2009年7月12日日曜日

*Essays on House Education (7-12)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(381)

●子育てのコツ(2)

 もう一五年ほど前のことだが、「サイエンス」という雑誌に、「ガムをかむと頭がよくなる」という研究論文が発表された。ガムをかむことにより、脳への血行が刺激され、ついで脳の活動が活発になる。その結果、頭がよくなるというものだった。

素人の私が考えても、合理性のある内容だった。そこでこの話を懇談会の席ですると、数人の母親が、「では……」と言って、毎日子どもにガムをかませるようになった。

 その結果だが、A君(ガムをかみ始めたのは年中児のとき)は、小学三年生になるころには、本当に頭がよくなってしまった。もう一人そういう男の子もいたが、この方法は、どこかボンヤリしていて、ものごとに対する反応の鈍い子どもに有効である。(こう断言するのは危険なことかもしれないが、A君について言えば、年中児のときには、まるで反応がなく、一〇人中でも最下位をフラフラしているような子どもだった。その子どもが小学三年になるころには、反対に、一〇人中でも、最上位になるほど反応が鋭くなった。)

 計算力は、訓練で伸びる。訓練すればするほど、計算は速くなる。で、その計算力を伸ばすカギが、「早数え」。言いかえると、幼児期は、この早数えの練習をするとよい。たとえば手をパンパンと叩いて、それを数えさせるなど。

少し練習すると、一〇秒前後の間に、三〇くらいまでのものを数えることができるようになる。最初は「ひとつ、ふたつ……」と数えていた子どもが、「イチ、ニイ……」、さらに「イ、ニ……」と進み、やがて「ピッ、ピッ……」と信号化して数えることができるようになる。こうなると、「2+3」の問題も、「ピッ、ピッと、ピッ、ピッ、ピッで5!」と計算できるようになる。反対に早数えが苦手な子どもに、足し算や引き算を教えても、苦労の割には計算は速くならない。

 少し暑くなると、体をくねくねさせ、座っているだけでもたいへんと思われる子どもがでてくる。中には机の上のぺたんと体をふせてしまう子どももいる。そういう子どもを見ると、親は、「どうしてうちの子は、ああも行儀が悪いのでしょうか」と言う。そして子どもに向かっては、「もっと行儀よくしなさい」と叱る。しかしこれは行儀の問題ではない。このタイプの子どもは、まずカルシウム不足を疑ってみる。

 筋肉の緊張を保つのが、カルシウムイオンである。たとえば指を動かすとき、脳の指令を受けて、指の神経はカルシウムイオンを放出する。このカルシウムイオンが、筋肉を動かす。(実際にはもう少し複雑なメカニズムでだが、簡単に言えばそういうことになる。)が、このカリシウムイオンが不足すると、筋肉が緊張を保つことができなくなり、ついで姿勢が悪くなる。

もしあなたの子どもにそのような症状が出ていたら、(1)骨っぽい食生活にこころがけ、(2)カルシウムの大敵であるリン酸食品を減らし、(3)白砂糖の多い、甘い食生活を改める。子どもによっては、数日から一週間のうちに、みちがえるほど姿勢がよくなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(382)

●子育てのコツ(3)

 子どもの運筆能力は、丸(○)を描かせてみればわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズなきれいな丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近い、ぎこちない丸を描く。

ちなみに縦線を描くときときと、横線を描くときは、手や指、手首の動きはまったく違う。幼児は縦線が苦手で、かつ曲線となると、かなり練習をしないと描けない。

 その運筆能力を養うには、ぬり絵が最適。こまかい部分を、縦線、横線、曲線をまじえながら、ていねいにぬるように指導する。この運筆能力のあるなしは、満四~五歳前後にはわかるようになる。この時期の訓練を大切にする。それ以後は、書きグセが定着してしまい、なおすのがむずかしくなる。

 母性(父性でもよい)のあるなしは、ぬいぐるみの人形を、そっと手渡してみるとわかる。母性が育っている子どもは、そのぬいぐるみを、さもいとおしいといった様子で、じょうずに抱く。中には頬をすりよせたり、赤ちゃんの世話をするような様子を見せる子どももいる。

しかし母性の育っていない子どもは、ぬいぐるみを見せても反応を示さないばかりか、中には投げて遊んだり、足でキックしたりする子どももいる。全体の約八〇%が、ぬいぐるみに温かい反応を示し、約二〇%が反応を示さないことがわかっている(年長児~小学三年生)。

 ぬいぐるみには不思議な力がある。もし「うちの子は心配だ」と思っているなら、一度、ぬいぐるみを与えてみるとよい。コツは、一度子どもの前で、大切そうにそのぬいぐるみの世話をする様子を見せてから渡すこと。あるいは世話のし方を教えるとよい。まずいのは買ってきたまま、袋に入れてポイと渡すこと。ちなみに約八〇%の子どもが、日常的にぬいぐるみと遊び、そのうち約半数が、「ぬいぐるみ大好き!」と答えている。

 子どもの知的好奇心を伸ばすためには、「アレッ!」と思う意外性を多くする。「マンネリ化した単調な生活は、知的好奇心の敵」と思うこと。決してお金をかけrということではない。意外性は、日常生活のほんのささいなところにある。ある母親は、おもちゃのトラックの上に、お寿司を並べた。また別の母親は、毎日違った弁当を、子どものために用意した。

私も以前、オーストラリアの友人がホームステイしたとき、彼らが白いご飯の上に、ココアとミルクをかけて食べているのをみて、心底驚いたことがある。こうした意外性が、子どもの知的好奇心を刺激する。

 なお最近よく右脳教育が話題になるが、一方で、頭の中でイメージが乱舞してしまい、ものごとを論理的かつ分析的に考えられない子どもがふえていることを忘れてはならない。「テレビなどの映像文化が過剰なまでに子どもの世界を包んでいる今、あえて右脳教育は必要ないのではないか」(九州T氏)という疑問も多く出されている。私もこの意見には賛成である。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(383)

●子育てに溺れる親たち

 テレビのクイズ番組。テーマは、どこかの国の料理道具。それをことさらおおげさに取り上げて、ああでもない、こうでもないという議論がつづく。ヒマつぶしには、それなりにおもしろいが、そういう情報がいったい、何の役にたつというのだろうか。……と考えるのは、ヤボなことだ。が、幼児教育にも、同じような側面がある。

 二〇〇二年の五月。私の手元にはいくつかの女性雑誌がある。その中からいくつかの記事を拾ってみると……。「私は冷え性です。おむつをかえるとき、子どもがかわいそうです。どうすれば手を温めることができますか」「階段をおりるとき、三歳の子どもは、一段ごとすわりながらおります。手すりを使っておりるようにさせるには、どうすればいいでしょうか」「遊戯会で、親子のきずなを深めるビデオのとり方を教えて」と。

 こうした情報は、一見役にたつかのようにみえるが、その実、へたをすると、情報の洪水に巻き込まれてしまい、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。それはちょうど中華料理と和食とイタリア料理をミキサーにかけて、ぐちゃぐちゃにしてしまうようなものだ。が、それではすまない。こうした情報に溺れると、思考能力そのものが停止する。一見考えているようだが、そのつど情報に引きまわされ、自分がどこへ向かっているのかさえわからなくなってしまう。まさに「溺れた状態」になる。

 そこで子育てをするときには、いつも目標を定め、方向性をもたせる。「形」をつくれとか、「設計図」をつくれというのではない。いつも自分の子育てを高い視点からみおろし、自分が今、どこにいるかを知る。それはちょうど、旅をするときの地図のようなものだ。それがないと、迷子になるばかりか、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。たとえば不登校の問題。

 たいていの親は自分の子どもが不登校児になったりすると、狂乱状態になる。その気持ちはわからないでもないが、今、アメリカだけでも、ホームスクーラー(学校へ行かないで、家庭で学習する子ども)が二〇〇万人を超えたとされる。ドイツやイタリアではクラブ制度(日本でいえば各種おけいこ塾)が、学校教育と同じ、あるいはそれ以上に整備されている。カナダもオーストラリアもそうだ。


さらにアメリカでは、学校の設立そのものが自由化され、バウチャースクール、チャータースクールなどもある。「不登校を悪」と決めてかかること自体、時代遅れ。時代錯誤。国際常識にはずれている。だからといって不登校を支持するわけではないが、しかしそういう視点でみると、不登校に対する見方も変わってくる。高い視点でものを考えるというのはそういうことをいう。またそういう視点があると、少なくとも、「狂乱状態」にはならないですむ。

 テレビのクイズ番組を見ながら、あなたも一度、ここに書いたようなことを考えてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(384)

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がいる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。

しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……と、私は心配する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(385)

●今を生きる子育て論(2)

 仕事をしているときは、休みの日のことばかり。それはわかる。しかしこのタイプの人は、休みになると、今度は仕事のことしか考えない。だから休みの日を、休みの日として休むことができない。もともと「今」を生きるという姿勢そのものがない。いつも「今」を未来のために犠牲にするという生き方をする。しかしこういう生き方は、すでに子どものときから始まり、そして老人になってからもつづく。

 A氏(五八歳)は、いつもこう言っている。「私は退職したら、女房とシベリア鉄道に乗り、モスクワまで行く」と。しかし私は、A氏は、退職してからも、モスクワまでは行かないだろうと思う。仮に行ったとしても、その道中では、帰国後の心配ばかりするに違いない。「今を生きる」という生きザマにせよ、「未来のために今を犠牲にする」という生きザマにせよ、それはまさに「生きザマ」の問題であって、そんなに簡単に変えられるものではない。

A氏について言うなら、今まで、「未来のために今を犠牲にする」という生き方を日常的にしてきた。そのA氏が退職したとたん、その生きザマを変えて、「今を生きる」などということは、できるはずもない。

 ……そこで私たち自身はどうなのかという問題にぶつかる。私たちは本当に「今」を生きているだろうか。あるいはあなたの子どもでもよい。私たちは自分の子どもに、「今を大切にしろ」と教えているだろうか。子どもたちはそれにこたえて、今を大切に生きているだろうか。ある母親はこう言った。

「日曜日などに子どもが家でゴロゴロしていると、つい、『宿題はやったの?』、『今度のテストはだいじょうぶなの?』と言ってしまう」と。親として子どもの「明日」を心配してそう言うが、こうした言い方は、少しずつだが、しかし確実に積み重なって、その子どもの生きザマをつくる。子ども自身もいつか、「休むのは、仕事のため」と考えるようになる。

 当然のことだが、人生には限りがある。しかしいつか突然、その人生が終わるわけではない。健康も少しずつむしばまれ、気力も弱くなる。先のA氏にしても、定年後があるとは限らない。この私にしても、五〇歳をすぎるころから、ガクンと気力が落ちたように思う。何かにつけて新しいことをするのが、おっくうになってきた。

 日本人は戦後、ある意味で、「今をがむしゃらに犠牲にして」生きてきた。会社人間、企業戦士という言葉もそこから生まれ、それがまたもてはやされた。そういう親たちが、第二世代をつくり、今、第三世代をつくりつつある。こうした生きザマに疑問をもつ人もふえてはきたが、しかし一方で、その生きザマを引きずっている人も多い。

仕事第一主義が悪いというわけではないが、今でも「仕事」を理由に、平気で家族を犠牲にし、人生そのものまで犠牲にしている人も多い。仕事は大切なものだが、「何のために仕事をするのか」という原点を忘れると、人生そのものまで棒に振ってしまうことになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(386)

●飼い犬について

 私の事務所から白い三階建てのビルが見える。ある資産家の自宅らしいが、その二階の一室は犬専用の部屋になっている。ときおり大きな犬が、顔だけを外に出して、通りを行きかう人をながめている。が、夏場になると、恐らく一日中クーラーをかけっぱなしにしているのだろう。窓は閉じられ、外に顔を出すこともない。

 一方、私の家では、二匹の犬は、庭で放し飼いにしている。庭の広さは、畑も含めて、ちょうど一〇〇坪。周囲は小さな森に囲まれ、犬たちにはそれほど悪い環境ではない。しかしそんな私でも、ときどき犬たちに申し訳なく思うときがある。とくに一匹はポインターで、走るために生まれてきたような犬だ。そんな犬が、思う存分走ることもできないでいる。女房はときどきこう言う。「こんなところに飼われるために生まれてきた犬ではないのにね」と。

 どちらの犬が幸せで、どちらの犬がそうでないかということを言っているのではない。私はそのビルに住む犬や、自分の家の犬を思い浮かべながら、一方で、人間の子どもはどうなのかと考える。先日、大阪へ行ってきたが、帰るとき、ちょうど帰校時の男子高校生たちと電車に乗りあわせた。どの高校生も、それがファッションと言わんばかりに、だらしないかっこうをしていた。そのうち何人かは携帯電話を手にもって、だれかと連絡をとりあっていた。窓の外はビルまたビル。おとなたちはじっと目を閉じたり、下を向いたりして、何かに耐えているといったふうだった。

と、そのとき、一人の高校生が携帯電話のメールを読みながら、隣の席に座っている高校生にこう言った。「チッ、おい、お前、マージャン、来れるか?」と。話の内容からすると、一人メンバーが何かの用事で欠けたらしい。隣の高校生はそれに対して断ることもできないといったふうに、元気のない声で「うん」と答えていた。が、それは何とも言われないほど退廃的な光景だった。

 犬にとっても、人間にとっても、あるべき環境とは何か。またどういう環境こそが、犬や人間にはふさわしいのか。ビルに住む犬も、私の庭に住む犬も、(相対的には、私の家の犬のほうが幸せということになるのかもしれないが)、犬にとっては、不幸といってもよい環境かもしれない。同じように、大阪で見かけた高校生にとっても、不幸といってもよい環境かもしれない。

その証拠というわけではないが、私が大阪で見た高校生は、どの高校生も、死んだ魚の目のような目つきをしていた。あたりをキョロキョロと見まわしながら、若い女性を見つけると、そちらにドロリとした鉛色の視線を投げかけていた。

 ……と考えて、「私はどうなのか」という問題にぶつかる。私はこの時代に、この国に生まれた。歴史の中でも、世界の中でも、これほど恵まれた時代はない。文句をつけるほうがおかしい。しかしそうであるにもかかわらず、心の充足感がないのはなぜか。どこか私自身がビルに住む犬のような気がする。私の家の庭に住む犬のような気がする。あるいは大阪でみかけた高校生のような気がする。どうしてか? どうしてなのか?





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(387)

●今を生きる子育て論(3)

 頭からちょうちんをぶらさげて、キンキラ金の化粧をすることを、個性とは言わない。個性とはバイタリティ。「私は私」という生きざまを貫くバイタリティをいう。結果としてその人は自分流の生きざまを作るが、それはあくまでも結果。私の友人のことを書く。

 私はある時期、二人の仲間と、ある財界人のブレーンとして働いたことがある。一人はAK氏。日韓ユネスコ交換学生の一年、先輩。もう一人はピーター氏。メルボルン大学時代の一年、後輩。私たちは札幌オリンピック(七二年)のあとの、国家プロジェクトの企画を任された。が、ニクソンショックで計画はとん挫。私たちは散り散りになったが、それから二〇年後。AK氏は四〇歳そこそこの若さで、日本ペプシコの副社長に就任。

またピーター氏は、オーストラリアで「BT」という宝石加工販売会社を起こし、やはり四〇歳そこそこの若さで、巨億の財を築いた。オーストラリア政府から、取り扱い高ナンバーワンで、表彰されている。

 三〇年前の当時を思い出して、彼らが特別の人間であったかどうかと言われても、私はそうは思わない。見た感じでも、ごくふつうの青年だった。しいて言えば、彼らはいつも何かの目標をもっていたし、その目標に向かってつき進む、強烈なバイタリティをもっていた。

AK氏は副社長になったあと、あのマイケル・ジャクソンを販売促進のために日本へ連れてきた。ピーター氏は稼ぐだけ稼いだあと、会社を売り払い、今はシドニー郊外で、悠々自適の隠居生活をしている。生きざまを見たばあい、私は彼らほど個性的な生き方をしている人を、ほかに知らない。が、問題がないわけではない。

 実は私のことだが、この私とて、当時は彼らに勝るとも劣らないほどの、バイタリティをもっていた。が、結果としてみると、彼ら二人は個性の花を開かせることができたが、私はできなかった。理由は簡単だ。AK氏は、その後、外資系の会社を渡り歩いた。ピーター氏は、オーストラリアへ帰った。つまり彼らの周囲には、彼らのバイタリティを受け入れる環境があった。

しかし私にはなかった。私が「幼稚園の教師になる」と告げたとき、母は電話口の向こうで、泣き崩れてしまった。学生時代の友人(?)たちは、「あのはやしは頭がおかしい」と笑った。高校時代の担任まで、同窓会で会うと、「お前だけはわけのわからない人生を送っているな」と、冷ややかに言ってのけた。

 世間は、「個性を伸ばせ」という。しかし個性とは何か、まず第一に、それがわかっていない。次に個性をもった人間を、受け入れる度量も、ない。この三〇年間で日本もかなり変わったが、しかし欧米とくらべると、貧弱だ。いまだに肩書き社会に出世主義。それに権威主義がハバをきかせている。組織に属さず、肩書きもない人間は、この日本では相手にされない。いや、その前に排斥されてしまう。

 そんなわけで、個性を伸ばすということは、教育だけの問題ではない。せいぜい教育でできることといえば、バイタリティを大切にすること。繰り返すが、その後、その子どもがどんな「人」になるかは、子ども自身の問題であって、教育の問題ではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(388)

●今を生きる子育て論(4)「子どもたちへ」

見てごらん、やさしくゆれる緑の木々
感じてごらん、肌をさする初夏のそよ風
聞いてごらん、楽しく遊ぶ小鳥のさえずり
それが「今」なんだよ

明日があるって?
昨日があるって?
本当かな?
本当にあるのかな?
あるというのなら、どこにあるのかな?

「明日」というクサリを解き放ってみようよ
「昨日」というクサリを解き放ってみようよ
解き放って、「今」を懸命に生きてみようよ
「明日」がなくても、悲しむことはないよ
「昨日」がどんなものであっても、嘆くことはないよ
明日がどんなものであれ、今の君は、今の君
昨日がどんなものであれ、今の君は、今の君

大きく息を吸って
目をしっかりと開いて
地面を強く足でたたいて
「今」を懸命に生きてみようよ
結果など、気にすることはないよ
結果はかならずあとからついてくる
心も体も、あとからついてくる

だからね、「今」を大切に生きようよ
ただひたすら自分に誠実に
ただひたすら自分に正直に
ただひたすら自分に素直に
だってね、今、ぼくたちはこうして生きているのだから……





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(389)

●心の貧しい若者たち

 こんなバラエティ番組があった。

若いカップルのうち、男が携帯電話をテーブルに置いたまま、席を離れる。時間は一〇分だが、その間に相手の女性が、それを盗み見するかどうかを確かめるという番組である。喫茶店かどこかの一室だが、あちこちに隠しカメラがセットしてあり、女性の行動はもちろん、さらにどこを盗み見しているかまでわかるようになっていた(〇二年五月)。

 何とも低俗きわまりない番組だが、それ以上に、司会の男といい、出てくる男女といい、こうしてコメントするのも、なさけないほど低劣な出演者だった。一片の知性も理性も感じなかった。それはともかく、案の定というか、その番組で顔を出した女性の全員が、その盗み見をしていた。中には何のためらいもなく、平気で盗み見している女性もいた。結論は、「あなたの恋人も、あなたの携帯電話を盗み見している」(レポーター)ということだった。

その番組を見終わったあと、私は何とも言われない不快感に襲われた。「人を信じろ」という内容の番組ならともかく、「人を疑え」という内容の番組だった。こういう番組が、何の恥じらいも抵抗もなく、テレビという最新機器を使って、全国に垂れ流される恐ろしさ。この浜松でも、地方都市の悲しさというか、「東京から来た」というだけで、何でもありがたがる。地方都市の地方に住む人が、その地方をバカにしているから話にならない。あるいは地方の価値を認めていない。タレントの世界には、こんな隠語がある。「東京で有名になって、地方で稼げ」と。

 話はそれたが、私はその番組を見ながら、「時間をムダにしたくない」という思いから、こんなことを考えた。

 一般論から言えば、「誠実さのない人」「道徳心や倫理観に欠ける人」は、心の貧しい幼少期を過ごしたとみてよい。犬でも、愛犬家のもとで手厚い愛情を受けて育った犬ほど、忠誠心が強くなる。態度も大きく、どっしりとした落ち着きがある。そうでない犬は、忠誠心も弱い。だれにでもヘラヘラとシッポを振る。

同じように、こういう番組の中で、平気で相手の携帯電話を盗み見する女性というのは、それだけ心の貧しい家庭環境で育った女性とみてよい。そういう意味では、かわいそうな女性ということになる。生まれながらにして、「人を疑う」という姿勢が身についている。一見美しいファッションに身を包んでいたが、その目つきには醜悪さが満ちあふれていた。いや、もう一歩踏み込むと、こんなことも言える。

 ああいう番組をプロデュースすることができる人間もまた、心のさみしい人たちだということ。恐らく受験戦争だけを勝ち抜いて、テレビ局という花形企業に就職したのだろう。頭はキレるが、心を育てることができなかった……? 日本の思想や文化をリードしているという誇りも自負心もない。ただただ「これでいいのか?」という疑問ばかりが残る、あと味の悪い番組だった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(390)

●子どもを伸ばす会話術

● 「立派な人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。(価値観を変える)
● 「社会で役立つ人になれ」ではなく、「家族を大切にしようね」と言う。
● 「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問するのですよ」と言う。(親の指示に具体性をもたせる)
● 「こんな点でどうするの!」ではなく、「どこをどうまちがえたか、あとで話してね」と言う。
● 「がんばれ!」ではなく、「気を楽にしてね」と言う。(苦しんでいる子どもに、「がんばれ」は禁句)
● 「あとかたづけをしなさい」ではなく、「あと始末をしなさい」と言う。(あと片づけとあと始末は、基本的に違う)
● 「~~を片づけなさい」ではなく、「遊ぶときはおもちゃは一つよ」と言う。
● 「~~しなさい」ではなく、「~~してほしいが、してくれる?」と言う。(命令はできるだけ避ける)
● 「友だちと仲よくしなさい」ではなく、「(具体的に)これを○○君にもっていってあげてね。きっと喜ぶわ」と言う。
● 「(学校で)しっかりと勉強するのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに教えてね」と言う。
● 「はやく~~しなさい」ではなく、「この前より、はやくできるようになったわね」と言う。
● 「どうしてこんなことをするの!」ではなく、「こんなことをするなんて、あなたらしくないね」と言う。
● 「あなたはダメな子ね」ではなく、「あなたはこの前より、いい子になったね」と言う。(前向きのプラスの暗示をかける)
● 「あなたは~~ができないわね」ではなく、「~~がうまくできるようになったわね」と言う。(欠点を積極的にほめる)

 親の会話力が、子どもを伸ばす。(もちろんつぶすこともある。)ほかにもたとえば直接話法ではなく、間接話法で。英語の文法の話ではない。たとえば「あなたはいい子だね」と言うのは、直接話法。「幼稚園の先生が、あなたはいい子だったと言っていたよ」というのは、間接話法など。

あるいは会話を丸くしたり、ときにはユーモアをまぜる。たとえば指しゃぶりしている子どもには、「おいしそうな指だね。ママにもなめさせてね」とか、「おとなの指しゃぶりのし方を教えてあげようか」などと言う。コツは、あからさまな命令や禁止命令は避けるようにすること。何か子どもに命令しそうになったら、ほかに言い方はないかを考えてみるとよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(391)

●仲間に入れない子ども

 小学生の低学年児でも、仲間がワイワイ騒いでいるとき、その輪に入ることができず、その周囲で静かにしている子どもは、一〇人の中に二人はいる。適当に相づちを打ったり、軽く反応することはあっても、自分から話題を投げかけたり、話してかけていくことはない。

対人恐怖症とか、性格的に萎縮しているといったふうでもない。で、よく観察すると、いくつかの特徴があるのがわかる。そのひとつが、自分の周囲を小さくすることで、防衛線をはるということ。静かにおとなしくすることによって、自分に話題の火の粉がかからないようにしているのがわかる。そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。

 心はいつも緊張していて、その緊張をほぐすことができない。もっと心を開けばよいのにと思うが、その前の段階で、心をふさいでしまう。だからといって社会性がまったくないわけではない。別の集団や、あるいは小人数の気を許した仲間の間では、結構騒いだりすることができる。一方、情緒の何らかの障害があるとき、たとえばここにあげた対人恐怖症の子どものばあいは、集団がかわっても心を開くことができない。

 そこでこの段階で、二つの仮説が考えられる。ひとつは、このタイプの子どもを、軽い情緒障害と位置づける考え方。もうひとつは、まったく別の症状と位置づける考え方。心の緊張感がとれないというのは、情緒障害児に共通してみられる症状で、それが「障害」と呼べるほども重くないと考えることには合理性がある。実際のところ、かん黙児が、自分の周囲に防衛線を張り、他者の侵入を許さないという症状と、どこか似ている。

 また「まったく別の症状」と位置づけるのは、言うまでもなく、それが「問題だ」と言えるほどの問題ではないことによる。このタイプの子どもはどこにでもいるし、またいたところでどうということはない。ただ親の中には、「どうしてうちの子は、みんなの輪の中に入っていけないのでしょうか」と相談してくるケースは多い。また集団の中では精神的に疲労しやすく、その分、家へ帰ってからなどに、親の前では乱暴な言葉をつかったり、ぐずったりすることはある。が、その程度。集団から離れると、このタイプの子どもは再び自分の世界に戻ることができる。

 ……というように子どもの心の世界は、複雑で、それだけにまだ未解明の部分が多い。だから「おもしろい」というのは不謹慎な言い方になるかもしれないが、「さらに調べてみよう」という気にはなる。そういう意味では心がひかれる。

 ついでながら、この問題について言うなら、集団になじめないからといって、おおげさに考える必要はない。だれしも得意、不得意というのはある。集団の中でワイワイ騒ぐから、それでよいということにはならない。騒げないからいけないということにもならない。そういう視点で、自分の子どもは自分の子どもと割り切ることも、大切である。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(392)

●ある母親の相談から

 こんな手紙を受け取った。手紙というより、ある団体が集めた、相談用紙だった。そのひとつ。

 「年中の男のです。ひらがなの書き順がめちゃめちゃ。なおしてあげようとすると、大声で泣いて暴れて抵抗します。それに手と足の指の爪をかむクセがどうしてもなおりません。何かあると、やたらと『頭が痛い』と言い、『じゃあ、病院へ行こうか』と声をかけると、『いい』と言います。

おかげで私は毎日、子どもを怒ってばかり。親が怒りすぎるのは、どうしたらよいでしょうか。このところ、私の言うことなど何も聞いてくれません。気にくわないことがあると、手当たり次第にものを投げつけたりします」と。

 順に考えれば、(1)大声で泣いて暴れるのは、かんしゃく発作。(2)手と足の指の爪をかむのは、神経症による代償行為。(3)「頭が痛い」というのは、本当に痛ければ、やはり神経症、もしくは何らかの恐怖症の初期症状。(4)親が怒ってばかりいるのは、家庭教育そのものが、すでに危険な状態に入っている。(5)「私の言うことは何も聞いてくれない」というのは、親子断絶の初期症状などなど。(6)書き順を教えるのが、文字教育と思い込みすぎている点も、気になる。

こういう指導法は、子どもを文字嫌いにする。さらには国語嫌いにする。エビでタイをつる前に、エビを食べてしまうような指導法といってもよい。この時期大切なことは、文字は楽しい、本はおもしろいという前向きな姿勢を育てること。トメ、ハネ、ハライをうるさく言い過ぎると、子どもは文字に対して恐怖心をもつことすらある。ちなみに年中児で、「名前を書いてごらん」と指示すると、約二〇%の子どもが、顔を曇らせ、体をこわばらせることがわかっている。中には涙ぐむ子どもすらいる。一度、こうなると、以後、文字(本や国語)が好きになるということは、まずない。

 が、それ以上に気になるのは、この母親は、子どものリズムというものが、まったくわかっていない。いつも「自分が正しい」という大前提で、自分の子育て法を子どもに押しつけている。子どもは子どもで、親にあたふたと引っ張りまわされているだけ。親子の間に、こういう不協和音が流れると、あとはそれが底なしの悪循環となって、家庭教育は完全に崩壊する。あと数年もすれば、体格も大きくなり、親の手には負えなくなる。子どもは「ウッセエ、このババア、サッサと、小づかい、よこせ!」と、言うようになるかもしれない。

 こういうケースでは、(1)~(6)の症状は、いわば表面的な症状。基本的には、母親が子どものリズムで生活していない。言いかえると、これらの問題を解決しようとするなら、まず子どものリズムで生活すること。親意識が強ければ、それを改める。さらに母親自身に何か大きなわだかまりがあるのかもしれない。あればそれが何であるかを知る。子どもをなおそうと思うのではなく、自分自身をなおす。あとは少し時間がかかるが、それでなおる。年中児といえば、なおすための、そのギリギリの年齢とみてよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(393)

●親をなおす、子をなおす

 子どもに何か問題があると、ほとんどの親は子どもをなおそうとする。「うちの子はハキがありません」「うちの子は消極的です」「うちの子は内弁慶です」「うちの子は勉強をしたがりません」「うちの子は乱暴です」などなど。もちろん情緒障害児や精神障害児と呼ばれる子どもは別だが、こうしたケースでは、子どもをなおそうと思わないこと。まず親自身が自らをなおす。こんなケースがある。

 その母親の子ども(小五女児)が、親のはげしい過干渉と過負担から、ある日突然、無気力症候群におちいり、そのまま学校へ行かなくなってしまった。私にあれこれ相談があったが、その一方で、その母親は中二の息子の受験競争に狂奔していた。その相談があった夜も、「これから息子を塾へ迎えにいかねばなりませんから」と、あわただしく私の家から出ていった。「兄は別」と考えているようだったが、その兄だって妹のようになる確率はきわめて高い。

 さらに親というのは身勝手なもの(失礼!)。少しよくなると、「もっと」とか、「さらに」とか言い出す。やっと長い不登校から抜け出し、何とか学校へ行くようになった子ども(小二男児)がいた。そんなある日、居間で新聞を読んでいると、母親から電話がかかってきた。てっきり礼の電話だと思って受話器をとると、母親はこう言った。

「何とか午前中は授業を受けるようになったのですが、どうしても給食はいやだと言って、給食を食べようとしません。学校から電話がかかってきて、今は、保健室にいるそうです。何とか給食を食べるようにさせたいのですが……」と。

 もっとも子どものことがよくわかっていてくれるなら、私も救われる。しかし実際には、子どものことがまったくわかっていない親も多い。以前、場面かん黙児の子ども(年中男児)がいた。ふとしたきっかけで、貝殻を閉ざすように、かん黙してしまう。たまたま母親が参観にきていたので、子どもの問題点に気づいてもらおうと、その子どもがかん黙する姿を、それとなく見てもらった。

が、その夜、母親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。「あなたはうちの息子を萎縮させてしまった。あんな子どもにしてしまったのは、あなたのせいだ。どうしてくれる!」と。

 子どもの問題という言葉はよく聞かれる。しかし実際には、子どもの問題イコール、親の問題である。これはもう三〇年以上も子どもの問題にかかわってきた「私」の結論ととらえてもらってよい。少なくとも、子どもだけを見ていたのでは、子どもの問題は解決しない。

(私は過去三〇年以上、無数の子育て相談に応じてきたが、こうした子育て相談で、だれからも、一円の報酬も受けたことはない。受け取ったこともない。念のため。)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(394)

皆さんからの質問

Q:どうして受験競争はなくならないのか?
A:歴然とした不公平社会があるから。この日本、学歴で得をする人は、死ぬまで得をする。そうでない人は、死ぬまで損をする.この不公平社会があるかぎり、受験競争はつづく。
Q:受験勉強が日本人の学力をあげているのではないのか。
A:受験勉強をして学力をあげているのは、ほんの一〇~一五%の子どもたちだけ。残りの子どもたちが、どんどんギブアップしていくので、全体を平均化すると、日本の子どもの学力はかえって低い。
Q:こうした現状を打開するためには、どうすればよいのか?
A:子どもの多様性にあわせて、教育を多様化する。しかしそれを中央の文部科学省だけでコントロールするのは、不可能。教育の自由化は、地方の行政単位、さらには規制をゆるめ、学校単位に任せればよい。

Q:多様化といっても、学校だけで応ずるのには限度があるのでは?
A:YES! ドイツやイタリア、カナダのようにクラブ制度を充実させればよい。これらの国では、クラブが学校教育と同じくらい充実し、重要な比重を占めている。

Q:月謝はどうするのか?
A:たとえばドイツでは、子ども一人当り、一律、二三〇ドイツマルク(約一万五〇〇〇円・月)支払われている。この「子どもマネー」は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われている。親たちはこのお金を月謝にあてている。月謝はどのクラブも一〇〇〇円程度。学校の中にもクラブはある。

Q:たとえば小学校での英語教育はどう考えたらいいのか?
A:英語を学びたい子どもがいる。学びたくない子どももいる。学ばせたい親がいる。学ばせたくない親もいる。北海道から沖縄まで、みな、同じ教育という発想が、もう前近代的。学校では基礎教科だけを教え、あとは民間に任せればよい。英語クラブだけではなく、中国語クラブがあってもよい。フランス語クラブやドイツ語クラブもあってもよい。

Q:教科書はどうすればいいのか?
A:検定制度をもうけているのは、先進国の中では日本だけ。「テキスト」と名称を変え、学校ごとの判断に任せればよい。

Q:そんなことをすれば、教育がバラバラになってしまうのでは?
A:それこそまさに全体主義的な考え方。アメリカもドイツもフランスもカナダも、そしてオーストラリアも、バラバラにはなっていない!

Q:あなたがそんなことを浜松市という地方都市で叫んでも、意味がないのでは?
A:そう、まったくその通り。こういうのを「犬の遠吠え」という。日本は奈良時代の昔から中央集権国家。だから、地方の声など、まったく意味がない。ワオー、ワオー!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(395)

●問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。学校の先生や、みなに、迷惑をかけているのではという思いが、自分を小さくする。よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そういう親ほど、出てこない」という意見を聞く。

教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実際には、行きたくても行けない。恥ずかしいという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさらされるのは、つらい。それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。たしかに自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。そんなわけで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育てをとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマスコミの世界。私は昔、K社という出版社で仕事をしていたことがある。あのK社の社員は、地位や肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。電話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。

相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりにいたします」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは言ってもねエ……」と。それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態度を切りかえていた。その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといってもよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私の立場でいうなら、『子育て論は、子育てで失敗した人に聞け』ということになる。実際、私にとって役にたつ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話など、ほとんど役にたたない。

が、一般の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育てを組みたてようとする。たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えない。すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということは考えない。この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、もっと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。あるいは自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろう」(Matthew5-9)と。

この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分が笑われる」ということになる。そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に自分を置く。そういう視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(396) 

●弱者の立場で考える

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中でこう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえることができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。

もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(397)

●日本の武士道を説く人たち

 江戸時代に山鹿素行という人物が、「武教小学」という本を書いた。これは朱子の「小学」を模範として、武士の子弟のしつけ教育を目的として書かれた本である。

内容は、(1)夙起夜寝、(2)燕居、(3)言語応退、(4)行往坐臥、(5)衣食居、(6)財宝器物、(7)飲食色欲、(8)放鷹狩猟、(9)興受、(10)子孫教戒の一〇章からなっている。この目録からもわかるように、この本は行儀作法など日常や健康への心がまえを説いたものだと思えばよい。またここでいう小学というのは、内篇と外篇の分かれ、内篇は、(1)立教、(2)明倫、(3)敬身、(4)稽古の四巻、また外篇は、(5)嘉言、(6)善行の、計六巻から成り立っている。その中の一節を、とりあげてみる。

 「横渠張先生いわく、小児を教ふるには、
  まず、安祥恭敬ならしむるを要す。
  今世、学講せず、男女幼より便ち、
  驕惰に懐了し、長ずるに至りて益々狂狼なり、
  ただ未だすべて子弟のことを
  なさざるがために、すなわち、その親において、
  己の物我ありて肯て屈下せず、病根常にあり」(「嘉言」)と。

 わかりやすく言うと、「横渠張先生がいわれるには、子どもを教育しようとしたら、まず人に対して従順に、人をつつしみ敬うことを教える。が、最近は、学問もせず、男の子も女の子も、幼いころから怠惰で、歳をとるにつれて、ますます狂暴になっていく。こうした子弟の教育をしないことにあわせて、つまり親自身も我欲が強く、頭をさげることをしないところに、問題の原因がある」と。(何とも意味不明な難解な文章なので、訳は適当につけた。)

 この教育書について、私はあえてここでは何もコメントをつけない。ただこういうことは言える。「意識」というのは、いいかげんなものだということ。私はこの山鹿素行の「武教小学」を読んでいたとき、それなりに説得力があるのに驚いた。「正しい」とか、「まちがっている」とかいうことではなく、「住み心地の違い」のようなものだ。日本の家もスペインの家も、住んでみると、それなりに住み心地は悪くない。家の形や間取り、使い勝手はまったく違うはずなのに、しばらく住んでみると、それがわからなくなる。

意識も同じようなもので、少しだけ自分の視点を変えてもると、山鹿素行の「武教小学」も、それなりに「おもしろい」ということ。
 あとは読者のみなさんの判断に任せる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(398)

●アメリカの家族主義、そして日本

 一九七〇年はじめ、アメリカは、ベトナム戦争でつまずく。それは戦後、アメリカがはじめて経験した手痛い「つまずき」でもあった。が、話したいことはこのことではない。そのつまずきと平行して、あのヒッピー運動に代表される「カウンター・カルチャ」の時代をアメリカは迎えることになる。「アメリカン・ドリーム」の酔いからさめると同時に、それまでの価値観が、ことごとく否定され始めた。

離婚率の増加、同性愛、未婚の母、麻薬、性道徳の乱れなど。まさにアメリカは混乱の時期を迎えたわけだが、ここでアメリカは二つの道に分かれた。一つは、新しい価値観の創造、もう一つは、古きよき家族主義の復活である。前者はともかくも、後者は、ベンジャミン・フランクリンの家族主義に代表されるものの考え方で、それ以前からアメリカ人の精神的バックボーンにもなっていた。

そのためこの家族主義は割とすんなりとアメリカ人に支持された。たとえばそれを受けてアメリカのクリントン大統領は、「強い家族をもてば、アメリカはより強くなる」(金沢学生新聞社説指摘)と述べている。

 で、それから約三〇年。日本は、ちょうど三〇年遅れで、アメリカのあとを追いかけている。平成元年とともに始まった大不況とともに、日本は、前後はじめて「つまずき」を経験したが、それはベトナム戦争で敗北したころのアメリカそのものと言ってよい。

エリート社会の崩壊、既存価値観の否定、さらに家族の崩壊と離婚率の増加などなど。教育そのものもデッドロック(暗礁)に乗りあげた。ただこの時点で、アメリカと日本の違いは、アメリカは社会そのものを自由化競争の波の中に置くことで、民間活力を最大限利用したということ。一方、日本は、明治以来の官僚機構の中で、いわば「コップの中の改革」をめざしたということ。たとえば教育にしても、アメリカでは学校の設立そのものも、自由化した。

一方、日本では、少子化などを理由に、設立の認可基準をさらに強化した。この違いがやがてどう出るかは、もう少し時間の流れをみなければわからないが、ここでアメリカと同じように、日本も二つの道を歩み始めたというのは、たいへんおもしろい。一つは、新しい価値観の創造。もう一つは、古きよき時代(?)への復活である。

ただしその内容は、アメリカと正反対である。日本でいう新しい価値観の創造は、いわゆる家族主義の台頭であり、一方、古きよき時代への復活は、旧来型の封建意識へもどることを意味する。これは極端な例だが、日本の教育者の中には、「武士道こそ、日本古来の文化」と称して、家庭教育そのものを、その「文化」に復帰させようという動きすらある。

 これからの日本がどの道を進むかは、実際のところ私にはわからない。しかしこれだけは言える。世界には「世界の流れ」というものがある。そしてその流れは、「グローバル化」をめざしてつき進んでいる。その流れは、もうだれにも変えることはできない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(399)

●悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類ある。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、たいていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」という)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いながら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにするのが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとするのが後者ということになる。

以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生の方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後者ということになる。
 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
        悪玉親意識  非依存型親意識
               依存型親意識   押しつけ型親意識
                        コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それは当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあなたの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、おもしろいのでは……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(400)

●講演について

 私は昨夜、ふとんの中で、女房とこんな話をした。「講演なんかして、何になるのだろう?」と。すると女房は、「ボランティア活動と考えればいいのでは……」と。私は一度はそれに納得したが、このところ疲れを感ずることも多くなった。

よく誤解されるが、聴衆が二〇人の会場で講演するのも、五〇〇人の会場で講演するのも、疲れる度合いは同じである。またいくら講演料が安くても、また高くても、私のばあいは、手を抜かない。講演を聞きにきてくれる人とは、その時点で一対一の関係になる。人数が少ないから、あるいは講演料が安いからという理由で、いいかげんな講演をすることは許されない。……しない。

 では、何のために講演をするのか? 私のばあい講演をしても、地位(もとからない)、肩書き(これもない)、収入(収入を考えたら、とてもできない)のメリットは、ほとんど、ない。あるとすれば名誉ということになる。しかし名誉などというのは、あとからやってくるもの(あるいはやってこないかもしれない)で、名誉のために講演するというもの、おかしな話だ。で、私はこんなふうに考えた。

 私は「考えること」イコール、「人生」だと思っている。そのために毎日、こうしてものを考えている。それは前にも書いたが、未踏の荒野を歩くことに似ている。毎日が新しい発見の連続であり、またひとつの発見をすると、さらにその向こうに新しい荒野があるのを知る。で、私にとっての生きがいは、その荒野を歩くことだ。それはそれだが、今度は歩いたからどうなのかという問題が出てくる。私だけが知った荒野は、はたして私だけのものにしてよいかという問題である。

だいたいにおいてものを書くというのは、その先で、読んでくれる人がいるかもしれないという期待があるからだ。実際には、自分の考えをまとめるために書くのだが、文字にするというのには、そういう意味が含まれる。

 で、私が考えたことや、私が知ったことが、だれかの役にたてればそれでよいのでは……と。あまりむずかしく考える必要はない。役にたてばそれでよい。役にたたなければそれでもよい。判断するのは、会場に来てくれた人だ。私ではない。私が私であるように、人はそれぞれだ。……となると、またわからなくなってしまう。私は何のために講演をしているのか、と。

 「自分の考えを他人に聞いてもらえるというのは、最高のぜいたくよ」と女房。
 「それはわかっている」と、私。
 「今、やるべきことをやればいいのよ」と女房。
 「それもわかっている」と、私。

 ただこの夏からは、講演の回数を、月三回程度におさえることにした。月四回となると、それだけで休日がなくなってしまう。私のばあいは、退職金も年金も、天下り先もない。収入は収入で、別に稼がねばならない。講演で疲れて仕事ができなくなるというのは、たいへんつらい。そう言い終わると、女房は「そうね」と言って、電気を消した。

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