、「生まれつき」という言葉を使う。そして動作が緩慢なのは、子ども自身の問題であるとして、子どもを叱ったりする。しかし叱れば叱るほど逆効果。子どもの動作はますます緩慢になる。また原因は、家庭環境全体にあるので、その家庭環境全体を改めなければならない。しかし実際問題として、それは不可能に近い。子どもをなおすより、親をなおすほうが、ずっとむずかしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(259)

●子どものウソ

 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害による虚言、それに(3)虚言。

空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのように錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と並べて考える。これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。空想的虚言については、ほかで書いたのでここでは省略する。

 で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう神経症による症状は、つぎの三つに分けて考える。

(1) 精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的にウソをつく)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2) 身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。

(3) 行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ1枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として対処する。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。愛情豊かな家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試されていると思い、1年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「これ以上症状を悪化させないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、ウソも消える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(260)

●子育てじょうずな親

 子どもには子どものリズムがある。そのリズムをいかにつかむかで、「子育てじょうずな親」「子育てべたな親」が決まる。子育てじょうずな親というのは、いわゆる子育てがうまい親をいう。子どもの能力をじょうずに引き出し、子どもを前向きに伸ばしていく親をいう。

 結果は、子どもをみればわかる。子育てじょうずな親に育てられた子どもは、明るく屈託がない。心のゆがみ(ひねくれ症状、ひがみ症状、つっぱり症状など)がない。また心と表情が一致していて、すなおな感情表現ができる。うれしいときは、うれしそうな顔を満面に浮かべるなど。

 子育てじょうずな親は、いつも子どものリズムで子育てをする。無理をしない。強制もしない。子どものもつリズムに合わせながら、そのリズムで生活する。そのひとつの診断法として、子どもと一緒に歌を歌ってみるという方法がある。子どものリズムで生活している人は、子どもと歌を歌いながらも、それを楽しむことができる。子どもと歌いながら、つぎつぎといろいろな歌を歌う。しかしそうでない親は、子どもと歌いながら、それをまだるっこく感じたり、めんどうに感じたりする。あるいは親の好きな歌を押しつけたりして、一緒に歌うことができない。

 そもそもこのリズムというのは、親が子どもを妊娠したときから始まる。そのリズムが姿や形を変えて、そのつど現れる。ここでは歌を例にあげたが、歌だけではない。生活全般がそういうリズムで動く。そこでもしあなたが子どもとの間でリズムの乱れを感じたら、今日からでも遅くないから、子どもと歩くときは、子どもの横か、できればうしろを歩く。リズムのあっていない親ほど、心のどこかでイライラするかもしれないが、しかし子どもを伸ばすためと思い、がまんする。数か月、あるいは一年のうちには、あなたと子どものリズムが合うようになってくる。

子どもがあなたのリズムに合わせることはできない。だからあなたが子どものリズムに合わせるしかない。そういうことができる親を、子育てじょうずな親という。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(261)

●内弁慶、外幽霊

 家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。といっても、それは二つに分けて考える。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張したり、恐怖感を感じて外幽霊になるのが、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊になるのが、後者ということになる。たとえばかん黙症などがあるが、それについてはまた別のところで考える。

 子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になるが、それはごく自然な症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくなることがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。

 もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけんかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。

 このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうことによって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子どもの心に大きな影響を与える。家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずったり、引きこもったりするのはマイナス型ということになる。

こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめさせるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。とくに保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので注意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむずかしくなる。

 本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせる。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(262)

●灯をともして、引き出す

 恩師が教えてくれた言葉である。子どもは、「灯をともして、引き出す」。そしてこれが欧米流れの教育の基本でもある。エデュケーションの語源は、「EDUCE(引き出す)」である。

 一方、日本語(中国語)では、「教え育てる」が基本になっている。どちらがよいとか悪いとか言っているのではない。「教育」に対する考え方が、基本的な部分で正反対だということ。日本では、子どもをある特定の形につくりあげるのが教育ということになっている。一方、欧米では、子ども自身の方向を認め、その選択を子ども自身に任せているということ。この違いは、いろいろな場面で表れる。

 たとえば日本では、先生は、「わかったか?」「よし、ではつぎ!」と言って授業を進める。しかしアメリカでは、「どう思う?」「それはいい考えだ」と言って授業を進める。そのため日本では、子どもに子ども自身の考えをあまりもたせない。

一方、アメリカでは、子どものときから、子どもの言葉で子どもに話させる。わかりやすく言えば、日本の教育は、まず学校があって教師がいる。そこへ生徒がやってくるという図式で成り立っている。一方、欧米では、まず子どもがいて、その周囲に教師がいて、学校があるという図式で成り立っている。わかりにくい話かもしれないが、要するに「学校中心」か、「子ども中心」かという話になる。だから……。

 たとえばアメリカでは、学校の先生が落第を親にすすめると、親は喜んでそれに従う。「喜んで」だ。これはウソでも誇張でもない。事実だ。むしろ子どもの成績が落ちたりすると、親のほうから落第を頼みにいくケースも多い。「うちの子はまだ、進級する準備ができていない(レディできていない)」と。アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。

 同じ「教育」といっても、外から見た「形」はよく似ていても、その中身、つまり意識は日本と欧米とでは、まるで違う。そういうことも考えながら、「灯をともして、引き出す」の意味を、もう一度考えてみてほしい。あなたもきっと、「なるほど」と納得するはずだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(263)

●大学の独立法人化

 やっとというか、日本でも大学の独立法人化が動き出した。教官の身分が保証されないという理由で、反対意見も多いが、しかしこんなことは日本以外の国では常識。

アメリカではもう30年も前から、大学入学後の学部変更は自由。転籍も自由。それも即日に転籍できる。で、学生たちはより高度な授業を求めて、大学の間をさまよい歩いている。そのため学科のスクラップアンドビルドは、日常茶飯事。やる気のない教官はどんどんクビになっている。学生に人気がなければ、学部すら閉鎖される。その結果だが……。

 たまたまある日、2人の学生が遊びにきた。2001年にアメリカの州立大学を卒業したA君。もう1人は1999年に横浜の国立大学に入学したB君。そのB君を見て、A君が驚いた。「よくアルバイトをする時間があるな」と。

アメリカの大学生にしてみれば、アルバイトなどは考えられない。実によく勉強する。毎週金曜日に試験があるということもあるが、毎晩夜遅くまで勉強しても、それでも時間が足りないそうだ。アメリカでは、オーストラリアでもそうだが、一単位ずつお金を出して講座を買うシステムになっている。(実際にはまとめて買うが……。)そのお金は、たいてい奨学金でまかなう。だから私たちがモノを選んで買うように、彼らもまたよい講座を選んで買う。そういう意識があるから、いいかげんな講義を許さない。

私も一度、オーストラリアの大学で日本語を教えていたことがある。そのとき一人の学生が私にこう聞いた。「『は』と『が』の違いを説明してほしい」と。「私は行く」と、「私が行く」はどう違うかというのだ。そこで私が「わからない」と答えると、その学生はこう言った。「君は、この講義でお金を受け取っているのか」と。それで私が「受け取っていない。私はボランティアだ」と言うと、「じゃあ、いい」と。だから教えるほうも必死だ。

 きびしさがあってはじめて、質は高くなる。ぬるま湯につかりながら、「いい教育」はできない。できるはずもない。しかし今まで、日本の大学教育は、そのぬるま湯につかりすぎた。教授人事も、「そこに人がいるから人事が慣例化している」(東大元教授)で、改革ということになったが、それにしても遅過ぎた。今の改革が成果を生み出すのは、さらに20年後、30年後ということになる。そのころ世界はどこまで進んでいることやら。日本はどこまで遅れていることやら。考えれば考えるほど、暗澹(たん)たる気持ちになるのは私だけではあるまい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(264)

●不思議な世界

 不思議な世界だった。何とも現実離れした世界だった。ふと油断すると、そのまま夢の世界に引きずり込まれていくような世界だった。

 私はある会議のメンバーに選ばれた。私が選ばれたのは、明かに主催者の人選ミスによるものだった。で、私以外は、この日本でもそれぞれの分野で1、2を争うような著名人ばかりだった。東大の宇宙工学の松井教授、哲学者の山折氏、解剖学の養老氏などなど。アーティストの藤井フミヤ氏もいたし、キャスターの草野さんもいた。会議の途中でだれかが、「ここにいる方は、講演をしても、1時間数百万円。ワンステージ、数千万円の方たちです」と言ったが、私以外は、まさにそういう人物ばかりだった。

 そういう人たちの間にすわっていると、おかしな気分に襲われる。第一に、「同じ人間のはずだが」という思い。つぎに「どこが違うのだろう」という思い。さらに「限りなく自分が小さくなっていく」という思い。そういう思いが、それぞれの方向からやってきて、頭の中で複雑に交錯する。が、もうこうなると会議どころではない。「私は今まで何をしてきたのだろう」という悔恨の念すら襲ってくる。

 が、やがて私は気づいた。たとえば本の数にしても、あるいは私が歩んできた道にしても、私は何も劣るものではない、と。……と、書くと、「何をうぬぼれたことを!」と思う人がいるかもしれない。しかしこれだけははっきりと言える。

日本人にはコースがある。そのコースに、それも最初の段階で乗れば、あとは想像以上に楽な人生を送ることができる。公立大学のばあい、ほうっておいても、助手、講師、助教授、教授。さらには学部長……と、トコロテン方式で肩書きが待っている。そしてそのあとも、例外なく天下り先が待っている。あの旧文部省だけでも1800団体近い外郭団体がある。で、その上で、有名になるかどうかは、まさに紙一重の「運」である。その運に、二つ、三つと恵まれれば、あとはもう……。これ以上のことを書くと、会議に出た人たちに失礼なので書けないが、この日本という国は、そういうしくみの中で動いている。

 会議が、3回目、4回目とつづくうちに、私はそれに気づいた。私と彼らの間にあるのは、「運」だけだ、と。力ではない。「運」だ、と。とたん、私の心の中をスーッと風が通るのを感じた。私はあやうく、夢の世界に引きずりこまれるところだった。現実を忘れるところだった。「私は私」という、あの私の哲学を忘れることころだった。これは決して負け惜しみではない。敗北を認めたということでもない。

 ……が、考えてみれば、こういう世界があるから、結局は学歴社会はなくならない。そのための受験競争はなくならないし、教育のひずみもなおらない。だいたいにおいて、講演料が数百万円なんて、(少しオーバーだろうが)、……? そちらの世界のほうが狂っている! 本当に、本当に、不思議な世界だった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(265)

●バーチャルリアリティの世界

 先日、日曜日の昼のあるテレビ番組によく出てくる、K氏と会った。たまたま新幹線の駅まで同行し、プラットホームで別れた。そのときのこと。入ってくる列車、出て行く列車の中で、そのK氏を見ると、みながK氏に手をふるのだ。もちろん見知らぬ人ばかり。「有名になる」ということには恐ろしい力がある。

 で、その瞬間だが、私の中に二つの心が混在するのがわかった。ひとつは「私も有名になってみたいものだな」という思い。もうひとつは、「有名になるというのも、うるさいことだな」という思い。もっともこうしたタレントのばあいは、有名というより、「顔」そのものが看板のようなものだから、有名の意味が多少違うかもしれない。

それはともかくも、「有名人の世界」というのが、まさにバーチャルな世界をいう。しかしそれには恐ろしいほどの魅力がある。先日も子どもたち(小学四年生)に、「君たちもテレビに出てみたいか」と声をかけると、みないっせいに、こう言った。「出タ~イ」と。

 バーチャルな世界……それはちょうどゲームの世界のようなもの。ゲームの世界で、得点を多く取り、勝ったり負けたりしながら、喜んだり悲しんだりする気分に似ている。実体はない。つかみどころもない。もちろんテレビに出るというのは、それまでにそれなりの苦労と努力があったのだろうが、しかしそれ以上に苦労と努力している人は、いくらでもいる。どこがどう違うかといえば、それは「運」でしかない。その運に、二つ、三つと恵まれた人がこうした「有名人」になれる。決して、実力や努力ではない。「運」だ。

 そこで考えてみると、この世界は、まさにバーチャルなものが氾濫しているのがわかる。氾濫しすぎていて、何がバーチャルで、何がそうでないかがわからなくなってきている。その区別すらつかない人も多い。いや、この私だって、その「私」を忘れてしまうこともある。「私は私」であり、「私はここにいる」のが私なのだが、それを忘れてしまう。あまり偉そうなことは言えない。その証拠が、「私も有名になってみたいものだ」という思い。

少しは生活が楽になるかもしれない。本だって売れるし、その分、より多くの人に私の意見を聞いてもらうことができる。しかし、それが何だというのか。どこまでいっても、私は私であり、バーチャルな世界があっても、またなくても、私に変わりはないのだ!

 そのK氏と別れて、私は別の新幹線に乗ったが、ものの一〇分もすると、もうひとつの自分に戻ることができた。そしてそのもうひとつの自分が、「何てバカなことを考えたのだ」と、私を叱った。K氏はK氏、私は私なのだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(266)

●馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』というのがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるという(伊藤正男氏)。

つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維持するための機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確ではない」(新井康允氏)ということになる。

脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、しかしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できない」。それだけのことかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(267)

●水槽の中の魚

 水槽で熱帯魚を飼うようになって、もう14年目になる。平成元年に飼い始めたから、14年という数字にはまちがいはない。その熱帯魚たち。ときどきその熱帯魚を見ながら、私はこう考える。「この魚たちにとっては、この水槽が全世界なのだろうな」「生まれから死ぬまで、一生、水槽の中に住んでいるから、外の世界を知る由(よし)もない」と。

 考えてみれば、人間の意思も似たようなものだ。たとえば「自由」にしても、自由な世界を知ってはじめて、不自由な世界がどういうものかがわかる。たとえば江戸時代という時代。あの時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であった。

それは客観的にみれば事実なのだが、ではその時代に住んだ人がそう感じていたかどうかは疑わしい。あの時代の人は、徹底した鎖国制度のもと、外国へ出るということすら許されなかった。だから外の世界など、知る由もなかった。それはちょうど、今の北朝鮮の人たちのようなものではないか。日本という外の世界からみると、ずいぶんと窮屈な感じがするが、では当の北朝鮮の人たちがそう感じているかどうかは、疑わしい。彼らは彼らで、結構自分たちの国は自由な国だと思っているかも知れない。聞くところによると、首都のピョンヤンに住めるのは、ごく一部のエリートだけという話だ。それに旅行すら自由にできなという話も聞いている。

 が、だからといって、日本が自由の国だとか、また日本人がもっている意識は、グローバルな意味で、世界の標準だと思うのは危険なことである。ひょっとしたら私たち日本人とて、水槽の中の熱帯魚と同じかもしれない。そういう例は、実は教育の世界には多い。

たとえば私が、三井物産という会社をやめ、結果的に幼稚園の講師になったとき、みなは、「はやしは頭が狂った」と笑った。母まで、電話口でオイオイと泣き崩れてしまった。しかしそんな中でも、私を支えてくれたのが、オーストラリアの友人たちだった。「ヒロシ、すばらしい選択だ!」と。こうした意識の違いというのは、それがない人には理解できないものであり、それがある人には、外で呼吸をするくらい当たり前のことなのだ。

そういう意味でも、意識の違いというのは恐ろしい。たとえば今の「私」ですら、ひょっとしたら私という範囲の中だけで「私」なのかもしれない。ほんの少し意識が変われば、私は私でなくなってしまう可能性だってある。絶対的に正しいものなどというのは、ないということか?

 今日も水槽の中の熱帯魚を見ながら、私はそんなことを考えた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(268)

●人間は動物

 このところおかしな現象が身のまわりで起きている。たとえばレストランで食事をしたとする。そこで人々が食事をしている人を見ていると、そういう人たちが人間というより、動物に見えてくるのだ。みながみなではないが、しかし10人もいると、そのうち7~8人が、そう見えてくる。(だからといってそういう人たちをバカにしているというのではない。誤解がないように!)

「食べる」という、動物全体に共通する行為を見ていることもある。それはあるが、しかしそのときだ。私は人間は動物と同じと感ずると同時に、動物も人間と同じと感ずる。どちらでもよいが、人間と動物を区別するものが何なのか、それがその瞬間わからなくなる。(だからといって人間が愚かだと言っているのでもない。誤解がないように。)

 たとえばきのうも、ななめ向こうの席で、ひとりスポーツウェアの中学生が食事をしていた。弟らしき子どももその横にいたが、その弟はよく見えなかった。反対側に父親もいた。私がその中学生が気になったのは、ハンバーグののった皿に、直接口をつけ、フォークでその料理をガツガツと口の中にかき込んでいたからだ。(欧米の習慣では、皿に口をつけて食べるのは、最悪のマナーということになっている。実際にはそういう食べ方をする人はいない。)

で、その様子を観察すると、食事を楽しむというよりは、まさに胃袋にモノを詰め込んでいるといったふう。しかも目つきが死んだ魚のようで、その上表情がなく、正直言って、不気味だった。

 私が女房に、「人間が万物の霊長だというのは、ウソだね」と話すと、女房もそれに同意した。いや、人間が動物的であることが悪いのではない。人間も一度、自分たちは動物であるという視点で、見なおす必要があるということ。人間だけが特別の存在であると考えるほうがおかしい。

つまりその上で、教育がどうあるべきかを考えるということ。よく「日本の教育は子どもに考えることを教えない」という。しかし日本に住んでいると、それがよくわからない。「考える」という言葉の意味すら、よくわかっていないのでは? 人間が人間なのは、考えるからであって、言いかえると、考えなければ、人間は人間としての価値をなくす。日本の教育には、そういう基本的な視点が欠けている。

 ……話が脱線したが、こんな格言もある。「思考はヒゲのようなものである。成長するまでは生えない」(ヴォルテール「断片」)と。教育にも限界があるということか。あるいはひょっとしたら、何もしないことが教育になるのかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(269)

●学力の低下が心配?

 2002年3月末の読売新聞社の調査によれば、小中学校の教科内容が削減されることに対して、67%もの人がそれに反対していることがわかった。「新学習指導要領、削減反対67%、完全学校週5日制、反対60%(賛成36%)」など。

とくに教科内容の削減については、小学校高学年児をもつ親の71%が、また中学生をもつ親の73%が反対していることがわかった。

で、問題はその理由だが、トップは、「学力が低下する」。これが69%。小学校の高学年児をもつ親の76%、中学生をもつ親の74%が、そう答えている。読売新聞は「学力低下に対する危機感をもっているため」と分析しているが、本当にそうか。これらの親たちは、本当に「学力が低下する」ことを心配しているのか。

 実は、これらの親たちが、学力の低下を心配しているというのは、ウソ。まったくのウソ。これらの親たちが心配していることは、「学力の低下」ではなく、「自分の子どもが受験競争で不利になる」ことを心配しているのだ。簡単に「3割削減」というが、3割といえば、6年掛ける0.3で、約1.8年分ということになる。

わかりやすく言えば、小学校の6年間のうち、約2年分が削減されるということ。これからは今まで小学4年で勉強していたことを、6年ですることになる。私立小学校や中学校は「削減しない」と言っているから、この差は大きい。受験ということになったら、公立学校へ通っている子どもは、絶対に不利である。親たちが心配している点は、すべてこの一点に集中する。

 今、日本の教育はにっちもさっちも、たちゆかなくなってきている。中学1年生で、私の推計でも、掛け算の九九がまだじゅうぶんでない子どもが、20%弱もいる(推計……というのも、掛け算の九九は言えても、瞬間に「サンパ?」と聞かれても答えられない子どもも多い。ほとんど九九を言えない子どももいれば、ところどころあやしい子どももいる。調査をするにも、基準の設定がむずかしい。)

週刊ポスト誌(02年4月12日号によれば、小学校の6年生で、「九九のできない子ども」は、「2~3割はいる」)ということだそうだ。全体として、約20%の中学生は、掛け算の九九すら満足にできないとみてよい。そういう子どもが、一方で、1次方程式だの2次方程式だのを学んでいるおかしさを、あなたは想像できるだろうか。ともかくも、「3割削減」は、こうした現状の中から生まれた。

 しかし本当の問題は、このことではない。本当の問題は、「なぜ親たちが心配するか」ということ。もっと言えば、受験勉強の深層部分にメスを入れないかぎり、この問題は解決しない。

なぜ親たちは、自分の子どもが受験競争で不利になることを心配するか、である。それは当然のことながら、「受験」という制度が、この日本では人間選別の手段として使われているからにほかならない。さらに言えば、この日本には、受験で得をする人、損をする人、それがはっきりとしている。そういう不公平社会があることこそが問題なのだ。そこにメスを入れないかぎり、この問題は解決しない。絶対に解決しない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(270)

●ぬり絵

 以前、一時期、ぬり絵が子どもたちの世界から消えたことがある。中に「子どもたちをぬり絵というワクの中に閉じ込めてはいけない」などと、とんでもないことを言う教育家も現れたりした。しかしぬり絵には、すばらしい効果が、いくつかある。

(1) 運筆能力を養う……手でペンや鉛筆をもって絵や文字をかくという能力は、いわば特殊な能力である。ある程度の指導と訓練があってはじめて、それができるようになる。しかもその時期は、かなりはやい時期で、年中児(五歳児)になるころには、すでにその能力は定着する。だから子どもにペンをもたせるようになったら、ぬり絵をすることをすすめる。子どもはこまかいところを、縦線、横線、あるいは円い線を使いながら塗りつぶすことを覚える。文字の学習に入る前に、ぬり絵をするとよい。

(2) 色彩感覚……たとえば白黒の線だけでかいた、森や家や川のある絵をわたし、子どもに色をぬらせてみてほしい。色彩感覚が豊かな子どもは、色づかいが自然で、おとなが見てもほっとするような色づかいで色をぬる。そうでない子どもは、たとえば紫色の空、茶色の川、黒い家など、どこかぞっとするような色をぬる。(緑の木を茶色にぬったりすれば、色覚障害が疑われるが……。)その色彩感覚も、ぬり絵で養うことができる。

いくつかの注意点もある。そのひとつは、常識の押しつけをしないということ。「髪の毛は黒でしょ!」「川は青でしょ!」式の押しつけは禁物。またこの時期、子どもは周期的に自分の好きな色をつかうことが多い。ある時期は青ばかりで。それが終わると今度は紫ばかりで、というように。よくある現象なので、あまり神経質になる必要はない。

幼児心理学の世界では、色づかいによって幼児の心理を判断するという方法もある。私は30年間、この問題を考えてきたが、結論は、「?」。中にもっともらしい解説をつける人もいるが、私はいつも「?」マークをつけている。それはちょうど、「赤い服の人は情熱的で、青い服の人は心が冷たい」と判断するようなものだ。

服の色などというのは、そのときの気分で決まる。幼児の心理は、もっと別の方法でさぐるべきではないのか。またそのほうが、正確に判断することができる。ただこういうことは言える。子どもというのは、心理的に大きく変化するとき、ついで色好みが変化することもある。しかしこのばあいも、子どもが思春期になってからのことで、幼児にあてはめることはできない。
(注)色覚障害者……男児に多く見られる劣性遺伝で、黄色人種は男性の5%、女性は0.2%。(白人は8%、黒人は1%)と言われている。つまり、日本人男性の5%、男性の人口が5123万人(95年調べ)なので、その5%=約256万人が、色覚障害者ということになる(厚生労働省「手引き」より)。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(271)

●早期教育と先取り教育

 よく誤解されるが、早期教育が悪いのではない。悪いのは「やり方」である。たとえば極端な例として、胎教がある。まだおなかの中にいる赤ちゃんに、何らかの教育をほどこすというのが胎教だが、胎教そのものよりも、悪いのは、そうした母親の姿勢そのもの。まだ子どもが望みもしないうちから(望むわけがないが……)、親が勝手に教育を始める。子どもの意思など、まったく無視。

こういうリズムは一度できると、それがずっと子育てのリズムになってしまう。それが悪い。まだ子どもが興味をもたないうちから、ほら数だ、ほら文字だとやりだす。最近はやっている英語教育もそうだ。こうしたやり方は、子どもに害になることはあっても、プラスになることは何もない。

 またたいていの親は、小学校でするような勉強を、先取りして教えるのを早期教育と誤解している。年中児に漢字を教えたり、掛け算の九九を覚えさせたりするなど。もっとも漢字をテーマにすることは悪いことではない。漢字を複雑な図形ととらえると、漢字はおもしろいテーマとなる。それをつかった応用はいくらでもできる。私もよく子どもたちの前で、漢字を見せるが、漢字を教えるのではなく、漢字のおもしろさを教える。

ここに先取り教育と、早期教育の違いがある。ただこの日本では、「知識や知恵をつけさせるのが教育」ということになっている。そして早期教育とは、知識や知恵をつけさせることだと多くの親は思っている。これは誤解というよりも、世界の常識からは大きくかけ離れている。

 幼児教育が大学教育より重要であり、奥が深いことは、私にはわかる。それを認めるかどうかは、幼児教育への理解の深さにもよる。たいていの人は、幼児イコール幼稚、さらに幼稚な教育をするのが、幼児教育と思い込んでいる。しかしこれは誤解である。……というようなことを書いてもしかたないが、その幼児教育をすることは、これは早期教育でも、先取り教育でもない。

この時期、人間の方向性が決まる。その方向性を決めるのが、幼児教育ということになる。その幼児教育が必要か必要でないかということになれば、そういった議論をすること自体、バカげている。

 こみいった話になったが、幼児の教育を考えるときは、早期教育、先取り教育、それに幼児教育の3つは、分けて考えるとよい。混同すればするほど、子どもの教育が見えなくなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(272)

●知恵の発達のバロメーター

 幼児というのは、そのときどきにおいて、ちょうど昆虫が脱皮するように成長する。精神の発達だけではない。知恵の発達もそうだ。たとえば4歳以前の子どもは、文字にほとんど興味を示さない。ところが満4・5歳(=4歳6か月)を過ぎることから、急速に文字に興味を示し始める。(だからといって四歳以前の子どもに、文字学習が無駄であると言っているのではない。四歳以前は、たとえば親が本を読んであげるなどの、読み聞かせが大切。そういう下地があってはじめて、子どもはやがて文字に興味をもつようになる。)

この時期、子どもは文字をまねて書くようになるが、もちろん文字の「形」にはなっていない。クルクルと丸を描いたり、それを重ねたような図形を描いたりする。この時期をうまくとらえると、子どもは文字に興味をもつようになり、ついで自分でも文字を書きはじめる。コツは、あれこれルール(形や書き順など)はうるさく言わないこと。文字を書く楽しみを何よりも大切にする。

 ……というように、幼児は段階的な発達をするが、そこでひとつの基準として、つぎのように考えるとよい。

 形……三角と四角を組み合わせたような図形を子どもに見せ、それを別の紙に書き写させてみる。形の弁別ができない子どもが、三角とも四角ともわからないグニャグニャの形を描く。しかし四歳前後から、形の弁別ができるようになり、何となく三角、何となく四角というような図形を描けるようになる。

 数字……ほとんどの子どもは、数字から文字の世界に入る。最初は、「1」「2」など。自分の名前を書こうとする子どももいる。そのとき同時に、子どもは1から10までを数えるようになり、少しの指導で30までなら数えることができるようになる。年中児の終わりで30まで、年長児の終わりで100までを目標にするとよい。「多い、少ない」「ふえた、減った」の感覚から、「得をした、損をした」も理解できるようになる。

 ただ文字といっても「8」「9」は、幼児にはたいへんむずかしい。年長児でも正しく書ける子どもは、全体の60~70%とみる。

 ひらがな、カタカナ……年長児(満六歳児)の約80%弱(夏休みの段階)が、ほぼ自由にひらがなを読み書きできる。しかし一方で、文字に対して恐怖心をもつ子どもも、この時期急増する。家庭での無理な学習が原因と考えてよい。それはともかくも、この時期までに子どもは、とくに教えなくても、いつの間にかひらがなを読めるようになった、というふうにして文字を読み書きできるようになる。

 これはあくまでもひとつの目安であり、個人差もある。大切なことは子どものリズムをうまくつかみ、無理をしないこと。そのリズムにうまくのれば、子どもは伸びやかに成長するし、そうでなければそうでない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(273)

●遠慮

 以前『遠慮は黄信号』という格言を考えた。子どもの中にその遠慮を感じたら、親子関係はかなり危険な状態にあると判断してよい。

 ふつう、満ち足りた家庭環境の中で、親の濃厚な愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、見るからにどっしりとしている。態度も大きく、ときにふてぶてしくさえ見える。反対にそうでない子どもはどこか、コセコセしている。よく誤解されるが、だれにでも愛嬌がよいとか、愛想がよいとかいうのは、子どもの世界ではあまり好ましいことではない。

このタイプの子どもは、そういう形で相手の心に取り入ろうとする。しかし本当のところは心を許していない。気を抜かない。だから子ども自身も疲れるが、つきあうほうも疲れる。

 遠慮するというのは、その心を許さない状態と考えてよい。もっとも他人との関係なら、ある程度の遠慮はつきものだし、むしろ遠慮なくわがもの顔でふるまうほうが問題となることもある。たとえば多動児(AD・HD児)の特徴のひとつとして、無遠慮、無警戒がある。しかし本来心を許すべき相手に心を許さないとか、許せないとかいうのは、それ自体がたいへんなストレスとなってかえってくる。

親子とて例外ではない。「実家の親に会うだけで、神経がすり減る」「正月に実家に向かうだけで言いようのない緊張感に襲われる」などと言った母親がいた。

 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうか冷静に判断してみてほしい。あなたの子どもはあなたの前で態度も大きく、図々しいだろうか。あなたのいる前で、平気で好き勝手なことをしているだろうか。ときに体を休め、ときにあなたに甘えてくるだろうか。もしそうならそれでよし。しかしどこかあなたの目を気にしたり、あなたの機嫌をうかがうようなところがあれば、あなたは今の子育てをかなり反省したほうがよい。今は、一見、何ごともなくうまくいっているように見えるかもしれないが、やがてあなたとあなたの子どもの間に、大きなキレツが入る。そしてそれが断絶につながるかもしれない。

 ただしこの問題は、あなたはそれに気づいたとしても、解決するのに、半年とか一年とか、長い時間がかかる。子どもの年齢が大きければ、もっとかかる。そういう前提で、あなたの子育てのあり方を反省する。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(274)

●追えば追うほど、心を削る

 私に月謝袋を渡すとき、爪先でポンとはじいて、「おい、あんた、あんたのほしいのはこれだろ」と言った高校生がいた。市内でも1番という進学高校に通う子どもだった。私が黙っていると、「とっておきな」と。私は生涯において、3度、生徒を殴ったことがある。そのときがそのうちの一度になった。

 父親はそのときある教育団体の職員をしていた。母親は結婚するまで、中学校の教師をしていた。教育熱心な家庭だったが、どこかでその歯車がズレたらしい。その原因がすべて受験競争にあるとは言えないが、受験競争に関係ないとはもっと言えない。その子どもも、小さいときから「勉強づけの生活」をしてきた。

 受験教育の弊害をあげたらきりがないが、そのうちのひとつが、子どもから温かい人間的な心を奪うこと。『追えば追うほど、心を削る』という格言を私は考えたが、子どもを受験で追えば追うほど、子どもから温かいぬくもりが消える。ものの考え方が功利的、打算的になる。勝った、負けたという計算だけが頭の中を支配する。

そういう状態になると、「教育」という言葉は、もう通用しない。指導だ。教育ではなく、指導ということになる。「どうすればよい点を取れるか」「どうすればよい(?)大学へ入れるか」と。

 この日本では、受験競争は避けて通れない道かもしれないが、子どもに受験勉強をさせるときのは、一方で子どもの心をケアすることを忘れてはならない。でないと、結局はそのツケは私たち自身が払うことになる。少し前だが、私にこう言った市の職員がいた。

彼はその市の市役所でも部長職にあったが、いわく、「はやしさん、このH市は工員の町だよ。工員というのはね、お金をもつと働かなくなるよ。工員には金をもたせてはいけないよ。だからたくさん遊ぶところをつくって、もっているお金を吐き出させるのだよ」と。もし日本中がそんなエリートばかりになったら、この国はいったいどうなるのだろうか。

 で、先の高校生だが、その直後、父親と母親につれられて謝罪にきた。結果的にみれば、それがよかった。その子どもはその事件を契機に、みちがえるほど人が変わった。礼儀正しくなり、ものごしもやわらかくなった。私の教室(教室といっても、3~4人の小さな教室だが……)へは、高校3年の終わりまできてくれたが、その分、私との人間関係も太くなった。今でもときどき消息を聞くが、現在は埼玉県で高校の教師をしているという。きっとすばらしい教師をしていることと思う。

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