2009年7月26日日曜日

*I sell my Home Land

●勉強をしない子どもたち(Children who lose Diligence)

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最近の子どもたちは、勉強をしない。
本当にしない。
このあたり(浜松市)でも、「勉強して、いい高校(?)に
入ろう」と考えている中学生は、全体の40%弱と
みてよい。
あるいはそれ以下。
残りの60%は、最初から受験勉強など、考えて
いない。
「がんばって、いい高校をめざしたら?」などと言っても、
「勉強で苦労するから、いや」などと答えたりする。

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●異変?

 たしかに今、子どもたちの世界がおかしい。
何か、へん。
簡単に言えば、昔風の(まじめさ)が、どんどんと消えつつある。
学校の勉強についても、「やらなければならない」という意識そのものが、急速に
しぼみつつある。
たとえば今は、夏休み。
「学校の宿題は?」と聞いても、確たる返事が返ってこない。
「夏休みの友は?」「工作は?」と聞いても、返ってくるのは、
あいまいな返事だけ。
どうでもよいといったふう。

その一方で、あらゆる面で、ギャグ化が進んでいる。
まじめに考えるという習慣そのものが、ない。
あるいはまじめに考えることを、むしろ避けている。
そんな感じすら、する。
いったい、子どもの世界は今、どうなってしまったのか?

●ギャク化

 今さら、理由や原因を並びたてても意味はない。
いろいろあるが、ありすぎて、ここには書ききれない。
つまり結果として、今、そうなってしまった。
言うなれば、子どもたちの世界から緊張感が消え、のびたゴムのようになってしまった。
だらしないというか、しまりがないというか……。

 先に「ギャク化」と書いたが、それなりにまじめというか、緊張感をもっている
子どもは、小学3年生レベルで、10~20%前後。
10人に、1~2人程度と考えてよい。

 茶化す、おどける、騒ぐ、ふざける、はぐらかす……。
それが現在の平均的な、日本の子ども像。
議論をしようにも、議論にならない。
まじめな話をしようとすると、「ダサ~イ」と言って、はねのけられてしまう。
こういう現実を、いったい、今、どれだけの人たちが知っているのか。

●日本の将来

 一足飛びに話を進めるが、日本の将来は、今の子どもたちを見るかぎり、お先
真っ暗。
それもそのはず。
日本の社会そのものが、ギャク化している。
政治にしても、そうだ。
お笑いタレントが、府知事になったり、県知事になったりする。
さらに漢字もロクに読めないような、そして日本語すらまともに話せないような人物が、
総理大臣になったりする。
それについても、私が「おかしい」などと発言すると、「どうしてそれがいけないのか」
という反論が、山のように届く。

 何もお笑いタレントに偏見をもっているわけではない。
が、どこかへん。
どこか、おかしい。
総理大臣に至っては、さらにへん。
さらに、おかしい。
そのおかしさが、そのまま子どもの世界にまで、入り込んでいる。

 こんな日本で、その未来を、どこにどう求めたらよいのか。

●家庭の教育力

 学校教育というより、(教育)そのものが、崩壊してしまった。
かろうじて残っているのは、(学校)という、ワクだけ。
……というのは、少し言いすぎかもしれないが、しかし、教師自身が教育力を
失ってしまった。

 これについても、今さら、理由や原因を並びたてても意味はない。
いろいろあるが、ありすぎて、ここには書ききれない。
つまり結果として、今、そうなってしまった。

 では、どうするか?
家庭教育のもつ(教育力)を、強くするしかない。
「子どもの教育は、親がする」という自覚をもつしかない。
自分で自分の子どもを育てるしかない。
が、悪いことばかりではない。
今は、こういう時代だから、その気にさえなれば、子育てそのものが、むしろ
楽になったとも考えられる。

 たとえば今から30年前には、私の教室でも、東大、京大へ進学していく
子どもはほとんどいなかった。
が、今では、本当にみな、ウソみたいに、みな、スイスイと入っていく。
私の教室のレベルがあがったというよりは、周辺の地盤が沈下した。
その分だけ、相対的に、私の教室のレベルがあがった。

(もっとも有名大学へ進学していく子どもが多いから、レベルが高くなった
と考えるのは、正しくない。
また私も、それを目標にしているわけではない。
が、結果としてそうなっているのは、事実。)

●勉強をしない子どもたち

 勉強をしない子どもたちが、この先、どんな日本を作っていくのか、私にも
よくわからない。
外国をみながら、その例をさぐろうとするが、参考になるような国は、ほとんどない。
(したくても、教育環境が整っていなく、子どもたちが満足に勉強できない国は
いくらでもあるが……。)
ただ言えることは、この先、この日本に対して、不平、不満をいだく若者たちが
急増するだろうということ。

 「あるのが、当たり前」という世界で育ってきた若者たちである。
水も空気も食べ物も。
が、それだけではない。
先にも書いたように、「一度のびたゴムは、元にはもどらない」。

 競争力はどうする?
 適応力はどうする?
 打開力はどうする?
 忍耐力はどうする?
 協調性はどうする?
 社会性はどうする?

 「勉強をしない」という言葉の裏には、そういう問題もひかえている。
誤解がないように言っておくが、何も受験勉強をガリガリするほうがよいという
のではない。
つまり「勉強をしない」というのは、あくまでもその結果。
当然、日本の子どもたちの学力は、ますます低下する。
そのとき日本は……?

 少し前までは、中国が日本を追い抜くのは、2015年と予測されていた。
しかし実際には、それよりも6年も早く、今年(2009年)に追い抜かれた。
こうしてこの日本は、このアジアの中でも、ごくふつうの小国になっていく。
 
これも、しかたのないことかもしれないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●実家を売る

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郷里の知り合いに頼んでおいたら、私の
実家が、売れた。
伝統的建造物にもなっている古い家である。
「どうしたらいいか?」と悩んでいたら、
何と、その知り合いの方が、「買ってもいい」と
申し出てくれた。

値段は相場の半額程度とは思うが、私は満足。
できるだけ早く、あのM町とは、縁を切りたい。
すっきりしたい。
お金の問題ではない。

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 私にとっては、実家は、重荷以外の何物でもなかった。
心の内側にペッタリと張り付いた重荷だった。
そのため暗くて、ゆううつな60年間だった。

 「依存性」という言葉がある。
依存する方は、それだけ楽かもしれないが、依存される方はそうでない。
保護と依存の関係も、感謝されるのは、最初だけ。
やがて当たり前になり、さらに進むと、依存する方が、それを請求してくるようになる。
が、こうなると、その関係を切ることはできない。

 依存される側は、その重圧感で、悶々と苦しむようになる。
お金の問題ではない。

 まったく生活力のない兄と母。
それを見て、「親のめんどうをみるのは、息子の役目」とせまってくる周囲の人たち。
無言の圧力。
たとえばこういうような言い方をする。

 「私は、あなたの母さんのことは、何も心配してないよ。あなたがいるからね」とか。
あるいは「あなたの母さんは、幸福だね。親孝行のいい息子をもって……」とか。
さらには、「○○さんところの息子は、親孝行の感心な息子だ。今度、家の横に離れを
親のために建ててやったそうだ」とか、など。

 こういう言い方をしながら、真綿で首を絞めるように、ジワジワと迫ってくる。

 ……こうして60年間。
その重圧感から、やっと解放される。
そんな日が、あと数日に迫った。
多少のさみしさはあるが、だれしも一度や二度は乗り越えなければならない道。
感傷にひたっている暇はない。

 ところで話は変わるが、「行動力」という言葉がある。
この行動力は、加齢とともに、急速に減退する。
が、若いうちは、それがわからない。
行動力があるのが当たり前。
また行動力は、死ぬまでつづくものと、思っている。
私もそうだった。
しかし50歳を過ぎると、その行動力そのものが、減退する。
何をするにも、おっくうになる。
つまり決断力を要するようなことをするとき、強く、それを感ずる。

 だからこうした決断は、すみやかに、したほうがよい。

「買いたいです」「はい、わかりました。その値段で結構です」と。

 あとは事務手続きのみ。
そして忘れる。

 親子三代にわたってつづいた自転車屋だったが、ちょうど100年の歴史を、
終える。
祖父も、父も、そして兄も、何をどう思って、あの家を守ったのか?
今、ふと、そんなことを考える。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

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