2009年7月14日火曜日

*Essays, this morning

●J社社員の年金

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航空運輸会社に、J社という会社がある。
そのJ社の社員の年金が、国民年金、厚生年金、
それに企業年金の3つを合わせて、
平均で、月額50万円弱もあるという(新聞報道)。
年間になおすと、600万円弱!

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もっともこの程度の年金なら、それほど
珍しくない。
大手商社のばあい、もっと多い。
「公的年金など、はした金」と、彼らは言う。
それほどまでに、多い。

が、なぜ、それほどまでに多いか。
一説によれば、「口止め料」とか。
商社マンというのは、そのつど、たいへん
きわどい仕事をしている。
そうした仕事の内容を、退職後口外されたら、
それこそ、たいへんなことになる。
だから「口止め料」と。
そんな話を、電話で友人と話しながら、
私はこう言った。

「それだけの年金があれば、死ぬまで
遊んで暮らせるよね」と、友人が言った
ときのこと。
「遊べと言われても、遊べるものでは
ないしなア・・・」と。

そう、「遊びなさい」「休みなさい」と言われて、
遊べるものではない。
休めるものでもない。
年金の額ではない。
(もちろん年金は多ければ多いほど、よいが・・・。)
私たちが求めるのは、(生きがい)。
生きがいなくして、老後はない。

で、あなたなら、どちらを選ぶだろうか。

(1) 50万円の給料をもらって、働く。
(2) 50万円の年金をもらって、遊ぶ。

今の私なら、迷わず(1)を選ぶ。
仕事をすることから得られる緊張感は、お金では買えない。
それに遊び始めたとたん、体がなまけてしまい、
元に戻れなくなる。
ほとんどの人が、そうである。
そのあとは、老後というよりは、「死」に向かって
まっしぐら!

・・・それに、「だから、それがどうしたの?」
という問いに、答えのない人生ほど、意味がないものはない。
これには老いも若きもない。
・・・というのは、言い過ぎということは、
私にもわかっている。
しかし、それほどまちがってはいない。

平たく言えば、遊んだからといって、それが
どうなの?
遊び始めたとたん、1年を1日にして生きるだけ?
今の私は、そんな人生には、とても耐えられない。
だから、いくら忙しくても、働いていたほうがよい。

話が脱線したが、このところ年金の話になると、
ビリビリと、脳みそが勝手に反応してしまう。
そしてそのつど、「いいなあ」とか、「たいへんだなあ」と
思ってしまう。

 で、私のばあいは、年金といっても、月額6万4000円前後。
国民年金だけ。
しかも満65歳からということになっている。
が、こんな額では、とても生活できない。
だからまったくアテにしていない。
アテにしていないというより、「年金で遊んで
暮らす」という発想、そのものがない。
だから(1)の「50万円の給料をもらって、働く」を
選んでしまう。
選ぶしかない。

 しかし私は、これでよかったと思う。
その(きびしさ)が、心の中に、ある種の緊張感を作る。
その緊張感が、私の人生を、かえって豊かなものにする。

もし今の私が、毎月50万円もの年金を手にしたら、
勤労意欲そのものが、消えてしまうだろう。
あっという間に、ボケてしまうだろう。
1年を1日にして、生きるようになってしまうだろう。

 ・・・と書くのは、私のひがみかもしれない。
自分をなぐさめるために、(というのも、どうあがいても、
今さら年金の額をふやすことはできないので)、自分の立場を
無理に合理化しているだけかもしれない。

 それにしても、このところこうした不公平感を覚えることが、
やたらと多くなった。


はやし浩司+++July09+++Hiroshi Hayashi

●教職という職業の特殊性

 教職という仕事は、おもしろい仕事である。
それから離れたとたん、教職という仕事を通して得た
知識や経験が、そのまま真っ白になってしまう。
これは私の意見ではない。
長い間、教職についていた人は、みな、そう言う。
中には、「教育には、二度と携わりたくない」という人もいる。

 これはたいへん興味深い現象である。
理由はわからないが、教職という仕事には、たしかにそういう
面がある。
「子どもと接しているときだけが、仕事」。
そう考えてよい。

たとえばこの私でも、休暇が数日つづいただけで、子育て論が
書けなくなってしまう。
(これは本当だぞ!
大げさなことを言っているのではない!)
事実は事実。
これは教職という職業だけがもつ、特殊性と言ってもよいのでは?


Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●七夕(たなばた)

 七夕の短冊のひとつに、こんなことが書いてあった。
テレビでかいま見た、1シーンだった。
若い女性の字だった。
「どうか、10キロ、やせられますように」と。

 それを読んで、「10キロは、たいへんだな」と思った。
2、3キロなら、何とか、なる。
しかし10キロともなると、かなりの覚悟が必要。
減量するだけなら、食事制限がある。
食事制限だけでも可能だが、そんな無茶なやり方を
すれば、体のほうが先に壊れてしまう。
ダイエットは、いつも運動とペアでなくてはならない。
その運動がつらい。
相当の決意がないと、その運動をこなすことができない。

 で、私も目下、ダイエット中。
慢性的なガス欠(=エネルギー不足)状態。
何をしていても、眠くてしかたない。
運動疲れもある。
スカスカと風通しはよくなった感じはするが、体はかえって重くなった感じ。
たった今、朝の運動から帰ってきたところ。
1時間半、歩いた。
40分、サイクリングをした。

 扇風機の風に当たりながら、うつらうつら・・・。
眠くてしかたない。


Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

● 「車に注意」?

近くに大型ショッピングセンターがある。
そのうちの一か所の出口が、歩道を乗り越えて、
大通りに出るようになっている。
買い物に来た客の車は、その歩道を乗り越えて、
大通りに出る。
周囲を3~4メートルの植木で囲まれて
いたこともある。
この歩道で、人身事故が絶えなかった。

車を運転する人は、右方向だけを見て車を
大通りに出そうとする。
そのとき、左側から来た歩行者や自転車を、
はねる。

そこで半年ほど前、植木の上部が刈り込まれ、
高さが1メートルほどになった。
が、それでも、事故はつづいた(?)。
それもそのはず。
車を運転する人は、相変わらず、右方向
だけを見て、車を大通りに出そうとする。
植木のあるなしは、あまり関係ない。

が、である。
最近見たら、歩道に沿って、ズラリと
小さな看板が立てられているではないか。
大きさは、縦50センチ、横15センチほど。
それが車の出入り口の向かって左側、7~8メートルに
わたって、10~15本も立てられている。
「車に注意!」と。

しかしこれこそ、立場が逆!
歩行者軽視もよいところ!
書くとしたら、内側の車に向かって、「歩行者に注意!」。
それも向かって右側に立てるべき。
あるいは具体的に、「左から来る歩行者や、自転車に注意!」
でもよい。

(店側)                   ↓(車の出入り)  
―――――――――――――――――看看看看●   ●―――――――――
(歩道)                   ↓
―――――――――――――――――――――●   ●―――――――――
(大通り)                   →

つまり「ここから車が出てくるから、歩行者や自転車
に乗っている人は、注意しろ!」と。
もっと言えば、「お前ら歩行者がぼやぼやしているから、
事故は起きる」とでも、言いたげ?
(これは考えすぎかな?)

このことをワイフに話すと、ワイフはこう言った。
「お客様、苦情センターというコーナーがあるから、
そこへ手紙を書いたら?」と。

・・・ということで、この手紙を書いた。
あとで、プリントアウトして、そこへもっていくつもり。
だれが指示してあんな立て札を立てさせたのかは
知らないが、あれを考えた人は、かなりジコチュー
な人と考えてよい。

歩行者が歩道を歩くのに、どうして車に注意して
歩かねばならないのか!

(注:この手紙は、その店には、もっていかなかった。)


Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●「私だけは特別」

「私だけは特別」と思いたいという心理は、よくわかる。
よ~く、わかる。
だれにでも、そうした心理は、平等に働く。
私にもある。
あなたにもある。
しかし現実には、なかなか、そうはいかない。
無数の壁にぶつかるうち、そのつど「私だけは特別」という思いは、
粉々に、こわされる。
そしてこう知る。
「ああ、やっぱり、私だって、ふつうの人間だったのだ」と。

 ふつうであることが悪いと言うのではない。
ふつうで、御の字。
すばらしい。
賢い人は、ふつうの価値に、ふつうであるときに気がつく。
そうでない人は、それを失ってから気がつく。

 が、世の中には、そうでない人も多い。
みながみなというわけではないが、「私だけは特別」と思いたいがため、
信仰にその希望を託す人たちがいる。
先日も、どこかのキリスト教団の信者がやってきて、私にこう言った。

 「この信仰を信じたものだけが、アルマゲドン(=終末)がやってきたとき、
神によって救われます」と。

 だいたい「救われる」というのは、どういう意味なのか?
「自分だけは助かる」という意味なのか?
どうせ人間は、みな、死ぬ。
そのとき助かっても、そのあと、100年を生きることはない。
それに自分たちだけ助かって、どうする?
どうなる?
つまりこの(オメデタさ)こそが、幼稚性の表れと考えてよい。
自己中心性の表れと言ってもよい。
その証拠に(?)、幼児期の子どもたちは、みな、同じように考える。
私にこう言った小学1年生がいた。

 「先生、ぼくが前を向いたとき、ぼくのうしろの世界は消える」と。
そこで私が、「そんなことはないよ。君が前を向いているときも、
ちゃんとうしろの世界はあるよ」と。

 が、その子どもは、それを信じなかった。
そしてさらに、「ぼくがうしろを向いたとき、前の世界は消え、うしろの
世界が現れる」と。

 「自分だけは特別」ということを裏書したいがために、そうした人たちは
信仰の世界に埋没する。
教団自体が、信者にそう教えることもある。
「あなたは神に選ばれた、すばらしい人」と。
 
 彼らの目の中には、(うしろの世界)はない。
(現実の世界)すら、ない。
あるのは、どこまでも自己中心的な幼稚性だけ。

 大切なことは、自分で考え、自分の足で立つこと。
生きる気高さも、そこから生まれる。
不完全であることを恥じることはない。
未熟であることを恥じることはない。
常に、前に向かって進むこと。
もしそれがまちがっているというのなら、それを言う神のほうが
まちがっている。
そんな神なら、すぐさま捨てたほうがよい。


●自己中心性

 EQ論(情緒指数論、人格完成論)によれば、その人の自己中心性を
みることによって、その人の人格の完成度を知ることができるという
(ピーター・サロベイほか)。

 自己中心性の強い人は、それだけ、人格の完成度は低いということになる。
こんな話を、最近、耳にした。

 ある死刑囚だが、看守にこう尋ねたという。
「免許証の更新日が近づいたが、だいじょうぶか?」と。
彼は自分が死刑囚であることを忘れ(?)、免許証の更新日のことを
心配していた。

 また別の話。
ある患者だが、彼は、精神病棟の、「鉄格子のある部屋」(知人談)に入院していた。
そのことからも、彼がどういう病気の人かがわかる。
その患者が、たまたま見舞いに来ていた知人に、こう聞いたという。
「何か、いい仕事はないか。あれば紹介しほしい」と。

 こうした現象は、心理学の世界では、「現実検証能力」という言葉を使って
説明される。
自己中心性が肥大化すると、それと反比例の形で、現実検証能力を喪失する。
自分で自分がわからなくなる。
自分がどういう立場にいるか、わからなくなる。

 こうした死刑囚や、精神病棟の患者に、「人格の完成論」を求めても、意味はない。
それに不幸な人たちであることにはちがいない。
だれもそうなりたくて、なるわけではない。
無数の(運命の糸)に引っ張られるうちに、そうなる。
つまり人格の完成は、その(あと)の問題ということになる。
(ただし死刑囚の人たちの中には、人格的に、すぐれて高邁な人になる人も
いるという話も、聞いたことがある。)

 が、これはそのまま私たち自身の問題でもある。

 私たちはそのつど、常に現実検証能力を試される。
「今、自分はどういう立場にあるのか」、
「人から見たとき、どういうふうに見られているのか」と。

 たとえば今、私は、私の教室の様子をビデオカメラに収め、それを
編集してYOUTUBEに載せている。
それがどういう意味をもつのか、私には、実際のところわからない。
恐らく日本でもはじめての試みではないか。
「林はバカなことをやっている」と思う人もいるかもしれない。
「つまらないことをやっている」と思う人もいるかもしれない。
結果的に、たいへん無駄なことをして、時間をつぶしただけということにも
なりかねない。
自分で自分のしていることが、わからない!
完全に現実検証能力を喪失している。

 その姿は、免許証の更新を心配した死刑囚、職さがしをしている精神病棟
の患者と、どこもちがわない。


●「まとも」論

 こうして考えていくと、では「『まとも』とはどういう状態をいうのか」という
問題が起きてくる。
「まともな人」というときの、「まとも」である。

 実は私はある人にこう言われたことがある。
「私が幼稚園で働いています」と言ったときのこと、その男性(当時50歳くらい)は、
こう言った。
「もっとまともな仕事をしろ!」と。

 ある役所で役人をしている男だった。
つまり幼稚園での仕事は、「まともではない」と。

 しかしこうした職業観そのものが、あの身分制度の名残と考えてもよい。
日本人は昔から、独特の職業観をもっている。
「いい仕事」「悪い仕事」と色分けすることも多い。

 さらに、「まともな人間」という言葉もある。
このばあいは、「人生の正道を歩く人間」という意味か?
「そこそこに人格の完成度も高く、そこそこに他者と良好な人間関係を築ける人間」
と。

 しかし実際には、一方に(まともでない人)がいて、その反対側にいる人を、
(まともな人)という。
そういう点で、「まとも」の定義は、むずかしい。
あえて言うなら、「ふつう」という意味にも解釈できる。
しかしこの世の中に、(ふつう)も、(ふつでないもの)もない。
人について言うなら、どういう人を、「ふつうの人」といい、どういう人を、
そうでないと言うのか?

 死刑囚になるような人は、その一方で、被害者の人たちの、想像を絶するような、
怒りや恨みを買っているから、私はあえて擁護しない。
しかし心の病気についていえば、これは本人の責任ではない。
私だってなるし、あなただってなるし、だれだってなる。
鉄格子のある病棟に入院しているからといって、「まともでない」と決めつけてはいけない。

 つまり、この世界、(まとも)の基準などないし、裏を返して言うと、
この世界全体が狂っている。
人間がおかしいのではなく、その人間を包む世界のほうが、おかしい。
それこそまともに生きようと思えば思うほど、気が変になってしまう。

 大切なことは、あなたという自分を基準にして、人を判断してはいけないということ。
「自分がそうであるから、他人もそうであるべき」とか、「自分とちがうから、あの人は
おかしい」とか、そういうふうに、考えてはいけないということ。

 ……と考えていくと、「まとも論」ほど、どうでもよいものはないということになる。
つまるところ、私は私。
あなたはあなたということ。

 私も「もっとまともな仕事をしろ!」と言われたとき、そう感じた。
この世の中には、まともな仕事も、またそうでない仕事もない。
まともな人間も、またそうでない人間もいない。
だから(まとも)も、(まともでもない)ものもない。

 それがここでの結論ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

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