2009年6月22日月曜日

*Essays on House Education(5)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(69)

●子をもって知る子育ての深さ

 「家のしつけがなっていない」「親がだらしない」などと平気で口にする人は、自分で子育てをしたことがない人とみてよい。自分で子育てをしてみると、この考えが消える。「クレヨンしんちゃん」の中に、こんなシーンがある。

 向こうから二人の高校生が歩いてくる。それを見た母親のみさえが、「何よ、あのかっこうは。親の顔を見てみたい」と。するとその高校生たちが、しんのすけを見て、こう叫ぶ。「何だ、こいつ。親の顔を見てみたい」※と。みさえがその方向を見ると、しんのすけがチンチン丸出しで歩いてくる……。

 思うようにならないのが子育て。もちろん成功する人もいるが、失敗する人のほうがはるかに多い。しかし成功したからといって、それはその人の力というよりは、子ども自身の力によるところが大きい。反対に、失敗したからといって、その人の責任ではない。その人はその人なりに、一生懸命しているのだ。一生懸命しても、あるいは皮肉なことに一生懸命すればするほど、子どもだけがどんどんわき道に入ってしまう……。子育てというのは、もともとそういうもの。

 そこでどうだろう、こう考えたら。失敗を失敗と思うから失敗であって、子育てには失敗などない、と。たとえばこんな教授がいた。それまでは受験雑誌などにエッセイを書いていたし、彼の書いた「受験攻略法」(仮称)は、数10万部を超えるベストセラーになった。が、彼の息子のうち、長男は京大に入ったが、二男は京都のある私立大学に入った。それについてその教授は、「私は二男を、東大もしくは京大へ入れることができなかった。教育に失敗した」と、「失敗」という言葉を使って、「受験攻略法」について書くのをやめてしまった。「失敗」という言葉がそういうふうにも使われることもある。

 自分の子育てにはもちろんのこと、他人の子育てにも謙虚であること。この世界には、こんな鉄則がある。「他人の子育てを笑うものは、いつか自分が笑われる」と。たとえばAさんはいつも、その出身高校でその人を判断していた。「あの親は結構、教育熱心でしたけど、息子さんはC高校ですってねエ」と。

しかしいざ自分の娘(中3)が受験となったときのこと。娘にはその力がなかった。だからAさんは、毎晩のように娘と、「勉強しなさい」「うるさい」の大乱闘を繰り返すことになった。こうした例はあなたのまわりにも、一つや二つは必ずあるはずだ。だから繰り返す。他人の子育てには謙虚であること。








ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(70)

●親は自分の過去を再現する

 子どもが受験期を迎えると、たいていの親は言いようのない不安感に襲われる。自分自身が自分の受験期にいやな思いをした人ほどそうで、記憶というのは、そういうもの。親は子育てをしながら、自分の過去を再現する。

 もっとも親が不安になるのは、親の勝手だが、その不安感を子どもにぶつけてはいけない。ぶつけてもいけない。今はそういう時代ではない。むしろ受験そのものがもつ弊害というか、子どもの心への悪影響のほうが問題にされ始めている。親子関係そのものを破壊することも多い。

しかし親子関係を犠牲にするほどの価値が受験にあるかというと、それは疑わしい。日本人が「何が本当に大切で、何が大切でないか」ということを、少しずつだが考え始めている。その一つの表れとして、一九九九年に文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、約40%が「家族」をあげた。さらに1995年ごろを境として、全国の塾数、塾の講師数ともに減少に転じている(通産省資料)。長引く不況と少子化が原因だが、それ以上に、「エリートの凋落(ちょうらく)」が大きな影を落としている。

Y証券会社という日本を代表するような証券会社が倒産したとき、そのときの社長が、「みんな、私が悪いんです」と、子どものように泣いてみせた。そう、あのとき日本のエリート神話が崩壊した!

 もちろん子育てには不安がついてまわる。子どもの将来はだいじょうぶだろうか、と。そして一方、この日本には不公平格差が歴然としてある。そのコースに入った人は、必要以上に得をし、そうでない人は、公的な保護をまったくといってよいほど受けない。こうした不公平感を親たちは日常的に感じているから、ついつい子どもには「勉強しなさい」と言ってしまう。しかしこの時点でも、おかしいのは社会であって、子どもではない。戦うべき相手は社会であって、子どもではない。

 話がそれたが、親は子育てをしながら、結局は、子どもの年齢ごとに自分の子育てを再現する。自分が受けた子育てを繰り返すといってもよい。しかしそれがよいものであれば問題はないが、そうでないものだったら、再現しないほうがよい。

いや、本当の問題はこのことではない。本当の問題は再現しているということにすら気づかないまま、自分の中の「過去」に振りまわされることだ。そしていつも同じような失敗を繰り返す。あなたもそういう視点で、一度あなたの心の中をのぞいてみてほしい。









ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(71)

●さえを伸ばす

 子どもの頭をよくする方法というのは、そんなにないが、その一つが、この「さえを伸ばす」。ここでいう「さえ」というのは、子どものひらめきや直感力、洞察力を言うが、頭のやわらかい子どもは、さえが鋭く、しかも頻繁に現れる。

 たとえば幼児との会話で、「電線にさわると、真っ黒こげになってしまう」と話したときのこと。一人の子ども(年長児)が、すかさずこう言った。「わかった、だからカラスは黒いんだ」と。こういうのをさえという。学習に限らない。

遊びにしても、「ああすればいい」とか、「こうすればいい」とか、つぎつぎとアイディアを出してくる。こういうさえを見せたら、おとなの立場で意見を加えたりしながらも、そのさえを伸ばすようにする。「それはおもしおろいね」「そればすばらしい考えだ」とかなど。こんな子ども(四歳男児)もいた。

 ある日客がきたとき、その子どもがスリッパを出して、その客にほめられたというのだ。それでその子どもはすっかり気をよくしてしまい、それ以来、集金の客がきてもスリッパを出したり、お茶を出したりするようになったという。「うちの子はよく気が回るのです」と母親は笑っていたが、「よく気が回る」というのも、ここでいうさえと考えてよい。

 反対に頭のかたい子どもには、このさえがない。何かの説明をしても、そのワクの中だけで考えようとする。いわゆる融通のきかない子どもといった感じになる。決められたことや、言われたことはきちんとするものの、それ以外のことはしようとしないなど。そしてひとりにしておくと、「退屈だ」「つまらない」と言い出す。

 こうしたさえを伸ばすコツは、子どもの視点で、「あれっ!」と思うような意外性を大切にする。お金をかけろということではない。木の葉をかんで、味を調べさせたり、石を拾ってきてペインティングしてみるなど。おもちゃのトラックにお寿司を並べた母親がいたが、それでもよい。子どもの側から見て、子どもの頭の中でかたまりつつある常識をいつも破るようにする。










ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(72)

●砂糖は白い麻薬

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えるとわかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)である(アメリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。

つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないものを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約10~15グラム。この量はイチゴジャム大さじ一杯分程度。

もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖は白い麻薬と考え、砂糖断ちをしてみるとよい。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着く。

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与えると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。

たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処する。

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要なことである」と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーなどの原因になっている」とも。







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(73)

●参観は「動」と「静」を見る

 よい授業かどうかは、「動」と「静」をみる。「動」のときは、子どもたちが活発に意見を言ったり、笑ったりする。「静」のときは、子どもたちが一転して静かに、黙々と作業をする。そういう授業をよい授業という。またそういう指導ができる教師を、すぐれた教師という。

が、そうでない授業はそうでない。そうでない教師はそうでない。「動」と「静」の区別がつかないばかりか、いつもダラダラと時間だけが過ぎていくといった感じになる。

 もっともこういう「動」と「静」がはっきりとした、つまりメリハリのある授業をするということは、教師にとってもかなりたいへんなことで、それだけの準備と労力が必要である。実際、小学校の低学年児を相手に、真剣に授業をしたら若い教師でもヘトヘトになる。子どもたちのもつエネルギーは想像以上のものだし、もともと教育というのは、そういうもの。

 こうした基準は、あなたの子どものおけいこ塾や学習塾を選ぶときにも応用できる。さらに保育園や幼稚園を選ぶときにも応用できる。私はこういう評論活動をしているため、よく「どこの幼稚園がいいですか」と聞かれる。立場上、名前を出すことはできないが、一つの目安はある。つぎのような点を見ると、よい保育園や幼稚園を選ぶことができる。

(1) ピカピカにみがかれたような園、子どものにおいがしない幼稚園は避ける。

(2) 園長がスーツを着て、職員室にふんぞりかえっているような幼稚園は避ける。

(3) やることだけは派手だが、ポリシーを感じない幼稚園は避ける。

 反対によい園は、

(1) 現場の先生たちが生き生きしている園。

(2) 休み時間になると、子どもたちが先生のまわりに集まってワイワイと喜んでいる幼稚園。

(3) いたるところに子どものにおい(落書きや、いたずら、遊具など)がプンプンとする園。

(4) 子どもの視線で見て、どこか楽しさを覚える幼稚園。

(5) 園長が作業服などを着て、率先して指導している園。

 以上あくまでも参考的意見として。









ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(74)

●30分で5分

 子どもの勉強は、30分やって5分と思うこと。つまり30分の間で、5分間だけ勉強らしきことをすればよいとみる。家庭でする勉強というのは、しょせんそういうもの。小学1年生や2年生が、家へ帰ってから、一時間も二時間も、黙々と漢字の書き取りをするほうがおかしい。もしそうなら、心の病気を疑ってみたほうがよい。

 無理や強制が日常化すると、子どもは勉強から逃げるようになる。これは当然のことだが、さらにその症状が進むと、(1)フリ勉、(2)時間つぶしがうまくなる。フリ勉というのは、いかにも勉強していますという様子だけを見せる勉強法をいう。が、その実、何もしていない。

たとえば一時間で、計算問題を数問解くだけ、あるいは英文を数行書くだけなど。つぎに時間つぶし。つめをほじったり、鉛筆をかんだりして、時間ばかりムダにする。先生や親の視線を感ずると、そのときだけ、いそいそと本のページをめくってみせたりする。

 こうしたフリ勉や時間つぶしをするようになったら、家庭教育のあり方をかなり反省したほうがよい。……というより、一度、こういう症状(これを「空回り」という)が身につくと、それをなおすのは容易ではない。たいてい(親が叱る)→(ますますフリ勉、時間つぶしがうまくなる)の悪循環の中で、子どもは勉強から遠ざかっていく。

 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほうが、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし方をする。私が今知っている子どもに、K君(小4男児)という子どもがいる。彼は中学一年レベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。そのK君だが、「家ではほとんど勉強しない」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行ってからしているようです」とも。

 ついでながら静岡県の小学5、6年生についてみると、家での学習時間が30分から1時間が43%、1時間から1時間30分が31%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファミリス」県内100名について調査・2001年)。
 

 







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(75)

●幸せにするのが最高の教育

 あなたはいつかあなたの子どもに幸せな家庭を築いてほしいと願っている。そうであるなら、今、あなたは子どもに、幸せな家庭というものがどういうものか、夫婦とはどういうものか、親子とはどういうものかを見せておく。見せるだけでは足りない。子どもの体にしみこませておく。

そういう「しみこみ」があってはじめて、子どもが自分で家庭をもったとき、自然な形で、幸せな家庭を築くことができる。「幸せにするのが最高の教育」(イギリスの教育格言)というのはそういう意味。

 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになる。しかし学習だけでは足りない。経験が必要である。たとえば一般論として人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての情報が脳にインプットされていないからである。人間の子どももしかり。

不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、「幸せな家庭を築こう」「理想的な親になろう」という気負いが強く、かえって幸せな家庭づくりに失敗しやすい。ただ人間がほかの動物と違うところは、仮に不幸な家庭に育っても、親類や近所の家庭をのぞくことによって、自分の中に別の家庭像、親像をつくることができるということ。だから自分の過去が不幸だったからといって、絶望的になることはない。

問題は、不幸な家庭に育ったということではなく、そういう自分自身の心のキズに気づかないまま、それに振り回されること。そしていつまでも同じ失敗を繰り返すことである。たとえば子どもに暴力を振るう親というのは、自分自身も親に暴力を振るわれた経験をもっていることが多い。それを世代伝播(でんぱ)というが、そういう形で繰り返す。もしあなたにそういう面があるなら、自分自身の過去はどうだったかと、静かに自分をみつめてみる。それでよい。この問題だけは、自分の中の心のキズに気づくだけでよい。時間はかかるが、それでなおる。

 「幸せ」といっても、もちろん子どもを王様にすることではない。子どもの言いなりになるということでもない。「幸せな家庭」というのは、家族が理解しあい、いたわりあい、信じあい、励ましあい、なぐさめあい、助けあい、守りあい、教えあう家庭をいう。そういう家庭で子どもを包む。それが「最高の教育」と。








ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(76)

●自慰は笑って見過ごせ

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。6歳になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが固くなっているのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライドをキズつけるように感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。こういうとき、どう対処したらいいのでしょうか」(32歳母親)と。

 フロイトは幼児の性欲について、次の三段階に分けている。(1)口唇期……口の中にいろいろなものを入れて快感を覚える。(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に興味を示したり、そこをいじったりする。(3)男根期……満四歳くらいから、性器に特別の関心をもつようになる。

 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中のストレス(生理的ひずみ)を疑ってみる。子どもはストレスを解消するために、何らかの代わりの行為をする。これを代償行為という。指しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、手洗いグセなど。自慰もその一つと考える。

つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレスの原因(ストレッサー)となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症状(ふさぎ込み、ぐずぐず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)をともなうことが多い。そのため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって症状を悪化させることもあるので注意する。

さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることにより、自分の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安定になり、情緒障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなくぐずったり、訳のわからないことを言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみるとよい。最初は抵抗するそぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。

 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、サラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。

 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとどうしても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめることがある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(77)

●生きることを原点に

 リチャード・マクドナルドという人がいた。10年ほど前に89歳でなくなったが、あのハンバーガーチェーンの「マクドナルド」の創始者と言えば、だれでも知っている。が、当のマクドナルド氏自身は、早い時期にレストランの権利を別の人物に売り渡している。それについて生前、テレビのレポーターが、「損をしたと思いませんか」と聞いたときのこと。マクドナルド氏はこう答えている。「もしあのまま会社に残っていたら、今ごろはニューヨークのオフィスで、弁護士や会計士に囲まれてつまらない生活をしていることでしょう。(こういう農場でのんびり暮らしている)今のほうが、ずっと幸せです」と。 

 話は大きくそれるが、私には3人の息子がいるが、そのうちの2人をあやうく海でなくしかけたことがある。とくに二男は助かったのが奇跡としか言いようがない。そんなこともあって、私は二男に何か問題があるたびに、「こいつは生きていてくれるだけでいい」と思いなおすことで、それらの問題を乗り越えることができた。生きることを原点にしてものを考えるということは、そういうことをいう。

 私はマクドナルド氏の話を聞いて、大きな衝撃を受けた。日本人には信じられないような生き方だが、アメリカやオーストラリアでは珍しくない。私の友人のピーター君も、宝石加工会社をおこし、40数歳の若さで「輸出高ナンバーワン」で、オーストラリア政府から表彰されている。しかしそののちまもなく権利を売り渡し、今はシドニー郊外で悠悠自適の隠居生活を楽しんでいる。ほかにもこういう例は多い。よく知られた人物としては、ジェームズ・ルービン報道官がいる。彼は妻の出産を理由に、ホワイトハウスの報道官を退任。今はロンドン郊外で「主夫業」(報道)をしている。

 ものの考え方というのは相対的なものである。日本人が「あれっ!」と思うということがあれば、ちょうどその反対のことで、彼らもまた同じように、「あれっ」と思うもの。アメリカ人やオーストラリア人にしてみれば、日本人の生き方のほうが奇異に見えることだって多い。

……いや、だからといって日本人の生き方がまちがっているというのではない。日本人は日本人で、今、精一杯がんばっている。こういう生き方しかできないといえば、それはし方ないことだ。しかし心の基本が、どこにあるかで生き方そのものも変わってくる。ものの考え方も変わってくる。もちろん子育てのし方も変わってくる。仕事は大切だ。名誉も地位も肩書きも大切だ。しかしそれは決して世界の常識ではない。世界の常識は、もう少し違った位置にある。

 要は、生きる本分を忘れないということ。忘れると、世界から日本はいつも奇異な目で見られる。個人について言えば、結局は自分の人生をムダにすることになる。











ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(78)

●広い視野で日本を見る

 テレビの討論番組で、「ぼくたちはアジア人ではない! 日本人だ!」と叫んだ小学生たち(5、6年生くらい)がいた。それに対して、アフリカ人の留学生が、「君たちの肌は黄色いではないか」とたたみかけると、その小学生はさらに、こう叫んだ。「黄色ではない。肌色だ!」と(2000年)。

 そこで私も小学校の高学年児を対象に、独自に調べてみた。結果、「日本人はアジア人」と思っている小学生は1人もいないことがわかった(2001年、小学生約20人について調査)。「欧米人とアジア人の中間」「欧米人に近いアジア人」、あるいは中には「ぼくたちは欧米人」と答えた子どももいた。

 日本人はまちがいなく、アジア人である。しかしこの日本で教育を受けていると、そういう意識が消える……らしい。また、そういう教育をしていない。30年前のことだが、私がオーストラリアという国から日本を見ても、日本人の目は欧米には向いていたが、アジアにはまったくといってよいほど向いていなかった。そういう日本人をさして、「黄色い白人」というニックネームすらつけられたが、日本人はそれをむしろ「誇り」に思ったようなところがある。(実際には、日本人はバカにされたのだが……。)

 問題はなぜ、こういうゆがんだ民族意識をもってしまったかということ。その理由の一つが、日本史を東洋史と切り離してしまったところにある。しかしこれは世界の常識ではない。

たとえばフランスの大学では、日本語学部や日本語学科は、朝鮮学部や朝鮮語学科の中に組み入れられている。また欧米の大学では東洋学部というときは、中国研究を意味し、日本学科はその一部でしかない。……いや、こう書くと、「君は日本人としての誇りを捨てるのか」という人が必ずといってよいほど現れる。

しかし私は何も日本人を否定しているのではない。日本人はアジア人であり、その先では人間だ。日本人が人間であるとか、アジア人であると言ったところで、日本人を否定したことにはならない。むしろ短絡的な民族主義は、えてして国粋主義に姿を変える。それがこわい。「日本人はすばらしい」と思うのはその人の勝手だが、だからといって、その返す刀で、「他の民族は劣っている」と考えるのは、まちがいだということ。

 これからの日本が、世界の中で生きていくためには、日本人自身が、もっと広い目で自分を見なければならない。でないと、結局は、日本はいつまでたっても東洋の島国から抜け出ることができないままになってしまう。私はそれを心配する。












ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(79)

●叱ったらほめる

 「かわいくば、五つ数えて三つほめ、二つ叱って、よき人となせ」と言ったのは、二宮尊徳だが、まさにその通り。子どもを叱ったら、必ずほめて仕上げる。「ほら、あなたもちゃんとできるでしょ」と。決して叱りっぱなしにしてはいけない。これは子育ての大原則。……と言っても、実際にその場になると難しいので、頭の中で格言として、この言葉を何度も繰り返しておくとよい。「叱ったら、ほめる」と。
 叱り方にもコツがある。

(1) 子どもに威圧感を与えない……「威圧で閉じる、子どもの耳」と覚えておく。親がガミガミと叱れば叱るほど、子どもの耳は閉じる。つまり叱っても意味がないということ。

(2) 相手が幼児のときは、目線を幼児の目線まで落とす……親のほうが腰を落とし、幼児の目線まで自分の目線を落とす。

(3) 子どもの肩をしっかりと固定し、視線を子どもの目からはずさない……両手で子どもの肩を両側からはさみ、肩をしっかりと固定する。そして叱るときは、子どもの目をしっかりと見つめ、視線をはずさないようにする。

(4) 言うべきことを繰り返す……怒鳴ったり、大声をあげたりしない。言うべきことをしっかりと繰り返す。

 そして最後、というより、しばらく時間をおいて、子どもが叱ったことを守ったり、できるようになったら、ほめて仕上げる。

 ふつう叱るときは内緒で、ほめるときは皆の前でする。古代ローマの劇作家のシルスも、『忠告は秘かに、賞賛はおおやけに』と書いている。子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。

 ただ、一つだけ条件がある。子どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。頭をほめすぎて、子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。

 






 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(80)

●子どもは甘えるもの

 スキンシップの重要性は言うまでもない。そのスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、「甘える」という行為である。一般論として、濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自然である。「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘える。甘えることができる。心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染み込んでいくのがわかる。

 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいるのを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。

こんなショッキングな報告もある(2000年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、4分の1もいるというのだ。「全国各地の保育士が、預かった0歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、4分の1に及ぶことが、『臨床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が33%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が2割前後見られ、調査した6項目の平均で25%に達したという。

また保育士らの実感として、「体が固い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で20%の赤ちゃんから報告されたという。さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。

また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)2~3割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

 果たしてあなたの子どもはだいじょうぶだろうか。

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