2010年5月7日金曜日

*W of Bertland Russell

●子育ての山と谷(子育ての限度)

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「山」だからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
「谷」だからといって、取り越し苦労をしてはいけない。

子育てには、山もあれば、谷もある。
山がすべてではないし、谷がすべてでもない。
山を基準に子育てを見てはいけない。
谷を基準に子育てを見てもいけない。

子育ては、常に平常心。
「限度」をよくわきまえ、動揺しない。
親は親で、マイペースで進む。

ここでは、その「限度」について。

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●限度

 あのバートランド・ラッセルは、「限度」という言葉を使った。
「限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えられる」と。

 それはその通りで、仮にあなたが長男に、新車をプレゼントしたとしよう。
結婚祝いでも何でもよい。
すると、二男は、それを見て、「自分も買ってもらって当然」と思うようになる。
だから買ってあげても、二男は、「ありがとう」とは言うかもしれないが、そこまで。
で、その話を聞いた三男は、今度は、あなたに、車を買ってくれと請求するかも
しれない。
「兄たちが買ってもらったんだから、ぼくも、買ってほしい」と。
買ってあげても、もちろん、感謝などしない。
「当然」と考える。

 これが「限度」である。
わかるかな?
子育てには、その限度がある。
やるべきことは、やる。
しかしそれ以上のことは、しない。
したら最後、限度がなくなる。
「その限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えられる」(バートランド・
ラッセル)と。

 つまり子どもに車など、買ってやってはいけない。
それは親のすべきことではない。

●親孝行

 はっきり言おう。
最近の若者に、親孝行を説いても無駄。
その意識すらない。
「親孝行」の意味すら、知らない。

 親は自分の意識を基準に、子どもにもそれがあると思うかもしれない。
しかしどんな調査結果をみても、今、日本人(成人男女)で、「将来、
親のめんどうをみる」と考えている若者は、20%前後しかいない。
多くは、「経済的に余裕があれば」という条件をつけている。
つまり「みない」と。
(この世の中に、経済的に余裕のある若者は、いない!)

 あとはささいなきっかけを理由に、「縁を切る」と言って、親を捨てる。
ある男性(40歳)は、「息子(=孫)の運動会に来てくれなかった」という理由だけで、
父親との縁を切っている。
「だからそんな親のめんどうは、みない」と。
つまり(めんどうをみたくない)という思いが先にあり、その口実として、「運動会
に来てくれなかった」という理由にもならない理由を、こじつける。

こういう現状を、いったい、どれだけの人が知っているだろうか。

●きびしくなる老後

 あなたが40代、50代の人なら、こうアドバイスしたい。
「無駄な教育費など、子どもにかけるな!」と。
よほどの余裕があるなら、話は別。
そうでなければ、自分の老後をしっかりと見据え、あまったお金は、自分の
老後の資金に回す。
「息子(娘)に、学資をかけておけば、その見返りはあるだろう」などと考えるのは、
幻想以外の、何ものでもない。
子どもも幸福になり、感謝されるはずというのも、幻想以外の、何ものでもない。

 冷たいことを書いているようだが、これがそこにある「現実」であり、それから
生まれる悲劇が、今、いたるところで起きている。
そうでなくても、やがて人口の3分の1が、高齢者になる。
2人の働き手が、1人の老人を支えることなど、不可能。
むずかしい経済学を知らなくても、そんなことは、だれにでもわかる。
それが「現実」。

 で、学資をかけた分だけ、子どもが親に感謝しているかと言えば、それはない。
よほどの子どもでも、それはない。
今、親に感謝しながら、高校に通っている子どもは、ゼロ!
大学生でも、ほぼゼロ!
親の金で遊びまくったとしても、子どもには、罪の意識はない。
「ぼくたちは、子どものころから、やりたくもない勉強をさせられた」と。

●毒された社会

 どうして、日本は、こうなってしまったか?
そのひとつのヒントが、中国にある。
あの国では、すべてが、マネー、マネー、マネー。
ちょうど30年遅れで、日本を追いかけている。
その結果、中国人は、「心」を見失ってしまった。
ありとあらゆることを、金儲けにつなげて考える。
道徳も倫理も、あったものではない。
そうした中国人たちを見ていると、30年前の日本を思い出す。

 さらにこのことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。
私は、幼児期の子どもから、高校3年生まで教えている。
1日というサイクルの中で、教えている。
だから子どもたちの「心」が、どのように変化していくかが、よくわかる。
そのひとつが、受験期の子ども。

 受験期にかかると、子どもは、急速に暖かい「心」を見失っていく。
ものの考え方が功利的、打算的になる。
人間関係も殺伐したものになる。
親子関係、教師との関係も、無難というわけにはいかない。

 が、最大の悲劇は、そうした「心」を見失いながらも、子ども自身がそれに気づかない
ということ。
さらに悲劇は、そういう子どもほど、親は、「できのいい子」と言って、喜ぶ。
言うまでもなく、親自身が、すでに暖かい「心」を見失っている。

●私の時代

 私の時代には、まだ温もりがあった。
今の若い人たちに、こんなことを言っても理解されないだろう。
しかし私たちの時代には、親への仕送りは、当然のことだった。
私も、結婚する前から、収入の半分を、岐阜の実家へ毎月、送っていた。
ワイフと結婚するときも、それが条件だった。
だから、ワイフは、何も迷わず、結婚してからも、実家へ毎月、お金を送っていた。

(ただし経済的負担感というより、その社会的負担感には、相当なものがあった。
けっして楽しくて、仕送りしていたわけではない。……念のため!)

 が、今はちがう。
私の息子たちにしても、懸命に働かざるをえなかった私を、むしろ反対に責める。
「パパは、家庭を顧(かえり)みなかった」と。
そういう言葉を聞くたびに、私はこう思う。
「貧しさを知らない世代は、かわいそう」と。
そう、私たちは、いつも(貧しさ)というよりは、(ひもじさ)と闘っていた。
毎日、空腹だった。
毎日が、その闘いだった。

 ワイフにしても、生まれたとき(昭和24年生まれだが)、やせ細り、いつ死んでも
おかしくない子どもだったという。
私も、ひざの骨が変形している。
成長期の栄養不足(カルシウム不足)が、原因という。

 が、若い人たちには、それが理解できない。
豊かさがあることについても、「当たり前」と考える。
だからこんな会話をしたことがある。

「ぼくらは、戦後、きびしい時代を生きてきた」と、こぼしたときのこと。
その青年(25歳くらい)は、こう言った。
「そんなの、あんたたちの責任だろ。あんたたちが、勝手に起こした戦争だから」と。

 そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
どうであれ、私はこう言いたい。

 子どもの学費も結構。
子どもの教育も結構。
しかし自分の老後を見ながら、お金は大切に使え、と。
車なんか買ってやるのは、もってのほか。
「ありがとう」と言うのは、そのときだけ。
私が経験者だから、それをよく知っている。

●再び限度

 かなり否定的なことを書いた。
もちろん親子仲よく、むつまじく過ごしている人たちも多い。
しかしそういう人たちほど、「競争」とは無縁の世界で、子ども時代を送っている。
受験競争を経験していない。
「心」を見失っていない。
つまりその分だけ、お金に毒されていない。

 しかしこれだけは、最後に言える。

 こうして「心」を見失った若者たちにせよ、結局は、被害者ということ。
そのツケは、その子ども自身に回っていく。
今は、わからない。
しかし今度は自分が老後を迎えたとき、その悲惨さを、自ら体験する。
「私はだいじょうぶ」と、高をくくっている若い親ほど、あぶない。
「私たちは、良好な親子関係を築いている」と、うぬぼれている親ほど、あぶない。
すでにその時点で、子どもの心を見失っている。
それもそのはず。

 「心」というのは、外から見えている部分よりも、見えていない部分のほうが、
はるかに大きい。
自分の「心」にしてもそうだ。
ましてや肉体を別にした、子どもの心など、親がいくら想像力を働かせても、わかる
はずはない。

 その一例として、冒頭に、車の話を書いた。
親は、「息子たちは感謝しているはず」と思うかもしれない。
しかしそれはまさに幻想。
わかりやすく言えば、「意識のズレ」。
学費にしても、結婚費用にしても、また新居費用にしても、そこには「限度」がある。
その「限度」をしっかりと守りつつ、子育てをする。
これは、子育ての第一の基本と考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 子育ての限度 ラッセル 親のすべきこと してはいけないこと)


Hiroshi Hayashi++++++May 2010++++++はやし浩司

●人の心

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円柱がある。
上方向から見れば、「円」。
真横から見れば、「長方形」。
見る角度によって、まったくちがった形に見える。

人の心も、また同じ。

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●60数人のいとこ

 私には60数人のいとこがいる。
たいへんな数である。
その中でも、親密に交際しているのは、現在では、3~4人に過ぎない。
が、最近、おもしろいことに気づいた。

 数人のいとこを、A、B、C、Dとする。
で、そのいとこたちの話を聞いていると、同一人物、たとえば同じXさんについて、まったく別の評価をする
ことがある。

Aさんは、「あのXさん(=いとこ)は、すばらしい人だ」と言う。
Bさんは、「あのXさんは、ひどい男だ」と言う。
Cさんは、「あのXさんは、鼻つまみ者だ」と言う。
Dさんは、「あのXさんは、人間のカガミだ」と言う。

 ときに、評価が、180度ちがうから、おもしろい。
……というより、驚く。
そういうとき私は、どう返事してよいかわからなくなる。
というのも、私は私なりに、Xさんに対して、私の印象をもっている。
「はあ……」「はあ……」と答えるだけで、精一杯。

●白と黒

 どうして人によって、同じ人の評価が、180度もちがうのか。
その理由の第一が、ときとして人は、(好き・嫌い)を、(白・黒)に置き換えて
考える傾向がある。
中間的な「灰色」の状態にしておくよりは、白・黒をはっきりさせながら、自分の
心を整理する。
わかりやすくする。
「Xさんは悪人」と決めつけて、遠ざかる。
「Xさんは善人」と決めつけて、交際をつづける。

 若いときは、あいまいなままでも、自分の心をごまかすことができる。
しかし歳を取ると、そういうあいまいな評価をすることに、疲れを覚えるようになる。
つきあうべき人と、そうでない人を、区別するようになる。
結果として評価の仕方が、極端化する。

●上下意識

 つきあうといっても、今では、たがいにあいさつ程度。
みな、遠い昔の人たちである。
それに当時は、私も、ただの子どもだった。
それほど深いつきあいがあったわけではない。
心を通わせたこともない。
「血のつながり」とはよく言うが、捕らえ方は、人、それぞれ。
私のように、それを何でもないと思う人もいれば、反対に、何よりも大切と思う人も
いる。

 私のばあいは、親戚づきあいというのは、あまり得意ではない。
とくの私の家系の人たちは、上下意識が強く、それに何かにつけて、浪曲調。
演歌調と言うべきか。
サラサラと流れる清流というよりは、どこかドロドロしている。
その上、江戸時代そのままの封建意識を引きずっている人も多い。
最近になっては、法事だとか、墓参りだとか、葬儀だとか、何かにつけて、ものの
考え方が、うしろ向き。
それに暗い。

●印象

 話を戻す。

 いとこたちの話で興味深いのは、それぞれについて家庭環境がよくわかっていること。
どうしてそういう考え方をするのか、またするようになったのか、その背景がよくわかる。
話を聞きながら、「相続問題がこじれたから」とか、「生活問題がからんでいるから」とか、
その向こうに隠された問題まで、よくわかる。

 が、いとこたちについて書くのは、ここまで。
「みんないい人たちです」という書き方で、ここでは、終わりたい。
ただこと私自身について言うなら、私のことを悪人と思っている人もいる。
善人と思っている人もいる。
悪い印象をいだいている人もいる。
よい印象をいだいている人もいる。
それがときとして、間接的だが、わかるときがある。

 で、そういうとき、私のばあい、「なるほどなあ」で終わる。
弁解もしない。
喜ぶこともない。
何しろその背景には、半世紀近い、時の流れというものがある。
その(流れ)の中で、熟成されている。
聞いたからといって、自分の印象が変わるわけではない。
話したからといって、相手の印象を変えられるわけではない。
一方、残された時間は、短い。
はっきり言えば、どうでもよい。
どう思われたところで、どうということはない。

 だからこの「私」についても、人によっては、印象が180度ちがうこともある
だろう。
私という人間は、1人の人間なのだが、上から見れば「円」。
横から見れば「長方形」。
どれも正しい。


Hiroshi Hayashi+++++++May 2010++++++はやし浩司

●狂った頭

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4、5年前にも、1度、あった。
そして再び、昨日も、あった。
私の頭が、狂った!

4、5年前のときは、バレンタイン・デー
でもらったチョコレートを食べ過ぎた。
それが原因だった(?)。

で、昨日は、炎天下で草刈りをした。
ふだんでも水をよく飲む私が、ほとんど
水を飲まなかった。
草刈りが終わってからも、飲まなかった。
のどが渇きすぎて、その(渇き)が、
どうかなってしまった(?)。

頭が狂ったのは、それからしばらくしてからの
ことだった。

まず、昨日の早朝に見た夢と、現実の区別が
つかなくなった。
「いつ見た夢だろう?」と考えてみたが、
それがわからない。
「夢だったのか? それとも現実だったのか?」と。

で、そのうち、頭の中に箸(はし)が、思い浮かんできた。
食事のときに使う、あの箸である。
その箸が、頭の中に浮かんでは消え、そのつど、あちこちの
思い出と重なり始めた。
が、ふと我に返ると、その箸が消えていた。
消えて、今度は、川の水が思い浮かんできた。
その中に、数字の形をした魚が泳いでいた。
私は、数学の問題を解き始めた……。

で、またふと、我に返る。
こういう状態が、1時間ほどつづいた。
理由も、原因もわからない。
脱水症状が、脳の中で、何らかの変化を引き起こしたらしい。
あるいは塩分の低下?

 家に帰って、あわてて甘いパンを食べた。
牛乳に、ハチミツを入れて飲んだ。
しばらくすると、思考が、正常に戻った。
軽い頭痛は残ったが、それは頭痛薬で収まった。

●原因

 ……ということで、私は、脳の機能が正常でない人の状態が、よく理解できる。
もしああした状態が、日常的に、かつはげしくつづいたら、私も病院へ入らなければ
ならない。
脳が勝手に乱舞するというのは、恐怖そのもの。
(思考)が、自分のコントロールの外に出る。
「夢」とはちがう。
そこには、「私」はない。
実際に経験してみると、こ・わ・い。
自分で自分でなくなってしまう。

●予言

 あえて言うなら、予言者と呼ばれる人たちの脳の構造に似ているのでは(?)。
予言者と呼ばれる人たちは、自分で考えて、ものごとを予言するわけではない。
頭の中に、勝手に、いろいろなことがらが思い浮かんでくるそうだ。

 よく知られた人に、ジュセリーノとか、ジーン・ディクソンとか、そういう人たちがいる。
それ以前はというと、エドガー・ケイシーとか、さらには、ノストラダムスとかいう人たちがいた。
日本にも出口王仁三郎という人もいた。
が、私は基本的には、私は予言なるものを信じていない。
「未来」は、常に現在の「事実」が集合されて、作られていく。

 そうした人たちの脳について、ここでとやかく書くつもりはない。
しかしもし本当に、自分の意思とは別に、未来なるものが勝手に脳に思い浮かんでくるとしたら、それは「予言」というよりは、「脳の乱舞」に近いのでは?

 この世界も、ややカルト化しているから、こういう意見を書くと、袋だたきにあうかもしれない。
が、「当たった」「当たった」という割には、彼らの予言は、それほど当たっていない。
厳密に調べていくと、そうなる。
たとえば……。

●2012年

 最近、「2012」という映画を観てきた。
が、あまり印象に残っていない。
それ以上に、「2012年」に関する情報が多すぎて、その中に埋没してしまった。
その2012年に、「地球は滅ぶ」と。
何でも宇宙から大隕石が落ちてくるという。
可能性のある隕石として、「トータチス」と名づけられた隕石がある。
直径が1キロ近くもあるという。

 仮にそんな巨大な隕石が地球と激突したら、(速度にもよるが)、ツングースカに落ちた隕石の2000倍の威力になるという。
ツングースカに落ちた隕石というのは、……まあ、何かの本で読んでほしい。
わかりやすく言えば、もしトータチスが、秒速30万キロメートルの速度で、地球に落下したら、広島型の原爆の、約1万倍の威力になるということ。
海面に落ちれば、半径1000キロメートルの範囲で、高さ300メートルの津波が発生する。

 しかしこれは予言ではない。
「可能性として、ないことはない」という、科学の世界の話である。
しかもこの話には、こんな余談がある。

 こうした隕石があるにせよ、その隕石に接近し、たとえば爆薬を取りつける技術力があるのは、この日本だけだそうだ。
何とも心強い話ではないか!

 ……ということで、私は、あまり心配していない。
いろいろ言われているが、あの「ノストラダムスの大予言」にしても、ことごとく、ハズレ!
大切なことは、冷静な思考力と判断力。
それがいかに重要なものであるかは、自分の頭が狂ったときに、わかる。

●脳の老化とともに

 脳の病気というと、機能的な病気では、認知症がある。
が、それ以上にこわいのは、「暴走」。
しかし「脳の暴走」については、ほとんど問題になっていない。
話題にもなっていない。

 これはどうしたことか。
似たような現象だが、ときどき子どもの世界にも、観察される。
たいていは一時的なものだが、ないわけではない。

 さらに私自身は経験ないが、何かの薬物を摂取すると、似たような暴走が起きるということは、よく知られている。
つまり私は原因はよくわからないが、昨日、その疑似体験をしたことになる。
が、正直言って、恐ろしかった。
ただ2度目ということで、冷静に対処できたが、恐ろしかったことは事実。
先にも書いたが、私は、水分と塩分を補給し、甘いものを食べた。
しばらくすると、自分で自分の思考をコントロールすることができるようになった。
夢の内容と、現実を、明確に区別することができるようになった。

 しかし……。

 これからは脳の老化とともに、こうした現象がたびたび起こるようになるのかもしれない。
脳をコントロールする前頭連合野の働きそのものが、鈍くなる。
注意しよう!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 脳の異常 脳の乱舞 恐怖体験)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

【BW幼児教室+小1クラス】

●指導2か月目に入った。
幼児クラスでは、今回は、「文字」をテーマにした。
小1クラスでは、「大きな数」をテーマにした。
最近は、外国のサイトが、私のビデオを特集してくれることが多くなった。
今ではどの国のどのサイトが、どのように私のBLOGやビデオを取りあげているか、
それが即日に、わかるようになった。
がぜん、やる気が出てきた。

幼児教室というと、誤解も多い。
泣き叫んでいやがる子どもを、無理矢理押し込めて教えるのが、幼児教室と思っている人も多い。
しかしそれは誤解。
幼児は知的遊戯に飢えている。
私のビデオを観て、その誤解を解いてもらえれば、うれしい。

【幼児・年長児クラス】













【小学1年生クラス】

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/5/mQFTKtgMlnA

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/8/3HOD9ErU51g

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/7/6xXFkAmoXFo

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/5/mQFTKtgMlnA

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BW教室をもっと見てくださる方へ

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より(BW公開教室)へお進みください。

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 BW幼児教室 BW幼児クラブ BW子どもクラブ BW教室)

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