2010年5月26日水曜日

*June 16th

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      6月   16日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの虚言癖



++++++++++++++++++



兵庫県にお住まいの、HGさんより、

子どもの虚言癖についての相談があった。

子どもの虚言癖についての相談は多い。

以前のもらった相談と重ねて、この

問題を考えてみたい。



++++++++++++++++++



はじめまして。小学校2年生の男子(長男)についての相談です。

子供の嘘について相談します。



息子のばあい、空想の世界を言っているような嘘ではなく、

「自分の非を絶対に認めない」嘘です。



先日担任の先生からお電話があり、こんなことがあったそうです。



(1)何かの試合の後、「○○君のせいで負けたんだ」と発言。直接その子に言ったようでは
なかったが、言われた子は泣き出してしまった。 担任が注意しようとすると、「僕、言っ
ていない」の一点張り。しかし、先生も周囲にいた複数のクラスメートが、言ったことを
聞いている。



(2)工作の材料にバルサの板のようなものを4枚、持ってきた子がいた。気がつくと3
枚しかなく、探していたところ、いつのまにかうちの子が1枚持っており、「自分が持って
きたものだ」と言い張る。



そこで本当に家から持ってきたものなのかどうか、先生から問い合わせという形で、電話
がありました。



しかし、当日家から持っていた形跡はなく、問いつめると



子:「家の近所で拾った」

私:「どこで拾ったか、連れて行って」

子:「わかんない。通学路で拾った」

私:「通学路のどのあたり?」

子:「○○の坂を上がって、右に曲がったところ」

私:「○○君は教室まで4枚、あったって」

子:「・・・」



という感じで、つじつまを合わせようと必死。最後に私が「○○君が持っていたのが欲しく
なっちゃったんだ?」と聞くと、小さくコクリ。最後まで「自分が取ってしまった」とは
言いませんでした。



また、休日においても、先日お友達と野球場に行った際、お友達(4生)と弟(5歳)と
の3人で、高いところから通路へ石投げに興じてしまいました。そこへ野球場を管理する
おじさんから「そんなことしちゃいかん!」と一喝。



私は現場を見ていなかったので、「何やったの!?」と聞くと、またしても「僕、何にもや
っていない」の一点張り。(お友達は「自分もやったが、○○(うちの子)も一緒にやった」
と言いました)。しばらくして父親が登場(草野球の試合をしていました)、「おまえもやっ
たんだろ?」と威厳ある態度で聞くと小さくコクリ、でした。

石投げについては、私の聞き方がまずかったかな? (嘘を言うことが可能な質問)とも
思いますが、平然と周知の事実について頑なに嘘を突き通すことについて、子供の心の中
がどうなっているのかわからなくなりそうです。



小学校1年の頃までは嘘を言うと、なんとなく顔や態度に出るのであまり気にはしていま
せんでしたが、最近はそれがなくなり「絶対正しい!」という自信さえ漂わせています。



生きていくうえでは嘘は必要なものでもありますが、それより以前に自分に打ちかって、
正直に言うことや誠実であることの大切さをわかってもらうには、今後、どう対応してい
ったら良いのでしょうか?



どうぞよろしくお願いします。

(兵庫県A市在住、HGより)



++++++++++++++++++



【HGさんへ】



 以前、書いた原稿を、まずここに掲載しておきます。



++++++++++++++++++



子どものウソ



Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。
(小二男)



A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障
害による虚言、それに(3)虚言。



空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるか
のように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状の
ひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症状をともな
うことが多い。



これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。



ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、
自慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。



母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せな
さい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。



 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソを
つく。「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。  



その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想
的虚言という。こんなことがあった。



 ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの
子の手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをす
るのですか!」と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、
「相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。



 結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。



イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想
の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。



このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、
反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界
をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」
式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、特徴である。



どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」
だけを繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子ども
を責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。



++++++++++++++++++++++++



 ここまでは、いわば一般論。雑誌の性格上、この程度までしか書けない。つぎにもう少
し、踏みこんで考えてみる。



 子どものウソで、重要なポイントは、子ども自身に、ウソという自覚があるかどうかと
いうこと。さらにそのウソが、人格的な障害をともなうものかどうかということ。たとえ
ばもっとも心配なウソに、人格の分離がある。



 子どものばあい、何らかの強烈な恐怖体験が原因となって、人格が分離することがある。
たとえばある女の子(二歳)は、それまでになくはげしく母親に叱られたのが原因で、一
人二役(ときには、三人役)の独り言を言うようになったしまった。それを見た母親が、「気
味が悪い」といって、相談してきた。



 このタイプの子どものウソは、まったくつかみどころがないのが特徴。ウソというより、
まったく別人になって、別の人格をもったウソをつく。私の知っている女の子(小三、オ
ーストラリア人)がいる。「私は、イタリアの女王」と言うのだ。そこで私が「イタリアに
は、女王はいない」と説明すると、ものごしまで女王ぽくなり、「私はやがて宮殿に迎えい
れられる」というようなことを繰りかえした。



 つぎに心の中に、別の部屋をつくり、その中に閉じこもってしまうようなウソもある。
これを心理学では、「隔離」という。記憶そのものまで、架空の記憶をつくってしまう。そ
してそのウソを繰りかえすうちに、何が本当で、何がウソなのか、本人さえもわからなく
なってしまう。親に虐待されながらも、「この体のキズは、ころんでけがをしてできたもの
だ」と言っていた、子ども(小学男児)がいた。



 つぎに空想的虚言があるが、こうしたウソの特徴は、本人にその自覚がないということ。
そのためウソを指摘しても、あまり意味がない。あるいはそれを指摘すると、極度の混乱
状態になることが多い。



私が経験したケースに、中学一年生の女の子がいた。あることでその子どものウソを追及
していたら、突然、その女の子は、金切り声をあげて、「そんなことを言ったら、死んでや
る!」と叫び始めた。



 で、こうした子どもの虚言癖に気づいたら、どうするか、である。



 ある母親は、メールでこう言ってきた。「こういう虚言癖は、できるだけ早くなおしたい。
だから子どもを、きびしく指導する」と。その子どもは、小学一年生の男の子だった。



 しかしこうした虚言癖は、小学一年生では、もう手のほどこしようがない。なおすとか、
なおさないというレベルの話ではない。反対になおそうと思えば思うほど、その子どもは、
ますます虚構の世界に入りこんでしまう。症状としては、さらに複雑になる。



 小学一年生といえば、すでに自意識が芽生え、少年期へ突入している。あなたの記憶が
そのころから始まっていることからわかるように、子ども自身も、そのころ人格の「核」
をつくり始める。その核をいじるのは、たいへん危険なことでもある。へたをすれば、自
我そのものをつぶしてしまうことにも、なりかねない。



そのためこの時期できることは、せいぜい、今の状態をより悪くしない程度。あるいは、
ウソをつく環境を、できるだけ子どもから遠ざけることでしかない。仮に子どもがウソを
ついても、相手にしないとか、あるいは無視する。やがて子ども自身が、自分で自分をコ
ントロールするようになる。年齢的には、小学三,四年生とみる。その時期を待つ。



 ところで私も、もともとウソつきである。風土的なもの、環境的なものもあるが、私は
やはり母の影響ではないかと思う。それはともかくも、私はある時期、そういう自分がつ
くづくいやになったことがある。ウソをつくということは、自分を偽ることである。自分
を偽るということは、時間をムダにすることである。だからあるときから、ウソをつかな
いと心に決めた。



 で、ウソはぐんと少なくなったが、しかし私の体質が変わったわけではない。今でも、
私は自分の体のどこかにその体質を感ずる。かろうじて私が私なのは、そういう体質を押
さえこむ気力が、まだ残っているからにほかならない。もしその気力が弱くなれば……。
ゾーッ!



 そんなわけで小学一年生ともなれば、そういう体質を変えることはできない。相談して
きた母親には悪いが、虚言癖というのはそういうもの。その子ども自身がおとなになり、
ウソで相手をキズつけたり、キズつけられたりしながら、ウソがもつ原罪感に自分で気が
つくしかない。また親としては、そういうときのために、子どもの心の中に、そういう方
向性をつくることでしかない。
それがどんなウソであるにせよ……。
(030605)



【補足】

 以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。内容が重複するが、参考までに……。



+++++++++++++++++



●子どもがウソをつくとき



●ウソにもいろいろ



 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのよ
うにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。



 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示
(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついてい
るという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、
母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。



 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソを
つく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というの
がそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態
を、空想的虚言という。
こんなことがあった。



 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。
「うちの子(年長男児)が手に大きなアザをつくってきました。
子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではありませんか。
どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」と。
ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。
そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相
手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。



 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバ
スの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげ
た。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。
結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつく
ったらしい……、ということになった。



 イギリスの格言に、
『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』とい
うのがある。
子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、
注意せよという意味である。
このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想を
もちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。
そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさ
に「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。
ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。



 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。
「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。
必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソがうまく
なる。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

おとなの世界とて、例外ではない。
おとなといっても、もとは、子ども。
おとなになっても、虚言癖の残る人は多い。
最近聞いた話に、こんなのがある。
これは「おとなの虚言癖」について。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【空想的虚言vs思い込み】

●思い込み

+++++++++++++++++++++++++

私の知り合いに、思い込みのはげしい女性がいる。
年齢は、65歳くらい。
こだわりも強い。
ひとつのことにこだわり始めると、ずっとそのことに
こだわる。
それもあって、最近は、心療内科に通っている。
うつ病薬を常用している。

+++++++++++++++++++++++++

●空想的虚言

 空想的虚言と思い込み。
空想的虚言は思い込みによって生まれ、思い込みが強いと、それはしばしば空想的虚言へ
と変身する。
この2つは、かなりの部分で重なり合う。
その女性について、知っていることをそのまま書くわけにはいかない。
その女性は私のことを、よく知っている。
私もその女性のことを、よく知っている。
ここでは、あくまでも、「例」として、その女性について書く。
名前をMKさん(もちろん仮名)としておく。
またここに書くMKさんは、実在の人物ではない。
いろいろな人をまぜて、1人のMKさんとした。
架空の人物である。

●ウソ

 だれしも、ある程度のウソはつく。
しかしウソはウソ。
ウソと自覚しながら、ウソをつく。

 が、そのウソが、ウソの範囲を超えて、心の別の世界へ入ってしまう。
心の別の世界へ入ってしまい、ウソと現実の区別がつかなくなってしまう。
そういうウソを、空想的虚言という。
「妄言」ともいう。

 イギリスの教育格言にも、こういうのがある。
『空中の楼閣を想像するのは、かまわない。しかし空中の楼閣に住まわせてはいけない』
と。
子どもは空想が好き。
が、空想が勝手に肥大化し、現実と空想の区別がつかなくなってしまうことがある。
昔、「私はイタリアの女王」と言い張った女の子(6歳女児、オーストラリア人)がいた。
子どもの世界では、空想的虚言に注意しなければならない。
おとなの世界とて、例外ではない。

●MKさんのケース

 MKさんの近くに、ひとりで住んでいる女性がいる。
年齢は80歳を超えている。
独居老人である。
MKさんは、何らかの形で、その女性を助けたことはあるらしい。
助けたといっても、使い走り程度ではなかったか?

 ところがその後、MKさんの口から出てくる言葉は、はるかに現実離れをしていた。

「見るに見かねて、私、風呂に入れてあげました」
「毎週、そのおばあちゃんを訪問し、夕食を作ってあげています」
「先日は、相続問題で、名古屋市に住む息子さんのところまで、印鑑を取りに行ってあげ
ました」と。

 どんどんと話がふくらんでいく。
他人がしたことまで、自分の話の中に、織り交ぜていく。

●ぜんぶ、ウソ

 MKさんの話は、もちろんぜんぶ、ウソ。
よくよく考えると、矛盾だらけ。
今は介護制度もあり、必要な人は、それなりの公的サービスを受けられる。
入浴サービスもあるし、訪問介護制度もある。
ところが、MKさん自身は、そうは思っていない。
「自分がした」と思い込んでしまっている。
その上で、ウソにウソを塗り重ねていく。

心のどこかでは、ウソということを感じているのかもしれない。
が、自ら、それを打ち消してしまう。
自分の中に別人格を作り上げ、それが本当の自分と思い込んでしまう。

 MKさんの脳の中の様子は、私には、わからない。
が、ひとつだけはっきりしている。
だれかがMKさんの言ったことについて、まちがいや矛盾を指摘したりすると、MKさん
は、パニック状態になるということ。
ギャーと叫んで、そのまま混乱状態になる。

●自己愛者

 自己中心性が極端に肥大化した人を、自己愛者という。
「自分を愛する」という意味ではない。
「極端な自己中心主義者」という意味で、「自己愛者」という。

 その自己愛者の特徴のひとつに、「否定(批判)されると、パニック状態になる」という
のがある。
自己愛者は、自分の「非」を認めない。
まちがいも、認めない。
だれかがその人を批判したりすると、今度は逆に、その相手を、徹底的に攻撃する。
ふつうの攻撃ではない。
どこまでも激しく、執拗に攻撃する。
ウソにウソを混ぜて、攻撃する。

 MKさんも、そうだ。
「私はぜったい正しい」と思うのは、MKさんの勝手。
が、いつもその返す刀で、自分の意見と合わない人を、「まちがっている」と決めつける。
まさに「ああ言えば、こう言う」式の反論を重ねる。
ときに感情的になり、それを制御できなくなる。

●2人の弟氏

 こんなことがあった。
MKさんには、2人の弟氏がいた。
上の弟氏とは仲がよかった。
しかし下の弟氏とは、ウマが合わなかった。
下の弟氏は、MKさんのことを、ズバリ、「タヌキ」と呼んでいた。
その地方では、「ウソつき」という意味である。

 MKさんと、弟氏が、駅で待ち合わせて会うことになった。
MKさんは、「10時にA駅の前で」と言った。
A駅あたりで、私鉄とJRの2本の路線が交差している。
私鉄は「A駅」、JRは「JR・A」と、そのあたりの人たちは言い分けている。
で、弟氏のほうは、「A駅と言えば、私鉄のほう」と、理解した。
それ以前に一度、そこでたがいに待ち合わせたことがある。
で、弟氏が10時にA駅へ行ってみると、MKさんは、いなかった。
そのため30分以上、たがいに待たされることになった。
が、そのあと、MKさんは、ものすごい剣幕で弟氏を叱った。

 弟氏は、「あなたはA駅と言った。メモまでしたからまちがいない」と言った。
MKさんは、「JRのA駅とちゃんと言った。メモを取ったというウソを言うな」と言った。
「私が言いまちがえるはずはない」と。

 駅前でのできごとで、通りがかった人たちが振り返って見るほど、MKさんは大声で弟
氏を怒鳴りつづけた。

●さらに……

 この事件のときも、そうだった。
MKさんの言ったことが本当なのか。
それともMKさんの弟氏の言ったことのほうが、本当なのか。
私は今までのつきあいの中で、弟氏の言っているほうを信用する。
弟氏は、実直な人だった。

 つまりMKさんは、実際には「10時にA駅で」と言っただけだった。
しかし思い込みがはげしく、それが自分では「JRのA駅で」と言ったつもりになってし
まった。

 もしこのときMKさんに、正常な(?)判断力があるなら、自分のまちがいをすなおに
認めるはず。
認めて、「ごめん」で、すむはず。
が、MKさんには、それができなかった。

●仮面

 空想的虚言と思い込み。
この2つは、かなりの部分で、重なり合う。
ときにどちらが優勢で、どちらがそうでないか、それが、よくわからなくなる。
MKさんのケースがそうである。

 現実とウソの区別がつかなくなってしまい、ウソの世界を正しいと思い込んでしまう。
あるいは思い込みがはげしくなり、現実を見失ってしまう。
加えてMKさんには、自己愛者的な要素があった。
まちがいを認めることは、MKさんには、できなかった。
自分勝手でわがまま。
それに勝気。
一見、やさしくおだやかに見えるが、それは仮面。
人当たりもよく、初対面の人は、みなこう言う。
「すばらしくよくできた人ですね」と。
長い間、仮面をかぶっていると、どれが本当の自分の顔か、わからなくなってしまうこと
がある。
MKさんは、自分では、「私はすばらしい女性」と思い込んでいた。

●MKさんの人間性

 私がよく覚えている事件にこんなのがある。
ある日、何かの話の拍子に、MKさんは、ふとこう言った。
「弟(=下の弟)の嫁さんは、浮気をしているのよ」と。

 私は弟氏の妻もよく知っているが、とてもそういう女性には見えなかった。
驚いていると、MKさんは、こう言った。
「奥さんがちょっと席を離れたとき、私、バッグの中を見たら、バッグの中に、コンドー
ムが何個か入っていた」と。

 私は奥さんのバッグの中にコンドームがあったということよりも、バッグの中をのぞい
たMKさんの行為に仰天した。
私はワイフと結婚して40年になるが、いまだかって、ワイフのバッグの中をのぞいたこ
とがない。
だからその話には、背筋がぞっとするような嫌悪感を覚えた。
一事が万事、万事が一事。
MKさんという女性は、そういう人だった。

●自分を知る

が、最大の問題は、MKさん自身が、自分のそういう姿に気がつくときがくるだろうか
ということ。
自分の妄想癖、自己中心性、さらには人間性の崩壊などなど。
が、私は65歳前後というMKさんの年齢からして、それはむずかしいと思う。
MKさんによほどの向学心と、自分を見つめる真摯な姿勢でもあれば、それもわかるだろ
う。
自分を静かに見つめて、それに気づくだろう。
が、その雰囲気は、ない。
むしろ、MKさんは年々、ますます低劣化している。
いつ見ても、セカセカと、せわしなく動き回っている。
それに老人性の痴呆性も加わってきた。
「3桁の数字もまちがえる」と、数年前になるが、MKさんの夫が話していたのを覚えて
いる。

●私の印象

 私が受ける印象では、MKさんのケースでは、ますますウソが多くなってきたように思
う。
弟氏も、先日会ったとき、そう言っていた。
最近では、他人がしたボランティア活動ですら、あたかも自分がしたかのように話すこと
もあるという。
弟氏はこう言う。

「最近は、姉(=MKさん)に会うのが、こわいです。
ささいなミスをとらえては、大げさに騒ぐからです」と。

 弟氏が父親の七回忌に行ったときのこと。
弟氏はタクシーで行き、そのタクシーを寺の外で待たせておいた。
それで寺での法要が終わると、そのまま墓地まで、タクシーで向かった。
それについても、「みなにロクにあいさつもせず、急いで行った」と。
弟氏は、その旨、みなにあいさつをしたつもりだったと言っているが……。

●老齢

 私の母もそのとき90歳を過ぎていた。
脳梗塞で、脳をCTスキャンで検査したが、脳は半分程度に萎縮していた。
ドクターは、「90歳を過ぎると、みなこうなりますよ」と言った。
そうでなくても、私たちの脳神経は、毎日20数万個ずつ死滅している。
10日で、200万個。
100日で、2000万個。
1年で、約7億個。
10年で、約70億個!

 90歳で脳そのものが半分になったところで、何もおかしくない。
つまり私たちの脳みそは、そうでなくても、日々に劣化している。
平たく言えば、底に穴のあいたバケツのようになる。
知恵や知識は、どんどんと、その穴から外へ、こぼれ出て行く。

 MKさん(もちろん架空の女性)についても、そうだ。
補充する前に、それまであった知識や経験、常識や技術、さらには人間性まで、こぼれ出
ていく。
だから「精進(しょうじん)」、つまり日々の研鑽あるのみということになる。
が、このタイプの女性にかぎって、それをしない。
極端な自己中心性が、自分の目と耳を、ふさいでしまう。
「私は完成された人間である」という思い込みが、自らを盲目にしてしまう。

●終わりに……

 最近の研究によれば、脳の活動量は、脳の酸素の消費量を見て判断するのだそうだ。
たとえばある特定部分の脳の活動が活発であるからといって、脳全体が活発に活動してい
るということにはならない。
ほかの部分が眠った状態になることも、ありえる。
よい例が、「ゲーム脳」と呼ばれる脳である。
ある特定部分の脳は、きわめて活発に活動する。
しかしその他の部分は、眠ったような状態になる。

 「こだわり」についても、同じことが言える。
ひとつのことにこだわるあまり、ほかの部分が眠ってしまった状態になる。
よい例が、私が特別擁護老人ホームで出会った女性(90歳前後)である。

 その女性は、一日中、「飯(めし)は、まだかア!」と叫んでいた。
食事に対して異常なこだわりを示していたが、ほかの部分は、眠ったままだった。

 むしろ人間は、リラックスした状態のほうが、脳全体の酸素の消費量がふえるという。
(この部分は、雑誌『サイエンス』の立ち読み情報なので、不正確。)
言い換えると、音楽を聴いたり、映画を観たり、雑誌に目を通したり、あるいは旅行先で
窓の外の景色を見たりしたほうが、脳は活発に活動する(?)。
つまり脳の健康ということを考えるなら、(こだわり)は、百害あって一利なし。
へたをすれば、そのままうつ病の世界に、落ち込んでしまう。

 話が脱線したが、空想的虚言と思い込み。
この両者は、同一のものではない。
ないが、ある部分で、大きく重なり合う。
つまり空想的虚言を口にしやすい人は、それだけ思い込みがはげしいということ。
(その反対でもよい。)
だから、ウソにせよ、思い込みにせよ、それを自分の中に感じたら、それと闘う。
それは同時に、脳の老化との闘いであるといってもよい。
放置すればやがていつかあなたも、あのセンターの一室で、「飯はまだかア!」と叫んでい
た、あの女性のようになる。(2010-5-16)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 空想的虚言 虚言癖 子どものウソ 嘘 子供の嘘 妄言 妄想 は
やし浩司 思いこみ 思い込み こだわり こだわりと鬱 鬱とこだわり)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●家族自我群

+++++++++++++++++++

家族として、ひとつのまとまった自我の
集団を、「家族自我群」という。
ボーエンという学者が使った言葉だが、
日本人のばあい、それがどういうものかは、
改めて説明するまでもない。
「家」意識、家父長意識、上下意識をともなった
親子関係、夫婦関係などなど。
さらにこの日本には、「家族」を超えた、「親族
意識」というものがある。

こうした自我の集団は、その(個人)を、
がんじがらめに、縛りつける。
縛りつけて、その「幻惑」に苦しむ。
そのため日本人は、(日本の若者たちは)、自分の
確立に悩む。
そのまま「家」の奴隷となる人も少なくない。

言うまでもなく「家族」と「個」は、常に
対立関係にある。
家族自我群が強ければ強いほど、「個」の確立、
これを「個人化」というが、その「個」の確立が
むずかしくなる。
が、それだけではない。

+++++++++++++++++++++

●「家族」vs「個」

 私たちがもっている(意識)ほど、あてにならないものはない。
最近、改めてそれを知ったのは、あるパキスタン人と話していたときのこと。
彼は現在、浜松市内で、インド料理店を経営している。
その男性が、こう言った。

「パキスタン人は、貯金しない」と。

 イスラムの世界には、「イスラム金融」と呼ばれる、特殊な金融制度がある。
他人にお金(マネー)を貸し、利息を取ることは、イスラム教により、きびしく禁止され
ている。
そのためイスラムの世界では、説明するのに何時間もかかるほど、複雑な方法を使って、
日常の商取引をする。
(興味のある人は、「はやし浩司 イスラム金融」で検索してみるとよい。)

で、そのパキスタンでは、「仕事は必要なときに、必要な分だけしながら、その日を過ごす」
そうだ。
それが彼らの生活の基本になっている。

私が「日本では考えられないね」と言うと、「日本とは正反対!」と説明してくれた。
たとえばパキスタンでは、組織(会社)の肩書きや地位など、ほとんど意味をもたないと
いう。

 「日本では、70歳になっても、現役時代の肩書きを引きずって生きている人は多いよ」
と話すと、そのパキスタン人は、首をかしげてニヤリと笑った。
「パキスタンでは考えられない」という意味で、ニヤリと笑った。
つまり「意識」というのは、そういうもの。
国や民族、宗教がちがうと、意識そのものが、正反対になることもある。
もちろん哲学や価値観も、影響を受ける。

 わかりやすい例として、「家族意識」がある。

●日本人の家族自我群

 私は「家族」を否定しているのではない。
共同体としての家族は、「個」を生み、育(はぐく)む場として、必要である。
しかし同時に、家族という共同体は、「個」の生育を、さまたげる場所となることもある。
21世紀になった今でも、江戸時代の「家制度」そのものに縛られ、身動きがとれず、苦
しんでいる人は多い。

 そうでない人からみれば信じられないことかもしれないが、事実は事実。
「家あっての個」と考える。
「家」が「個」を縛り、干渉し、支配し、その進むべき道まで決めてしまう。
そのため「個」が犠牲になる。
「家」に縛られ、そこで一生を終える。

 そこで大切なことは、そのときどきにおいて、「家」と「個」をうまく調和させながら、
生きていくといくこと。
「個」が「家」の犠牲になることは、実際、バカげている。
しかし「個」は、「家」の温もりなくして、生きていくことはできない。
もちろん「家」イコール、「家族」ではない。
ボーエンが言った「家族」というのは、「親子関係」をいう。
「兄弟・姉妹関係」も、それに含まれるかもしれない。

●私の経験から

 私は家族自我群が濃密な「家」で、生まれ育った。
しかし「濃密だった」ということを知ったのは、私が40代になったころのこと。
それまでは、それが私にとっての常識であり、私の知る社会の常識だった。
それ以外の「家」を、あまり知らなかった。
知ってはいたが、むしろそちらのほうを、異質と考えていた。

 今でもそうだが、私の生まれ育った「家」では、親類縁者ともに、上下意識が強く、「家」
を中心に、みなものを考えている。
母の実家では、いまだに、「本家」「新家」という言葉が、日常的に使われている。
その意識のない人たちからみれば、バカげた風習だが、その意識のある人たちからみれば、
私たちのそうした意識は理解できない。
できないばかりか、自分たちの意識を、そのまま私たちに押しつけてくる。

 それは先にも書いたように、一方では「温もりのある社会」を形成する。
「家」という一体性に融和することは、それ自体、心地よい。
人間が本来的にもつ孤独感が、そのまま癒される。
が、同時に、「家」は、それから抜け出る者を許さない。

●呪縛感

 が、その一方で、「家」には、ものすごい呪縛感がある。
先にも書いたが、「家あっての個」と考える。
だから「個」が「家」の犠牲になっても、その社会の中に住む人たちは、それを当然と考
える。
「本家」と「新家」の関係でいうなら、本家あっての新家ということになる。
家族の関係でいうなら、親あっての子ということになる。

 だから私たちの時代(戦後生まれの団塊の世代)には、「外」に出た者は、実家への仕送
りを、当然と考えていた。
親も、当然と考えていた。
今の時代では考えられないことだが、私の母にしても、そのつど私の家にやってきては、
そのつど10万円単位(当時)のお金を、もって帰っていった。

 だから私は今、むしろ逆に、今の時代のほうに、違和感を覚えることが多い。
私の息子たちにしても、(当然のことだが)、「親を助ける」という意識は、まったくない。
いわんや「家」を助けるという意識は、さらにない。
どちらが正しくて、どちらがまちがっているとか、そういうことを書いているのではない。
意識のちがいというのは、そういうもの。

●個人化

 その人が「個人」としての「個」を確立することを、「個人化」という。
「私は私」という生き様をいう。
この個人化の確立に失敗すると、その人の生き様は、世俗を意識したものへと変化する。
わかりやすく言えば、「世間体」の中に身を置いた生き様になる。
日本人の中には、このタイプの人が、たいへん多い。
「多い」というより、少なくとも私の知る欧米人の中には、そういう人はいない。

 となると、話を進める前に、ひとつの疑問が生じてくる。
ボーエンは、「家族」のどの部分を見て、「家族自我群」という言葉を考えたのかという疑
問である。
日本的な「家」では、なかったはず。
日本的な「家族」でも、なかったはず。

 もともとボーエンは、精神科医であり、精神分裂病患者の家族研究をしていた。
その過程の中で、家族療法を体系化し、家族と個人の関係に行き着いた。
その多くが、家族との融和の中で、「個」の確立に失敗していることを発見したのかもしれ
ない。
そして「個」を、家族のもつ自我群から切り離し、「個別化」と「自立性」の確立を、その
治療目的とした。

 つまり私たちが日本で考える「家族」イコール、ボーエンの説く、「家族自我群」の「家
族」ではない。
さらに厳密に言えば、ボーエンが頭に描いた「家族」というのは、「濃密な親子関係」だっ
たかもしれない。
異常なまでの過干渉と過関心が日常化している、そんな親子関係である。

●幻惑

 「家」に押し殺される人は多い。
「家族」でもよい。
たとえば子どもでも、不安先行型の母親に養育されると、ハキのない子どもになる。
「うちの子は、何をしても心配」という思いが、子どもの心を萎縮させる。
(反対に、自分の子どもに自信をもっている親の子どもは、明るく、生き様が前向き。)

 子どもの側で考えてみよう。
もしあなたが親に、「あなたはダメな子」といつも言われつづけていたとする。
するとあなたは何をしても、不安になる。
自分がやりたいこと、できることについても、自信をなくしてしまう。
「私はダメな人間」と。

 そういう思いが、あなたを負の方向へと引っ張っていく。
それが「幻惑」である。
つまり「家」もしくは、「家族」のもつ重圧感が大きければ大きいほど、そしてそれから受
ける呪縛感が大きければ大きいほど、あなたは幻惑に苦しむことになる。

 ボーエンは、そのあたりに精神疾患の原点を見たのかもしれない。

●保護vs依存

 どうであるにせよ、「家族」と「個」は、常に対立関係にある。
(だからといって、敵対関係というわけではない。誤解のないように!)

 そこでさらにこの問題を掘り下げていくと、そこに(保護)と(依存)の関係が見えて
くる。
「家族は個を保護し、個は家族に依存する」と。
が、ここで誤解していけないことは、子(下の立場の者)が、親(上の立場の者)に依存
するだけが、保護と依存の関係ではないということ。
親(上の立場の者)が、子(下の立場の者)に依存するケースも、同じくらいの割合で多
い。
その保護と依存関係が変形して、親は子を束縛し、子は、親に束縛される。
というのも、私は、つぎのような親を、教育の場で、よく見かける。

 親はこう言う。
「うちの子は、甘えん坊で(=依存性が強くて)困ります」と。
が、よくよく調べてみると、親自身が、依存性が強い場合が、多い。
自分が依存性が強いから、つい子どもの依存性に甘くなる。
つまり「甘えん坊で困ります」と言いながら、子どもを甘えさせている。
またそういう関係を、「良好な親子関係」と誤解している。

 つまりこの問題は、世代から世代へと連鎖しやすく、家族、あるいは親類縁者が全体と
して、「家族自我群」を形成するということ。
それくらい「根」が深く、また解決には、時間を要する。
(あるいは1世代や2世代程度では、解決しないかもしれない。)

●怨憎会苦(おんぞうえく)

 「家族」がもつ呪縛感には相当なものがある。
またそれから生まれる苦しみは、仏教でいう四苦のひとつ、「怨憎会苦」に似たものがある。
(私自身は、「幻惑」と「怨憎会苦」の区別ができない。)
へたをすれば、「個」は、幻惑そのものに、押し殺されてしまう。
またそういう例は、多い。
私のまわりにも、そうした人がいる。
あなたのまわりにも、そうした人がいる。

 では、どうするか?

●「私」の復活

 たとえばこんな問題が、私の近辺で起きつつある。

 もうすぐ実兄と実母の3周忌がやってくる。
が、今ではこのあたりでも、(宗派にもよるが)、初盆さえしない家庭がふえている。
浜名湖に面して、昔からの漁村がある。
私のワイフの母親の実家だが、そこでも、7世帯のうち、初盆をしたのは、3~4世帯の
みと聞いている。

 で、自分なりに、「周忌」について調べてみた。
が、結果は、釈迦仏教とは縁もゆかりもない、日本独特の奇習ということがわかった。
「地蔵十王経」という、だれが読んでもそれとわかる、日本製のニセ経が原点になってい
る。
だからといって、死者への弔いが無意味と書いているのではない。
それはそれ。
しかし、自分の理性をねじまげてまで、死者を弔うのは、かえって死者を冒涜することに
なるのでは……?
(私の知人の中には、生前中は、さんざん親を苦しめておきながら、今になって墓参りだ
けは一生懸命している人もいる?)

 が、一方で、先日郷里へ帰ったら、親類たちが、こう言い合っているのを聞いた。

「あのAさんは、親の33回忌をしたんですってねえ。偉いもんですな」とか、反対に、「あ
の息子は、親の3回忌にすら、顔を出さなかったんですよ。人間のクズですね」とか。

 そういう話を横で聞いていると、その瞬間、私が「私」でなくなってしまう。
幻惑と言うほど、おおげさなものではないかもしれないが、しかしそうした「家族自我群」
が集合されると、たいへんな力(パワー)をもつ。
いわんやそういう社会の中で毎日生きていたら、(私だったら)、気がヘンになってしまう
(?)。

 で、私を復活するためには、どうすればよいか。
方法は2つある。

(1)私なりの生き様を貫く。
(2)妥協して、笑ってすます。

 多くの人は(2)の方法を選ぶだろう。
いらぬ波風を立てるくらいなら、「丸く」生きた方が得。
しかしそれでは、この日本は、何も変わっていかない。
私も変わらない。
もうすぐ3周忌をするかしないか、その結論を出すが、この年齢になると、「妥協」という
言葉に、大きな抵抗感を覚える。
妥協して生きるのは、もうたくさん。
うんざり!

●終わりに…… 

 このエッセーの中で、私は、「家」「家族」、それに「個」「個人」「私」を、区別すること
なく、家族自我群について書いた。
日本でいう「家制度」と「家族」とは、もちろんちがう。
「個」と「私」も、もちろんちがう。
だから専門の心理学者が読んだら、「はやし浩司は、心理学の基礎も知らない」と笑うだろ
う。

 実際、私も、このエッセーを書きながら、「家制度」と「家族」を頭の中で、あまり区別
しなかった。
書いているうちに、その両者が頭の中で、混ざってしまった。
その第一の理由は、私が日本人だからではないか。
日本には日本の独特の文化や風習が残っている。
だから私にしても、「家」イコール、「家族」ということになる。
(あるいはその反対でもよい。)

 ついでに一言。

 では、なぜ私が20数歳のときから欠かさず、収入の半分を実家に仕送りしていたか。
それには理由がある。

 私は子どものころから親たち(とくに母親や叔父たち)から、こんな話を聞かされて育
った。

「あそこのAさんの息子さんは、立派なもんじゃ。今度、親のために、離れを建ててやっ
たそうだ」
「あそこのBさんの嫁は、ひどいもんじゃ。親に渡す小遣いを、今月は、半分にしたそう
だ」などなど。

 こうして私は自分の中に「家族像」をつくりあげ、それが、そのあとの家族自我群へと
なっていった。
「幻惑」に苦しんだことは、言うまでもない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 家族自我群 幻惑 家制度 家族という束縛 自縛感 ボーエン 個
別化 個人化 個の確立 はやし浩司 個の確立)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【防衛機制】(Defence Mechanism)

●心を守る

++++++++++++++++++++++

人は、大きく分けて、「他責型」と「自責型」がある。
これについては、何度も書いてきた。
たとえばお茶を自分の不注意でこぼしたとする。
そのときすかさず「こんなところにお茶を置いた
人が悪い!」と切り返すタイプの人を、「他責型」
つまり他責型人間という。

反対に、他人がこぼしても、「そこへお茶を置いた
私が悪い」と、自分を責めるタイプの人を、「自責型」
つまり自責型人間という。
見た目の様子で判断してはいけない。
明るく、かっ達な人が、自責型人間であったり、反対に、
静かでおとなしい人が、他責型人間であったりする。

この問題は、あなた自身はどうかという視点で
考えてみると、わかりやすい。

私自身は、いつもこうして攻撃的にものを書いて
いる。
たいていの人は、他席型人間と思うかも知れない。
が、実は、典型的な自責型人間。
何か問題が起きるたびに、内へ内へと、それを
ためこんでしまう。
日本の経済がおかしくなっても、自分の責任の
ように感じてしまう。
だからワイフはときどき、こう言う。
「あなたは、ひとりで、日本を背負っているみたい」と。
そういうおバカなところが、私には、ある。

が、これでは心はボロボロになってしまう。
……というのは、一例だが、心は、自分を守ろうとして、
さまざまな反応を示す。
フロイトは、こうした一連の反応を、「防衛機制」と
呼んだ。

ひとつずつ、例をあげて考えてみよう。

+++++++++++++++++++++

●抑圧

 何か不愉快なことがあると、人は、心の中に別室をつくり、そこへその不愉快な部分を
押し込もうとする。
それを「抑圧」という。
「心の別室」という言葉は、私が考えた。
が、一度、心の別室へ入ると、そこだけがほかの心から隔離されてしまい、(1)時間、(2)
上書き、(3)修正の3つが、働かなくなる。

 「時間が働かない」というのは、10年前、20年前のことが、心の別室の中では、つ
い先日のできごとのように固定化され、そこに残ることをいう。
本来の人格とは別の、「別人格」が、そこにできるとわかりやすい。

私たち夫婦なども、よく夫婦喧嘩をするが、そのとき30年前、40年前のことを持ち
出すことがある。
「あのときお前は!」「あのときあなたは!」と。
とっくの昔に忘れてよいはずなのに、それがそのまま口から出てくる。
ある老夫婦(ともに80歳を過ぎている)のばあいも、それこそ50年以上も前のことを
持ち出して喧嘩しているという。
(私たち夫婦は、そうはなりたくないと思っているが……。)

 子どもの世界でもよく見られる。
親子で喧嘩したようなとき、とっくの昔に忘れてしまってよいようなことを持ち出して、
たがいに言い合ったりする。
「お父さんは、あのとき……!」「お前だって、あのときは……!」と。

 「上書きが働かない」というのは、たとえばその後に、楽しい思い出がいくつか重なっ
たとしても、心の別室に入った記憶は、そのまま。
たとえばふつうの記憶のばあい、仮にいやなことがあったとしても、そのあと別の楽しい
思い出ができれば、それ以前のいやな記憶は消え、楽しい思い出がその上にのる。
仲直りも、それでできる。
これを「上書き」という。

 また心の別室に入った記憶は、そのため、修正がきかない。
平常なとき、心の別室に入った記憶を修正しようとしても、心の別室の記憶は、そのまま。
話し合いを通して、「わかった」と当人は納得しても、またときとばあいに応じて、それが
そのまま心の別室から飛び出してくる。
 
 私のばあいも、「今度、喧嘩しても、もう過去の古い話はやめよう」と思うことはある。
が、喧嘩が始まってしまうと、元の木阿弥。
いつもと同じように言い合ってしまう。
「あのときお前は!」「あのときあなたは!」と。
 
 子育てにおいては、子どもの心に、心の別室を作らないようにする。
はげしい恐怖、怒り、不満、嫉妬、闘争などは、子どもの心にとっては、タブーと心得る。
つまり幼少期であるならなおさら、「抑圧」に警戒する。
親がきつく叱ったりすると、子どもによっては、一見、しおらしくおとなしくなるが、そ
れはあくまでも「表面」。
もっと言えば、「仮面」。
子どもは心に別室を作り、そこに不愉快なものを閉じ込めようとする。
たった一度でも、それが衝撃的なものであったりすると、心の別室ができることがある。

ある女の子(2歳児)は、母親に強く叱られたのがきっかけで、それ以後、1人2役のひ
とり言をするようになってしまった。
母親は「不気味です。どうしたらいいでしょう」と相談してきた。
さらにひどくなると、多重人格性をもつこともある。
これは心の別室とは関係ないが、心というのは、ときとしてそれほどまでにデリケートと
いうこと。

●悲惨な事件

 私の住む隣町で、たいへん悲惨な事件が起きた。
30歳になる男性(無職、NEET)が、家族5、6人をつぎつぎと殺害するという事件
である。
きっかけは、家族のだれかが、インターネットを止めたことだった。
それに激怒して、その男性は、家族をつぎつぎと殺害してしまった(2010年5月)。

 父親は、何かの職人をしていたが、給料は全額、その男性(息子)に渡していたという。
その中から、逆に、息子のほうから親たちが生活費をもらっていた(?)という。

 こういう事件を聞くと、おおかたの人は、「どうして?」と思う。
「世話になっている側が、世話をしている側を殺すなんて!」と。

 新聞で報道された範囲内でのことしかわからないが、その理由のひとつに、先に書いた
「抑圧」があると考えてよい。
その男性は、幼少期に、何らかの形で、心の中に心の別室を作ってしまった。
そこで別人格を作ってしまった。
それが最後に、こういう形で爆発してしまった、と。
ワイフは、こう言った。

「……だって、父親が死ねば、困るのは自分でしょ?」と。

 そこが「抑圧」の、こわいところ。
当の男性は、平常なときには、それを理解する能力はある。
冷静に話し合えば、それなりの道理も通ずる。
(すでに断絶してしまって、会話が途絶えているケースも多いが……。)

しかし何かの拍子に、別室から出てきた「別人格」は、そうは思っていない。
「オレを産んだのは、お前だ。その責任を取れ!」となる。
あるいは「こんなオレにしたのは、お前だ! 責任を取れ!」となる。
意識の方向が、逆。
「親の世話になっている」と考える前に、「自分は親の犠牲者」と考える。
だからそのときになると、見境なく、親を殺してしまう。

●投影

 自分の心の中に、何か受け入れがたいことがあったとする。
よくある例は、(私たち夫婦がそうかもしれないが)、本当は自分が相手を嫌っているのに、
相手が自分を嫌っていると決めつけ、相手を責める。
(ハハハ!)
それを「投影」という。
 
つまり自分の心を相手の中に投影して、自分を正当化する。
もう少し具体的に話すと、こうなる。
(ここから先は、私たち夫婦のことではない。)

 たとえば定年を迎えると、そこにドカッと待っているのは、老後。
それまでの生活のリズムが、人によっては、根底から狂うことがある。
ある妻は、こう言った。
「夫が、本当に粗大ごみに見えるようになった」と。
が、自分のほうから、夫を嫌っているとは言えない。
そこでそのかわり、「夫は私を嫌っている」と、自分でそう思い込んでしまう。
「夫が私を嫌っているから、私は夫から遠ざかる」と。
さらに進むと、「あなたは私を嫌っている」「私はそのたびに、つらい思いをする」「だから
あなたのために、離婚してあげる」となる。

 もう少しわかりやすい例に、こんなのがある。

 これだけ騒がれても、受験生や受験生の親を相手にした悪徳商法は、後を絶たない。
書店で買えば、数万円ですむような教材を、「FAX指導付」「電話指導付」とかいうサー
ビスをつけて、80万円近い値段で、受験生に売りつける。
そんな業者が、この浜松市内にも、支店を構えている。

(余計なことだが、FAX指導にせよ、電話指導にせよ、その程度の指導で、子どもの学
力があがるということは、常識から考えても、ありえない。
もしそうなら、学校という教育機関は、不要ということになる。)

 そういうセールスマンに罪悪感がないかといえば、ないことはない。
しかし彼らは、こう言って、自分の職業(?)を正当化する。
「この世は不公平だ。人生の入り口で、ほんの少し努力すれば、一生、楽な人生が送れる。
そういう不公平があるから、オレたちは苦労する。80万円なんて、安いもの」と。
つまり受験生や受験生の親たちを、「悪者」に仕立て、自分の立場を正当化する。
「だから自分たちのしていることは、まちがっていない」と。

●合理化

 よく私たちは、自分の心をだます。
だましながら生きている。
何か失敗をしたり、損をしたようなときなど。
「どうせ、失敗するに決まっていた」とか、「大損でなくてよかった」とか思い直して、自
分を納得させる。
こうした心理操作を、「合理化」という。

 今までに書いてきた、「抑圧」にせよ、「投影」にせよ、用語としては理解しにくい。
しかしこの「合理化」は、理解しやすい。
日本語でも、そのまま使う。
あえて言うなら、「正当化」というニュアンスも、それに含まれる。
「自己正当化」でもよい。
それには「弁解」「言い訳」「言い逃れ」「あと付け理由」「とりつくろい」「つじつま合わせ」
などが含まれる。
ものごとを、自分の都合のよいように合理化しながら、自分の心をだます。

 先にあげた悪徳教材会社の社員の心理も、合理化で説明できなくはない。
「相手は悪人だ。だからそういう悪人をだましても、自分は悪くない」と。
この中で、「相手が悪人に見える」部分が、投影であり、「だから私は悪くない」と考える
部分が、合理化ということになる。

 さらにこんな話を、私が商社マンだったころ、聞いたことがある。
中国には、『相手にだまされる前に、相手をだませ』という格言があるという。
そのため中国人は、「だまされるほうが、悪いと考える」と。

 これなども、「合理化」ということになる。
戦争について言えば、「殺される前に、殺せ」となる。
「自分を殺しにかかってくる人間は、どうせ悪人。だから殺してもいい」と。

 子どもの世界にも、似たような話がある。
受験競争の世界では、「相手を蹴落としてでも、合格せよ」とか、「相手が合格すれば、自
分が不合格になるだけ」と考える。
だから相手の成績がさがれば、(あるいは全体の成績がさがれば)、相対的に、自分にとっ
ては有利。
そういう形で、自分の行動や考え方を、合理化していく。
しかしここで悲劇が始まる。

 こうした合理化が一時的なもので終わればよし。
目的の学校に入学したとき、それで終わればよし。
が、たいていは、一生、そのままつづく。
思考回路というのはそういうもので、一度できると、そのまま残る。
何かのことでまずいことがあると、常に、責任を相手に転嫁しながら、自分を合理化して
いく。

 だから合理化も、ほどほどに!

●反動形成

 好きなのに、「嫌い」と言う。 
嫌いなのに、「好き」と言う。
子どもの世界でよく見られる現象だが、それが進んだ状態が、「反動形成」。
上の子(兄あるいは姉)に、よく見られる。

本当は下の子(弟あるいは妹)が、憎くてたまらないのだが、親の前では、「いい兄」「い
い姉」を演じてみせる。
「演ずる」というよりは、本能的な部分で、そういう様子をしてみせる。

 「弟は好き?」と聞くと、「大好き」と答えたりする。
が、実際には、親の目を盗んでは、巧妙かつ執拗、かつ陰湿に、下の子(弟あるいは妹)
をいじめたりする。
殺す寸前のところまで、する。
「弟(妹)が嫌い」などと言うと、自分の立場がなくなる。

 こうした現象は、おとなの世界でも見られる。
牧師などの聖職者が、ことさら「性」の話を、忌み嫌ってみせるのも、その一例。

 この「反動形成」は、今まで書いてきた、「抑圧」「投影」「合理化」と、大きな共通点が
ある。
つまりどれも、自分の「心」を偽ること。
が、それがどんなばあいであれ、けっして望ましいことではない。

●すなおな心

 「すなおな子ども」というときには、(おとなでもよいが)、2つの意味がある。
ひとつは、心のゆがみ、たとえばいじける、ひがむ、つっぱる、ねたむなどのゆがみがな
いこと。
もうひとつは、心の状態(情意)と、顔の様子(表情)が一致していること。
思ったことを言い、それを表情でそのまま表現する。
簡単なことのようだが、できない人には、できない。
幼児でも、表情が乏しい子どもは、20%はいる。
(表情が乏しいから、すなおでないということにはならないが……。)
抑圧、投影、合理化、それに反動軽形成にしても、それらはすべて心を偽ることにつなが
る。

 短期であれ、(長期であればなおさらだが)、心に与える悪影響には、計り知れないもの
がある。
仮にそうせざるをえない状況であるにしても、そういう自分をどこかで客観的に評価しな
がら、そうする。
あるいはそうであることを知る。

 まずいのは、そういう自分であることに気がつかないまま、それを「性格」として定着
化してしまうこと。
同じ失敗を繰り返すこと。

 反動形成にしても、先に書いたように、「聖職者」と呼ばれる人ほど、そのワナにハマり
やすい。
「先生」「先生」と呼ばれているうちに、自分を見失ってしまう。
そのうち本当の自分が、わからなくなってしまう。
これがこわい。

●否認

 そのものがほしい。
しかし手に入らない。
そういうとき、人は、「否認」することによって、自分の心を防衛する。

 たとえばそこ自分が心寄せる女性(男性)がいたとする。
が、その女性は、別の男性と、よい関係にある。
そういうとき、その人はそれを知って、「本当はあんな男、大嫌い」と、言ったりする。
「ああいうのは、私のタイプではない」と。
それが「否認」である。

 私にもこんな経験がある。

 小学5年生のときのこと。
私はAMさんという女の子に、好意を寄せていた。
が、その女の子は、私に一向に関心を示さなかった。
そこで私がつぎにとった行動は、(意地悪)だった。
わざとその女の子を無視したり、悪口を言ったりした。
廊下ですれ違っても、わざと避けてみせた。

 その女の子は、ますます私から遠ざかってしまった。
そしてあの事件が起きた。
「起きた」のではなく、私が「起こした」。

 私はその女の子が教室にいない間に、その女の子の机の中から、その女の子ノートを取
り出し、鉛筆で、落書きをしてしまった。
グイグイと手の動くまま、線を描いてしまった。

 ……そのあと記憶は、とだえている。
私が覚えているのは、その女の子が泣いている姿。
さめざめと泣いていた。
私はそのあと、担任の先生にひどく叱られたと思うが、それはよく覚えていない。

 これは、否認が高じて、(いじめ)に発展したケースである。
ただそのときの自分の心の状態を、今でもよく覚えている。
「何てことをしたのだ!」と、自分を責める「私」。
「ザマーミロ!」と、それを笑う「私」。
2人の「私」が、交互に私の中に現れたり、消えたりした。

 そういう点では、私の心は、かなりゆがんでいた。
原因はいろいろ考えられるが、ともかくも、かなりゆがんでいた。
今もし、身近にそういう子どもがいたら、私は迷わずその子どもの親に、こう言うだろう。
「あなたのお子さんの心は、かなりゆがんでいますね」と。

 否認にしても、心を偽ることを意味する。
子どもの世界では、けっして好ましいことではない。
だから今、私たちは子どもたち(幼児)を教えながら、ときどき、こういう会話をする。

私「君たちは、ママのおっぱいが好きか?」
子「……嫌いだよ~」
私「ウソをつくな! 好きだったら、好きだと言え! ウソをつくな!」と。

 こういう言い方をして、子どもの心を開放させていく。

●補償

 以上は、(このましくない防衛機制)ということになる。
これに対して、(好ましい防衛機制)というのもある。
それが「補償」である。
(中には、好ましくない「補償」もあるには、ある。)

 何か自分の中に欠点を見つけたら、それを克服しようと努力するのが、それ。
あるいは、勉強が苦手だから、スポーツでがんばるというのも、それ。
が、このタイプの補償は、えてして補償は、自虐的になりやすい。
たとえば現在、有名になっているスポーツ選手の中には、それを思わせる人は少なくない。
朝は暗いうちに起き、バットの素振り練習をし、夜はみなが寝る時刻まで、やはり練習を
した、など。
スポーツを楽しむというよりは、スポーツを通して、自分の立場をつくる。
心を防衛する。

 ただ中には、好ましくない補償もある。
たとえば子どもの世界には、(おとなの世界にもあるが)、「いじめ」がある。
子どものいじめは、複雑である。
いじめるためにいじめるというのもあるが、じめられる前にいじめるというのもある。
あるいはいじめのグループに加わり、自分がいじめられるのを、避けようとするのもある。
中には、学校でいつもいじめられている子どもが、別の世界では、いじめを繰り返すとい
うケースもある。
いじめられる前にいじめる、あるいはいじめる側に回って、いじめられるのを避けるとい
うのも、広い意味で、「補償」ということになる。

●置き換え 

 これは広い意味での「合理化」に似ている。
たとえばA君に恋を打ち明けたが、断られてしまった。
そこでA君に代わりに、今度はB君に恋を打ち明ける、など。

自分の満たされない欲求を、別の対象に置き換えて、満足させる。
だから「置き換え」という。

 私のばあいは、これを置き換えと言ってよいかどうかはわからないが、心が塞いだよう
なとき、何か買い物をして、心を紛らわすことがある。
おかしな癖があって、複雑な電子製品を買うと、心がよく紛れる。

 考えてみれば、人生には、いつも「選択」がついて回る。
何かの映画のテーマにも、なっていた。
私たちは毎日、何かの選択をしながら、生きている。
その選択するという部分で、人はいつも、置き換えを経験する。
たとえば今の私にしても、そうだ。
本当は孤独。
友がほしい。
わかりあえる友がほしい。
が、そういう友が近くにいない。
だから、そのかわりに、こうして文章を書いて、一般世間に向かって自分の気持ちを訴え
る。
「置き換え」である。

●心

 こうした一連の言葉をフロイトは使ったが、ほかにもいろいろ考えられる。
はやし浩司流、補足ということになる。

(1)八つ当たり(関係ない人に、怒りを転嫁する。)
(2)徘徊(近くをブラブラあるいて、気を紛らわす。)
(3)愚痴(愚痴をこぼして、気を晴らす。)
(4)運動転嫁(汗を出すような運動をして、忘れる。)
(5)思想昇華(文章を書いて、自分を昇華する。)
(6)復讐(憎い相手を、窮地に追い込む。)、などなど。

 フロイト学説にとらわれる必要はない。
また言葉の解釈は、心理学者と呼ばれる人たちに、任せておけばよい。
(私もときどき、「君の解釈はまちがっている」というようなコメントをもらう。)

 大切なことは、私たちの「心」というのは、それほどまでにデリケートで、傷つきやす
いということ。
それがわかるだけでも、心の見方が大きく、変わってくる。
自分の見方も変わってくる。

 では、どうするか?

 要するに、ありのままの自分を見つめながら、すなおに生きていくということ。
一見簡単そうに見えるが、実際には、むずかしい。
むずかしいが、それが正道。
その努力だけは、怠ってはいけない。

私「おっぱいが好きだったら、好きと言え」
子「……?」
私「自分の心を偽ってはいけない」
子「……先生は、好き?」
私「好きだよ」
子「……だったら、ぼくも、好き」と。

 あなたも一度、そんな会話を、子どもとしてみるとよい。

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司 BW はやし浩司 フロイト 防衛機制 抑圧 置き換え 代償 補償 反動形成 
心の防衛 はやし浩司 素直な心 素直論 合理化 投影 子どもの心理 子供の心理 
心の問題 心を守る)

【補記】

 昔、「ぼくは台風が大好き」と言った、アメリカ人がいた。
「台風が来ると、ベランダに椅子を置いて、そこから外をながめている」と。
私はそれを聞いて、驚いた。
私も内心では好きと思っていたが、それをこの日本で口に出して言うことは、どこかタブ
ー視されていた。
とくにあの伊勢湾台風を経験した私たちの世代は、そうだった。

 が、それを聞いて、「ナーンダ、そうだったのか」と、私は安心した。
「台風が好き」と思う私を、私はどこかおかしいと思っていた。
だからそれを口に出して言うことはできなかった。

 またこんな男性もいた。
その人の母親は、特別擁護老人ホームに入って、もう10年になるという。
その母親について、その男性は、こう言った。
「見舞いに行くといっても、年に1、2度かな?」と。

 年に1、2度?

 もし私の郷里の人たちが聞いたら、「何という親不孝者!」と、思うことだろう。
しかし私はその男性に、ほかでは感じない、すがすがしさを覚えた。
まったく自分を飾らない。
偽らない。
そう感じた。
その男性は、ありのままに生きていた。
自分の心を正直に表現していた。
(それがよいことか、悪いことかという判断は別にして……。)

 自分にすなおに生きる。
それが心を偽らない、第一歩ということになる。
他人がとやかく言っても、気にすることはない。
それを恐れる必要もない。
私は私。
あなたはあなた。
いつも心の中に、さわやかな風を通しながら生きる。
それが「私」ということになる。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●B・T氏の『アウトxxx』

++++++++++++++++

劇場へは、毎週のように足を運んでいる。
「ボケ防止のため」と、心に決めて、
そうしている。

で、この数週間、毎回、『アウトxxx』の
予告編が流される。
私はそれを見るたびに、顔をそむける。

……無表情のまま、突発的にキレて、相手を
蹴り飛ばすB・T。
それにつづく暴力、また暴力。
「悪」という文字も、繰り返し使われる。

で、こんなセリフも……。
「おまえ1人くらい生きていなければ、
結果はわからんだろ」(記憶)と。

まさに汚い言葉。
罵声。
怒鳴り声。

B・T氏は、フランスでは受けが
よいらしい。
フランス政府からも、「日本を代表する文化人」(?)
として表彰されている。

しかしみなさん、もう一度、ここで冷静に
考えてみよう。
「ああした映画が、日本の文化なのか?」と。
あるいは「ああした人物が、日本を代表する
文化人なのか?」と。

フランス人の目を通して、この日本を眺めて
みるのもよい。

TBS・iは、つぎのように伝える。

++++++++++++以下、TBS-iニュースより++++++++++++++

フランスのカンヌ映画祭で、B・T監督の「アウトxxx」が公式上映されました。最高
賞パルム・ドールを競う北野監督、「進化した自分をみせられた」と自信を見せています。

 カンヌ映画祭は6日目、栄えある赤じゅうたんに、はにかみながらタキシード姿の北野
武監督が登場しました。コンペ部門への参加こそ「菊次郎の夏」以来、11年ぶりですが、
監督としてカンヌ出品は5回目と、既に「常連」。観衆の盛んな拍手で迎えられました。

 今回の新作「アウトxxx」は、暴力団の内部抗争の末路を描いた異色作。久々に暴力
シーンが目立ちますが、北野監督は「進化した自分を見せられた」と自負しています。
 
 「見事に客をKOしたっていう感じで。本当は半分以上席を立つかと思ったが、しびれ
て立てなかったんじゃないか。料理の鉄人と言われた人が、カツ丼を作ってみろと言われ
たような感じがして、じゃあ、作ってやろうじゃないかと作ったのが今度の映画。いい味
してるだろう? でもクセありますって・・・」(B・T監督)

 既に賛否両論、大きな話題となっていますが、ヴェネチアに続き、賞獲りが成るかは2
3日の授賞式で判明します。帰ってきた大物として歓迎された北野監督。また強烈な印象
をカンヌに残したことは間違いありません。(18日07:24)

++++++++++++以上、TBS-iニュースより++++++++++++++

●日本を代表する文化人?

 みなが寄ってたかって、B・Tをもちあげる。
フランス人にしても、そうだろう。
何しろ、日本でもっとも知名度の高い、タレントである。
東京あたりで、B・Tを批判したら、それだけでマスコミの世界から、叩き出されて
しまう。

 しかし『アウトxxx』の試写会で、「途中で席を立つ人が多かった」(ヤフー)という
部分に、私は賛辞を送りたい。
2年前に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●近代性と人間の幸福(Modernization of the Society and its pursuit of Happiness)
Modernization of the society does not promise us to be happy, or rather more often
modernization of the society brings us to get lost. For one of the examples of the
modernization, Tokyo is always understood as a corrupted city in the Hollywood movies
, where all kinds of desires have been wound whirlpool, desires such as drugs, sex, and
money. Is this the future that we wish to pursuit? The answer should be No.

++++++++++++++++++++

社会の近代性が、人間を幸福にしたかというと、
それは、疑わしい。

逆に言うと、それ以前の人間は、みな、
不幸だったのかということになる。

一方、私たちは半世紀前の人間からしても、
夢のような生活をしている。が、それでいて、
より幸福になったという実感は、あまりない。

逆に言うと、この先、半世紀後の人たちが、
より幸福になるという保証は、どこにもない。
へたをすれば、今より、不幸になるかもしれない。
むしろ、その可能性のほうが、高い。

……となると、社会の近代性とは何かということに
なる。
もっとつきつめて言えば、現在の私たちは、
いったい、何を求めて生きているのかという
ことになる。さらに言えば、何のために生きて
いるのかということになる。

ここに社会の近代性がもつ、構造的な欠陥というべきか、
きわめて深刻な問題が、隠されている。

++++++++++++++++++++

●近代的な都市国家

 日本が外国に与えている印象は、あまりよくない。ハリウッド映画に出てくる日本を見
れば、それがわかる。少し前、「KILL BILL」という映画があった。最近でも、「バ
ベル」という映画があった。これらの映画に共通する点は、日本、とくに東京は、いつも
退廃した都市として描かれているということ。

 内心では、「?」と思うのだが、外国の人たちもまた、日本に、そういう日本像を求めて
いる。外国で賞を取るような日本映画は、退廃的なものばかり。どこか薄汚く、どこか貧
しい。B・T氏が監督する映画を、例にあげるまでもない。

 で、そういう映画を通してこの日本をながめると、この私ですら、この日本に住むこと
に、嫌悪感を覚える。

 東京では、まさに人間の、ありとあらゆる欲望が渦巻いている。モノ、金、セックス、
電子製品、食べ物、何でもござれ。映画、「バベル」の中では、麻薬を楽しむ若者たちのほ
か、パンティを脱いだ女子高校生が、男子高校生たちに、それをのぞかせるというシーン
まであった。

 そういうシーンが、何ら違和感なく、……というか、東京というのは、そういう都市で
あると、当然のように描かれている。それを見る私たちも、「そうではないのだがなア」と
思いつつも、画面からあふれ出てくる迫力の前では、無力でしかない。そこにあるのは、
確かに東京である。どこかのスタジオやセットではない。で、やがてこの私ですら、「東京
って、そういう都市だったんだ」と、自分で自分を納得させてしまう。

 が、そういう東京、つまり東京がもつ近代性は、私たちが求めてきたものかどうかとい
うと、答は、NO! 私たちは、東京を現在の東京にするために、生きてきたのではない。
子どもたちを、今の子どもたちにするために、生きてきたのではない。

 どこか、おかしい。狂っている。

 10年前には、援助交際が問題になった。しかし今では、それを問題にする人すら、少
ない。ごく当たり前の、日常的な光景にすら、なってしまった。それがわからなければ、
夕方のコンビニをのぞいてみることだ。

 どこかあやしげな雰囲気で、女子高校生や女子中学生たちが、携帯電話で話をしている。
そのすぐ外には、車を止めた男たちが、ニヤニヤと笑いながら、同じように携帯電話で話
をしている。そうやってたがいに連絡を取りあいながら、女の子たちは、やがて車の中へ
と消えていく……。

 しかしそれを「進歩」と呼ぶ人は、いない。「退廃」と呼ぶ。私たちが求める「幸福」と
は、似ても似つかぬものである。

 ……といっても、だからといって、この私が聖人というわけではない。つい昨日も、K
市のK高校校長が、交際していた女性(20歳)を脅迫したとかで、逮捕されるという事
件が起きた。報道によれば、その女性は、その校長の教え子だったという。その教え子が
高校生のときから、つきあい始めたらしい。

 そういう事件が明るみになると、みな、「ここぞ」とばかり、校長を責めたてる。しかし
こういう世界で、だれが、そういう校長を、石をもって打てるのか。S県の教育委員会の
幹部たちがズラリと並んで、いっせいに頭をさげていたが、だからといって、そういう幹
部たちが、聖人かというと、それはない。そういうことは、ぜったいに、ありえない。

 この私だって、相手とチャンスがあれば、若い女性とそういう関係をもちたいと、いつ
も心の中で願っている。願っているというよりは、いつも空想している。脳みその奥にあ
る、視床下部から発せられる信号には、ものすごいものがある。辺縁系や大脳の前頭前野
くらいで、コントロールできるような代物では、ない。

 肉体が健康であればなおさらで、私の年齢で、若い女性に興味がないという人がいたら、
糖尿病かうつ病か、そんなような病気を疑ってみたほうがよい(失礼!)。

 ……話がそれたが、だからといって、そうした欲望の追求を、野放しにしておいてよい
ということではない。欲望の追求は、原始の世界への退行を意味する。つまり私たちが求
める近代性とは何かと問われれば、まさにこの一点に集約される。

 つまり、近代性とは、欲望の追求であってはいけないということ。その視点を見失うと、
冒頭に書いたように、私たちは、何を求めて生きているのかということになってしまう。
さらに言えば、何のために生きているのかということになってしまう。

 ここに書いた携帯電話にしても、それが援助交際の手段として使われたとたん、欲望を
追求するための道具になってしまう。DVDにしても、インターネットにしても、そうだ。
便利な機器であるならなおさら、心のどこかで一線を引く。引いて、欲望の追求から遠ざ
ける。

 そのちょっとした心理的操作が、日々に積み重なり、月となり、年となって、やがて私
やあなたを、より豊かな世界へと導く。それで私たちが、より幸福になるというわけでは
ない。しかし、より幸福な世界に近づくことだけは、できる。もちろん、そうでなければ、
そうでない。

 悪人になるのは簡単なことだ。ほんの少しだけ気を緩(ゆる)めれば、それでなれる。

 で、この年齢になってはじめて気がついたことがある。つまりこの時期になって、「絶望
感」を味わうことくらい、恐ろしいことはないということ。一時の欲望に身を任せたとた
ん、私たちは遠い、遠い、回り道をすることになる。時間を無駄にすることになる。

 それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 ともかくも、社会の近代性イコール、幸福の追求ではないということ。それだけは確か
である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●無力感

 たまたま(?)、私とB・Tとは、同年齢である。
それだけに、どういうわけか、あの人の精神構造というか、基盤のようなものが、よくわ
かる。
私たちは、そういう時代を生きてきた。

 が、私は私だし、あの人は、あの人。
マスコミを背負っている分だけ、私には、勝ち目はない。
(ない)分だけ、いつも無力感に襲われる。
たとえて言うなら、懸命に野原に花の苗を植えていたところ、うしろから大きなブルドー
ザーがやってきて、それを踏みつぶされたような気分。
怒りの声など、そのままブルドーザーの騒音にかき消されてしまう。

 が、その責任は、私たちにないわけではない。
批判力をもたない日本人。
大勢にのまれてしまう日本人。
そういう無責任さが、一方で、ああいう人物をのさばらせてしまう。
でないというのなら、予告編だけでもよいから、一度、『アウトxxx』なる映画を観てみ
ることだ。
「観たい」と思う前に、目を背ける。

 何が「料理の鉄人」だ!
自らを、「料理の鉄人」と称し、「カツ丼を作ってみた」?
観客をこれほどバカにした言葉もない。
ないが、今の日本人には、それすらもわからない。
わからないまま、またもちあげる。
「フランスでもちあげられた。すごい人だ」と。

 これからはフランス語でも、BLOGを書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 B・T B・T アウトxxx)

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