2009年7月8日水曜日

*House Education for Mothers

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(351)

●孤独論

 私のようにもともと「うつ型気質」の人間にとっては、孤独ほど、恐ろしいものはない。何かの仕事をやり終え、ほっと気を抜いたようなとき、心も弱くなる。ひとりだけポツンと取り残されたような孤独を覚える。これは私だけが感ずる孤独なのか、それとも人間が等しく感ずる孤独なのかはわからない。

が、いろいろな人の本を読んでも、それほど大きな違いはないように思う。(本当のところは他人の心の中に入ったことがないので、わからないが……。)で、ときどき一番身近にいる女房に、「お前はどうなのか」と確かめることがある。もっとも私の女房は、本当にタフで、精神的にも安定している。「私は体は女だけど、心は男よ」とよく言うが、本当にそうだと思う。

一方私は、繊細で、そのつどいろいろなことを考える。ときに考えすぎて、身動きがとれなくなることもあるが、私はそういうタイプの人間だ。そういう意味では、精神的にもタフでないし、情緒も不安定だ。一日のうちにも、周囲の状況に応じて、気分がよく変わる。

 で、これから先、どうやってその孤独を処理したらよいのか、ときどき考える。子どもたちはやがて巣立っていくだろう。女房とて、ひょっとしたら、私より先に死ぬかもしれない。そうなったとき、私はどう過ごせばよいのか。多分そのころは老人ホームかどこかで、のんびりとはいかないが、まあまあ、そこそこの老人生活を送っているに違いない。

しかしその生活が望ましい生活だとは思っていない。できれば心の許しあえる人と、いつまでもいつまでも語りあっていたい。死ぬまでというより、夜、床に入ってから、眠るまで、だ。死ぬときになったら、私はジタバタしたくない。今のところ自信はないが、しかし今はそう思う。

 こういうとき何か、信じられる宗教があればよいと思う。実際、アメリカのジムは、敬虔なクリスチャンだが、彼は人里離れた牧場で、今は妻だけと暮らしている。ああいう生活を見ると、彼の宗教が、彼の孤独をやわらげているのではないかと思う。(こういう言い方は失礼な言い方だが……。)つまり私なら、そのさみしさに、とても耐えられないだろうと思う。

 もちろん孤独に勝つ方法もある。夢や希望をもつことだ。それに友情や、少しキザない言い方かもしれないが、「愛」だって、それがあれば、孤独はやわらぐ。で、そういうものを、総合的に提供してくれるのが、「家族」ということになる。名誉や地位ではない。肩書きでもない。「家族」だ。

 考えてみれば、私の人生はずっと孤独だった。これからも孤独だろう。だからこそ、私は家族のありがたみを知っている。つまり私の「家族主義」は、こうした私の心の弱さを補うために生まれたと言ってもよいのではないか。

さて、皆さんは、今、孤独だろうか。それとも孤独でないだろうか。が、もしあなたが孤独なら、「孤独なのはあなただけではない」ということだけは、わかってほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(352)

●子どもとの笑い

 いつも深刻な話ばかりなので……。最近経験した楽しい話(?)をいくつか……。

(1) ときどきまったく手をあげようとしない子ども(年中女児)がいる。そこで私が「先生(私)を好きな子は、手をあげなくていい」と言ったら、その子は何を思ったか、腕組みをして私をにらんだ。「セクハラか?」と思わず後悔したが、そのあと私が「どうして手をあげないの?」と聞くと、「だって、私、先生が好きなんだもん」と。マレにですが、私も子どもに好かれることがあるのです。

(2) 私が「三匹の魚がいました。そこへまた二匹魚がきました。全部で何匹ですか?」と聞くと、皆(年長児)が、「五匹!」と答えた。そこで私が電卓を取り出して、「ええと、三足す二で……」と電卓を叩いていたら、一人の子どもがこう言った。「あんた、それでも本当に先生?」と。

(3) 指をしゃぶっている子ども(年中児)がいた。そこで私が、「どうせ指をしゃぶるなら、もっとかっこよくしゃぶりなよ。おとなのしゃぶり方を教えてあげるよ」と言って、少しばかりキザなしゃぶり方(指を横から、顔をななめにしてしゃぶる)を教えてやった。するとその子は、本当にそういうしゃぶり方をするようになった。私は少しからかってやっただけなのだが……。

(4) 私のニックネームは……? 「美男子」「好男子」「長足の二枚目」。あるとき私に「ジジイー」「アホ」と言う子ども(年長児たち)がいたので、こう話してやった。「もっと悪い言葉を教えてやろうか。しかし先生や、お父さんに使ってはダメだ。いいな」と。子どもたちは「使わない、使わない」と約束したので、こう言ってやった。「ビダンシ」と。それからというもの、子どもたちは私を見ると、「ビダンシ、ビダンシ」と呼ぶようになった。

(5) 算数を教えながら、「○と△の関係は何ですか?」と聞いたら、一人の子ども(小四男児)が、「三角関係!」と。ドキッとして、「何だ、それは?」と聞くと、「男が二人で、女が一人の関係だよ」と。すると別の子どもが、「違うよオ~、女が二人で、男が一人だよオ~」と。とたん、教室が収拾がつかなくなってしまった。

私が、「今どきの子どもは、何を考えているんだ!」と叱ると、こんな歌を歌い始めた。「♪今どき娘は、一日五食、朝昼三時、夕食深夜……」と。「何だ、その歌は」と聞くと、「先生、こんな歌も知らないのオ~、遅れてるウ~」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(353)

●心を開く

 何でも言いたいことを言い、したいことをする。悲しいときは悲しいと言う、うれしいときはうれしいと言う。泣きたいときは、思いっきり泣くことができる。自分の心をそのままぶつけることができる。そういう状態を、「心が開いている状態」という。

 昔、ある文士たちが集まる集会で、一人の男性(七〇歳)がいきなり私にこう聞いた。「林君、君のワイフは、君の前で『おなら』を出すかね?」と。驚いて私が、「うちの女房はそういうことはしないです……」とあわてて答えると、そばにいた人たちまで一斉に、「そりゃあ、かわいそうだ。君の奥さんはかわいそうだ」と言った。

 子どもでも、親に向かって、「クソじじい」とか、「お前はバカだ」と言う子どもがいる。子どもが悪い言葉を使うのを容認せよというわけではないが、しかしそういう言葉が使えないほどまでに、子どもを追いつめてはいけない。一応はたしなめながらも、一方で、「うちの子どもは私に心を開いているのだ」と、それを許す余裕が必要である。子どもの側からみて、「自分はどんなことをしても、またどんなことを言っても許されるのだ」という絶対的な安心感が、子どもの心を豊かにする。

 そこで大切なことは、心というのは、相手に対して「開く心」と、もう一方で、それを受け止める「開いた心」がないと、かよいあわないということ。子どもが心を開いたら、同じように親のほうも心を開く。それはちょうどまさに「開いた心の窓」のようなものだ。どちらか一方が、心の窓を閉じていたのでは、心を通いあわせることはできない。R氏(四五歳)はこう言う。

「私の母(六五歳)は、今でも私にウソを言います。親のメンツにこだわって、あれこれ世間体をとりつくろいます。私はいつも本音でぶつかろうとするのですが、いつもその本音が母の心のカベにぶつかって、そこではね返されてしまいます。私もさみしいですが、母もかわいそうな人です」と。

 そこで問題なのは、あなたの子どもはあなたに対して、心を開いているかということ。そして同じように、あなたはあなたの子どものそういう心を、心を開いて受け止めているかということ。もしあなたの子どもがあなたの前で、よい子ぶったり、あるいは心を隠したり、ウソをついたり、さらには仮面をかぶっているようなら、子どもを責めるのではなく、あなた自身のことを反省する。相手の心を開こうと考えるなら、まずあなた自身が心を開いて、相手の心をそのまま受け入れなければならない。またそれでこそ、親子であり、家族ということになる。

 さてその文士の集まりから帰った夜、私は恐る恐る女房にこう言った。「おまえはあまりぼくの前でおならを出さないけど、出していいよ」と。が、数日後、女房はそれに答えてこう言った。「それは心を開いているとかいないとかいう問題ではなく、たしなみの問題だと思うわ」と。まあ、世の中にはいろいろな考え方がある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(354)

●心を開く(2)

 心を開くということは、相手に対しては自分のあるがままをさらけだすこと。一方、相手に対しては、相手のすべてを受け入れるということ。少しきわどい話になって恐縮だが、『おなら』がある。ふつう自分のおならは、気にならない。小学生に聞いても、全員が例外なく、「自分のは、いいにおいだ」と言う。しかし問題は、自分以外の人のおならだ。

 もちろん見知らぬ人のおならは、不愉快だ。いかに相手が美人であり、美男子であっても、それは関係ない。しかしそれが親や兄弟のとなると、多少、感じ方が変わってくる。さらに親しい友人や、尊敬する人になると変ってくる。昔、恩師のM先生(女性)がこう話してくれた。

「私は女学生のとき、好きな先生がいた。好きで好きでたまらなかった。が、その先生がある日、私のノートを上からのぞいたとき、ポタリと鼻くそを私の机の上の落した。私はその鼻くそを見たとき、どういうわけかうれしくてならなかった」と。相手を受け入れるといういことは、そういうことをいう?

 そこで今度は家族について。あなたは自分の夫や妻、さらには子どもをどこまで受け入れているだろうか。またまた『おなら』の話で恐縮なのだが、あなたはあなたの夫や妻がおならを出したとき、それをどこまで受け入れることができるだろうか。自分のおならのように、「いいにおい」と思うだろうか。それとも他人のおならのように、不愉快だろうか。実のところ、私も女房のおならが許せるようになったのは、結婚してから二〇年近くもたってからだ。自分のにおいのように感ずることができるようになったのは、ごく最近になってからだ。

女房はめったに私の前ではしないが、眠ってしまったあと、ふとんの中でそれを出す。で、若いころはふとんの中でそれされると、鼻先だけふとんの中から外へ出し、口で息をしたり、ときには窓を開け放って、ガスを追い出したりしていた。今も「平気」とまではいかないが、「またやったな」という思いながらも、そのまま眠ることができる。

 問題はあなたと子ども、である。あなたは子どものすべてを受け入れているだろうか。こういうとき「べき」という言い方はしたくないが、しかしこれだけは言える。親に受け入れてもらえない子どもほど、不幸な子どもはいないということ。言いかえると、親にすら心を開いてもらえない子どもは、自分自身も心を開くことができなくなる。そういう意味で、子どもは心の冷たい子どもになる。

もう少し正確には、自分の心を防衛するようになり、そのためさまざまな「ゆがみ」を見せるようになる。ひがむ、いじける、ねたむ、すねるなど。心のすなおさそのものが、消える。へんに愛想がよくなることもある。そういう意味で、もしあなたがあなたの子どもに心を閉じているなら、それは「あるべき」親の姿勢ではない。「努力して」というほど簡単な問題ではないかもしれないが、しかしあなたの子どものためにも努力する。

 方法としては、まず子どもを友として受け入れる。つぎにあとは「許して忘れる」。これを日常的に繰り返す。時間はかかるが、やがてあなたは心を開くことができるようになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(355)

●女性は家の家具?

 いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助」程度にしか考えていない男性が多いのは、驚きでしかない。いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人が、二割近くもいる。たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(2000年)によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも50%以上。「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、76・7%いる。が、その反面、「反対だ」と答えた女性も23・3%もいる。

 ここで「平等に負担」の内容だが、外で仕事をしている夫が、時間的に「平等に」家事を負担することは、不可能である。それは当然だが、しかしこれは意識の問題。夫が「家事を平等に負担すべき」と考えながら、妻の仕事をみるのと、夫が、「男は仕事さえしていればそれでいい」と考えながら、妻の仕事をみるのとでは、その見方はまるで変わってくる。

今の日本の現状は、男性たちが、あまりにも世の通俗的な常識に甘え、それをよいことに居なおりすぎている。中には、「女房や子どもを食わせてやっている」とか、「男は家庭の中でデーンと座っていればいい」とか言う人もいる。仕事第一主義が悪いわけではないが、その仕事第一主義におぼれるあまり、家庭そのものをまったくかえりみない人も多い。

 ……というようなことを、先日、ある講演会で話したら、その担当者(男性)が講演のあと、私にこう言った。「このあたりは三世代同居が多いのです。そういうことを先生(私)が言うと、家族がバラバラになってしまいます。嫁は嫁として、家の中でおとなしくしていてくれなければ、困るのです」と。

男性の仕事第一主義についても、「農業で疲れきった男が、どうして家事ができますか」とも。私があきれていると、(黙って聞いていたので、納得したと誤解されたらしい)、こうも言った。「このあたりの若い母親たちは、家から出て、こうした講演会へ息抜きにきているのです。むずかしい話よりも、はははと笑えるような話をしてください」と。

 これには正直言って、あきれた。その男性というのは、まだ30歳そこそこの男性。今の日本の「流れ」をまったく理解していないばかりか、女性の人権や人格をまったく認めていない。その男性は「このあたりは後進国ですから」とさかんに言っていたが、彼自身の考え方のほうが、よっぽど後進国的だ。

それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。夫に不満をもつ妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した「第2回、全国家庭動向調査」(1998年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、51・7%しかいない。この数値は、前回1993年のときよりも、約10ポイントも低くなっている(93年度は、60・6%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、52・5%もいた。当然だ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(356)

●わだかまり論

 ほとんどの人は、自分の意思で考え、決断し、そして行動していると思っている。しかし実際には、人は意識として活動する脳の表層部分の、その約20万倍※もの潜在意識によって「動かされている」。こんなことがあった。

 J君(小3)と父親は、「とにかく仲が悪い」という。母親はこう話してくれた。「日曜日にいっしょに釣りに行ったとしても、でかけたと思ったら、その行く途中で親子げんかが始まってしまうのです。風呂にもときどきいっしょに入るのですが、しばらくすると、まず息子がワーツと泣き声をあげて風呂から出てくる。そのあと夫の『バカヤロー』という声が聞こえてくるのです」と。

 そこでJ君を私のところへ呼んで話を聞くと、J君はこう言った。「パパはぼくが何も悪いことをしていないのに、すぐ怒る」と。そこで別の日、今度は父親に来てもらい話を聞くと、父親は父親でこう言った。「息子の生意気な態度が許せない」と。父親の話では、J君が人をバカにしたような目つきで、父親を見るというのだ。それを父親は「許せない」と。

 そこであれこれ話を聞いても、原因がよくわからなかった。が、それから一時間ほど雑談していると、J君の父親はこんなことを言い出した。「そう言えば、私は中学生のとき、いじめにあっていた。そのいじめのグループの中心にいた男の目つきが、あの目つきだった」と。J君の父親は、J君が流し目で父親を見たとき、(それはJ君のクセでもあったのだが)、J君の父親は、無意識のうちにも自分をいじめた男のめつきを、J君の目つきの中に感じていた。そしてそれがこれまた無意識のうちに、父親を激怒させていた。

 こういうのを日本では、昔から「わだかまり」という。「心のしこり」と言う人もいる。わだかまりにせよ、しこりにせよ、たいていは無意識の領域に潜み、人をその裏からあやつる。子育てもまさにそうで、私たちは自分で考え、決断し、そして子育てをしていると思い込んでいるが、結局は自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。

問題は繰り返すことではなく、その中でも、ここに書いたようなわだかまりが、何らかの形で、子育てに悪い影響を与えることである。が、これも本当の問題ではない。だれだって、無数のわだかまりをかかえている。わだかまりのない人など、いない。そこで本当の問題は、そういうわだかまりがあることに気づかず、そのわだかまりに振りまわされるまま、同じ失敗を繰り返すことである。

 そこであなたの子育て。もしあなたが自分の子育てで、いつも同じパターンで、同じように失敗するというのであれば、一度自分の心の中の「わだかまり」を探ってみるとよい。何かあるはずである。この問題は、まずそのわだかまりに気がつくこと。あとは少し時間がかかるが、それで問題は解決する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(357)

●お人よしは、命取り?

このところ毎日のように、ウィルス入りのメールが届く。私のばあい、まずプロバイダーが、ウィルス検査をしてくれる。この段階でウィルスが入っていると、そのメールを削除したり修復したりしてくれる。(たいていはそのまま削除され、「削除しました」という連絡だけが私に届く。)が、それでもすり抜けてくるメールがある。

それについては、今度は私のパソコン自体で検査する。この段階で、ウィルスが混入していれば、同じように削除する。で、それでも安心できない。私はさらにパソコンを使い分ける。あるいはプレウィンドウ画面に表示する前に、(?)と思われるメールは削除するという方法で対処している。が、だ。それでもすり抜けてくるメールがある。

私はメールアドレスを公開しているため、(ふつうは、こういう公開はしてはいけない)、悪意をもった人からの攻撃を受けることがある。つい先日もその攻撃を受けた。あたかも読者からの質問のような体裁を整えたメールだった。「うむ……?」と迷ったが、うかつにも開いてしまった。恐らく市販のウィルス検査ソフトにひかからないように、自分で改変したウィルスだったのだろう。とたんパソコンの動きがおかしくなった。もっともそれほど悪質なウィルスではなかったようで(?)、簡単な操作で修復できたが、ウィルスによってはシステム全体を破壊されることもある。

インターネットの世界では、お人よしは命取りになる。「あやしい」と思ったら、即、削除、また削除。これしかない。しかし、それは口で言うほど、簡単なことではない。自分の中に本来的にある、「人格」、つまり私のばあい、「お人よし」との戦いでもある。「ひょっとしたら子育てで困っている人からのメールかもしれない」「少し(件名)がおかしいが、まだパソコンになれていない人からのものかもしれない」と思ってしまう。

そのメールを開いたときもそうだ。そう思って開くと、わけのわからない相談内容。一応子育ての相談ということになっていたが、どこかトンチンカンな内容だった。「しまった!」と思ったときには、もう遅かった。

私は改めて、こんなメモをパソコンの上に張りつけた。「あやしげなメールは、即、削除。お人よしは命取り」と。しかしそれを張りつけたとき、別のところで、自分の人格がまた一つ削られたような気がした。「私はもともとそんなクールな人間ではないのになあ」と。しかしそうであるからこそ、また心に誓う。「あやしげなメールは、即、削除」と。そういうことを誓わねばならないところに、インターネットの問題点が隠されている。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(358)

●子どもの表情

 昔から、『子どもの表情は親がつくる』という。事実そのとおりで、表情豊かな親の子どもは、やはり表情が豊かだ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには悲しそうな顔をする。(ただし親が無表情だからといって、子どもも無表情になるとはかぎらない。)しかしこの「表情」には、いろいろな問題が隠されている。

 その一。今、表情のない子どもがふえている。「幼稚園児でも表情のとぼしい子どもは、全体の二割前後はいる」と、大阪市にあるI幼稚園のS氏が話してくれた。程度の問題もあり、一概に何割とは言えないが、多いのは事実。私の実感でも二割という数字は、ほぼ的確ではないかと思っている。ほかの子どもたちがドッと笑うようなときでも、表情を変えない。うれしいときも悲しいときも、無表情のまま行動する、など。
(最近では、サイレントベービー論を否定する説が優勢になってきた。生まれつきというよりは、親の拒否的育児姿勢によってそうなると考えるのが常識的になってきた。2009年7月。)

 原因のひとつに、乳幼児期からのテレビ漬けの生活が考えられる。そのことはテレビをじっと見入っている幼児を観察すればわかる。おもしろがっているはずだというときでも、またこわがっているはずだというときでも、ほとんど表情を変えない。保育園や幼稚園へ入ってからもそうで、先生が何かおもしろい話をしても、ほとんど反応を示さない。あたかもテレビでも見ているかのような感じで先生の方をじっと見ている。

このタイプの子どもは、ほかに、吐き出す息が弱く、母音だけで言葉を話すなどの特徴もある。「私は林です」を、「ああいあ、ああいえう」というような話し方をする。こうした症状が見られたら、私は親に、「小さいときからテレビばかり見ていましたね」と言うことがある。親は親で、「どうしてそんなことがわかるのですか?」と驚くが、タネを明かせば、何でもない。が、この問題はそれほど深刻に考える必要はない。やがて園や学校生活になれてくると、表情もそれなりに豊かになってくる。

 その二。子どものばあい、とくに警戒しなければならないのは、心(情意)と表情の遊離である。悲しいときにニコニコと笑みを浮かべる、あるいは怒っているはずなのに、無表情のままである、など。心(情緒)に何か問題のある子どもは、この遊離現象が現れることが多い。たとえばかん黙児や自閉症児と呼ばれる子どもは、柔和な表情を浮かべたまま、心の中ではまったく別のことを考えていたりする。そんなわけで逆に、この遊離が現れたら、かなり深刻な問題として、子どもの心を考える。

とくに教育の世界では、心と表情の一致する子どもを、「すなおな子ども」という。いやだったら「いや」と言う。したかったら、「したい」と言う。外から見ても、心のつかみやすい子どもをすなおな子どもという。表情は、それを見分ける大切な手段ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(359)

●親しみのもてる子ども

 こちらが親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさがそのまま、スーッと心の奥深くまで染み込んでいくのがわかる子どもがいる。そういう子どもを、一般に、「親しみのもてる子ども」という。

一方、そういう親切や、やさしさがどこかではね返されてしまうのを感ずる子どももいる。ものの考え方が、ひねくれていたりする。私「今日は、いい天気だね」、子「今日は、いい天気ではない。あそこに雲がある」、私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。

 親しみのもてる子どもとそうでない子どもの違いは、要するに心が開いているかどうかということ。心が開いている子どもは、当然のことながら、心の交流ができる。その心の交流が、互いの親近感をます。そうでなければそうでない。

 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうだろうか。あなたは自分の子どものことを、親しみのもてる子どもと思っているだろうか。それともどこかわけのわからない子どもと思っているだろうか。こんなチェックテストを用意してみた。

(1) あなたの子どもは、あなたの前で、したいことについて、「したい」と言い、したくないことについては、「いやだ」と、いつもはっきりと言う。言うことができる。

(2) あなたの子どもはあなたに対して、子どもらしい自然な形で、スキンシップを求めてきたり、甘えるときも、子どもらしい甘え方をしている。甘えることができる。

(3) あなたの子どもが何かを失敗し、それをあなたが注意したり叱ったとき、子どもがなごやかな言い方で、「ごめんなさい」と言う。またすなおに自分の失敗を認める。

 この三つのテストで、「そうだ」と言える子どもは、あなたに対して心が開いているということになる。そうであれば問題はないが、そうでなければ、あなたの子どもへの接し方を反省する。「私は親だ」式の権威主義、ガミガミと価値観を押しつける過干渉、いつもピリピリと子どもを監視する過関心など。さらに深刻な問題として、あなた自身が子どもに対して心を開いていないばあいがある。

子どものことで、見え、メンツ、世間体を気にしているようであれば、かなり危険な状態であるとみてよい。さらに子どもに対して、ウソをつく、心をごまかす、かっこうをつけるなどの様子があれば、さらに危険な状態であるとみてよい。あなたという親が子どもに心を開かないで、どうして子どもに心を開けということができるのか。

 子どもの心が見えなくなったら、子どもの心が閉じていると考える。「うちの子は何を考えているかわからない」「何をしたいのかわからない」「何かを聞いてもグズグズしているだけで、はっきりしない」など。この状態が長く続くと、親子の関係は必ず断絶する。もしそうなればなったで、それこそ、子育ては大失敗というもの。親しみのもてる子どもを考えるときには、そういう問題も含まれる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(360)

●被害妄想(心配過剰)

 こんな話を聞いたら、あなたはどう思うだろうか。「Aさん(32歳女性)が、子ども(4歳)と道路を歩いていたときのこと。うしろからきた自転車に、その子どもがはねられてしまった。子どもはひどく頭を打ち、救急車がくるまで意識がなかった。幸いけがは少なくてすんだが、やがて深刻な後遺症があらわれた。

子どもから集中力がなくなり、こまかい作業ができなくなってしまった。事故のとき、脳のある部分が酸欠状態になり、それで脳にダメージを与えたらしい。で、その事故から5、6年になるが、その状態はほとんどかわっていない」と。

 こういう話を耳にすると、母親たちの反応はいろいろに分かれる。(1)他人の話は他人の話として、自分の子どもとは切り離すことができるタイプ。(2)「自分の子どもでなくてよかった」と思い、「自分の子どもだったら、どうしよう」と、あれこれ考えるタイプ。

ふつうは(「ふつう」はという言い方は、適切でないかもしれないが)、(1)のように考える。しかし心配性の人は、(2)のように考える。考えながら、その心配を、かぎりなく広げていく。「歩道といっても安全ではない」「うちの子もフラフラと歩くタイプだから心配だ」「道路を歩くときは、うしろも見なくてはいけない」など。

 もしあなたがここでいう(2)のタイプなら、子育て全体が、心配過剰になっていないかを反省する。こうした心配過剰は、えてして妄想性をもちやすく、それが子育てそのものをゆがめることが多い。過保護もそのひとつだが、過干渉、過関心へと進むこともある。

ある母親は、子ども(小四女児)が遠足に行った日、日焼け止めクリームを渡すのを忘れた。そこで心配になり、そのクリームをわざわざ遠足先まで届けたという。「紫外線に多くあたると、おとなになってから皮膚ガンになるから」と。また別の母親は、息子(小6)が修学旅行に行っている間、心配で一睡もできなかったという。「どうして?」と私が聞くと、「あの子が皆にいじめられているのではないかと心配でなりませんでした」と。

 もっともこうした妄想性が自分の範囲でとどまっているなら、まだよい。しかしその妄想性が他人に向けられると、大きなトラブルの原因となる。ある母親は、自分の息子(中1)が不登校児になったのは、同級生のB男のせいだと思い込んでいた。そこで毎晩のようにB男の母親に電話をしていた。いや、電話といっても、ふつうの電話ではない。夜中の2時とか3時。しかもその電話が、ときには1時間とか2時間も続いたという。

 こうした妄想性は、いわばクセのようなもの。一度クセになると、いつも同じようなパターンで考えるようになる。どこかでその妄想性を感じたら、できるだけ軽い段階でそれに気づき、そこでブレーキをかけるようにする。たとえば冒頭の話で、あなたが(2)のように考える傾向があれば、「そういうふうに考えるのはふつうでない」とブレーキをかける。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(361)

●心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。今でいう、アルコール依存症だったのか? 3~4日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れた。大声を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事をすべて、ひっくり返したこともある。

私と六歳年上の姉は、そのたびに2階の奥にある物干し台に身を潜め、私は「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。

 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのように、一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響を与える。が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振り回されることである。

たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定になると、夜がこわくて、ひとりで寝られない。あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛でならない。帰ると決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。しかしそういう自分の理由が、長い間わからなかった。

もう少し若いころは、そういう自分を心のどこかで感じながらも、気力でカバーしてしまった。が、50歳も過ぎるころになると、自分の姿がよく見えてくる。見えてくると同時に、「なぜ、自分がそうなのか」ということがわかってくる。

 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」と、そんなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果たしていなかった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。だから私はいつも、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの中で寝た。それに私は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけではない。母に、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つまりそういう「過去」が、今の私をつくった。

 よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を受ける。が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。ただこういうことは言える。心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。さらに同じようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめくるようにして、キズ口は深くなる。

私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思う。しかし父は、先にも書いたように、3~4日ごとに酒を飲んで暴れた。だから54歳になった今でも、そのときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くことがある。54歳になった今でも、だ。心のキズというのは、そういうものだ。決して安易に考えてはいけない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(362)
 
●「親だから」という論理

 先日テレビを見ていたら、一人の経営者(55歳くらい)が、30歳前後の若者を叱責している場面があった。30歳くらいの若者が、「親を好きになれない」と言ったことに対して、その経営者が、「親を好きでないというのは、何ということだ! お前は産んでもらったあと、だれに言葉を習った! (その恩を忘れるな!)」と。それに対して、その若者は額から汗をタラタラと流すだけで、何も答えられなかった(02年5月)。

 私はその経営者の、そういう言い方は卑怯だと思う。強い立場のものが、一方的に弱い立場のものを、一見正論風の暴論をもってたたみかける。もしこれが正論だとするなら、子どもは親を嫌ってはいけないのかということになる。親子も、つきつめれば一対一の人間関係。昔の人は、「親子の縁は切れない」と言ったが、親子の縁でも切れるときには切れる。

切れないと思っているのは、親だけで、また親はその幻想の上に安住してしまい、子どもの心を見失うケースはいくらでもある。仕事第一主義の夫が、妻に向かって、「お前はだれのおかげでメシを食っていかれるか、それがわかっているか」と言うのと同じ。たしかにそうかもしれないが、夫がそれを口にしたら、おしまい。親についていうなら、子どもを育て、子どもに言葉を教えるのは、親として当たり前のことではないか。

 日本人ほど、「親意識」の強い民族は、そうはいない。たとえば「親に向かって何だ」という言い方にしても、英語には、そういう言い方そのものがない。仮に翻訳しても、まったく別のニュアンスになってしまう。少なくとも英語国では、子どもといえども、生まれながらにして対等の人間としてみる。

それに子育てというのは、親から子への一方的なものではない。親自身も、子育てをすることにより、育てられる。無数のドラマもそこから生まれる。人生そのものがうるおい豊かなものになる。私は今、3人の息子たちの子育てをほぼ終えつつあるが、私は「育ててやった」という意識はほとんどない。息子たちに向かって、「いろいろ楽しい思い出をありがとう」と言うことはあっても、「育ててやった」と親の恩を押し売りするようなことは絶対にない。そういう気持ちはどこにもないと言えばウソだが、しかしそれを口にしたら、おしまい。親として、おしまい。

 私は子どもたちからの恩返しなど、はじめから期待していない。少なくとも私は自分の息子たちには、意識したわけではないが、無条件で接してきた。むしろこうして子育ても終わりに近づくと、できの悪い父親であったことを、わびたい気持ちのほうが強くなってくる。いわんや、「親孝行」とは? 自分の息子たちが私に孝行などしてくれなくても、私は一向に構わない。「そんなヒマがあったら、前向きに生きろ」といつも、息子たちにはそう教えている。この私自身が、その重圧感で苦しんだからだ。

 私はそんなわけで、先の経営者の意見には、生理的な嫌悪感を覚えた。ぞっとするような嫌悪感だ。しばらく胸クソの悪さを消すのに苦労した。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(363)

●親孝行否定論者?

 私はよく親孝行否定論者と誤解される。ときどきEメールでも、そう書いてくる人がいる。しかし事実は逆で、私は24歳のときから、収入の約50~30%を、岐阜の実家に仕送りしてきた。45歳のときまでそれを続けた。記憶にあるかぎりでは、少なくとも27歳のときから、実家での冠婚葬祭、法事の費用、改築の費用なども、すべて負担してきた。

田舎のことで、そういう行事だけはことさら派手にする。法事にしても、たいてい料亭を借りきってする。私には決して楽な額ではなかった。そのつどいつも、貯金通帳はカラになった。

 私がなぜそうしたかということだが、だれかが私に命令したというわけではない。私は「子が親のめんどうをみるのは当たり前」「子が家の心配をするのは当たり前」という、当時の世間的な常識(?)を心のどこかで感じたからこそ、それをしてきた。しかしそれはものすごい重圧感だった。

女房はただの一度も不平や不満を漏らさなかったが、経済的負担感も、相当なものだった。私はそういう重圧感なり負担感を知っているからこそ、自分の息子たちには、そういう思いをさせたくない。だから私は自分の息子たちに、あえて言う。「親孝行? ……そんなバカなことは考えなくていい。家の心配? ……そんなバカなことは考えなくていい。お前たちはお前たちで、自分の人生を思いっきり、前向きに生きろ。たった一度しかない人生だから、思う存分生きろ」と。

 子どもが親や家のために犠牲になるのは、決して美徳ではない。もしそれが美徳なら、子どもは子どもで自分の人生を犠牲にすることになり、それがまた順送りに繰り返され、結局はどの世代も、自分の人生をつかめなくなってしまう。いや、あなたはひょっとしたら、親や家のために犠牲になっているかもしれない。しかしあなたはそれを、あなたの子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。親子といえども、人間関係が基本。その人間関係の中から、自然に互いの尊敬心が生まれ、その上で、子どもが親の心配をしたり、家のめんどうをみるというのであれば、それはまた別の問題。

もっといえば、あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親に孝行しないからとか、家のめんどうをみないからといって、その子どもを責めてはいけない。それぞれの親子や家庭には、あなたがいくら知恵をふりしぼっても、理解できない複雑な事情が潜んでいる。たとえばE氏(58歳)。E氏はこのところ父の世話を疎遠にしているが、それについて親類の叔父や叔母たちに、電話で「子が親のめんどうをみるのは当たり前だろ」と、説教されている。

E氏はこう言う。「私は父の子ではないのです。祖父と母の間に生まれた、不倫の子なんです。私の家庭にはそういう複雑ないきさつがあるのです。しかしそういう話を、親類の人に話せますか。父もまだ生きていますから」と。

 安易な親孝行論は、その人を苦しめることもある。この結論は、今でも一歩も譲る気はない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(364)

●安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだから故郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめんどうをみるのはあたりまえ」など。

しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常識にしばられて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医学総合研究所の調査、2000年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、兄と接していると苦痛でならない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正月に帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「どうして自分の子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに「自分の故郷でしょう」「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦しめることになる。

たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にして、他人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、それぞれに過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きずっている人もいる。またそういう人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、Yさんをもうけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、そこで虐待を受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のときに家出。そのころには母の居場所もわからなかったという。Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福な生活を送っています」(手紙)ということだが、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想像できる、その範囲をはるかに超えている。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよいかわからなかった。

 「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくない。そこで大切なことは、日本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要があるということ。そしてその上で、何が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考えてみる必要がある。

安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険なことでもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親や子どもに押しつける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、その実、ものの本質を見失うことにもなりかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。また人間そのものをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれからの子育ての基本である。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(365)

●アメリカ論

 よく私の「家族主義」について、つぎのように攻撃してくる人がいる。「林君は、家族主義を口にするが、アメリカのほうが離婚率が高いではないか」「アメリカでは、夫婦でも裁判ザタになっているケースが、日本とは比較にならないほど、多いではないか」と。

 これについて反論。離婚率が高いから、家族が破壊されているとはかぎらない。低いから家族がしっかりしているということにもならない。たまたま日本の離婚率が低いのは、それだけ女性ががまんしているからにほかならない。社会的、経済的地位も、まだ低い。男尊女卑思想もまだ残っている。たとえばオーストラリアあたりで、夫が妻に、「おい、お茶!」などと言おうものなら、それだけで即、離婚。実際にはそういう会話をする夫はいない。ウソだと思ったら、近くにいるオーストラリア人に聞いてみることだ。

 つぎに裁判だが、たしかに多い。しかしそれは日本とアメリカの制度の違いによる。アメリカには、それこそ地区ごとに、「コートハウス」と呼ばれる仲裁裁判所がある。人口数万の小さな町にさえ、ある。そんなわけで、近隣で何かもめごとがあると、彼らはすぐ「では、判事に判断してもらおうではないか」と、裁判所へでかけていく。こういう気安さ、気軽さがベースになっているから、夫婦であっても、裁判所へ出向く率は日本より、はるかに高い。

 さらにアメリカから伝えられる凶悪事件を例にあげて、アメリカ社会は崩壊していると主張している人もいる。しかしアメリカと言っても広い。あのテキサス州だけでも、日本の2倍の広さがある。カルフォニア州だけでも、ほぼ日本の広さがある。一方、アメリカ人の目から見ると、日本も東南アジアも区別できない。区別されない。インドネシアで暴動が起きると、アメリカ人は、日本もそれに巻き込まれていると思う。

同じようにカルフォニア州の一都市で何か事件が起きたとしても、決して、アメリカ全土で起きているわけではない。先日もアメリカへ行ったら、知人のF氏(アメリカ人)はこう言った。「日本人はハリウッドをアメリカだと思い込んでいるのでは」と。そして「ハリウッド映画だけを見て、それがアメリカと思ってほしくない」とも。

 たしかにアメリカも多くの問題をかかえている。それは事実だが、しかしこれだけは忘れてはいけない。アメリカには「アメリカ人」と呼ばれるアメリカ人はいないということ。それは東京には「東京人」と呼ばれる東京人はいないのと同じ。

先のテキサス州では、人口の40%がヒスパニックが占めている。もちろん中国系、日系などのアジア人も多い。白人ばかりがアメリカ人ではないことは、常識だ。そういう他民族が集合して、「アメリカ人」というアメリカ人をつくっている。単一民族しか知らない日本人とでは、そもそも「国民」意識そのものがちがう。言いかえると、日本人対アメリカ人というように、そもそも対等に考えることすら正しくない。

 冒頭の問題は、そういう前提で考えなければならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(366)

●「日本の教育はバカげている」・日本の常識、世界の標準?

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教えるのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(367)

●家族のつながりを守る法

2000年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約3年間、アメリカ国務省のスポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われた」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。いわく「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受けた」と。単身赴任は、6年間も続いた。

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめられた部分も多い。今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、である。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言った。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてルービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。

が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(368)

●事例(1)……心を解き放て!

 今どき「先祖だ」「家だ」などと言っている人の気がしれない。……と書くのは、簡単だ。またこう書いたからといって、その先祖や家にしばられて苦しんでいる人には、みじんも助けにならない。Yさん(45歳女性)がそうだ。盆になると、位牌だけでも300個近く並ぶ旧家にYさんは嫁いだ。何でも後醍醐天皇の時代からの旧家だそうだ。で、今は、70歳になる祖父母、Yさん夫婦、それに一男一女の三世代同居。正確には同じ敷地内に、別棟をもうけて同居している。が、そのことが問題ではない。

 祖母はともかくも、祖父とYさん夫婦との間にはほとんど会話がない。Yさんはこう言う。「同居といっても形だけ。私たち夫婦は、共働きで外に出ています」と。しかし問題はこのことではない。「毎月、しきたり、しきたりで、その行事ばかりに追われています。手を抜くと祖父の機嫌が悪くなるし、そうかといって家計を考えると、祖父の言うとおりにはできないのです」と。

しかしこれも問題ではない。Yさんにとって最大の問題は、そういう家系だから、「嫁」というのは家政婦。「孫」というのとは、跡取り程度にしか考えてもらえないということらしい。「盆暮れになると、叔父、叔母、それに甥や姪、さらにはその子どもたちまでやってきて、我が家はてんやわんやになります。私など、その間、横になって休むこともできません」と。たまたま息子(中3)のできがよかったからよいようなものの、祖父はいつもYさんにこう言っているそうだ。「うちは本家だから、孫にはA高校以上の学校に入ってもらわねば困る」と。

 Yさんは、努めて家にはいないようにしているという。何か会合があると、何だかんだと口実をつくってはでかけているという。それについても祖父はあれこれ言うらしい。しかし「そういうことでもしなければ、気がヘンになります」とYさんは言う。

一度、たまたま祖父だけが家に残り、そのときYさんが食事の用意をするのを忘れてしまったという事件があった。「事件」というのもおおげさに聞こえるかもしれないが、それはまさに事件だった。激怒した祖父は、Yさんの夫を電話で呼びつけ、夫に電気釜を投げつけたという。「お前ら、先祖を、何だと思っている!」と。

 こういう話を聞いていると、こちらまで何かしら気がヘンになる。無数のクサリが体中に巻きついてくるような不快感だ。話を聞いている私ですらそうなのだから、Yさんの苦痛は相当なものだ。で、私はこう思う。日本はその経済力で、たしかに先進国の仲間入りはしたが、その中身は、アフリカかどこかの地方の、○○民族とそれほど違わないのでは、と。

もちろん伝統や文化はあるだろう。それはそれとして大切にしなければならないが、しかし今はもう、そういうものを個人に押しつける時代ではない。「こういう伝統がある」と話すのは、その人の勝手だが、それを受け継ぐかどうかは、あくまでもつぎの世代の問題ということになる。私たちはその世界まで、立ち入ることはできない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(368)

●事例(2)……心を解き放て!

 今、人知れず、家庭内宗教戦争を繰り返している家庭は多い。たいていは夫が知らない間に、妻がどこかのカルト教団に入信してしまうというケース。しかし一度こうなると、夫婦関係は崩壊する。価値観の衝突というのはそういうもので、互いに妥協しない。実際、妻に向かって「お前はだれの女房だ!」と叫んだ夫すらいた。その妻が明けても暮れても、「K先生、K先生」と言い出したからだ。夫(41歳)はこう言う。

「ふだんはいい女房だと思うのですが、基本的なところではわかりあえません。人生論や哲学的な話になると、『何を言ってるの』というような態度をして、私を無視します」と。では、どうするか?

 宗教にもいろいろある。しかしその中でも、カルトと呼ばれる宗教には、いくつかの特徴がある。

排他性(他の思想を否定する)、情報の遮断性(他の思想を遮断する)、組織信仰化(個人よりも組織の力を重要視する)、迷信性(外から見ると?と思うようなことを信ずる)、利益論とバチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。巨大視化(自説を正当化するため、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学者もいる。

 信仰のし方としては、催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)、反復性(皆がよってたかって同じことを口にする)、隔離性(ほかの世界から隔離する)、布教の義務化(布教すればするほど利益があると教える)、献金の奨励(結局は金儲け?)、妄想性と攻撃性(自分たちを批判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)など。

その結果、カルトやその信者は、一般社会から遊離し、ときに反社会的な行動をとることがある。極端なケースでは、ミイラ化した死体を、「まだ生きている」と主張した団体、毒ガスや毒薬を製造していた団体、さらに足の裏をみて、その人の運命や健康状態がわかると主張した団体などがあった。

 人はそれぞれ、何かを求めて信仰する。しかしここで大切なことは、いくらその信仰を否定しても、その信仰とともに生きてきた人たち、なかんずくそのドラマまでは否定してはいけないということ。みな、それぞぞれの立場で、懸命に生きている。その懸命さを少しでも感じたら、それについては謙虚でなければならない。「あなたはまちがっている」と言う必要はないし、また言ってはならない。私たちがせいぜいできることといえば、その人の立場になって、その人の悲しみや苦しみを共有することでしかない。

 冒頭のケースでも、妻が何かの宗教団体に身を寄せたからといって、その妻を責めても意味はない。なぜ、妻がその宗教に身を寄せねばならなかったのかというところまで考えてはじめて、この問題は解決する。「妻が勝手に入信したことにより、夫婦関係が破壊された」と言う人もいるが、妻が入信したとき、すでにそのとき夫婦は崩壊状態にあったとみる。そんなわけで夫が信仰に反対すればするほど、夫婦関係はさらに崩壊する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(370)

●後手、後手の日本の教育改革

 約60%の中学生は、「勉強で苦労するくらいなら、部活を一生懸命して、推薦で高校へ入ったほうが楽」と考えている。また同じく約60%の中学生は、「進学校へ入ると勉強でしぼられるので、進学校ではない高校に入り、のんびりと好きなことをしたい」と考えている。(静岡県では高校入試が、入試選抜の要になっている。これらの数字は、中学校の校長たちのほぼ一致した見方と考えてよい。)

 こうした傾向は進学高校でもみられる。以前は勉強がよくでき、テストの点が高い子どもほど、周囲のものに尊敬され、クラスのリーダーになった。が、今は、ちがう。ある日私が中間層にいる子どもたちに、「君たちもがんばって、(そういう成績優秀な連中を)負かしてみろ」と言ったときのこと。全員(7人)がこう言った。「ぼくらはあんなヘンなヤツとはちがう」と。勉強がよくできる子どもを、「ヘンなヤツ」というのだ。

 夢があるとかないとかいうことになれば、今の中高校生たちは、本当に夢がない。また別の日、中学生たち(7人)に、「君たちもがんばって宇宙飛行士になってみろ。宇宙飛行士のMさんも、そう言っているぞ」と言うと、とたん、みながこう言った。「どうせ、なれないもんネ~」と。

 こうした現実を、一体今の親たちは、どれだけ知っているだろうか。いや、すでに親たち自身も同じように考えているのかもしれない。こうした傾向はすでに20年以上も前からみられたことであり、今に始まったことではない。ひょっとしたら中学生や高校生をもつ親の何割かも、ここにあげた中高校生のように考えているかもしれない。「どうせ勉強なんかしてもムダ」とか、「勉強ができたところで、それがどうなのか」と。さらに今の親たちの世代は、長渕剛や尾崎豊の世代。「学校」に対するアレルギー反応が強い世代とみてよい。「学校」と聞いただけで、拒絶反応を示す親はいくらでもいる。

 問題は、なぜ日本がこうなってしまったかということよりも、こうした変化に、日本の教育が対応しきれていないということ。いまだに旧態依然の教育制度と教育観を背負ったまま、それを親や子どもたちに押しつけようとしている。「改革」といっても、マイナーチェンジばかり。とても抜本的とはいいがたいものばかり。すべてが後手、後手に回って、教育そのものがあたふたとしているといった感じになっている。

 こうした問題に対処するには、私は教育の自由化しかない。たとえば基礎的な学習は学校で、それ以外の学習はクラブで、というように分業する。学校は午前中で終わり、午後はそれぞれの子どもはクラブに通う。学校内部にクラブがあっても、かまわない。先生がクラブの指導をしても、かまわない。各種スポーツクラブのほか、釣りクラブ、演劇クラブなど、さまざまなクラブが考えられる。月謝はドイツ並みに、1000円程度にする。方法はいくらでもある。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。