2009年7月24日金曜日

*The Truth of Life

【命のうまみ】(The Beauty of Life)

●歳は取るものではなく、受け入れるもの

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数日前、近くの温泉で……。
だらりと下がった、胸、尻の皮。
それを鏡に映して、「ああ、ボクも歳を取ったナ」と思う。
が、ふと横を見ると、80歳くらいの男性。
私の体より、さらに、だらりと下がっている。
太ももも、鳥のガラのよう。
それを見て、「ボクは、まだよいほう」とか、
「近々、ボクもああなるナ」とか、思う。

歳は取るものでない。
受け入れるもの。
少しずつだが、人は、こうして自分の歳を受け入れていく。
その男性と自分を比較しながら、ふと、そう思った。

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●絶対寿命

 人間には、「絶対寿命」というものがあるという。
いまだかって、130歳を超えて生きた人はいないという。
だから「130歳」という年齢が、その絶対寿命ということになる。
が、実際には、90歳から100歳前後か?

その年齢になると、いくらがんばっても、DNAレベルで、細胞がバラバラになるらしい。
つまり一個ごとに、DNAは、時計のようなものをもっている。
「時計」というより、正確には、細胞の分裂回数に、制限があるということらしい。
だからたとえば、80歳の男性の細胞を使って、クローン人間を作ったとしても、
そのクローン人間の寿命は、80歳を起点にして始まる。
見た目にはいくら、子どもでも、寿命は、せいぜいあと10~20年程度ということに
なる。

 「老い」はだれにでもやってくる。
「死」もやってくる。
避けることはできない。
わかりきったことだが、しかしその(事実)を受け入れるのは、なかなか難しい。
人はだれしも、「ひょっとしたら、私だけは……」という甘い期待をもって、生きている。
さらに積極的には、あの世に、希望を託す人もいるかもしれない。
「私だけは、天国に入れる」と。

●人生の(深み)

 しかし(衰え)は、日々に、だれしも感ずる。
肉体の衰え、体力、気力の衰え。
それに知力の衰えもある。
何かの持病をかかえていたら、なおさらである。

 先日も、朝早く目を覚ましてみると、そこにワイフが眠っていた。
その寝顔を見たとき、「この人もバーさんになったな」と感じた。
しかし悪いことばかりではない。
その分だけ、そこに(深み)を感ずる。
(味)を感ずる。

 たとえはあまりよくないかもしれないが、それはスルメのようなもの。
かめばかむほど、味が出る。
うまくなる。
最後は溶けてなくなってしまうが、その直前、あのうまみが口の中に充満する。
もし寿命というものがなかったら、その(うまみ)を感ずることもないかもしれない。

 私は思わずワイフの額を手で撫でてやった。
撫でながら、「あと10年かナ?」と思った。
ワイフの寿命のことではない。
「こうして共に、幸福なときが過ごせるのは、あと10年かナ」と

●(衰え)

 思わず深刻で、暗い話になってしまったが、こうして人は、歳を受け入れていく。
若い人には、(私もそうだったが)、「死」は恐怖そのものかもしれない。
しかし死は何も、突然、やってくるわけではない。
徐々に、少しずつ、こうしてやってくる。

 だからといって、死に対して覚悟ができるということではない。
死への恐怖が和らぐということでもない。
しかしそこに(死)を感ずることによって、今のこの(命)の密度を、何十倍にも
することができる。

 だらだらと生きるのも1年かもしれないが、その1年を、何十倍も濃く生きることも
できる。
それができれば、死がやってきたとき、「思い残すことはありません」と言って、
この世を去ることができるかもしれない。
もし(希望)というのが何であるかと問われれば、私は、それが希望だと思う。

 またまた暗い話に戻ってしまったが、歳は受け入れていくしかない。
ただ誤解してほしくないことは、(歳)といっても、(年齢)という(数字)の
ことを指すのではない。
年齢という数字など、意味はない。
60歳だろうが、70歳だろうが、そのときはそのとき。
そのとき、できることをすればよい。
年齢という数字に遠慮する必要はない。

 私がここでいう(歳)というのは、(衰え)という限界状況をいう。
(死)という限界状況をいう。
たとえばおとといも、5キロ近く、ジョギングをしてみた。
が、いまだに赤色筋肉の中にたまった乳酸が消えない。
つまり太ももが痛い!

 こうした(衰え)は、自分ではいかんともしがたい。
が、それは受け入れるしかない。

●勝手に、たれ下がれ!

 言うなれば、「もう、逃げ隠れはしない」ということ。
いくら逃げようとしても、逃げられるものではない。
私だけ例外ということは、ありえない。
運がよければ、あと10年は健康寿命を保てるかもしれない。
あるいは明日の命かもしれない。

 どうであるにせよ、私は私。
今は今。
胸や尻の皮は、だらりとたれ下がり始めている。
だからといって、それを嘆き悲しんだところで、どうしようもない。
嘆き悲しむ必要もない。
そのかわり、私は、別の新しい世界を見ることができる。
むしろそちらのほうに、興味がひかれる。
何がそこにあるかはわからないが、今までの私が知らなかった、(命のうまみ)と
表現してよいかもしれない。
それがそこにある。

 が、もしここで、今、私が、「いやだ」「いやだ」と思って逃げていたら、どうだろうか。
「私だけ若くみられたい」と、へんにがんばったら、どうだろうか。
私はその分だけ、回り道をすることになる。
だったら、受け入れる。
受け入れてしまう。

 それが「歳を受け入れる」ということ。

 ……で、あとは、最後の最後まで、がんばる。
がんばるだけ。
50歳から60歳までの人生があっという間に過ぎたように、これからの10年も
あという間に過ぎるだろう。
考えてみれば、今の私には(歳)を気にする暇などない。

 胸よ尻よ、勝手にたれ下がれ!
私の知ったことではない!
温泉に入っても、もう気にしないぞ!

 ……ということで、今朝もはじまった。
みなさん、おはようございます!

2009年7月24日


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

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