2010年5月28日金曜日

*Magazine dated May 28th

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 28日
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●Joy & Happiness

++++++++++++++++++++++++

英語の文章を読んでいたら、英語国では、「Joy(喜び)」と、
「Happiness(幸福)」を、使い分けて考えて
いることがわかった。
Joy、イコール、Happinessではない。
ある賢人は、こう書いている。

「Joyは、液体的なもの。Happinessは、
固形的なもの」と。

ワイワイと喜ぶのを、Joyというのなら、Happiness
は、静かなもの。
Joyは一時的なものだが、Happinessは、その人の
根底をささえるもの。
Joyは目に見えて、わかりやすいが、Happinessは、
それを失ったときに、それがわかるもの。
それまでは空気のようなもの。
目立たず、あなたの周囲で、ひっそりとたたずんでいる。

……とまあ、いろいろに解釈できる。

+++++++++++++++++++++++++

●大切なのは「今」

 幸福を考えるとき、皮肉なことに、犬の生き方を見ていると、おおいに参考になる。
犬は、その日、その日を懸命に生きている。
そこにあるのは、「今」という現実だけ。

 たとえばうちのハナ(犬、ポインター種)は、今年で、満14歳になる。
7倍すると人間の年齢に相当するそうだ。
だから人間の年齢にすると、98歳ということになる。
が、「死ぬ」ということに、何ら恐れを抱いているようには見えない。
「死ぬ」という概念すら、もっていない(?)。

 長い間、相棒だったもう一匹の犬は、6、7年前に死んだ。
「相棒」というよりは、母親的な存在だった。
さぞかしさみしいだろうなと思って、あれこれと気をつかった。
しかしそれほどショックを受けたようには、見えなかった。

●懸命に生きる

 「死」を考えるから、人生に、閉塞感が生まれる。
だからといって「死」を軽んじろということではない。
しかし生きている間は、「死」のことなど、気にしない。
気にしても、どうしようもない。
仮にあなたが今、健康で、仕事をし、家族がいるなら、「死」のことなど、気にしない。
「今、生きている」。
それだけを考え、あとは前向きに生きていく。

 そのときは、そのとき。
死がやってきたときは、そのとき。
そうでなければ、犬のように生きればよい。
その日、その日を、懸命に生きればよい。

●回顧性

 満55歳前後から、人は、それまでの展望性から回顧性へと、人生観が変化していく。
わかりやすく言えば、生き様が、うしろ向きになる。
過去ばかりを、振り返るようになる。
これには、理由がある。

 脳みそについて言えば、後半期(recent)に蓄えた記憶ほど、先に消失していく。
そのため古い記憶ほど、脳みその中に残る。
だから歳を取れば取るほど、若いころ、さらには子どものころの記憶が、より強く
思い出されるようになる。
あるいは子どものころの記憶だけになる。
それが回顧性へと、つながっていく。

 私の知人の中には、50歳になったばかりというのに、墓参りばかりしている人がいる。
またそうすることが、人として、正しい道と思い込んでいる。
「先祖」「親孝行」という言葉も、よく使う。
回顧性というのは、それをいう。

●日々の生活の中に

 話が脱線したが、幸福に限界を感ずるのは、そこに「死」があるから。
病気になったとき、健康の意味がわかる。
そのとき健康の限界を知る。
同じように、いくら私は幸福と思っても、それは長つづきしない。
長つづきしないものという前提で、それを大切にする。

 ここで誤解してはいけないことがある。
多くの賢者が書き残しているように、幸福というのは、私たちのすぐ身近にある。
身近の、すぐそこにあって、私たちに見つけてもらうのを、じっと待っている。

 朝起きる。
目を覚ます。
朝日が、障子窓の向こうから白い光を投げかけている。
また目を閉じて、とりあえず、やるべきことを考える。
サクランボの木を切る。
空き地に、除草剤をまく。
ビワとレモンの木に、(催促肥料)をまく。
「礼肥料」ではない。
私たちは、「催促肥料」と呼んでいる。
「もっと実をつけろ」と催促しながらまくから、「催促肥料」という。

 それが「幸福」ということになる。

●幸福論

 懸命な人は、その価値を、失う前に気づく。
そうでない人は、それを失ってから気づく。
その第一が、健康。
その第二が、青春時代。
子どもがいれば、その第三は、子どものよさということになる。
が、それにもうひとつつけ加えれば、「幸福」ということになる。

 つまるところ、幸福というのは、その人の賢明さが作り出すもの。
賢明な人は、そこに幸福があることを知る。
そうでない人は、そこに幸福があることも知らず、あたふたと、
幸福をふみにじって生きる。

そう考えてよい。
それがこのエッセーの結論ということになる。
(10-04-25)

(補記)

The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid.
J.D. Salinger


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【孤高論】

●悪口

+++++++++++++++++++

私は、一度でも、その人の悪口を
言ったり、書いたりしたときには、
その人とは、つきあわない。
その人とわからない形で、書いたときも、
つきあわない。
例外はない。

一方、私の悪口を言っていると知った人とは、
つきあわない。
例外はない。
私は、この原則を、しっかりと守っている。
もう少し融通性があってもいいのでは・・・と
思う人もいるかもしれない。
私も、時々、そう思う。
しかしそういう意味では、私は、器用な人間ではない。
この原則を破ると、頭の中が、バラバラになってしまう。
それがこわい。

+++++++++++++++++++

●慎重と確認

 この原則には、付随的な原則が、もうひとつある。
私にとって、「悪口」というのは、そういう意味では重大な意味をもつ。
この原則に従えば、人間関係をそのまま断ち切ることになる。
たとえ兄弟でも、親類でも、例外はない。
そのため、当然のことながら、悪口を言ったり書いたりすることについて、
慎重になる。
また悪口を言われているという情報が耳に入ったときもそうだ。
直接、自分でそれを確認することにしている。
しっかりと確認したあと、人間関係を断ち切る。

 が、ここで誤解していけないのは、悪口と批判は、ちがう。
「悪口」には、その根底に「悪意」がある。
悪意を感ずる。
悪意でもって、私を、貶(おとし)めようする。
中には言葉巧みに、私を悪者にしようとする人もいる。

一方、批判には、その根底に「善意」がある。
私のことを心配し、あれこれ言う。
言われた私のほうも、気にしない。
その判断の基準となるのが、日ごろの、信頼関係ということになる。

●仮面

 が、世の中には、奇妙な人たちがいる。
たがいに悪口を言い合いながら、それでいて、表面的には、うまくつきあっている。
他人ではない。
兄弟、姉妹どうしで、そうしている。
そういうケースもある。

 たとえば3人の兄弟、姉妹がいたとする。
上から長男、長女、二女。
話をわかりやすくするため、上からA男、B女、C女とする。

●奇妙な三角関係

 A男は、どこかノー天気。
口が軽い。
あっちの話を、こっちへもってきて、ペラペラ。
こっちの話を、あっちへもっていき、ペラペラ。

 B女は、そういうA男を、ボロボロに叩く。
その一言でも耳に入ったら、A男は激怒すると同時に、大きく傷つくだろう。
同じように、C女は、B女を、ボロボロに叩く。
その一言でも耳に入ったら、B女は激怒すると同時に、大きく傷つくだろう。
それぞれに多少の温度差はあるが、たがいがたがいをボロボロに叩く。
こうしてその3人の間に、複雑かつ奇妙な三角関係ができる。

 が、ここからが不思議な世界。
そういう関係でありながら、A男はB女とつきあい、C女ともつきあう。
B女とC女がつきあうこともある。
3人がともに行動し、会食することもある。
私がその中の1人なら、頭の中がバラバラになってしまうだろう。
が、本人たちは、生まれながらにそうであるため(?)、それが見た目には平気でできる。
あるいは兄弟姉妹というのは、そういうものか?

●タヌキ

 が、もちろん仲がよいわけではない。
つきあいといっても、表面的なつきあい。
たがいに体裁だけを、とりつくろっているだけ。
が、問題がないわけではない。

こうした仮面を平気でかぶれる人というのは、ほかの世界でも、平気でかぶる。
一方で悪口を言い、その人の前では、善人ぶる。
あるいは相手が自分の悪口を言っているのを知りつつ、ニコニコと笑ってつきあう。
こういう人たちを、私の生まれ育った郷里では、「タヌキ」と呼ぶ。

 そのタヌキと関係あるかどうかは知らないが、日本人には日本人独特の、
奇妙な笑いがある。
たとえば電車に乗り遅れた人が、ニヤニヤ笑う。
デッドボールを食らわせたピッチャーが、ニヤニヤ笑う。
先日も路地から飛び出してきた車が、あやうく私の乗った自転車にぶつかりそうに
なった。
そのときも、その車を運転していた女性は、視線をはずしたまま、ニヤニヤ笑っていた。

 日本人は、心を(表)と(裏)に分け、それをうまく使い分ける。
「本音」と「建前」という言葉も、そこから生まれた。
ここに書いた「照れ笑い」というのは、そういう日本人独特の民族性に起因するものと
考えてよいのでは?
日本以外では、あまり類を見ない。

●こわれた心

 話を戻す。

 こうした人間関係をつづけていると、人間性そのものまで、おかしくなる。
表では同情するフリをしながら、その実、相手の不幸を別の場所で楽しむ、など。
その人が不幸な状態にあると、わざわざその人を、のぞきに行く人すらいる。
理由は、何でもよい。
「ちょっと、こちらのほうへ来ました」とか、「昔、あなたのお母さんには世話になり
ましたから」とか、言う。
そして当人の前では、さも同情したフリをする。
フリをしながら、その人の不幸話を聞き出す。
聞き出して、それをあとで楽しむ。
酒の肴(さかん)にして楽しむ。

 が、演技は演技。
醜い演技。
つまりいつも自分の心を偽っていると、そういうことが、平気でできるようになる。
またそういうことが平気でできる人というのは、相当、心のゆがんだ人とみてよい。
本人は、そうは思っていないだろうが……。

●異質な世界

 かく言う私も、日常的に、それが当たり前の世界で、生まれ育った。
あっちを見ても、タヌキ。
こっちを見ても、タヌキ。
そういう世界だった。

 もっともそれを知ったのは、オーストラリアへ渡ってからのこと。
私はそこで、私が生まれ育った世界が、あまりにも異質、異様な世界だったことを、
知った。
当然のことながら、白人の世界では、ウソは通用しない。
ウソを言ったとたん、その世界から、はじき飛ばされてしまう。
自分の心を偽ったときもそうだ。

 だから日本へ帰ってきてからの私は、努めて、自分に正直に生きるようにした。
心をさらけ出して生きるようにした。
そのひとつが、冒頭に書いた言葉である。

『私は、一度でも、その人の悪口を言ったり、書いたりしたときには、
その人とは、つきあわない。
その人とわからない形で、書いたときも、つきあわない。
例外はない。

一方、私の悪口を言っていると知った人とは、つきあわない。
例外はない』と。

●孤高

 50歳も過ぎると、その人がどういう人なのか、よくわかるようになる。
同時に、今後つきあうべき人なのかどうなのかも、よくわかるようになる。
これは私の言葉ではなく、ワイフの言葉である。

人生にも限りがある。
限りがあるなら、与えられた時間は、無駄にできない。
言うまでもなく、心を偽って生きることは、それ自体が、時間の無駄。
回り道をするだけならまだしも、へたをすれば、おかしな袋小路に入ってしまう。
とくにタヌキと呼ばれている人たちとつきあっていると、何がなんだか、
わけがわからなくなってしまう。
「信頼」という言葉さえ、通用しない。
秘密裏に話したことさえ、しばらくすると、みなに伝わったりする。

 だからタヌキと呼ばれている人たちとは、つきあわない。
同時に、自分自身も、タヌキになってはいけない。
心を偽らない。
ありのままをさらけ出して、生きる。
それで自分の住む世界が小さくなったとしても、それはそれ。
「孤高」というのは、それをいう。
50歳を過ぎたら、孤高、おおいに結構。
あとは前だけを見て、まっすぐ進めばよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 悪口論 孤高論 人間関係論)


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●「幸福合戦」

+++++++++++++++++++++

昔、「幸福合戦」という言葉を使う人がいた。
どこかの宗教団体に属する人だった。
その言葉を聞いたとき、その団体のことはともかくも、
私は「ナルホド」と思った。
「いい言葉」と思った。

戦闘的な言葉だが、相手が「幸福」なら、悪くない。
どうせ生きるなら、幸福に生きるのがよい。
そのために戦うというのなら、それは悪くない。

ただ、それにはひとつの重要な条件がある。
この言葉の向こうには、どうしても「他人の目」
を感じてしまう。
幸福合戦といっても、他人の目を意識してはいけない。
自分との戦い。
あくまでも自分との戦い。
他人は関係ない。
もちろん他人と比較してもいけない。
他人と比較したとたん、幸福観が、
相対的なものになりやすい。

「他人が不幸なら、自分は幸福」
「他人より幸福なら、自分は幸福」と。

もちろん自分が不幸でも、敗北感を
覚える必要はない。
人生は、常に終わり、その終わったところから、
またつぎが始まる。
幸福にしても、不幸にしても、そのときの状態が、
結論ではない。
結論と考えてはいけない。
仮に今、幸福であっても、
また今、不幸であっても、
今のつぎには、また別の「今」がある。

+++++++++++++++++++++

●幸福とは何か

 「幸福とは何か?」。
それがわかりにくい。 
あえて言えば、幸福というのは、「不幸」の反対側にあるもの。
病気でなければ、健康。
不安なければ、平和。
心配がなければ、安心。
それらが集合されて、幸福につながっていく。

 が、それでもわかりにくい。
さらにあえて言えば、「幸福」というのは、それを失ったとき、はじめてわかる。
健康にしても、青春時代にしても、それがそこにあるときは、その価値に気づかない。
空気か、さもなければ、そよ風のようなもの。
さわさわと流れて、実感がない。
そういう意味では、幸福というのは、薄いガラス板のようなもの。
ふとしたきっかけで、簡単に割れる。
こわれる。

●幸福になるために

 が、幸福になるには、それだけでは足りない。
言い方を変えると、仮に病気であっても、また不安や心配があっても、幸福に
なることはできる。
反対に、健康で、不安や心配がまったくない人でも、不幸な人はいくらでもいる。

 つまり幸福であるかないかを知るためには、もうひとつの尺度が必要ということに
なる。
尺度といっても、幸福度を知るための尺度ではない。
あくまでも、私やあなた自身が、幸福感を自分のためのものにする尺度ということに
なる。

 その第一の条件が、夢と希望、そしてその先にある、「生きがい」ということになる。

●生きがい

 人生は、生きがいとの闘いといっても過言ではない。
生きがいを創造する。
その生きがいに向かって努力する。
そこから生まれる充実感が、幸福感ということになる。

 よく誤解されるが、欲望を満たすことは、幸福感にはつながらない。
満足感イコール、幸福感ではない。
(満足感に酔いしれ、それでもって、私は幸福と錯覚する人は多いが・・・。)
見分け方は簡単。
そのつど、自分に、「だから、それがどうしたの?」と、自問してみればよい。
欲望には、その答がない。
生きがいには、その答がある。

 もちろん健康であればよい。
心配や不安がなければよい。
しかし健康は、加齢とともに、ますますあやしくなる。
心配や不安については、程度の差もあるが、それがない人はいない。
だから結局は、「生きがい」ということになる。

●賢者の言葉

 幸福とは何か?
世界の賢者の言葉を拾ってみる。

The happiest people don't worry too much about whether life is fair or not, they just get
on with it.
Andrew Matthews, "Happiness in a Nutshell"
幸福な人というのは、人生が公平かどうかということには、あまり悩まない。
幸福な人は、自分の人生を、そのまま受け入れて生きる。

For most of life, nothing wonderful happens. If you don't enjoy getting up and working
and finishing your work and sitting down to a meal with family or friends, then the
chances are that you're not going to be very happy. If someone bases his happiness or
unhappiness on major events like a great new job, huge amounts of money, a flawlessly
happy marriage or a trip to Paris, that person isn't going to be happy much of the time.
If, on the other hand, happiness depends on a good breakfast, flowers in the yard, a
drink or a nap, then we are more likely to live with quite a bit of happiness.
Andy Rooney

人生のほとんどの部分では、すばらしいことなど起きない。
もしあなたが、起きて、仕事をして、仕事を終えて、家族や友だちと食事をするために座
るなら、そのとき、あなたはとても幸福だということ。
もし幸福や不幸といったものを、たとえば大きな仕事とか、大金とか、あるいは完璧な結
婚生活とか、パリへの旅行などのような大きなできごとに基礎を置くなら、その人は人生
の大半で、幸福ではないということになる。
一方、幸福というのは、おいしい朝食、庭の花、一杯を飲む、うたた寝によるものとする
なら、あなたはたいへんな幸福とともに、生きることになるだろう。

We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the same.
-Anne Frank

私たちはみな、幸福になりたいという目的のために生きている。
人生はみなちがうが、しかしみな、同じ。

Think of all the beauty that still left in and around you and be happy!
Anne Frank

あなたのまわりに残っている美しいものを考えなさい。
そして幸福に感じなさい。

Happiness is a warm puppy.
Charles Schulz

幸福は、暖かい子犬。

When I meet people from other cultures I know that they too want happiness and do not
want suffering, this allows me to see them as brothers and sisters.
Dalai Lama, Tenzin Gyatso

幸福を望み、苦しむのがいやだという、私が知っている他の文化から来ている人に会うと、
私はその人たちが、兄弟や姉妹のように思う。

There is a very fine line between "hobby" and "mental illness."
Dave Barry

「趣味」と、「心の病気」の間には、明確な一線がある。

Always do what you want, and say what you feel, because those who mind don't matter,
and those who matter don't mind
Dr. Suess

いつもしたいことをせよ。
感じたことを言え。
なぜならそれを気にする人は、何も言わない。
何か言う人は、気にしない。

You get more joy out of the giving to others, and should put a good deal of thought into
the happiness you are able to give.
Eleanor Roosevelt

他人に与えることで、あなたはもっと多くの喜びを得る。
そしてあなたが与えることができる幸福の中に、あなたの思いを、多くその人に伝えるこ
とができる。

It is not by accident that the happiest people are those who make a conscious effort to
live useful lives. Their happiness, of course, is not a shallow exhilaration where life is
one continuos intoxicating party. Rather, their happiness is a deep sense of inner peace
that comes when they believe their lives have meaning and that they are making a
difference for good in the world.
Ernest A. Fitzgerald

幸福な人というのは、有用な人生を送るため、絶え間ない努力をしている人というのは、
けっして偶然によるものではない。
彼らの幸福は、もちろん華やいだパーティで、浅薄な浮き浮きしたものではない。
むしろ、彼らの幸福というのは、彼らの人生に意味があり、世界のためによいことをして
いると信ずるときに生まれる、内面の平和をともなった、深い感覚である。

We tend to forget that happiness doesn't come as a result of getting something we don't
have, but rather of recognizing and appreciating what we do have.
Frederick Koenig

私たちは、幸福というのは、もっていなかったものを、手に入れることの結果としてくる
ものでないことを、忘れがちである。
幸福というのは、今、私たちがもっているものを、認識し、それを味わうことである。

Man is fond of counting his troubles but he does not count his joys. If he counted them
up as he ought to, he would see that every lot has enough happiness provided for it.
Fyodor Mikhailovich Dostoyevsky

人というのは、トラブルの数は数えやすいものだが、喜びの数は数えない。
もしその人が、喜びの数を数えるなら、彼は、それぞれの運命には、じゅうぶんな幸福が
あることを知るだろう。

There is work that is work and there is play that is play; there is play that is work and
work that is play. And in only one of these lies happiness.
Gelett Burgess

仕事のための仕事もあり、遊びのための遊びもある。
仕事のための遊びもあり、遊びのための仕事もある。
これらひとつの中にだけ、幸福がある。

If you have nothing else to do, look about you and see if there isn't something close at
hand that you can improve! It may make you wealthy, though it is more likely that it
will make you happy.
George Matthew Adams

何もすることがないなら、あなたのそばにあって、改善できることがないかどうかを知れ
ばよい。
それがあなたを、幸福にするようになるかもしれないが、それがあなたを豊かにするかも
しれない。

People take different roads seeking fulfillment and happiness. Just because they're not
on your road doesn't mean they've gotten lost.
H. Jackson Brown Jr.

人は満足と幸福を求めて、ちがった道をとる。
彼らがあなたと同じ道にいないからといって、彼らは道に迷っているということではない
のだから。

Happiness is good health and a bad memory.
Ingrid Bergman

幸福というのは、健康と、すばらしい思い出。

The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid.
J.D. Salinger

幸福と喜びのちがいは、幸福は固定的なものだが、喜びは、流動的なもの。

Three grand essentials to happiness in this life are something to do, something to love
and something to hope for.
Joseph Addison

人生における、幸福の3つ重要な要素。
それは、すべき何かがあること、
愛すべき何かがあること、
希望とすべき何かがあること。

One of the first conditions of happiness is that the link between Man and Nature shall
not be broken.
Leo Tolstoy

幸福であるひとつの条件は、人間と自然のつながりを、壊させてはならないということ。

I've learned from experience that the greater part of our happiness or misery depends
on our dispositions and not on our circumstances.
Martha Washington

私は学んだ。
幸福の大部分、あるいは不幸の大部分は、その人の性質によるものであって、環境による
ものではないということ。

Everything exists in limited quantity ー especially happiness.
Picasso

すべてのものには、限界量がある。
とくに幸福は、そうだ。


It's a funny thing about life; if you refuse to accept anything but the best , you very often
get it.
Somerset Maugham

人生について、もしあなたが最高のものだけのみを受け入れるようにしていれば、あなた
はしばしばそれを手に入れるというのは、おかしなことだ。

Wisdom is the supreme part of happiness.
Sophocles

智慧は、最高の幸福である。

The supreme happiness in life is the conviction that we are loved ー loved for ourselves,
or rather, loved in spite of ourselves.
Victor Hugo

人生における最高の幸福は、あなたが愛され、という確信である。
私たち自身のために愛されるというよりは、私たち自身に関係なく愛されるということ。

●幸福になるために・・・

 世界の賢者の言葉を並べて読んでいると、その向こうに、「幸福とは何か」、それが
見えてくる。
要するに、幸福というのは、私たち自身のすぐそばにあって、私たちに見つけてもらう
のを、静かに待っている。
それを知った人が幸福ということになる。
またそれがこのエッセーの結論ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幸福 幸福論)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●慣習からの脱却(Beyond the Morals)

++++++++++++++++++++++

地方の田舎へ行くと、(浜松市内にもあるが)、
慣習の多さに驚かされる。
日々の生活が、慣習によって成り立っているとさえ
言える。

こうした慣習は便利なものだが、(というのも、
そのおかげで、「手続き」として、何も考えなくて
行動できるので)、他方で、人間の自由なる創造性を
阻害する要因ともなる。

そこでコールバーグは、「慣習からの脱却」を、
道徳的完成度の、ひとつの尺度として取り入れた。

(1)前慣習的段階
(2)慣習的段階
(3)脱慣習的段階、と。

(1)前慣習的段階というのは、何も考えず、慣習に
従って行動することをいう。
(2)慣習的段階というのは、臨機応変に、慣習を
自分なりに取捨選択しながら利用することをいう。
(3)脱慣習的段階というのは、慣習にとらわれず、
自分で考えて行動することをいう。

田丸謙二先生が口癖のように言っている、「Independent
Thinker」(独立した思索人)」というのは、そういう人を
いう。

++++++++++++++++++++++

●冠婚葬祭

 慣習が、直接的、かつ顕著に私たちの生活を支配するのが、冠婚葬祭である。
冠婚葬祭、とくに「葬祭」ほど、慣習のかたまりのようなものはない。
「死んだあとのことは、人に任せばいい」という安易な死生観が、こうした慣習を
そのままのさばらせている(?)。
が、どうして自分なりの葬祭を自分で考えてはいけないのか。
自分で行ってはいけないのか。

 言うなれば慣習というのは、ベルトコンベヤーのようなもの。
その上に乗っていけば、何ごとも、無事、かつ簡単にすむ。
それほど注意を払う必要のないものについては、そのほうが楽。
近所づきあいにせよ、はたまた村や町の祭りについても、そうだ。
が、問題は、そのあと。

 「どうでもいいことは、慣習に従えばいい」と考え、あいた時間を、大切なことに
使うなら、まだよい。
が、中には、慣習漬けになり、自ら思考することを放棄してしまう人もいる。
あるいは思考力そのものを失ってしまう。
それこそ慣習がなければ、何一つ、行動できなくなってしまう。

●喪服

 A氏(60歳)夫婦は、先日、父親の納骨のため、新潟県のN町まで行ってきた。
新幹線とローカル線を乗り継いで行ってきた。
そのこともあって、A氏は、喪服ではなく、黒いブレザーと、黒いズボンを、着用
して行った。
A氏の妻も、似たような服装で行った。

 また駅から寺までは、タクシーで行った。
そのタクシーは、寺での法要がすむまで、寺の外に待たせた。

 寺に同席した参列者は、実の姉夫婦だけ。
読経は20~30分程度ですみ、A氏はタクシーでそのまま墓へ。
が、これが姉夫婦の逆鱗に触れた?

 以後、ことあるごとに、A氏の姉は、近所や親戚の人たちに、こう言いふらした。
「A男夫婦は、喪服を着てこなかった」
「A男は読経中、トイレに立った」
「A男は、タクシーで墓へ行った」と。

 ほかにもささいなミス(?)をとらえて、A男を責めた。
こういうケースのばあい、A氏の姉は強い。
「慣習」という、強力な「後ろ盾」がある。

 が、どうして法事は、喪服でなければならないのか?
いつ、だれが、そういう慣習を決めたのか?
さらに言えば、タクシーで墓へ行っては、どうしていけないのか?
A氏の姉は、「(遺骨をかかえて)、歩いて行くべきだった」と。

●慣習

 先にも書いたように、慣習は、あれば便利なもの。
どうでもよいことについては、慣習に従えばよい。
さらに言えば、法の世界には、法としての慣習もある。
たとえば「入会権(いりあいけん)」というのがある。
たとえ他人の山林であっても、その山へ入って、薪(たきぎ)類を取ってくるのは、
慣習として認められている。

 さらに進んで、「自動車は左側通行」というのもある。
これは他人の安全を考えての慣習が、法制度化されたものである。
「信号を無視して走ってもいい」ということになったら、それこそ交通がマヒしてしまう。

 が、それでも私たちは、常に慣習を疑い、慣習と闘う。
それが人間生活に不都合なものであれば、臨機応変に考えて対処する。
あるいはそれと闘う。

 よい例が、封建時代の遺物である。
この日本には、江戸時代という封建時代の遺物が、いたるところに残っている。
「家」制度、家督制度、家父長意識、身分制度、職業意識、男女観などなど。
コールバーグの説いた、前慣習的段階の人には、それがわからないかもしれない。
しかし一歩進んで、慣習的段階の人、さらには脱慣習的段階の人には、それがわかる。
それを「道徳の完成度」と結びつけてよいかどうかについては、異論もあろう。
しかしコールバーグは、それを道徳の完成度と結びつけている。

(「道徳」と「Morals」は、かならず一致するものではない。
英語で「Morals」というと、「行動の基準」をいう。
日本語で「道徳」というと、そこにどうしても儒教的なニュアンスを感じてしまう。)

 ともあれ、私たちは常に考え、常に行動する。
自ら考え、自ら行動する。
最後にあのマーク・ツウェィンも、こう書き残している。

『人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき』と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 道徳 コールバーグ 道徳論 前慣習的段階 慣習的段階論 脱慣習的
段階 はやし浩司 マークツエイン マーク・ツウェイン マークツウエイン)

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2002年10月に書いた原稿を添付します。

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●朝に道を聞かば……

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論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。

それについて以前書いた原稿を添付します。

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『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い
方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をい
う。薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きて
いるだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実
感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生き
る目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と
生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまっ
た。同じように三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞
くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚
釣りかランニング。「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考え
ることはあるの?」と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あ
なたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑い
ながら、こう言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目
です」と。そういう女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを
同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。
あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、1835~1910)も、こう書いて
いる。「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一
歩、話を進める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。
私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お
金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も
残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。し
かし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口
300万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私1人だけという時代だった。そん
なある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一
日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書
いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、
振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はま
だ結論出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、
広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度
が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世
界の問題。他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからと
いって、落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
あくまでも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くするこ
とになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これか
ら先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02-10-5)

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、2倍にすれば、あなたはほかの人より、2倍の人生を
生きることができる。10倍にすれば、10倍の人生を生きることができる。仮にあと一
年の人生と宣告されても、その密度を100倍にすれば、ほかのひとの100年分を生き
ることができる。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を
聞かば、夕べに死すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方
に死んでも、悔いはないということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、
そういう意味も含まれる。

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ついでに、儒教のことも書きましたので、
2008年10月に書いた原稿を
添付します。

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●孔子の60代(Confucius on 60’s)

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60代といえば、孔子の生き様が参考に
なる。

孔子(前551~前479)は、魯に仕え、
大司寇となったが、権力者と衝突し、56歳
から10年間、魯を去って諸国を歴遊したという
(ブリタニカ国際大百科事典)。

その10年間で、孔子は諸侯に道徳的政治の
実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の
教育と著述に専念したという(同)。

『春秋』や他の儒家の経典はそのとき生まれたが、
『論語』は、孔子と弟子の言行録と言われている(同)。

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計算すると、孔子は、満73歳前後でこの世を
去ったことになる。
それまでの基礎があったのは当然としても、
今、私たちがいうところの「孔子」は、
ブリタニカ国際大百科事典を参考にすれば、
満66歳前後から73歳前後までに「孔子」に
なったことになる。

ただ釈迦にせよ、キリストにせよ、孔子にせよ、
弟子に恵まれたということ。
弟子たちが、「師」の教えを、後世に残し、伝えた。
もし弟子に恵まれなかったら、釈迦も、キリストも、
孔子も、今に名を残すことはなかった。

それはそれとして、孔子が60歳を過ぎてから
(がんばった)というのは、たいへん興味深い。
言いかえると、「50歳だから……」とか、
「60歳だから……」とか言って、あきらめてはいけない。
……ということを、孔子は私たちに教えている。

が、同じ60歳でも、私と孔子は、どうしてこうまでちがうのか。
ひとつの理由として、中国の春秋時代は、今よりはるかに純粋な時代では
なかったということ。
つまりその分だけ、雑音も少なく、回り道もしなくてすんだ。
それにもうひとつ率直に言えば、当時は、情報量そのものが少なかった。
春秋時代に、人が一生かけて得る情報量は、現代の新聞1日分もなかったのでは
ないか。
言いかえると、私たちは、情報の洪水の中で、何が大切で、何がそうでないか、
それすらも区別できなくなってしまっている。
あるいは大切でないものを大切と思いこみ、大切なものを、大切でないと
思いこむ。

もちろんだからといって、孔子の時代が今よりよかったとは思わない。
釈迦やキリストの時代にしても、そうだ。
しかしここにも書いたように、今よりは、純粋であったことだけは、事実。
たとえて言うなら、子どものような純朴さが、そのまま生きるような時代だった。
このことは、私たちの子ども時代と比べてみても、わかる。

私たちが子どものころには、テレビゲームなど、なかった。
携帯電話もなかった。
しかしだからといって、私たちの子ども時代が、今の子どもたちの時代より
貧弱だったかといえば、だれもそうは思わない。
だから、こと(思想)ということになれば、孔子にはかなわないということになる。

このことは、私たちにもうひとつの教訓を与える。

老後になればなるほど、純朴に生きる。
というのも、私たちは、あまりにも情報、とくに金権教的な情報に毒されすぎている。
人間の命さえも、マネーという尺度で判断してしまう。
そういうものからだけでも解放すれば、ものの見方も、かなり変わってくるはず。

ともあれ、あの時代に、60歳を過ぎてから、「諸侯に道徳的政治の
実行を説いた」というところは、すごい!

さらに「晩年は魯で弟子の教育と著述に専念したという」ところは、
もっとすごい!
だからこそ「孔子は孔子」ということになるのだが、それにしても、すごい!
私たちが頭に描くジジ臭さが、どこにもない。
そういう点で孔子の生き様は、本当に参考になる。

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