2009年7月7日火曜日

*Essays on House Education (~350)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(321)

●ああ、悲しき子どもの心

 虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らないからだ。中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どももいる。しかしそういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児童相談所の相談員は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。

 J氏という今年50歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。従順で静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしまっている。何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したことは何も言わない。何もできない。

その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういうJ氏でありながら、「お母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年75歳になる母親のあとばかり追いかけている。先日も通りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くところによると、その母親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事はすべて、J氏の仕事。小さな店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母親は少なくともこの20年間は、遊んでばかりいる。

 そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天的なもので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにしたのは父親だった」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともかく、母親自身が、自分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そういう母親しか知らないのは、まさに悲劇としか言いようがない。

J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り離そうと何度も試みた。それについては母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに応じなかった。いつものように、「お母ちゃんが怒るから……」と。

 親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親子」という関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子といえども、基本的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから……」と、相手をしばるのは、まちがっている。親の立場でいうなら、「親だから……」という立場に甘えて、子どもに何をしてもよいというわけではない。

子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待されても虐待されても、子どもは親を慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよく言われる。そういう子どもの心に甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう親ではない。ケダモノだ。いや、ケダモノでもそこまではしない。

 今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が私に伝わってくる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(322)

●人格の分離

 日本人の子育て法で、最大の問題点は、親は親でひとかたまりの世界をつくり、子どもの世界を、親の世界から切り離してしまうところにある。つまり子どもは子どもとして位置づけてしまい、その返す刀で、子どもの人格を否定してしまう。

もっと言えば、子どもを、ちょうど動物のペットを育てるかのような育て方をする。その結果、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコールよい子と位置づける。そうでない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

(例1) ある女性(70歳くらい)は、孫(6歳くらい)に向かってこう言っていた。「オイチイネ(おいしいね)、オイチイネ(おいしいね)、このイチゴ、オイチイネ(おいしいね)」と。子どもを完全に子ども扱いしていた。一見、ほほえましい光景に見えるかもしれないが、もしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。「子ども、子どもと、バカにするな」と叫ぶかもしれない。

(例2) ある女性(70歳くらい)は、孫(10歳くらい)に電話をかけて、こう言った。「おばあちゃんの家に遊びにおいでよ。お小遣いあげるよ。ほしいものを買ってあげるよ」と。最近は、その孫がその女性にところに遊びにこなくなったらしい。それでその女性は、モノやお金で子どもを釣ろうとした。が、しかしもしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。やはり「子ども、子どもと、バカにするな」と叫ぶかもしれない。 

 こういう子どもの人格を無視した子育て法が、この日本では、いまだに堂々とまかりとおっている。そしてそれ以上に悲劇的なことに、こうした子育て法が当たり前の子育て法として、だれも問題にしないでいる。とたえ幼児といっても、人権はある。人格もある。未熟で未経験かもしれないが、それをのぞけばあなたとどこも違いはしない。そういう視点が、日本人の子育て観にはない。

 子どもを子ども扱いするということは、一見、子どもを大切にしているかのように見えるが、その実、子どもの人格や人権をふみにじっている。そしてその結果、全体として、日本独特の子育て法をつくりあげている。その一つが、「依存心に無頓着な子育て法」ということになるが、これについては別のところで考える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(323)

●伸びる子ども

 あなたの子どもは、つぎのどのようだろうか。

( )何か新しいことができるようになるたびに、うれしそうにあなたに報告にくる。
( )平気であなたに言いたいことを言ったり、したりしている。態度も大きい。
( )あなたのいる前で平気で体を休めたり、心を休めたりしている。
( )したいこと、したくないことがはっきりしていて、それを口にしている。
( )喜怒哀楽の情がはっきりしていて、うれしいときには、全身でそれを表現する。
( )笑うときには、大声で笑い、はしゃぐときにも、大声ではしゃいだりしている。
( )やさしくしてあげたりすると、そのやさしさがスーッと心に入っていくのがわかる。
( )ひがんだり、いじけたり、つっぱったり、ひねくれたりすることがない。
( )叱っても、なごやかな雰囲気になる。そのときだけで終わり、あとへ尾を引かない。
( )甘え方が自然で、ときどきそれとなくスキンシップを求めてくる。
( )家族と一緒にいることを好み、何かにつけて親の仕事を手伝いたがる。
( )成長することを楽しみにし、「大きくなったら……」という話をよくする。
( )園や学校、友だちや先生の話を、いつも楽しそうに親に報告する。
( )園や学校からいつも、意気揚々と、何かをやりとげたという様子で帰ってくる。
( )ぬいぐるみを見せたりすると、さもいとおしいといった様子でそれを抱いたりする。
( )ものごとに挑戦的で、「やりたい!」と、おとなのすることを何でも自分でしたがる。
( )言いつけをよく守り、してはいけないことに、ブレーキをかけることができる。 
( )ひとりにさせても、あなたの愛情を疑うことなく、平気で遊ぶことができる。
( )あなたから見て、子どもの心の中の状態がつかみやすく、わかりやすい。
( )あなたから見て、あなたは自分の子どもはすばらしく見えるし、自信をもっている。

 以上、20問のうち、20問とも(○)であるのが、理想的な親子関係ということになる。もし○の数が少ないというのであれば、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。あるいはもしあなたの子どもがまだ、0~2歳であれば、ここに書いたようなことを、3~4歳にはできるように、子育ての目標にするとよい。5~6歳になったとき、全問(○)というのであれば、あなたの子どもはその後、まちがいなく伸びる。すばらしい子どもになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(324)

●伸ばす子育て

 子育てにも、伸ばす子育てと、つぶす子育てがある。伸ばそうとして伸ばすのであれば、問題はない。つぶす子育ては論外である。問題は、伸ばそうとして、かえって子どもをつぶしてしまう子育て。これが意外に多い。子育てにまつわる問題は、すべてこの一点に集中する。

 その人の子育てをみていると、「かえってこの人は子育てをしないほうがいいのでは」と思うケースがある。たとえば過関心や過干渉など。親が懸命になればなるほど、その鋭い視線が子どもを萎縮させるというケースがある。しかもそういう状態に子どもを追いやりながらも、「どうしてうちの子は、ハキがないのでしょう」と相談してくる。

あるいは親の過剰期待や、子どもへの過負担から、子どもが無気力状態になるケースもある。小学校の低学年で一度そういった症状を示すと、その後、回復するのはほとんど不可能とさえ言ってよい。しかしそういう状態になってもまだ、親は、「何とかなる」「そんなはずはない」と無理をする。

で、私が学習に何とか興味をもたせ、何とか方向性をつくったとしても、今度は、「もっと」とか「さらに」とか言って無理をする。元の木阿弥というのであれば、まだよいほうだ。さらに大きな悪循環の中で、やがて子どもはにっちもさっちもいかなくなる。神経症が悪化して、情緒障害や精神障害に進む子どももいる。もうこうなると、打つ手はかぎられてくる。(実際には、打つ手はほとんどない。)

 が、この段階でも、親というのは身勝手なものだ。私が「三か月は何も言わないで、私に任せてほしい」と言っても、「うちの子のことは私が一番よく知っている」と言わんばかりに、またまた無理をする。このタイプの親には、一か月どころか、一週間ですら、長い。がまんできない。「このままではますます遅れる」「うちの子はダメになる」と、あれこれしてしまう。そしてそれが最後の「糸」を切ってしまう。

 問題は、どうして親が、かえって子どもをつぶすようなことを、自らがしてしまうかということ。そして結局は行きつくところまで行かないと、それに気がつかないかないのか。これは子育てにまつわる宿命のようなものだが、私がしていることは、まさにその宿命との戦いであるといってもよい。言いかえると、今、日本の子育てはそこまで狂っている。おかしい。そう、その狂いやおかしさに親がいつ気がつくか、だ。それに早く気づく親が、賢い親ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(325)

●ずる休みの勧め

 「学校は行かねばならないところ」と考えるのは、まちがい。私たち日本人は明治以後、徹底してそう教育を受けているから、「学校」という言葉に独特の響きを感ずる。先日もテレビを見ていたら、戦場の跡地でうろうろしている子ども(10歳くらい)に向かって、「学校はどうしているの?」と聞いていたレポーターがいた(アフガニスタンで、02年4月)。

その少し前も、そのシーズンになると、海がめの卵を食用に採取している子どもたちが紹介されていた。南米のある地域の子どもたちだった。その子どもたちに向かっても、レポーターが「学校は行かなくてもいいの?」(NHKテレビ)と。

 日本人は子どもを見れば、すぐ「学校」「学校」と言う。うるさいほど、そう言う。しかしそういう国民性が、一方で、子どもをもつ親たちをがんじがらめにしている。先日も子どもの不登校で悩んでいる親が相談にやってきた。そこで私が「学校なんか、行きたくなければ行かなくてもいいのに」と言うと、その親は目を白黒させて驚いていた。「そんなことをすれば休みグセがつきませんか」とか、「学校の勉強に遅れてしまいます」とか。しかし心配はご無用。

 学校へ行くから学力や知力がつくということにもならないし、行かないから学力や知力がつかないということもない。さらにその子どもの人間性ということになると、学校はまったく関係ない。むしろ幼稚園児のほうが、規則やルールをよく守る。正義感も強い。それが中学生や高校生なると、どこかおかしくなってくる。「スリッパを並べてくれ!」などと頼もうものなら、即座に、「どうしてぼくがしなければいかんのか!」という声がはね返ってくる。人間性そのものがおかしくなる子どもは、いくらでもいる。

 そこでずる休みの勧め。ときどき学校はサボって、家族で旅行すればよい。私たち家族もよくした。平日にでかけると、たいていどこの遊園地も行楽地もガラあきで、のんびりと旅行することができた。またそういうときこそ、「子どもを教育しているのだ」という充実感を味わうことができた。よく「そんなことをすれば、サボりぐせがつきませんか?」と心配する人がいた。が、それも心配ご無用。たいていその翌日、子どもたちはすがすがしい表情で学校へでかけていった。ウソだと思うなら、あなたも一度、試してみるとよい。

こういう話を読んで、目を白黒させている人ほど、一度、勇気をだしてサボってみるとよい。あなたも明治以後体をがんじがらめにしている束縛の鎖を、少しは解き放つことができるかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(326)
 
●コンピュータウィルス

 このところ(02年5月)、毎日のようにコンピュータウィルスの攻撃を受けている。一応、二重、三重のガードをしているから、このガードが破られることはまずない。そのウィルス攻撃を受けながら、いろいろなことを考える。

 よく雑誌などを読むと、いかにも頭だけはキレそうな若者が、したり顔で、ウィルス対策を論じていたりする。しかし私には、そういう男と、どこかの暗い一室でコソコソとウィルスをばらまいて楽しんでいる男(多分?)が区別できない。雑誌に出てくる男に、それほど強い正義感があるとも思えないし、同時にウィルスをばらまいている男が、その男と、そんなに違うとも思えない。どちらの男も、ほんの少し環境が変わったら、別々の男になっていたかもしれない。人間のもつ正義感などというものは、そういうものだ。

 もう一つは、こういうウィルスをつくる能力のある人間は、それなりに頭のよい男なのだろうが、どうしてそういう能力を、もっと別のことに使わないかという疑問。もっともこの私でも、簡単なウィルスくらいなら自分でつくることができる。ファイルに自動立ちあげのプログラムを組み込めばよい。あとはランダムに番地を選んで、適当に自己増殖のプログラムを書き込めばよい。言語はC言語でもベーシックでもマクロでもよい。私の二男にしても、高校生のとき、すでに自分でワクチンプログラムを作って、ウィルスを退治していた。だからたいしたことないと言えばたいしたことはないが、それにしても「もったいない」と思う。能力もさることながら、時間が、だ。

 つぎに今は、プロバイダーのほうでウィルスチェックをしてくれているので、ウィルスが入ったメールなどは、その段階で削除される。で、そのあと、私のほうに、その旨の連絡が入る。問題はそのときだ。プロバイダーからの報告には、つぎのようにある。「○○@××からのメール、件名△△にはウィルスが混入していました……」と。

そこで私は、その相手に対して、その内容を通知すべきかどうか迷う。いや、最初はそのつど、親切心もあって、「貴殿のパソコンはウィルスに汚染されている可能性があります」などと、返信を打っていた。しかしこのところそれが多くなり、そういう親切がわずらわしくなってきた。

で、最近はプレビュー画面に開く前に、プロバイダーからの報告そのものを削除するようにしている。で、ハタと考える。「私もクールになったものだ」と。いや、こうしたクールさは、コンピュータの世界では常識で、へたな温情(スケベ心)をもつと、命取りにすらなりかねない。(事実、過去において、何度かそういう経験があるが……。)だから、あやしげなメールは、容赦なく削除する。しなければならない。そしてそれがどこかで、私が本来もっている、やさしい人間性(?)を削ってしまうように感ずるのだ。あああ……。

 このところインターネットをしながら、いろいろと考えさせられる。これもその一つ。

(注:あやしげなメールには、ぜったいに返信をかけてはいけない。
無視して削除すること。
これはこの世界では、常識。
この原稿を書いた時には、まだそれがよくわかっていなかった。)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(327)

●子どもの世界(1)

 子どもを、未熟で未完成、そのうえ幼稚であると、おとなの世界から切り離してしまう。つまり子どもを一人の人格者として認めるのではなく、不完全な「半人前」な人間として位置づけてしまう。日本の子育ての最大の欠陥は、ここにある。

 そのため日本では、親が子どもを育てるときも、その前提として子どもを人間として認めていないから、あたかもペットを育てるかのようにして、子どもを育てる。たとえば親は、まず子どもに対して、目いっぱい、よい思いや楽しい思いをさせる。そしてそのあと、「もっとよい思いや楽しい思いをしたかったら、親の言うことを聞きなさい。聞けば、もっと楽しいことがある」というようなしつけ方をする。

 欧米ではこれが逆で、欧米の親たちは、生まれながらにして子どもを一人の人格者として認める。認めたうえで、「よい思いや楽しい思いをしたかったら、まず苦労をしなさい」と子どもをしつける。その一例として「家事」がある。私がよく知っている、オーストラリアやアメリカの子どもにしても、実によく家事を手伝っている。料理はともかくも、食後のあと片づけは、たいてい子どもの仕事になっている。

 その結果、この日本では、独特の「保護と依存」関係が生まれる。保護はともかくも、問題は「依存」。あるアメリカ人の教育家は、日本の子育てを批評して、かつてこう言った。「日本人は、自分の子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無頓着すぎる」と。その教育家の名前を忘れてしまったのは、たいへん残念だが、そのためこの日本では、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とした。

一方、独立心が旺盛で、自立した子どもを、「鬼の子」として嫌う。そしてさらにその結果、この日本ではいわゆる「恩着せがましい子育て法」が、当たり前になっている。しかも悲劇的なことに、それがあまりにも当たり前であるため、子どもに対して恩着せがましい子育てをしながら、それにすら気づかないというケースが多い。

 数年前、演歌歌手のI氏が、NHKの「母を語る」というテレビ番組の中で、こう言っていた。「私は女手一つで育てられました。その母親の恩にこたえようと、東京に出て、歌手になりました」と。

 私はこのI氏の話を聞きながら、最初は、I氏の母親はすばらしい母親だと思った。しかしそのうち、それは番組が始まってから10分くらいたってからのことだが、「果たしてこのI氏の母親は、本当にすばらしい母親なのか?」と思うようになった。I氏は半ば涙ながらに、「私は母親に産んでもらいました。育ててもらいました」とさかんに言っていたが、そう無意識のうちにも思わせてしまったのは、母親自身ではないかと考えるようになった。母親自身が、子どもに恩を着せる形で、「産んでやった」「育ててやった」と思わせてしまったのではないか、と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(328)

●子どもの世界(2)

 子どもの依存性は、必ずしも子どもから親への一方的なものではない。親自身にも、「だれかに依存したい」という潜在的な願望があるとみる。その願望が姿を変えて、子どもの依存心に甘くなる。

 ある女性(60歳)は、通りで会うと私にこう言った。「息子なんて育てるもんじゃないですね。息子は横浜の嫁に取られて、今、横浜に住んでいます」と。「親なんてさみしいもんですわ」とも言った。こうした女性の背景にあるのは、子どもを「モノ」あるいは、「財産」と考える意識である。こうした名残は、「嫁にもらう」とか、「嫁にくれてやる」という言い方などに見られる。それはともかくも、その女性はそのあとこう言った。「息子は小さいときから、かわいがってやったのですがねえ」と。

 もっともこの段階で、子どもも親の価値観に同化すれば、何も問題はない。それはそれでうまくいく。親は子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と言う。子どもは子どもで、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言う。そういう親子はうまくいく。しかしいつもいつも子どもが親の考えに同化するとは限らない。問題はそのときだ。

こうした価値観の違いは、宗教戦争に似た様相をおびることがある。互いに妥協しない。妥協できない。親子でも価値観が衝突すると、行きつくところまで行く。もっともそこまで至らなくても、無意識であるにせよ、親の押しつけがましい子育て観は、親子の間にキレツを入れることが多い。ある男性(40歳)はこう言った。「何がいやかといって、おやじに、『お前には大学の学費だけでも、3000万円もかけたからな』と言われるくらいいやなことはない」と。

 つまり依存型の子育てを受けた子どもは、自分が今度は親になったとき、子どもに対して依存型の子育てをするのみならず、自分自身も子どもに依存するようになる。親が壮年期には、親自身がもつパワーでそれほど依存心は目立たないが、老年期になると、それが出てくる。冒頭にあげた女性がその例である。

 子どもの自立を考えるなら、同時に親自身も自立しなければならない。子どもに向かって、「あなたはあなたの人生を生きなさい」と教える前に、親自身も「私は私の人生を生きる」という姿勢を見せなければならない。わかりやすく言えば、親が自立しないで、どうやって子どもの自立を求めることができるかということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(329)

●老いては子に従え

 昔から「老いては子に従え」(「老いては則ち子に従う」(龍樹「大智度論」))という。しかし本当にそうか? この格言を裏から読むと、「老いるまでは、子に従わなくてもよい」という意味になる。もしそうなら、これほどごう慢な考え方もない。

 ある女性(70歳)は、息子(40歳)の通帳から無断で預金を引き出し、それを使ってしまった。そのことが発覚すると、その女性は、「親が先祖を守るために、子どもの貯金を使って何が悪い」と居なおったという。

問題はそのあとだが、その女性の周囲の人たちの意見は、二つに分かれた。「たとえ親でもまちがったことをしたら、子どもに謝るべきだ」という意見と、「親だから子どもに謝る必要はない」という意見である。このケースで、「老いては子に従え」ということを声高に言う人ほど、後者の考え方をする。つまり「親には従え」と。

 が、この「老いては子に従え」という考え方には、もう一つの問題が隠されている。つまり依存性の問題である。「子に従う」というのは、まさに「依存性」の表れそのものといってよい。「老いたら子どもにめんどうをみてもらわねばならないから、子どもには従え」という考え方が、その底流にある。しかし本当にそれでよいのか? 

 老いても子どもに従う必要はない。親は親で、それこそ死ぬまで前向きに生きればよい。もちろん親ががんこになり、自分の考えを子どもに押しつけるのはよくないが、そんなことは親子に限らず、どんな世界でも常識ではないか。この格言が生まれた背景には、「いつまでも親風(=親の権威)を吹かすのはよくない。老いたら親風を吹かすのをやめろ」という意味がこめられている。

つまり親の権威主義が、その前提にある。となると、もともとこの格言は、権威主義的なものの考え方が基本になっていることを示す。言いかえると、権威主義的な親子関係を否定する家庭では、そもそもこの格言は必要ないということになる。

 少しまわりくどい言い方になってしまったが、私たちはときとして安易に過去をひきずってしまうことがある。たとえばこの格言にしても、今でも広く使われている。しかし無意識であるにせよ、「老いては子に従え」と言いつつ、その一方で、親の権威主義を肯定し、さらにその背後で過去の封建主義的な体質を引きずってしまう。それがこわい。そこでどうだろう。あえてこう言いなおしてみたら……。

 「老いたら、親は自分の生きザマを確立し、それを子どもに手本として見せよう」と。
 ちなみに小学6年生10人に、「親でもまちがったことをしたら、子どもに謝るべきか」と聞いたところ、全員が、「当然だ」と答えた。いくらあなたが権威主義者でも、もうこの流れを変えることはできない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(330)

●ノーブレイン

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。ふつう「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言葉だと思えばよい。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方をする。

 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるのではないか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタレントたちが、これまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思いついたままを口にしているだけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしているだけ。

考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、考えることにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くような苦痛に似ている。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。しかしたいていは答そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。そのためほとんどの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。

言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正しいかもしれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうなこと考えたくない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか言う人さえいる。

人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなくなってしまう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」ということには、そういう意味が含まれる。

ただここで注意しなければならないのは、考えるといっても、(1)その方法と、(2)内容である。これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。一度そのループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止してしまう。

それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と小さな問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうでもよいような問題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、そういうさまざまな問題が隠されてはいる。

しかしやはり「人間は考えるから人間」である。それは人間が人間であることの大前提といってもよい。つまり「ノーブレイン」であることは、つまりその人間であることの放棄といってもよい。

人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(331)

●プラス型とマイナス型

 情緒が不安定な子どもというのは、心がいつも緊張状態にあるのが知られている。その緊張状態のところに、不安が入り込むと、その不安を解消しようと一挙に緊張状態が高まり、情緒が不安定になる。

で、そのとき、激怒したり、暴れたりするタイプの子どもと、内閉したりぐずったりするタイプの子どもがいることがわかる。一見、正反対な症状に見えるが、ともに「不安を解消しようとする動き」ということで共通点がみられる。それはともかく、私は前者をプラス型、後者をマイナス型として考えるようにしている。

 ……というわけで、「プラス型」「マイナス型」という言葉は、私が考えた。この言葉を最初に使うようになったのは、分離不安の子どもを見ていたときのことである。子どもの世界には、「分離不安」というよく知られた現象がある。親の姿が見えなくなると興奮状態(あるいは反対に混乱状態)になったりする。

年長児についていうなら、15~20人に1人くらいの割で経験する。その子どもを調べていたときのことだが、症状が、(1)興奮状態になり、ワーワー叫ぶタイプと、(2)オドオドし混乱状態になるタイプの子どもがいることがわかった。そのときワーワーと外に向かって叫ぶ子どもを、私は「プラス型」、内にこもって、混乱状態になる子どもを、「マイナス型」とした。

 この分類方法は、使ってみるとたいへん便利なことがわかった。たとえば過干渉児と呼ばれるタイプの子どもがいる。親の日常的な過干渉がつづくと、子どもは独特の症状を示すようになるが、このタイプの子どもも、粗放化するプラス型と、内閉するマイナス型に分けて考えることができる。子ども自身の生命力の違いによるものだが、もちろん共通点もある。ともに常識ハズレになりやすいなど。

 ほかにたとえば赤ちゃんがえりをする子どもも、下の子に暴力行為を繰りかえすタイプをプラス型、ネチネチといわゆる赤ちゃんぽくなるタイプをマイナス型と分けることができる。いじめについても、攻撃的にいじめるタイプをプラス型、もの隠しをするなど陰湿化するタイプをマイナス型に分けるなど。

また原因はともあれ、家庭内暴力を起こす子どもをプラス型、引きこもってしまう子どもをマイナス型と考えることもできる。表面的な症状はともかくも、その症状を別とすると、共通点が多い。またそういう視点で指導を始めると、たいへん指導しやすい。

 こうした考え方は、もちろん確立された考え方ではないが、子どもをみるときには、たいへん役に立つ。あなたも一度、そういう目であなたの子どもを観察してみてはどうだろうか。
 
 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(332)

●親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。
そのまま転載させてもらう。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・50歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプリントを3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」「2時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを3枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「4枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格できそうとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(333)

●親が子育てでいきづまるとき(2)

 前回の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。

「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパターンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」というのを大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。そのつど子どもの心を確かめるということをしない。ときどき子どもの側から、「NO!」のサインを出しても、そのサインを無視する。あるいは「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けないから、それがわかる。私「明日の休みはどう過ごしますか?」、母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」、私「緑花木センター……ですか?」、母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから……」と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。息子は、「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には3つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)よき友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。

とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(334)

●マザコン人間

 マザコンタイプの男性や女性は、少なくない。昔、冬彦さん(「テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』の主人公」)という男性のような例は、極端な例だが、しかしそれに似た話はいくらでもある。

総じてみれば、日本人は、マザコン型民族。よい例が、森進一が歌う、『おふくろさん』。世界広しといえども、大のおとなが夜空を見あげながら、「ママー、ママー」と涙をこぼす民族は、そうはいない。

 そのマザコンタイプの人を調べていくと、おもしろいことに気づく。その母親自身は、マザコンタイプの息子や娘を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。一方、マザコンタイプの息子や娘は、自分を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。その双方が互いにそう思い込んでいるから、自分たちのおかしさに気づくことは、まずない。

意識のズレというのはそういうものだが、もっとも互いにそれでよいというのなら、私やあなたのような他人がとやかく言う必要はない。しかし問題は、そういう男性や女性の周囲にいる人たちである。男性の妻とか、女性の夫とかなど。ある女性は、結婚直後から自分の夫がマザコンであることに気づいた。ほとんど数日おきに、夫が実家の母親と連絡を取りあっているというのだ。何かあると、ときには妻であるその女性に話す前に、実家の母親に報告することもあるという。

しかし彼女の夫自身は、自分がマザコンだとは思っていない。それとなくその女性が夫に抗議すると、「親を大切にするのは子の努め」とか、「親子の縁は切れるものではない」と言って、まったく取りあおうとしないという。

 いわゆる依存型社会では、「依存性」が、さまざまな形にその姿をかえる。ここにあげた「マザコン」もその一つ。で、最近気がついたが、マザコンというと、母親と息子の関係だけを想像しがちだが、母親と娘、あるいは父親と娘でも、同じような関係になることがある。そして息子と同じように、マザコン的であることが、「いい娘」の証(あかし)であると思い込む女性は少なくない。

このタイプの女性の特徴は、「あばたもエクボ」というか、何があっても、「母はすばらしい」と決めつけてしまう。ほかの兄弟たちが親を批判しようものなら、「親の悪口は聞きたくない!」と、それをはげしくはねのけてしまう。ものの考え方が権威主義的で、親を必要以上に美化する一方、その返す刀で、自分の息子や娘に、それを求める。つぎの問題は、このとき起きる。息子や娘がそれを受け入れればそれでよいが、そうでないときには、互いがはげしく衝突する。実際には、息子や娘がそれを受け入れる例は少なくない。こうした基本的な価値観の衝突は、「キレツ」程度ではすまない。たいていはその段階で、「断絶」する。

 マザコン的であることは、決して親孝行ではない。このタイプの男性や女性は、自らのマザコン性を、孝行論でごまかすことが多い。じゅうぶん注意されたい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(335)

●親は絶対か?

 あなたが「親は絶対」と思うのは、あなたの勝手だが、それをあなたの子どもに押しつけてはいけない。えてして人間は、自分の潜在的な願望を、ちょうどカガミのように、その反対側に自分の姿を焼きつけることがある。「親は絶対」と思いながら、その一方で、「子どもにも自分のことをそう思ってほしい」という願望を焼きつける。

このタイプの人は、もともと権威主義的なものの考え方をする。「親が絶対」という考え方そのものが、権威主義的であると考えてよい。親を必要以上に美化する一方、その親を批判する人を許さない。自分の子どもでも、それを許さない。子どもが何かを反発しようものなら、「親に向って、何だ!」となる。

 しかし本当に、親は絶対か? 実のところ、私もその「親」になってみて気づいたが、親といっても、中身はボロボロ。他人どころか、自分の子どもにさえ、尊敬されるべき人間とは思っていない。

(決して、かっこうつけて言っているのではない。本心でそう思っている。)

だからいつか(今でも)、自分の息子たちが私を美化しようものなら、私はこう言うだろう。「バカなことを考えるな。私は私だ。もっと中身を見てくれ」と。いわんや私を権威化し、息子たちに「父の言うことは絶対正しい」などと言われたら、私が困る。私はいつもこうしてものを書きながらも、どこか流動的な自分を知る。明日、自分の思想が変わることはないが、10年後にはわからない。変わるかもしれない。事実、10年前に書いた自分の文を読んでみたとき、「どうしてこんなことを考えたのだろう」と思うときがよくある。私はそういう自分をよく知っているから、今の私が絶対だとは思っていない。

 繰り返すが、あなたが「親は絶対」と思うのは、あなたの勝手だが、それをあなたの子どもに押しつけてはいけない。えてして人間は、自分の考えに溺れるあまり、自分が親であることをよいことに、子どもを苦しめることがある。「私は親だ」という論理をふりかざし、つまりそれを逆手にとって子どもを苦しめている親はいくらでもいる。

さらにタチの悪いことに、親が権威主義的であればあるほど、親自身は自分の子どもの心を見失う。この私ですら権威主義的なものの考え方をする人と出会うと、「説得してやろう」などという考えは吹っ飛んでしまう。絶望感すら覚える。互いの間に、あまりにも大きなミゾを感ずる。親子の関係なら、なおさらである。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前では仮面をかぶる。そしてその仮面をかぶった分だけ、心が離れる。

つまり親が「私の子は、親思いのいい子だ」と思っているほど、子どもはそうは思っていない。現に今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)。あなたはこの事実をどう考えるか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(336)

●親孝行論

 先日も、「林先生は、親孝行を否定するのか。先祖を大切にするのは、日本人が伝統的にもつ美徳。評論家として許せない!」と言ってきた女性(36歳)がいた。しかし私は何も、親孝行を否定しているのではない。私は「子どもは親のめんどうをみるべきだ」式の安易な親子論、さらには「先祖を祭らない子孫は滅びる」式の安易な先祖論は、人によっては、その人を苦しめることにもなるから注意しなさいと言っているのである。

たとえば私は23歳のときから、収入の30~50%を、実家(岐阜県M市)へ納めてきた。幼稚園での給料は2万円だった。(大卒の初任給が6万円弱の時代)。そういうときでも、実家に、毎月3~5万円。盆暮れには20~30万円のお金を置いてきた。

長男が生まれたときも、見舞いにきた母に、24万円を渡した(もらったのではない!) 45歳のときまでそうしてきた。(45歳のときは、仕送り額を毎月10万円にしてもらったが……。)法事や葬式、香典、税金もすべて私が払ってきた。(すべて!) 

実家の家も新築の費用もすべて私が出した。私の時代には、こういうことは当たり前(?)だった。が、その重圧感というのは相当なものだった。だからというわけではないが、私は自分の息子たちには、そんな思いはさせたくない。どんなに貧乏をしても、息子たちには負担をかけさせたくない。私はひとりの親として、そう考える。

 で、今、日本に出稼ぎにきているフィッリピンの人やタイの人が、日本で稼いで、母国へ仕送りをしているという話を聞くと、その孝行ぶりをたたえるというよりは、思わず「たいへんだろうな」と思ってしまう。心から同情する。……と、同時に、こうした後進国性は、早く日本から消したほうがよいと思う。

が、こうした後進国性は、それを支える周囲の文化を改善しないかぎり、なおらない。私とて、自分で仕送りをしたくてしたというよりは、「子どもが親や先祖のめんどうをみるのは当然」という、当時の世論(=常識?)を心のどこかで感じながら、それに従っただけだ。しかしそんな世論や常識のほうがまちがっている。おかしい。それとも日本の社会は、まだアフリカの何とか部族の社会と同じレベルとでもいうのだろうか。

 ここまでくると、もう宗教戦争のようにすらなる。家や先祖を中心に家族を考えるか、個人を中心に家族を考えるかの違いといってもよい。この段階ではどちらが正しいとか、まちがっているとかいうことにはならない。

要はそれぞれの人が、それぞれの家庭で、平和で仲よく、楽しく過ごせればよい。だから私がここで書いているようなことに納得できないからといって、私を責めないでほしい。私もあなたの意見は尊重するし、そのためあなたを責めることはしない。だから私があなたの意見を尊重するように、あなたも私の意見を尊重してほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(337)

●子どもを使うということ

 忍耐力を養うためには、子どもは使う。ただ、「子どもを使う」といっても、何をどの程度させればよいということではない。子どもを使うということは、家庭の緊張感の中に、子どもを巻き込むことをいう。たとえばこんなテスト。

 あなたの子どもの前で、重い荷物をもって運んでみてほしい。そのときあなたの子どもがそれを見て、「ママ手伝ってあげる!」と言って飛んでくればよし。そうでなく、見て見ぬフリをしたり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘とみてよい。今は体も小さく、あなたの前でおとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの手に負えなくなる。

 昔、幼稚園で、母親たちの何かの集会があったときのこと。やってくる母親たちにスリッパを出してあげていた子ども(年長男児)がいた。だれかに頼まれたわけではない。で、その子どもは集会が始まると、今度は、炊事室へ行き、炊事室のおばさんに、お茶を出すからお茶をつくってほしいとまで言ったという。たまたま彼の母親がその場にいたが、その母親は笑いながら、こう言った。「うちの子はよく気がつくのですよ。先日は何かのセールスの人にまで、お茶を出していました」と。

 このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。もともと「勉強」には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう「忍耐力」だからである。その忍耐力があるかないかも、簡単なテストでわかる。試しに子どもにこう言ってみてほしい。「台所の生ゴミを始末して!」と。あるいは風呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。

そのとき「ハーイ」と言って、手で始末できれば、あなたの子どもはかなり忍耐力のある子どもとみる。そうでない子どもは、「いやだ」「やりたくない」とか言って逃げる。年齢が大きくなると、「自分でしな」「どうしてぼくがしなければいかんのか!」と言うようになる。そうなると、このしつけをするのは、もう手遅れ。

 皮肉なことに子どもというのは、使えば使うほど、すばらしい子どもになる。一方、楽をさせればさせるほど、ドラ息子、ドラ娘になる。そういう意味でも、日本人は、「子どもを大切にする」ということが、まだよくわかっていない? さらに「子どもをかわいがる」ということが、まだよくわかっていない? 子どもにベタベタの依存心をもたせながら、それがかわいがることだというふうに誤解している人はいくらでもいる。しかしそうなればなったで、苦労するのは結局は子ども自身であることを忘れてはいけない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(338)

●三つの失敗

 子育てには失敗はつきものとは言うが、その中でもこんな失敗。

ある母親が娘(高校1年)にこう言ったときのこと。その娘はこのところ、何かにつけて母親を無視するようになった。「あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」と。それに答えてその娘はこう叫んだ。「いつ、だれがあんたにそんなことをしてくれと頼んだ!」と。これが失敗、その1。

 父親がリストラで仕事をなくし、ついで始めた事業も失敗。そこで高校3年生になった娘に、父親が大学への進学をあきらめてほしいと言ったときのこと。その娘はこう言った。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、私の学費を用意してよ! 私を大学へやるのは、あんたの役目でしょ」と。

そこで私に相談があったので、その娘を私の家に呼んだ。呼んで、「お父さんのことをわかってあげようよ」と言うと、その娘はこう言った。「私は小さいときから、さんざん勉強しろ、勉強しろと言われつづけてきた。中学生になったときも、行きたくもないのに、進学塾へ入れさせられた。そして点数は何点だった、偏差値はどうだった、順位はどうだったとそんなことばかり。この状態は高校へ入ってからも変わらなかった。その私に、『もう勉強しなくていい』って、どういうこと。そんなことを言うの許されるの!」と。これが失敗、その2。

 Yさん(女性40歳)には夢があった。長い間看護婦をしていたこともあり、息子を医者にするのが、夢であり、子育ての目標だった。そこで息子が小さいときから、しっかりとした設計図をもち、子どもの勉強を考えてきた。が、決して楽な道ではなかった。Yさんにしてみれば、明けても暮れても息子の勉強のことばかり。ときには、「勉強しろ」「うるさい」の取っ組みあいもしたという。

が、やがて親子の間には会話がなくなった。しかしそういう状態になりながらも、Yさんは息子に勉強を強いた。あとになってYさんはこう言う。「息子に嫌われているという思いはどこかにありましたが、無事、目標の高校へ入ってくれれば、それで息子も私を許してくれると思っていました」と。

で、何とか息子は目的の進学高校に入った。しかしそこでバーントアウト。燃え尽きてしまった。何とか学校へは行くものの、毎日ただぼんやりとした様子で過ごすだけ。私に「家庭教師でも何でもしてほしい。このままでは大学へ行けなくなってしまう」と母親は泣いて頼んだが、程度ですめばまだよいほうだ。これが失敗、その3。

 こうした失敗は、失敗してみて、それが失敗だったと気づく。その前の段階で、その失敗、あるいは自分が失敗しつつあると気づく親は、まずいない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(339)

●断絶とは

 「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないなどがある。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。家族には助け合い、わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうという5つの機能があるが、断絶状態になると、家族がその機能を果たさなくなる。

親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こういう状態になると、あとは底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子どもはそれに反発し、子どもは親が望む方向とは別の方向に行ってしまう。

 しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認めあわない状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成10年)。

もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論したり、逆らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と叫ぶ親は少なくないが、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以外の何ものでもなかった。江戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまればそのまま佐渡の金山に送り込まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、今でも、親の権威にしがみついている人は少なくない。

 日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。たとえば子どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家族」を誇る親は少ない。中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入ってくれれば」と、子どもの受験競争に狂奔する親すらいる。

価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外見よりも中身こそ、大切にすべきではないのか。そしてそういう視点で考えるなら、「断絶」という状態は、まさに家庭教育の大失敗ととらえてよい。言いかえると、家族が助け合い、わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうことこそが、家庭教育の大目標であり、それができれば、あとの問題はすべてマイナーな問題ということになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考えてはいけない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(340)

●親子の断絶の三要素、(1)リズムの乱れ

 親子を断絶させる三つの要素に、(1)リズムの乱れ、(2)価値観の衝突、それに(3)相互不信がある。

 まず(1)リズムの乱れ。子育てにはリズムがある。そしてそのリズムは、恐らく母親が子どもを妊娠したときから始まる。中には胎児が望む前から(望むわけがないが)、おなかにカセットレコーダーを押しつけて、英語だのクラシック音楽を聞かせる母親がいる。さらに子どもが生まれると、今度は子どもが「ほしい」と求める前に、時計を見ながら、ミルク瓶を無理やり子どもの口に押し込む親がいる。「もうすぐ3時間50分……おかしいわ。どうしてうちの子、泣かないのかしら……。もう4時間なのに……」と。

 そしてさらに子どもが大きくなると、子どもの気持ちを確かめることなく、「ほら、英語教室」「ほら、算数の教室」とやりだす。このタイプの母親は、「子どものことは私が一番よく知っている」とばかり、何でもかんでも、母親が決めてしまう。いわゆる『ハズ論』で子どもの心を考える。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「こうすれば子どもは感謝するハズ」と。

このタイプの母親は、外から見ると、それがよくわかる。子どものリズムで生活している母親は、子どもの横か、うしろを歩く。しかしこのタイプの母親は、子どもの前に立ち、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩く。あるいはこんな会話をする。

 私、子どもに向かって、「この前の日曜日、どこかへ行ってきたの?」、それを聞いた母親、会話の中に割り込んできて、「おじいちゃんの家に行ってきたわよね。そうでしょ。だったらそう言いなさい」、そこで私、再び子どもに向かって、「楽しかった?」と聞くと、母親、また割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、楽しかったと言いなさい」と。

 いつも母親のほうがワンテンポ早い。このリズムの乱れが、親子の間にキレツを入れる。そしてそのキレツが、やがて断絶へとつながっていく。あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」「いつ、だれがあんたにそんなことをしてくれと頼んだ!」と。

つまりこのタイプの親は、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプリントを3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。が、3枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。

こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを3枚するようになれば、親は、「四枚やらせたい」と言うようになる。子どもは、それを知っている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(341)

●親子の断絶の3要素、(2)価値観の衝突

 日本の子育てで最大の問題点は、「依存性」。日本人は子どもに、無意識のうちにも依存性をもたせ、それが子育ての基本であると考えている。

たとえばこの日本では、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、昔から「鬼っ子」として嫌う。言うまでもなく、依存と自立は、相対立した立場にある。子どもの依存性が強くなればなるほど、子どもの自立は遅れる。

が、この日本では、「依存すること」そのものが、子育ての一つの価値観になっている。たとえば「親孝行論」。こんな番組があった。数年前だが、NHKの『母を語る』というのだが、その中で、歌手のI氏が涙ながらに、母への恩を語っていた。「私は女手ひとつで育てられました。その母の恩に報いたくて東京へ出て、歌手になりました」と。I氏はさかんに「産んでもらいました」「育てていただきました」と言っていた。

私はその話を聞いて、最初は、I氏はすばらしい母親をもったのだな、I氏の母親はすばらしい人だなと思った。しかし10分くらいもすると、大きな疑問が自分の心の中に沸き起こってくるのを感じた。本当にI氏の母親はすばらしい人なのか、と。ひょっとしたらI氏の母親は、I氏を育てながら、「産んでやった」「育ててやった」と、I氏を無意識のうちにも追いつめたのかもしれない。そういう例は多い。たとえば窪田聡という人が作詞、作曲した『かあさんの歌』というのがある。あの歌の歌詞ほど、ある意味で恩着せがましく、またお涙ちょうだいの歌詞はない?

 で、結局はこうした「依存性」の背景にあるのは、子どもを一人の人間としてみるのではなく、子どもを未熟で未完成な半人前の人間とみる、日本人独特の「子ども観」があると考える。「子どもは子どもでないか。どうせ一人前に扱うことはできないのだ」と。そしてこういう「甘さ」は、そのまま子育てに反映される。

子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることだ。子どもを大切にするということは、子どもに苦労させないことだと考えている人は多い。先日もロープウェイに乗ったとき、うしろの席に座った60歳くらいの女性が、五歳くらいの孫にこう話していた。「楽チイネ、おばあチャンといっチョ、楽チイネ」と。子どもを子ども扱いすることが、子どもを愛することだと誤解している人は多い。

 そこで価値観の衝突が始まる。たとえば親孝行論にしても、「親孝行は教育の要である。日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。しかし現実には、総理府の調査でも、今の若い人たちで、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えている人は、19%に過ぎない(総理府、平成九年調査)。

どちらが正しいかという問題ではない。親が一方的に価値観を押しつけても、今の若い人たちはそれに納得しないだろうということ。そしてそれが、いわゆる価値観の衝突へと進む。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(342)

●親子の断絶の三要素、(3)信頼関係の喪失

 子どもをあるがままを受け入れろとはよく言われている。しかし子どもをあるがまま受け入れるということは、本当にむずかしい。むずかしいことは、親なら、だれでも知っている。さらに子どもを信じろとも、よく言われている。しかし子どもを信ずるということはさらにむずかしい。

 「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。そうでなければ、そうでない。子どもは長い時間をかけて、あなたの思いどおりの子どもになる。そういう意味で子どもの心はカガミのようなものだ。

イギリスの格言にも、「相手は、あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。たとえばあなたがAさんのことを、「いい人だ」と思っていると、相手も、あなたのことを「いい人だ」と思っているということ。子どももそうで、「うちの子はいい子だ」と思っていると、子どもも「うちの親はいい親だ」と思うようになる。そうでなければそうでない。

 昔、幼稚園にどうしようもないワル(年中男児)がいた。友だちを泣かせる、ケガをさせるは日常茶飯事。先生たちも手を焼いていた。が、ある日私がその子どもを見かけると、その子どもが床にはいつくばって絵を描いていた。そして隣の子どもにクレヨンを貸していた。私はすかさずその子をほめた。ほめて、「あなたはいい子だなあ。やさしい子だな」と言った。それから数日後もまた見かけたので、また同じようにほめてやった。「君は、クレヨンを貸していた子だろ。いい子だなあ」と。それからもその子どもはワルはワルだったが、どういうわけか、私を見かけると、そのワルをパッとやめた。私に向かって、「センセ~!」と言って手を振ったりした。

 子どもを伸ばす秘訣は、子どもを信ずること。子どもというのは、(おとなもそうだが)、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを前向きに伸ばす。もしあなたが今、「うちの子はどうも心配だ」と思っているなら、今日からその心をつくりかえる。方法は簡単だ。

最初はウソでもよいから、「うちの子はいい子だ」を繰り返す。子どもに向かっては、「あなたはすばらしい子だ」「どんどんよくなっている」を繰り返す。これを数か月、あるいは半年とつづける。やがてあなたがその言葉を、自然な形で言えるようになったとき、あなたの子どもはその「いい子」になっている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(343)

●親子のリズムを取り戻すために(1)

 昔、オーストラリアの友人がいつもこう言っていた。親には3つの役目がある。1つ目は親は子どもの前を歩く。子どものガイドとして。2つ目は子どものうしろを歩く。子どもの保護者(プロテクター)として。そして3つ目は、子どもの横を歩く。子どもの友として。

 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、横を歩くのが苦手。その理由の一つが、日本ではおとなと子どもを分けて考える傾向が強い。おとなはおとなだが、子どもを半人前の、未熟で、未経験な人間と位置づける。もともと対等ではないという前提で、子どもをみる。

たとえば先日もロープウェイに乗ったときのこと、背中合わせにすわった女性(60歳くらい)が、5歳くらいの孫に向かってこう話していた。「楽チイネ、楽チイネ、おばあチャンと、イッチョ、楽チイネ」と。

5歳といえば、人格の形成期に入る。その時期に、こうまで子どもを子ども扱いしてよいものか。子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることではない。同じように子どもを大切にするということは、子どもを子ども扱いすることではない。子どもを大切にするということは、子どもを一人の人格者として尊敬することである。子どもの年齢には関係ない。子どもがたとえ赤ん坊でも、また成人していても、子どもを一人の人間として認める。子育ての基本はここにあり、すべての子育ては、ここを原点として始まる。

 日本には親意識という言葉がある。この親意識には、2つの意味がある。1つは「親としての自覚」を意味する親意識。これは重要な親意識である。もう1つは、「私は親だ」式に、子どもに向かって親の権威を押しつける親意識。

この親意識が強ければ強いほど、親は、子どもの横に立つことができなくなる。というのも、もともと親意識の根底にあるのは、上下意識。男が上、女が下。夫が上、妻が下。そして親が上、子が下と。日本人は長い間の、極東の島国という特異な環境で、独特の上下意識を育てた。たとえば英語には、「先輩、後輩」にあたる単語すらない。

あえて言えば、ジュニア、シニアだが、それとて日本で使う意味とはまったく違う。言うまでもなく、この日本ではたった1年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をし、そこに徹底した支配、従属関係を築く。

 が、今、幸か不幸か、(幸なのだろうが……)、この権威主義が急速に崩れつつある。その一例が、尾崎豊が歌った「卒業」である。あの歌は、CDのジングル版だけでも200万枚(CBSソニー広報部)も売れたそうだ。「アルバム版、カセット版も含めると、300万枚以上」ということだそうだ。

あの歌の中で尾崎は、「しくまれた自由」からの「卒業」を訴えた。私たち団塊の世代(戦後生まれ)にとっては、青春時代は、まさに反権力闘争一色だったが、尾崎の世代(今の父親、母親の世代)には、反世代闘争へとそれが変化していった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(344)

●親子のリズムを取り戻すために(2)

 尾崎豊は「卒業」をとおして、おとなたちの権威を否定した。「先生、あんたもか弱き羊なのか」と彼は歌った。尾崎のこの歌は、まさにその世代の「俺たちの怒り」を代弁したものだった。そこで尾崎は、「行儀よく、まじめなんてできやしなかった」と歌い、つづけて「夜の校舎、窓ガラス壊して回った」と歌う。

問題はここである。尾崎は権威を破壊した。それはわかる。しかしそれにかわる新しい価値観をつくることができなかった。そしてそれがそのまま、今の若い父親や母親の混乱の原因となっていった。

 最近、よく家庭における教育力の低下を訴える論調をみかける。しかし実際には、いろいろな統計結果をみても、家庭における教育力は低下などしていない。私の世代とくらべるのもヤボなことだが、私たちの時代には、親子の触れあいなど、ほとんどなかった。親も自分たちが食べていくだけで精一杯。家族旅行にしても、私のばあい、小学6年生までにたったの一度しかない。しかし今は違う。日曜日ごとにドライブをする。各地の行楽地は親子連れでいっぱい……! 

 教育力が低下したのではなく、親たち自身が、古い価値観を否定し、破壊したものの、それにかわる新しい価値観をつくれないでいる。そしてそれが原因で、家庭教育が混乱している。教育力が低下したのは、あくまでもその結果でしかない。昔は、「親に向かって何だ!」と、親が一喝すれば、子どもはそれで黙った。しかし今は、違う。親自身がそうであってはいけないと思っている。その迷いがそのまま、混乱となった。

 で、ここで二つの考え方が生まれる。一つは旧来型の「親の権威を取り戻そう」という考え方。私はこれを復古主義と呼んでいる。もう一つは、「そうであってはいけない。新しい考え方をつくろう」という考え方。私は当然のことながら、後者の考え方を支持する。またそうでなくてはいけないと考える。

 そこでどうするか? 新しい価値観をつくるためにどうするか? もう答はおわかりかと思う。基本的には、子どもは生まれながらにして、一人の人間として認める。そして時には、子どもの前やうしろを歩くことはあっても、しかしそれ以上に、子どもの横を歩く。

子どもに向かって、「~~しなさい」と叫んだり、子どもに向かって、「おいチイネ、おいチイネ」と甘くささやくのではなく、「あなたはどう思うの」「あなたは私に何をしてほしいの」と、子どもの心を確かめながら行動する。子どもと一緒に歩くときも、務めて子どもの横を歩く。できれば子どものうしろを歩く。こうした謙虚な気持ちが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(345)

●価値観の衝突を防ぐにはどうするか(1)

 価値観の衝突は、えてして宗教戦争のような様相をおびる。互いに「自分が正しい」と信じているから、その返す刀で、「あなたはまちがっている」とぶつける。互いに容赦しない。親子でもこのタイプの衝突は、行きつくところまで行きつく。たとえば「権威主義」を考えてみる。

 日本人は本来、権威主義的なものの考え方を好む。よい例が、あの水戸黄門である。三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すれば、まわりの者が皆頭をさげる。今でもあのドラマは視聴率を、20%以上稼いでいるというから驚きである。つまり日本人には、あれほど痛快な番組はない?

 しかしこうした権威主義は、欧米では通用しない。あるときオーストラリアの友人が私にこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。そのときでも頭をさげるのか」と。同じような例は、ときとして家庭の中でも起きる。

 親をだます子どもがいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。Kさん(70歳)は、息子が海外へ出張している間に、息子の貯金通帳からお金を引き出し、自分の借金の返済にあててしまった。息子がKさんを責めると、Kさんはこう居なおった。

「親が先祖を守るため息子のお金を使って何が悪い」と。

問題はこのあとだ。周囲の人の意見は、まっ二つに分かれた。「たとえ親でも悪いことをしたら、あやまるべきだ」という意見。もう一つは、「親はどんなことがあっても、子どもに頭をさげるべきではない」という意見。

 あなたがどちらの意見であるにせよ、こういうケースでは、その中間の考え方というのは、ほとんどない。そして親も子も同じように考えるときには、衝突は起きない。しかし互いの価値観が対立したとき、それはそのまま衝突となる。

 もっともこうしたケースは特殊なもので、そう日常的に起こるものではない。しかしこれだけは言える。親が権威主義的であればあるほど、「上」のものにとっては、居心地のよい世界かもしれないが、「下」のものにとっては、そうではないということ。

ここにも書いたように、下のものが上のものに同調すれば、それはそれでうまくいくかもしれないが、たいていは下のものは、上のものの前で仮面をかぶるようになる。そして仮面をかぶった分だけ、上のものは下のものの心がつかめなくなる。つまりその段階で、互いの間にキレツが入る。そしてそのキレツが長い時間をかけて、断絶となる。

 結論から言えば、親の権威主義など、百害あって一利なし。少なくともこれからの考え方ではない。ちなみに、小学生6年生10人に私がこう聞いてみた。「君たちのお父さんやお母さんが、何かまちがったことをしたとき、お父さんやお母さんは、君たちに謝るべきか。それとも、親なのだから、謝るべきではないのか」と。すると、全員がすかさず大きな声でこう答えた。「謝るべきだヨ~」と。これがこの日本の流れであり、もう流れを変えることはできない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(346)

●価値観の衝突を防ぐにはどうするか(2)

 依存性には相互作用がある。つまり子どもだけの依存性を問題にしても意味はない。たとえば依存心の強い子どもがいる。何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア~(だから何とかしてくれ)」などという。多分、家庭ではそう言えば、まわりのものが何とかしてくれるのだろう。

同じように園でも、トイレへ行きたいときも、トイレへ行きたいとは言わない。「先生、おしっこオ~」などと言う。日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日本人はそこまで依存性の強い民族ということにもなる。で、こうした依存性の強い子どもが生まれる背景には、それを容認する甘い家庭環境がある。

もっと言えば、親自身も、潜在的にだれかに依存したいという願望があり、それが姿を変えて、子どもの依存心に甘くなる。もっとも親が壮年期にはそれは目立たない。しかし老年になると、再びそれが現れる。ある女性(65歳)は、自分の息子や娘に電話をかけるたびに、今にも死にそうな、弱々しい声でこう言う。「お母さんも歳をとったからネエー(だから何とかしろ)」と。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。「あなたの人生はあなたのものだから、この広い世界を自由に羽ばたきなさい。たった一度しかない人生だから、思う存分、自分の人生を生きなさい。親孝行……? そんなことを考えなくていい。家の心配……? そんなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげてこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。

親孝行や家の心配を子どもに求めてはいけない。それを期待するのも、強要するのもいけない。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。

 ……と書くと、こう言う人がいる。「林、君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。日本には日本独特の美徳というものがある。親孝行もその一つだ」と。

 ところがどっこい。こんな調査結果もある。平成6年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、23%(3年後の平成9年には19%にまで低下)しかいない。自由意識の強いフランスでさえ59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、何と63%である。(ほかにフィリッピン81%(11か国中、最高)、韓国67%、タイ59%、ドイツ38%、スウェーデン37%、日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。

これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。)欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきているとみるべきではないのか。

 子どもを自立させたかったら、親自身も自立する。つまり親の自立なくして、子どもの自立はないということになる。そしてそのほうが、結局は親子の絆を深める。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(347)

●子どもを信ずるということ(1)
 
 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をした。息子「アメリカで就職したい」、私「いいだろ」、息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのこの地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」、私「いいだろ」、息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」、私「いいだろ」と。その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。息子「アメリカ国籍を取る」、私「……日本人をやめる、ということか……」、息子「そう……」、私「……いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。

一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(348)

●子どもを信ずるということ(2)

 人とのトラブルで私が何かを悩んでいると、オーストラリアの友人は、いつも私にこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ。OK?」と。英語では「Forgive and Forget」と言う。聖書の中の言葉らしいが、それはともかく、私は長い間、この言葉のもつ意味を、心のどこかで考え続けていたように思う。「フォ・ギブ(許す)」は、「与える・ため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得る・ため」とも訳せる。「では何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか」と。

 ある日のこと。自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。ふとこの言葉が、私の頭の中を横切った。「許して忘れる」と。「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。誰の責任でもない、お前自身の責任ではないか」と。とたん、私はその「何」が、何であるかがわかった。

 あなたのまわりには、あなたに許してもらいたい人が、たくさんいる。あなたが許してやれば、喜ぶ人たちだ。一方、あなたには、許してもらいたい人が、たくさんいる。その人に許してもらえれば、あなたの心が軽くなる人たちだ。つまり人間関係というのは、総じてみれば、(許す人)と(許される人)の関係で成り立っている。

そこでもし、互いが互いを許し、そしてそれぞれのいやなことを忘れることができたら、この世の中は何とすばらしい世の中になることか。……と言っても、私のような凡人には、そこまでできない。できないが、自分の子どもに対してなら、できる。私はいつしか、できの悪い息子たちのことで何か思い悩むたびに、この言葉を心の中で念ずるようになった。「許して忘れる」と。

つまりその「何」についてだが、私はこう解釈した。「人に愛を与えるために許し、人から愛を得るために忘れる」と。子どもについて言えば、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」と。これは私の勝手な解釈によるものだが、しかし子どもを愛するということは、そういうことではないだろうか。そしてその度量、言いかえると、どこまで子どもを許し、そしてどこまで忘れることができるかによって、親の愛の深さが決まる……。

 もちろん「許して忘れる」といっても、子どもを甘やかせということではない。子どもに好き勝手なことをさせろということでもない。ここでいう「許して忘れる」は、いかにあなたの子どもができが悪く、またあなたの子どもに問題があるとしても、それをあなた自身のこととして、受け入れてしまえということ。「たとえ我が子でも許せない」とか、「まだ何とかなるはずだ」と、あなたが考えている間は、あなたに安穏たる日々はやってこない。

一方、あなたの子どももまた、心を開かない。しかしあなたが子どもを許し、そして忘れてしまえば、あなたの子どもも救われるが、あなたも救われる。何だかこみいった話をしてしまったようだが、子育てがどこかギクシャクしたら、この言葉を思い出してみてほしい。「許して忘れる」と。それだけで、あなたはその先に、出口の光を見いだすはずだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(349)

●子育ての目標

 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言った父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872~1970)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(350)

●内政不干渉の原則

 それぞれの家庭には、外から図り知ることができない複雑な事情がある。一方、私たちはそれぞれが家庭をもち、子どもをもち、一つの生活をもっている。しかしそれはあくまでも「一つ」。その一つを基準にして、他人の家庭をのぞいてはいけない。いわんや批判したり、節介をしてはいけない。

それぞれの人は、ぞれぞれに懸命に生きている。あなたがそれらの人を、経済的に援助しているとか、社会的にめんどうをみているというのなら話は別だが、そうでなければ、内政干渉はやめたほうがよい。

 私にも一人の知人(55歳男性)がいる。実にノー天気な男で、いつも他人の不幸に顔をつっこんでは、あれこれ説教しては楽しんでいる。自分では、いっぱしの人生経験者だと思っているらしい。

昔、私が家を新築するときやってきて、コンクリートの基礎を見ながらこう言った。「ここは六畳間ですかあ。六畳間はせまいから、使いものになりませんね。それに廊下が暗いですよ。日当たりが悪いから……」と。やがて家が建つとまたやってきて、こう言った。「ここは風当たりが強いですね。これではいけない。西側に塀をつくるといい。ははは、やっぱり六畳間は使い勝手が悪いでしょう。それに南側には大きな木を植えるといい」と。

 それからも私の家にトラブルが起きるたびに、どこから聞きつけてくるのか、そのつどやってきてあれこれ説教した。「林君も、郷里にお母さんを残してたいへんですね。子どもが親のめんどうをみるのは当たり前ですから、そろそろ実家へ帰ることも考えなくてはいけませんね」と。

こちらの生活の根幹にかかわるような問題を、ズケズケと平気で言う。で、ある日とうとう私のほうがキレた。キレて、「2度と電話をしてこないでほしい」と言い切った。が、そういうノー天気な人には、こちらの気持ちなどまるでわからない。半年もするとまた電話がかかってきて、「今度、いっしょに台湾へ行きませんか。安いコースがありますから……」と。

 こういう人は例外だとしても、他人の心に無神経な人はいくらでもいる。先日も私にこう言った元幼稚園教師がいた。「林先生の息子さんは、今どちらの大学に? 先生の息子さんのことですから、さぞかしいい大学に行っておられることでしょうね」と。思わず「高校は中退で、今は家でゴロゴロしています」とウソを言いそうになったがやめた。こういうウソは相手を喜ばすだけだ。

もともとこのタイプの人は、こちらの心配など、何もしていない。いわゆる「アラ(欠点)」をさがしては、そのアラをまた別の人に伝えては楽しんでいるだけ。先の知人も、口が軽いことこの上なし。何かを相談したら最後。その話は一夜のうちに皆に伝わってしまう……。

 内政不可侵の原則。それを守るか守らないかは、あなたの勝手だが、これだけは言える。それを守らないと、あなたは確実に嫌われる。

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