2010年5月9日日曜日

*Life after 60

●有料老人ホーム

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昨日、近くの有料老人ホームを訪れてみた。
満60歳から入居できるいという。
入居時の入居費は不要だが、毎月の入居費は、
収入によって異なるという。
自立支援型の老人ホームで、健康で、自立して
生活できることが、入居の条件とか。
「平均年齢は?」と聞くと、「80歳くらいです」
とのこと。
もっとも若い人で、65歳の人もいるそうだ。

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●老後の準備

 「まだ先の話……」と思っていたが、いつの間にか、私もそういう年齢になってしまった。
今は、まだ体も動くからよい。
頭もボケていないよう。
(ボケてくると、自分がボケていることも、わからなくなるとか……。)
仕事もある。
収入もある。
しかし10年など、あっという間に過ぎる。
今までの10年をみれば、それがわかる。
だから準備だけは、……というより、その心づもりだけは、しっかりとしておく。
そのための情報集め。

●ワイフ

 私の心配より、ワイフの心配。
私は死ねば、それでよい。
しかしあとに残されたワイフは、どうなる。
(先に、ワイフのほうが死ぬかもしれないが……。)
ここでいう情報集めには、そういう意味も含まれる。
私が先に死んだら、ワイフが、そういう施設の世話にならなければならない。
そのための財産を、残しておかねばならない。

 仮に月々の費用を、17万円とすると、1年間で200万円。
10年間で、2000万円。
プラス、もろもろの生活費。
平均寿命を82、3歳とするなら、それまで生きられれば、御の字。
が、ここで大問題!

 今の今ですら、その有料老人ホームのばあい、35人待ちとか。
年に、4~5人の人の入れ替えがあるということだから、単純に計算すれば、7年待ち。
つまり今から申し込んでも、7年後!

 有料老人ホームといっても、ピンからキリまである。
昨日訪れた有料老人ホームは、6畳間+小さなキッチンとトイレ。
全体では、10畳間程度。
「こんな狭い所じゃ、パソコン置くのもたいへんだな」と思った。

●私のために犠牲

 ワイフは、私のために犠牲になってしまった。
それがこの年齢になると、よくわかる。
もともと私とは結婚したくなかった(……らしい。)
昨日になってはじめて、「何度か離婚を考えた」と、告白した。
「だからあなたの祖父の葬儀には、行かなかった」とも。

 そういう気持ちが、わからなかったわけではない。
しかしそれを言葉として聞かされた、私は、つらい。
私のために、がまんにがまんを重ねた。
それがよくわかる。
だからこのところ、ときどき、ワイフにこう聞く。
「離婚してあげようか?」と。
それでワイフが私から解放されるなら、私としてはそれに耐えるしかない。
さみしいが、私としては、どうすることもできない。

●夫婦の定型

 ところで私は、この浜松では、「よそ者」。
幼いときからの知り合いは、いない。
一方、ワイフは、地元の人。
いくつかのクラブにも入り、友だちも多い。
おとといも、どこかで会食をしてきた。

 うらやましいと思う前に、私が感ずる疎外感は、ワイフには、理解できない。
そのさみしさが、心の隅で、ボヤボヤと、冷たい火となって燃える。
そのワイフは、一度とて、私をそうしたクラブに誘ってくれたことはない。
「一日中、あなたといっしょにいると、気が滅入る」と言われたこともある。
私のほうも、遠慮する。

 夫婦といっても、いろいろな夫婦がいる。
「形」はない。
「定型」も「スタンダード」もない。
無数の方程式がからみあって、その夫婦を作る。
私は私。
私たちは私たち。
しかしそこに今度は、「年齢」という壁が立ちはだかるようになった。

●知人

 知人の男性は、こう言った。
「ぼくなんか、過去、一度だって、妻のほうから、いっしょに寝ようと言われたことないよ」と。
その男性のばあい、毎晩のように妻に、こう聞くのだそうだ。
「今夜は、いっしょに寝ていいか?」と。
するとその妻は、いつもこう答えるそうだ。
「寝ればア?」と。

 で、最近は、できるだけ別々の部屋で寝るようにしているという。
「一応、ときどき寝る前に、『(私と)いっしょに寝たら?』と聞くこともあるけど、形だけの会話でね。
ぼくが『ひとりで寝るよ』と答えると、言い終わらないうちに、『あら、そう』とか言って、部屋を出て行くよ」と。

 そういうさみしい(?)夫婦もいる。
が、さみしい思いをしているのは、夫のほうだけ。
妻の方には、その意識はない。
夫がさみしい思いをしていることさえ、理解できないらしい。
その知人は、そう言った。

●切実な問題

 夫婦といっても、最後は、他人。
仲のよい友人にはなれるかもしれないが、過大な期待は禁物。
またそう割り切るほうが、かえってうまくいく。
ほどほどのところでつきあって、ほどほどに仲よくやっていく。
夫も1人の人間なら、妻も1人の人間。

 しかし私のほうは、ときどきこう思う。
もしワイフが認知症か何かになって、便をたれ流すようになっても、私はワイフの面倒は最後の最後までみる、と。
しかし私が観察するところ、ワイフには、その意識はないようだ。
即座に、「(そうなったら)、施設に入ればいい」というような答がはね返ってくる。
病気になったときも、そうだ。
「頭が痛い」と訴えると、すぐ「薬をのんだら?」とか、「病院へ行ってきたら?」とか言う。
「そういうものでもないのだがなあ」とは私は思うが、ワイフの思考回路は、そうなっている。

 生まれも育ちもちがう。
考え方もちがう。
ちがって、当然。
私はワイフの思考回路を、尊重するしかない。
だから有料老人ホームと、なる。
私にとっては、切実な問題である。

●私の問題点

 もちろん私も、いくつかの問題点がある。
40年近くもいっしょに暮らしていると、わずかなちがいが積み重ねられ、「今」を作る。
だから「今」だけを見て、「それはおかしい」とか、「それはまちがっている」とか言ってはいけない。
また今さら、軌道修正など、不可能。
あるがままを認め、それを受け入れていくしかない。
残りの人生を考えるなら、なおさら。
やがてすぐどちらかが大病を患う。

さらに今まで40年かかってできなかったことが、この先、10年でできるわけがない。
脳みそはさらに硬直化する。
ボケも加わる。

 もちろん私にも問題がある。
言うなれば、心はボロボロ。
ときどきワイフですら、こう言う。
「あなたがみんなに嫌われるのは、あなた自身に原因があるからよ」と。

 そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
みなに好かれるためには、万事、おだやかに、事なかれ主義で、静かに暮らすのがよい。
反論したり、言い争ったりするのも、タブー。
もちろん、モノは書かない方がよい。
何を言われても、「そうです」「そうです」と、相手の意見に合わせていればよい。

 事実、私のような人間は、毎日が孤独との闘い。
昔から『英雄は孤独』という。
同じように、『モノを書く人間は孤独』となる。
私はその道を選んでしまった。

●5月9日

 大型連休も終わり、今日は、最初の日曜日。
とくに予定はないが、F市まで行って、友人に会ってこようか……と考えている。
ワイフも私がいないほうが、気が楽だろう。
のんびりできるらしい。
このところ、関係がどうもギクシャクしている。
昨日も、「どこかへ行こうか?」と声をかけると、「行く気がしない」と、あっさりと断わられてしまった。

 ああいうのは、すぐトラウマになる。
だから今日は、誘わない。
私の年代には、「定年離婚」という言葉がある。
「ぼくたちも、あぶないなア~」と、このところ、よくそう思う。
毎日、ハラハラしながら、生きている。
ハハハ。
+ハラハラ。

しかしそれをつづけるのも結構、疲れる。
だから今は、「老人ホームへ入った方が、気が楽」と思うようになった。
オーストラリアでも、ある一定の年齢になると、みな、そうしている。
子どもと同居している親はいない。(……少ない。)
むしろ親と同居している子どもは、どこかおかしいと見られる。

 早めに、つまり健康なうちに老人ホームへ入って、自分なりの新しい友人を、早めに作ったほうが、よいのかも?
ゲートボールでもして……。
これから先、あちこちの老人ホーム巡りがつづきそう。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

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